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この被害女児の父のことである。事件の後、この人は、弁護士を通じて、「真相究明に協力する」と表明した。(この事実認識に誤りがあるようでしたら、どなたか突っ込んでください。)私はこれをネットで知ったが、何か釈然としないものを感じ、次には嫌悪した。いったい、自分の子供が殺されて、誰かその事実を把握しなければならない人なり、機関なりがあって、自分はそれに、「協力します」という、そのような話の流れが可能なのか。とにかく、自分は前面に出ず、弁護士を通じてものを言い、しくじりの無いようにしたいということなのか。「ますこみ」や、「せけん」の相手が大変だ、そうか、子供が学校で同級生に首を切られて、その真相とやらは誰か自分以外の者が、調べて、自分はその真相の中の一部分という位置付けか。まあ、見事なものだ。これで何がしかの結果が出て、「私は納得しない」とでも言うつもりか。そして、そのような「父」に対して、それを普通に受け入れている世の中に、私は恐怖を覚える。
2004年06月30日
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道は非情にして心に添わず
2004年06月28日
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この表現、どういう意味か分かりますか。ちょっと前に成立した「男女共同参画何とか法」のために、表立っては、「女性募集」と書けないので、こういう表現にします。「女性が元気な職場です」なんてのもあるなあ。こういう「隠語表現」を掲げている募集はむしろ良心的というべきで、このあほんだらの法律のおかげで、どれだけの不愉快が社会に蔓延したか知れない。作ったやつの親の顔が見たい。正に「偽善」そのものを法律にした、この法律がどの程度効果があがっているか検証しているというから、ぞっとする。
2004年06月27日
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このシリーズの私の日記へのコメントで、「少年法」に関するものがあった。私は少年法には実のところ、あまり関心は無かった。しかしこれは重要な問題である。はじめに言っておくべきことは、今回の事件をきっかけとした法の改正、ということについては私は否定的だ、ということである。少年法がいけないから、とか改正すべきだとか言う気はない。むしろ私は、この問題(少年法と犯罪抑止)には関心が無かった方である。それを念頭に、以下をお読みください。もし、この加害少女が、自分のすることに対して、相当の刑罰があると分かっておれば、あるいは、この惨劇は防げたかもしれない、と思うからだ。すなわち、自分が死刑になる、何年も刑務所に入る、ということが実感できていたら、どうなったかということである。この際、両親とか自分の周囲への心配は、むしろ逆の方向で、この加害少女には、親への反発、教師への反発があったと思う。この事件に、もっとも近いと思われるものは、「主婦が対立する相手の主婦の子供の首をしめて殺害した」という事件である。私も含めて、神戸の酒鬼薔薇事件との類似性を見る向きは多いが、どうしたわけか、この事件のことはあまり言われていないようだ。どんな結果が予想されたにせよ、人間やる時はやるものだ、ということになるとも言えるが、ただし、そのやる時はやらざるを得ないという状況の幅は、あるいは狭められるかもしれない、ということは言えるはずだ。すなわち、「少年法」という保護があったおかげで、惨劇は防げなかった、という問題があるというわけだ。それでは、真の意味でこの加害少女を保護していることにはなるまい。そして、事を起こした後になって、後悔しているのなら、どうしてはじめから、「刑務所に入ったつもりで」物事を処理できないのかと言うことだ。 自分の気持ちが世の中の全てではない。 今の自分の気持ちが自分の全てではない。 他人が関心のあるのは他人自身である。 心は世界の全てであり且つ無である。 その心のために命をかけることの意味はなにか。
2004年06月25日
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今回の事件をきっかけに、「子供とインターネット」の問題が、浮かび上がった。もちろんこの動きはすぐに消えるに決まっている。これは、「交換日記禁止」などという、ほんまにあほかいなぁとしか言いようの無い動きと軌を一にするものである。ただし、自分もウエブ上に生息する住人の一人として、一言物申しておくことにする。そもそもこの問題は、老若関係なく、まず、「匿名性・安全性・プライバシー」の問題である。要するに書くほうは「安全な所にいる」、無責任性の確保が前提である。ものを言うのに、覚悟がいらない、という状態、逆に言うと、覚悟、責任の無い言葉しかない人々が親となり、子供を持つ。(決して、「育てる」とは私は言わない。)これが今回の事件の根底にはある。今回は、互いの女児は、セキュリティの交換ということをやっている。だから、この場合は無責任性は関係無いというのは誤りである。ここでの問題は、この二人が「こんなやり取りをしている」ということが、誰からも見えないところで為されたという意味において、「安全かつ無責任」なのである。子供からネットを取り上げろ、とかネットは早過ぎるなどと言う、のんき且つ無責任な大人こそ、「子供」だというのが私の意見だが、言ったことに責任をもてということ無しに、その手段である、交換日記とかパソコンとか、インターネットを何とかしろと、言うのは、ナンセンスもいいところだ。もう、何十年も前になるが、ナイフが問題になった、それでしばらくすると、鉛筆も削れない子供・・が問題になった。それで今回、カッターナイフ云々はさすがに聞かれないのはほっとするが、どこかで言っているやつがいるのかも知れない。その流れで行くと、パソコンもできない子供・・などと言いかねない。もっとも世の中には、ワードやエクセルが「パソコン」だと本気で思っているやつがいることも事実。この事件をして、ネットトラブルというレッテルを貼るのは、単なる分類上の問題、それ以上に何の意味も無い。
2004年06月22日
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私は現在、立体駐車場の係員をしている。今日は予定を変えて、この駐車場から「小六女児刺殺事件」を考える、ということを試みる。------私のいる駐車場は、まず、扉の手前まで、車を誘導し、そこで運転手の人以外は降りてもらうことになっている。昨日訪れた黒人の男性は、まだ言葉も十分でない子供を連れていたが、その子を降ろしてから、駐車場に入った。その子は、泣き出したがすぐに我慢しようという姿勢で耐えていた。おお泣きにはならず、こちらの言葉に反応するようだった。ここに来る日本人には、それができない。たとえ小学生くらいでも、駐車してから、子供を降ろそうとする人がいるほどで、係員の言うことなんかはまず聞いてくれない。中には、「子供が寝ているので、起こしたくない」という、分けのわからん人までいる。子供が泣く、とか、不満とか、指示に従いたくないとか、その他、自分の、あるいは子供の「心に添う」ということが当然のサービスであると思っているかのようだ。それで、事故でも起きたら、やっぱり責任者は親ではなくて「誰か」なのだろう。そうして、心、つまりは自分の心こそが「世界の中心」であり、それに添わないものは悪である。ところが自分の周りも、自分の心が中心であると思っていたらどうなるか。我慢できない「心」は、ターゲットを探す。そして適当な相手にカッターナイフを突き立てる。私は今回の事件で、この被害女児が、必然の被害者とは思わない。この加害女児の両親や、先生他の児童が被害者になっていた可能性はあると思う。つまるところ、大人になる、というのは、思い通りには行かない、ということを知っていく過程である。それをずんずんと先送りしていっている世の中。それを「人にやさしい」だの、「お客様は神様」だのと、テキトーな言葉で飾りたてて、一見まともらしい世間を作っている。世の親たちは、子供を成長させようとか、しつけようとかはしていない。おしゃべりや、ショッピングになると平気で目を離すくせに、少しの間、ここで待っていなさいと言う事ができない。子供にこびて、自分は子供にとって「いい子」になり、「おまわりさんに怒られるよ」「あのおっちゃんが怖いよ」程度のことしか言えない。「それはこの母が許さない」と言えずして、どうして子供が感動するのか。何が命の教育だ。何が心の教育だ。その教育、その前に最低のしつけぐらいもできずして、命だ心だとはおぉそれぇいったぁあ。子供の教育と言ってみたところで、「学費」「保育園」の心配が基本だ。育児と言ったところで、自分の時間が持てない、という「遊び」の心配だ。最近の虐待に至っては、もう話にならん。はじめから子供なんか作るな。それで、何かあったら、学校で集会開いて「命」か。他人の痛みが・・とは、上等なことだ。
2004年06月21日
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(タイトル最後の記号は個人的整理番号です。)もし、不倫がいけないと分かったら、不倫しませんか。もし、暴力団がいけないと分かってたら、組員にはなりませんか。もし、戦争がいけないと分かっていたら、戦争は無くなりますか。もし、犯罪がいけないと分かっていたら、犯罪は起こりませんか。人の道、仁義、国を愛する、家族を思う、隣人を愛する。あらゆる道徳に通じている人たちによって、戦争は起こり、家族愛の最大の信奉者はマフィアとなり、規律、正義を求める人たちによって、その「正義」の前にひれ伏さぬ人々は、踏みにじられる。十字軍は勇躍して、異教徒を殺しに行き、聖地と名がつけば、どこだろうと、若者はその正義のためにに腹にダイナマイトを巻く。そしてその母は、「誇りに思う」と言う。今、「これが答えだ」症候群の哀れな人たちにより、「命の教育」という暴力、実態の無い、あたかも戦時中の日本を覆った国家カルトが、復活せんとするかのようだ。命の大切さが分かったからと言って、人間は、やる時にはやる。「それ」が分かりすぎている、大人がいったい何をしているのか。私は、「命の・・」そのもの、それ自体が悪いとは言わない。その「教育」の限界を知れ、ということだ。それが答えだ、これだ、これを認めないやつ、わからないやつはどうかしている、という破邪論こそ、憎むべきものだ、と言いたい。
2004年06月19日
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前置き私がこのシリーズを書き始めた当初は、いろいろな人たちとの意見の交換によって、自分の文章、考えを訂正、更正、完成度をあげていくということを考えていた。しかし、すぐに自分の本当の気持ちが、そんなものではないことに気がついた。自分はこの事件の当事者として、意見を書く。これは、その「つもりで」とか、その「立場で」とか、気持ちを汲んで、とか言うものではなく、まさに自分は当事者だからだ。あるいは、精神分析における自由連想法的手法によって、数十年封印されたものを解き放たんとするものである。そう自覚してからの日記には、なるほど、感想や、意見の書きこみが無くなった。文章には前後相矛盾する表現や、論理の破綻がはっきりと出るようになった。しかし自分はそこにこだわることをやめた。もう、こんなやつほっとけ、ということで、書きこみは無くなったんだろう。六年生のとき、自分は、もしや自分のようにいじめの被害に遭っているものは、ほかにも大勢いるのではないか、と考えたものだ。この加害児童の刃はこの被害児童に向けられた。しかし、それは単にこの二人の間の問題で生じたものではない。もう何十年も前から、学校では、このようなことは起こり得たし、現に起こって来た。私のこの問題(刺殺事件)に対する、心は怒り意外の何物でもない。この二人の少女の親にも、それは向けられる。被害者の父親などは私から言えば加害者だ。私は、学校や、教育や、先生がにくい。嫌悪を催す。もちろん自分の育ってきた環境における、である。そして今、学校内での自殺、他殺に接した大人たちが繰り返す、「命の尊さ」その他、その場しのぎの数々。そうそう、「二度と繰り返して欲しくない云々」。自分の責任は棚に上げ、原因究明だと。まるで、自分で人攫いしておいて、「調査する」などと言っているどっかの国と変わらん。---本題今回(もちろん次回も前回もある!)の事件で、精神鑑定がされるそうだ。結果はどうなるか。ここで大事なことは、ある鑑定の結果が、この事件のかぎだとするのは間違いであるということだ。サカキバラのときもそうだが、彼は「病気」だった。ということは、ほかにもその病の者はいる。ということである。この女児の場合も、ほかにもこの子と同じ鑑定結果になるものが居るということだ。しかし、事件はこの女児だけが起こした。何千何万という、事件を起こしても不思議ではない者たちが、あるいは周囲の、あるいはその者自身の、そして何より、偶然のおかげをもって事件を起こさずにすんだ。私も、その一人である。さて、本題の本題。このテーマを選んで他の人の日記を見るにつけ、あるいは、テレビ(職場で休憩中に見るものがテレビ視聴のほとんど)を見るにつけ、このニュースがはじめて流れたときというのは、「命の教育」だの、「心の教育」だの、全く無責任としか言いようの無い言葉が私の心に引っ掛かった。この人たちは、子供を教育しようとしている!なんとおろかな、破廉恥なことではないか。いったい自分で火をつけたものが、どうして「大規模な火事の時だけ」大騒ぎ、子供に火の恐ろしさを「教える」などと臆面も無く言っている。現在の子供の置かれた状況というのは、過去から少しずつそうなったのだが、つまりは、ジャングルに裸で置き去りにされた赤ん坊(アメリカABCが「お金」の問題を取り上げたときに使った表現)のようなものだ。無防備の状態で、それこそ、雨あられのごとく情報のシャワーを浴びせられる。さらに、中毒者のようにそのような情報を求めようとする。そして、そのような情報から、遠ざけようとする動きは、ますます状況を悪くする。すなわち一定の年齢以降、急に大量の情報にさらされるということだ。命の教育は恐らく、この動きをさらに加速するものとなろう。バートランド・ラッセル卿は、次のような意味のことを言った。(と、私は記憶する。)性をタブーとし、子どもから隠そうとすることが、性の商品化や、犯罪につながる。と。これと同様のことが、今の「命の教育」にも言える。すなわち、今、世の中の大人のいいかげんさ、世のいやらしさ、恐ろしさ、人間が本来陥りやすい衝動、等々、その現実を言うのではなく、むしろ逆に、人間をとにかく、やさしく、無菌状態に保とうという大人の偽善。その被害者である、子供がいざ世の情報シャワーにさらされたらどうなるか。また、我々人間が、いかに論理的でないか、説得がいかに無力であるかは論を待たないところである。我々はある人に、その人の言葉に感動するが、言葉そのものに感動することは意外に少ない。すなわち、ある先生が、命について、まことにもっとも、誰も反論し得ない講義を行ったとしよう。しかし、生徒は知っている。その先生自身、普段どのような「俗物」であるか、ということを。そんな先生に、その人に、誰がついていきますか。これと逆に、言ってる事は所々破天荒だが、この人に言われたら逆らえないという人も、いるかも知れない。親たちよ、大人たちよ、あなたは子供にとって、そういう存在ですか。少なくとも、そうならんとしていますか。その姿勢無くして、学校に、やれ命だの心だの、他人の尊重だのを「教えろ」とは、よーゆーよ。子供を教育する前に、自分の教育を考えろ。
2004年06月17日
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この少女たちの二人の父、特に被害者の父という父は、被害者と言うよりは加害者の一人である。ぬけぬけと「真相究明」などと臆面も無く言っているとか。あきれてしまう。誰かこの私の文章をこの男のもとに、届けるか、知らせるかする人がいたら、かまいませんよ。私はこの通り、無防備だ。そもそも、このテーマの書き手たちのうち、何人が本気なのか。まあ、せいぜいあと半年もすれば別なことを考えているに違いない。その繰り返しで、「先輩」たちは何十年もやってきた。伝統だよ。日本の。この二人の父に限らず、普段は何にも、言わず、いざ事が起こるや、怒る、慌てる、自己弁護、そんなやつはまだましで、自分が何をしたのかさえ分からないおめでたい御仁がいる。被害者ってね。大体、子供を教育しようとか、学校が悪いとか、命の何とかとか、そんなものにどれほどの力があるのか、自分が子供だった頃のことを思い出してみろ。子供を何とかしたかったら、まず自分が何とかなれ。誰か悪い、何が悪いと言う前に、自分が変われ。この問題の議論は、はじめから、結論も、勝者も分かっている。「人にやさしい、万人受けする、人を傷つけない、被害者の立場の」理論に破綻の無い者が勝つ。勝って何も無い。というのがこの議論の空しいところだ。そう、おまえたちは、勝つ。そして事件は確実に起こる。現に起こって来た。何十年もだ。正義の無力を知れ。心の嘘を知れ。自分の罪を知れ。自分(もちろん私もだ)の何たるかを知れ。命云々と言いながら、子供を自転車に乗せて赤信号で渡っているやないか。このうそつきのいんちき野郎。恥を知れ。
2004年06月16日
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証拠はある。命の教育という幻を持ち出して、何をする気かと思いきや、魔女狩り。説得が不可能と見るや、自分たちと同意見のものたちだけで、書きこみを許してけつのなめ合い。いったい、命の教育とやらをやって、その教育に同意できない、別の意見とか、表現とかの人たちを、排除したらどうなるか。国語、理科、等々普通の教科であってすら、「できない」子供がいるのに、「志を立てたものが何年も修行して、ついに到達し得なかった」ようなものを教室に持ち込んで、何人の「子供」がそれを理解するのか。おりしも、この事件のあった学校の校長というのは、いじめ放置とやらで、批判されていたらしい。どの程度やったかやらなかったかは別として、私はむしろ、批判そのものが、こっけいだ。私のいた瓜破小学校の校長は、いじめ問題のあるクラスを担任もちあがりという形で、「処理」した。五年生から、六年生になる時だった。ほかのクラスは組変えをした!そしてこの担任の教師は「人間、誰しも頼まれると、断れないものよ。」と、児童の前で堂々言い放った。私は、今回の事件が、とても他人事とは思えず、自分がどうして「自分を殺すことをせず、他人を殺すことも無く、あの修羅場を切り抜けたのか」を、問うことにした。その過程で、まずぶつかったのが、「命の教育」。それで効果のあるのは、命の教育なんぞ必要の無い子供たちだけである。そもそも学校というところに、期待をしていないくせに、事が起こるとこの体たらく。レンジでちん。で教育ができるとでも思っているのか。え、世の親のことだよ。子供を教育することが教育と思っているんだだから、おめでたいというのが、タイトルの意味だ。子供を教育するひまがあったら、自分が勉強しろ、自分自身がそのままでよく、子供がそのままでいいなら、何を心配する必要がある?普段何もせずにただ生活に流され、いざとなると慌てふためき、それすら長続きはせず、せいぜい「誉めろ」と言われれば誉め、しかれと言われればしかる。その程度だ。また同じ事が起こるが、そのときは、代替わりしている。「二度と同じ事件が起きて欲しくない」などと言っていた輩が、その後も問題に取り組み、命の教育とやらをやっているなんて聞いたことが無い。つづく
2004年06月13日
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この加害者の行為は、インターネットのホームページへの被害少女の書きこみが引き金になっている。それは間違いの無いことだろう。さて、たとえば今、幸せな少女がいて、自信があり、生活に満足していたなら、たとえ悪口を言われたとか、友達が一人離反したとかでは、その幸福さのものが傷つくことは無い。幸福と別に、不幸が来たという状態である。幸福とは、それ自体「幸福である」状態のことで、不幸の克服が幸福ではない。この少女の場合、このような他人の首を切るという行為が、この「ネット書きこみ」ただ一つの要素で引き起こされたもので無いことは確かだと自分は確信しているが、仮に加害少女が何らかの形で、幸福でありさえすれば悲劇は起こらなかった。幸福な者には、失うものがあるからだ。幸福が十分あれば、人は自爆テロには向かわない。現在の受験教育は、弱点の克服、苦手教科の克服が「教育」である。先生というのは、それが「できた」人たちである。そして、世の中全体も、正に、「不幸、不具合撲滅」が、完全に向かう唯一の道だと信じている。そのくせ、口では、不ぞろいの・・とか、互いの違いを認め合ってとか・・言っているんだから、お笑いだ。
2004年06月12日
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この日記は6/8の続編です。2 答えの欲しい人たち「心の闇」「心の教育」「命の教育」、これらの語をそれらしく修飾すれば、それで答えになると思っている無責任者がいる。問題の本質は、社会そのものが、人に対して、とんでもない情報を入力しているということ、そのものにある。もはや、社会全体が、本当に変わることを考えなければならない事態に陥っているということである。ところが、そういう大それた問題の提起の仕方というのは、「どうせできない」ということでこれを避けるわけである。それで、たとえば「命の尊さ」という一見誰もが、反対できない「正義の言葉」をもち出して、答えにするわけだ。そして、疑問を呈するやつ(つまり私)を言いくるめて、魔女がりをやって、勝利を得る。おまえたちは勝つに決まっている。私が言いたいのは、今回の被害者加害者双方の女の子に限って言っただけでも、彼らは「社会が入力した通りに出力した」ということだ。昔は殴ったり、ののしったり、ほかにやり方があった。しかし彼らにその選択肢は無かった。そんな「いけないことはしない」、よいこたちだからだ。命の教育は正にそれを助長する、一種の思想統制である。大体、大人になりきれない大人も含めて、子供は社会の鏡である。もし、大人たちの大半が、言行一致で、あらゆる事を行い、自信があり、子供に知られても恥ずかしくない生活をしていたら、子供がこんなことをするはずが無い。子供は、テレビや、映画や、流行や、それによって儲けようという、志の無い発信者に、インプットされ、気持ちよくされる。そうして彼ら大人が儲けたお金は、社会を支えているのだ。安直に「答え」を探す人たち、すなわち、どこにあるのか、誰が知っているのか、という答えの求め方をする人たちは、正にそのようにインプットされているわけだが、私がいじめの只中にいた小学五年生・六年生(クラス変えは無かった。自分のクラスだけ。校長はこの問題クラスを分けることによって、問題の拡散を恐れた。そういう卑怯な校長だった。)当時から、社会のありようそのもを変革しようというよりは、学校の問題とか、教育の問題とか、先生の問題とか、個別の問題であるかのごとき捕らえ方をして、その実、その個別の問題すら解決してこなかった。したがって、「借金の取り立てに親の代わりに借主のところに行って、うまく行かず、借主殺害」「アルバイト先の店長に注意されて、この店長を殺害」「一流私立大の学生が、祖父を殺害したが祖父からの過剰な要求(父も祖父も東大)に耐えかねて祖父を殺害」「父親が子供の家庭内暴力に耐えかねて子供を殺害」「子供がバットで親を殺害」その他にも、いじめ、自殺、リンチ・・このような事件は、サカキバラ以前から、いくらでも起こっているのだ。サカキバラ以降も、同様の犯罪があり、それはあたかも、「少年法」の問題にすり替えられたかのようだ。すぐやるべきことは、大人自身が、すぐ、たった今変わることだ。それができないなら、あきらめろ。子供を変えるなんて、自分が変われないやつにできるわけが無い。現在の状態というのは、普段暴飲暴食、不規則生活をしていて、薬を求め、どこかに医者はいないか、いい医者はいないかとわめいているようなものだ。どんなに治療しようと、根本的に、その生活を改めない限り、絶対に根治はありえない。そして、健康な人たちの保険料を食い物にしている様は、正に問題児を世に送り出している親そのものだ。
2004年06月11日
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これは「くたばれ命の教育」の続編です。私はこの言葉「命の教育」を見たとき、怒り以外何物も感じなかった。腹が立つ。怒鳴りつけてやりたい。くたばれと言うのは、自分の正直な気持ちだ。訂正はしない。1 言葉にすればこの「命の教育」どういうことかといえば、子供は、何時また他人の首を切るか分からない、よって命の教育で、それをやめさせる。子供は他人の痛みが分からない、よって命の教育で、それをやめさせる。と、言っているのだ。何を言っているのか前後不覚のおおたわけの言うことだ。今ままで、何も無かったときは(実際には足元まで、火が迫っていたのに)、やれ学力だ、何だかんだ、大人は忙しいんだ。テレビでも見ておとなしくしてくれ。と言っていたのが、一旦ことがあるとこの狼狽慌てよう。そして、小学校を出てしまったら、もう大人は「高校受験」とかに関心が移る。命なんてそれこそ、○○高校命と刺青しかねない。それの繰り返しで今日まで来た。普段無関心で、事が起こるととたんに「慌てる」「怒る」「八つ当たりする」。そんなものに、どうして子供がついて行くのか。腹を据えて、国家百年の計で教育を考え、その中で、「心」や「命」が出てきたのなら、それはそれでよいことだ。それがなぜ出てこなかったか考えようともせず、短絡的に答えを求める姿は、それこそ、この少女の行動とどこか共通している。第一、今の学校を考えてみろ。国旗や国歌でもめているんだぞ。え、それぞれ主義主張がありますから、思想の自由ですから?それなら、「命」について百通りの考えがあって、誰かが、「そんな物の言い方は困るだの、私は宗教上、その考えは受け入れられないだの言い出したらどうする。はじめから、できもしない、ありもしない、やる気も無い。「2 答えが欲しい人たち」は次の日記に書きます。(次の更新は6/11の予定)
2004年06月08日
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命の教育なるものが、幻であることは明らかだ。頭のよい人たちは、とうにそれを知っている。そして、それを知りながら、その偽善を止めようとはしないのだ。自分は半ば怒りに任せて、このテーマ(一回はテーマ選択無し)の文章を書いた。それは自分が、小学六年生のおり、自らも、自分自身を含める誰かを殺しても不思議ではなかった、と考えるからだ。すでに数十年前、事件は起きていたはずだった。しかしここに私は、こうして生きている。私を救ったのは、「命の教育」ではないことは明白だ。「人」がなぜ生ずるかという問題については、後漢時代の王充が、「情欲動いて合し、合して子を生ずるなり」と儒家の牙城に一撃をくわえた。実に卑弥呼や神武天皇より以前のことである。今はそれと別に、産み分けとか、こどもは何人とか、打算まで加わっている。また、私の学生時代の心理学(ゲシュタルト)の教授は言った。「自分の中に無いものは分からない」我々には、サカキバラや、この事件の加害者、被害者の子の気持ちがわかるはずは無い。できることは、決定論ではなく確率論として、このようではないかと考えることでしかない。自分も含めて多くの人が、自分が自他への殺意を持ちながら、それを果たせず、あるいは果たさずにすんで今日このようにパソコンの前でのうのうとしていられるのはなぜか、と考えることだ。ある人は言うだろう。「自分は命の尊さを知っているから。」そうら見ろ、やっぱり命の教育は大切だ・・か。私の答えはノーだ。そういう人がいることは否定しないし、それがいいことであることは、私といえども認める。問題は、そう言う人たちと同じ言葉、同じ表現、同じ心にいったい何人の人たちが到達し得るのか、現実的に考えてみろということだ。命って何ですか。心とは何ですか。教育とは何ですか。こんな分けのわからん迷路に人々を誘いこもうというのか。テストで同様の問題が出て、全員が同じ答えを書いて、ああよかったというのか。いったい誰が、命を問い、教えるのか。先生か?お母さんにお尋ねします。あなたは、自分のクラスの担任の先生の、能力および適性、人格、人となりについて、どの程度知っていますか。子供の父すなわち自分の夫か?あなたはその男をどの程度尊敬していますか。あなた自身か。あなたのやっていることは、自転車に子供を二人乗せ、荷物を積み、赤信号で歩道を渡り、買い物中は知らぬ間に他人を押しのけ自分の順番が抜かされたときだけははっきりとわかる、という程度だ。「心」や「命」を持ち出して、ここぞとばかり、「正しいこと」を言い、実は問題をあらぬ方へ追いやっている全ての人たちに言う。どうして今、「命の大切さをこれほど教えているのに、こんな事件が起こったのか?」と言わないのか、言えないのか。私が強調したいのは、このような事件が、今回はじめて起こったものではない、ということである。年齢を少し広げて、見てみれば、例の酒鬼薔薇以前から、自殺他殺、死亡にいたらないまでも暴行事件があり、そのたびに、「命の・・」「心の・・」と言っていたではないか。今、命の教育という、便利なものがあって、それを用いれば問題解決。ああ、私たちは人にやさしい人たち、いい人たち、しゃんしゃんしゃン。命の教育信奉者たちは、一時しのぎに麻薬が欲しいだけだ。いったい今までの「命の教育」は何なんだ。実際はと言うと「ゆとり教育」とか「学力低下」とかが出てくるとそっちへフラフラ、「土曜の過ごし方」でくらくら。いったいどこに、命とか心とか、そんな哲学的命題を持ち出している余裕があるのか。やってない、やれるわけが無い、やる気も無いのだ。命の教育なんて。そのような「幻」を持ち出して、その場逃れをしようという学校関係者や評論家が言うのは、まだ許せる気もするが、この事件をネタに、したり顔でそれらしい論をネットに書き込みする輩にはうんざりだ。どんな奴らかと言えば、「非公開」。そう、おまえたちは自分は安全なところにいる。ある事柄が、結果的に「命」「心」を学ばせたということ、それはあるだろう。また、道徳(これは元々道家の語)とか、修身とかもいいだろう。しかしそれをもって今回のような事件を防げるはずは無い。現に防げていない。子供が、中学あるいは高校卒業後、いや小学校在学中ですら、世の中は、「誘惑・快楽」という口を開けて待っている。その世間というのは、大人が作っている。大人たちは考えることをやめ、テレビのコメンテーターの真似をしている。そして、自分の言うことが否定されると、その相手とは口もきかない。それで、「まじめな話し合い」などといっている。この命の教育、すでに使い古され、有効性が無いにもかかわらず、何度も何度も出てきては消える。そう、卒業さえさせてしまえば後は知りません。その次はまた新しい先生、新しい児童・生徒が来る。先生とは、自分の生活の安定のために職業として、教員免許を取得した人たちのことで、次から、次から、やること分からんことを押し付けられ、ストレスのやり場の無い人たちのことだ。生活の安定を求めるのは、正当な、まともな行為であって、それ以上に「命の」「心の」と言わせている世の中の方がどうかしている。私は、ある高校で教鞭をとっている教師の講演会に行ったことがある。始まって十五分でそこに来たことを後悔し、どうしてこの先を耐えようかと考えた。しかしその十五分後、感動が私を支配した。「世の中に、こんなすごい人がいたのか」はっきり言って、その人の話の内容、筋道は所々分からなくなった。いったい今、誰のことを言っているのか。主語は何かが分からない。実際に「授業」をやっているというから、生徒は大変だろうと変な同情をしてしまった。人を感動させるのは、話の筋が理論だっているとか、説得力があるかとかではない。たとえ、その場で相手をやりこめても、心から信頼、納得しているとは限らない。相手はただ、議論に負けた、それだけのことだ。この男は違う。自分をさらけ出して訴え、血の言葉で語る。理屈ではない。こんな先生、いますか。みんなこんな先生ばかりなら、黙っていても、生徒は育つ。現実的になれというのだ。一部のカリスマを全体に期待していいはずは無い。自分が今ここに蛮勇を振るい、未熟ながらも文章を明らかにしようとするのは、読むものを納得させ、同意を得ようというのじゃない。(現に反対意見が来た)自分も「当事者」の一人として、これだけは言うという思いである。何人が何を思ってくれるか知らんが、まだ書くで。
2004年06月07日
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(この日記は6/2の日記のつづきです。)このような事件があるたびに、「子供たちに命の大切さを・・・」と繰り返される。これは大人の方便(方便などと言うと仏罰が下る?)である。これが偽善であることは明らかだ。なぜなら、子の子達が生まれる前から、もう何度も「命の大切さ教育」が使い古されたフレーズであるからだ。その場の会見を切り抜けるための常套句である。命の教育とは、「人間は他の命の犠牲によってしか生きられない」ということに尽きる。そしてまた、互いに傷つけ、傷つけられ、しかも尚、ともに社会に生きるということ。然るに、今言われる「命の教育」とは、これとは全く逆、相容れないものである。すなわち「傷つけてはいけません教育」「みんな仲良し」「みんないい子」。こんなうそは、教師自身が知っている。このような教育は、いじめっ子、いじめられ子を作り、その他大勢を救うシステムである。子供に「教育」するとするならば、「君たちは、教室の仲間、親、先生すべての人に迷惑をかけ、また、友達や、その他から、迷惑をかけられ、あるいは泣かされ、恨み、憎み、恨まれ憎まれしながら、しかし友情を育てていこう。」という姿勢こそ必要なのだ。子供同士、言いすぎもある。し返しとかもある。そのとき、たとえば、いろいろな道具があって、そのうちのどれを用いるか、という問題なのだ。そもそも、命の教育何ぞと言って、いったい、誰が、何をどう教えるのか。その定義は十年たっても出てくるはずが無い。そんなものを「本気で」言っている人たちがいるとは到底思えないが、実際いるらしいから驚きだ。(彼らは「会見」の場を一刻も早く逃げ出そうという人たちではなく、「本気で」そんなことを考えているようだ。)いずれ近いうちに、同種の事件はまた起こる。その時になっても同じ言葉を繰り返せるのだったら、りっぱの一言意外無い。そして実際は、今こそ、その時なのだ。すでにもう酒鬼薔薇以前から、「命の・・」は繰り返されている!この11歳の少女には、一つの道具があった。それはテレビが教えてくれた。それはそれでよいのだ。多くのものから、一つを選択して、ということでは無かったことが問題なのだ。この子にとって、もっと平易な、別の解決の道があれば、当然それが選択され、実行されたはずだ。そしてそれを可能たらしめるのは、決して「心の教育」「命の教育」ではない。我々大人にしても、「殺したい」願望は時としてあるのだ。なぜそれは実行されないのか。また、自分が子供の頃から、実行せず、あるいは実行されずにすんできたのはなぜか。決して、「命の大切さを知っていたから」ではない。たとえば、もしこの「学校」がもっと地域に開かれていたら、もしこの加害者の子が先生とか友達とか、誰かに相談できていたら、もしこの被害者のこと加害者の子の共通の友人がいたら、もし犯行時誰かが通りがかったら・・・我々も、数限りない「偶然」という幸運、恵みに守られ、幸運にも、「普通」のように振舞っているだけだ。社会の責任は、このような「偶然」を至るところに仕掛けることにある。今、「このような仕掛けをはずして行く」という仕組み、その仕組みの中に我々はいる。その仕組みとは、すなわち「プライバシイの尊重」である。(「プライバシイ」については他の日記でも書いている)さて、学校というところは、先生などという、人生経験の「無い」人たちによって運営・支配されている。彼らは、自分の手におえない問題が起こると「怒る」くらいしか「手」が無い。知恵が無い。もっとひどいのは、親のほうで、そういう学校というところに子供を行かせておいて、それで「教育」と思っている。何かことがあると、何かを「禁止」するくらいが両者(親・教師)の「道具」なのだ。まあ、どちらかというと、学校側の方に同情しますけどね。今回も、「ネット禁止」、果ては「交換日記禁止」まであるということだ。テレビのほうでは、放送内容の自粛が早くも始まったが、これは自分としては賛成だ。よく思い出してみよう。学校で、「言われた」「うわさされた」で、やっぱり殺害に及んだことはすでにあった。もう少し高学年のことだが。何かを悪者にして(この場合は「ネット、パソコン」)その場逃れをしても、大人の偽善はすぐばれるというものだ。命の教育、それはそれでよい。やらんより、いいだろう。ただ、「やってますから、もし事件が起きても私の責任ではありません。」という道具にだけはするなと言いたい。このような個別の事件を防いでくれるのは、「大事件を未然に防ぎ、失われていたはずの命を全うさせ、決して本人も当事者も無意識の行為の蓄積」であると確信する。命の教育何ぞと言う、聞こえよがしの「やってますよ教育」は、真の教育から、あらゆる人を遠ざけていく。しばらくは、その「命の教育」そのものが悪いと言うことで試行錯誤が続き、やっぱり、犠牲者が出て、やっとその誤りに気づく。後何人、犠牲になればよいのか。(ここでいう犠牲者とは、「自殺」「他殺」「暴力」の犠牲者という意味である。)我々ネットに依存している者の視点から、一つ付け加えるならば、この加害者の少女は、自分の容姿について書かれた。もちろん殺害に及ぶ動機は、それだけではあるまい。しかし、この「楽天」においてさえ、自分の気に入らない言葉は削除する、などと言っている「大人」がいるのだ。少女の気持ちや、察すべしであろう。さて、そこで、この種の問題はやはり、時という人間以外の力を借りる以外に無い。すなわち、言った子も、言われた子も、また回りの大人も、もちろん当面の対策は必要だが、来週この二人はめでたく仲直りしました、などという、それこそ「テレビ」のストーリーを描くべきではない。私がこの事件で言いたい最大のことは、「許す必要は無い。ただ、何年か後に、大人として無事に再会できる、そのような道を見つけよう」ということだ。人間教育、心の教育、命の教育、信奉者の人たちの言っていることは、理想論であり、必ず落ちこぼれを作る。たとえ、子供が学校にいる間、事件を押さえこんでも、必ず、復讐や、反動はある。より重大な事件の種を世間にはきだすことになる。「やってますよ」教師たちのやることは、その程度だ。実際に「心の教育」を実践している人たちは、そうやすやすと「心」だの「命」だのとは言わないものだ。必死で他人の子供の更正と取り組み、世間からは何の見返りも無い。しかし彼らこそ、真の英雄たちに違いない。そして、それとは逆に、よほどいいかげんな事をしておいて、偶然にも、こどもは「卒業」して行ったという教師たち。あの、酒鬼薔薇に対して、卒業証書を出しているのだ。その校長は、「命の大切さ・・」を言った一人であった。
2004年06月05日
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自分が「雪風」という、「英文メール駆逐ソフト」を使っているのは以前に書いた。で、この雪風を起動中にメールを受信すると、エラーメッセージが出たり、ユーザー名、パスワードを要求するダイアログが出たりする。これはバグなのか、あるいは自分のパソコンの設定ないし、通信環境に問題ありなのか、なんといっても、出ないこともある、というところが、「不安」ではないか。それで、思い切って作者当てにメールを送ってみた。すると、数時間を経ずして返事がきた。いやー、勉強になりました。結論を言うと「メッセージは出るのが当たり前」なのだ。丁寧な解説をもらったので、そのメールは保管しています。私の質問はこのソフトのFAQにものせる、ということなのだそうだ。ありがとうございました。
2004年06月03日
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自分は、いつも泣いてたいじめられ子だった。当然自殺とかも考えた。小学校の高学年から、中学生の頃だった。それが高校のとき少しぶり返したこともあったが。いずれにしても、小学五・六年の二年間は分岐だった。運がよかった。自分はこうして生きている。長崎の女児刺殺の加害者の子だが、「けんかできていれば」、こんな事態は避けられた。問題はそういうことなので、「パソコン」「書きこみ」「やさしさ」「命の大切さ」などと分けのわからん語句を持ち出して、問題の本質を見誤らせ、ワイドショウネタに落としてしまうのはやめよう。で、もうひとつ、「じゃ、けんかできないのはなぜか」とか、言わないで欲しいね。その理由は・・・なんて何も問題じゃないし、そんなことは評論家が勝手に自分の飯の種にしたらそれでいいことだ。人間はそんなに論理的ではない。理由なんか、後から考えているに決まっている。それを知りながら「なんでそんなことすんねん」と言っている。それで本当のことを言うと「うそつくな!」とは恐れ入る。そこで相手の求めていそうなことを言ってやる(もちろんこれが本当の「うそ」)と、「そうだろ、なぜはじめからそう言わない」またまた「なぜ」とくる。おっと、横道にそれて来た。今回の事件だが、僕はこの加害者の子に、逃げて欲しかった。問題から、逃げて欲しかった。儒家の世界では、それができない。話し合い、思いを打ち明けようとか、そんなこと大人だろうが、こどもだろうが、やすやすとできるものではない。ましてや、今の世の中、双方納得とか、傷つけないで、とか言うのが蔓延している。その回答はというと、テレビの中だけ。そうして、テレビにプログラムされていない事態に遭遇すると、もはや誰も答えは持っていない。それだけではない、今の世の中、老いも若きも、すべてか無か、少しの汚れも許さずまた許されない。もちろん自己の言い訳の範囲内での事だ。少しの言葉が気に入らぬからと言っては目くじら立てて反撃し、周りの人間は「みんな仲良し」「いい子」だけ。そして口では、それぞれの心を大切に。しかし実際は、「いい子でないと、つまりは考え方までおとなしくないと」いけません。生きてはいけません。私が今の教育にもっとも危惧する部分は、「人を傷つけてはいけません」教育だ。これほどのうそ、偽善はない。そんなことできるわけがないのだ。それをしようとして、正直に生きれば、自分が死ぬか、他人が死ぬか、一生うそで固めたバーチャルの中で生きているかだ。早くも昨日6/2の時点で、子供にネットは早過ぎるとか言っている人たちがいる。そんなこというなら、子供に英語は早過ぎるの方がよほどまともに見える。大体、カッターナイフで怪我したことがないから、他人に切りつけられるんだ。危ない、怖い、近寄るな、持つなでまともな大人ができるわけがない。そして「またぞろ」、命の大切さを教える云々が、例のごとく始まったらしい。もう、あほらしいとしか言いようが無い。なに、テレビの影響?これがどれほどの事件にかかわってきたか、いまさら言うまでもない。テレビというよりはビデオとか映画ネット配信の映像、すべてについて言いたい。そんなこと、当たり前過ぎることだ。明治38年大阪の「堀江六人切り」。犯人の中川万次郎は犯行直前、寄席で「・・・油屋十人斬り」を見ている。宮崎某による幼児殺害事件、神戸のサカキバラ事件、いずれもビデオの影響が大きい。どうせ映像規制などできないのだ。こういう事件を防ぐには、犯人の犯行までのプロセス、つまりは「プライバシー」の公開が不可欠なのだ。それをせぬ限り、同様のことは、また起こる。自分は「酒鬼薔薇」以前から、そのことを言ってきたつもりだが、所詮、ど素人の推論か。断っておくが、自分は規制には大賛成だ。だが規制は所詮自主規制、骨抜きになるに決まっている。だからこそ、何万人が同じものを見て、ある一人が事件を起こす、という点にもっと注目すべきだと言っているのだ。
2004年06月02日
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人が従うべき「法則」というものは、ある。まず第一位にランクされる法則は、物理の法則である。その次が人間が生物であるという制約の下にあるということ。その次が「人の心」である。今、我々はこの「人の心」こそ第一義的に考えるべきことであるかのごとき錯覚の中に暮らしている。さらに、この「人の心」の中にもさらにランクがある。いったい自分のわがままとか、「消費者」「弱者」を振りかざし、そこ退けと言わんばかりの振る舞いに、どれほど遭遇することか。たとえば子供を自転車のハンドルの子供用ホルダ、買い物袋を荷台に乗せた主婦。私ならば道は譲ろう。しかし、同じような主婦が互いに向き合ったら、どちらが譲るのか。
2004年06月01日
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