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「血液のサラサラ度が下がってますね。良く手帳を読んでください」。先日病院に行った時、ドクターに言われた。手帳とは「抗凝血薬療法手帳」通称「ワーファリン手帳」のことだ。病院に行く日は毎回この手帳を持参している。採血し、検査後の血液のサラサラ度がこの手帳に書き込まれる。その値が8月をピークに、徐々に低下していた。 私の病名は心房細動。つまり不整脈だ。心臓の鼓動が一定でないため、血液が全身に送られる度合いはせいぜい80%くらいみたいだ。残りの20%は心房内で滞留したり、心室へ逆流しているとのこと。こうなると血栓が出来やすく、その血栓が血管を伝わって脳内に飛ぶと脳梗塞の原因になる。ドクターはそれを恐れているのだろう。 帰宅後、手帳をじっくり読んだ。ワーファリンの効き目を阻害するため、絶対に摂取してはいけない食品として上げられているのが、1)納豆 2)青汁 3)クロレラだ。この他ビタミンKを含むたくさんの食品が上げられているが、野菜に関しては禁止出来ないため、一度に大量に摂取しないこととされていた。 本来なら納豆や青汁やクロレラは体に良い食品。ところがビタミンKを多量に含むこれらは、何と血液を凝固させる働きが強いのだ。それも本来はとても大切な機能。何故ならそれらの働きで出血が速やかに停止するからだ。ところが厄介なことに、不整脈などでワーファリンを服用している場合は、逆にそれが脳梗塞の恐れにつながってしまう。 どうも私は勘違いしていたようだ。「納豆は大量に摂取しなければ問題ない」と、青年薬剤師から聞いていたため、週に3度ほどは食べていた。またレースでもらった青汁を、勿体ないからと言って飲んだことがあった。いずれも健康食品の代表みたいな存在。それで何の不信も抱かずに摂取していたのだ。 危ない危ない。もしあの時ドクターに言われなかったら、私はずっと納豆を食べ続けていたと思う。「少しなら悪くない。むしろ体には良い」と信じて。参考までにビタミンKの多い食品を上げてみると水分40%以上のものでは 1位納豆 2位パセリ 3位シソ 4位モロヘイヤ 5位アシタバ 6位バジル 7位カブの葉 8位オカヒジキ 9位ツルムラサキ 10位大根の葉 14位昆布の佃煮 となる。 また水分40%以下の食品では 1位抹茶粉 2位カットわかめ 3位煎茶の葉 4位わかめ 5位海苔 6位ヒジキ とあり、我が家ではかなり食卓に上る頻度が高く、かつ私の好きなものが多い。そして私はビタミンKとカリウムを混同していた形跡があるが、これらの食品にはかなりカリウムを含むものが多い。 ランニングは健康に良い。私はずっとそう信じて来たし、今でもそう思っている。ところが不整脈になったことで、ひょとしてこれまでの過激なウルトラマラソンが心臓に悪影響をもたらしたのではないかと疑い出した。前々から心電図を撮ると、ランナー特有の洞性徐脈が出ており、数年前にはそれとも違う異常な波形が出たこともあった。そんなことを思い合わせると、やはり私の心機能は少しずつ悲鳴を上げていたのではないか。 その他、走り過ぎによって足、膝、腰などを傷めるケースも多いと思う。加齢に伴い、それらの障害はさらに増え、悪化するとも思える。原因は筋力の低下や機能の劣化だ。よほど鍛えている人か元々頑丈な人は別として、ランナーの多くは老化と共に少しずつ弱って行く。中には私のように障害が突然現れることもある。 やはり無理と過信は禁物。人は歳と共に弱り衰える。それを頭の片隅に入れて、上手に対応することだ。そうすれば少しでも長くランニング生活を楽しめるのではないか。「手帳」にはアルコールと薬の関係についても書かれていたが、ドクターに晩酌のことを聞いても止められたことがない。あれは「ほどほどにやりなさい」と言う意味だろうか。そう思って、毎晩1杯の水割りを楽しんでいるのだが。≪ 11月のラン&ウォーク ≫ ラン回数:17回 ラン距離:203km ウォーク:99km 月間合計:302km 年間距離:3291km うちラン:1721km これまでの累計:77、971km
2011.11.30
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沖縄から帰宅すると、ベランダに干し柿が並んでいた。沖縄へ出かける前、私は妻と干し柿に関して論争したことがあった。だからそのことを気にして、私の留守中に作業を決行したのだろう。だが私は特段気にもしなかった。その前にさんざん柿を食べたからだ。例え残りの全てを干し柿にし、カビが生えて失敗しても、怒る気持ちはなかった。 昨年まで、我が家の柿は熟す前にほとんど落下した。残りの実も完熟に至らず、食べても美味しいとは言えない代物だった。そして干し柿にしてもただカビだらけになった。昨年までのイメージが強かったため干し柿作りに反対したのだが、今年は全然違って堅くかつ大きく育ち、ほとんど落下しなかった。 たわわに実った柿の木はとても見事だった。まだそれほど大きな木でもなく、枝も細い我家の甘柿。土は肥えているとは言えず、日当たりもさほど良くない。だが冬季の剪定と施肥のせいで、これまでにない大豊作となった。私は残りの柿をもいで、干し柿にした。ベランダにずらりと並んだ干し柿は全部で125個。 それまでに食べたものや余所に上げたものなどを加えたら、多分160個を越えたと思う。良くそれだけたくさんの実をつけて、柿の木が参らなかったものだ。きっとこの1年間で木がかなり強くなったのだと思う。今、干し柿は冷蔵庫の中。半分は冷凍し、残りは野菜室に入れ毎日食べている。来年はもっと上手に干し柿作りをしたいものだ。 ユズも15年目にして初めての収穫だった。実は小さく、味もユズ本来の香りが乏しい。それでも我が家にとっては待ちに待った収穫だった。これまで枝から採ったのは4個。まだ木に残っているのが25個ほど。全部で29個だが、これでも大収穫と言える。ユズも今年はかなり剪定し、肥料も施した。そして夏はかなり散水した。そんな努力が結実の原因だと思う。 白菜は23個。今は全体をビニール紐で縛っている。広がった葉が邪魔になって雨が当たらないためだ。折角の施肥も、水に融けないと栄養として吸収されない。今は内側から少しずつ結球が進んでいる。先日間引いたのをお浸しにしたが、軟らかくてとても美味だった。今後の成長を楽しみにしていたのだが、最近ヒヨドリが啄ばみに来始めた。思わぬ強敵の出現だ。 早朝にかなり冷え込む日が増えた。こんな日が続くと、寒さに弱いシュンギクは凍ってしまう。勿体ないのでせっせと食べているが、先日お浸しを食べたら嫌な味。何と葉の中に「カメムシ」が紛れ込んでいたのだ。今年はカメムシが大発生していると聞いたが、まさかこんな形でそれを確認するとは思わなかった。 遅れて種を播いた大根も、ようやく葉が立ち始めた。まだ葉が横に広がっているうちは根も細く、こんな風に形が変わると徐々に太り出す。今年は白菜を多めに播いたため、大根は25本ほど。まだ苗が小さかった頃は、シジミチョウの幼虫にずいぶん葉を食い荒らされたが、良くここまで育ってくれたと思う。 その他、チヂミ菜の成長が早く、今ではかなり葉が堅くなった。それでもコトコト煮れば食べられ、味噌汁の実などに重宝している。アシタバの葉がまだ青々としている一方、シソはとっくに枯れて、来年のために実をばら播いた。大部分の菊が枯れ始め、その代わりにサザンカが庭を彩っている。それらも間もなく冬の風景に変わるだろう。
2011.11.29
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足が痛い。昨日履いた新しいシューズのせいだ。底が軟らかいものを想定していたのに、届いたのは底が堅いもの。おまけに安かったのを良いことに、ネットで2足も注文してしまった。ここ1カ月ほど底の軟らかいシューズで、医療用インソールを入れずに走っていた。きっとそれに足が慣れてしまい、堅過ぎると感じたのだ。 今朝はシューズ本来のインソールを取って、医療用インソールに代えてみた。だが足を入れた途端に痛みを感じてしまった。医療用インソールの堅い凹凸が足に響くのだ。暫く我慢すればきっと慣れるはず。そう信じて帰宅ランを決行。やはり痛みは感じたが距離が短いため、何とか辛抱出来た。こんな風にランニングシューズをネットで注文した場合、たまに「外れる」危険性がある。 昨日の大阪ダブル選挙は、どうやら橋下氏率いる「維新の会」の圧勝に終わったようだ。勝因は個人的な人気だろうが、既成概念に捉われない行動力が魅力とも言える。人によっては好みも評価も分かれるだろう。それだけ彼は個性的だ。歯に衣着せぬ発言を快いと感じるか不快と感じるか。だが彼の唱える「大阪都」構想が、多くの人の共感を呼んだことも事実。 現実の社会にはあまりにも制約が多く、官僚はなべて保守的。そんな中で何のしがらみもない彼は、権力を恐れることなく突き進む。東京都の石原知事も応援に駆け付けたようだし、彼の当選後、自民党は「大阪都」構想の実現に必要な法改正に協力することを表明した。それもこれも彼の勢いを感じたからに他ならない。 本選挙前に国民新党の亀井氏による新党構想が明らかになった。橋下氏の「維新グループ」や石原都知事、「たちあがれ日本」などとの連携を目指すものだったが、橋下氏などは直ちに連携の考えを否定した。結局亀井氏の新党構想は、彼らの人気が頼りだったのだろう。今回の選挙結果で、従来の民主、自民を軸とした政治体制が見直される可能性も出て来たように思う。 さて、大相撲九州場所が昨日で終わった。横綱白鵬の9回目の全勝優勝の夢は千秋楽に破れたが、21回目の優勝は立派。新大関の琴奨菊の11勝はまあまあか。大関昇進に加えてご当地場所だったこともあり、稽古が十分とは言えなかったのだろう。稀勢の里の大関昇進もほぼ決まった感じ。負けた印象が悪かったが、師匠の急死と言う非常事態下での10勝は評価されて良い。 ロンドンオリンピックを目指す男子サッカーは、シリア相手にゲーム終了寸前に勝ち点3をゲット。プロゴルフの石川遼選手は2年連続の賞金王こそ逃しはしたが、目下3位は立派。ジャイアンツの元GMと親会社の新聞社社主との抗争は、どうやら法廷闘争にもつれ込んで泥沼化しそうな雰囲気。我家では来月から別な新聞に切り替える。これが本件に関する審判だ。
2011.11.28
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昨日も今日も、いつもの時間に目が覚めた。目ざましをセットしていたわけではないが、無意識のうちに起きたようだ。だがテレビを点けたまま、7時近くまで再び眠った。電気代が無駄にはなったが、睡眠時間が十分に取れて良かったと思う。それにしても今朝はビビった。目が覚めた一瞬、仕事に行く日と勘違いしたのだ。 「温泉事件」以来、幾つか家事を手伝っている。洗濯物や布団の取り込み、玄関などの掃き掃除、自室の掃除、風呂の掃除などはこれまでもしていたが、年末にかけての大掃除の中で、妻が気になっていることを手伝うのだ。先週は2階のレースのカーテンを全部取り外し、洗濯後は再び取りつけた。こんな面倒なことは本来大嫌いなのだが、実際にしてみて大変な作業だと分かった。 2階のトイレ掃除もした。ここは私しか使わないので、掃除するのは当然とも感じた。こんな作業をすると、「手伝う」のではなく「分担する」のが正しい表現とも思える。今週末は、それらの仕事に加えて、書斎の掃除、床や階段の拭き掃除もしたし、自室のテレビの裏側なども丁寧に掃除機をかけた。 建坪43坪の家に住むのは妻と私の2人だけ。子供達も同居すると考えて建てた家だが、誰も一緒に住まないと掃除に手間がかかる。やはり妻1人では到底無理だと感じた。今日は妻のお供で買い物に行った。妻が買い物をしている間に、私がお歳暮を贈る手続きをし、買い物が済んだ後は家まで持ち帰る係。 妻は昨夜も遅くまで台所の片づけをしていたようだ。不用品も少しずつ整理し捨てているようだが、私が見た所まだまだありそうだ。私の予定だと12月初めに年賀状の原稿を作り、年賀状を書き終えてからようやく大掃除に入るのだが、妻の大掃除は相当前から始まることが初めて分かった。今回掃除を分担したせいか、妻の機嫌はすこぶる良い。まあ、それだけでも収穫があったかも。 昨日、ある人のブログを読んでビックリ。「東京マラソン」、「大阪マラソン」、「神戸マラソン」と立て続けに当選していたのは知っていたが、何と今回は「京都マラソン」にも当選した由。恐るべき幸運の持ち主だが、その確率は天文学的数字になると思う。出来ればその運の一部をお裾分けして欲しいと思った。 その願いが通じたのか、今日何気なく「仙台国際ハーフマラソン」のHPを観たら、何と応募者全員が当選と書いてあった。さらに2次募集もしているようだ。まさか自分が当選すると思ってなかったので少し慌てた。制限時間の問題も大きいが、それ以上に心臓の手術が気がかり。果たして手術することになるか、そしてその時期がいつになるかのか。 今日は午後から近所の公園へ走りに行った。新しいシューズの履き心地を確かめる意味もあった。やはり胸が苦しくてスピードは出ず、シューズの底が堅いせいで足の裏に痛みが生じた。それでも走れるだけでも有難く、贅沢を言っちゃ申し訳ない。あるがままの姿で、あるがままに走る。これが老ランナーの心得だろう。風が冷たく感じ、1時間半走って公園を後にした。
2011.11.27
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いやはや参りました。今日は女房から頼まれた用事をさっさと済ませ、ブログを書き出したのですよね。自分では午前中に書き終え、午後は走りに行くつもりでした。それが間もなく終わる頃になって、2時間以上かかって書いた文章が突然消えてしまったんです。原因は自分の操作ミスではなく、楽天ブログのシステムに問題があると思うんですけどね。 こんなことが1カ月に1度は起きます。私と同じ経験をした人が他にもいるみたいで、たまにそのことに触れた文章を読むことがあります。実に困ったもんです。腹立たしいです。息を詰めて書いた文章が、何かのはずみで消えるのは悲しいです。時間が無駄になり、また同じことを書く勇気が湧かなくなります。 まあ自分が一生懸命書いたからと言って、それを読んだ人が面白いかどうかは別です。却って案外不評かも知れません。何故なら息を詰めて書いた文章なんてのは、真面目すぎてつまらないからです。そう言う意味では全く別な内容を、別な角度から、別な文体で書き直した方が良いのかもしれません。いつもなら同じテーマで直ぐに書き直しするんですけどね。 ガックリついでに最近ガックリしたことを書きましょう。それは「京都マラソン」の落選通知です。「東京マラソン」が6年連続抽選漏れだったことは既に書きましたが、楽しみにしていた「京都」までが落選とはねえ。何だかなあ?。因みに5年連続で「東京」に当選していた走友が、今回は初めて落選した由。だからと言って「抽選は公平」なんて思いませんよ~。 「東京」の場合10万円を寄付すると、特別枠で走れる制度があります。またボランティアに応募したり、協賛のレースに幾つか参加すると当選のポイントが上がるような感じも受けます。来年が第1回開催の「京都」でもボランティア募集があり、旅行会社からの宿泊予約の早めの案内がありました。ひょっとしてそれに乗ったら、ポイントが上がったんでしょうかね。 私はそこまでして走ろうとは思わないし、むしろ「邪道」と感じます。正々堂々申し込んで落選なら仕方がない。でもやっぱり落選は悲しいです。「不運なボクちゃん」は後何年間続くのでしょうか。 最後に「お口直し」の意味で、我らがマー君の「ゴールデングローブ賞」受賞について記します。ご存知の通り、今季彼は最高勝利数、最高勝率、最高防御率を勝ち取り、沢村賞も受賞しました。それに加えてのゴールデングローブ賞ですから、投手部門のほぼ完全制覇達成ですね。来年はKスタでの開幕試合開催も決定しているので、楽天ファンはきっと大いに盛り上がることでしょう。
2011.11.26
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めっきり寒くなった。今朝の通勤バスでは運転手の直ぐ後の席に座ったのだが、窓から吹き込む風が冷たかった。それでもいつも通り居眠りしたのは、多分疲れていたからだろう。昨日「ランナーズ」の1月号を買った。付録についてる「ランナーズダイアリー」が欲しかったためだが、気になる記事が載っていた。 それは「ランニングと心臓トラブル」に関するもので、レース中の事故を防ぐための注意が、不整脈に苦しむ私の目を引いた。私の場合は心房細動だが、心室細動ともなると「死」につながる大事故にもなりかねないようだ。レース当日に行いたい心臓トラブル危険度チェックとして挙げられていたのが、以下の8項目。 1)前日良く眠れなかった 2)朝食を食べなかった 3)異常に喉が渇く 4)身体がだるい 5)下痢をしている 6)心臓がドキドキ、気分がイライラする 7)平時で脈拍が1分間に90以上ある 8)胸が痛い、締め付けられる。このうち1つでも該当する場合はペースを落とす、またはレース自体の自重が必要で、これに高温多湿、無風などの気象条件が加わると、心臓トラブルの危険度はさらに増すので要注意とある。 今日は病院へ行った。ドクターによれば、先月の血液検査の結果は、やはり肝機能に異常値がある由。念のため次回はB型肝炎とC型肝炎の検査をすることになった。不整脈を抑える薬はさらに体調が悪化するため服用を中止し、胃腸薬も不調の時しか服用していないことを告げると、ドクターは了解してくれた。その代わり一度専門病院で診察を受け、手術の是非について判断してもらうことを勧められた。 私も望んでいることではあるが、今後勤務の都合や家の都合を勘案して決めたいと返答。これにもドクターは理解を示してくれた。まだ半年しか通院していないが、徐々にドクターと信頼関係が築けて来たのが嬉しい。来年のレースも既に幾つかエントリー済みだが、我がブロークンハートの行方はどうなるか。 夕食時に妻が言うには、人間ドックで腎機能などに異常値が出たため再検査した結果、B型肝炎とC型肝炎の検査を勧められたとか。んんん?これって偶然の一致? それとも何か因果関係があるの~? 一喜一憂している訳ではないが、人間の体って実に不思議だねえ。
2011.11.25
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勤労感謝の日の昨日、美術館と博物館へ行った。未曽有の大震災があった今年、例年デパートで開催される美術展が中止になった。出展する画家も、主催者側もそれどころではなかったのだろう。だから、そんな状況下で開かれた美術展や博物館の特別展は、私達市民にとって文化に触れるとても貴重な機会になったと思う。 開館30周年を迎えた宮城県美術館で開催されていたのが「フェルメールからのラブレター展」。フェルメール(1632-1675)は17世紀のオランダを代表する画家。同時代の同国の画家にレンブラント(1609-1669)がいるが、彼の時代は東インド会社が繁栄したことで活気があった。だが、フェルメールが活躍する頃にはその勢いも衰え始めたようだ。 フェルメールの作品はとても少なく、わずか30点しか知られてない由。そのうちの3点が仙台へやって来た。「手紙を読む青衣の女」がアムステルダム国立美術館(オランダ)から、「手紙を書く女と召使い」がアイルランド・ナショナルギャラリーから、そして「手紙を書く女」がワシントン・ナショナルギャラリーから。 いずれも「手紙」がテーマになっているのが不思議だが、当時のオランダはヨーロッパの中で最も識字率が高く、郵便制度も整っていたそうだ。この他同時代のオランダの画家の作品40点が展示されていたが、市民の生活ぶりが窺えて面白かった。フェルメールが寡作の画家だったため、盗難や贋作が出回ると言うほど貴重な作品は、観客が多くて少し観辛かったのが残念。 開館50周年記念で「仏のかたち 人のすがた」特別展を開催していたのが仙台市博物館。ここでは陸奥国分寺など仙台ゆかりの仏像と、伊達藩の歴代藩主の肖像画などが陳列されていた。この中には東北で最古の仏像と目される菩薩立像(奈良~平安初期:十八夜観世音堂)や、日頃は拝観出来ない貴重なものが多く、郷土の歴史と文化を理解する貴重な機会だった。 中でも伊達政宗の正室である愛姫(めごひめ:田村氏:陽徳院)や、政宗と愛姫の長女五郎八姫(いろはひめ:天麟院)の座像は共に尼僧姿で、第三代藩主綱宗が早世した兄光宗の肖像画を自ら描いているのも珍しい。 古い時代から私達の祖先が信仰の対象として来た仏像。そして伊達家に伝わる書画など、人々が心の拠り所として来たそれらは、単なる「もの」ではないことを感じた。また、博物館の一角には県内の博物館が「東日本大震災」で被災した際の写真が展示され、今回の震災の凄まじさを改めて痛感させられた。2つの施設で4時間ほど観覧したため、最後はかなりバテた。忙しい日々を過ごしているが、時には心にも栄養が必要と感じた次第。
2011.11.24
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昨日はウルトラマラソン愛好家の集まりである、宮城UMCの忘年会だった。先日の温泉行ではバスの時刻を誤解し失敗したため、2日ほど前からテーブルの上にメモを置いた。お陰で忘れることはなかったが、朝の目覚ましが鳴らずに朝食抜きでの出勤になった。現場のデスクでお握りを食べたのは初めてのこと。それでもいつも通り、帰宅ランは決行出来た。 忘年会は18時半からなのでブログを更新する時間は十分にあり、愛犬との散歩もいつも通りに出来た。(朝の散歩は妻に代行してもらったが)忘年会の場所は分かっている。時間に間に合うようバスに乗り、駅から歩いて会場へ向かった。仲間は8割方集まっていた。9月の「秋田内陸」以来の人が圧倒的に多いが、1年ぶりの人もいる。 先ず会費を払い、挨拶代わりに手を挙げ、何人かとは短い挨拶。席はS原さんの隣にした。10月の「伊南川ウルトラ遠足」の話を聞きたかったためだ。そして空いた左隣には仙台明走会のT内さんが座った。彼は私のブログの熱心な読者の一人で、偶然なことに私とは誕生日が一緒(生年はかなり違うけど)なのが嬉しい。 出席者が揃った所で会長の挨拶と乾杯。待たされた分、皆さんピッチが速い。G島さんがIフォーンで「神戸マラソン」の写真を見せてくれた。S原さんからは「伊南川」の情報や練習方法などを聞き出す。彼は「伊南川」がウルトラの初完走だった。良く高低差が1300m以上もあるレースを完走出来たと感心したが、ほとんど毎日のように山道を走っているのだとか。 T内さんは私のブログの感想を話してくれた。これが執筆者には何よりも励みになって嬉しい。毎日2時間ほどかけて4千文字ほど書いているが、歴史的な内容だと調査も含め3時間かかる。また、取り上げる話題にも苦しんでいるのが本当の所。それだけ大変なら止めれば良さそうなものだが、私にとっては日課なのだ。 T内さんは私が毎年実行している単独マラニックを一緒に走りたい由。私は相当遅いので辛抱出来るかどうか。またブログへの書き込みもしたいそうだが、こちらは大いに歓迎したい。2人からは仕事のことも聞いた。その間に飲み物がビールから焼酎に変わり、最後はS原さんの趣向に合わせて冷や酒に。 各人の挨拶が始まった。今年出たレースの感想や来年の抱負など色々。中には外国のレースに出場した人もいたし、全国各地のレースを連破した猛者もいた。私は今年1度もウルトラレースを完走しておらず、練習で走った自宅からJR福島駅までの80kmが最長距離だった。「沖縄本島単独一周」の後は何をするのか聞かれたが、答えは「峠越え」。 走ってみたい峠がまだ幾つかあるし、東北の国道を北へ南へと走りたい。出来れば100kmレースにも1度は参加したいが、その時の体調が問題だ。K村さんは私に「Aちゃんは不整脈にビビってる」と言う。彼女は看護師だが、私の症状を詳しく知っている訳ではない。 「沖縄」や「峠越え」を1人で走るくらいだからビビることはないが、制限時間があるレースは無理と諦めていることも確か。そんなことより同学年の彼女が頑張って、ウルトラレースを完走したことを喜んでいる。最近は早足で歩く練習をしているそうだ。S田夫妻からは揃って入会するとの表明があった。若い人が増えると活気が出て良い。 家では夕食時に焼酎の水割りを1杯だけ飲むが、それでも酔うことが多い。この日はその10倍ほど飲んだのではないか。お開きになり、古川組が帰ったことにも全く気付かなかった。それだけ酔っていたのだが、ちゃんとバスで帰宅し風呂にも入った。今回はO川さんやY田さんと会えず残念だったが、走友会の忘年会で会えるのを楽しみにしている。
2011.11.23
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不思議な戦いだった。激しさより静けさを感じた今年の日本シリーズだった。2対1のゲームが4試合もあり、第6戦まではアウェーで勝つゲームが続いた。決着がついたのは第7戦。ようやくソフトバンクがホームゲームで勝った。 投打ともに前評判が高かったのはソフトバンク。何しろ良いピッチャーが多く、打線も強力だった。パリーグの公式戦では、得点差が200点以上あったようだ。一方の中日は得点差がほとんど無かった由。接戦をものにしたゲームが多かった何よりの証拠だろう。それにしては最後まで良く頑張ったと思う。 この試合が落合監督にとって最後の試合になった。地味、無愛想、俺流。監督を任された8年間で、一度もBクラスに落ちたことはなかったのに、何故か不人気だったと言う彼。年俸は4億円を超えていた由。まあこれだけの成績を残せば、それくらいもらってもおかしくは無い。 プロ野球は「勝ってなんぼ」の世界。たとえ不人気だろうが、実績こそが全てだと思う。「俺流」の一体どこが問題なのか。球団の首脳部やファンに迎合しないことが、それほど悪いことなのか。穏便さや事無かれ主義が横行する世間で、自分の信念を貫き通すことが悪いとは到底思えない。東北人の私には、同じ東北出身の落合監督の心情が非常に良く理解出来る。 一方、ソフトバンクの秋山監督には爽やかさを感じた。西武からダイエーへ選手として移籍し、引退後は王監督の後を引き継いだ。彼にとってもここ数年は、臥薪嘗胆の道のりだったに違いない。実力のある選手が揃いながら、チームには「和」を感じた。優勝後のビール掛けに、孫オーナーが選手に混じってはしゃぐ姿が、それを如実に表していた。 だが、ジャイアンツの醜態は解せない。球団代表がオーナー企業のトップを名指しで非難する表明を、管轄の文部科学省で行うという異常事態。渡辺社主が反論すれば、清武GMもさらに応酬し、結局は力づくでその座から引きずり下ろされた。あれは単なる権力争いなのか、それとも正義の戦いなのか。いずれにせよ今回の影響は長引き、今後も深刻な状況から脱せないように思う。 原監督の甥である菅野選手の日ハム入り拒否問題も、案外その延長上にあるように感じる。つまり金満球団ジャイアンツの弊害だ。かつては野球少年の憧れだった名門も、巨額資金で主力選手を買い漁るだけの企業になり下がった。他の球団なら4番クラスの選手がウジャウジャ。これでは出場機会の少ない選手がFAで他球団に飛び出すのは当然だと思う。 我が楽天では、田中マー君が見事「沢村賞」を受賞した。同じく受賞の資格を備えたダルビッシュ投手は選外となり、父親が会見で苦情を表明する場面もあった。長年楽天を引っ張って来た岩隈投手の大リーグ移行も、山崎選手の古巣中日復帰も実現しそう。そして、新人王に楽天の塩見投手が選ばれたらこれ以上の喜びはない。 ファンの心を熱くしたプロ野球も、いよいよこれからは「ストーブリーグ」入り。横浜ベイスターズの身売り問題など、今後どんな動きがあるのか注目だ。そして一ファンとして、来シーズンも爽やかで熱いゲームを心から期待している。
2011.11.22
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< 妻の言い分 > 朝風呂へ行くと大浴場は全くの無人。最初に露天風呂へ入る。外はかなり冷え込んでいるが、お湯の温度は高い。内湯にも入ってから部屋へ戻った。「お父さん、話があるんだけど」。妻がこんな感じで迫る時には、大抵ろくなことはない。だが前日の様子からしても、ここは聞くしかないだろう。「何?」。 堰を切ったように話す妻。「お父さんと話す時は我慢の限度を超えた時なの」。「お父さんは何かを頼んでも良い顔しないし、直ぐにやってくれない」。「他の家では旦那さんが色んなことを手伝ってる」。「大掃除は今から始めてるけど、もっと手伝って欲しい」。「私の体調の悪い時は「声掛け」して欲しい」。「食器のゆすぎ方が雑」などなど。 自分としては結構家事を手伝ってる積りだし、他の家のご主人がそれほど手伝っているようにも思えない。妻はホームヘルパー。「そんなに大変なら仕事を辞めたら」と言うと、仕事を辞めても家の仕事の半分は私にやって欲しいと妻。出来れば一緒に料理を作って欲しいそうだ。 私は朝も昼も自分で用意して食べ、時々自室も掃除する。反論する材料は山ほどあるが、少しだけにした。話すだけ話すと妻は朝風呂へ行った。前日からの様子だと、きっと寝不足で体調が悪かったのだと思う。こんな時はどうしても物事を悪いように解釈するのが妻の習性だ。だが風呂から帰ると妻の態度が変わった。「胸の内」をぶちまけて、気持ちが少し治まったのだろう。 部屋の窓から見える蔵王連峰を、妻は初めて眺めた。尖がった2つの峰は「烏帽子岳」。それは妻が描いた油絵とは、少し違った角度だった。2人揃って朝食に行く。私は和食を選び、妻はパンをメインに選んだ。どれも薄味でヘルシーで、心が籠っていた。朝風呂と美味しい朝食のお陰で妻の体調も戻ったようだ。 お土産を買い、記念撮影も済ませた。ホテルの送迎バスは11時発車のため、最後にもう一度大浴場へ行った。年賀状に使う積りでバスの運転手に撮ってもらった写真は、結局ちゃんと写ってなかった。「庭のユズでも撮ったら?」私の提案に妻は頷いた。バスの車窓から、白い雪を被った蔵王が見えた。それを振り返りながら妻が言った。「お父さん、また来ようね」。終わり良ければ全て良し。私は笑って頷いた。<完>
2011.11.21
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< 夕食と温泉とワイン > 夕食の献立は 1)冷やしうーめんのとろろ仕立て 2)アワビの陶板焼き 3)イカ、サーモン、マグロの刺身 4)秋野菜炊き合わせ 5)ニシンの焼きもの 6)エビの天ぷら 7)野菜のずんだ和え 8)エビと長芋の蒸しもの 9)仙台麩の空也蒸し 10)タラバガニの味噌汁 11)ハラコご飯(イクラと鮭) 12)果物(リンゴ、わらび餅) 3)から8)までは箱膳のような容器に盛り付けされ、とても彩りがきれい。8分ほど遅れて妻もテーブルに就き夕食の始まり。だが何だか微妙な雰囲気なので、アルコール類は遠慮した。料理の味は最高級。真心が籠ったものだった。量も申し分なく、バランスも良い。しかも結構ヘルシーに感じた。夕食の内容に、妻の態度も徐々に軟化したと思ったのだが。 部屋へ戻ると、妻は隅っこに布団を敷き出した。私も自分の布団を離して敷いた。やがて係の人が部屋に来て、シーツなどを敷いてくれた。妻は大浴場へ行き、戻るまで私は部屋でテレビを観ながら待ち、妻と入れ替わりに大浴場へ。大きな内湯が1つ。そして露天風呂が2つ。露天風呂の周辺には淡雪。さすがは郊外の高地と思ったら、それは播かれた白い小石。夜目には白雪そっくりだったのだが。 温泉は全て源泉かけ流しで、お湯の温度も心地良い。内湯は少し硫黄の臭いがした。その後、サウナと水風呂に各3回。サウナは3分から5分で十分だし、水風呂は冷たくて1分も入れば十分。長く入らず繰り返すことが血行を良くすると思う。あれだけ満足な内容の夕食だったにも関わらず、体重が減っていたことに喜ぶ。 ここの温泉地には45年ほど前に1度だけ泊ったことがある。道路沿いの木造の大きな旅館だった。また、走友会の練習会でも町営の温泉で汗を流したが、とてもお湯の温度が高いのに驚いた。「泉質証明書」を見たら、やはり源泉は85度ほどの高温で、効能は確か神経痛、筋肉痛、胃腸病などに効くみたい。 部屋に戻ると妻は新聞などを読んでいて、読むものがなくなるとやがて眠った。部屋の照明を消し、私は応接室のソファーに座って女子バレーボールの対アメリカ戦を観戦。これがなかなかの熱戦で好試合。温泉に入った体はいつまでも暖かく、冷えたワインがとても美味しい。不快なことを一切忘れ、日本チームの完勝に酔いしれた私だった。 妻がその後に目覚めて部屋の照明を点けたことは覚えているが、酔いもあってそのまま眠った。夜中に涼しく感じて目覚めると空調は止まり、私は浴衣のまま布団を蹴飛ばして寝ていた。慌てて布団に潜り込み、再び朝まで眠った。<続く>
2011.11.20
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< ゴタゴタ続きの出発 > 何かが狂っていた。前日から様子のおかしかった妻だった。そんなことが少し気になりながらも、温泉へ行く当日を迎えた。私は出来るだけ早く帰宅するために、この日は自転車で出勤した。朝はかなり寒いが帰る時間には暖かくなる。そして必死にペダルを踏めば汗もかく。自宅近くまで来た時、妻が愛犬と散歩するのに出会った。これで少し時間が稼げた。 昼食も摂らず、駅方面へのバスに乗る。だが妻は離れた座席に座った。駅前で降り、ホテルの送迎コーナーへ向かう。「これじゃない?」妻の声に、そのバスに乗った。直ぐに運転手がバスを発車させた。だが、どうも様子が違う。私達は南へ向かうはずなのに、何故かバスは北へ向かって走るのだ。 思い切って運転手さんに尋ねた。「このバスはどこへ行くのですか?」。「泉のホテルです」。「ええっ、蔵王じゃないんですか?」。「名前が似てるんで間違えたんですね」。何と言うことだ。全然違うホテルのバスに私達は乗ったのだ。しかし、何故運転手は名前も確認しなかったのだろう。その前に、私も行き先を確かめなかったのが悪かったのだが。 駅前に戻って路線バスの乗り場を探した。見つからず、案内所まで聞きに行った。教えてもらった乗り場は私も先刻確かめた場所。だが、私達の行き先はメインの柱には書いておらず、小さな案内板に書かれているだけだった。ホテルに電話し、送迎バスに乗れなかったため路線バスで行くと伝えた。フロントの女性はとても感じ良く対応してくれた。 発車時間まで1時間近くあったためデパートに入った。体調が悪そうな妻のために、どこか休める場所に行こうと誘ったが妻は返事をしない。仕方なく自分だけで上の階に上がり、椅子に座って本を読んでいた。発車時刻より早めに乗り場に行くと、妻の表情がおかしい。既に皆はバスに乗り込んだと言う。 バスは発車寸前の雰囲気。慌てて運転手に扉を開けてもらった。どこへ行くのか運転手が聞くので、「終点の◎◎ホテル」と告げると、このバスで間違いはなかった。だが、私の記憶していた時刻より13分ほど発車時間が早い。それが私の記憶違いだったことは、ずいぶん後になって分かった。 温泉に行く前から、今日は何故こんなに狂ってしまったのだろう。このバスでも、一緒の座席に座ろうとしない妻。バスのコースは一部通った道路もあったが、初めて通る道も。驚いたのは昨年マウンテンバイクで訪ねた「旧笹谷街道の四方峠」付近へ出たこと。なるほどこんな道を急行バスが通っていたのか。 バスを降りる時にも私は運転手に文句を言った。まだ勘違いに気づいてなかったのだ。そんなゴタゴタにも関わらずホテルは立派で、従業員の態度には好感が持てた。案内された部屋も気持ち良く、インターネットで申し込んだ料金の割には夕食の内容も最高。だが、夕食の席へなかなか姿を見せない妻。一体妻は何に怒っているのだろう。<続く>
2011.11.19
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日本シリーズで好試合が続いているせいか、少々寝不足気味だ。寒気団の南下で、一気に寒さが到来した仙台。今朝はビルの屋上から雪を被った山々が見えた。「ボジョレ・ヌーボー」も解禁になったし、昨日は郵便局で年賀はがきを買って来た。こうして今年も足早に年末が近づく。 喪中葉書が少し前から届くようになった。家族の逝去で年頭の挨拶を遠慮する旨の断りだが、中には知人本人が逝去された報せもあった。静岡のOさんは、4番目の職場の頃の研修仲間。定年後は社会保険士の資格を取り、自分で事務所を開いた勉強家だった。亨年75歳。差出人は奥様だった。合掌。 茨城のYさんは4番目の職場の同僚。歳は彼女が1学年上だが、職場では私の方が先輩だった。ご主人は東大卒の秀才だが、何故かアルコール依存症。だからご主人が亡くなるまで、彼女の苦労も絶えなかったはず。自宅までタケノコをもらいに行ったことを思い出す。亨年70歳。差出人は娘さんだった。合掌。 今年は私と同学年の芸能人が亡くなっている。渋い二枚目俳優の竹脇無我然り。和泉雅子と「二人の銀座」をデュエットしていた山内賢然り。無論会ったことも口を利いたこともないのだが、同学年の死には何やら考えさせられるものがある。高橋英樹や杉良太郎も同学年だが、こちらはまだ元気に活躍中。 沖縄から帰った数日後、職場の同僚が辞表を出したと聞いた。彼も私と同学年だが、腰を傷めて以前から不調だったみたい。辞職の意志表示は私の方が1カ月早かったのだが、同僚は急遽今月末で辞めることになった。きっとそれだけ体調が悪かったのだろう。この騒動で、私の辞職は棚上げになった。2人が同時に辞めると会社としても困るためだ。 沖縄へ行った夜から、不整脈の薬を飲んでいない。それでも何ら問題なく、むしろ体調が良くなった感じ。そのこともあって今回の辞職は取り下げたが、私の体調に併せ第2現場の方はいつ辞めても良いことになった。これで午前中の通院にも支障が無くなった。 辞める同僚の後任に、ある人を推薦した。その人から直接「働きたい」と聞いていたからだ。上司に伝えたところとんとん拍子に面接となり、採用が決まった。そして実務に就く前の研修日程も決まり、本人も安堵したようだ。今回の人事が、私にとっても新しい出発になると思う。これまでよりも良い人間関係が築けるはずだからだ。 これで病気と戦う勇気が増した。どうせなら警備員勤務5年の表彰も受けたいし、入社10年の表彰も受けたい。今後はより一層仕事に励み、体調を考えながらランニングを楽しみたいと思う。そんな訳で、俺はまだまだ頑張るぞ~!!≪ お断り ≫ 明日(11月18日(金))は、午後から温泉へ出かけます。このためブログの更新と仲間への来訪は困難となりますのでご了解くださいませ~。
2011.11.17
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< あれから・・ > 沖縄の本部半島を走ったあの日。ピンクのフヨウが美しく咲き乱れ、セミが煩いほど鳴いていた。あれから12日。仙台では北風が吹き荒れる季節になった。それにしても沖縄の変貌には驚いた。沖縄振興予算で、大学院大学の新設、国立工業高専の誕生、離島との間の架橋、道路の拡張と整備などが次々に進められ、すっかり様相が違っていたからだ。だから言う訳ではないが、国土防衛についての関心が沖縄県民の間にもう少し高まっても良いように思うのだが。 帰宅した日、体重は2kg増え、体脂肪率は6%減っていた。沖縄で増えた体重は、4日間でようやく元に戻った。減った体脂肪は約4kgだが、これも徐々に戻りつつある。さて、今回走った距離を精査すると、当初の計画は57kmだった。予定になかった古宇利島一周分の4km、オランダ墓往復分が2km、今帰仁城内の散策と最初の迷子で1km。計7kmが増えた分。逆に減ったのが瀬底大橋往復分の1km。差し引き63km走ったことになる。 第1年次(2008年7月)の「西海岸縦断」が3日間で140km。第2年次(2009年11月)の「東海岸縦断」が2日間で150km。第3年次(2010年12月)の「知念半島一周」プラスNAHAマラソンが2日間で74km。そして今回が63kmを1日で。合計8日間で427km走った計算だ。 もし過去の記録を読みたい方は、先ずこのページの一番下まで行き、「一覧」をクリック。次に「もっと読む」をクリックし、出て来た「過去の年月」(上記のカッコ内参照)をクリックすると見られるので参考まで。 今回の走り旅で、念願だった「沖縄本島単独一周」の夢は果たせた。この他にも走りたい場所はたくさんあるが、夢は夢として取って置くのも良いと思う。また走らないまでも行きたい島はある。イリオモテヤマネコの住む西表島や、最南端の波照間島、台湾との国境に近い与那国島など先島諸島だ。これは死ぬまでに何とか実現したいと思っている。 さて余談だが、那覇の書店で買った2冊の本が一時「行方不明」になったのには驚きもし、大層悲しかった。私は滅多に物を無くすことはないのだ。最終的に見つけた場所は玄関。何と帰宅した日に予備のシューズをスポーツバッグから取り出す際、邪魔になるためそこに置いたのをすっかり忘れ、てっきり妻の荷物とばかり思っていたのだ。 「絵で解る琉球王国 ~歴史と人物~」、大城立裕著「小説琉球処分」がその本。私の勘違いが原因で思わぬ騒動を引き起こしてしまったこの2冊の本を、いつから読めるか楽しみだ。そして我が妻をも、いつかはあの美しい南の島へ連れて行きたいと心から願っている私だ。<完>
2011.11.16
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< 那覇の街で > 急行バスは主に東海岸の高速道路を走るが、各駅停車は西海岸の国道58号線をひたすら南下し、見える景色が全く異なる。まあ往きと帰りとではコースが違った方が楽しいし、地名の勉強にもなる。だが、いつの間にか疲れて眠り、起きたのは嘉手納だった。ここにはかつて巨大なロータリーがおかれ米国式の通行マナーが罷り通っていたが、現在ではすっかり日本式に改められている。 幾つもの町を通り過ぎ、那覇の中心部でバスを降りた。到着した日に乗った急行バスもそうだが、2年前に比べて400円から500円料金が値上げされていた。久茂地から平和通りの市場まで歩く。そしてM菓子店へ。ここは沖縄に来た都度立ち寄る店。楚洲(そす)出身の小母さんに会うのが楽しみなのだ。 だが、小母さんは休みでいなかった。代わりに40代の女性が対応してくれたが、私の名前をちゃんと覚えていたのには驚いた。彼女とは昨年初めて会っただけなのだ。家と職場へのお土産にクンペン20個とナントウ1枚を購入。クンペンはピーナツがたくさん入った中国渡来の月餅に似たお菓子で、ナントウは月桃の葉にくるまれた沖縄らしい餅で、「ゆべし」や「ウイロウ」に食感が似ている。 若い小母さんはこれに大福を2個おまけしてくれた。いつもは立ち寄る沖縄料理の「花笠食堂」へ行かず、モノレールの美栄橋駅方面に向かって歩く。国際通りの直ぐ近くに沖縄そばの店があったので入った。初めての店だ。ソーキそばが700円だが、「替え玉」が110円と言うのが気に入った。沖縄そばの替え玉も初めての経験。 夫婦で切り盛りしてる店のようで、今回は本部半島を一周して4年がかりで「沖縄本島一周」を達成したことを話すと驚く夫婦。宮城県出身の知り合いも数人いて、大震災の前に仙台へも行った由。屋我地島でハブの死骸を見たと言うと、あの島がハブの生息地であることや、お兄さんが島の病院に勤務していることも教えてくれた。 ええっ、ちょっと待てよ。島の病院と言ったら、私が最初に迷子になったあの病院しかないはず。これは奇遇だ。巨大なハブが恩納村の豚舎で捕まった話もこの店主から聞いた。2m45cmと言えば我家の天井の高さよりもっと長く、太さも相当のはず。確かにハブは怖くて嫌だが、ネズミを捕食することを考えたら益獣とも言える。 不整脈で苦しみながらのランだったことを話すと、店主は自分も「ペースメーカー」を埋めていると教えてくれた。感じの良い夫婦のそば屋が気に入り、「また来ます」と言って店を出た。外は雨。大きな本屋を発見し、思わず入る。店頭に沖縄関係出版物がずらり。手に取ってパラパラページをめくると、どの本も買いたくなる。そのうちの2冊だけ買ってバッグへ入れた。 空港では少し待ったが、全然苦にならない。大事業を達成した今、ぼんやり時を過ごすのも楽しいもの。帰路の機内から見えたのは、中城湾の一部、勝連半島、宜野座村の海岸、辺戸岬周辺、そして伊平屋島。これらはすべて沖縄で、以下鹿児島県の与論島、沖永良部島、徳之島、加計呂間島と奄美大島、悪石島、種子島。それらも雲に隠れて一部しか見えなかった。 屋久島は海岸線のごく一部だけ。この後は白い雲の中に隠れ、仙台空港に降り立つまで一切観ることが出来なかった。仙台空港に着いた途端、私の名を呼ぶ声。同じ走友会のS目さんが、沖縄の友人を迎えに来ていたのだ。無事本島一周を達成したこと、ハブの死骸に出遭ったことなどを手短に話したが、これもまた奇遇だった。何故なら彼も私と同様に、沖縄で勤務した経験の持ち主なのだ。<続く>
2011.11.15
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< 深夜の沖縄そば > ようやく国道58号線との合流点まで来た。右手に21世紀の森運動公園が現れる。ここが日本ハムのキャンプ地だ。時刻は20時30分を過ぎてるが、走ってるランナーが結構いる。そのうちの1人に「NAHAマラソンの練習?」と聞いてみた。「NAHAも出るけど、その1週間前の県体育大会に向けての練習です」との答え。 特徴のある名護市役所前を通過。かなりゴールは近い。先ほどの青年が折り返しながら挨拶してくれたのが嬉しい。20時54分ホテル前に到着。結局歩いたのは4、5kmほどだと思う。何とか本部半島を一周し、「沖縄本島単独一周」を達成することが出来た。コンビニで買い物を済ませてからホテルへ戻った。早速バスにお湯を張る。 歯を磨こうとしたら再び吐き気。相当疲労が激しく、夕食用に買った沖縄そばのカップ麺も受け付けない。先ず風呂に入って汗を流し、股擦れした個所にワセリンを塗った。入浴して寛いだせいか、徐々に体調が戻って来た。味噌汁を飲み、ミカンを食べ、最後に恐る恐るオリオンビールを飲んでみた。大丈夫、吐き気は何とか治まったようだ。 本当は20時までに戻って譜久原恒勇の特集番組を観たかったのだが、残念ながら既に放送は終わっていた。彼は「芭蕉布」、「ふるさとの雨」、「なんた浜」などの美しい曲を作った沖縄を代表する音楽家だ。スポーツニュースを観て22時頃に眠ったが、夜中の2時過ぎには目が覚めた。 ステテコがピンク色に染まっている。擦り傷からの出血と浸出液が混じったのだ。傷はかなり乾き、少しはマシな状態になっていた。興奮と空腹で眠れないため、カップ麺にお湯を注ぐ。真夜中に沖縄そばとは不思議な図だが、これもまた良い思い出。大量の発汗でミネラル分を失った身体には、汁の一滴すら貴重だった。 朝7時、ホテルのレストランで朝食。無料のため期待してなかったのだが、とても充実した内容に驚く。緑とピンクの野菜の名を聞くと「はんだま」とのこと。30cmほどの高さで、沖縄では家の庭に植えるポピュラーな野菜で、アントシアニンが豊富とか。金沢の地元野菜の「金時草」(きんじそう)にも似た感じ。 部屋へ戻ると、窓から名護湾と本部半島が見えた。昨夜は真っ暗な道を必死に歩いた。その上に聳える八重岳は、沖縄で最も早く桜の花が開花することで有名。例年1月中旬には「さくら祭り」が開催されている。今回2泊したこのホテル。西海岸縦断では2泊し、東海岸縦断でも1泊しているが、多分再び泊ることはないだろう。 ホテルからロードレーサーで出かけた若夫婦は、ぴしっとスタイルが決まっていたが、あの後雨は大丈夫だったろうか。チェックアウトを済ませ、バス停へ向かう。那覇へ行くおばあの娘さんのご主人は福島出身で、その父親に「沖縄で一緒に暮らしたら」と勧めても、山奥で1人暮らしをしてるとか。急行バスに乗るおばあと別れ、私は各駅停車へ乗った。<続く>
2011.11.14
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< 極度の疲労と暗い道 > 暫く走ると海洋博記念公園の美しい人工ビーチが見え出した。16時30分、公園の中央ゲート前通過。間もなく閉園時間か、たくさんのタクシーが客待ちしている。私はこの公園に3度来たことがある。1度は家族と一緒に遊びに来、後の2回はマラソン。この公園を発着する「海洋博トリムマラソン」だ。 「トリムマラソン」は速さを競うのではなく、事前に申告したタイムに最も近かった人が優勝するというルールで、私が出たのは20kmの部。コースは渡久地港を経て瀬底島を一周して帰るのだが、結構アップダウンがあった。当時を思い出しながら走ったが、道路は見違えるほど良くなり様子が変わっていた。 周囲の食堂は軒並み閉鎖。観光ツアー客は他に食事場所が決まっているのだ。新しい道路は渡久地港には寄らずに海の上を直進。これで2kmは短縮したはず。前方に瀬底大橋と瀬底島。島へはマラソンを含めて3度渡っている。 ある時、島の浜辺で山羊の頭がい骨を見つけ、ビックリしたことがあった。沖縄では山羊は精がつく食べ物。きっと島の人が解体したのだろう。当初は橋を往復する予定だったが、景色を脳裏に焼き付けるだけに留めて前進。 夕暮れが迫り、海の向こうに扁平な水納島(みんなじま)が霞む。17時15分、本部町のコンビニで買い物。店の外でアイスとサンドウィッチを食べ、牛乳とシークワーサージュースを飲んだ。本当はあんパンが食べたかったのだが残念。17時35分スタート。 その後、国道ではなく本部港への道を進む。後で思えば200mほどしか距離は違わないのだが、急に心細くなった。本部港へはかつて那覇から本土へのフェリーも寄港したが、今は素通りで伊江島行きのフェリーしか出ていないみたい。間もなく4車線に拡張されしかも極力直線の国道と合流。 日が落ちると街灯がないため、道路は真っ暗状態。山際を走るとハブが出て来そうで怖い。餌がないため、彼らが道路へ出ることはないと信じるしかない。車のライトとわずかな月明かりだけが頼りのラン。だがランパンのゴムが股に擦れ、汗が染みて猛烈に痛む。18時25分「塩川」前を通過。ここは地中の塩分が湧き水に溶けて出る不思議な泉が地名の起り。 小さな突端を過ぎると名護湾沿いに明かりが見え出す。ところがこれが曲者で、距離感が狂う原因。疲れたランナーは湾曲した海岸線でなく、直線で距離を測ってしまうためだ。おまけに速度が極端に落ちているため、さらに距離感が狂う。集落のない道路には、当然のことだが自販機もない。フラフラになりながら遥か彼方の明かりを心の支えにして前進。 もう名護市内に入っている。安和(あわ)も山入端(やまなは)も過ぎた感じ。先刻自分のホテルと思った明かりは、ずいぶん手前のリゾートホテル。ガッカリしてさらにスピードが落ちた。20時2分、宇茂佐集落到着。疲れと吐き気でとうとう走れなくなった。自販機で暖かいミルクコーヒーを買い、騙し騙し飲む。 この集落は沖縄勤務時に一緒だったOさんの故郷。琉球王朝時代は武士(さむれー)だったOさんの先祖は「琉球処分」の結果無禄となり、都落ちしてこの地で農業を始めたと聞いた。想像していたよりは遥かに都会的で、現在は人家も多そうだ。だが名護市街までがやけに遠い。ここからは真っ暗な道をテクテク歩いた。それにしても、ゴールの我がホテルはまだなのか。<続く>
2011.11.13
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< ゆんたく=おしゃべり > 強い日差しを避けるため、極力日影のある歩道を走る。間もなく本部町に入った。駅伝を応援していた集落の人が、私にどこから来たのかと尋ねる。「宮城県から来て、今日は本部半島を一周してる」と答えた。さらに3月の地震で妻の精神状態がおかしくなり、自分も不整脈になったことを告げると、「沖縄に引っ越したら良いよ」との慰め。うちなんちゅ(沖縄人)のゆんたく(おしゃべり)は屈託がない。 14時40分「沖縄そば」と書かれた旗を発見し、店に入る。個人商店ではなく「田空の駅」と言う道の駅で、昨年出来たばかりの新しい建物。豚のスペアリブが入った「ソーキそば」を注文すると、おばあが「食事は終わったよ」と言う。「ええっ、まだ3時前なのに」と嘆きつつ、思わず「楽しみにしてたんだけどなあ」と言うと、「ちょっと待って」とおばあ。 どうやらソーキが一つだけ残ってることを思い出したようだ。3人のおばあは昼食を摂るところだったみたい。ほぼ食べ物が売り切れたのは本当だと思う。そばにはソーキが4つとかまぼこが2切れ入っていた。漬物もついてデージ(かなり)上等。喜んで食べていると、1人のおばあが私に「高校生か、中学生か」と聞く。 こんな白髪頭の中高生がいるはずないが、きっとランニングスタイルなので誤解したのだろう。中学生の駅伝大会が翌日あるらしい。駅伝は元々島の中部で行っていたが、交通事情が厳しくなり本部半島にコースを変更した由。結果的にここでそばを食べたのは大正解。次に食べ物を口に出来たのは3時間後だったからだ。 本部半島一周道路から逸れ、備瀬崎方面に向かう。15時42分に着いた本部半島最北端の浜辺はとても美しく、岬の先の小島には灯台があった。目の前には伊江島のタッチュウ。寺院の塔頭(たっちゅう)が変化し、沖縄では尖がった岩山の意味で使われ、頂上には城もある。第2次世界大戦では、米国の従軍記者アーニーパイルがこの島で戦死している。 浜辺で休んでいると関西弁が聞こえて来た。こんなところに内地の人が2人もいるのに驚き、思わず会話に参加。1人は「かりゆしシャツ」を着た愛媛出身の人で、半年前からここのペンションで暮らしている由。もう1人は淡路島から旅行に来た青年。2つほど地名を言うと愛媛出身の男が驚く。どうやら彼の出身地だったようだ。青年には「大鳴門橋」を渡り初めした際の話をしたが、まだ生れてなかったみたい。 スポーツドリンクを飲みながら「味噌汁の素」を舐める。これが暑さに負けないための秘訣なのだ。16時ちょうど、海岸に沿って走り出す。備瀬の集落には見事なフクギ並木。沖縄でも有数の防風林で、フクギ並木見学用の馬車まで準備されていた。この樹皮から黄色い染料が取れ、著名な染色である紅型(びんがた)にも用いられる。<続く>
2011.11.12
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< 今帰仁城と博物館 > メモを書き終え、お握り1個と魚肉ソーセージを半分だけ食べた。まだ体調は良くない。入場券(400円)を買い、城の入口に向かう。その手前の店で1杯300円のサトウキビジュースを飲んだ。青臭いかと思ったが案外爽やかで美味しい。店主が黒砂糖をお湯で割ったのをくれたのでこれも試飲。お陰で体調が戻った感じ。 ここに来たのは3度目。いつ観ても立派な城だ。他の城と違うのは石の色。同じ石灰岩でも青黒くて堅いため、風格を感じる。また入口の平郎門が防御用に出来てるのも特徴だ。合計で6つの廓があり、このうち御内原には神に祈願する御嶽があった。一番奥の志慶真門まで行って引き返す。帰りはわざわざ旧道を通った。これが本来の道で、築城当時の雰囲気が残っている。 世界遺産に登録されてから、城と周囲の整備が急速に進んだ感じ。ついでに「今帰仁村歴史文化センター」も観覧。意外にも立派な施設で驚いた。城が出来る前の遺跡と出土品、今帰仁城からの出土品、琉球王朝時代の宗教制度と古い墓、戦前の村の様子などがテーマ毎に陳列。私が狂喜する内容だった。 ランの途中で観た「オランダ墓」や、電照菊畑で聞こうとした「百按司(ももじゃな)墓」の説明もあった。百按司墓は北山王国を滅ぼした中山王国の監視役である貴族の墓で、1500年代のものが7基あるようだ。東大理学部が戦前に発掘し、人骨を持ち去っていることは知っていたが、木棺が漆塗りの立派なものであることは初耳。 これらとは別に「大北(うふにし)墓」と言うのが、運天港の近辺にあるようだ。1700年代に今帰仁城付近から移設された按司(あじ)の墓とか。城の麓には、かつてかなり広い水田があったことも初耳。現在の沖縄本島には、ほとんど水田がないのだ。また古宇利島はじめ、沖縄本島と周囲の離島間に烽火のネットワーク体制が敷かれていたことも驚きだった。 これだけ収穫があるとは意外で、一遍に長年抱いていた謎が解けた。お握り1個とソーセージの残りを食べ、14時03分スタート。ここで2時間以上休んだことになる。坂を下る途中に月桃の葉をちぎって匂いを嗅ぐ。私はこの匂いがとても好きで、古宇利島でも葉をちぎった。国道に下りると男子の高校駅伝選手が走っていた。 トップはコザ高校で、北山高校は2位だったはず。ビリの方の選手が長袖を着ていたのにはビックリ。30度近くで長袖を着てては勝てない。これで「暑さ対策」の積りなのだろうが、私には狂気の沙汰としか思えなかった。翌日の新聞によれば、男子の参加校は23チームのはず。<続く>
2011.11.11
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< 高校駅伝と老ランナー > ワルミ大橋へ向かう途中、自販機でレモンティー購入。冷たいレモンティーが何とも美味い。それにしても「ワルミ」の意味は何だろう。周辺にこのような地名がないことは、朝乗ったタクシーの運転手に聞いた。それで「割れ目」の変化ではないかと考えた。つまり屋我地島と沖縄本島の間の海峡が「割れ目」だ。 橋から覗くと水深は結構あるようで、紺色の海水だった。その奥に運天港と古宇利島が見えた。港は風を防げ、大型船も入港が可能な好条件の位置。昔から交通の要衝だったことが頷けた。橋を渡り終えると今帰仁村(なきじんそん)。電照菊畑の前で、10人ほどの奥さんが手を振ってくれた。私も手を振り返す。まさか私が本土からわざわざ走りに来たなんて思っても見ないだろう。 照明を当てて、開花の時期をコントロールするのが電照菊の栽培方法。きっと花の少ない時期に本土へ出荷すると、高く売れるのだと思う。通過した後で、周辺の「百按司墓」について尋ねなかったことを後悔した。だが果たして彼女らが、古い墓のことを知っていたかどうか。ともあれ新しい橋のお陰で、初めてのコースを走ることが出来た。 村の中心部まで来ると、どうも様子が変。スタッフの人に聞くと、「高校駅伝」の県予選みたい。女子は間もなくゴールし、その後男子がスタートする由。道理で人が集まっているわけだ。道路脇でロープに短いビニール紐を結んでいる人達がいた。何の作業か聞くと、あーさの種付け用とか。あーさはアオサで、沖縄では良く食べる海藻だ。 私の姿を見て笑い声が上がる。その観衆の好奇心をパワーに変えて前進。間もなく先頭グループ。トップはコザ高校。次いで名護高校。地元北山(ほくざん)高校は3位。それにしても参加チームが少ない。10チームくらいと思ったが翌朝の新聞によれば13チーム。そして下位のチームとの差が大きい。暑い沖縄での駅伝は、余りにも条件が悪過ぎる。 話は変わるが、14世紀の沖縄本島には3国が鼎立していた。北の北山王国、中央の中山王国、そして南部の南山王国だ。3つの王国はそれぞれ中国と貿易していた。やがて中山によって全島が統一され、北山と南山は滅ぶ。北山高校は誇り高き祖先の名を校名に戴いたのだ。その本拠地である今帰仁城への坂道を登る。 初めは走って登れていたが、最後はトボトボ歩くだけ。11時50分、ようやく城の入口に到着。走り始めてから既に5時間半ほどが経過し、疲労と空腹の限界に達していた。無料休憩所の椅子に座って大休止。唸りながらメモしていると、外国人が私を振り返り、ランナーだと分かって安心したようだ。外は激しいスコールになった。<続く>
2011.11.10
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< 謎のオランダ墓 > この島ではセミが鳴いていない代わりに、何種類かの蝶々を見かけた。島の北側は畑で、植えられていたのはカボチャ、サトウキビ、紅イモ。レストランや休憩所や宿泊施設は30個所ほどあったが、その大部分は既に閉鎖された感じ。まず立地が悪く、施設も貧弱。メニューの「海ブドウ丼」や「イセエビ」は、漁期との関係から一年を通じて提供するのは難しいはず。何よりも島が小さ過ぎて、休まずに通過する車が多いと思う。 戻ったものの橋がない。真下からだと角度の関係で橋が見えないのだ。橋の上到着は8時56分。一周するのに約1時間かかったが、坂道のため案外距離があったのかも知れない。10kmほど海上を隔てた大宜味村辺りに、光が差している。最北端の辺戸(へど)岬は雲の中か。風が強く、2kmの橋を21分かかって渡る。屋我地島の海岸に8つの岩。 分岐点からワルミ大橋方面に右折。橋へ登る坂道の途中に「オランダ墓」の標識。ここで疲労感に襲われた。朝食から4時間半、走り始めてからでも3時間半が経っている。この暑さの中では疲れが出ない方がおかしい。道端に腰掛けてマドレーヌと煎餅を食べ、味噌汁の素を口にする。 通りかかったお婆さんに「オランダ墓」のことを尋ねると、「オランダ人の墓だよ。ここから近いよ」との返事。今行かないと二度と見れないだろう。そう思って道を下った。500mほど行くと小さな港。案内板はないものの、その右側にそれらしい雰囲気の小道。途中にお墓のようなものがあるが説明はない。どんどん進むと、突端にそれらしい岩。 石製の見事な墓に眠っていたのは2人のフランス人水兵で、没年は1846年。首里の琉球王府と折衝後、幕末の日本に向かう途中に病没。琉球王朝時代は今帰仁間切(なきじんまぎり)の役人が、明治以降は付近の集落の人が墓の管理をしている由。「オランダ」は外国人の通称で、当時は「うらんだー」と発音していたことをようやく思い出す。やはり寄った甲斐があった。 さらに驚いたのは墓の真向かい、瀬戸の向こうが運天港だったこと。そこは源為朝が立ち寄ったとの伝説があり、1609年に琉球王国を進攻するため薩摩藩の軍船が入った港であり、付近には古い墓が多いので有名な地であり、今は伊平屋島、伊是名島へのフェリー乗り場のある天然の良港。まさに奇遇とはこのことだ。 当時八丈島へ流されていた為朝がわざわざ琉球を訪れる理由はないが、これは沖縄と日本は「同祖」であることを強調するための後世の作り話。アイヌの神であるオキクルミと源義経が同一人物であるとして、平取町のアイヌ人集落内に義経神社を建てたのと同根。琉球とアイヌを日本帝国に組み込むための方便だったとも言える。こうして明治新政府はアイヌから広大な土地を収奪し、三菱などへ払い下げたのだ。<続く>
2011.11.09
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< 夢の橋と変貌する島 > サトウキビ畑で作業している小父さんがいた。だがその苗がやけに小さい。「春に植えたんですか」と尋ねると、9月に植えたばかりと言う。刈り取りは再来年だが、あまり早く苗を植えると伸び過ぎて曲がってしまい、手がかかる由。「今の農業は頭を使ってるんだ」。なるほどなるほど。 「ところで古宇利島への道はどこですか」。ランニングスタイルの男がナイチャー(内地人)だと分かったのだろう。「畑の中は行けないよ。あのガードレールのある道を行くと、島が見えるから」。小父さんにお礼を言って引き返す。右折すると先ほど見えた広い道に出る。そこの標識の案内が分かり難いのが迷子の原因だ。 やがて松林の中に細い道が見えた。多分それが教えてくれた近道なのだろうが、そこを行くと再び迷子になりそうな気がして、広い道を直進した。後から軽トラックのクラクション。きっとあの小父さんだ。それでも不安になって車を停め、古宇利島への道を聞いた。この道を暫く行けば分岐点に出る由。 頭の中で地図を思い出すと、ようやく迷子の原因が分かった。分岐点から右折して暫く行くと、正面に橋と古宇利島。その途端にハイテンションになった。一昨年の「西海岸縦断」の際に、沖縄本島から遥かに見えた夢の橋。そこを走ることは無理だろうと思っていたのが、まさか2年後に実現するとは。余りにも興奮し過ぎ、橋への到着時間を忘れた。 直ぐ左手に小島。頭、手、胴体に尻尾。まるでライオンみたいな島だ。勝手に「ライオン島」と命名。海を覗くと底が浅くエメラルドグリーン。そして橋の上からは全面的に「釣り禁止」。島は丸い饅頭の形で、港や、島の一周道路や、小学校のような建物まで見えた。4年前までは船でしか行けなかった島が、今は橋で繋がっている。このまま死んでも本望。私はそんな気持ちになっていた。 7時50分古宇利島に到着。石に腰かけ、ここまでのことを初めてメモする。当初は直ぐに引き返す予定だったが、急遽島を一周することに決定。7時56分スタート。直ぐ目の前に何軒かのレストラン。こぎれいなものもあるが、にわか作りのトタン屋根のものも。きっと橋の完成後、島人は観光客相手に稼ぐのを夢見たのだろう。 港では何人かの人が作業をしていた。そして港の外には養殖用の支柱やロープ。あれはきっとモズク用のもの。全国のモズクの2割が沖縄県産で、沖縄の6割がここ古宇利島で生産してるみたい。古宇利のモズクは太くて立派なのだ。道は次第に登り坂となり、案内板に「古宇利城」の文字発見。きっと島の頂上部に城があり、烽火も上げたのだろうと推察。 対岸の本部半島に巨大な風車やホテルが見えた。そしてその向こうには今帰仁(なきじん)の山々。やはり島を一周して正解だった。運天港、今帰仁城はじめ沖縄本島との位置関係がすっかり分かったからだ。琉球の「戦国時代」以降、この島は交通上かなり重要な場所だったはず。だからこそこの小島にわざわざ城(ぐすく)が置かれたのだと思う。<続く>
2011.11.08
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< 驚く物体の出現 > 11月4日(金)のマラニック当日は朝5時過ぎに目が覚め、早速弁当を買いに行く。ホテルの朝食は7時から。無料で嬉しいのだが、それだとスタート時間が遅れてしまう。果たしてどれだけ時間がかかるか分からないため、出来るだけ早めにスタートする必要があった。コンビニではお握り2個と味噌汁、スポーツドリンクを買う。内地の幕の内弁当は栄養のバランスが良い。 ミカンも食べ、お茶を飲み、最後に薬を飲む。だが、前夜から不整脈の薬を飲むのは止めていた。あまりにも動悸を感じるようになったためだ。3種類目の薬だが、今回も副作用が出始めたのだろうか。朝食後、素早く身支度。ランパンにランシャツ、帽子にタオルハンカチ。ポシェットは大き目の物一つ。これに色んなものを入れた。 一番外側にはビニール袋に入れたお金。一番内側には地図、距離を書いたメモ帳とボールペン。これもビニール袋入り。真ん中の一番大きな空間には眼鏡ケース、お握り2個、魚肉ソーセージ1本、煎餅3枚、マドレーヌ、味噌汁の素3袋、アスリートソルト、アミノヴァイタル3袋。そしてペットボトル2本は手に持つ。これでリュックは背負わなくて済むため、少しは暑さを防げるはず。 肝心の天気は「曇りのち雨」で最低が24度、最高が29度みたいだ。内地で観た際の予報は雨が多そうだったため、サングラスは持って来なかった。キーを返しにフロントに行く。タクシーを呼んでもらうと5分ほどかかる由。フロントの女性に、今から本部半島を一周すること、今日で沖縄本島一周が完成することを話すとビックリした表情。 タクシーは直ぐに来た。出発は6時2分。沖縄の朝はまだ暗い。行き先とルートを運転手に告げる。タクシーに乗ったのは既に走った部分を避け、出来るだけ距離を短くするためだ。運転手にも沖縄本島一周と今日のコースを説明した。運転手からはハブの話などを聞いた。徐々に夜が明け、スタート地点の真喜屋(まきや)に着いた時は、すっかり明るくなっていた。 6時24分、ゆっくりと走り始める。今回は膝にテーピングをせず、シューズには医療用インソールも入っていない。これで痛みが出ないと良いのだが。走り出して直ぐに子猫の声。どうやら捨て猫みたい。可哀相だが構っている時間はない。小さな橋を渡ると奥武島(おおしま)。同じ名前の島が沖縄には幾つもあるが、民俗学者の仲松弥秋の説によれば、いずれも昔は風葬地だった由。 その説を裏付けるかのように、道の左右にたくさんの墓が現れた。この島は小さいのにこれだけ墓が多いのは、やはり風葬地の名残だろう。死者は静かだが、セミの鳴き声が凄い。間もなく目の前に浅瀬と橋が見える。左手の入江が羽地内海で、橋の向こうが屋我地島だ。本部半島の北岸を2つの島に囲まれた内海は浅く、波も穏やかだ。 浅瀬に生えるのはマングローブ。正式な名はメヒルギやオヒルギやサキシマヒルギだ。尖がった実が浅瀬に刺さり、そこから発芽して増える仕組み。塩にも強く、花はとても良い香りを放つ。屋我地大橋を渡っていると、島から犬が走って来た。車に乗った犬を追いかけ、盛んに吠えている。 色は褐色で黒っぽい筋が入っている。これはトラーと呼ばれる琉球犬で、アイヌ犬と見かけが良く似てるのは元々「親戚」だと思う。戻って来たトラーは咬む様子も無く、どこかへ消えた。だが今度は道端で異臭。ハエがたかっている物体は白いハブの死骸。えっと驚く。タクシーの運転手が最近ではハブが少なくなったと話していたばかり。それに標高の低いこの島に本来ハブはいないはず。きっと浅瀬を伝って渡って来たのだろう。早くも大量の汗。 ところが本土へ帰る日に寄った那覇のソバ屋でとんでもないことを聞いた。屋我地島はハブが多いので有名なところとか。サトウキビの畑が多く、その根を齧るためネズミが繁殖する。ネズミはハブの大好物なのだ。寝る時も用心して布団を剥ぐ必要がある由。中にハブが潜り込んでることがあるらしい。 さらに2m45cmの巨大なハブが、つい最近恩納村で見つかった由。養豚場の餌を狙いに来るネズミを食べて、それだけ巨大になったのだろうとの話。この時はまだそんなことは知らないで夢中で走っていた。だが、サトウキビ畑の先には病院があるだけ。どうやら行き止まりのようだ。<続く>
2011.11.07
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< ためらう体 > 11月3日(木)文化の日。仙台駅で駅弁を購入し、仙台空港アクセス線に乗る。3月の大震災でこの鉄道も被害を受け、再び開通してからまだ2か月も経っていない。海岸部に近い仙台空港が津波に襲われた映像がまだ脳裏に残っている。大きな飛行機が流されて行くと言う信じられない光景だった。 空港が近づくと背伸びして海岸部の様子を素早く窺った。鬱蒼と茂っていた松林が、かなり疎らになっている。瓦礫は撤去されているものの、震災前とは明らかに眺望が変わっている。那覇行きの便は定刻に飛び立ち、眼下には阿武隈川の流れと福島の山地が見えた。次に見えたのは那覇空港。その間はずっと雲に覆われ、地上の景色は見えなかった。 南に向かうに従ってその雲が白さを増し、徐々に夏のような雲に変わる。この間にかなり読書が進み、睡眠も少し取れた。「那覇は曇り」と機長のアナウンス。渡嘉敷の島々も着陸直前に僅かに見えただけだった。空港ビルに下り立つと、さすがに暑い。鮮やかなカトレアがいつものように私達を迎えてくれた。 名護行きの急行バスを待つ間にも読書。曇りなのに眩しく感じるのは、きっと光の量が違うためだろう。車中から那覇市内や高速道路の風景を眺める。道路のノリ面に、黄色のユウナやピンクのブーゲンビレア。かつての職場前を通過し北部へ向かうと、バスは停留所のある一般道へ何度も出入りする。 その景色も懐かしい思い出。そこは2年前の「東海岸縦断」の際に走った国道329号線だ。宜野座(ぎのざ)を過ぎるとバスは西行し、太平洋側から東シナ海へ向かう。両側に原始林が見え、北部のヤンバルが近づいたことを実感する。世富慶(よふけ)で下車。ここは名護市の南部で、中心街から少し離れている。 1年ぶりに「沖縄ソバ」を食べようとビルに入ったが、どうも様子がおかしい。ソバ屋は引っ越して、ファストフードの店に変わっていた。20年以上も前に沖縄へ赴任した頃、このソバ屋は盛りが良く美味しいので有名で、かなり繁盛していた。それが一昨年寄った時はやけに寂れて驚いたのだが、今年は姿が消えた。どうやら沖縄の状況も、どんどん変化しているようだ。 弁当屋で弁当と野菜サラダを買い、コンビニで泡盛と味噌汁を買ってホテルへ。ビジネスホテルでは夕食は出ず、付近にも食堂がないため食料を持ち込むのだ。チェックインを済ませて自室へ行き、先ず空調機のスイッチ。那覇空港ではトイレで半袖シャツに着替え、ステテコを脱いでいた。もちろん温度調整のためだ。 バスの中では軽い頭痛を感じていた。車中のクーラーのせいだ。内地との温度差が大きいため、体も恐る恐る反応するのだろう。翌日60kmを走るとなれば、沖縄の気温に素早く体を慣れさせる必要がある。今回は4年越しの「沖縄本島単独一周」を達成する旅だが、弁当と泡盛で密かに闘志を燃やす私だった。第一夜は10時過ぎに就寝し、翌日に備えた。<続く>
2011.11.06
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ただいま~♪ 灼熱の沖縄から何とか無事帰って来ました。暑かったですよ沖縄は。走った昨日は最低が24度で最高は29度はあったようです。仙台とはかなり違いますね。今回は本部半島を反時計回りに走りました。素晴しい経験でした。 余りの暑さに大量の汗をかき、途中で体調を崩したのが2度。それでもゆっくりゆっくり走りました。60kmの距離を14時間30分近くかかりました。最後の5kmは吐き気がし、全部歩きました。あまりの疲労に距離感も狂ってしまったようです。 ともあれ今回のランで4年がかりで走った「沖縄本島単独一周」を達成することが出来ました。走った距離の合計は424km。走った日数の累計は8日間です。1日平均53km走った計算です。長年の夢だった沖縄本島一周を果たして、今ようやく安心しています。と言っても、沖縄で走りたい場所はまだたくさんあるのですが。 留守中にエールをいただきました。どうもありがとうございます。今回の「走り旅」のレポートは明日から書こうと思っています。多分相当の長文になると思います。よろしかったらお付き合いいただければ幸いです。どうぞお楽しみに♪ 簡単ですが、無事帰宅のご挨拶まで。
2011.11.05
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6時2分タクシーで名護市のホテルを出発し、市内真喜屋(まきや)へ。6時24分ランニング開始。 奥武島~屋我地島~古宇利島~屋我地島~ワルミ大橋~今帰仁村~今帰仁城~本部町~備瀬崎~海洋博記念公園前~瀬底橋手前~本部港~名護市21世紀の森公園~ホテル ラスト5kmからは疲れて歩きました。ホテル到着は夜の9時。約14時間30分もかかった60kmの走り旅でした。
2011.11.04
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昨夜のセリーグ・ファイナルステージは接戦だったが、中日が2対1で制した。これでアドバンテージ分を含めて2勝目。中日は残り5ゲームのうち2ゲームをものにすれば優勝だが、ヤクルトは5つのうち4つを勝たなければならず、かなり厳しい戦いになると思う。 夜半2時過ぎに目が覚め、眠れなくなった。沖縄へ行く興奮のせいだと思う。起き出してパソコンのスイッチを入れ、走友から届いたメールへの返事や、ブログへの返事を書いた。これで安心したのか、再び眠ることが出来た。 今日の那覇の気温は29度のようだ。きっと那覇空港に着いた途端、汗ダクになると思う。そこから真っ直ぐに名護市に向かう。今日と明日、名護のビジネスホテルに2泊する予定。天気は良くない。今日から数日間雨模様が続くようだ。そして気温は高目。さて、そんな天候の下でどんなマラニックが出来るか楽しみだ。 飛行機の中で読む本も持った。旅行中の体調維持のためのミカンも持った。後は足がどれだけ持ってくれるかが勝負。今日は所属走友会の芋煮会が開かれる。沖縄へ行くため私は参加出来ないが、皆さん大いに食べ、大いに飲んで楽しんで欲しいと願っている。 さて、走友からのメールには「大阪マラソン」での楽しい写真がたくさん添付されていた。それらの写真を観ながら、自分も参加したような幸せな気分になった。明日は私も沖縄で走る。今回はどんな風景を目にすることが出来るだろう。 もう少ししたら空港へ出発する予定。どうぞ皆様もお元気で。私も元気で走ってきますね。では、行って来ま~す。
2011.11.03
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自分では沖縄本島を1周した積りなのに、さほど喜べないのは何故だろう。それは北部の本部半島を走らなかったせいだと思う。沖縄本島北部の西側に、げんこつのように飛び出しているのが本部半島だが、第1年次の西海岸縦断では半島の付け根部分を横切った。もし改めて走るとなればどれくらいの距離があるのだろう。 10回目のNAHAを完走した直後、沖縄勤務時代の後輩であるらんふぉさんにこのことを話した。「本部半島は絶対走った方が良いですよ。ただし、距離は結構あります」。まああったとしても50kmから60kmくらいのものだろう。そんな距離はウルトラランナーにとっては「屁」みたいなものだ。「そうか。やはり本部半島を走らないと一周にはならないか」。 さほど拘りがあった訳ではないが、その後自分でもあそこを走ってみたいと言う気持ちが強くなった。だが、今年に入って事情が大きく変わった。2月の「いわきサンシャインマラソン」以降、体の異変が続いたのだ。目が良く見えないのは前からだが、眼科に行くと白内障のなりかけらしい。それに右足(脚)が次々に故障した。 最初が腱鞘炎で、これが治ったと思ったら足底筋膜炎。そして膝関節の痛みにガングリオン発症。これらが全て右側。最大の難関は5月末に発症した不整脈だった。偶然内科で発見され、翌日には循環器内科で精密検査。エコー写真に心電図。運動負荷試験も受けたが、やはり不整脈との診断だった。 それ以来、薬の服用を続けているが、体調がとても悪く疲れ易い。どうも心臓の機能低下のせいだけでなく、薬の副作用が強く影響している感じだった。出場した100kmレースでは、73km地点と45km地点でリタイヤし、2つのレースは体調不良で欠場した。この分では楽しみにしていた沖縄本島1周の最後は無理かと、正直諦めかけた時もあった。 その後、不整脈治療の薬を変えてから、幾分体調が戻った。スピードが出ないのは相変わらずだが、ゆっくりとなら走れないこともない。沖縄でも多分心臓は持つと思うが足の方はどうだろう。ツーリストの情報で、当初のコースを大幅に変えた。距離は長くなったが、初めての景色を楽しめるのが良い。 しかし、こうまでして何故沖縄を走りたいのか。それは私が沖縄を好きだからで、どんな景色でも心に沁みる。ウルトラに限らずランニングの世界では、いずれは思うように走れなくなるが、その前に「沖縄本島単独一周」を企画、実行出来て良かったと思う。連続して本島を一周する「大作戦」は無理だったが、本島縦断の「中作戦」などを繋ぎ合わせて、ほぼそれに近い形を作れたのが嬉しい。 沖縄への出発は明日。走るのは明後日。コースは体調によって若干変更する可能性がある。当日の天候は曇り時々雨で最高気温が28度、最低は23度のようだ。東北に比べれば高温で夏のような暑さだが、案外雨で走り易いと思う。雨に濡れた本島北部の景色はどんな風に見えるのだろう。 今回もカメラは持たず写真も撮らない。ただ左右の網膜に景色を焼き付けるだけだ。個人的な「想い」はそれでも十分と思う。帰宅は5日(土)の夜の予定。長らく留守にしますがよろしくね。そしてレポートを楽しみに待ってて下さいね。ではでは。
2011.11.02
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辺戸岬は荒れていた。猛烈な雨と風。ちょうど前線が通過中だったのだ。ランパンランシャツで走り出したものの、とても寒くて走るどころではない。直ぐに半袖Tシャツに着替え、その上からゴミ袋を被った。体感温度は7度ほど。沖縄で3年間過ごした経験があるが、あれほど寒かったことはない。 そして10kmも行かないうちに、私が恐れていたことが現実になった。何とハブの死骸を道路上で発見したのだ。11月末なのにまだ冬眠しておらず、道路を横切ろうとしていたハブ。これは危険だ。よほど注意して走らないと大変なことになる。特に夜間のランでは気を抜かないようにしよう。幸いにもその後生きたハブには遭わなかったが、道路の黒いひび割れもハブに見えてビビった。 東海岸の過疎ぶりには驚いた。数キロ走ると現れる集落だが、もっとも小さな楚州(そす)にはわずか5戸しかなかった。だが、自動販売機はあった。アップダウンにも苦しんだ。標高350mまで登った後、海岸へ降りる繰り返し。東村の平良ではついに真っ暗闇になった。ここはプロゴルファーの宮里藍ちゃんの故郷だが、光の下で地図を観ようとして転んだ。足元にチェーンがあることに気づかなかったのだ。 幸いにも怪我は軽かったが、一時はヘッドライトが見つからずに困った。そこからホテルまでが長く、心細かった。着いたのは夜の10時40分ごろ。フロントの人が驚いている。リゾートホテルには似つかわしくない薄汚れた人が目の前に立っているのだから。疲労と緊張で眠れなかった高級ホテル。7万2千円は4人分の料金だったのだ。 朝食を摂ったレストランの遥か海上に、米軍の基地が見える。移転問題で揺れるキャンプシュワブ。辺野古の海兵隊基地だ。2日目は一転して気温が上がった。本土なら冬の季節なのに、セミの合唱が聞こえる。初日の疲れが残っているせいか、アップダウンにも苦しんだ。沖縄市内に入ると、上空に月が出た。 もうハブの恐れはなかったが、ゴールの遠いこと。与那原町の三叉路に着いたのは夜の10時過ぎ。これで厳しかった東海岸縦断150kmの旅は終わった。そこからタクシーを拾って那覇のホテルへ。チェックインは10時40分ごろ。残り物を食べて直ぐに眠った。色んなことを経験した2日間のマラニックだが、何とか命は無事だった。 3年目の昨年は、知念半島を一周した。コースは具志頭三叉路から、前年のゴールである与那原三叉路までの32km。この周辺は「グスクロード」と呼ばれ、古い城が幾つも残っている。また、景色も素晴らしい場所だ。走りながら見つけたシークワーサーを、家の人に3つ頂きお土産にした。 沖縄の最大の聖地で世界遺産でもある「斉場御嶽」(せーふぁうたき)に寄った。昔と違って柵があり、有料になっていた。そそくさとお参りして国道に戻り、再び走り続けた。知念岬を廻って直ぐに日が暮れた。それでも怖くはなかった。高いヤシの木がとても懐かしかった。翌日はNAHAマラソン。フルの前日に32kmを走ったのは初めての体験だった。 マラニックがゆっくりだったため、フルも何とか走れた。17km地点の具志頭三叉路から中間地点の摩文仁公園までの4kmが沖縄本島一周でまだ走ってない部分だったが、これも難なくクリヤー。無事NAHAマラソン10回完走を果たした。これで自分では「沖縄本島単独一周」を達成したように思っていたのだが、何かが物足らないのだ。<続く>
2011.11.02
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あれは5年ほど前のこと。ふと翌年のカレンダーを見たら、年末年始の休みがかなり続いていることに気づいた。これを利用して「沖縄本島一周」出来ないかと心は躍った。だが、我家の財務大臣である妻に話したら直ちに却下。それから何とかしてこの夢を実現出来ないか考えてみた。そして立てたのが「ちんすこう」作戦だった。 「ちんすこう」は沖縄を代表するお菓子だが、お土産に買って帰ってもさほど喜ばれないことが多い。逆にこれをエネルギーにして沖縄本島を一人で走ろうという計画だ。「ちんすこう大作戦」は沖縄本島一周。計算すると距離は400kmを越え、1回で走り切るのは到底無理。「ちんすこう中作戦」は沖縄本島の縦断計画。これだと距離は140~150kmほどになる。 そして「ちんすこう小作戦」は10回目のNAHAマラソンを完走するもの。これならいつでも実現出来る。注目したのは「中作戦」。国道58号線を北上する「西海岸」の縦断なら行けそうだ。妻の反対理由は財源だけでなく、愛犬の世話。私が留守にすると妻が愛犬を散歩させなければならない。仕事のある妻にとって冬の早朝の散歩はきついのだ。 そこで中作戦の決行は7月にすることにした。経費は私の小遣いだから文句は出ない。ところが7月の沖縄は地獄だった。初日に那覇に着き、その足で南の突端の摩文仁公園に向かった。ここは第2次世界大戦の際に壮烈な戦いがあった場所で、各県の慰霊の碑が建てられているところ。ここから那覇市内までの22kmはNAHAマラソンのコースとほぼ重なり、何度も走っている。 ところが夕方の7時を過ぎてもまだ30度を越えていた。まさに熱射の中のランだった。翌日は那覇から名護まで61km。これも走れたのは9時過ぎまで。そこからは気温が32度となって歩くのがやっとだった。再び走り出したのは55kmを過ぎてから。だが真っ暗闇になり、とても怖い思いをした。 第3日目は北端の辺戸岬まで車で送ってもらい、名護市内へ逆走。距離は57kmだが、これも走れたのは朝のうちだけ。ほとんど日陰がなく、2回熱中症になりかけフラフラになって歩いた。夕方の7時半ごろから幾分涼しくなり、ホテルへ着いたのは9時前だった。沖縄の走友には「自殺行為」とまで言われ心配されたが、何とか計画の第1歩を踏み出せた。 2年目は最も厳しい「東海岸縦断」を目指した。このコースの厳しさは、西海岸と違ってアップダウンが続くこと。特にヤンバルと呼ばれる北部は過疎地帯で、集落も少ない。ここでハブに咬まれる危険性もある。それに一番の難点は宿泊施設がほとんどないこと。北端の辺戸岬をスタートすると、泊れるのは70km先のリゾートホテルだけ。 それが1泊7万2千円と言う高額。だがどうしても初日にそこまで走らないと2日で150kmを走破するのは無理。パートタイマーの私には休暇を取るのがとても困難なのだ。辺戸岬から本島南部の与那原町までの150kmを走る第2年次は、前年の暑さに耐えかねて11月に決行することにした。 リュックには「沖縄本島縦断中」のプレートをつけた。そしてその裏側には、私の氏名、住所、電話、血液型、妻の携帯電話の番号を記しておいた。この旅はとても危険な旅。どこで何が起きるかもしれない。第一ハブに咬まれたら30分以内に病院に行かないと死んでしまう。まして辺鄙な東海岸に病院などはないのだ。<続く>
2011.11.01
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