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~帰宅を急ぐわけ~ 買い物へ行く途中、急いで引き返すことがある。最近はあまりなくなったが、「マスク」をしてないことに気づいた時。いつも一人で家にいるため、マスクをしないのだ。そのくせ夜眠る時にはする。理由は喉が渇かないように。急いで引き返す理由の2番目は、電気スト-ブを消したかどうかが気になって。デスクでの作業時、足元を暖めるための小さなヤツ。 スタンド型なので地震でも起きたら倒れそう。電気代の無駄は仕方ないとして、火事にでもなれば大ごとだ。帰宅後ちゃんと消してあったことに安堵したのも度々。家にいる時のつけっ放しは必ず気づく。窓際のデスクが定位置のためだ。帰宅後、クローゼットの照明がつけっ放しだったり、湯沸かしポットのコンセントの位置が逆向きで、沸騰してないこともあったが、それなどまだ可愛い方。 沼のカルガモ 先日、居間の窓ガラスの汚れに気づいた。また山鳩がぶつかったようだ。柄のついたモップを持って外へ出、ガラスの汚れを落とした。前回よりも高い場所。そしてその「当人」がなんと庭にいた。私が見ても逃げない。だが家の中から写真を撮ろうとしてカメラを向けた瞬間に、急いでHさんのキウイ棚の方へ飛び立った。いつも来るヤツだと思うが、きっと私と一緒で学習能力がないのだろう。 アオバト 山鳩の別名の一つがアオバトなのが不思議。もう一つのキジバトは羽がキジのような斑(まだら)模様なので分かる。アオバトと呼んでいたのは昔。オスは翼以外は緑色。だがメスは全身茶色。なのにアオバトとは。アオバトが海水を飲むことを知っていた。ミネラル分補給のためらしいが、一部の生息地に限定され、「海なし県」のアオバトは無論そんな行動はしない。海水浴する珍しい生息地もあるそうだ。 ひしゃげた牛乳パック そうそう。買い物の失敗の話の続き。ある時買い物から帰って自転車を止めると、その下に白い液体の塊が見えた。原因は牛乳しかない。エコバッグが荷台から落ちないよう、かなりきつくゴムロープで縛った。家に入って食料品をそれぞれの場所に収容。牛乳は冷蔵庫の定位置へ。その時パックがひしゃげていることに気づいたが、まさか漏れてるとは疑いもしなかった。 2、3日後、牛乳パックの定位置に白い液体が溜まっていることに気づいた。雑巾で拭いたがまさか漏れてるとは考えなかった。だがその翌日も白い液体。慌てて取り出して牛乳を別の容器に空け、パックに水を入れた。するとぽたりぽたりと雫。パックの底を観察すると、角が薄い部分があった。堅い何かと擦れて薄くなったのだろう。全体量の30%ほどを失ったようだ。山鳩同様本当にとんまなわたくし。 最近の散歩でたくさんの写真を撮った。その大半は、逆光や影や冬の木立や沼などの淋しい風景。そして時には面白いと感じた形も。今見える風景がそんなのしかないせいもあるが、もともと私はモノクロやシンプルな形に惹かれる傾向がある。すっかり葉を落とした落葉樹が逆光の中に突っ立つ姿の気高さはどうだ。寒さに耐えて春を待つのは北国の人間も同じ。強く惹かれる理由はきっとそれだと思う。 ある日の夕食 ある時、無性にお握りが食べたくなって100円の昆布入りを1個買った。その日の夕食がこれ。レンジでチンしたお握りは実に旨かった。自分では作れないプロの味。こんな食事で満足してる私は根っからの貧乏性。でも誰かに迷惑をかける訳じゃないから良いのだ。その夜も薄い焼酎のウーロン茶割りを一杯。安上がりな日常だが、生かされていることに感謝。明日は節分、そして明後日は立春だ。<続く>
2022.02.02
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~動き始めたもの~ ひなた 今日から2月。動き始めたものがある。先ずは朝ドラ「カムカム」の3代目のひなたちゃん。早くも4年生のお転婆娘。夏休みの宿題もほとんどしてないのに、もうじき休みが終わるころ。かつてジョーとるいは話していた。「ひなたの道をいつまでも一緒に歩きたいね」と。その2人の愛の結晶がおてんば娘の彼女。ベリーの娘も同級生みたい。さて、これからどんな娘に育ってゆくのだろうね。 いざ出陣へ 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも動きがあった。平家打倒に向けての第一歩が踏み出された。相手は平家の守護の山木館。だが頼朝の軍勢はわずか20名ほど。それも戦の経験がないものばかり。そして総大将の頼朝は襲撃には加わらず、政子の膝枕で転寝というざま。だがこの小さな戦こそが、やがて平家を打倒し、武士の政権である鎌倉幕府を興す端緒となる。歴史が動き始めた。 王将戦第3戦 将棋の八大タイトルの一つの「王将位」に挑戦していた藤井竜王(左)がタイトル保持者である渡辺三冠)との第3戦で、見事に勝利した。これで破竹の3連勝。王将位にも王手をかけたことになる。もしも後1勝したら19歳での五冠達成で最年少記録。前人未到の快挙達成となる。王位戦の勝利者がする約束のコスプレはまだ未確認。ともかく藤井9段一強の「藤井時代」に突入した感がある。 佐渡金山跡 山が二つに割れた佐渡金山跡地。江戸時代から金鉱脈を掘り続けた結果だ。ユネスコの歴史遺産への登録申請を日本が示したところ。韓国が朝鮮人を強制労働させたとの抗議。尻込みした岸田総理は安倍元総理に促され、申請を決断した。日本側の資料には、朝鮮人も日本人労働者と同じ賃金、賞与、食事、住居、映画などの娯楽供与が明記。デマには事実で堂々と反論すべき。「軍艦島」の二の舞はゴメンだ。 北京冬季五輪メイン会場 間もなく北京冬季五輪が開幕する。コロナを抑え込もうと中国は必死だ。ウイグル族への人権弾圧も問題だが、中国入国に際して独自のアプリ強制がさらなる心配。パスポート番号などプライベート情報が簡単に盗まれる可能性が高い。あの独裁国家では何が起きてもおかしくない。習近平にとって北京冬季五輪は世界に向けての絶好のプロパガンダの場。たとえ偽情報でも自分の政権維持に繋がればOK。 競技場前の公園には銅像まで建っている。IOCのバッハ会長と歴代会長数人分。これほど忖度(そんたく)してまで、中国は一体何を企んでいるのだろう。ウイグル族への弾圧や、経済危機や、コロナ感染から世界の目を逸らせ、来年の党大会への布石か。何しろ「歴史決議」で毛沢東や鄧小平と並ぶ存在として自らを神格化したのだから。恐るべき全体主義。「独自の民主主義」などはどこにも存在しない。近々あの国の崩壊が始まると感じるのは、私だけだろうか。 2本目の開花 2本目のシンビジウムが咲き始めた。嬉しいではないか。我が家の小さな春。3日は節分。そしてその翌日の4日は立春。旧暦の暦の上の話だが、少しずつ春が近づいているのは確か。今日も風花舞う中、自転車で買い物に出かけて来た。<続く>
2022.02.01
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~「粉もの」のことなど~ 1月も今日でおしまい。明日からは2月。旧暦2月の別名は「如月」(きさらぎ)。寒いため着ているものの上に更に着重ねる意味の着更着(きさらぎ)から来たとの説もある。2月に入って直ぐ節分があり、立春となる。旧暦ではもう春。日差しも明るく、日没も少し遅くなったように感じる。俳句教室の2月の兼題(宿題)は「紅梅や」。1週間ほど前、早咲きの紅梅を観た。わずか2、3輪だったが。 衝突痕 「ドン」と言う音が聞こえた。居間の窓ガラスを見ると、白いものが付着している。外へ出て確かめると、柔らかい羽毛。正体は山鳩。キジバトやアオバトとも呼ばれるそうだ。居間の窓ガラスはかなり大きく、中に植木鉢を置いているせいだろうか。そして窓ガラスに青空がきれいに写っていた。これじゃ鳩も錯覚するはず。去年業者に窓ガラスの清掃を依頼したのも関係したかも。鳩は直ぐに飛び去ったようだ。 山鳩 本来は山などに生息する鳥だが、住宅地の傍にも現れる。ウィキペディアには警戒心が強いとあるが、近所のキウイの木に巣を作ったり、我が家の庭や畑に来て餌を捜す姿を良く見かける。時には番(つがい)で飛来することも。木の実や昆虫、ミミズなど何でも食べる雑食性。我が家にはアオキやウメモドキなど実のなる木もあれば、虫が食う野菜も育てている。デデポポと低音の鳴き声が可愛い。 お好み焼き 私は結構「粉もの」が好き。うどん、そば、ラーメンなどの麺類。安売りのパン。一昨日はウーメンを茹で、暖かい汁につけて食べた。昨日は考えた末、昼食はお好み焼を作った。粉は強力粉と「黄粉」を合わせ、水で溶いたもの。具材はキャベツの千切り、チーズ笹かまを切ったもの、レーズン、ケチャップ味の野菜炒めの残り物など。完成後は中濃ソースをかけて食す。なかなかの味でぺろり2枚完食。 新しく買った体重計は居間に置いてある。何しろ脱衣所が寒すぎて、素っ裸になると体重測定どころではなくなる。居間は夕方からシャッターを下ろし、カーテンを閉めて暖房を入れてある。風呂から上がると一目散に体重計に乗る。ここ数日の体重の増減はわずか100から200グラム程度。面倒な体脂肪率などは設定もしていない。バランスの良い食事で、便秘も無用。良いぞ自分。良いぞわが食生活。 奄美大島 テレビ番組で奄美の探訪記を観た。奄美の習俗や文化などの紹介。私は一度も訪れたことはないが、空の上からは何度も観た。フライトマップと島の形で、どの島か見当をつける。地図の赤丸部分が大島海峡。ここはリアス式海岸でとても入り組んだ独特の地形。狭い海峡の対岸が加計呂麻(かけろま)島。5回くらいは自分の目で確認出来た。座席の位置と当日の天候でも、見える島が全く異なる。 大島海峡(左)と奄美民謡の歌者(うたしゃ=歌手:右) 手前が奄美大島で、対岸が加計呂麻島。サンゴ礁が砕けた白い砂のせいで浅い場所はエメラルドグリーンに、海峡の深い部分が藍色に見える。島の形がギザギザなのがリアス式海岸の特徴。琉球王朝に属した時代があり、琉球文化の面影も残るが、沖縄と南九州の双方の影響を受けている感じ。独特の「こぶし」を利かせた民謡がとても素晴らしく、若手の歌者が数多く育っているのが頼もしい。 竹富島 先日の「ブラタモリ」の訪問地は沖縄の竹富島。地質や地形を中心に進行するのが番組の特徴。集落はすべて島の中心にある。そこは島の起源となった堅い岩(チャート)がある限られた場所。井戸もその周辺に多い。チャート岩礁を中心とした元の小島を取り囲むようにサンゴ礁が形成され、隆起を繰り返して島は今の大きさになった由。伝説によれ、屋久島、沖縄本島、久米島などから渡って来た6人(?)が島人の先祖だと。「ここより南側は立理禁止」の点線が引かれているが、きっと「星砂」の採取を警戒してるのだろう。 赤瓦の集落 隆起サンゴ礁は石ころだらけで、畑を作るの重労働とのこと。聖なる御嶽(うたき)は八重山地方では「オン」と呼ぶ。また祝女(ノロ)に相当するのが司(つかさ)。6人の司が6つのオンで祈り、12か所の井戸を守り、月に2回祈りと祭りを行うが、それでも昔より減った由。島の成立や伝説、祈りと祭り。狭く貧しい島で協力し合って来た島の歴史が理解出来た。私は島を訪れたことがあり、行った場所も地図で分かる。テレビ番組のお陰で、奄美や沖縄に関する知識が、増えて行くのが嬉しい。<続く>
2022.01.31
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~浪花節だよ女の人生は♬・・~ 『カムカム』のジョーとるいの結末に安堵した。いろいろあったけど、二人は夫婦になり女の子も生まれた。このブログは3日前に予約機能を使って書いているため、生まれた子の名前は知らない。だけど「京都編」なので、るいの娘で安子の孫娘は、きっと京都を舞台に成長して行くのだろう。曲折の多い脚本のため、今後の展開は全く不明。そしてアメリカに渡った安子のその後も心配だ。 るいと同様、額に傷を負った女性の話から始めよう。仮にA子と呼ぶ。彼女は高卒だが国立大学の教育学部に合格していた。だが当時は教師になるのは困難と親に言われ、定員内職員として私の元に来た。私の勧めで通信教育を受け大学卒となり、仕事に必要な資格も取った。そのA子が恋をした。彼女の結婚相手に相応しいかどうかを、上司の私に判断してもらえと親に言われたようだ。 だが思いつめた彼女に、否定的な意見を言える雰囲気ではない。彼女は額の傷を目立たなくする美容整形手術を受け、晴れて花嫁になった。それから何十年か後、当時のメンバーが私の歓迎会を催してくれた。同期生がA子のその後を教えてくれた。彼女の子供の一人が、国立大学の医学部に合格した由。優秀な娘の子供はやはり優秀なのだ。愛媛から徳島へ自転車でツーリング中に、彼女の実家にも寄ったっけ。 南果歩 A子と同期のB子は大卒だったが、非常勤職員として私の職場に配属された。ところが私がいくら注意しても上の空状態。そこで少々きつく彼女に対応した。ある朝何気なく彼女の机の下を見ると、驚くほど大量の抜け毛。彼女が指を絡めて抜いた頭髪だ。そのうち人事から連絡があり、B子は単位不足のため大学を卒業出来ず、結局高卒扱いになったと。高校は理数科で、大学は理学部だったのだが。 そしてB子とホテルに行ったとある男子職員が告げた。机の下の大量の抜け毛はきっと彼女のストレスが最高潮に達したためなのだろう。彼女の結婚式に私も呼ばれた。当然のように優秀な成績で大学を卒業し、立派な職員として勤務したとB子の紹介。新郎は有名企業の社員。彼が私に「B子に辛く当ったのは貴方ですか」と。祝いの宴ではどんな新郎新婦も褒められるんだねえ。知らぬは亭主ばかりなり。 「黒いオルフェ」 ある職場の後輩のC子はアフリカ人の留学生と恋仲になった。とても気立ての良い娘で、態度も体も堂々たるもの。だが両親に結婚を反対された彼女は嘘をついた。「お腹には彼の赤ちゃんがいる」と。大学院修了と同時に留学生はC子を連れて本国へ帰った。きっと今頃は国家的な人材として要職に就き、C子も「ビッグママ」になっていることだろう。どうか幸せであってほしいと願う。しかし女は強い。 厠神(かわやがみ)1 ある職場の部下だったD子が子供を産んだと、私は転勤先で聞いた。相手は他機関の既婚者。どうしてもその人の子供が欲しいと思ったのだろう。彼女が積極的に動いたようだ。生まれた子供は私生児となり、彼女はシングルマザーとなったはず。おんなは強いが、母となればさらにその強さが増すのだろう。転勤で全国を巡ると、それぞれの地で色んなことを経験する。 厠神2 良い縁組と思った若い男女が、私の転勤後に別れたと聞いた。彼は一人っ子の長男。そして彼女も一人娘。当初は良かったが、「家を継ぐ」ために「婿」になれ「嫁」によこせと、双方で諍いが起きたようだ。封建的な地方ではそんな事例がざらにある。ある女性に見合い話を勧めたら、転勤はこの地区内でお願いしますと。結局見合いは成立せず、彼女は女子短期大学の講師になったと後日聞いた。 厠神3 ある地で花嫁候補者の推薦を依頼され、気立ての良いF子さんを紹介した。ところが依頼主の夫人が後日断って来た。どうやらF子の実家を知っていて、家格が釣り合わないと判断した模様。F子さんは「相手は自分で探します」と怒った。それを謝ったのは20年以上も後のこと。当然仔細は話せないが、不慣れなことはすべきでない。ある地で「頼まれ仲人」をしたが、私たちが後に離婚する羽目になった。 他部局から私たちの職場に来たTちゃん。おっとりし常識的なお嬢さんだったが、その後地元で結婚。私が転勤した後もずっと年賀状をくれ、今回の寒中見舞いで長年の交流に感謝した。地味な仕事を丁寧に対処し、平和な家庭を築いた立派な主婦。やむなくクビにした人、他部局に出した人、ハローワークで募集し採用した人。不妊治療に励んでも子宝に恵まれなかった人。それぞれの顔を今でも思い出す。 自宅の25年目点検が無事に終了した。新型コロナの第6波が猛烈な勢いで蔓延し出した時期の接触は怖いが、朝から準備して担当者を待っていた。玄関先に「注意書き4か条」を置き、彼らも納得して点検作業に入った。隅々まで丁寧にチェックしてもらい、想定外の成果だった。きっと事前打ち合わせの際、前回点検時の不満を本音でぶつけたせいだろう。点検結果が送られて来るのは8日後の由。 クレオパトラ(左)とアントニウスの金貨 点検しに来た建築業者が帰ってほどなく、一人の女性が我が家を訪ねて来た。顔も名前も勤務先も知っている人。その彼女が一体私に何の用と不思議に思ったら、借金の依頼だった。へえ~っ、嘘みたい。彼女の事情は聞かなかったが、信用して貸した。さて、一体どんな結果になるか。 父は3度女に騙された。最初の妻、2番目の妻。3番目の妻。きっと人が良かったのだろう。そして私も妻に騙され、有り金のほとんどを持ち去られた。家を去る際、元妻が私に言った。「お父さんは女に騙されると」。元妻が私を騙し続けたのは本当。保険屋の女性の口車にも簡単に乗った。実害は少ないが短慮だったか。もし今回騙された場合は、父の回数と並ぶ。父との相違点は、家族に迷惑をかけてない点。ただし、「今のところ」だけど。 その夜はサラ・オレインの歌声で癒された。マレーシア人で外交官だった父と、日本人の母から生まれたオーストラリア人。確かメルボルン大学だったかを首席で卒業し、東大に留学した際「アニメの主題歌をネーティブで歌える人」の募集を見て応募。日本滞在は1年と限定されていたが、その間に父親が死亡し、34歳の今日までずっと日本で歌い、色んな分野に挑戦し続けて来た才能ある彼女。 確か話せる言語は6か国語、理解出来るのは8か国語くらいだったはず。幼少時からピアノとバイオリンを習い、怪我しないよう包丁を持つことも禁止で、自転車にも乗れない由。音域は3オクターブで絶対音感の持ち主。このところずと疲労を感じていたが、久しぶりに彼女の美しい歌声を聞いた。ただし、彼女に関する正確な情報はご自分で検索を。では。<続く>
2022.01.30
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~出て来た俳句ノート~ 3日連続でウォーキングをした。「思いついたが吉日」との意気込みだったが、直ぐに腰痛発生。上り坂で前傾姿勢になると、腰に負担がかかるのだろう。時々立ち止まって腰を回したり、手で叩いたり。家の中では自己流の腰痛体操とラジオ体操と軽いストレッチ体操なども。なかなか腰痛は治まらないが、下肢と臀部の筋肉が少しだけ戻ったような気がする。寝たきりにならないためにも、なるべく運動したい。 小春日和のある日。朝から洗濯と布団干しを決行。ついでに畑に埋めた小ぶりの大根を3本掘り出した。凍ったまま埋めたせいかまだ凍り、葉を切り落とした部分から腐り始めていた。30cmの地下でも、そんな変化があるのかと改めて認識。冷蔵庫に残っていた大根を先ず使おう。皮は刻んでピクルス用に、「本体」はザク切りにしてニンジンと一緒に圧力鍋で煮た。 茹でたメカブ それから買い物へ。いつもは週末にしか行かないのだが、冷蔵庫の食品が乏しくなっていた。連日3食を自宅で摂れば、減るのは当たり前だ。思い切って通常の2倍ほどの金額を購入。店を出ると駐輪場にSさんがいた。最初と2番目の職場の先輩。会ったのは1年ぶり。80歳を過ぎても自転車で来る。しかも普通のママチャリ。近く新しいのを買う予定と。しばし健康談議に花が咲いた。 帰宅後すぐに食品をそれぞれの場所に収納。続いて料理に着手。昨夜から解凍していたもの、朝から下処理していたもの。それらを大鍋に入れ、いつも通り適当に味付け。これで4日分にはなるはず。メカブ(昆布の根元)を小さく切って茹で、ピクルスを作り、その合間に魚を捌いて刺身になる部分、焼き魚にする部分、味噌汁代わりの鍋にする部分などに仕分け。我ながら手慣れたものだ。 タラの白子 珍しくタラの白子を買った。美味しいが高いため、10年くらい食べてなかった。タラの切り身、白菜、ネギ、豆腐、捌いた魚の不要な部分と一緒に鍋物に。白子はオスの精巣で、仙台ではかつて「キク」と呼んでいた。北海道の本場でなく、三陸近海でもマダラが獲れるようになったのだろう。さて、どんな出来栄えになるかは不明。アイスランド産のクジラのベーコンも買った。こちらも懐かしい味だ。 先日文書整理をしていたら、俳句ノートが出て来た。721番から2696番までは北陸勤務時の作品で、それ以前はやはり捨てたようだ。その後に転勤先で詠んだ作品が続いていた。まさか水戸でも詠んでいたとは。そこは定年前に辞職を決意した地。19年前の緊迫した心情がまざまざと蘇った。苦しみの中で走り、句を詠んだあの日々。それらの作品を、いずれ必ず読み返すつもり。 職辞して春風われのものとなる (しょくじしてしゅんぷうわれのものとなる) 山本読書室 江戸末期の京都にあった「山本読書室」をあるテレビ番組で知った。主宰者の儒医山本封山は私財を投じ事実を究める活動をしていた由。門弟は武士、貴族、町人、農民など1600余人と言う。蝦夷地を探検し、こよなくアイヌを愛した松浦武四郎も門弟の一人。私塾は事実や実物を重視し、60年間で51回の「物産会」を開催。蒐集品も記録も膨大過ぎて刊行不能だったが、その業績が現在見直されている由。 北京冬季五輪マスコット 元NBA(アメリカプロバスケットボール協会)の中国人選手姚明(ようめい)氏が現役のエネス・フリーダム選手を中国に招待したい旨表明。これに対してフリーダム選手は「もしウイグル族の奴隷労働収容所」に一緒に行ってくれるなら招待に応じよう」と応えた由。同選手はウイグル族と同じ文化を持つトルコの出身。ウイグル族に対する中国の弾圧に抗議して名前をフリーダム(自由)に変えた信念の人。 エネス・フリーダム選手 性的被害を訴えた女子プロテニス選手の抗議すら、合成写真やフェイクニュースで「亡き者」にした中国。ウイグル族への人権侵害は「ジェノサイド」(皆殺し・民族撲滅)と主張する国家もあり、北京冬季五輪への政府関係者派遣をボイコットする国も出た。今回の動きも、きっと陰で中国共産党が手を回しているはず。嘘は中国及び中国人にとって恥ではない。「嘘も方便」。それが彼の国古来の文化であり、歴史でもある。今回のフリーダム選手の勇気ある行動を支持し、拍手を送りたい。<続く>
2022.01.29
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~わが家のシンビジューム~ 昨年12月中旬。シンビジュームに花芽があるのを見つけた時は狂喜しました。1人暮らしになって5年。妻が捨てていったみすぼらしい株。それを2分割して枯れた根を取り除き、鉢を取り換えてミズゴケを敷き詰め、水やりを欠かさず、水溶性の肥料を施しました。夏は外の日陰に、冬は居間に取り込んでいました。日中はまるで温室のように気温が上がる窓辺に他の植木鉢と一緒に。 そして夕方からは暖房。乾燥が激しいため、2日に1度の水やりを続けたことが、きっと古株への刺激になったのでしょう。花が開き始めてから1か月近く経ったのに、元気で咲き続けています。ハイビスカスやシコンノボタンも冬季に咲きましたが、今ハイビスカスはすっかり落葉し、枯枝から小さな芽が出ています。今日のお話はこれだけ。ずらりと同じ花を並べただけ。一緒に愛でていただけたら嬉しいです。 私の「親ばか」ぶりを笑ってください。まあ育て親としてはそれくらい嬉しいのです。嬉しいのは新しい2本の花芽があることです。その株に支柱を施し、負担を少なくするため、この花は切ってお向かいのKさんに上げました。奥さまがとても喜んでくれました。花の嫁入りだ。ああ嬉しいな。<続く>
2022.01.28
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~ ニュースと私 ~ オミクロン株 新型コロナの感染者数が1日で6万人を超えたという。オミクロン株の解明はまだ不十分だが、次第に判明してきた由。予想外の変異コースをたどったようだ。しかし感染力の強さが恐怖。基礎疾患のある高齢者の罹患が恐れられている。感染阻止のための渡航禁止などで経済活動が減速し、国際的な影響も大きい。2月4日から開催予定の北京冬季五輪、パラリンピックの行方が心配される。 海保第11管区の艦船 さて、南九州、奄美、沖縄そして尖閣諸島の警備を担当する海上保安庁第11管区の乗組員のうち120名ほどが新型コロナに感染したとのニュースに驚嘆。尖閣を奪おうと虎視眈々の中国は、民間船を使って尖閣諸島の久場島に上陸し、新型ミサイルを瞬時に設置する作戦も想定されると聞く。アメリカはウクライナへの兵員派遣の構えを見せた。ロシアの侵攻に対する警告だが、両地区同時には戦えないだろう。 その沖縄県名護市長選挙で、現職の渡具知氏が当選し、普天間基地の辺野古移転反対を訴えた新人は5千票の大差で敗れた。民主党政権当時「最低でも県外」と、米国と合意済みだった辺野古移転を反故にした鳩山元総理。国際情勢と日本の安全保障との関係を認識出来ない、馬鹿な政治家だった。中国のプロパガンダは実に巧妙で、地元紙2紙の主張にすっかり踊らされている沖縄県民。 火山爆発による衝撃波の広がり(左)と海上自衛隊の輸送艦(右) 200もの島嶼からなるトンガの火山爆発による津波被害は、かなり深刻だった。トンガでは最大14mの津波が襲い、消滅した小島もあった由。地震ではなく火山爆発の衝撃波による津波発生は、初めてのことらしい。大量の飲み水や発電機を積んだ海上自衛隊の輸送艦が現地に向かった。コロナに感染した隊員は交代した模様。着岸出来ない場合に備え、ヘリコプターも搭載。トンガは日本への謝意を表明した。 大相撲初場所は、関脇の御嶽海が3度目の優勝。直近の3場所で33勝を挙げ、大関に推挙された。14日目に横綱が敗れたことで、取り組みを割り直しての直接対決。照ノ富士は膝と足首の怪我が影響したようだ。元大関朝の山の懲戒恩赦の声も出たが、理事会で否決された。来場所は2人の大関がカド番。新大関にはその上も狙ってほしい。応援に来たフィリピン人のお母さんがすごい美人だった。 「高槻で連勝や」と書かれた太鼓を背負っているのは藤井竜王。これは「王将戦」で勝利した際の「約束ごと」で開催地に因む仮装をするのが伝統。大阪なので「食い倒れ太郎」に扮したみたい。初戦の静岡では確か「大井川鉄道」の車掌だったはず。そして先日「竜王」の就位式に臨んだ。これで晴れての「四冠」。もし「王将」も奪取したら、初の十代での五冠達成。将棋の歴史が変わりつつある。<続く>
2022.01.27
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~長い話・短い話~ 岡山のHさんから電話が来て、かなり長い間話した。彼はつくば時代の後輩で、現役中は存分に実力を発揮し、退職後は私大の特任教授として専門職の養成に当たった。彼も麻雀仲間の一人だが、今ではせっせと家事をこなしている由。情報通の彼からはつくば時代の同僚や後輩たちのその後の様子を聞くことが出来た。懐かしいつくば勤務時代。あの壮絶な経験は未だに忘れることが出来ない。 住宅メーカーの青年には、かなりきつい調子で本音を話した。前回の点検時に来宅した社員があまりにも横柄な態度だったからだ。彼は私の剣幕に驚いたようだ。企業には企業の論理があるだろうが、建て主には建て主の論理がある。それも先がない後期高齢者の場合は、彼らの利得行為を簡単に受け入れることは出来ない。私の話の内容に驚いたろうが、人生の重さを彼が感じてくれたら本望だ。 夕方暗くなってからやって来た新聞の集金人と、長時間宗教談義をした。玄関先での1時間以上の問答で腰が痛くなり寒さで震えたが、真剣なやりとりだった。言うならば宗教上の真理と、科学としての真理の相違。彼女が教団から何をどう学んでいるかが分かって面白かった。私は教会に行かなくなって久しいが、神社や仏閣を訪ねた際も「アーメン」と唱え、科学を超越した絶対的な真理を今なお信じている。 「香典返し」は高級なドリップ式のコーヒーと洋菓子。私はインスタントで十分だし、装置もない。近所の方に上げようとし、3人目のTさんが引き取ってくれた。その代わりに新しく買った体重計の「設定」を頼んだ。メカに弱く視力が悪い私にはお手上げだが、彼女はあっという間に設定を終えた。緊急連絡用にと電話番号も聞き出した。いざという時に頼りになるのは、遠くの親戚よりご近所さんだ。 外階段の塀際のモッコウバラを剪定してる私を見て、お向かいのKさんが声をかけてくれた。彼は枝切鋏を器用に駆使して、邪魔な枝を伐ってくれた。そのKさん宅の電話番号も聞いた。以前は町内会製作の略図に電話番号も載っていたのだが、「個人情報保護」で消えてしまった。その後はずっと私がやり、伐った枝と落葉を片付け、枯れ菊を剪定し、裏の畑の雑草を抜いた。これで少しは安全安心になったかも。 畑に埋めたのを掘り出した大根は裏のSさんに上げた。寒さで凍り、成長が悪かった小さな大根だが、果たして役に立ったのか。南の畑の白菜のうち、食用可能な株が6個から8個ある。これも食べられるうちに誰かに上げようと思うが、貧弱な野菜でも喜んでもらえないとダメ。家庭菜園の野菜は農家が作ったものとは、見栄えも中身も違うからだ。むろん作った本人は美味しく食べてるのだが。 ひょっとしたらもうロウバイが咲き出しているかもと思い、小川の土手沿いに訪ねてみた。1軒は満開の花盛り。だがもう1軒はまだ咲き始め。なぜかと理由を考えた末に出た結論は、ほとんど咲いてないお宅のロウバイは垣根代わりで強めの剪定をしたと推定。我が家のモッコウバラの剪定は、堅い古枝が飛び出して危険なのと、よろけた場合咄嗟に垣根の桟を掴むため。俺も歳をとったものだ。ああ。<続く>
2022.01.26
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~いのちのはなし~ 夕食から1時間を過ぎてもまだ頭痛がする。おかしいなあ、夕食時にも血圧降下剤を飲んだはずなのに。念のために血圧を測定する。上が167で下が97くらい。これは危険。このところ続いていた頭痛が治まりかけたと安堵したのもつかの間。これは睡眠導入剤を飲んで早く寝るに限る。多分原因は室温の低下で血管が収縮したのだろう。温度を上げて室内が乾燥する方に関心が向いていたかも。 布団も冷え切っていたが、トイレに起きる回数も少なくて済み、まあまあ良く眠れたと判断。翌朝はいつもより早く目覚めて直ぐに暖房を入れ、布団を上げて着替え。外はまだ暗く、気温が低いとみてシャッターは上げなかった。新聞を取りに出ると敷石が濡れている。夜のうちに小雨が降ったみたい。だが新聞紙はビニール袋に包まれず、むき出し状態。朝食はいつもよりかなり早め。 朝食後に薬を服用し、歯磨き。次いでパソコンを立ち上げ自分のブログをチェック。出かける準備は出来ていた。この日は歯の治療日。前回はドクターの奥様の急死により、キャンセル。肩掛けバッグには、「ふくさ」に包まれたお悔やみやカメラ。心配していた腰痛は幸いにして出ない。それに雪のない道路は安心して歩ける。9時半に着くと、待合室には2人の先客。 1か月ぶりに会ったドクターは、少しやつれていた。最愛の奥様を亡くされてどれだけ気落ちされているか心配だったが、そこは男。冷静な一人の歯医者に戻っていた。私の番が来て治療室に呼ばれる。ドクターにお悔やみを述べ、些少の香典をお渡しした。すると先生は謝意を述べられ、「香典返し」を私に手渡した。懇意にしていた患者さんの中で香典を差し上げた方が大勢いたのだろう。 虫歯の治療を受けながら、遠慮なく先生に尋ねた。奥様の享年は59歳。この秋には還暦になるはずだったと。自宅のキッチンで倒れている奥様を発見したのは娘さん。死因となった「クモ膜下出血」には、高血圧が深く関わっていたようだ。普段から上が190近く、下が110くらいあったが、薬の飲み忘れもしばしばあった由。奥様はあまり物事に拘らない性格。それが逆に命取りになったか。 亡くなられる数日前に受けた「脳ドック」では、異常がなかったそうだ。だが冬の寒さ、日ごろの高血圧、体重増加などがまだ若い奥様の命を奪ったのではないか。私はそう推察した。この歯科医の新設以来の付き合いで、「東日本大震災」時も互いに励まし合った仲。患者にとっては何でも話せる奥様とドクターだった。こんな付き合いも珍しいのではないか。香典返しを手に帰途に就いた。 ここ数日の間。私は長らく気になっていた「文書整理」に勤しんでいた。「終活」の一環として文書を分類し、「見出し」をつけたトレーに収容する作業。年金関係、生命保険や医療保険関係、火災保険関係、介護や健康、後期高齢者保険関係、土地・家屋など不動産関係、インターネットの契約関係、家事支援などの各種サービス関係、葬祭など死後の処理関係資料。公共料金支払い関係。 パソコン横のデスクには、税金関係、後期高齢者健康保険関係の引き出し、文房具や郵便関係の引き出し。別のデスクには預金通帳類。そして飾り棚の引き出しなど2か所に各種の「取り扱い説明書」。そこまで整理後、「エンディングノート」2冊の内容と項目をチェックし、「相続関係の概説書」にざっと目を通した。これは大変な事態で、一大事業であることが即座に理解できた。 死後の始末をどれだけ生前に準備出来るか。同居している家族があれば何の問題もない。割と近くに家族が住む人も、住居が少し遠くても死後の財産処理や「故人の遺志」を家族間で共有していれば、何の心配もなく「あの世」に旅立てる。しかし我が家ではそのいずれもが欠乏。いくらエンディングノートに書いたり遺言を残しても、家の鍵さえ子供は持っておらず、コンタクトも取れてない絶望的な状態なのだ。 自宅の「建築後25年点検」が近くあり、打ち合わせのために訪れた建設業者と話をした。彼らは点検に名を借りた「リフォーム」を勧めて老人から金を搾り取ろうとする。「保険屋」も同様。死んだらそれ以上金はふんだくれない。出来るのは老人がまだ生きてる時。その相手の認知機能が衰えていれば、絶好のカモだ。老人も最後に欲張るとことの本質が見えなって騙される。危ない危ない。最後の際まで気を抜かずに頑張るしかない。<続く>
2022.01.25
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~師との対話~ 滅多に人を褒めない講師が、この日は最長老の受講生を褒めた。唯一講師よりも高齢の方。その彼が提出する作品のほとんどが武張(ぶば)った句。生真面目な性格が彼の句や書かれた文字にも表れている。講師が褒めたのは声の大きさといつに変わらぬ彼の句。世界を股にかけて旅したのか、いつぞやはオーロラの句を提出。私は彼がある月刊誌に句を投稿してることを知っている。無口な努力家なのだ。 かまど神 私が提出したのは3句。先ずは季語の「繭玉や」を上五にした兼題。 繭玉や厨におはすかまど神 まゆだまやくりやにおわすかまどがみ 繭玉とかまど神の「取り合わせ」は上手く行った積もり。だが「厨におはす」が失敗。私は晴れがましく居間に飾られた繭玉と、暗い厨(台所)で家の安全を守るかまど神との対比が面白いと考えたのだが、「かまど神が厨(台所)に居るのは当たり前」なので、その「中七」が無用だと。「中七」は「下五の説明」に気を取られていたが当然のことを言うのは無駄。使える音が17音の俳句では特にそうだ。 2句目。 届きたる友の賀状の癖字かな とどきたるとものがじょうのくせじかな。 こちらも「賀状は届くもの」でちょん。言わずもがなのことは言葉の無駄だと講師。まだまだ推敲が足らなかったようだ。自分の句の言葉に酔ってしまうと、そんな単純なことが見えなくなるのだ。 通し矢 3句目。 振袖の白き腕や弓始 ふりそでのしろきかいなやゆみはじめ 「白き」を注意されるかと思ったが、結果は無添削。新年早々に矢を射る行事が季語の「弓始」。京都三十三間堂の「通し矢」が有名だ。振袖姿のお嬢さんが襷(たすき)をして弓を引く際に露(あらわ)になる腕の白さを強調した。添削はなかったものの、「袖」が衣偏(ころもへん)ではなく示偏(しめすへん)の誤字を指摘された。目が良く見えないのと、字の確認を忘れたことによる二重の失敗だった。 講義終了後、私は誰もいない教室で講師に尋ねた。講師が以前から今後の体調次第では講師を辞めると言っておられたことに関してだ。主催者からは「俳句教室」の講習期間は年度と無関係で、体調次第でいつ休み、辞めても良いと言われている由。肝臓がんが肺に転移して治療中だが手術は受けないと明言していた。それでいざという時の臨時講師を私に依頼されたが、私は体調不良を理由に断った経緯があった。 「体調は今も良くないが、手伝いたい気持ちはある」と伝えたら喜んで、今後休む際は「自習」と言う形で代理を頼むとの返事。体調の関係で安請け合いは出来ないが、今は講師と話せて良かったと思っている。無論彼の講義の継続が最良の道。私に人を教える力はないが、一緒に学ぶことなら可能。寒風の中ペダルを漕いで帰宅し、早速来月の兼題に着手。次回も難題だ。「上手くなるには挑戦心が必要」。講師の言葉を心に刻みたい。俳句の道は遠く厳しいが私の命が持ち、さらなる高みに到達出来るかどうか。頭痛がまだ続いている。<未完>
2022.01.24
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~準備そして当日~ 埋めた大根を掘る 当日が雪の場合を考え、バスの時刻を調べた。当日の寒さを心配して一番暖かそうな服装を選んだ。もしものことを考えて夕食のメニューを考え、翌日分のブログを予約。だが、天気予報はたった一日で変わる。それに寒気が厳しい今頃は、たとえ太平洋側が晴れていても奥羽山脈を越えて雪が飛んで来たり、強風になる場合もある。だが杞憂は無駄で、当日は自転車で行けそうな天気になった。 ギボシの種 会場へは早めに着いて、早速検温と入館票に記入。その際老人センターの職員と話して、来年度の開講などについて情報を得た。このところ感染者数が急激に増えた新型コロナのオミクロン株。3回目のワクチン接種も、来年度も俳句教室が継続されるか計画は未定。来年度は参加しないかもと賀状に書いてよこした仲間も含めて欠席者はなかったが、人数は最盛期の半数だ。 観葉植物 予め用意した「短冊」を出席者のテーブルに配る。「密」にならないよう、座席がかなり離れ、通気のため窓が少し開けられている。マイクの前の席に講師が座られた。新年の挨拶を交わし、短冊を置く。1人遅れたが、講師が黒板に短歌と俳句をひとつずつ板書した。講師の作品のようだ。彼は受講生の「短冊」にざっと目を通し、立ち上がって新年の挨拶をした。順番に受講生の名が呼ばれ、提出した兼題(宿題)の句を読み上げる。いつもながらの緊張の一瞬だ。 繭玉(まゆだま) この日の兼題(宿題)は「繭玉や」。まゆだまは小正月の縁起物で、「新年」の季語。「餅花」(もちばな)などの別名を持ち、色のついた小さな餅や繭の形をした飾り物を柳やミズキの枝に刺したもの。家内安全、豊作、商売繁盛などを祈る。餅も繭もかつては農業と人の暮らしに深く関わっていた。昔の暮らしには欠かせない年間行事だったのだろう。 壊れたハート だが兼題は「繭玉」そのものではなく「繭玉や」。つまり季語を「上五」にして、「中七」以下をどう詠むかと言うもの。「下五」に「繭玉や」が来ることはない。「切れ字」の「や」で終わる句はほとんどないのは、句の安定が悪いためで、かなりの名句でないと通用しない由。加えて講師は「取り合わせ」をも要求しているのだ。季語とそれ以外の無関係なものや事象を組み合わせる俳句の技法のひとつ。 季語を中心にそのことだけを丁寧に詠むのを「一句仕立て」と言い、正岡子規につながる近代俳句の正統派である「ホトトギス派」はその典型。ところがわが講師は「俳句の神髄は「取り合わせ」(二句一章とも言う)にこそあると主張して止まない。これが初心者にはかなり難しい作業で、頭の切り替えを要する。一句仕立てでさえ難しいのに、さらにその上を行くのだから。 たいていの提出句は、講師の意図に沿わないものだった。中には複数の季語を有する「季重なり」があったり、音数が足らなかったり余ったり、句のリズムが悪かったりで手を入れられる句が続出した。そして難しいと言わずに何にでも挑戦しなければ上手にはならないとも。それは十分納得出来る意見と感じた。俳句の世界は単純だが深い。少ない音数で自然と人との関りを詠む侘(わび)、寂(さび)の文学が「余韻」を有する所以だ。<続く>
2022.01.23
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~さまざまな準備~ その日を迎えるためには色んな準備が必要だろう。男はそう考えた。季節が移ろうように、時間は待ってくれない。そして命にも限りがある。さてその中で優先順位を決めて、やれるものから取っかかるしかない。しかし人間歳を取ると決断力も実行力も鈍る。でもそれは仕方ないさ。生きとし生きるものの宿命だ。だが人間は考えることが出来る。たとえ微力でも抗って前に進むしかない。 その日を無事に迎えるため、先ず食う。食うためには買い物をし、自分で調理し、毎食ごとに食事のバランスを考え、咀嚼し消化してエネルギーを得る。理屈では簡単なその道程も、自分が動かないと何も始まらない。その次は何だ。体調を万全に保つことか。最近しきりに頭痛がするのはなぜ。寒さで上がった血圧のせいか。それとも睡眠不足か。それとももっと怖い脳出血の遺伝のせいか。祖母、父、そして兄。 掛かりつけの内科へ行った。極力雪や氷が張ってない道路を選んで自転車で。これには危険を察知する能力が不可欠だ。転んで怪我したら全部自己責任。待合室にはもうかなりの人が順番を待っていた。2~3時間はかかる由。いつもの診察ですかと聞かれて、「薬だけ。それも睡眠導入剤で良いの」。これで10人以上を抜いた。隣の薬局で薬を受け取り、無事帰宅。 頭痛の正確な原因は不明だが、血圧降下剤はきちんと服用し、血圧を測っても正常値。次に疑われるのが睡眠不足。ブログに熱中しその後もテレビ。ブルーレイの影響か、集中し過ぎによる緊張。そして長時間窮屈な姿勢でいることでの腰肩首への負担による血流不全。そして冷たい寝床と頻尿による、深夜の起床。それらの複合作用だろうが、ともかく薬の力を借りてでも先ずは眠ることにしよう。 黄粉あんこ餅 そして大事なのが当日及び前後の天候。それによって会場へたどり着く交通手段と必要時間が異なる。老人の冬の悩みはそれだ。1週間の長期予報では、何とか自転車でも行けそう。だが寒気団が張り出して当日以前に雪が降りそうな気配。降っても融けるか。たとえ融けても凍結しないかと、そのルートを頭の中で思い描く。最悪の場合は杖を突いてバスに乗り、地下鉄で1駅分だけ乗り継ぐ方法も。 思案中の私に3回の電話。東京のK氏はつくば時代の麻雀仲間。退職後G会館の警備員をし、今は通学中の児童の誘導係。歳は私と同じで、奥様はかなり前に亡くなった。元気そうで良かった。徳島のIさんは徳島時代の麻雀仲間。良く朝まで戦ったものだ。大阪のM氏は徳島時代の麻雀と軟式野球の仲間。当時は数学の教授で、その後理事から副学長になった。転勤2年目で奥様とお子さんが大阪へ帰った由。 焼いた数の子 立場は違っても、お互い新しい大学づくりに必死だった。酒も飲んだし喧嘩もした。だから彼の気持ちは良く分かる。そして別れた奥様の気持ちも。私は3か所で都合20年間創設事務をやった。その苦しみを家族に伝えることの困難さ。彼は75歳の今でも軟式野球をやってる由。思い出話に花が咲き、30分近くも話し込んでいた。別れた奥様やお子さんの近所に住まっている由。思いやりだね。きっと。 所属走友会から「新年会&総会」の開催中止のメールが届いた。仕方ないよねこのオミクロン株の蔓延状態じゃ。それに私は腰痛で走るどころか、宴会の座席に長時間座るのも困難だろう。久しぶりに皆の顔を見て、長年のお礼と別れを告げたかったし、懐かしい温泉にも浸かりたかったのだが。だが、すべては運命。世界のこの状況を変えるのは、かなり難しい状況だろう。 私が思案中に、朝ドラの「カムカム」の様子が急変し出した。なんと東京へ出て行ったジョーが、社長の娘を好きになってしまったみたい。なんだよなんだよ。あれだけ「るい」と約束しておきながら。変だよ変だよといくら叫んでみても、ドラマの脚本はもう決まってて、変わらないのだろうしねえ。大相撲も千秋楽まで目が離せなくなり、トンガの火山爆発の被害にも驚いた。小島が一つ吹っ飛んだんだねえ。 さて最後に残ったのが兼題(宿題)の句を選んで清書し、人数分コピーすること。これで毎回悩むのだ。自分では良く出来たと思っても、清書しているうちに、「こう直した方が良い」と感じで書き直し。A4の用紙を4つに区切り、それぞれに3句を書く。だから書き直すと1枚につき12句を新たに書くことになり。それも気に入らないとさらに12句。選句と推敲の連続。俳句教室への道はまだまだ遠い。 <続く>
2022.01.22
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~新年の習作/俳句と川柳など~ 東雲の少し明かりて年始む しののめ 初日仰ぎ老残未だ生きむとす ろうざん 老残や初日は死出の一里塚 しで 妻去りぬ寓居に眩しき初日かな ぐうきょ=仮住まい 雲間より皇居へ急ぐ初日かな ビル街を抜け皇居へと初日の出 臭き息吐きてなまはげ退散す 「なまはげ}は「新春」の季語 村はずれ酔ひ潰れたる生身剥 なまみはぎ=なまはげの別名 結界や酔ひしなまはげ人もまた 初春のみ目美しき女人かな うるわし にょにん 初春やシンビジウムに日の光 子も孫も七草粥を持て余し ななくさがゆ グルメにも七草粥の優しくて 七草や笑ひ広がる奥座敷 寅年の七草を食ふ佳き日かな とらどし 七草を無用と笑う健啖家 けんたんか=食欲旺盛な人 <川柳は現代語を口語で表現するのが原則> 大根葉十把ばかりを煮たりけり じゅっぱ 大根は冬の季語 テーブルの上にも注ぐ初日かな 一杯の熱きコーヒー初読書 <どんと、とんど、松焚祭、左義長などの名称がある「小正月」の行事> 今日のブログに載せたのは習作のごく一部。俳句の季節には「春夏秋冬」のほかに「新年」があり、それぞれの季語があります。ここでは主として「新年」を詠み、季語のない川柳も楽しみました。「俳句教室」の兼題(宿題)句を30句以上詠み、うち3句を提出しました。 次回から別のシリーズを始めます。今回「クチコミテーマ」に選んだ「ブログは文学たりえるのか」ですが、書き手が文学を意識し、内容と形式を備えていれば十分文学になり得るでしょう。ジャンルとしての「日記文学」もありますが、すべてが該当する訳ではありません。無論ブログは有意義で、尊い作業です。当シリーズを閉じるに際し、ご来訪いただいた皆さまに、厚く御礼申し上げます。<完>
2022.01.21
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~最近の出来事などを詠む~ つぼみ 身近で起きた出来事や、訪ねたブログに触発されて浮かんだイメージ、届いた年賀状からの着想。それらを俳句や川柳や短歌としてメモしています。このシリーズのテーマは『ブログは文学たり得るのか』。習作を文学作品へと昇華させるにはかなり推敲が必要ですが、たとえ荒削りの原石にも光はあるでしょう。私はブログの世界は実験と認識しています。そして恥をかくのも修行のうちと。 <出来事から> 松の内笑顔優しき女逝けり まつのうちえがおやさしきひとゆけり 享年は知らねど哀し屋根の雪 きょうねんはしらねどかなしやねのゆき 享年を知らざる女や屋根の雪 きょうねんをしらざるひとややねのゆき 俳諧の道極めしか冬銀河 はいかいのみちきわめしかふゆぎんが<届いた年賀状から> 師の長寿願ひて祈る年始 しのちょうじゅねがいていのるとしはじめ 嬉しやの初日に映ゆる金亀城 うれしやのはつひにはゆるきんきじょう(松山城) 友の老ひ知る手がかりの賀状かな とものおいしるてがかりのがじょうかな ともかくも寒気見舞ひを出し終へぬ ともかくもかんきみまいをだしおえぬ<ブログから その1> 初春や友の手術の成功す はつはるやとものしゅじゅつのせいこうす 老残の身に有難き初日かな ろうざんのみにありがたきはつひかな 初空や残れる日々は知らねども はつぞらやのこれるひびはしらねども 老残のわれに眩しき初日かな ろうざんのわれにまぶしきはつひかな 珈琲のデスクに注ぐ初日かな こーひーのですくにそそぐはつひかな 初春や珈琲に生き返るとき はつはるやこーひーにいきかえるとき 一杯の珈琲温し年始め いっぱいのこーひーぬくしとしはじめ コーヒーを大人の味と知ったとき (川柳) <ブログからその2> 黄花亜麻 モラエスの愛せし花ぞ黄花亜麻夫婦の契り千年経るとも もらえすのあいせしはなぞきばなあまめおとのちぎりちとせふるとも 腰痛を持ちたる友を哀れみぬ吾も苦しむ同病なれば ようつうをもちたるともをあわれみぬわれもくるしむどうびょうなれば 冬の街北の大地を歩む友心を癒す珈琲一杯 ふゆのまちきたのだいちをあゆむともこころをいやすこーひーいっぱい いづれもが倭言葉を紡ぐわざ文学の道けふも勤しむ いずれもがやまとことばをつむぐわざぶんがくのみちきょうもいそしむ 掲載した作品は直感的に詠んだのをメモし、多少手を加えたもの。載せなかった駄作は狂句まがい。さて直感で選んだ言葉を「文学」に仕上げるには、さらに「語彙の引き出し」を調べ、文法や俳句、短歌の約束事などの確認作業を要します。これらのほかに「俳句教室」への提出句を3句選んで仕上げる作業が残っています。今日は教室の当日ですが、この文章は2日前に予約したものです。<続く>
2022.01.20
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~離合集散と魂の独立~ 今日もブログを書いている。指先を切った手袋をして。水仕事で手がかじかんだので。ウオークマンで買った儀式用の白い手袋も、次第に汚れて来た。「汚れちまった悲しみに今日も小雪が降りかかる」。30歳で死んだ中原中也の詩の一節だが、雪国では何もしなくても死ぬ。屋根から落ちた雪に埋もれたりして。ホームレスは最低気温零下5度の仙台が、住まいの限界と聞く。住む家があるだけ私はマシか。 離合集散は人の世の常だ。幼くして母と生き別れた私は、その後色んな別れを経験した。若いころの同人仲間との別れ。信仰との別れ。文学との別れ。仕事との別れ。妻との別れ。去っていったものの数々。そんなことで私は案外別れに慣れて行ったのかも知れない。だが別れと同じくらいの出会いもあった。有難いことではないか。別れも出会いも生きていればこそ。自ら身を引いたことも多かった。 インターネットの世界でも色々渡り歩いた。ホームページ。掲示板。字だけの日記。ブログ。脅迫や嫌がらせもあった。WWWも結局は人間世界なのだ。だから何が起きても不思議ではない。死の直前までブログを書いていた人。認知症になった人。だが、それにも懲りず私はブログを更新し続けている。それも連日。いわば「ブログ中毒」だが、表現の手段が広がったのも確か。何でも載せられるブログは最強。 離婚した年に始めた短歌は1年も持たなかった。理由は簡単で、同人の代表を信じられなくなったためだ。人格も歌人としての資質も、その言動の何もかもが。多分私の方が感性も作品の完成度も優っていたはず。私は彼の添削を拒否し、この同人はやがて崩壊すると直感して退会した。私の退会後、3人が退会したと聞いた。長年管理職として組織を見、人を見て来た私の目に狂いはなかった。 その翌年から通い始めた俳句教室。変だと感じることが多くても、私は黙って聞いた。頑固で偏屈な講師でも、学ぶ点が数多くあった。それだけ私はずぶの素人。俳句理論や日本の短文学の歴史。それを「ただ」で学べるだけでも良いじゃないの。講師と喧嘩して辞めた人が過去にはいたみたいだが、私は人と喧嘩はしない。喧嘩するなら俳句と言う世界での勝負。素人には良い句を詠むしか道がない。 彼から学べるものは全て学んだ。そして私は作風をいろいろ変えて行った。だが自分の信念を貫いたことに変わりはない。表現は実験。人生もまた然り。実験を恐れれば進歩はない。若いころから詩や小説や短歌や芸術に親しみ、常に本物と接して来た私にとって恐るべきは自分自身の慢心。それを忘れさえしなければ、発展の可能性はある。教室を辞めた人も何人かいたが、去らば去れ。私は心身が許す限り残る。 他のブログや日常の出来事から触発されることも多い。詩心を揺さぶられて詠んだ俳句や拙い川柳は、実験かつ挑戦。恥をかくのも修行のうち。若いころから私はどれだけ汗をかき、恥をかいて来たことか。それらの全てが「肥し」になったと信じたい。人生死ぬまで修行。後どれだけ修行可能かは知らない。多分知ったに時は死んでるのだろう。 さて明日はその俳句教室。今日中にどの句を提出するかを決めて、清書する必要がある。だがあまりにも秀作が多過ぎて選ぶのが大変。それは冗談として、考え抜いて選んだ句が評価されないことも多い。やはり視点が違うのだろう。だが私は心の中で反論する。「全国紙の俳句欄に載る句は、彼の持論よりもっと自由だよ」と。「選者が多い全国紙は、彼が推奨する地元紙のレベルとは質が違うよ」と。さて、次回からそろそろ各論編へ進むべきか。<続く>
2022.01.19
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~春めく日の出来事~ 女性が追いかけて来た。米倉涼子似の人。だがよく見ると小池栄子似だった。北条政子役で今大河ドラマに出演中。その彼女が私に鍵を渡した。「ああゴメン」。郵便局の窓口で切手を買った。お金を出すときに邪魔になった鍵を財布から取ってカウンターに置いた。ATMへ向かった私を、局員の彼女が届けに来てくれたわけ。前から顔を知っていたが、米倉から小池そっくりに変化。少し歳を取ったんだねえ。 シドニーのレストランで女性に見つめられたことがあった。梅宮アンナ似の人。多分イタリア系の移民だろう。スパゲッティの後で彼女が勧めたオニオントーストを食べた。本当は満腹で食べたくなかったのだが、つい頷いてしまった。もう25年も前の話だが、彼女が私を見つめていた謎が今解けた。きっとチップを待っていたのだ。だが滞在4日目の私は疲労困憊で、全く気づかなかったあの時。 モノレールの車中では女子高生にウインクされた。日本人が若く見られるのと、外国では女性も積極的なのを実感。博物館で並んでいる時、背後に人の気配を感じた。振り返ると男。オーストラリアはホモが多いと聞いていたので、慌てて離れた。英語も碌に話せず、枕が変わって眠れないうえ12月は真夏。キャンベラ、メルボルン、シドニーと時間があれば走った。あの疲れた旅も、今では懐かしい思い出だ。 郵便局へ行ったのは、「お年玉付き年賀状」が当選したための引き換え。上が今回の「切手シート」。40枚中2枚なので高確率。賀状を欠礼すると寒中見舞いに書いたので、これがきっと最後の「お年玉」。結婚早々2等賞の掛け時計が当たった。ある年は4等賞の「園芸セット」が当選。あまり年賀状を出さなくなった今では景品も貧弱だが、1等賞は確か現金だったはず。ぜひ番号を確かめてね。 郵便局からの帰路、紅梅を見つけた。観たのはいつ以来だろう。周辺で最も早咲きの紅梅は懐かしい名前。父のお菓子屋の名が紅梅堂。昭和20年代にあったカバヤキャラメルと紅梅キャラメル。カバヤはカードで「カバヤ文庫」の本と交換でき、紅梅はジャイアンツ選手のブロマイドや切手帳だった。若くして死んだ父と姉と、一昨年死んだ兄。そして今では遠い戦後と、長く続いた貧乏の日々。 ベランダに布団を干した後、自転車で買い物に向かった。バス停前の花壇では、早くも水仙が咲き出していた。これは野生に近い生命力旺盛な品種。先般大量に作ったおかずが残り少なくなっていた。毎日食べればその分だけ確実に減る。落ちることない私の食欲をこそ、感謝すべきなのだろう。重たい荷物を背負って向かい風の中必死でペダルを漕ぎ、無事帰宅。 買った食品を素早く仕分けし、遅い昼食を摂り、干していた布団を取り込み、ブログを書くためパソコンに向かっている時チャイムが鳴った。玄関は開けずに居間の窓を開けて話すと、リサイクル品の買取り業者。最近はこの手の業者が次々にやって来る。話のついでに故障したデジカメを売った。値段はわずか100円。それなのに書類にいろいろと書かされた。ブログネタと思うことにするが、果たして安全か。 トンガの火山噴火による津波が日本にも押し寄せ、被害が出た。宮城県でもカキやワカメ養殖用のいかだが揺すられての破損や、ワカメが切れたことによる減収など。小型漁船の転覆も各地で起きたみたいだ。さらに心配されるのが今後の気象。火山灰が成層圏にまで達することで数年後には気温の低下による農産物の不作、ソーラー発電の低下などが懸念される由。新型コロナだけでも厄介なのに、本物のコロナ(太陽の外延部のガス)にも影響するとはねえ。CO2の増加にもつながるんだろうなあ、きっと。
2022.01.18
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~捨てたもの・出会ったもの そして源流から支流へ~ 沖縄に赴任する前、青年時代までに書いた詩を全て捨てた。これからは2,3年ごとに転勤することになる。いつまでも過去に拘ってはいけないと思ってのことだった。だが今になると惜しいことをしたと思う。感受性が強かった時期に書いた詩は尊く、二度と書けないものだったからだ。だが不思議なことが私に起きた。何と25年ぶりに詩が書けたのだ。これには自分でも驚いた。 書けた理由は分かっている。「内地」と異なる風景や文化や歴史。沖縄では有数の詩人が部下で彼の詩を読んだこと。そして上司による連日のパワハラ。それらの異常な感情が私に奇跡をもたらしたのだ。神様は「死」の代わりに「詩」をくれたと思った。だが魂を込めて発行した2冊の詩集は、家族の誰にも受け入れられなかった。妻などは「お父さんの詩はインチキだ」とまで言い切った。レ・ミゼラブル。 気になっていた「寒中見舞い」を出し切り、ついでに大掃除をした。それで気持ちの整理が出来た。その夜つくば時代の同僚Tさんから電話があった。私が出したハガキの文章が気がかりだったと、20分以上話した。奥様が2年前病気で倒れ、今は自宅で介護生活を送っている由。お世話してるのは娘さんと彼。それは初耳だった。そして次の言葉にはもっと驚いた。 私の辞職時の挨拶状の「職辞して春風(しゅんぷう)われのものとなる」の句を覚えていたのだ。19年前に私が詠んだ俳句。さらに沖縄で発行した2冊の詩集のことも。それはもう30年前の話で「それなのになぜ」と考えて、理由が分かった。彼は京大の文学部卒。きっと日本文学専攻だったはず。家族すら見捨てた私の魂を、まだ忘れず覚えていてくれた人がいたとは。彼の長く篤い友情に感謝だ。 白山 北陸勤務時代に「俳句紛い」を千句近く作った話は既に書いた。侘しい単身赴任の私のために、ランニング仲間がホームページを作ってくれたのだ。メニューは日記、俳句、歴史のコーナーと「掲示板」。それを毎日更新していた。足を傷めて走れなかった時期で、私は早朝に散歩しながら五七五を口ずさんだ。そのノートをある時に捨てた。断捨離の際、もう役に立たないと判断し、処分したのだ。 クロユリ 白山登山の最中にも120句は詠んだ。今にして思えばいかにも勿体ない話。俳句になってなくても、そこには北陸の自然と風景が描かれていた。つまり俳句の素材になり得たのだ。「偽物」から「本物」へと詠み直すことも可能だったのにと、悔やんでももう遅い。私が覚えているのはわずか2つ3つ。 春霞白山姫を虜にす。 (はるがすみしらやまひめをとりこにす) 白山神社の祭神は白山比売という女神だが「め」は口編に羊。季語は春霞で一応俳句になっている。 観音のマリアに紛う姿かな (かんのんのマリアにまごうすがたかな) 墓地の観音の後ろ姿がマリア様に見えた。これが私が粗製乱造した無季語のインチキ俳句の典型。 奥つ城の六字名号加賀は春 (おくつきのろくじみょうごうかがははる) 兼六園の桜と金沢城 最後の句は当時の風景を思い出して4年前に詠んだ作品。「奥つ城」はお墓のこと。「六字名号」は南無阿弥陀仏のこと。加賀国(石川県)はかつて一向宗(浄土真宗の一派)の宗徒が一世紀以上に亘って支配した時期があり、墓地のほとんどがその宗派で埋め尽くされ、墓はすべてが西を向き「南無阿弥陀仏」と名号が刻まれている。捨てたノートには「俳句の素」がたくさんあったのだ。 ブルーベリー 若いころの下宿先で、T大学博士課程の人が私に言った。大学でこんなのを聞いたと。「雨が降る日は天気が悪い悪いはずだよ雨が降る」。おいおい本気なのかよ。大学院でそんな話をしてるとは。そんなのは俺でも作れると、聞いた夜に100ほどの戯れ歌を詠んだ。だが今になって調べると、それは狂歌の類のようで、それも色んな形や呼び名があると分かった。 立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花 太平の眠気を覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず (注)「上喜撰」(お茶の高級種)を「蒸気船」にかけた掛け言葉。「太平を泰平と、眠気を眠りと」詠むのは明治期に入ってから。馴染みがない元歌は幕末の資料に残っているそうだ。 散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする それらを三味線などの音曲に載せて歌ったのを「都々逸」(どどいつ=左)と呼び、幕末の志士である高杉晋作が愛したそうだ。また坂本竜馬(右)は狂歌の先頭に五文字を加える「五字冠り」(ごじかむり)を愛した由。竜馬が詠んだのが以下の歌。 世の人は我を何とも笑わば笑え我なすことは我のみぞ知る いかにも竜馬らしい磊落(らいらく=こだわりのないこと)さではないか。 しかし日本の短文学は凄い。和歌(短歌)が時代と共に連歌(れんが)や俳諧(はいかい)となり、そこからさらに川柳、狂歌、近代俳句などが派生した。戦後「第二芸術論」で桑原武夫が近代俳句など短詩型文学を批判したが、歌壇や俳壇からの反論が相次いだ。無論正岡子規の流儀を忠実に守る派もある一方で、様々な試みもなされていると私は認識している。今日は話があちこち飛んだが、お許しあれ。<続く>
2022.01.17
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~別世界への旅路~ 最初の職場での勤務は3年間で終わった。定型的な仕事は自分には向いてないし、精神的な苦痛も感じていた。そこで新設機関への転勤希望を出した。その希望が叶って始まる新たな生活。これまでとは全く異なる分野なのに加えて、新設機関のため「無」の状態からのスタート。そして職場は仮校舎から現在地へと新築移転し、以後天職となるその仕事に夢中になって取り組んだ。 さて、若き日に出会った宗教や文芸や音楽が無駄にはならなかったと思う。旧約聖書の詩編や讃美歌、借用した法句経(ほっくきょう)。それらは文語体で書かれ、古語を交えた韻文もあった。日本語の美しい響きに感銘し、言霊(ことだま)すら感じた。美術や文学もそうだが、なるべく若いうちに「本物」に出会うことが大切だと思う。それは他の分野も同様だ。結局「偽物」には偽物の価値しかない。 職場では軟式野球部に入って練習に励み、試合にも出た。新しい分野の仕事と環境の変化は、私の心身を健康にした。やがて4年遅れで大学へ通い始める。勤労学生が中心の夜間部だ。だが全国的な大学紛争が仙台にも波及し、職場の大学もそして夜学のある大学も学生運動のプロ集団によって封鎖された。私は二部の学生委員会に所属していたが、逃げ出した先輩に代わってやむなく委員長になった。 夜学の学生には職場の組合の猛者もいて、混乱の元になった。だが一般学生の代表である私たちは穏健な主張で混乱を乗り切った。体重は10kg以上減り、病院に担ぎ込まれたことも。それでも4年間で得たものは多く、妻とも知り合って結婚し、資格取得のための講習やより上位の専門試験にも合格出来た。礼拝堂の地下食堂の天ぷらそばの味、クリスマス礼拝や、委員長としての演説など今なお忘れられない。 試験合格が契機となって東京へ転勤し、その後も転勤を重ねた。国内最先端の電算化を実施していた3番目の職場では、懸命に専門雑誌のタイトルを覚え、英文タイプを打ち、不得意なコンピュータ操作に苦しんだ。国内初の新構想大学となった4番目の職場では、全国から集まった優秀な同僚たちの実力を知らされた。そこで10年勤務した私は、一大決心をし新天地へと向かう道を選んだ。 何もないところから私が作った5番目の職場。理想に燃えて構想を練る私を、上司であるM教授は理解し、学長をも説得してくれた。心身はすり減ったが、それまでの経験がすべて生きた。いやそれらを駆使して全国にないものを作った積もりだ。3度の創設事務は累計で21年に及び、私の誇る最後の作品となって今も立派に機能しているはず。仕事に悩んだ時は深夜に起き、真っ暗な海岸を1人で走ったっけ。 退任される際、M教授は私に1冊の本をくれた。世界的な大脳生理学者であった先生は、ホトトギス派の俳人で、フランスのパスツール研究所で勤務された時も俳句を詠んだ由。その本の内側に私への献辞と共に自筆の句が添えられている。「汐時の鳴門轟く良夜かな」 巨草が先生の俳号だった。 世界的な学者と心を通わせて築いた職場。私は何度か転勤を重ねたが、本当に偉い人は決して威張ったりしない。文化勲章を受章された先生や、若くして学士院賞を受賞された先生。皆穏やかな方だった。 ところが世の中にはトンデモナイ人もいて、激しいパワハラに遭ったり、部下の裏切りにあったりもした。「胡麻をする能力」がない私は、本音で語り馬鹿正直に生きるしかなかった。若くして病死した後輩たち。パワハラを受けて自殺し、失恋して自殺した後輩。途中から研究者へと転身した同僚や部下。彼らの顔を一人一人思い出す。そして私が死なずに済んだのは実に「文学に守られていた」からなのだった。 雪国 沖縄では25年ぶりに詩を書け、2冊の詩集を出した。人事権を握る女ボスに飛ばされた雪深い北陸では、1年で千句ほどの「五七五」を作った。季語も知らず基本知識もないがリズム感は育てられ、後に生きた。短期間の博物館勤務は、知識や観点が豊富で多様になった。やはり「本物」との出会いが大切だ。早くからインターネットに接した私はやがてブログにも出会うのだが、それはしばらく後になる。 さて人生に無駄などない。離婚したことも含めて良い経験だ。「もしもあの時」と考えることもあるが、すべては自分が良いと判断して選んだ道。失敗もまた貴重な経験だ。失敗し躓いたからこそ得られたことも多かった。人生然り。文学も同様だと思う。すべては「修行」と考えたら、この世に生を受けたことに先ず感謝すべきなのだろう。今日は文学論より人生論になったかもね。<続く>
2022.01.16
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~再び故郷へ戻って~ 小学校の教科書では「オッペルの象」と習った宮沢賢治の童話が、本当は「オツベルの象」と濁ることを今回調べて知った。出版社の担当者が字を間違えたのが真相のようだ。しかし音楽教室があり、いきなり「三人の王の行進」や「オーゼの死」をレコードで聞かされた松山の小学校には驚いた。仙台の木造校舎には音楽教室などはなかったはず。傘が人数分なかった我が家では、ネギを刻んだのがおかずだった。 松山で小学校は1年3か月、中学は3年。そして高校へは入学後1か月しか通わなかった。父が急死したのだ。次は静岡で稼ごうと考えた父は税金対策のため全財産を3番目の妻の名義に書き換えていたようだ。大きな夏みかんが実っていた愛媛県庁の前庭。北国生まれの私たちにはとても珍しい風景だった。死の直前の父と行った今治市の「唐子浜」をその35年後に訪ねた。人生はまさに夢幻だ。 広瀬川と仙台市 義母は遺産の10分の1しか私たちに渡さなかった。私たちは成人してなかったし、義母(と呼ぶのも嫌だが)は親戚の弁護士と相談の上だったのだろう。そんな事情で仙台では何度か転居を重ねた。兄は勤めながら夜間高校を卒業し、私はようやく公立高校に授業料免除で転校出来た。だが2年の秋からは部活を練習のある運動部から文芸部に変えた。放課後にアルバイトをするためだ。 青葉城隅櫓 男女共学で柔らかい雰囲気の県立高から転校した仙台の高校はすべて別学で、ガサツな校舎と校風。違えば違うものだと感じた。アルバイトは仙台名産の配達。それでも就業前に夕食を摂ることが出来たのは幸い。「手当」は全部兄に渡した。元旦は電報の配達を、夏休みには某文具メーカーの倉庫で重たい段ボールを担いだ。そして夕方からはいつもの配達。クタクタでも頑張れたのは若かったからだろう。 文芸部では詩と小説を書いた。詩は慣れていたが小説は初経験。甘っちょろい青春ものだったが、印刷され文集に載った。書いた詩は「ガリ版」で詩集を自作した。たまたま文化祭に来た姉がそれを読み作れば東京で売ってやると。そして思いがけないことが起きた。ある女子高の演劇部員から詩の創作を頼まれたのだ。その詩を「鶴の恩返し」の劇で朗読するらしい。 私は文語体の短い詩を書いて彼女に送った。それを60年ぶりに思い出してみた。もう少し長かったはずだが、どこか忘れた部分がある感じ。 トントンぱたりとんぱたり トントンぱたりとんぱたり つうが織りたる織物は 黄金の布に銀の布 ついによひょうが見たものは 一人機織る鶴ばかり 白い姿の鶴ばかり あわれよひょうよどこへ行く 愛しきつうの面影を 探し求めて雪の中 今日もさまよう雪の中 演劇は大成功だったようだ。彼女からお礼の手紙が届いて、私は彼女が通う教会に顔を出すことになった。これも奇縁。弟が生まれた直後に別れた生母はクリスチャンだった。聖書の言葉と讃美歌の調べは多感な高校生を虜にした。私は結婚する牧師のために詩を書き、教会のオルガン奏者が作曲した歌を、式の当日に聖歌隊の一員として歌った。自作の詩が歌になった人生初めての経験だった。 彼女から東京の大学に行って良いかと聞かれた。私には彼女の進学を止めるなんの権利もない。きっと交際したいと思ったのだろうが、17歳の私にはまだ重すぎる決断だった。それに私は既に就職が内定していた。その後は勤務しながら合唱団に入って歌を歌い、教会では子供たちの世話をした。若くして出会った宗教は、たとえ一時的にせよ心の汚れを洗い、魂を清らかな世界へと導いてくれた。 石川善助の詩碑 教会の勤労青年部の早朝礼拝で行った山の頂上に、その詩碑はあった。詩を読んだ途端に魂を撃ち抜かれた。なんという素朴さ。それでいて暖かくて清純な言葉。詩の題は「化石を拾ふ」。私も小学生時代に化石を拾ったことがあったし、詩も早くから書いていた。そして母の暖かさも家庭の味も知らずに成人した。そんな体験と感情が、この詩を読んだことで一気に蘇ったのだろう。 化石を拾ふ 光りの澱む切り通しのなかに 童子が化石を捜してゐた 黄赭(きあかつち)の地層のあちらこちらに 白いうづくまる貝を掘り 遠い古生代の景色を夢み 遠い母なる匂ひを嗅いでゐた ・・・もう日は翳(かげ)るよ 空に鴉は散らばるよ だのになほも探してゐる 捜してゐる 外界(さきのよ)のこころを 生の始めを 母を母を 石川善助 石川善助(1901-1932)は仙台市国分町「芭蕉の辻」(かつての奥州街道が通った商店街で、現在は青葉区国分町1丁目)の商家に生まれ仙台商業を卒業後、仲間と共に詩や童話の創作に励み、同人誌「感触」や「北日本詩人」の創刊に関わる。1932年(昭和7年)東京大森駅付近の線路を酔って歩き側溝に転落して溺死。死体の発見は死後10日目だったそうだ。彼の死を悼んだ友人らがその後詩集「亜寒帯」や童話集などを刊行した。 詩碑は仙台市太白区向山4丁目愛宕神社境内(愛宕山頂上:愛宕大橋南たもと付近から階段などで)にある。一生で何度か自分の生き方を決める場面に出会うが、この詩碑との遭遇がその後も私を詩に誘い、日本短文学との出会いにつながったと感じている。<続く>
2022.01.15
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~死は唐突に~ キャベツ 今週の出だしはあまり調子の良いものではなかった。だがそれは私自身の話であって、王将戦に挑戦していた藤井竜王は7番勝負の初戦に勝った。次回の会場は高槻市摂津峡にあるホテル。その場所は知っていた。高槻には2年住み、ランニングの練習やロードレーサー(自転車)で遠出もしていたからだ。峠を3つ越えて京都府の舞鶴まで往復したこともあった。転勤族にはどの地にも思い出がある。 白菜 大相撲の初場所が始まった。新型コロナに力士が感染し、親方以下全員が休場した部屋も出た。大関貴景勝は足首を痛めて3日目から休場。次の場所は大関になって5回目のカド番だ。正代は5日目で3勝2敗。2人の大関が奮わない中で、5連勝と照ノ富士の勢いが止まらない。土俵際まで追い込まれながらも、そこから逆転の横綱相撲。新横綱が3場所連続で優勝すれば100数年ぶりの大記録とか。 ウメモドキ 11日が成人の日の祝日であることなど、頭の中から消えていた。なぜ3連休なのかと言うのも含めて。18歳を成人とする規則が今年成立する。来年からは18歳、19歳、20歳が成人式とばらばらの市町村が出る模様。しかも1月は行事が多く、5月の連休に挙行する自治体が多いと予測される由。かつては1月15日までに20歳の者が対象で、3月生まれの私は翌年回しになり参加しかった。 枯菊 火曜日の朝歯科から電話があり、急遽予約日を変更することになった。変だなあと思ったが、病院の都合では仕方ない。翌日は自転車で眼科に行った。新雪の淡雪なので道路は融けると判断。途中までは確かに良かった。だが坂道でブレーキをかけた途端、まるでスローモーションのように転倒した。右足が車輪と車体との間に挟まって抜けない。あれには焦ったが、それでも何とか足を抜いて立ち上がった。 椿のつぼみ 転んだ原因は視覚障碍者用の点字プレート。雪で隠れて見えなかった。しかも表面が滑らかだったため、ブレーキ作動で横滑りしたのだ。幸い怪我はなく、横断歩道を渡ってからは車道を行った。車道は雪が融けているし、車の方が注意してくれる。眼圧と視力を測定し、目薬を処方してもらい、3月に「視野検査」を予約した。薬局からの帰路スーパーに寄り、納豆と歯ブラシを購入。納豆餅にするためだ。 残菊 水曜日の朝。再び歯科から電話で、予約日の変更通知。理由はドクターの奥様が急逝されたため。数日前には元気だった。だが「頭の動脈瘤云々」と言っていた。死因はクモ膜下出血。動脈瘤が破裂したのだろう。まだ50代に入ったばかり。優しくて朗らかなで、私はドクター同様奥さんも大好きだった。私より25も若く、あんな良い人をなぜ神様は天国に召したのか。以下は予約日を忘れないように出してくれたハガキに描かれた彼女の作品。人柄が良く分かります。 ドクター 息子さん 奥さんの訃報を知った日の夜。シャッターを下ろしてもなお、強い風の音が聞こえた。ゴーゴゴゴーゴゴ ゴーゴゴゴー。甘いリンゴも吹き飛ばせ 酸っぱいリンゴも吹き飛ばせ。 ゴーゴゴゴーゴゴゴーゴゴゴー 女子大生の頃は人形劇をやってたと話してくれた奥さん。一度は手作りの人形を持って来て見せてくれた。たくさんの優しい心遣いをありがとうございました。どうぞ天国で安らかに眠ってくださいね。また会う日までさようなら。<献句> 松の内笑顔優しき女逝けり 享年を知らざる女や屋根の雪
2022.01.14
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~小学生から中学生へ~ 「われと来て遊べや親のないすずめ」。「古池や蛙飛びこむ水の音」。一茶や芭蕉の名句を知ったのも多分小学生時代だったと思う。仙台から松山に転校したおかげで、私は水泳を覚えた。場所は瀬戸内海の海水浴場の外れ、5mほど先の岩まで手足を動かしたら行けた。唯一私が泳げるのが平泳ぎ。翌年6年生では伝馬船から海に飛び込み必死にもがいた。その成果が40年後のトライアスロンにつながる。 中学校の敷地は松山城の二の丸跡。石垣には良く登った。校門前の坂を上ると「立志の塔」があった。昔なら14歳で元服だ。中学は他の小学校からの生徒と合流し、番長同士の対決もあった。1年の担任は美術の先生。2年は国語で3年は数学。1年では学級委員を命じられ、峠越えで40kmを歩いたこともあった。2年の担任には可愛がられた。拙い詩も短歌も褒めてくれたT先生。 法隆寺 修学旅行で行った関西の寺院。そこで初めて詠んだ短歌のうち覚えているのが下の3首。 斑鳩の里に聳えし塔みれば花のごとくの古(いにしえ)思ほゆ 緑なる春日の宮の朝の風吊り灯篭を揺すりをるかな 老人の鐘撞き堂に一人ゐて石山寺は線香のかほり 先生は「新古今調だね」と言うが、古語は何となく覚えたもの。ダム建設の現場を訪れて書いた詩は、「名詞止め」を褒められた。そのダム湖のある川を40年後にカヌーで河口まで40km以上漕ぎ下ることになるとは知る由もない。先生は元オリンピックで銀メダルを取った水泳選手の娘。先生が詠んだ下の俳句を今でも良く覚えている。その60年後には自分も俳句教室に通うという縁に驚く。 マスク取りて顔に笑いの広がりぬ 中学生時代に読んだ「人間襤褸」(「らんる」はぼろ切れの意味。著者は大田洋子で、広島原爆の被害の様子を詳細に記した小説。生々しい表現と被害の実態に驚嘆。ぼろ切れ同然に倒れ死に行く群像。中学生には残酷な現実だが、読んで良かったと思う。その何十年か後に2度訪れた原爆資料館。この本は文学少女だった姉の蔵書。私の詩を新聞に投稿し、詩集を仲間に売ってくれた美人の姉は若くして死んだ。 湊町銀天街の古書店を訪れたのも中学時代。私が見たのは美術全集や古い彫刻など。美術や歴史に惹かれる素地は、多分あの時代に築かれたのだろう。1年の担任美術のF先生にもなぜか可愛がられた。養子だった先生は、きっと東北から四国に流れ着いた私に、ある種の哀れみを感じていたのではないか。松山に赴任し40年ぶりに再会した際、先生は椿の花の版画をくれた。今は懐かしい少年の日の思い出だ。<続く>
2022.01.13
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~教科書で出会った文学~ 私が小学校で最初に使った国語の教科書はこれか。画像検索で引っかかっただけだが、最初の文章は「たろうさん、はなこさん」だったはず。サンフランシスコ講和条約が締結された日、私たちは校庭に並び「今日から日本は独立した」との訓話も校長の名前も記憶は鮮やかだ。昭和天皇が国体のため仙台に行幸された際は、お車が通過するまで決して顔を上げてはいけないと先生に注意された。そんな時代。 覚えている最初の詩は大関松三郎のもの。お百姓さんが畑で薬缶から直接水を飲む場面で、確かごっくんごっくんのイメージが強い。彼は新潟の農民の子弟で、戦前「生活詩」の指導を受けていた。その後兵士となり戦死。師が保管していた大関の詩を戦後詩集として出版。民主教育を目指していたGHQ(進駐軍)の目に留まって教科書に載ったのではと推察。5年生(昭和29年)のころだと思う。 また急速に広がったのが作文で、戦後民主主義啓蒙活動の一助となった。無着成恭(むちゃくせいきょう)が山形県で実践した綴り方教室「山びこ学校」はその代表だろう。 その3年ほど前、新聞社から2本の鉛筆が届いた。私の詩を姉が地元紙に投稿したのだ。鉛筆は掲載の謝礼だったのだろう。「青い海 白い雲 浜辺では「まて貝」が出たり引っこんだりしている」との幼いもの。父と行った海水浴場の風景を思い描いたのだろうが、まて貝は空想。海水パンツなど買ってもらえず、裸同然だったはず。教科書で詩に出会うより前、私は「詩人」としてデビューしていた。 私が出会った最初の小説は教科書の「走れメロス」。メロスを信じて身代わりの受刑者となった友を救うため、必死に王宮まで走り抜いたメロス。2人の友情に希望を感じた。太宰治は津軽出身で、本名は津島。対馬へ旅した折、元寇の際に島民が船で逃げた先が津軽だったとバスガイドの話。津軽には対馬姓や津島姓が多い。800年前の史実が継承される不思議。私が地名や人名に関心を持つ所以でもある。 教科書で知った最初の短歌は与謝野晶子の「金色のちひさき鳥のかたちしていてふちるなり夕日の岡に」。意味は分かったが、旧仮名遣いの「いてふ」が銀杏であることに驚いた。「てふてふ」が蝶々と知るのはさらに後日。教科書は新仮名遣いに変わっていたし、当用漢字も年々変わった。それなのにこの歌が教科書に載ったのは、優れた文学でありかつ作者が女性だったからではないかと推察している。 明治天皇御集 同じころ「児童年鑑」で明治天皇の御製「ちはやぶる神路の山をいづる日の光のどけく春立ちにけり」を知った。今回ネットで確認したら明治天皇は生涯で9万3千首もの和歌を詠まれ、「明治天皇御集」上中下3巻に編集されている。この歌は下巻にあり天皇が56歳の立春の日の御製。しかしよく70年近くも忘れずにいたもの。私は「山」を「岡」と覚えていたのだが、これもきっと何かの縁なのだろう。 俳句は教科書ではなく、いきなり「本物」と出会った。正岡子規の「春や昔十五万石の城下哉」。(はるやむかしじゅうごまんごくのじょうかかな)。場所は四国松山城旧三の丸東堀端にその石碑があった。この句碑はJR松山駅前、堀端と場所を移し、現在は道後温泉の「子規記念博物館」の前にあるようだ。博物館へも入ったことがある。しかし仙台出身の私がなぜ松山にいたのか。 松山城 確か昭和26年のこと、仙台駅前の火災のもらい火で店が延焼し借金が出来た父の夜逃げ先が、四国の松山だったのだ。その3年後、中学生の兄、小学生の私と弟が夜汽車を乗り継いで父を訪ねた。給食費が払えないほど困窮していた。転校先の小学校は市の中心地にあり、裕福な家庭の子女が大半。ある時道後温泉に行こうと決まり、私も同行したが所持金が1円足らず1人だけ歩いて帰った。 道後温泉 実に生意気な餓鬼どもで、旧制の松山中学に赴任した「坊っちゃん」が手こずったのが良く分かる。因みに私の中学校は松山城の二の丸にあったが、文化庁の方針でその後取り壊された。懐かしい母校と校歌を今も覚えている。縁とは不思議なもので、父の客死で仙台に戻った私がその30年後に松山に赴任したのだから奇縁と言うべきか。俳句や短歌、詩との縁も切れなかった。人生は不思議で愉快だ。<続く>
2022.01.12
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~プロローグ~ 今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の初回を観た。予想に反してかなり面白かった。私は「歴史」が大好きだ。文学なんて目じゃない。だが私が興味を持っているのは考古学や日本の古代史や人類学など、それに類した分野で、中世史にはほとんど関心がなかった。だが大河ドラマともなれば、観ないわけには行かない。話題にもなり、NHKが組んだ「番宣」のための解説番組も観た。 ドラマの脚本は三谷幸喜が担当したようだ。タイトルに初めて「アラビア数字」が使われたことが話題になり、英語の表記があったことにも驚いた。ドラマの中で俳優が今風の「ためぐち」をきくのも痛快で、何の違和感もなかった。気になって北条頼政や義時、政子に関するYOUTUBEも観、鎌倉時代の流れもおおよそつかんだ。それが私流の番組を楽しんで観る秘訣だ。 朝ドラの「カムカムエブリヴァデ」がますます面白い。脚本は藤本有紀の担当。彼女の脚本は朝ドラ「ちりとてちん」で出会ったのが最初。落語と言う特殊な世界を描いたドラマで、俳優が慣れない落語に挑戦する姿を見て楽しんだ。落語の中の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はんとぞ思ふ」の崇徳院が詠んだ一首が今なお忘れられない。女優貫地谷しほりのデビュー作だったことも。 女三代の100年の歴史を半年の放送期間中に完結させるのだから、話のテンポが速いのは当然だ。それが意外性の連続で、その後一体どう展開するのだろうと想いが膨らむ。だが脚本家は視聴者の期待を裏切らない。2代目の「るい」役の深津絵里の実年齢が48歳と聞いて仰天。その彼女が18歳の乙女に戻り、若やいだ声で話し恥じらう姿。脚本家も凄いが、役者のプロ根性もどっこい負けてはいない。 ドラマ「おらが春」も興味深く観た。「おらが春」は俳人小林一茶の句集の名。原作は田辺聖子の「ひねくれ一茶」。1993年(平成93年)の「吉川英治文学賞」受賞作品で、原作にドラマ性を加味して最初に放送されたのが2002年(平成14年)。私も当時観たはずなのに、記憶が薄れている。 台本 理由は簡単。その当時私はさほど俳句に関心を持ってなかったからだ。だが今回は違った。一茶の一生と俳人としての成長を如実に感じ、時々に詠まれた句に感銘した。自己を見つめる目と俳句を追及する心の厳しさ。多少とも俳句に関わる者には嬉しい贈り物だった。 これがまあ終の栖か雪五尺 一茶 これがまあついのすみかかゆきごしゃく 終の栖は人生の最期に住んだ家のこと 五尺は約1m50cm 自宅は長野県の寒村にあった。 さて、このシリーズを書き始めたきっかけはある方のブログを拝見したこと。そこに掲載された作品が私の詩心を呼び起こした。少年時代から触れて来た詩、短歌、小説、俳句、エッセイなど。そして自己流の詩や短歌や小説や俳句。そして今では日課となったブログ。それらとの遭遇と、自らの想いを書ければと願う次第。大層なタイトルの割に中身がないことは承知の上だが、ネットに晒して恥をかくのも修行と考えている。連続となるか非連続かは未定だが、先ずは一歩踏み出した。<続く>
2022.01.11
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~まずは一歩から~ ある日の午後、思い切って外へ出た。近所の坂道を歩こうと思ったのだ。自信はあったし、前夜の「腰痛体操」でも調子良かった。だが歩き始めてすぐ、腰に痛みが走った。坂道の傾斜で背骨に負担がかかったのだろう。そして西風がきつい。午前中はポカポカ陽気だったのに、夕方近くなると急に気温が下がる。奥羽山脈を越えて来る西風のなんと冷たいこと。歩けたのは2kmほど。これが私の現実だ。 歩こうとしたのには理由があった。兄嫁が3千歩歩いたと先日電話で話していた。それでも少ないそうだ。ある人からの年賀状に「腰を傷めて全く歩けなくなった」と、最後の年賀状になるとも書かれていた。登山が好きで元気だった人がねえ。私も腰痛持ちで他人ごとではない。独り住まいの私が歩けなくなれば、暮らしが成り立たなくなる。今後のためにも何とか歩いてみよう。そう思ったのだ。 雪だるまのニンジンの小さな手 翌日も歩いて郵便局へ行った。前日同様すぐに腰痛発生。だが我慢して歩を進めた。可愛い雪だるま発見。日が当たる顔は融け、小さなニンジンが見えた。これは手だろうか。なんと可愛い作品。近所の子供が作ったようだ。日蔭にまだ雪が残る裏道。転ばないように慎重に歩く。おっかなびっくりのへっぴり腰。恰好悪くてもこれは自分のため。何も恥じることはない。 広場でゲートボールに興じるお年寄りたち。そういう自分も立派な後期高齢者。元気だった頃はあんなゲームが運動になるかと馬鹿にしていた。練習で80kmも走れたからで、自分を「鉄人」だと信じていた。それが今ではヨロヨロのヨタヨタ。寒い中でゲートボールを楽しめる彼らの方がずっと健康。人間一寸先は不明。かつては500kmレースを完走した人の腰が曲がっている姿を、昨年遠くから見かけた。 郵便局へ行ったのは「寒中見舞い」用の私製ハガキを買うため。年末にはまだ残っていたが、既に品切れ。仕方なく「官製はがき」を買い、生活資金を少しだけ下して帰途に就いた。ゲートボール場は氷が融けて水浸し。お年寄りたちの姿は消えていた。あんな泥んこ状態じゃゲームは無理。往きよりも帰りの方がずっと楽に歩けた。冬休み中の小学校は雪があるだけで、子供の姿が見えない静かな校庭。 夕方が迫った。帰路に見つけた雪だるまは形が崩れて泥んこ。スノーマンのなんとも儚い命。苦しんだ散歩だが、少しは運動になっただろうか。翌日から「寒中見舞い」を少しづつ書こうと、官製はがきと届いた年賀状とをテーブルにセット。「その気」が起きるようにと準備の積もり。でも食事は決して疎かにしない。それは命を繋ぐために不可欠の「儀式」。毎回美味しいと感じられるのが嬉しい。 翌日は「資源ごみ」回収日に備えて、古新聞、古雑誌、段ボール毎に紐で縛った。この日手を付けた「寒中見舞い」は数枚。なにせ住所から文章まで全部手書きのため、時間がかかるのだ。いつもパソコンのキーを叩けば「自動変換」されるため、すっかり字を忘れている。漢字は正確な字を思い出せない。そこれに目が良く見えない。何とか胡麻化して仕上げる。自作の俳句を添えたのが2枚。 金曜日。半月ぶりに灯油を購入。料金は3千数百円。1個のポリタンクに残量があったため、中途半端な値段になったのだ。5日、北朝鮮が新型弾道ミサイルを発射。700km先の目標物に命中したそうだ。日本のEEZ外ではあったが迷惑な話。さて宮城県内でもオミクロン株による感染者が発生。そしてついに「第六波」襲来が宣告された。東京都内で10cmの積雪。翌朝も凍結で事故が多発した。
2022.01.10
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~幻(まぼろし)か現(うつつ)か~ 朝方近くなってから夢を見た。良く夢に出る川の傍の道。泥の中から次々に這い出て来る子犬たち。川が流れていることもあれば、蛇行することも。橋が壊れていたり、道が分からなくなったりもあった。最近空を飛ぶ夢は見ない。夜中まで起き、睡眠導入剤のお世話になることも増えた。そして頭痛は寝不足のためか、寒さで血圧が上がったのか。日中の転寝はまるで天国にいるみたいだ。 大坂なおみ選手が「メルボルン・サマーセット」で4強のニュース。心に病を抱える彼女が政治的な発言をしたことでさらに追い詰められ、東京五輪は途中退場になった。その次の全米オープンも途中欠場。だが今回はプレーを楽しめたと言うが、ベスト4で辞退。理由は新年の猛練習で疲労が重なっていたこと。この後の全豪オープンはどうなるだろう。出張先のメルボルン市内を走ったのが懐かしい。12月で夏だった。 米軍基地内のコロナ感染者数が半端じゃない。沖縄(数か所)、山口、神奈川など。昨年8月の日米政府の合意で駐留米軍のコロナ感染について厳格に取り組むことになっていたはず。それが任期満了に伴う海兵隊の交代時、アメリカはPCR検査を徹底しないまま兵士を日本に派遣したようだ。それが基地内から基地外へ、兵士から日本人就業者へ。そして山口からは隣県の広島にも飛び火した。もし今「有事」となったら、米軍は機能出来るのか。危機管理が疎かでは、戦いどころではないだろう。 北朝鮮がまたしてもごねている。東京五輪の際は出場手続きをしながら不参加。それを理由にIOCは「北京冬季五輪」では国として出場停止処分にしたが、出場資格のある選手の参加までは禁止していない。だが北は「世界のいやがらせ」と「コロナ感染」を理由に不参加を表明。そのことが原因か、最新型の弾道ミサイルを日本海に発射した。コロナ、食料不足で苦しんでいるのは分かる。だが軍のハッカー集団がサイバー攻撃やネット犯罪で軍事費を調達してるのも判明。すべてが国連決議違反だ。 中国も変だがロシアも変。旧ソビエト連邦に所属していた、ベラルーシやカザフスタン政府の国民への弾圧が激しい。ロシアは隣国ウクライナ国境に10万人以上の兵を終結させ、その大部分がまだ現地で待機中。コロナに伴う世界的な不況と、国家間、国家内の分断が激しい。民族問題に異常気象問題に、食糧難問題。どの国も今は生き残りをかけて必死。だが他国への侵略は許されない。真実を報道しないマスコミの怠慢と、真実を知らされない市民の困惑。 「幻日」(げんじつ=光の屈折の関係で太陽の周囲に幾つもの太陽が出現する現象)の写真はすべてネットから借用した。今世界で起きている様々な現象も、果たして現実なのかそれとも情報操作が混じっているかは不明。そしてマスコミが必ずしも正義とは限らない。今は価値観が迷走し、世界的な合意が成立し難い時代。国連を見よ。安保理の常任理事国は、いずれも拒否権を持つエゴの塊ばかりではないか。 雪雲の中の太陽 と、ここまで書いたら急に空が曇って来た。慌てて2階に駆け上がり、干していた布団を取り込む。これは幻日ではなく、現実。私が撮った雪雲の中の太陽。無論一つしか見えない。幻日が起きる気象条件が整ってないのだ。まだ少し頭痛がする。寝不足か室内の気温が下がって血圧が上がったのかは不明。1日に1つお話を書いて予約する私の日課が何とか完了。ただただ感謝あるのみだ。
2022.01.09
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~わが貧しき食事~ 雪ではない。正体は大根おろし。しかも我が家の畑から引っこ抜いたもの。抜いたばかりのころはまだ凍っていた。零下5度にもなれば生きている野菜でも凍る。極寒地では立木すら凍って割れると聞く。さて、大根の皮は刻んでピクルスに変身し、葉っぱは煮物や炒め物に変身する。大根おろしに掛けるのは納豆に付いている「たれ」。あれで十分だし、サバの缶詰の「汁」ならなお美味しい。 大根の葉は干しておいたのを刻んだ。その方が甘味が増し、かつ鉄分やカルシュウム分が増すらしい。他にシイタケ、切り昆布、タマネギ、野菜入りのさつま揚げが入っている。先ず鍋に油を引いて軽く炒め、それから適当に味付け。残っていた煮物の汁、出汁醤油、味醂を入れて煮、最後にごま油を加えた。10本分の葉を入れたため、大増量。勿体ないが煮汁は捨てた。大根葉を干すうちに風で跳んで来た「砂」が鍋の底に沈んでジャリジャリしてたので。でも味は最高。土の味も砂の味もしなかった。 ポテトサラダも大量に作った。失敗だったのが予め圧力鍋で似たジャガイモとニンジンが少し堅かったこと。ご飯の時と同じ時間にしたのだが、もっと時間をかけ温度を上げた方が良かったみたい。でもスプーンで小さめに切れたのでOK。軽く湯通ししたタマネギとハム、刻んだ柚子の皮も混ぜた。トマトは潰れて汁が出るため、食事の時に切って添える。残念だが傷んだキュウリは捨てた。 ピクルスと言えば聞こえは良いが、何のことはない。野菜の酢漬け。素材は大根の皮、ニンジン(皮付きのまま)、タマネギ、柚子の皮。漬け汁は穀物酢、レモン果汁、ポン酢。それに以前のピクルスの残り汁を少々。ほとんど1年を通じて食べているため、酢の消費量はかなり多いはず。大根もタマネギも自家製なので、タダみたいなものだ。わが手料理は胃袋にも懐にも優しいのでR。 「お雑煮」の汁が残っていたのを有効利用した「力そば」。鶏肉で採った出汁で味は良い。それに刻んだ水菜を追加し、小さな餅を2個入れた。使える物は何でも利用するのが私流。当然冷蔵庫の整理にもなるし、食品の防腐管理にもつながる。「三段」あったお節も、ほとんどが胃に収まった。 お節の「甘いもの」はヨーグルトと一緒に食べた。黄色いのはキンカンの甘露煮だった。ここにない「栗」は薄い塩味だった。どれも美味しくてパクパク。右はあんこ餅。溶いた粒あんが傷む前に食べようと、ある日の昼食にしたが「薄く」てもあんこはやはりあんこの味だ。お口直しに、紅白蒲鉾と沢庵2切れを添えた。お茶は玉露の粉茶。値段は安いが美味しい。茶碗の底の「おり」は薬代わりだ。 ある日突然ケチャップの味が恋しくなった。だがスパゲッティを茹でれば時間がかかる。そこで「冷や飯」をチンしてオムライスを作ることにした。具はタマネギとハムと言う単純さ。卵焼きは別に作って載せたが、オムライスに見えるかどうかは問題外。無論我が家にグリーンピースなどはない。 そしてこれがオムライスを主食としたその日の夕食。おかずは「大根葉の炒め物」、「ピクルス」、「しめ鯖」。そしてお飲み物は超安物焼酎のウーロン茶割りを1杯。我ながらバランス良い食事と自画自賛。量が少ないので、摂取カロリーはそう高くないはずだ。 こちらは翌日の朝食。ご飯は冷や飯にお湯を注いで「チン」したもの。おかずは前夜の夕食の残り物がほとんど。コロッケは半分だけ。ソースをかけたアジフライは3分の1だけ。そして味噌汁は朝食時だけにしている。それでなくても塩分の摂り過ぎ傾向にある私。納豆は「たれ」なしのまま。しめ鯖や沢庵の塩分で十分。かくして今日もマックス爺は食べ、かつ生き延びるのでR。
2022.01.08
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~ 花屋さんにて ~ 暮れも押し迫った昨年の12月。パソコンの修理のため近所の生協に行きました。修理店のコーナーが生協内にあるのです。近所の電気屋さんがパソコンを扱わなくなったため、そこに相談するしかなくなりました。結局は中古のパソコンに買い替えたのですが、そのついでに隣の花屋さんに寄って、写真を撮らせてもたいました。新しいパソコンには「写真の在庫」が全くなかったためです。今回はそれを載せます。説明もなし。美しい花で心が癒されたら幸いです。こんな「写真展」を時々入れますね。何せ楽が出来ますので。 バラと何かな? シクラメン シクラメン シンビジウムかな? ちょっとアップし過ぎたかな。多分花束だったはず。 またまたシクラメン登場 あれっつ。前にも出たやつかな? これも同じものを撮ったかも。m(__)m 花束の先端をパチリと一枚。トルコキキョウだろうか。 まるで夢のような花ですが、名前は知りません。トルコキキョウの八重かもってさ。 カーネーションのオンパレード この白い花見たことあるなあ。名前はストックで良い香りがするみたい。 黄色い花を見ると元気が出ますね。「オンシジューム」ではとのご指摘も。 どれもみんなランの仲間のように見えますが。 これで花の写真は在庫一掃。後は寂しい写真だけになりました。ではでは(@^^)/~~~🌸花の名前を教えてくれた「かやねずみの家」さん、どうもご親切にありがとうね。
2022.01.07
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~雪降り続く~ ベランダの手すりの隅間から見た塀際 1月4日火曜日。また雪が降り始めた。今年最初のゴミ出しに行く。「あまり無理しないでね。何かあったら声かけて」と近所のHさん。頼みたいことがあるのはあるが、出来るだけ自分でやるようにしている。甘えてはいけない。自分にも他人にも。ともかく無理はしない程度に頑張る。人生もそしてブログも。ブログに苦しむ人の気持ちが分からない。思ったことをただ正直に書けば良いだけの話。 枯れたガザニア Mさん宅の車が見えない。きっと仕事始めなのだろう。救急車のサイレンが聞こえる。誰かが体調を崩して病院に向かうのだろうか。郵便受けから新聞を取る。年賀状が来ていた。きっと前日に届いたのだろうが、前日に私が取りに出なかっただけの話。かつての部下が某有名私大の教授になってから久しい。彼との出会いは42年も前なのに、なんという律儀さ。若かった頃の真剣な彼の表情を思い出す。 フユボタン 「カムカムエヴリヴァデ」を観てから、朝食の支度を始める。懸命に生きるるいが愛おしい。るいの恋が成就するのか。るいを試すように登場する多様な人々。彼女はどんな生き方を選び、どんな男を夫として選択するのだろう。冷蔵庫の中から適当におかずを選び、ご飯とおかずとみそ汁を温める。ぐい呑みで1杯だけの日本酒とリンゴと納豆と若干の漬物。 自家製浅漬け 野菜不足にならないよう浅漬けを大量に作っていた。主な素材はこの冬収穫第1号の白菜、ニンジンの千切り、自家製のタマネギ、切り昆布と柚子の皮。安かった「切り昆布」と「塩蔵ワカメ」は中国産だった。きっと日本から種を譲ったものだ。だが韓国の高級イチゴは日本の品種を無断で持ち出したもの。平昌冬季五輪のカーリングの「もぐもぐタイム」で食べていたのもそうだ。韓国は卑劣な国だと思う。 物置からジャガイモとタマネギを持って来た。ジャガイモは芽が出ていて生きている。タマネギも芽が出ているが、本体は凍っていた。東の畑に残っていた大根の1本を抜いた。こちらも凍っている。ジャガイモはポテトサラダを作り、タマネギはチャーハンの材料にし、大根は剥いた皮をピクルスの具材にする予定。干していた大根の葉はさつま揚げと一緒に煮物にしたら美味しいと「おかず大作戦」が膨らむ。 パソコンを代えたら取り込んだ画像の縮尺が以前のと違うため、時々失敗をする。それに私の頭は良く誤解するよう老化が進んだ。左はPCのトップページ。文字は10時5分の時間表示なのに、私はてっきり1月5日だと認識していた。良く見ると下に1月4日(火)と見えるが、これは拡大して初めて分かった。耳は聞こえ難く、目は見え難く、その上曜日や月日の正確な認識がない「サンデー毎日」の日々。 右の襤褸(ぼろ)切れは指先を切ったパソコン用の手袋。これは5年ほど前に走っていた時、拾った婦人用。薄くて小さくて作業用にもってこい。風で飛んで来た大きなビニール袋なども、そのうちごみ入れ用に使おうと、ガレージの洗濯竿に吊るして乾かした。笑わば笑え。私は貧乏も他人の評価も全く気にしていない。我は我なり。わが道を一人行くのみ。 時々養老孟司さんのYouTubeを観ている。「まる」が先生の膝に抱かれている。彼は東大の教授を57歳で辞めた。医学部の教授会で辞職することを宣言したら、「不安はないのか」と問われたそう。東大教授の定年は当時60歳。先生は質問した教授に「あんたは死の不安はないの」と逆に尋ねた由。人生に不安は付き物とそのころから達観していたのだ。それが「バカの壁」の執筆につながったのかは不明だが。 野ばらの実 YouTubeで先生がある人の死について語っていた。そこで調べると死の真相が分かった。名前は知っていたがなるほどそうだったのかと納得。老化による心身の衰弱は誰しもが避けられない命題。今は高齢者の独り暮らしが普通になった。高齢化による孤独はいずれ来る道。あまり他のブログを訪れなくなったのもそれが一つの理由。養老先生には老妻がおられるが、わが妻は大金を持って家を出た。果たして何が幸せなのかは誰も分からない。 中国の動きがおかしい。「第1列島線」はとっくの昔に突破され、今や艦載機を載せた空母「遼寧」が太平洋でヘリやジェット機を飛ばしている。台湾への爆撃機出動は既に防空識別圏から逸脱し、東海岸にまで回り込んでいる状況。さらに世界中から食料を大量に入手しているとの情報も。北朝鮮は日本企業を利用して金を騙し取り、ロシアはウクライナへの侵攻を虎視眈々と狙っている。 アジサイの枝 アメリカは11月に「中間選挙」。一方の中国は2月に「北京冬季五輪」を、秋に「共産党大会」を控えている。どちらも引くに引けない状況であるのは確か。それでも1月3日に、米中ロ英仏の5ケ国は多国間の外交取り組みを引き続き追及する旨の共同声明を発表し、「核戦争をしない」ことを確認したと言う。やれやれと言った気もするが、決して「通常兵器による戦争」が否定された訳ではない。 雪のツルニチニチソウ ここまで書いたら猛烈に腹が減って来た。そこでラーメンの大盛りを作り、午後からは「料理大作戦」を開始。もちろん私の戦争に「核」は不要。人間生き残るためにはエネルギーが不可欠。さてわがブログは予約機能を使って書いている。これは公開2日前の原稿。ブログの今後の企画も若干あるが、それもその時の感触しだい。ともかくこうして書けるだけでも有難い。外ではまだ雪がちらついている。
2022.01.06
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~サラリーマン川柳入選作から~ 昨年末、保険屋さんが挨拶に来た。カレンダーや景品と一緒に「サラリーマン川柳」の小冊子が入っていた。内容は2020年に募集したものだが、折角なのでブログで取り上げようと考えた次第。小冊子をデジカメで撮った画像なので、果たしてきれいに収まるかは不明だが、この鬱々した昨今「ワハハ」と笑い飛ばしてもらえたら嬉しい。 リモートで便利な言葉”聞こえません” (1番右) 嫁の呼吸五感で感じろ!全集中!!!(右から2番目) 十万円見ることもなく妻のもの(右から3番目) 会社へは来るなと上司行けと妻(一番左) じいちゃんにJ.Y.parkの場所聞かれ(一番左) 我が部署は次世代おらず5爺(ファイブジイ=左から2番目) お父さんマスクも会話もよくずれる(右から2番目) お若いと言われマスクを外せない(一番右) 抱き上げた孫が一言密ですよ(一番左) 義理なのにチョコのお返し倍返し(左から2番目の2) 我が家では夫婦げんかもリモートで(左から2番目の1) 待ち合わせマスクの妻がわからない(右から2番目の左) 我が夫見ざる言わざるグチ言わず(右から2番目の右) 定年後いつでも俺は不要不急(一番右の左) 心配ない三密我が家は会話なし(一番右の右) 妻は言う家事も含めてテレワーク(一番左の左) 育休の夫にさらに手がかかる(一番左の右) gotoに妻を誘うもソロキャンプ(左から2番目の左) 妻の指示不要不急のお買い物(左から2番目の右) 免許より返納したい我が夫(右から2番目の左) 妻は言う次も帰省はオンライン(右から2番目の右) マスクでも瞳を見てわかる思いやり(一番右の左) 道後の湯今年は家内と老後の湯(一番右の右) 在宅増主婦は家事増自粛なし(一番左の左) 同じバス娘に避けられ時差出勤(一番左の右) リモートの休憩時間待つ愛犬(左から2番目の左) ストレスは娘ピエンで俺胃炎(左から2番目の右) 還暦を赤いマスクで祝う会(右から2番目の左) 帰宅したパパに手洗い子が指導(右から2番目の右) 帰省せぬ孫に送ったポンジュース(一番右の左) 娘との会話始まる自粛中(一番右の右) 有料化袋忘れて手で抱え(左の左) ショッピング袋よりたまる段ボール(左の右) アイデアは良かったのですが、写真のサイズをいろいろ変更しているうちに、ボケてしまったり、見難いのも出てしまいました。楽をしようとした結果です。どうもごめんなさい。そこで慌てて補正してみました。さて、皆さん苦心の作品がちゃんと読めたかな。m(__)m では私も便乗して。 汗染みた母校の襷ゴールへと オミクロンに会長真っ青尾身苦労 初場所もコロナ休場の力士あり 甘いもの除いてお節食べ尽くす 核戦争止めるって本当?五人衆 米、英、仏、中、ロ 五か国がスパイ衛星で見張りっこ 怖いものコロナ中国核戦争
2022.01.05
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~シンビジウムが満開に~ 元旦の新聞はやけに分厚かった。仙台地方の名物「初売り」のチラシが大量に入っているのと、正月の特別仕様で、不要なページがたくさんあるためだ。大部分は古新聞の袋行きとなり、TVの番組欄を探すのにも一苦労。後日ニュースで知ったのだが、「初売り」のための人出が結構あったようだ。私はもちろんずっと家の中。新聞を読み、TVを観、ブログを予約するだけ。2日は洗濯、3日は布団干しも。 箱根駅伝は往路復路共に青山学院がぶっちぎりの完全優勝。シード権争いも激烈で、法政が最終区で東海大を逆転して10位に滑り込んだ。あまり熱心には観ず、復路はTVの音を聞きながら、いつの間にか眠っていた。1月3日の仙台は青空のポカポカ陽気で布団を干したほど。眠りから覚めると、シンピジウムが満開になっていた。 帝京大 明治大 ラグビー全国大学選手権の帝京大対京産大の試合を観た。接戦だったが最後は帝京が逃げ切った。これで9日の決勝は明治(関東対抗戦1位)対帝京(同3位)の関東勢同士の戦いとなった。かつての明治は強かった。「前へ前へ」の北島監督の姿が目に浮かぶ。 3が日に観たのは他に「ドラマ大化の改新」。超大作の再放送で、見覚えのある場面や登場人物で思い出した。岡田准一演じる藤原鎌足は、正確には中臣鎌(なかとみのかま)か鎌子(かまこ)が本名。しかも中央豪族の中臣氏ではなく、常陸国(現在の茨城県)が本拠地の傍流。一旗上げようと明日香の都に上り、蘇我入鹿を殺害した(乙巳の乱)ことで重用され、藤原氏の姓を賜った。平城京鎮護のために春日大社を建て、藤原氏の氏神を祀った。常陸の鹿島神宮の鹿が来たとの縁起だが、鹿が空を飛ぶことは不可能。だが今も奈良公園では神鹿として大事にされている。 <源頼朝> <北条政子> <政子の父北条時政> 「鎌倉殿サミット2022」が面白かった。もちろん今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に因む特集だ。頼朝の死の真相。二代将軍頼家、三代将軍実朝の若過ぎる死の真相。頼朝亡き後、なぜ微力の北条氏が執権となったのかなど、歴史家や小説家などがそれぞれの立場から自説を述べる。 頼朝は実権を握るために木曽義仲、義経、頼範、行家などを次々に死に至らしめる。まさに「兄弟は他人の始まり」だ。彼の死には「落馬説」、「病死説」、「怨霊説」、「暗殺説」、「北条陰謀説」などがある由。さらに鎌倉時代の正史である「吾妻鏡」にも、不審な点があると言う。 頼朝像 歴史は後に書き換えられることもある。頼朝を好きだった徳川家康が、「吾妻鏡」の一部を書き直させたとの説もある由。鎌倉時代は平安時代までの「古代」から「中世」に代わり、その後約600年間に亘る武士による支配の始まりだ。鎌倉はあくまでも「鎌倉殿」であり、「鎌倉幕府」ではなかったと言う。「13人」による合議制が本当にあったのか。それにしても政子の存在が大きい。まさに「尼将軍」だ。 1月2日の夜、急にご飯を食べたくなって米を研いだ。味噌汁が美味しい。年末年始の間に、野菜の煮物、キュウリ2本、豆腐半丁が悪くなっていたため捨てた。冷蔵庫に入れていても安心とは限らない。「勿体ない主義」の私などは特に要注意だ。食べ物が無駄にならないよう、ちゃんと管理せねばと反省。「お節」は順調に消化中。体裁は良いが、中身はそれほど無いのだ。それでも助かったのは事実。 このブログを読んでいる弟が私の体調を心配して、正月早々電話をくれた。同じく兄嫁も心配して電話をくれたが、彼女はブログのことは知らない。沖縄の保険会社の方が、ご丁寧にもメールをいただいた。沖縄を去ってからもう30年も経つと言うのに、なんと義理堅いことか。この会社との付き合いは「つくば」以来なので、もう40年以上になる。未だにお世話になっているのも何かの縁だろう。 植木から出た脇芽 新旧2つのパソコンを交互に使ってブログを書こうとしたが、古い方では更新が出来ない。きっと「パスワード」とIPアドレスが異なると判断されたのだろう。まあ新しい方のPCだけでも、目下の不便はない。いや、多少の不便があってもまだ我慢出来る範囲だ。 私が転寝(うたたね)をしているうちに満開になったシンピジウム。布団も干せたし、今夜は暖かい布団でぐっすり眠れそうだ。そこで新春の一句をば。 初春やシンピジウムに日の光 どうもお粗末さまでした。
2022.01.04
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~新年2日目~ 結局元旦に食べた餅は5個だった。朝はあんこ餅が2個、雑煮が2個。昼は簡単に済ませ、夜は大根おろし納豆餅を1個。合計で5個とは食べ過ぎのような気もするが。今回買った「切り餅」は2.5cm四方ほどの小さなもの。これにはびっくりした。袋の外からは大きさは見えない。だが重量は800グラムと書いてあるので推定は出来た。何分安いのが良かった。日本製なので品質は良いはず。 元旦に観たテレビ番組は4つ。「六角精児の呑み鉄」は再放送。「日本最強の城SP」は初めて観た城も懐かしい城もあった。「生命溢れる奇跡の惑星・地球大紀行」にも観たことのある画像あり。失敗したのが「最強キング決定戦」。これはタイトルで判断し、最後の方しか観なかったが、世界史上6人の英雄伝で、初めから観るべきだったと後悔。すべてNHKの特集番組。やはり歴史番組は刺激になる。 2日目の朝食 元旦の夜は早めに寝た。以前から感じていた疲れ。夜中までTVを観ていたせいだ。2日は朝の6時台に起床して洗濯機を回す。溜めると洗濯するのも干すのも面倒。加えて厳冬のため外干しが難しい。この日はあんこ餅1個、お雑煮1個。実は小さな餅で助かった。元旦に喉に餅を詰まらせた方が6人。うち2人が亡くなった。袋には食べやすいサイズと印刷してあった。地元の企業の良心的な商品だった。一人暮らしの私は誰とも話さない日がほとんど。そのため声帯を使わず嚥下障害を起こしやすいと言う。小さいサイズの餅で大正解だったのだ。 「お節」も金額に相応しい内容と量。体裁良く見た目にも美しい。その中から適当に皿に取っている。自分では作れないプロの味と素材。少量でもお正月気分を味わえた。いつもに比べたら、これでも豪華だし手抜きが出来てありがたい。庭に雀が寄って来る。きっと雪で食べ物に困っているのだろう。先ごろは山鳩も来ていた。住宅地の中の畑は、小動物たちの命を繋いでいるオアシスなのかも。 伝統の「箱根駅伝」の往路がスタートした。テレビの音を聞きながら翌日用のブログを書いている。1区は中央大学が抜け出し、これまで破れなかった一番古い記録を破っての新記録だったようだ。昨年の「予選」も観たが、最近は新鋭校の進出が目立つ箱根だ。さてこの後ゴールまでどんな展開になるのか、注目して観たい。と言いつつ、2区からはほとんど観ず、ゴール結果だけ知った程度。 洗濯物を初めて居間に干した。暖房を入れている居間は乾燥しやすく、取り込んでいる植木鉢の水やりも欠かせない仕事。室内の湿度を保つために洗濯物を干した。仙台は今日も寒く、水道水が手を切るように冷たい。それもまた北国の冬の日常。血圧の急上昇と、食べ過ぎ、飲みすぎに注意。体重計が壊れて記録が出ないため、正確な体重の確認が出来ないでいる。相変わらずの貧乏暮らしだ。
2022.01.03
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~大晦日そして厳寒の元旦~ 初日の出 (茨城県大洗海岸 磯前神社) 弟が水戸勤務の時に彼の家に泊めてもらった。だが通信社勤務の彼の家には夜中も電話が来る。そんな訳でほとんど眠れずに朝を迎えた。その日は「勝田マラソン」(フル)で、当日はみぞれ混じりの寒い日だった。眠れずに寒風と霙の中をゴール出来たのは、まだ若かったせいだろう。それから数年後私も水戸勤務になった。マウンテンバイクで大洗海岸のこの神社に行ったのも、今は良い思い出だ。 大晦日の午前中をかけて大掃除をした。フローリング、和室、キッチン、居間。どこも汚れていた。だが疲れを感じ放置していた。だが新年を迎える前に、少しでもきれいにしよう。年賀状も出さず、松飾も飾る気にならなかったので、せめてもの気分転換。ただし、書類整理は新年は持ち越した。「終活」の一環なのでいずれは処理する必要があるのを、面倒がっていたのだ。 ピンポーン♬ クール宅急便がやって来た。ずいぶん前に注文していた「おせち料理」。本当は前日の夕方以降に届く予定。外からも室内が見えるよう電気をつけていたのだが、私がPCに向かっていたため遠慮したのだろうか。郵便受けに入っていた「お届け時不在メモ」を観て、改めて配達日を指定し直したのが上。解凍まで14時間かかるとあるので、包みを解いて和室に1箱ずつ並べた。 大晦日に観たテレビ番組は「格闘技ライジン」。サッカーの三浦知良の次男孝太のデビュー戦もあってリングサイドに両親が来ていた。1回3分0秒の見事なTKO勝ちだった。父親のカズは息子に「やるなら思い切りやれ」と送り出したそうだ。プロボクシングWBOスーパーフライ級のタイトルマッチは、井岡一翔が防衛したが、迫力のない試合だった。35歳で元大工の挑戦者が良く頑張ったと言うべきか。 たまたま「ローマの休日」を観た。1953年(昭和28年)の制作で当時オードリーヘップバーンは24歳。本当にノーブルで魅力的な女性だと感じた。私がこの作品を観たのは数年後の中学生時代。その頃の料金は2本立てで60円くらいだったはず。それから彼女のファンになり幾つかの作品を観たがどれも素敵だった。それから時が経ち、彼女は虫垂がんのためウイーンで死去。確か62歳だったはず。 その他年末に観て面白かったのが、「超常映像の解明」、「グレートトラバース3総集編」、「解剖学者養老孟司の日々」。正確なタイトルは不明でいずれもNHKの制作。「超常映像」はほとんど謎が解明されるが、昨年今年と仙台上空で確認された物体(上)ラジオゾンデだと思われるが飛ばした人、団体が不明。中には偏西風に乗って地球を4,5周するものある由。ただ悪戯やインチキ画像も多数あった。 「グレートトラバース3」は何枚か写真を撮ったので、いずれ特集したい。素晴らしい挑戦の連続で、改めて感激した。見落とした画像も多く、私も登った山が出て来たのには驚いた。解剖学者養老先生の物事に捕らわれない独特の考え方と生き様には、感じさせられること、考えさせられることがたくさんあった。自分と社会を見つめる達観した目。愛猫マルは20歳で死んだが、先生はまだまだ元気な85歳だ。 元旦は雪の朝になった。最低気温は零下5度。積雪は5cm。早起きした近所の人が、親切に我が家の外階段を雪かきしてくれていた。私が腰を傷めていることを知っているのだ。ゆっくり起床して、布団を上げ、シャッターとカーテンを開け、スコップを持って外へ出、丁寧に除雪した。気温が低いため凍結すると滑って危険。それからおもむろに元旦の宴(朝食)の準備。 料理は3つの「お節」から食べたいと思うものを適当に選んで皿に盛り、残りはタッパーウェアに種類毎に収納して冷蔵庫へ。箱は分解して「雑紙」の袋に。これで冷蔵庫の中がすっきり。日本酒は地元一ノ蔵の特別純米酒をお猪口で3杯ほど。お雑煮はこの朝作ったが餅は入れていない。昼を過ぎたらも列に腹が減って来た。朝食べたものが少量で消化したのか。お雑煮とあんこ餅をこれから作る予定。 こんな風にマックス爺の新年がスタートした。さて、シンビジウムが大晦日の夜に咲き始めた。先月中旬はまだ固いつぼみだったのが、暖房と水やりのせいでようやく咲いてくれた。前妻と離婚して丸4年。彼女は良い方の鉢を持ち去り、私は残った貧弱な苗を分割して育てた。それが4年目にして初めて3つの花芽をつけた。一時は枯れたようなあの古株がだ。ただただ感謝。残されたわが人生も、かくありたいと願う年頭。
2022.01.02
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~2022年を寿ぐ~ 明けましておめでとうございます 本年もどうぞよろしくお願いいたします あまり気張らず「マックス爺のエッセイ風日記」を 書き続けたいと考えております 読者の皆様もどうぞお元気で過ごされますよう
2022.01.01
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~このところの寒波襲来で~ 氷ノ山(兵庫・鳥取県境) 物凄い寒波襲来で、日本各地で大騒動になった。滋賀県彦根市では積雪が70cmを超え、国道8号線でトラックが立ち往生した。青森市は110cmの積雪。大阪と奈良に住む職場の同僚が「キャンプ」に行った氷ノ山(ひょうのせん=標高1510m)では、4人がヘリコプターで救助されたものの、60代の男性が未発見(29日現在)。登山口で1m50cmの積雪の由。この状態でキャンプとはねえ。 近所の風景 太平洋側の仙台などは積もっても3cm程度。それでも日蔭は凍っているし、坂道や曲がり角が多いので自転車は危険。それでも道路の溶け具合を見ながら今年最後の買い物に行って来た。転ばぬかと冷や冷やだったが、何とか無事に帰宅出来た。別な日も雪道を歩いて近所の歯医者に行った。虫歯の治療で来年も早々に予約を取った。 気になっていた大根を8本ほど抜いた。日当たりが悪い東の畑だと、零下の朝が続くと簡単に凍ってしまう。そのまま融けたり凍ったりを繰り返すと腐るため、南の畑に穴を掘って凍ったままの大根を埋め、土を被せた。その状態で本当に持つのかは分からないが、やらないで放置するよりはマシだ。下は抜く前の状態。まだ抜いてないのが8本残っているが、さてどうすべきか。 切り落とした大根の葉は玄関先で干した。この後は自転車の籠に入れたままにすればさらに乾燥して甘くなる。自分の作った野菜は出来るだけ全部食べるようにしている。それが生命を育てている者の、使命だ。ともあれお日様の恩恵は大したもの。腰痛と共存しつつ、冬に生きている。 お雑煮の具 あんこ汁 上は仙台地方のお雑煮の具で、大根とニンジンを千切りにして茹で、それを何日か干したものを使う。後は刻んだセリと水菜と蒲鉾。出汁は鶏肉で取り、醬油味。下は粒あんの袋入りを鍋に移し、お湯で溶いた試作品。薄いのに結構甘いので砂糖は不要。後は餅を焼くだけだ。 焼ガレイ 年越し用の魚の煮物はお徳用の切り身を使ったが、安物で形にならず佃煮にして食べた。その代わりに自分で捌いたカレイを干したのを焼いた。私はこれで十分。それに刺身が3種類あり、ちょっとしたつまみも3種類。そしてこのほかに外注した「おせち料理」が届く予定。このブログが公開される前には届くはず。今年は多分東京の次男は帰省しないと思うので、一人暮らしには十分だ。 室内干し 面倒だが極力洗濯をしている。晴れた日はベランダに干すが、雪が降ったり気温が低い日だと洗濯物が凍るため、室内干しにならざるを得ない。汚れた玄関とガレージの落ち葉は掃き掃除をしたが、室内、廊下、台所はまだ。それに書類の整理も途中のままで終わっている。これも大晦日までには何とかしたいと思っている。 ミカンの露地栽培 今年の東北はサンマが全くの不漁だった。その代わり福島では南の「トラフグ」が獲れた由。やはり海水温が高いのだろう。そして宮城ではカツオが豊漁。そして宮城県の最南端で太平洋側の山元町では、露地栽培のミカンの初収穫のニュース。九州で3年間育てた苗木を300本購入して3年前に植えて露地栽培したものだ。とうとう宮城でもミカンが獲れるようになったのだ。時代が変わったねえ。 雪中の山茶花 さて、本日は大晦日。この一年間は一日も欠かさずブログを更新して来ました。心身の衰えもあってかなりしんどい作業ですが、頑張って来られたのも大勢の愛読者の皆様の声援のお陰と感謝しています。この一年間どうもありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えくださいね。そして来るべき新年も相変わらずよろしくお願いいたします。亭主謹言。ではでは。
2021.12.31
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~絵に描かれた琉球王朝時代の沖縄~ 最終回の今回は2冊の図録に掲載された琉球王朝時代の沖縄の姿を紹介します。<「琉球文化秘宝展」図録から> 1) 那覇港の図 6双の屏風仕立てになっています。 2-1) 琉球人登城図部分 その1 琉球王の使者が江戸城に登城する姿です。「正使美里王子」の名が見えます。美里は「間切」(領地の名前で、現在の沖縄市付近です)。 2-2) 同上の一部 正使「豊見城王子」の名が見えます。豊見城は現在の豊見城市の領主であることを示します。1-1)合わせて正使が2人いるのは、1人は慶賀使(新将軍の就位を祝う)ための使いであり、もう1人の謝恩使(琉球王の交代許可を感謝する)ための使いだったのでしょう。 2-3) 同上の一部 琉球人をことさら異国風に描くのは、幕府の力が遠く異国にまで及んでいることを観衆に示すためで、中には喇叭(ラッパ)を吹いている人もいます。武士の姿をしているのは、琉球を実質支配していた薩摩の島津藩のお付きの衆でしょう。 2-4) 同上の一部 「紫童子」(?として)2人の名前が見えます。右(前)の人物は小禄里之子(おろくさとぬし)と読めます。小禄は現在の那覇市の南部にあり、王朝時代には「間切」が置かれていました。左(後)の人物も同じ役職の里之子(下級武士)ですが、姓は不鮮明です。 3) 琉球王国冊封之図 中国(明、清)からは数年に一度、沖縄に使いがやって来ました。琉球王が中国の支配下にあることを追認する儀式です。この使いが来航する際は、琉球を実質支配していた島津藩の役人は那覇、首里から離れた農村に身を潜めていました。だから中国は琉球が日本と中国に両属していた「事実」を知らないままでした。琉球王朝は沖縄を広い土地だと思わせるため、わざわざ遠回りをして首里城へ案内したのです。途中の休憩場所が現在も残る「末吉宮」だったと聞きます。王朝は冊封使を盛大にもてなしました。 4) 婚礼図 かなり格式の高い婚礼の行列です。女性は駕籠に乗っています。高位の貴族の夫人なのでしょう。 5) 物売りの図 左側の女性は薪(たきぎ)を売り、右側の女性は豚肉を売っているようです。 6) 風俗図 左側の女性は漁村である糸満の魚売りです。漁師である夫から仕入れた魚を売った収入は自分のものとなります。昔から糸満女性は自立していたのです。右側は「焼酎持」と読めます。 7) 市場で物売りをする女性の図 以下は「沖縄の城ものがたり」から借用したペリー来航時の絵です。 幕末にアメリカのペリー提督が浦賀に来航しました。その前に彼は当時の琉球王国を訪れ、あわよくば奪おうと考えていたのです。絵は提督が連れて来た絵師が描いたものです。以下は当時の琉球王国の風景です。 樹下で休む士族(さむれー) 冠(はちまき)を被った高官の貴族 那覇港周辺から首里城方面を眺めた風景でしょうか。 高貴な士族の肖像 どちらも首里城内かその周辺と思われます。 これで本編「沖縄の話をしよう」(全16回)とその追補版「おきなわ補遺編」(全6回)を終了します。まだまだ沖縄について書きたいことや紹介したいことがあるのですが、ここまでとします。長期間にわたるご愛読を心から感謝し御礼申し上げます。ではでは。 亭主敬白
2021.12.30
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~暇人マックス爺の年末~ 「グレートトラバース3」~日本300名山全山人力踏破~の最終編を先日観た。「1」は日本百名山だった。「2」は当然二百名山。それらはそれぞれ1年間で達成したように記憶している。そして今回の三百名山は2018年の元旦がスタートなので、全山踏破にほぼ4年を費やした。 そんなど偉い記録を達成したのは、プロアドベンチャーレーサーの田中陽希さん38歳。このとてつもない挑戦を思いついたのは彼なのか、そしてそれにNHKが乗ったのか。「全山人力踏破」のサブタイトルが示す通り、移動に交通機関を使わないのがルール。最南端の屋久島の宮之浦岳から最北端の利尻島の利尻山まで、走るか歩くかして移動。海峡はシーカヤックを漕いで渡るという徹底ぶりだ。 最終回は大雪山から利尻山への挑戦だった。北海道生まれの彼にとっては、感慨深い挑戦とコースだったはず。大雪山系を縦走後に天塩岳を登頂した彼は、天塩川をゴムボートで下った。それだけで約70kmある。河口から豊富町までは走ったり歩いたり。そして最後の難関が利尻海峡。 テレビの画面なので映像が良くないが、シーカヤックで利尻島に向かって漕ぎ出す田中。左の赤い矢印は対馬海流の強い潮流。第1回の時は天候が悪く、かつ潮に流されて途中で転覆し、10時間かかって予定外の港に到着した苦い思い出があるが、今回は穏やかな天候で目的の港に3時間でゴールした。 宿に一泊した田中は翌日利尻山(1721m)に登頂する。海抜0mからのスタートなので、1700m余りを一気に登るわけだ。登頂後田中は山頂の神社に向かって手を合わせた。4年がかりの今回のコースは2万kmにも及んだ。地球を半周した計算だ。因みに私はこれまでに地球を2周半(10万km)を走った。ただし40年もかかったが。47都道府県すべてと、オーストラリアでも。 300名山(正確には301座)を踏破した今回の挑戦では、途中で右手の指を骨折してコースを変更したこともあった。私は4年間で何度この番組を観たのだろう。300名山の中には私が登った山が幾つか混じっているのが嬉しい。 ともかく田中の大冒険は無事終了した。ある人が言っていた。「田中の指に指輪があったけど、いつの間にか無くなっていたと」。このシリーズの6年の中で、彼は結婚と離婚を経験したのだろうか。4年間も家を留守にしたら、そんなことも起こるよね。でも彼は立派だったし、最後まで全力を尽くして自分の任務を遂行した。今夜BS3で夜7時半から「総集編」があるようだが、もちろん観る積もりだ。 今年の大河ドラマ「青天を衝け」が先日終わった。渋沢栄一と言う男を通じて、私たちは幕末から昭和初期までの日本と日本人の考え方や行動を学んだ。時には血も流れ、先進の欧米列強に飲み込まれる恐れもありながら、何とかアジアで初めての近代国家を建設し、世界の列強に肩を並べた。しかし、官に頼らず民間の一経済人として生き抜いた男の生き様は実に清々しかった。日本人の誉と言うべきだろう。 さて来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は鎌倉幕府を開いた源氏三代とそれに続く北条氏による政権を支えた13名の武士の話のようだ。ずっと以前「北条時宗」を観たが、私にとって中世はあまり興味が沸かない時代だが、勉強のため観たいと思う。 朝ドラ「カムカムエヴリヴァディ」は安子の時代から、娘のるいの時代に突入した。その急展開ぶりには驚くが女三代100年の歴史を半年間で描くのだから、仕方ない話。しかしどの時代も、そしてその時代の人物のどれもが面白くて興味深い。凄い原作だし、脚本だと感じる。渡米した安子はあれからどうなったのか。そして娘のるいはこれからどんな出会いがあるのか。弁護士に続き彼女の前に怪しい青年が現れた。新年は1月3日からの放送開始。さて3月末までに一体どんな展開があるのか楽しみだ。 雪が降った日曜日の京都。男女の高校駅伝をまあまあじっくりと観られた。女子は仙台育英が、そして男子は広島の世羅高校がぶっちぎりの優勝だった。男子の仙台育英は前半出遅れたが、後半実力を発揮して3位に食い込んだ。タスキを繋げなかった石川県の「つるぎ」は、その隣町に住んでいたので知っている。漢字では「鶴来」昔は町だったが、今は白山市になった。今回沖縄県勢の最高位記録を達成した「北山高校」は今帰仁村にあり、その前を走ったことがある。47都道府県を走っていると、どの府県にも何らかの思い出がある。私の歴史みたいなものだ。 北京冬季五輪の最終選考予選大会となった「全日本フィギュアスケート選手権大会」での羽生結弦選手は立派だった。怪我と練習不足による不調を乗り越えて世界初の4回転半ジャンプに挑戦し、着地にこそ失敗したが、それ以外は堂々たる演技だった。これで全日本は6回目の優勝。そして冬季五輪3度目の出場資格をゲットした。その強い精神力と、たゆまぬ努力に敬意を表したい。 この日の結果、上位3名が北京冬季五輪に出場することになった。来年2月の本番まで良い体調を維持し、いかんなく実力を発揮してほしいと願っている。今回書こうと思っていた他のニュースは、別の日に譲ろうと思う。読者の皆様も、どうぞこの年末をお元気で過ごされますよう。
2021.12.29
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~焼物のことなど~ 「歴史をひらく琉球文化秘宝展」(平成3年開催)の図録をもとに紹介しています。ただし、読者の理解を助けるために、適宜<参考資料>挿入しています。 1)緑釉花瓶(壺屋焼) 2) 白地緑釉差しカラカラ(壺屋焼) カラカラとは泡盛用の「お銚子」ですが、温めません。 3) 緑飴釉筒描抱瓶(だちびん) 壺屋焼 だちびんとはかつて沖縄の農民が腰に下げていた水筒です。そのため腰に密着するよう、内側が湾曲しています。また、腰にぶら下げられるよう、麻縄で括り付けるための突起があります。 4) 素焼張付文御殿型逗子甕 (壺屋焼) 御殿は「うどん」と発音します。逗子甕は「じゅしがみー」と発音し、風葬しかつ洗骨を終えた遺骨を収容するものです。絵柄は粘土を張り付けてありますが、「六地蔵」だと思われます。仏教の影響が感じられるので、遺骨は火葬されたのかも知れません。<参考資料> 那覇市の「国際通り」と「ひめゆり通り」の間に「壺屋やちむん通り」があります。やちむんは「焼物」の現地語です。かつてはこの場所の窯で実際に焼いていました。私が沖縄に赴任した平成初期のころもまだ焼いていました。その後は材料となる粘土の入手や作業スペースの確保、大型の窯の必要性などから、集団で読谷村(よみたんそん)に移転したと聞いています。 これは沖縄陶芸界で唯一人間国宝に指定された金城次郎氏(1912ー2004年)の作品「線彫魚紋大皿」(1967年制作)です。金城氏が魚紋を使い始めたことで、魚のモチーフはその後壺屋焼の特徴にもなりました。 比較的最近の「やちむん通り」の様子です。観光客などを相手に焼物を売っていますが、ここはお店だけで、読谷村の窯場から作品を運んで来ているのでしょう。私が知ってる頃とは雰囲気がすっかり変わり、道路が広くて立派になっています。 5) 潤漆樹下人物七宝繋箔絵丸櫃 中国風の人物が描かれた漆器製の丸櫃(まるびつ)。おひつは本来炊いたご飯を入れる容器の名前ですが、装飾や大きさからみると、「物入れ」のように思えます。 6) 朱漆定紋入冠入れ 沖縄には元々家紋はありません。琉球王朝時代に日本との交流から真似て新たに作ったのです。因みに琉球第二王朝の王である尚(しょう)家の家紋は「左三つ巴」です。 <参考> 琉球王朝時代、高位の人物は冠を被るのが習わしでした。せいしきには「はちまき」と言いますが、日本の鉢巻きと異なり帽子のような形をしています。ターバンからの変形との説があります。王族、貴族、士族の身分ごとに「はちまき」の色と模様が定められていました。それだけ大切な物であるため、「専用の容器」が必要だったのでしょう。 7) 進貢船(模型=民芸品) しんこうせんは琉球王国から中国(明、清)へ進貢(貿易の形を取った従属)や外国(日本、朝鮮、東南アジア諸国)との貿易に用いられました。当時の琉球では外洋航海用の大型船は建造出来ず、中国が建造して与え、中国人通訳までも付けました。船の舳先の「眼」は魔除けで、現在も沖縄県の「県章」(右上)になっています。 8) ハーリー(模型=民芸品) ハーリーは中国から伝わった習俗で、把竜船(はりゅうせん)が沖縄でハーリーと変化したもの。毎年初夏にこのボートを集団で漕ぐ競漕が祭りとして定着しています。因みに「鎖国当時」に中国の窓口だった長崎の「ペーロン」も全く同様で、長崎の方が中国の発音に近いと思われます。 9) 旗頭 (模型=民芸品) 「はたがしら」は言ってみれば町内会の「目印」みたいなもので。実物はかなりの大きさがあります。例えば那覇市の伝統行事である「大綱引き」の際には、この旗頭が登場します。昔は地区ごとに分かれて綱を引き合ったのでしょうが、交通の障害となるため今では「東西」の2つに分かれ、観光客も入って「子綱」を引き合う勇壮なお祭りです。那覇のほか、与那原町にも大綱引きが残っています。 10) ハーチブラー 民芸品のお面のようですが、残念ながら説明はありません。 11) チリクブサー これも民芸品のようですが説明がありません。形から見て内地の「起き上がりこぼし(小法師)のようなものかと推察しています。倒してもまた元に戻る玩具です。クブサーが「小法師」に相当します。音も良く似てるので、日本のものが伝わったのでしょう。なんだかとても愉快です。 12) わら算 かつて八重山地方で文字が読めない人のために工夫された納税の表示法です。編んだわらの形やわらの数で、どんな物をどれくらい納めるよう指示したものです。そういえば「インカ」にも似たような「キープ」と言う表示法があったはずです。 ほらね。良く似てるでしょ。時代や場所は違っても、人間が考えることは一緒なんですねえ。なんだかとっても不思議です。ただし、こちらはわらじゃなくて何かの繊維のようですが。
2021.12.28
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~やれることをやるだけで・・~ ともかく新しく買った(と言っても中古だが)パソコンでのブログ更新を始めた。不便なこともあるが、それはそれで新たな作戦を練るしかない。それにしても時の経つのは早く、今年残された日もわずかになった。体調と相談しながら、自分なりに年末年始を迎える準備をしている。焦らず少しずつ自分ができる範囲で。 冬至の日、柚子を上げた近所のTさんがその柚子をお風呂に入れて「柚子湯」にしたと言っていた。私が採ったのは傷物の6個ほどだったが、有効に使った。一部はジャムに混ぜ、一部はピクルスに輪切りにしたのを入れた。どちらも美味しく、皮も全部食べた。自分が苦労して作ったものは野菜も果物も、無駄にしないで出来るだけ食べるようにしている。 切り餅も買ったし、あんこも買った。日本酒は4合瓶を1本だけ。糖分が多いのでそれで十分。いつもの安物の焼酎と「つまみ」も買った。「かまぼこ」などまだ足らないものがあるので、後1回は買い物に行く必要があるが、雪が降ると危険なので道路の状況と体調を考えながらにしたい。 おかずの野菜が不足気味になったため、冷蔵庫にある野菜を総動員して煮物を作った。材料は大根、ニンジン、タマネギ、キャベツ、シイタケ、大根の葉、切り昆布。それに野菜入りのさつま揚げと竹輪を入れた。味付けは適当。余っていた煮物の汁や、味醂、出汁醤油。それにゴマ油を少し加えた。これがなかなかの味でとても美味しい。大成功だ。 ある日、思い切って庭へ出た。腰痛があったためずっと用心していたのだ。枯れたシュウメイギクと小菊を鎌で切り取った。そしてそれを「雲南百薬」の苗の上に積み重ね、さらにシャベルで土を被せた。そのままだと凍って腐るためだ。もう10年ほども生きて十分役目を果たしたし、支柱を施すのも面倒なのだが、もう少しだけ頑張ってみる気になったのだ。 次に使えそうな白菜をひもで縛った。今年は追肥をしなかったため、あまり育ちが良くない。それでも頑張ってくれた株を生かそうと思ったのだ。白菜は苗の内側から成長する。そのため、早めに縛らないと、葉が広がってダメになり虫にも食われてしまう。そして寒さにもやられる。だから縛っておけば寒さに耐えながら冬でも育つのだ。 こちらは東の畑の大根とキャベツだが、まったく手間をかけず追肥も「土寄せ」もしなかった。冬は日当たりも悪く、寒くなるこれからは凍結が進む。凍結を繰り返すと腐るので、本当は抜いて地中に埋めると春まで持つのだが、腰痛で放っておいていたのだ。 それでも大根は何本か抜いて使った。おでん、ピクルス、煮物、大根おろしなど。切った葉は干しておくと乾燥して甘くなり、カルシウム分が増す。仙台地方のお雑煮の具は、大根とニンジンを千切りにして煮たものを干す。それにセリとかまぼこを入れた簡単なもの。醤油味で、出汁は昔は焼いたハゼだったが、今では高級品になったため、鶏肉を使っている。そうそう、昔は高野豆腐も入れてたねえ。仙台では「凍み豆腐」と言うんだけどね。 白菜も1株だけ抜いた。まだ十分育っていないけど、買えば高いからねえ。無農薬なので、刻んでサラダにも使えると思う。寒くなると凍らないように、自ら甘さを増すんだよ。このまま畑で耐えたら、春には蕾菜も美味しいのさ。だが今年は寒いのでどうだろうね。 柚子の代わりにいただいた干し柿は、もう全部食べてしまった。昔は大根とニンジンの酢の物(なます)に、切った干し柿を混ぜていたね。しかし自然のままなのに、どうしてこんなに甘くて美味しいんだろうね。私は面倒なのでもう干し柿作りは止めてしまった。しかし、太陽と自然の恵みはありがたいものだ。
2021.12.27
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~沖縄の染織~ 那覇市市制70周年記念企画「歴史をひらく琉球文化秘宝展」(平成3年開催)の図録から写真を借用しました。 13) 白地霞に松山枝垂桜雁文様衣装 <紅型(びんがた)日本民芸館所蔵:以下同じ> 14) 白地牡丹桐鳳凰文様衣装 15) 灰色地霰文に梅花散らし文様衣装の柄 16) 白地菊桐雪輪文様衣装 <参考> これは紅型(びんがた)の型紙です。相当細かい柄ですが、型紙の「隙間」から様々な原料から得た顔料で色を塗ります。大変な手間がかかるため高級品です。沖縄県立芸術大学には、染織の専門コースもあります。 17) 紺地牡丹文様風呂敷 紺で染めたもの 18) 浅地鶴に渦波桜散らし文様 個人蔵 沖縄の歌「芭蕉布」の一節に「浅地紺地(あさぢくんじ)のわした島うちなー」の歌詞があります。紺地は17、26)が相当します。 26) 紺地ティジマ衣装 これも「紺地」なんですねえ。 31) 芭蕉格子絣衣装(上)とその細部(下) 有名な「芭蕉布」がこれです。 <参考> 芭蕉布の原料となる糸芭蕉の栽培から糸作りまで a 芭蕉布の原料となる糸芭蕉です。台風に負けないよう密集して植えます。かつては沖縄本島のいたるところで栽培され、芭蕉布は庶民の着物の素材でした。でも芭蕉布を作るには相当手間がかかるため、現在は沖縄本島北部の大宜味村(おおぎみそん)喜如嘉(きじょか)集落が最大の生産地です。私も沖縄本島単独一周ランで走った時に、その集落を通りました。とても静かで清潔な集落でしたよ。 b)成長した糸芭蕉の幹を切り、茎の中から繊維を取り出します。 c) 取り出した繊維を乾燥させる作業です。 d) 糸芭蕉の繊維はとても弱いので、慎重に取り扱います。 e) 乾燥した糸をより合わせる作業です。1本では弱いため何本かの糸をより合わせます。さらにその糸を使って織る作業があります。このように手間がかかり、しかも織り手の高齢化が進んだため、芭蕉布は高級品になりました。軽くて涼しい芭蕉布は沖縄人にとっては普段着でしたが、今では人間国宝が何とか伝統を守っていると聞きます。
2021.12.26
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~わが聖なる日のことなど~ NHKの朝ドラ「カムカムエヴリヴァディ」が大変なスピードで展開している。先日は安子がロバートに求婚され、一緒に米国に渡ると聞いて驚いた。このドラマは女三代の100年に亘る話なので、あっという間にストーリーが変化するのは仕方ないが、観ている方は驚くばかりだ。ところでロバート役の男性はスエーデン人だが日本に帰化して村雨辰剛という日本名を持っていることを先日知った。日本人女性との結婚と離婚歴があることも。安子、るい、ひなたの話が今後どう変化するのか。 朝ドラをBSで7時半から観てるため、それが終わると必然的に火野正平が自転車で全国を巡る「こころ旅」も観ることになる。最近は沖縄県だが、恩納村の山田から読谷村の長浜までの時は懐かしく思った。あの辺は名護市から那覇空港までの普通バスに乗った時に通った。何せ70kmの路線バスなので、途中トイレの心配をしたほどだ。 先日は南城市の「コマカ島」の話。あの周辺は何度も訪れたので道路のアップダウンまで覚えている。ランニングの途中でシークワーサーをもらったこともあった。沖縄原産の小さくて平たいレモンだ。 木曜日、床屋へ行ったがお休み。それで急遽買い物。金曜日は自転車で出かけた。先ずは生協のパソコンショップ。ここで購入した中古のパソコンの使い方を聞いた。画像の取り込みが出来なかったためだ。どうやら私の手順にミスがあったようだ。やれやれと床屋へ行って散髪。再び生協に戻って買い物。それが終わってから花屋さんで花の写真を撮った。新しいパソコンに画像を溜めるためだ。 買ったのは寿司と巻き寿司。アイスクリームとヒートテックの下着。クリスマスの日のささやかな自分へのご褒美だった。たまにはこんなことでもないと、とてもこころが持たない。 帰宅後、新しいパソコンを立ち上げて早速写真を取り込んだ。実は古い方にはネットからダウンロードした貴重な画像がたくさん入っているのだが、もう諦めて新しい方で行くことにした。キーがまだ固いのも新しい証拠。これまでのはキーが不調で変換ミスが良く起きて困っていた。物事すべてが順調とは行かないのが常。新しいパソコンでの最初のブログがこれ。新たな旅立ちの無事を祈りたい。さて外では雪がちらつき始めた。全国的な寒波襲来で荒れ模様になるとの予報。読者の皆様もどうぞお元気で。
2021.12.25
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~悲しみと苦しみを超えて~ 35歳の娘が自ら命を断った。娘は死の直前、父と電話で話したそうだ。娘の誕生日にはいつも電話でハッピバースデイツーユー♪と少し調子が狂った歌を聞かせてくれたと言う父親。それに反して母親とは10年ほど連絡を取らず、結婚式にも呼ばなかったと言う。ぶりっ子の母は、実の娘にとってきっと気持ちが通じ合わない同性だったのだろう。白骨になった娘を、母は今どんな気持ちで思っているのだろう。そして妻に去られ娘に先立たれた男は、どんなにか切ない気持ちでいることだろうね。悲しいな。彼女が映画の吹き替えをした「アナ」の歌声がまだ耳の奥に残っている。 沙也加さんのことで、私は同じく自ら死を選んだこの人のことを想い出したのだ。初めて彼女竹内結子の名を知ったのは、NHKの朝ドラだった。確か奈良県の和菓子屋の娘役。それから女優として成長し、歌舞伎役者の中村獅童と結婚したんだったよね。だが獅童の浮気が原因で離婚。それだけでも十分悲しい話なのに、確か昨年だったか死を選んだ。コロナで欝々した日を過ごすと、ヒトはその重さに耐えられなくなるんだろうか。そして連鎖反応を起こすんだろうか。まだ若いのに、なぜって老人は考える。 大阪の雑居ビルで起きた放火大量殺人事件。犯人は今年の3月くらいから周到に準備してようだ。以前には長男を殺傷しようとして逮捕されている。昔は腕の良いブリキ職人だったのが、離婚してから道を踏み間違え賭博に狂った。その挙句の今回の事件。京都アニメ事件などを参考にして、大量殺戮の準備に勤しんだ。死にたいなら人を巻き添えにしちゃいけないよ。最近はこんな陰惨な事件が増えた。 脱税容疑で逮捕されその釈放された日大の田中元理事長。このほど同窓会会長など日大の全ての役職から解任除名された由。あまりにも遅過ぎた裁定だが、それだけ日大における彼の影響が強大だったのだろう。これで日大生が少しは引け目を感じずに済めば良いのだが。あのアメフトのタックル事件と言い、日大の負の連鎖がこれでストップすることを祈りたい。 北の将軍さまの容貌の変化が著しいとネットでの評判。左は昨年のもので、右が最近の写真。表情がまるで老人だ。重大な病気のせいか、いかに国内が不安定だとしても、わずか1年でこれだけ容貌が大きく変化するのは異常だ。新型コロナウイルスへの感染、食糧不足と国民の飢餓状態、兵士の士気の低下、国際情勢からの孤立等々、北を取り巻く環境は劣悪で厳しい。 中国の様子がおかしい。政情が不安定なのは確かなようだ。このたび人口1300万人の西安市でネズミを媒体とする新たなウイルス性感染症が発生したようだ。「流行性出血熱」と呼ばれるもので、2年前にも流行した疾病が再発した模様。北京冬季五輪が近づいた今、政府は必死で対策に追われているようだ。政府内が不調和とも聞く。習近平の独裁体制にも、ついに綻びが出始めたか注目だ。 パソコンの調子が悪いのでウイルス対策ソフトを新たに入れ直した。ついでにパソコン修理店で中古のパソコンを買った。ところがこれまで使っていたソフトと異なるせいか、画像の取り込みが出来ないで困っている。そこでこれまでのを仕方なく使って、何とかブログを更新している。メカに弱い老人は、トラブルがあったらお手上げだ。それでなくても疲れる独り暮らしが、一層疲れるのだよねえ。 歯の定期検診に行った。ドクターに虫歯の存在を訴えたら、今年中にもう一度治療を受けることになった。内科へ行った。飲み薬が残り少なくなった。年末から来年の初めまで長い休診期間となる。その前に行く必要があった。前回はちょっとしたトラブルがあったが、飲み薬を一種減らしてから体調はまあまあ。そして血糖値が少し下がっていたのも嬉しいこと。 年末のための食料品を少しずつ購入中。生きて行くためには不可欠だ。正月飾りの類は買わないことにした。年賀状も出す気力を失ってパス。歴史書を10日ほどかけて読了。実に面白かった。難しい内容を平易な文章で記すのは大変な作業。抱いていた疑問がかなり解け、共感を感じた部分もたくさんあった。「視聴率調査」は断った。今後3年間持続との話。たとえ謝礼をもらってもそこまでの責任は取れない。 辛く大変な世の中だけど、何とか元気で頑張りたいものだ。老人医療の徴収率が来年の10月から変わる。電力の販売金額が逆に来年から下がる。果たして来年私の命とこのブログがどうなるのかは不明。それでもしぶとく生き抜きたいと願う。世界の平和と地球の安寧を祈りたい。今夜から明日にかけては聖夜。読者の皆さまも風邪などひかれませんよう。
2021.12.24
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~「琉球文化秘宝展」から その2~ 今回は那覇市制70周年記念企画(平成3年=1989年)として沖縄三越で開催された同展の図録から、沖縄の至宝をいくつか紹介します。 1) 朱漆鳳凰雲点斜格子沈金碗<愛知県 徳川美術館所蔵品> 以下の美術品は琉球王朝から江戸幕府に献上された品が、将軍から尾張徳川家に下賜され現在徳川美術館に所蔵されているのを今回借用して特別に展示した。 2) 朱漆花鳥七宝繋密陀絵沈金足付盆 <徳川美術館所蔵品> 3) 朱漆草花箔絵丸盆 <徳川美術館所蔵品> (4,5) 黒漆鹿山水玉石嵌堆錦螺鈿硯屏・裏表 (徳川美術館所蔵品) 6) 黒漆梅七宝繋箔絵沈金三尺丸膳 (徳川美術館所蔵品) 7) 漆塗鶯梅箔絵三足丸膳 (徳川美術館所蔵品) 8) 朱漆山水楼閣人物密陀絵箔絵台子 <宮内庁所蔵> 琉球王朝から徳川幕府に献上されて江戸城にあった品が、そのまま皇室所蔵となったのだろう。 9) 10) 11) 9)10)と共に 白密陀山水楼閣人物漆絵箔絵紙料箱・硯箱一式 <宮内庁所蔵> 多分沖縄では漆は産しないはずです。それに極端に乾燥を嫌う性質があるので、素材の取り扱いには相当の注意を必要としたことでしょう。中国でも漆は産しますが、日本の漆とは性質が異なると聞いたことがあります。このため漆の原料は日本からもたらされたと思われます。それにしても琉球王朝の漆工芸のなんと見事なことでしょう。琉球漆器は現在も沖縄の重要な工芸品です。なお、陶器を英語で「china」と呼びますが、漆の英語名は「japan」です。 図録の文字が小さいのと、画像と名称のページが離れてるため、照合に苦労しました。<続く>
2021.12.23
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~2頭の巨像はどこへ向かう?~ ウイグル族への人権侵害を非難したバイデン大統領に対して、早速中国が反応した。黒人への差別が残るアメリカより中国の方がよほど民主的で国内の統制がとれていると、自画自賛したのだ。ふ~ん。中国に民主主義なんてあったのだろうか。と、私は皮肉な笑いを浮かべたのだった。先日の香港議会選挙では民主派を排除し、中国支持派が圧勝。「一国二制度」などはとっくの昔に雲散霧消したではないか。 政府要人から性的被害を受けたとSNSで発信した中国の女子テニス選手だが、先日シンガポールでの報道機関の取材に対して、「政府要人から性的被害を受けた事実も、それを発信したこともないと主張し、自分は自由で安全だと語った。世界にあのニュースが流れた当時、中国政府は必死に事実を隠蔽し、偽情報を発信し続けた。IOCのバッハ会長まで合成画像に登場したほど。今回も同工異曲だろう。 安倍元総理が「台湾有事は日本有事に繋がる」とTV番組で語ると、中国の報道官は、軽はずみな言動を後悔することになると脅かした。安倍総理は「一議員の言動に反応してくれた」と涼しい顔だった由。 その後、人民解放軍は海南島で「上陸作戦」を実施した。それも三方から揚陸艇で上陸すると言う徹底ぶり。台湾侵攻の訓練であることは明白。中国艦船による連日の尖閣諸島の領海侵入は北京冬季五輪への日本の外交ボイコットをけん制するためのようだ。 アメリカの高官が「中国政府によるウイグル族への人権侵害はジェノサイドだ」と発言した時、私は正直過激過ぎると感じた。ジェノサイドとは民族虐殺。ところが徐々に抑圧の実態が分かって来た。「職業訓練所」は実際は強制収容所で、200万人のウイグル族を拘置し、イスラム教を否定して漢文化と中国語を強要。強制労働や堕胎、断種などの暴行も。一部屋に30人ほどが詰め込まれ、便器はなく1個のバケツに用を足し衛生状態は最悪。手錠をかけられて身動き出来ない映像をNHKのドキュメント番組で観た。 中国政府への抗議活動は日本でも起きている。ところが活動情報が中国の秘密機関に集められ、ウイグル自治区に残る家族への脅迫に。また漢民族が「親戚」としてウイグル族の家庭を訪れ、判断がつかない子供たちから家庭内の宗教活動などを聞き出す。そしてウイグルの家族の画像を日本の活動家に送り、中国語で非難させるなどの激しい分断活動を世界中で行っているのが実態だ。 日本には200万人の中国人が滞在しているが、その中には中国政府の意向を受け、ウイグル族の抗議活動を妨害する動きもある。中国政府の意向を重視したトルコの政府当局が同じ民族であるウイグル族の抗議活動を制限する動きが出始めた。トルコへ移住したウイグル族は、結局より安全なヨーロッパへ脱出するしかないと考えているようだ。これが「中国的民主」の実態だ。 今月はNHKの番組で、過去の戦争に関する画像をたくさん観た。それはそれまでの私の認識を覆すものだった。戦争とは恐ろしいものだ。人間は狂うと簡単に他の民族を抹殺しようとする。いや、自国民をすら様々な理由で殺戮する。これまでに一体どれくらいの人間が「正義」の名の下に命を奪われたのだろう。現在はその危機が身近に迫っているとの実感がある。 かつてのソ連は第二次世界大戦が終戦した後に、樺太や満州に攻め込みたくさんの命と財宝を奪い、樺太在住のアイヌ人や朝鮮人は「日本」へ強制帰国させられた。合わせて多くの日本兵がシベリアに抑留され重労働のために死んだ。ひょっとしてそれは「日ロ戦争」での敗戦や、ロシア革命時に関東軍が行った「シベリア出兵」への「仕返し」かも知れない。たくさんの映像を観た私は、今回そんな風に感じた。 憲法や規則を変えてまで長期政権を目指す2人。国連安保理の常任理事国である2国は世界から非難されながらも、自国の権益を守るのに必死だ。大量の核兵器、最新式のミサイルや人工衛星。今戦いの場は地上から宇宙へと広がった。文明は温暖化で地球を壊し、戦争で人類を滅亡へと導く。2頭の巨象は今後どこへ向かうのか。そしてホモサピエンス(考える人)は一体どんな答えを探し出すのか。
2021.12.22
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~わが習作と過ごす~ ゴッホ自画像 凍星や捨てし暦のゴッホの絵 *いてぼし=冬の季語 年越や捨てし暦のゴッホの絵 年越や狂ひしゴッホ耳を切る 大年神 年越や旧き衣を脱ぎ捨てよ 年越や病癒えよと願いつつ 和かや大晦日の蕎麦と酒 *なごやか *おおつごもり 石女の背を押すごとき除夜の鐘 *うまずめ=子の無い女 石女の終の棲家や除夜の鐘 *ついのすみか 年越やなめた鰈も煮えたころ なめた鰈(カレイ)は仙台地方の年越魚 年越や家族揃ひて鰈食ふ 荒れる日本海 鰤起し白山早も隠れけり *ぶりおこし=冬の雷 *白山は石川県の名峰 +はやも 風花の生まれ故郷の怒涛かな *かざはな=風に乗って来た雪 地吹雪や狂ふがごとき日本海 冬銀河 凍星や疫病の世なれども *いてぼし *はやりやまい 葉牡丹 葉牡丹を植へて寡の仕事終ふ *やもめ
2021.12.21
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~手持ちの資料から~ 今日は手持ちの資料から幾つかの画像を載せたいと思う。最初は平成3年(1991年)10月に沖縄三越で開催された「明治の沖縄~鳥居龍蔵博士撮影写真展~」のパンフレット(上)から借用した。当時私は沖縄に赴任した3年目で、高校3年の長男と2人で頑張っていた時期。パンフレットによれば展示された写真は66点だが、そのうちパンフレットに載っているのは4点のみだ。 鳥居龍蔵博士(1870-1953)は東京帝国大学で人類学を学び、アジア各地で調査する傍ら東京帝大などで教鞭を執った。この展示は博士が明治29(1896年)と明治37(1904年)の2度に亘って沖縄を調査した際に撮影されたもの。その時の収集品は後に国立民族学博物館に移管された。 不思議な縁だが私は沖縄赴任の直前に勤務した徳島県鳴門市で「鳥居龍蔵記念館」(博物館)を訪れたことがあり、同氏が日本の人類学や考古学の先達であることを知っていた。また収集品が移管された国立民族学博物館(大阪府)にもこの数年後に勤務することとなり、その縁で沖縄へも何度か訪れたことがある。素人の私がたまたま日本の古代史や考古学や文化人類学(民族学)に強い関心を持っていたのも何かの縁だと思い感謝している。 タイトルには「琉装の老人」とあるが、風貌からするとかつての士族(さむれー)と思われる。「琉球処分」で「沖縄県」となった後も、沖縄に対しては内地より緩い税制が適用された。それは「禄」を失ったかつての貴族や士族の不満を和らげるため。だが食えなくなった多くの士族たちは首里から地方へ移り住み、慣れない農業などで食い延びたと聞く。この老人たちには一種の威厳がまだ残っている。 タイトルには「市場(マチ)の女性たち(首里近辺)」とある。市場のことを現地の言葉でマチグァーと言う。グァーは接尾語で東北弁の「こ」に相当するイタコ(死者の霊を呼ぶ女性)の「コ」や嫁っこの「こ」と同義。因みにイタコに相当する琉球語は「ゆたぐぁー」。このうち「ぐぁー」が東北弁の「こ」に当たる。意味も言葉の響きも同一だと私は直感し、琉球語は古代の日本語からの転化と判断した。イタコは青森の恐山で健在だし、ゆたぐぁ―も現代沖縄でまだ生き続けている。 さて首里はかつての王都で人口も多く、明治後期も賑わって商売が成立したのだろう。首里近辺にも農村があり、新鮮な野菜が届けられた。また鮮魚のことを現地語で「イマユー」と言う。イマは「今」で獲れたての意味。ユーは魚(うお)の変化。日本語の古語でも「イユ」や「イオ」と言ったようだ。写真には首里崎山町周辺の雰囲気が残っているように感じる。 タイトルには「路上の女三代」とある。祖母は草履を履いているが、母と子は裸足のままで足は黒い。母親の懐には赤子がいる。着衣は琉球絣(かすり)のようで、貧しくなく、道路は広くて清潔だ。英国人女性イザベラ・バードは当時の日本、朝鮮、中国(清)を何度か旅しているが、朝鮮の不潔さには音を上げている。大便を道路に放り、それを犬が食べていた。その不潔な習俗は日本が併合するまで続いた。 2つ目の資料は「歴史をひらく琉球文化秘宝展」(那覇市、琉球放送、沖縄三越主催)で、サブタイトルは「那覇市制70周年記念企画」となっており、冒頭の「写真展」と同時に沖縄三越で開催された。これはその際に購入した図録の表紙で、同展では各種の文化財157点が展示されている。このシリーズではそのうちの一部を紹介することとしたい。 朱漆花鳥七宝繁陀絵沈金御供飯一式。愛知の徳川美術館所蔵物を借用しての特別展示。琉球王朝時代、王国からの使者が十数回江戸城へ登城した。新将軍が就任したさいの慶賀使や琉球王が交代した際の謝恩使だが、その際の献上品の一部が将軍家から尾張藩主に下賜されたものが「徳川美術館」に保存されている。見事な琉球漆器で、地上戦があった沖縄にはこれほどのものは残っていないのだろう。 今回はこの一品だけの紹介に止めたい。それにしても30年前に購入した図録を大事に保管し、こうして活用出来たことに感謝し、不思議な出会を喜びたい。
2021.12.20
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~冬の到来と暮らし~ <写真はわが家の雪景色> ツバキ 金曜日の夜。ごうごうと強い風の音が聞こえた。日本海側は大雪と天気予報。仙台も少しは降ることが予想された。入浴後、風呂場のルーバー式の窓は開けず、ただ換気だけにした。吹雪が飛び込むのを防ぐためだ。夜中何度かトイレに起きた。その都度足が冷えるが、我慢して寝た。翌朝、カーテンとシャッターを開けると外は雪。玄関先と外階段を除雪。そのまま凍ると滑って危険なので。 畑 ニュースによれば、土曜日朝5時現在の札幌の積雪は55cm。1999年に統計を取り始めて以来最大の積雪量の由。道内ではもっと降った地区があるようだ。日本海側の北陸なども大雪だったのではないか。それに比べたら太平洋側の仙台は楽な方。午後からは太陽が出て、道路の雪はほとんど解けたみたい。でも用心して出かけず仕舞い。用件は穏やかな日を選ぼう。 白菜 大阪で悲惨な事件が起きた。雑居ビルの4階にあるクリニックで放火があり、24名の方が亡くなった。その後の捜査で、犯人もこのクリニックに通っていた患者と判明。事件の30分前、男は自宅でも放火したようだ。クリニックは心療内科と精神科で、医師は穏やかな人柄。精神的な理由で勤務が不可能になった患者を、社会に復帰させることに情熱を燃やしており、患者からの評判は良かった。 キャベツ 犯人は液体の入った紙袋をストーブ目掛けて蹴り出し、一気に火が燃え広がったようだ。待合室にいた女性2人が咄嗟に逃げたが、犯人も含めて他の人は逃げ出せなかったようだ。密室火災で有毒ガス発生。非常階段は狭く、エレベーターも小さい。犯人も意識不明のようで、果たして犯行の動機解明は可能か。息子と連絡がつかないと語る医師の父親。雑居ビルの火災は大量死につながるので本当に怖い。 凍える大根 沖縄の米軍基地キャンプハンセン(金武町)で、新型コロナのクラスター感染が発生したようだ。原因は勤務の交代のために米国から基地に直航した海兵隊員。日本人職員1人を含む131名でオミクロン株も確認された。折角治まりかけた新型コロナが、これを契機に第6波に突入しないことを願う。こうなれば無論クリスマスもお正月も、ゴーツーも無関係。ただただひっそりと冬ごもりするだけだ。 ミニバラ 女子カーリングのオリンピック最終予選で、3位のロコ・ソラーレ(日本)が2位の韓国チームを破って、見事「北京冬季五輪大会」出場を決めた。これで同チームはピョンチャンオリンピックに続いての連続出場。スキップの藤沢選手がまだ頑張ってくれている。嫌なニュースが続く昨今だが、これはほっこりと心温まるニュース。この快挙を共に喜びたい。 フユボタン イチロー選手率いるチームが、女子硬式野球の高校生チームを相手に戦った。イチロー選手はピッチャーで9番打者。打者としては無安打だが、投手としては140球を要しての完投で、1対0で完封勝利だったそうだ。これまで国内にあった女子のプロ硬式野球チームがコロナなどが原因で廃部。それを救うためジャイアンツなど3球団が女子チームを結成した。今回の試合はその動きへの協力だったのだろう。 サザンカ 先日民生委員のHさんがわが家を訪問してくれた。と言っても彼女らは家の中には入らないのがルール。寒い中30分ほど玄関先で立ち話。最近の体調や困りごとなどを聞かれる。それだけでも少し心が和む。普段人と話す機会がほとんどない私にとっては文字通りの救いの神。彼女には95歳になる実母もいる由。私などはまだ恵まれている方と言うが、本人には不安だらけの日々。それも含めての冬ごもりだ。
2021.12.19
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~詩画集から借りた版画~ 自分が持っている本から版画を借りようと思う。本の名は「詩画集 日本が見える」。東京の書店から1983年に出版されている。今から38年も前だ。その頃私は筑波にいて、沖縄とは出会っていない。筑波から5番目の職場に転勤し、沖縄に赴任したのはその後。本は沖縄勤務時に職場で現物を見、書店に発注したもの。今回書架から取り出したのは、私が沖縄で書いた詩と組み合わるためだった。 オキナワを返せ ところが絵が激し過ぎて私の詩とは雰囲気が合わない。詩人も画家も共に沖縄人(うちなんちゅ)で、沖縄は日本に復帰してまだ日が浅いころ。彼らには日本人(やまとんちゅ)に対する恨みつらみが大きかったはずだ。島津藩による琉球王国への侵攻、琉球処分による沖縄県としての従属、激しかった沖縄戦と戦後のアメリカ軍政府の発足、その後の民政府の誕生と日本への復帰。 昔の物売り 貧しかった沖縄は明治以降、大勢の人が内地や外国に移民した。内地では差別に苦しみ、外国では慣れない環境と風習に苦労したことだろう。だからウチナンチュの熱い思いがこの詩画集にも満ち溢れてる。詩人の名は新川明、そして画家(版画家)の名前は儀間比呂志。本にはページも振られておらず、版画のタイトルも一致しない。そのため、詩は載せずに絵(版画)のみ。それで作者がこの本を通じて訴えたかった沖縄の精神を感じてもらえたら嬉しい。今回版画を借用したことに感謝したい。なお絵のタイトルは読者の理解のために私が適当につけたものであることをお断りします。 三線を弾く男 沖縄では三線(さんしん)を弾きながら歌います。民謡はウチナンチュの命であり、最大の慰めです。 かつては頭に載せたザルに物を入れて、ヤマモモの実や魚などを売っていました。 紅型(びんがた)の衣装を着た女性が琉球舞踊を踊っています。周囲を取り囲んでいるのは、恐らく猛毒のヘビのハブだと思われます。 神行事をする久高島のノロ(祝女)のようです。最大の神行事であるイザイホウは無くなりましたが、その他の神行事はきっと今でも続いていることでしょう。 踊っているのか、それとも跪(ひざまづ)いて祈っているのか。 これは何だか良く分かりません。多分島に自生する植物を図案化したものと思われます。 これも神行事をするノロみたいです。 踊り手が手に持っているのは華やかな色の「花笠」です。右上に見える「龍柱」(りゅうちゅう)は、進貢した中国から贈られて首里城正殿の正面入り口を飾っていました。 琉球王朝時代は税の取り立てが厳しく、百姓は働きづめでした。飢饉の時はソテツの実まで食べ、その毒で死んだ人も多かったようです。食べるためには粉にして熱を加え、無毒化する必要があったのです。農民が飢えなくなったのは、中国からサツマイモが伝わって以降です。サトウキビも中国から伝わり、良い換金作物になりました。島津藩は利益を上げるためにサトウキビ生産を奨励し、百姓が飢える原因にもなりました。 浜で魚を仕分けする女性。右奥に見える小舟がサバニと呼ばれる小型の漁船で、男たちは集団で漁労に励みました。かつて糸満(いとまん=漁村)では女が魚を買い、自分で売り歩いて得た収入を自分のものにしていたそうです。糸満の女性が自分の財布を持っていたことは、沖縄では有名な話です。 力強い表情の女性。背後には赤瓦屋根の家が見えます。那覇か首里近辺の女性でしょうか。 幼子を抱く女性。後ろに見える植物がソテツで、琉球語では「クバ」と言います。クバが訛ると「フボー」と変化します。琉球語には日本の古語が色濃く残り、「pa」や「fa」で始まる言葉もあります。N音とM音の入れ替わりもあり、新原(にーばる)が「みーばる」に変わります。また5母音が3母音に変化し、今もその影響が残っています。オがウに、エがイに置き換わるのが特徴です。 棒術で戦ってる様子でしょうか。琉球王朝が成立すると、民衆は刀狩りで武器を奪われます。そのため棒など手ごろに入手出来るものが武器に代わりました。また空手の原型である武闘も沖縄で発祥し、今でもたくさんの流派があります。沖縄では「手」(てぃー)と呼ばれています。文字通り手だけが武器と言う訳です。 良く分かりませんが大きな龍を棒で持ち上げているようです。ひょっとして中国から伝わった「龍踊り」(じゃおどり)でしょうか。長崎などでは今でも祭りで見られます。 人物の手前には「ばら線」が見えます。基地返還運動を表現したのでしょうか。「沖縄は奪われっ放し」それがウチナンチュの偽らざる心情なのでしょう。でも決してそうではないのです。海洋民族である縄文人、奄美や琉球人は昔から丸木舟で往来し、言葉も文化もイネを始めとする穀物も島伝いに伝わりました。現代人はそれを忘れただけの話。私は心からそう信じています。
2021.12.18
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~疲れながらも~ <文章と無関係の写真もあります> 庭の白い物体を、数日前に気づいた。場所からするとシュウメイギク。種が出来るかもと思って晩秋に蕊(しべ)を切った。それなのになぜと鋏を持って外へ出た。やはりシュウメイギクの見事な「綿花」。綿の中を注視すると、小さな種が幾つか見えた。シュウメイギクは根でも猛烈に増えるが、綿毛で種が散らばることを今回知った。道理でシュウメイギクだらけになったはず。恐るべき生命力だ。 木曜日の朝、かなり疲れていると自覚。原因は睡眠不足。その日は月に1度の俳句教室。往復を含めて4時間近くかかる。強風の中自転車で出かけるのも含めて不安が残る。それでも行くと決め暖かい服装に着替え、パン、ヨーグルト、果物、コーヒーで昼食を済ませ、思い切って出かけた。グリーンベルトの高いユリノキがすっかり葉を落とし、まるで幽霊のように突っ立っていた。 講師は案外元気そうだった。肝臓がんが肺に転移したが手術は受けない意向と告げていた彼だが、声もかすれず最後まで持った。この日の兼題(宿題)は「年越や」。それを含めて3句提出したが、最後の最後まで選句に迷った。その迷いを講師に指摘された。納得した部分とそうでない部分があるが、勉強にはなった。1月の兼題は「繭玉」(まゆだま)。新春の季語だが、さてどんな風に詠むべきか。 帰宅後、さっそく「繭玉」を季語として幾つかの句を詠んだ。今日の反省点は素直に詠むこと。奇をてらったり、自らの感性に溺れることなく言葉を選ぶこと。簡単そうで意外と難しい。わずか十七音の文学は、深遠であり余韻であり人間と自然との調和でもある。今回の作品は日を改めて紹介したいと思う。 勇気を奮って台所に向かった。先ず昼食の食器を洗い、予め解凍していた具材と新たに切った具材を大きな鍋に移しておでんを作った。数時間後には大鍋に溢れるほど膨れ上がった。並行してピクルスを作り、米を研ぎ、親子丼の具材を煮、鮭を焼いた。これでまた何日かは凌げる。 逮捕された日大の田中元理事長が自白したそうだ。しかも捜査が妻に及ぶと知って、全責任は自分にあると言い出した由。妻は体調不良を理由に入院してるが、元理事長は彼女に頭が上がらないそうだ。現役のアマチュア相撲の選手だった頃は、後に横綱になった輪島よりも強かったそうだ。だが妻の口利きで、日大に就職し、理事長にまで出世した。水商売出身の妻は、その時の人脈を利用したと言う。 中国の原発で事故が発生した模様。それを初めて伝えたのはアメリカのマスコミ。中国は当初「燃料棒の破損」で大したことはないと公表。だがフランスが事故の原因を公表するとうろたえた。原発はフランス製で、格納容器の設計ミスによるものだった。 中国はかつて福島原発の「処理水」について、強く日本を非難していた。だがあれは世界各国で採用している処理法で安全が確認されている。ところが自国の原発が事故を起こすと、途端に隠ぺいする。韓国の原発など福島の十倍も危険なのに、ずっと日本を非難し、東京オリンピックにも「いちゃもん」をつけていた。 今年の6月ロシアのベルホヤンスクで38度を記録した。これは北極圏での最高記録の由。昨年の2月南極のアルゼンチン基地で18.3度を記録。これは南極での最高記録。今年の8月イタリアのシチリア島では48.8度の猛暑。これはヨーロッパでの新記録。シベリア、アメリカ、ヨーロッパで山林火災が続いた。インドネシアでは泥炭地が燃えた。こちらは乱開発が原因だった。 先日アメリカで竜巻による大きな被害が出た。6つの州にまたがるもので、そのうち5つの州で多数の死者が出た。その映像を観たが、アマゾンの大きな倉庫が完全に破壊されていた。だがそこから数百m離れた建物には何の被害もなく、とても不思議な光景だった。地球温暖化が気候や気象にまで大きな影響を与えてるのは確かだろう。 森友学園問題の公文書偽造に関連して自殺した赤木さんの妻が国を訴えた賠償問題。国が1億1千万円、佐川元財務相理財局長が550万円とされた賠償金を全額支払うことで早期決着を図った。これで裁判は決着したが、肝心の公文書の管理問題はうやむやになった。 第二次世界大戦後の中国の内乱にアメリカが介入していたことが分かった。アメリカは中共軍と国民党の内戦を中止させ、勝っていた国民党を台湾に逃れさせ、その代わり後年中共が台湾を支配することで「手締め」したとのこと。それはかの「ディープステート」の仕業と言うのだが。 グアンダナモ基地で処刑されたと言うヒラリークリントンがまだ生きていることが分かった。ただし顔は別人のようにむくみ、大女に変身していたと言う。すると、前回の大統領選挙後に流れたあのyoutubeの画像は一体何だったのか。最近は特にアクセス数を稼ぐための「ガセネタ」が多いようだ。私たちはよく注意してニュースを選択する必要があるのだろう。人は人を騙す動物だと肝に銘じて。
2021.12.17
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~ふしぎの国・沖縄~ 水曜日の朝のこと、朝食を済ませた後いつの間にか座椅子にもたれかかったまま眠ってしまったようだ。目が覚めるとTレビに映っていたのは、このシリーズを書くきっかけになったNHKの番組の再放送。新聞で確認すると2時間近い壮大なものだった。そして以前も載せたこの女性が座喜味さんと言う名で、お母さんは大正生まれと判明。それにしては若々しい。琉球舞踊で体を動かしているせいだろう。 ノロクモイ図 座喜味さんはエキストラだったが、こちらは琉球王国時代の本物の祝女(のろ)。以前も書いたように「のろ」は祝詞(のりと)や呪(のろ)うのような日本の古語と同一の起源を持つ言葉で、神に仕える女性。琉球王朝時代は聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とする巫女の組織があり、祝女は国家の安寧を祈る重要な位置づけだった。「クモイ」は尊称で、雲居(くもい=雲の上)が語源か。 のろは白装束に大きな数珠のような装飾品を首にかけている。おそらくその先端には「勾玉」があるはずだ。足は素足で両手の指には「はじち」と呼ばれる刺青を施している。魔物から身を守るためだろう。このように琉球では祭政が分離して、まるで古代の「卑弥呼」を見る思いがする。 1)風葬墓 気温と湿度が高く、石灰岩の洞窟が多い沖縄では風葬募は最も理にかなった葬制だったのだと思う。それが割と近年まで続いた。風葬墓は集落の地縁血縁上大切な聖地で、集落以外の者の立ち入りを赦さなかった。上の写真では多数の頭蓋骨と共に壺が幾つか見える。遺体が完全に腐敗すると、数年後に「洗骨」して壺に納めた。洗骨は昔から女性の仕事とされて来た。 2)亀甲墓 亀甲墓は琉球王朝が中国の冊封体制に入って以降、福建省の墓制を真似たもの。その特殊な形から「亀甲墓」と呼ばれるが、これは母の胎内を表し、人は死後に母の胎内に還るためとの説がある。これも風葬の一種で、墓室はかなり広く親戚(門中)が共同で使用した。清明の頃(24節季の一つで4月上旬)は親戚全員が墓前に集まり、先祖を供養した。これを沖縄では「うしーみー」と言う。清明の変化。 墓室内の手前には「しるひらし-=汁減らし)と呼ばれる遺体置き場があり、腐敗が進んだ頃に扉を開けて洗骨した。死後33年以上経った遺骨はその奥にある「池」と呼ばれる部分に積み上げられ、「先祖」となる。門中の男子は「名乗り頭」に同じ漢字を用いるのが慣習だが、それが残るのは貴族や武士(さむれー)の子孫で、現在も守られる一方で新しい名前を自由につけることも増えた。 3)門中墓 これは巨大な倉庫型の門中墓(親戚の共同墓)で、特に有名な例が糸満市にある。また親戚の通称に「向姓」とか、「馬姓」とか「毛姓」と言う呼び方がある。王朝時代中国との貿易(冊封)に関わった上級士族は沖縄式の名の他に中国式の名を持った。それが例として挙げたもの。沖縄では血族意識が高く、逆に地方や離島では地縁を重んじる。血族結婚の機会が増えれば、遺伝学上の影響が生じやすい。 4)破風墓 現在も風葬の習慣が残るのは、小さな離島だけになった。理由は火葬場がないためだ。現在の沖縄は土地が限られているため、かつてのような大きな墓を造ることは不可能になった。それでも先祖を大切にする沖縄では、近年現代風の「破風墓」が目立つようになった。この大きさでは親戚の遺骨を全て納めることは出来ないが、家の形をした破風墓も結構場所を取り、施工費も高額のはずだ。 5)厨子甕 これは厨子甕(ずしがめ)と呼ばれる遺骨を納める石製の容器。彩色が施されているので、身分の高い人(家)のものだろう。もちろん、このまま屋外に置かれるのではなく、亀甲墓や門中墓に安置されていたのだろう。沖縄勤務の3年間で私はたくさんの墓を訪ね、墓を見ながらランニングした。沖縄の墓は元々住まいの近くに作られ、葬られた後も先祖たちは子孫の繁栄を見守って来たのだ。 与那国島海中遺跡 さて「お口直し」に珍しい写真を載せたいと思う。これは日本最西端の島である与那国島の南側の海中にある「遺跡」。地元のダイバーが発見し、琉球大学理学部の木村政昭教授(当時)らが、調査した結果遺跡と判明したもの。階段や溝、道路や門を建てるため開けた穴、亀の形の石などがあり、自然の造形ではないとの結論に至った。それは壮大かつ見事で、私は何度か映像で見たことがある。 遺跡図 これは海中遺跡の図。船上から海底に向けてレーザー照射して得た映像を図化する工程も見たことがあった。さてなぜ海中にこのような物があるかだが、南西諸島は古来沈降と隆起を繰り返して来た。なおこの「海中遺跡」に続く陸の遺跡の存在もその後の調査で分かっている。その場所が高かったため海に沈まなかったのだろう。このように沖縄は不思議に満ち溢れた島だ。 何年か前、台湾から与那国島まで日本人が舟で渡る実験をした。初回の「草舟」は浸水して失敗。2回目の「竹の筏(いかだ)」は黒潮に流されて失敗。3回目の丸木舟は縄文時代の石器で台湾の木を切り倒し、中を刳り抜き男女5人で漕ぎ、黒潮に流されて時間を要したものの、無事与那国島に到着した。確か国立科学博物館の実験だったはず。私は台湾の東海岸を旅し、現地の原住民の踊りを観たこともある。今となってはとても良い思い出だ。 大陸と南西諸島が地続きだった時があった。その時は人も動物も歩いてやって来た。イリオモテヤマネコもアマミノクロウサギもそうだ。だが沈降と隆起を何度も繰り返した時、島が離れて人は丸木舟でしか渡れなくなった。標高が200m以下の島は海に沈み、ハブが死んだ。また巨大な海底火山の爆発で、数千年間も人が往来出来なかった時期もある。 人は南や西から沖縄へやって来ただけでなく、北からもやって来た。その代表が縄文人だ。彼らは南の島々に縄文土器や北方の神話を伝えた。南の島々からは装身具の材料となる貝が日本列島(北海道まで)へ伝えられた。こんな貧弱な丸木舟でよくも遠方まで出かけたものだ。私は男鹿半島の「なまはげ館」で、今なお使われている丸木舟を見たことがある。人とは凄いものだ。縄文土器が南米まで伝えられたとの説もあるが、真偽のほどは定かではない。 さて、私がこのシリーズのために用意した材料はここまで。次回以降をどうするかは未定だが、読者が退屈でなければ、もうちょっと続ける手もあるがさてどうするか。ともあれご来訪と愛読を感謝したい。
2021.12.16
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~頼りない足どり~ ツーリストから届くパンフレットの類を片っ端から、資源ゴミ用としてまとめている。一応ざっと眺めてはいるが、行きたいと思う旅行先がない。いやたまにこれはと思う場所の案内もあるのだが、何分料金が高過ぎる。それに一人部屋だとさらに2~3万円の追加となる。私は結構国内は巡った。離島にも行ったし、残りは知床半島と小笠原初諸島くらいのものか。それも「どうしても」と言う気持ちは失せた。 先日は風に乗って雪が飛んで来た。風花だ。俳句では冬の季語で、一度は使ってみたい言葉。太平洋側の仙台では「風花」を優雅と思う余裕があるが、冬の日本海側だと雪は生命にも大きく関わる厄介な存在だ。山形で4年、石川県で1年勤務したから、雪国の大変さは知っている積り。仙台だと雪かきもさほどの労働ではないが、北陸の豪雪には驚いた。雷が鳴ると猛然と降り始め、一晩に60cmも積もる。 山形では雪下ろし中の死亡事故が冬の普通の風景と化していた。深い雪の中を転びもせずに自転車やバイクで走る姿は太平洋側では見られない風景だ。「雪国に生まれ無口に慣らされる」そんな句碑をどこかで見た覚えがある。 G7の外相会議でイギリスへ行った林外務大臣が、他のメンバーと共に訪れた「ビートルズ記念館」で、即興で「イマジン」をピアノで弾き、喝さいを浴びた由。彼は東大法学部を卒業したあと、ハーバードの大学院に進んだ秀才。恐らく英語はネイティブクラスなのだろう。だが彼の仕事はピアノを弾くくとではない。厳しい世界情勢の中で、日本の立場をしっかりと主張することだろう。 岸田総理の言行に何か物足りなさを感じてならない。確かに本人が言うように「聞き上手」なのかも知れない。ただしそれを別の言葉で言えば「優柔不断」や「後出しじゃんけん」になるのかも知れない。総理としての意思と見解は一体どこにあるのか。ああ言われればこうかわし、こう言われればそう変わる。それを柔軟な思想とは言わないような気がする。もっと骨太で堂々としてほしい。それが私の願いだ。 夜遅くまで歴史書を読んでいる。古代の朝鮮諸国と日本の関係だ。古代朝鮮は中国の影響が強くかなり激動した。その影響を古代の日本も受けた。高句麗、新羅、百済の存亡をかけた駆け引き。半島の最南端には日本との関係が強い加羅(加耶)諸国があるが、政情の変化で割譲されたり、征服されたりと激変。百済の策謀に動き始めたばかりの律令国家日本は、大きく振り回されたのだ。 一日に一つ課題を解決するようにしている。ある日は電力会社と余剰電力に関する新たな契約をした。ある日はウイルス対策ソフトを新たに入れた。ある日は俳句教室に提出する作品を整理し、ある日は買い物をし、ある日は洗濯をし、ある日は大掃除に励み、またある日は料理作りに没頭した。だが、思っていてもやれない日の方が多い。今年も、残り半月となった。 林外相が弾いたジョンレノンの「イマジン」をyoutubeで聞いた。しみじみとした名曲だ。次に尾崎豊の歌を聞きたくなり、「僕が僕であるために」や「卒業」などをyoutubeで聞いた。まさに絶唱。早熟な少年の感性。そして真っ新(まっさら)な詩を書けなくなった尾崎は自ら死を選んだ。26歳の若過ぎる死。遺体は裸で雨に打たれていたそうだ。 当時伝えられた死因は「肺水腫」。そのため家族から「他殺説」が出た由。その後尾崎の遺書が2通発見された。だが若い妻は遺書の公開を拒んだ。当時2歳の息子が父の死を受け入れられる年齢になるのを待つのがその理由。尾崎の死から20年以上経って、ようやく遺書の内容が判明した。そして彼の死因も明らかになった。 肺水腫は急性覚せい剤中毒が原因だった。40錠もの覚せい剤を尾崎は一気に服用したようだ。覚悟の死、自殺だ。高校生当時から喫煙や飲酒で停学処分を受けた尾崎。その苦しみの中から彼の純粋な詩が生まれた。だが爆発的だった人気は、やがて音楽活動の不調と共に薄れたと言うか、音楽界から見放された。天才児尾崎は酒や煙草や覚せい剤に逃げ、健康を害し、そして自ら命を絶った。そんな中での結婚と息子の誕生が奇跡のようにも思える。そして一人息子は父の後を追うように歌手になったと聞く。 詩を書き、曲を作り、歌うことで命を削った尾崎。老いた私には彼のような才能も気力も体力もない。ただ何かに取りつかれたようにブログを書くのが日課。それをどこまで続けられるのか、自分が最後にどうなるのかも不明。それでも自分がこの世にあった証として、ブログを書いている。わざわざこんなブログに来てくれてありがとう。文章を読んでくれてありがとう。ただただ感謝。
2021.12.15
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