仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2023.09.08
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カテゴリ: 仙台


榴岡に残る仙台藩の大飢饉と供養の歴史。これまで何度も記事の基にしている木村孝文さんの『宮城野の散歩手帖』をもとに、探訪してきた。はじめに画像を紹介。木村さんの御著作の内容は後に記しました。

まず、金勝寺だ。区画整理事業で昭和56年にこの場所(仙台市立榴岡病院の跡地)に移ったが、歴史は古く、永正元年(1504)南町に建立、政宗の時代に東十番丁に移転したという(2番目の画像の記念碑の文から)。
サンプラザも建てられたこの地は、昭和55年まで、伝染病患者を収容する仙台市立榴岡病院だった。
(参考記事: 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院 (10年9月3日)、 宮城野の今昔 (07年5月30日))
明治28年に仙台避病院として孝勝寺裏の伊達家の土地につくったという。孝勝寺は今でも大きなお寺で広い境内に五重塔がある。その東側(今でいうと宮沢根白石線の東側)は、明治にはまだ、かつてお殿様の狩猟や野遊びのフィールドだった宮城野原が広がっていたのだろうか。

(サンプラザのすぐ南に隣接している。)


(移転の経緯を伝える記念碑)

記念碑
金勝寺は 永正元年(1504年)5月仙台連坊小路瑞雲寺第六世中岳泉波大和尚が開山となり 仙台南町に建立し 其後仙台城下町割(伊達政宗代)の際仙台東十番丁(天神下)の地を賜り堂宇を移転したものである 此度仙台駅東第一土地区画整理事業により現在地に移転の指定があり早速檀信徒一丸となり多額の浄財を寄進され 昭和54年10月着工し 工期1年8ヶ月を圣(ママ)て本堂 庫裡 山門 鎮守堂及び墓地等の移転新築落慶をしたものである
昭和56年5月吉日
当山23世住職 法貫宗勝代

(金毘羅堂。その左手(東)に宝篋印塔。そしてその前に、丙申殍氓叢塚之碑と刻まれた飢饉供養碑がある。)





次に、宮城野通を挟んで、孝勝寺のある区画の反対側(北側)の位置に、徳泉寺がある。


堂宇を抜けて寺西側の墓地エリアに出ると、建物を背にして西に面する形で、2基の飢饉供養等と解説板があった。(木村さんの著作では墓地北側に並立とある。)



お寺にお邪魔して読ませて頂いたから、全文を以下に記します。
丙申殍氓叢塚之碑(へいしんふぼうそうぼうのひ)
天保7丙申年(1836)は仙台藩最大の飢饉で領内の死者は30万に達した。食を求めて仙台城下に殺到する流民のため藩では城下数か所に粥小屋を設置し粥を施してこれを救済した。榴岡天神下には徳泉寺、金勝寺の寺域に設けられたがこの二か所だけで2千7百人が死亡したという。死者は小屋の近くに施穴を掘って投葬しその上に立てたのがこの碑である。しかしその場所がどこであったか今は知る由もない。殍は餓死者、氓は流民、叢塚は散らばっているものを一か所に集めることである。碑は徳泉寺、金勝寺ともに二基ずつ残っているが、当時飢饉がいかに悲惨な事件であったかを物語る貴重な石造文化財である。
徳泉寺


次は、願行寺である。正門は、徳泉寺と同様に、宮沢根白石線に面している。


木村さんの本では、この寺にも飢饉供養碑があるという。良く調べなかったがこれだろうか。


願行寺と徳泉寺の間には、地下化する前の仙石線が走っていた。




飢饉の供養碑にかかわる3つの寺をめぐったが、ついでに一つ。サンプラザの区画のすぐ西が、政岡公園(榴岡五丁目公園)。三沢初子の墓などがあるが、看板によるとここも孝勝寺の領分のようだ。



■出典 木村孝文『宮城野の散歩手帖』(宝文堂、1999年)pp.32-35
6 金勝寺、徳泉寺の飢饉供養碑(榴岡五丁目9-12、榴岡三丁目10-3)

 仙台サンプラザの南隣りに松風山 金勝寺 (きんしょうじ)がある。もと東十番丁、仙石線南沿いにあったのを昭和53年 榴岡病院 跡地に移転新築した寺である。山門の脇に”仙台第十三番観音”の石柱が建っており、本堂前左側に金毘羅堂が建立されている。この寺は曹洞宗で、連坊二丁目の 瑞雲寺 の末寺で、永正元年(1504)中岳泉波和尚が開山したと伝えられている。金毘羅堂の東側に北面して嘉永5年(1852)建立の 宝篋印塔 (ほうきょういんとう)がある。この塔の前に「丙申殍氓叢塚(へいしんひょうぼうくさむらづか)之碑」と刻まれた 飢饉供養碑 が2基建っている。丙申は天保7年(1836)、殍(ひょう、又はフ)は餓死、氓(ぼう)は流民のことである。叢(ソウ又はクサムラ)は一ケ所に集めることで、餓死した流民を一ヶ所に埋葬したところに叢塚を建てたのである。天保7年(1836)は天候不順と風水害により凶作となり、仙台藩最大の飢饉の年で損害高は91万5784石、領内の死者は30万に達したという。(「宮城県史」二、近世史所収)

 藩では食を求めて仙台城下に殺到する流民の救済に努め、天神下では金勝寺・徳泉寺に粥小屋を設けたが、両寺だけでも死者は2千7百人を越えたという。これらの供養のため建てた碑である。碑の高さは1.52m、安山岩で1基は尖頭方柱で、側面には 南山古梁 の撰文(「宮城県史」17巻221頁)が刻まれている。碑文にある総管役の佐藤季明は助五郎と称し、大町に居住した太物商で相当栄えた家柄で、針生林蔵の協力も得て、自力も加えて流民の粥を施すなど窮民救済に当たったという。

徳泉寺 は浄土真宗大谷派本願寺末で勝光山と号し、貞享3年(1686)関口宗因開山の寺である。ここにも金勝寺と同型同文字の飢饉供養碑がある。門の入口と西裏無縁塚の上に建っていたとのことであるが、今は墓地北側に2基並立してある。
 なお徳泉寺の仙石線をはさんだ北隣りには浄土宗の 願行寺 (がんきょうじ)がある。ここにも飢饉供養碑が天保のもの2,天明のもの1と計3基ある。
 願行寺は東九番丁の常念寺、宮町五丁目の清浄光院(しょうじょうこういん)(万日堂)と共に、仙台の三回向寺の一つといわれ、三年交代で大回向を修行した寺である。

<注>1 宝篋印塔(ほうきょういんとう)
 過去現在未来にわたる諸仏の全身舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めた供養塔で、塔身の四面に金剛界四仏(阿閦(あしゅく)如来・宝生(ほうしょう)如来・阿弥陀如来・不空成就如来)の種子(しゅじ)(梵字)を刻んでいる。
<注>2 南山古梁(なんざんこりょう)
 江戸時代後期の代表的な禅僧で、寛政5年(1793)七代藩主重村に迎えられて瑞鳳寺14世を継いだ。詩書に優れ名声も高く、南山筆の石碑が領内に多く見られる。

<コラム>仙台藩の三大飢饉
 江戸時代半ばすぎから、仙台領内では冷害、風水害によって凶作が続き、減収によって「郡村土地ともに廃れる」状態になった。三大飢饉として、宝暦5年(1755)、天明3年、5年(1783,1785)、天保7年、9年(1836,1838)があげられる。宝暦、天明は50万石を超す減石で、天保7年は91万5千石を超す大凶作となった。天明の飢饉による餓死者は30万人を数え、城下では騒動まで起こっている。

■関連する過去の記事( 仙台市立榴岡病院、地域と感染症など
感染症と人類の歴史 (2023年08月15日)
水の森公園の叢塚と供養塔 (2023年08月03日)
仙台とコレラ流行の歴史 (2022年9月19日)
芋峠 (2021年8月9日)
芋峠(仙台市)と感染症 (2020年11月28日)
鈴木重雄と唐桑町 (2016年6月19日)
宮城の民間医療伝承 (2011年9月4日)
明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院 (10年9月3日)

■関連する過去の記事( 疫病や感染症に関する民俗
世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など) (2022年12月14日)
疫病と向き合う東北の民俗伝承 (2022年6月8日)
民俗信仰と東北 (2022年6月4日)
鬼剣舞と念仏踊りを考える (2022年6月2日)
魔よけと東北を考える (08年2月10日)





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最終更新日  2024.02.18 13:34:20
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