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世界遺産登録研究会を立ち上げて 魏志倭人伝の 通行道路を 世界遺産に登録できないかと 立ち上げ 研究してきましたが 会長さんが マムシ温泉を 売却されて 不在となられましたので本研究会は自然 解散となりましたので ご報告いたします、 ありがとう ございました。 魏志倭人伝の和文解釈につきましては本研究会の2019年12月17日に掲載しました魏志倭人伝解釈独り言を 参照お願いします、 今までにない 解釈をしております 参考までに。 皆さん ありがとう ございました この コンテンツは 終了します。
2024.01.09
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魏志倭人伝を 何度も 繰り返して 読んで いると この中に 1度 だけ 邪馬台国の記載が 出てくるが 私の 考えでは これは 倭人が 邪馬台国と云ったのを 魏の 使い(役人)が 倭国には 邪馬台国と 云う 国があると解釈したのでは 無く、 魏の使い(役人が)広い倭国の中に 30国 余りの 国がある、この30国の塊の全体を邪馬台国と勝手に付けた(名前を付け呉をだます為に)ものと思っている。 邪馬台国と云う 国は 倭国には 無かった 呉を騙すために 邪馬台国と云う 大きな国があると 作ったので あろう。 女王の住んでいる国は 女王国であり この都は 伊都国である、 従って 伊都国が 女王国、又は 女王国が 伊都国と 推察されるので 伊都国は かなり広く 人口も 多く住んでいた ものと 考えている、 女王国があるため 千余戸 と少なく 記載されて いるものと考えている。 代々伊都国には 男王がおり女王国がこれを 統属するとなているが 伊都国の男王が女王を統属していた ものではと 思っている。 以上
2020.09.10
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魏志倭人伝独り言その2倭国の 卑弥呼が女王になったのが 西暦184頃で 亡くなったのが 248年頃で任期が が 64年となり 年巳長大(年増)で女王になった年代を 20歳とすると 寿命は84歳となり、 あまりにも長生きしすぎる。 倭人伝によると 人の寿命は 100年或いは80~90年と記載されている従って弥生時代の平 均寿命は文献によると30歳程度らしいが 危険な幼児期を健康に乗り越えれば倭人伝 記載の寿命まで生きるのだろうか? この様に考えれば卑弥呼が80歳以上生きたことは 考えられない 事もない。卑弥呼が魏の皇帝 曹叡に(238年) 朝貢して翌年(240)に金印、青銅鏡、5尺刀等を 下賜されているが、 三国時代は 西暦220年~265年の僅か 45年間と短く、漢 時代の将軍(曹操、劉備、孫権)等が統一争い(内戦)のまっただ中で倭国に下賜する青銅鏡100枚、5尺刀 2口等の品物を作る 余裕等は無く 青銅鏡等は 漢時代の青銅鏡の寄せ集め、 5尺刀も 魏時代以前の物を 集めた物と考えている、 これらを作る時間があれば 魏は戦の兵器を作るのに時間を 掛けているはずである。(238年~240年の約1年程度の間に多くの物が下賜されている) 親魏倭王印は魏の時代に作られた物であっる。 卑弥呼は西暦244年に 皇帝 曹芳に 掖邪狗等を派遣して 朝貢しているので 244年迄は確実に生存していた事がわかる、 なくなったのは244年~248年の間ではなかろうか? 張政等が報告した倭人伝の記載も(私は平原遺跡が卑弥呼の古墳と考えているので)記載内容が余りにも雑で倭人に聞いた様な内容である、 見たならば 何故 遺体を東西に向け 足を東に向け 太陽が昇るとき 日向峠から 差し込む太陽の光を 大柱の影が ホトに 当たるようにしたか?何故 青銅鏡 40枚を 粉砕したか等 色々の 大事な記載が 漏れているのは 何故だろうか? これは実際に見てなく 聞いた表現であろう。従って 248年 前に卑弥呼は 亡くなっているのであろうか。? この為倭国が又乱れて内戦状態になり 卑弥呼の宗女 壹與を王となし安定した頃 帯方郡から張政等が倭国に派遣されて来たと考えられる。 この辺から 仲哀天皇、 神功皇后、応神天皇、武内宿祢の時代へと繋がるのか、 古事記との 接点がどこからか 不明な点が 多い。 以上
2020.03.15
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魏志倭人伝は 魏の国の役人(使い)が倭国に詣でた時のルートは正確に魏の皇帝に報告されたが 魏の朝廷の役人の中に 知恵者がいて この調査報告書を文字を工夫して(暗号文字)倭国への道のりの表現や、 風俗を著しく 呉に近い場所に 倭国があるように 表現したのである。 倭国は 西から 北東に長いことを 魏の使いは 知っていたが 当時 魏、蜀、呉は 戦乱の真っただ中で いつ滅ばされるかわからないので 魏は蜀を 包囲するため 大月氏と同盟 (属国)を結び、 また 呉を包囲するため 倭国と同盟(属国)にしたのである。これにより魏が蜀から攻められれば 背後の大月氏が応援する、 呉から攻められれば背後の倭国 応援する。 このようにする為 倭国の位置を 倭人伝の文書の中で 南北に 長く呉の外側にあるように 文書を故意に書いたのである、 この文書のおかげで 日本は数百年も 考古学者、識者、 関係者は 今も 邪馬壱国は 北部九州だ、 機内だ、 沖縄だ、どこどこ県だと論争しているのである。当時の倭国を知らない中国人も読めばこの文章は南北に長い倭国になって いるのである。即ち 魏は 蜀、呉を統一し 一大国を創ろうと計画し このような 倭人伝が作成されたので あり、魏の皇帝、特定の役人は 故意に記載されたことは承知の上である。ではどこに 暗号文字が使用されているか それは いたる の文字である。 到 の意味は 出発地から到着地まで 船でも 歩いて(水行、陸行)両方で行ける表現である。 至 の意味は 出発地点から到着まで 船か 又は 歩いての片方しか いけない表現である。 到 帯方郡から拘邪韓国 末盧国から伊都国 至 拘邪韓国から対馬国 イ、 対馬国から 一大国 ロ、 一大国から 末盧国 ハ、 伊都国から 奴国(奴国は海に面してなく離れたところにある) 二、 奴国から 不彌国(同様 不彌国も海に面していない) ホ、 帯方郡から 投馬国(水行20日だから伊都国までの2倍だから畿内地方?と思う) へ、 帯方郡から 邪馬壹国(水行10日 陸行 1ケ月 伊都国である) 原文は 南至邪馬壹国女王之所都水行10日陸行1月(ここから備考まで2020年 1月4日 解り易いように追記した) a、ここで みやこ(都)を 名詞 で訳すと 帯方郡から南に邪馬壹国女王の都は 船に10日乗り陸に上がり1ケ月歩くと 着く と解釈できる。 b、 みやこ(都)を 副詞 で訳すと 副詞の意味は すべて。みな。まとめて。と 訳すので。 帯方郡から南に邪馬壹国の女王の住んでいる 所には(都)まとめて船に乗ること10日、 まとめて陸を歩くこと1ケ月(要するに 帯方郡から女王の住んでいるところまでには 合計すると船に乗ること10日 陸を歩くこと 1ケ月で着く。 と解釈するのが 本当の解釈と思う。 ト、 自郡(帯方郡)から 女王国 1萬2千餘里 上記の へ、ト、は表現は 違うが 同じことを 説明しているのである。 伊都国まで足し合わせると 10500里であり 1500里程度足りない これは 対馬国の 方可 400餘里(四方400餘里)直線で(歩いて) 200餘里程度? 一大国の 方可 300里 (四方300里)直線で(歩いて)150里? 対馬国と一大国で歩いた 距離は 200里+150里 合計 350餘里 これを 10500里に足すと 10850となるが 不足分は1150里程度は 帯方郡から 拘邪韓国に到着する間に立ち寄った港(津)で 歩いているものと 考えている。 備考) 女王国は 伊都国の中に位置していたと 考える方が betterである。 不彌国から南に投馬国 水行 20日は 行けないのである 行けると 九州を抜けてしまうので ある。この表現も 故意に倭国の位置を迷わす為に 書かれているのである、 従って次の 投馬国から 南に邪馬壹国 女王之都所 水行10日 陸行 1ケ月で至は 行けないのである。従って 投馬国、邪馬壹国の 出発地点は 帯方郡からである。 本来ならば 不彌国の 後に 帯方郡から南に投馬国、 帯方郡から南に邪馬壹国と記入すれば謎が解けたのであるが、 これを記入すると 倭国が 呉を 取り巻くように 位置していなくなり この表現を故意に魏の朝廷は省略しているのである。 (知らないものが読むと倭国は このような イメージに想像される) それと 呉の海南島に あった 儋耳、朱崖と 倭国の風俗は 同じと 記載されているのも 倭国が図のように 想像される。これは 私が 倭人伝を 10年程度読み返して 得られた 私 個人の 考えであり 邪馬壹国は 北部九州に位置していた ことは 間違いないようである。 西暦229年 大月氏国は 親魏大月氏王 印を 賜っている。 西暦239年 倭王 卑弥呼 親魏倭王 印を 賜っている。 三国時代は西暦220~265年の 45年間で滅んで 西晋に 変わってしまった、 卑弥呼の 宗女 壹與が 西暦 266年頃に 魏の役人 政 等を 帯方郡に送り返した時は 魏の国は西晋に代わっていたのであろう、恐らく 政 等は 仕える 皇帝がいなくなり 倭国に又 戻って 来たのでは ないだろうか これらの 一族の中に将来 倭国を担う人材が 隠れ潜んでいたのではないだろうか? 参考 ルートの説明 以上
2019.12.17
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伊都国歴史研究会で色々話 合っているが狗韓国から3000餘里で末盧国に至の件で 釜山辺りから對海国、 對海国から一大国、までは距離が殆ど合っているが、一大国、から末盧国は距離が短すぎるので 上述の距離と等しい場所が松浦にあるのではと 私が単独で で調べてみた。(グループ内には 元寇の襲来場所が 鷹島であるので 鷹島ではないかと意見を述べる者もいる) 一番距離的に 近いと考えられる場所は 伊万里で44.1km 佐世保で58.1km程度で この馬車が一番 距離的には合うが 東南陸行 500里で伊都国に到の表現(ルート)には 場所的には合わないので こことは違うと私は判断している、 やはり唐津市の桜馬場 辺りが距離的に短いが一大国、から南に1000餘里に当たるのでは ないかと 考えており 魏の使者は 大雑把に報告者を記載していると考えている。 陳寿は倭国に来たことが無いので 解らぬまま(理解できないまま)魏の使者の報告書を倭人伝に纏めたものであろう。(中心から中心までは 1海 千餘里は1里80m程度になるようだが 一大国から末盧国までは 1里 40m程度で 半分の距離であるので 80m程度に相当する場所を探してみた) 以上
2019.08.06
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友人、 知人に 何らかの機会で集まった時に色々 古代の 話をしているので、 興味を持った友人が 畑(元は田んぼ)を耕していた時 畑から出てきた 物を私に 見せに来てくれた。 この中に 鉄の 溶融の 後に 出る 残渣と 思われるものが あるので掲載します、 発見された 場所は 糸島市二丈福井(佐波)の 加茂川の傍で 元 田んぼで 今は 家庭菜園として 使用しているとの事である。他に 甕棺の破片、 青磁器の破片等も 出ている様で 現物は 次回の 伊都国歴史研究会 のメンバーに見せて 意見を聞く予定である。この佐波集落には 古墳、 遺跡等は 無い様であるが 何故 このような物が 出て来たか 不思議である、 発見者は 地下30cm程度に大きな石が 埋まっていると話しており志登ドルメンかもしれないので 関係者で掘りあげようかと 話したら 今 サツマイモを 植えているので 収獲が終わったら検討しようか? と冗談の様な返事である。現物は 明らかに 古代の物で 2個出ており 1個は 裏表で 両方 磁石は付かず 1方向のみで 磁石が 付くが、 他の物は 磁石が 付かないが、 方向磁石(N,S極)の上に近つけると 残渣の方向に 針が触れるので 鉄に間違いない。 このことからこの辺に 鍛冶屋か鉄を溶かす溶鉱炉があり 武器等を制動する場所がどこかに あった物と推定しており 時間があれば 探して見ようとも思っている。 この他にも 鋳型等も 発見される 僅かな期待も 出て来た、 伊都国歴史博物館にも持ち込み意見を学芸員に聞いてみたい。(発見された 遺物、 手前の2個が残渣)(左は磁石が付かないが方向磁石は反応する、 右は磁石が付く 左は10g程度 右は70g程度) (右側の大きさ長さ5cm程度 厚み 1cm程度)(厚み 約 1cm程度)(重さ約 70g程度)(磁石について いる処) 弥生時代か古墳時代に今の製鉄所の様な物がありここで 鉄が精練 加工されて色々な 型の鉄器が製造されていたものか? 佐波 集落は 伊都国であり 末盧国と伊都国の前原との 中間にあり 東は 深江の曲田遺跡があり、 西は福吉に色々の 遺跡(日守、広田、水付)があり これらとの 関係も考えられる。友人は遺跡の遺物に関心が 沸いた様で 今後色々 発見するものと考えている。 以上
2019.07.08
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春野菜の種まき用の 畝を造っていたところ 不思議な物が出てきた のでよく洗って 観察してみた ところ 古代(弥生時代の墨 硯の相方)ではないかと 思い色々試して 見たので 記載します。 当方は 畝を造り 肥料を与える為 直ぐには マルチを張らず 暫く 放置しているこの時雨が降ると 畝の柔らかい 土が流れ 畝の表面に 小石等が 点々と残っている。 ここは 日守古墳群の一部なので 当方は歴史に興味があり 小石を拾う時 一応小石なのかそうでないのかを いちいち確認して処分しているが、土器の破片などがたまに 見つかる 事があるが 今回は 見た事のないような 物が 出てきたので 不思議に思い(土偶の仏像の手の親指の欠けた物の 一部ではと思ったが)表面は肌色であるがその中は 墨のような 物が 詰まっており よく観察してみると 糸島市 三雲、井原遺跡で 発見された 硯を思い硯の相方の 墨 ではないかと 思い 色々 試してみた。 小生観察では 自然の 墨石(このような 物があるかないかは 知らないが) これを砕いて粉にし練り固め表面に肌色の 接着を塗り 焼き固めたような感じである、この黒い所は 燃やしてできる 墨の様に 柔らかくは無く 手の爪で剥がしても剥げない) (長さ 7cm 程度 初めは 土瓶の注ぎ口に 砂が詰まっているかと 思った) (大きい ところの径 3cm 程度) (小さい ところの径 1.5cm程度) (180度 反対側黒い 墨の様な 物が 詰まっている,表面の薄い茶色の幕の様な物は 手で 墨を触っても 手が黒くならない為に覆われているものと考える) (直径の 大きなところ 左の肌色は全周を囲んでいたものと思われる 下は開いていて、 見た目は 石の様に見える) (色々 テストした後の 状態 すり減っていることが解る) 文字の説明 イ 仕上げ砥石に 擦り 筆で書いた 茶色 している。 ロ 荒砥石に 擦り 筆で書いた 茶色している、色が黒くならないのは1800年程度?経過してい るので風化や 水等による科学反応等で 黒色が出て来ないと考えられる。 ハ 市販の硯に擦り 筆で書いた 黒色している。 二 市販の硯と 墨であり 黒色。 ホ 仕上げ砥石に市販の墨をすり 筆で書いた 黒色をしている。 へ 荒砥石に 市販の墨をすり 筆で書いた 黒色をしている。 この場所は伊都国の西で 末盧国との 境辺りに なり 又この辺は 日守古墳群がありこれらと 何か 関係があるのでは とも考えている。 (砥石に 擦った処 左 仕上げ砥石 右 荒砥石 何れも 茶色) (市販の硯に 擦っているところ) (砥石に市販の 墨を擦って いるところ 黒くなる) 私は畝を造る時 直ぐにマルチは 張らず 暫くして マルチを張る この間に雨が降ると 畝の表面の砂が流れて 表面に 少ない 小石が残る 私は一つ 一つ丁寧に小石かどうか 確認して処分する 癖がついている 今回はこの癖で 偶然これが 見つかり 貴重品の様に大事にしたいと 思っている、 この辺は伊都国の西のはずれで 末盧国に近いので 歴史に興味があり 自然とこのような癖がついている。 又近くに 日守古墳群があり 友人の蜜柑山で約50年位前 ミカンを植えようと砂を掘り石を動かしたところ 高さ2m程度の 通路が見つかり その通路の壁には 朱色の 絵が描かれて いたとの事であり、 ミカンを植える事が出来ないので 又元の状態に戻したとの話を聞いたことがあり この辺は 古墳が 散見される。 この出土品は 我々の関係者に見せて 色々意見を聞いてみたいと 思っている 墨 だと日本 初では ないだろうか? 今のところ 他の 何かは 思い浮かばない。 2019年2月26日 追記 糸島市 市役所の文化財課の解答 写真付きメールで何であるかを 質問したものに対する回答 以下の通り(下部 線引き部分と 写真) 米を蒸す道具(土器)である 甑(コシキ)の把手(持手) と思われます、 写真からだけでは 時期の特定は難しいのですが、 一般的には 6世紀 以降に普及するものです。ちなみに当時に 墨は 国内ではほとんど確認されていないと 思われます。 これが添付されてきた写真で 甑(コシキ)と云う 土器で この土器の 左右の 持ち手の 破片ではとの 見解の様である、 この甑は一番下に小さな穴が あいており壺などの上に載せて 壺の水を沸騰させ その蒸気で米を蒸したものであるようだ。私の 考えとしてはこの 甑の持手であれば 土器であるので全体が 土色(粘土)であるはず 見つけたものは 表面の厚さ1mm程度全体が土色で 中は全体 墨色(黒色)しているので個人的には 他に何かあるのではとも考えているが 持手の形状は そっくりであり 悩んで いるところである。 以上2019年7月3日 追加掲載 私の発見した物を 友人 知人に色々説明して 意見などを求めているが コシキの持ち手では 無いのではとの意見もあり 今 色々検討中のところ、 友人が田んぼで発見 した と云って私の処に 持って来たのが 以下のものである。 (私の発見した物と 瓜二つで こちらの方が 若干太い) (全体は 粘土で出来ており 私の物の様に 中側は 黒くない、根本側) (反対側で 鍋に ひっかけたと 思われるへこみ(摩耗)が見られる) (先端 部分黒くない) (私の 物と比較 黒と 粘土質で明らかに 異なる) (一番上に載っているのが コシキで左右の 棒が持ち手になり下の壺と持ち手が接触するので 持ち手が摩耗する 下の壺の水を入れ 沸騰させ蒸気がコシキの底に空いた小さな穴から 上り 米や 肉等を 現在の セイロのように 蒸して食べていたものである) 私の友人が見つけ 持ってきたのは コシキの持ち手であるが 私の物はコシキの 持ち手とは考えにくく 近くに糸島国歴史博物館があるので 何時か持ち込み学芸員に見せて 意見を聞こうと思っている。 以上
2019.02.18
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2月 17日福岡市西 市民センターで邪馬台国講演会(福岡西武、糸島の古代史の謎にせまる) が開催されたれたので参加した。講演者は 横山邦継、 岡部裕俊、 榊原英夫、 萱島伊都男 各氏の 4名で 一人50分 休憩10分で 13:00~17:00まで 拝聴した 客席は700~800人 最後まで満席で皆さんの関心の深さを痛感した。岡部氏の講演で 間違って説明されたのか 勘違いか 小生は判らないが 魏志倭人伝の中の 伊都国の処で ・・・世有王皆統屬女王国・・・の解釈を 一般的には 伊都国に代々王が居て 皆 女王国に支配されていると訳しているが 岡部氏は 伊都国に代々王が居て 皆 女王国を 支配していると説明されたのでびっりした。これは間違いか 正式なのかは 判らないが 女王国を支配していると云われた時に私は心の中に ピリ ピリと走るものが次の様に思い浮んだ。・・・その国本又男子を以て王となし治める事 70~80年 倭国 乱れ何年も相攻伐 すなわち 一女子を共立して王となし なずけて卑弥呼と云う・・・・これで戦いは収まった。これは伊都国 王が仕組んだストリー(罠)で邪馬台国を繁栄させるために 表 国王は卑弥呼とし 裏 国王は 伊都国 男王で 卑弥呼に色々アドバイス、指示を出して卑弥呼の力を利用して繁栄させたが狗奴国との戦争状態に入る頃卑弥呼も老女となり 伊都国 王のアドバイスや 意見 を聞かなくなり邪馬台国が 衰え始めたので秘密裏に伊都国で卑弥呼を殺し平原に埋葬し・・・伊都国 王のアドバイスを聞く 年13才の壱与を 王にしたものと推察した。 講演会の資料をよく読んで面白い処は次回に掲載したい。これは 女王国を統屬したと解釈したら以上の様にハッと思わされたことを掲載しています。 邪馬台国(邪馬壹国)が正解です 以上
2019.02.17
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世界文化遺産登録研究会は 伊都国歴史研究会に名称変更(登録名称が重複すると迷惑がかかるから) し 4月に発足し 9月までの 6ケ月間に 色々勉強や 資料を 揃て 公民館で 第1回目の講演会を実施した。 聴講者は 約20人で 質問も多く 盛大に 講演会を終了することが 出来た。講演時間は1時間程度を 予定していたが 1時間半程度に 伸び 反省すべき 点もあり 次回の 反省会で 修正することにした。 (講演 議題) (受付) (会長 挨拶) (講演中) (参加者 約20名程度) 以上
2018.09.29
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弥生時代の 青銅鏡のレプリカを 石膏を使って 出来るか実験してみた。 直径 10cm程度の 青銅鏡の レプリカが 手に入ったので これを粘土と 石膏の両方を使用して 型を 移して この型に 石膏を流し込んで どの様な 物が出来るか 試してみた、 出来るまでは かなりの 神経を使った。 出来上がりは 粘土の型 より 手間はかかるが 石膏型の方が 見た目は 綺麗にできた。 (銅鏡 直径約 10cm インターネット通信で購入したもの) (粘土で銅鏡の 型を取り(雌型となる) 石鹸水を塗った 型離れしやすいように) (石膏を流し込んだ ところ) (粘土から 外した製品 外したばかりで 仕上げはしてないので バリが出ている このバリをとり 綺麗に丸くすると 出来上がりとなるが 文様が 現物の様に 明確でない) (プラスチック 容器に 銅鏡を入れて 石鹸水を塗り 石膏をいれるところ) (石膏を 入れたところ) (プラスチック容器から 取り出した ところ 雌型となる) (雌型に 石膏を入れて 製品を作る ところ 離型よくするため 石鹸水を入れる前に塗る) (外した ところ 粘土型に比べて 格段と 良い鏡が出来ている左が雌型 右が製品) 石膏は 水との 混合比があるので、 石膏の重量の約 90%の水が必要石膏の 取り扱い説明書を よく読む必要がある。 古代人は このような 銅鏡を 砥石の様な 柔らかい 石に 彫 雌型を作り青銅を 溶かして流し込んだもので 我々の理解できない 技術を 持っていたもの と推察され 銅鏡 1枚作るのに 相当の時間が 掛かっていることが 私には解る。 以上
2018.09.06
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世界遺産登録研究会(仮称)を2018年4月に 会員5人で立ち上げ8月で 4ケ月経過 その間 色々の討論を行い 魏志倭人伝に記載されている 倭国までの ルート、 倭国の生活習慣、特に伊都国での 生活習慣が 記載されているが この辺の解説が どの本読んでも よく 記載されていないので ここに 力を入れて 生活習慣は どんなもので あったたかを 纏め 報告会を 行うことにした。 次のような パンフレットで 多くの 受講者を 募集していますので 近場で興味のある方は 友人 知人を 誘って出席お願いします。 報告時間はPCのパワーポイントで 約 1時間程度 質疑 応答 約 20分 程度を考えています。 ( パンフレット ) 多くの 参加者を 募集しています。 以上
2018.08.21
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昨日は 世界文化遺産登録に向けて 準備してきた成果を皆様に 報告する為 福吉公認館の大集会場(50人収容)で 9月29日(土曜)に発表する事に申し込みした。 9月29日に向けて パワーポイントで作成した A4シートペーパ 9枚を 50人分印刷し資料として 配布する準備、 糸島市の各公民館に 配布する 伊都国歴史研究会の 開催場所、 開催時間、 受講料 報告の内容等について 記載した案内状の作成をし各 公民館に 置き 受講者を 募るようにする等の 色々の 作業を手分けして 進める事に した。今度の報告会は 魏志倭人伝に記載されている 伊都国の 生活、習慣を メインに 説明 報告する。報告後は 質疑応答を 20分程度 設ける事にしている。 式次弟を次の様に作成する。(時間は1時半~ 3時半で 終了する)開会の辞 公民館長挨拶会長挨拶講師紹介と 伊都国歴史紹介(時間 70分程度)質疑応答 (20分 程度)閉会に辞 我々の 勉強会の成果を ここで 確認して 次の 講演に 活かすように検討する様にしている。 糸島市等の近場の方で 興味のある方は 申し込みお願いします なを 受講料は一人 テキスト代として 300円 の予定です。 申し込みは 福吉 まむし湯 高江 社長に お願いします。 以上
2018.08.12
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世界遺産登録研究会(仮称)の打ち合わせは4月頃から始まり7月で 約4ケ月目である 準備の方は資料は略 纏まり(A4 25ページの資料となった)これを 研究会のメンバーで 共有して 読み合わせし加筆 修正はないか 点検することになった。 これが纏まると 糸島地区の各 公民館や 関係 場所で フォーラム等を開き糸島には歴史的 世界的な宝物が眠っていることを 広く人々に広めて 魏志倭人伝に 記載されている 5国(対馬を除くと)のルート、 弥生時代の発掘品 特に伊都国の平原王墓の発掘品は 全て 国宝に指定されており 特に 46.5cmの大鏡は 世界一 大きい事 等、 これらの 国宝に対して 糸島の市民の方は 殆ど知らないようなので(考古学に関心のある方は 御存じであるが 少ない)。 まずここから 糸島の歴史的な魅力を 一般市民の方に 広く 理解してもらい糸島を 有名にして 活性化しようとの狙いで これが成功すると 文化経済が 益々 発展する事を等を 狙っているのである。資料は パワーポイントで投影できる様に作成しているので 何時でも 開催は出来る 準備はしている。興味のある方は まむし湯(糸島市二丈吉井) に連絡お願いします。A4 シートが25枚あるので 表紙のみ 掲載しました。 以上
2018.07.27
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昨日 まむしの湯で 世界遺産登録研究会の打ち合わせを行った 委員長が 福大の考古学の権威である 武末先生等と合われ 2020年頃までには 世界遺産登録の暫定リスト入りが出来るのではとの 話で 打ち合わせの状況が盛り上がり 今後の課題について 色々打ち合わせたまず 規約、 理念等を 整備して これに基づいて 進めて行こうとなり 小生が 規約の 叩き台 を作成した、 これをもとに 皆さんの意見を聞き 完成させたい。 会費を徴収するすることになり 貯金通帳も必要になり郵便局で通帳を作ると 会の規約が 必要になり 先ず たたき台を作成してみた、これで 良いのかは 皆の意見が必要で 修正も必要になる。1ページ~2ページは 規約で 3枚目は 添付別紙で規約と理念が書かれて いる。 (規約の作成 郵便局 通帳作成用)(会の 理念・規約 委員長が作成したもので 加筆修正があるかも? 打ち合わせでは 本件に 付いては説明はなかったが規約・理念が必要とのお話は あったので小生が上の規約を作成) 福岡 佐賀 長崎で 興味のある方は まむし湯の 高江社長に 電話 お願いします。 以上
2018.06.29
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世界遺産登録研究会を 毎月 1日 15日 と2回 まむし湯にて 5時半頃 から 4人で 実施しています。少しづつ 前進はしていますが 登録の規模が 大きすぎて その規模の選定に 迷っています。初めは 魏志倭人伝のルートで 壱岐国から 奴国 不彌国までと 考えて進んでいたが いろいろの 雑音が 入って来て 中国 洛陽からはどうか?帯方郡からはどうか? 狗邪韓国からどうか? 等の 話が出たが 交際的になり まとまりが つかなくなるので やはり 国内で 登録するのが 良いと 云う話になりました。添付写真の様に 弥生時代の九州 3県の環濠集落遺跡群で世界遺産は申請は可能か? 等の 意見も出された。現在世界遺産登録申請は 26件程度 上がっている模様で 我々が 27番目になる予定で あるが 申請の為の 資金が 何十億も必要との事であり 資金についても 頭の痛い所である。10月頃 200人程度を集めて 研究成果発表会を行う予定で 現在魏志倭人伝を 熟読中である。 以上
2018.06.07
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昨日は 研究会を 4人で 開催した、 小生も 参加させてもらった。 魏志倭人伝の申請 素案が出来ていたので 内容の確認と 修正 事項等を検討した。特に 壱岐国から 末盧国 伊都国 奴国等のルートを申請しようと考えており 伊都国 平原王墓遺跡からの 出土品は 全て国宝に指定、鏡は 世界一大きなもので46.5cmある。 この他に 弥生時代の 生活様式も 詳細に勉強し(魏志倭人伝の再 勉強会)シンポジュームを開催する方向に進む事にした。 (素案 1~5ページ 5ページが省略) 2ページ 3ページ 4ページ 興味の ある方は まむし湯の 高江さんに 連絡 お願いします。 以上
2018.05.03
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昨日は 第4回のミーティングを 創立者 5人集まり開催した 今までの経過と今後の 活動を 再認識した。文化財保存全国協議会・小笠原代表との面談の結果を踏まえて運動の前提・目的・目標(小笠原代表論文) 北部九州域域には魏志倭人伝に記載される邪馬大国の 女王の王宮の構造と共通する遺跡群吉野ヶ里遺跡(神崎市) 原の辻遺跡(壱岐市) 平塚 川添遺跡(朝倉市) 等が発掘調査され さらに 王墓の存在が予測される 桜馬場遺跡(唐津市) 平原遺跡(糸島市)や須玖岡本遺跡(春日市)等を含めて畿内に 大和政権が出現する前段階(前夜)に 他の地区・区にに先行して北部九州に小国家が分立する状態を具体的に表しています。文全協では 北部九州の弥生集落遺跡や王墓軍等を集約して 日本の古代国家が成立する 前夜の実態を知るうえで きわめて重要なものであるとの認識に立ち 世界的に重要な文化遺産として保護されるべきもの 世界遺産として相応しいものであるとの持つに至りました。 つきましては 今回 北部九州の福岡県 佐賀県 長崎県 を中心とした弥生遺跡群の世界遺産への登録の為に 暫定入りリストを目指して福岡県で活動を行うことにいたしました。運動準備糸島シンポジューム 高島忠平先生他 糸島市 平原古墳・ その外 魏志倭人伝の伊都国(糸島)と女王国の構成国家としての吉野ヶ里遺跡とを連携させ魏志倭人伝に記載されている構成要素を満たし弥生遺跡群として世界遺産を目指す。 糸島地区の平原遺跡 八雲 南小路遺跡を中心とした弥生遺跡群の活用を行っていく。福岡県 世界遺産推進室との 面談 等など の多数の 項目を 確認し 進めて いく事に決まった。 以上
2018.04.23
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昨日は世界遺産登録研究会の 委員長 高江氏が 滋賀県まで出張されて 歴史の登録の専門家 小笠原先生と 面談されて 魏志倭人伝の道程を世界遺産に 登録する方法、 どの先生と 相談すれば 良いか等の 登録 方法を 具体的に 相談されて来た 結果を 報告された。結果的には 色々の誓約はあるものの 世界遺産に登録出来るとのお話と 先生は 福大の考古学の先生であった 小田先生と 色々相談されてはとの アドバイス等 その外 色々の重要な 指導を頂いた 内容を 報告 された。 世界遺産登録への 目的は私たちは 大儀名分の元に 活動をし研究をしたい、 魏志倭人伝に記載された 事実を元に 2000年前に 思いを馳せてその 遺産を大切にして それを活用し 産業の発展と地域の発展に寄与していこうと決定して 活動することに しました。 我々の 組織図 (案) キャッチフレーズ: 北部九州の弥生遺跡を世界遺産へ 委員長 高江 副委員長 赤坂 事務局長 石井 事務局 まむし湯以上の様な 名刺を作成して 活動することにした。 簡単に説明すると 以上の様な 体制で 色々な 高度な関係者、グループ、役所等と 連携して推進することを 申し合わせた。 登録は 5年~10年 以内を目標にする。 以上
2018.04.16
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3月4日(日曜日)は 天気がどうなるか 心配であったが 20度を超える 晴天となり 伊都国の 遺跡巡りとしては 打って付けの 天気であった。まむし湯の30人 乗りの バスに 28名の参加で 萱島先生の 説明を聞き又 糸島歴史博物館の学芸員(三苫さん)の 説明を聞きながら 楽しい 名所めぐりを 実施した。 先ず 博物館で 1時間半程度説明を聞いて 見て回り、 日向峠に向かった 車が多く す通りして 細石神社、 三雲南小路遺跡、平原王墓遺跡、志登神社に向かい 午前9時から 午後 3時までの楽しい 1日をすごした。 (まむし湯の マイクロバス 30人 乗り) (糸島歴史博物館 日曜で 駐車場は 満杯であった) (高祖山、 クルフシ 山、 日向峠を 見ている ところ) (高祖神社 お宮の関係者から お話を 聞いているところ) (萱島先生を囲んでの 記念写真 ここで 昼食会 弁当、お茶付き 1500円 会費) (お宮は略 東西向き 正確には 少し 西南向き5度から10度程度) ( 日向 峠 右の 大きな石柱 ) (細石神社) (三雲南小路遺跡) (王墓 三種の神器) (平原 王墓) (三苫さんの説明を 聞いている処) (志登神社) (ここも拝殿は 西南に5度から10度向いている) 定期的に 遺跡巡りを実施して 会員を増やして 遺産登録に 進むように準備する方向で 話あっている。 参加者は 福岡市からの方が 多かった。 以上
2018.03.05
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萱島伊都男氏と巡る古代伊都国 25人から30人乗りの マイクロバスを使って 伊都国を 次の様な 要領(写真参照)で 巡ります 興味のある方は、 まむし湯に確認されて 参加されれば 大変面白いとおもいます。 宜しく お願い申しあげます。 以上
2018.02.15
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毎月 2回程度 研究会を実施しているが、 ある人が 入手した 剣がそうでは ないかと 写真を見て 議題にして 色々の討論を 行った。この剣は 滋賀県?の ある寺の 寺宝であった 青銅の剣で 諸元は 材質 青銅 重量 680g 長さ 520mm(52cm) (人が 慎重に 磨いたものの写真と聞いている)制作時代は 紀元前 100年~ 紀元前50年位のものであろうとの事で 糸島の 三雲南小路遺跡から出土した 剣と同じ型であるが 鋳型は同一ではない との事である 剣の先端の 幅が 三雲南小路遺跡出土の方が 若干細いが 他は 同じの様である。 三雲南小路遺跡から 東の今宿上ノ原に八雲神社があるこの 祭神は天照大神の弟 素戔嗚尊等である 不思議なことに 三雲と 八雲、 出雲が 繋がっているのである。素戔嗚尊が櫛稲田姫命が八岐大蛇に 飲み込まれるところを 助けて 大蛇の尻から 出てきた 剣が 草薙剣(天叢雲剣)で 櫛稲田姫命は素戔嗚尊の嫁になる。この剣は日本武尊に渡され 東方征伐の時 焼き討ちにされそうになった 日本武尊は この剣で 草を払い、 火打石で 火をつけて 難を逃れたと 雉琴神社に記載されている。(雉琴神社は糸島市 長野地区にある神功皇后が日本武尊を祭れと勅命した神社) 若宮神社(糸島市 師吉 付近 イオンの裏側) 若宮神社については 天皇家の家紋と非常に よく似ているので 興味がある、 又 八雲神社の鳥居?に書かれた 文字と 若宮神社鳥居の文字の 意味が余りにも よく似ているので おどろいている。 若宮神社は 前方後円墳の 前方部分に建てられている様で この古墳の詳細は不明 祭神は 木花咲耶姫、 天忍穂耳命で 共に天照大神と関係あり。 (家紋がよく似ている) 以上
2018.02.15
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12月23日は 福吉まむし湯で 定例の勉強会が開催され出席した、議題は 弘法大師(空海)の足跡と怡土地方 という 議題で 高江忠史講師により約1時間以上面白く 講和を聞いた。 出席者は約20名程度で、 会費1000円 入浴料、コーヒ、お菓子付きの講義であった。もともとまむし湯は弘法大師が800年初期頃ここを訪れた時マムシ(口縄(クチナワ)、ヒラクチ、毒蛇) に噛まれて苦しんでいる農民を見て 霊力で杖を突いて水を噴出させ これを飲んだり 付けたりすれば 回復するとのお言葉により これを飲んだり 付けたりしていたが何時のころからか 湯治場になり 県内、県外から マムシに噛まれた 方が湯治に 来るようになり 栄えたものである。(当時は血清がなく皆苦労している)江戸時代はここは 温泉(沸かし湯)として有名で あったらしい。 この講和が終わり 自由討論会となり 思い思いのグループでお話が始まった中で私は佐賀県多久市から 出席された方(一人)と3人で お話をしたが、 佐賀市では 吉野ヶ里遺跡 を世界遺産に登録しようと文化財保存全国協議会佐賀大会実行委員会を立ち上げたとの事で (どうも宗像が世界遺産に登録されたので)吉野ヶ里遺跡を登録したいとの意見があるとのこであるが、 吉野ヶ里だけでは歴史文化的に 規模が小さいので 魏志倭人伝の時代と そのルート 対馬、壱岐、末盧国、伊都国、奴国、と吉野ヶ里遺跡、要するに邪馬壹国規模ルートを世界遺産に申請しようではないかと 話を持ち掛け られ、 福岡市も 佐賀市と同様な文化財保存実行委員会を立ち上げて欲しい旨の依頼を受けた。これが立ち上がると 福岡、長崎、佐賀県等で申請すれば 可能性が出てくるのではとの 話になり 大いに 話が 盛り上がった。長崎県の人もこのブログを見てある方が おられたら 文化財保存全国協議会 tel,fax 06-6714-1133 お問い合わせお願いしますが、電話での連絡・問い合わせは金曜日の夜にお願いします それ以外は通じませんとの コメントあり。 以上
2017.12.24
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