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『千鳥』鈴木三重吉(岩波文庫) 世間にはいろいろな趣味があるもので、と書いている私も、人から見たら変な趣味だと思われるであろう事は、何となく薄々と感じております。 何のことをまた書き出したのかと言いますと、いえ、本ブログのことなんですがね。 本ブログも、もうすぐ450回になんなんとし、わたくし、やっと最近自分のやっていることの意味が少しだけ分かりつつあるのですが、よーするに、私の趣味は、ははーん、読書感想文を書くことであるのだな、と。 で、自分でも思うんですが、たぶんほとんどの方がそうであったろうと思うのですが、小学校の頃、夏休みの宿題でもっとも嫌だったものベスト3(「ワースト3」?)をアンケートしたら、その中に入ってくるであろう宿題が、読書感想文ではなかったか、と。 (残りの嫌だった宿題ベスト3の候補としては、おそらく「夏休み絵日記」とか、あと、「自由研究」! あれも大概大変でしたよねー。そんなに毎年毎年、夏のたびに研究したいことのテーマなんてありませんて。) とにかく、わたくしもみなさまの例に漏れず、夏休みの読書感想文には大いに頭を痛めていたはずなのですが、しかし偉いモンですねー、あの頃から時は移り時代は流れ、今では誰に強制されるわけでもないのに、自分で勝手に読書感想文を書いているではありませんか。 ……うーん、……何といいますか、我が事ながら実に奇々怪々であります。 その上、読んでいる本がこれまた、例えば、正宗白鳥とか徳田秋声とか田山花袋とか、たぶん今年一年間にこれらの作家の本を読んだ人、日本中から集合! と募っても、どこか商工会議所の50人規模の小会議室に充分入っちゃう数じゃないでしょうか、きっと。 そんな、ピンポイントな読書感想文が趣味ですというのは、やはり客観的に見て、少し変人(ヘンタイでは、ありませんよねぇ、なんとか)であるでしょーなー。はは。 さらにその読書感想文につきましてですが、内容がないので、読みやすいんではないかと常々思ってはいたのですが、今回、はたと、読みやすいとは何か、いえ、正確に言えば、読みにくいとは何か、ということを考えた次第であります。 というのも、冒頭の本書でありますが、これが実に読みにくい小説であったのですが、何で私はこんなに読みにくく思うのだろうかと、読みながらとても不思議に感じたのでありました。 わたくし、鈴木三重吉の小説というのは以前に『桑の実』と言うのを読み、本ブログでも報告しています。その記事は、さほど感動したというものではないがそれなりのものだったかなという書きぶりであります。 ただ、これも不思議なんですが、確かに時々こんな本って、ありますよね。 どんな本かというと、読み終えた直後は感動したわけでもなく、さほど高評価を下したわけでもないのに、その後内容もどんどん忘れていった後になって、へんに好印象の残る本なんですが、そんな本って、ありませんか。 そんな本として、今ふっと浮かぶのが、これまた我ながらきわめて変なチョイスなんですが、古山高麗雄の『プレオー8の夜明け』なんてタイトルが、本当に脈絡なく浮かんできます。(なんでこの小説が浮かんできたんでしょうかね? この小説についても、一応本ブログで報告していますが。) ともあれ、そんな後日悪くない印象を持った『桑の実』と同様なものかと、今回冒頭短編集を読んだのですが、これが読むのにとても時間が懸かりました。 総タイトルにもなっている「千鳥」は、漱石の絶賛を受けたんですね。 漱石という人は、新しい才能を発見するのが好きな人で、事実何人もの「本物」の新しい才能を発見しています。 例えば芥川龍之介とか中勘助とかが有名どころでしょうが、一方でご存じのように名だたる「漱石山脈」には、実作者として大成したと言える作家はいません。見事に、いません。敢えて言えば芥川がそうでしょうが、彼にしても実働10年で終わってしまいました。(近年、芥川の高評価については見直されつつあるとも漏れ聞きます。) そんな漱石発見の「千鳥」でありますが、うーん、私としてはやはりとても読みにくかったですねぇ。 これはたぶん、描写の「息」が短いせいではないかと、私はまず思いました。 描写の「息」が短いと、読者が頭の中でそのイメージを作った時には、実際の文はもう次の対象の描写に移行しており、その結果読者は次々と頭の中で新しいイメージを追っかけていかねばなりません(それも、短いので十分に形作れずに)。それが、けっこう大変。 頭の中の一つのイメージから次のイメージへの移行に、心地よいジャンプ感覚のある文章もあるでしょうが、どうも本書はそんな感じのものではないように思いました。 そこで、とても、読みにくい、と。 かなり雑駁な推論で何とも情けないのですが、いくら私の大好きな漱石が褒めていても、やはり本作は、筆者の若書きではないかと思うのであります。 本文庫には最後に筆者の解題がありますが、24歳の作と触れられています。 24歳にもなっていりゃとんでもないような素晴らしい作品を書く人もいるでしょうが、まぁ、筆者の師匠の漱石は、その年にはまだ「坊っちゃん」もしていなかったんですから(漱石が松山に行くのは29歳ですね)、これはこれで、まずまずなものであるのでしょうかね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.12.31
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『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ』芥川龍之介(岩波文庫) 今になってこんな事を述べるのも何かとは思いますが、実は私、児童文学というものがよく分かりません。いままで本ブログにおいては、幾つかのいわゆる児童文学を取り上げたことがあるように思いますが(例えば宮沢賢治とかですね)、……。 と言うところまで書いて、思うところあって以前私が宮沢賢治について触れたブログの所を読み直してみたら、今回私が言いたかった児童文学についての意見が、既に書かれてありました。なーんだ。と思いつつ、せっかくですから、自分の文章ですがちょっと引用してみますね。 例えば芥川の『蜘蛛の糸』なんかでも、児童文学としてはともかく、大人が読むには一種の「限界」を理解しつつ読む必要があると感じます。 それはおそらく「人間性の簡略化」という事だと思いますが、これこそが、僕が児童文学を苦手とする原因ではないかと考えています。 (太宰治の『走れメロス』は、ちょっと天才的な「別格」です。) 今回読んだ『蜘蛛の糸』にまですでに触れているではありませんか。 というわけで、今回の読書報告の冒頭の岩波文庫は、岩波文庫の芥川の本すべての解説文を書いている中村真一郎が、「非常に広く考えて『子どもむき』と考えることもできよう、というものを選んでみた。」と書いて選んだ短編小説集であります。 20編の小説が収録されていますが、短いのは1ページとか3ページとかで終わっています。一方長いのは『妖婆』という作品で54ページです。この長さは、未完に終わった『邪宗門』や『偸盗』なんかと同じくらいの長さです。 (ついでながら『妖婆』というお話は、何といいますか、上記の未完作品や、芥川の少し長い目のお話に特有の、ストーリー上の面白さがいっぱい詰め込まれた、良い例えなのかどうか分からないですが、江戸川乱歩の「奇妙な味わい」小説のような面白さです。) と、ここまで書いて、また少し不安だったので調べてみましたら『邪宗門』は66ページだったので、ほぼ私の書いたとおりに合っていたのですが、なぜか我が家に『偸盗』が見つかりません。確か『偸盗』は、わたくし2回読んだ覚えがあるんですがねー。いったいどこ行っちゃったんでしょうねー。……というわけで、『偸盗』はどれくらいの長さだったかよく分からないままの無責任な記述であります。どーもすみません。 で、さて、芥川の児童文学です。 私の苦手な児童文学ですが、こうして並べてみますと、短編小説の名手芥川でも、出来の善し悪しがあることが分かります。やはり有名な作品はそれなりにしっかりとまとまっています。短編集の総題にもなっている『蜘蛛の糸』とか『杜子春』とかですね。 『トロッコ』は、ちょっと中途半端な感じがしました。特に作品の最後に主人公の少年「良平」の、26才時のことが4行書かれてあるのですが、ここの理解が少し微妙ですね。名作『蜜柑』なんかは、最後の2行が作品に広がりを与えてとってもよかったですが、『トロッコ』の最後の4行は少しネガティブな描写だからかもしれませんね。 しかしよくできた『杜子春』にしても、上記に触れた「人間性の簡略化」という理解に、私としてはどうしても引っかかってしまうんですね。児童文学を読む以上そんなところに引っかかっていてはつまらないではないかとは一方で思いつつ、やはり少し気になります。 例えばこんな所です。『杜子春』の最後の所。仙人になれなかった杜子春と仙人が話す個所です。 杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。 「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません。」 「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳な顔になって、じっと杜子春を見つめました。 「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという望も持っていまい。大金持ちになることは、元より愛想がつきたはずだ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思うな。」 ここなんですがね。この仙人の言ったとおりだとすると、初めから杜子春は仙人にはなれなかったわけですね。まー、何かを学ばせるというのはこういう事なのかも知れませんが、少し仙人が意地悪な感じがするのは否めませんね。 ついでに、もしも杜子春が鞭を受ける父母を前にして、最後まで一言も口を利かなかったらどうなっていたのか。それは『蜘蛛の糸』が如実に語ってくれています。 しかしこちらの「お釈迦様」も、少々気分次第、気まぐれな感じのするお方ではありますが……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.12.23
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『D坂の殺人事件』江戸川乱歩(創元推理文庫) 今まで何度か引用したり触れたりした『文学全集を立ち上げる』丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士(文春文庫)ですが、今回もこんな興味深いことが書いてあったので、ちょっと引用させていただきますね。丸谷 乱歩は谷崎に一生懸命傾倒したわけだものね。乱歩が人を介して、 谷崎に色紙を書いてくれと頼んだことがある。ところが谷崎は、「 大衆作家に色紙は書くわけにいかない」と一顧だにしないで断った んだって。僕は、本当は谷崎は、乱歩が自分の真似をしてると思っ て嫌だったんだと思うね。三浦 だって谷崎自身、非常に大衆的な部分ありますものね。丸谷 谷崎は、自分が文壇で大衆作家と言われるのが恐かったんだよ。 (略)谷崎が「新青年」に「武州公秘話」なんかを書く。あれは、 原稿料がものすごく高かったんだそうだけど、だからこそなおさら 大衆作家と言われたくない。その谷崎にとって、いちばん危険なの は江戸川乱歩だったんだよ。――なるほど、エピゴーネンということか。鹿島 ラ・ロシュフコーが「エピゴーネンの価値は、真似た人の欠点を拡 大するところにある」というようなことを言っている(笑)。 ちょっと長くなりましたけれど、とっても興味深いですよねー。色紙の話なんて、これは本当に本当の話なんでしょうか。本当だとしたら、谷崎の言い分は全く理屈に合わないと思うんですがー。……でも、まぁ、実生活でもそんな理屈にあわなさを実践していたような方らしいですから(有名な「細君譲渡事件」の時の佐藤春夫と絶交した件なんか、谷崎めちゃくちゃですよ)、ひょっとしたら本当かも知れませんね。 今回、冒頭の乱歩の短編集を読み、そして引用した『文学全集…』の乱歩の部分をぱらぱらと見ていたんですが、全くだなと思ったことが一つ、うーんそうなのかなー、と思ったことが一つありました。 最初の一つは、乱歩が谷崎にかなり傾倒していたという部分であります。 本書にある小説以外でもどこかで読んだ気がするのですが、とにかく本書収録の『D坂の殺人事件』の中にも、谷崎の『途上』に触れた個所がありますね。 それ以外で言えば、サディズム・マゾヒズムについても、乱歩作品には再三出てきたように思いますが、これなんかも谷崎への傾倒でありましょうか。 しかし一方、引用部で丸谷才一が言っている「僕は、本当は谷崎は、乱歩が自分の真似をしてると思って嫌だったんだと思うね。」というのは、どうなんでしょうか。 確か以前横溝正史が書いていたと思いますが、第二次大戦終戦直後、今誰の本を出版すれば売れるだろうと友人と話し合った時、一同の納得を得たのが、谷崎と乱歩だったというエピソードです。 なるほど、一般的には二人の間にさほど違いがないと言うことでありましょうか。谷崎が嫌がったというのは、分からなくはない、と。 しかしわたくし思うんですが、谷崎と乱歩は、やはりかなり違うんじゃないか、と。 今回報告の本書には、十二の短編小説が収録されています。総題になっている『D坂…』は、明智小五郎が初めて登場すると言うことで、割と有名な話です。私も再読しました。これ以外にも何作かは今まで読んだことのある作品でしたが、初めて読んだ小説に『虫』と言うのがありまして、これがなかなかよかったです。 どうよかったかと言いますと、いかにも乱歩的な倒錯とあわせて、作品に「狂気」が描かれているんですね。例えばこんな感じです。 彼は幾度も同じ部分を読み返していたが、やがて、ポイとその本をほうり出したかと思うと、頭のうしろをコツコツと叩きながら、空眼をして、何事か胴忘れした人のように、「なんだっけなあ、なんだっけなあ、なんだっけなあ」とつぶやいた。そして、何を思ったのか、突然階段をかけ降り、非常な急用でもできた様子で、そそくさと玄関を降りるのであった。 門を出ると、彼は隅田堤を、なんということもなく、急ぎ足で歩いて行った。大川の濁水が、ウジャウジャと重なり合った無数の虫の流れに見えた。行く手の大地が、匍匐する微生物で覆い隠され、足の踏みどころもないように感じられた。「どうしよう、どうしようなあ」 彼は歩きながら、幾度も幾度も、心の苦悶を声に出した。あるときは、「助けてくれえ」と大声に叫びそうになるのを、やっと喉のところで喰い止めねばならなかった。 どうでしょう。私の勝手な思いこみなのかも知れませんが、谷崎はこんな「狂気」は書かなかったんじゃないかと。 そしてそれは、サディズム・マゾヒズムについても同じで、谷崎にとってそれは骨がらみの我が個性であったけれど、乱歩にとっては、この狂気がそうであるように、サディズム・マゾヒズムも作品の「意匠」のひとつでしかなかったかと、まーそんなふうに、私は考えたわけです。だから、谷崎は乱歩を嫌がった、と。似ているから嫌がったんじゃなくて、そうじゃないのに、似てもいないのにそんな振りをしているから嫌がったんじゃないか、と。 穿ちすぎですかね。そんな気もしますし、冒頭の引用部で最後に鹿島茂が言っている「エピゴーネン」とは、結局そんなことを言っているのだという気もします。 ともあれ、谷崎は自分の個性だけを書き、乱歩は様々な意匠を書いたという違いは、もちろん持って生まれたものの違いが大きいのではありましょうが、そのほかにも乱歩はまれに見る勉強家(推理小説についての深い造詣)であったということが、かなり関係しているのじゃないかと私は思うんですがね。 だって、これも偏見かも知れませんが、谷崎に「勉強家」なんて単語は、ちっとも似合わないではありませんか、ねぇ。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.12.11
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『日本文化私観』坂口安吾(講談社文芸文庫) 例えばこんな事が書いてあります。 それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも荒野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。 私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。(『文学のふるさと』) また、こんな事も書いてあります。 叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう。人は孤独で、誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういう所からうまれてくるのだ、と僕は思っている。(『日本文化私観』) 今回報告の冒頭の文庫本は、随筆集であります。「高価」で有名な講談社文芸文庫ですが(私はブックオフで廉価で入手しました)、「坂口安吾エッセイ集」三冊の内の一冊です。二十以上の随筆が収録されていますが、少しアバウトに内容をまとめますと、ことごとくが「文学」随筆であります。 そしてそのことが、実にわたくしを泣かせるのであります。 まー、いい年をして未だに文学大好きと言っているわたくしであります。(ちょっと注釈しておきますと、もちろん年齢と文学は実際の所関係ありませんね。しかし一般的に考えると「文学青年」というのは何とか有効性をぎりぎり保っていそうですが、「文学中年」や「文学老人」は、もう話になりません。)そんなわたくしでありますゆえ、上記のような安吾の文章は、ほとんど阿片のごときものになっちゃうんですね。 特に上記引用の一つ目の文章は、確か高校の時の国語の教科書で初めて読んだように思うのですが、とても懐かしく(いや、違うかしら。あるいは教科書に載っていたのは『ラムネ氏のこと』であったかしら)、それ以来わたくしは、折に触れては読みかえし、何種類かの安吾随筆の文庫本を買いなどしつつ(我が家には数種類の文庫の『堕落論』があります)、その度ごとに何といいますかー、少しふにゃふにゃな感覚になってしまいます。 しかし思いますに、例えば文学をこんな「夢見心地」な表現で書いた人って、安吾の他にいるんでしょうかね。 書いてあることは、今となっては割と基本的なことで、要するに人生には救いなどない、ただ生きることにしか意味はない、ということで、これはまー、生きることの基本認識でありますわね。 いまふと、こんな文章を思いだしました。 はてしなき辛苦。そうでなければ、いったい人生に何の価値があるか。……ある者は意志し、ある者は闘わずしてあきらめる。 これは画家のポール・ゴーギャンの晩年の文であります。安吾の文章の中に入れてもほとんど違和感がないような文ですね。 要するに、安吾の文章は、プロの文学者としては少し無防備すぎるということではないでしょうか。 文学以外の芸術家の文章、上記に挙げた画家の文章とか音楽家の文章とか(有名なベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」もこんな感じじゃなかったでしょうか、よく覚えていないんですが)、いっそ宗教家まで含めてしまうと、この手の文章は大いに類例がありそうです。(わたくしほとんど無知なんですが、そもそも旧約聖書の『ヨブ記』ってこんな話だと聞いた気がするんですが、違っているでしょうか。) しかしだからこそ、文学者坂口安吾の随筆は、安吾の「本業」である小説以上によく読まれ、そして面白いのだと思います。(安吾の小説の「面白なさ」は、また少し別の要素もあるようですが。)つまり、他の文学者ならたぶん恥ずかしがって書かないことを、易しく無防備なほど優しく書いているが故に。 まさにこれらの文章こそが、今となっては「文学のふるさと」となっていると、私はしみじみと思うのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.12.02
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