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民間団体の情報公開請求を拒んだ防衛省の体質を批判する有識者の発言を、7月15日の東京新聞は次のように紹介している; 所蔵すれども所有せず-。民間の研究団体「軍事問題研究会」が情報公開を求めた陸上自衛隊の部内誌を防衛省が不開示としていた問題。「所蔵」はするが、行政文書として「所有」していないという意味不明な理由だった。情報公開審査会も同省の体質に「隠ペいを疑われても仕方ない」と苦言を呈した。 (出田阿生、田原牧、1面参照) 防衛省が「念入りに書棚やキャビネットなどを探したが、保有していないと確認された」と説明していたのは内部向けの軍事研究誌。一昨年来、外部からの公開請求に対し、同省は存在していないことを理由に一貫して不開示としていた。 しかし「自衛隊における『戦前』と『戦後』」と題された外部の学術論文に当の部内誌が多数引用されていたうえ、「防衛大学校の図書室に所蔵されている」と紹介されていたことが見つかり、事態は一変した。 この『動かぬ証拠』を前にしても、防衛省は「(部内誌は)物品として管理している。しかし、行政文書としては所有はしていない」と意味不明な釈明を繰り返した。 業を煮やした情報公開審査会は先月、「(部内誌は)行政文書」と一刀両断。答申書で不開示決定を取り消すよう同省に求めたうえ、「防衛省の説明は事実を隠ペいしようとしたと外部から疑われても仕方のない不適切な」「詭弁(きべん)に近い」「(情報公開法が)骨抜きになる」「極めて遺憾」なものと、異例に強い調子で同省を批判した。 全国市民オンブズマン連絡会議の代表幹事児嶋研二弁護士は「地方自治体に比べ、国の情報公開は遅れている。文書の存在自体が分かりにくく、なかなか開示されない。そうした中で、審査会が不開示決定を取り消すのは珍しい」と話す。 同じく代表幹事の畠田健治弁護士は「文書の存在を請求する側が証明しなければいけない。それが最も難しい」と指摘する。開示を求められた側が「存在しない」と回答すれば、通常はそこで終わってしまうからだ。 今年4月9日には、東京地裁で沖縄返還をめぐる密約文書の開示を命じる判決が出た(国が控訴中)。文書は「存在しない」と主張し続けた国に対し、判決は米国側の公文書や元外務省局長の法廷証言などを基に「国が保有していないとは認められない」と断じた。 今回も文書の存在を証明する外部の論文が見つかったからこそ、請求側が逆転勝ちできた。畠田弁護士は「役所側が存在しないと簡単に言い逃れられないような情報公開のシステムを作る必要がある」と提起する。 それにしても、防衛省が開示を拒んだ今回の文書はそれほど機密性が高いのか。上智大の田島泰彦教授(メディア学)は「この部内誌は国会図書館にも置いてある。個人情報でも、軍事機密でもない。その程度の文書すら出さないとはとんでもない役所だ」と憤る。 審査会の答申を受け、部内誌は近く公開される見通しだが、請求した同研究会の桜井宏之代表は「『所蔵はしているが、所有はしていない』という論理で開示を拒んでいるケースは、他の省庁でもあると思う。今回の答申で、文書の不存在を理由とする不開示決定はすべて見直す必要が出てきた」と語っている。2010年7月15日 東京新聞朝刊 11版S 22ページ「防衛省の部内研究誌隠ぺい問題」から引用 大して重要な機密でもない情報を、とにかく公表したくないという姿勢は、官尊民卑の昔風の意識を引きずっているような印象を受けます。現在は国民主権の民主主義社会になっていることを、よく自覚してほしいと思います。
2010年07月31日
俳優の小沢昭一(おざわしょういち)氏は、賭博問題に揺れる大相撲について、7日の朝日新聞に次のように述べている; 僕が子供のころ、ひいきの力士がおりました。あんまり強くはなかったけど、美男で有名でした。ちょっとした縁があって、千秋楽の晩、その力士がいる東京・両国の相撲部屋の宴席へ母親と寄せてもらいました。豪勢な料理がずらっと並んで、華やかさ、にぎやかさは別世界でした。 その席で、美男力士の後援会長、名古屋の大きな遊郭の女将(おかみ)さんでしたが、こう言うんです。「関取、大髻(おおたぶさ)を崩して汚い格好で勝ってもだめだよ。負けてもいいから、様子よくやっておくれよ」と。 ♪~相撲は負けてもけがさえなけりゃ 晩に私が負けてやる 有名な相撲甚句ですが、宴席には、そんな色っぽい雰囲気も漂っていて、相撲は強いだけがいいってもんでもないらしい、と子供心に感じたものです。 神事から始まった相撲は江戸の終わり、両国の回向院で常打ちが行われるようになる。両国というのは、見せ物小屋や大道芸が盛んなところです。このころ現在の興行に近い形ができあがりました。 明治になりますと、断髪令でみんな髷(まげ)を落としました。だけど相撲の世界では、ちょんまげに裸で取っ組み合うなんて文明開化の世に通用しない、てなことは考えない。通用しないことをやってやろうじゃないか、と言ったかどうか分かりませんけど、とにかくそれが許された。そういう伝統芸能の世界。やぐらに登って太鼓たたいてお客を集めるというのも芝居小屋の流儀でしょう。成り立ち、仕組みが非常に芸能的。どうみても大相撲は芸能、見せ物でスタートしているんです。 芸能の魅力というのは、一般の常識社会と離れたところの、遊びとしての魅力じゃないでしょうか。そんな中世的な価値観をまとった由緒正しい芸能。僕は、そんな魅力の方が自然に受け入れられるんです。 美空ひばりという大歌手がおりました。黒い関係で世間から糾弾されて、テレビ局から出演を拒否された。ただ、彼女には、世間に有無を言わせない圧倒的な芸があった。亡くなって20年になります。そんな価値観が許された最後の時代、そして彼女は最後の由緒正しい芸能人だったんでしょう。 昨今のいろんな問題について、大相撲という興行の本質を知らない方が、スポーツとか国技とかいう観点からいろいろおっしゃる。今や僕の思う由緒の正しさを認めようという価値観は、ずいぶんと薄くなった。清く正しく、すべからくクリーンで、大相撲は公明なスポーツとして社会の範たれと、みなさん言う。 しかし、翻って考えると、昔から大相撲も歌舞伎も日本の伝統文化はすべて閉じられた社会で磨き上げられ、鍛えられてきたものじゃないですか。閉鎖社会なればこそ、独自に磨き上げられた文化であるのに、今や開かれた社会が素晴らしいんだ、もっと開け、と求められる。大相撲も問題が起こるたんびに少しずつ扉が開いて、一般社会に近づいている。文化としての独自性を考えると、それは良い方向なのか、疑問です。 しかし、文部科学省の管轄下にあるんじゃ仕方ありませんか。これでまた一歩、大相撲もクリーンとやらの仲間入りか。寂しいなぁ。 (聞き手・秋山惣一郎)2010年7月7日 朝日新聞朝刊 12版 19ページ「オピニオン-身の丈超え肥大化した土俵」から引用 小沢氏の体験談は戦前のこととは言え、相撲界の雰囲気がよく分かる気がします。小沢氏の見解でも、相撲は国技などというものではなく、興行であるらしい。しかも、江戸時代に回向院というお寺で常打ちが始まったのが現在の興行の始まりであるとのことであるから、神事というよりはむしろ仏事と言うほうが正解なのではないだろうか。
2010年07月30日
経済学者で慶応大学教授の中島隆信(なかじまたかのぶ)氏は、大相撲の賭博問題について7日の朝日新聞に寄稿して、次のように述べている; 守るべき大相撲の伝統文化とは何だろうか。 まげや化粧まわし、つり天井といった形式的なものから前時代的な習慣までが、プラスマイナスを含めて大相撲の伝統を形作ってきた。しかし、大金が動くといわれる親方株の取引は、守らねばならない伝統文化だっただろうか。 ここ十数年、政治や行政の世界では、政治資金、談合、官民、官官接待など、物事をスムーズに進めるための内輪の論理が問い直されてきた。透明化、法令順守を求められる中で、日本相撲協会も、変えるべきものは何か、守らねばならないものは何かを、本来は考えなければならなかった。 しかし、改善が進んだのは、ビデオ判定、立ち合い正常化など、大相撲のもう一つの側面であるスポーツとしての競技性の面だけだ。角界の運営に関しては、これまでと同じことを練り返すことが伝統文化を守ることだと、はき違えていたのではないか。 問題が起きるたびに外部から人を招いて改善してきたように見えるが、今回の外部理事も含めて、処罰を決めるためだけの後ろ向きのものだった。厳罰だけでは大相撲という特殊な世界を変えることはできない。その構造を踏まえて、どう変えていくかを提言できる人材を登用すべきだ。 私は、相撲部屋を協会の直轄運営にすれば、この特殊な世界はずいぶん変えられると思う。今の協会は同業者組合のようなもので、医師会と個人病院の関係と同様、親方個人の財産である部屋をガバナンスできない。協会が、弟子の指導から部屋の収支にも口を出せるようになれば、内輪の論理に閉ざされた社会が透明化するだろう。 もう一つ感じるのは、興行としての身の丈の問題だ。最近の大相撲中継を見ていて、手拍子の応援が気になる。歌舞伎で場をわきまえずに役者に声をかけたら、無粋な素人だと冷笑されるだろう。それと同じだ。砂かぶりで、テレビカメラに向かって、携帯電話片手にVサインをしている人もいる。砂かぶりは本来、そんな一見(いちげん)の客が座る席ではない。 客層の大きな変化が分かると思う。これが意味するところは、昔ながらの優良なひいき筋が、大相撲という世界を支えられなくなってきているということだ。 大相撲は戦後、年6場所制になり、相撲部屋の数も増え、幅広い層の人が関心を持つようになって、事業規模が格段に大きくなった。後援者も含めた仲間内の内需依存型で小さくまとまっていたものが、外需を呼び込むことで規模を拡大した。 1990年代、若貴ブームでファンのすそ野がさらに広がる一方、ひいき筋の高齢化に不況が追い打ちをかけた。維持員席が暴力団に流れていたことは象徴的で、手拍子やVサインの観客だけでなく、裏社会の人たちまでが表に出てきた。経済状況の劇的な好転も望めない以上、規模を縮小する決断がいま求められている。 私は、まげや化粧まわしなどに象徴される大相撲の形式は守るべきだと思う。小さな規模で伝統文化の世界を守ることが、今の時代に合った協会の仕事、存在意義だと考える。(聞き手・秋山惣一郎)2010年7月7日 朝日新聞朝刊 12版 19ページ「オピニオン-身の丈超え肥大化した土俵」から引用 プロ野球のようなスポーツの道を進むことを止めて、あくまでも伝統芸能の世界をめざし、観戦のマナーをわきまえないような素人は相手にせず、規模を縮小して上流階級の娯楽の道へ進むことが、一つの解決法かもしれない。
2010年07月29日
弁護士の猪狩俊郎(いがりとしろう)氏は、7日の朝日新聞で大相撲賭博問題について、次のように述べている; 大相撲の野球賭博にどこまで深く暴力団が関与していたのか、全体像はまだ明確になっていない。一般に言えるのは、暴力団は気配を感じさせずに近づき、関係を築くとあらゆる手を使い、食い物にしようとするということだ。 2002年ごろにプロ野球で問題が大きくなった悪質応援団のケースがそうだった。 プロ野球では、観客同士のケンカなどのトラブルやもめ事に球団関係者が手を焼いていた。そんなとき、収め役となる人物が現れた。正義漢を装い、借用を得て応援団を統率する存在になる。この人物が実は反社会勢力とつながっていた。次第に「後ろに○○組がいる」などと公言するようになり、横暴がまかり通るようになった。同じようなことが、複数の球団で起きた。 ダフ屋行為のほか、外野自由席を占拠して入場券を売りつけ、応援グッズや応援団会報を強制購入させ、応援団主催パーティーの会費を徴収する。その金の一部が暴力団への上納金として流れていた。 大相撲でも、暴力団員が維持員席に座っていた問題が、昨夏から報道されていた。日本相撲協会関係者は当然、暴力団の影を認識していたはずだ。だが、協会の対応は鈍かった。 賭博問題を検証した特別調査委員会の事情聴取に、力士たちは一様に暴力団関係者とのつながりの意識はなかったと答えたという。その通りならいいのだが、恥を表に出したくない隠蔽(いんペい)体質こそが、反社会的勢力の浸透を許す土壌をつくるともいえる。 プロ野球の暴力団排除がうまくいった背景には、組織内だけで解決しようとしなかった点にある。警察や暴力追放運動推進センター、民暴関係の弁護士などと連携して、03年に暴力団等排除対策協議会を発足。外部組織と情報を共有しながらオープンな形で、応援団許可制の導入、反社会勢力と関係があると判断した人や団体の入場禁止などの措置をとった。 これは、大相撲が参考にしていいことだろう。もう一つ、暴力団排除の規則を明確に示すこともヒントになる。 プロ野球の試合観戦契約約款には、暴力団員に対する入場拒否が書かれるようになった。そういう暴力団排除規則を設け、法的な根拠を示すことで、組織の末端までが断固とした態度で対処できる。 協会理事や親方、力士、行司、床山ら大相撲にかかわる関係者に対する規定も必要だ。私的交際も含めて反社会勢力との一切の交際を禁じ、違反した場合は解雇などの厳しい罰則を盛り込む。組織づくりも欠かせない。暴力団などの事案に専門に対応する部署を設け、責任者を置く。その部署にあらゆる情報を報告するように義務づけ、情報に基づく強い権限を与える。 こうした強い姿勢を打ち出すと、組織内に一時的に抵抗勢力が出てくるかもしれない。プロ野球でもやり方に異を唱える声があがった。 だが、社会的批判がこれだけ大きい大相撲で、なお抵抗する動きがあるとすれば、それを世間はどうみるか。反社会勢力と裏でつながって利権・特権を持っていると見られても仕方がない、と自覚するべきだろう。内なる敵も排除し、身を切る覚悟がないと、真の浄化の達成はおぼつかない。 (聞き手・金重秀幸)2010年7月7日 朝日新聞朝刊 12版 19ページ「オピニオン-優しい顔で暴力団は近づく」から引用 プロ野球は興行とは言え大相撲のような長い歴史がないぶん、近代化はやりやすかったであろう。裏社会の人々が接近してきた時点でシャットアウトできたので、幸運なことであった。しかし、その他の芸能と同様、大相撲の場合は江戸時代の昔から、裏社会とのつながりを含めて伝統となっているのであるから、時代が変わったので縁を切るというのは、なかなかの困難がつきまとうのではないだろうか。
2010年07月28日
和歌山県太地町のイルカ漁を取り上げた映画「ザ・コーブ」について、政府が対応するべきだという了見違いの投書が、13日の東京新聞に掲載された; 上映が反対運動などで一時、中止された映画「ザ・コーヴ」の上映が始まった。 環境保護団体による捕鯨の行き過ぎた妨害行動等、異なった食文化の人々による価値観の押しつけを、近年頻繁にニュースで目にするようになった。価値観を押しつける団体にも、それに対しての日本政府の対応にも大変がっかりさせられている。 この映画も、撮影許可を取らずに作ったものだ。その時点で、すでに違法である。さらに、異国の食文化を主観的に否定する作品であるなら、日本政府は犯罪としての捜査や世界へ向けての抗議をしっかり行うべきであろう。 いままで、政府がやるべき事をやらなかったことが、保守系団体による抗議運動につながったのではないだろうか。 しかし、上映を中止に追い込む抗議の仕方も、また、価値観の押しつけではないだろうか。もっと理性的な抗議を政府に期待する。2010年7月13日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-『上映』問題 政府対応を」から引用 この投書のどこがおかしいかと言うと、鯨やイルカを食べることを「食文化」と誇大に表現している点である。鯨やイルカを一部の日本人が食料としてきたことは事実かもしれないが、しかし、日本人の食生活が鯨やイルカを無視しては成立しないのかと言えば、そんなことは無いのであるから、これを以って日本の文化であると言うには、根拠があまりにも薄弱である。多分、今日の日本人の99%は、鯨やイルカを食べずに健康な生活をしているはずだ。 次におかしい点は、この映画が撮影許可を取っていないから違法だなどと言っている点である。報道の映像は許可無しで撮影されるのはよくある話であって、違法であると断定することはできない。もし、違法であるなら、それでなくても愛国精神旺盛なわが国官憲が黙っているわけがないであろう。法律的に何の問題もないから、政府も警察も手を出すことはできないのである。 さらにおかしい点は、「保守系団体による抗議運動」などと言っている点である。これは正しく表現すると「右翼団体による威力業務妨害」であって、これこそが法律に違反しており、映画上映という他人の商売を妨害する暴力団まがいの右翼団体は、警察が徹底的に取り締まるべきなのである。
2010年07月27日
元東京大学経済学部長で政府税調専門家委員会の委員長を務める神野直彦氏は、税制改革の方向性について、参院選後間もない東京新聞のインタビューに応えて、次のように述べている; 消費税増税が参院選の争点となるなど、税制改革が政治課題に浮上している。所得税と消費税を「車の両輪」として、国民に負担増を求める中間報告をまとめた政府税制調査会の神野直彦専門家委員長に、税制改革の方向性を聞いた。 (聞き手・白石百一)-参院選では、消費税の増税論議が影響したと思うか。 「自民党は消費税率10%を掲げて勝利している。消費税は響いていない」-管直人首相は自らの「説明不足」を敗因に挙げている。 「菅首相の発言は、われわれの提言より踏み込んだ内容。政党間の連携などを踏まえた話かもしれず私からはコメントできない」-現行税制の課題は。 「税率を低くしたり、控除の拡大で課税ベースを狭くしたりして、税の調達能力が落ちている。環境税など社会構造で必要な租税も設定できてない」-消費税の増税は避けられないのか。 「大きな政府と小さな政府のどちらを選択するかの問題だ。北欧は消費税に当たる付加価値税が高い代わりに医療や教育はタダ。皆で助け合い、負担を分かち合う社会だ。一方、米国は付加価値税を導入せず、政府の役割を小さくし、自己責任で生きる社会。民主党は支え合いの社会を目指しており、その方向で提言をした」-消費税の使い道や引き上げ幅は。 「国民の生活を保障するサービスを増やすなら、消費税を上げても構わないのではないか。所得税などの課税ベースをできるだけ広げれば、消費税の引き上げ幅は低くて済む」 「(多額の債務残高があるのに)国債の信認が失われてないのは、消費税の引き上げ余地があると市場が評価しているから。仮に、国債発行に支障が生じたとしても、税率を少し上げれば税収を確保できるような基盤を構築しておくべきだ」-中間報告で、所得税は高所得者により多くの負担を求める累進制の回復を掲げた。 「所得税の実効税率は、年収一億円を超える層では低下している。株の譲渡益など金融所得の割合が高まるためで、金融所得の適用税率を現行の10%から、本則の20%に戻す必要がある。また(サラリーマンらに一定の控除を認める)給与所得控除は、かつて一定の所得以下の人にしか認めていなかったが、今は年収一億円でも適用される。上限を設けるなど見直しが必要だ」-産業界が要望している法人税減税は。 「税率を下げれば、企業の競争力が高まるという証拠はない。政府は税率を下げる方針だが、課税ベースの拡大とセットで、(増減税で差し引きゼロの)税収中立が望ましい」2010年7月14日 東京新聞朝刊 12版 9ページ「消費増税論議は政府の大小の選択」から引用 やはり、税制の専門家から見ても政権末期の自民党が決めた現在の税制は、富裕層を不当に優遇している。国家財政危機の今日、このような不公平な税制は早急に是正し、支払い能力のある富裕層には相応の税金負担をさせるべきである。消費税論議はその後にするのが当然というものである。また、法人税を下げれば企業の競争力が高まるという証拠はないとは、心強い見解である。
2010年07月26日
ルポライターの鎌田慧氏は、与党が惨敗した今回の参議院選挙について、13日の東京新聞コラムに次のように書いている; どこに投票したらいいか、選挙前のしらけた空気をつくりだしたのば、民主党の責任だった。予算の無駄を削ります、増税はしません、といっていた政権党が、党首が代わったとたん、「法人税減税、消費税増税」といいだしたのだから、ネギを一本買うのでさえ頭を悩ましている庶民層は、うろたえてしまった。 さりとて、また自民党に投票するのはいやだ、というひとたちが、なんだか新しそうなみんなの党に投票した。沖縄のように、民主党の理想に期待したのに、結局なんの役にもたたなかったと判断、かつて自民党にお仕置きしたように、民主党にゴツンを食らわせた。 それでも、まだ民主党に期待したい、という票が、四十四議席分残されていた。盥(たらい)といっしょに嬰児(あかご)を流すな、もったいない、というありがたい票である。 期待した政権交代の成果が、すぐにでるとはだれも考えていない。それでも、「泥沼ニッポン」から脱出して、暮らしやすい社会になる、という将来への夢が、民主党中心の政権交代を実現させた。その初心を忘れてもらっては困る。核軍縮、米軍基地縮小、エコロジー、東アジア共同体構想の夢を語らなくなったのでは、もはや自民党の手袋の裏返しでしかない。 菅さんは夢を語らなすぎた。平和、いのち、派遣労働者を救う、これからもっと熱く語るしかない。 (ルポライター)2010年7月13日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-理想なき政治」から引用 選挙戦が始まってから、菅首相が突然消費税のことを言い出したのは、多分、首相としては民主党政権がこのまま長く続くという、有権者が誰も保障していないことを前提にした言動だったのではないか、と私は推量します。誰も保障していないことを勝手に前提にする、こういう態度を「驕り」といいます。国民は、自民党はダメだから民主党に入れようと、一度はそう思いましたが、だからと言って民主党に長期政権をゆだねるなどとは一言も言っていないのですから、菅首相はそこを読み間違えるべきではありませんでした。取り合えず民主党政権は、よほどの事がない限りあと3年余り継続できるはずですから、その間に信頼に足る政権であることを示してもらいたい。もしそれがかなわなかったということになれば、自民党、民主党、その次の出番はもう共産党しかないと思います。
2010年07月25日
沖縄と同じように米軍基地の問題をかかえるイタリアの青年の活動を、6日の朝日新聞は次のように紹介している; 【ローマ=南島信也】なぜ米軍は反対を受けながら、世界中に基地を展開しているのか-。イタリア国内にある米軍基地の存在から、素朴な疑問を持った映像カメラマンの若者ら2人が、基地の意味を問い直すドキュメンタリー映画を制作した。米海兵隊普天間飛行場があり、よく似た構図が存在する沖縄県も取材。基地周辺住民の声を丹念に拾っている。 タイトルは「スタンディング・アーミー(常備軍)」。フリー映像カメラマンのエンリコ・パレンティさん(31)と、翻訳家のトーマス・ファツィさん(28)が制作した。 きっかけは2007年1月、伊政府が北部ビチェンツァにある米軍基地の拡張計画を承認し、市民による激しい反対運動が起きたことだった。ビチェンツァには米陸軍の第173空挺(くうてい)旅団が駐留し、米兵約2750人が所属している。イラクやアフガニスタンへの派遣をにらんだ重要な拠点として、これまでドイツに駐留してきた部隊約2千人を合流させ、12年に欧州最大の基地とする計画だ。 米国防総省によると、今年3月末時点で、100人以上の米軍部隊が駐留するのは、戦時派遣のイラク、アフガニスタンを除いて25カ国、総計約12万人に及ぶ。 2人は何度も議論した。「なぜ米軍は世界中に基地網を広げるのか」「基地は周辺住民にどんな影響を与えているのか」「第2次世界大戦から60年以上、冷戦終結から20年経過して、なぜ国は米兵を居座らせるのか」 イタリアは第2次大戦で米英などの連合国軍に敗れたが、反ファシズムのために蜂起した国民は米軍とともに戦ったパルチザンの歴史もあり、米国に対する国民感情は一筋縄ではいかない。 パレンティさん自身、母が米国人で、母方の祖父と叔父は朝鮮戦争に従軍した。ファツィさんも母が英国人だ。2人は葛藤(かっとう)を感じつつも、基地問題をテーマにドキュメンタリーを制作することにした。 まずビチェンツァ基地拡張に反対する住民たちを取材した。08年4月の地元市長選では、反対派が当選した。新市長は公約通り拡張の是非を問う住民投票を行おうとしたが、伊最高裁は住民投票自体を差し止めた。 市が2万5千人の住民を対象に非公式に実施した世論調査では、95%が反対だった。ファツィさんは「当時の中道左派プロディ政権でさえ、米国に『ノー』と言えなかった。これで反対運動は一気にパワーを失ったが、動かすことができるのは市民だけだ」という。 彼らは、反基地運動関係者を通じて同様の問題が存在していると聞いた沖縄にも向かった。普天間飛行場周辺の住宅や学校の上空を、爆音をとどろかせて飛ぶ米軍機と、そのたびに授業が中断される子供たち。米軍に土地を奪われ「これはレジスタンスだ」と訴える地元のお年寄り……。04年に沖縄国際大にヘリコプターが墜落した事故のニュース映像を交えながら、沖縄が置かれた状況を描いた。 欧州の映画祭などで上映されたほか、イタリアでは6月11日からDVDの販売が始まった。2人は日本での上映先やDVDの発売先を探している。問い合わせは、英語かイタリア語でinfo@standingarmy.itまで。2010年7月6日 朝日新聞朝刊 14版 7ページ「米軍なぜ世界に 記録映画で問う」から引用 イタリア国民には、自国のファシズム政権と敵対してアメリカやイギリスの連合軍と共闘した歴史があるが、今ではそのアメリカ軍の行動に疑問を感じるというのだから、歴史は皮肉である。アメリカ軍も敵がファシズム勢力だったときは、大義名分があったが、今は国連の決定をも無視して行動するならず者国家の傭兵に成り下がったのではないか。
2010年07月24日
精神科医の斎藤学氏は、大相撲の賭博問題と官房機密費を受け取った御用ジャーナリストの問題について、7日の東京新聞コラムに次のように書いている; 大相撲の賭博スキャンダルでは外部の法律家らからなる特別調査委員会が力士や親方の処分を勧告した。その前に「思い当たる者は名乗り出よ」という理事長の指示があり、50名近くが名乗り出たというのは立派。 一方、官房機密費など各省庁の裏金が御用ジャーナリストに流れていたという報道界スキャンダルの方は「お相撲さんの花札」よりはるかに重要なのに沈黙が続く。 わずかに頑張っている「週刊ポスト」は今週もばらまいた側の秘書の一人からの情報(実名と金額)を載せている。そのうち、すべてが明らかになるのだから「なれ合い記者」は今のうちに名乗り出た方がいい。 名のある者が収賄を認めて筆を折ると述べれば、報道の独立に寄与したと尊敬されるはず。無名のサラリーマン記者が自らトカゲの尻尾(しっぽ)となれば、愛社精神をたたえられるだろう。それがないままに皆さんの報道を信用するほど甘くないのだよ、われわれ消費者は。 ところで相撲協会は元東京高検検事長なる人が暫定理事長をつとめるそうだ。こういう時を「ヤメ検」の出番にするのは悪習だと思う。地検、高検の検事というのは時の政権の番犬として振る舞うこともある職業であって、正義の味方などではない。大阪地検による村木厚子氏(元厚労省局長)の逮捕と取り調べなど、それ自体がスキャンダルではないか。(精神科医)2010年7月7日 東京新聞朝刊 11版S 25ページ「本音のコラム-名乗り出よ」から引用 官房機密費を受け取った新聞記者は誰なのか、いずれわかることだと斎藤氏は書いているが、果たしてそうだろうか。斎藤氏のような一部の例外を除けば、大部分の日本人はそんなに正義感が強いとは思えないし、このままうやむやのうちに人々の意識から消え去ってしまうのではないかと、私は危惧するしだいである。
2010年07月23日
放送作家の石井彰氏は、参議院選挙を目前にした7日の東京新聞コラムに、次のように書いていた; 週末の2日間、NHK第1の「ザ・ベストラジオ」に出演した。NHKと民放の垣根を越えて、優れた民放局の番組をNHKで放送する歴史的な瞬間に、立ち会えたことを嬉(うれ)しく思う。 放送しながら感じたのは、なんといっても言葉の力だった。伊勢湾台風の被害のすさまじさを空から伝えた中部日本放送記者の「学校が浮いています」という中継。赤ん坊を背負って逃げる途中に「気がついたら、帯だけだったんです」という母の慟哭(どうこく)。映像がないからこそ、じかに心に響く言葉があった。 いま参議院選挙たけなわ。駅頭で候補者の演説を何度か聞いた。そこに言葉はあっても、ちっとも心には届いてこない。 最近、私の心に刺さった言葉がある。沖縄慰霊の日に普天間高校の名嘉司央里さんが朗読した自作の詩「変えてゆく」だ。(前略) 当たり前に基地があって 当たり前にヘリが飛んでいて 当たり前に爆弾実験が行われている そんな普通の一日(中略) 普通なら受け入れられない現実を 当たり前に受け入れてしまっていた(中略) 変えてゆこう 平和で塗りつぶしていこう その想いはきっと届いているはずだから 名嘉さん、私の心にちゃんと届いたよ。日曜日は参議院選挙の投票日だ。私は、まず沖縄の基地を一刻も早く減らして、最終的にはなくす努力を続ける人に投票したい。 (放送作家)2010年7月7日 東京新聞朝刊 15ページ「言いたい放談-言葉の力」から引用 上の記事が引用した詩を書いた高校生の心を感じた多くの有権者が、沖縄からの米軍基地撤去を主張した社民党や共産党に投票しました。今後さらに多くの有権者に、沖縄の人々の平和への意志を理解してもらい、米軍基地撤去の声を大きくしていきたいものです。
2010年07月22日
ルポライターの鎌田慧氏は、6月末に秋田県大館市で開催された「花岡事件」慰霊式に参加したときの様子を、6日の東京新聞コラムに次のように書いている; 今年も友人たちと、秋田県大館市での「花岡事件」慰霊式に参加した。 敗戦直前の1945年6月30日、中国から強制運行され、鹿島の作業現場ではたらかされていた人たちが、待遇のあまりの酷(ひど)さに決起したのが、花岡事件である。憲兵、警察官、自警団2万4千人が出動し、捕らえられた中国人百余名が殺害された。 高さ3メートル強の「中国殉難烈士慰霊之碑」には、その人たちをふくめて、虐待されて死亡した429名の名前が刻字されてある。生存者や遺族が訪れ、新緑の濃い公園墓地に厳粛悲壮な空気が漂って、身がひき締まる。 慰霊式は大館市の主催で、市長が式辞を述べ、参列者が献花する。被害者と遺族は鹿島とは和解しているのだが、日本政府はいまだ謝罪と賠償をしていない。わたしはこの運動にはなにも協力してこなかった、との自省からいま参加している。 中国側被害者団体の「花岡受難者聯誼(れんぎ)会」の代表が、追悼文を読んだ。そのなかに「前事不忘、後事之師」(過去を忘れず、将来の戒めにする)「中日両国人民の子々孫々の友好のため」との文言があった。 これを紋切り型というには、あまりにも過去の事実は重い。加害者だった日本側が先にいうべき言葉のはずなのだ。この地に4月、市民運動の力で、事件の歴史を遺(のこ)す「花岡平和記念館」が完成した。(ルポライター)2010年7月6日 東京新聞朝刊 11版 25ページ「本音のコラム-前事不忘」から引用 花岡事件はあまりにも悲惨な事件だったため、戦後しばらくの間、人々はそれについて語ることを避けていたのであったが、その後、市民運動の成果もあって、今では行政が主催して慰霊式をするまでになったことは歴史の進歩と言えるのではないだろうか。我々は加害者としての責任を忘れるべきではない。
2010年07月21日
映画上映に対する右翼団体の妨害行動を憂慮する投書が、6日の東京新聞に掲載された; 日本のイルカ漁のドキュメント映画「ザ・コーヴ」が全国6館で3日から上映されたものの、中止も続いている。 この映画については反論も多い。一部の地域とはいえ、昔からやっているイルカ漁にとやかく言われたくはない。正義の押しつけは勘弁してくれ。人間は何かの命を奪わなければ、生きていけないではないか…などと思わずにはいられない。 しかし、表現する権利も見る権利も存在するのも確かだ。抗議はよいが、過剰な圧力によって、その権利をはく奪することは許されないし、あってはならないことだ。 わが国では憲法で、言論表現の自由が守られている。「私はあなたの意見には反対だが、あなたの言いたいことを言う権利は死んでも守る」という言葉もあるではないか。 気に入らないものでも堂々と表現させた上で、反論も堂々とするべきだ。2010年7月6日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-コーヴ上映 権利は守れ」から引用 この投書が訴えていることは、もっともなことであるが、少しピントがずれているような気がする。それは、憲法が保障する言論表現の自由、という点である。憲法が保障している自由とは、国家権力が国民の言論表現の自由を阻害してはならない、という主旨であって、国民同士の間は元々言論も表現も自由であり、大声を出せる者が気弱な者の言論の自由を剥奪するしないを、憲法が言及しているとは思えない。そんなレベルの問題は当事者同士が話し合って解決するべきであり、それで解決しないなら、裁判でも起こせばいいのである。いま問題になっている「上映を妨害する右翼」にしても、上映を許可する権限を持っているわけではないから、誰も右翼の指示に従う必要などないのであって、そんなことは妨害活動をしている右翼も知っているから、彼らがやることと言えば、大音響でがなりたてて恫喝して上映を断念させることだけである。これは、単なる威力業務妨害なのだから、何も言論表現の自由などと言う以前に、刑事告訴すれば済む話なのではないだろうか。市民社会の安全を図るのは警察の仕事である。
2010年07月20日
元外務官僚の佐藤優氏は、5月末に発表された普天間問題に関する日米合意について、2日の東京新聞コラムに次のように書いている; 日本語を愛するというのも外交官として職業的良心の一部を構成する。筆者がロシア語研修を終え、モスクワの日本大使館政務班で勤務したときに、新聞の翻訳で先輩外交官たちからロシア語を徹底的に鍛えられた。そのときの重要な教訓が「日本語を大切にしろ」ということだった。翻訳でリアリティーというようなカタカナを用いるとやり直しを命じられた。この場合、現実性、実現可能など文の前後関係において適切な訳語をあてろと言われた。 日露政府間の外交文書は、かならず日本語とロシア語で正文を作成する。どのロシア語がどの日本語に対応するか、一言ずつ蛍光ペンで単語を塗りつぶして厳しくチェックし、少しでも日本側に不利になりそうなロシア語の表現があるときは、相手と交渉し、意味を詰めた。見解が合致しない場合も日本語、ロシア語の双方が正文なのだから日本側は日本語正文に基づいてわが国益に即した主張を展開できる。 5月28日の普天間問題に関する日米合意は、英語でしか正文が作られていない。外務省がマスコミや国会議員に配布した日本語文は業界用語でいう仮訳(かりやく)だ。仮訳は文字通り「仮の翻訳」で、厳密でなくても構わない。鳩山前政権が吹っ飛んだこの重要文書の正文を日本語で作らなかったのは外務官僚による手抜きだ。(作家・元外務省主任分析官)2010年7月2日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-外務官僚の手抜き」から引用 佐藤氏は「手抜き」などと言っているが、実際は卑屈な外務官僚がアメリカの意向を忖度して、わざと作らなかったのではないだろうか。国益の観点からは重大なミスである。
2010年07月19日
70年代の沖縄返還に当たり、佐藤首相の密使として活動した国際政治学者、若泉敬氏について、6月25日の朝日新聞投書は次のように述べている; 19日にサッカーW杯の日本対オランダ戦が中継された裏で「密使 若泉敬 沖縄返還の代償」というNHK番組が放送された。若泉敬さんは、佐藤栄作元首相の密使として沖縄返還の交渉にあたった国際政治学者。返還の陰には有事の際に核持ち込みを認める「密約」があったが、その裏には、自由に無期限に在日米軍基地を使用するとのもくろみがあったと知り、愕然(がくぜん)としたという。 1994年、密約の交渉過程を明らかにする本を相当の覚悟をもって出版するも、政府、国会は無視。若泉さんは、沖縄の痛みに思いをはせない日本を「愚者の楽園」と嘆いた。そして96年、本土復帰は良かったのかを自問しながら、沖縄に米軍基地を固定化してしまった「結果責任」をとって自殺する。 おりしも菅内閣は、参院選マニフェストで「在日米軍基地見直し」を明言するのをやめた。最小不幸の実現対象に沖縄は入らないというかのように。 窓の外からは、ワールドカップを見ている人々の歓声が聞こえてくる。沖縄では騒音なく試合を楽しめているのだろうか。2010年6月25日 朝日新聞朝刊 12版 16ページ「声-W杯の陰、自殺した若泉氏思う」から引用 責任の重大さに絶えられずに相当の覚悟をもって密約の存在を暴露したのに、当時の日本人は我関せずの態度で無関心であった。真面目だった若泉氏には意外だったに違いない。その日本人の態度は今も変わっていない。そのような環境の中で、「最低限県外」と発言した鳩山由紀夫氏は、日本人には稀な良心の持ち主だったのかも知れない。しかし、メディアも世論も「彼、どうするつもりなんだろうね」と冷ややかな視線を投げかけるだけで、協力はおろか支持の声もなかった。あまりにもひどい話だ。
2010年07月18日
ルポライターの鎌田慧氏は、マツダ工場での無差別殺傷事件について、6月29日の東京新聞コラムに次のように書いている; 大相撲の賭博とサッカーW杯の報道つづきで、マツダ・宇品工場での無差別殺傷事件の影がうすくなってしまった。 事件発生直後に報じられた元期間工の「会社への恨み」という動機が、「解雇はされていなかった」との理由から打ち消されている。取り調べ中に漏らされる断片しか伝わってこないので、真相はよくわからない。 しかし、この容疑者も、ちょうど2年前に発生した秋葉原事件とおなじく、自動車工場の非正規労働者だったこと、几帳面(きちょうめん)な働き者だったこと、クルマを凶器にしたなど共通する点が多い。 秋葉原事件は25歳の若者の犯行だったが、マツダ事件の容疑者は、24歳から派遣労働で生活してきていた。秋葉原事件は2年ほど警備員の仕事についた後、自動車工場だったが、マツダ事件の方は高卒後マツダ部品工場を転々としていた。父親もマツダではたらいて、愛憎は深い。 ふたりとも自動車工場で長年働きながらも、身分は不安定だった。期間がくれば自動的に解雇される。その繰り返し。それでも会社は解雇ではない、契約切れだ、とケロリとしている。怒るか、諦(あきら)めるかは自由である。 膨大な数の労働者を使い捨てるシステムが、自動車会社の高利益を支えてきた。それは経営者と株主と正社員とで分けられる。それへの怒りが工場の底で渦巻いている。 (ルポライター)2010年6月29日 11版S 25ページ「本音のコラム-クルマ産業の暴走」から引用 人は誰でも幸福な生活をするために安定した収入が必要なのは、経営者も株主も社員も同じである。それを、一部の者が自分たちだけの高収入を確保するために、一部の社員を短期雇用にするというシステムは不当である。企業の社会的責任の観点からも許されるものではない。一企業の力量では無理ということなら、行政を核にした全企業の提携でセーフティネットを構築するべきである。
2010年07月17日
大相撲の力士や関係者が賭博をしていた問題について、精神科医の斎藤学氏は6月30日の東京新聞コラムにユニークな持論を披露している; 相撲界の賭博疑惑が各紙の一面を賑(にぎ)わせている。暴力団絡みで捨て置けないのだそうだ。いかにもお相撲さんらしい琴光喜に会えなくなるのは寂しい。「ふんどしかつぎ」からやり直させるというのはダメなのか。 ところでこの問題、日本中で連日騒ぎ立てるようなことだろうか。国技などと言うから御大層なものに見えるが、元々(もともと)歌舞伎などの音曲と並んで「興行」の世界の話。この世界は昔から堅気でない人々がたつき(生計)をたてるための道だった。つい最近まで人糞(じんぷん)を肥料にした野菜を食っていたわれらが父祖が、平気で腹に回虫を飼っていたようなもの。「道はずれ」にもそれなりに生計の道を用意してきたのだ。 元来相撲はスポーツではない。われわれ、表も裏もある日本人の伝統文化だ。国民放送(NHK)はそれを「健全市民」の競技会にしてしまったのだが、この興行で食っている人々の中には昔ながらの道はずれも交じっている。このことを知る人は知っているのに言わない。世を覆う「無菌志向」と「不潔恐怖」が事の本質を語らせない。 折から政治は選挙の季節。ここでも人々は清潔を求めている。「沈香も焚(た)かず屁(へ)もひらず」の台詞(せりふ)は忘れられ、なるべく無能な無菌者(というイメージ)が選ばれる。そうすることで有権者は、自らの「ねたみの心」を宥(なだ)めている。それこそ不潔な心だ。 (精神科医)2010年6月30日 東京新聞朝刊 11版 25ページ「本音のコラム-無菌求める不潔」から引用 相撲や歌舞伎などというものは堅気の仕事ができない半端者が生計を立てるための仕事だったというのは、多分江戸時代までのことで、近代市民社会はそのような半端者にも一市民としての権利を認める、その代わりに法律を守る義務を課すというのが現代の世の中ではないかと思います。相撲の世界に、まだ近代市民社会になじめずに昔ながらの半端者気分で博打をやってる者がいれば、それなりの法的制裁を受けるのはやむを得ないところです。しかしながら、たかがお相撲さんの博打に世間が騒ぎ過ぎるというのは、私も同感です。その上、なぜそんなに大騒ぎするのか、それは人々の「無菌志向」が原因で、選挙でも、清潔であることだけを選択条件にすると、能力の無い政治家を選ぶ結果になるという、なかなか含蓄のある考え方です。確かに市民派といわれて首相にまでなりながら、選挙運動中に突然消費税のことなどを言いだして肝心の選挙にボロ負けした例もあり、多少汚れはあっても実力のある元幹事長が取り仕切った方が勝っていた可能性が大と思われます。それにしても、斎藤氏の文章はいつも含蓄に富んでいて、この記事の最後のフレーズも、私は常々世襲の議員候補に人々が喜んで投票する姿に疑問を感じていたが、この一文がするどい回答を与えてくれました。
2010年07月16日
スポーツ解説者の松瀬学氏は、賭博問題で揺れる大相撲を6月28日の東京新聞コラムで次のように論評している; これぞ前代未聞の不祥事である。ベテランの相撲記者は嘆く。「まさか野球賭博までやっていたとは。甘い体質にあぐらをかいていたら、土台も腐っていた」と。 大相撲の野球賭博事件が泥沼化している。日本相撲協会が調査したら、出るわ出るわ、自己申告の力士だけでも、30人を超えた。その胴元と暴力団との関係も取りざたされ、恐喝事件にも発展した。「大相撲解体を」との声まで聞かれる。 ただ大相撲不要論にはくみしない。大相撲は江戸時代以来、人々に愛されてきた。番付がすべての単純明快さ、国籍、学歴、年齢関係なく、強ければ大関、横綱の夢を実現できる。問題は土俵上ではなく、その環境、組織、体質にある。 だから伝統の良い部分は継承し、悪い部分は大手術を施す。「相撲界の常識は非常識」はもう通用しなくなった。転機が3年前の時津風部屋の「力士暴行死事件」だった。あれで世間の目ががぜん、厳しくなった。 さらには大麻使用、元横綱朝青龍の暴行騒動、暴力団との交際、八百長疑惑…。不祥事の連発と日本相撲協会の対応のまずさは目を覆うばかりである。危機意識は薄く、自浄能力に欠ける。一般社会の組織として体をなしてはいない。 力士出身者主体の運営は限界である。今回の騒動を機に、組織の「憲法」に相当する寄付行為(規則)を見直したらどうだろう。現在の力士出身理事(10人)、外部理事(2人)、監事(1人)の人数を変更し、外部理事を過半数にするのだ。また日本国籍にとらわれず、外国人にも役員の門戸を開いたらどうだ。 確かに今回の賭博問題で一番悪いのは罪を犯した力士だろう。が、相撲協会幹部、親方たちの責任も大きい。事態は流動的ながら、警察と連携し、時間をかけて徹底調査、処理すべきである。 これほどゴタゴタしているのだから、7月11日からの名古屋場所は取りやめたほうがいい。当然、損害は相撲協会が負担することになる。その相撲協会がもっとも恐れているのが、税金で優遇措置を受ける公益法人格のはく奪と、NHKの中継放送の中止だろう。 一般社会の常識で考えれば、問題の発端となった琴光善をはじめ、何人かの力士、親方は角界を去ることになる。部屋取りつぶしもあろう。武蔵川理事長も責任をとって辞職すべきである。 その時、再建のリーダーを誰に託すのか。クリーンで相撲への情熱があり、行動力もある人物…。新たな理事長には思い切って改革の旗頭、貴乃花親方なんてどうだ。(ノンフィクション作家)2010年6月28日 東京新聞朝刊 11版 23ページ「松瀬学のスポーツ時評-賭博問題の大相撲」から引用 これは中々立派な相撲協会批判だと思って読んだのだが、最後のオチがいただけない。貴乃花親方は旧来の仕来りに逆らって理事選挙に出馬したために二所関を破門されたが、それだけをもって彼を「改革の旗手」などと持ち上げるのは間違いだと思う。これでは、末期の自民党が本人の資質も省みずに、単なる人気取りで次々と世襲議員を総裁に担ぎ上げて、終には野党に転落するという、あの轍を踏むことになりかねない。
2010年07月15日
元外務官僚の佐藤優氏は、公務員の政治的中立性について、6月25日の東京新聞コラムに次のように書いている; 6月4日付の本コラムに、筆者が1997年に当時首相秘書官だった江田憲司氏(衆議院議員、みんなの党)から白い封筒に入った機密費(報償費)30万円を受け取った事実を告白した。 これに対して、22日発売の『週刊朝日』で江田氏は「30万円については、まったく記憶にありません。仮に事実だとしても、機密費の使い方として、真っ当(まっとう)で、何ら問題ないでしょう」とコメントしている。 筆者も江田氏から30万円を受領したときは、モスクワでの工作費ができたと喜んだが、今になって考えると、このような機密費の使い方は間違いだと思う。筆者は外務官僚だった。外務省には潤沢な機密費がある。 外交のために必要ならば、内閣のお財布からカネを引き出すのではなく、正規の手続きをとって外務省予算を使うべきだ。そうでないと、首相官邸が機密費を「こいつは政治的に利用できる」と思う官僚に渡し、公務員の政治的中立性が損なわれる危険性がある。私は当時、不適切なカネを首相秘書官から受け取ってしまった。国民のみなさんにおわびする。 30万円は280円の牛井ならば、1711食に相当する。税金を原資とするカネを30万円も筆者に渡しておきながら、それをまったく記憶していないというのは、どういう金銭感覚をしているのだろうか。(作家・元外務省主任分析官)2010年6月25日 東京新聞朝刊 11版S 29ページ「本音のコラム-『記憶にない』とは・・・」から引用 外交官が仕事をするのに必要な経費は、外務省の予算から出すのが当たり前で、首相官邸から金をもらうのはおかしな話だ。まして、その金が外務省からの上納金かもしれないとなると、金の力で時の政権の都合の良いように公務員をコントロールすることになるわけで、これでは公務員の政治的中立が損なわれるというものである。
2010年07月14日
中国の軍事評論家、宋暁軍(ソン・シアオジュン)氏は、朝日新聞のインタビューに応えて、次のように述べている; 中国海軍の艦載ヘリコプターが海上自衛隊の護衛艦に異常接近したことに、日本のメディアや国民が騒いでいる。中国が大国になることについて、日本人が敏感になっている。力をつけた海軍が、日本のシーレーン(海上交通路)を封鎖するような事態を心配しているのかもしれない。両国民の交流や理解が足りないため、こうした「脅威論」が高まっているのだろう。 どの国も工業化が進むにつれ貿易量が増え、シーレーンの重要性が増し、安全確保のために軍隊を派遣してきた。欧米諸国がこれまで歩んできた道なのに、どうして中国がやろうとすると批判されるのか。経済発展に伴い資源の輸入量が急増しており、海軍が保護することは当然だ。 中国が大国となっても、かつての大日本帝国軍のような植民地主義や拡張主義の道は選ばない。軍事力を実際に使うことは現代社会では許されないし、ありえない。中国軍は、より理にかなった安全保障体制の確立を目指したい。「世界の警察」である米国が機能していなければ、中国が代わって役割を果たしてもいい。なぜ、中国が警官になってはいけないのか。 日本メディアは中国が空母を保有しているかどうかばかりに目をとらわれているが、あまりにも短絡的な見方だ。重要なのは、建造するための技術と人材を持っているかどうかだ。日本の造船の国産化率は97%だが、中国は50%に満たない。中国は日本から学ぶべきところはまだある。安全保障を論じるには、まず経済構造を転換してからだ。 日本人は、中国人がいまだに侵略戦争について恨んでいることを忘れてはならない。多数の中国民が虐殺された記憶は簡単には消せない。日本が中国海軍の「脅威論」を騒ぎ立てることで、中国内のこうした憎しみが再燃しかねない。両国関係は時間をかけて改善していくべきだ。 東アジアの融合を阻害している最大の要因は、米国の存在だ。 米国の軍事的、経済的なプレゼンスがある限り、鳩山由紀夫前首相が提唱した「東アジア共同体」や本格的な軍事交流の実現は難しい。まず経済的な協力から始め、金融、最後に安全保障の分野に広げればいい。欧州連合(EU)が長い年月をかけて成立したように、100年以上かけて交流を深め、共同体づくりを進めなければならない。 この際、中国が主導的な役割を果たすのは当然だ。文明国家としての5千年の歴史のうち、2千年は儒教に基づく「王道」によって東アジアを支配しており、中国を中心とした秩序が維持されていた。 日本も覇権を持っていた時期があったが、背後には米国の強い影響力があった。中国が大国になっても、米国のような「覇道」による支配を求めない。だから日本はそれほど心配する必要はない。加盟国がより平等な共同体の設立を目指す。 米国は日米安保条約を使って中国の発展を抑制したいのだろう。特に冷戦中、米軍基地が集中する沖縄県に近い東シナ海や南シナ海において、多大なる影響をもたらしてきた。自分の家の財宝を米国の銃口の前に差し出すことを強要されていたようなものだ。 ただ、米国の相対的な影響力が下がっている中、日米安保条約の寿命はそれほど長くないと考えている。中国は改革開放を導入して以降、米国を模範として歩んできた。しかし、今では経済方式を変革し、米国従属型から脱している。中国と日本の経済交流や人の往来が進んで相互理解が深まれば、「中国脅威論」や「北朝鮮脅威論」といった米国的な安全保障観の影響はしだいに低下していくだろう。 鳩山前首相は、「日本は中国と米国のどちらとの関係を重視するのか」ということを提起した初めての指導者だと思う。日本の世論は日米安保体制を見直す方向に確実に動き出したと言える。(聞き手 峯村健司)2010年6月19日 朝日新聞朝刊 12版 11ページ「抑止力 変わる構図」から引用 宋氏が言うように、軍事力などというものを現代社会で実際に使用するなどということは許されないし、正にありえない。無理に使ってみても得るものよりもはるかに多くのものを失うことをアメリカが証明してみせてくれているからである。しがたって、やがては高額な費用をかけて軍隊を維持することの馬鹿馬鹿しさに世界が気づいて、軍備廃止の方向へ向かうのが歴史の発展というものであろう。相対的な影響力を少しずつ低下させているアメリカの姿が、それを予見させる。
2010年07月13日
朝日新聞那覇総局の木村司記者は、6月16日の同紙コラムに新内閣の米軍基地問題に対する取り組みについて、次のように書いている; 管直人首相の11日の所信表明演説に、沖縄県の仲井真弘多知事は関心を示さなかった。日米合意を踏襲する考えだったと伝えると、こんな言葉が返ってきた。「県民は裏切られ、失望感があることを東京は知っているのか。実行不可能に近い」 昨年の政権交代以来、仲井真氏の一挙手一投足を追いかけてきた。振り返ればその主張は、「地元の頭越しはやめてくれ」ということに尽きる。仲井真氏は元通産官僚で沖縄電力会長も務めた。政府とのパイプを維持することが沖縄の発展につながる、との思いが強く、米軍普天間飛行場の県内移設も「推進派」に近い立場だった。自公政権時代、当時の稲嶺恵一知事が政府と対立すると、「政府とことを構える状況にならないように」と公然と批判したほどだ。 その仲井真氏が4月に県内移設に反対する県民大会に出席し、基地の現状について「差別に近い」と踏み込んだ。感情的な表現を嫌う現実主義者らしからぬ言葉に周囲は驚きを隠さなかった。鳩山由紀夫首相(当時)が決着を急げば、「最低でも県外」という約束に期待を寄せてきた県民の政治不信は、米軍基地の維持を困難にするほどまでに悪化しかねないとの警告だったのだろう。普天間の返還合意から14年。管首相は歴代政権と同じ過ちを犯そうとしているように思える。 学ぶにつけ、沖縄の米軍全体が連携して抑止力が維持できているという思いに至った--。鳩山前首相は県内移設の理由をそう説明したが、納得した県民はほとんどいない。 全国の米軍専用施設の74%が沖縄に集中しているが、沖縄が本土復帰した38年前には59%だった。普天間を使う海兵隊も戦後、初めから沖縄にいたわけではない。本土で反基地運動が活発化した1950年代、山梨や岐阜から、米軍統治下の沖縄へ移転したのが始まりだ。山梨県出身の私もつい最近まで知らなかったが、沖縄では常識だ。海兵隊が沖縄にいなければならない理由はあるのか。本土移設はどんなリスクを伴うのか。県民の多くが当たり前に感じている疑問は解消されていない。 「沖縄はずっと放っておかれた。真剣に考えてくれるなら、まだ待てます」。普天間飛行場近くで生まれ育った20歳の女子大学生は昨年11月、そう話していた。首相が代わった今、彼女は「期待して、裏切られて、それでも自分たちを守るために声を上げ続けなければいけない。これが沖縄のつらさなんだと分かった気がする」と語った。 本土への不信は世代を超えて受け継がれている。このまま日米合意を進めようとしても、溝はさらに深くなっていくだけだ。それは日米安保体制を根底から揺るがす危険性をはらむ。安全保障のありようというより、「鳩山問題」に終始してきた沖縄の基地問題。首相交代でごまかしてはならない。2010年6月16日 朝日新聞朝刊 17ページ「記者有論-『頭越し決着』なら同じ過ち」から引用 この記事は、管内閣に対する重大は警告である。1950年代に日本のあちこちで米軍基地反対運動が盛り上がったとき、メディアは「アメリカが怒ってるぞ」とか「日米同盟は大切だ」などという報道をしなかったのだろうか。いずれにしても、住民がその気になって米軍基地反対運動に取り組めば、基地を追い出すことは可能であるということだ。今は東西冷戦も消滅し、唯一国交のない朝鮮も弱体化して戦争などとてもやれる状態ではなくなってきているのに、なぜ日本に米軍基地が必要なのか。管内閣は、参議院選挙でボロ負けしてこの後どうなるか分からないが、真に国民の信頼を取り戻そうと思うなら、今後何十年かけて沖縄の米軍基地を半減させるのか、ロードマップを作成し、米国政府と本格的な協議に入ってもらいたい。
2010年07月12日
日産自動車のカルロス・ゴーン社長が8億9千万円の年俸をもらうことになったという報道と同時に、広島の自動車工場をクビになった労働者が無差別殺傷事件を起こしたことが報道された6月24日の東京新聞「筆洗」は、次のように述べている; なぜ労働党を支持するのか。インタビューでこう問われ、失業問題を重要視しているからだと答えた英国の作家ケン・フォレット氏の言葉を、作家の塩野七生さんが自著『日本人へ』で紹介している。 <人は誰でも、自分自身への誇りを、自分に課された仕事を果(はた)していくことで確実にしていく。だから、職を奪うということは、その人から、自尊心を育(はぐ)くむ可能性さえも奪うことになるのです> 失業は生活の手段を失うこととしか考えていなかった塩野さんには「眼(め)からウロコ」だった。同時に「民衆派」と呼ばれたローマの指導者の政策が何を意味したのか、納得できたという。 仕事は生活の糧を得るだけではなく、自己実現の手段でもある。誇りを持てない不安定な非正規労働の若者が何百万人もいる一方で、外国人社長が8億9千万円の報酬を受け取る社会は、どこかいびつで居心地が悪い。 広島県のマツダ工場で起きた11人殺傷事件で、現行犯逮捕された42歳の元期間従業員の男は「クビになり恨みがあった」と供述している。「自ら退職した」という会社側の言い分と食い違う。 容疑者は長年、派遣など非正規雇用で職を転々としていたという。「秋葉原の(無差別殺傷)事件のようにしてやろうと思った」という慄然(りつぜん)とさせられる強い殺意がなぜ生まれたのか。捜査当局による動機の解明を待ちたい。2010年6月24日 東京新聞朝刊 12版 1ページ「筆洗」から引用 雇用の流動化などというまことしやかな美辞麗句を並べて、その実は労働者搾取の強化に過ぎない派遣法という悪法を駆使して、そうやって儲けた金が8億9千万円である。カルロス・ゴーンがどんなに優秀な人物であっても、通常の労働者の100倍の生産能力があるとは、物理的にも医学的にもあり得ない話だから、そのような利益配分を合法とする資本主義のルールが如何に不当であるかを示している。その不当を是正するためには、そのような収入には90%くらいの課税を行い、その金を社会のセーフティネット構築に当てるべきである。そうすることによって、広島で起きたような事件を防止することができる。
2010年07月11日
英国議会では、2003年にアメリカのブッシュ政権がイラク侵略を開始したときに、ブレア政権も参戦したことが妥当であったかどうかを調査する委員会を設置して調査活動を行っている。このことについて、6月24日の東京新聞投書欄は次のように述べている; 大きな政策が実行された場合、事後にそれが正しかったかどうか、どこに誤りがあったのか、きちんと評価し総括する仕組みが必要ではないか。その見事な例がいま英国で行われている。 先日NHKの「クローズアップ現代」が伝えたのは、2003年のイラク戦争開戦に際し英国政府が米国と全面的に協力した政策について、昨年から議会に調査委員会をつくって、なぜそのような決定がなされたのか、英国の関与に問題はなかったのか、調査をしているという。 委員会には政治家を除き歴史家が参加し、必要なすべての機密資料が提出され、議事はテレビ中継されホームページでは動画も公開されている。 日本は歴史の客観的な総括というのが昔から極めて苦手だった。 司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』を書くにあたって日露戦争史を調べたが、大本営が作ったそれは、将軍たちの自慢話の寄せ集めで使い物にならなかったという。 英国の例で注目すべきは、それが政権が代わったからではなく、開戦を決定したブレア元首相が委員会の設置を決め自身も証言していることだ。 なぜ英国にできて日本にはできないのか。 NHKの番組に出演したオックスフォード大の先生は、「それは歴史感覚の有無による」と証言した。事後何年かたった後で、政党を超えて客観的に評価し、公式に問題点を明らかにして位置づけるとの考え方なのだろう。 政策の総括がないままでは、政治の責任は生じず後に歴史の教訓として生かされることもない。2010年6月24日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「ミラー-政策の事後総括が必要」から引用 ブッシュ政権のイラク侵略については、わが国も当時の小泉首相が直ちに全面的な支持を表明し、国会では自民党と公明党が十分な審議もせずに強行採決で自衛隊をイラクに派遣した。このような行動が、平和主義を掲げる日本にふさわしいものであったのかどうか、自衛隊をイラクに派遣したことは憲法に抵触しないのか、国会に調査委員会を設置して徹底究明をしていただきたい。
2010年07月10日
鳩山首相のときは4年間は増税しないとのことだったので安心していたが、菅首相になったら突然、自民党案に便乗するような格好で「消費税10%」と言う話が飛び出して、びっくりであるが、それを批判する投書が、6月22日の東京新聞に掲載された; ギリシャの財政危機が表面化し、各国が財政再建取り組みの流れになってきた。各国の財政悪化の原因は、米国の金融破綻(はたん)だと思う。日本の年金基金の運用損の累計を公開してほしい。消費税アップで穴埋めせねば仕方ない状態なのか? 米国政府は「日本にも応分の負担を」と求めてきているのだろうが、「国民はこれ以上、米国の失政の尻ぬぐいはしたくない」と思っている。この思いを国民運動として、日本国民の世論のバックアップを力にして、政府は米国と交渉してほしい。マスメディアが日本の国益になる世論をつぶしている。 米国の国債を買わされて財政を悪化させているのに、この分もまた消費税アップで何とかしようというのでは、国民は納得できない。米国に流出している日本の金の仕分けこそ必要だ。2010年6月22日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-尻ぬぐいで増税なのか」 権力批判は民主主義にとって欠かすことはできないが、この投書はよく読んでみると、少しポイントがずれているような気がする。菅首相が増税を言い出したのは、わが国財政がリーマンショックで突然赤字になったから、という理由ではないと私は思う。わが国が赤字国債を発行するようになったのは、多分30年以上前だったと私は記憶している。自民党が大企業の支持を継続するために、国民の税金を大企業の懐に流し込むような政策を継続したために、国家財政が赤字になったと私は理解しているが、このまま赤字体制を継続するわけにはいかないから、いずれ増税で赤字解消を迫られるときが来るわけであるが、増税するのであれば、何が原因でこのような膨大な赤字になったのかを明らかにしてもらわなければ、我々国民は、そう容易く増税を受け入れるわけにはいかない。
2010年07月09日
管首相に期待する投書が、6月22日の東京新聞に掲載された; 民主党は菅直人内閣によって見事な回復を見せた。小沢外しで民主党本来の純度が高まり、国民の支持を呼び戻したといえる。 片や自民党の支持率は一向に上がらず、小沢氏(元は自民党員)に関する世論の推移を見ても、国民が自民党流の政治をいかに嫌悪しているかが分かる。膨大な赤字の原因をつくり、日本の財政を自転車操業にしてしまったのは先の自民党政権だし、しかもバブル崩壊後20年の無責任な政治は国の機構をすっかり狂わせてしまった。 菅内閣の行方は多難だが、選挙という手段のためではなく、国家百年のための政治を実行してもらいたい。そのためにはマニフェストにこだわらぬ勇気も必要だろう。故ケネディ米大統領の言葉を借りるなら、国家再生のために国が何をしてくれるかではなく、国民に何ができるかを問い掛けてもほしい。 菅首相には市民運動の初心を忘れず頑張っていただきたい。2010年6月22日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-国家百年の政治実行を」から引用 この投書も自民党の支持率が一向に上がらないことを指摘してるが、その原因は自民党の自覚の無さに起因するのではないだろうか。自民党のリーダーの言動を見ると、まるでかつての野党の行動の仕方を猿真似しているかのような印象を受ける。ただ与党を批判するだけ、上げ足をとっていれば、それで野党の責任が果たせると言わんばかりの姿勢では、とても国民の支持を集めることはできないであろう。自民党は、ただの野党ではないと国民は思っている。過去に与党として長年、この国の政権を担当し、今日に至ったという事実がある。国民が信頼するに足る自民党であるなら、今日何故野党になってしまったのか、わが国の今の閉塞状況は、過去の自民党のどのような政策が災いしたのか、真摯な分析と総括が必要である。そのような作業を行って、その結果を有権者に示し、今後どうするのかという展望を明示するのでなければ、自民党はこのままじり貧で泡まつ政党になり下がってしまうほかないだろう。と、ここまで書いて、今日の夕刊紙を開くと、なんとその自民党が結構善戦しているらしい。6月下旬は菅内閣発足直後で、ここに引用した投書のように、有権者は期待したのであったが、その後の菅首相の筋の通らない消費税発言が災いしている。これもまた、与党慣れしていないための迷走であるが、このような失敗を重ねた上で、やがてはしっかりした政権担当能力を発揮していくことであろう。
2010年07月08日
新聞記者の田原牧氏は、連日米軍基地の移設反対の記事を掲載する元気な沖縄の新聞を評して、6月22日の東京新聞に次のように書いている; そのストレートさにしばしば見とれた。「国外、県外を要求」。黒字に白抜きの大見出し。米軍普天間問題を扱う「琉球新報」など沖縄県紙の紙面は勢いづいていた。 やがて気が重くなった。本土の新聞の論調に比べると、沖縄県紙が外国紙にみえる。その温度差にひるんだ。■「沖縄差別」の告発 経験的にいうと、スッキリした記事は堅い事実に裏打ちされている。沖縄県紙の明確さにも同じにおいがする。 見出しに「沖縄差別」という言葉が躍っていた。従来は感じてはいても、活字にするにはためらったはずだ。しかし、いまははっきりと記す。 鳩山前政権の普天間問題での功績は、沖縄県民がこれまで口に出しにくかった差別とその怒り、差別構造を享見る本土の多数派国民の無関心を浮き彫りにしたことだ。 その鳩山さんが退陣した際、メディアは失敗の理由を彼の「理想主義」に求めた。それでは、対極の現実主義とは何を指すのか。その答えは「日米同盟」であり、鳩山さん自らが学んだという「抑止力」になるのだろう。■言葉の魔術の横行 外交や軍事という領域は、生活者からはとても遠い。素人は黙ってろ、といわれているに等しい。言い換えれば、いわゆる官僚や有識者らの現実主義を装った「言葉の魔術」が支配する領域である。 では、有識者や官僚の言い分はそれほど正しいのか。自分が長く携わっている中東問題で考える。一般に米国研究者と中東研究者は水と油の関係だが、米国寄りの外務省が政策で「中東屋」の意見を優先することはまれだ。だが、イラク戦争でも、結果は中東屋の予想通りとなった。 だから、現実主義の衣をまとった方針が、本当に現実的かは疑わしい。今回の「抑止力」も、対東アジアの総合戦略の中で位置付けられるべきだろうが、詰めた論議があったとは思えない。それより、普天間問題の揺るがぬ現実は「沖縄差別」にある。 鳩山さんは半年前、所信表明演説を「いのちを、守りたい」と切り出した。感傷的と言われたが、私には現実的に聞こえた。新自由主義政策に人々は病んでいたからだ。■閉塞感を打ち破れ むしろ、金融危機に結果した構造改革(新自由主義)路線こそ、非現実的のそしりを免れない。つまり、理想主義と軽視される理念こそ現実的で、現実主義にこそ危うさが隠されがちだ。沖縄しかり。鳩山さんは人の痛みという現実を侮ったのではないか。 「こちら特報部」は「沖縄差別」の実態や歴史を意識的に取り上げてきた。沖縄県紙にも学んだ。「言葉の魔術」の横行は閉塞(へいそく)感を高めるが、沖縄県紙には開放感がある。その心地よさにひかれたことも一因だ。 (特別報道部)2010年6月22日 東京新聞朝刊 11ページ「メディア観望-何が現実的なのか」から引用 小泉首相のスローガンだった「構造改革なくして財政再建なし」こそは、社会の上層部と大企業を優遇することによって経済活動が活性化し、やがては一般庶民や中小企業も潤うことになるという「新自由主義」で、その当時人々は実に現実的な路線だと思ったのであったが、気が付いてみると、確かに富裕層はますます大金持ちになったが、一般庶民は益々生活が苦しくなる一方であった。このように、世の中には一見現実的に見えながら、実際は非現実的ということは、往々にしてある。軍隊をもって武装することが平和を維持する上で現実的であるように、見えながら、実は軍隊は国民の生命を守るのが目的ではないということは、戦時中の司馬遼太郎の体験にも明らかだし、近くはタイの軍隊の行動でもそのことは理解できる。今は理想主義と軽視されがちな「憲法9条」も、やがては、実は一番現実的な政策だったことが理解される日が来るに違いない。
2010年07月07日
6月22日の東京新聞コラムは、戦中戦後の沖縄について次のように述べている; 「やー(君は)どうし(親友)さ。だけどヤマト(沖縄県外の人)さ。ウチナー(沖縄県民)の悔しさは分からないさ」 受話器から聞こえる沖縄の友の声はいつもと違って沈み、方言も多かった。普天間基地移設が本格的に論議され、彼が仕事としてかかわり始めたころだ。間もなく彼は自ら命を絶った。 30年来の友。彼の悔しさの意味が分かるといったら思い上がりだろう。だが沖縄戦から65年。今も戦争の負の遺産を押しつけられ、県民の心が日米両国に踏みにじられていることは、痛いほど分かる。 1945年3月に始まった沖縄戦では、県外疎開せずに残った県民40数万人のうち10数万人が犠牲になった。本土決戦の時間稼ぎの捨て石としてだ。米軍は戦後も、時には銃剣の兵士に守られたブルドーザーで農地を次々に接収した。 52年の旧安保条約発効から、60年6月の改定条約発効までに沖縄県外の米軍基地は4分の1、沖縄県は倍になった。今では、国土の0・6%しかない同県に在日米軍専用施設の74%が集中し、本島は18%が米軍基地。まるで「軍島」だ。 日米友好は歓迎だ。だが「安保」が「日米同盟」と呼ばれだし、自衛隊の海外派遣など、言葉につられるような変化が進んでいる。歴史や、前政権のレールはあるにしても、日米関係は相互理解が前提だ。沖縄が常に問題提起している。 (植木 幹雄)2010年6月22日 東京新聞朝刊 11ページ「こちら編集委員室-沖縄がつきつけるもの」から引用 このような記事を読んで、わが国の一部である沖縄の人々がどのような状況で何を考えているのか、理解することが大変大事だと思います。
2010年07月06日
自民党とみんなの党が、北海道教職員組合の不正献金事件にかこつけて教員の政治活動規制を厳しくする法案を提出したことを、日本大学教授で教育社会学が専門の広田照幸(ひろたてるゆき)氏が、6月2日の朝日新聞でするどく批判している; 北海道教職員組合の不正献金事件を機に先生の政治活動が問題にされている。 自民党とみんなの党は、教員が違法な政治活動をした場合、3年以下の懲役か100万円以下の罰金を科すという「教育公務員特例法」の改正案を衆院に提出した。 ちょっと待ってほしい。事件で問われたのは、組合が政党でも政治資金団体でもない政治家陣営に対し、約1600万円を渡したという「政治資金規正法」違反の疑いだ。教組の「政治とカネ」の問題を機に、改正案はそれを先生全体の政治活動にまで拡張しようとしている。ずいぶん危ういと私は思う。 「教育公務員特例法」の問題の個所は冷戦下の1954年、与党・文部省と、社会党・日教組という右左の対立が激しかった頃につくられた。地方公務員である公立学校教員の政治活動に、「当分の間」という文言をつけながら、国家公務員並みの厳しい制限をかけるものだった。 法律ができた時は「教育から自由が奪われる」と矢内原忠雄東大総長ら多くの個人や団体が反対し、双方が妥協した結果、教師への罰則を除く形になったという経緯がある。冷戦後20年もたち、左右の激しい対立も過去となったいま、罰則を加えてネジを巻き戻すのは時代錯誤ではないか。 私立学校の教員は、この教特法の縛りから抜けている。同じ先生でも公立はダメで私学がいいというのも、おかしな話だ。 公務員の政治的行為について裁判所の判断は捲れているが、東京高裁は3月、国家公務員の政党機関紙配布事件で無罪を言い渡した。その判決の付言で、公務員の政治的行為に対する国民の法意識が「表現の自由の発現として、相当程度許容的になってきている」と述べている。ことは憲法の思想信条の自由の問題なのだ。 いま先生たちを見ると、私的世界への閉じこもり傾向が広がっていると感じる。子ども時代に学校が授業で現実の政治や社会を扱うことに及び腰で、政治をめぐる教育から遠ざけられた世代だ。政治活動をいっそう制限することは、この私生活主義に拍車をかけかねない。 地方分権が進み、裁判員制度が始まり、民法上の成人を18歳に引き下げる動きもあるなか、子どもたちを、自分なりに考え、答えが出せる市民に育てていかなければならない。学校や身の回りにしか関心を持たない教員に、そんな教育を担いきれるだろうか。 政治活動をする先生に、政治的に中立な授業ができるのか、と不安に思う人もいるかもしれない。だが、子どもは何人もの教員や友達に出会う。インターネットで違う考え方も知る。1人の教師が何か偏ったことを教えたら、子どもがすっかり洗脳されると考えるのは教育の力の過信だ。そもそも学校評価や学校参加が進んでいるので、偏った授業をすれば保護者のクレームも来るはずだ。 教員を政治からさらに遠ざけるのは、教室にとってもマイナスが多いと思う。2010年6月2日 朝日新聞朝刊 15ページ「教師の政治活動 改正で規制強化は時代錯誤」から引用 この記事に紹介されている東京高裁の判決は、国民の間に公務員の政治的行為に対する法意識が表現の自由の発現として許容されるようになってきたことを指摘しているにも関わらず、自民党とみんなの党は、そのような社会の変化を把握できず、時代に逆行する方向に法律を捻じ曲げようとしているのだから、こういう政党はこの先支持率を上げるということは、多分無いであろう。 また、この記事が指摘するように、先生たちの政治的活動を極端に制限することは教育上宜しくない。先生たちが活発に政治活動に取り組んでみせることによって、生徒の政治に対する関心も高まり、民主主義社会を支えるための素養が身につくというものである。これを、自民党やみんなの党のように、時代に逆行させて政治活動を厳しく規制した日には、生徒は政治に対して偏見を持つようになり、社会に関心を向けなくなり引きこもりを生む原因にもなりかねない。そのような弊害を取り除くには、先生たちが積極的に組合に結集し生き生きと活動できる環境を整えてあげるべきである。
2010年07月05日
戦争が終わって60余年たったのに、日米関係はこのままで良いのかという投書が、6月1日の朝日新聞に掲載された; 沖縄が戦略上重視される根拠は、第2次世界大戦の戦勝国としての米国の既得権維持に過ぎないと私は考えます。 オバマ米大統領の「核なき世界」演説、米ロの新戦略兵器削減条約締結などを考えれば、戦後半世紀経た日米安保条約重視は国際情勢にそぐわない。日本はいまだに敗戦国の従属的意識から抜け出せないでいるように見受けます。 政治家、外務官僚、識者及び日本国民が、日本は自立した独立国家であるとの強い自覚を持たない限り、安保条約の見直しも日米地位協定の改定もできないでしょう。 米軍基地を維持するとしても抜本的に見直し、対等な内容の協定を結ぶことは国際的な常識であると思います。 既に冷戦は終結。中国・北朝鮮脅威論は固定観念により、実態以上に大きく取り上げられている感があります。日本が国際的に置かれている現状を冷静に見据え、判断すべきだと思います。安保や特攻隊を撮った米国人映画監督ですら「明らかに不公平」と評する条約や地位協定は、そろそろ変えるべき時でしょう。2010年6月1日 朝日新聞朝刊 12版 12ページ「声-国際情勢見て本質を論ぜよ」から引用 わが国がアメリカを含む連合国と戦争して敗れてから60年以上もたったのだから、そろそろ戦勝国対敗戦国の関係を脱却してよいころである。東西冷戦の時代はやむを得ず安全保障のためにアメリカの軍事力に頼ってみたが、結果としてわが国がどこかに侵略を受けて米軍の力で撃退したなどという事態は一度もなかったので、今後はますますあり得ないと言えるのではないだろうか。
2010年07月04日
政治学が専門の飯尾潤(いいおじゅん)氏は、政権交代とその意義について、6月18日の東京新聞インタビューに応えて次のように述べている;-菅新政権の誕生でムードが変わったとはいえ、昨年の衆院選での政権交代への失望感は漂ったままだ。 「1回の政権交代で世の中がよくなるとは限らない。ダメだったら、また自民党に戻せばいいだけだ。政権交代とはそういうもので、世の中をよくする道具が増えたという点では評価すべきだ。最初の1年目が混乱するのは当たり前。山に登って別の山に登ろうと思ったら、いっぺん下りないといけない。今は下りている最中だ」-何が問題なのか。 「問題があるとすれば、できもしないことを1年目にできると(昨年の衆院選の)マニフェストに書いたことだ。マニフェストは(衆院任期の)4年間の約束であり、1年目は大したことはできないと、もっと慎重にすべきだった」-衆院選での公約を守れなかったり、変えたりしたことで、マニフェスト自体に疑いの目が向けられている。 「政権交代もマニフェスト政治もまだ試行錯誤の段階。合格点ではないが、これまで20点、30点しか取っていなかった人が40点、50点を取るようになってきたことをどう評価するかだ」-衆院選で約束した子ども手当の2年目からの満額支給を参院選のマニフェストではやめたが。 「政治もマニフェストも生き物。縛りをかけて機械的に考えるのは政治的にマイナスだ。問題は変え方。金額にこだわるより、確実に目的を実現することだ。ポイントは説明がつくかどうか。どういう政策実現の優先順位をつけ、どういう判断をしたのか、その説明がつけば、一つも変えていけないということはない」-参院選で問われることは。 「マニフェストの観点で言えば、民主党の政策の修正が理解されるのかどうかだ。もし理解されないなら、どの政党が伸びるかによって、政策の修正の方向が示されることになる。民主党が衆院で多数を占めても、参院で多数を取れなければ妥協が必要になる。どっちの方向に妥協すればいいか、選挙結果が示すことになる」 (参院選取材班)2010年6月18日 東京新聞朝刊 12版 2ページ「政権交代 まだ試行段階」から引用 民主党も鳩山前首相も功をあせったのがまずかった。国民の期待も過剰で、それを煽るようなメディアの態度も問題だった。いくら有能な政治家でも、そんなにあれもこれも一遍に解決はできないし、だからと言って無能だから元に戻せというものでもない。これからは、じっくりと自民党長期政権の結果できた悪弊の改善に取り組んでほしい。
2010年07月03日
作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏は、沖縄が独立国だった当時アメリカとの間で取り交わされた琉米修好条約が、東京の外務省外交史料館に保管されている問題について、6月18日の東京新聞コラムで次のように述べている; 23日の沖縄慰霊の日に管直人首相が沖縄を訪問する予定という。この機会に菅首相にぜひ調べてほしいことがある。 1854年3月31日、横浜で日米和親条約が締結されたことは有名だ。実はその後、ペリー提督が琉球(沖縄)に向かい、同年7月11日、琉球国中山府総理大臣尚宏勲および布政大夫馬良才との間に琉米修好条約を調印した。この条約は、中国語と英語で書かれ、水、食料、燃料(薪)の補給、遭難船の救助、外国人墓地の保護等を約束している。 日米和親条約の調印書原本は幕末期の江戸城の火災で焼失した。他方、琉米修好条約は外務省外交史料館(東京都港区麻布台)に保管されている。「同条約が国際法的にいかなる性質を持つか、政府の見解を明らかにされたい」という鈴木宗男衆議院議員の質問主意書に対して、政府は「御指摘の『条約』と称するものについては、日本国として締結した国際約束ではなく、その法的性格につき政府として確定的なことを述べることは困難である」と安倍晋三首相の答弁書(06年12月8日付)で回答した。 日本国として締結していない条約が、どうして東京の外務省にあるのだろうか。この原本をいつ、誰が、どのようにして琉球から東京に持ってきたのか。この歴史文書こそが琉球処分の生き証人だ。(作家・元外務省主任分析官)2010年6月18日 東京新聞朝刊 11版 25ページ 「本音のコラム-琉米修好条約」から引用 日本が韓国を併合するときは、曲がりなりにも条約を締結し、現在の日本政府はそれを根拠に不当な併合ではなかったと言い張っているわけであるが、琉球国を日本国の一部とする際は、どのようであったのか、調べる必要があるかも知れない。素人考えでは、かつては独立国であっても現在は日本国の一部であるのだから、昔の政府の書面が現在の政府の保管になっていてもおかしくはないのでは、と思いがちであるが、安倍晋三首相(当時)の答弁書がなかなか慎重な表現になっているところを見ると、これはそう簡単な話ではないのかも知れない。
2010年07月02日
沖縄に米軍基地が必要なのだろうかという素朴な疑問が、6月18日の東京新聞に掲載された; 一昨年の春、卒業旅行で沖縄に行った。温暖な気候でのんびりとした海の奇麗な島だった。観光地としてのイメージしかなかった沖縄だが、歴史を学べば、さまざまな問題が入り組んでいる。 その中でも、いまだに身近な問題として残っているのが、米軍基地の問題である。半ば強制的ではあるが、「公共の利益」の下に行われている土地の使用は、終戦から現在まで続いており、一部の人の自由な生活や権利を犠牲にして成り立っている。 米兵による犯罪等付随的な問題を含めても、何のために基地があるのか疑問がわいてくる。契約更新や移転の話が出るたびに同じようなことが繰り返されているように思えてならないが、果たして本当に基地は必要なのか。 そこから考え、米国と積極的な交渉をすべきではないかと思う。国民の幸せを考えた案を出してほしい。2010年6月18日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-沖縄に基地必要なのか」から引用 果たして本当に基地は必要なのか、政府は国民に筋の通った説明をするべきである。鳩山前首相も、「最低限県外」を撤回するとき「抑止力」と一言いっただけで、どの国に対するどのような「抑止力」なのか、何の説明もなく、メディアも質問しなかった。今後はしっかり説明を求めるべきである。
2010年07月01日
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