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前回の 最終回を 読みなをすと 色々の 誤字 脱字があり 書き なをしましたので 宜しく お願い 申し上げます。今まで 魏志倭人伝を 何十年もかけて 読み 和訳してきたが 最初のころは 何が書いてあるのか さつぱり 解らなかつたが、 何十回も 読みなをす 内 何となく 見えてきたのでここに概略を(邪馬台国はどこにあったか)をせつめいします。かいつまんで ザックリ 掲載しますので 今まで 当方の ブログを 読まれた 方は 理解 出来ると 思いますが 初めての方は 見出し(コンテンツ)の世界遺産登録研究会、や倭人伝の最後のほうを お読みいただければ 理解できると おもいます。当方は学者や 研究者ではなく 興味、趣味で解読している者であり 研究者の解読とは全く 異なりますので このような 解読もあるのだなー 程度に 理解していただければたすかります。結論としては 邪馬台国は 北部九州が 正解で のちに 畿内に東遷したものであります。解りやすく従来の説明位置と 当方が解釈した位置の違いの図時代が進み 卑弥呼から 壹與にかわり この政権の終わり 頃には 女王の指示(伊都国)で 畿内の投馬国が三角縁神獣鏡を造り 豪族 首領等に 身分に応じて 鏡を配り 投馬国の同盟国又は支配を拡大していき ヤマト政権の 足がかりを創る、 このため倭人は 大きな 建築物、 鏡を作るための 技術者等は 大陸からの 移住者等を 最大限に利用したものと思われ 大型建物や 前方後円墳等が 身分に応じて 造られたものと推察される。従って ヤマト政権は 北部九州から 畿内 ヤマトに 東遷 したものと 私は 考えている。この辺から 仲哀天皇、等との 関係が出てくるので 何か 関係が 出てくれば 次回掲載したい。 以上
2024.05.07
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私の魏志倭人伝独り言で 邪馬台国は どこに あったか 倭人伝を勉強している御方は 北部九州で その都が 伊都国と 理解できた 方も多いと 思いますが、 卑弥呼が住んでいた 女王国は 吉野ヶ里で 伊都国 王の 子孫で ある。 従って 伊都国と 女王国は 親戚で 女王国は 伊都国 の属国で あり、 女王卑弥呼は伊都国 王の 指示で 邪馬台国を 支配していた ものと 推定している、 倭人伝では 伊都国は 女王国に統属されて 女王国の支配下に おかれていたと記入されているが、これは逆で 女王国に支配されて いるように 見せかけて 実は 伊都国が 邪馬台国を支配していた のが 真実で あると 考えている。 従って 卑弥呼は 理由があれば 伊都国に たびたび訪問していた ものと 考えられ 平原遺跡の 40面の鏡が 発見された 古墳は 卑弥呼の ものと考えている、 卑弥呼がなくなった 原因は 不明であるが 伊都国に 来た時かなりの高齢で なくなったか、 女王国で高齢で亡くなったが 古墳は 実家(伊都国)に運び 埋葬 したものと 推定している。投馬国(ヤマト国)南に水行20で投馬国に着く 5萬予戸と記入されている、 私の考えは 倭国には 2つ の 大きな国があり、 一つは 邪馬台国 7萬予戸 北部九州、 もう一つは投馬国 5萬予戸で畿内地方と考えている 投馬国には 伊都国の海の関所で検査を受けて 通過するから 鉄製品は 殆ど持ち込まれていない、 銅材料が 殆どである。投馬国と伊都国は 敵対国と云う 意味ではない。 投馬国は同盟国(属国)を増やし 勢力を拡大するために 各地方の首相、豪族がステイタスにする 鏡を大陸から連れてきた 職人に大量に 造らせ 配り 味方にし 勢力を拡大した。 この方法は 投馬国の同盟国や関心のある 各地方の首相、豪族から 大量の銅材を奉納させこの銅材を使用して 鏡特に 三角縁神獣鏡を 造らせ 各地方の首相、豪族の位に応じて配った ものである。近畿地方が投馬国の支配下に置かれると ヤマト国と 国の名前が変わった(もともと投馬国の 名は ヤマト国?)。鏡を造るとき 一部の 首相、豪族は 投馬国に 銅材を奉納することを 拒否した、 これらの 国?は 山陰 出雲地方で 銅材を 剣などに 加工して 所定の 場所に 埋めて 奉納の量を 少なくしたのでは ないかと 推測される。 伊都国の平原古墳で発見された 直敬46.5cmの内行花文鏡は 粘土を ロクロで回して肩を造り 模様は 後で 刃物で 作成して これを 焼き固めて 鏡の型を作り この型を 鋳物砂に 写し取り 高温の銅を流し込み 製品を作ったりと考えているが、三角縁神獣鏡は 模様が 複雑で 粘土で 出来るような 代物ではなく これは 固い樫の木 のようなものを 薄く削り磨き これに 刃物で 模様を削り込んで いった ものと考えている 相当の 腕の 立つ 職人で ないと このような ものは 出来ない。 粘土 細工では このような 微細な模様 三角形の線の模様、 無数の縦線は 粘土で作っても鋳物砂には 写しとることは 殆ど 不可能である。 この技術は 今でいう 半導体 の中身のの 回路図のような ものであり 当時は 神様に近い人物しか 出来ない物であり これを頂いた 人物は 大変喜び 貴重にしたものと 考え られ 多くの首相、豪族が 欲しがり 勢力を 拡大して いったと 考えている。この時 邪馬台国の 壹與が 畿内に 東遷していたか 居ないかは不明であるが 東遷して きたことは 事実であろう。時間の都合で ここまで 記入します 時間あれば 追加しますので 宜しくお願いします。 カテゴリー世界遺産登録研究会の2019年12月17日の文章も興味のある方はお読みお願いします。 以上
2023.09.01
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魏志倭人伝の和訳解釈が非常に難しいので邪馬壹国は 畿内説の方は 畿内 九州説の方は 九州と別れている。原文のまま 解釈していくと 九州からはるか 遠く太平洋に出て行っていまうので 畿内説の方は 不彌国から南に投馬国や投馬国から南にを 東と読み替えている。山陽説では 東に水行20日投馬国を岡山県吉備あたりと考えここからさらに東に 水行10日陸行で畿内に至ると解釈している様である。山陰説では 東に水行20日で出雲地方あたり ここからさらに水行10日で丹後半島 あたりに至り ここから陸行1ケ月で畿内に至ると解釈しているようである。2019年7月24日 追記(魏、呉、蜀、倭国 図)上の魏志倭人伝を棒読みして 地図に書いたのが次の図である、帯方郡から地図を描くと倭国は 南北に 長くなる 大陸の倭国に来ていない役人(人間)はそう信じはずである。 倭国に来て(伊都国に駐在)参問し不彌国までは 正確に記載しているがこの後の南に水行20で 投馬国にいたるの表現からは我々日本人等(日本を知っている人)は理解出来なくなり今の日本に合わせて都合のいいように 文字を変えたり日数を変えたりして邪馬壹国を推定しているようである。 ここの文章の違いは 里数表示から 日程表示に変った時 出発地点は 帯方郡から始まるのである。 詳しくは本文を読んでいただきたい。原文を和文に解釈する時小生は 出発地点から次の到着地点に いたる が 画数の多い 到 と 画数の 少ない 至るが あることが解り。 到の場合 出発地点から次の到着地点まで 水行でも 陸行でも いける場合に使用している。 至の場合 出発地点から次の到着地点まで どちらか 1方法(水行が陸行)でしか 到着しない場合に使用している。 これを表にすると下の図の様になり 不彌国から 投馬国 投馬国から邪馬壹国にはいけない(行っていないのである)出発地点は帯方郡からである。 2019年8月13日追記(下4行) 邪馬壹国の女王の都には水行10日陸行1月の意味は 船に乗っている日数の合計が10日で 各港に南下途中に立ち寄り陸に上がって食料、水、の補給、夜の睡眠、風、潮の流れ待ち、 亦は 陸を歩いた日もあり、 これを合計すると 30日となり 陸行30日と記載したとも 考えている。 平原王墓は誰の墓平原王墓が造られたのは 故原田大六氏は 西暦150年頃の大日孁貴(皇室の先祖)の墓と 述べられているが 平原王墓を分析すると意外なことが見えてくる。魏志倭人伝の里程(距離)は全て 短里 で表現されており1里 70m~80m程度ではなかろうか と小生は考えている 王墓の径が100余歩と云うのは 1里を 300歩で割った値なので70mとすると 23m程度 80mとすると 27m程度になる。 この事からこの墓は西暦248年に亡くなった 卑弥呼の墓ではないかと思っている。 23mであると 方形墓がすっぽり収まる直径になる。27mだと 第一の鳥居から大柱までがすっぽり収まる直径になる。 伊都国にある 雷山と 雷神社について 小生の考えを述べる。 しめ縄と 内行花文八葉鏡について 小生の 意見を述べる。 後編 その1(12月21日記載) この内の 1枚が 伊勢神宮に八咫の鏡として祭祀されたものと思っている。 後篇 その2 次の下の表は小生が講演会に出向いた時にいただいた資料であるが平原弥生古墳は 西暦150年位になっている この時代は桓霊間 147年~184年の倭国大乱の時代となる、この時代に生きていれば倭国大乱は 起きていなかったと考えられる ので この平原弥生古墳は倭国大乱 後の古墳と考えている。後の古墳であれば 魏志倭人伝に記載されている様に 男王を立てても争いが収まらず 1女子 名を 卑弥呼を立て 王となし ようやく国が収まったとあり、 この古墳の埋葬者は女性であることは 確実であるから 西暦248年に亡くなった 卑弥呼が埋葬 された 古墳と考えている。この後の女王は 壱与は同盟国である、 畿内に東遷したものであろう。 この考えで表を加筆したのが色塗りの表で 邪馬壹国と呼ばれていたのは西暦 300年位まででは ないだろうか? 大陸との交易(朝見等)は秦の時代位からはじまっていたのでは? 小生が講演会で頂いた資料。 小生の 意見の表2019年3月25日追記 後編その 3今年の2月16日 邪馬台国講演会で 講演者は 横山邦継先生、岡部宏人氏先生 (元伊都国歴史博物館長)、神原英夫(元伊都国歴史博物館長)、萱島伊都男先生の講演で面白いお話があった。 魏志倭人伝の中文章で 伊都国 世有王皆統屬女王国 の和訳を 一般には 伊都国に代々王がおり 女王国に統屬(治められている)されている。 と訳されているが これを 伊都国に代々王がおり 女王国を統屬(治めていた)していた。と説明されたので 私は 驚いたが こちらの訳し方が 正解ではないかと考える、 魏志倭人伝では 其国本亦以男子為王住七 八十年倭国亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名卑弥呼 この其国と云うのは 伊都国の事ではないかと考えられる、 伊都国の男王が7~80年30国余りを 治めていたが 各国が従わず 支配出来なくなる、 これは農産物等の収穫が 不作になり(食料の生産増加の指示が上手く出来なかった?)争いが生じ、そこで占いを得意とし各国から信頼のあった 宗女 卑弥呼を共立して王となしたものと考える。 であるから 伊都国の男王は 女王 卑弥呼を 統屬(支配)することが出来たものであろう。従って女王国は 伊都国近くか 又は伊都国の中に あったものと考えられる。 一大卒が伊都国におり これらの役人の中に 邪馬台国の役人も 共存し 女王卑弥呼を守っていたのであろう。 伊都国は 今の糸島市の様な 小さな国ではなく 西は末盧国の境から 東は志賀島を含む香椎位まで(奴国も不彌国も海に面していない)の範囲が伊都国ではなかったかと推定している。 卑弥呼は 一大卒の常駐する 又 郡使が駐在する 津の近くに 住んで居たものと私意的に考えている、 卑弥呼が老齢になり 占いが滞り 邪馬台国が 衰え始め 南の狗奴国と戦争 状態になり、 帯方郡に戦争状態の説明と応援を求めに倭の役人を送つた後 卑弥呼は伊都国王により 密かに 暗殺され 今の平原弥生遺跡に 埋葬されたものと考えている。 即ち 邪馬台国には 表国王(卑弥呼)と 裏国王(伊都国王)の二人がいて 卑弥呼を 伊都国王が 治め(支配)ていたものと考えている。 この後あと 伊都国 王が 倭王になろうとしたが 各国が 従わず争いが起こり 再び 宗女 壱与を 王となし安定したものである。 この後は 暫く後に記載します 2019年11月8日 備忘録として追加魏志倭人伝の中に里数、日程で表示がある、 何度でも読んでいると 一つの解釈が 私に 浮かんできたた例えば 伊都国から 奴国まで 100里と記載されているが これは倭人が里数を知らないため 魏の役人に倭人が 伊都国から 奴国に行くには又 奴国から不彌国には 陸行 1日かかると説明した為に 魏の役人が 1日歩くのは 100里程度と考え記入したものと考えている(伊都国から奴国には 陸行 1日で行けるのである)、このことから 末盧国から伊都国 東南に 500里の表現は 陸行 5日かかるという意味である。狗邪韓国から 対馬国 水行 1000里は 1日で航海 出来る距離である。参照文献 a 糸島市図書館新春講演会 伊都国考古学における原田大六氏の功績 b 糸島神職会発行 鎮守の杜 c 卑弥呼は糸島市付近にいた 萱島伊都男書,講演会等 d 伊都国ホームページ等 e 2019年2月16日に姪浜市民センターで講演された邪馬台国講演会を参考しています。 改廃変遷 作成日付 改廃 内容 2018年11月 前編作成 11月12日 南に投馬国、 邪馬壹国への出発地点を狗邪韓国から 帯方郡に変更して して文書を作成した。 11月24日 各国までの里程の表を取り換え帯方郡に至を追加と説明を加えた。 12月20日 里程(距離)を短里と書くところを単里と書いていたので訂正した。 12月21日 後編その 1を記載。 12月23日 伊勢神宮の八咫の鏡を追記 ’2019年1月5日 後編その2を追記 ’2月25日 後編その3追記 2019年7月24日 儀、呉、蜀、倭国の大陸図(国の図)を挿入した。’8月4日 帯方郡から邪馬壹国の都(伊都国)に水行で行くので(至)の文字が漏れて いたので到の下に(至)を追記した。’8月13日 水行10日陸行1月の 解釈を追記した。'11月8日 備忘録を最後に追加した(里数、日程 等)
2018.11.06
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前回の説明で 伊都国まで 1万1940りで 約1万2千里であることを 説明したので、 今回はここに 眠る女王墓は誰なのか 私なりに推定したい。ここに埋葬されれているのは (故)原田大六氏によると 大日孁貴(おおひるめのむち) 西暦 150年と説明されているが。この遺跡から出てきた 女性の耳飾り(ピアス)は 後漢の後半に作られた物あることから 後漢は AD24年~220年程度であり この中期は 125年程で 後半は170年程度と推定っできる。 このころ帯方郡で作られた ピアスが倭国に 輸入された(渡来)のは時間差があるので10年以上経過していると推定すると 180年頃となる。 卑弥呼が 女王になったのは 184年位なので 十分に 卑弥呼が身に着けていたと考えてても 不思議でない。又平原遺跡の大きさは 東西 18m、 南北 14mの規模であり これを 径に換算 すると 約 22.8mであり(三平方の定理から推定) 魏志倭人伝に記載されている 径100余歩は 1里80mとすると、(私は 短里で1里80m程度と考えている) ので径27m程度になり、 径22.8m(略 23m)に合うようである。 私的には 卑弥呼が亡くなった後 暫く 殯の宮を立て諸国の王 豪族を 詣でさせ その後 大冢を作り 埋葬したものと考えている、 柱の穴はこの時の 建物の穴で あろうと 思っている この時 既に棟持ち柱があるようである。 各年代毎の長さの単位は 三省堂の漢辞海を参照すると。長さの単位は 1里は 1尺の 1800倍、歩いて300歩・・(随まで) 唐以降は360歩 と記載されている。 私が考えている 尺度時代 1尺 1里(m) 1歩(m) 短里(1里) 1歩幅 100歩 殷 15.8cm 284.4 0.948周 18cm 324 1.08秦 23.1cm 415.8 1.386 前漢、新 23,1cm 415.8 1.386 後漢 23.75cm 427.5 1.425 魏、晋 24.2cm 435.6 1.452 80m 26.67cm 27m 以上の様な 関係になる。 赤の円は 100歩 27mで円を描いたものである 青の円は 王墓を囲った円で23m程度、右側の円は 中心を 右に少しずらして描くと 第一の鳥居と 大柱を含む円が出来た、これから 100余歩と云うのは 第1の鳥居から 大柱までの距離を 説明しているのではないかと考えられる、 これは偶然だろうか,偶然ではない、第一の鳥居から 大柱までの距離が 100余歩 でこれが 大冢の大きさであると考えている。 ちなみに 三雲南小路遺跡は 東西32m、南北22mで 径に換算すると 38,8mとなり 径 145歩 程度となる。卑弥呼はシャーマンであり 遺跡から出てきた大量の鏡、5尺刀、勾玉 等を考えると この遺跡は 卑弥呼が亡くなった 248年 以降に作られた墓と考えている。これ以上の副葬品が発見される 遺跡は他に この時代の物はないだろう。 卑弥呼の死は魏志倭人伝では 狗奴国の男王卑彌弓呼と素より中が悪く争いを起こすので倭の載斯鳥超等を帯方郡に遣わし戦争をするので助勢して欲しいと相談する。 帯方郡から塞曹掾史 張政等を倭国に遣わして 詔書、黄幢(帯方郡の軍旗)を難升米に与え戦争の仕方、和睦の仕方等を教えた。(魏の国は当時戦争状態であり倭国を助ける余裕はなく 和睦を進めたものと思われる)卑弥呼が死んだので 径100余歩の大作冢を作る(大きい 盛り土の墓?) このことから帯方郡から倭国に来た使いは 卑弥呼が亡くなり 墓を作るのを見たのであろう、そうでなければ 倭人が知らない 里数の 径100余歩と云う 表現は出来ないので ある。倭人から聞いた 径100余歩であれば 倭人の1歩は 50~80cm程度?とすると 50~80m以上の遺跡となるのではないでしょうか。又 特に 女王国以北 伊都国に 1大率を置き 諸国を検察(取り調べる 証拠を集める) 諸国は これを 恐れおののき 常に伊都国がこれを治めていた 王が使いを遣わし京都(洛陽の天使がいる処) 帯方郡 諸韓国に詣でたり 帯方郡の使いが倭国に詣でるときは 倭国の役人は 皆 港に出向き伝送文書 賜りものが 目録と合っているか 確認して 女王にあわせる。女王に歩いて届ける時 平民と道で会えば 平民は 後すざり して草むらに入り・・・と書かれて おり 伊都国の津(港)から 女王の住んで居る 臺までは そんなに遠くない距離で 精々2km 以内位の処に 住んでいたと私は考えているので 平原王墓は 丁度考えられる距離で ある。 参考文献 柳田康雄 伊都国考古学における原田大六氏の功績 日本神話と考古学 萱島伊都男 卑弥呼は福岡市付近にいた。P,S 卑弥呼の後の 壱与の墓も 糸島付近にあると推定しており これは今までは 方形周溝墓で あったが 円墳か 前方後円墳に変化してきたのは 糸島からと 考えている。2018年2月5日追加(糸島地方の主要 遺跡の 埋葬方法の変遷) 三雲南小路と井原鑓溝遺跡の時代が 近すぎるので 井原鑓溝遺跡は 西暦 50年以上 100年位の遺跡ではと推定している、 正確な遺跡の場所が判れば 判明すると 期待して いる。 それでも 卑弥呼の年代まで 100年以上あるので あと2人 程度の 王墓の 遺跡が糸島に あると思っている。 以上
2017.12.28
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5月28日は 天気予報では快晴であったので 文鏡の軌跡を 観察した。軌跡は 徐々に南に下がつて来ており 太陽が一番高い時に どの様な 放物線を描くか 楽しみにしている。今年の 1月1日の様な 曲線になるのではと 推察している。 (中心線が 紐かけより 下にさがることはない)5月28日の曲線は 上から6番目の曲線である。 (全体の 写真) (拡大 写真) (太陽との 角度、 区画の幅が1時間あり 例 7:00~8:00 この 1時間内の 初めと 終わりでは角度が相当異なるので 前回と比べて差が少ない処もある) 以上
2017.05.29
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久しぶりに 晴れ模様なので5月4日の 太陽の軌跡を調査した 時々 時々雲が出るので 定時間に観察できないので 時間を 1時間に区切っているが それでも 観察できないときがある。 2月28日からは 太陽の影は 別に 棒を立てて 測定しているのでかなり 太陽の高さは 正確になっていると思う。 上から 5本目が 5月4日の太陽の軌跡である、 扇型が 南から開いた状態に変化してきた、 田んぼは トラクターで 耕うんされ 未だ水引は 始まっていないが 早米は 5月末には 水が田んぼに 入るものと考えている。 2017年5月4日の軌跡(上から 5本目) 以上
2017.05.05
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今日3月23日は 天気が 晴れであるので 内行花文鏡の紐かけの太陽の軌跡を 調査したが、 1日中 晴れているわけでは 無いので 中々 調査は 難しい太陽の軌跡はほぼ 直線から 南側に 変わって来ているようにも考えられるが未だ 明確には判らない。屋外では 畑、 田んぼは トラクター等で 耕してあり 春が訪れ皆が 動きやすくなってきた。 (上から2017年1月1日、 1月24日、2月28日、3月23日の紐かけ曲線である) (太陽の角度は 昼には55°を超えている ) 4月には 曲線が 南向きに変るものと思われる。 以上
2017.03.23
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今年1月21日糸島市図書館で新春講演会が柳田康雄氏(国学院大学元教授)による 伊都国考古学における 原田大六氏の功績 - 日本神話と考古学 - が開催されたので受講したが テキストの印刷が 部分的にカスレて 良く見えなかったので 積文館、や金文堂に本を注文することにしたが、 本が古いので発行元に在庫が無いとの事で諦めて図書館を利用する事にしている。 全ての内容は参考になりましたが、関心を引いたのが県別に見た弥生時代~古墳時代の鉄器量(寺沢 薫氏 2000)の 図であった。 この図を見ると九州と九州以外の鉄器量を比較すると 問題にならないくらい九州が多い。大胆にこの発掘量から 耶馬大国を推定すると 九州説と 畿内説があるが 九州説が正解である。 鉄器量が一番多い県は福岡県・・卑弥呼が住んでいて伊都国に一大卒を置き諸国を検察していたから?。 2番目は熊本県・・熊本県に多いのは卑弥呼に属しない狗奴国があり 九州を西周りに長崎を回り 狗奴国が輸入したものと考えられる。(この為 不仲なのか?) 3番目は大分県・・大分県は魏志倭人伝から 南に水行20日で投馬国に至るとあり 大陸から伊都国 経由して今の大分県が 投馬国が あった県ではないかと推察している、小生は 四国地方と推定していたが 鉄器量から 大分県が正解の様である。 4番目は・・ 佐賀県のようである。魏志倭人伝を読むと 伊都国に一大卒を置き諸国を検察させたので 諸国は怖れおののき 伊都国は 耶馬大国の役人のようで常に伊都国が治めていると記載されている様で、 伊都国に一大卒を置いた理由は伊都国は大陸との貿易の玄関口で海上交通の要であり ここを通り抜け 瀬戸内海、山陰地方 の諸国と大陸との貿易がなされ 戦力が 増強されると耶馬大国としては見過ごすことは出来ないので伊都国に一大卒を置き海上交通の関所を設け 全ての船を止めて 積み荷の検査をし 兵器等の材料 (鉄器等)は没収した ものと推察している、(これは卑弥呼の時代に始まったものではなく伊都国に 王が君臨した時代から始まっているのである) 抵抗する者は 奴隷にされた?瀬戸内海、 山陰地方に鉄器が少ないのはこの為と思われる。 この様な状況で 北部九州には鉄器が多いと 思われる。投馬国が例えば四国あれば ここも鉄器が多いはずだが このような県は無いので 九州であろう。 瀬戸内海、山陰地方の諸国はこれに困り 4世紀頃から 海上交通を大陸から 沖ノ島、宗像経由を次第に開発したのであろう。 これに危機を感じた 耶馬大国は次第に 瀬戸内海、山陰地方まで 同盟国を増やし、また抵抗する国とは 戦となり 畿内地方まで 制圧したものと 推察している時代は壱与から壱与の子で大和朝廷 (西暦350年)が成立したのは壱与の子孫であろう。追伸 北部九州に鉄器が多いのは 大陸は歴史的に戦乱が多発していて これに負けた王族やその一族 が 戦のあるたびに 追手を逃れて朝鮮半島を超えて倭国に逃げて来て(特に糸島地方) 倭国の先住民と混血し、次第に小国が誕生したものと考える。 であるから 一部の者は 大陸との言葉は通じていたのである、 これらの歴史的背景は 紀元前何千年も前から始まっていたもので 大陸で発明された 文字、 言葉、 文明等は 遅れて倭国に次第に伝え 広まったもので 特に伊都国が大陸との窓口と考えられ先端の 色々な技術を持つていたものと考えている。 このブログは小生の 推定で書いていますので 非公式です。 以上
2017.03.11
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内行花銅鏡(直径46.5cm)を 自作して どのようにして制作したか、これをどのように 使用したか を自己流に調査している。まず 北に合わせて 紐かけの 軌跡がどのように 現れるのか 調査しているが、 鏡を太陽が 差し込む光の方に 運び 北に合わせて 観察しているが 北に合わないのか どうしても 紐かけの軌跡がスムーズに 出来ない、 本来は 運動場のような 広場に 固定して観察できれば betterであるが 出来ないので 苦慮しているが 大体は 予想できる。第1回目 2017年1月1日 2回目 1月24日 3回目 2月28日 ほぼ1ケ月 おきに 軌跡を観察している、 太陽が 高くなり 軌跡が ほぼ直線になってきた。3月には 曲線(軌跡)の方向が 逆転するのではと思っている。 (北側から1月1日、1月24日、2月28日の軌跡である ほぼ直線になってきた) (太陽の角度を計算しているが紐かけの直径が丸で4cmあり正確な影が出来ないので 別方法で 計算を検討している) 次回は 逆転日を観察できれば すぐ 掲載したいが、 曇りが多いので観察も苦労します。 以上
2017.02.28
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天気が良いとき 平原遺跡に出向き 太陽が昇る方向と 遺跡の位置関係を調べてみた。 方法は 一眼レフカメラに 磁石(方位計)を 取り付け カメラの 光芯と 磁石の方向を合わせて 方位を測定したしたので 土木作業の トランシットのような精密器ではないので 目安で ある。 (現在の 平原王墓) (写真機に 磁石を寄り付け 北は 柑子岳方向 南は 雷山となる) (北が 柑子岳? 高祖山が84°、 日向峠が 105°、 韓国山が110°程度となる) この角度と 内行花銅鏡の 関係がどのような ものになるか しらべてみたい。 以上
2017.02.23
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銅鏡のレプリカ制作が ほぼ完了したので 紐かけの頭と太陽の軌跡がどのように 季節で変化するのか 調査することにしている。2017年1月1日と 1月24日の2回 観察しましたので 掲載します、 1年間 1ケ月 間隔で 調査します。1月1日の 軌跡より 1月24日の 軌跡が 中心に近づいてきているので 段々暖かく なってきている。 (中心に近い方が1月24日、 遠い方は 1月1日の軌跡) (太陽は南東から 上がり西南西に 沈んでいる様である) 次回は 2月E 頃 掲載予定。 以上
2017.01.28
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レプリカ制作中であるが 中心部の 模様が上手く出来ない、 粘土板で模様を 切りぬき貼り付け 材料を詰め込み 乾燥を待ち 型を取ったが 粘土板を外す時周りの 粘土が 欠けて 大変な 状況である。 このまま 精密な完成を作るには 相当の時間と 試行錯誤の時間を 費やすので荒ら仕上げの状態で 中心部の紐かけの 影がどのように 変化するか 調査しながら 仕上げていくことにした。2017年 1月1日の 影の状態は 次の通り (午前9時25分の状態) (午前10時28分の状態) (午前11時55分の状態) (午後12時57分の状態) (午後14時01分の状態) (午後15時02分の状態) (午後16時00分の状態) (午後16時45分頃の状態) (雲形定規で 曲線を描いたもの) (太陽の角度計算 鏡が水平に出来ていないので 水準器である程度水平を確認して太陽の影を確認しているが 水平が出ないと影の長さが直ぐ 変わるので 大体の 目安として 計算している) 今は 北側から 扇が開いたような 曲線になっているが 春に近づくにつれてこの扇の向きが 南から 開くような曲線に変るのは 何月 何日になるのか 調べる 恐らく 春と 秋の 2回に 変曲点があるのでは ないかと 考えている。これを調べながら 逐次銅鏡を仕上げていきたい。 これは 原型であるので 本当は 鋳物砂で型をとり キュウポラ(溶鉱炉で銅を溶かして)で溶かした銅を入れて 製品を作るのが 本当であるが こんなのは 持たない為 石膏で固めて 雌型を作り セメントを 流し込んで 製品を作ろうと 思っているが このとき 模型が 壊れると 全ての苦労がゼロになるので 暫く 考えてみたい、鋳物砂で雌型を取り 石膏を流し込む方法もあるが、 鋳物砂で型を映す時 砂を棒で突き固める必要があり このとき現型が破損する恐れがあるのでどちらの 方法で 進むか 試案中。 平原遺跡発掘の5面の銅鏡は 全て破壊されていた と説明されているが 私の考えではこのような 多きな 銅鏡は 簡単には 出来ない 溶けた銅を注入しても 外周のつばの 厚みと 内径側の厚みが 相当内径側が薄いので 鋳造時に 塊りスピードが 異なるためチジミ割れ(ヒキ割れ)が生じ出来た製品は 殆どが 割れると思われる、 割れなくするためには 注湯口が 3ケ所、 大きな押し湯口が 1ケは必要か、 注湯の冷えるスピードを均一にする為内径の厚さを 外形と 同一寸法にして 鋳物が出来上がった状態で内径側の鏡側を 薄く加工する 方法がある。(簡単に説明すると以上の様になる)割られた銅鏡を 糸島歴史資料館で観察したが 私の見た目では(館内はかなり暗い)ハンマー等の 鉄や 石 等 人の手によって割られた 打痕の傷は 確認出来なかったので 初めから割れていたのでは ないかとも 思われる。 この銅鏡の 完成品は 卑弥呼の後の 壱与が 伊都国から 畿内 大和地方に 東遷した時に持って行き これが 伊勢神宮に祭られているものと 思われる(銅鏡は5面以上作られた 事になる) 従って割れた(制作途中で)鏡は王墓に埋葬されたと 考えている。毎日 影を 観察出来ないので 1回/月位に 観察したい。 以上
2017.01.01
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平原遺跡発掘内行花銅鏡のレプリカ制作その3レプリカを制作しているが 素人には 難しい 特に 内径に模様が描かれているが この模様の作成が困難である、 特に中心の 柿の ヘタのような 模様は 彫刻刀で素人で 模様を描くのは 困難であるので 前回(そう2)掲載した様に 粘土板に 原寸大の 切り抜き模様を貼り付け これを ハサミと 彫刻刀で 切り抜いたが ギザギザに 出来た、 ハサミで 切ったように スムーズに切れなかったが 仕方なく これを使用して 模様を つけるようにしたが 果たして 上手く 模様が 出来るか心配している。(この 模様を引き抜く時 まわりの 粘土が 欠けないか) (原寸大の模様をくりぬいた) (粘土板に張り付けて 板に模様を写したところ 板厚 約2mm 粘土板が欠けない 様に ニスで両面チッシュペーパーを貼り付けた) (粘土板から 模様を切り取ったところ きれいに切れない) (現物の中心をを 2mm 程度 低く削ったところ) (中心に 模様を貼り付けた ところ) (外周に 粘土(セメンを混ぜたもの)で模様が出るように 埋めた粘土が乾燥したら慎重に 中の 粘土板を 外し 柿のヘタの様な模様がきれいに出来るようにするが もし 模様が欠けるようで あれば ほかの 方法を考える) (中心の 紐かけの 頭は ちょうど 直径4cmのピンポン玉に 粘土を込めて 中心に 接着する) 作りながら 考えると 完成品で 1年程度かけて 確認するが 鏡を 水平に置いて 中心の紐かけの頭の太陽からの影を 観察すると 冬場に向かうと 北側から 扇を開いたような 曲線が 現れ、 夏場に向かうと 今度は 南側から 扇を開いたような曲線が表れる この曲線が年 2回 どこかの 季節で 逆転する 日にちがある。 弥生時代は この 曲線が逆転する日を 1年とし 年 2回 あるので 現在の1年を 当時は 2年と 数えていたのと思われる。 倭人は四季(春、夏、秋、冬)を知らず 春 耕し、 秋 収穫することを年紀となすと倭人伝に記入してあり春は 1年 秋で 2年と 計算していたと 考えられる。 魏志倭人伝によると 人の寿命 100歳或いは 80歳 90歳と記載されており 現在の 寿命に換算すると 長寿で50歳、 平均 40歳から45歳位と思われる。卑弥呼の死後 壱与 13歳を立て 王となし国中安定すると記載されているが 現在の 年齢に換算すると 6歳か 7歳位と 推定される。又 この鏡に よって春の 田の 耕し、 種まき時期、 秋の 収穫時期等を 伊都国から 耶馬台国の 30国に 情報が 発令(伝えられる)されていたものと 推定されこの 平原遺跡の 王様(女王)は 格別の位の 人格者と 推察している。 以上
2016.12.24
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平原遺跡発掘の内行花銅鏡のレプリカ制作その2平原遺跡で発掘された 内行花銅鏡のレプリカを 制作しているが 中々 思った通りには 進まない 現状は 次の通りであるが 諦めず 時間が掛かっても 続けていく。まず 乾燥すると 粘土に クラックが入り バラバラになる恐れがあった 私は 外周に 4mmの 番線を入れていたのでバラバラには なることは 避けられた。又 乾燥すると 砂の微粉が飛び散り 難問が生じている。 (乾燥して クラックが 生じている状況また 表面を触ると砂の微粉が手に付着する) (微粉防止と 割れ防止の為 ラッカ ニスを塗った模様を付ける為外周に3mm程度の ゴムを 貼り付けている 作りながら考えているが この 鏡は 日時計と 季節を 知るために 特別に 制作されたものと 考えている) (外周には チシュペパー を貼り その上からニスを上塗りした) (クラック 部分を 塞ぐ為に 同一材料で 補修した) (中心部に再び クラックが生じた状態) (中心部に模様を入れるために補修して 同寸大の コピーを貼り付けたところ) (100円ショップで購入した 彫刻刀で加工したが 上手く模様ができない) (外部の模様をつける為に3mm程度のゴムで形をつけてみたが上手くいかない) (模様の 一部が欠けた中心部の模様は埋め戻している) (模様を 上手く作るために 100円ショップで粘土 べとつかず 硬化する物 を購入して 2mm厚に 引き延ばした状態で乾燥後 これに模様を貼り 彫刻刀で 加工しょうと 考えているところ。 乾燥して 割れない事を 願っているが!!!!!今までの感想では 制作するのは 一筋縄では いかない 事が 良く わかってきた。 この鏡の使用方法は 日時計と 季節を知るための 物と推察されるので 次回進捗状況と 時計と 季節の知り方について 私なりの推察を 述べたい。 今回は ここまでとする。 以上
2016.12.13
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内行花銅鏡のレプリカ製造 糸島市平原遺跡で発見された 内行花文鏡(直径 46.5cm)の日本一大きい銅鏡を 約1800年前の弥生人が どのような方法で、どのような 用途、目的、で制作したか 少しでも近づく為古代人に なり 変わって レプリカを作ろうと考えた。鋳物制作には 大きく 3種類以上あり ほんの概略をのべる。1、木型方式 木型で原型を作り鋳物砂で 型どりして 溶けた鉄等を流し込む方法。2、蝋型方式 ロウで 原型を作り 鋳物砂に埋め込み 埋め込んだ鋳物砂を温めて ロウを外部に流しだして 空洞に 溶けた鉄等を流し込む方法。3、挽掻き方式 粘土、鋳物砂 等をある程度 柔らかく練りこみ 引っ掻いて 原型を作り 乾燥させて 鋳物砂で 型どりして 溶けた鉄 等を 流し込む方法。4、その他の方法 ダイカスト方法等。現物を確認すると 1800年前は 恐らく 挽掻き方式で製造されているようなので この方式で 制作することにした。材料購入は ナフコで 購入したが 現在人の私が 制作できるか 相当疑問であるがとにかく制作 をすることにした 今回は 100%まで 完成ではないが 制作途中までの 過程を 掲載いたします、 完成すると 続きを掲載いたします。 材料購入 土台の 板 粘土等 板に 原寸大の寸法を描いたところ 上はレプリカ(博物館)の写真 外形の寸法に板を曲げたところ 挽掻き用の棒を付けた ところ 厚さ 10mmに 設定している 粘土を細かく砕き 手持ちのセメントを 1対3(粘土)で混ぜる 振るいは一番細かいものを使用 厚み10mmのところ 乾燥したら 円盤にクラック(ひび割れ)が生じたので 4mmの番線を外形に 入れた 外側の縁(15mm厚)を制作したところ 外周に 10本の 溝を 入れている ところ 中心部は印刷機で 原寸大に印刷して 貼り付け 1mmの半田線で縁取り したところ 左から 右に細い 割れが 入っている。現物は 彫刻刀等で 模様をつけて いるのだろうが 私には無理であるので 鉛線 等で 代用しているが 上手いく行くかどうかは 不明 制作開始から 約1ケ月の状態であるこの 後どのようにすべきか今迷っている 本物の銅鏡 この後は 12月中に完成したいと考えているので 3回くらいに分けて状況を掲載したい。 以上
2016.11.29
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邪馬台国の女王国 魏志倭人伝を読み解くと このまま読んでは 迷路に入って解らなくなる、読み方を変えると 納得できる解釈が出来るので 私流の読み方(解釈)で説明したい。 (帯方郡から狗邪韓国までは 水行でも 陸行でも行けるのである) 次に 韓国の釜山辺りから 1海 1000餘里を渡ると 対海国(対馬国)に至る、 又南に 1海 1000余里を渡ると 1大国(壱岐国)に至る。 又1海 1000余里を渡ると 末盧国に至る。 東南に陸行500里で 伊都国に到る。 東南に100里奴国に至る。 東に100里行くと不彌国に至る。 ここから 後が さっぱり 理解出来ないのである。 南に投馬国水行20日・・・・・・ 南至邪馬台国女王之所都水行10日陸行 1月・・・・・ これを 順次足していくと 不弥国から 水行 30日と 陸行 1ケ月で 邪馬台国の女王の国 に着くことになるが、 女王国までは 帯方郡から 1万2千余里となっており 距離と 合わない 伊都国まで帯方郡から 10500余里であり 女王国まで あと1500余里であり (一里 80mで計算すると 120kmであり 伊都国から 熊本の荒尾? 位である) ザックリで伊都国から120km南下するのに 水行 30日と陸行 1ケ月かかることになり 全然合わない、それで 邪馬台国の位地は 畿内説が浮上しているものと 思われるが 距離説では 北部九州説となる。 これは魏志倭人伝の解釈の仕方を この様に解釈すると 北部九州説となるが どうだろうか? 南至投馬国水行20日・・・・ 南に船で 20日進むと投馬国に至る 南至邪馬台国女王之所 都水行10日陸行1月・・・・・ これを和訳すると 南に耶馬台国女王の住んでいる所には、 合わせて 船で 10日 陸を歩いて 1ケ月かかる。 (都の 解釈を 足し合わせてと訳すのである) ここを詳しく説明すると南にとは 韓国の釜山辺りから 倭国の女王国に行く道のりを 日数で表現し直したものである、 距離で表現したのを 日数に表現を改め直したのである。 ( 線と矢印は 船に乗ったルート、 点線は 歩いたルート) 釜山辺りから 対馬国へ船で渡り、 対馬へ寄り 潮待ち、 波待ち、 天気待ち で 宿泊したが 穏やかにならず 対馬を歩いて南下し 壱岐国まで 船で 渡り、 壱岐国から 呼子辺りに 到着し ここでも天候を待ったり悪ければ 末盧国まで 数日掛けて歩いたり、ここから伊都国まで船で行くか歩いて行くかして伊都国に到着 するのである、即ち 船に乗ったり陸を歩いたり 又船に乗ったり歩いたり・・・・・しながら進むのである。 これらを(宿泊日数も含めて) 足し合わせて水行10日 陸行 1月と表現したものと考えている。 (伊都国から三瀬峠を超えて佐賀大和の神崎 吉野ヶ里遺跡を通り 南下する方法と、日向峠を越えて 385号線を南下して吉野ヶ里遺跡を通り南下する方法があり、 吉野ヶ里は耶馬台国の女王国の 場所を解明する 重要な場所ではないかと推定される) 私的には 伊都国までには 水行 10日 陸行 20日程度は程度は掛っているものと 思れ、 伊都国から 女王国までには 歩いて10日程度で 行けたものと 思う。 (1日 150里約12km 歩くことになる)。 これらを足し合わせて 船に乗ること10日、 陸を歩くこと1ケ月と 表現した物と考えている、この様に解釈すると 北部九州説に合うのである。 投馬国は 大分の宇佐地方か 四国地方ではないかと 考えている ?。 魏志倭人伝を何度も読んで 女王国の場所を推理したい。 P,S 倭人伝を何度も読むと至と到が使用されている、出発国から到着国まで 船(水行)でも 陸行でも 行ける国は 到を使用、 至は どちらか 片方でしか 行けない国のようである、これを頭に入れて 読み解釈すると 又違うイメージが わいて 来るかも。? 邪馬台国の女王国は九州であるので 至の 文字を使うのは 出発国が違うからである。? 耶馬台国が畿内説の場合 投馬国が広島か岡山県にありここから順次畿内耶馬台国に 至るとなっており この場合 いたるの文字が 到るになるはずである。 至だから 片方の方法でしか行けないので 表現が 可笑しくなり つじつまが 合わなくなる。 海を渡るにしても 渡と度があり 異国から倭国に渡るときは 度 の字を使い、倭国内では渡るの 文字を使っているようである。 4月27日 追記 以上から お分かりのように 奴国、不彌国は 海に面していなく、内陸にあり 歩いてのみ いけるのである。 海に面していない 不彌国から 南に水行 20日で 投馬国には いけないのであり、出発国(地点) は 他にあるはずである、 私は 韓国の 釜山(拘邪韓国)と推定している者である。 これは 非公式な解釈であり 学術的な 根拠はありません。 備忘録2016年6月23日追加2016年7月2日追加 帯方群からの 距離の説明と いたる の文字を解りやすく図表にしたもの。 翰苑 を和訳すると 女王国は 伊都国の 隣のようである、魏志倭人伝にもとずいて一部修正して私流に 和訳している。 翰苑 原文 以上
2016.04.16
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魏志倭人伝 後編其の国 本(もと)又男子を以て王の為、住むこと70~80年 倭国 乱れ戦争状態が何年も続いた。 のち共に一女子を立てて王とした、名を卑弥呼と云う。 鬼神を信奉するシャーマン(占い師)でよく衆生をまどはす。 年己長大(ネンコ、チョウダイ?:卑弥呼背が高く太い?)で夫、婿無く 男の弟がいる。 自ら国を治め助け、王になって以来見る者少なく、下女千人を以て 自らつき従わせる。 ただ男子一人あり、飲食をだし、言葉を伝え居所に出入りする。 宮室は物見やぐら、城柵、厳しく設けられ、常に人がおり、兵を持って守衛する。 女王国より東に海を渡ること千余里(約80km)国あり、皆倭種又朱儒国 (シュジュ国:背丈が極めて低い国)あり、その南に身長 3~4尺の人住んでいる。 (其の国の南に背丈3~4尺の人が住んでいる朱儒国がある)と訳すのでしょうか? 女王国を去る四千余里(約320km?)又裸国、黒歯国あり、その東南に船で1年行くと人 の住んでいる所に至る。 倭の地参問(調査)するに海の中州、島の上に住み、或るはつながっていなかったり、 つながっているので巡る事は出来る、周り五千余里(約400km?)である。 景初二年六月 倭の女王 長官(名を難升米と云う)等を遣わし、大陸の(帯方)郡に詣でさ せる。天子(君主)に詣で朝廷に献上品を求める。(この天子は帯方郡の天子?) 帯方郡の太守 劉夏、官史を遣わし、将を送り京都(ケイト:魏の朝廷 洛陽)を詣でさす。 その年12月詔書(魏の朝廷の遺志を明示した文書)を倭国女王に報告して 曰く 親魏倭王 卑弥呼と制詔(定める?)。 帯方郡の太守劉夏 官史を遣わし 女王の長官(名を難升米と云う)、次使(副官の名を都市 、牛利と云う)を送り、女王に献ずる所、男の人夫 四人、女の人夫 六人、布二匹二丈、 賜るを以て倭国に至る。 備考 魏の皇帝からの返事があるまで、女王の使いは、帯方郡で 何か月か、待っていたと 思われる。 女王の所遥かに遠い所にあり、そこで使いを遣わし貢物を献上 これ女王の忠孝なり。 我 甚く汝を哀れみ、今汝を以て親魏倭王となす。 金印をかし、紫綬装封し、帯方郡の太守に付けて(持たせて)假授(ケジュ:与える)。 汝 それで人々をいたわり、勉めて尽くすべし。 汝の来使 灘升米、 牛利 遠きをわたり、道路で功労する、 今 難升米を以て率善 中郎将(兵を統率する者の称号)、 牛利を率善 校尉 (将軍に次ぐ武官)と為し、 銀印、青綬与える。 引見(インケン:導き入れて会い)、労いを賜り、 遣いを還す。 いま、絳地交龍錦五匹(コウチ コウリュウ キン?)五匹(10反)、絳地?絳?(コウチ スウショク ケイ :赤い毛織物?)十張、?絳(センコウ?)五十匹(100反)、紺青(コンジョウ:藍色の絹布?)五十匹(100反) を以て汝が献ずる所に貢ぐと答える 又特に汝に紺地句文錦三匹(6反)、細班華?五張白絹五十匹(100反)、 金 八両、 五尺刀 二口、 銅鏡百枚、 真珠、エン丹(エンタン:鉛の鉱物?)各五十斤を賜い、 皆装封し 灘升米、牛利に持たせる。 還り至れば録受し, ことごとく 汝国中に示し、以て人を使い 国家(魏の国) 汝に哀れむを知らせるべし。 故に鄭重に汝に好物を賜うなり。 正始元年帯方郡の太守弓遵(キュウジュン?)建中校尉梯儁等遣わし詔書:、印綬奉じ倭国に詣り、 倭王に拝仮(魏の朝廷の変わりに非公式に拝み?)言葉をもらい、金の絹、錦の毛織物、刀、鏡、ハン物を賜う。 倭王 使者に因り上表し詔恩感謝を答謝する。その四年倭王又 魏国朝廷に長官伊聲耆 掖邪拘等八人遣わし、人夫、倭錦、 絳 セイ?、綿衣、帛布(ハクフ?:絹の布)、丹木、短弓、弓矢を献上する。魏の朝廷より掖邪狗等 率善中郎将の印を授かりお礼を伝える。 其の六年 帯方郡に詔し倭国 灘升米に黄幢(コウトウ?:黄色の旗?)を賜し、 郡に持 たせて与えた。 其の八年 帯方郡の太守王?(オウキ)に倭国の使いが来た。 女王卑弥呼は與狗奴國の男王 卑弥弓呼と素(もと)より中が悪い、 倭国 載斯鳥越等を郡(帯方)に詣でさせ、相攻撃するを訴えた。 塞曹掾史張政等を倭国に遣わし 因って詔書、黄幢を与え、灘升米に拝仮し、檄 (ゲキ) を為して争いしない様説得する。 卑弥呼以て死す、大きな塚を作り、径百余歩、徇葬者奴婢百余人、 更に男を立て王 としたが、 国中不服、 更に殺し合い 当時千余人殺された。 又卑弥呼の宗女(一族)壹與(イヨ?) 年十三才を王にし国中やっと定まる。 政等 以て檄を壹與に とばす。(厭事を云う?) 女王 壹與 倭国の長官 率善中 郎将掖邪狗等二十人を帯方郡に遣い、 政等送り還す。 因って倭国の長官が帯方郡の長官(臺)に詣り 男女人夫三十人献上し、白珠五千孔、 青大句珠二枚、異文雑錦四十反貢ぐ。以上で 終わっいます、これで 邪馬台国の場所を推定すると、以下の様に私は推定します。 有明海の筑後平野辺りが、 女王の国と(特に筑後川の近く)推定します。伊都国から九州を左周りに南下して大村湾を抜けて、舟で行ったものと 推定されます、 又投馬国は この 下側と 考えます, 色々 誤字、脱字、ミスがありますが 素人ですので お許しお願いします。 以上で 終わります。 有難うございました。
2010.09.19
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魏志倭人伝を、ほぼ 和訳出来ましたので、前篇、後編と2回位に分けて 記載してみます。但し私は 趣味でやりましたの、マンが的に お読み お願いします。前篇倭人は中国大陸の帯方(郡)の地から東南の大海の中にあり、山や島に囲まれており、国に 都や市場があり秩序正しい国である。 (おそらく都は、 如国を指している と思われる) 昔は 100国余あった、漢時代 朝廷に倭国(奴国)から献上(物、品)する者あった。今は(後漢が滅び魏の時代になって) 使訳(大陸の言葉)が通じる所30国程あり。大陸の郡(帯方)から倭に至るには、海岸をめぐって水行で韓国を南に下り、東に行くとその北岸 狗邪韓国 七千余里(今の距離に換算すると1里約80mとして560km程度) 始め一海千里(約80km)を渡ると対馬国に至る、其の大管を卑狗という、副を卑奴離という、居る所絶島で面積32km平方程度である、 土地 山険しく森林多く、道路 獣道の如し、千余戸あり、良い田は無く、海の物を食べ自活し船に乗り南北にでかけ交流している。(市糴・・市場でコメ等を購入)又南へ一海千余里(約80km)渡ると名を瀚海(かんかい)いう一大国(壱岐の島?) に至る、 官を 亦日卑狗 副を 日卑奴母離といい、 面積300里(24km平方) 竹林、 林多く 家 3000程あり、田畑耕作地あるも、 食不足よって南北に出掛けて 交流する。又一海 1000余里(80km)渡ると 末盧国で 4000余戸有、 浜、山海あり 草木盛んに茂り 前を行く人は見えない。好んで魚を捕獲し(鰒:アワビ、フク)水の深い所、浅い所無く皆もぐり取りに行く。 末盧国から東南に歩いて500里(40km)進むと伊都国に至る、官を爾支(ジシ?) 副を泄謨觚・柄渠觚といい、 1000余戸あり。 追伸・・・末盧国を今の久里双水古墳近くとすると、今の伊都国(三雲)は 北東に当たる気がする。 代代の王は居るものの、皆女王国に統属されている、大陸(帯方郡)からの役人の往来 があり常に駐在していた(献上品の倉庫、穀物倉庫等あった) 追伸・・・郡の役人が諸国を訪問し大陸に帰って行く時ここで諸国の状況 が日誌に記録されたものと思われる。 伊都国から東南に100里(約8km)の処が奴国に至る、官を?馬觚(ジバ コク?)副を卑奴母離(ヒナボリ?)といい、2万余戸あり。奴国から東に100里(約8km)歩くと不彌国に至る、官を多模、副を卑 奴母離という、1000余りの家がある。伊都国から南に水行(船で行くと)20日で投馬国に至る、官を彌彌、 副を 彌彌那利といい、五萬餘戸ある。伊都国から南に行くと女王の都とする所の邪馬壹国(邪馬台国)に至る、船で 10日、 歩いて 1ケ月かかる、 官あり、伊支馬、 次に彌馬升 次に彌馬獲支 次に 奴佳? と云う、 七萬餘戸あり。 女王国から以北はその戸数、道筋、距離は上司の略載の許可を得た、その他の色々の国も遠絶にて詳しく述べる事は出来ない。次に斯馬國あり、次に巳百支國、次に伊邪國、次に都支國、次に彌奴國、次に好古都國、次に 不呼國、次に姐奴國、次に對蘇國、次に蘇奴國、次に呼邑國、次に華奴蘇奴國、次に鬼國、次に為吾國、次に鬼奴國、次に邪馬國、次に躬臣國、次に巴利國、次に支惟國、次に鳥奴 國、次に奴国 ここまでが女王が支配していた国である。 次に期馬國 有り、から・・・・・奴國 有までの 21ヶ国が 卑弥呼の統治して いた国であるが、この中に奴国が重複して記載されている、卑弥呼の北側が 奴国であるので、邪馬台国は 奴国の 南側になり 有明海、熊本、方面となりま す。 従いまして、対馬國、壱岐國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、 投馬國、邪馬台國を 加えると全部で 29ケ国が 卑弥呼が統治していた国と考えられる(重複 奴国あり)。其(邪馬台國)の南に狗奴國がある、 男子が王の為、 其の官狗古智卑狗あり、 女王国には 属していない。大陸の郡(帯方郡?)より邪馬台國までは約12、000里余り(約 960km程度)。 倭人男子は親も子供も、皆顔、身体に入れ墨をしている、古来より 邪馬台國 から其の使いが中國に詣でるや、 皆自分は職の長官と称す。 (中国の)皇后の少康の子が 會稽(カイケイ)と云う地方で捕らわれ人質になると。 倭人が断髪、身体に入れ墨して 人質になった少康の子に害が及ばず無事帰れる様に 呪いをした。 ・・・・會稽(カイケイ)は呉国にあり、魏国の領土ではないので、戦い等で捕えられ 人質に なったのでしょうか?・・・・・ 今 倭の水人好んで魚、蛤を捕るためにもぐる、 入れ墨は又以て大魚や水鳥(水 に潜る鳥、カモメ、等)が嫌う(厭がる)。 後にようやく 以て飾りのようになる、 諸国の入れ墨は各々異なっている、 左や右、大きいのや、 小さいのやで 身分の差がある様だ。 ・・・・・ ここから 時代が 大きく飛んでいる・・・・・・ 中国から倭国への道理を計るには、まさに會稽(カイケイ)と云う地方の東治と云う 処の 東の方に倭国はある。その風俗男子皆裸にて腰に布を巻いているだけで、淫らは不可、以て木綿を頭に巻いている。 その衣は横に幅がある、但し相連ねて結束しており、縫うてはいない。婦人は髪を折り曲げて縛り頭を被っている、 衣はひとえの如く作る。 その中央を貫き頭を通して腰に巻きつける。食用の種はアサ、イネ、 衣はアサ、カイコを紡ぎ、アサ、カイコを細くより合わせ 使う、 其の地は牛馬、虎豹、羊 カササギはいない。 兵用には、ホコ、タテ、木弓 を持ち、木弓は下が短く、上は長い。 弓矢は竹で矢ジリは、鉄、或いは骨である、 倭国に南蛮人等(南方 異民族等)が住んで居るかは わからない。 倭の地冬、夏温暖にて、生野菜を食べる、 皆はだしで歩き、 父母兄弟の部屋あるが、別々の部屋に寝る。 倭人朱丹(赤色)を用いて其の身体に塗る、中国の粉を用いてするが如くなり食飲はヘン豆を用い手で食べる。 其死ありや棺あるが槨無し、土で封じて塚を作る、始め死すと10日程喪に服すこの時肉は食わず喪主号泣する。 他人歌、踊り、飲酒し おのれが葬るや、家をあげて水中に身を洗いに行く、 以て練沐の如し。其の海を渡って中国に行き、来するには、 恒に使一人 頭の髪を櫛で梳かず、 ノミ、シラミを去らせず、衣服は汚れ垢のままで肉を食わず。婦人は喪主の如く近付けず、 これを名付けて持衰(ジスイ?)と呼ぶ、 若し中国に行った者に吉、善あれば共(行った者、持衰の者)に財物(褒美) を与える。 若し中国に行った者が疾病や暴害に遇えば。たやすくこれを殺せと欲する、 理由はその持衰(ジスイ?)が不謹(やり方がまずかった) と云うのである。 この倭国には真珠、青玉が出る、其の山には高価な丹(赤色)あり、 其の木は、クス、ドングリ、クスの木、クヌギ、カシ、等 鳥が鳴き芳香の楓がある。その竹 篠(シノ)、?(カン)、桃(トウ)、支(シ) 又薑(キョウ)、 橘(ミカン)、 椒(サンショウ)、ショウガあるが、 これらの味わい方を知らない。 又 猿、黒キジ(鳥)の猟 有。その慣わし中国に行き来する時は事を挙げて伝える所あり、 即ち骨を焼いて 骨にはいるヒビの状態で吉凶を占い(骨にはいる ト のヒビがどうなっているか) 先に ト (骨の ト のヒビ)を告げる。 その言葉は令龜(レイキ?)法の如く(絶対守らねばならない)、火?(カタク?) 火で骨がさけた状態を見て兆を占う。 その寄り集まりには、座る場所等父子、男女の別無く 人性酒が好きである。 大人の敬う所を見ればただ両手を丸くし 以て膝まずき、おがむ。 其の人の壽命は或いは百才或いは80、90才、其の風習国の大人皆4~5人婦人を持つ、 貧しい人も或いは2~3人婦人を持つ。 婦人淫らでなく、嫉妬もしなく、窃盗もせず、訴訟 少ない。 其の法犯したる者、 軽い者は其の妻子を取り上げる(没収)。 重い者は其の家及び一族を取り上げる(没収)。 身分の差各々あり、お互いに仕えていれば食は足りる。 租賦を収め、邸閣(テイカク?役所が設けた倉庫、穀物倉庫)がある。 国国に市あり有無を交易している。、 大倭の官史がこれを管理している。 女王国の北側(伊都国)に、特に一大率(軍人)を置き、取り調べるので諸国これを恐れた。 常に伊都国が治める(管理する) 国中に於いて伊都国は刺史(サッシ、長官 )の如くである。 女王 使いを遣わし、京都(洛陽の都)、帯方郡、諸韓国に詣でる時、 及び大陸の(帯方)郡から倭国に使いあるや皆 津(ッ、 船着き場)に送り又出迎える。 文書や贈り物を伝送し女王に詣でる、差錯(ササク? 食い違い、謁見)は出来ない。 下呂、大人に道路で相合えば後すざりし 草に入る、言葉を伝え、事を説明する時 或い は うずくまり、或いは ひざまつき 両手を地につける。 これ恭敬(キョウケイ:礼儀正しい)と呼ぶ、対応の声 噫(アイ、ああ:・・・・和訳不明) という。(了解を ああ というのか?) 比(クラベル)に然諾(ゼンダク: うけあうの意味でしょうか?)のごとし。 前篇は ここまでと しておきます。
2010.09.18
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きょうは、天気曇り 雨 台風のせいで 時々強い風が吹くが 被害は無いようです、 気温30度C、湿度55%で 相変わらず 蒸し暑い。魏志倭人伝を読んで 耶馬台国の場所を推定してみたいと 思います。各国の場所(私の知っているのは末蘆国、伊都国、奴国そのほかは知りません)魏志倭人伝を読んで行くと、邪馬台国は九州説が本当の様に私は思います。 末盧国が四千余戸で唐津平野、 伊都国が千余戸で 糸島平野、如国が2萬余戸で福岡平野とすると。 七萬余戸の人口を養える平野は九州では佐賀平野、筑後平野辺りと推定されます。 従いまして 私は有明海の沿岸の近くに女王の住む邪馬台国が あったものと 推定します。 又 邪馬台国の南側が投馬国と推定されます。 これらの国に至るには、陸上は直線で繋がっているものと 思いますが、 水行は、伊都国が 起点となって いるものと思います。(伊都国を出て各国を巡り最後に邪馬台国に着くような道里ではないと思います) 投馬国 水行20日、 邪馬台国 水行10日とは、 伊都国から 九州を左曲がりに平戸、 大村湾を通り有明海に抜けたものと 思います、当時(1800年前)は大村湾と有明海が繋がっていたと思います。 それより 下が 投馬国であろうと 推定します。 陸行 1ケ月は伊都国より 左に行き、末盧国を通り、相知、多久、佐賀、柳川、方面に抜けたものと思います。 又右回りは、伊都国から如国を通り鳥栖、久留米、八女、筑後方面へ抜けたものと 思います。 私の 独断と偏見で あり 歴史的価値は ありません 次回時間あれば 後漢書に挑戦してみたいと 思います。 以上 有難う御座いました。
2010.09.07
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和訳 その14 ここから其四年倭王 復 遣使 大夫伊聲耆 掖邪拘等八人 上獻 生ロ 倭錦 絳セイ? その四年倭王又 魏国朝廷に長官伊聲耆 掖邪拘等八人遣わし、人夫、倭錦、 絳 セイ?、綿衣、帛布(ハクフ?:絹の布)、丹木、短弓、弓矢を献上する。 魏の朝廷より掖邪狗等 率善中郎将の印を授かりお礼を伝える。 其の六年 帯方郡に詔し倭国 灘升米に黄幢(コウトウ?:黄色の旗?)を賜し、 郡に持 たせて与えた。 其の八年 帯方郡の太守王?(オウキ)に倭国の使いが来た。 女王卑弥呼は與狗奴國の男王 卑弥弓呼と素(もと)より中が悪い、 倭国 載斯鳥越等を郡(帯方)に詣でさせ、相攻撃するを訴えた。 塞曹掾史張政等を倭国に遣わし 因って詔書、黄幢を与え、灘升米に拝仮し、檄 (ゲキ)を為して争いしない様説得する。 卑弥呼以て死す、大きな塚を作り、径百余歩、徇葬者奴婢百余人、 更に男を立て王 としたが、 国中不服、 更に殺し合い 当時千余人殺された。 又卑弥呼の宗女(一族)壹與(イヨ?) 年十三才を王にし国中やっと定まる。 政等 以て檄を壹與に とばす。(厭事を云う?) 女王 壹與 倭国の長官 率善中 郎将掖邪狗等二十人を帯方郡に遣い、 政等送り還す。 因って倭国の長官が帯方郡の長官(臺)に詣り 男女人夫三十人献上し、白珠五千孔、 青大句珠二枚、異文雑錦四十反貢ぐ。ここまでで 最後です、 和文の内容がいまいち 不明な処があります、時間あれば再見直しし、訂正予定、 邪馬台国がどこか これでは解りませんので、次回は 私の推理を 述 べてみます。 倭国と中国の歴史は 紀元 57年 倭奴国が 後漢に貢ぎ、漢倭奴国印を受ける。 107年 倭奴国王、 後漢に使節を 送る。 238年 邪馬台国 女王 卑弥呼が 魏に使者を 送る。 266年 倭の女王 壹與(イト?)が 晋に使者を 送る。 270年 古墳文化 前期 魏志倭人伝はこの 200年程度の交流の内容が約2000文字に圧縮されて記載 されている、ので 写し間違い(魏の朝廷での)あり・・・倭人伝に誤り等と 記載されている。 266年 倭の女王 壹與の時代の 記載が 忽然と消えているのが おかし い。 以上
2010.09.04
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和訳 その13ここから 辞書、漢和辞典で 和訳出来ない物は 其のままと使用しています。今以絳地交龍錦五匹、絳地?粟?十張 いま、絳地交龍錦五匹(コウチ コウリュウ キン?)五匹(10反)、絳地?絳?(コウチ スウショク ケイ :赤い毛織物?)十張、 :赤い毛織物?)十張、?絳(センコウ?)五十匹(100反)、紺青(コンジョウ:藍色の絹布?)五十匹(100反) を以て汝が献ずる所に貢ぐと答える 又特に汝に紺地句文錦三匹(6反)、細班華?五張 白絹五十匹(100反)、 金 八両、 五尺刀 二口、 銅鏡百枚、 真珠、エン丹(エンタン:鉛の鉱物?)各五十斤を賜い、 皆装封し 灘升米、牛利に持たせる。 還り至れば録受し, ことごとく 汝国中に示し、以て人を使い 国家(魏の国) 汝に哀れむを知らせるべし。 故に鄭重に汝に好物を賜うなり. 正始元年帯方郡の太守弓遵(キュウジュン?)、建中校尉梯儁等遣わし、詔書:、印綬奉じ倭国に詣り、 倭王に拝仮(魏の朝廷の変わりに非公式に拝み?)言葉をもらい、金の絹、錦の毛織物、刀、鏡、ハン物を賜う。 倭王 使者に因り上表し詔恩感謝を答謝する。 其の4年、倭王又 使 長官伊聲老掖邪拘等 八人遣わし、 人夫、倭錦、絳青・・・・・・・・・・・ ここまで とします。備考五尺刀 二口の 一つが 平原遺跡で発見されたのではと 考えています???????。 埋葬者も女性です、何か 不思議な感じがします。 以上
2010.09.03
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きょうは 天気晴れ 気温32度C 湿度34%、暑いの一言であります、久しぶりに お墓の掃除に 1時間程 行きました。個人墓地でありますので、草むしり、花を 植えていますので、手入れをしたり 色々です。和訳 その11 1行目の4文字目~最後の下から10文字目まで 和訳天子(君主)に詣で朝廷に献上品を求める。(この天子は帯方郡の天子?) 太守 劉夏、官史を遣わし、将を送り京都(ケイト:魏の朝廷)を詣でさす。 その年12月詔書(魏の朝廷の遺志を明示した文書)を倭国女王に報告して 曰く 親魏倭王 卑弥呼と制詔(定める?)。帯方郡の太守劉夏 官史を遣わし 女王の長官(名を難升米と云う)、次使(副官の名を都市 、牛利と云う)を送り、女王に献ずる所、男の人夫 四人、女の人夫 六人、布二匹二丈、 賜るを以て至る。 備考 魏の皇帝からの返事があるまで、女王の使いは、帯方郡で 何か月か、待っていたと 思われる。 女王の所遥かに遠い所にあり、そこで使いを遣わし貢物を献上 これ女王の忠孝なり。 我 甚く汝を哀れみ、今汝を以て親魏倭王となす。 金印をかし、紫綬装封し、帯方郡の太守に付けて(持たせて)假授(ケジュ:与える)。 汝 それで人々をいたわり、勉めて尽くすべし。 汝の来使 灘升米、 牛利 遠きをわたり、道路で功労する、 今 難升米を以て率善 中郎将(兵を統率する者の称号)、 牛利を率善 校尉 (将軍に次ぐ武官)と為し、 銀印、青綬与える。 引見(インケン:導き入れて会い)、労いを賜り、 遣いを還す。 以上 ここまでとしておきます。
2010.09.01
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きょうは天気晴れ、夕方雨、 気温30度C、湿度60%、特になにもしていませんが、倭人伝の和訳が 解読出来なくなりつつ、あります。 最後まで 何とかして 邪馬台国はどこに あったか推理したいと 思っています。和訳その11景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡・・・・ここまで其の国 本(もと)又男子を以て王の為、住むこと70~80年 倭国 乱れ戦争状態が何年も続いた。 のち共に一女子を立てて王とした、名を卑弥呼と云う。 鬼神を信奉するシャーマン(占い師)でよく衆生をまどはす。 年己長大(ネンコ、チョウダイ?:卑弥呼背が高く太い?)で夫、婿無く 男の弟がいる。 自ら国を治め助け、王になって以来見る者少なく、下女千人を以て 自らつき従わせる。 ただ男子一人あり、飲食をだし、言葉を伝え居所に出入りする。 宮室は物見やぐら、城柵、厳しく設けられ、常に人がおり、兵を持って守衛する。女王国より東に海を渡ること千余里(約80km)国あり、皆倭種又朱儒国 (シュジュ国:背丈が極めて低い国)あり、その南に身長 3~4尺の人住んでいる。 (其の国の南に背丈3~4尺の人が住んでいる朱儒国がある)と訳すのでしょうか? 女王国を去る四千余里(約320km?)又裸国、黒歯国あり、その東南に船で1年行くと人 の住んでいる所に至る。 倭の地参問(調査)するに海の中州、島の上に住み、或るはつながっていなかったり、 つながっているので巡る事は出来る、周り五千余里(約400km?)である。 景初二年六月 倭の女王 長官(名を難升米と云う)等を遣わし、大陸の郡に詣でさせる。 備考 難升米は 長官の名前。 この倭人伝は 説明文の途中 途中が省略されている様なので、このまま読んでも 意味が通じなくなる様です。 思うに、 約100年余りの 膨大な記録から(大陸と倭国の)選びぬいた 約2000文字程度で構成されているようなので、圧縮された 文章である様に思います。(枝、葉が抜いて幹だけで表現?) 倭人伝の文書が あっち、 こっち逆?になつている。 女王国を九州とすると、朱儒国は四国あたり、次の裸国、黒歯国は和歌山県あたり その下の表現は周囲400km程度は四国をさしているのでは ないでしょうか? 大陸の役人が 方位(東西南北)を知らない事はないと 思いますので、九州説が 正しいように 思います。 南に水行20日、10日を近畿説と 結びつけるのは可笑しいと 思いますが? 太陽は東から 上がりますので、これだと南から 上がる事になります。 以上 独り言。
2010.08.30
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きょうは 天気晴れ 気温 32度C 湿度38% 白菜を撒くため 畑に畝を作りに行きましたが、 暑くて出来ず、 ポットに種を撒き 移植することにした。和訳 その10其の人の壽命は或いは百才或いは80、90才、其の風習国の大人皆4~5人婦人を持つ、 貧しい人も或いは2~3人婦人を持つ。 婦人淫らでなく、嫉妬もしなく、窃盗もせず、訴訟少ない。 其の法犯したる者、 軽い者は其の妻子を取り上げる(没収)。 重い者は其の家及び一族を取り上げる(没収)。 身分の差各々あり、お互いに仕えていれば食は足りる。 租賦を収め、邸閣(テイカク?役所が設けた倉庫、穀物倉庫)がある。 国国に市あり有無を交易している。、 大倭の官史がこれを管理している。 女王国の北側は特に一大率(軍人)を置き、取り調べるので諸国これを恐れた。 常に伊都国が治める(管理する) 国中に於いて伊都国は刺史(サッシ?長官? )の如くである。 王 使いを遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣でる。 及び大陸の郡から倭国に使いあるや皆 津(ッ、 船着き場)に出迎える。 文書や贈り物を伝送し女王に詣でる、差錯(ササク? 女王と話す事?)は出来ない。 下呂、大人に道路で相合えば後すざりし 草に入る、言葉を伝え、事を説明する時 或いは うずくまり、或いは ひざまつき 両手を地につける。 これ恭敬(キョウケイ:礼儀正しい)と呼ぶ、対応の声 噫(アイ、ああ:・・・・和訳不明)という。(了解を ああ というのか?) 比(クラベル)に然諾(ゼンダク: うけあうの意味でしょうか?)のごとし。 ここまでとしておきます。
2010.08.29
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きょうは 天気快晴 気温32度C、湿度40% 午前中畑へ 秋野菜の種を撒く 用意に出掛けたが 1時間ばかりで 帰ってきた、 余りにも 暑い。和訳その9和訳 (右から7行目 上から6文字目 ~最後の下から2文字目まで)その慣わし中国に行き来する時は事を挙げて伝える所あり、 即ち骨を焼いて 骨にはいるヒビの状態で吉凶を占い(骨にはいる ト のヒビがどうなっているか) 先に ト (骨の ト のヒビ)を告げる。 その言葉は令龜(レイキ?)法の如く(絶対守らねばならない)、火?(カタク?) 火で骨がさけた状態を見て兆を占う。その寄り集まりには、座る場所等父子、男女の別無く 人性酒が好きである。大人の敬う所を見ればただ両手を丸くし 以て膝まずき、おがむ。 ここまでと しておきます。
2010.08.28
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きょうは、天気曇り 気温30度C 湿度53% 午前中 畑の草刈りに行った、約350平方m位 休耕田にしているので、この草刈りが大変であります、2週間に1回半分刈り残りを2週間後に刈ります、1回で刈ると1時間以上かかるので こっちがまいります。和訳 その8不近婦人如喪人 名之為持衰 若行者吉善共顧 其生口財物 若有疾病遭暴害 婦人は喪主の如く近付けず、 これを名付けて持衰(ジスイ?)と呼ぶ、 若し中国に行った者に吉、善あれば共(行った者、持衰の者)に財物(褒美) を与える。 生口: 人夫 若し中国に行った者が疾病や暴害に遇えば。便欲殺之 謂其持衰不謹 出真珠青玉 其山有丹 其木有 ?杼豫樟?櫪投橿鳥號楓香 たやすくこれを殺せと欲する、 理由はその持衰(ジスイ?)が不謹 (やり方がまずかった)と云うのである。 この倭国には真珠、青玉が出る、其の山には高価な丹(赤色)あり、 其の木は、クス、ドングリ、クスの木、クヌギ、カシ、等 鳥が鳴き 芳香の楓がある。其竹篠?桃支 有薑橘椒?荷 不知以為滋味 有?猴黒雉 その竹 篠(シノ)、?(カン)、桃(トウ)、支(シ) 又薑(キョウ)、 橘(ミカン)、 椒(サンショウ)、ショウガあるが、 これらの味わい方を知らない。 又 猿、黒キジ(鳥)の猟 有。 今日は ここまでとしておきます 次回 ここから 其俗舉事行来有所伝為輒灼骨而卜 以占吉凶先告所卜 其辭如令龜・・・・・
2010.08.25
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きょうは、天気曇り 気温31度C、湿度40%、 午前中1時間程 畑のニラの草取りをした、 やはり熱い ペットボトルに水は持って 行っているが 直ぐ無くなります。和訳その7倭地温暖冬夏食生菜 皆徒跣有屋室父母兄弟 臥息異處 倭の地冬、夏温暖にて、生野菜を食べる、 皆はだしで歩き、 父母兄弟の部屋あるが、別々の部屋に寝る。 跣:はだし 臥:ガ、ふす 息:ソク、ショク、いき以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飮用邊豆 手食 倭人朱丹(赤色)を用いて其の身体に塗る、中国の粉を用いてするが如くなり 食飲はヘン豆を用い手で食べる。 邊:ヘン:ベ:あたり 豆:トウ:ズ:まめ其死有棺無槨 封土作塚 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 其死ありや棺あるが槨無し、土で封じて塚を作る、始め死すと10日程喪に服す この時肉は食わず喪主号泣する。 槨:カク(棺2つあり 内側を棺、外側を槨という) 哭:コク:なく 泣:キュウ、なく他人就歌舞飮酒 已葬舉家諒水中澡浴 以如練沐 他人歌、踊り、飲酒し おのれが葬るや、家をあげて水中に身を洗いに行く、 以て練沐の如し。其行来渡海詣中國 恒使一人 不梳頭不去?蝨 衣服垢汚不食肉 其の海を渡って中国に行き、来するには、 恒に使一人 頭の髪を櫛で梳かず、 ノミ、シラミを去らせず、衣服は汚れ垢のままで肉を食わず。 今日は ここまでとしておきます。辞書に漢字無く難しくなりました。 次回 ここから不近婦人如喪人 名之為持衰 若行者吉善共顧 其生口財物 若有疾病遭暴害 衰:スイ、シ、おとろ 生口:人 顧:コ、ク、かえり 為::~と呼ぶ、いう これを持衰と呼ぶ 便欲殺之謂 其持衰不謹 出真珠青玉 其山有丹 其木有?杼豫樟*櫪投橿鳥號楓香
2010.08.24
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きょうは、天気曇り 気温30度C 湿度42% 夜になると だいぶん 涼しくなってきた、 波止場に夕涼みがてら 釣りを見に行ったが、 アジは釣れてなく 殆ど コノシロ ばかり 釣れていた。和訳 その7種禾稻 紵麻蠶桑緝績 出細紵?緝 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛楯木弓 木弓短下 長上 食用の種はアサ、イネ、 衣はアサ、カイコを紡ぎ、アサ、カイコを細くより合わせ 使う、 其の地は牛馬、虎豹、羊 カササギはいない。 兵用には、ホコ、タテ、木弓 を持ち、木弓は下が短く、上は長い。竹箭或鐡鏃或骨鏃 所有無與?耳朱崖同 弓矢は竹で矢ジリは、鉄、或いは骨である、 有無が定かでない物は?耳(タンジ?) 朱崖(シュガイ?)である。 注) ?耳朱崖 どんな物か辞書では 解りませんでした、検討してみます。 今日は ここまでと しておきます。倭地温暖冬夏食生菜 皆徒跣有屋室父母兄弟 臥息異處其死有棺無槨 封土作塚 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣他人就歌舞飮酒 已葬舉家諒水中澡浴 以如練沐
2010.08.23
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きょうは、天気快晴、気温32度C 湿度41% 1時間程畑の草取り、とにかく熱い、然し専業農家の方は、畑で仕事をしてある、本当に感心します。和訳に挑戦しますが、段々難しくなってきました、私は 廣辭林を参考に訳していますが、辞書に乗っていない文字が出てきて、苦労してますが、出来るとこまでトライしてみます。和訳その6其風俗不淫 男子皆露? 以木緜招頭 其衣横幅但結束相連 略無縫 その風俗男子皆質素にて淫らは不可、 以て木綿を頭にのせている(巻いている?) その衣は横に幅がある、但し相連ねて結束しており、縫うてはいない。婦人被髪屈? 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之 婦人は髪を折り曲げて頭を被っている、 衣はひとえの如く作る。 その中央を貫き頭を通して腰に巻きつける。ここまでと、しておきます。
2010.08.22
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和訳その5ここから男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中國 皆自?大夫 夏后少康之子 封於會稽斷髪文身 以避蛟龍之害 ここまで 男子の身の丈大小無く、皆顔、身体に入れ墨をしている、古来より 邪馬台國 から其の使いが中國に詣でるや、 皆自分は職の長官と称す。 (中国の)皇后の少康の子が 會稽(カイケイ)と云う地方に太子として赴任する と、 倭人が断髪、身体に入れ墨して 赴任した太子が時を得て大業を成すよう。ここから今倭水人好?没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸国文身各異 或左、或右、或大、或小 尊卑有差 計其道理 當在會稽東治之東 ここまで 今 倭の水人好んで魚、蛤を捕るためにもぐる、 入れ墨は又以て魚や水鳥(水 に潜る鳥、カモメ、等)が嫌う(厭がる)。 後にようやく 以て飾りのようになる、 諸国の入れ墨は各々異なっている、 左や右、大きいのや、 小さいのやで 身分の差がある様だ。 中国から倭国への道理を計るには、まさに會稽(カイケイ)と云う地方の東治と云う 処の 東の方にある。・・・・倭国の場所を詳しく述べていない、従いまして 帯方郡から 来る方法と、會稽の東治から船で来る 2つの方法が あった ものと 考えられます。 ・・・・ 以上 ここまでとします。
2010.08.19
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きょうは、天気はれ、気温31度C 湿度51% 昨日は 深ネギに肥料(油カス)を与え、土寄せを 1時間程 実施した。今日も又 解読に挑戦してみます、素人ですので 多少の間違いは ご容赦お願いします。和訳その4ここから次有期馬國、次有巳百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有鳥奴國、次有奴國、此女王境界所盡。 ここまで 次に期馬國 有り、から・・・・・奴國 有までの 21ヶ国が 卑弥呼の統治して いた国である。 従いまして、対馬國、壱岐國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、 投馬國、邪馬台國を 加えると全部で 29ケ国が 卑弥呼が統治していた国と考えられる。ここから其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不属 女王 自郡至女王國 萬二千餘里。ここまで 其(邪馬台國)の南に狗奴國がある、 男子が王の為、 其の官狗古智卑狗あり、 女王国には 属していない。 大陸の郡(帯方郡?)より約12、000里余り(約 960km程度)これを逆算 すると韓国より5000余里(約 400km程度)とすると、邪馬台國は宮崎県の 延岡、日向辺りではないでしょうか???? 水行20とか陸行1ヶ月の単位は行きながら各国の集落(豪族)に挨拶しながら行っ ものと推定されるので 水行は実際には記載の半分以下の日程、陸行くも同じく半分 以下の日程であった ものと推定されます。 邪馬台國のさらに 南にも国があるので 今の鹿児島島県辺りになるのでしょう。 九州の中央から西側、日田、山鹿、佐賀平野、筑後平野、佐賀、長崎等の国は 21 国の中に記載されているのか 当方では今のところ 不明。 この辺まで 読んでくると 私は以上のように 感じています。 今日は ここまで 以上
2010.08.19
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きょうは、天気曇り、気温30度C、 湿度43% 盆の用意をしながら和訳している合間にお参りに来られる、一段落して 私も16軒 程お参りしてきた。和訳その3東南・・・・・・・・二萬余戸 ここまで 伊都国から東南に100里(約8km)歩くと奴国に至る、官を?馬觚(ジバ コク?)副を卑奴母離(ヒナボリ?)といい、2万余戸あり。東行・・・・・・・・千餘家 ここまで 奴国から東に100里(約8km)歩くと不彌国に至る、官を多模、副を卑 奴母離という、1000余りの家がある。南至・・・・・・・・五萬餘戸 ここまで 不彌国から南に水行(船で行くと)20日で投馬国に至る、官を彌彌、 副を 彌彌那利といい、五萬餘戸ある。南至・・・・・・・・七萬餘戸 ここまで 投馬国から南に行くと女王の都とする所の邪馬壹国(邪馬台国)に至る、船で 10日、 歩いて 1ケ月かかる、 官あり、伊支馬、 次に彌馬升 次に彌 馬獲支 次に 奴佳? と云う、 七萬餘戸あり。自女国・・・・・・・對蘇國 ここまで 女王国から以北はその戸数、道筋、距離 略載を得た、その他の色々の国も遠 絶にて詳しく述べる事は出来ない、次に斯馬國あり、巳百支國、伊邪國、都 支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國と九つの国が記入してある ここで 終わっているので、 この次の文を 図書館で調べて 解読予定。 備考 和訳していると、方向が全然合わない、 末盧国より 東南に伊都国と記入さ いるが、実際には 北東であり、文に地図を合わせるには、末盧国を中心に 九州(日本全体)を90度 右に回さないと合ってこない様であるすると 北九州が今の大分 別府辺りになるようで あります。 これを正解とし 南に行くと邪馬壹国(邪馬台国)は近畿(大阪)辺りになる 様です。 伊都国から奴国まで約8kmは近すぎる、奴国から東に不彌国はおかしい、北 北東になり、距離も8kmは少ない等等???。 又現在の日本地図をそのままにして 文の距離、方位がアバウト(about)として 推定すると、不彌国の行橋付近を船で出て各小国を巡りながら南に20日程進 むと 投馬国に至るは今の宮崎の西都から日南海岸一帯をさしているのでは、 無いでしょうか????? 従いまして 邪馬台国は未だ南になるので鹿児島の都井岬から都城を経由して 出水 位に位地していたのではないでしょうか??? 1800年前の 地図で検証の必要がある様です。 以上 素人 解読人 有難うございました。
2010.08.13
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和訳その2又南・・・・・・・・・・300百里 ここまで 又南へ一海千余里(約80km)渡ると名を瀚海(かんかい)いう一大国(壱岐の島?) に至る、 官を 亦日卑狗 副を 日卑奴母離といい、 面積300里(24km平方) 多竹・・・・・・・・・市糴 ここまで 竹林、 林多く家 3000程あり、田畑耕作地あるも、 食不足よって南北に出掛けて 交流する。(市糴:シ テキ を交流すると訳した又は 商いと訳すべきか?不明)又渡・・・・・・・・・前人 ここまで 又一海 1000余里(80km)渡ると 末盧国で 4000余戸有、 浜、山海あり 草木盛んに茂り 前を行く人は見えない。好・・・・・・・・・・之 ここまで 好んで魚を捕獲し(鰒:アワビ、フク)水の深い所、浅い所無く皆もぐり取りに行く。東南・・・・・・・・・千余戸 ここまで 末盧国から東南に歩いて500里(40km)進むと伊都国に至る、官を爾支(ジシ?) 副を泄謨觚・柄渠觚といい、 1000余戸あり。 追伸・・・末盧国を今の久里双水古墳近くとすると、今の伊都国(三雲) は 北東に当たる気がする。世王・・・・・・・・・所駐 ここまで 代代の王は居るものの、皆 女王国に統属されている(邪馬台国の女王卑弥呼が統属して いたのか? であれば重要な国であったことが想像できる)、大陸からの役人の往来があ り、駐在所があった。(役人が駐在し、通訳、書記、道案内人等と思われる) 追伸・・・郡の役人が諸国を訪問し大陸に帰って行く時ここで諸国の状況 が日誌に記録されたものと思われる。今日は ここまでと しておきます。
2010.08.12
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