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北杜夫が死んだ。亨年84歳。死因はインフルエンザの予防接種後に引き起こした腸閉そくだったようだ。歌人で精神科医だった斉藤茂吉を父に持ち、精神科医でエッセイストだった斉藤茂太が兄。本人も東北大学医学部を卒業した精神科医だったが、あまりその方面で活躍した話は聞かない。 彼の名を高めたのは、ドクターとして乗り込んだ水産庁所有の船での経験をもとに書いた「どくとるマンボウ航海記」。これ以降「どくとるマンボウシリーズ」が大人気となった。ユーモア溢れる独特の文体に癒された読者が多かったのではないか。私もこのシリーズが大好きだった。その一方で、芥川賞を受賞した「夜と霧の隅で」のようなシリアスな作品や、自らの家系を描いた「楡家の人びと」のような作品もある。 晩年の彼が話題になったのは、躁うつ病の明確な症状だった。「うつ期」には自宅に引きこもり状態となり、「躁状態」の時は全財産を株の購入に充てるなど、ハチャメチャな行動を取ったようだ。だが、そんな時でも変わらずに愛された作家だったと思う。 彼の本名は宗吉。父茂吉は自分の名前のうち兄には「茂」の字、弟には「吉」の字を与えた。兄が最初に入学したのは明治大学文学部で、弟は松本高等学校(現在の信州大学人文学部)だったが、父は強引に自分と同じ道を進ませた。北はきっとそれが重荷に感じていたように思う。 娘の斉藤由香がエッセイストであることは、彼の死をきっかけに知った。これで思い出すのが幸田家のこと。幸田露伴は「五重塔」などを書いた明治の文豪だが、その娘の幸田文はエッセイストとして著名だった。孫の青木玉はその母の血を引き、ひ孫の青木奈緒もエッセイストと言う4世代にわたる文筆家の系譜に驚く。 私は遠藤周作にも北杜夫と同じような感性を感じる。「狐狸庵シリーズ」のようなユーモア文学に傾倒する一方、「沈黙」のような重厚な作品もあるためだ。それは彼が敬虔なカトリック信者だったことと関係が深いのだろう。また井上ひさしのユーモア精神とも共通性が感じられる。井上が作品で人を笑わせながらも底辺に哀感が漂うのは、彼が孤児だったことと無縁ではないだろう。3者に共通するのは、深い人間性だ。 さて、最近司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの何篇かを読んだ。人間に対する視点や歴史に対する視点は、彼独特のものと感じた。絶えず「日本人とは何か」、「歴史とは何か」を追求する姿勢が、常識を超えた英知として文脈に溢れている。文化勲章が授与されたのも、きっと彼の類まれな追及心に対してだろう。そして当然のことだが、作家の評価は彼らの死後もなお続くのだ。< 10月のラン&ウォーク > ウォーク距離:128km ラン回数:9回 ラン距離:122km 月間合計:250km 年間距離合計:2989km うちラン:1518km これまでの累計:77、669km
2011.10.31
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昨日の土曜日は、朝から冷え込んだ。やはり放射冷却現象だったようで、お日様が出た後はとても良い天気になった。この日、妻は何も食べず、予約していた人間ドックへ出かけて行った。私は愛犬を日の当たる芝生へつなぎ、走りに行った。沖縄でのランニングまでもう1週間も残されていない。出来るだけ「走れる体」を作っておきたいと思ってのこと。 だが、相変わらずスピードは出ないまま。それでも息苦しくないのが助かる。みるみる汗が噴き出す。沖縄より10度も気温が低い仙台でも大汗をかくのだから、きっと夏のような沖縄では苦戦すると思う。出来れば沖縄ではランシャツ、ランパンで軽快に走り、リュックは背負いたくない。だが食べ物はどうやって保持するか。それが目下の思案どころ。 いつもの山道は道路工事中。超ゆっくりだが休まずに登れるのが嬉しい。私とは逆回りのランナーと2回出遭ったが、登りは歩いていた。まだ走り始めの人だろうか。下山して堤防を走っていると、遠くから「お囃子」が聞こえて来る。これは珍しい。何故こんな河川敷でお囃子の稽古をしているのだろう。 阿波踊りの伴奏である「よしこの」に似てると思ったが、やはりどこかが違う。近づくと練習をしていたのは子供達。それも家族のようだ。意外な場所での太鼓と笛と鉦(かね)の音とは、とても不思議な体験。橋の上からは鮭の姿を探す。もう時期が遅いのか、遡上中の鮭はわずか1匹だけ。どうやら仲間から外れてしまったようで憐れ。 20kmを2時間半以上かかっての帰宅。昼食後は拾ったクルミを割って食べた。妻の帰宅は1時過ぎ。直ぐに結果が出た血糖値とコレステロール値が若干高かったのが気がかりとか。それより「食事券」がついていたので、レストランで昼食を済ませて来た由。高級ホテルのあるビルで、ランチとは何と優雅な人間ドックだろう。 夕方の散歩中にAさんと遭遇。何と彼は犬が恐いとかで、我が家の愛犬にもビビっている。坂の途中で30分ほど立ち話しし、「モンブラントレイルマラソン」のことを聞いた。宮城UMCの掲示板でおおよそのことは知っていたが、危うく低体温症になる寸前だったとは驚きだった。やはり世界には厳しいレースがあるものだ。 その話を妻に教えると、「お父さんも外国で走って来たら」と言う。経費は自分の小遣いから出すのか、それとも家計から出してくれるのかが不明のため、返事はあいまいのままにした。もし小遣いからだと、国内のレースに出られなくなってしまう。ところで日中走っている途中に浮かんだフレーズを記しておこう。 私は誰よりもゆっくり走ることが出来る。 私は誰よりも楽しんで走ることが出来る。 私は誰よりも感謝して走ることが出来る。 夜、ヤクルトが巨人を破って1勝。これでセパ共に王手がかかったが、果たして今日は連勝できるかどうか。
2011.10.30
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宮城県内で保管中の政府備蓄米をセメント会社で焼却し、セメントの原料にする計画が進んでいるそうだ。備蓄米は先の震災時に津波を被ったもの。何年か前に工業用の米を食用に転売して問題になったケースがあったが、まさか米がセメントの材料になるとは意外。 被災地の瓦礫の処理を引き受けた県が、その後住民の反対によって移送計画がとん挫しているケースがある由。もちろん瓦礫の汚染度は問題にならないほど低いのだが、それでも放射能汚染を恐れる人が多いのだろう。登山家の田部井淳子さんが、福島出身と話しただけでもギョッとされることがあると話していた。まさに風評被害の怖さだ。 各市町村の復興計画が次々に発表されているが、まだ「絵に描いた餅」みたいなもの。なぜなら県や国とのすり合わせが出来ておらず、財政上の保証もないからだ。このため住民の中にはどうして良いか分からず困っている人や、「危険地域」の我家を修復して住み始める人もいるとか。その気持ちが分からなくはない。 そんな中で私が住む市では、市長が中国からパンダを譲ってもらう話を進めている。経費は市が支払うのか国が支払うのか知らないが、通常パンダのレンタル用は1年間で1億円が相場。それに施設の改善にも巨額を要する。また水族館の誘致も進めているとか。震災復興に最大の努力をすべきなのに、こんな「夢」ばかり追ってて良いのだろうか。子供達には嬉しいプレゼントだろうが、それだけで済むはずがないと思う。 そんな時に青森県八戸市では、4千万円が入ったバックが見つかった。中には手紙が入っていて、青森、岩手、宮城、福島の4県にそれぞれ1千万円を贈り、震災に役立てて欲しいと書かれていたそうだ。何と剛毅な人がいるものだ。そんな大金をポンと出せるとは、どんな大金持ちなのだろう。多分そんなことではないのだろうが、太っ腹なその気持ちが有難い。 私の帰宅ランのコースである青葉城への登り坂が、ようやく補修されることになった。ここは3月の大震災で石垣が崩れて通行止めになり、ようやく人間だけ通行出来るようになったのは震災の数ヵ月後から。修復工事はまず歩道からで、完成するのは平成25年とか。だが、その頃私が帰宅ランで通ることはもうない。 さて、今日からセパ両リーグのCSファーストステージが始まった。パリーグはデーゲーム、セリーグはナイターだからどちらもテレビで観られるのが嬉しい。日ハムはダルビッシュが先発の上2点取ったので、もう勝ったろうと思って散歩に行ったら、何と9回2アウトから同点になり延長戦で敗れた。何故最後までダルビッシュを投げさせなかったのか疑問。勝負事は「勝ってなんぼ」の世界なのだから。 3位の西武がまさかの逆転勝ちで王手をかけた。一方のセリーグは3回裏で0対0。こっちも3位の巨人が勝つようだと一気に勝負を決めかねない。CSは「2度美味しい」制度だが、観方を変えればこれほど不条理なルールはない。リーグ優勝チームがCSで敗れる「下剋上」が出るからだ。大リーグではカージナルスがまさかの逆転優勝。さて、日本のプロ野球はどうなるか。
2011.10.29
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昨夜、今年のドラフト会議が開かれた。希望する選手と交渉する権利を獲れた球団、獲れなかった球団。そして選手の側でも希望する球団から指名された者、そうでなかった者もいたと思う。まさに野球選手にとってドラフト会議は、運命の分かれ道だ。中にはソフトボールの選手を指名した球団もあった。こんなことは初耳だ。 やはり話題の中心は東海大の菅野選手。かれは巨人の原監督の甥で、巨人軍は昨年のうちから第一位で指名することを公表していた。そのため他に手を出す球団はいないと思われていたのに日本ハムが指名し、そして運良く交渉権を引き当てた。かつて長野選手は、自分の志と違った球団の指名を2度も蹴って巨人に入団した。今回もその二の舞にならないことを祈りたい。 いくら選手にも選ぶ権利があると言っても、本来ドラフト会議は戦力の均衡のために下位のチームから順番に指名する制度。複数球団の指名の場合は抽選になるが、それすら拒否していたらアンフェアだと私は思う。この点大リーグはもっと合理的で、これを補足するため頻繁にトレードを行うようだ。 タイの洪水がますます酷い状況になって来た。タイ政府は高潮が始まる昨日から5日間を、急遽休日にすることに決めた由。郊外にある国内便の飛行場は既に浸水し、工業団地の多くがかなりの被害を出している。タイをコンピュータ関係部品の生産拠点としている国が多いことを、今回初めて知った。 チャオプラヤ川が流れるバンコック市内の冠水は、時間の問題とか。今回の原因は長期にわたる降雨で川の水が増水したため。異常気象がなせるわざには違いないが、今後のことを考えると、工業団地の造成よりも河川の堤防を強化する方が大事なように思う。同国では日本向けのエビの養殖も盛んなようで、その影響も出そう。 さて、日本の政府関係機関や大企業のコンピュータがサーバー攻撃に曝されている。ウイルスを仕掛け、重要な機密を不法に引き出すのは重大な犯罪だ。その黒幕が中国であることは世界の常識とか。国家的組織を使って情報を盗むとは、自由社会の敵以外の何物でもない。尖閣諸島には同国の艦船が次々に押し掛けているようだし、沖縄の基地問題にのんびり対処している時ではないと思う。 尖閣諸島の大部分は個人の所有と聞いた。だが、民主党が政権を取っているうちは、売却する積りはないそうだ。中国は脅しを繰り返して既成事実を作って行く。外交がこんなにもたもたしているようでは、日本の国土も将来も危ないと思う。その辺を沖縄の県民にも分かって欲しい。お坊ちゃまの元会長がカジノに100億円も注ぎ込むような企業に至っては、論評にも値しない。
2011.10.28
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妻がたくさんの小菊を花瓶に飾った。黄色い小菊は、居間全体に独特の香りを放っている。その香りも悪くないが、明るい黄色が幸福を招くようにも感じる。昨夜の夕食はタラちりだった。そしてテーブルの上には丸くて緑色の物体があった。スダチにしては大きいし、ダイダイにしては小さ過ぎる。まさか大分のカボスではないだろうな。私はそう思った。 妻に聞くと、その正体は我が家の庭から採ったユズとのこと。これはビックリ。少し黄色くなり始めたが、食べるのはまだ先だとばかり思っていたのだ。「これが我が家のユズか」と、感慨を込めて緑の実を絞った。何とまたジューシーなことか。強い香りが漂うが、成熟したユズの香りではなく、ライムのような匂い。だが、15年ぶりに実ったユズの味は格別だった。 今朝は放射冷却現象のせいで、少し冷え込んだ。だが10度以下の気温は、今頃なら普通だろう。空には満天の星。その寒空の下を愛犬と散歩する。これからはさらに寒さが厳しくなって来る。いずれはコタツを用意し、先日購入した反射式ストーブのお世話になる日も近そうだ。通勤のバスにも暖房が入る季節。本を読んでいても、ついウトウトと眠ってしまう。 第1現場では、久しぶりに体調の良さを感じた。原因は昨夜から飲み始めた不整脈の薬しか考えられない。薬を変えたのはこれで3度目。まだ飲み始めたばかりだが、眩暈もしないし動悸も穏やか。この状態が続けば手術も不要と思えるほどだ。これは嬉しい。このまま副作用が出ないことを祈りたい。 帰宅ランでは、ほんのちょっぴりスピードが増した。元のように戻るのは難しいとしても、走っていて心臓が苦しくならないと良いのだが。それでも仕事は辞める積り。理由はタバコの煙だ。第1現場では、室内で管理会社の人が吸う。一度だけ喫煙所で吸って欲しいとお願いしたが、嫌な顔をされた。彼らは我が社を雇用する立場なのだ。対抗上彼らがタバコを吸い始めたら小窓を開けるようにしているが、却って煙が自分の方に流れて来る。 第二現場の方はもっと酷い。原則的に各階には喫煙所が無く、地下駐車場の入り口に灰皿が置かれているだけ。このため常時2、3人はたむろし、酷い時は5、6人がスパスパ吸っている。そこは私達が出入りする個所であり、私の清掃区分に近いため、どうしても煙を吸うことになる。別に彼らの肺が真っ黒になる権利や、ガンになる権利を奪うつもりはない。 言いたいのは他人に迷惑を掛けるなと言うこと。だが、何の設備的配慮をしてない現状では、嫌でも応でも伏流煙を吸わざるを得ない。タバコの煙には約200種類の有害物質が含まれ、そのうち60種類以上は発がん物質とか。それだけ危険なタバコを減らすには、1箱千円に上がっても良いとすら考える。 私は出来るだけ良い空気を吸いたい。私はゆっくりでも良いから走りたい。そして出来れば死の直前まで、畑の野菜や、庭の草花に囲まれて自宅で過ごしたい。近所からいただいた渋抜きした柿が美味しい。我家の甘柿はまだ甘味が十分ではないが食べられる。そしてカスピ海ヨーグルトのお陰で今日も快腸。やはり人間は健康じゃないとね。
2011.10.27
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昨夜は強い風の音がした。何時頃か地震もあったようだ。それでも何の心配もせずにグッスリ眠れた。今日は昼近くなってから風が吹き出した。結構冷たく感じる風の中を走って帰った。これだけ気温が低くなれば、徐々に走るスピードが増すのが例年のことだった。それが今ではどんどん遅くなっているのだ。 故佐々木功氏の著書に「ゆっくり走れば速くなる」と言うのがあった。詳しくは知らないが、ゆっくり走ると体の隅々の毛細血管まで血液が十分行き渡り、強い筋肉を作るため結果的には速く走れるようになると言う考え方ではなかったか。その実感はまるでなかったが、レースになれば練習とは違ったスピードで走れるのが常だった。 今年2月の「いわきサンシャインマラソン」では、4時間19分台でゴール出来た。この分だと100kmのレースも後何年かは楽しめそうだ。密かにそう思っていたのだが、あれから8ヵ月後には、フルを6時間でもゴール出来ない体調になるとは思いもしなかった。だが、悔しくも悲しくもない。こうなったからには、この状況を受け入れるしかないからだ。 先日「京都マラソン」事務局からメールが届いた。「これは抽選に受かったか」と喜んだのだが、文面は当選してからだと宿泊の予約が困難になるため、早めに予約して欲しい旨の案内だった。それはそうかも知れないが、私の中ではやはり順番がある。先ずは当選しないと話にならないではないか。 それにしても不整脈を抑える薬がこれほど体に強い影響を与えるとは驚きだ。最初の薬は飲むと眩暈を感じた。それでドクターに訴えて薬を変えてもらったのだが、今度は強い動悸に苦しめられた。まさに「副作用」の典型みたいなもの。それだけ強い副作用が出るのなら、いっそ飲むのを止めても良いのかも。 一時心配していた右足のガングリオンは、その後小さくなって痛みも感じなくなった。これだけでも私にとっては朗報だ。さて、T田さんから「伊南川」の写真がメールで届いた。私が体調の関係で参加しなかったことを気にしたようだが、せめて雰囲気だけでも感じて欲しいとの気持ちで送ってくれた由。いつもながらの友情に、心から感謝したい。 昨年、そして今年と2年に亘って参加出来なかった「伊南川ウルトラ遠足」だが、たくさんの写真でコースの概要や当日の模様が良く分かった。仲間の表情も良かったし、スタート、ゴール地点の「大イチョウ」も写真で確認出来て嬉しかった。宮城UMC掲示板への彼の書き込みでは、このレースの厳しさを知らされた。今の私の体調では、やはり参加は無理だったと思う。 今日届いた郵便物の中に「秋田内陸」の見本写真があった。45kmでリタイヤした私の写真はたった1か所分だけ。それも最後尾だったため、休んでいたカメラマンが慌てて撮ったものだった。同じポーズのが3枚連続で写っているのが愉快。あれだけ苦しいレースでも笑って手を振る自分の姿に、良く頑張ったと妙に納得出来た。 昨夜は我が家の菜っ葉を初めて食べた。チヂミ菜は味噌汁の実になり、春菊は胡麻和え。採れたての初ものはとても美味しかった。寒かった今日はどうやら鍋ものらしく、再び畑の春菊が台所にあった。夕方の散歩から帰宅し何気なく上を見上げると、まだ小さ目のユズが一部黄色く色づき始めていた。これは15年目にして初めて生ったもの。さて、どんな味がするかがとても楽しみだ。
2011.10.26
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午後から雨が降りそうな空模様だったが、病院へ行った。薬が1日分しか残ってなかったし、ドクターに聞きたいことがあったからだ。火曜日のせいか、午後の一番で受付できた。時間まで血圧を自動で測り、読書に勤しむ。待合室には人がまばら。そして一番に私が呼ばれた。入ったのは診察室。いつもなら最初に採血があるのだが今日は先ずドクターと話した。 気になっていたことの第一は、会社の健康診断で肝機能に問題があったこと。数値はさほど異常ではないが、昨年までに比べればかなり高い。そのことを話すと、服用している薬のせいだろうとドクター。たまに腎機能がおかしくなることがある由。採血後、分析のため検査に出すことで話が一致。 第二の心配点は、最近とみに鼓動が激しく感じられること。強い疲労感もあり、仕事を辞める予定であることも伝えた。不整脈を治すための薬が合わないのかも知れないとドクター。新しい薬に変え、改めて心電図を撮ることにした。慢性的な不整脈の場合は薬の効果が出ないこともあるそうで、その際は服用を止めることになるみたい。 三つ目の相談は不整脈の手術の件。私の場合は手術をしても効果があるかどうか分からないと言われていたが、これだけ体調が悪いと専門医で手術を受けたら少しは改善されるかも知れないと心情を話した。ドクターによれば、専門病院で手術を受ける場合は1週間の入院を要し、「不整脈外来」の診察日は月曜の午前中とのこと。 私が仕事を辞める理由は、専門病院で診察を受けたいためであること。そしてその病院で不整脈の手術を受けた人が片目を失明したと聞いたことも正直に話した。これに対して専門病院に今度来た医者はドイツで最新の研修を受けた優秀な人で、失明したのは血栓予防薬を服用しなかったためだろうとドクター。なるほど、それで私の疑問は解けた。 さて、仕事を辞める前に休暇を取って、診察を受けることが可能か検討する必要がありそうだ。ただし、手術で1週間入院することになれば、妻が仕事を辞めた後でないと無理なようにも思う。少しは光明が見えた気もするが、解決にはもう少し時間がかかりそうだ。
2011.10.25
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一転して10度ほど気温が下がった仙台です。昨日の最高気温は27度だったとかで、「大学女子駅伝」の選手の中には熱中症で苦しんだ人もいたみたいです。中でもある大学はレースの途中で体調を崩した選手が出、「タスキ」を繋げなかったとか。駅伝の数日前から練習をしている選手を街中で良く見かけましたが、レース当日は急に蒸し暑くなりましたからねえ。 昨日の練習では私も35km辺りで、左の股関節が痙攣しました。きっと大量の発汗で体内のミネラル分を失ったせいでしょう。歩きながら痙攣する部分を叩いて鎮め、何とかことなきを得ましたが、さらに暑さが厳しい沖縄ではアスリートソルトや味噌、サプリメント類を活用する予定です。コースの大部分は日影がなく、太陽が出て間もなく最高気温に達するため、厳しい一日になるのは今から覚悟しています。 リビアの独裁者だったカダフィ大佐の死には驚きました。きっと巨額の隠し財産があるんでしょうね。タイの洪水にも驚いています。日系企業の損失は一体どれくらいになるのでしょう。ギリシャの公務員ストにもビックリですね。公務員が国民の3分の1とかで「冗談でしょう」と言いたくなりますね。橋下前大阪府知事の「大阪都構想」も上手く行くんだろうか? そんなニュースより、私にとっては田中マー君の3冠獲得のニュースの方が嬉しかったです。防御率、最多勝、勝率などパリーグ投手部門のほとんどを22歳の若者がとったのは快挙と言えるでしょう。打撃力があるチームなら、もっと勝利数が増えていたのは確かで、「沢村賞」も間違いないかな。おめでとう、マー君。 そして楽天から離れる山崎選手が、宮城県知事から特別表彰を受けることになったのも嬉しいニュースでした。6年もの間東北の野球ファンに感動を与え、被災地でのボランティア活動にも寄与したと言うのが表彰の理由です。いかつく無骨な山崎が表彰式ではにかむ姿が目に浮かびます。彼の中日復帰も決まりそうですね。おめでとう、そしてありがとう山崎選手。 100歳のインド人ランナーが、フルマラソンを8時間台で完走したとのニュースには驚きました。彼は89歳の時から走り始めたとか。まさに超人としか言いようがありませんね。そして苛烈を極める山岳レース「長谷川カップ」では、初参加だった我が走友会のまこちゃんが15時間05分で完走したことを知りました。事前に奥多摩のコースを試走した甲斐がありましたね。おめでとうございま~す。
2011.10.24
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昨夜はケルティックウーマンの歌を20曲ほど聞いていたところに妻が帰宅した。夕食の用意もしておいたのだが、既に車中で済ませて来たようだ。私は一日何もしなかたのだが、何故か疲れていて「世界ふしぎ発見」の途中で眠ってしまった。 朝は5時前に起きて早速朝食を済ませ、その後愛犬との散歩。同じ頃、ジョギングに行っていた妻が帰って来た。長袖とトレパンでは暑いとのこと。それはそうだ。今朝は気温が高いのに、手袋までしていては。私は半袖Tシャツとハーフタイツにした。一応帽子は持ったが、出来るだけ被らない積り。そしてリュックも無し。ペットボトルとポシェットだけの姿で出かけた。 今日は42km走る予定。この日の最高は25度まで上がるとのこと。まさに高温の沖縄対策に相応しい日和。本当はランパンランシャツの方が軽快で良いのだが、今日は大いに汗をかく練習なのだ。早速2kmも行かないうちに汗ビショになる。国道286号線でM黒さんに遭遇。私の汗にビックリしている彼に、「沖縄対策だ」と言うと直ぐに納得。沖縄に2年住んだ彼なら理解が早い。 愛宕大橋を渡り終えた所で、今度はSMCの練習帰りのS木さんに遭遇。彼とは色んなことを立ち話した。土樋~米ケ袋~霊屋橋~評定河原橋~大橋~澱橋経由で八幡町へ出、東北道の下を潜って権現森の麓から陸前落合へ向かった。ここは広瀬川の畔で紅葉がきれい。駅の裏から宮城広瀬高校へ出、西道路を走った。 錦ケ丘経由だとコンビニがあって助かるのだが、敢えて愛子からサイカチ沼方面に向かった。だが、やはり飲み物が無くなった。やむなく諏訪神社に寄ると、社務所に自販機があった。喜んでお茶を買い、一気に飲んだ。雨の後なので道路はぬかるんでいるが、ここは静かだし紅葉がきれいで走っていても気持ちが良い。 ところが道の途中に検問があった。これは「死体なき殺人事件」の再来か?と一瞬焦った。一昨年、この場所で警察が死体の発掘作業をしていて戻された場所。あれからもまだ死体が見つかっていないことは知っていた。また戻ると8kmプラスの50kmになる。飲み物も無いし、第一体力が持たない。 そのことを話すと、検問の人は「危ない個所に気を付けて行ってください」と許可してくれた。3か所のバリケードを越えて行くと、道路が一部崩れている個所があった。道路工事の下見の人だったようだ。これが工事中なら引き返さなくてはいけない所。危ない危ない。間一髪セーフだった。坂道を下って秋保のコンビニで買い物。 田圃の土手に腰をかけ、レモンティーを飲みながらアイス最中とお握り2個を食べた。温泉には寄らず、そこから県道を引き返して国道286号線に出、茂庭の集落を走った。何やらお祭りみたいな雰囲気だった。最後の気力を振り絞って何とか帰宅。休憩分を止めて6時間26分。最後まで帽子を被らず、バスにも乗らなかった。 テレビでは大学女子駅伝のゴール場面が観えた。それからシャワーを浴びて着替えし、愛犬と2度目の散歩がてら買い物へ。今日は時間はかかったものの、多少は練習になったのではないか。昨日の「伊南川ウルトラ」もそうだが、「長谷川カップ」に出た走友は大丈夫だったか。雨の山道を寝ないで24時間も走る厳しいレース。怪我がなかったことを祈りたい。
2011.10.23
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昨日勤務から帰ると、テーブルの上に妻の置手紙があった。「長い間お世話になり、ありがとうございました」。ではなく、「谷川岳の紅葉を観に行きます。明日の夜に帰宅します」。友人とバスツアーに行く話は聞いていたが、何時行くのかははっきり分からなかった。先日の「食べ物論争」で、妻も素直に言い難かったのかも知れない。 まあ冷蔵庫に食べ物があるし、無くても自分で作れるので何とかなるが、出かける前に一言断る時間はあったと思うのだが。今回の件も「干し柿にするからね」ではなく、「一部を干し柿にしたいんだけど、どうだろう?」とでも言えば喧嘩にならずに済んだはず。妻が何故断定的なものの言い方をするのか、私には良く分からない。 さて、昨日の楽しみは女子ハンドボールの試合だった。これで韓国に勝てばオリンピックへの出場権が取れる由。韓国は2度世界チャンピオンになったほどの強豪。最近の成績は1勝1敗1引き分けとのことで、いやが上にも期待は盛り上がった。前半は日本の1点リードで終わったが、もっと得点できたのにと思う場面もあった。 その心配が後半になって現れた。体格と運動量で優る韓国が徐々に実力を発揮し、最後は22対27の5点差で敗れた。高校時代の部活でハンドボールをしたことのある私には、久しぶりに興奮したひと時だった。来年の最終予選で代表になるチャンスは残っている由。何とか37年ぶりのオリンピック出場を果たして欲しいと願う。 昨夜のもう一つの楽しみは、2週間後に迫った沖縄本島マラニックのコース検討。4年目の今年は本部半島を一周する予定だが、この日ツーリストで新情報を入手した。それは昨年暮れに新しい橋が架かったこと。予定していたコースをまるきり変え、屋我地島~古宇利島~屋我地島~今帰仁村~海洋博公園~名護市として距離を再計算してみた。 これまでより7km長くなり、57kmになった。27度の気温の下、果たして今の体調で走り通せるか不安だが、冒険するだけの価値はある。沖縄の走友らんふぉさんの写真で観た光景が、実際に自分の目で確かめられるのだから。壊れかけた心臓と足が最後まで持つことを願うのみ。新たな闘志が湧いて来た。 今日は朝から雨。「伊南川ウルトラ遠足」では、この雨の中を大勢の仲間が苦しみながら走っていることだろう。彼らに美しい紅葉を愛でる心の余裕が残っているだろうか。最後まで頑張ってゴールを目指して欲しい。愛犬との散歩後、赤い実をつけたサンザシと紫のコムラサキシキブの枝を切り、花瓶に挿した。テーブルが少し華やいだ気がする。
2011.10.22
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何だか分かり難いタイトルだが、今日のテーマは仕事とウルトラマラソンとブログの話。さて私は現在67歳になる。この歳で肉体労働をし、ウルトラマラソンに挑戦し、ほぼ毎日ブログに長い文章を書いている。いずれも自分にとってはかなりきつい作業だが、最近とみにこれを維持する体力が無くなったことを痛感している。同時にこれは気力の問題とも言える。 前職は59歳まで41年間働いた。そして現在の仕事は9年目。併せて50年もの間、せっせと汗水を垂らして来た。途中2か月ほど求職期間があったが、高校時代も学費を稼ぐためにアルバイトをしていたので、ほぼ働きづめと言っても良い。きつい肉体労働を9年間続けて来た理由は生活費を稼ぐためであり、年金が満額支給されてからはマラソン経費をねん出するために変わった。 ランニングは35歳の正月から始め、今年で33年になる。ウルトラマラソンを始めたのは、51歳からだから今年で16年。記念すべき最初のレースは、「第1回四万十川ウルトラマラソン」だった。47都道府県の走破達成は8年前。最後に走った県は奈良県で、近鉄奈良駅前をスタートし柳生などを経由し、奈良市の周囲を50kmほどマラニックした。 これまでに走った全てのレース記録は残していないが、ウルトラマラソンとフルマラソンの完走回数は合わせて94回を数える。このうちフルの完走は49回で、ウルトラはフル以上の距離を走ってリタイヤした場合も含めて45回となる。そして今年は1度も100kmを完走出来なかった。それだけ年齢的に厳しくなったのが真実の姿だ。 現在のブログは開設後4年半。だがその前の「ネット日記」を合わせると10年目になる。これも10年の間にはネチケットの問題も含めて、色んなことが起きた。ほぼ毎日平均で4千文字もの文章を書き続けるのは一仕事。「ネタ」に困るのは日常茶飯事だし、どんなテーマでどんな風に表現するかと、まるで作家にでもなったかのような苦労の連続だ。 仕事を続けてウルトラのレースに出ている限りは、何とか話題も見つかる。ところが仕事を辞め、ウルトラを止めたら、きっと魅力の乏しい内容になるのではないか。それが専らの心配ごとだ。それでも写真1枚すらない我がブログを訪れる方が結構おられ、毎日文章を書く励みになっているのも事実。読者の皆様にはこの場を借りて心から感謝申し上げたい。 だから例え仕事を辞め、ウルトラを止める事態になっても、ブログだけは何とか頑張る積りでいる。もちろんウルトラだけがランニングではないし、走ることだけが趣味の全てではないのだが、ブログにも何らかの影響は出ると思う。今後はブログをどんな風に魅力のあるものにするか。それが私の課題と言えそうだ。そんな訳でこれからもご愛顧のほど、よろしくお願いしますね~。
2011.10.21
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昨日の対ロッテ戦で今季の楽天の全てのゲームが終わった。66勝71敗7分はパリーグの第5位。星野監督や選手にとって、この成績はきっと満足が行くものではなかったと思う。だが、シーズン直前の大震災によって、Kスタも補修を要する非常事態となったことを思えば、借金5で済んだのは上出来とも思える。 今季楽天球団は1勝について100万円を震災孤児の支援に充てることを表明した。66勝で6600万円。赤字に悩む楽天球団にとっては厳しい金額だが、震災孤児に役立つのならファンとしても嬉しい限りだ。最終戦の勝ち投手は新人の塩見。9勝9敗の成績は、新人賞の候補に相応しいように思えるのだが。 ただ、引退間際の山崎がホームランの本数も打点もチーム一では淋しい限り。元大リーガーの岩村も期待に応えることが出来なかった。来季は是非スラッガーが欲しい。打撃力アップを期待して、デーブ大久保が一軍の打撃コーチに就任する話が進んでいるみたい。そのため現在西武球団との間で争っている訴訟問題を取り下げたとか。 パリーグのCS進出を巡る争いもすごかった。最終戦で西武が勝ち、オリックスが敗れたために西武の3位が決まった。勝率の差はわずか1厘。千分の1の差とはビックリだった。一方セリーグの戦いも苛烈を極めた。一時2位に10ゲームの大差をつけていたヤクルトが、終盤になって主力選手の体調不良や怪我による戦線離脱が原因で失速した。 代わってトップに立ったのが中日。2年連続のリーグ優勝は球団記録と言うのも立派。だが、その監督の辞任を直前に発表した球団の非情さ。落合監督にとっては意地の優勝だったと思う。また3位争いに敗れた阪神の真弓監督の辞任も決定した。中日の後任監督は70過ぎの高木で、阪神の次期監督候補が日ハムを退団する梨田と言うのが意外。 日ハムのダルビッシュの来季の年俸が5億円と決まった由。25歳の青年が稼ぐ金額とは思えない巨額。だが彼はポスティングシステムで大リーグに行くことを希望しており、それが実現すれば球団にも巨額が支払われる計算。若くて力があるダルビッシュならきっと引き合いも多いと思う。 一方楽天の岩隈はどうか。FA資格を取った今回は球団の意向と無関係に、自分の意志だけで決定出来る。でも6勝7敗の成績で引き合いがあるかどうか。楽天の戦力外通告の中に寺田龍平の名前があった。札幌南高校卒の優秀な選手だったが、1軍での登板機会がないまま球界を去る。これもまた「弱肉強食」の球界の運命だろうか。
2011.10.20
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買って来た玉ネギの苗はその日の午後に植えた。100本と言えば多いようだが、根が浅く広がらない玉ネギは、1本当たりの広さをさほど必要としないから、畝1筋で済む。先ず指で穴を掘り、苗を植え、再び指で土を補うだけで良い。まあ30分くらいもあれば十分か。植え終わった後はパラパラと化学肥料を施し、如雨露で水を撒いた。 9月半ばに種を播いた白菜も、1カ月ほど経つと少しは白菜らしくなる。23個ほどの白菜がいつ頃から結球し出すか楽しみだ。楽しみと言えば今年初めて生ったユズ。まだ緑のままだが、黄色く色づくのは何時ごろだろう。そしてこれまでかなりの実が落ちた柿が、今年はほとんど落ちずに残っている。そのため、細い枝がしなっているほどだ。 その食べごろの柿を巡って妻と論争になった。枝から幾つかもいで妻にも勧めた。堅さがあるし、甘さが乏しい我が家の甘柿。私にはそれでも美味しいのだが、妻は熟してから食べると言う。まあ人によって好みが違うため、私だけが朝昼晩と1日3個の柿を食べていた。それが昨日「干し柿にするからね」と突然の宣言。 私は妻に言った。「干し柿にするには堅さからいって今が良いけど、気温が高いからカビが生えてダメになるよ」。それはこれまでの経験上からの意見だった。仙台の気温だと11月末にならないと冷たい風が吹かない。干し柿作りには寒風が必要。ところがその頃になると完全に熟してしまい、とても干し柿を作るどころではないのだ。 それでも妻は、「余所の家でも作っているから」と頑張る。それは渋柿の場合だろう。「作るなら作っても良いけど、必ず失敗するよ」と私は言って、これまで通り1人で食べている。確かに完熟になってから食べたら美味しいと思うけど、一旦熟し始めたら早く、120もの柿を急いで食べられるはずがないのだ。 今回の怒りには伏線があった。先日クルミを拾って来た時、「食べる?」と妻に聞いた。その返事が「何年か前のがあるから食べない」由。そんなに前のでは味が変わり、第一脂分が酸化して体に悪い。古いのはさっさと捨てるべきなのだが、彼女はそんなことも知らなかったのだ。 さらに不思議だったのがカスピ海ヨーグルト。ある時食べたら「飲むヨーグルト」状態になっていた。そこで冷蔵庫の中を確認すると「成分調整牛乳」。道理で上手く固まらないはずだ。脂肪分3.6%以上の成分無調整牛乳じゃないと失敗するのだ。だがそのことを忘れ、つい安いと喜んで買ったのだろう。 その銘柄の牛乳はヨーグルトには不向きだと、つい先日妻自身が言っていたばかり。だから「それなのに何故?」と思ってしまうのだ。妻と私は3学年違う。たったそれだけでも、子供の頃の食生活は「月とスッポン」ほど違うはず。私は戦後の「配給制度」に苦しんだ経験があるが、妻には「飢えた」経験が全くないのだと思う。 過酷な時代に育った私は、例えどんなものでも感謝して食べることが出来る。何せ腐りかけのサツマイモや、裏の畑からかっぱらったネギを刻んで食べていた時代。ゴマ塩を振りかけただけのご飯も美味しかったし、生卵などは大変なご馳走だった。そして進駐軍の兵士が戦車の上から投げるガムやコーヒーを争って拾ったのだから。 私は食べ物を粗末に出来ないし、「こげ」でも食べられる。「もったいない」を合言葉にして生活改善を進めたアフリカの女性がつい先日亡くなった。確かノーベル平和賞の受賞者だったと思う。日本は「飽食」に慣れ切っているが、そのうち世界では食べ物が大量に不足する時代が必ずやって来る。食べられることに先ず感謝。それが大事だと思うのだが。
2011.10.19
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日曜日の午後は、パソコンで楽天の試合を確かめていた。テレビもラジオの放送もない場合はそうせざるを得ないのだ。この日の先発はマー君。彼の最多勝獲得が懸っている大事な試合だった。高校時代を北海道で過ごした彼は星野監督に直訴して登板を1日ずらしてもらった由。記念すべき試合をお世話になった北海道の人に観てもらいたかったそうだ。 そんなゲームを救ったのが銀次。彼は捕手として入団したのだが、その後打力を買われ野手に転向した選手。1軍での本格的なデビューは確か今年からだと思う。その銀次の一振りが2点タームリー。防御率1点台のマー君にはそれでも十分だった。味方のエラーなどで2度のピンチがあったようだがいずれも気迫で圧倒し、見事完封勝ちを収めた。 最多勝を争っていた日ハムのダルビッシュは、CSに向けての調整を理由にその後の登板を辞退したため18勝に終わった。問題はソフトバンクのホールトン。今日彼が先発して勝てば最多勝に並び、中3日で再び勝利すれば彼が20勝で最多のタイトルを取ることになるが、果たしてどうか。目下マー君は防御率、勝率、完投勝利数などでもトップ。沢村賞獲得も目前だ。 昨日は種屋に玉ネギの苗を買いに行った。今年の苗がようやく入荷すると聞いたのが昨日。早速1束買った。100本の苗が650円。1本6円50銭の計算だが、上手く育つかどうか。その帰り道、橋の上から川の中を観ると大勢の人が作業をしている。予め張ってある網に向かって徐々に包囲を狭めているようだ。 これはきっと鮭の捕獲に間違いない。初めて目にする光景に興奮する。男の人達は名取川・広瀬川漁協の関係者。捕獲した鮭から卵を採り、人工ふ化させて、来春稚魚を放流するのだろう。網の中から鮭が捕えられる。鈍色(にびいろ)に赤の婚姻色が混じった魚体は、まだうろこがしっかりしている。これが自然の産卵だと体が擦り切れて、ボロボロになる。 大きな地震と津波があったにも関わらず、鮭は今年も帰って来た。確か鮭は4年かかって成長し、生まれ故郷の川を遡上すると聞いた。そして人口が100万人を超える大都会の川に、鮭が上るのは珍しいと思う。私が観ているうちに手で捕まえた鮭は10本ほど。網の中には、後どれくらい入っていたのだろう。 夕方のニュースの時間に、懐かしい名前を聞いた。思わずテレビを観ると、やはりKさんだった。45年も前に下宿で一緒だった先輩だ。当時彼は工学部の博士課程で学んでいた。確か専攻は材料破壊で、中でも金属の弾性、塑性に関するものだった。その後私は転勤族となったが、彼は大学に残って助手から助教授と栄進した。 彼がとある研究所に転勤したと聞いたのは数年後。教授は自分の息子を助教授に据えたかったようだ。やがて時は経ち、彼が研究所の所長になったことを知った。その彼は既に70歳を超えている。目の前の顔も若い頃と同様に穏やかで、言葉はさらに優しくなっていた。彼はタンクの破壊研究の第一人者で、肩書はさる国立大学の特任教授となっていた。 今回の大津波で流された石油タンクの画像を観ながら解説する彼の姿は、全国放送でも再び観ることが出来た。若い時から飄々とし、大人の風格があった彼。自然科学はもとより歴史にも造詣が深く、経済的に困っていた私から日本史の全集を買い取り、忙しい中わずか2か月ほどで40巻を読了したのには驚いたものだ。 彼は順調に研究者としての道を極め、世界を相手にして来たのだと思う。その彼に対抗出来る何ものもない私だが、私なりに様々な経験をした積りだ。一緒だったのは若い頃のわずか数年の下宿暮らしだけ。その彼とテレビの画面を通じて出会えたのは、きっと大震災の「お陰」だと思う。不思議な縁だが、時たま人生にはこんなことが起きるから面白い。
2011.10.18
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< 大浴場から観た頂上 > 15分ほどの休憩の後、いよいよ頂上に向かって出発。40分ほどかかって表コースとの分岐点に到達。ガイドの説明も聞かず、ただひたすら足元に注意を払って登るだけ。ここまでの高低差は130mほどだが、ここからは比較的傾斜がきつくなる。同時に風を防いでくれていた灌木が無くなり、背の低いハイマツが目立つようになる。 風がきつい。そして周囲はガスに包まれたまま。ガイドが頂上が見えると言ったが、それも直ぐに消えた。前日「雨よりも風に注意」と言った添乗員の言葉は本当だった。喘ぎながら登って行くと、ガイドが「後5分で頂上」と言った。それを後ろの人に大声で伝える。ゴンドラの頂上駅からの高低差は350m。それを2時間ほどかかって登った計算だ。 別のグループが頂上部付近で記念撮影していた。本当の頂上は50mほど上の「乳首岩」らしい。なるほどおっぱいのような山が見える。きっと溶岩ドームなのだろう。学生時代は野地温泉に1泊し、鬼面山~箕輪山~鉄山~安達太良山と縦走し、岳温泉まで下りた。だからきっとあの岩にも登っているはず。 風が強い。岩に腰を下ろし強風を避ける。風に混じって飛んで来る硫黄の匂い。安達太良の西側にある沼尻温泉付近には、登山家の田部井淳子さんの別荘があるそうだ。B班の到着を待って全員で記念撮影。わずかの休憩だけで直ちに下山開始。何も見えない頂上だったが、ここまで登れたことに満足する。 帰路はさらに滑り易くて怖い。笹や木の枝を掴んで転ばないように注意したが、1度だけ転んでしまった。もう妻のことは忘れ、自分のことで精一杯だった。こんな時にもガイドのどうでも良い話が続く。そのオネエ言葉が気に障る。彼が人数を十分確認しないで出発したため、4人の人を置いてきぼりしたことに途中で気づいた。 五葉松の大きな松ポックリがあった。これは2年かかって育つ由。それをホシガラスが食べ、種を遠くにまき散らすとか。悪戦苦闘しながら木道まで下りる。これは皇太子殿下が来られた際に整備されたもののようだ。携帯で確認すると強風でゴンドラが停止中だった。既に往復支払っていることを理由に粘り強く交渉し、ようやく運転してもらうことになった。 帰路の景観はさらに素晴らしかった。何と下界ではガスが晴れ、車体が強風に揺すられることもなく、安心して乗ってられた。麓の駅で降り、雨具とスパッツを脱いで始末。2人の山岳ガイドはここでお別れ。新潟の方は、翌日岩登りの試験に立ちあう予定とか。私達はバスで麓の温泉に向かった。 元ホテルの大浴場は日帰り温泉で透明な単純泉。神経痛や筋肉痛に効能がある由。大浴場の真正面に安達太良連峰が見えた。頂上ではガスがかかっていたのに、今はきれいな山容がすっかり見える。ゴンドラの頂上駅や「乳首岩」まで分かった。45年ぶりに安達太良に登れて良かった。ここは高村光太郎の詩に詠まれた、妻智恵子の故郷なのだ。 翌日妻が写生旅行に出かけた後、登山靴やスパッツなどを洗って干した。9時過ぎには日が差し始め、洗濯物が全て乾いた。ともあれ、登山でも膝に痛みが出なかったのが一番嬉しい。洗濯物や登山用品を片づけながら、来年もまたどこかの山に必ず登ろうと思った私だった。
2011.10.17
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< 登頂か下山か > 「あだたら高原スキー場」前でバスを降りた。ここから先ず1350m地点までゴンドラ型のロープウエーに乗るのだ。不必要な荷物はバスの車中に置き、登山に必要なものだけリュックに詰めた。だが、幾ら待っても妻が来ない。引き返すとバスの中に一人残り、登山の準備をしてる妻の姿が見えた。私は外で雨具を着た。そして足元にはスパッツ、リュックには雨よけのカバーを装着する。 前日添乗員から連絡があった時、雨のことより風のことを強調していたと妻。数日前から天気予報を気にし、大雨になることを私は恐れていた。前線が通過し、全国的にも大雨の状態。まして高い山の上では、激しい雨になるのではないか。そんな危惧の念が強く、この朝浮き浮きしている妻にも同調しなかったのだ。 何とか準備を完了した妻とロープウエーの発着所へ急ぐ。チケットをもらおうとすると、添乗員は先ずトイレを済ませと言う。なるほど確かに慌てる必要はない。2階の乗り場に行くと、ツアー仲間の大半は既に出発していた。6人乗り用のゴンドラに妻と2人だけで乗り込む。貸し切り状態とはビックリ。準備が完了して静かにゴンドラが動き出した。 駅を過ぎると、目の前に大パノラマが展開。周囲には赤や黄色の美しい木々が見渡せた。この素晴らしい景色にテンションが上がり、妻の機嫌も直ったようだ。これほど見事な紅葉は、昨年の栗駒山登山以来。ツタウルシ、ヤマウルシ、カエデ類の赤にダケカンバの黄色の配色が絶妙だ。しかし強い風がゴンドラを揺する。 何度も停まるゴンドラ。私はてっきり、ゴンドラが停まるのは乗客が乗り降りするためだとばかり思っていたのだが、駅員が危険と判断し時々制止したのが真相のようだ。後で知ったのだが、東京から来たツアー客達は強風でロープウエーが動かなかったため、已む無く登山を中止したそうだ。何とか乗れた私達はラッキーだったのだ。だが、降車直前でゴンドラは風に揺さぶられ、コンクリートに底をぶつけた。 山頂駅で降りた後、全員でストレッチ体操。岩が雨で滑り易く、転んだり捻挫をする可能性があるが、少しでも怪我を防ぐための体の準備作業だ。出発前、私と妻は大福を食べた。時間は11時少し前。まだ昼食には少し早いと判断。私達15人がA班で山岳ガイドは福島のWさん。この方にお世話になるのは今回が3回目。B班14名のガイドさんは新潟の方だった。 最初は木道で、傾斜も緩い。そして周囲には色鮮やかな灌木があり、風も避けられる。黄色い葉のミネカエデと赤が美しいコミネカエデ。サラサドウダンも見事な赤。ウラジロヨウラクや来年に備えて花芽を準備しているハクサンシャクナゲ。特徴的な半透明の薄緑はコシアブラ。春先の若葉は天ぷらにすると美味しい。健気に赤い実だけが残ったツルリンドウも可愛い。 だがそんな気楽な道は直ぐに終わり、目の前には前日来の大雨で小川と化した山道が私達を待っていた。やはり登山は甘くない。滑らないように注意しながらの前進が続き、やがて大きな水たまりに出くわす。脇の笹を踏み水を避けるものの、抵抗も虚しく次第に登山靴が浸水する。五葉松平への分岐点で最初の休憩。ここで給水と簡単な給食を済ませる。 実はここまで登る途中に、引き返して来るグループと出遭った。風の勢いが物凄く、それ以上進むのは危険と判断し、頂上へ向かうのを断念した由。果たして私達は頂上へ行けるのだろうか。心配しながらの小休止だった。風に混じって打ちつける雨。だが2人の山岳ガイドと添乗員の判断は登山続行。何とか標高1700mの安達太良山頂に立てるかも知れない。<続く>
2011.10.16
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妻と参加していた登山ツアーから無事帰宅しました。詳細については明日のブログで紹介しますね。ご来訪どうもありがとうございました。
2011.10.15
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「東京マラソン」が今回も外れた。これで連続6回目の落選。いかに籤運が悪いと言っても、これではねえ。走友の中には連続5回当選の幸運の持ち主もいると言うのに。大都会の真ん中を走れる「東京マラソン」はランナーの憧れ。10万円をチャリティーとして支払えば参加出来る「奥の手」もあるが、そこまでして走る気はない。このままいつまでも出られないと、歳をとって完走はますます遠のいてしまう。 「東京マラソン」と開催時期が同じ来年2月の「いわきサンシャインマラソン」から開催通知が届いたのは、かなり前のことだった。いわき市は福島県南部の海沿いにある市で、例の「フラガール」で有名な観光施設があるところだ。今年3月に発生した「東日本大震災」では、このいわき市も甚大な被害を被ったと聞く。 特にマラソンコースは海沿いにあるため、とても開催は無理だろうと思っていた。それに重要な交通機関であるJR常磐線も、福島県内ではほぼ不通の状態にあった。それが不死鳥のように蘇ったのだからビックリ。来年で第3回目を迎えるこの大会はコースがとても素晴しく、大勢の市民から応援が送られる港が2か所もある。 だが、実際に参加するとなれば苦労も多い。交通手段も一考を要するし、場合によっては前泊する必要があるからだ。でも主催者の意気込みを考えれば何とか参加したいとも思う。さて、そこで最も厄介な問題が、私の辞職の時期と心臓の手術を受ける時期がまだ決まってないことだ。今の段階では、手術を受けられるかどうかも分からない。 不確定要素が多い中でも、そろそろ来年の参加レースを決めなくてはいけないのは、エントリーが早くから始まることにある。これだと申し込む時期とレースの間にタイムラグがあり、体調が大きく変化した場合などに困ることが生じる。今年の私のケースがそうだった。そんな中で現在考えている来年参加予定のレースが以下のものだ。 凡例 ◎エントリー済み <>抽選待ち◎ 1月29日(日) 「勝田マラソン」 茨城県 (フル) 前泊?◎ 2月12日(日) 「いわきサンシャインマラソン」 福島県 (フル) 前泊? 3月 <京都マラソン> 京都府 (フル) 前泊 4月 「秋保夢舞マラニック」 宮城 (31km) 当日参加 5月 「仙台鉄人会」 宮城 (フル) 当日 <仙台国際ハーフ> 宮城 (ハーフ) 当日 6月10日(日) 「いわて銀河」 岩手県 (50km) 1泊 7月14日(土) 「磐梯高原猪苗代湖M」 福島県 (60km) 1泊 8月 峠越えマラニック 単独走 (60km程度) 日帰りの予定 4日(土) 「薬莱山とお足マラニック」 宮城 (55km) 日帰り 9月 峠越えマラニック 単独走 (60km程度) 日帰り 10月7日(日) 「弘前アップルマラソン」 青森県 (フル) 1泊 または 20日(土) 「伊南川ウルトラ遠足」 福島県 (100km) 2泊 12月2日(日) 「NAHAマラソン」 沖縄県 (フル) 2泊 これに要する経費は約30万円。来年はこれまで蓄えた「へそくり」があるので何とかなるが、再来年からは新たな財源を見つける必要がある。また趣味はマラソンだけでなく、楽天の応援や家庭菜園もあるので、さらに経費がかかる。仕事を辞めるのは簡単だが、小遣いに苦労するのも確か。 いずれにしても健康が第一。健康でなければ走ることも趣味を楽しむことも出来ない。来年は「いわきサンシャインマラソン」のように、私自身も復活したいと強く願っているが、100kmへの挑戦は無理をしない積りだ。なお明日は雨の中を登山ツアーに参加する予定。帰宅は夜遅くなると思うのでご了承を。
2011.10.14
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先日の日曜日に妻と「ツレがうつになりまして」を観に行った。原作は細川貂貂の漫画だが、NHKで3回もののテレビドラマ化されたことがある。漫画家の妻役が藤原紀香、夫役が原田泰三で、私はそのうち1回だけ観た。映画での妻役は宮崎あおいが演じ、夫役は堺雅人だった。人気番組だけにかなり混むかと心配していたのだが、朝一番の上映だったため思ったほど客は多くはなかった。 サラリーマンの夫が会社勤めのストレスでうつ病になり、漫画家の妻が悪戦苦闘しながら夫を支えると言うストーリーだが、ほのぼのとした夫婦愛が観客を泣かせた。この話は漫画家夫婦に実際に起きた話。映画は夫の回復する兆しが見えたところで終わっているが、漫画の方では「その後のツレがうつになりまして」、「7年目のツレがうつになりまして」と続く。 さらには「ツレはパパ○年生」と言うのがあるようで、夫婦にはその後子供が授かるようだ。実際の夫婦の写真を観たら、どちらも丸々とした顔立ちで、どうしてうつ病になったか分からないほどの笑みを浮かべていた。現代はストレス社会。誰しもが心の病になる可能性がある。ましてうつ病は「心の風邪」と言われるほど一般的な病気とか。 東日本大震災以来、宮城県では夫婦の離婚相談が増えているそうだ。夫の離婚したい理由は「震災後、妻の精神状態がおかしくなったこと」で、妻が離婚したい理由は「夫が自分勝手なこと」らしい。大震災と言う異常事態が生じたことで、お互いの心にちょっとした「すき間」が出来たのだろう。この理由を私はとても良く理解出来る。私も似たような経験をしたからだ。 大地震発生後、妻の精神状態は明らかに異常だった。妻の姉夫婦に相談などして、妻の方はその後改善したのだが、義姉の方がうつ病に罹ったように感じられた。ごく最近診察を受けた総合病院で、義姉はうつ病ではないと診断された。また別の総合病院では、認知症でもないとの診断結果だった。 妻は相変わらずうつ病を疑っているが、私は不安神経症だと思う。義姉がこれまで通っていた精神科の先生がカウンセリングをしないと言うので不思議に思っていのだが、何とその精神科医自身がうつ病だった由。大震災以来、心を病む人が大幅に増え、入院も困難な状態にあるとか。 「うつ病は心の風邪」。それならいつか軽快する時も来るだろう。そして不安もいつかは霧散する時が来る。義姉は今「お正月の料理が作れないこと」を心配しているが、「大丈夫。私が2軒分作るから」と妻は励ましている。そして義兄にもこの映画を観ることを勧めているようだ。心の病の特効薬は何と言っても「家族の愛情」。どんな薬よりも良く効くと思うのだ。
2011.10.13
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昨日、「東日本大震災」から7ケ月目を迎えた。石巻市では昨日をもって、全ての避難所を閉鎖したそうだ。今後は仮設住宅で暮らす方が大部分のようだが、年寄りには不便な住宅が多いとか。先ず買い物に不便だし、病院に行くにも不便。仮設住宅はそんな場所にしか建てられないのだ。 子供達の通学にも遠いようだし、第一2年後にはこの仮設住宅を出なければならない。「生活の自立」が建前のためだ。会社が津波で無くなったり、職を失った人も多い。そして町ぐるみの再建計画がなかなか決まらないこともある。安全な場所に住宅地を作るにしても、これまで住んでいた土地を誰がどんな価格で買い取るのか、それすらまだ何の見通しもないのだ。 それでも幾つかの市町村からは、復興計画が発表された。また仙石線や常磐線の不通区間では、新たにう回路を造ることもJRと関係市町村との間で合意に達した。津波の被害を恐れて、内陸部へ移動する案だが、これも今後土地の買収が円滑に進むかどうか。 厳しい話だが、被災した岩手、宮城、福島の3県に災害救助の手を差し伸べた22都県から、3県に対して救助に要した経費44億円を請求する動きがある由。これは「災害救助法」に基づく請求だが、金額はさらに増える可能性があるみたいだ。最終的には国が負担することになるが、国家予算が苦しい中で国民の負担も増えそうな感じ。 明るい話題も幾つかあった。被災地の児童が阪神地区からの呼びかけで修学旅行をした話や、逆に阪神地区の生徒が修学旅行で三陸の被災地を訪れた話を聞いた。前に石巻市で泥だらけのピアノを修理してリサイタルの伴奏に用いた話を書いたが、今度は宮城県七ヶ浜町で被災に遭ったピアノを修復した話。 津波に遭ったピアノを修復したのは横浜の調律師である松木さん。だが1個の鍵盤だけは今回の被害を忘れぬために、剥げたままに残した由。このピアノを伴奏に使ってリサイタルを開いたのはレゲエ歌手のMetisさん。聴衆は持ち主の鈴木さん以下7名のみ。バックコーラスで歌ったのは被災地の小学生。演奏後、ピアノは七ヶ浜町に寄付されたそうだ。 71名の児童が津波で亡くなった石巻市立大川小学校のこと。1人のお母さんが行方不明のお嬢さん何とか見つけようと、わざわざ重機の資格を取った由。そして根気良く重機で瓦礫を掘り続け、ついに遺体の一部を発見したとのニュースを聞いた。瓦礫に埋まったままで数カ月。見つかった遺体も一部だけとは、津波がいかに激しかったかを物語ると思う。だがその津波より、我が子を思う母の執念が勝ったということだろう。合掌。
2011.10.12
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100kgの巨体が6度宙を舞った。胴上げされた山崎も、胴上げした楽天の各選手も、皆泣いていたそうだ。現役志望の選手が胴上げされるのは珍しい。「こんなに胴上げが気持ち良いとは思わなかった」。山崎はそう言っていた由。 昨日の対ロッテ戦が、山崎の楽天での最後の試合になった。彼の出番は7回裏1アウトの場面。ちょうど4番の打順の時だった。初球から山崎は打ちに行き、2ストライク目の球をセンター前に運んだ。バットの真芯に当たる見事なヒットだった。 8年前のシーズン後、山崎は大勢の仲間と共にオリックスから戦力外通告を受けた。その彼を救ったのが楽天。そして初代の田尾監督は辛抱強く山崎を使い続けた。他に大型バッターがいなかったせいもある。2代目の野村監督は山崎にピッチャーの投球に「山を張る」ことを教えた由。それからホームランの本数が飛躍的に増えた。 一度戦力外通告された選手がホームラン王や打点王になるのは極めて珍しい。しかも25年間で打った402本のホームランのうち、半数近い191本は7年間しか在籍しなかった楽天で打ったのが凄い。努力の賜物でもあるが、それだけ強い体を維持していた証拠だろう。その彼に引退を強く迫ったのは、中日で一緒だった星野監督自身とのこと。 それだけに山崎の悩みは深かったはずだが、現役続行を決めたのは「パパには野球を続けて欲しい」と言う息子の言葉だったとか。球団創設後の歴史が浅い楽天で、山崎は親分、兄貴分であり、時にはコーチに代わって鉄拳を振るったこともあったとか。それだけ必死に若手を育てようとしたのだろう。 彼はトライアウトを受ける意志は無いと言う。つまり彼を必要とする球団が名乗りを上げない限り、プロでのプレーは不可能なわけだ。だが、来季新監督を迎える中日が、山崎の獲得に乗り出す意志がありそうだ。落合中日は強かったが、球団やファンに迎合することはなかった。ファンの足を球場に向けさせるためにも、是非山崎の人気を借りたいみたいだ。 仙台のファンは一途な山崎をこよなく愛した。山崎もそれを感じたのか、「仙台での恩は一生忘れません」と最後のインタビューで話していた。戦力の乏しい楽天で、きっと山崎は苦労したと思う。岩隈も田中も山崎の一振りに助けられて、幾つもの勝利を物にしたし、選手会長の嶋捕手も山崎に育てられた一人だった。 来季もまたKスタで再会したいもの。所属がセリーグになるかパリーグになるかは分からないが、敵と味方に分かれて、是非試合をしたいものだ。そして何年か後に引退したら、是非コーチや監督として楽天に戻って来て欲しいと願う。彼はそれだけの価値を持つ男だ。最後に彼の個人応援歌で、背番号7を送りたい。 乱れ行く雲を突き嵐に向かう男 立ち上がれ山崎 名古屋の意地だ~ ありがとうね山崎。これからも頑張れよ~!!
2011.10.11
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楽天の主砲山崎選手に来季の戦力外通告が出されたことを知ったのは、昨日のブログを掲載した後だった。ここのところ先発から外されただけでなく、ピンチヒッターとしても声がかからなかった山崎。その背後には来季選手としての契約をしないと言う球団の姿勢が絡んでいたわけだ。この時期どの球団も来季の構想を練っていて、その構想から外れる選手にはその旨を伝えるのだろう。 力が衰え戦力として役立たない選手が契約を切られるのは、実力が物を言う世界では当然のこと。だが、選手の中には「自分は現役でまだまだやれる」との意識が残っている者もいる。戦力外の通告を受けた中でもまだ自信がある選手は、「合同トライアウト」という「採用試験」を受けることになる。 楽天創立当初から中心選手として貢献した山崎に対して球団側は、コーチとして残る道を示したようだ。だが山崎は家族の支援もあって現役として進む道を選んだ。非情なようだが、トライアウトで戦力として認めた球団が現れない限り、プロ野球界に残ることは不可能。果たして来季43歳になる山崎に手を差し伸べる球団が現れるかどうか。 その山崎は今日の対ロッテ戦で先発出場する予定らしい。そしてそれが楽天の山崎としての最後のゲームになるようだ。経営の苦しい球団としては、山崎の年俸があれば有望な若手選手7、8人を獲得出来ると考えたのだろう。ファン心理は別として、それは球団としては当然の措置だと思う。老兵はいつか必ず去る時が来るのだ。 先週の月曜日に右膝関節にヒアルロン酸を注射して以来、全く走らなかった。正直膝の調子が心配だったこともあるが、ランナーからジョガーになったことで(?)、気持ちの張りが失われたことも確かだ。人間気合が無くなれば、屁理屈をつけて楽な道を選ぶようになる。ところが今日は体育の日。「復活」にこれほど相応しい日はないはずだ。 いざ走り出すと心配だった右膝は何ともなく、むしろ左膝の周辺に違和感を感じたほど。隣の市の山の上まで登り、そこから下って名取川の堤防を走った。大勢の子供達が野球の試合をしている。仮の瓦礫置き場では、津波で流された瓦礫に雑草が茂っていた。大震災から7カ月経っても、まだまだ処理されないまま放置された瓦礫は多い。 太白大橋の上から川を眺める。今日このコースを選んだのは、鮭の遡上が始まったかどうかを確認するためでもあった。だが、まだ川の流れに鮭の姿はなかった。18kmを2時間半近くかかって帰宅。のろのろのジョギングしか出来なかったが、それでも満足な練習だった。これなら今週末の登山も、来月の沖縄本島マラニックも大丈夫のはず。 プロ野球選手ほどランナーは過酷ではないが、体力的な衰えは自分でもはっきり分かる。だが年俸をもらってない分、引退時期を出来るだけ引き延ばすことが可能なのだ。せめて気力の衰えだけでも防ぎたいもの。そして納豆を食べ、モロヘイヤを食べ、とろろ昆布を食べ、オクラを食べて、粘れるだけ粘ってみようと思うのだ。
2011.10.10
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前日岩隈が早々に打ち込まれ、楽天は無残な負け方をした。まだ残りのゲームはあるが、今季の5位はほぼ決定だろう。昨年のポストシーズンに、大リーグに行く機会があった岩隈。だが彼は自らの意思で、大リーグ行きを断った。多分年俸が自分が考えたものと違うのが原因だったのだろう。 その彼が今年もシーズン途中で体調を崩し、成績は6勝7敗と、とうとう負けが先行する惨めさ。かつて楽天のエースと呼ばれた男として、その変貌の激しさに驚く。岩隈より中継ぎの小山が9勝、新人の塩見が7勝と上回っていることに象徴されるように、今季の楽天は先発投手が実力を発揮するまでに至らなかった。 主砲の4番が42歳の山崎と言う現状では、バッティングでもさほど期待は持てなかった。それより何より、3月11日に発生した「東日本大震災」が、我が東北楽天にもたらした影響があまりにも大きかった。Kスタは補修を要するほどの大被害を受け、このことで本拠地での練習もままならなかった選手達。 この影響は楽天のみに留まらず、パリーグの公式日程変更につながり、さらにはセリーグの開幕も遅らせ、球界全体に影響を与えることになった。「阪神淡路大震災」の時は、地元オリックスの選手達が奮起して見事優勝を勝ち取ったが、創設後日も浅い楽天が「がんばろう東北」のワッペンを付けても、残念ながらその実力には限界があった。 さて、長い前置きはさておき、昨日私はKスタへ行った。今年8回目の球場での応援だった。先発が最多勝を争っている田中マー君だったことも大きな理由だ。彼こそ今や楽天の大黒柱。22歳の若者の双肩に、楽天の興亡がかかっているのだ。ここまで17勝でトップタイ。この日勝てば単独1位になる大事な試合。大勢のファンが押しかけたのは当然だ。 前日岩隈を粉砕した千葉ロッテの応援席は、この日も見事に統一された応援ぶり。だが、敵のエース成瀬をあっと言う間に打ち砕いた楽天打線。3回までに大量7点を取り、強烈に援護。防御率1位の田中には十分過ぎた。終わって見れば15安打で8対0の完封試合。若獅子田中の単独トップが実現したゲームだった。 今季Kスタ応援の成績は4勝3敗1引き分けとなり、1つだけ勝ち越した。今回が今季の最終応援になる。塩見の新人王獲得がなるか。岩隈の大リーグ入りが実現するか。山崎に替わるスラッガーが来季入団するか。私の関心はむしろポストシーズンに向けられている。 大震災の今年、選手達は良く頑張ったと思う。星野監督にはもっと辛抱強く選手と付き合って欲しいと願う。そして球団関係者には、さらなる選手補強をお願いしたい。球団が強くなればファンが球場に足を運ぶ回数が増え、結果的に球団が潤うことになるからだ。勝負事は「勝ってなんぼ」の世界。時には採算を度外視して思い切った措置をしないと、球団は延びない。ありがとうね、わがイヌワシの闘士達よ。そして来年こそはAクラス復帰だぞ~。
2011.10.09
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「秋田内陸」のリタイヤ記やその後の体調のことを書いているうちに時が過ぎた。朝夕めっきり寒くなり、山には初雪が降った。キンモクセイも咲き、その強い香りが今では少し薄れて来ている。 命を終えた人工衛星は南太平洋のサモア諸島周辺の海に落下し、久しぶりに日本人大関が誕生した。大関昇進を伝える使者に、琴奨菊は「万里一空」の心で精進する旨の口上を述べた。それは剣聖宮本武蔵が到達した心境のようだ。 俳優香川照之が歌舞伎俳優として再出発し、市川中車を襲名する由。彼は市川猿之助と浜木綿子との間に生まれたが、父母の離婚で歌舞伎界には入れなかった。それが中年を過ぎてから歌舞伎界へ入ることになったのは、息子を歌舞伎役者にしたかったから。そのためには自分自身もその世界に居ることが必要と考えたみたい。大きな決断に拍手を送りたい。 民主党の小沢元代表の3人の元秘書に、それぞれ判決が下った。執行猶予付きの有罪だった。それを不服として、早速控訴の手続きを取ったのが石川議員。まだまだ決着は遠そうだ。本家本元の小沢氏の裁判も始まった。その第1回目の公判があった夜、小沢氏は緊急入院した。痛みの原因は尿管結石だったとか。結審は来年の春。いかなる判決が下るか。 ノーベル賞の受賞者が発表されたが、その中に日本人の名はなかった。医学生理学賞や文学賞などに受賞候補者と目される人がいたようだが、残念。その代わり、「イグ・ノーベル賞」が今年も日本人に授与された。これはブラックユーモアで、馬鹿馬鹿しい結果に終わったものが選ばれる。だが、今度の受賞対象になった研究は真面目で立派な内容だと思ったのだが。 9月の下旬に播いた白菜の成長が悪かった。虫が食べるせいだ。良く見るとシジミチョウの幼虫やテントウ虫の仲間、ショウリョウバッタなどがまだ小さな葉に食いついていた。彼らも生きるために必死なのだろうが、殺虫剤を撒いて退治した。そして追肥を施したら、移植した株も含め、次第に大きく成長し出した。野菜が高い今年。何とかこのまま育って欲しい。 大雨が降り、大風も吹いた。そのせいか、季節はすっかり秋になった。愛犬の夏毛が抜け落ち、冬毛に生え換わって来た。早朝にブログを書く時は、膝に毛布をかけないと寒い。自室の唯一の暖房機であるコタツは、この春壊れたまま。早めに買う必要がありそうだ。そして停電に備えて石油ストーブも買いたいと妻。わずか2週間の間にも、どんどん季節は移ろい行く。
2011.10.08
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9回目の「秋田内陸」から10日ほどが経った。ひょっとしたら「秋田」を走るのは、今回が最後になるかも知れない。そんな想いを込めて、書き忘れたことを若干付け足してみたい。 あれは25、6km地点辺りだと思うが、後から近づいて来た車が急停車し、降りて来た男の人が私の名を呼んだ。ウルトラ仲間のI本さんだった。きっと私が「宮城UMC」のTシャツを着ていたため気づいたのだと思う。強烈なオレンジ色のTシャツは、遠く離れていても良く目立つのだ。 後で彼に会ったKさんの話によれば、彼は体調を崩したために参加できなかった由。それでも「秋田」に対する気持ちが高まり、遥々仲間の応援に駆けつけたのだと思う。助手席には奥さまが乗っていた。そして小さな愛犬も。その犬の頭を撫でて、私は再び走り出した。 左の股関節周辺が痛み出したのはそれから間もなくのことだった。夏以来体調が悪く、長い距離の練習をしていなかった私には、きっとその辺が限界だったのだろう。それでも暫く先の峠道では、すっかり痛みは消えていた。 45kmでのリタイヤは、これまで出た100kmレースで最短記録になった。直前に出来た練習での最長が23km。常々私は練習で走れる2倍の距離はレースで走れると考えているが、まさしくそれが証明出来たと思う。そして時間さえ許せば、きっと60kmは走れたと思うのだが。 整形外科のドクターには、足底筋保護の観点から底の堅いシューズを履くよう指示されていたが、今回はその指示どおりのシューズを履いて走った。スピードが遅かったためにその堅さにも耐えられたが、もっと長い距離だったらどうだったか。底の堅いシューズにシリコン製の医療用インソールを装着すると、さらに足には負担がかかる。インソールは歩行用で、ランニングのことまでは考慮していないのだ。 100kmの前日と翌日に秋田の山に登ったS村さんが、読書中の本を私に見せてくれた。鷹巣からスタート地点の角館まで「秋田内陸鉄道」に乗った際に読んだ由。本は漢字学者の白川静に関するものだった。彼の名前は宮城谷昌光の歴史小説にも時々出て来る。宮城谷が尊敬する学者のようだ。S村さんによれば、この本に宮城谷の名が出て来るそうで、彼の文章を誉めていた由。 漢字学者で私が知っていたのは諸橋轍次や藤堂明保。今回のことがきっかけで調べてみたら、藤堂と白川は、どうも学問的な敵対関係にあったようだ。原因は白川の学説には直観的なひらめきが多過ぎることみたい。漢字の起源が甲骨文字であることを考えれば、白川が唱えるように漢字に呪術性が潜んでいるのは当然のようにも思う。 帰路、東北道の長者ケ原SAで休憩した際、直ぐ裏にある「化女沼」(けじょぬま)を遠望することが出来た。私が見たのは、多分沼の一部なのだろう。古川グループの仲間達は、白鳥の飛来で有名なこの沼の周囲を走って練習していると聞いていた。ここが彼らの練習場所だったかと、胸に感慨が過った。
2011.10.07
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順調に滑り出したかに見えた「ジョガー移行計画」が躓いたのは、数日後のことだった。あれは先週木曜日。夜中に目が覚めると鼓動が変。日中静かにしている時にも、突然強い動悸がすることがあったが、寝ている時の強い動悸は初めてだった。やはり心臓の調子が良くない。出来るだけ早く心臓の手術を受けたいと思った。 2つ目の異常は右膝。これは土曜日の朝だった。いつものように愛犬と散歩に行こうとしたら膝が痛い。これまでも右膝がキリリと痛むことはあった。だが今回はどうしても痛みが退かない。仕方なくそのまま散歩を続け、その日は一日中静かに過ごした。だが痛みは翌日になっても同じ。結局週末の土日はどこへも出かけられなかった。 突然襲った痛みの原因は何だろう。ガラスの破片が突き刺さったような痛みからすると、膝関節中の軟骨がすり減ったとしか思えない。ここまで膝が痛んだことはかつてなかった。激痛を伴うままでの「伊南川」への参加はとても無理。そう考えてお世話役のKさんに電話し、参加を断念する旨伝えた。宿泊先のこともあり、早めに連絡しないと迷惑をかけるためだ。 今月中旬には登山に行く予定だったが、これは妻に1人で行ってもらおう。また、11月の最初の連休には沖縄本島の本部半島を一周する予定だが、キャンセルが無理のためバスで巡るしかない。ジョギングどころか歩くのさえ困難な状態では、この先が思いやられる。右足に出来たガングリオンのことも含めて、なるべく早めに整形外科へ行こう。 こんな訳で月曜日に出勤した後、近々お会いしたい旨を係長に伝えた。彼は本社ビルに居てなかなか現場へ顔を出さないのだ。もちろん用件は私の辞職について。そして勤務後、ようやく整形外科へ行った。レントゲン写真を撮り、ドクターの診察を受ける。診断の結果右足の腫れの原因は、CTスキャンで撮らないと不明の由。悪性腫瘍のケースも考えているようだ。 肝心の右膝は関節の軟骨が摩り減って来ており、骨と骨がぶつかる痛みだろうとのこと。関節にヒアルロン酸を注射して様子を観ることになった。先ずは原因が分かってホッとした。その膝の痛みが消えたのが翌日の夕方。そして違和感が消えたのが翌々日の夕方頃だった。あれほどの痛みが注射1本で治まるとはビックリだ。 ヒアルロン酸の効果は、1)関節の痛みを抑える 2)関節の炎症を抑える 3)関節の動きを滑らかにする 4)軟骨の摩耗を抑える これは老人には有難い薬だ。私は8年ほど前から「サメの軟骨」を飲んでいたが、膝を酷使するランナーにとって、コンドロイチンやグルコサミン入りのサプリメント服用は大切だと思う。 今日ようやく辞職したい理由を係長に話せた。体調のことだけに、彼も了承せざるを得なかったようだ。早ければ12月中、遅くても来年3月中には辞職することになると思う。膝の調子も良いので、妻との登山も沖縄本島単独一周の最後のランも、多分大丈夫のはず。それにしても今年参加を見合わせたウルトラ3回分のエントリー料金4万6千円がパーになったのがちょっぴり悲しい。 迷っていた来年1月の「勝田マラソン」は、その後正式にエントリーした。そして5月の「仙台国際ハーフマラソン」は、自分への期待を込めて2時間29分30秒の予想タイムで申し込んだ。マラソンはかなり前に申し込む必要があるため、実際のレース時にはたまたま体調が悪くなることがある。それでも無理して体を壊すより、エントリー料を無駄にする方が良いのかも知れない。
2011.10.06
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「秋田」から帰宅し、増えた体重2kgを落とすのに4日かかった。これから運動量が落ちる場合は、摂取エネルギー量には相当注意しないといけないと感じた次第。今回の「秋田」では、ゆっくり45kmを走っただけだったので、さほど疲労は残ってなかった。また筋肉痛なども全くなかった。木曜日にいつもの帰宅ラン7kmを実施。 この間に私が考えたのは、「ランナー」から「ジョガー」に戻ること。レースなどで必死に走るランナーはもう無理でも、ゆっくり走るジョガーならこれからも何とか続けられそうだ。それにアメリカでは、ジョギングは心臓治療の一環として始められたと聞く。ゆっくり無理のない有酸素運動は、間違いなく心臓にも良いはずなのだ。 この間に届いた資料が2つ。1つは8月に実施した社内の健康診断の結果。これによれば、肝機能が昨年までのデータに比べて格段に悪化している。道理でこの夏は疲れを感じて仕方が無かった訳だ。それとも強い疲労感が、肝機能の悪化をもたらしたのか。いずれにしても次に内科の診察を受けに行く際、このデータをドクターに見せようと思う。 届いた資料の2つ目は、10月のレース「伊南川」のゼッケンナンバーと詳しいコース図など。これでようやくレースの実態が掴めた。最大の高低差は1200mほどある。心臓が悪くなる前なら楽しいコースだが、現状ではかなり心臓に負担をかける感じ。もし行けても沼山峠までだと思う。そこから路線バスに乗れば、何とかゴールまで戻れそうだ。 「秋田」の総括と今後のレース対策に向けて、やっておきたかったのが走行スピードの計算だった。自分が出られそうなレースの判断材料になるからだ。1)秋田の速度:7時間30分を45kmで割ると1kmに10分もかかっている。峠越えとは言えかなり遅いスピードだった。 2)伊南川の条件:16時間を100kmで割ると、1km当たり9分36秒程度のスピードで走れば間に合う計算。だが秋田より厳しいコースでの完走は到底無理だと思う。 3)50km7時間のレース(「秋田」や「いわて銀河」など):1kmが8分24秒の計算。完走は難しいとしても100kmのコースよりは平坦なので、40~45kmまでは走れるかも知れない。 4)フルが6時間のレース:1km当たり8分30秒の計算。これも35kmくらいなら走れるかも知れない。 5)制限が2時間30分のハーフマラソン:1kmを7分8秒ペースなので、必ず途中の関門に捕まる計算。 「伊南川」に関しては沼山峠まで走るとし、そこからのバス時刻と経路を時刻表で調べた。16時20分まで着けば最終バスに間に合う。これなら何とか行けそう。また下車する内川からゴールまでは走ることになるが、距離は短い。調子が良ければバスに乗らず、往路の国道をゴールまで逆走するのも可能。また夜間のランに備えて、ヘッドライトと赤色灯が点灯するかを確認した。 さらに冒険ではあるが、来年1月のレース「勝田」(フル)を仮エントリーした。料金は少し体調を見てから振り込む予定。また今後走り続けるためにも、心臓手術の可能性に関してドクターに聞こうと思う。このため、早めの辞職を上司に相談する予定。1人現場のパート職員は休暇が取り難いし、警備員の補てんには時間がかかるためだ。<続く>
2011.10.05
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< 走れないランナー > レースの翌日、仙台へ帰る車中で私は10月に出る予定の「伊南川ウルトラ遠足」のことを聞いた。コースは「秋田」よりかなり厳しいことは知っていた。「秋田」の峠越えが400m程度なのに対し、「伊南川」は1000m以上もあり、コースの一部は完全な山道で走れないことも知っていた。私が知りたかったのはリタイヤした場合の収容バスの件だった。 「海宝さん主催のレースは制限時間が緩い分、自分でゴールへ帰るのがルールなんだよ」とKさん。なるほどそうだったかと納得。これは心臓の調子が良くない自分には、かなり大変なレースになりそうだ。果たして今の自分が本当に走ることができるのだろうか。またリタイヤした場合に、ゴールまで戻れる方法があるのだろうか。 「バスの時間を調べてみようか」。足を傷めているM井さんがそう言った。「分かったら教えてね」と私。奥会津のあの辺は全く地理が分からない。昨年参加していない私にとって謎に包まれた未知の土地。体の不安に加え、地理的な不安が重なる。6月の「いわて銀河」では73km地点まで行けたのに、今回は45kmまで。体調がさらに悪化している何よりの証拠。「伊南川」が自分にとってさらに厳しいレースになるのは間違いない。 老化は誰しもが必ず直面する問題。3年前から始めた「沖縄本島単独一周」も、昨年から始めた「峠越えマラニック」も、いずれ自分の体力が衰えて長距離が走れなくなる前に実行しようとの考えだった。自分より少し年上のTANさんや亀仙人さんが、最近ウルトラはおろかフルマラソンでも苦戦するのを見て驚いていたのだが、どうやら自分にもその兆候が出始めたようだ。それもゆっくりとではなく一気にだ。 高速道路のPAでトイレ休憩した時にF田さんが言った。「Aさんが秋田の50kmを走った時は、ずいぶん速いランナーがいるなと思ったよ。それに今年の「いわき」でも抜かれたし」。72歳のベテランランナーはちゃんと私のことも覚えていたようだ。「それはかつての栄光だよ」。彼も同じ気持ちだったようで、ハハハと笑った。今年出たレースも、既に過去のものなのだ。 「ランナーは走れなくなったらランナーじゃない」。これは車内で私が皆に言った言葉。いつも歩くような速度で走っていたK村さんが、今回50kmの部でK藤さんと共に6時間20分台でゴールしている。あれはきっと彼女の努力の賜物だと思う。未だにあのペースを守り、さらに進化している姿を今回見せてもらったが、彼女は私と同学年なのだ。 他のランナーとも比べず、自分の過去の栄光とも比較せず、今の自分に何が出来るかを考えるしかない。足も壊れ、心臓も壊れた自分に一体何が残されているのだろう。家に帰ったらそれを考えてみよう。美しく色づく秋の田を遠望しながら、私は自分にそう言い聞かせていた。<完>
2011.10.04
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< 頑張った仲間達 > 収容バスがゴールに着いたのはまだ2時前。この時間にゴールしているのは8時間台のスピードランナーだけだ。「リタイヤ証明」をもらい、預けた荷物を受け取る。出来れば「秋田内陸鉄道」に乗って角館まで帰りたかった。そしてマラソンコースを車窓から観たかった。今回が「秋田」の最後との思いが強かったのだ。 ともかくお風呂に行こう。そして着替えをしよう。気持ちを切り替えて温泉行きのマイクロバスに乗り込む。暫くしてJUNさんが乗り込んで来た。第1回の「佐渡島一周」で一緒だった青年は、今回も8時間台でのゴール。14位だったとのこと。故郷でのレースに出場するため、わざわざ一時帰国した由。 中国への赴任後に参加したレースでは日本人1位になったことや、優勝したこともあったようだ。中国の市民ランナーのレベルはまだ低いとも。私は大震災以降に不整脈が起き、今日も早々にリタイヤしたことを告げた。マイクロバスが向かったのは6kmほど先の天然温泉。途中から100kmのコースに入った。 道路の向こう側を9時間台の選手が走っている。まさか逆向きでゴールを目指す選手を観られるとは思わなかった。坂を登り、空港の地下道に入る。ここは95km地点。選手にとっては苦しい場所だ。誰か知り合いはいないかと目を凝らしたが、知らないランナーだけだった。温泉に着くと荷物を仕分け、ゆっくり洗い場へ向かう。 ここではシャンプーなどが備わっていない。仕方なく誰かが忘れた石鹸で頭を洗い、体も洗った。それから茶色い色の浴槽に沈む。ゆっくりお湯に浸かっているうち、悲痛な想いが少しだけ薄れて来た。やはり電車で帰らず、仲間のゴールシーンをこの目で確かめよう。夕方6時の制限時間までにはまだ3時間以上もある。 体重を測ると68kgを超えている。いつもより2kgほど増えていたことにビックリ。原因は前夜祭で焼きそばを食べた後、旅館の夕食を平らげたことだろう。だが、ゴールに戻るとそんなことは忘れ、蕎麦2杯、おでん、切りたんぽ、ビールなどを次々に飲み食いした。内臓の疲労が少ないため、食欲が旺盛なのだ。ここには既にゴールしたS水さんや、リタイヤしたM井さんがいた。 旅館のマイクロバスを探して荷物を預け、ゴールへ向かう。たんぽぽ走友会のS藤さんが心配そうにご主人のゴールを待っている。M井さんはゴールシーンを撮影するため待ち構えていた。徐々にウルトラ仲間が帰って来る。その1人1人と握手。立山で剣岳にも登った「す」さん、白マスクのCちゃんは途中で転んで指を骨折し、前歯がグラグラになったようだ。 50kmの部のK藤さん、K村さんも元気にゴールした。K藤さんは200km超級の「佐渡島」を1週間前に走った直後の偉業だ。今回クリスタルランナーに王手をかけていたKさんとK彦さんが一緒にゴールしたのには驚いた。偶然とは言え、感動のシーンだった。北海道のH賀さん、クリスタルのS氏、山男のS村さんも無事ゴール。彼は翌日も登山の予定とか。恐るべき体力の持ち主だ。 最後にM仙人が飛び込んで来た。珍しく疲労感が漂っているが、72歳目前の完走は見事。残念ながらゴール出来なかった仲間も何人かいた。6時ちょうど。花火が上がり、それまで鳴り響いていた大太鼓の音が止み、13時間ものドラマがようやく終った。だがタイムオーバーの選手達がまだ走って来る。<続く>
2011.10.03
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< 突然のレース終了 > 関門には10名ほどの選手がいたが、ほとんどがここでリタイヤするみたいだ。だが私は次の関門まで走る積り。大覚野峠を登るのはこれで8回目。まだ元気な頃は走って登れた。だが、その後の故障や加齢で、走って登るのが難しくなった。若者が歩いている。きっと行けるところまで行こうとしているのだろう。その脇を両手を振り、出来るだけ歩幅を広げて抜いて行く。 コースから人の気配がすっかり消えた。後は自分一人の戦い。何とか目的意識を持って50kmまで行こう。今回は10月に出る予定の「伊南川ウルトラ」の練習台。少しでも前進し、次のレースに備えたい。苦しくも懐かしいコース。思い出の詰まった峠道。傾斜の緩い個所は走ってみるが、途端に鼓動が激しくなる。やはり壊れかけた心臓には無理が効かない。 40km地点を過ぎ見覚えのある個所を曲がると、頂上部のトンネルが見えた。かつての郡境で旧西木村と旧阿仁町の境界が近づく。合併後はそれぞれ仙北市と北秋田市に変わったが、風景は昔のままだ。急な下り坂が始まる。それも傾いた状態の道路だから足に負担がかかる。かつては一気に下れたが、今はゆっくりとしか走れない。 峠の手前の桧木内川は南流していたが、峠を越えた阿仁川は北流し米代川に注ぐ。だがその川も谷が深くて見えない。45km地点を過ぎた時、後から近づいて来た車が私に走るのを止めるよう指示した。「ええっ、次の関門までは走れるんじゃないの?」。一体どうしてと、私の頭は混乱した。 だが答えは無情。第2関門の制限時間が過ぎた時点でレースは終了するとのこと。スタッフが車の中で簡単なメモを作ってくれた。「距離45kmで、時間は12時30分」。正式な手続きはゴールでとの指示。80km周辺でリタイヤした9年前も同様だったのを思い出したのは、ずっと後になってからで、その時はただ呆然とするだけだった。 7時間半もかかってわずか45kmのレース。その現実が私の心を暗くした。覚悟はしていたものの相当に遅いペース。100kmのウルトラに参加するのはもう無理だ。ひょっとしたらフルマラソンすら無理かも知れない。中間地点に着くと、もうテントが片づけられている。慌てて水と果物を口にした。ここからマイクロバスに収容され、ゴール地点に向かう。 車中には20名ほどのランナー。多くの人はリタイヤの悔しさに押し黙ったままだが、初参加の若い女性達は「もう少し頑張れば関門が通過出来たはず」と、意気軒高。私はこれが最後の「秋田」になるかもと思いながら、懸命に仲間の姿を探していた。62km付近で力走するY田さん発見。なかなか凄い頑張りだ。収容バスは国道直進のため、山道のコースの様子が分からないのが残念。 見つけたのは順不同でKさん、S氏、M仙人、何故か白いマスクをしたCちゃん、O内さんなど。仲間の力走には涙が出るほど感動。後は暫くコースから外れた。ゴールの鷹巣が近づくと一面の田圃。そして懐かしい米代川の流れ。この光景をこれまでに何度眺めたことだろう。5年ぶりに参加した昨年とは一味違った今回のレース。数々の感慨が胸に過った。<続く>
2011.10.02
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< 現実の厳しさ > 覚悟はしていたが、まさかあんな緩い坂で胸が苦しくなるとは。間もなく国道105号線は旧西木村に入った。今は仙北市西木町になっているが、ここは大覚野峠の頂上まで延々と続いているやけにひょろ長い町なのだ。秋の景色に心が和む。スピードが落ちたせいで胸苦しさが消え、呼吸も楽になった。 それにしても距離表示がないのは何故だろう。どこかで見落としたのだろうか。いや、そんなことはないはず。不思議に思いながらもマイペースで前進していると、ようやく10km地点の表示が見えて来た。「ええっ、こんなに遠かったの?」。ビックリして時計を見、さらに驚いた。タイムはなんと81分。1kmに8分もかかる超スローペースだったのだ。 これはいつも練習で走っている速度。きっと今の私には、これが一番楽に走れるスピードなのだろう。この時点で、楽しみにしていた来年5月の新生「仙台国際ハーフ」への出場は無理だと悟った。制限2時間半だと1kmを7分ちょっとで走らないとゴール出来ないが、1kmあたり1分も違うのでは話にならない。 胸の中で何かが崩れた。これが今の私の現実の姿。もうかつてのように颯爽と走るランナーではなくなったのだ。10.26km地点の第1ASはパス。スポーツドリンクのペットボトルを持って走っているため、給水はまだ大丈夫。それにしてもやけに後が静かだ。思わず振り返って驚いた。何と私の後ろにはたった1人のランナーしかいない。そして最後尾のランナーの直ぐ後には大会本部の車がピッタリと張りついていたのだ。 何だか笑えて来た。まさか自分がブービーとはねえ。14.28km地点の第2ASもパス。何人かのランナーが給水していたが、直ぐに抜かされた。緩やかな十二峠の坂道をゆっくり登って行く。18.85km地点の第3ASでは、初めて果物を口にした。20km地点の通過タイムもさらに時間がかかっている。少し前にいた10回完走のクリスタルランナーがスピードを上げた。やはり実力が違う。 国道沿いの小川は農業用水か。ところどころの集落でお年寄り達が手を振って応援してくれる。「西木村は長いなあ」と言うと皆が笑う。家々の庭に色とりどりの花。どこかにあった気温表示は16度C。少し風もあって、走るにはちょうど良い気温だ。この辺で歩いている若いランナー発見。きっとフルマラソンも走ったことのない人だろう。30km地点のタイムも悪くなる一方。 ゴマがついた美味しいお握りを食べたのは32.31km地点の第6ASだったか。ここでも何人かのランナーが休憩していたが、後であっさり抜かされた。暫く見えなかった大会本部の車が、再び後に張り付いた。あまり気持ちの良いものではないが、滅多にない経験とも言える。徐々にコースが登り出す。 目の前に中年のランナー。「最初の関門は何km地点でしたっけ?」と尋ねたが、知らない様子。きっと初めての参加のようだ。余りのスローペースに第1関門の通過すら心配になって来た。調子が良ければ64kmほどの「北緯40度ゲート」まで。悪くても最低中間地点までは行きたいと思っていたのだが、それすら怪しくなって来た。 坂を曲がると、少し先に第7ASが見えた。ここは36.91km地点で最初の関門。何とか間に合いそうだ。必死に坂を登ってようやく到着し、急いで食べ物と飲み物を補給。役員の人が道路に出て来た。青いTシャツの若者が走って来る。だがASのわずか手前で、無情にもピストルが鳴った。何と第1関門を最後に通過したのは、私だったのだ。 慌てて第2関門の制限時間をスタッフに尋ねると、12時30分の由。13kmを1時間20分で走らないと間に合わない計算。今日のゴールが50km地点であることがこれで確定した。やり取りを聞いていた中年ランナーが「間に合うよ」と言ったが、これからが峠の頂上への本格的な登り。「俺は無理だよ」。その声を後に、彼はあっと言う間に峠へと登って行った。<続く>
2011.10.01
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