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A氏:この前のブログの「『8.5.1 継続的改善』と『5.6 マネジメントレビュー』のダブりの原因」で、ISO9001は、2000年版のときに大改訂をして、規格の構成をPDCA順にしたと言っていたね。 しかし、正確にはPDCA順になっていないということだったね。 2000年版以前はどうだったの?私:これが面白いことに、大体、PDCA順になっているんだね。 初版の87年版と次の94年版とは構成はほとんど同じで、20項目の羅列だね。 しかし、単なる羅列でなく、これらの項目の順序が大体、PDCA順になっているね。 トップに「品質方針の設定」の要求がきている。A氏:2000年版のほうでは、トップが、「文書管理」と「記録の管理」だったね。私:94年版は、顧客よりの受注、設計管理、文書管理、購買、工程管理、検査・試験、測定機器の管理、不適合品の管理、是正処置及び予防処置(予防処置は94年版で追加)、記録の管理、内部監査などと大体、仕事の流れに沿っているね。 「記録の管理」は20項目のうち、16番目で後のほうだね。 「文書管理」だって、製造業では圧倒的に多い文書は図面や仕様書だし、これらは品質上、厳しい管理が必要だから、94年版のように「文書管理」は設計の後にくるのが自然の流れだね。A氏:PDCA順に忠実なISO14001ではどうなんだね。私:トップに「環境方針の設定」があり、当然、「文書管理」は規格の真ん中あたりで、「記録の管理」はずっと後のほうだね。 ところで、この87年版、94年版で「設計管理」となっている項目が、2000年版では「設計・開発」となっていることに注目すべきだね。 この場合、「設計」と「設計・開発」は同じだね。A氏:とすると、違いは「管理」が削除されたということかね。私:ところが、内容的に見ると、2000年版の「7.3 設計・開発」の「設計計画」「設計インプット」「設計アウトプット」「設計レビュー」「設計検証」「妥当性確認」「変更管理」の7項目は、94年版とピッタリ同じ項目だね。 規格で要求している内容もほとんど同じだね。A氏:「管理」が消えると何が問題なの?私:「管理」があると、設計者の活動に対して管理する内容になるね。 設計者は管理されることになる。 マネジメントするマネージャーの活動要求となるだね。 「管理」が消えると、管理される設計者自身の活動要求だともとれる。A氏:なるほど。 本来、「管理」する側の要求事項が、設計者の自主的な活動になってしまうということか。 「管理」がつくと、マネジメント側のやるべきことだというのは明確だね。 その点、「管理」が消えると役割があいまいになるね。私:だから、94年版の「設計管理」では、最初の「一般」に「製品の設計を『管理』し、検証する手順を文書に定め、維持すること」とある。 設計者の活動を管理し、検証する手順書を書いて、それにしたがって、チャンと「管理」しなさいとある。 そして、管理ポイントがさっきのあげた「設計計画」「設計インプット」「設計アウトプット」「設計レビュー」「設計検証」「妥当性確認」「変更管理」の7ポイントだね。 設計部門の管理者は、部下の活動を最低、この7ポイントについて「管理」しなくてはならないんだね。 ところが、2000年版では「管理」という言葉は「設計計画」と「変更管理」だけにしか出てこない。A氏:そういえば、俺のいた会社では、設計部長は、必ず、部下の図面を「検図」をしていたね。私:それがISO9001のいう「設計検証」にあたるね。A氏:「管理」というのはある意味、「性悪説」だね。 設計者の行動がチャンとルールに沿ってやっているかをチェックするんだからね。 放任しないわけだ。 7つのチェックを必ずやって、管理者として部下が正確な設計を達成しているかを確認するわけだね。私:「性悪説」の議論は別にして、この重要な「管理」を削除したのは、マネジメントシステム規格であるISO9001のマネジメントのメリハリを明確にするために残念なことだね。
2011.02.28
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私:昨日も家にいるのはもったいないくらいの晴天だったね。 一昨日に続いて、自然公園のウオーキングをしたよ。 気温の上がる2時過ぎに家を出た。 一昨日は、気温が20度を越え、4月末の気温だったが、予報では、昨日は、10度ほど急激にダウンするということだったので、ジャンバーを着込んで厚着してでかけたよ。 しかし、それほど寒くなかったね。 約2時間で、12000歩。 汗が出たね。A氏:風はなかったね。私:一昨日は春一番の強風だったが、昨日はそよ風程度だった。 しかし、一昨日と違い、ひんやりする冷たい風だったね。 土曜なので、ウイークデーより、人が多いように感じた。 もっともまだ、冬だから、子ども連れの家族の姿は少なかったね。A氏:今夜は雨になりそうだね。 湿度は高いね。私:今日は、予報では最高気温16度だが、来週の気温は10度前後の予想だ。 また、寒くなりそうだ。 本格的な春はまだね。
2011.02.27
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私:昨日は、天気予報では、午後は15度を越えるということだったんで、夕方、近所の自然公園にウオーキングに行くとき、ジャンバーなしで出かけたよ。 しかし、風が強くて、家を出るなり野球帽をとばされたよ。 あわてて、締めをきつくした。A氏:昨日の夕刊では、「関東で春一番」と報じていたね。 横浜が午前11時前に、最大瞬間風速18.3メートルだとあるね。 今朝の新聞では気温も20.8度で4月下旬なみの暖かさだとあるね。私:自然公園の丘の尾根道は森の中だから、風は木に遮られて、歩き良かったね。 しかし、冬の下着は汗になったね。 途中の公園事務所のトイレに寄ったら、クシャミが連続してでたね。A氏:スギ花粉のせいではないかね。 もう、スギ花粉が飛散する時期だね。 ことしはスギ花粉が多いらしく、今まで、平気だった人もスギ花粉のアレルギー症状が出るかもしれないというね。私:俺はスギ花粉アレルギーではないんだが、温度差に弱いんだね。 冬、夜、家に帰って、玄関に入るなり、クシャミが突然連続して出ることがあるね。 温度が急に変わるせいかね。 それから、冷たいすきま風が鼻に当たると、やはり連続してクシャミが出るね。 若い時、8月頃、午前中、気温があがる頃、やはり連続してクシャミが出たね。 そのうちに治ったがね。 今年は、スギ花粉はどうなることか。A氏:ところで、今日も晴天だが、日中の最高気温の予想は、9度だという。一挙に、10度以上落下する。私:自律神経がおかしくなるね。 今日も、自然公園にウオーキング予定だが、ジャンバーがいるね。 じらさないで、早く春が来てほしね。
2011.02.26
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9.「大洋をわたった最初のことば・サイラス.W.フィールド」1858年7月28日 1851年にドーバー海峡に海底電線が敷設され、イギリスとヨーロッパ大陸は電信で同時につながるようになる。 次にアメリカとイギリスとを結ぶ大西洋の海底電線敷設が考えられたが、難事業なのでそれに乗り出す者はいなかった。 ところが、ニューヨークにいた宣教師の息子であるサイラス.W.フィールドが実業に成功して余裕がある生活をしていたが、若くてエネルギーをもてあましており、この仕事に挑戦することになる。 失敗もあったが、3度目の挑戦で、1858年7月28日に海底電線が大西洋の海底に敷設された。 まったく無名であったサイラスは俄然、全国民の英雄になった。 8月16日、ヴィクトリア女王のメセージが「最初のことば」としてニューヨークに届いた。 ところが、1ヶ月も立たないうちに、故障が発生し、ついに通信は不可能になった。 サイラスはたちまち詐欺師だと言われるようになった。 6年後、沈黙を破ってサイラスは再挑戦する。 この間、技術も進んでいて、 今度は成功した。 6年前の電線もみつかり、2つの線が使えるようになった。 10.「神への逃走」1910年10月の末、レオ・トルストイの未完成の戯曲「光闇を照らす」への1つのエピローグ(戯曲) これは著者が、トルストイの未完の戯曲「光闇を照らす」に追加して、戯曲を完成した試みである。 ロシアの農民が苦しんでいるのに、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ、夫人との長年の不和に悩んでいた。 1910年10月末、ついに家出を決行するが、鉄道で移動中悪寒を感じ、小駅アスターポヴォ(現レフ・トルストイ駅)で下車した。 1週間後、11月20日に駅長官舎にて肺炎により82歳で死去するまでの経過を著者が追加した戯曲である。 11.「南極探検の闘い・スコット大佐、90緯度」1912年1月16日 1910年6月1日、スコット大佐は南極に向けてイギリスを離れた。 南極について移動しているうちに、ノルウエーの探検家アムンゼンが越冬していた家を発見し、先に進んでいるのを知る。 1912年1月16日、彼は南極に到達した(ウィキペディアでは17日に到達し、18日に国旗をたてたとある)。 しかし、そこには、すでにアムンゼンのノルウエーの国旗が立っていた。 失意のうちに帰路につくが、ベースキャンプに辿り着く前に凍死する。 44歳であった。 なお、ライバルだっったアムンゼンは1928年、北極遭難者捜索のため、飛行機で向かうが行方不明となり56歳で死亡(山田風太郎「人間臨終図巻」より)。 12.「封印列車・レーニン」1917年4月9日 1915年から17年頃にかけて、中立国スイスにはヨーロッパのいろいろな国の人が出入りしていた。 レーニンは、靴直しの同居人としてチューリッヒにいて、毎日、図書館に通い1日中そこで読書をしていた。 1917年3月15日、図書館に行く途中でロシアの知人がロシアに革命が起きたと伝えたのでロシアに帰国しようとした。 スイスは、イタリア、ドイツ、オーストリアの間にはさまれており、連合諸国家を通過する道は革命家レーニンに遮断されており、ドイツとオーストリアの通過はレーニンがロシア人であり、敵国人であるために通過できない。 ところが、レーニンはドイツのカイザー帝がアメリカが参戦する前に、ロシアとの和睦を必要としたので、英仏にとって厄介な革命家なら、助力してもいいと考えていた。 しかし、レーニンはカイザーを著書で百度も罵倒し、威嚇したのに、カイザー治下のドイツとの妥協交渉は彼の恥辱にもなりかねなかった。 しかし、彼は、責任は彼個人が引き受けるとして、ドイツ政府と交渉して、レーニンの列車を治外法権にすることで決着した。 こうして、レーニンは1917年4月9日に列車でチューリッヒを出発し、ロシアに入国した。 すぐに彼は多くの新聞を読んで、まだ、純粋の革命でないと知る。 しかし、列車がフィンランド駅に入ると駅前はレーニンを迎える数万の労働者でいっぱいになり、インターナショナルの歌が鳴りひびいた。 レーニンが列車を降りると、一昨日までは、まだ靴直しの同居人だった彼は、装甲車に乗せられた。 そして、彼は装甲車の上から民衆への最初の演説をした。 やがてまもなく「世界をゆるがした十日間」が始まった。 このように、レーニンの乗った列車は、弾丸のようにスイスからロシアに発射され、そしてそれは1つの国、1つの世界を打ち砕いた。
2011.02.25
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5.「ウォーターローの世界的瞬間」1815年6月18日のナポレオン 1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、復活した。 急いで、イギリス、プロシア、オーストリア、ロシアの軍隊が召集され、これに対抗することになった。 ナポレオンは、これらの軍が一本化する前に、急いで個別に撃破することにした。 6月15日にベルギーの国境を越え、16日には、プロシア軍に遭遇しこれを撃退した。 プロシア軍は打撃を受けたが全滅せず後退した。 ナポレオンは、第2の攻撃をイギリスのウエリントンの軍に向かって行った。 ナポレオンは退却したプロシア軍が、このイギリス軍に合流することを恐れ、軍の一部をプロシア軍の追撃に向かわせ、この追撃部隊の指揮をナポレオンはグルシー元帥に一任した。 ナポレオン軍とイギリス軍はウォータールーで対戦した。 双方、泥沼の戦いとなり、後は援軍が先に来るほうが勝ちとなることが予想された。 ところが、グルシー元帥は、プロシア軍を見失い、かつ、途中でナポレオンの支援にかけつけるという柔軟な思考能力をもっていなかった。 イギリス軍には、プロシア軍が援軍として駆けつけ、ナポレオンは敗退した(ワーテルローの戦い)。 グルシー元帥の能力が、歴史を変えた。 6.「マリーエンバートの悲歌・カルスパートからヴァイマルへの途中のゲーテ」1823年9月5日 ゲーテは72歳(1821年)の時、17歳の娘、ウルリーケ・フォン・レヴェツォフに熱烈な恋をする。 1823年にアウグスト公を通じて求婚するも断られる。 そして、9月5日、カルスパートからヴァイマルへ旅をしながら、その失恋から「マリーエンバート悲歌」の詩を作る。 最後の恋の望みは諦めとなり、そして、「ファウスト」の完成に向かわせる。 そのゲーテの最後の仕上げの分水嶺として、9月5日のカルスパートからの別れ、恋からの別れがあったという。 7.「エルドラードの(黄金郷)の発見・J.A.ズーター、カリフォルニア」1848年1月 1843年、破産者、どろぼう、手形偽造者だったヨハン・アウグスト・ズーターは 新規まき直しのため、フランスからアメリカに渡る。 そして、次にカリフォルニアに行く。 そして肥沃の地に大農場を作り、45歳で成功する。 1848年の1月、彼は農場の運河の水を調べて砂金を発見する。 自分の農場で発見したのだから、自分の財産だと思った。 彼はこれを最初秘密にするが、あっという間に噂は広がり、農園の労働者は仕事を放棄して、誰もかれも砂金をとるために運河に群がった。 そして、遠方からもどしどし人が来た。 ゴールドラッシュとなった。 このため、ズーターの農園は荒らされ、彼は乞食同然の一文無しとなった。 そして、ズーターの所有地になっているサンフランシスコは立派な都市になった。 1850年、カリフォルニアはアメリカ合衆国の中に取り入れられた。 ズーターは突如、サンフランシスコの地所は彼の所有地であると言って、権利を請求した。 1855年、裁判所はズーターの権利を認めた。 それを知った市民は暴動を起こした。 25年後、一人のみじめな服装の老人ズーターがワシントンの裁判所のまわりをうろついていた。 裁判所の人々は、この男が数十億ドルの権利を請求しているのを知っていた。 1880年7月17日、彼は1枚の請求書をふところにして死んだ。 今日、サンフランシスコとその一帯の土地は他人の(ズーターの)所有地の上に立っている。 8.「壮烈な瞬間・ドストイエフスキー、ペテルスブルグ、セメノフ広場」1849年12月22日 これは、著者は詩の形で示している。 ドストイエフスキーは、空想社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。 死刑判決を受け、1849年12月22日、銃殺刑執行と決まる。 目に目隠しの黒い布をまかれ、いよいよ、銃が発砲されようという、まさにそのとき皇帝からの特赦の指令が来て、発砲中止の命がでる。 著者は、その死の直前までいったドストイエフスキーの恐怖を詩で描いている。 このとき、ドストイエフスキーは28歳であった。
2011.02.24
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どこかの書評で興味をもって図書館から借りた。 数年前に出版されているので待ちが短く、すぐに借りられた。 人類の歴史の分岐点に立って、その運命を決めた12人の物語だ。 「人類の星の時間」とは、星のように瞬間的に光を放ち、そして、人類の歴史に大きな変化を与える時間をいうようである。 そして、この本では、12の「人類の星の時間」をあげている。 1.「不滅への逃亡・太平洋発見」1513年9月25日 コロンブスはアメリカ発見で、金を持ち帰った。 スペイン人は、新天地に殺到した。 犯罪者や債務者は新天地に逃れようとした。 その中に、バスコ・ヌネス・デ・バルボアがいた。 彼はいろいろ苦労して、最後にヨーロッパ人で最初に太平洋の発見者となる。 これが1513年9月25日の「人類の星の時」だ。 しかし、後から来たスペインの総督と対立し、彼は断頭台で死刑となる。 2.「ビザンチンの都を奪い取る」1453年9月29日 1451年、トルコ皇帝マホメット2世は、ビザンチン王国の征服を企てる。 ビザチン王国の唯一の名残りは都市コンスタンティノーブルである。 この都市が生き残っているのは、その厚い市壁である。 マホメットは、馬鹿でかい大砲をいくつも作り、これを運んで砲撃するが、なかなか落ちない。 最後は人海攻撃となるが苦戦する。 ところが、とんでもないことが起きた。 外側の市壁の砲撃によるたくさんの破れ目の一つをくぐって、2、3人のトルコ兵が侵入して、第1の市壁と第2の市壁の間を好奇心にかられて、あちこち歩いている時に、内側の壁にある小さな門が1つだけ空いているのを見つけた。 通用門らしく重要なものでないので、つい閉めるのを忘れたようだった。 最初は罠かと思ったが、さらに多くの兵を呼び寄せて、入ったら、抵抗なしで内部に入り込めた。 かくして、些細なミスから、歴史的なビザンチン帝国の崩壊となった。 3.「ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルの復活」1741年8月21日 あるとき、ヘンデルの下男は、ヘンデルが部屋で倒れているのを発見する。 医者に行き、脳溢血であることが分かり、右半身が不随となった。 しかし、彼の気力は、衰えなかった。 アーヘンの温泉で、毎日、熱い湯に9時間も入っていた。 そして、医者が奇蹟だというように、完全に回復した。 こうして、音楽家としての活動を活発に再開する。 しかし、たまたま、女王の崩御やスペイン戦争のため、仕事がない。 1741年8月21日、悄然として散歩から帰ると、詩人ジンネンスからの手紙があった。 その詩を読んでいくうちにヘンデルに楽曲がひらめく。 3週間、不眠不休で集中の後、作品は完成し、ヘンデルは疲れで深い眠りに入った。 この聖曲「メサイア」は、たちまち有名になった。 しかし、数年後、彼は盲目となる。 そして、キリスト受難の日の聖金曜日(4月13日)に死にたいと言った。 これは「メサイア」が世に出た日でもあった。 そして、その日にメンデルは息を引き取った。 4.「一晩だけの天才・ラ・マルセイエーズの作曲」1792年4月25日 1792年、フランスはオーストリアとプロシアに対して宣戦布告をした。 戦争に向かう集会で、市長は彼の傍にいたルジェ(クロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リール)という名の若い中尉に明日進軍する軍隊のための軍歌の作成を依頼した。 彼は、4月25日、一夜で作曲した。 これが後に「ラ・マルセイエーズ」と呼ばれ、フランス国歌にもなる。 ところが、最初、一部にしか評価されなかった彼の軍歌が、次第に広まり戦意高揚の歌になる。 しかし、作曲したルジュは平凡な生活をしていた。 76歳のルジュが1836年に死んだ時、誰一人として、彼の名を言う者もなく、知っている者もいなかった。 第1次大戦になってフランスの前線に再び戦闘的な力を持って「ラ・マルセイエーズ」は鳴りひびいた。 その頃、ルジェの遺骨はアンヴァリード廟に納められた。 結局、不滅の歌を1つだけ作った無名の詩人は、たった一晩だけ天才詩人であったこと以外の何ものでもなかった。 しかし、最後には、その幻滅から救い出されて、彼の祖国の名誉ある霊廟の中に眠っている。
2011.02.23
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【送料無料選択可!】日本海海戦 悲劇への航海 下 バルチック (単行本・ムック) / C.プレシャコフ 著 稲葉 千晴 訳私:旅順港が日本の手に落ちた以上、バルチック艦隊の行く先は、ウラジオストクとなった。 まず、インド洋から太平洋に入るのには、2つの経路があるね。 1つは、ジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡とマラッカ海峡だ。 ロジュースヴェンスキー将軍は当初、マラッカ海峡で日本の水雷艇の攻撃が予想されたので、スンダ海峡を予定していたが、ここはオランダが植民地支配しており、協力的でなかった。A氏:結局、マラッカ海峡を抜けるのだね。 当然、日本は水雷艇など配置していないね。私:バルチック艦隊は、次に、仏領インドシナのカムラン湾に到着する。 しかし、ここは、艦隊の安息の地ではなかった。 露仏同盟があったにもかかわらず、日本がフランスの中立違反を指摘して、パリで外交圧力を強め、それをイギリスが側面から支援したからだ。 当時の小村寿太郎外相はなかなかの外交手腕だね。 フランスも中立違反を口実に、イギリスと日本が仏領インドシナを攻撃するのではないかと恐れていた。 ロジュースヴェンスキー将軍は、艦隊を本国に引き返すことを望んだが、皇帝ニコライ2世は極東での制海権の確保に固執した。 しかたなく、後続隊をここで待って、合流し、ウラジオストクに向かった。 ところで、バルチック艦隊の船員が寄港地で買い物をするのだが、日本が作ったロシア偽造紙幣が登場するね。 日本はすでにいろいろな手を打っていたんだね。A氏:一昨日の朝日新聞では、第2次世界大戦中、中国の偽札45億元分を作って中国へ運んで経済混乱を狙ったという登戸研究所の記事が載っていたね。 ところで、ウラジオストクに向かったバルチック艦隊が対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡のどれを通過するかという問題が出るね。私:ロジュースヴェンスキー将軍は、水雷艇の襲撃からして対馬海峡が一番リスクが少ないと考えた。 そして、その行方が日本海軍に覚られないようにいろいろな手を打つ。A氏:一方、東郷平八郎大将率いる日本海軍は、バルチック艦隊が対馬海峡から来ると予想していた。私:しかし、仏領インドシナをバルチック艦隊が出港してからの情報がない。 日本海軍は対馬海峡を予想していたので、津軽海峡の場合、艦隊を北に移動しなくてはならない。 5月26日までに、バルチック艦隊の居場所がわからないときは、津軽海峡への移動を考えていた。 そこへ、上海からバルチック艦隊の輸送船が上海に到着したという情報が入り、津軽海峡経由がないと分かり、日本海軍は対馬海峡で待ち構えることになった。A氏:日本海海戦の戦闘開始は、5月27日午後2時頃だね。 日本艦隊は、有名なT字戦法で対応するね。 縦列で向かってくるバルチック艦隊の前に横に展開する。 したがって、バルチック艦隊のトップを走る旗艦は、集中砲火を浴びる。 後続の軍艦は、前の軍艦が邪魔になり砲撃しにくい。 日本は下瀬火薬が威力を発揮するね。私:結局、戦闘の結果、バルチック艦隊が壊滅したのはご承知の通りだね。 ロジュースヴェンスキー将軍は重傷で、捕虜になるね。 日露講和条約が締結され、ロジュースヴェンスキー将軍はシベリア鉄道経由で帰国するが、途中ではヒーロー的な歓迎だったという。 ところが、ペテルブルグに到着したとき、プラットフォームで将軍を待っている役人は一人もいなかった。 1906年5月21日に、ロジュースヴェンスキー中将は退役した。 翌月から軍法会議が開かれたが、無罪となった。 彼は私人となり、家族と共に余生を送った。 3年後の1月13日、旧暦の大晦日を、ロジュースヴェンスキーは妻、娘、娘婿、4歳の孫と祝っていた。 元気になんども乾杯したという。 翌14日の午前2時頃、彼は祝いの席を離れて自分の部屋に戻った。 突然、ガタンという大きな音を聞いた家族が彼の部屋に駆けつけたら、元中将は床に倒れていて、すでにこと切れていた。 60歳の生涯であった。 皇帝ニコライ2世は、革命で最後のロシア皇帝となり、革命政府に1918年7月処刑される。 50歳。 東郷平八郎大将は、国家の英雄として余生を送る。 元帥となり、伯爵位を授けられる。 1934年5月、86歳で天寿をまっとうした。
2011.02.22
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A氏:ISO9001をとっている工場現場を歩くと、作業標準書を作業者の前や頭上に掲示してあることが多いね。 俺の会社でも、そうだよ。 これはISO9001規格で掲示要求があるの? 私:ISO9001の初版は、1987年版だが、「それがないと品質に有害な影響をおよぼす場合、作業指示書(documented work instructions)の要求」がある。 ただし、「掲示せよ」という具体的な要求はないね。 94年版は、87年版と基本的に同じだが、「作業指示書」が「手順書(documented procedures)」になっているね。 これも具体的な掲示要求はない。 次の2000年と2008年の改訂版は、全く同じ内容で「製品の特性を述べた情報を利用できる」「必要に応じて作業手順(work instructions)が利用できる」と87年版と94年版と比較するとかなり表現が変わっているね。A氏:英語ではdocumented(文書化)がなくなっているね。私:ここにも具体的な掲示要求はないね。 ISO9001規格では掲示要求がないから、別に掲示しなくても、身近にあって「利用できる状態」であればよいということになるね。 ところが、この英文のwork instructionsにあたる日本の「作業標準書」が現場で作業者の前に掲示されるというのは、不思議に最初から継承されているね。 まぁ、掲示は個々の企業の自由選択だから、ムリに掲示の必要はないね。 しかし、問題は、別に存在する。A氏:なんだね?私:多くの場合、掲示されている「作業標準書」を作業者は見ていないということだね。 作業者は「作業標準書」に書いてあるような内容は、毎日、何回も繰り返しているので、身についていて、見る必要がない。 要するに掲示は意味が無いのではないかということだね。 以前、早くにISO9001をとった工場を見たことがあるが、10台くらいあるプレス機械のそれぞれの横に作業標準書らしきものが貼ってあった。 内容は全部の機械が同じで次のようなものだった。 1.金型をプレスの台にセット 2.プレス機械の電源ON 3,作業開始 4.作業終了時に電源OFF 5.金型を外す。A氏:それは「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ」で、新人が数分で覚えてしまう内容だね。私:同じものを10枚貼るのでなく、職場の隅に1枚だけ置いておけば十分だし、この程度は「それがないと品質に有害な影響をおよぼす場合」にならないから文書としても不要だね。 現場の壁に、いろいろな文書をぺたぺた貼ってあるのも、見ていないで形式だけだね。 2、3年前にある自動車部品を作っている数十人の外注に行ったら、作業標準書を作業者の前に掲示していたが、当然、作業者は見ていない。 親会社の品質保証部門の担当者が工場監査に来て、掲示を要求しているのだという。 ところが、翌月、その会社に立ち寄ったら、掲示がない。A氏:何故だろう?私:親会社の資材部長が来て、誰も見ていない掲示してある作業標準書を見て、「ムダだから外せ」となったんだね。A氏:外注はどっちのことを聞いたらいいのかね。 両方とも「顧客要求」だしね。私:別の大手の自動車部品メーカーの品質保証部門は、十数年間、全部の外注に作業標準書を掲示させていた。 ところが、昨年、その外注の人にあったら、その大手の経営幹部が交代して、外注で作業者の前に掲示してある作業標準は「誰も見ていないのに、作業者の視界をさえぎるので撤去せよ」となったという。 外注は現場がすっきりして大喜びだったね。A氏:親会社の品質保証部門の人たちは長年の指導を否定されて面目丸つぶれだね。私:掲示の必要性に素直に疑問を持たないように「知的体力」が弱いんだかから、いつかは「知的体力」のある人にやられるね。
2011.02.21
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【送料無料】日本海海戦悲劇への航海(上)私:今回、上下2巻を同時に図書館から借りたよ。 上巻の予約待ち数が1になったところで、下巻を予約し、グッドタイミングで下巻も同じ待ち数1になり、同時に借りられた。 この本は、日本海海戦に至るまでを、ロシア側の資料中心でまとめたものだね。 上巻の始まりは、ロシア王朝が、アジアに侵略の手を伸ばそうとし、海軍力を強化していき、ついに日本海軍が旅順港を攻撃し、日露戦争がはじまるところだね。 そして、ロジェストヴェンスキー少将(航海中に中将)率いるバルチック艦隊が編成されるが、彼は、この航海は最初からあまり成功しないと考えていたようだね。 航海は、いろいろな港で石炭や食料などの補給を受け、上巻は、いよいよ、インド洋に向けてマダガスカル島を出るまでだね。A氏:軍艦だから、水兵は大変だろうね。 陸なら、散歩でもできるが、軍艦では大部屋住まいでプライベイトはないね。 暑い赤道も通過するしね。私:当時は、軍艦は蒸気機関だから、石炭の補給が必要だね。 そのために、いくつかの港に寄港して、石炭を積まなければならないね。 それと国際関係もある。 主力艦隊は、アフリカの喜望峰をまわりでインド洋から旅順に向かった。 しかし、南アフリカはフランス植民地が多く、途中からイギリス寄りになるフランスはあまり協力的でなかった。 支援したのはドイツだけだね。A氏:なんで主力艦隊は、スエズ運河を経由しなかったんだろうね。私:大型艦船は通過できないというより、ロジューストヴェンスキーが恐れていたのは、日本の水雷艇による攻撃だね。 すでに、日露開戦の時に、旅順港のロシア軍艦は日本の水雷艇に奇襲攻撃されている。 だから、航路の狭いところを艦船が通過するときに、水雷艇に奇襲される危険性がある。 実際、バルチック艦隊は、北海のドッガーバンクを通過するとき、夜、漁船を日本の水雷艇と思い込み、砲撃する。 運が悪いことに、これが日英同盟を結んでいるイギリスのトロール船だった。 これがイギリス世論を沸き上がらせた「ドッガーバンク事件」だね。 これで、わかるように、ロジュースヴェンスキーが恐れていたのは、水路の狭いスエズ運河や紅海での日本の水雷艇による待ち伏せ攻撃だね。 だから、待ち伏せのリスクを分散させるために、あえて主力を喜望峰経由でインド洋に行くことにしたという。A氏:今となっては、そんな遠方まで日本の水雷艇が行くはずがないことは明らかだがね。私:司馬遼太郎はロジュースヴェンスキー将軍を「愚将」と言っているが、王政のロシアでは官僚主義と汚職がはびこり、海軍も同様だった。 1904年にロシアの少将以上の海軍将官は100名で、世界最大の艦隊を抱えるイギリス69名、フランスは53名、ドイツは9名だった。 しかし、その中でロジュースヴェンスキー将軍は鉄の意志を持つ、冷徹で力強い人物で、部下が思う通り動かないと、怒鳴りちらし、クビに下げている双眼鏡を海に投げ捨てる癖があった。 だから、バルチック艦隊が出発の時、部下は将軍のために、50個の双眼鏡を用意したという。 彼は海軍省の中で汚職によって堕落していない、数少ない高級士官の一人だった。 彼は高貴の出でなく、父親は軍医であったが、小農民や小商人の息子でなかったので、海軍兵学校に行くことができた。A氏:バルチック艦隊がマダガスカル島でスエズ運河経由の後続隊を待つ間に、旅順が陥落し、旅順港に行く最初の目的が崩れるね。私:ところが、ニコライ2世は、さらに極東の制海権を確保するために、老朽戦艦からなる増援部隊を編成して送り込むことにした。 ロジュースヴェンスキー将軍にすれば、今更、老朽戦艦などきても足を引っ張るだけだし、しかもマダガスカル島滞留で水兵を疲労させて到着を待たなくてはならない。 時間をかけるほど、日本海軍は艦船に手入れを十分する余裕を与えるだけだ。 反対しても、皇帝の命令は絶対だ。 そこで、増援部隊の到着を待たず、3月16日、インド洋に向けて出発する。 これから、約3週間、バルチック艦隊は世界の視野から消えてしまう。 ここで上巻は終りだね。
2011.02.21
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【送料無料】戦時児童文学論私:著者は俺とほぼ同じ年。 戦時中の児童文学を詳細にとりあげているね。 俺のこの本に対する興味は、俺が読んだものが記憶にあるかだったが、期待はずれだったね。A氏:なぜ?私:それは、俺は戦時中、小学生としては、この本からすると偏った読書をしていたからだというのを思い出したね。 家では子どもの読み物など買ったことがあまりなかったね。 親があまり読書好きでなかったせいかね。A氏:しかし、君は生来の読書好きだね。私:読書が早熟だったのか、親がとっていた「主婦の友」みたいな雑誌を読んでいたね。 当時は大人の雑誌でも「よみがな」がついていたから、読みやすかったね。 それから、当時、円本といって、たしか、分厚い講談全集があったね。 これは講談を本にしたから、口語調で読みやすい。 歴史の英雄豪傑ものなど、面白かったね。 親に「早く寝なさい」と叱られながら、こっそり寝床で読んでいたね。 坂本龍馬もこの講談本で読んだ記憶があるね。A氏:図書館で借りたの?私:当時は、図書館など整備されていないから、貸本屋からではないかね。 「臣民の道」なんて、大人の本を読んでいたね。 叔父貴に、「お前はなんだか難しい本を読んでいるね」と言われたことがある。 別の叔父貴が、京浜地区の空襲で焼けだされたとき、疎開で地方都市の俺の家に送られてきた本に、沢木興道の「素人禅」があって、小学校5、6年生くらいの時に面白くて読んでいた記憶があるね。A氏:君は小学4年生の時に「シートン動物記」に出会うことが、このブログで書いているね。私:この「戦時児童文学論」には、児童図書としての「シートン動物記」も出てこない。 俺たち世代にとっては懐かしい「講談本」も出てこない。 この本の主題は、童話作家の小川未明、浜田広介、坪田譲治が日中戦争や太平洋戦争と日本が戦争に巻き込まれ、国家総動員体制になるにつれ、大正デモクラシーを背景にした童話も次第に国体原理主義に変わっていくことだね。 著者は、当時の呪術的国体原理主義による「八紘一宇の顕現・聖戦完遂」が怒涛のように押し寄せた「時代的な気分」が、当時の作家たちを追い込んでいた状況に眼を向けるべきだという。 戦後のことだろうが、読書感想文コンクールの低学年向けの指定図書になれば、家一軒分の印税が入ると言われた時期があったという。 そのとき、学校図書館協議会が「今年のテーマはエコだ」と言ったら、どの児童図書出版社も課題図書の指定をねらって、エコをテーマにした作品を出し、「平和だ」といったら、平和を主題としたものを出し、作家もそれに励んだという。 戦時の児童文学の反省から「時代的な気分」が再び児童文学におそいかかることを著者は懸念しているね。 しかし、戦時中のような国家レベルでの「時代的な気分」はもうないのではないかと思うね。
2011.02.20
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私:今年の誕生日で免許が切れるので、更新手続きをして、昨日、最寄りの警察署で、新しい免許証をもらったよ。 考えてみると、もう、自動車はあまり乗らないので、必要性がなくなってきたね。 これで後3年経ったら、また、免許更新となるが、そのときは免許返上にしようと思う。 俺と同年輩の知人では、健康でも、もう免許更新をしていない人が増えているね。A氏:このブログの「高齢者運転免許講習と認知機能検査」に対して、ライラック7611さんが「高齢者は極力、車をやめたほうがいい」とコメントしているね。 このコメントで、有用な試算をしているね。私:引用させてもらおう。「私は車の年間維持費は60万円と考えています。 保険代 6万円 税金 4万円 車検代 7万円(2年の一年当たり) タイヤ代 3万円(3年に一回交換) バッテリ等の諸費2万円 ガソリン代 18万円 購入費の1年相当 20万円(10年使用) 合計 60万円 也 この他に 10年に一度くらいは事故費、反則金等々の予測のでき出費があります。 年金200万円の何と3分の1は車維持費 とても年金生活者には持てない玩具です」 これだと、年金生活者でなくても、若者もクルマ離れとなるのは分かるね。 俺の場合、ガソリン代は、月に1万円もいかないから、全部で40万円くらいかね。 ところで、昨日まで3日連続で、このブログで「減速して生きる・ダウンシフターズ」のまとめを書いてきたが、この本でもこれについて次のようにふれているね。 「あるデータによると家庭において車を走らせている時間は1ヶ月に20時間だそうです。 残りの約700時間が駐車場に停まっていることになります。 それなのに、年収の4分の1が車の維持費に消えてゆくというデータもあります。 だとしたら車を手放せば、総労働時間を4分の1減らすことも可能かもしれません」 そういう目で、近所を散歩して歩くと結構、日中、駐車場に停車している家が多いね。A氏:テレビも同じことが言えるのではないの?私:ダウンシフターの高坂勝氏の家にはテレビもないという。 下らない番組が多いし、ニュースでもスポンサーや政治的に都合が悪いことは報道されない。 CMは大量消費を煽るものばかりだという。 見たい番組や、素晴らしい番組もたくさんあるが、見たくないものを見ることが多いという。 そして、テレビがないと、家族と向き合って食事ができるという。 食事は、食料を作ってくれた人に感謝してするものだという。A氏:テレビがないと情報から取り残されるのではないの?私:新聞はとっているようだね。 それにメールやインターネットもあるからね。 それに多くの知人からの生の情報もあるようだね。 店の常連客の情報だろうね。 まぁ、俺も車のことはこれからの検討課題だね。 A氏:今日の朝日新聞は土曜なのでbe紙がついているが、ここには毎週、勝間和代氏の「人生を変える『法則』」というタイトルのエッセイが連載されているね。 この人の考えは「ダウンシフター」とは逆の「競争に勝つこと」の論理だね。私:勝者になるための論理だね。 「下り坂社会」では通用しないものになるかもね。 その点では、時代遅れの敗者の論理になるのかもしれないね。
2011.02.19
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【送料無料】減速して生きる私:著者の店は、夕方18時開店し、23時30分がラストオーダー。 2009年からは週休2日に移行し、お正月と夏にそれぞれ9日の長期休暇。 さらに不定期に9日の長期休暇をとっているという。 そして、好きな音楽を流し、好きなギターで歌い、好きな取引先と仲良くし、好きなことを話し、好きなことを広げるために好きなようにイベントを開催し、好きなお客にはたまにはサービスする。A氏:自主で自由だね。私:著者は、大学を出て、大手企業に入ったが、その仕事を捨てて、呑み屋のオヤジになった。 これは大学を出たら、企業に「就職する」というシステムコースから降りたことだね。 しかし、今、著者は、自分で仕事を作り、過去の経験を活かすことも寝かしておくこともできる。 将来を自分自身で選択できる。 「閉塞感」がないね。 この本は図書館から借りたんで、本の帯がないが、帯には、作家村上龍氏の次のような文が書いてあるという。 「減速すれば、景色が鮮明に見える。発見もある」A氏:年金や医療保険はどうしているのかね。私:年金は義務だから払っているが、当てにしていない。 好きなことをして死ぬまで働きたいという。 不安定な年金システムをあてにするのをやめて、細々とでも一生楽しく働くことを選んだという。 健康保険料も払っているが、近代西洋医療がすべて正しいという前提や、化学薬品を頻度高く使用する医療システムに疑問を持っている。 健康は自分で守るため、化学物質が多く含まれる食品は避けている。 日本の伝統的な食品が中心だ。 普段から、免疫力を強めておくことが重要だという。A氏:予防医学的だね。 このブログでとりあげた「がん再発を防ぐ『完全食』」と同じだね。私:それから、企業による時間で管理されるシステムからも降りた。 自分の時間を自分の責任で自由に配分できるようになったから、素直に行動できるようになったという。 そして、店の大工仕事も自分でやり、コメや大豆作りするなど、積極的に行動するので、「自分探し」がいつの間にか消えていった。 「何かをしてもらう」という他力本願から降りたとき、そこにいる頼るべき「自分」は、もう探す必要のない「自分」だね。A氏:著者はある意味で有名になったから、自立への相談なども多いだろうね。私:会社をやめて別な道に進みたいという人には、「やめたらいいですよ」と淡々と言うという。 著者の考え方を知ったのがキッカケで新たな道に歩み出した人には、前職を辞めたことを悔やんでいる人はいないという。 しかし、すでに退職した人や転職を繰り返す人や立ち上げたビジネスが軌道に乗らない人のボヤキを聞くことが多いと言うが、それには次の3つの共通点があるという。 1.「前職よりもっと収入を増やしたい、もっと贅沢な暮らしをしたいという表面的な上昇志向が強いこと」 2.「経済縮小の時代(下り坂社会時代)なのに大量消費主義を変えていないこと」 3. 「好きなことを仕事にしていないこと」A氏:その意味で「ダウンシフター」とは孤独な「世捨て人」とは全く違うんだね。私:嫌な仕事から好きな仕事へ、環境破壊的な仕事から持続可能社会的な仕事へ、競争的な仕事から共生的な仕事へ、大きな会社から小さなビジネスへという大きな社会的な転換運動をしているんだね。A氏:「みんなの党」のように、経済成長率を4%にすれば、すべてうまくいくという経済成長発想を拒否した庶民的な抵抗だね。私:高度成長期のような経済成長を期待できない「下り坂社会」の「閉塞感」を解決できない政治家や経済学者に対して、庶民として生活の質を向上する方法を先取りした生き方だね。 なお、著者のブログはhttp://ameblo.jp/smile-moonset/ 著者の現在の活動がわかる。
2011.02.18
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【送料無料】減速して生きる私:著者の店はスモールメリットを生かす。 小さな店だから、掃除機はいらない。 ほうき、ちりとりの手掃除で十分きれいになる。 ヤカンもいらない。 鍋でいい。 積み重ねができるからだね。 最初、開店祝いにもらった洗剤を使っていたが、手荒れ、ひび割れに悩まされた。 その後、洗剤を使わず、少し高いが、長持ちするフキンに変えた。 長く使えるので、長期的にはコストが下がった。 この店の調理場でたまたま皿洗いを手伝った人は、洗剤のないのに驚いたという。 著者の「できることを増やす」という目標の1つに、コメと大豆の自給があった。 2009年に千葉県で320平方メートルの田んぼを借りることができ、稲を植えた。A氏:稲作は大変だろうね。私:ところが、田んぼに冬の間も水を溜めて一切耕さないという、通称「冬水たんぼ」という栽培方法があるのだという。 農業機械も不要だね。 通常の農家と逆の方法だね。 冬に水を溜めると、多くの微生物が繁殖し、農薬や化学肥料がいらない。 雑草も抑制されるので、年に2、3回草をとればよい。 野生化した稲と同じで、太くて強い。 台風が2回きたが、まわりのプロの農家の稲は倒れたが、著者の田んぼの稲は倒れなかったという。 コメの味もおいしい。A氏:このブログで前にとりあげた無農薬、化学肥料無しのリンゴ栽培の「奇跡のリンゴ」の話を思い出すね。私:このコメで、著者の夫婦と子ども1人の1年分のコメが自給できるようになったという。 そして、大豆だね。 これは田の畦で育てた。 1年にたった20日の農作業で、コメと大豆が自給できるようになった。A氏:今後、世界経済が荒れて、日本が超インフレになってもなんとか自衛できそうだね。私:今、日本では、遊休農地が埼玉県の広さに匹敵するくらいあるという。 それで著者夫婦2人の農作業経験をもとに計算すると、約2400万人が自給できることになる。 日本の総労働人口は約6000万人。 非正規雇用者は約2000万人。 その他、ニートなどもいるが、これらの人が、著者夫婦のように自給を目指しても農地は足りることになるね。 著者は、計算はすこし強引かもしれないが、すくなくても「希望」はあるという。 もっとも、都市化、脳化、浪費社会に毒されて農業を嫌い、工場や都市のの派遣労働のほうがいいという人にはムリだろうがね。A氏:しかし、「閉塞感」にとらわれないですむね。私:ところで著者の店の食材は、オーガニックだという。 そしてスーパーなどで買わない。 顔の見える小さな生産者から買うという。 大企業に金を払うと、何使われているか分からない。 自動販売機、コンビニ、チェーンの飲食店、大型スーパー、百貨店などではできるだけ買わない。 カネの行く先が分からず、環境破壊や武器生産のために使われているのかもしれない。A氏:顔の見える人に金を払うと生活費や子どもの教育費など使い道が大体分かるというわけか。私:著者は、経済成長が不可能及び不必要な時代(下り坂社会の時代)になったのだから、経済成熟・経済縮小にそった考え方にシフトするのが自然だという。 著者は、ダウンシフターとして有名になったので、相談に来る人も多く、独立した人もいるという。 今のところ、失敗例はないという。 明日は、時間的余裕、年金、健康保険などのシステムとの関係にふれよう。
2011.02.17
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【送料無料】減速して生きる私:この本は「下り坂社会知的街道」の1つで、図書館から借りた。A氏:この知的街道は「成長神話の崩壊」、「下り坂社会を生きる」、「デフレの正体」、「経済成長という病・退化に生きる、我ら」、「超マクロ展望・世界経済の真実」と続いたね。私:著者は1970年生まれだというから、今、40歳だね。 大卒後、大手小売業に勤めるが、大量生産、大量消費、効率化、経済成長重視と共に、「下り坂の日本経済」に追われ、個人的には仕事に追われ、自分の生活に余裕がなくなり、生活の質が次第に低下することに疑問をもつ。 30歳(2000年)で退社。 かねてからやりたいと思っていたバーの開店をめざす。 まず、野宿などしての日本中の一人旅、ピースボートでの世界一周などで「世界を知る」「過去を棚卸しして未来を見据える」「火を起こす、自炊など、自分でできることを増やす」という旅の目的を果たす。 2001年7月末、金沢の友人を頼りに、飲食店で働きながら修業をする。 2004年4月に池袋に6.6坪で14席の「たまにはTSUKIでも眺めましょ」という名前のバーを開店。 「ダウンシフター」の生活のスタートとなった。A氏:「ダウンシフター」という言葉は、アメリカから来た言葉かね?私:アメリカの経済学者ジュリエット・B・ショアは1990年代後半のアメリカで、「減速生活者・ダウンシフター」という人びとがいることを「浪費するアメリカ人」(日本訳は2000年岩波書店刊)という本でふれているという。 このジュリエットの本の説明では「ダウンシフター」とは「過度な消費主義から抜け出して、もっと余暇を持ち、スケジュールのバランスをとり、もっとゆっくりしたペースで生活し、子どもともっと多くの時間を過ごし、もっと意義のある仕事をし、彼らのもっとも深い価値観にまさに合った日々を過ごすことを選んでいる人たち」とあるという。 彼らは転職して減収になるが生活の質は向上しているという。 この本の著者の高坂勝氏も年収600万円から350万円にダウンしたが手元に残るお金は変わらずで、逆にたっぷりの時間の余裕ができ、好きなことをして、社会に認められることができているという。 2008年8月の「日経ビジネス アソシエオンライン」で特集が組まれ、高坂氏は、日本版「ダウンシフター」の1人目の事例として掲載されているという。A氏:十数年前に、日本でもバブル景気で浪費が盛んになったのに対して、「清貧の思想」というベストセラーが出たね。 図書館の要旨を見たら「名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ...。 モノとカネにふりまわされ、明け暮れする人生は真に幸福なのか? 光悦、西行、兼好、良寛ら先人の生き方の中に、モノを『放下』し、風雅に心を遊ばせ、内面の価値を尊ぶ『清貧』の文化伝統を見出し、バブル謳歌の日本に猛省を促した話 題のベストセラー」 とあるね。私:考え方は似ているが、現在のグローバル資本主義社会でのすさましい浪費は、そんな簡単なものではないだろうね。 「ダウンシフター」は別に江戸時代にもどるわけではないし、「世捨て人」でなく、都会の中で、きちんと生活をしている。 著者は店作りもの大工仕事も手作りだ。 化学物質素材、金属材料、コンクリート素材は、「人の心を落ち着かせるものではない」として使っていない。 店作りにカネをかけないで手間をかけた。 そして店作りの知恵と技術を身につけた。A氏:修理も自分でできるからカネもかからないね。私:店の運営は1人でやるから人件費はかからない。 計算すると、最低300万の年収があればいい。 十分な休みを入れて損益計算すると、開店しているとき1日2万円の売上があればいい。 客単価が1人で400円とすると、5人の客が来ればいいということになった。 売上目標を達成するためにムリやもっと売上を伸ばそうとはしない。 経済成長の発想はしない。 目的は利益でなく、生活の質だね。 明日は、コメと大豆の自給にふれよう。
2011.02.16
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横浜市内は、昨日の午後3時過ぎくらいから、雨が降り出し、夜、それが激しい雪となった。 風はあまりないが、シンシンという表現がふさわしいような降りかたであった。 夜の10時くらいには道路で5センチくらいの積雪となった。 横浜は、今冬、はじめての本格的な雪だ。 今朝、雪はやんでいて、曇天であるが、道路の雪は自動車の車輪あとが消えているだけであった。 今日は、午前中、バスに乗って出かける用事がある。 バスは大丈夫か。 少し、早めに出ることにする。
2011.02.15
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私:オモチャのプラモデルはプラスチック成形と言って、プラスチック金型で作っているんだよ。 金属を成形するのをプレス成形とういね。 自動車のボディのプレス金型なぞは、2階建てアパートくらいの大きさだ。A氏:俺のいた会社では、小さなプレス部品を作って納入していた外注Y社がISO9001をとっていたが、たしか「7.3 設計・開発」は「除外」と言っていたね。 なんだか、「除外」の場合は「除外の詳細と除外を正当とする理由をマニュアルに書け」という厳しい要求があるそうで書き方に苦労したと言っていたね。 俺は当時、ISO9001はあまり関心がなかったので聞き流していたがね。私:プレス部品の図面は君のところの設計部門で書いているから、そのプレス外注Y社には「製品設計」活動がないことになる。 部品図を顧客からもらって加工している部品メーカーは基本的に皆同じだね。 「除外」が厳しくなったのは、ISO9001の2000年版からだね。 それまでは、ISO9001、ISO9002、ISO9003という3つの規格があり、ISO9001には「製品設計の管理」要求があるが、ISO9002にはないという違いだけだね。 そしてどれを選ぶかは企業側が決めていた。 ところが、2000年版で、3つの規格を一本化して、そのかわり、「製品設計」がないときは「除外」を明記することになったんだね。A氏:一本化しないほうが「除外」を言わなくても楽なのにね。 なんで、一本化したのかね。私:選択規格としての欠陥が出てきたんだね。 イギリスの例だが、ある設計事務所がISO9002で認証を得たことがある。A氏:設計事務所なら、設計だけじゃないの? ISO9001を選択すべきではないの?私:しかし、選択するのは企業側の自由だからね。 イギリスではどのISOであろうと、とっていればいいという考えが一般的にあったらしいから、企業は楽な方を選択するね。 設計事務所の図面のコピー作業とか製本作業などの仕事をISO9002の対象として審査してもらい、会社としてはISOをとったということになった。 これを聞いたイギリスのISOのお目付け機関のディレクターが怒ったそうだ。 設計事務所の審査から設計を除いたら、顧客に対して品質を保証できない。A氏:なるほど、それではISO の信用を失うので、ISO9001に一本化して、設計のある企業は逃げられないようにしたのか。 そして逆に「製品設計」のない企業は「除外」を明記するという流れになったのか。私:だから、ISO9001の一本化の背景には、規格の悪用を防止しようという意図があると考えられるね。 だから「除外」には、厳しい目を向け「除外の詳細と除外の正当性」を明記せよとなる。 「あるのに隠しているのではないか」という疑いの心理が根底にあるから、意地の悪い規格要求になる。 しかし、常識的に「ないものはない」んだから、書き様がないね。 ところで、そのY社はプレス外注だから、通常、金型を作り、そのために「金型設計」をするがこれは立派な設計行為だね。 プレス金型だけでなく、プラスチック成形金型、アルミダイキャスト金型なども同様だね。 しかし、Y社の製品は「プレス部品」だから、「金型設計」は「製品設計」ではない。A氏:「工程設計」だからISO9001の「7.3 設計・開発」は「除外」だね。私:そこで質問だが、君の会社で、プレス加工は別の外注でやるから、Y社に金型だけを納入してくれと購入変更したら、Y社の「金型設計」はどうなるかね?A氏:今度は、「製品は金型」だから、「金型設計」は「製品設計」になるね。 「除外」を取り消して、「7.3 設計・開発」だけ再度追加審査してもらわないといけないとなるのかね。私:やっていることは全く同じなのに、あるときは「除外」したり、あるときは「除外」を取消したり、形式的だね。 TSのように「工程設計」も「7.3 設計・開発」を適用すればその問題はないんだがね。
2011.02.14
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【送料無料】大いなる不安定私:ヌリエル・ルービニ氏は、2006年9月という早い時期に、2007年から2009年の金融・経済危機の到来を予測していたことで有名になったとのこと。 当時、訳者の山岡洋一氏は、ルービニ氏のブログを読むのが毎朝の習慣になっていたという。 著者によると、今度の金融・経済危機は百年に1度という突発的に、偶然に発生したものでなく、資本主義の歴史には何回もあったことだという。 この本は、アメリカの住宅バブルから、CDD債によるリーマンショックなどの金融崩壊までの詳しい内容をくどいほど繰り返し述べている。 しかし、それはもう、ご承知のことなので、400ペイジを超える大著なのでとばして読んだよ。A氏:経済学者で、この金融・経済危機を予告した人は少なかったようだね。 むしろ、活発な金融活動を歓迎していたとも言えるね。 「市場は適正な価格を決定する」のでなく、「適正をはるかに超えた価格」での住宅バブルだね。私:俺の興味があったのは、これからの回復予想だね。 アメリカに対しては、やはり、貿易赤字や、財政赤字を問題にしているね。 その赤字を中国がアメリカ国債などの購入でカバーしている。 著者は、中国は事実上、アフガニスタンとイラクでの戦費を引き受けているのであり、金融システムの救済と医療保険制度改革に要する費用は言うまでもないと厳しいね。A氏:グローバル・インバランスだね。私:中国の問題点は、GDPに占める個人消費の比率が16%と極めて低いことだ。 社会保障の不安から、消費でなく貯蓄にまわる。 逆に、アメリカは78%と極端だね。 両国がこの中間の値まで、改善されるのが好ましいね。A氏:将来、人民元がドルに代わって基軸通貨になるのだろうか。私:中国はGDPで日本を追い越したが、次にアメリカを追い越すだろうという。 しかし、中国の金融は開放的でないので、基軸通貨となるには、問題が多いとしているね。A氏:ユーロはどうかね。私:著者は、ギリシャやスペインなどの財政危機でEUそのものの分裂を危惧しているね。 日本についてもふれていて、社会の高齢化と移民受け入れに対する否定的な姿勢によって、人口動態の面から経済成長が抑制されているという。A氏:日本の人口動態問題はこのブログの「デフレの正体」で扱っていたね。私:サービス業の非効率、終身雇用などの柔軟性に乏しい社会的慣行、政治体制の硬直化をあげているね。 また、このブログで取り上げていた財政赤字も大きな問題としてあげているね。 今のところ、個人貯蓄率が高く、巨額の貿易黒字があるが、長引くデフレや景気の低迷、円高によって、この傾向が進めば、日本は深刻な財政危機に向かうだろうとしているね。 この本が書かれているときは、鳩山政権だが、矛盾した政策を掲げたと批判的だね。 ムダを省くと言いながら、記録的な財政赤字に依存する政策をとったという。 郵政の民営化の見直しで、ゆうちょ銀行がその赤字財政を支える国債を引き受けていると批判的だね。 この本の原書の題名は「Crisis Economics:危機経済」だが、訳書の題名は「大いなる不安定」だね。 著者は、これからのグローバル経済も「不安定」要素が多いことを指摘しているね。 今回の危機は必要な改革を推進するための機会を与えてくれている。 この機会を活かさなければ、さらに深刻な破壊的危機の種をまねくことになるだろうという。 そして、この機会はまさに貴重であり、これをムダにすれば悲劇的であるとして、この書を終わっている。 それにしても、その前に日本の政治は大変な危機に直面しているね。 大きな展開が起きるだろうか。
2011.02.13
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私:昨夜は、近所にいる孫たちとささやかな誕生日のケーキを食べた。 外は雪がどんどん降っていたね。 しかし、深夜にやんだようだった。 今朝、外を見たら、近所の家の屋根には雪が2、3センチくらい積もっていたかね。 道路には雪がなかったね。 ところで、俺の近所に宅地造成された空き地が、10年くらい前から10区画くらいあった。 この土地の持ち主が、50歳だいくらいだと思うが、せっせと一人で野菜作りを長年していた。 これは農地なのか、宅地なのか、わからなかったね。A氏:固定資産税が違うのではないの?私:ところが、その地主の人が、昨年はじめ、肺ガンになった。 それでも農作業はしていた。 しかし、昨年、秋頃、亡くなった。 そうしたら、10ヶ所くらいあった区画に数軒の一戸建ての家の建築がはじまった。 大体、1区画、50坪くらいの土地だね。 1軒すくなくても4千万円はするだろうね。 それから、3区画くらいは駐車場になったね。A氏:相続税の関係かね。私:もう、相続する次世代は農業はやらないんだね。 土地付きの建物を売ったほうが、カネになるし、駐車場料金という固定収入が入るね。 今、TPP問題で日本の農業が問題になっているが、こうして農地は減少していくわけだね。
2011.02.12
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私:今日は俺の誕生日。 天気予報では、昨日の夜半から雪で、朝には少し積もっているのではないかと言っていたが、朝、窓を開けて見たら、積雪はなく、細かい雪がチラチラ舞っている。 雪の降り出しが予報より遅れたようだね。 このぶんだと、メイン道路は積もりそうもないね。A氏:誕生日おめでとう。 俺たち小学校の頃は「紀元節」と言っていたね。私:「紀元節」になると、講堂で、「紀元節」の歌を歌ったね。 たしか、昭和15年(1940年)に紀元2千6百年の式典があったね。 神武天皇即位以来、2千6百年目だというわけだね。 しかし、式典は2月11日でなく、11月10日だったんだね。 翌年、太平洋戦争が始まるね。A氏:「紀元節」が2月11日になったのは、明治6年(1873)だね。私:しかし、敗戦でこれがなくなり、昭和42年にやっと「建国記念の日」で復活したね。 宮中では、天皇が宮中三殿で臨時御拝を行い、橿原神宮へ勅使が派遣されるという。 しかし、天皇は今日午後、東大病院に検査のために入院したので、その後なのかね。 俺は、この年で誕生日を迎えるのは、「誕生日 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」だね。 昨日、今月号の文藝春秋を買ったが、そこで日野原重明氏が対談で登場していたが、 今年満100歳を迎えるが、健康で、講演会などのスケジュールが数年後まで埋まっているという。 超人的だね。 肉体の健康も必要だが、生きがいみたいなものも長寿には必要なんだね。 ところで、長い間、図書館で予約待ちしていた本が、どんどん、借りる順番になってきて、今、手元に次の5冊がある。 とりあえず、この5冊の読書から開始だね。1.大いなる不安定 図書館要旨:金融危機はブラック・スワンではない。リーマンショックを言い当て、いま世界で最も注目される経済学者ルービニ初の邦訳。2.減速して生きる 図書館要旨:年収600万円→350万円。なのに手元に残るお金は変わらず。たっぷりの時間で、好きなことをして、社会に認められる!-ちっぽけなオーガニック・バー店主の、目からウロコの減速ビジネス&ライフ入門。3.戦時児童文学論 図書館要旨:戦後、抹消された戦争翼賛童話を、伝統的児童文学の三大作家の作品に沿って豊富な資料をもとに検証する。4.日本海海戦悲劇への航海・上卷 図書館要旨:レパント海戦、トラファルガー海戦、ユトランド沖海戦、ミッドウェー海戦とともに世界の五大海戦に数えられる、日本海海戦。 ロシアの無敵艦隊はなぜ、どのように誕生したのか。バルチック艦隊を率いるロジェストヴェンスキーに、旅順を失った皇帝ニコライは何を託したのか。 「愚物」と司馬遼太郎が評したロジェストヴェンスキーの実像を描き直し、日本海へと向かうバルチック艦隊の実態を、英露に眠る公文書をもとに、詳細かつ立体的に描き出す。5.日本海海戦悲劇への航海・下卷 図書館要旨:日本の巧みな情報戦に翻弄される、ロジェストヴェンスキー提督。ツァーリの優柔不断に振り回され、マダガスカルのノシ・ベとインドシナのカムラン湾で貴重な時間を無駄にしてしまう。やがて、ウラジオストクを目指すバルチック艦隊は、対馬海峡で連合艦隊と激突する。 わずか数時間の戦闘で趨勢の決した日本海海戦。バルチック艦隊は、敗れるべくして敗れたのか。連合艦隊は、勝つべくして勝ったのか。 日露両国のその後の明暗を分けた戦いで、何が起きたのか。戦闘の過程をこれまでにない視点から描き出し、敗れたロシアの苦悩を活写する。
2011.02.11
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【送料無料】特捜神話の終焉私:この本は図書館から借りた。 著者の郷原信郎氏は、東大理学部卒の元検事だが、検事を20年ほどしてその仕事に幻滅を感じて退職する。 この本は、特捜が扱った事件で、被告の堀江貴文氏、細野裕二氏、佐藤優氏の3氏に対するインタビュー記事からなる。 どれも今となっては特捜の早とちりで、ムリな事件をでっちあげたようだね。 まさに特捜神話の終焉を予言する事件だね。A氏:すでに、厚労省の村木厚子氏が昨年9月に無罪になり、そのときの特捜検事の前田恒彦検事が証拠改ざん事件を起こして逮捕されるという事件があったね。 これで正義の検察という特捜神話は止めを刺されたと言えるね。私:この本は、その前の7月の出版だから、村木氏の無罪と前田検事の事件はおりこんでいないが、特捜の問題点は、予告していた通りに展開したね。 堀江氏は、「カネで買えないものはない」と言って検察やマスコミでカネの亡者のように叩かれたね。 しかし、このインタビューでは、言ったことが歪曲されて取り上げられているという。 堀江氏が言いたかったことは、コネなどのつながりで、不透明なビジネスをするのは公平でなく、カネで公平にビジネスを行えるようにすべきだという意味だという。A氏:「カネで買えないものがある」ということ自体、社会の中で既得権を生んだり、非透明性を生んだりしているということを意味しているということか。私:堀江氏は、勾留期間中の孤独な時間が耐えられなかったという。 ゲームすらできない。 一種の拷問だね。 細野裕二氏は、公認会計士だが、経営者と共謀して粉飾決算をしたという容疑で逮捕された。 一貫して無罪を主張した。 検察の取り調べでは、検事は威嚇、高圧的な態度、それにうまく褒め殺しの手もおりこんだという。 これも一種の拷問だね。 つい、検察の調書に早くサインして、外に出たいという誘惑にかられたこともあったという。 以前、リクルート事件の江副浩正氏のTVインタビューを見たが、検事に壁に向かってスレスレに長時間立たされたというようなことを言っていたね。 これも一種の拷問だね。 細野氏の場合、検事が会計の知識がないので、取り調べはとんちんかんだったという。 会計士としての細野氏は、小沢氏の政治資金収支報告の虚偽記載にふれているが、マスコミは陸山会と小沢氏個人の会計を混同しているという。 それに政治資金収支報告書は単式簿記なんだね。 だから、複式簿記のようなしっかりした報告書ではないようだね。 佐藤優氏は、あまり自分の裁判ことをしゃべっていないね。 面白かったのは、ソ連時代の検察の話だね。 バターが不足しているので、1個300円で買って、500円で横流しすると、投機行為となるという。 その罪は、職場はクビになり、最悪の場合、3年くらいシベリアの矯正収容所に流刑になる。A氏:罪状はなんだね。私:社会制度を破壊しようとする政治犯となるんだね。 国有財産の横領プラス資本主義幇助罪だという。 資本主義を復活させようとした政治犯だね。 佐藤氏のインタビューは昨年の参議院選前だが、佐藤氏は民主党が参議院選でも勝って、民主党ファッショを予測していた。 これは見事に外れたね。 もう、日本には汚職などで巨悪は存在しないのではないかね。 経済に関する犯罪は、専門家が行うべきだね。 シロート検事が思い込みで裁くので冤罪の可能性が高いね。 今後、特捜部はどうなるだろうかね。
2011.02.10
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【送料無料】自由貿易の罠私:この本はこのブログの「怪談TPP」西部邁ゼミナールで、ゲストとして登場した中野剛志氏が書いたもので、俺はこのゼミナールを聴いて興味をもって図書館から借りたよ。 著者の中野氏は、40歳の経済通産省の官僚。 著者は、この本の主張は、筆者個人のものであって、著者が所属する経産省の見解と無関係であると断っている。A氏:なぜかね?私:経産省はかって、貿易保護主義の時代があり、「日本株式会社」と言われたが、今は「改心」して極めて敬虔な自由貿易論者になっているという。 ところが、著者は、自由貿易論に理論的にも、現実対応でも疑念を持っている。 この本は、自由貿易論に対する反論書だね。A氏:それで個人的な主張だと断っているのかね。 しかし、経産省も案外寛容だね。私:この本では多くの高名な自由貿易推進論の経済学者が登場するが、著者は、その学説の弱点をついており、著者の博学ぶりがうかがえられる。 しかし、反面、その点、俺のような素人にはすらすら読めなかったね。 保護貿易が1920年~30年代の世界恐慌を悪化させ、世界大戦の遠因となったという歴史的事実は極めて疑わしいという点を指摘している。 そして、現在のグローバル化が進んだ世界での自由貿易は、デフレ圧力となり、先進国では実質賃金をさらに下げる方向に働き先進国の労働者に不利益をもたらす。A氏:実質賃金の抑制や低下は、内需の成長を妨げるね。私:自由貿易によるグローバル経済の構造は、アメリカの貿易赤字と新興国の貿易黒字という偏ったバランス(グローバル・インバランス)になった。 例えば、中国の貿易黒字になったカネはアメリカ国債を買うなどして、アメリカに逆流した。 これが、アメリカへの過剰資金の流入とバブルを発生させた。A氏:そして2008年のリーマンショックだね。私:その金融危機後、各国はデフレ阻止のために、大規模な財政出動をしているが、その中での自由貿易はデフレを促進し、財政出動のカネが海外に流出し、内需刺激効果を減殺する。 税を原資とする財政出動のカネが海外に流失するのでは、民主主義国の政府は国民に説明責任を果たせない。 そこで、アメリカの公共事業が調達する製品を国産に限るという「バイ・アメリカン」政策なる保護主義政策が登場する。 保護主義的な措置によって、デフレに歯止めがかかり、内需が拡大し、経済が成長に向かえば、輸入はかえって増大する。A氏:著者は、保護主義者なのかね。私:違うね。 自由貿易の良い点も認めているが、前提があるね。 自由貿易の「自由」という言葉が、イデオロギー的だね。 それに経済学者の発想が、原理主義的ものが底にある点をついているね。 かっては、「市場の判断は神の判断である」というところに、市場原理主義の原点があったが、自由貿易は「『自由』だからよいのだ」という原理主義的な原点があるようだね。 しかし、現実は複雑で多様で個別性がある。 経済学者はそれを抽象化してしまう。 養老孟司氏は、それを現実を離れた「脳化」というね。 現実は「自由」を放任すると悪になることもある。 適切な「規制・ルール」が必要で、現実は「自由」と「規制」の間を動きまわるものだね。 だから、筆者は現実的なプラグマティズムで対応すべきといているようだね。A氏:その考えで、このブログでとりあげたように、著者はTPPへの日本の参加は愚であると言っているのだね。私:この本は、TPP問題が出る前のものなので、TPP についてはふれていない。 しかし、TPP についての著者の意見は、この本の主張の延長線にあるね。 それにしても、今、TPP 参加反対は農業団体が多いが、学者はほとんどいないようだね、 著者の意見は現在経済学者では少数派だというが、ムードに流されて、少数派の冷静な意見を無視する日本的な思考はこの際、避けるべきだね。
2011.02.09
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私:発展途上国からの輸入品にかける関税を低くして途上国を支援する「特恵関税制度」があるね。 1月末に、TVニュースをちらっと見ていて気になったのが、「特恵関税制度」を中国製品の400品目以上に対して対象外にするということだね。 要するに新しく関税をかけるかあげるということだね。 中国は今やGDP世界2位の経済大国となり、日本を追い越しているので途上国ではないということらしい。 関税をあげれば、日本国内の小売価格が上昇するか、利益が減る。A氏:中国輸入品の多い100円ショップなどはどうなるのかね。私:TVでも100円ショップの人にインタビューしていたが、利益の少ない商品が多いだけに、100円のカンバンを維持するには、困ったことになるとこぼしていたね。 俺たちも100円ショップの便利さを失うかもね。A氏:中国はGDP世界2位の経済大国と言っても、図体がでかいだけで、国民一人あたりのGDPは日本の10分の1だね。 まだ、発展途上国とも言えるね。私:関税引き上げは4月1日からだそうだ。 それにしても、菅首相が関税ゼロを目指すTPP参加を「第三の開国」と言っていたのに、これは方向として、鎖国ではないのかね。 「有言実行」でなく「有言逆行」だね。
2011.02.08
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A氏:今朝の朝日新聞に小さな記事だが、1月30日の東京都文京区の遊園地「東京ドームシティアトラクションズ」のコースター転落死亡事故のことが載っていたね。 転落死した倉野さんの写真が載っていたが、相撲さんのように肥っていて、大きな体を連想させたね。 身長180センチ、体重130kg(新聞によっては100kg)だったという。私:俺はこの事故を最初、TVで知ったとき、体を抑える安全バーが「ポカヨケ」になっていないのかと思ったね。A氏:「ポカヨケ」とは?私:このブログでもふれたが、異常があることをキャッチして、次の動作に移れないようにすることだね。 この場合は、異常があるとコースターが自動的に発車できないというようにすることだね。 人で異常検知をやると「人は間違いをする動物」だから、「ポカヨケ」の原則は機械的、電気的に異常をキャッチさせるね。 「ポカヨケ」システムは、「安全」を重視するコースターには、不可欠だね。 それをしていないというのはコースターシステムの設計ミスだね。 こないだ、このブログで話題にしたTSでは「ポカヨケ」装置の設定は設計の必須項目になっているよ。 新聞では、その方面の追求がなくて、安全バーの確認の記事ばかりで、全体のマネジメントの記事が、欠落しているね。 顧客への安全提供はこの企業の最高の品質だね。A氏:このコースターのシステムはドイツ製らしいね。私:設計者に取材してみたいね。 運用がまずかったと逃げられそうだがね。 設計者に多少、同情的に解釈すれば、この安全バーは何らかの事情で、客の体格に合わせて、8段階調節できるので、「ポカヨケ」装置の設計にコストがかかり、難しかったのかもしれない。 だから、人の監視で補おうとした設計だね。A氏:自動車の安全ベルトの長さは体格の大きい人に対しても余裕を持っているんだろうね。 そしてベルトをしていないと、前の表示版に警告マークがつくね。 ベルトを金具にカチャッと挿入すると、自動的に電気的に検知しているんだね。 ただし、発車できるから、「ポカヨケ」まではいっていないみたいだね。私:今回、コースターの発車前に、安全バーの確認をアルバイトの大学生がしたとか、しないとか、マニュアルがどうかとか、新聞ではあまり意味のないことを書いているね。 これは前にブログで説明した、「教育」と「訓練」の違いの欠落だね。 「教育」主義はマニュアルに関心がいく。 「訓練」主義は、企業側の業務体得訓練を誰がやっているかに関心がいく。 山本五十六大将の「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ」をで「誰がやってみせたのか」だね。 その取材がない。 取材するとき「訓練」が重要だという意識がないようだ。 このアルバイト女性はこの職場に来てから半年だという。 その間、どういう「訓練」を受けたのかね。 それがマネジメント的視点だね。A氏:新聞では、ドイツの設計者が書いた取り扱い説明書には「手でバー確認」とあったが、会社のマニアルには「目視で確認」となっているとある。 そうなると「目視で確認」とマネジメント側の誰が修正したかだね。私:別な新聞では、最初、「手で確認」をしていたんだが、客が腹をさわられるので嫌がり、苦情があり、それで「目視で確認」に変更したんだという。 ISO9001で「4.2.3 文書管理」でマニュアルの承認者、改訂の場合の承認者の明確化という個人責任がうるさいのはこの点だね。 それがマネジメントだよ。A氏:客の苦情への対応もおかしいね。 お客が腹をさわられるのが嫌という苦情があったなら「あなたの安全のためにしているのです。理解してください」というように説明することをマニュアルに追記すべきだね。 そして「訓練」だよ。 間違った顧客対応だね。私:かなり前の話だが、ある大手の工場を見学に行ったときのことだ。 工場の2階へ行こうとしたら、その会社の案内担当者が俺に「スリッパをこのかかと付きの下履きに履き替えてください」というんだね。 俺は「いいですよ、お手間でしょうから、スリッパで行きます」と言ったら、その担当者が「すみません。お年ですから」と申し訳なさそうに言ったね。 その言い方は、丁寧だが頑とした強い意志を感じたね。 要するにスリッパだと階段で転んで怪我をしやすい。 特に高齢者は安全でない。 「老齢だ」と見学者(顧客とも言える)の俺が嫌るかもしれない言葉でしっかり、安全重視を言った担当者に感心したね。 俺はその一言で、この会社の安全重視の考えがすみずみまで貫徹していることを知ったね。
2011.02.07
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【送料無料】バンコク燃ゆ私:せっかく、政権を奪回したタックシン派政権は、憲法裁判所のタックシン派のPPP解党命令などで崩壊。 反タックシンの政権に変わる。 これに対して、再編成したタックシン派の反独裁民主同盟が、09年9月にASEAN首脳会議の会場に乱入。 首脳会議は中止になる。 バンコクは非常事態宣言が出る。 一旦同盟は、投降するが、翌2010年3月に10万人規模の大集会を行い、治安当局と衝突。 こういうタックシン派の活動には、タックシンのビデオ演説が流れる。A氏:この衝突は、日本人カメラマン村本博之氏が死亡した事件だね。私:5月まで衝突は続いたが、同盟は投降する。 これが今までのおおまかな経過だね。 この対立の和解にはすでに国王は乗り出していない。 しかし、タイ国内のタックシンの人気は依然として高い。 ところでタイの軍と司法は、王と直結している。 だから、軍は王を錦の御旗にしてクーデターができる。 司法もそうだね。 王の側近の大物は、ブレームだね。 1920年生まれ。 すでに90歳を超えている。 1998年から枢密院議長を務める。 国王の信任は厚く、軍にも強い影響力を持ち、王室と軍をつなぐ存在として政財界に君臨する元老だね。 このブレームはタックシンが気に入らない。 2006年のタックシン追放のクーデターの黒幕だと言われている。 それに司法の中心である憲法裁判所も公平でないんだね。 反タックシン派に対しての判決は軽く、タックシン派には厳しい。 それは世界130位のマスコミも取り上げない。 それをタックシンは指摘するのだろうね。 拓殖大学の岩崎育夫氏は「憲法に明文化されない国王の政治関与を排除しようとしたタックシンの『合理的』で近代的な政治システム観(公式制度)は、国王のプレゼンスこそがタイ国家の本質(非公式制度)だと考える人々により敗れたのである。--- このような国民の社会意識構造の下では、政治危機のさい、国王に救済(判断や裁定)を仰ぐのは極めて自然な行動となるわけで、この国民の意識構造がまさにタイの政治文化なのである」としているという。 しかし、国王も老齢で病気がちであるし、ブルームも90歳だ。 経済もグローバル化がすすんでいる。A氏:経済の鍵を握る人口構成はどうなんだね。私:それが、タイでは少子化が進み、2005年に65歳以上が人口の7%を占める高齢化率になっており、14%の「高齢化社会」には2025年から27年になるだろうという。 2040年には人口減少が始まる。 日本より速いスピードで高齢化が進んでいるという。 一方でタイの社会保障は脆弱だ。 人口の半数を占める貧しい就職者は年金制度の枠外だ。 格差も拡大している。 タックシン政権の時にはかなり社会保障整備をしたが、年金制度までは手が回らなかったのだろうと著者は言う。 今後のタイはどこへ行くのだろうかね。 カリスマ性のあった84歳で病気がちの国王は、90歳のブルームは、62歳のタックシンは、国内のタックシン派と反タックシン派の対立は、俺が20数年前に仕事で知り合ったタイの人びとは、どうなっていくのだろうか。 エジプトのようにならないといいがーーー。
2011.02.06
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【送料無料】バンコク燃ゆ私:プーミポン国王は、1927年12月5日、米国生まれ。 兄が宮殿内の寝室で、銃弾が眉間を貫通するという衝撃的な自殺か他殺か現在でも分からない謎の死で、18歳で王位を継承する。 1932年のタイの立憲革命で絶対王政は廃止され、近年の憲法では「主権はタイ国民に属する」となっている。 だから、プーミポン国王も即位したとき、絶対の権限をもっていたわけではない。 しかし、第2次大戦後の冷戦構造の中、共産主義に対する国家統合の象徴として、国王を先頭に押し出した経緯がある。 また、共産主義の脅威を口実に、クーデターを繰り返した軍が、その違法性をカバーするために、「国王の承認」を錦の御旗に使い、結果的に国王の権威が高まった事情もあるという。 巨額の資産を持つ国王自身も、自ら国内をまわり、農業振興につくした。 さらに、1973年10月の政変で、民主化を求める学生と軍事政権の治安部隊が衝突し、流血の惨事となったことがあった。 このときプーミポン国王は学生と対話し、軍事宰相に退陣を求めて新首相を指名したことで都市住民や学生からも信頼を勝ちとったという。A氏:それで中立的な政治の調停者、最終決定者としての役割を担うことになったのか。私:タイの多くの家庭には、国王の肖像が飾ってあるという。 国王は、趣味も豊富で、楽器も演奏し、作曲もし、油絵やカメラも嗜む。 セーリングの国際大会で優勝もしている。 多くの国民にとって、理想のスーパースターだね。 国王を政争に使うようになると「不敬罪」が問題になるね。 タックシン追放の2006年のクーデターのときもタックシンは軍から「不敬罪」を問われている。 「不敬罪」が政争の道具として乱発される。 日本のある学者は「国王が不敬罪の厚い壁に守られつつ、敬愛の的になり、揺るぎない地位を保っていることはタイ政治の最大の特徴である」と言っているという。 「触らぬ神に祟りなし」となる。 タックシン派も反タックシン派も王への忠誠を表明している。 アジアでも報道の自由が比較的保障されているタイだが、言論の自由に関する世界のランキングでは、175ヶ国中、2009年には130位だという。 ランキングが低いのは「不敬罪」による逮捕やインターネットの検閲強化が影響しているという。 アメリカ映画のユル・ブリンナー主演の「王様と私」はタイでは上映禁止だそうだ。A氏:日本の戦時中の「不敬罪」に似ているね。私:2006年のクーデターにより、タックシン派つぶしが行なわれた。 これは憲法裁判所によるもので、愛国党解党判決も出た。 タイの司法も公平でなくなっている。 2007年7月にクーデター政府により新憲法草案が作られ、小選挙区が中選挙区にもどった。 これはタックシンのような強力な政権が登場するのを抑えるためだね。 そして12月23日に総選挙が行なわれた。A氏:タックシン派はどうなったのかね。私:タックシン派が名前を変えてできた「国民の力党」(PPP)が定数480のうち、233議席を得たんだね。 選挙結果は、北部と東北部がタックシン支持、南部は民主党支持とはっきり分かれた。 首都では中間層は反タックシン、農村や地方出身者がタックシン支持という構造が浮き彫りになった。 タイの政治史上初めて、追放された政治勢力が復権した。 2008年2月28日、1年5ヶ月ぶりでタックシンは凱旋した。A氏:そんなタックシンがまた再度、国外逃亡するようになるのかね。私:タックシン政権時代に利権から遠ざけられた経済人や元官僚、王党派の権益を代表する人びとをバックに反タックシン派の民主主義市民連合(PAD)が抵抗運動を起こした。 一方で、タックシン寄りの新政権は失政が続いた。 タックシンも汚職法違反で裁判が待っていた。 有罪が確定的だと見て、タックシンは日本に出国。 それから、北京五輪観戦を理由に訪中し、ロンドンで「司法は政敵に支配され、法の正義が期待できない。暗殺の危機もある。民主主義を尊重するイギリスに滞在する」との声明をした。 現在の逃亡生活の始まりとなったね。 明日は、その後のタックシン派の活動と、タックシンをつぶすのが目的の2006年のクーデターの黒幕とタックシン派が非難している大物のブルーム・ティンスーラーノンはどういう人物かふれよう。
2011.02.05
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【送料無料】バンコク燃ゆ 私:俺は、1980年代にバンコクを2度、用事で訪問している。 当時の中国は、2重物価で、外国人と現地人では、物価が違っていた。 しかし、タイはそういう区別がないので非常に安く過ごすことができた記憶がある。 しかも、仏教国なので、人が優しいと思っていたね。 ところが、2000年代に入って、バンコクで民衆のデモがさかんになり、デモ隊が空港を占拠したり、アセアンの会議をできなくしたりするという過激な活動が行なわれるようになったね。 観光もストップになった。 タイに対する俺のイメージは変わらざるを得なかったね。 2010年のデモのときは、警官隊と衝突し、25人死亡。A氏:たしか、その死亡者の中にロイター通信局のカメラマン村本博之氏がいたんだね。私:この温和なタイというイメージが裏切られた感じだね。 この本の著者は、朝日新聞記者としてタイに行くが、この2000年代のタイの政治の動きを詳しく説明していて、タイの政治構造がよく理解できたね。 タイを知るには必読書だと思ったね。 著者は、新聞記者としてではなく、1個人としてこの本を書いたという。 それだけ、タイの政治を書くというのはかなりリスクが高いようだね。 この2000年代にタイの政治に大きな変化を与えたのがタックシン・チンナワットで19世紀後半、中国・広東から移住した客家の4代目だという。 実業家として成功してから政界に進出するね。 1949年生まれ。 タイの憲政史上、最強の政治家であり、この本を読むと歴代首相の中でもきわめて特異な存在だということがわかるね。A氏:タイ経済は、1990年代には高い成長を続けていたが、96年の貿易赤字で97年5月欧米のファンドが一斉にバーツを売り浴びせ、それから連鎖的に起きたアジア通貨危機の発端となるね。私:タックシンは98年7月、タイ愛国党を旗揚げし、2001年の総選挙で定数500のところ、248議席を獲得し、23代の首相となる。 4年の任期を終えた2005年の選挙では377議席を獲得している。 この背景に、1997年の憲法改正で、選挙制度が中選挙区から小選挙区比例代表並立制に改訂したとが影響しているね。 タックシン政権という怪物を生み出した親はこの選挙制度だということになる。A氏:日本の選挙でも小泉政権の郵政選挙の圧勝、民主党の「政権交代の風」による勝利も小選挙区制の影響だね。私:しかし、タックシンは民主党と違い、公約を次から次に実現する。 タイは、東北の農村部とバンコックなどの都会との格差が大きい国家だが、タックシンは地方・貧困対策を通じて、「初めて公約を実現した政治家」「票を入れればその見返りがあることを庶民に理解させた首相」などと評されたという。 だから、海外に逃亡した現在もタイに大きな影響力を持ち、ここ1,2年のデモの原因になっているんだね。A氏:その彼がなぜ、追い出されるのかね。私:実業家あがりだけあって、強引すぎる政治手法、麻薬やテロ(タイ南部はイスラーム圏)などに対する多少人権無視があった治安対策、金権体質などから、既得権を侵された層(上層階級)からの反発を招くね。 そして、タイと言えば軍のクーデターで有名だが、15年間それはなく、もうクーデターの時代ではないと思われていた。A氏:それが2006年9月19日にソンティ陸軍司令官による軍事クーデターが起きるね。私:タックシン首相が国連総会に出席のためにニューヨークに滞在中に起きた。 19日、政府系放送局は「国王を元首とする民主改革評議会が権力を掌握した」と放送。 憲法を停止し、戒厳令を敷き、憲法裁判所、全閣僚、国会議員を解任した。 その夜中に、ブレーム枢密院議長に付き添われソンティは国王と面会して、クーデターのお墨付きを得る。 決起の理由は「国の分裂を解消する必要があった」ことに付け加え「政権の腐敗」「タックシンの権力乱用」「不敬」があった。A氏:議会政治体制で王政ではないのに、国王が出るのはおかしいね。私:そこがタイ政治の分かりにくい点だね。 それは明日、ふれよう。
2011.02.04
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A氏:昨日の国会で、公明党の追求で、今度は年金で民主党の「マニュフェスト」の幼稚さが暴露されたね。 今朝の朝日新聞では、公明党幹部が「民主党のマニュフェストは腐っている。 腐った『幹』から出てきた政策には賛成するわけにはいかない」と言っていたと報じている。私:民主党の「マニュフェスト」は前から基本的に問題だとしていたんだがね。A氏:このブログでも一昨年から「政策マニフェスト選挙の意味を疑う」、「民主党よ、豹変せよ!」、「マニフェスト原理主義とは 」、「英国『政権交代』失敗の教訓」、「教員不足 」と「マニフェストの無意味さ」を主張してきているね。私:ところで、2、3日前のBSフジテレビのプライムニュースに「みんなの党」の渡辺喜美代表が、ゲストとして一人で出演していた。 後半のほうしか見ていなかったが、経済成長年率4パーセントをすれば、消費税などの増税もいらないという。 「みんなの党」は経済成長4パーセントでカバーする方針だという。A氏:高度成長期と違い、これから少子高齢化で難しいのではないの?私:司会者もそれを渡辺氏に聞いていたが、渡辺氏は「全然、問題ない」と相手にしなかったね。 たしかに、経済成長を年率4パーセント継続していけば、机上計算はつじつまが合うね。 問題は、どうやってできるかだね。 どの産業で成長が期待できるのかね。 自動車かね。 電気製品かね。 それとも環境機器かね。 製造業でなくIT部門かね。 実行可能な具体性がないのが民主党の「マニュフェスト」心理に似てきたね。A氏:大体、経済成長は、政府がやるのでなく、民間企業が中心だろう? iPADはオバマ大統領が開発したわけではない。 アップル社のスティーブ・ジョブズの力だね。 経済成長4パーセントは経団連が約束したのかね。 そんな約束は不可能だけけれどもね。 「企業減税でiPadは生まれるのか」だね。私:「みんなの党」の公約は「マニュフェスト」でなく「アジェンダ」だそうだが、何か英語をわざわざ持ち出すのは、「マニュフェスト」でこりた国民は「またか、英語か」と思うだろうね。 民主党の「マニュフェスト」は完全な失敗で、その非をすぐに認めないのは、さらなる大失敗だね。 民主党は、エイヤッで決めた「マニュフェスト」で自滅だね。A氏:「みんなの党」の経済成長4パーセントも机上計算のエイヤッ・タイプみたいだね。私:このグローバル化で変動している経済の先まで数字で正確に予想できるという「大胆さ」に俺は驚いたね。 リーマンショックのトラウマがないのかね。 「この株は絶対、4パーセント値上がりしますよ」という株屋の宣伝文句のようだね。 いろいろな危機を想定し、柔軟に対応できるのが政治家の本質なんだろうが。 経済成長4パーセントの一言で、俺は「みんなの党」にガッカリしたね。
2011.02.03
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【送料無料】銃・病原菌・鉄(下巻)「科学としての人類史」私:著者は、人類の長い歴史が大陸ごとに異なるのは、それぞれの大陸に居住した人びとが生まれつき異なっていたからでなく、それぞれの大陸の環境が異なっていたからだとしているね。 そしてその要因を4つあげている。A氏:今までの話から、まず、食料生産の相違があるだろうね。私:1つ目の要因はその通りだね。 栽培化できたり、家畜化できたりする動植物種の分布が大陸によって異なっていたことだね。 食料生産が向上すれば、人口が増加し、専門化が進み、技術も発展し、政治的にも統合されていく。 2つ目の要因は、各集団での文化の伝播や拡大の速度だね。 これが大陸によって相違がある。 この速度がもっとも速かったのはユーラシア大陸で、それはこの大陸が、東西方向に伸びており、生態環境や地形上の障壁が他の大陸より比較的少なかったからだという。 東西方向だと、緯度的に環境が似ているから、他の地域の作物や家畜を利用しやすいね。A氏:アフリカは南北に緯度をまたいで伸びている大陸だね。 その点、不利だね。 南北アメリカ大陸もそうだね。 ニューギニアでは急峻な山岳地帯が伝播や拡散をきわめて難しいものにしただろうね。私:3つ目の要因は、異なる大陸間での伝播に影響を与えたものだね。 大陸間の伝播は、どこも同じだったわけではない。 ユーラシア大陸からサハラ近縁地域への伝播がもっとも容易だった。 オーストラリア大陸のアボリジニはインドネシア海峡によってユーラシア大陸から隔てられていた。A氏:大陸間の伝播は、その大陸内部の文明の進化と関係するんだね。私:4つ目の要因は、それぞれの大陸の大きさや総人口の相違だね。 面積の大きな大陸や人口の多い大陸では、何かを発明する人間の数が相対的に多く、競合する社会の数も相対的に多い。 新しい技術を取り入れなければ競争に負ける。 「人口ボーナス」現象かね。 世界の大陸のうちで、面積がもっとも大きく、競合する社会の数がもっとも多かったのは、ユーラシア大陸だ。 南北アメリカ大陸は面積こそ大きかったが、地理的、環境的に分断されていて、実際には連続性のない2つの少大陸として機能していた。A氏:ユーラシア大陸の人びとが他の大陸より知的に恵まれていたのでなく、地理的に恵まれていたというわけだね。私:著者は言う。 彼の知っているニューギニア人の中にも知的に優れた人もいる。 しかし、それらの人でエジソンに匹敵する才能の持ち主たちは、自分の才能を蓄音機の発明に使っていない。 彼らはニューギニアの密林で自給自足の生活を送るという、自分たちの状況に見合った問題を解決するためにその才能を使っているのだと言う。 こういう自然環境の影響を考えると、小さな国土で東西南北と伸びている日本。 砂漠のない、温帯性で四季があり植物が豊富な日本。 海で隔てられていたために長い間大陸からの侵略を受けなかった日本。 これが、今の日本人の伝統的な性格に大きな影響を与えているだろうね。 たしか、和辻哲郎氏が「風土」の中に見られる「風土が人間に影響する」という思想を展開していたね。 この本は、それをもっと全世界的に、人種論的にに広げたものといえるかもね。
2011.02.02
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【送料無料】銃・病原菌・鉄(下巻)「旧世界と新世界の遭遇」私:アメリカ先住民はなぜ旧世界(ヨーロッパ)を征服できなかったのか」ということで、この章は始まるね。 ここで扱っているアメリカ先住民は、北アメリカのインディアンだけでなく、南アメリカのインカ帝国も含んでいる。 そして、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」した1492年当時のユーラシア大陸とアメリカ先住民社会とを比較している。 まず、食料生産の相違だね。A氏:著者は、文明の進歩の要因として食料を重視しているね。私:ユーラシア大陸では、12種の大型動物が、食料、羊毛、毛皮の利用以外に、運搬手段、軍用動物、農耕手段、動力源として利用されていた。 この点は、上巻に詳しく載っているようだ。 これに対して、南北アメリカ大陸では、ただ1種の大型動物であるラマ/アルパカが利用されていただけで、運搬手段は限られており、動力源や軍用に利用されることはなかった。A氏:なぜだろう?私:それは更新世末期に南北アメリカ大陸では大型動物が絶滅したからだという。 この絶滅がなかったら、歴史は大きく変わっていただろうと著者は言う。 農業も、ユーラシア大陸のほとんどの地域では行われていた。 しかし、アメリカ大陸では、狩猟採集民のほうが農耕民より多かった。 現在、南北アメリカ大陸の太平洋岸地域で農業が盛んな地域は、ヨーロパ人が導入したものだね。 南北アメリカ大陸で最初、栽培されていたものはタンパク質に乏しいトウモロコシだった。 その他、両大陸の相違で重要なものは、病原菌の問題があった。A氏:病原菌?私:ユーラシア大陸では、もともと動物のかかる感染症が変化して人間がかかるようになった。 天然痘、麻疹、インフルエンザ、ペスト、結核、チフス、コレラ、マラリアといった致死率の高い病気が、人が密集して暮らす社会をたびたび襲った。 これらの病原菌はユーラシア大陸での家畜によるものだね。 そのために人びとにそれらの病気に対する免疫や遺伝性の抵抗力が自然にできあがっていた。 しかし、コロンブスが発見する前のアメリカ大陸が発祥地である集団感染症は非梅毒トレポネマだけだという。A氏:梅毒の起源はアメリカ大陸ではないの?私:それは意見が未だに分かれているという。 ヨーロッパ人がアメリカ大陸に進出したとき、これらの病原菌も持ち込まれ先住民を襲った。A氏:ユーラシア大陸とアメリカ大陸との大きな相違は、技術力ではないの?私:著者は、それも食料生産の相違が起因しているという。 両大陸の食料生産がおこなわれていた時間の長さの相違が原因となっているという。 ユーラシア大陸のほうが早くから食料生産をしていたため、人口密度が高く、労動の分化や専門化が進んだという。A氏:一種の「人口ボーナス」だね。私:次の5つの分野での技術の相違をあげている。 ユーラシア大陸のほうがいずれもはるかに優位だね。 1つは金属の利用技術。 2つ目は、軍事技術。 3つ目は、機械を動かす技術。 4つ目は、車輪の利用(これは南北アメリカ大陸ではオモチャとしてのみ存在)。 5つ目は、航海技術。 最終的には、ヨーロッパの食料生産に適し、ヨーロッパ人の体質に適した温帯地域では大規模な先住民社会が南北アメリカ大陸から葬り去られた。 明日は、人類の長い歴史が大陸ごとに異なる要因にふれよう。
2011.02.01
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