各種公演参加 0
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佐賀県 唐津市に買い物に出かけた帰りに 浜玉町の玉島川沿いに 古墳がないか 地方の方に聞くと 2つ あるとの事で 説明された所に行って 確認すると1つ目は 谷口古墳であった。(河口から上に300m程度上がった左側の山沿いにある) これは 古墳時代約1600年~1500年(5世紀~6世紀)に作られたもので前方後円墳で全長約 77m(高さ22m?)ある、 長持形石棺が 2つ納められ、 これは 近畿地方の大王級の人や、地方でも代表的な首長の遺体を安置する為に 用いられた特別の棺で 九州では福岡県 月の岡古墳だけしかないと 案内板に書かれていた。 石棺は将来への保存を計るため埋め戻されていた。 このような石棺を作るには生きている時から 作られていたものと考えた。 ( 説明 文) (レプリカ) (三角縁神獣鏡が4面出ているので かなりの 豪族か? 卑弥呼と関係あるやも? 伊都国から西に約30km?程度)2つ目は 仁田埴輪窯跡である。 佐賀県内で初めて確認された 埴輪窯跡で 5世紀に埴輪作りを 行っていたとのこと朝鮮半島に由来する格子目タタキで 整えられた特殊な埴輪も見つかっている、 現在は 埋め戻されている。谷口古墳の埋葬者と何らかの 関係があるものと 考えられる。 このような 古代のものを観察すると ロマンを 感じるのは 私だけでは無いはずと思う。 2つの 遺跡の距離は 谷口古墳から 下の方に200m程度であった。 以上
2017.01.23
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現在 伊都国歴史博物館では 平原遺跡発掘の国宝が 一括展示してあるので 初めて観察に出かけた 現物を見るのは 初めてである。受付で 館内の写真撮影の可否を 尋ねたところ 不可との回答であった(遺物に悪影響が出るとの 様であった) 今の写真機は 性能が良く フラシュを 発光させなくても 撮影出来るのにと 思ったが指示に従って 撮影は していないが、 ここに 貼り付けている写真は 博物館から頂いたご案内用 チラシの スキャンと 受付に展示してある レプリカ(直径46.5cm)の 内行花文鏡の写真である。約1時間半程度見て回ったが 十分では無く 又時間があれば 出向く予定である。 46,5cmの世界一 大きい 銅鏡を暫し 観察してみると 作り方はシンプルで あり、 私は倭国(日本製)であろうと 思う、 重さは 約8kgあるそうで 1枚 鋳込むのに 10kg 程度の 銅等が 必要であろうと思う。5枚鋳込むのに 50kgの 銅等が 必要であり 当時の倭国には 無く 隣の韓国(狗邪韓国 の倭国領 任那)から 材料は 運んだものと 思はれる。 鋳型は 粘土又は 直径50cm 程度の 木材に 文鏡の模様を描き どちらかと 云うと 粘土を使用した方が 比較的容易に 文様を描けたのではと 思われるこの 粘土板を 固く焼き乾燥させて 鋳型として 使用したのではと 思う。? 5面出土されて いるが ほぼ完全なのは 3面~4面であるようで これらは 1個の 鋳型から作られているように 私には見えた。 (受付の横にある レプリカ) (本物の文鏡 案内用チラシをスキャン) 大陸製であれば 文鏡の中に 動物か 文字が 書かれていると思うが ヘラ等でできる花弁のみであり 中心の外に 8枚 その 外側に 円弧状で 8枚 合わせて 16枚描かれて いる。この16枚を 拡大解釈すると 天皇家の 家紋 菊の 花びら16枚に相当するものでは とも 考えられ 伊勢神宮に 保管されている 八咫鏡と 同一ではと 思う?又 直径 46.5cmの 円周の長さは 146cmとなり 約150cmでこれも何らかの 意味が あるものと 思われる。私の知り合いは この鏡は 方位と 暦を 表していると 研究している方が おられます。 (平原王墓の説明版 現地にて撮影) この王墓の女性は誰か 推理中 あてはまるのは卑弥呼が 一番近いようであるが? (以下 ご案内 チラシ ) (伊都国歴史博物館の内部の展示様子) 一度は 観察するに 十分な 展示品があり 多数のご来場をお待ちします。この ブロクは 非公式です。 以上
2016.10.30
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皆さん 当方ブログ 容量は 満杯になっていましたが、容量が50mBから100mBに拡大 されましたので、ブログの日記等を掲載致しますので宜しくお願い申し上げます。 下記のURLでも ブログを書いていますので 訪問お待ちます。チンチラオッペの里山探索紀行その2http://chinchiraotsupe.blog98.fc2.com/ 今後とも 宜しくご指導お願いします。
2010.11.16
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きょうは 天気曇り 気温20度C、 湿度38% 11月5日 吉野ヶ里遺跡の見学に、短 時間では ありますが、行きましたので 掲載します。約1時間程度 見学しましたが、 時間が足りませんでした、詳細に見るには2~3時間程度 必要と 思います。この 遺跡では 弥生時代の 初期、中期、後期 から 古墳時代 初期の 遺跡が発掘され ております。村から 国に至る 変遷が理解できます。 是非 興味のある方は 一度 見学を お勧め いたします。吉野ヶ里の位地 佐賀県神埼市 神埼郡吉野ヶ里町またがる 丘陵地帯にあります。環濠集落 パンフレットによれば 弥生前期には 2.5ha(25、000平方m)、弥生後期には40ha (400、000平方m)を越す国内最大級の環濠集落に発展したと記載されています。遺跡を見ると 日常生活用品から 戦 用の銅剣、 ホコ、等 又 これらを鋳造する 鋳型 が あり 相当高い 文明の 集落であったと 推定されます。(余りに色々の物が発掘されて いますので 文字で表現出来ません) 魏志倭人伝に記載されている、 環濠集落の作りと 同じように感じました。貫頭衣 左側が 身分の高い人用で 左側が 普通の 人用、 魏志倭人伝では、 縫っては いない と記載されて いましたが、 ここでは 縫い目がついています。(女性用と思う) 私の 独り言魏志倭人伝では 対馬国、壱岐国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、邪馬台国の外に21国の 国の名前が 記載されていますが 吉野ヶ里遺跡が どの国に該当するのか解りません、私なりに21国が どこにあったか 調査していますが 中々解りません(国の読み方の ハッオンから 推定していますが 色々の 読み方があり 苦戦中)。これだけの 大きい環濠集落だと 記載されてもおかしくないが、魏志倭人伝によれば 女王国より以北は 中国の役人(魏志倭人伝を 伝写者)が 上司にお伺いを立て許しを得て各国までの道理は省略している、 又其の国々が遠絶にて詳細を述べる事は不可と記載 されていますが 何か可笑しいと思います、 もしかして邪馬台国の 兵器製造工場と考えても 可笑しくない位である。(私は邪馬台国は有明海の佐賀平野、筑後平野辺りと推定して います)ちなみに 脊振山系に 大きい鏡を立てると そこに映るのは吉野ヶ里遺跡ですが、この写る 図をそのまま 玄界灘方面に倒すと伊都国(平原遺跡に ほぼ かぶさる様な形になるようです)、平原遺跡も同じように 丘陵地帯にあります何か相似している点が あるようで 大 きな 墳丘墓等は丘陵地帯に ある様な気がします。伊都国は邪馬台国の統治国で 一大率が 置かれていたと 魏志倭人伝に記載されていますが 吉野ヶ里遺跡と同じような 環濠集落は 未だ発見されていません。何れ 発見されるものと 思います。 追伸 吉野ヶ里遺跡と 玄界灘に面している王墓(末盧国、伊都国、奴国、不弥国)では多数 大きな中国製の銅鏡、国内製の銅鏡等が発見されているが ここでは発見されていな い 様である????? 私の見落としか? 玄界灘側と 有明海側では 何か 伝来文化の 違いが あるのでしょうか??????
2010.11.08
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きょうは 天気小雨 気温17度C、湿度46%で 一気に肌 寒くなって まいりました。午前中、午後と計2時間程 畑に出向き マメ(ピース等)の 竹を立て、ネットを張りましたが風も強く 寒くなり 早々に止めました。三雲南小路遺跡の掲載をします、解説写真では 文字が読めませんので、タイプします。 ・・・・・国内最大級の弥生王墓・・・・・三雲南小路遺跡は弥生時代中期末(約2000年前)の伊都国王の墓で墓の周囲に3~4m、深さ0.5~0.7mの溝で 東西 32m、南北 31mの方形区域を設けた国内最大級の弥生王墓です。江戸時代(1822年)に発見された時には、甕棺(カメカン)の上に1.5m程の盛土が あったとされ、 墳丘があったとされます。 墳墓の中央には2基の超特大の合わせ口甕棺(カメカン(全長2.5m程)があって、1号甕棺から 35面、 2号甕棺から 22面 合わせて 57面にのぼる前漢鏡、青銅製武器、金銅製四葉座飾り金具、ガラス製壁、装身具等豪華な副葬品が出土しました。 出土した銅鏡の数は、銅鏡副葬が流行していた国内の弥生時代の墓で最も多く、1号甕棺に 直径27cm以上の大型鏡があることから、井原鑓溝(いわらやりみぞ)、平原王墓(ひらばるおうぼ)へと続く鏡の大型化、大量副葬の先駆けとして注目されます。 この内1号甕棺から出土した銅鏡1面と銅剣1振は国の重要文化財に指定されています。弥生時代の伊都国に強大な権力と富を持つた王が誕生していたこと、又倭人の王を擁立していた伊都国びとの繁栄を物語る重要な遺跡です、大切に保存しましょう。 平成13年3月31日 糸島市教育委員会解説写真 王墓の写真1号、2号甕棺は 埋め戻されています、江戸時代 ここの 農家の人が 壁に塗る土をここから 取ろうとして 掘った 所 副葬品が発見されたので 奉行所に届けたのが、きっかけ のようです。最近も 発掘調査が行はれていました、糸島には 多くの遺跡がありますので 何か 発見されると 期待しています。糸島の王墓と奴国等の 鏡の出土比較その他 私の考えこの伊都国は弥生時代中期(紀元前100年 程度と思われる)の王墓であり、北部九州を 支配していたものでは ないかと推定します、 しかし 紀元 1世紀 57年に奴国が中国の後漢の皇帝から 漢倭奴国の金印を 賜っている。(本来ならば伊都国 王が 賜べき であったと 鏡の出土数等から推定される)・・・漢の時代に朝見(皇帝に倭国から貢ぎ物を 献上すること)するのは奴国だけでなく、伊都国もしていたはずと思われるが?・・・、 この為 伊都国と奴国の間が 不仲になり 争いが生じ出し、 これが次第に 倭国内乱へと 発展していき、結果的に 耶馬台国の女王卑弥呼を 共立して内乱が治まった ものと 思われる。 この時 伊都国の王が共立に 卑弥呼を強力に 推したので伊都国が耶馬台国の統治国や一大率が置かれ 各国を検察したり 又 大陸の玄関口として栄えたものと 推察される。 本来ならば 大陸に近い 末盧国の 方が 玄関口であるべきで あろうに?
2010.10.26
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きょうは、 天気 曇り 気温23度C 湿度45% 糸島市 二丈 一貴山にある(JR一貴山駅 付近)銚子塚 古墳について掲載いたします。今から 1600年前の 4世紀後半に 築かれたと 推定されています、 この古墳は全長 103mあり、 糸島最大の前方 後円墳です。(耶馬台国の卑弥呼の死後 其の後を継いだ女王 壱与は 紀元(西暦)260年代この後の記述は魏志倭人伝には、ありません) それから約100年後の西暦350年代の古墳と推定されています。(大和朝廷が国内を統一した頃と思われる)この銚子塚 古墳は前原の平原遺跡(平原王墓)から約6~7km程度西の加布里湾の近くに 位地しています。古墳全景写真上が 円形部 下が長四角部となっています。頂上付近解説出土品青銅鏡 10枚 発見されており、かなりの 人物であった 者と 思はれます、(地方の豪族か、又は 大和朝廷の 朝鮮戦争に 参加した 豪族かは 定かでありません)山里の猫の遊び撮影して、帰りがけに 付近の家の 飼い猫が 野ネズミを 捕えて 遊んでいました。珍場面????
2010.10.20
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きょうは、天気晴れ、気温33度C、湿度42%で非常に熱い、盆が明けたので午前中に1時間程度 畑の草刈りに出掛けた、 草ボウボウで 炎天下 汗ダクダクとなったが、気持ち的にはスッキリするものである。倭の奴國について、歴史をひもときながら、自分なりに マンガ的 に推理していきますが、 歴史的価値は 何もありません、(自分の推理、仮説です)。倭の奴國 位地は春日、大野城付近と思われる勢力圏は糸島~北九州、一帯?弥生式時代稲作が大陸から持ち込まれ狩猟時代が終わり定住し小さい集落が出来始めた、紀元一世紀多くの部落国家が誕生し食糧等をめぐって、争いだした。0057年 倭の奴國王が これら小国を統一して、 大陸の後漢(0025~0220年)に使いを 送り(倭國は奴國が支配していると)漢の倭の奴國王印(金印)を貰い 大いに栄えるが、この金印をめぐって奴國に争いが起こり、次第に奴國は衰退していくのである。奴國王は金印を奪われ悪用されては困ると考え、後漢に当時の奴國の玄関口であった志賀の島を経由して返却しようとしたが、ここで盗賊と争い事が生じ 金印が紛失か、盗まれるのを防ぐ為隠されるのである。(その後志賀の島の農家の人によりこの金印が発見されたのは1780年代である)約100年位、倭國は 戦乱の時代に突入するのである、紀元2世紀 0180年頃 卑弥呼が女王になるのである。 (この時卑弥呼の年齢を 15歳と仮定しておく)紀元3世紀 0238年 邪馬台國の 女王卑弥呼が 中国の魏の皇帝に使いを送ったので(魏志倭人伝)魏の皇帝より 金印等 賜る。 (この時卑弥呼 238年-180年=58歳+15歳とすると 73歳程度になる???) 78歳となると 金印を頂いてからそう 長くは 生きていないだろう?。 又 紀元 0238年は後漢が滅び 魏・呉・蜀(ギ・ゴ・ショク?)の三国時代に入っている。なんと言いましょうか、倭国は最初 奴國が統一(福岡県)しその後邪馬台國(何・・県?)が統一したのでしょうか? なにか 面白いでですね。 一部学習百課大事典 参照しました。 以上
2010.08.16
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きょうは 天気快晴 気温32度C 湿度39% 午前中は 河川の紫陽花の 育成を 良くする為 ボランチア 20名程度で草刈りを実施した。午後からは、 唐津市の 久里双水古墳(末盧国の王墓?)を 撮影に出掛けたが 熱いので早々に引き揚げてきた。この古墳は 末盧国の王墓かどうかは 未だ不明のようである? 盗掘の為 はっきりしないものと 思われる、 唐津も 伊都国同様に 大陸との玄関口であり 交易が盛んで大いに栄えたものと推察される。直ぐ近くに 松浦川が流れており この川を使用して物流が 行われたものと 思われる。古墳全体説明古墳頂上からの眺め唐津湾と 松浦川が 近くに見られ(紀元3世紀頃はもっと近くにあった)物流は持ってこいの場所であっただろう。
2010.08.08
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きょうは 天気 晴れのち 時々曇り 気温32度C 湿度50% 午前中畑の草むしり1時間程度で 汗ダクダク 早々に引きあげ、 昨日訪問した 平原遺跡について掲載いたします。ここ前原の弥生時代の伊都国は大陸の玄関口で外の国(唐津 末廬国 博多 奴国)等 より特に貿易、使節団の受け入れ、送り出しとして栄えていましたので 大きな国であった事は間違いありません。ここの ミカン農家の方が 造成中?に 大鏡を発見され郷土歴史研究家に連絡され おう騒になりました、 邪馬台国論争が再燃し 大規模な発掘調査が開始され 墳墓の中に 女性が埋葬されていました、 これが邪馬台国 女王 卑弥呼ではないかと 思われるからです。魏志倭人伝王墓埋葬品説明私の考えとしては、 邪馬台国は30余の国からなると記載ありこれを治めていたのが女王卑弥呼と云われていますが卑弥呼はシャーマン(巫女、占い師)であり 各国の要請や国を統治する為、 必要に応じて出向き支配していたものと思われます。現在の車で 当時の30国を回るには 1日で出来る 範囲と思われますので 熊本、宮崎か北部九州位に 邪馬台国が あったものと思われます。(九州説が正しいのでは????)たまたま 或いは 邪馬台国が崩壊する前に、大陸の皇帝から頂いた金印を返却するする目的で 伊都国に来ていた時に 亡くなり 手厚く埋葬されたのでは ないでしょうか??金印は伊都国のどこかに 埋蔵されているかも。???????志賀の島で発見された奴国王の金印は、返却する時のトラブルで紛失したものが発見されたものと推定される。?????歴史と ロマンを 大いに感じる 事が出来ますので 一度 おいでくださいませ。
2010.08.05
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