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予想通りというか、希望通り日本が勝った。これで熱い3月が終わった。次回は6月である。 サッカーは世界共通語だ。サッカーのことを知っていると世界の誰と一喜一憂ができる。言葉など必要ない。喜怒哀楽の表情やしぐさで十分わかりあえる。すばらしい伝達手段ではないかと思う。 スポーツをする人たちの間では、あ、うんの呼吸というのがある。一瞬目と目があうだけで相手の考えていることや次の動きを予測することができるのだ。これがもし「みのもんた風」の目でやられたら選手はたまったものではないだろう。じれてしまって試合にならない。 コーナーキックやペナルティキックの際にみのさん風のまなざしをしたらさぞかしおもしろうだろうな、と馬鹿なことを考えながら、昨夜のバーレーン戦を観ていたら夜、夢の中でみのさんが出てき、寝つきが悪くなってしまった。
2005年03月31日
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新入学や移動など、春は引っ越しのシーズンである。 貧乏事務所のHPも引っ越し作業でてんやわんやである。 実はさらなるIT化社会を見据え、これまでのプロバイダー(借家生活)からの脱皮しようと、新しいドメイン「141office.com」「office141.biz」「are-home.com」を取得したまでは良かったが、移植というか引っ越しが大変でホトホト困っているのだ。 先ず困ったのは従来のアクセスカウンター(プロバイダー提供)が使えないこと。さらにアクセス解析で良いのを見つけたのでこちらも移植したい。 これまでの総花的だった業務ジャンルを改善、交通事故をはじめとする「手続民事法務」、建設業風営法などの「許認可」、さらには車庫証明や自分史社史などの「代書代筆」と分類しようと思っている。 さらに不動産業(私がCEO)のHPと伸縮管継手会社(私が取締役)のHPの作成維持管理が加わってくる。特に不動産はなんといっても情報の鮮度が命。毎日更新を不可欠。レインズと呼ぶ仲介物件情報を加工するのはソフトが行うにしろ、HPに貼り付ける作業はカミサンの日課である。 昨日の交通事故被害者に関する件です。答えから述べますと被害者の味方は0、かろうじて中立は1、そのほか、意図するしないは別として置かれている環境や状況から察するに加害者よりの方が多いような気がします。
2005年03月30日
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交通事故に遭いますと、まずは警察と救急車がやって来ますよね。救急車で運ばれた先ということで病院の医師。そして翌日ぐらいに菓子箱を持って加害者側の保険会社の担当(事故の調査会社の社員もあります)がやって来ます。 大変ですね、と同情され、ついには任意一括をお願いされ、カバンから取り出した同意書にサインを求められ、相手の丁重さと会社の知名度を信用し、普通は押印してしまいます。 その後、物損があればその示談があって、片が付くとまた人身傷害案件に戻ります。任意一括されていると治療費は保険会社が立て替え払いをしてくれます。被害者側としては一切持ち出しがないのでこの制度は有り難い面もあります。当然悪い面もありますが・・・。 しかし早くて3ヶ月、遅くとも6ヶ月もすれば、もうそろそろ治癒では? と問いかけて来ます。邪悪な担当者の場合は、暗に支払の打ち切りなどをほのめかしたりもします。いよいよ兵糧攻めの始まりです。ここで話がこじれると加害者側の担当が保険会社の社員から弁護士に変わります。泥沼、イバラの道への第一歩とでもいったところでしょうか。 後遺症が残った場合や保険会社の対応に不満がある剛気な方は、そのまま自費で治療を継続、ようやく症状が固定した時点で自賠責保険会社を通じて調査事務所というところに被害者請求を提出することになります。提示額が出てくるとその数字をベースに自賠責基準、任意保険基準、弁護士基準によって損害額を算出、保険会社と示談の交渉となります。ここで示談ができないと被害者側も対抗策として弁護士を立てることになり、ついては検察が出てくる。 どうです、いろんな人たちが出てきますよね。 さてさて、みなさん、実はここでお尋ねしたいことがあります。 上記の人たちのうち、果たして何人が中立を守り、何人が被害者の味方をしてくれると思います? 登場人物の一覧1警察 2救急隊員 3医師 4保険会社 5調査事務所 6加害者側弁護士 7被害者側弁護士 8検察 みなさんのご投稿をお待ちしております。
2005年03月29日
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いつから雨が降っていたのか、早朝目が覚めたら雨音がしていた。どこかひんやり感じたのはそのせいであった。「雨」といえばサマセットモームの短編小説が有名ですよね。わずかな時空にいろんな人生をかいま見せてくれます。映画化もされましたが物語作りにはとても為になる小説ですね。 朝日が昇っていつしか夕陽になって沈み、また朝日が昇る。昔の人は同じように人間も巡ると考えた。死んでも死んでも生まれ変わる。生前の行いによって六道(人間道、畜生道・・・)に振り分けられ、輪廻を繰り返すことの辛さを嘆いた。 ところが紀元前5世紀、インドのガーダマ・シッダッタ(釈迦)が悟りを開いたことで六道輪廻から解脱することに成功した。以来、人々は六道輪廻から解脱するために釈迦の教えに従うこととなる。 つまり、人は生まれ変わるのが仏教であり、死者は生まれ変わることなく、最後の審判に復活、裁きを受けるとするのがキリスト教である。 サクラの開花はこの雨で早まりそうな気がする。それにしても私は菜種(なたね)の花が乱舞する頃に降る雨が一年で一番好きだ。
2005年03月28日
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きょうは朝から京都。行楽じゃありません。交通事故に関する研修です。朝10時から午後5時までみっちり、勉強、学習好き?の私にはまさにバッチリです。 会場は七条と五条の間にあるですが、情報によると付近に食堂がないとのこと。コンビニ弁当は嫌いなのでカミさんに相談すると、「おにぎりでええんやったら、作ったるけど・・・。どうすんのん?」 と、うんざり気味にポツリ。クラブや仕事に出かける娘たちの弁当を作るのだという。「なんでもええわ。お腹大きくなったらそれでええ」 おにぎりといえば、行政書士を受けるために日曜日だけの講座を受けていたころ、毎週日曜、カミさんがおにぎりを作ってくれていた。 動機は単に外食がもったいない、という理由からだったが、教室で食べるおにぎりには脳みそが破壊されるほどの、喉がつまるほどの梅干しがこれでもかとばかり押し込まれてあった。「あんた、家族みんな生活かかってるんやで。しっかり勉強しいや!」とでも言われているかのようだった。「わかってるわい。頑張らないとオレには明日はないんや!」 涙目で頬張りながら、こちらも、ある種の、追いつめられた圧迫とでいうのか、痛みというか、とにかく打ち震えるプレッシャーを感じたものだ。 幸い一発合格を果たすことができたのだが、今になってみれば多分におにぎり効果もあったのではないかと思う。 いずれにしろ、久しぶりのおにぎりである。時期的にも大好物の「いかなごのくぎ煮」が出回っている。神戸の友人が自家製を送ってくれているのでおにぎりのお伴をしてくれるだろう。とにかく魚の煮物の中ではいかなごのくぎ煮はマウイ! である。 花見にはまだ早いだろうが、春間近の加茂川や比叡山を眺めながら、今一度初心に戻り、カミさんらしい?不格好なおにぎりを頬張るのもよいかもしれない。
2005年03月27日
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祖母は、神経の神さん、に足繁く参っていた。子供心にも祖母は可哀想な人で、通常は普通だが、やはりどこか頭がおかしく、そのためにそういう神さんにお参りをしているのだとばかり思っていた。 当時祖母は五十代半ば、昔の人だから普段から着物を着ていたが、言うこともすることも他の人とは違わず、それでもやはりそういうところにお参りをしないといけない因果な持病を持ちあわせているのだろうと祖母にはいつも憐憫めいた感情を抱いていた。 幼稚園から小学生低学年の頃にかけ、わたしは祖母に連れられ、よくそこへお参りをしていた。家の前に着くバスに乗って近鉄八尾まで行き、そこから別のバスに乗り継いだ。 着くと賽銭箱に十円玉一個を投げ込んで順番を待つ。センセイと呼ばれる人の前に座って頭を下げ、なにやらご祈祷をしてもらうだけでお参りはおわりだ。出口のところで信者さんが敷島パンのあんパンとジャムパンをくれるのだ。これが子供心にとてもうれしかったが、「十円で2個80円のパンでは儲けにならないどころか、損ばかりするのに」 とも考え、どういうからくりになっているのか、いつも不思議であった。 祖母はわたしの父母を見届け、九十四歳で生涯を閉じた。もちろん喪主はわたしだった。ところでわたしが知る限り、祖母はその間一度も神経を病んで困ったことはなかった。最後までボケずにいた。 「神経の神さん」の謎が解けたのはまだ数年前のこと。大阪府を南北立てに縦貫する中央環状線というのがあって、東大阪や八尾を縦貫する産業道路だ。八尾に近づくと「新家」という交差点がある。 そうなのだ。確かめもせず、あやふやなままずっと神経だとばかり思っていたが、この新家が神経であったのだ。
2005年03月26日
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昔、テレビで「白馬童子」いう子ども向けの時代劇があった。あの山城新悟がさっそうと白馬に乗って現れ、悪役どもを成敗する、勧善懲悪ドラマだった。 今回も白馬は現れた。ソフトバンクという会社、なかなかのくせ者ですね。さしものライブドアもこれにて一件落着といった感じでしょうかね。 ソフトバンクもあちらこちらの業界で常識を打ち破り、争議を醸しているようですが、終わってみれば大山鳴動、悪者ライブドアに正義の味方ソフトバンクという構図だけが浮かび上がってきた。無策無能ぶりを世間に知られてしまったのが放送界、世間を味方につけるはずが嘲笑されるばかりで終わってしまった。詰んでいるオセロに、さらに碁盤を付け足すようなインチキ行為を、さも正当であるかのように演出?した経営陣のふがいなさには呆れてモノが言えませんでした。 タレントの一部でライブドアの支配下になったら出演を拒否するという動きがあったらしいが、この方たちは一体何様のつもりなんでしょうか。理解に苦しむ発言に今の世の中、正確な尺度すらないがために、より問題が複雑化する素因が潜んでいたことをあらためて垣間見たような気がしました。
2005年03月25日
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ドメインで「.biz」というのがありますよね。 なんでもビジネス専用というふれこみで話題になっているらしいです。ドメインといえば「.jp」や「.com」というのが従来からの主流ですが、これからのドメインということを踏まえて考えると、ビジネス専用の「.biz」も良いかなと考えてしまいます。取得しようかどうか、迷っています。 ところで業者によって取得値段にかなり差があります。もちろん維持費用もそれに比例して違っています。回線や速度によって費用が違うなら納得もいくのですが、取得と維持だけなら安い方が良いかなと考えたりします。 今から現場の写真撮影に出かけます。近くに簡保の宿がありますのでそこで昼食するのもいいかなと思っています。
2005年03月24日
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きょうの楽天日記はお休みです。ですから歴史の話もお休みです。文学の話がしたいけど長くなりそうな予感がするのでこちらもお休みです。 新たなHPを作成する必要に迫られ、昨夜からごそごそはじめています。コンテンツを充実させるのが最終目的なので手間がかかるのです。 アクセスが増えてくるとそれに比例して相談も増えてきます。その対応策もHPを工夫することである程度はできるかなと考えています。 外は雨、出張所と郵便局に出る以外、きょうは事務所で缶詰になってHPの作成に勤しむことにします。
2005年03月23日
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休み明け早々出かける予定が書類の不揃いで延期になった。目的の住宅地図が手に入らないのだ。業者にファックスを送って取り寄せることになる。着くのは二日後か? 休日の初日、お年寄りが二年前に配ったチラシを持って相談に来られ、こちらがビックリした。いつか必要になるときがくると思っていたとかで大事に残していただいたとか。感謝感激である。 そうかとおもうと、建設業許可申請の依頼。以前他府県で許可業者として長年事業を営んでいたが、更新もせずにそのまま廃業したとか。あるのは登記簿謄本だけ。当時の資料等は何も残っていないとか。おそらく許可府県の資料も破棄されているだろうから、一からとなりますね、と答えると相手は法務局の目的欄に建設の記載があることを盾に、いきなり激怒、「でけへんのやったら、こっちでやる。もう頼まん!」 とえらい剣幕。「目的欄にはあるからといって仕事をしていた証拠にはならないんですけど」 こっちは正直に答えているだけだが、自分の思い通りにいかないからとこっちに噛みつかれても仕方ないんですけど・・・。 できないのが判っているから、先生に頼んでいるんや、という人も結構います。書面作成ができないとかいうのではなく、「そこを何とか? コネや裏口や奥の手を使ってやね・・・」 というたぐいです。「センセ、そんな堅いこと言わんと。お金やったらいくらでも出しまんがな」 しかし、できないものはできないんですよね、いくらお金をいただいても。「ほんま堅いでんな。あきまへんか? どうしてもあきまへんか?」「そうですね。無理ですよ」「もう頼みまへん! 結構です。ほか当たりまっさ! (行政書士)はここだけと違いますよってな」 こういう時、なんか土足で押し込まれ、一方的に横面を張られでもしたようなイヤな気分になります。
2005年03月22日
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いい天気。行楽日和です。 何度か書きましたが、事務所の前がバス停、朝からバス待ちの人が集って賑やかです。事務所東側の道路からは奥の新興住宅街に住む若い夫婦が、リュックサックを背負った幼児の手を引きながら駅へ。目と目があってまずは会釈、彼らを見送りながら事務所の扉を開けました。補助者を置くリッチなところは当然お休みでしょうが、うちのような貧乏事務所は「月月火水木金金」、童謡「村の鍛冶屋」そのものです。 疲れてきたらバス停のベンチに座って日向ぼっこです。こういったとき、たばこを吸うと様になるのでしょうが、生憎私は吸わない。背筋を伸ばしたり、肩をとんとん叩いたりし、行き交う車や人を眺めては気晴らしをします。 カミさんも出かけるとかで、昼は買い置きのインスタントカレーを温めて食べることになりそう。普段はうどんやそば。休日はボンカレー。まさに、とほほほほです。 郷土史編纂をしていたときのことです。ある地元の人たちだけが昔から「さんちょ橋」と呼ぶ橋がありました。どう考えてもこの呼び名の当て字と意味がわからない。調べてゆくうちに他地区の人はそう呼ばないことがわかった。ということで土地固有に由来する名前であるらしいことは判るのですが、肝心の由来が不明でした。 他の橋との距離を調べていて、ようやく「さんちょ」が三丁であることに気付きました。 今もある××○丁目というのは、その昔、条里制が敷かれていた頃、区画を表す呼称でした。 一丁は約107メートル(記憶が怪しい)、10丁で一条となり、集って四条になると一里(約4キロ)ということになっていた。 たとえば京都の三条と四条の距離は約1キロ強ということになります。ウソだと思ったら計ってみてください。 多くの都市では○丁目だと思うのですが、大阪府堺市だけは丁だけで目は付けません。許認可などの記載時にうっかり間違えやすいので注意が必要ですね。
2005年03月21日
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明治になって日本政府は西洋にならい、これまでの太陰暦から太陽暦にあらためることにした。ところが廃止してから今日になってもいまだに日めくりなどでは太陰暦が採用されていますよね。大安や仏滅など、占いや験を担ぐ人が今もなお多いからですね。 暦の変化で年中行事などが大きく変わることになり季節感が失せてしまいました。正月にはじまり節分、ひな祭りに端午の節句などなど、昔の人からすればさぞかし興ざめのことでしょう。 三日月はどうして三日月というか? 毎月、三日の夜に出てくるお月様の形がそうだったからです。ですから十五夜の満月は15日の夜に出る月、闇夜は月末から月初めでした。 というからくりがわかれば、旧暦の日さえ判れば月夜か闇夜かが寸時に判ります。今もそうです(笑) 昔は行灯や提灯用の菜種油を節約するため、庶民は月明かりを頼りに歩いていました。闇夜や曇り空の夜だけ提灯を下げて歩いたそうです。 次は寸法。いまでも町の大工さんなどは使っておられますが、一間というのは普通の大人が両手を広げ、指先から指先までの長さを意味しました。店や家の間口が一間足らずというと、「へえっ、ちょっとばかし狭い家ですね」ということになるわけです。 最後に秤(はかり)。一合は180ミリリットル、大人の人が手のひらを重ねてお椀を作り、中に入る容量がだいたい一合、そこから由来しています。また米の一合は大人の一食分でした。三人家族なら三合を米を炊けばよいことになっています。 以前書きました馬の話で少し補足があります。 今もそうですが軍馬を養成する際、一番はじめにやることは音にならすということ。大砲を打ち上げる近くに馬をくくりつけ、音にならすことからはじめます。 今日は大阪日本橋筋の道路が一日歩行者天国となります。いろんな店でイベントが行われるそうですからさぞかし大勢の方が繰り出すことでしょう。行きたいですけど仕事が溜まっています。ただしお金はいっこうに貯まりません。疲れと肩凝りだけは北九州のぼた山みたいに、せっせと山積みされています。普段から健康が自慢で、それだけが取り柄です。長患いはしないで、ある日突然、バタンといくタイプかもしれませんね。
2005年03月20日
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そもそも関所というのは異変や人の出入りを監視したりし、外敵から守るために作られたもので、通行税を徴収するために作られたわけではありません。義経と弁慶で有名な安宅の関などがそのよい例ですよね。 信長も通行税だけを廃し、従来通り関所を残しておけばよかったのですが、慢心というか、いつの間にか驕りができてしまっていたのでしょう。関所すらも撤廃してしまった。 悲劇は本能寺で起きました。秀吉が備中高梁で苦戦を強いられていた時、明智光秀は丹波へ向かいます。途中、「敵は本能寺にあり!」と明智光秀は踵を返し、一気に信長の寝首を掻きました。 もし関所があれば、早馬の知らせで信長は易々生き延び、天下統一はもっと早く成し遂げられていたはず。そうなるとおそらくは鎖国もなく、日本の近代化はもっと早く訪れていたはずです。 すべてを見据えた家康は関所を大事にします。関所での往来は厳しく監視、大川には橋を架けない(大井川などがそうです)、大阪の大和川に架かる橋など文献によると橋の全長200メートル、橋には欄干なし、橋の幅は80センチ、高さは80メートルという凄さです。曲芸師でもない限り、まずは目が回りますし、馬など渡ることすらできませんでした。 テレビなどでは戦国武将というのはとにかく好戦的で(ボブサップみたい)隙あらば攻め込むとの印象が強いですが、それは全くの誤解、認識不足です。 そもそも信長以前は農民=土豪や足軽でしたから農繁期には戦さそのものができず(誰も招集に応じない)、大きな戦さは専ら農閑期に限られていました。代表的なのが武田信玄と上杉謙信の時代です。これではいつまで経っても天下統一などできっこない(平和な社会が来ない)と信長は考えた。 こうして信長は常備軍を編成するわけなんですが、集まってくるのは浮浪者まがいの変なのばかり。要は三度の食事と寝るところと金が欲しい輩ばかり。中村の貧乏百姓のせがれだった秀吉などもおそらくは動機は同様だったはず。 こういう連中相手に戦さに負ければ所領を奪われ、一族郎党飢え死にしてしまうとの危機感を持つ他国の正規軍が負けるはずがありませんでした。 信長と家康連合軍が三方原で甲斐の武田軍と闘いましたが、数で優るはずの信長軍があまりにも弱すぎ、そのために一命を危うくした家康が激怒したという話は有名です。鬼退治の絵本じゃあるまいし、お金欲しさ、おにぎり欲しさの兵隊集団ですよ、殺されたら元も子もないから、すたこらさったと逃げますよね。 そこで信長はいろんな戦術を考えます。戦場での盾を考えたのも信長ですし、三間間中(4.5メートル程度)という超特長の槍をこしらえたりしました。秀吉に命じて作らせた墨俣の一夜城(真偽はかなり疑わしいですが)なども逃げないで留まることを意図したものでした。 三好勢との大阪海戦では船に鉄板を貼り付けました(鉄鋼船) 鉄砲を真っ先に導入したのも信長ですが、こうした理由があったのです。鉄砲なら接近戦でなくても良いですからね。あっ、鉄砲と言えばこれもまた余談があります。 信長の鉄砲隊が初めて戦場に姿を見せたのは長篠合戦。相手は竹田勝頼でした。風林火山の騎馬軍団です。当時の鉄砲はまだまだ粗悪な鉄砲です。狙い通りに弾が当たるか、鉄砲の精度も悪いなら腕はもっと悪い。おそらくは狙ったところに当たったのは皆無に近いはず。 でも鉄砲というのは音が出る。馬というのは臆病な動物で、爆発音にひるんでしまい、馬上の旗手を振り落とし一目散に逃げたそうです。もうこの後はわかりますよね。 で、常備軍の良さはいつでもどこでも年中、軍を組織、自由に動かせることです。美濃の斎藤道三を攻め立てた時、信長はこれを使いました。 農繁期の忙しい時を狙って進軍を開始します。敵が武装して立ち向かってきたら、もちろん逃げます。何度かこれを繰り返す。最初の数回は敵も武装をし応戦準備しますが、逃げるのがわかってくるから本気になれない、ならない。 やがて斉藤側の武士の間には厭戦感が広まってきた。元々戦争など誰も好む者は誰一人としていません。家が大事で家を守るために武装をしているだけのことなのですから。「もうええ加減してくれや、頼むわ。信長が自分たちの所領を保障安堵さえしてくれるなら、斉藤にみぎりをつけ、信長に寝返っても良いんやで」ということになった。 戦さというのは士気が一番大事です。士気を失いはじめた斉藤軍、まむしの道三と畏れられた美濃の斉藤家はこうして信長の軍門に下ることになります。
2005年03月19日
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室町時代の末期、日野富子という権力者がいました。いつの時代も租税を徴収することは為政者にとっては死活問題、当時も同様でした。 徴税のために彼女が行ったのは関所の強化でした。京の都へ通じるありとあらゆる関所で通行税を徴収、その結果、都では物価は高騰、関所を通過するたびに諸経費があがるということで商人はほとほと困り果てていました。 そもそも室町時代は教科書上ではたいした話題性もなく地味な存在ですが、大陸からの文化がようやく根付き、総花的に熟成をはじめた時期ということで、日本経済史の中でも未曾有の経済成長期にあったとされています。 詳しく書けば、宋銭などに代表される貨幣の流通にはじまり、二期作二毛作などの農業技術はいうに及ばず、世界的にも漁業や工業などで新たな技術革新などがありましたし、庶民の知的レベルに加え、村社会での自治意識高揚にもみられる人間としての権利意識の大きなうねりというものがあって、実質的な経済成長はそれまでの歩みの二倍はおろか三倍ぐらいではなかったかとさえ言われています。 富子の関所を廃止したのは当時の「規制緩和の覇者」信長です。 楽市楽座にとって通行税の存在は目障りどころか諸悪の根源でした。関所などなければ商人は通行税の分がより安く販売でき、景気の拡大もあってさらに儲かることになるのですが、そこは計算高い信長、ちゃっかり報酬を頂戴するという案配、魂胆でした。 しかし商人にとっても信長とは持ちつ持たれつの関係、信長に商売の税を支払うことで、以前よりはより楽にどこでも商売ができるようになるなら十分元は取れると踏んだのでしょう。当時の自由都市「世界を股にかける堺の商人たち」はこぞって信長に政治資金援助を申し出ることになるわけです。 ところが名案も時代が変われば愚案にもなります。関所を廃止したことがその後、信長にとっては取り返しのつかない、おそらくは悔やみきれない後悔となって自身に跳ねかえってくることになるのです。 関所の廃止がどうして後悔を生むのか? 今日一日、皆さんもお考えください。 答え? 明日に持ち越しです。
2005年03月18日
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「七人の侍」という日本映画界史上の大傑作がありますよね。もちろん監督は世界の黒沢明、そのすばらしさに感銘したハリウッドがこの映画を真似て映画を作った。こちらも大成功、西部劇史上の名作となったことはみなさんもご存じのことでしょう。 ところで、この映画の時代なのですが、衣装や刀の形状からするとどうも室町後期、すなわち応仁の乱あたりだと思われます。ところがそうなると史実を大きく歪曲する、とんでもないことになってしまうのです。 この作品に登場する農村や農民は全くの非武装で小心でひ弱で無力そのもの。収穫期になると襲ってくる武者集団になすすべもない状態である。三々五々、偶然村を通りすがる侍たちがその惨状をみかね、なんとかしようと一肌脱ぐというのが「七人の侍」ということですが、どうもおかしいんですよね。当時の農民の多くは刀を所持し、耕作の合間には指南役の武士から指導を受け、盛んに武芸に励んでいたはずなんです。自らの所領を守る、つまりは一所懸命ですからね。 八尾の萱振で馬上の信長は農民に槍で脇腹を突き抜かれていますし、大山崎ではあの明智光秀を農民が竹槍で倒したことがよく話題になりますが、当時の農民というのは武士とイコールでした。農民が無力で弱い者の象徴となるのはずっと後、豊臣秀吉の時代以降のことです。 天下統一のためには兵農分離が不可欠だと悟ったのが信長。彼はならず者集団を傭兵として雇い、常備軍を編成した。ところで常備軍を養うのは銭がいる。銭を稼ぐにはどうするか? 当時、市や座は荘園を武士に乗っ取られた公家や寺社にとっては唯一の収入源でした。信長はそれに狙いを定めた。だから宗教とは仲が悪かったのです。 信長が比叡山を襲撃したのは神仏に逆らう輩は罰が当たると畏れた当時の民衆に、罰など当たらないことを自らが証明するためだったのです。だから比叡山は一度の襲撃だけで終わったのです。もし本当に比叡山を憎んでいたら何度も根こそぎ果てるまで攻撃したはずです。 あの一向宗は信長にたいして抵抗しすぎたために数回の攻撃に及んだわけで、おとなしく従ってさえいれば、あそこまでの痛手を負わずにすんだはずです。こうして楽市楽座による信長への収益源が生まれたわけです。 次に兵農分離を名実共に成し遂げたのが秀吉です。彼は年貢収入の安定確保のために検地を実施、ついでに農民(武士)の暴動を抑えるために刀狩りを断行した。農民から刀を取りあげたのが秀吉でしたが、それをさらに進化させ、それぞれの役割や身分を公的に定めたのが家康だったのですね。 刀の話が出たのでついでにもうひと言。 上陸した蒙古軍は苦戦をした。なぜか? 慣れない陸上戦であったこともありますが、もっと大きかったのは武器とする刀の形状でした。当時の蒙古軍が用いていたのは青竜刀。ぶんぶん力任せに振り回し、斧や鉈のように振り落とした勢いで相手をなぎ倒すタイプの刀でした。 ご承知のように玄界灘の風雪に耐えるよう、海岸沿いには昔から生活の知恵で防風林や防砂林が植林されています。地滑り防止の竹藪もいたるところにありました。 振り回すと立ち並ぶ木や竹に当たってそれが邪魔になるんです。一方日本刀や槍は突き刺したり、素早く振り下ろすことができる。つまりは密林戦に向いていたのです。しかも極めて鋭利で刃こぼれも少なく頑強でしたから大活躍したんですね。 元寇の後、大陸との貿易にはなんと日本刀が輸出品目の仲間入りを果たすことになります。 歴史の話になると仕事を忘れてしまいます。気が付いたらこの投稿文は原稿用紙400字詰8枚となっています。この枚数は危険信号です。ほっとけばさらに書き加えることになる。急ぎの仕事があるというのに、ついつい書き込みに熱中してしまう、困った困った中年行政書士です(笑) ではまた次回。
2005年03月17日
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多くというかほとんどの歴史教科書に、鎌倉幕府は元寇の後の恩賞問題で御家人たちの不満をかい、それが元で崩壊した、とあります。 事実、蒙古襲来絵巻にも登場する九州の武将竹崎幸長などは「恩賞をくれ!」と鎌倉まで押しかけ、勝ち取っています。「御恩と奉公」による結びつきはなにも鎌倉時代にかぎらず、現代社会にもある、人間にとっては必要最低限度のマナーです。世話になった人には恩を感じ、その人の周辺に何があれば駆けつけては手助けする。武士道には厳しい主従関係がまずあってというのは江戸時代に入ってからです。平和な時代の武士にとって所領を安堵するということはとりもなおさずお上に従うことだったのです。従わないとお家が取り壊しとなりますからね。ですから戦国時代が終わるまでの武士は所領の安堵(安全)を約束してくれる、戦に勝てそうなより強い武将についたのです。これは裏切りでも卑怯でも何でもないことだったのです。当時の社会、国に軍隊がない社会で自分の財産を守る(だから一所懸命なのです)処世術として深く広く社会では浸透していました。 ところで元寇後、鎌倉幕府は戦に参加した武士たちの不満をかいましたが、実はそれ以前にすでに鎌倉政権は危機に瀕していたのです。 当時の社会、相続は全て平等でした。男女も同じです。つまり今の社会と類似した相続方法だったのです。これでは家を継ぐ長男にとってはたまったものではなりません。すでに荘園もあらかた支配下に治めていましたし、武士としては戦で手柄を立てて恩賞にあずかるしか財産を殖やすには術がない状態でした。 代が変わるたびに資産が減ってゆきます。ついには家そのものが成り立たなくなってしまう、そうした危機感の中での元寇騒ぎでしたから武士は勇んだわけです。「よし! 一本取ってきてやるぞ!」ってわけです。おそらくは青森県は大間のマグロ漁師の心境だったのでしょう。蒙古人の首を取ったまではよかったが、ハイそれまで。ガックリも来るわけです。こうした不満をうまく取りまとめたのが足利尊氏だったわけです。尊氏は一度敗戦しますが、その後九州から攻め上ったのは偶然でも何でもないわけです。 新たに政権を取った足利尊氏は前政権の教訓から家の存続を第一とした家長相続制度を確立しました。でも今度は家長の座を狙っての兄弟姉妹間での争いが増えた。それをしっかり見据えた徳川家康は長男相続を確立するんですね。長男が相続する! と決めてしまえば、もはやもめることすらなくなるからです。 相続ということでいえば上方の商人はまた違いました。生まれた子供は全て母親の私生児として育てました。大きくなって跡継ぎとして店をやっていけそうな子どもだけを認知し、入籍し、家督を相続させたのです。実力主義だったわけですね。 歴史上の事件には必ず起こるべくして起こる原因というのが必ずあるわけなんです。その当たりをしっかり捕まえて理解しないとタダの暗記物になってしまう。年号を丸暗記し、テストでは「ハイ合格!」でも何のお役にも立ちません。隠れた事実をしっかり見据え、そこから世間や人生を語るのが歴史学なのだと思います。このあたりは民事なども同じですよね。隠れた事実を暴かないと答えが出ない。 余談ですが、そもそも武士の台頭を許したのは桓武天皇です。平安遷都をした天皇として有名な方ですが、この人は同時に大変な過ちを犯した人でもあります。それまであった徴兵制の国軍を廃止したのです。乱暴狼藉者から所領を守るにはどうすべきか、自警団しかないわけですね。それが武士の起こり(北面の武士)です。
2005年03月16日
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南無法蓮華経が出てきたので書かざるを得ない人がいる。日蓮である。この人の凄さはなんといっても、わずか10歳で僧侶になることを自ら決めたことである。 法然や親鸞などより遅れて仏門に入ってきた日蓮は当時もてはやされていた念仏を攻撃した。一番ありがたい妙法蓮華経をないがしろにし、念仏にうつつを抜かしていると「外敵に攻められ、ついには日本は属国になるぞ!」と警鐘を発した。たいていのみなさんがご存じの「般若心経」は法華経の教典の中にちゃっかりあります(普門第二十五条) キリストやモハメットもそうでしたが、そもそも教義というのは異教徒との論争によって研ぎ澄まされ、確かなものとなってくる性質のものなのです。ある意味中世は比較的言論の自由が保障されていたというか、取り締まりそのものにまで手が回らなかった時代です。だから当然、昔は町や村のあちらこちらで、今で言うところの宗教者たちによる理論闘争(討論会)が行われていたようです。 なかでも信長がわざわざ場所を設け、浄土真宗と日蓮宗とを闘わせたのは有名な話です。 理論闘争を禁止したのは江戸幕府、禁キリスト政策のため、仏教を保護、宗旨制度を作って国民を管理(宗旨人別帳)、国民皆仏教を押し進めることとなる。仏教が現世利益から乖離し、結果として仏教は単に先祖供養のための存在となっていったわけです。 ところでイスラム教徒からすればキリストは預言者ということになります。同じことが日蓮にも起こりました。外敵から攻撃されるという最悪の事態が起こったからです。そうです。元寇です。 日蓮は一躍有名人、幕府から歓迎されます。予言者は救世者でもあるわけです。二度の元寇がありましたが、勇猛果敢な幕府軍は勝利をします。攻められたが撃退した。日蓮の言ったことは半分は本当で、半分は嘘だった、と言うことになった。世間を騒がし、世情を脅かした! ということで罪人扱いになってしまいます。このあたりが日蓮の運のなさというか不幸な部分なんですね。 次回、時間があればユダヤ教徒とキリスト教徒とイスラム教の違いについて書いてみたいと思います。その前に日蓮以後の鎌倉幕府ですかね。また信長については道鏡や大塩平八郎と同様、たくさんたくさん書きたいことがあります。いっそのこと、「文学系の~」を廃して「歴史系の~」に「のれん」を掛け替えてしまいましょうかね。
2005年03月15日
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南無とはすべてをお任せしますというような意味の、仏教で使われる言葉である。だから南無阿弥陀仏といえば、阿弥陀様に全てをお任せしますということであり、南無妙法蓮華経とは妙法蓮華経(どれが一番優れた教典かと弟子僧に問われた最澄が妙法蓮華経であろうと答えた)というありがたい仏教の経典に全てをお任せしますという意味になる。 お任せします、という意味ではわれわれの業務と似ている部分があるが、阿弥陀如来は結果が出なくても問い詰められることはないし、おそらくは自責の念もないだろう。いやむしろ、全ては信心の不足によるものだと、叱咤激励、さらなる寄進やお賽銭を要求するやもしれない。 それに反し、われわれの受任は結果が全て。委任者の願いが叶わなければ受任そのものが無意味となる。関係諸法を調べあげ、適わぬモノは適うように是正をし、ない知恵を絞っては行政側に打診を繰り返し、一歩一歩の前進となる。 持ち込まれる案件そのものが個別具体的であることが多いので、むしろすんなり進むことなどあまりない。なかには補正補正を連発、目の前の担当官が鬼にみえてくることもあるし、期限が迫れば徹夜作業となることもある。日記ではみなさん気楽なことばかり書いたりしているが、男はつらい、行政書士もつらいのだ。 きょうは産廃(積替保管)案件の初日、所轄の関係お役所巡りと現地の確認。行き先だが大阪市内とは正反対、菜の花が咲きこぼれる田園地帯なので気分はよい。なんと現場の裏が竹やぶ、小川にはザリガニがのし歩いているらしい。帰路、もし時間があれば河内飛鳥あたりを歩いてみるつもりだ。
2005年03月14日
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三寒四温とはよく言ったものである。 温かくなったり寒くなったりすると、われわれは体温を自動調節できないので困ってしまう。厚着に薄着と日替わりメニューである。 春になれば、家の外装ペンキ塗りをすることになっている。もちろん拙者、ぎょうせい侍がするのである。 子どもの頃からなぜか金槌やノコギリで遊んでいた。一時期、合鍵をこしらえるのにはまったことがある。鍵穴から針金等を突っ込み、微妙な引っかかり具合を確かめながら合鍵を作ったりした。たいていの合鍵が作れるようになったころ、親に見つかり、こっぴどく叱られた。親とすればこの歳にしてこんなことをする息子は将来とんでもない悪になるとでも思ったのだろう。 小学生の頃、親にねだって買って貰ったのが日曜大工セットだった。祖父は廃材をどこからか調達して畑や自宅脇で倉庫を建てたし、親父は若い頃からバイクをばらしたり自動車や電気をいじるのが好きだった。暇があれば日本橋のがらくた屋を物色、壊れたテレビを買ってきては修理していた。一時期だったがカメラに凝っていて現像用の部屋までこしらえていた。 ところで寒い時期は塗装には向かない。伸びが悪くなるし、付着そのものも悪い。心地よい日だまりがそこかしこに出来る頃がベストシーズンでなる。ただし松任谷由美の歌ではないが「真夏の出来事」ではだめ。同じく由美の「春よ来い」がベストである。
2005年03月13日
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二日間著作権の研修に出ていた。これまでもどこかやもやしていた著作権だったがとてもわかりやすい講座で大満足、今日からの業務に早速利用することになりそう。その間仕事が遅滞した。遅れは今日から二日間で取り戻すつもりだ。 ところで会場先の梅田ツインタワーで「大阪出世タワー七巡り」というパンフを見つけた。 副題に「愛する人と夕日を観よう」とある。 さらに「お徳用周遊券発売! 通常3400円のところを2000円」と押し込む。かなり本気モードだ。 ところで肝心の七タワーだが、これがすごいので列記してみる。 1.空中庭園展望台 2.WTCコスモタワー展望台 3.りんくうゲートタワー「てんぽーる」 4.大阪城天守閣 5.四天王寺 五重宝塔 6.通天閣 7.堺市役所21階展望ロビー 7についてですが、堺市の社団法人堺観光コンベンション協会が協賛している関係かと思われます。 事業的には赤字タワーもあったりしますし、ギター侍的に言わせてもらえれば、「でもこれって、落ち目を観るようなツアーだと思いますが!」
2005年03月12日
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交通事故相談が絶えない。 事故ということでいずれも深刻な相談が多い。当て逃げの案件、車格落ち、代車費用の不払い、一方的な補償打ち切り、保険未加入の物損事案などなど。中でも問題なのは交通事故の被害者が無責任で横暴な保険会社のせいで二次被害を受けておられる場合があることだ。 保険会社だって言い分はあるだろう。たしかに、相談者の中には明らかに仮病ではないのかと疑わざるをえない被害者もいるにはいる。大げさな場合だって正直ある。赤頭巾ちゃんの仮面を被ったオオカミという輩もいる。だから保険会社の猜疑心や過剰防衛も判らぬわけではないが、それがひどすぎる場合はちと問題だ。 片方の話だけを鵜呑みにしていては問題解決は難しい。時には依頼者からは離れたところから、事故の側面を資料等から考察し、事実を照査し、的確な「事実を証明」し、それぞれの「権利や義務」に当てはめることが大事だと考える。そうした過程を経てできあがった損害賠償請求書というのは説得力があるので受け入れられることが多い。 交通事故に限らないが、そもそもわれわれが受任する事案が個別具体的であればあるだけ、書式参考書などの定型文では適わない。だからこそ表現者としての筆力がものを言うのだし、専門家の出番があるというもの。つまりは、筆は口以上にモノを言うのである。
2005年03月11日
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菜の花の季節になってきた。菜の花といえば、あの司馬遼太郎さんの名作が真っ先に浮かぶ。どこにでも咲く菜の花、その健気で無垢な花弁が庶民を誘ってやまない。 寒風を浴びながらも屹立と咲く水仙のけなげなさに笑みをこぼし、梅の香に春を待ちわび、ようやく菜の花に出会う。春の花と言えばサクラだが、確かにあの坂口安吾が描いたようにサクラは狂おしいまでに妖艶だ。しかしそれより私は名もない畦に咲くスミレやレンゲのほうが好きである。なぜなら幼少の頃の思い出が蘇り、さらにまじめ一本、馬車馬のごとく働いた父母の背中を思い出せるからだ。 昨夜、夕食に菜の花の辛子和えが出た。辛子の量がいつもより多かったのか、鼻腔を黄色い突風がいきなり噴きあがった。ぶぶ漬けならほどよい味加減かもしれない。あっ、そうだ。河内地方ではお茶漬けのことをぶぶ漬けという。ぶぶとは熱い湯のこと。ちなみにウコンで漬けた黄色いたくわんを河内では、こうこ(香子)という。 漬け物と言えば京都が有名。京都に出かけると決まって錦市場で漬け物を買い求める。 藤沢周平の時代物には酒の肴としての漬け物が出てくる。むかしは熱燗に漬け物やめざしなどが持てはやされたようだ。 私はなすびの漬け物が好物。とくに新潟の丸小茄子が好き。ぬか漬けもいけるがどちらかといえば水漬けがいい。泉州地方の水茄子も甘みが何とも言えず、なかなか美味い。こちらは八尾市山本にも製造工場があって、時々だが車を走らせては買い求めたりする。 漬け物ではないが、八尾の名産と言えば「若ごぼう」と夏の「えだまめ」だ。主に生駒や信貴山の麓で作られている。この地方には工場がなく、今も蛍が乱舞したりする。それだけ水がきれいだということ。 若ごぼうはなんといっても香りが良い。夏の「えだまめ」も甘みがあって絶品だ。郵便局でも販売しています。ネットからどうぞ!
2005年03月10日
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このところ連日、昼は外に出ている。今日もこれから産廃案件で府庁まで出かける。午後からは昨日問い合わせのあった永住許可案件だ。 連日の外出ということでおもしろい話がある。 昨夜のことだった。夕ご飯を食べ終え、居間のテレビの前で釈迦の涅槃像のような姿勢で横になり、買い置きの煎餅をバリバリ噛みながら、お茶をぐびぐび飲んいたカミさんが、「たまには、土産(あべ地下の「まえだ」でみたらし団子が好物なのだ)ぐらいの買ってきたらどないやのん?」とぼやきにも似た愚痴をこぼした。 それを聞いていた次女が、「お父さんは遊びに出ているわけやないんやから、土産なんか買うてくる必要ないんとちゃう?」 と言ってくれた。さすが、わたしに似て賢者、言うことも切れ味鋭い。 言われたカミさん、返答なし。そっとのぞくと瞼を閉じ、寝たふりを決め込んでいた。 ウッシッシの気分になったのは久しぶりだ。
2005年03月09日
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今日は暖かくなるそうだ。なんでも四月下旬並とか。きょうは大阪城付近に行く。法務局で有限会社の商号調査をしたあと、谷町筋のとある喫茶店で交通事故の相談。昼食を食べ終え、居眠りコックリの時間を府の資料センターの堅い椅子でやり過ごし、2時からの知的財産権研修に備えることとなる。 今朝は事務所の新調した看板の取り付け工事。最後まで見届けることは出来ないが事前に打ち合わせてあるので心配はしていない。ただ電気のコンセント関係でわからないところがあって後日聞くことになるはず。 細則ではなく、かといって催促でもなく、最速パソコンが欲しい(業務上の学習機能が働きすぎてます) 欲を言えばきりがないが、欲もなければ、このせち辛い世の中、やってはいられない。雑誌やパンフレットを眺めているがどれもこれも一長一短。これだ! と思ったら電源ユニットがなんと200Wしかない。これではオプションを増設するときに不満が出る。最低でも300Wは欲しい。いずれにしろ、今日の気温と同様、ふところ具合が温かくならなければ絵に描いた餅だ。 さすれば、大間のマグロ漁師ではないが、 「今日も健康、仕事が楽しい!」と、 まっ、こんな感じでしっかりがんばるしかないということだ。
2005年03月08日
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昨日は朝から記帳整理、途中、一杯飲んで横になった。夜にはできあがったが消費税の計算がまだできていない。提出は今週末になるだろう。 知り合いからHP作成の依頼があって事業内容を照査している。SEO戦略は技術的なこともさることながらコンテンツが大事。このあたりは大道芸人と同じ。好立地の大通り、せっかく客が集まってくれているのに芸がヘタならみんなすぐに去っていく。あれと同じだ。あとユーザビリティも大事。せっかく来て頂いても使い勝手が悪ければ再度訪れてはもらえない。 われわれはものを売る商売ではなく、知識や情報を売る商売、煌びやかな、見かけの豪華さよりもコンテンツで勝負することになる。アクセスアップの秘策いたるところに潜んでいるようで難しい。
2005年03月07日
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もう土曜日だ。一週間などあっという間。ところでわたしはこの七日間何をしていたのか? 自身に哲学的命題を突きつけている。 掃除をしていたのは間違いない。机の上が整理できていないと何もできない性格だから。そのくせ肝心な書類の置き場を忘れてしまったりする。困った性格なのだ。いずれにしろ、焦らず確実にひとつひとつ目の前の仕事をこなす以外にない。 ところで来週は研修が三日もある。いずれも知的財産権に関するものだ。うち二日は朝から夕刻までみっちりだ。昼ご飯を食べたあとの居眠りには気をつけいないといけない。終了時点で効果テストがあるので予習復習も大事となってくる。がんばるぞ! 午後から離婚協議書作成で依頼者と面談することになっている。二年越しの相談だ。いよいよ心を決められたとか。 いつのまにか、ひな祭りが終わっていた。今年は飾り付けをしなかったというよりできなかった。カミさんが風邪を曳いていたからだが、主役であるはずの子どもたちはコメントすらしない。バレンタインデーはチョコレート作りに励んでいたが、こちら(3月3日)はもうどうでもよいことなのだろう。ひな壇の飾り付けをしているそばで、バタバタ飛びはね、ワイワイはしゃいでいた頃が懐かしい。
2005年03月05日
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きのうは大阪市内を駆け足で走り回っていました。顧客とのんびり雑談中に申請案件で官庁から補正の連絡が入り、後はその事後処理で汗かきかき関係者を巡ることになった。 おまけに帰路はJRで事故があって環状線で鶴橋まで迂回、近鉄電車を利用しての帰宅とあいなった。夕ご飯をかき込みながら朝依頼があった代筆の下書き、書き直しと繰り返しなんとかタイムリミットである午後11時に間にあった。その後風呂に入り、出てからワールドビジネスサテライトを観ながら、浴びるようにビールを飲んで目が醒めたのが午前7時、外は雨だった。 朝から3件、昨日不在時に電話があった方への電話をする。2件が交通事故相談で、1件が産廃申請依頼だった。 今日も午後から大阪市内に繰り出す。交通事故相談者との面談と許可申請者との面談だ。 確定申告も気になりだした。すでにパソコンには打ち終えている。あとは見直しだけだが中々出来ないでいる。日曜日あたりに集中!するつもりだ。
2005年03月04日
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ネットでの営業活動をより本格化させるために2個ドメインを取得した。 ひとつは、 行政書士事務所用として「ishii-office.net」 もう一つは、 不動産業用、「are-home.com」だ。 どちらも「.com」にしたかったが、すでに先客がいたようだ。 今後はコンテンツの見直しとリンクの補修をしながら徐々に移植をすることになる。アップ完了の目安としては一ヶ月後だ。 実はさらにも一本、カミさんの実家のドメインを考えている。義父が伸縮継手管の製造メーカー(わたしは何にも専務です)を営んでいるのだ。実はわたしもしばらく営業兼設計者として仕事を手伝っていたことがあるのだ。 従業員曰くには「忙しい」らしいが、どうみてもセキマエ(急ぐ仕事)ばかりで利益となる仕事は少ない。 調べてみると材料のSUS304での検索が結構あるのには驚いている。特殊な商品なので客筋は狭いが販路が広いということで本来ネット向きの商品なのだ。既述のわたしの2業種よりこちらのほうが案外ネットで受けそうな気がする。 かつては高炉や造船関係の大物を得意としていたが、高炉のあいつぐ縮小に瀬戸大橋の完成で内海船舶がダメ、さらには隣国の造船技術の質的向上でドック自体の受注がダメというわけで、真空機器用のフレキシブルチューブに注力すべく、数千万円をはたいてフレキ生成機を導入した。主に2インチ口径の肉薄ステンレスパイプを蛇腹状に絞るのだが、油圧タイプで微調整が難しく、どうにも不良品が多く、うまくいかないでいる。板厚を厚くすれば大丈夫だが、これでは実用では使い物にはならないのだ。そのフレキを扱う空調設備関連の得意先もどこも元気なく、ついてはネットでの新規開拓が迫られているのである。儲かれば報酬は頂けるだろうが、当分は弁当持参の無償でやるしかないだろう。
2005年03月03日
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不倒翁と言えば中国の「周恩来」だが、わが家の不等妻もとうとう倒れてしまった。 昨日午後から変調を訴えていた。申請書提出のため早朝から駐屯地を出ていた私に1本の暗号メールが届いた。暗号と言っても解読は不能。つまりは何を言いたいのかよくわからないメールであった。文章から意訳をするとどうやら帰還命令のようであった。 私は元来は出不精だが、いったん外に出るとがらりと変わり、あっちの水、こっちの水と市中見廻り組に変身する。 幸い申請書のほうは一発合格! 気分良くし、さてこれから難波で昼飯でも食って、デジタル用品を漁りに日本橋周辺をくまなく練り歩こうと予定を組んでいた矢先のメールだった。出鼻をくじかれたような気分だったが、こればかりはしょうがない。早々の帰還となった。 不等妻は風邪。インフルエンザではないようだが、微熱があって鼻が詰まり、全身が気だるそうである。 ご飯だけはあるので冷蔵庫の残り物で昼と晩を食べることになった。飼い犬のナルの缶詰(金180円)が恨めしかった。 不等妻は今日も寝ている。イビキがすごい。ガルルル、ガルルルというから、さながらあの大トトロのようである。釣られて猫バスがやってきたらどうしよう? ところで昼は「ざ・めしや」にでも行って食べるとするか。
2005年03月02日
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毎月1日は神さん詣り。産土の社へは徒歩50秒、幼少の頃はこの境内でほんとよく遊びました。 ターザンを真似ての木登り。木と木に綱を渡して綱渡り。砂遊びもやったし、ビー玉もやったし、(五寸釘で)クギさしもやった。地面を掃き清め、野球版に似たゲームもやった。ドッチボールもここでやったし、独楽回しも三角ベースももちろんここだった。 休みの日など朝から日が暮れるまで遊んでいた。唯一できなかったのは凧揚げと釣りぐらいだった。 神殿によじ登って瓦を割ってしまったこともあったが不思議と誰にも見つからず事なきを得ていた。 幼い頃の悪事のせいか、大きくなってバチがあたった。大きなバチはなんといっても受験である。とにかく第一志望はことごとくダメだった。もちろん就職のときも大きなバチが当たった。 とんだ息子を生んだお詫びの印だったのだろうか、親が私の名前で社に絵馬を寄進している。長年の風雪でほとんど文字も消えかかっていて、そうだと言わない限りわからない。 昔の悪事を詫びるつもりで子どもができてからは子どもの名前で夏祭りの歳旦祭には酒を一升欠かさず供えている。かれこれ22年になるから最近では少しはバチが薄れてきているような気がする。というのも拝殿をすると決まって少し嬉しいことや楽しいことがあったりするのだ。 仏はどこまでも慈愛深く、神は粗末にすると必ずバチが当たる。さすればあのカミも、神と同じということになってくる?
2005年03月01日
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