全5件 (5件中 1-5件目)
1

『吾輩は猫の友だちである』尾辻克彦(中公文庫) 冒頭の小説の読書報告の後半です。 前回書いていたのは、尾辻克彦=赤瀬川原平の文章は、内容いかんによらず、読んでいるだけで快いと思うということでありましたが、先日、ある音楽の本を読んでいましたら、こんなことが書いてありました。 ピアニストの友人がこう語っていたのを思いだす。「ショスタコの前奏曲とフーガは、自分で弾いていると、指の『運動的な愉悦』があるのです」(『チャイコフスキーがなぜか好き』亀山郁夫) 私は思わず、なるほどねー、と思いました。しかし、さらによく考えてみれば、そもそも楽器演奏にはこういった側面がいつも、少なからずあるのではないか、と。 私はほとんど楽器演奏などできない人間ですが、それでもこういった「愉悦」は充分想像できそうです。 あ、エアーギターなんて、そんな「愉悦」の純粋培養のパロディを楽しむ遊びじゃないですかね。 そんな風に連想していきますと、例えばクラシック音楽を聴いていて、自分でタクトを振ったことのない人なんていないんじゃないでしょうか。 あなたもきっと、こっそり一人で自分の部屋で、愉悦に浸りながらベルリンフィルの演奏を指揮したでしょう?(私は菜箸を持つと、いつも一人で振ってしまうんですがね。ベートーヴェンの交響曲5番なんて得意中の得意ですよ。ただし始めのちょっとだけ。) ということで、音楽鑑賞においては、聴いているだけで快いというのは、ほぼ当然のことであると分かりました。(こんな当たり前のことに気づくだけで、どんだけ時間がかかってんねん!) しかし文鳥というのはどうなのだろうか。やはり魔法を持っているのだろうか。それはまだ私は観察していないのでわからない。やはり猫にくらべると文鳥は表情に乏しい。いや猫だって人間にくらべたら表情に乏しい。顔面の表情筋の一番発達しているのはやはり人間である。だから人間は薄笑いを浮かべたり苦笑いをしたりということができる。猫には苦笑いができない。薄笑いもたぶん浮かべることができない。いや極く極く薄い薄笑いなら浮かべているのかもしれないけれど、それはまだちゃんと発見されてはいないようである。でもそのかわり猫の場合は表情筋というものが体全体に分布している。だから猫というのはときどき体全体を使って苦笑いをすることがある。まだはっきりとはわからないがきっとそうだ。 上手な説明ですよねー。 この上手さは、筆者の文章が、「見て」そして「考える」タイプのものであるからですね。或いはさらにもう一歩進めて、「見る」ことが「考える」ことになっている思考といえるのかも知れません。 ご存じのように、筆者は小説家の前に画家(前衛芸術家)でありました。(小説を書き出してからも、画家でもいらっしゃいますが。) 私は以前、筆者の美術評論を読んだことがありますが、文章が、その絵を見る視線から感じられる感覚と、見事にぴたりと一致しているのに驚いたことを憶えています。 つまり読んでいて心地よい文体の原因は、画家の文体=見る者の文体であるから、と、まず言えそうに思います。 地球は六千度の太陽からちょうどいい距離にいて、そのまわりをほとんど円軌道で回っているけど、それがちょっとでも太陽に近づき過ぎると、百度ぐらいはアッという間に上ってしまう。百度というとお湯が沸騰する。人間の血や汗や涙というのもすぐ沸騰してしまうそうだ。そうすると私たちは血も涙もない人間となってしまって、人体は黒焦げの炭素となって、鉛筆の粉みたいにフワッと散って、もう何もなくなってしまう。 だけど地球はそういうことをしないで、いつも同じ軌道をそれずにジーッと回っているのだから、地球は偉い。ねばり強い性格だ。それが五年や十年のことでなくもう何億年とその同じ軌道を回りつづけているというのだから、地球には頭が下がる。 上記の文章、このとっても上手な文章を書き写しながらふと気づいたのですが、この文章って、漱石の『猫』のパロディなんでしょうか。 タイトルは明らかにそうですから、筆者は、文体についてもそれを意識したかも分かりません。しかし、稀代のユーモア作家としての才能を持ちつつ、それを花開かせる方向には進まなかった漱石の文体のパロディであるかどうかはさておき、この文章がまた、実に尾辻克彦=赤瀬川原平的ユーモアに満ちあふれていることは間違いありません。 このユーモアの方向性について、実は本書の解説文を書いている村松友視がとても上手な表現で説明してくれています。 「いいかげんな厳格主義」 そう言えば赤瀬川原平は、「トマソン」という、あれは何とまとめればいいのでしょうか、「都市における前衛芸術概念」とでもいえそうな芸術発見運動をしていました。 あの運動の持つユーモラスな性格も、いわば、「いいかげんな厳格主義」が生み出した新しい「美意識」であるような気がします。 当たり前の話でありましょうが、ある分野の「美」について敏感な感覚とは、他の分野に移行しても、「嚢中の錐」のごとくみる間に頭角を現し、人を魅せるものなのですね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.06.24
コメント(0)

『吾輩は猫の友だちである』尾辻克彦(中公文庫) 「ペット・ブーム」と言われてすでに久しいですね。 しかし、ずうっっっっと、ブームが続いていたら、もうそれはブームとは言わないんですよね、確か。 例えば、「韓流映画」なんてのはどうなんでしょう。少なくとももう、「ブーム」ではないような気がするんですがね。じゃ、代わりになんて言うんでしょうか? ……うーん、わかんないですね。何か言葉があるように思いますが、「定着した」とでも言うんでしょうか。でもこの言葉って、その状態を示す言葉ではないようにも思いますね。 (……えー、ちょっと中断いたしましてー、一言申し上げますがー、そもそもわたくしは、「ブーム」なんてものの情報に、ほぼ100%詳しくない人間であります。先日も知人と流行歌の話をしていて、私の挙げる流行歌が、一番最近のものでも2年ほども前の歌であることの指摘を受け、失笑を得ると共に、わたくしもつくづく考え込んでしまいました。……えー、そんな私の「ブーム話」でありますゆえ、少々(ひどく?)ピントが外れておりましても、ぜひとも笑ってお読みいただければと思うものであります、はい。) さて、「ペット・ブーム」でありますが、ネットを見ていましても、ブーム音痴の私でありましても、相変わらずペット・ブームである、いや、相変わらずどころか、この傾向はなんだか日々拍車が掛かりつつあるのではないかと薄々感じられるこの頃ですが、この理解は間違っていないでしょうか。 冒頭の小説タイトルからも分かるように、話題は「猫」であります。 とにかくもー、とってもたまらないくらい可愛いということで、上記に述べたブームに拍車が掛かっているんじゃないかという私の指摘も、「愛猫自慢」めいたブログやホームページが最近とみに増えているように思うことから生じたものなんですが、これも間違っていないでしょうか。 我々が猫をかわいらしく思うことについて、本書には「猫の魔法」としてこんな風に書いてあります。 道端を歩いていて猫を見ても、「あら可愛い」 とは言っても、「あら可愛いン」 とはならない。魔法にかかっていないのだ。魔法にかかった場合には、どうしても最後の語尾のところが、「いン……」 というふうに鼻にかかってしまう。つまり魔法にかかれば鼻にかかる、これが猫の魔術を見破るときのコツのようである。 この小さな表現一つをとってもそうですが、何といいますか、実に読んでいて心地よいとお思いになりませんか。 私は(最近はちょっと、さほどでもないんですが)、かつてこの筆者(尾辻克彦=赤瀬川原平)の作品を、かなり追っかけて買っていたのですが(といっても文庫本になってからですが)、その魅力はそれこそ「猫の魔法」のように、 「気持ちいいン」というものでありました。 ……うーん、どうなんでしょう。 その作家の書いた文章を読んでいると、とにかくそれだけで快いと思えるような作家。 そんな作家って、実際のところなかなかいるものでもないように思うのですが、一時期の私にとって、筆者は間違いなくそうでした。 もちろん私にも、尾辻克彦=赤瀬川原平以外にもフェイヴァレットな作家はいますが、ストーリーではなく、描写が、説明が、文体が、触れているだけで快いとなりますと、これはちょっと、……はて、他にどんな作家が、作品が浮かぶだろうかと少し考えてみて、何となく一つだけ、いきなり浮かんだんですが、こんな作品。 『園芸家十二ヶ月』カレル・チャペック 本当にふっと、何となく浮かんでしまった作品なので、責任はよく取れないんですけれど(ごめんなさい)、チャペックという人はチェコの小説家・劇作家でありますね。小説としては『山椒魚戦争』、戯曲としては「ロボット」という言葉を作り出した『R.U.R』が有名であります。 そしてこのエッセイも、私は読んでいて、まるで波間にゆらゆらとたゆたっているように、その文章に触れているだけで思わず「気持ちいいン」な作品だったように思い出します。 では、そんな「文体」とは、はたしてどんなものなのか。その辺のところ、次回もう少し、考えてみたいと思います。 続きます。すみません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.06.21
コメント(0)

『犀星王朝小品集』室生犀星(岩波文庫) 上記短編小説集の読書報告の後編であります。 前編では何を書いていたかと言いますと、筆者室生犀星は、詩人としては一定の名を成していながら、小説家としてはロングセラー作家にならなかった(んじゃないかとわたくし愚考致すんですが、間違っているかしら)、ということでありました。 ともあれ、犀星という人の作品は、どこか知識人としての小説家という枠組みから大きく逸脱するものがあって、文学史上においても、十分な評価がなされていない気がして、しかし実際の所、その感覚は、本短編集を読んでいてもある程度納得がいくものであります。 さて、本書には7つの短編小説が収録されています。 それはタイトル通りことごとく王朝を時代背景としつつ、本書の解説を書いた中村真一郎が、堀辰雄が指摘したとする「犀星は歴史小説ででたらめばかり書いている」という語そのままに、時代考証は大いに首を傾げる作品ばかりであります。 ただしこの堀辰雄の言は、誤解無きよう、その表現の本質を申し添えておきますと、彼は、犀星を敬愛するがゆえにそんなことを言っているわけで、逆に言えば、そんな些末な事柄は、本作品の瑕疵でも何でもないと堀辰雄が確信しているということです。そしてこの確信の理由は、読めば分かるといえそうでもあります。 収録の7つの短編ですが、ことごとくが男と女の話であります。そして、男と女の「ある種」の関係を、究極まで追求すればどうなるかという、ケーススタディじみた話であります。 例えば『津の国人』と『荻吹く歌』という作品は、同趣向の、『大和物語』に源泉を探ることのできる(多分そうだと思うんですが、いかんせん半世紀ほども前に大学で習ったことですから、だいぶ違うような気もするんですが……)「芦刈伝説」のお話であります。 愛し合う二人だったが、余りの貧しさゆえに、ひとときだけの約束で別々に生活の糧を稼ぎ、その後必ず再会しようと約束し合うが……、という話ですね。 二作どちらも、結果は苛烈でありながらも、実にまろやかな作品となっています。とってもよくできていると思います。 また『姫たちばな』『野に臥す者』というお話は、究極の三角関係の話であります。 三角関係の話というのは、恋愛小説の一つのパターンではありますが、そんなストーリーの生むテーマを増幅する要素が、本作に限らず犀星の小説には、いかにも犀星らしい強烈に印象的なフレーズとして描かれます。例えばこんな……。 津の茅原はそのとき胸板のところに、があっと重いものを打ちあてられ、前屈みにからだを真二つに歪げてしまった。遣られたとそう思って支えるものを手でさぐろうとしたが、立木一本とてもなかった。再び、胸のところに熱を持ったものが一時にあふれた時に、すでに膝頭が立たなかった。かれは、潰れたように倒れたときに始めて和泉の国人の方をしっかり見つめることが出来た。和泉の人はやはり土手のうえに倒れて何かあたりを引掻くような恰好をしながらも、津の人ののた打つのを眼だけ生きのこっているように見つめていた。人間の死相というものはああいうものか知らと、灰をあびたような顔を見返した。だが、いまは笑うことも叫ぶこともできず、ただ、二人は同時に敵手の矢を胸にうけたことを知っただけだった。冷たい汗のような笑いがひとすじのぼった。 これは三角関係の男二人が「決闘」に至った場面でありますが、一つの状況を徹底的に追及するストーリーは、これ以外にも、『花桐』においては、年下の男との突き詰めた恋愛の形として描かれます。 「凝と見つめていると恋愛より恐ろしいものはない、これは処刑であると同時にあらゆる人間のくるしみがそこで試されているようなものだ。そとで見ているような生優しいものではない。ここにおよそ苦痛とか快楽とかの種数をかぞえて見たら、ないものは一つもないくらいだ。」 主人公の年下の男は、かくてこのような感想を洩らすに至るのですが、そんな理解によって恋愛の「処刑」は収まるものではなく、彼等はひたすらカストロフに突き進んでいきます。 これらほぼすべての短編に見られる、深く考えていけば頭の芯が痛くなっていきそうな、徹底的な純粋感情こそが、この度は「恋愛」という形で現れた犀星特有の「没理性」「反理性」的作品構造だと私は思います。 そして、この「反理性」が、まれに見る犀星の独自性の正体であり、また文学史の枠組みからは弾かれてしまう要素でもあると思います。 でも、この一種気味の悪さを伴うような「反理性主義」には、決して多くはありませんが、「長い」深い理解者が確実に存在するはずで、それは冒頭に書いた「ロングセラー」とは異なっていながらも、私達はそこに「幸福な読書人」を見いだすことができます。 読書の歓びの、まがうことない一端であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.06.17
コメント(2)

『犀星王朝小品集』室生犀星(岩波文庫) いつのブログ内容でしたか、室生犀星を巡るエピソードに、こんな話を書きました。 自分の体験談を小説そのまま書くとやや問題がありそうだ、と相談する後輩に対して、犀星がこんなアドバイスをしたというんですね。 「そんなの簡単なことだ。『ある大納言がいた。』と書き出せばいい。」 とっても面白い、かついかにも犀星らしい「大胆不敵」な感じのするエピソードだなと、思っていました。 そしてこのエピソードを、私は一体どこから「仕入れ」てきたのか、長く失念していたのですが、本書の解説の中村真一郎の文章の中にありました。 ということは、かつてこの解説だけは私は読んでいたわけであります。本文の小説は、初めて読みました。そしてとっても、面白かったです。 犀星の小説は、何作かは読みましたが、さほど沢山は読んでいません。 その理由の一つは単純で、さほど沢山文庫本になっていないからですね。 じゃなぜ、さほど沢山文庫本になっていないかと考えますと、これはなかなか奥行きのある話になりそうな気がします。 と、書きましたが、でも実際の所、幾つかの仮説が浮かびつつその仮説が正しいのか検証のしようがなく、思いつきのようなものになってしまいますが、ちょっとだけ書いてみますね。 ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの これは言うまでもなく、犀星作の『小景異情』一節ですが、日本近代詩歌の中ではとても人口に膾炙された詩の一節ではないかと思います。 日本近代詩の中にも、幾つかの広く人口に膾炙された詩はあるでしょうが(古いところでは島崎藤村あたりから)、この詩の一節は、私の中では、佐藤春夫の『秋刀魚の歌』と並んで、とっても有名な詩であると思っています。 ついでの話ですが、かつてはこういった「まとも」な文学者(詩人)の詩の一節が、広く国民に知られた時代があったんですよね。 それに比べて現代は、と言ったところでどうしようもないのは分かっていますが、しかしあまりに現代詩は、『小景異情』の頃の享受のされ方と異なりすぎているような気がします。 そんなことないですかね。なぜそうなっちゃったんでしょうね。どうしようもないんでしょうかね。 たぶん現代詩は、詩からポピュラリティという要素をことごとく排除してしまったからだと思いますが、じゃあ、なぜそんな風にしなければならなかったのか、……うーん、私にはよく分かりません。 一度、友人の現代詩人のIさんに聞いてみたいと思います。 さて閑話休題しまして、何が言いたかったかと言いますと、室生犀星は純文学畑の人としては、一応の有名人だったということであります。 ただ、それは詩人としてであって、小説家としてではなかった、ということでもありました。それに、小説がある「流派」の中に入りきらなかったのも、広く読者を持ち得なかった(もう少し厳密に言えば、「長く」読者を持ち得なかった)原因として、大きいかなと思います。 「流派」なんてレッテルは、一人の作家をデビューから死迄ずっと追いかけていけば、ほとんど意味のないものであることはすぐに気が付くのですが、いかんせん、レッテルは便利です。 忙しい現代社会の中で、逆に、先人がレッテルを貼らなかった存在というものは、現代ではほぼ「無用」だと言ってよいという欲求が、きっといっぱいあるのでしょうね。 だって本屋に行けば、『これ一冊で分かる○○』とか『何分で理解できる××』なんて本が溢れているではありませんか。 犀星は、そんなジャンル分けの中に入りきらない作家でした。 そして本来ならば、そのことは作家として一番の「勲章」になるはずのものでした。 なぜなら、犀星がジャンル分けされなかったおそらく一番の原因は、他から突出して際だつ「独創性」ゆえであったからです。 いえ、類似する独創性を持った作家が、全くいなかったわけではないと思います。 しかし、それらの作家達の共通する独創性の方向とは、たぶん「知的なものの極北」ということで、それゆえ、高いオリジナリティと共に、たぶん彼等は文学史の「流派」の枠組みから外されてしまったのだと思います。 次回、もう少し作品に即して、考えてみたいと思います。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.06.14
コメント(0)

『ゼーロン・淡雪』牧野信一(岩波文庫) かつて物事を何も知らなかった私は、いえ、今でも、世間並みのことをほとんど知らない無知なわたくしではあるんですが、今の私よりももっと物知らずだった頃、私は岩波文庫の近代日本文学作家のチョイス・ポリシーがよく分からないなんてことを、本ブログに綴っていたのですが、全く何も知らないと言うことは恐ろしいもので、それで別に何も思わなかったんですね。 「無知の悲しみ」ですなー。 作家開高健は、「智慧の悲しみ」という言葉を使っていましたが、あれはどんな文脈で使っていたのかと思い出しますと、自分はまだ年若いうちから女性と同棲生活をし、そして女性の肉体と精神について深い考察を持つに至ったが、そのせいで自分のメランコリイはますます進行してしまったという話じゃなかったかしら。 確か、野坂昭如の『四畳半襖の裏張り』裁判の、特別弁護人としての弁論だったと思います。 閑話休題しまして、岩波文庫のチョイス・ポリシーの話ですが、無知な私が世間様におのれの恥をさらしていたのは、上司小剣の短編集を読んだ時だったと思います。 しかしその後、例えば岩波文庫の岡本綺堂の戯曲集を読み、同じく木下杢太郎の戯曲集を読み、さらに江戸川乱歩の短編集、久生十蘭の短編集、そしてこの度の本書を読むに及び、ああ、許しておくれ、わたくしが間違っていた、……と気づくに至ったのであります。 岩波文庫のチョイス・ポリシーはまっこと、目利きの技であります。 しかし、少々マニアック過ぎはしますがー。 というわけで、この短編集も実に不思議ティストな作品集であります。 しかし、まるで類例がないわけではありませんね、この作家の場合。 わたくし、時々つくづくと思うことがあるのですが、例えば典型的なのが「第三の新人」あたりだと思うのですが、あの頃(昭和20年代後半から30年代前半にかけてです。)の芥川賞受賞者が、見事に揃いもそろってよく似たティストの「第三の新人」であるのは、なぜなんでしょうかね。 第一次、第二次戦後派あたりも同様でしょうか。さらに遡っていけば、白樺派なんかもそうなんでしょうか。(でも白樺派は、そもそも友達関係の繋がりが先行していたようで、少し違うかも知れません。) ともあれ、「同時多発」的に同ティストの作家がどっと出てくるのは、単に「同じ時代」という理由で括りきれるものなんでしょうかね。 牧野信一の同ティスト作家・作品として私が思い浮かべるのは、やはり同時代人の井伏鱒二(の初期の短編)であり、坂口安吾であり、あるいは太宰治の初めの方の作品もそれに入れても良いかと、思うのであります。 文芸思潮的に見ますと、昭和初年の「新興芸術派」でありましょうか。 あの頃、小説の面白さを、奇妙な味でもって追求しようとした作家が、一気に何人か出てきたように思います。 あまり詳しいことは知らないんですが、近代文学も既に何十年かの歴史を持ち、大家も名作もそれなりに産まれ、そして何より、外国文学の名作が次々と出回りはじめた頃ということで、まともに立ち向かうにはとっても敵わないと、ちょっと斜に構えた作家達が、ぽこぽこと出てきたような気がします。 その不思議ティストの一人が、この牧野信一ではなかったかと思うんですがね。 本短編集には十余りの小説が収録されていますので(それに随筆が二作あります)、一概にはまとめられないんですが、この味わいは何でしょうか、やはり「ナンセンス」に近いのでしょうかね。同時代人としては坂口安吾などが近隣種のように思います。 あるいは、安部公房の初期の短編なんかもよく似た感じです。そう言えば、科白回しなんかは、不条理劇のようでもありますね。 それと、幾つかの作品を読んだあと強く思ったことなんですが、以前何の文章だったか、文芸評論家の齋藤美奈子が書いていたことを思い出しました。 彼女が述べるには、大衆文学の作品構成がまっとうな「起承転結」だとすると、純文学の構成は「起承転」である、と。 この文章を読んだ時は、なるほど面白い味方だなと、私は感心したのですが、この度牧野信一の幾つかの作品を読んで思ったのは、「これはまるで『起承』で終わった小説のようだ」ということでした。 それはそれは、実に見事にプツンと話が切れています。 あたかも(今はほとんど見られない)乱丁・落丁本のように。 私は、何度か次のページをめくって、話の続きを探してみました。 これはとても奇妙な感覚であります。闇夜に鼻を摘まれたような感じであります。 そのうえ、中には「これは『起』だけで終わっているんじゃないか」と思うような作品まで入っています。 ねっ。おもしろそうでしょ。 でもこんな作品集は、やはり「大家」の名前では出せませんよねー。 上司小剣とか久生十蘭とか、「文学史的一発屋」(この言葉は今私が作りました。)でなければ。 そして、そんな作家を丁寧に拾って文庫にしてくれている岩波文庫は、やはり偉大であるなあ、と。文学の地平を大いに拡げてくれている文庫、といってよいと思います。 岩波文庫、えらい! よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.06.07
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1
![]()

