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河童の刀河童の刀(銘刀土佐の 吉光)河童の刀 伝承地 記 今から おおよそ200余念前河童が 流浪の末 井樋の口 に入り お産をしようとするも 近くに 金物があって その目的を達することが出来ない、これを取り除き目的を達することが出来たらこの地の人々の海難、災禍を排し守護するであろう。 このような河童の願いを 3夜続けて夢にしたので不思議に思いながらも翌朝この地に来たる長さ約7寸(正確には 6寸9分)の短刀 一振りと巻物 一巻を発見した。 爾来この地に生を受けたる 60余戸の 大入区民はひとりとして災禍にあった者は無いと聞く毎年旧暦師走の10日には懇ろに 祭祀を 行い感謝、安穏を記念してきたものである。 我々今日在るは先祖並びに地域社会の恩恵と河童が残した銘刀土佐の吉光の加護によることを再認識しその恩恵を長く後世に伝えんが為 伝承地(井樋の口)記念碑を建立する。 ・・・・・・・ 以上は 当家の記念碑建立に寄せて書かれた文面であるが 糸島の伝記によると(糸島観光協会、 西日本新聞社 刊) 概略 次の通り 今からおおよそ200年前 大入部落は戸数僅か 十数戸と云う厳しい農漁村であった、その東部海岸沿いの一帯は水田続きの湿地帯で見渡すかぎり葦が生い茂り村人の殆どは 足を運ぶところではなかった。この沼地の一隅に 井樋の口 と呼ばれる石垣造りの水口がある。 時の名頭 諸熊甚作は若くてこの地位に立ち氏神白山宮の神守りと部落支配の任に当たっていた。 ・・・・・師走なかば 午後の日 冬には珍しい穏やかさである、でも 井樋の口 沼地一面をおおう 枯れ葦を時折カサカサと鳴らす北風は冷たく葦の穂すすき越しに見えるどす青い海の 異様なうねりは やはり冬の寂しさをみせ 弱い陽光だけがテラテラと葉に光る。甚作は 井樋の口 に向かうところで あった。 この時荒い 玄海の潮流にのって 平和なこの沼に入って来たのであろう一匹の 河童が恐れる風もなく 甚作の側まで ヨタヨタと近づいてくる。 河童は丁寧にお辞儀をして 「私はお産の為にこの沼に来ましたが もともと河童は近くに刃物があると お産が出来ないのです ところがこの付近に刃物がある様で苦しんでいます 是非その刃物を探し 取り除いてくれませんか」 としきりに 哀願する。甚作は変なことと思いながら付近一帯を見廻っている内、 井樋の口 の石組みの間に黒塗り のサヤに納まった 七寸余りの 短刀 一振りが隠されているのを見つけた 甚作は河童の霊感の力に驚きながらも 「河童さん あんたのお産を邪魔しているのはこれに違いない もう大丈夫だよ」 と河童を励ました よほど嬉しいのか 河童は涙を浮かべている。「そうですそれです よう探してくれました これで安産ができましょう このご恩は消して忘れませ ん どうぞその短刀は持ちかえり家の守りとして永く祀ってください、 きっと家のわざわいは救われましょう」 と厚いお礼の言葉を残すやいなや枯葦の茂みの中に消えていった。 このような夢を 3夜 連続で見たので 不思議でならず 井樋の口 に行ってみると 夢で見た同じ場所に 黒サヤの短刀 一振りに 巻物 一巻添えて置いてあるではないか。 甚作は その正夢に驚き 枕上にまで立ったこの刀は 由緒ふかい 龍魂海神の銘刀に違いないと 大切に持ち帰り家宝としたのである。・・・・・その後 家、 部落には数々の信じられないよう な良い出来事が起きたのである。・・・・・・ 後は省略いたします。 ひょっと すれば 安産の神様になるかも???? (短刀 と 巻物) (巻き物の 一部)
2015.09.03
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きょうは、天気 大雨 気温 27度C 湿度65%で蒸し暑い、ここ二丈でも雨の影響で土砂崩れ、川の土手の決壊等が散見されます、 私の畑の野菜等は 雨の影響でニンジン等の根物は良くありません。きょうは、糸島市 深江 子負ケ原にある 鎮懐石八幡宮の紹介を致します、深江駅の西約500m位の国道沿いに玄界灘に向かい自然石を高く城の様に築きあげたお宮があります、これが鎮懐石八幡宮であります。ある日 神功皇后(じんぐうこうごう)が深江の浜を歩いていると白い光を輝かせている、2個の石を発見された。 皇后はご懐妊の身で船で出征することには少々不安を感じておられ、何か方法はないものかと祈ってあったので、これはただの石ではないと懐にはさみ、神に感謝された。・・・・・・願わくば かの 新羅を征服して凱旋するまでは皇子の誕生なきようおん 守護垂れたまえ と祈願された。鎮懐石八幡宮全体本殿万葉碑(九州では最古)船繋石 昔はここまでが海であったのでしょうか?由来塞三柱大神(さえのみはしら)向かって左が 男性、中央が女性、右 塞三柱大神と神主 空閑俊さんより 説明あり。由来玄界灘 ここから見える玄界灘 天気が良ければ 佐賀、 長崎まで見えます。またここは、桜の名所で季節は多くの見物客が 訪れます、今年撮影の数カット掲載します。灯籠と桜灯籠の中より撮影面白い写真が出来ます。ここの伝説と関係あるのが染井の奇跡、 深江神社(カテゴリー 旧跡、名所紹介参照)、なを本文は糸島の伝説を参照しています。
2010.07.14
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きょうは、天気曇り 気温18度C 若干寒い感じ、 糸島市 前原の雷山へ至る三坂の交差点から約1.5km程登ると左に西行返りの記念碑が建っている 高さ約2尺(60cm)位であります。ここにこの様な伝説が残っています(説明分がありますが ようやくすると次の様になります)今から940年ほど前この石に腰を休めている一人の旅僧がいた、ああいい気分だ人一人通らぬ山中の道、 お坊さんと呼ぶ声がする、ふと見ると、麦刈りにでも行くのか一人の少年が鎌を手にして立っている。おや いつ来たのか 今頃どこへ行くと尋ねたところ?お坊さんこそ 日が暮れかかっているのにどこへ行きなさる、わたしは 冬しげる夏枯れ草の根を刈りになに もう一度言ってくれ 冬しげる夏枯れ草の根を刈りにゆくはて? 旅僧は ハッ として声が出なくなった、 確かにこれは 和歌の下の句の調べであるこの 俺に和歌問答をして 上の句を作らせようとしている この子は 村童の姿をしているがただ者ではない 一体おまえは 誰だと 聞こうとすすると 少年は煙のように消えてしまった。実はこの旅僧こそあの有名な西行で筑紫行脚のおり かねて噂に聞く雷山の千手千眼観音とやらに詣で和歌の道を深めたいと足が自然と雷山に向いていたのであるが 今の村童は観音様の化身に違いない とても叶う相手ではないと 今までのおごり高ぶりの気持ちをすて、雷山には 向かわず 引き返したと云う伝説で 西行返り西行が座った石の処に記念碑が立つています。記念碑説明分西行法師が二丈福吉で霊峰 浮嶽について呼んだ 和歌は 音に聞く筑紫の富士を来てみれば、霞にまがう雲の浮嶽 とあります。
2010.05.28
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きょうは、天気晴れ、気温23度C 豊臣秀吉(太閤)が朝鮮との 戦いの途中何度も通過した時、休憩したと 言い伝えがある場所の写真を 掲載します。太閤は今の糸島市二丈 深江から 佐波、大入、福吉と旧 糸島街道を進んで佐賀唐津市の名護屋城へと何度も通ったものと思われます。この付近は太閤の名の付く 太閤水、 深江神社に太閤の命を受け作った筑前領主 小早川隆景の無額(鳥居に石の額が取り付けてない・・・普通は鳥居の中央に 00神社と記入された額石が 取り付けられている)の鳥居があります、本件は いつか 写真掲載します。福吉 吉井の大門(第一の鳥居の近く、今は道路拡幅のため撤去されている)の近くに、太閤の馬つなぎの木(別名 馬つなぎの石とも 言われている)と言い伝えた木があった、この木は当時 一抱え程あったナナミの大木と 言われていたが現在は 推定50~60年程のナナミの木があり 枯れたため 再度 植えられた物と推定される。馬つなぎの木(馬つなぎの石) これより約500m登ると 久安寺があり、 約500m下ると まむし温泉があります、中央に見える山が 霊峰 浮嶽(805m)でございます、ここで太閤が一服しながら、山、海を見て旅の疲れを癒したものと 思はれます。馬つなぎの木からの玄界灘の眺めきょうは、あいにく 黄砂の様で 山も海も 殆ど見えませんが、眼下には綺麗な海が見えます。
2010.05.21
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きょうは、天気晴れ、気温25度C、佐賀県唐津市と福岡県糸島市の県境にあります、七郎権現神社に付いて紹介します、同じ処の海側に有名な包石もあります。今から千二百数十年前 738年頃 勢力争いに負け? 天皇(聖武天皇)の怒りを受け九州大宰府に太宰少弐とされ 左遷されます。九州にいて天皇側近の者たちが朝廷を思うがままに動かし悪政をしているのを知り、藤原氏の権勢が弱体化したのを、何とか元の権勢を取り戻すために、兵を集めた。朝廷は藤原広嗣が反乱を起こしたと云う事で兵を集め九州に送った、この戦いが北九州で行はれた、大敗して手勢数十名と共に糸島沿岸を佐賀県浜崎に逃げようとしたが、鹿家辺りで待ち伏せの敵と一戦を交える事になった、この時の広嗣の馬の手綱とりとして従っていた。右馬七郎のお陰で、広嗣は逃げる事は出来たが右馬七郎は手負いを受けこの洞窟に身を潜めていた、傷と寒さの為 思はず セキ をしてしまった このセキで 敵軍に捕まり 最期を遂げたのである。地元の人から今もなを セキの神様として 祀られいる 七郎権現神社である、沢山の玩具の刀は セキを患う人が祈願して 全快した人がお礼の為に奉納した物である。国道202号から見た鳥居洞窟の写真 入って右側沢山の おもちゃの 刀が奉納されています。太刀洗い川 入って左側刀を洗ったとされる 川 (撮影しました、有難うございました お礼の言葉)その他(5月16日の 月と 金星の 2シヨット) ISO感度 1600で 2秒 程度 で撮影 三脚付(レンズ450mmデジタル換算)珍しい写真と思います。
2010.05.17
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今日は唐原千壽院の滝を撮影に行きました、場所は糸島市二丈深江 石崎の信号から山の方に2.5km程登った 処にあります。この滝は長糸の 白糸の滝に 勝るとも劣らない滝です、水量、高さ共にほぼ 同じ程度と感じました、 滝の名前の由来は 平家の落人 平重盛の子 千姫、福姫の名前から来ているのでは、 ないかと私は推察しています。千姫、福姫が都を忍んで石の上に立つて都の方を見たと云う、都見石(ミヤコミイシ)があります、この滝は、 美人を引きつける 魅力があるようで 女性は きれいなお方が訪れてあるようです。唐原の棚田(玄界灘、糸島市が見えます)由来 都見石(都 即ち 京都方面を見たと云う 石)千壽院の滝ここは、春は 桜、少し登ると(乗用車OK) 桶の口ハイランドがあり 四季折々で 家族連れで楽しめます、山野草等 沢山あります。
2010.05.03
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今日は養円寺 棲龍岩の紹介を致します、気温18度C、天気曇り。二丈 佐波の海沿いの近くの丘に養円寺があります、階段を上ると左側に高さ1.5m程度幅2.5m程度、3つ位の石からなる棲龍岩(重さ20トン程度と云われている)があります。(救った蛇と若年僧の修行伝説)岩は岩ヒバで覆われいかにも 年代を思わせる姿をしています、伝説はこの岩に残る岩の割れ目から始まるそうです。ここは今から500年程前は真言密教の小庵であり若年層(教清)が修行を積んでいたそうです。ある日教清が庭を掃除していると岩の割れ目から大きな蛇が現れ岩を取り巻き不思議なしぐさをしていた時、偶然上の崖から1抱えもある石が転んで来て蛇が石に挟まれ身動きのとれないのを 助けたそうです。その夜助け貰った蛇が枕もとに立ちわしは岩の主の蛇である、お礼にそなたを高僧にしてやる経典を授くるので修行せよ、又わしも将来は龍になっ昇天する修行をしていると云い残して消えたそうです。それから蛇と清教の修行合戦となり、その後清教の法力は評判となり多くの弟子が集まり、小庵では狭くなり大規模な寺院が建立されたのと同時の夜蛇の霊が現れわしも御蔭で明日龍となって昇天する事になった、お前も法力で人々を救ってくれと別れの挨拶に出たそうです。翌朝 朝の勤めの終わって境内から佐波湾を見下ろすと突然竜巻が発生しそれに乗って昇天する 龍の姿が見えたそうです。教清が今あるのは龍のおかげこの恩を忘れないなために寺の名前を龍興寺円養寺となずけたそうです。岩ヒバに覆われた 棲龍岩現在の養円時は300m程南東に移動され新築されています。養円寺の教え。
2010.04.18
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今日は馬止石の紹介をます、気温16度C 天気快晴 この馬止石は福吉 吉井の竹戸の白山宮(下宮)の側壁に半分埋まる様にして保存されています。この石について次のような伝説が残っていますので紹介します。吉井岳 城主として格式のあった吉井家も 江戸時代になると 乗馬、帯刀を許された庄屋役として家風を保つていたそうです。ある日吉井庄屋は吉井浦(浜)の部落での所用で振る舞い酒を頂き深夜の帰宅の途中竹戸神社(現在の白山宮)の自然石の前に来た時、馬が突然1声上げて立ち止まってしまつたそうです。この神社前では下馬する決まりがあったそうですが、庄屋は乗馬のまま通ることが許されていたそうです。乗馬のまま通ろうと馬を促したが動かなかったそうである、仕方なく下馬して手綱を引いて通ろうとしたが動かなかったそうです。思案に暮れていると一陣の風邪が吹き提灯の火も消えてあたりは 真っ暗になったそうです風邪の来た方向に目をやると大石から生まれ出たように乳呑み子を抱えた女の子が現れて庄屋に近ずき馬が進まないのは私のせいですと告げ。用がすむまでこの乳呑み子を預かってほしい、ただし絶対に下に落としてはならないと告げ消えてしまったそうです。不思議なことに抱いている赤子が段々重くなって来て今にも落ちそうになるのを必死にこらえていたそうです。そんな時女が戻ってきて用も済み私も成仏できます御恩は忘れません、この子の重さに耐えてくれた力が貴方の家に 代々伝わる様に体の大きい、力の強い子が生まれてくるように約束しますと お礼を云うと石の中に吸い込まれる様に消えていったという、その後吉井家には怪力の男の子が生まれたと云うのが伝説になっいます。この白山宮(下宮)は竹戸にあり、これから1km上に有名な まむし温泉、ここから1.5k上に 久安寺(中宮)、上宮は浮嶽(海抜805m)に浮嶽神社としてあります。
2010.04.17
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