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2019年07月08日
十三番目の世界遺産(七月六日)
すでに歴史的な役割を終えて、オリンピックやサッカーのワールドカップの開催地決定と並ぶ、国際的な利権と化しつつある感のあるユネスコの世界遺産だが、これまでチェコで登録されたのは12件に上る。そのうちのひとつがオロモウツのホルニー広場にある聖三位一体の碑なのだが、正直大騒ぎするほどのものでもないし、世界遺産だからという理由でわざわざオロモウツにまで足を伸ばしたらがっかりすることはうけあいである。オロモウツのすばらしさは、世界遺産などとは関係ないところに存在する。
それはさておき、今年の世界遺産を認定する会議か何かで、チェコから申請されていたものが、二件承認されて世界遺産に登録されることになった。そのうちの一つ、チェコ十三番目の世界遺産となったのが、ドイツとの国境をなすクルシュネー山地(ドイツ名エルツ山地)における鉱山遺跡である。クルシュネー山地では15世紀以降、鉱山の開発が進み、その廃坑が国境を挟んでチェコ側とドイツ側に点在している。
今回はチェコ側の5つの地区と、ドイツ側のいくつかの地区が共同で世界遺産への登録を申請して、それが認められたのである。チェコ側のこの地域はいわゆるズデーテン地方で、ドイツ系の住民が多く、第二次世界大戦中にはドイツに併合され、戦後はその報復としてドイツ系の住民が追放されたという歴史を持つ。その恩讐を越えて、協力関係を打ち立てることに成功したようだ。ただ、ドイツ側では悪臭などの問題が起こると、根拠もなくチェコから流れてくると主張するみたいだけど。
ドイツ側のことは知らないが、チェコ側で登録されたのは、ヤーヒモフ地区、アベルタミ‐ボジー・ダル‐ホルニー・ブラトナー地区、オストロフのルダー・ビェシュ・スムルティ、クルプカ地区、ムニェドニーク地区の五つ。この中で名前を知っているのはヤーヒモフと、ボジー・ダルの二つだけである。
ヤーヒモフの歴史は16世紀の初めにまでさかのぼる。銀の採掘のために町が建設されたのが1516年のことというから、500年以上の歴史があるわけだ。16世紀の中庸には、チェコの王冠領の中で主とプラハに次ぐ人口を誇るまでになった。またこの町で発行された銀貨トラルが、アメリカの通貨ドル(チェコ語ではドラル)の語源になっているなんて話もある。
ヤーヒモフは、銀だけでなく、ウランの採掘が行われていたことでも知られる。キュリー夫人が放射性物質であるラジウムを発見したのはヤーヒモフのウラン鉱山で採掘された鉱石からである。その後共産主義体制化では、ウラン鉱山には政治犯が集められ強制労働としてウランの採掘に従事させられた。世界選手権でソ連のチームに勝ってしまったバスケットボールだったか、アイスホッケーだったかの選手たちの一部もヤーヒモフ送りになったんじゃなかったかな。
現在ではウラン鉱山も廃校になっているが、現在でも放射性のラドンの温泉がわいており、治療に利用されている。2011年の福島原子力発電所の爆発で放射線が話題になった時期に、この街の放射線量が高いというのをテレビでやっていた。だからこの町に近づいてはいけないというのではなく、放射線というのはどこにでも存在し、その量は場所によって大きく違うけれども、この程度なら何の問題もないという内容だった。放射線量をゼロにするなんてアホなことを言う人間は、日本と違ってチェコのテレビには出てこなかった。
ボジー・ダルは、チェコで最も標高の高いところに位置する町として知られている。現在ではチェコのスキーの中心の一つとなっているが、隣接するアベルタミ、ホルニー・ブラトナーとともに、16世紀前半にヤーヒモフに続いて鉱山都市として認定され、銀や錫、鉄鉱石などの採掘が行われていたらしい。
登録された五ヶ所の中でちょっと毛色が変わっているのがルダー・ビェシュ・スムルティで、日本語に訳すと赤い死の塔となる。赤はレンガ造りの塔の色を表しているのだが、同時に共産党を象徴する色でもある。この塔とその周囲は、1950年代に共産党政権が政治犯を収容する強制収容所として使用され、収容された政治犯達は強制的にウラン鉱石の選別に当たらされていた。強制労働で放射性物質を、ろくな安全対策もないままに選別させられていたのだから、命を落とす人が多く、それが「死」の塔と呼ばれた所以なのであろう。
今回世界遺産に登録された五ヶ所は、ボヘミアの北の境界線上にあり、オロモウツから行くにはいかにも交通の便が悪い。鉱山に興味がないわけではないのだけど、オストラバやプシーブラムにあるという廃坑を利用した博物館に行く方が先だな。クトナー・ホラでも、銀鉱山の跡地が博物館になっていたはずである。
2019年7月7日24時。
2018年06月06日
プラハ駅前観光反対側(六月六日)
プラハでの用件が予想外に早く終わったため、帰りのペンドリーノまでの時間が三時間ほど空いてしまった。もちろん便を変更するのは可能だったはずだが、面倒くさかったしペンドリーノを使うこと自体も目的の一つだったからそのままにして、ノートPCの入ったカバンを抱えて散歩することにした。
プラハの中央駅を出て左側、つまりバーツラフ広場に向かう方向は、これまで何度も歩き回ったけれども反対側に足を伸ばしたことは、少なくとも最近はなくどんなものがあるのかまったく知らない。トラムで通ったときにマサリク駅があるのは見ていたから、最初の目的地は、チェコスロバキア第一共和国の初代大統領の名前を冠した駅にする。
マサリク駅は、これまで何度か廃止の話も出ていたと記憶するのだが、プラハから出る近距離の各駅停車用の駅である。特に東、北東に向かう電車が多いのかな。西に向かうのは、スミホフの駅から出るはずだし、中央駅から出る各駅停車もあるので、各駅停車ならすべてマサリク駅ということにはならないのである。オロモウツに向かう電車はすべて中央駅から出るから、使う理由もないのだけど、昔初めてチェコに来て旅行をしていたときには、何回か使ったような気もする。他にも最近名前を聞かなくなったホレショビツェの駅から電車に乗ったこともあるのだけど、あれはどこに行くときだっただろうか。
とまれ、駅前の公園を抜けてトラムの停留所のところまで歩く。そこで左に曲がると駅の裏側、ビノフラディのほうに向かうことになるので、左斜め前の通りに入る。ここも駅前から続くオプレタル通りのようである。オプレタルは確かナチスがチェコの大学を閉鎖したときに虐殺されたカレル大学の学生である。その通りの突き当りがすでにマサリク駅で線路の向こうには、フローレンツのバスターミナルと思しきものも見えている。
通りの突き当りを左に曲がって駅の外壁沿いに歩いて、最初の角を右に曲がると、マサリク駅の入り口である。ドアを開けて中に入るとすぐにホームが見えるというつくりで、中央駅のような駅舎は存在しないようである。おそらく、だから簡単に取り壊して近代的な巨大な建物を建てようという計画がしばしば現れるのだろう。外れのほうとはいえ、旧市街の一角をなす建物なので、なかなか最終的な許可が下りないみたいだけど。ブルタバ川沿いの踊るビルは例外中の例外なのである。あれはハベル大統領が……。
マサリク駅は終着、始発の駅で、ホームは完全に行き止まりになっている。確か数年前にホームに入ってきた電車が、ブレーキの不調か運転士のミスかで止まり切れなずにホームに乗り上げるという事故を起こしていた記憶がある。チェコの鉄道も以前に比べると格段に安全に力を入れるようになっていて、ヒヤッとするシーンは減っているのだけど、ときどきこんなことが起こる。最近も旅客列車と貨物列車が線路の合流点に同時に入ろうとして、激突寸前で停止に成功したなんて事故が起こっていたし。
マサリク駅を越えるとちょっとした広場のようになっているところに出る。そこを越えたところの交差点をわたったところに「café」の看板が出ていた。喫茶店で一休みするのも悪くないと思ったのだが、妙に高級そうな雰囲気である。よく見たら「カフェ・インペリアル」というお店で、プリマで料理番組を持っているチェコでは最も有名な料理人のスデニェク・ポールライフがやっているレストランじゃないか。コーヒー一杯だけでも高そうだから、外から見るだけでいいや。
ポールライフの番組は、今でもしばしば見かけるのだけど、再放送なのか新しい番組なのかよくわからない。経営の思わしくないレストランを立て直すためにチェコの各地に指導に出向く番組は、多分イギリスの番組のフォーマットを購入して制作されたものだと思うけれども、チェコではなかなか新鮮で結構真面目に見ていた。ただ料理番組は飽きてしまうのである。それで最近は見なくなってしまった。
それはともかく、この日のプラハ駅前散歩で、旧市街的な建物の並んでいる部分の外側に古い建物に挟まれて近代的なオフィスビルっぽい建物があって、その一階部分を中国系の銀行が占めていることに気づいてげんなりしてしまった。他にもあれこれ小さな発見はあったのだけど、観光客の波に襲われた中心部よりも、境界領域のほうがプラハは魅力的だということを再確認することができた。もちろんオロモウツはその上をいくわけだけどね。
2018年6月6日0時20分。
2018年05月10日
2018年05月09日
Uni?ov(五月六日)
2018年05月07日
Litovel写真2(五月四日)
2018年05月06日
2018年04月03日
チェスキー・クルムロフ(三月卅一日)
ブデヨビツェに出かけたときには、もちろん当時から観光の目玉となっていたチェスキー・クルムロフにも足を伸ばした。宿泊はせずにブデヨビツェから日帰りで出かけたのだけど、レストランなどの値段を見たら見事な観光地価格になっていたから、貧乏旅行者に出せる宿代では泊まれる場所はなかったかもしれない。
クルムロフの巨大な城には行った。中に入ったかどうかは覚えていない。庭園にあるらしい回転式の野外演劇場はそれらしきものは見た記憶があるけれども、故障中で使用されていなかったんじゃなかったか。それから、堀で熊が飼われていたはずなのだが、見た記憶はない。庭園のほうに行くのに橋を渡ったのがここだったかな。
お城の対岸のブルタバ川の蛇行部に囲まれた旧市街はまだ現在ほどは改修が進んでおらず、どことなくうらさびれた印象を与えていた。適当に入ったお店で地元のビールを頼んだら、瓶しかなくてがっかりした。いや、がっかりしたのは、観光地価格で高かったにもかかわらずそれほど美味しくなかったからかもしれない。観光地化のせいでうらさびれた街の魅力がすでに失われつつあったのが残念だった。
そんなこんなでクルムロフに対してあまりいい印象をもてなかったモラビアのひねくれ物としては、お城としてならボウゾフの方がずっと魅力的だし、旧市街ならオロモウツの旧市街のほうがいいと主張してしまうのである。現在では、クルムロフの旧市街も改修が進んで、一般の観光客が大喜びするきらびやかな外観を手にしているのだろうけれども、プラハと同じ過剰なまでの派手さを感じて、魅力的に思えないのである。観光地なんてそんなもんだといわれればその通りだけど……。
クルムロフは、オーストリアの画家エゴン・シーレと縁があるらしく、当時からそれをアピールしていたけれども、シーレに今の華やかなクルムロフが似合うとも思えない。シーレのあの病的なものを感じさせる絵には、滅びゆく街の方がふさわしい。かつてのオストラバのビートコビツェの廃工場とかさ。
それはともかく、エゴン・シーレとかかわりのあった画家といえば、師匠に当たるのかなあ、グスタフ・クリムトがいる。ウィーンを活躍の場にしていたクリムトが、チェコに来たとか、チェコで絵を描いたとかいう話は知らないが、クリムトの作品はプラハの国立美術館にいくつか入っている。何も知らずに美術館に入って、クリムトの絵を発見して、予期せぬ出会いに驚いたことがある。ウィーンの分離派会館でベートーベン・フリーズの実物を見たときほどの感動ではなかったけど。
国立美術館ではもう一人、オスカル・ココシュカの絵も発見した。ココシュカも分離派に連なる画家だっただろうか。クリムトとのつながりで存在は知っていたけれども、チェコ人だった、正確には両親のどちらかがチェコ人で、チェコで活動していたということは知らなかった。ココシュカの絵は、クリムトやシーレの絵ほど熱心に見たわけではないから、どんな絵を描いたか具体的なイメージはもてないのだけど、日本で存在を知っていた画家が実はチェコの人だったというのは、ちょっと感動である。
その手の感動で言うと、アインシュタインがプラハで活動していたというのも驚きだった。いや多分、日本にいたときも情報としてはプラハでというのは読んでいたはずだ。ただ、それが実感を伴って理解できていなかっただけの話である。日本にいると今のチェコのプラハとハプスブルクの時代のプラハ、神聖ローマ帝国時代のプラハがいまひとつ連続して感じられない。プラハでさえこうなのだから、他のボヘミアやモラビアの町ともなるとさらに状況はひどい。
日本でよく目にするドイツ関係の書物で、チェコの地名もドイツ語を基にしたカタカナで表記されることが多いのも問題なのだろうけど、高校で勉強する世界史での神聖ローマ帝国の扱いにも問題がありそうである。ヨーロッパの国と王家の民族性なんてややこしいことを高校の世界史で教えるのが難しいのはわかるけれども、ドイツ人以外の民族の存在があまり感じられなかったんだよなあ。
話を画家に戻すと、世界的に有名らしいチェコの画家にクプカがいる。ピカソなんかと同じくキュビズムの画家で、去年だったと思うけれどもある作品がオークションで歴史的な高額で落札されたというのがニュースになっていた。あれはチェコ的な歴史的な高額だったのか、世界的な歴史的な高額だったのかはっきり覚えていないけど。
音楽とは違って、チェコの画家の作品だからという理由で見るようなことはなかったから、クプカのことも知らなかったし、ココシュカがチェコの人だったということも知らなかった。ムハがチェコ人だというのは、チェコに旅行することになって『地球の歩き方』で読んだんだったかな。正直、「スラブ叙事詩」を見るまでは特にファンだということもなかったから、それほど詳しく知っていたわけでもないし。
なんで、チェスキー・クルムロフというタイトルでこんな文章になってしまったのか自分でもよくわからないのだけど、実際に出かけたときに評判倒れだと思ったからかもしれない。そこまで大騒ぎするほどのことはないと思ってしまったのは、こちらがすねたひねくれ者だからだろうか。
2018年3月31日24時。
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2018年04月02日
南ボヘミア(三月卅日)
クルムロフは、チェスキーもモラフスキーもどちらにも足を延ばしたことがあるが、ブデヨビツェは、ブドバイゼル・ブドバルで知られるチェスケーの方しか行ったことがない。スロバキアを旅行したときのことを思い出して書いていたら、その前のチェコを旅していたときのことを、ターボルを除いて書いていないことに気づいた。特に書きたいとか、書かなければならないとかいうことではないのだけど、短時間でさらっと書けそうなネタもないので、再び回想モードに入ることにする。チェコ語についてはいくらでも書けるけれども、正確さを期す必要もあって(間違いも書いているだろうけど)、時間がかかって仕方がない。
とまれ、あのときはターボルを出てチェスケー・ブデヨビツェに向かったのだが、乗った電車からして問題含みだった。線路の改修工事が行われていて、ターボルから途中までは電車が走っておらず代替バスに乗らなければいけなかったのだ。プラハのほうから電車が入ってきてこれがブデヨビツェに向かうのだろうと乗り込もうとしたら、駅員に止められて駅前に停まっていたバスに乗せられた。言葉が全く通じていなかったので、地元の人たちもたくさん乗っていたし誘拐なんてことはあるまいとは思ったけれども、不安ではあった。
今でも厄介だと思うぐらいだから、当時言葉の通じなかったころは、鉄道の改修工事でバスで代替輸送というのには、散々悩まされた。出発の駅から目的地まで代替バスというのならまだましだけれども、たいていは途中まで鉄道で行って、バスに乗り換えて、また鉄道ということが多く、わけがわからないままうろうろして代替バスに乗り遅れたなんてこともあった。
思い返せば、当時は地方の駅では切符が昔ながらの硬券で、在庫処分かなんかで、目的地の駅名が入っている切符ではなく、運賃の同じ別の駅名が入ったものが渡されることもあり、またひどいときには切符の額面の合計が目的地までの運賃になる二枚の切符を渡されたこともある。そんな目的地の駅名のはっきりしない切符で代替バスに乗せてもらえるのだろうかと不安で、鉄道で移動する際には代替バスを使う必要がないようにと祈っていた。事前に情報を入手するすべなんてなかったし。
チェスケー・ブデヨビツェに行ったのは、当時のあまり充実していなかったガイドブック『地球の歩き方』に出ていたからというのもあるのだけど、もう一つはアメリカのビール、バドワイザーの発祥の地だという話を新聞で読んで知っていたからでもある。ただし、当時知っていると思っていたことは、事実とは反していて、ブデヨビツェでビールを造っていた人がアメリカに移民してバドワイザーを造りはじめたというものだったのだけど。80年代末の日本の新聞に共産圏のビールに関して正確な情報が載るわけなどなかったのである。
それはともかく、ブデヨビツェでは、ブドバイゼル・ブドバルだけでなく、もう一つのブデヨビツェのビール、サムソンも飲んだ。どうして聖書に出てくる人名を使っているのかなんて事情は理解できなかったけれども、これも地元のビールであることだけはつたなすぎる英語でも理解できた。味は覚えていない。
覚えているのはサムソンを飲ませる店を出て、ほろ酔いの気持ちよさを感じながら宿に戻ろうと街を歩いていたら、チェコ人に声をかけられて一緒に飲みに行こうと誘われたことだ。最初は悪くないかなと思っていたのだけど、失礼な奴で酔っ払った頭でしゃべるこちらの英語の間違いを一々指摘しやがって、腹が立ったのでやっぱり帰ると言って宿に戻った。アメリカ帰りであることを鼻にかけた鼻持ちならない奴だった。
ブデヨビツェからちょっと北にあるフルボカーの白亜のと言いたくなるお城まで行ったのは確かである。何も知らないままでかけたので、お城の中の見学ができるなんてことも知らず、ただ外からあれこれ見ただけだったのは今から考えても残念である。今更南ボヘミアに出かけてフルボカーまで足を伸ばすなんてのは、オロモウツに引きこもっている人間には難しいのである。フルボカーは、今ではクルムロフと並ぶ有名な観光地になっているけれども、当時はチェコ国内はともかく、外国ではあまり知られていなかったのではなかったかな。
問題はブデヨビツェからどうやってフルボカーまで行ったかで、歩いていったような気もするのである。ただそれが正しいという確信がもてない。典型的な貧乏旅行でお金はないけれども時間はいくらでもあったし、駅の窓口で切符を買う鉄道には乗れても、切符の買い方がよくわからないバスにはあまり乗りたくなかったから、多少、いや結構はなれたところまで歩くことも多かったのだ。プロスチェヨフからプルームロフまで歩いたのもそうだし、モラフスキー・クルムロフの駅から街まで歩いたのもそれが理由である。そう考えるとブデヨビツェからフルボカーまで歩いていたとしても不思議はない。
ブデヨビツェでは地元の人に、トシェボーニュに行けと勧められた。ブデヨビツェの東側にある鯉の養殖が盛んな池がたくさんある地域の中心の町である。当時はそんなことは知らず、地図を見て近くに大きな湖?がいくつもあることに気づいたぐらいで、地元の人の話を聞いても他に何があるのか理解できなかった。結局ブデヨビツェから鉄道が通っておらず行きにくかったのと、歩いていくには遠すぎたのとで諦めたけれども、これもちょっともったいないことをした。単なる観光とはいえ、旅行する際にはやはり言葉が通じた方がいいのである。チェコ語ができるようになってからは、出不精になってあまり出かけていないというのは皮肉なことである。観光旅行するためにチェコ語を身につけたわけではないから、いいと言えばいいのだけどさ。
2018年3月30日23時。
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2017年12月16日
プラハ散歩 デイビツェ(十二月十三日)
プラハの地下鉄の緑色の線、Aだったかなの終点デイビツカー駅のある辺りがデイビツェである。昔、また中央駅からルジニェの飛行場への直行バスが運行を始める前までは、このデイビツカーの駅の近くのバス停から飛行場行きのバスに乗るのが、タクシーを使いたくない貧乏人の定番だった。飛行場まで行くバスはいくつかあったが、地下鉄との接続が一番いいのがここだったのだ。
当時は上にも書いたように、終点の駅だったはずなのだが、今回久しぶりに利用したら、路線が延びていて驚いてしまった。チェコでは一番高名な病院のあるモトルのほうまで延長されたらしい。一緒にプラハに行った人にもう何年も前の話だよと馬鹿にされてしまった。プラハにはめったに行かないんだから仕方ないじゃないか。ニュースでそんな話を聞いたことがあるような気はしなくもないけどさ。
デイビツカーの駅を出ると、チェコの街中には珍しい巨大なロータリーがあって、自動車での移動にはいいのだろうけれども、地下鉄で出てきた旅行者は、出口を間違ってしまうと、一度地下に降りて別の出口から出直した方がいいという感じになっている。このあたりナポレオン三世のパリを参考に街造りをしたなんて話がなかったかな。記憶違いかもしれない。
駅名のデイビツカーは、地名のデイビツェからできた形容詞で、地下鉄の駅を意味する名詞のスタニツェが女性名詞であるために女性形の「デイビツカー」という形になっている。日本語に訳すときに「デイビツェ」駅とするか、「デイビツカー」駅とするかちょっと悩むところである。同じ地下鉄の駅名でも、形容詞化していないものもあるのだが、その違いについて考察するのは、今は止めておこう。
プラハのデイビツェというと、二、三年前に、水道水がバクテリアか何かで汚染されるという事故が起こってしばらく断水したことがあるのを思い出す。あのときは、現在使用している水道管ではなくて、それにつながる老朽化した水道管にたまっていた汚水が逆流して使用中の水道管に流入してしまったのが原因だったか。古い街に住むというのは、プラハの中では比較的新しい地区ではあるけれども、こんな危険が存在するのである。
オロモウツも旧市街の水道管は、かなり昔のものがそのまま使われていて、数年前に大改修に手を出す前は、どこにどんな水道管がつながっているのか、正確には把握できていなかったなんてことを言っていたし。それから古い水道管には鉛管が使われていることが多くて、健康に問題が出る恐れもなくはないらしい。こちらはもう全て交換されたと信じたい。
プラハでは、プラハだけではないけれども、地下の水道管が破裂して水が流出し、部分的な断水が起こることがままある。これは、70年代に使用された水道管がチェコスロバキア製のものではなくて、ポーランド製のものであること原因らしい。東側諸国の所謂「分業」体制によって、比較的質の高かったチェコスロバキア製の水道管は、ソ連、もしくは西側への輸出に回され、チェコスロバキアでは、多少頻出の劣るポーランド製の使用を強制されていたらしい。そのポーランド製の水道管が耐用年数前に破裂してしまうというのである。ポーランドの人が聞いたら怒るかもしれないけれども、チェコではそういうことになっている。
デイビツェには、ユニークな演目と個性的な俳優たちで有名な劇場も存在する。ここの俳優兼舞台監督であるクロボトが監督をして、所属俳優のイバン・トロヤンなどが出演して製作されたのが、ノバの傑作テレビドラマ「オクレスニー・プシェボル」だし、チェコテレビで放送されたホテルを舞台にしたコメディ「四つ目の星」である。特に後者は、所属俳優のほとんどが出演したので、劇場の舞台を休みにして、劇場の全力を上げて撮影にあたったと言われている。
実際に、プラハで演劇を見にいったことはないけれども、いくつものそれぞれに個性のある劇場が活動をしている。そういう舞台で鍛えられた俳優たちが、映画やテレビドラマで演じるから、チェコの映画やドラマは、監督と脚本さえよければすばらしいものになることが多いのだ。外国映画の吹き替えも同様である。ポーランドでの外国映画の吹き替えは一人の俳優が淡々とすべての登場人物のせりふを読み上げるだけだというし、国によってレベルの違いは大きいのである。
さて、今回デイビツェの駅を出てロータリーの周りを歩いていたら、大きな記念碑が建っていた。第二次世界大戦中の犠牲者にささげられたものの一つだったようだが、献花などもされていて、周囲には、軍の活動を紹介するパネルも立っていた。このあたりには、チェコの防衛省や、軍の総本部など、軍関係野施設がいくつも置かれているらしい。道行く人たちの中にも軍服姿の人が目に付いたし。空港行きのバスに乗るのにしか使ったことがなかったから、まったく気付いていなかった。
そして、ロータリーから通りに入って坂を上っていくと、日本の国旗が見えてきた。あれ何と聞いたら、日本大使の公邸だとという答えが返ってきた。こんなところに日本大使の公邸があったとは、これも長年チェコにすんでいるけど知らなかった。もうちょっと上ったらトンネルの入り口が見え、これがどうも工費の高騰と工事期間の延長で悪名高いトンネル、ブランカの入り口らしい。反対側の入り口は見たことがあるけど、こっちは初めてで、そもそもデイビツェのほうから続いているということも知らなかったのである。
久々にプラハに行くと、そしてよく知っている人一緒にいると新しい発見がたくさんあるものである。だからといって、オロモウツのほうが好きだという結論が変わるわけではないのだけど、年に一回ぐらいだったらこういうのも悪くない。オロモウツは自分にとって当たり前になりすぎていて何を書けばいいのかわからないところがあるけど、プラハなら自分にとっての発見を書いていけば何とか記事にはなる。そうなるとプラハの記事のほうが増えていくのか、それはそれでいやだなあ。
2017年12月13日22時。
2017年12月11日
プラハ散歩、今回は駅前ではない(十二月八日)
あれこれ事情があって、プラハに出ることになった。お昼ごろからの用件だったが、遅れるわけにはいかなかったので、早めに出ることにしてオロモウツを八時前に出るレギオジェットに乗った。チケットを購入したときには、まだ空席のほうが多かったのだが、昨夜確認したら全席予約済みになっていて驚いてしまった。
チェコには珍しい車内放送によれば、六両目の車両で暖房に不備が発生したため、空いている座席に移動してもらっていたようである。空席はないのではなかったかと不思議に思ったけれども、当初の予定の九両編成が十両になっていたような気もするから、一両分空席が増えていたのかもしれない。いや、六両目の不備が発覚した時点で、移動してもらうために一両追加したという可能性もあるのか。
プラハでの用件が終わったのが午後三時過ぎ、乗る予定の電車まで二時間ほどあったので、一緒にいた知人と、久しぶりにプラハ観光をしようということで、カレル橋のマラー・ストラナ側から散歩することにした。以前から行って見たいと思っていたプラハのコメンスキー博物館が近いはずだというので、まずはそちらに向かう。
聖ミクラーシュ教会の前の広場を何度か横断歩道を渡って通り抜け、細い通りに入ってしばらくいくと駐車場になっている広場に出た。なんだか立派な建物が建っていて、窓越しに見える天井や壁の様子から、教会じゃないかと知人が言い出したのだが、教会にしては塔がない。せっかくなので近寄って見て確認したら日本風に言うとワレンシュタイン宮殿だった。
コメンスキーの博物館は、ワレンシュタイン通りにあるはずだから近づいているのは間違いない。ワレンシュタイン宮殿の壁のプレートを見たら、チェコの国会と書いてある。国会の中でも上院が置かれているのが、このワレンシュタイン宮殿のようだ。そういえば、そんな話を聞いたことがあるような気がする。中庭にクリスマスツリーが飾ってあったのが妙に印象的だった。
広場の角を折れてワレンシュタイン宮殿の側面沿いに歩いていたら、別な入り口があって、ワレンシュタインと思しき人物の銅像が建っていた。中まで入っていいのかどうかよくわからないし、ワレンシュタインには特に思い入れもないので、外から見るにとどめて、反対側にあるはずのコメンスキー博物館を探したのだけど、知人があれだよという建物は、入り口が閉まっていて営業中には見えず、仕方なくそのままワレンシュタイン宮殿の建物沿いに足を伸ばしていたら、地下鉄のマロストランスカーの駅に出た。
意外なことにワレンシュタイン宮殿の裏側にある乗馬場の敷地の中に、地下鉄の駅が設置されていた。上院の裏側には国立美術館の一部が入っているようだった。驚いたのはワレンシュタイン宮殿の大きさで、これがすべて上院で使用されているのではないにしても、壁にいくつか空けられていた入り口の脇には、最後の地下鉄の駅に入るところを除いて、上院と書かれたプレートが貼られていたし、大部分が上院の施設として使われているのは間違いないようだ。上院でこれなら、下院の入っている建物は更に大きいのかななどと想像してしまう。
ワレンシュタイン宮殿を越えたところのトラム通りにはプラハにしては珍しい芝生の生えた広場といえそうな空間が広がっていた。そこにライオンの像、近づいて見て見たら有翼の獅子の像が置かれている。これは確か、第二次世界大戦中に、ナチスに占領されたチェコスロバキアを離れ、イギリス空軍に参加して、対ドイツ戦に参戦したチェコスロバキア兵を記念したものだったか、チェコスロバキアの解放に功績を挙げたイギリス空軍兵の記念碑だったか。
何年か前に、イギリス側の資金で像が完成した後に、プラハのどこに設置するかでもめていたのを覚えている。マラー・ストラナのどこかに置かれたというニュースは聞いていたのだが、こんなところだったとは知らなかった。長年チェコに住んでいるからといって、プラハに詳しいというわけではないのである。普通に観光に来る人のほうがよほど詳しいはずである。
近くにはもう一つ不思議な形の像があったのでそちらも見に行ったら、遠目からはわからなかったけど、チェコの国旗がモチーフになった像で、こちらは第二次世界大戦中に国内で抵抗運動を行った人たちにささげる記念碑だった。裏面には2005と製造年季が入っていたが、知人が共産主義の時代っぽいねなどといっていたから、この年は修復された年かもしれない。
そこからカレル橋の一本下流の橋を渡って駅のほうに向かう。当然、クリスマスマーケットでにぎわう旧市街広場を抜けることになるのだが、ちょっとなめすぎていた。予想していたよりも、いや、オロモウツで慣れているよりもはるかに人の数が多く、どんどん先に歩いていく知人の後をついていくのが大変だった。クリスマスツリーは、オロモウツもそうなのだが、例年よりも小さいものが使われていた。ただ電飾の過剰さは相変わらずで、だから落ち着いた雰囲気のオロモウツのほうが好きなんだよと再確認してしまった。プラハは全体的にケバ過ぎる。
途中でたまたま寄った国立美術館ではアジア芸術展というのをやっているようで、浮世絵が立て看板に使われていた。時間的な余裕がなかったので中に入ったわけではないけどさ。駅の近くで喫茶店に入ろうということで、アールヌーボーの市民会館の喫茶店まで足を運んだら、待っている人たちの行列ができている状態で、入れなかった。電車の時間が迫っていて待つ時間がなかったのである。この建物も、プラハにしては結構好きなんだけど、しかたがない。
そのまま駅まで案内してもらった。知人もプラハの土地勘はあまりないと言いつつ、駅前から旧市街広場ぐらいまでは、ほぼ完璧に覚えているようである。こちらはそれすらも怪しく、プラハなら、どこでも道に迷う自信がある。地下鉄やトラムを使うなんてとてもとても。やはり先達はあらまほしきものなのである。
2017年12月8日18時30分。