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台風17号の強烈は風邪で 八幡宮の神木が 倒れたとの新聞、TVのニュースで 当方は 比較的近くに 住んでいるので 神社への お参りを 兼ねて 現状を確認して驚かされた。幹回り 約6.6m 直径 約2m以上の 高さ約36m程度の カシの神木が 根元から なぎ倒されていた 通行の邪魔になる 小枝は 氏子さんの関係者で綺麗に清掃されていたが大木は そのまま 山の斜面の 寝転んでいる。 撤去するのに 神木であるので 所定の 方法(神主さんが 色々の撤去の行事を行い)6ケ月程 かかるのでは ないかと 説明された、 現在は いろいろの 業者が 見積に みえて いるようである。インターネット、SNSなどで 撤去の情報が 拡散されるので頼んでいない業者も見積もりに 来るらしい。 相当の撤去費用が かかると 神職さんが説明された。(神社への登り口) (山頂神社正面) (2018年1月の倒木前の 写真) (神木の説明) (台風による倒木の写真) (下から見た倒木の状態) (宇美八幡宮の狛犬 4体 普通は 2体なのに ここは4体あり珍しい) 以上
2019.10.06
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毎年 10月の第2土曜、日曜日は 宇美八幡宮で稚児行列が行われるので 参詣に出かけた。 糸島市 川付村(旧地名)に流れる 長野川の上流で 川の上と下の集落から 稚児を3名づつ選び 畑の中で豆を使い、仲哀天皇を香椎の もがりの宮に安置しているのを 川付の長嶽山 山頂 に埋葬していいか 占いを行ったところ 吉 と出たので 仲哀天皇を 船で 香椎から加布里湾に運び 長野川を遡り 川付でおろし 長嶽山(標高60mH程度)の最 南に埋葬 埋葬された古墳の形状は ホタテ貝型をしている、 祠は 香椎の方向を向いているが鳥居は韓国 新羅の 方向の 北を向いている。 山の頂上には 10基程度の 円墳があり 仲哀天皇が連れてきた 豪族の墓と思われる。この山の頂上に 宇美八幡宮は建てられている。 宇美八幡宮の神職から お話を聞くと 西暦 210~250年頃 大和朝廷から 仲哀天皇、神功皇后、武内宿祢、豪族等が 熊襲、 三韓征伐に九州にきて 熊襲征伐を行い 福岡 香椎で 仲哀天皇が 急死されたので もがりの宮に安置して 日向峠を越えて大門(染井)から川付にこられて陣を張られ 今の前原に住む 1女子の案内で 雷山に登られて 戦勝の占いをされ 旗振り山経由 川付に戻られた、 ここにそびえる 長嶽山に 仲哀天皇を移して良いか稚児を使って 占いをされたのが 稚児行列の始まりのようである。 私は 210年~250年は 魏志倭人伝に記入されている年代と合わせると 邪馬台国の次代であり 大和朝廷の話がでて来たのでいささか 驚いて この時代は大和朝廷の時代では ないのでは ないかと質問した処 なんと呼んでいたかはよくわからないと 説明された。宇美八幡宮は平成25年頃 1800年祭を 起こなっており 神職 武内氏は 82代目? 位で 家系図も残っているそうである。仲哀天皇、神功皇后、応神天皇(神功皇后の子)は筑紫(北部九州)から 畿内 大和に東遷 されたものと 私は考えている、 古事記と 魏志倭人伝と比較すると 年代 人物がごちゃごちゃになるので この時代は魏志倭人伝を 主体に考えるのが ベターと考えている。 以上
2019.07.15
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きょう 4月26日は 高祖神楽が開催されるので 見学に出かけた。 空 模様は 曇りで 冬が来たように 寒かった、 1時からの 開催だったので間に合うように出かけたが 見学者は 天気の都合で 少ない様で あった、 最後までは 何時間 かかるか 質問したところ 3時間かかる との事だったので1時間程度 鑑賞して 帰ってきた 目的は 稚児神楽を 撮影したかったが 諦めた。 (高祖宮/皇祖宮?) (神供舞 私どもは今日の佳き日、ただいまから神楽舞を奉納いたします どうぞご嘉納 遊ばしますように・・・・という趣旨の神楽歌を唱えながら採りものをささげて静々と舞う 開幕を告げる神楽舞) (高処舞 奉納する神社の祭神の御神徳を讃える舞神楽・・・) (笹舞・・・・・・) (国平舞・・・・・) (高祖神社の藤の花 今が一番の見頃) 以上
2019.04.26
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白山宮にお初穂を あげるのを 忘れていたので 今日 お詣りに出向き 久々に 境内を観察してみたところ、 狛犬が 2つ 奉納されていたのを よく観察すると向かって左側が オス(男狛犬) 右側が 女(狛犬)であることが 確認でき 小生も 少々 驚いた お宮の狛犬は 全て このような 狛犬が奉納されているものと 思われる。 (白山宮 二丈吉井) (狛犬 左側) (左は 男の 狛犬) (右側 狛犬) (右側 女の狛犬) (石工 広島県 安佐郡 福木村 字 福田 木村 清兵衛) (奉納日 紀元 2586年 今の年代に換算すると 日本国が誕生したのは紀元前 660年日本国の年号に直すと今の年代は 2018年 + 660年 は 紀元2678年であり 紀元2678年 - 紀元2586年 は 92年 前に(大正15年) 奉納された 狛犬であります。) 日本国の年号は 神武天皇即位 西暦 紀元前 660年を 元年と定めているようです、したがって西暦 2018年は 日本の年号では紀元 2678年になります。 以上
2018.08.05
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宇美八幡宮で 開催された 雅楽演奏会の 第2曲目の演奏である。 来年4月30日も 開催されるので 楽しみにしている。おおもみじの花の下で 祝詞があげられ タマムシ を あげ 演奏が始まった 地域関係者の方は ふじの花のしたで お酒を飲むのが 大変好きの様である私の嫁が祭参加者の中の同級生と バッタリ会い 祭で用意している 赤飯、タケノコご飯 を 喜んで貰った。 今年の10月13日~14日に開催される 稚児行列も 見物したいと 思っている。 このような文化財が 保存され 宝物になるように 祈っている。 以上
2018.05.01
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4月30日 糸島市 川付に ある 宇美八幡宮で 雅楽の演奏、 が開催されたので 参拝に出かけて 見物させてもらった。演奏者は 10人位で 内 2人は 女性である、 衣装は 福岡県か 国から 文化財保存の 目的で演奏に合った 古式ゆかしい 衣装が支給されている。(地元参拝者の説明)演奏は 地元の方が(特に高齢者が多い)この日の為に練習された 成果を披露されたものの ようであるが 素人が聞いても 音程が少し あって ないところが あるようであるが来年は 立派な 演奏が聞けるものと 思っている。この様な 文化財は 永久に引き継いでもらい 宝物にしてほしいと 思っている。この宇美八幡宮は 平成25年頃 1800年祭を実施してあり 由緒あるお宮である 是非 興味のある方は 参拝を お願いします。 以上
2018.05.01
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今日は 糸島市 川付にある 宇美八幡宮で 雅楽演奏が 午前11時から 開催されると 聞いていたので 出向いてみた。10時半頃 到着したところ 関係者の方達が 忙しそうに準備してあった。 11時になり 神職による 祝詞が あげられ 祝詞が終わると 雅楽演奏が始まった 地域の人達で 文化財保存の活動で 練習してあるのが 披露された と 思われる 衣装は 古式ゆかしい 衣装で 楽器も 1800年続く お宮に相応しい 楽器の様で あつた。 演奏の後は お茶が たてられ 1杯 500円で 販売されて いた様である。私は 3回目の 訪問(お詣り)であるが お詣りするたびに 何か新しいものが 発見される。今回は 神職のお庭に ナンジャモンジャの 花が満開に 咲きほこり 綺麗であった。 (山頂にある 宇美八幡宮) (神職による 祝詞) (雅楽 演奏 動画を 撮影しているので このブログで公開したい) (神職の庭に 咲いている ナンジャモンジャの花) 次回は 10月13日 頃の 稚児行列を 見物したい。 以上
2018.04.29
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数日前に唐津市浜玉町 七山に買い物に出かけた時 藤の花が 咲いていたので 雉琴神社 宇美八幡宮を 思い出し ここの 神社にも 藤が あったので咲いていると 思い 撮影に出かけた。両方共綺麗に 藤の花が咲いていた 宇美八幡宮では 又偶然に今期も 神職に出会い 色々の お話を 伺った。ここの 長嶽山には 蛍がおり この蛍は 老木に住み着いている 貝(名前は聞き忘れた) を 餌にしている 宋である。又 本殿の絵馬に 神功皇后が 佐賀県唐津市 浜玉町の 玉島川(浜玉川)で鮎 釣りを 行い 吉凶を 占ったとの 絵馬があり 前回 来た時 撮影出来なかったので 今回絵馬を 探して 撮影することが出来た。 (雉琴神社の 藤の花) (同上 満開) (宇美八幡宮の 藤の花 満開) (宇美八幡宮 縁起) (玉島川の鮎釣り 竹の釣竿を持って釣っているのが 神功皇后 その後ろが 武内宿祢 等 天保8年(1837年)に 神在の中組が絵馬奉納と記載あり) (宇美八幡宮の登り口の 大銀杏の幹に 住んで居る 巻貝 蛍の餌となる) (正面の長野川の傍にある 支石墓)追伸 4月29日 本殿にて 雅楽の演奏が 午前 11時から 始まる。 10月13日 14日 稚児祭も計画されている ようである。 以上
2018.04.20
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糸島市二丈吉井にある 白山宮について 紹介します、福岡県史を見ていると 白山宮の古代の記録が 記載されていたので、 訳してみたが専門家ではないので昔の文書を 訳すのは難しい、 何とか解るように訳した。 昔の古文書(カナ文字で 写りが 悪く前後の文章で判断して訳した) (訳した 文書 赤文字は 自分が調べて補足説明を入れたもの) (白山宮 正面) (拝殿) (拝殿から南側方向) (拝殿から北側方向) (宮田と云われた 田んぼ 南側 ?) (宮田と云われた 田んぼ 北側 ?) (浮嶽 805m 白山宮の上宮がある、中宮は 久安寺である)この山は昔は 男岳と云われていたらしい、 この左に 女岳、 二丈岳(二神岳 二上岳 二丈岳)と 変化したらしく、 天孫降臨の場所として 知る人がいる、 何時かこの記事も まとめてみたい。 以上
2018.01.26
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今日は 宇美八幡宮について 記載いたします。 宮司さんのお話を聞き私の知識を交え 文章を書きましたので 参考にしてください。二丈福吉の知人から 宇美八幡宮にいったことがあるか?の質問に対して 私は福岡県粕屋郡 宇美町にある神社の事と思い 無いと答えたが 糸島の長野に在る 立派な神社である 古代に興味があれば 是非見ておくべきだとの 勧めにより 1月4日 初詣も兼ね出かけた。 実に立派な神社で内心 驚かされた 高祖神社 桜井神社に相当する神社でここに こんな宇美八幡宮が在るとは びっくりした。 この神社の第1の鳥居は 長野川の 川辺に立っているのも 驚かされた 長嶽山は 標高 67m長さ 350m程度で 全体が 前方後円墳のような 丘陵である。 一通り見て 写真を撮り 丘を下って来る時 偶然に宮司 武内氏に会い いきさつの お話を伺ったところ、 立て板に水を流すように話されたので 私の頭の中が着いていけず 卑弥呼の時代から 話されたので 頭の中が 混乱した。概略の話は こうである。 大和朝廷の命により 西暦 210~250年頃 熊襲征伐(九州南部の大和朝廷に逆らう豪族の征伐)と三韓征伐に 仲哀天皇とその后 神功皇后、 武内宿禰 が豪族を従えて 船で九州南部に征伐に行かれ、征伐し 宗像の古賀周辺に上陸され 陸行で福岡市東区香椎で陣営を張り 休憩中 突然 仲哀天皇が病死(この死亡には色々の意見あり)ここに橿日宮(香椎宮) を建て埋葬された この時 神功皇后には子供が御腹にあった。ここからさらに陸行で 福岡市西区の 日向峠を越えて大門(染井)に陣営を張り ここでも 三韓征伐の 占いをされた 染井の井戸に 白の鎧を浸けて 色が変われば 戦いに勝つ 染まら無ければ 負けるとの 占いで 白の鎧は 見事に 赤色に染まったので 戦勝を確信された 染まった 鎧は 近くの霊鷲寺(今は無い)の大松に 鎧を掛けて 乾かしたとの伝がありこの大松は今も 大切に 保存されている。 次に大門から三坂(御坂)を西に下り 飯原に陣営をはり ここでも戦勝祈願を 雷山 山頂に怡土の女性の案内で 登り 祈願され、 くだりは 幡振山を越えてさがり(嵯峨里)に でられて 陣営に戻られた(この嵯蛾里集落は重松性が多いとの事) この陣営で就寝中枕元に立たれたのが日本武尊で 三韓征伐の戦いの方法等 お授けになった 朝 雉が鳴くのが 琴の音に聞こえて 目が覚められたので ここに 日本武尊を祭り 雉琴神社を建てよと云うのが起源らしい。又ここの長嶽山に仲哀天皇を移していいかと 占いを 立てられた 長野川の上流の 川を挟んで 上の集落 下の集落から 稚児を 各々 1人選び 近くの森で占いを させたところ 仲哀天皇を長嶽山に移して良い 結果が出たので この山の南の一番高い 処に 前方後円墳を作り 祀り これが 上宮である。この上宮には香椎宮から ご遺体を船で 加布里湾に来て ここから長野川を船で 2km弱登り 川からご遺体を山の頂上に運び埋葬されたと思われる。 古代は潮が満ちてくるとこの辺まで船で登られたと思われる。今も 10月13日、14日に稚児祭が 開催されているとのこと。 この宇美八幡宮が建てられたのは 仁徳天皇時代に 建てられたのが起源とされている この時も川から 色々の建築必要な材料が 船で 運ばれたものであろう。 今の 宮司 武内氏は武内宿禰の子孫80代だそうである(1代20年で1600年25年とすると 2000年間となる) 平成25年 頃には 1800年祭が開催されている。 (第三 鳥居) (階段は 全部で 100段 以上あるかも) (宇美八幡宮 本殿)(拝殿 この絵馬の中に神功皇后が佐賀県唐津市浜崎の浜玉川で 鮎釣りしてある絵があるとのこと) (一番左が奥の院 上宮で仲哀天皇陵 38mの前方後円墳 他に13基の円墳あり長嶽山の峯300mは全体で14基の古墳がずらりと在る 三韓征伐に付いてきた 各国の 豪族墓と 思われる これだけの古墳が並んだ山は他に 糸島は無い) (カシの木) (本殿から100m程度 南に歩くと 上宮に行く案内あり) (上宮 仲哀天皇を祀る 祠がある 前方後円墳で38mある) (説明 文) (上記 説明 文の拡大) (偶然 お会いした 宮司 武内氏 何か気品に溢れたオラーを感じた) (中央右が 雷山 山頂 中央左の 山が 幡多振山 この下が 嵯峨里集落) (長野川 上流の 川を中心に左側、 右側の集落より 稚児 1人選び 仲哀天皇を 長嶽山に移動していいか占った 森 軽自動車が止まっている 後ろの小さな木が茂っている処) (第1の鳥居 川の傍に 建てられている階段があり 昔は船で参詣でがあったのか 神社建設の資材運搬に 使用されたような お話であった) (ここからの 眺めは 時期によっては 綺麗な写真が撮れそうである、 銀杏が紅葉すれば 水面に映り 不思議な写真が 撮れそうである)。 1回しか 詣でていないので データー不足であるので 随時 時間が出来れば 訪問して 説明を 追加していきたい。 邪馬台国の時代と 重複するので(日本の神話) 神功皇后が三韓征伐を実施したのは大陸の記録では 390年~393年であり 4世紀~5世紀の出来事ではないかと 私的には 考えている。 以上
2018.01.11
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2018年1月9日 今日は二丈ー大野線の飯原にある雉琴神社を紹介します。 当神社は仲哀天皇の父君 日本武尊を祀り 神功皇后の創祀と伝える。古来里人の崇敬深く昭和天皇御即位 御大典の記念として藤樹を植え 身を挺して 海神に殉じられた 愛妃 弟橘媛を偲び花藤の香りに寄せて お二人の純愛を永久に語り継ごうと里人 無津呂源内 池園源蔵 筒井平作の3人は 八方手を盡して相応しい藤樹をて探すこと3年 やっと樹齢百年に近い大樹を求めて昭和4年奉納 植樹し 弟橘の藤 と命名し今に至る。・・・・・ 尚 当 神社は火傷 火焼の神であり 南500mに あせもに効く しょうずの湯冷泉が沸き それより東300mに イボ取り地蔵 がある。・・・・ 故にこの地 一帯は花藤の匂うが 如き美肌を願う人々が訪れている。 と由来文がある。 (神社正面)南には 旗振り山 雷山が見える。 (雉琴神社の由来) (詣内) (弟橘藤 の由来) (弟橘藤) (約 1km 西にある 同じ 雉琴神社の正面) (祠は どこかに移転?) (鳥居の 裏には 西暦 639年8月 吉00立 とあるので1379年前 7世紀以上 前から 続いているのではと 考えられる) 以上
2018.01.09
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きょうは、天気 快晴 気温 31度C 湿度50% とにかく 熱い 畑に行っても1時間程度が 限度であります。暇つぶしに うろうろしていたら お宮の祭りが 行われていましたので 紹介します。磯崎天神様の紹介 二丈 福井 磯崎天神 五穀豊穣と大漁祈願、家内安全を願っつて 漁師の方が 主にとりおこ なってありました。この磯崎天神様は 福井 白山宮の 属寺らしく 神職 河上様、氏子に 管理されています、 福井の白山宮は第31代 用明天皇の世(587年)加賀の国、白山比ビ大神を勧請し祭りたると言い伝えあり、 二丈無形民族文化財指定の 福井神楽が奉納される事で有名です、私も 世話人に知り合いが おり お神酒を 頂きました。吉井竹戸 白山宮の紹介白山宮では、毎年 祇園際がとり 行はれています、”今年の夏も心身共に安泰で健やかに夏越しが出来家内安全を祈願致します、 夏の夜の一刻を、家族お揃いでお詣りください。日時 7月25日(日) 午後7時祭典 夜店が出ます 等と 記載されて いました。神亀2年(725年)に石川県石川郡鶴来町鎮座の元国幣中社 白山本宮加賀国の一宮 白山白山比ビ神社を勧請したと伝えられている、二丈 鹿家の 白山宮はこの分社で筑前国最西端にある神社である、 神職 宮崎様 氏子により 管理されています。祇園際境内の提灯 自然体の写真と クロスフイルター使用の写真夜店の写真霊峰浮嶽と月光がクロスしているのは、 クロスフイルター使用しています。
2010.07.25
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