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今年もとうとう最後の日を迎えた。月の最後の日が晦日(みそか=三十日)なら、1年の最後の日は大晦日(おおみそか)。三十日は「つごもり」とも言った。「月籠り」(つきこもり)の変化だと思う。ともあれ月日の経つのは早い。今年は大震災があり、文字通り激震の年で、私の体調も大いに乱れた。足、膝、目、心臓などの不調だが、これには老化現象も絡んでいると思う。 年末年始の休暇に入ってから3日目。風邪はその後悪化し、一時は咳が酷かった。風邪薬を飲み、安静にしていたせいか、幸いにして症状は治まっている。それは良かったのだが、風邪薬に含まれる解熱剤や痛み止めの中に入っているアスピリン系の成分が、血液をサラサラにするために飲んでいるワーファリンの効き目を阻害することが分かって、直ちに弱い風邪薬に替えた。 右手の人差指の腫れは少し治まって来たようだ。だが触ると堅い部分があり、そこだけはまだ痛みがある。昨日は縫い針とカッターナイフで「患部」を切開しようとしたが、危険なので止めた。やはり内部に棘が刺さったままのような感じ。前回切ったことで、さらに堅さが増した感じ。このまま放置しておくしかないが、特段生活上困ることはない。 風邪や疲労からしばらく走ってないため、右足の底部に感じた鈍痛はかなり治まったようだ。もしこれが「足底筋膜炎」だとすると厄介。治ったようで実はなかなか治らないのがこの怪我。痛みはあってもゆっくりと10kmくらいなら走れると思うが、無理は禁物。もう少し様子をみたいと思う。一方、心臓の調子は相変わらずで、何もしないのに時々胸苦しさが生じる。 こんな具合なので、休みに入って体を動かしたのは愛犬との朝夕の散歩や、近所での買い物、大掃除のちょっとした手伝い、夕食の準備程度だけ。妻に頼まれてトースターの汚れを落とし、今日の夜に帰省する次男のために、室内へ取り込んだ植木鉢を別な部屋へ移動した。今日は自室と共にその部屋を掃除し、2階トイレの掃除、お正月の飾り(お供えや松飾りなど)を飾り、妻の買い物の手伝いなどをする予定。 テレビでは「年末特別番組」みたいなのが多いため極力読書に励み、司馬遼太郎著「花神」の上巻を読了して中巻にかかっているところ。小説と歴史評論を兼ねたような感じで、これがなかなか読み応えがあり面白い。休暇中に少しでも多く読み進めたいと思っている。 さて、ほぼ毎日のように書いているブログだが、今年は未曽有の大震災発生でそのことに関連する内容も多かった。また自身の体調が優れなかったことからウルトラマラソン関係の記述が減り、代わって健康に関する記事が増えたと思う。ほぼ毎日書いている割には詰まらない内容かも知れないが、私にはこれしかないので、来年も苦しみながら書き続ける積り。 この一年、我がブログを訪れた方にはこの場をお借りして感謝したいと思う。そして来年はさらに健康に恵まれ、良い年になることを願っている。今窓の外には、美しい朝焼けが見える。大晦日の夜明けだ。気合を入れて一年の最後の日を過ごしたい。では、また新しい年にお会いしましょうね。皆さま良いお年をお迎えくださ~い。
2011.12.31
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≪ 山、温泉、映画、博物館 ≫ 8月中旬に妻と山形県の月山登山ツアーに参加。登ったのは月山南麓の姥沢口から。途中姥ケ岳(1670m)を経て月山頂上(1980m)へ。ここから仏生小屋、弥陀ケ原を経由して北麓8合目までの縦走。所要時間は5時間半ほどだが、30種類ほどの高山植物に出会って感激。美しい花々が結構多いのに驚いた。帰路、鶴岡市の温泉に入浴。 10月中旬に妻と福島県の安達太良山登山ツアーに参加。あだたら高原スキー場からペアリフトに乗り、五葉松平経由で頂上(1700m)へ。この日は大変風が強く、リフトが何度か止まるほど。だが紅葉は抜群で、赤や黄色の鮮やかな山々を見ることが出来た。往復で4時間弱の行程で、下山後は麓の温泉に入浴。大浴場から安達太良山の全容が見渡せた。 温泉は1月に仙台近郊の秋保温泉へ1泊。きれいなホテルで食事も満足出来る内容だった。2月は秋田の乳頭温泉郷へ日帰りバス旅行。ここでは2時間の自由時間の中で5か所ほどの温泉へ自由に入れた。乳白色の露天風呂は1.5mの雪の中だった。11月は蔵王山の麓にある遠刈田温泉(宮城)に1泊。料理が特に良かった。12月は蔵王山中腹の青根温泉(宮城)に1泊。山中の静かな温泉だが、雨で見通しが悪かったのが残念。 映画は1月に観たのが「武士の家計簿」。これは古文書に残った記録を再現した作品で、出演者は中村雅俊、堺雅人、草笛光子、仲間由紀恵。2月は「僕と妻の1778の物語」。闘病生活を送る妻に、毎日ショートストーリーを書いて捧げる話。草なぎ剛、竹内結子主演。8月は「コクリコ坂から」。宮崎駿の息子である宮崎吾郎監督によるアニメ。10月が「ツレがうつになりまして」。うつ病に罹った夫を漫画家の妻が支えるストーリーで、堺雅人、宮崎あおいが主演。 2月に観たのが「ポンペイ展」(仙台市博物館)。4年前にもポンペイ関係の展示があったが、それとは全く違った内容で、ごく最近発掘された遺品が中心だった。古代ローマ時代の貴族の生活がそのまま再現されていることに驚いた。11月「フェルメールからのラブレター展」(宮城県美術館)。このタイトルが示すように、フェルメールの作品3点は、いずれも手紙がモチーフになっていた。光溢れる作品だが、それほど大きなものではなかったことに驚く。1600年代のオランダの画家の作品が併せて30点ほど展示された。 上記と同じ日に観たのが「仏のかたち人のすがた展」(仙台市博物館)。創設50周年記念の特別展で、主に宮城県内の寺社に残る古い仏像、神像や、伊達藩の歴代藩主の肖像画が展示の中心。中には東北で最も古いとされる木製の仏像(奈良時代後半~平安時代)も。日頃は拝観出来ない秘仏などを目の前で観られたのは幸運と言うべきか。 今年は大震災があった影響で恒例の美術展も開催されず、市民もなかなか余暇を楽しむ余裕がなかったのが実態だと思う。来年は生活が少しでも安定し、各種の催しが復活することを願っている。、
2011.12.30
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≪ 読書編 ≫ 昨年の年末から宮城谷昌光の中国歴史小説に魅せられて熱心に読み始めた。新聞に連載された彼の小説がきっかけだった。3月に空前の「東日本大震災」があり、その後自身の体調不良にも遭遇したが、それにも関わらずまあまあ本が読めたと思う。以下、この1年で読了したタイトルを記しておきたい。<宮城谷昌光の中国歴史小説> 「青雲はるかに」上下 「楽毅」全4巻 「晏子」全4巻 「天空の舟」上下 「管仲」上下 「沙中の回廊」上下 「夏姫春秋」上下 「長城のかげ」 「香乱記」全4巻 「侠骨記」 「花の歳月」 「華栄の丘」 「沈黙の王」 「玉人」 「介子推」 「重耳」全3巻 「太公望」全3巻 「三国志」全6巻 「奇貨居くべし」全5巻 「王家の風日」。 私達には馴染みの少ない中国古代史の面白さに加えて、宮城谷が描く小説の面白さが惹き込まれた理由だ。調査資料が限られた中で、良く資料を読み解き、自分なりの解釈を加えて小説を構成して行く力は相当のもの。初めは書店で新本を買っていたが、やがて古書店巡りをしながら必要な巻を揃えて行った。読む楽しみだけでなく、古書店を訪ねる楽しみも増えた訳だ。<宮城谷のその他の作品> 「春の潮」は初期作品集で、「史記の風景」、「歴史の活力」、「春秋の名君」は歴史評論。面白さはあるものの、中国歴史小説に比べれば迫力には欠けると言えよう。この他にも買ったままでまだ読んでない彼の作品があるが、多分それに取りかかるのは来年以降になると思う。 宮城谷の小説の途中に伊波勝雄著「世替わりにみる沖縄の歴史」を読了。また宮城谷作品の入手が途切れた時期に、たまたま古書店で目にした司馬遼太郎の作品を購入して読んだところ、宮城谷とは違った面白さを発見し、それ以降司馬遼太郎の作品にはまっているのが現状。以下、これまでに読んだ作品を列記したい。<司馬遼太郎の作品> 「項羽と劉邦」全3巻 これは中国歴史小説だが、宮城谷とは違った視点での人物描写が、実に面白かった。 シリーズ街道をゆく 1)「甲州街道、長州路ほか」 3)「陸奥のみち他」 6)「沖縄・先島への道」 28)「耽羅紀行」。これらは街道を旅しながらの紀行文で、司馬の最後の作品。沖縄と耽羅(韓国済洲島)は文化、歴史などに共通する部分があって面白かった。 他の巻に私の知人が登場したのにはビックリ。そして彼の先祖が室町期に甲州(山梨県)から太平洋を舟で遡り、現在の八戸周辺に達して南部藩の基礎を作った話には驚いた。「司馬遼太郎の日本史探訪」と「手掘り日本史」は歴史評論。歴史観、文明観、人物の捉え方がユニークで秀逸。司馬の人間性を彷彿とさせる内容だ。 現在読んでいるのが「花神」全3巻。これは幕末から明治にかけてに活躍した村田蔵六(大村益次郎)の話だが、吉村昭著「ふぉん・しいほるとの娘」上下を読み合わせると、シーボルトの遺児である楠本イネとの関係や、幕末の諸藩の緊張ぶり、明治維新へと突き進む様子が分かって面白い。 司馬は1996年に没しているが、存命中に彼の作品を読んだことはなかった。だが、たまたま古書店で手に取った本から、文化勲章を受章した彼の偉大さを知ることになった。全くの偶然だが、これも運命と思えなくもない。こんな出会いがあるから人生は面白い。来年も極力好きな本に時間を費やしたいと思っている。
2011.12.29
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≪ 仕事納め ≫ 昨夜の夕食はタラチリ。初めて我が家の白菜を使った。市販のもののようにしっかりとは巻いてないが、それもまた愛嬌。その代わりとても軟らかくて美味しい。「サラダに出来るかもね」と妻。「そうだろ。だからどんどん食べて」と私。このところの寒さで霜柱が立つ我が家の家庭菜園。屋外の水道も「水抜き」をしておかないと凍るようになった。 第一現場のビルで最後の立哨。風が冷たい上に節電で暖房が入ってないため、物凄く寒い玄関ホール。「お早うございます」。いつものように挨拶していると、若い女性が歩み寄り、「今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします」と言ってくれた。特段お世話もしておらず、ただ毎日玄関に立って挨拶するだけだが、まさかこんな言葉をかけられるとは。 今年は景気がいまいちなのか、手帳を持って来た業者はなかったようだ。管理会社の方に断り、自宅用と第2現場用のカレンダーをもらう。勤務後、管理室と清掃担当のスタッフに挨拶してビルを出る。第2現場に行く途中銀行に立ち寄り、年末用のお金を下ろす。今日は我が社の給料日。わずか3千円だが、精勤手当もついた。 第2現場ではジャンパーも着ずに清掃作業。ビル所有の公園は人影も少なく、ほとんど汚れてなかった。先日買い物に行った際、量販店で風邪をうつされたのか喉が痛んだ。今は少し治まり、鼻水に変わっている。この現場も今日が今年の最後。来年の3月半ばで辞める予定だが、まだ仲間には伝えていない。最後に余ったお菓子をもらい、「良いお年を」と別れる。 それからデパートで妻に頼まれた商品券の引換券をもらい、薬局で歯ブラシを買い、書店で「ランナーズ」を買い、読書をしながらバスで帰宅。リュックは2つの現場の洗濯ものやカレンダーなどで膨れ上がっている。昼食後は生協の配達物品を受け取りに行き、その後専門店で警備用の白手袋を、スーパーで米と正月用の切り餅を購入。 妻は値段とメーカーは教えたが、肝心の店の名前を言ってない。もう一度家に帰ってチラシを確認するのは面倒なため、その店で一番安いのを買って帰った。それでも200円ほど高い。きっと妻から小言を言われると思うといささか憂鬱。さらに、今日で今年の勤務終了と思ったら、急に疲れと咳が出始めた。 足底にも痛みがあるため、整形外科に年内はいつまで診療しているのか聞こうとしたら、呼び出し音が鳴るばかり。どうやら既に休診体制に入ったようだ。風邪、足の痛み、指の腫れ、心臓の調子。いずれも今一状態で新年を迎えるのが不安。それでも大晦日には次男が帰省するようで楽しみ。既に缶ビールなどは買ってある。さて、明日からどんな年末年始になるのだろう。
2011.12.28
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≪ 奇怪な話 ≫ 世の中には不思議なスポーツがあるもんだ。昨夜見たのは登山とマラソンとパラグライダーを併せたもので、レースの舞台はヨーロッパアルプス。ルールは標高3000m級の山を含む7つのポイントを廻り、最後は地中海沿岸にあるモナコ公国の海上にゴールするというもの。会期は2週間だが、なかなかハードで、選手は常に重さ10kgのパラグライダーを背負うことが条件。 その姿で山に登り、次のポイントまで飛ぶか走るかして移動。ところが断崖絶壁の山あり、天候が悪化すればパラグライダーでは飛べなくなる。常に地形、上昇気流、天候などを見極めてルートを選ぶ必要がある。残念ながら日本の選手はわずか100mほど禁止空域に立ち入っただけで失格となった。大会本部がGPSで確認しているためだ。 50mほど禁止空域に入って24時間移動禁止のペナルティーを受けた選手は、結局80kmほどのロングフライトを何度か成功させて優勝。オーストリアから、イタリア、スイス、フランスを経て、ゴールのモナコまで達したのは彼を含めわずか3人だけだった。モンブランやマッターホルンなど、アルプスの景色が素晴らしかった。 話は変わって、先日バスで見かけた話。1人の女子高生が千円札を入れてバスカードを買おうとしていた。だが千円札が詰まり、カードが出て来ない。運転手は自分の千円を彼女に渡した。そして私に対して証人になれと言う。何だと思ったら、私が運転手に千円を払い、後で女子高生から千円を受け取って欲しいみたい。「意味が分からないし、一万円札しか持ってない」と言って断ったが、とんでもない話。そんな必要性もないし、彼女は全く見知らぬ人なのだ。 またまた話は変わって、ある日セールスウーマンが自宅に来た。どうやら冠婚葬祭の会社のようだ。家族葬の話から始まり、40年以上も前に会員制の会に入っていたことを話すと、その会社の前身とのこと。そこで「全額支払ったが、未だに何の音沙汰もない」と言うと、調べてみますと言って彼女は帰った。 次回に持って来たのが1通の書類。月200円で何年か支払った証明書だった。だが私が支払ったのは月300円で3年間。当時は夜学に通っていた苦しい時期で、月給も2万円以下だった。そして最終納入とされた年には東京に転勤し、仙台にはいない。きっと当時の徴収者の名前(珍しい姓)を出したため信用し、新たに契約を取ろうと完納証明を「偽造」したのだと思う。何だかなあ。 さて、12月の中旬にユズの剪定作業をしたのだが、その時指に棘が刺さったようだ。カッターナイフで「患部」を切ってみたが、棘が見当たらないのでそのままにしておいた。ところが今、その指が腫れあがってとても痛い。棘が内部に残っていたか、傷口から黴菌が入ったかのいずれかだろう。ここまで腫れると再び切開するのは危険。さて病院に行くべきかどうか。う~む。 字が見にくいため、またまたデザインを変えました。何度もゴメンナサ~イ!!
2011.12.27
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< 宮城県内のプロスポーツ編 > 「見せましょう、東北の底力を!」力強い嶋捕手の言葉で始まった今年の楽天だったが、結果はパリーグ第5位の成績に終わった。だが借金はわずか6。それもセパ交流戦で作ったものだった。やはり未曽有の大震災が楽天の重荷になったことは否めない。球場の補修を余儀なくされたし、そのことで練習も不十分なままシーズンに突入したからだ。 一方のファンはどうだったのだろう。大きな被害が出て、野球観戦どころではなかった人も多かったと思う。だが、やはり楽天が活躍すれば地元の人々も元気になり、活気を取り戻すことを実感出来た。オフシーズンに入った今、様子が少し変わりつつある。投打の中心だった岩隈が大リーグ入りを希望し、山崎は古巣中日ドラゴンズへの入団が決まった。 何と言っても今年の話題の中心は田中マー君。19勝で最多勝を取り、防御率、勝率も1位だったその上に沢村賞、ゴールデングローブ賞、ベストナイン、嶋とのベストバッテリー賞も取った。契約更改では推定3億2千万円でサインしたとか。23歳で3億円に達したのは過去ダルビッシュしかおらず、2人目の快挙だった。来年はさらに楽天を引っ張る存在になって欲しいものだ。 サッカーJ1のベガルタ仙台のシーズン4位は立派だった。過去最高の位置で、手倉森監督の手腕が大いに称えられて良いと思う。今季はなかなか負けないサッカーで、終始好位置を確保し続けた。天皇賞がベスト16で終わったのがちょっと残念だった。シーズン後には女子サッカーチームも誕生した。ベガルタレディースがそれ。来季は男女揃っての活躍を期待したいものだ。 プロバスケットボールの89ersは震災のためホームの体育館が使えず、やむなく活動を中止した。このためこれまでチームを引っ張って来た浜口ヘッドコーチが京都に移籍するなど、ガタガタになった。その後強いチームが増えたことで苦戦を余儀なくされているが、本拠地となる新しい体育館が近く完成するので頑張って欲しい。 この他にも女子のバレーボールチームが仙台に誕生した。ベガルタレディース同様、他の地区で廃部になったチームを引き取った形だ。新規チームには何かと苦労が多いと思うが、頑張って地元のファンを喜ばせて欲しいと思う。頑張れ各チームの選手達。 地元の楽天や各チームが、被災地や被災者に対して行った復興支援や慰問は、称えられて良い行為だった。地元だけでなく、全国あるいは世界各地から多くのスポーツ関係者、音楽関係者などがボランティア活動を行ってくれた。大切な家族や家を失い、全財産を失った被災者にとっては、強い励みや慰めになったと思う。 最後に中国からつがいのジャイアントパンダが、近く貸与される運びになったようだ。きっと東北の子供達に夢と希望を与えるビッグプレゼントになると思う。様々な善意に対し、この場を借りてお礼を申し上げたい。皆さん本当にありがとうございました。
2011.12.26
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普段、私に課せられた仕事は以下の通り。1)愛犬の散歩(朝夕2回) 2)自室の掃除 3)洗濯もの(布団)の取り込みと自分の洗濯ものの片づけ 4)玄関とガレージの掃き掃除 5)庭仕事一般 6)グループ生協の配達品の受け取り 7)ゴミ出し 8)風呂掃除。それらに加えて朝と昼は自分の食事は自分で用意し、雪が降れば雪かきをする。 先月の温泉行の際、妻からもっと家事を手伝うよう要請があった。特に年末の大掃除が、仕事を持つ妻には大変な負担になっている由。その結果、2階のトイレの掃除が上記に加わり、年末の大掃除の第一陣として依頼されたのがレースのカーテンの取り外しと、洗濯後の取りつけだった。面倒臭がりやの私はあまり好きでない仕事だが、やってみればそれほど大変でもなかった。 カーテンを取り外した際、ガラス窓の内側を拭いた。折角洗濯したカーテンが汚れないためだ。ついでにベランダに吹き込んだ枯葉などを掃除。23日から始まった3連休では、先ず窓ガラスの拭き掃除から取り掛かる。これは職場から専門の道具を借りて来たため、簡単にきれいになった。ただし台所や洗面所や浴室の裏側には「桟」があり、これは隙間から手を突っ込んで拭くため厄介だった。 その後玄関と台所の扉も拭き、最後はベランダの拭き掃除。埃や土のため雑巾が直ぐに真黒になり、結局4枚がダメになった。第2日目は妻と一緒に照明器具の掃除。これも簡単に取り外せるものは良いが、場所の関係で姿勢が苦しくなる個所もあった。午後から取り換え用の蛍光灯を買いに行くついでに、クリスマスカードとワインも購入。 妻と2人暮らしの我が家ではクリスマスの夕食も簡単なもの。メインはローストチキン、フライドポテト、野菜サラダ、豚汁。安もののワインで乾杯し、食後はシュークリーム。夜は自室で大好きなケルティックウーマンの美しい歌声をはじめ、クリスマスソングやパイプオルガンの荘厳な宗教曲を3時間ほど聞いて就寝。妻は3人の子供達と2人の孫あてに、クリスマスカードを送ったようだ。 第3日目の今日は庭の掃除。竹箒で枯葉を集め、枯れた菊などを刈り取り、剪定した植木の枝を結束し、堆肥を始末。その後は台所の裏の下水を掃除した。我家ではあまり脂分を摂らないためさほど汚れは観られず、至極簡単に作業は終わった。 その後は京都で行われた男女の高校駅伝をテレビで観戦。宮城県代表の仙台育英は女子が3位と健闘したが、男子が1区から不調で12位に留まった。今夜は「坂の上の雲」の最終回。さて、どんな結末になるのかが楽しみだ。
2011.12.25
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≪ 園芸編 ≫ 私がランニングを始めてから32年経つが、家庭菜園を始めたのはそれよりも早い東京勤務時代。郊外の宿舎で小さな畑を耕し、生まれたばかりの長女の離乳食用の「小松菜」を栽培したのが最初。転勤族だった私は、その後筑波、松山、大阪でも畑を耕し、仙台に自宅を建ててからは庭の一部を畑にして野菜を育て、花壇や果樹の世話をしている。 今年は3月に東日本大震災があった影響で、家庭菜園に取り組むのが少し遅れた。だが、天候が順調だったことから、春野菜、夏野菜の成績も良かった。夏野菜として育てたのはトマト、ミニトマト、カラーピーマン、ゴーヤが苗で、キュウリ、モロッコインゲンが種から育てた。7月初旬には早くも梅雨が明けて本格的な暑さとなり、野菜の成長にとっては好条件がそろったと思う。 初めて蒔いた「ロマノインゲン」は不作で、急遽いつものモロッコインゲンを蒔き直した。それらは全て豊作で、キュウリの多くは「古漬け」になった。ゴーヤは定番の「ゴーヤチャンプルー」の他、終盤には妻が佃煮の作り方を覚え、料理のバリエーションが増えた。トマト、ミニトマトは高温のお陰で糖度が増した。 果樹は梅がアブラムシの被害に遭って実がいつもの年よりかなり少なく出来も良くなかったが、それで「梅酢」を作った。冬の間に剪定と施肥を行ったせいか、柿は初めての大豊作で160個ほど生った。いつもは早めに落ちる実がしっかり枝に付き、甘味は乏しいものの生でずいぶん食べた。2回に分けて130個以上の干し柿を作ったが、結構上手に出来上がった。 ユズは15年目にして初めての結実。南向きの枝に30個近い実が生り、妻と共に喜んだ。ユズは鍋ものや白菜の漬物に使い、焼酎にも果汁を入れて飲んでいるが、これがなかなかの味。冬野菜は大根、白菜、玉ネギ、春菊、チヂミ菜の5種類だが、春菊とチヂミ菜は収穫を終えた。大根は今季、誰に聞いても成績が良くないみたい。我家でも抜いて使ったのはまだ1本だけ。高温で夏野菜の始末が9月中旬を過ぎ、冬野菜の準備が遅れたのが原因だと思う。 すっかり寒さが厳しくなったが、凍らないように白菜や大根がせっせと甘味を増やすため、これからが美味しいシーズン。玉ネギの収穫は来年の6月で、これは寒さに強い作物だ。南方系のアシタバが結構寒さに強いのも意外。買ったりもらったりしたネギは、土を掘って埋めてある。それらの野菜が、我が家の健康維持に一役買っている。ありがたいことだ。 今年の園芸や家庭菜園に要した費用は合計で6169円。それらは全て私の小遣いからの支出。それだけの金額で済んだのは、ほとんど花を買わなかったため。震災以降、なかなか心が花の方にまで向かなかったのが正直なところ。今外の植木鉢では葉ボタン、ヴィオラ、パンジーが咲き、庭ではナンテンやウメモドキが赤い実をつけている。 さて、今夜はクリスマスイブ。どうぞ皆さんも良いクリスマスをお迎えくださいね~♪
2011.12.24
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≪ ランニング編(2) ≫ 6月 294km(うちラン:155km) 「いわて銀河」(100km)73.3km地点でリタイア 10:38:44 今年初めてのウルトラレースを迎えて、不安が募った。不整脈の体でウルトラレースに出るのは無謀なのではないかとの想いだ。ただ、不整脈が見つかってからまだ日も浅く、ゆっくりなら結構走れる気もしていた。実際のレースでは峠の登りが苦しかった。行けるところまで行こうと思ったのだが、第3関門(73.3km)で捕まりリタイヤ。まあ良く走れた方ではないか。走ったのは10回。(1回平均15.5km) 7月 284km(うちラン:159km) 「薬莱山とお足」(55km) 8:40:00 不整脈が慢性化して来たこと、梅雨明けが早く気温が急上昇したこと、薬の副作用が激化したことで体調が悪く、疲れが出易くなった。宮城UMCの合同練習会である「薬莱山」のスタート時間を間違えて1時間早く出発。それでも前年より30分タイムが遅かった。走ったのは10回。(1回平均15.9km) 8月 240km(うちラン:83km) 仙台は過去最高の暑さとなった。不整脈が進行したのか疲労感が激しく、居眠りと昼寝で何とか生活が維持できるような状態。辞職を意識し始めた時期だった。走ったのは9回。(1回平均9.2km) 9月 244km(うちラン:140km) 「秋田内陸」(100km)45km地点でリタイア 7:30:00 ますます体調は悪化し、とてもウルトラレースに出場できる状況ではなかった。このため7月から9月に延期された「磐梯高原猪苗代湖マラソン」は不参加。「秋田内陸」でも5km地点手前で胸苦しくなり、以後全くスピードが出なくなった。大覚野峠の登りが苦しく感じ、45km地点で制限時間オーバー。このタイムではフルマラソンの完走も無理と感じた。走ったのは11回。(1回平均12.7km) 10月 250km(うちラン:122km) 「秋田」の後で右膝に痛み発生。整形外科で診断の結果は変形性膝関節症。膝関節内の軟骨がすり減ったことが痛みの原因とのこと。ヒアルロン酸を注射し、痛みが治まった。体調の悪化で「伊南川ウルトラ」(100km)は参加を取り止め、職場には辞職願を提出。走ったのは9回。(1回平均13.6km) 11月 302km(うちラン:203km) 沖縄本島本部半島マラニック(63km) 気温が下がったせいか、やや体調を持ち直す。「沖縄本島単独一周」の4年目で、屋我地島、古宇利島、今帰仁城、海洋博記念公園経由での本部半島一周を達成。気温は25度と高目で、途中疲労と吐き気による体調不良3度。これで427kmに及ぶ沖縄本島単独一周走を達成。走ったのは17回。(1回平均11.9km) 12月 23日現在で135km(うちラン:49km) 初旬底の堅いシューズに医療用インソールを挿入して帰宅ランを開始。これはかねてからの整形外科医の指導に基づくもの。だが歩くのに比べて3倍の体重がかかるランニングでは、逆に障害のある足に負担がかかり過ぎた。このため右足底筋筋膜炎と右膝痛が再発し、目下ランニングを休止中。 不整脈の症状が厳しいことと併せて、ランニング計画が全く立たない状況になった。こんな中で、自分に何が出来るかを目下検討中だ。こんな風に今年はランニングにおいても波乱万丈の年となった。本日現在で今年の累計距離は3426km(うちラン:1770km)、これまでの総計は78106km。地球2周走破まで残り1910kmになった。来年中の達成は可能かな?
2011.12.23
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≪ ランニング編(1) ≫ 痛みがある時は走れない。いや走っても良いのだが悪化する可能性がある。体調が悪い時も走れない。無理に走れば事故の元になる危険性がある。気持ちが落ち込んだ時はなかなか走れないものだが、走れば気持ちが晴れることが多い。心と体がリンクするランニングの世界は広くて深い。今年は大震災や体調の関係で、かなり浮き沈みが激しかった年だったと思う。各月の状況を振り返ってみたい。 1月 360km(うちラン:231km) 勝田マラソン(フル)4:28:00 お正月の3ケ日は毎日18km走るなど好調だった。「勝田」(茨城県)は6回目の出場。風もあり、少し寒く感じたが4時間30分を切れて上出来だったと思う。この日を含め、走ったのは18回(1回平均12.8km) 2月 292km(うちラン:164km) いわきサンシャインマラソン(フル)4:19:17 「いわきサンシャイン」(福島)は2回目の出場。「勝田」の2週間後だったが、さらに好調さを持続出来た。ただし底の堅い軽いシューズで走ったのが悪かったか、レースの2週間後になって痛みが出始めた。3月初旬に診療。右足底筋筋膜炎で、患部に注射を打ったら改善。走ったのは15回(1回平均10.9km) 3月 205km(うちラン:14km)走ったのは3回(1回平均4.7km) 初旬は足底筋筋膜炎の痛みがあって走れず。3月11日(金)巨大地震発生により以後震災生活に入り、ランニングどころではなくなった。距離の大部分は自転車通勤(ランの40%として計算)と散歩により稼いだもの。 4月 384km(うちラン:182km) 震災チャリティラン(フル)5:23:10 峠越えマラニック(自宅~関山トンネル~山形県天童市)62.4km チーム229(ニンニク)さん主催のチャリティランに出場。会場は仙台市の台原森林公園で、1周につき100円のチャリティ。震災により軒並みレースが開催中止になる中、貴重な練習の機会となった。またこのランで、久しぶりに大勢の走友と会うことが出来て良かった。交通量が多いために心配していた関山トンネル越えマラニックだが、案外安全に走れた。走ったのは9回(1回平均20.2km) 5月 422km(うちラン:268km) 峠越えマラニック1(自宅~福島駅)81km マラニック2(宮城県白石市~金山峠~山形県上山市)63km 連休中に開催予定の「洋~湖~海」初日(いわき市~猪苗代湖110km)が福島原発事故で60kmのコースに短縮されたため不参加。2回の峠越えを行う。福島駅まではほぼ国道4号線に沿ったコースで、一部「旧奥の細道」を通った。ここは桃の花や八重桜の花盛りだった。白石~上山の一部は「旧羽前街道」で、峠付近の山中にはそれらしい雰囲気が残っていた。5月下旬に不整脈発見。だが、この時点では全く自覚症状は無かった。走ったのは14回(1回平均19.1km)<続く>
2011.12.22
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< 健康編 > 東日本大震災同様、今年は健康の面でも激震が走った。先ず2月の「いわきサンシャインマラソン」(フル)の後に、右足の足底部が痛んだ。整形外科へ行くと筋膜炎との診断。私の足は左右とも偏平足で、加齢とともにアーチが落ち、種子骨という余計な骨が出っ張っている。これが靭帯や筋膜を引き延ばして痛みが発生するのだ。かかと付近に注射を打ってもらい、痛みは治まった。 5月末には不整脈が見つかった。いつもの内科の診察で判明し、直ちに循環器病が専門の個人医の診察を受けた。心電図はもとより、エコー写真や負荷試験も実施した結果、やはり不整脈との診断。不整脈を抑える薬と、血液をサラサラにする薬、血圧降下剤を併用することになった。血液サラサラの薬は不整脈で血栓が出来た場合、脳梗塞を引き起こす恐れがあるためだ。 ところが不整脈を抑える薬のせいか、眩暈、吐き気、動悸が激しくなった。ドクターに薬を変えてもらったが、次の薬ではさらに動悸が激しく、その次の薬でも動悸で胸苦しさが生じた。多分薬の副作用かもとドクターに相談した結果、最小限の薬だけ服用することで今日に及んでいる。暑さが厳しかったこの夏は疲労が激しかった。心臓が8割程度しか機能していないせいだ。 秋の終わりには仕事を辞めることを申し出た。ところが遅番の同僚が急に辞めたため、私は辞職を撤回する羽目になった。今日の診察では、早めに専門医の診察を受けて手術の可否を確かめることを勧められた。妻にもそのことを話した。来年1月にはその病院に行ってみる積り。それとは別に膝や右足も本調子でないため、来年も苦戦は免れないと思う。 震災が妻の精神状態に影を落とした。不安、不眠が高じて軋轢が激しくなり、私の心機能にも影響が及んだ。妻の姉が震災と前後してうつ状態になった。最近ようやく落ち着き、安心出来るようになった。震災以降精神科を訪れる患者が激増したと言う。児童も教師も心に深い傷を負い、うつ病になった精神科医も居たほどの深刻さ。来年こそは健康で一年を過ごしたいものだ。
2011.12.21
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< 東日本大震災(2)> 電気の回復で暖房が復活し、電子レンジが使えるため調理の幅が広がった。水道の回復では洗濯が可能になりトイレの使用が楽になった。ガスの回復は24日後ではなく34日後の間違い。これで風呂に入れ、調理が出来、普通の日常生活に戻ることが出来た。ネットの回復も震災の4日後だが、その前日に勤務先のパソコンを借用し、ようやくブログに無事であることを記せた。 テレビが点くと、今回の被害の映像を初めて確認出来た。流される飛行機や家屋やタンク、橋桁にぶつかる船、松林や堤防を越える大津波、高台に逃げまどう人々。ラジオでは想像も出来なかった物凄いシーンが次々に展開し、ただただ呆然とするだけだった。 一方福島原発の被害状況も徐々に分かって来た。初めは、何故マスコミがそんなに大騒ぎするのか分からなかった。まさか水素爆発が起きて放射能が漏れていたとは。メルトダウン、シーベルトなどの言葉を初めて知った。震災後間もなく、アメリカから原発問題の専門家集団が来日して、防災に協力する旨申し出たのに対し、政府と東京電力は自前で処理出来ると宣言し、早々に引き取ってもらった。 あの判断が間違いだったことは、後日明白になった。政府要人も東電幹部も、当時は原発内で何が起きているかを正確に把握出来ておらず、ただメンツに拘り、原発を何とか継続させることに腐心していたのではないか。強い季節風に乗って、福島原発から放射性物質が各地に飛散した。また汚染水はドボドボ太平洋に流れ込んだ。高度の放射能汚染で多くの住民が強制的に退去させられたことは、国民の誰もが知る事実。最悪のシナリオが現実のものとなった。 津波による家屋等の被害も凄まじかった。リアス式の三陸海岸では、地形の特性で津波が40mにも達した地区があったし、金華山との間の海峡は、引き波で海底がまる見えになったそうだ。1万5千人以上もの死者、4千人を超える行方不明者を出したM9の巨大地震と大津波。海岸部にありながら1人の死者も出さなかった小学校がある一方、児童の7割以上が亡くなった小学校もあった。日頃の危機意識の有無が関係してたようだ。 風呂に入れない期間、私は3時間並んで近所の温泉の入浴券を入手したが、洗い場の隣りの人がガタガタ震えているのに気づいた。危うく津波から逃れて避難所暮らしをしていた人で、その時の恐怖心がなかなか抜けないようだった。あの津波で私の親戚も2人が命を落としている。一度津波が襲った地区を訪れたが、ほとんどが廃墟と残骸で、復興までは相当の日数を要すると感じた。 自治体の中には既に復興計画を公表した所もあるが、これには個人の事情や利害もからむため、今後の道のりは容易ではないはず。また厄介なのは放射性物質の除染で、原発に近い住民の帰宅までには、さらに数十年を要するのではないか。また今後常磐線をどう開通させるのか。「心の傷」の手当も含め、まだまだ解決すべき問題が多い。だが、それを乗り越えないと日本の将来はないと思うのだ。
2011.12.20
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< 東日本大震災(1)> 2011年のことを書くとなれば、やはり最初は「東日本大震災」のことだろう。あれは3月11日(金)午後2時46分のこと。突然グラグラっと猛烈な揺れが襲った。今までに経験したことのない強い縦揺れ。自室の書架から色んなものが落ちた。だが余りにも揺れが強烈で立ち上がることも出来ない。何とか頑張ってやっとパソコンを正常に終了させた。 揺れは6分ほど続いた。もう駄目かも知れない。そうも感じた。ようやく大きな揺れが治まったため、家の外へ出た。近所の人も道路へ出ていた。大きく波打つ電線。地中から勢いよく吹き出す水。屋根瓦や石垣が崩れた家もあったようだ。その日は同僚が研修のため、遅番の代務を引きうけていたが、先ず仕事で外へ出ている妻と連絡がつかない。勤務先への電話も全くつながらなかった。 結局その日は遅番へ行けなかった。もし行ったとしても、街中にあるビルは停電で真っ暗で、交通は遮断され、信号も点かなかったようだ。道路は至る所で陥没し、中には倒壊したビルやガラスが破損したビルもあったようだ。もし自転車で出かけたら大変な目に遭っていたと思う。妻は無事に帰宅して一安心。だが電気がつかない。長い停電の始まりだった。 石油はあるが、ファンヒーターが点かない。ガスは当初出ていたが、やがて爆発の恐れがあるため使用禁止に。まだ出ていた水を風呂に貯めようとしたら妻に反対された。結局その日から4日間は電気が使えず、水道は6日間断水した。そしてもっとも厳しかったのが都市ガスで、24日間使用することが出来なった。 わずかに使えたのがカセットボンベ。これも2本しかなく、入手するには並んで買うしかなかったが、わずか1本買うのに1時間も待つ始末。大地震の夜は風呂へも入れず、ロウソク暮らし。着のみ着のままで布団に潜り込むしかなかった。ラジオのニュースで仙台空港が津波に遭ったと聞いた。市内の荒浜では浜辺の松よりも高い津波が襲ったようだ。だが停電のために映像を観たのは、ずいぶん後になってからだ。 ロウソクは3本あって、とても重宝した。携帯ラジオが2台。懐中電灯が2本。カセットのボンベが買えたのは3日後。水はペットボトルに入れて毎日職場からリュックで運んだ。通勤手段は自転車。バスが来ないためだ。電車はほとんどが不通。それもそのはず津波で橋やレールが流されていたのだ。スーパーやコンビニが閉店しているため、食料が入って来ないので大変だったが、我が家は冷蔵庫の中に1か月分もの食料が蓄えられていた。 我が家での被害はほとんどなく、軽微な瀬戸物が2個壊れただけで済んだ。戸棚や本箱などには倒壊防止用の「つっかえ棒」を施しており、食器にはタオルを掛けていたのが被害を受けなかった原因だと思う。当初は「東北大震災」と呼ばれたのが、「東北・関東大震災」そして最終的には「東日本大震災」と呼び名が変わった。ありがたいことにテレビなどで被害の大きさを知った全国の知人から、多くのお見舞いをいただいた。この場を借りてお礼を申し上げたい。 都市ガスが復活するまでの24日間に風呂に入ったのは3回。それ以外は濡れタオルで体を拭いただけだった。洗濯が出来ない期間は、ほとんど着替えせず。庭にはトイレ用の穴を掘った。ただし使用したのは私だけ。最後の手段として庭に「かまど」を作ろうとしたが、これも妻の反対にあった。この震災で「危機管理」に関する妻との認識のずれの大きさを痛感した私だった。<続く>
2011.12.19
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今朝もゆっくりの起床。そして今朝の気温も零下。朝食後、妻の掃除が終わると同時にパソコンを居間に移動し、年賀状を書き始める。一時心配した枚数だが、結果的には何とか間にあった。ついでに住所録からの除外作業を決行。「義理」で出していた枚数が減るのは悪いわけではないと自分に言い聞かせての決断だった。 予想以上に早く書き上げ、午後は久しぶりに走ろうとしたが、テレビで「全日本実業団女子駅伝」が始まると、それに引き込まれた。今年から開催場所が岐阜から宮城へと変わったのだ。わずか20kmほどだが、私は岐阜の長良川沿いのコースも走ったことがある。何故由緒あるレースが宮城県に来たのかは知らないが、身近なコースだけについ見たくなるのが人情と言うもの。 レースは第1区から第一生命の独壇場になった。一度もトップを譲らない完全優勝。確か8年ぶりと話していたように思う。参加33チームで唯一女性監督である山下佐知子さんが、喜んでいた姿が印象的だった。東日本、中日本、西日本の3地区で勝ち抜いたチームが参加したようだが、今年は大震災の特例として、2時間30分以内でゴールしたチームの参加も認められた由。東北代表の日本ケミコンは16位。選手は6人しかおらず、ギリギリの人数だったようだ。 仙台市内の風景は「大学女子駅伝」でも見ているが、今回は42kmの長丁場でスタートは松島町。それでも42kmのうち30km近くは走ったことのある道だった。目を皿のようにして見たせいか、市内のどの辺りか大体分かった。来年5月の「仙台国際ハーフマラソン」では、果たしてあの風景を本当に走れるかどうか。全てはその時の体調次第。 今夜は1時間30分のドラマ「坂の上の雲」と、1時間のドラマ「トンイ」を観るつもり。最近司馬遼太郎の作品を読み続けているため、彼があの作品を書きたかった理由が何となく理解出来るが、NHKが映像化を試みた理由が良く分からない。前回の放送はほぼ全てが戦闘場面だし、あれを撮影するには厖大な労力と経費を要したはず。徴収料金で制作するには巨額過ぎると思うのだが。 一方の韓国歴史ドラマ「トンイ」は前回大逆転があった。今夜もその続きだから、悪人どもが一掃されるはず。ようやく胸の中がすっきりするのではないか。それにしても60回分のシナリオを書くのは大変な作業だと思う。さて、明日からは司馬遼太郎の小説「花神」(全3巻)を読み始める予定。そして12日ぶりに帰宅ランをし、ブログは新シリーズに入る予定だ。
2011.12.18
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夜半に何度かトイレに起きた時、照明の向こうに白いものが見えた。雪のようだが、日中降ったのが融けずに残ったのか、それとも夜中に降ったのか。朝目が覚めたら7時近い。どうやら8時間以上も眠ったみたい。かなり疲れていたのだと思う。カーテンを開けると、外は真っ白。やはり夜中に降ったようだ。 こんな時間まで愛犬は大人しくしていた。妻はまだ眠っている気配。居間のファンヒーターを点け散歩に出かける。この気温だと零下のはず。所々で道路が凍っている。こんな朝は滑らないように注意が必要。帰宅後愛犬に餌を与え、朝食の準備にかかる。昨夜のすき焼きを温め直すだけだから簡単だ。 朝食中に妻あての電話。まだすっかり目が覚めない妻は、後で掛け直すからと言う。その旨相手に伝える。朝食後のフルーツはミカン1個と干し柿1個。130個も作った干し柿は、とうとうこれが最後になった。生で食べたのや渋抜きしたのも入れると、この秋以来食べた柿は100個近いと思う。干し過ぎてすっかり小さくなった自家製の干し柿だが、甘味が出てとても美味しかった。 朝食が済んだ頃に妻が起床し電話。どうやらその人が出来なくなった今日の仕事を、代わって引きうけたみたい。妻も代理を頼むことがあるため、ちょうど良かった由。新聞を読み終えると、自室、2階のトイレ、ガレージ、玄関の掃除。それから居間にパソコンを移動し、年賀状書きの準備をする。 自室だと寒くて手袋が必要だが、良く日の当たる居間は暖かいため、冬の仕事には最適だ。パソコン内の住所録と、五十音順に並べ直した喪中葉書を交互に見ながら作業開始。20枚ごとに区切って一言文章を書き加える。昼前に40枚分が完了し、近所のポストに投函。午後は60枚ほど。 投函する前に郵便受けを見たら、喪中葉書が来ていた。4番目の職場の麻雀仲間からだが、今月の11日にお父さんが亡くなったみたい。ちょうど書いたばかりの年賀状を抜き出した。一頃の半分ほどに減った年賀状だが、宛名を見ているうちにもう出さなくて良いかもと思い直すことがたまにある。逆にその人からは年賀状が来なくなっても出すこともある。これが結構神経を遣う。 私が現職時代に勤めたのは11か所。そのいずれもに年賀状を出してる人がいる。宛名を書いているうちに、ついその土地を思い出す。今日思い出したのは5番目の職場。何故だかかつての職場から先輩の自宅まで、川に沿って走りたくなった。「四国三郎」の異名がある吉野川だ。今日は約半分を書いて終了。残りは明日以降に続行の予定。 ブログは結局新シリーズに入らず仕舞い。その初回に予定している「大震災」は、とても片手間に書ける内容ではなく、先ず気になる年賀状を終わらそうとの判断だ。夕方「ビフォーアフター」の再放送を観た。モデルのユージが元不良仲間と一緒に庭作りに協力する話だが、これが実に面白い。来週放送の続編が楽しみ。夕食後ギンナンを炒った。明日は多分茶碗蒸しになるはず。
2011.12.17
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今朝はビニール袋を持って出勤した。バス停で降りると直ぐに活動開始。街路樹のイチョウの下を丹念に探す。つまり銀杏拾いだ。今までそんなことを考えてもみなかったのだが、先日落ちていた銀杏を見て、拾ってみようかと思い直した。朝の時間帯は人通りも少なく、振り返る人もいないので好都合。たちまち20個ほどビニール袋へ放り込んだ。 職場に着いてからビニール袋を縛り、さらに大き目の封筒に入れた。これで臭いが漏れる恐れは無くなった。問題はあの皮むきをどうするか。結局第2現場から「ガム剥がし」の金属片を持ち帰ることにした。ひょっとしてあれなら役に立ちそうと思ったのだ。もっと前だったら大きいのが拾えたかも知れないのが少々残念。 玄関ホールで立哨中に雪が降り出した。今日の最高気温は3度の予報だが、立哨に向かう時はまだ1度ほど。節電のため1階フロアの暖房が切られているため、余計寒さを感じる。仙台の初雪は既に数日前に降ったようだが、私が雪を見るのはこの日が初めて。やがて風も出て吹雪状態になる。いよいよ本格的な冬の到来だ。 第2現場での私の仕事は、モップでの拭き掃除。屋内の廊下はモップを堅く絞って拭き、屋外の通路はもう少し水を含ませて拭く。同僚はお湯を使って拭いているようだが、私は水道水。お湯に頼ると気持ちが緩むが、気合を入れれば水でも風邪をひくことはない。ただ屋外の掃き掃除では軍手をし、さらに寒いと感じたらジャンパーも羽織る。 勤務を終えバスで帰宅。ここ1週間以上、足が痛むため帰宅ランを休止中。その分バスカードの減り具合が早いが已むを得ない。昼食後、いよいよ銀杏の皮むき作業の開始。結局ゴム手袋をして、種を絞り出すことにした。これが一番確実で簡単だ。数えたら銀杏は18個だけ。それも大小不ぞろい。ポリのトレーに載せて乾かした。 明日からいよいよ年賀状を書き始めようと思う。今のところ、届いた喪中葉書は34枚。その分宛名書きが少なくて済みそうだ。年賀状書きは神経を遣う作業なので、気が抜けない。その上ブログは明日から、年末恒例のテーマに入る予定。この1年を振り返る特集だ。一応、大震災関係、健康、家庭菜園、ランニング、仕事、東北楽天、その他の趣味くらいに分けて書きたいと思う。 さて苦労した銀杏だが、今夜はすき焼きのため出番はないようだ。吹雪になった極寒の日。フーフー言いながらすき焼きを食べるのも悪くない。こうして今年も残り半月になった。最後に一句。 ふうふうと 夫婦葱食ふ 師走かな (ネギ) お粗末。
2011.12.16
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師走の淋しい庭陰にヒマラヤユキノシタの花が咲いた一体どうしたのだろう季節は既に冬だと言うのにシンビジウムが今年も花芽をつけた新しい株に一つそして古い株には三つもだがクンシランに花芽がつかないのは何故大震災が襲った三月津波は家々を飲み込み港は炎に包まれ 多くの「いのち」が奪われたあの日あれから俺の足は壊れ俺の視界は歪み俺の心臓は狂ったリズムのままでも妻は少しずつ落ち着きを取り戻した誰も帰って来ない子供達長女の部屋は温室代わり長男の部屋では私が眠り次男の部屋は妻のアトリエだ温室代わりの洋間は南向きこの一年俺達夫婦の目を楽しませてくれた植木鉢が今 薄い冬の日差しを浴びている例年になく見事な花を咲かせた野ボタンは茎の先端を切られて春を待ち艶やかだったハイビスカスは息を潜めて冬に耐えているあれだけの惨劇があったこの年我が家の柿は十五年目にして大豊作そして柚子は初めて三十近い実を結んだ俺も負けてはいられない例え足が壊れ 視界が歪みそして心臓が不規則な鼓動を打とうともこの足でこの目でこの心臓で俺はこれからも走り続けるこれまでもずっとそうだったように北風に葉を吹き飛ばされた樹木隙間風が吹き込む仮設住宅の被災者たちそして冷たい床がベッドのホームレスそれらに比べたら俺の傷みなど小さなもの冬はいかにも厳しいがそして生きることはさらに苦しいがそれでも負けてはいられないここに「こころ」がある限りここに「いのち」がある限り
2011.12.15
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まだかかとと膝が痛い。別段リング上で「かかと落とし」や「ニードロップ」を放った訳ではない。先週の前半、底の堅いシューズにシリコン製のインソールを入れて走ったのが痛みの原因。かかとは多分「足底筋膜炎」の痛みだろうし、膝は軟骨がすり減ったことによる「変形性膝関節症」の痛みだと思う。 整形外科へ行けば、どちらも注射1本で治ると思うのだが、未だに行かないのは様子を見ているため。その後症状は少し治まり、今は歩いてもさほど痛みが出なくなった。こんな状態で走るのは無謀。歳を取るとどうしても治りが遅い。「走れない辛さ」に耐えるのもランナーの修行の一つと、達観する余裕が大事。 走友会の忘年会があった夜私は酔っ払い、風呂に入らないまま眠った。翌朝風呂場を覗くとガスの「種火」が点いていたので消しておいた。だがその夜風呂に点火すると、スイッチが入らない。15年目なので故障した可能性が大。一晩中「種火」を点けたのが原因かも知れない。「だが待てよ。ひょっとして」。私は懐中電灯を持って風呂場の裏に廻った。 日中、その周囲の掃除をしたのだ。ガスの燃焼器と壁とのすき間に、大量の枯葉が溜まっていた。それを取り除く時にコンセントが抜けた可能性がある。だがちゃんと線は繋がっているようだ。翌日の午後仕事から帰り、直ぐに電気屋さんに電話した。ここは電気のみならず水道やガスの工事もしてくれる重宝な店なのだ。 生憎工事で出かけていたため用件だけ伝えた。念のため再度ガス燃焼器付近を確認すると、何と電気のコードがコンセントから外れているではないか。昨夜は暗くて良く見えなかったのだ。風呂はちゃんと点火した。15年目の故障でも、「種火」の点けっ放しも全く関係がなかった。急いで電気屋さんに連絡したのは言うまでもない。 昨日妻に頼まれ、近所の生協まで包丁を研ぎに行った。500円で包丁などを研いでくれる専用車が来る日のようだ。愛犬との散歩を兼ねて歩いて行った。だが駐車場にそんな車はいない。別の出店の人に聞くと、「先週はいましたよ」との返事。慌ててチラシを確認すると、会場は山の中腹にある生協だった。この日私と愛犬は、結局6kmを歩いたのである。 今朝も目覚ましで起床し、直ちにテレビのスイッチを点けた。だがいつもと様子が違う。4時半にアラームが鳴るはずなのに、時刻は5時10分。それから急ぎに急いで何とか出勤に間に合った。省略したのは新聞を読むのと、愛犬のウ○チの処理だけ。原因は目覚まし時計の故障以外にない。 そう言えば少し前にもセットした時間に鳴らないことがあったが、あの時はてっきり自分が間違って時計に触れたのが原因だとばかり思っていた。午後愛犬との散歩を兼ねて、近所の量販店まで買いに行く。結局今日も私と愛犬は6km歩いた。ちょっとした年末のドタバタ劇だが、この程度で済んでラッキー。明日はきっと気持ち良く起きれるはずだ。
2011.12.14
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3月の大震災から9カ月が経ちました。だが1万5千人以上の死者と4千人以上の行方不明者が出た今回の大震災の影響は、決して少なくありませんね。あれから復刻計画を発表した自治体が幾つかあります。住民の居住区を高台に移転させる案が目立ちました。路線をより安全な内陸部へ移動させた、鉄道の再建計画も一部出されました。さらに宮城県では、被害を受けた142の漁港のうち、60港を優先的に再建する案を公表しました。 いずれの案もいざ実行するとなると、なかなか困難だと思われます。それは個人の財産や生活と密接に関わりがあるためです。全ての財産を失った人が新しい地区へ移転し、自宅を再建するには最低3千万円の負担が必要みたいです。また、鉄道の路線移動の経費はだれが負担し、再建が遅れる漁港の補償は、一体誰がするのでしょう。 東京電力の補償金請求手続きはかなり簡素化されたようですが、風評被害などへの補償は今後も拡大すると思います。また大量の放射能汚染水の蓄積はほぼ限界で、海洋投棄が現実味を帯びて来ました。こうなると海の汚染がさらに深刻なものになりかねないし、休業中の福島の漁師達がいつまで漁を待つのか見通しが全く立たなくなります。 今回の震災で孤児になった子供は700人以上にのぼるようです。きっと心の傷の回復は容易ではないと思われます。そして宮城県の教師の30%は、震災後に「うつ状態」にあるとの調査結果も出ています。強制的に避難させられている福島原発付近の住民が、自分の家に帰宅出来る日はいつなのでしょう。30年後は遠いですよ。きっと生きては帰れない人もいるでしょうね。 今回の「東日本大震災」は千年に1度の規模との意見もありましたが、その後600年に1度と訂正した研究者もいます。政府の地震調査研究推進本部によれば、今後三陸沖北部から房総半島沖の日本海溝寄りでM9クラスの地震が起きる確率は30年以内で30%もあるようだし、宮城県沖でM7.3クラスの地震が起きる確率は、30年間で60%もあるようです。 この他にM7以上の規模の南関東地震、東海地震、東南海地震、南海地震が起きる確率も60%以上あるみたいなので、当分警戒が必要ですね。昨日と今日はあまり楽しくない話題になりましたが、どうか元気でお過ごしくださいね~。
2011.12.13
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アーケード街にはクリスマスソングが流れ、華やかな飾り付けがしてあります。そして地下道に下りると、広場のベンチ付近には大きな荷物。これはホームレスの人の持ち物ですが、姿は見えません。大震災発生で、彼らの身の上に何か変化があったのでしょうか。先日女性のホームレスが、身内らしい人と話をしていました。元は良い所のお嬢さんだったとの噂も聞きます。 足の悪い老人の姿を良く見かけます。きっと自分も足が痛いので、余計目につくのでしょう。あのお年寄り達は初めから足が悪かったわけではないのでしょうね。病気?それとも歳を取ると誰でもあんな風に足が不自由になるんだろうか。近所には建築中の老人ホームが2か所あります。少し前にも1つ出来ました。でも将来入るにも、お金が無いもんなあ。 先日テレビを観て気になったことがあります。N○Kの記者だったか、解説委員だったかが、総理のことを「さん」づけで呼んでいるんです。一国の総理を「さん」づけで呼ぶ心境が私には分かりません。「死の街」発言で辞めさせられた大臣や、良く内容を理解してなかったために、「問責決議」が可決された大臣もいます。「言葉狩り」の怖さを感じます。 女性週刊誌では、皇太子妃雅子さまに対する非難記事を特集するものもあるようです。彼女が「適応障害」で悩み、さらに愛子さまが通う小学校で「いじめ」まがいのことが起きたことも原因でしょうか。私は天皇制に賛成するものでもなく、天皇家の「万世一系」など信じてもいません。 でも、一個の人間として、雅子さまや愛子さまの尊厳やプライバシーは守られなければならないと考えます。ましてそれらが「廃太子論」などにつながるなどナンセンス。皇太子妃が男子を産まなかったからと言って非難される国が、どこにあるでしょうか。もしこれからも天皇制を維持するのであれば、やはり実態に即した「女性宮家」の創設の検討など、改革が必要だと思うのです。 最近はひたすら「勝ち組」になることしか考えない傾向が顕著です。マスコミも一般受けすることばかり考え、なかなかオピニオンリーダーになろうとしません。何故そんなに少数派になるのを恐れるのでしょう。マスコミに限らず、国民全体にこんな風潮が感じられてなりません。容易く迎合せず、堂々と自分の意見を述べる。そうじゃないと、いつまで経っても日本人は子供のままですよ。 そうそう、ちょっと怖かったのが高校生が刃物を持って女の子に切りつけた事件。自宅を調べたら刃物が20本近く見つかったと言うんでしょ。そしてそれを真似した事件が直ぐに起きましたよね。高校生が人を殺したくなる心境って、一体何なのでしょう。それからオリンピックで金メダルを取った柔道選手が指導中の未成年女子に酒を飲ませ、性犯罪を犯した事件にも驚きました。県民栄誉賞もはく奪とか。世も末ですね。
2011.12.12
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今朝、鏡の中には腫れぼったい顔の私がいました。昨夜は所属する走友会の忘年会。走友会の行事に参加したのは2月の新年会・総会以来だったので、久しぶりに会う仲間もいました。例年より参加者が少なかったのは、大震災などの影響があったためかも知れません。また、年末で忙しく参加出来なかった人もいたのでしょうね。 私はO川さんとM仙人の真ん中に座りました。M仙人とは何度か顔を合わせていたのですが、O川さんとは新年会以来の再会。4月から月の半分は気仙沼市で勤務すると言う新しい仕事に変わり、朝早くしか走れずレースにも出られない生活のようです。私は震災で大きな被害を受けた気仙沼の街の様子を聞きました。 それはいずれ気仙沼市から山越えで、岩手県一関市まで走ろうと思っているためです。案外元気そうなO川さんを見て少し安心した私でした。M仙人には来年1月の「勝田マラソン」に参加するかを尋ねました。もし参加するようであれば、車に便乗させてもらうためです。常磐線は目下、宮城県の亘理駅でストップしたまま。その先はレールが津波で流されたり、原発事故で通れない状況なのです。 F田会長の挨拶と乾杯の後、懇親会に突入。4千円の会費の割にはご馳走の山で、飲み物も潤沢にあります。でも酔いが回ると、そのご馳走にも手をつけなくなります。私が食べたのは刺身、生ガキ、海老フライ、お吸い物ぐらいで、大きな焼き魚やお握りなどは残してしまいました。各人の挨拶では何故か私がトップバッター。どうやら少し長めの時間を配慮してくれたようです。 津波で自宅を破壊された方とは初めての対面でした。S村さんは来年「佐渡島一周」に挑戦するみたいです。体調が良ければ私も参加したいのですが、200km超級のレースはもう無理でしょうね。Kさん、Y広さん、Eちゃんら女性陣も元気そうでした。私は福島県であったウルトラレースには3度とも出られませんでした。 挨拶終了後席に来たF田会長は、あの体調で私が沖縄まで走りに行ったことを心配していたそうです。家庭論も含めブログの話になりましたが、私は今後も出来るだけ「本音」で書きたいと思っているのです。K野さんら数人は、来週台湾のレースに出られるとか。何でも震災で援助してもらったお礼のようです。 75歳のK山長老は、まだフルを5時間10分ほどで完走出来る力があるようです。「全国1歳刻みランキング入り」も可能なタイムを維持しているのはさすがです。D堂長老に勧められるまま日本酒を飲んでいたら、かなり酔いました。散会後は歩いて帰宅。風呂にも入らず、セーターのまま布団に入ってバタンキューでした。 今日はゆっくり目の起床でしたが、愛犬との散歩、朝食に続いて庭の掃除、庭木の剪定、宅急便の発送、ベランダの掃除と働き通しましたよ。さて大震災の発生によって、この1年は走友達にも生活上の大きな変化があったことでしょう。我が家でもかなりの影響がありました。それでも何とか健康を得て、来年こそは良い年になって欲しいと願っています。走友達よ、また新年会で会いましょう。それまで元気でね~!!
2011.12.11
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今朝の仙台は初氷が張りました。暫く前には初雪が降ったとのニュースを聞きました。愛犬との散歩では、手がかじかんで冷たかったですよ。これから3か月ほどは、毎朝こんなことが続きます。でも太平洋側の仙台はまだ良い方。今日も青空が出て洗濯ものが干せますが、山の向こうの山形県ではかなりの雪が降ってるみたいです。 さて、「NAHAマラソン」の話を幾つか聞きました。このマラソンは12月の第1日曜日にあり、私にとっては師走恒例の行事なんですよね。(因みに12月の第2日曜日には、NAHAとは姉妹レースになるホノルルマラソンがあります)初フルがNAHAだったし、自己最高記録を出したのもここなので、私にとっては忘れられない大会です。 沖縄の走友であるらんふぉさんのブログでは、たくさんの仮装ランナーを見ました。宮城UMC仲間のT田さんは、毎回たくさんの写真をメールで送ってくれます。その他千葉のぼくしーさんや同じ走友会のK野さんやM子さんのブログからも楽しかったレースの様子が伝わりました。今年の古川組は何故かT田さん1人だけだったとか。それでも宮城から初参加の走友と会えたようで幸いでした。 私が「NAHA」に初めて出たのは平成元年の第5回大会ですから、もう22年前になります。その年に沖縄へ赴任したのです。本土とは景色も食べ物も気候も全く違う沖縄。東北人の私には、眩し過ぎて目が開けられないほどの明るさでした。その暑い沖縄で私が走り始めたのは、職場の走友会のお陰でした。 でも北国生まれの私にとって、気温26度の初マラソンは過酷以外の何ものでもなく、37km付近で猛烈な痙攣に襲われ、とうとう道端で倒れてしまったのです。筑波で30kmのレースに出たことはありましたが、40kmを越えるレースは初めて。しかも冬なのに26度の高温下。水や塩分の摂取が大切なことを、この時はまだ知らなかったのですよね。 5時間20分ほどでゴールした後も、物凄い痙攣に襲われて苦しみ抜いた初フル。あれが私のランニングの原点です。あれからフルとウルトラ合わせて出たレースは100回ほどになります。そのうちフルで途中リタイアしたレースが3回。疲労骨折の影響が残っていた頃、NAHAでも中間地点の摩文仁平和祈念公園でバスに乗ったことがありました。 第1回からずっと完走続けていた沖縄の走友が2人いますが、今年はどうだったのでしょう。まだ50代のTさんは楽勝だったと思いますが、私より1学年下のHさんはちょっと厳しかったんじゃないかと案じています。私も今の体調で6時間15分の制限をクリヤー出来るかどうか。たとえクリヤー出来ても、多分ギリギリになると思います。 12回も出ていて、今まで1度も雨に遭ってないのが不思議です。昔のコースから今のコースまで、ほとんど頭の中に残っているNAHA。今年は「沖縄本島単独一周」の最後の年で、11月に本部半島を一周したため参加出来なかったけど、来年は何とかしてNAHAに出たいと考えている私です。真っ青な海、美しい花々、そして暖かい沿道の大応援。そんな風景を思い出しながら。
2011.12.10
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先日、今シーズン初めて灯油を買いました。巡回車がなかなか廻って来ず心配してたのですが、何とかセーフでした。ふう~っ、やれやれ。仙台はこのところかなり寒くなりました。朝の最低は1度か2度。最高も8度以下の日が続きます。本格的な冬の到来ですね。畑の大根を1本抜いてみましたが、結構太く成長していました。仙台のお雑煮は、この大根が主役です。 少し前のこと、妻が「干し柿は6日干せば良いんだって」と言いました。「ええ~っ、渋柿でも?」と信じられない思いで聞いてました。それからまた暫くして、妻は同じことを私に言いました。「それじゃ本当なんだろう」。今度は私も信じたのです。ところがその数日後、「干し柿は2週間干すんだって」と妻。「前には6日間と言ったよ」と言うと、「絶対言ってない」と頑張るんですよね。 ある日いつものように走って帰宅すると、小銭入れが見当たりません。確かにリュックの中の毛糸の帽子に、財布と共に入れたはず。慌てて探したのですがどこにも無し。何気なくいつも奥場所を見ると、ちゃんと乗っていたんですよねえ。「変だなあ、さっきは見落としたんだろうか。それとも目が悪くなって、視覚欠損になったのかな」と考えました。「お父さん、人のことは言えないよ」と、早速妻の応酬でした。 8月の「薬莱山とお足」では勘違いして、皆より1時間早く2時にスタートした私。これは走り出して25km先で間違いに気付きました。そして11月の温泉行でもバスの発車時刻を勘違いし、それが間違いだったと気づいたのは、帰宅してメモを見た時でした。それもこれも老化の為せる業でしょう。こうして今年も1つ歳を取りました。 昨夜の何時頃か、玄関に入れている愛犬マックスが吠えました。幸い3度ほど吠えた後は鎮まったのですが、あれはきっと寝惚けていたのでしょうね。目も耳も弱り、私や妻が近づいても気づかないことが増えました。人間の歳に直せば69歳になった彼にも密かに老化が忍び寄っているのです。少し寒がりになった彼に、使い古しのバスタオルをプレゼントした私です。我が家の2人と1匹は、こんな風に暮らしています。 喪中葉書が今日も届きました。これで33枚目。そのうち本人が亡くなったのが5件。昨日はOさんの死を知りました。亨年80歳(亨年は慣行として数え年です)。一緒の職場になったことはなかったけど「業界」の大先輩で、高校の先輩でもありました。語学が堪能な優秀な人で、穏やかな人柄。あんな素晴らしい人も、いつかは天国に旅立つのですね。合掌。 今日届いたのは東京の麻雀仲間Kさんから。今年の8月に奥様が亡くなられたようです。道理で今年麻雀大会が開かれなかった訳ですね。長年連れ添った奥様を亡くされた心境はどうなのでしょう。奥様に先立たれると男は弱ると聞きます。元気で新年を迎えてくれると良いのですが。喪中葉書が増えると、年賀状が無駄になりますが仕方ありません。最近はこんなことが多くなりました。 ところで大変なニュースが飛び込んで来ました。来年の1月12日(木)から、BBS、メッセージ、「足あと」の機能がなくなるようです。これではブログ仲間とのコミュニケーションが不便になってしまいます。ひょっとしたら、他社のブログに切り替える人が出ても不思議ではありません。困ったもんです。さて、どうしたら良いか。
2011.12.09
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新しい路線でのバス通勤になって早や半年。車窓から見える風景にもずいぶん慣れて来ました。ただ困るのが体が前後に滑ること。何せ坂道の勾配がきついのですよね。でも私は始発から乗るため、いつも座れて助かっています。最近は朝が暗いため車中での読書がし難いけど、居眠り出来るのが良いかもね。 第1現場では遅番勤務に変更があり、12月から新らしい人が勤務しています。前の人は半年ほど「引継簿」に何も記入しなかったのですが、今は毎朝ノートを見るのが楽しみになりました。注意を守り人の意見を聞く。それでいて自分なりの工夫を怠らない。積極的で前向き。素直。これは良い相棒になりそうですね。 昨日のこと、第2現場で変な音が聞こえて来ました。まるで女性の悲鳴か、いびきのような音です。薄気味悪くて「一体何の音だろう」と思っていたら、どうやら地下鉄工事の音だったようです。地下を掘りながら、ビルへの連絡通路を作ってるようだけど、本当だろうか。この近所では駅の工事もしています。4年後の開通で、すっかり景色が変わるだろうね。 地下鉄工事と言えば、帰宅ランのコースでもやってます。終点の駅の新築工事や、周辺道路の拡張です。防音幕のすき間から様子が窺えるんですよ。少しずつ進む工事が何だか嬉しくて、4年後がとても楽しみ。一方、家の近くの道路工事はなかなか進みません。仙台市の財政が苦しいのは分けるけど、2kmくらいの工事がいつになったら完成するのかねえ。 昨夜のボクシングの試合、観ました? 例の亀田3兄弟ですよ。バンタム級チャンピオンの長兄興毅は4回KO勝ちで3度目の防衛。相手は12位なら勝つのは当たり前? 末弟の和毅はバンタム級7位でノンタイトル戦。7回KO勝ちだけど相手は22位。これも勝って当然かな。 次兄の大毅はスーパーフライ級7位で暫定王者とのタイトルマッチ。初回から最終ラウンドまで打ち合ったけど、相手の方が手数が多く、0-3の大差で判定負け。フライ級との2階級制覇はなりませんでした。攻めが単調なのが敗因かな。それにしても試合に先立つセレモニーでは、松井大阪府知事と橋下新大阪市長が予想外の国歌斉唱。あれは下手過ぎましたね。何故出たのかも不思議です。 12月も今日で8日目。クリスマスが近いので、気分転換にブログの背景を変えてみました。年末は忙しい上に、体調維持が大変です。まためっきり寒さも厳しくなりました。どうぞ読者の皆様も風邪などひかれませんようにね。
2011.12.08
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右足のかかと付近が痛い。それに膝の調子も良くない。きっと底の堅いシューズで走ったせいだと思う。念入りにシリコン製の医療用インソールを装着していた。それでなくても筋力の落ちた私の足が、その2つの堅さに耐えられなかったのだろう。淋しい話だが、よくもまあこんなに弱くなったものだ。 「NAHAマラソン」や「福岡国際マラソン」があった先日の日曜日に、我が走友会の仲間が「リレーマラソンin宮城」と言う大会に出たことをHPで知った。強風の荒れ狂ったあの日、私は一日中家の中に居た。だが走友達はあの風の中で必死に走っていたのだ。フルマラソンの距離を走って、タイムは3時間37分14秒。参加12チーム中9位の成績だったようだ。 仲間が出たのは男女混合の部だが、なんと平均年齢は参加チーム中最高齢だった由。メンバーは男子がK木さん、S村さん、Y田さん。そして女子はS木さん、Y広さん、T脇さん。後でK野さんも加わったようだ。女子のS木さんは確か72歳くらいのはずだが、彼女が駅伝に出て疾走するとは意外。その元気さに驚く。 元気なランナーと言えば、来年の「トランスヨーロッパ」に出る人達も凄い。3度目の来年は、デンマークのスカーゲンをスタートし、ゴールは地中海の入り口である英国領ジブラルタル。4132kmを64日間で走るため、1日の平均距離は64.6km。最短が44kmで、最長は83.3kmとのこと。 このレースに参加する日本人選手は18名。その中には「佐渡島一周」仲間のSパパやT内さん(ニセコさん)もいる。Sパパは私と同い年の68歳(来年の誕生日=以下同様)だが、第1回のリスボンーモスクワ(2003年:5036km)、第2回のイタリア・バリ~ノルウェイのノールカップ岬(2009年:4488km)のいずれも完走した強者だ。 18人の日本人選手の平均年齢は65歳で、一番若い選手は56歳のようだ。そして最高齢は男子が73歳で女子が70歳。まさに鉄人の集団と言うべきだろう。会期は8月19日(日)から10月21日(日)まで。バルト海から地中海までの景色はどう変わり、選手達の目を楽しませるのだろう。 私が走り始めたのは35歳の正月元旦からで、間もなく満32年になる。この間に走った距離(最近ではウォークの一部も入れているが)は、7万8千kmを越えた。1日平均だとわずか6.7kmだが、32年の間には、仕事や怪我で満足に走れなかった年もあった。思い起こすと遥かな道のりだ。このまま順調に行けば来年は地球2周(約8万km)に達するが、果たしてどうなるか。 そして昨夜、このブログが20万件ヒットを達成した。開設は2007年の5月27日。1日平均で121件のヒット。ブログ記入率は97.4%なので、日記を書かない日は年に9日ほどだ。楽天ブログの前にも「さるさる日記」や「ジオシティー」で書いており、通算では10年目になる。こちらも気の遠くなるような長さだが、ブログ仲間はじめ、来訪される皆さまに心から感謝したい。
2011.12.07
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帰宅ラン後は急いで着替えを済ませ、連続ドラマを観る。NHKの「カーネーション」だ。このドラマは大阪支局制作で10月から放送開始。「カーネーション」はストーリーに真実味があるため格別に面白い。それもそのはず、フィクションとされてはいるが、服飾デザイナーのコシノ・ヒロコ、コシノ・ジュンコ、コシノ・ミチコの「コシノ3姉妹」の母、小篠綾子の実話が下敷きなのだ。 ところは大阪府の岸和田で、時代は昭和の前半期。目下戦時中の話が進行している。主人公の小原糸子は洋裁師に憧れて女学校を中退。その後苦労を重ねながら洋裁の道にまい進する。当時は女性のほとんどが「着物」を着ていた時代。それに実家が呉服屋で父親が頑固者と来れば、糸子の苦労は推して知るべし。それでも糸子はくじけない。暗欝たる戦時下でも明るく生き抜く大阪の人々に感心する。 その前のドラマ「おひさま」も戦前から戦後にかけての話だった。だが描写が「薄っぺら」で、ほとんど共感を感じなかった。生活の実感が乏しく、善人ばかりできれいごと過ぎた。その点「カーネーション」は登場人物の喜怒哀楽がはっきりし、暮らしの実感がにじみ出ている。主人公役の尾野真千子は1981年生まれの30歳。数多くの映画やテレビドラマに出演し、幾つかの賞を受賞した新進気鋭の女優で、今後の展開がとても楽しみだ。 「坂の上の雲」の第3部が始まった。1年ぶりの放送のため前回までのあらすじを忘れてしまうが、四国松山出身の俳人正岡子規と軍人の秋山兄弟を軸に展開する壮大なストーリーだ。前回は日露戦争の場面で、旅順港に駐留するロシア軍攻略がメインだった。何故原作者の司馬遼太郎は、あの3人を主人公にし、何故戦争を小説の舞台にしたのだろう。 多分彼は、幕末の混乱を経て成立した明治時代に、日本人がどう生き、どう立ち向かったのかを描こうとしたのではないか。近代国家の仲間入りをするために、私達の父祖は自らの骨肉を削ったのだと思う。それにしても作者が描く歴史と人間像には、言いようのない魅力を感じる。そして後世の人間がどう評価しようが、その時代に後戻り出来ないのが歴史の定めだ。 韓国の歴史ドラマ「トンイ=同尹」は全部で60回の放送。日本の大河ドラマは長くても50回止まりだが、韓国では週2回=年100回の番組も珍しくないと言うから驚く。この「トンイ」もあらすじは知っているのだが、毎回変化に富み飽きずに観られる。きっと来年の6月まで、ハラハラのし通しだろう。韓国歴史ドラマ恐るべしだ。
2011.12.06
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この週末、土曜日は一日中雨で、日曜日は一日中強い風が吹いた。両日とも外へ出たのは愛犬との散歩だけで、後は部屋の掃除や年賀状の原稿を作っていた。今日も風が強い、西高東低の典型的な冬型の天気。低気圧は北海道の当方に去ったのだが、まだ影響が残っているようだ。その強風の中を走って帰った。底の堅いシューズに足が馴染めず、走ると痛いのが気がかりだ。 昨日の日曜日は「福岡国際マラソン」に惹きつけられた。ただ、あまりにもコマーシャルが多くて、ついチャンネルを変えたくなった。話題は市民ランナーの星で埼玉県職員の川内選手と、かつて箱根駅伝でならした今井選手(トヨタ自動車九州)の出場。そしてこのレースはロンドンオリンピックの代表選考がかかっている。 レースはペースメーカーが外れた25km地点で急展開。小森コーポレーションのダビリ選手(ケニア)が抜け出し、これを追ったのはNTNのムワンギ選手(ケニア)ただ1人。2人とも日本の実業団に所属しているが、招待選手ではなく一般参加でマラソンの経験も乏しい。今年の東京マラソンで日本人1位となった川内選手は20km過ぎに遅れ出し、連戦の疲れが心配された。 だが、37km辺りからスピードを上げ、ついに38km周辺で先行する今井選手と前田選手(九電工)を抜き去った。その後の川内選手と今井選手のデッドヒートは圧巻。最後は市民ランナーの川内がまたしても日本人1位の栄冠を勝ち取った。あれだけ苦しい表情をしながら最後まで全力を尽くし、ゴール後は倒れ込む姿にはいつも感動させられる。 何故練習量豊富な実業団選手が彼に勝てないのが不思議でならない。練習環境、練習量、練習の質、どれをとっても貧乏公務員の川内には勝てる要素がないはずなのに。これは精神力の違いかも知れない。全力を使い切って走るスタイルは、子供の頃からのようだ。今回のタイムはあまり良くないが、来年の「東京マラソン」にも再び出場するとはビックリ。 優勝したダビリ選手は高校2年から日本に留学し、在日11年目になるとのこと。今回が初マラソンで2時間7分36秒の記録は凄い。2位のムワンギ選手も自己記録を2分近く縮めての2時間8分38秒は立派。ケニア代表を目指す若手の2人がこの記録だから、ケニアの底力は恐ろしい。 この日は「NAHAマラソン」の日でもあった。ぼくし~さんのブログによれば、当日の気温は21度で走り易かったようだ。初参加のS田夫妻など多くの走友が、きっとレースを楽しんだと思う。そして次の日曜は「ホノルルマラソン」。先日第2現場で仕事中のH郷さんと偶然お会いしたら今年も参加する由。是非サブスリーを狙って欲しいと思う。 J1のベガルタ仙台は最終戦で勝利し、逆転で4位に浮上した。あの大震災でホームグラウンドが被害を受け、十分練習出来なかったことを思えば、この成績は見事と言うしかない。良くやったベガルタ仙台。これで国際試合に出場するチャンスもありそうだ。東北楽天には4年ぶりにフェルナンデス選手が帰って来る。何とかCS進出の推進力になって欲しいものだ。
2011.12.05
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< 雨の朝 > ネットで申し込んだ人には飲み物サービスの特典があった。妻はオレンジジュース、私は冷や酒を頼んだ。前回のホテルのような豪華な内容ではなかったが、刺身盛り合わせ、すき焼き、天ぷら、鮎の塩焼き、茶碗蒸しなどボリュームたっぷりの夕食で、ご飯はおひつごと。食後のデザートもあり、天ぷらは大半を残した。いや~、満腹満腹。 内装工事が終わり、館内はみぎれいになった。部屋へ戻ってニュースを観、バスにお湯を張る。これも天然の温泉だが、熱くなるまで出しっ放しにしておく必要がある。源泉が54度と低目のため、途中で温度が下がってしまうのだろう。かなり熱くなったところで妻が入浴。女湯よりも熱くて気持ち良かった由。続いて私も入ったが、結構熱いままだった。 室内の暖房が暑かったのに、夜中に目が覚めるとヒーターから出ていたのは冷風。同じ室内でも外の寒気が伝わる谷側の方が寒い。翌朝は5時過ぎに目が覚めたが、ヒーターから出るのはやはり涼風だけ。フロントへ連絡すると夜間は調整しているとのことで、ようやく6時頃から暖かくなった。 朝風呂へ行く。男湯は相変わらずお湯が熱く、十分に体を温めてから露天風呂に入る。外の景色を眺めようと立ち上がると、なにやら頭が冷たい。雨になったようだ。落葉した山の樹木がうっすら見える。風呂から上がり、誰もいない女湯のお湯に手を入れると、かなり温い。部屋に帰って妻に教えたが、妻はその温い女湯へ向かった。 朝食は8時からの案内。いつもは6時までに朝食を済ませる私には遅過ぎるが、ここはじっと我慢。ようやく8時になるのを待って、朝食の会場へ向かった。旅館の朝食らしい内容で、全部食べても太る心配はなさそう。デザートもあって十分満足。ただ雨で散歩が出来ないため、マイクロバスで麓のホテルまで送ってもらった。 宿のご主人の話によれば、温泉のある場所は標高600mほどで、通っている道は国道。若い頃は遠刈田まで走って往復したとか。9月まで旅館には石巻市の被災者12名が宿泊しており、1泊3食付き5千円のうち食費分1100円は、かなりきつかったそうだ。一緒に泊った家族連れのお婆ちゃんは、温い温泉が気に入ったみたい。 路線バスが発車するまで、ホテルのロビーで新聞を読んだ。ここは2週間前に泊った所。感じが良く内容が充実しているため、また来たい気持ちが強い。旅情を味わえる手頃な料金の温泉宿は、私達貧乏人にはとても嬉しいプレゼント。来年もまた県内の温泉巡りをしようと、妻と2人で話している。 帰宅すると、愛犬が喜んで迎えてくれた。昨夜は淋しさと寒さに耐えながら留守番をしてくれた彼。爪を研いだのか、千切れた段ボール紙が散乱している。大急ぎで雨の中を散歩。長時間我慢していたのか、オシッコの量が凄い。私達が帰って来たのでようやく安心したのだろう。雨の1日となった土曜日だった。
2011.12.04
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< 初めての温泉 > 我が家(と言っても妻と私の2人暮らしだが)は温泉が好きだ。旅行会社のバスツアーでは温泉に入れるかどうかが選択の重要なポイントになり、登山ツアーでもほとんど温泉入浴付きなのが嬉しい。今は無くなったが、バス会社の日帰り「温泉バス」も結構利用した。 昨年の暮れ、楽天ブログに安い温泉宿を紹介する会社の広告が載った。冷やかし半分に宮城県内の温泉を探してみると案外良い宿がある。料金も手頃だし、一度使って見ようと最初に選んだのが作並温泉の老舗旅館。ここは川の直ぐ横にある6つの岩風呂が何とも良い風情だった。次に選んだのが秋保温泉のホテル。ここは確か倒産したホテルを全国的な企業が買い取ったもので我が家からも近い。湯量が豊富だし、施設も悪くなかった。 3度目が先月行った遠刈田温泉。これはさる住宅メーカーの系列会社が経営するホテルで、温泉、施設、料理とすべてに満足出来た。ただし出だしから躓き、色んなトラブルに見舞われた。今回の宿泊先は青根温泉。どうも個人経営の旅館らしく、10人以上じゃないと仙台駅までは迎えに来ない由。 面白いことに路線バスの終点は先月利用したホテルで、そこまで旅館のマイクロバスが迎えに来てくれるとのこと。普通はホテルの敷地に他の旅館のマイクロバスが入るなんてことはないはずだが、ここは異例中の異例。前回はバスの発車時刻を間違えて失敗したため、今回はちゃんと時刻を覚えていた。 バスは結構乗客が多かった。全員全部温泉へ行くのかと思ったら途中の町でかなり降り、終点が近づく頃にはすっかり日が暮れた。待っていたマイクロバスに乗り込む。青根温泉はそこから15分ほどの山の上にあるようだ。青根温泉は私は初めてだが、妻は子供の頃に何度か泊ったことがある由。温泉には6つの宿があり、かつて古賀政男がこの温泉に泊り作曲にふけったことがある。 旅館に入ると様子がおかしい。何と地震で受けた被害個所の内装工事をしている由。でも、通された客室は清潔で気持ちが良い。夕食までの間、早速温泉へ入りに行く。誰もいない大浴場のお湯は少し熱いが、冷えた体が温まる。一方露天風呂は、外気が0度ほどのせいか温く感じた。ここに先客が1人。さっき私達を迎えに来てくれたマイクロバスの運転手さんだった。 肌をさするとツルツルした感触。さすがに冬の山上は寒く、慌てて大浴場へ入り直した。部屋へ戻ると妻が不満そう。どうやら女湯の方はお湯が温かった由。温めの風呂に入るのが好きなのだが、その彼女にとっても温過ぎたようだ。夕食会場の部屋へ行くと私達夫婦が1室。その隣の部屋にもう1組。今夜泊るのはどうやら2組の家族だけのようだ。<続く>
2011.12.03
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間もなく外出します。今夜は山の温泉へ1泊です。寒さはどうかな。そして温泉と料理はどうなのでしょう。そこは初めての温泉地なので、ちょっぴり期待しています。今夜は留守にします。そして愛犬は留守番です。では、また明日ね~!!
2011.12.02
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今日から12月。今年最後の月になった。今朝の気温は0度で初雪との予報もあったが、実際は違った。それでも寒風吹き荒れる寒い一日に変わりはなかった。強い風で、街路樹の葉が相当落ちた。そんな日の帰宅ランでも結構汗をかく私。そして少々寒いくらいが私には走り易い。 配達される新聞が今朝から変わった。前の新聞は17年間読んだだけに、とても見易かった。連載小説のストーリーがこれからどう展開するのか未練があるが、潔く諦めた。新しい新聞は字が小さく、活字の組み方が少し違う。それも次第に慣れて来ると思う。 ネットのブロバイダーが変わり、ホームページも変化した。今は多少戸惑いがあるが、直ぐに慣れるはず。変更の理由は料金の安さ。メールもこれまで通り使えると聞いて、迷わず変えた。2ヶ月後には払い戻しがある。これまでのブロバイダーへ支払う違約金などへの補償分らしい。新聞と違って手続きが多少面倒だが、年間にすれば数万円違う料金の差はあなどれない。 仕事の体制も変わった。第1現場で遅番勤務だった人が辞め、新しいメンバーが今日から勤務する。これまでの人と違って気心も分かり、趣味も共通なので、仕事もやり易くなるはず。一番期待しているのは、お互いの休暇を事前に調整出来ること。あまり気を遣わずに融通出来ると嬉しい。後数年の間、気持ち良く働きたいと願っている。 さて、11月は何とか200km以上走れた。ここ5カ月は100km台半ばだったし、8月はわずか83kmしか走れなかったことを思えば、夢のようだ。きっと気温が低くなり、走り易くなったせいだろうが、冬の間も何とか体調を維持し、このペースを保てたら嬉しい。昨日は迷った挙句、来年5月開催の「仙台国際ハーフ」の料金を振り込んだ。その時の体調がどうなるかは不明だが、先ずエントリーしないと物事は進まない。 マー君が「ベストナイン」に選出された。今季彼がもらった6つ目の勲章だ。あれだけの活躍をしたら当然とも言えるが、ご褒美はどんなものであれ嬉しい。塩見投手の新人賞落選は楽天ファンとしては残念の一語。大関昇進伝達式での稀勢の里が言った「大関の名を穢さぬよう精進します」はシンプルだが、彼の本心から出た言葉として重く受け止めたい。 それに反して、前沖縄防衛局長の言葉はとても残念で信じられない思いだ。沖縄県民が怒るのは当然。よくもあんな言葉が「オフレコ」でも出せるものだ。非常識以外の何ものでもない。何故あんな優越感が持てるのか、とても不思議。頭がどうかしてるとしか思えない。沖縄の人にはもっと腹を割って本音を話さないとダメだが、当分何を言っても聞いてはもらえないと思う。困ったことだ。≪ お断り ≫ 明日12月2日(金)は、午後から山の温泉へ1泊します。このためブログはお休みし、皆さまの所へも訪問することが出来ませんのでご了承を。
2011.12.01
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