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ぼくは、学校に通勤するとき、きわめてラフな格好です。学校に行ってからもそのままラフな格好をしています。ジャージ、あるいはふつうのズボン、上はTシャツかラガーシャツ、トレーナーといった格好です。 教員になってから、ずっとこのスタイルで通しています。 ずいぶん前、学校の同僚に、自称「優秀な教師」がいました。彼は、いつもビチッと背広を着ていました。朝からずっとそれで授業をし、体育の時間だけは着替えていました。昼休みや業間時間など、教室にいるか、職員室でタバコを吸っているかで、子どもと外で遊ぶということはまったくしない先生でした。それどころか、子ども達が外で遊ぶことにいやな顔をするのでした。 その先生が、他の教員に非難するように言いました。「ジャージで授業をするのはどんなものか?教師は授業で勝負するものなのだから、教師はきちんとした服装で、授業をするべきだ。正装で子どもに向き合うのが、職業人として礼儀ではないのか。」 ぼくからすると彼の言動には首をかしげるものが多く、一度ならず彼と口論以上の激しい対立をしてきたのですが、この彼の主張は、筋が通っているようにも思われました。 この、彼の言葉は、なるほどと思わせるものがありました。 それ以来、相変わらずジャージで通しながらも、これでいいのかなという葛藤を抱えながら数週間が過ぎました。 そんなある日、飲み会の席で、教師としても、人間的にも尊敬するH教頭にそんな話をしてみました。「なるほどね。いかにも彼らしいこだわりだね。それは、彼の教師としてのひとつの芯かもしれないね。」H教頭という人は、あくまでそれぞれの教師をタイプとして認めてくれる人です。「だがね、私はこう思っているんだよ。小学校の教師というのはね、はなを垂らして、手をどろどろにした子どもがだよ、『せんせー!』って抱きついてきたときにね、笑顔で『はーい!』って言ってあげられるようでなきゃいけないと思うんだよね。それができる服装、それが小学校の教師のもっともふさわしい服装だと思うよ。」 頭の上にあったどんよりとした雲が、一気にパーッと晴れていく思いでした。 それ以来、ぼくは職業人としてのプライドを持って、毎日、まあ汚れてもいいやっていうシャツとズボンで教壇に立ってます。 中学、高校の先生は、またちょっと別物かもしれませんね。
2007.06.27
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学校の先生の中には、部活の指導に熱心に取り組む先生がけっこういます。 自分の休日もすべてつぶして、ほとんど1年中、盆と正月以外はひたすら部活指導に学校に通い続ける熱心な先生もいます。 こういう先生の情熱のおかげで、大いに技能を伸ばし、世界レベルの競技者、あるいは演奏者になったという人も少なくないでしょう。 しかし、それを「やりすぎ」と評価する人もいるのはたしかです。 すばらしい情熱と見るか、やりすぎと見るかは、指導を受ける生徒の側次第と言えるのかもしれません。同じ指導を受けても、ある子は熱心なほど伸びるし、ある子には過剰に厳しいというわけです。 一般論としていうなら、教師は部活にのめり込みやすいです。夢中になり、熱くなってしまいやすいです。 なによりも、部活は結果がはっきりと出ます。 部活動では、市内何位、○○大会優勝、県大会出場、全国大会金賞・・・とか、成果がはっきりと目に見えるので、教師にはすごく励みになるのです。 もちろん、部活に燃える先生は大会で勝つことばかり考えているわけではありません。 個人の努力や根性、フォアザチームの精神、仲間への思いやりや困難に打ち克つ気迫など、子どもの姿から多くの感動をもらい、その都度仕事のエネルギーをもらう経験もします。 しかし、やっぱり知らず知らずのうちに熱くなり、子どもに高いものを要求してしまいがちという場合も多いようです。 教師の部活の指導は、全くのボランティアです。熱心にやっても手を抜いてやっても給料は変わりがありません。日曜に部活の指導で出勤すればほんのわずかの手当は出ますが、ほとんど割に合うものではありません。この、「ボランティア」が、教師を部活にのめり込ませるひとつの大きな要素になっています。 熱心にやってもやらなくてもいい部活動、給料とはほとんど関係のない部活動、だからこそ、それでも自分がそれをやるからには、やりがいがほしいのです。損得度外視で子どもと一緒に夢中になりたいのです。 いつも負けてばかり、意気上がらない部活では、なんのために骨を折っているのか、なんとなく空しくなってきてしまいます。だから、子どもにがんばらせたいのです。「やった!」という気持ちを子どもと共有することで、自分の仕事が意味のあるものなのだと感じたいのです。 また、ボランティアでやっているという気持ちが、「おれも自分の時間を犠牲にしてやっているんだ、子ども達をここまでしごいているのも純粋な情熱からなんだ」と、子ども達に厳しいレベルを要求してしまいがちです。 この辺は、月謝を取って教えているスポーツクラブの指導とは明らかに違いが出ている部分だと思います。 ぼく個人の経験では、部活をやっていて、保護者からクレームとかつくと、けっこうくさりました。頭に来て投げ出したくなるときもありました。根底に「こっちは無償でやってるんだぜ。それを認めてくれないのかよ。もっと感謝してくれてもいいだろ。」という意識があったと思います。もっともこれはすべての教員に一般化してはいけないと思いますが。 ボランティアでやっているということが、過剰に熱が入りやすいひとつの要素なのだと思います。 以前、高校サッカーの決勝を見に来た海外のコーチが、「ひざやももにサポーターをまいている選手ばかりではないか。ユース年齢でなんでこんなに無理をさせるのか理解に苦しむ。」と語ったそうです。指導者の側が選手の長い競技生活、あるいは人生を見据えながら指導にあたっていかなければいけないということを心しなければならないと思います。 しかしながら、こういう先生のボランティアを否定することはできません。 日本の学生スポーツの根幹を支えているのは、熱心な先生のボランティアであることも事実です。これに見合う手当をちゃんと払っていったら、日本の教育財政はたちまちパンクしてしまいます。 今後も、学生スポーツは、熱血先生のボランティアが中心になって支えていくことと思います。でも、最近では、学校の部活以外のスポーツクラブなどがけっこう増えてきました。こういう選択肢が増えるのは、いいことだと思います。 ガンガンやりたい子も、のんびりやりたい子もそれぞれでやれるというのが理想なのではないでしょうか。
2007.06.19
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今回はちょっと怒りモードです。すいません。 社会保険庁の不祥事、国民年金の問題、だいぶあっちこっちで話題になっています。「こんなこと、民間じゃ考えられない。」評論家やキャスター、その他みんな口をそろえて言っていますね。 ちょっとこの言葉にひっかかってるんです。 ほんとにそうですか? ずさんな仕事、責任の欠如、本当に民間じゃ考えられない? 不二家は?あれ民間でしょ? 雪印の事件だってあったじゃないですか。 民間でもありうるんじゃないですか?「官、お役所は、親方日の丸だからやる気がない、だめ、いいかげん」という図式が最初からあって、それに当てはめちゃってるんじゃないかっていう気がするんですが。 評論家とか解説者とか、そういう人たちって、なんか、最初から決めつけ、思いこみみたいのがあって、それをパターンにして、ことあるごとにまくし立ててるみたいですね。 もうちょっと他と違うこと言ってみろよ! 例外もちゃんとさがしてものを言えよ!というのがぼくのいつも感じることですね。 ところで、社会保険庁の騒ぎの他に、最近コムスンとノバのこともだいぶニュースになっていましたね。 はっきり言って、この2つの事件に関して言うなら、 こんなことぜったい公営ではあり得ない!と言えるのではないですか。 ノバの例で言うなら、講師が間に合わないのに、経営拡大のために、広告はガンガン流して受講生を集め、あとの対応はなおざりにする。 民間だから、こんな不祥事が起きるんです。なにしろ、究極的な目的は利潤追求なんですから。中には不正をするやつはいるし、搾り取れるところからは、情け容赦なく搾り取る、こういうせこさ、危なさを、持っている人、組織もあるでしょう。「民間」というものは競争の中で生きる者、本質的にそういうリスクを持っているということをみんな忘れていやしないでしょうか。 なんでも民間に任せるのがいいことなのだ 公営じゃだめだから民間にするのが国民のためだなんていう盲目的な思いこみを、みんなで反省するべきいい機会じゃないですか。 民間にまかせるにしても、規制なしってけっこうこわい面もあるっていうことに目を向けたいですね。 特に教育や福祉に分野で考えてほしいですね。保育園にしても、給食のことにしても、民間に託すリスクをしっかりと見極めて、慎重にやってほしいと思うのです。
2007.06.16
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学校の先生は、個性的な人が多いとよく言われます。 子どもの持ち物の整理整頓に、異様なくらいに執念を燃やす先生がいます。 まあ、教室が清潔であるに越したことはないのですが、あくまで子どもがやること。基本的に子どもは汚すもの。教科書とノートの置き方、お道具袋のかけ方、カバンの置き方まで厳しくチェックします。机がちょっとでもずれていたりすると、だらしないと叱責。下駄箱の靴のかかとが右のはしから何センチとかまで指導した先生もいます。 こういう風に先生に指導されると、ADHDの子なんかは参ってしまいます。 また、「自己主張ができなければだめだ」という信念のもと、内気な子でも、大きな声で発表できるまで何度も何度も言い直しさせる先生もいます。しまいに子どもは泣き出してしまいます。それでも、先生は「信念」があるので、これでもかこれでもかと子どもに大きな声での発表を迫ります。 「おしゃべりはしない」ということを徹底して指導する先生もいます。掃除中は「黙働」といって、一言もしゃべらないでただ無言を強いるのです。授業中、集会、移動の時など、おしゃべりをしようものなら、あとで先生に呼ばれて尋常でないご指導を受けることになります。子ども達はいつも静か、整然としています。休み時間ですら、おとなしく静かにすごします。 やたらと宿題をたくさん出す先生。子どもが家に帰ってくると、親御さんはまず「今日の宿題は?」と聞きます。毎日毎日その量が半端じゃない。10時11時までかかることも珍しくなくらいで。子どもも親も、フーフー言ってます。懇談会では、「私は子どもの基礎学力をみっちりつけます。」というのが口癖で・・・ 子ども達にまったく強制しない先生。学級はいつもわやわや、立ち歩く子、おしゃべりをする子、友だちの話をちゃんと聞こうとしません。自由でのびのびしているのですが、まとまりがなくてだらしない。子ども達は好きなことしかやらない・・・・ いろいろタイプはいますが、学校の先生は、極端に走る傾向があります。 「なにもそこまでしなくても」 「程度をわきまえてくださいよ」と言いたくなることもよくあるでしょう。 教師の側は、「信念」を持ってやっています。 「自分は子どもにこういう力をつけさせるんだ」「こういう理想を持ってやっているんだ」と思ってやっています。 でも、その信念は、しばしば「不安」の上にのっかったものなのです。 教師は自分の仕事の成果、自分の成し遂げたことが数字などはっきりしたもので見えないという「不安」を慢性的に抱えています。だから、どうしても、はっきりと目で見える「成果」がほしいのです。 目に見えるもので、自分がやっていることは意味のあることなんだということを信じたい気持ちになるのです。だから、ひとつのことを徹底して、目に見える結果を実感したいのですね。 それがしばしば「やりすぎ」になってしまうのだと言えると思います。 部活に熱を入れすぎる先生、子どもにあまりに厳しく、高度なものを要求する先生、それもやっぱり、子どもを通じて、なにか「目に見える成果」がほしいという気持ちがあるのでしょうね。
2007.06.13
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今回書くことは、ぼく自身の偏見、あるいは知識不足のところがあるかもしれませんので、遠慮気味に行きたいと思います。 あの、ぼくの知っている範囲では・・・ですが、少年野球のコーチの方って、ちょっとおっかなくないですか? 少年野球の練習風景を見ていると、ものすごい怒号が聞こえてくることがよくあります。子どもがエラーをしたり、オーバーランをしただけで、そこまで言うことないんじゃないの?と思うような叱責(というよりは罵声)を聞くことがあります。 スポーツで、厳しいのが悪いという単純なことをいうつもりはないのですが、しかし、これはあくまで青少年教育の一環、こう激しいのは子どもを育てるといえるのかなあ? ぼくの偏見なのかと思い、いろいろな人に聞いてみました。自分の子どもが少年野球をやっているというお母さんに聞いてみると、否定はせず。自分の子どものチームはそれほどではないけど、試合で対戦するチームの中には目を覆いたくなる、耳を覆いたくなるような場面を目にすることが何度もあるということ。三振をした子どもに、「もう、帰れよ!」と怒鳴ったコーチもいたという話でした。 同じ少年スポーツでも、サッカーはこれほど激しい罵声はそれほど飛ばないのではないかという印象があります。 このことを、サッカーの仲間に話してみたら、ひとりは「まったく同感!おれもそう思う。」と同意。もうひとりは「ん・・・そうかもね」といった反応。もうひとりは、「それは、いろいろいると思う。ぼくの知ってる少年野球のコーチの人は、ほんとに立派な人だ。やっぱり子どももちゃんとしてるよね。」という話でした。 こういった話を総合して考えると、やっぱり人によっていろいろなのでしょうね。 単純に野球とサッカーの差異を結論として出すべきではないと思います。 ただし、野球というスポーツは、構造的にコーチが子どもを怒鳴りやすい性格を持っているのではないかなあという気もしています。 野球は、サッカーやバスケットなどと比べて、監督の采配が、ゲームの勝敗、内容を左右するウェイトが高いように思います。 バントをするのか、エンドランか、併殺をねらうのか、本塁で刺すのか、監督の選択、決断が、ゲームを左右することが多いでしょう。それに比べると、サッカーやバスケットなど、ゲームが止まらずに流れるスポーツは、一度選手を送り出してしまったら、あとは選手のその場の判断、がんばりにゆだねるしかないのです。監督も、もうしょうがないとあきらめがつくのです。 それに比べると野球の場合は、監督の作戦、判断が的を得たものならば、あとは選手が監督の思い通りに動いてくれれば・・・・逆に選手が自分の思い通りに動いてくれないと、ものすごくイライラしてしまうのではないでしょうか。 と、まあ、思いつくまま書いてみましたが、あくまで個人的印象です。断定的なことは言えません。 それにしても、少年スポーツなど、休日を返上して奉仕してくださっている方々には、本当に頭が下がります。 お疲れさまです。
2007.06.10
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教師という人種のもう一つの特徴、それは「孤独」だと思います。 ディズニーランドのアトラクションで、お客さんに手を振る役の人は、腰を曲げる角度、手を振る大きさまで何度と決まっているという話を聞いたことがあります。マクドナルドの注文を受けるお姉さんは、どの人も、いつもにこやかな笑顔で、ていねいな、完全に同じ言葉でお客さんを迎えてくれます。「あと、ポテトはいかがですか?」なんていうお節介まできちんとそつなく、たいていのお姉さんはしてくれます。 こういうものと、学校の先生は対極にあるといえると思います。 もっとも統一スタイル、パターンがなじまない職種なのです。 単に勉強を教えるだけというのなら、「○○方式」とかいって、ある程度形が決まってくるかもしれませんが、日本の学校教師は、休み時間、給食、掃除、生徒指導、部活など、子どもの生活、適応、生活全般に関わります。 あまりにも子どもと人間としての密着度が高いので、「人間性」そのもので、仕事に当たっていくしかないのです。自分の個性で子どもと接しないと、必ず無理が来て、結果的には上手な指導ができないのです。 例えば、子どもが万引きしたとします。 お店から通報を受けた先生はどうするでしょう。 それがどんなに悪いことかわからせたいと、熱くなって子どもに怒鳴る先生もいるでしょう。 涙を流しながら、切々と語りかける先生もいるかもしれません。 ものの道理、世の中というものを語り聞かせる先生もいるかもしれません。 ただ黙って、「目で語る」先生もいるかもしれません。 教師は、それぞれ個性的 いろんな先生がいます こういうひとつの決まったスタイル、パターンは、学校の先生には無理なんです。もっとも、教師だけに限ったこととは言えないのですが。 教師は、「自分の持っているもの」で勝負することを求められます。 いろんなタイプ、それぞれなのです。 個人的なことをいうと、ぼくは、決まったことをきちんきちんとやることがどちらかというと苦手な方で、よく集金袋を配り忘れたり、明日の持ち物を言い忘れたり、片づけなんかも苦手でした。よく子ども達や保護者の方に助けられました。学力テストなんかをすると、クラスの平均点もあまり高い方ではありません。けっこう自分は教師としてだめなのかなあ?とか劣等感を感じたりもしました。 でも、反面、自分は子どもと遊び、子どもの気持ちをつかむことに関しては、他の先生に負けないだろうという自負はありました。 細々とした生活の指導、しつけはあまり得意じゃないけど、ダイナミックな企画は得意でした。 教師はいろいろ、スタイルはそれぞれで、どれがよく、どれが悪いというのではないのです。(唯一悪いとはっきり言えるのは、「みんなが同じスタイル」の学校!) でも、それは、人それぞれ、自分は自分、他の先生はその先生なりにやっているのだから・・・・・・ということになります。 なかなか口を挟みにくくなります。 ある先生は、子ども達がけんかをしてもなかなか止めようとしません。 ある先生は、やたら子ども達に国語の教科書のマル写しをさせます。 ある先生は、子どもにあまりノートを書かせません・・・ 口を出したくなるけど、それぞれ考えがあるのです。 あるいは、考えがあると言われてしまえばそれまでなのです。 その先生のやり方は、その先生以外の人はわからない。口を出せない。 古い言葉ですが、こういう面の弊害として「学級王国」などと言われます。 なかなかまわりが手を、口を出せないものです。 自分の思い通りの仕事をさせてもらえるとも言えますが、 裏を返せば「孤立無援」になりやすいのです。 教師は孤独です。 教師を理解する上で、「不安」と、「孤独」が大きな2つのキーワードだと思います。
2007.06.04
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久々の教育相談だより。 親御さんのことについてしばらく考えてきました。 今度は教師側のことについて書いてみたいと思います。 さて、学校の先生は世の中にかなりたくさんいるのですが、その先生といわれる人たちの行動原理や心理については、意外に理解されていないものです。まずは総論的に、「教師の行動と気持ち」というテーマで行きたいと思います。 よく、企業の経営者や評論家の人は「学校は一般企業に比べて甘い」とか、「教師はプロとしての厳しさが足りない」とか批判されるのを耳にします。しかし、そういう人たちは、一方で、他の職種に比べて精神を病んで休職する比率が高いことをぜんぜん説明できていません。(物事の一面だけ見てものを言ってはだめですね!) たしかに教師は、休みには比較的恵まれている(部活で休みのほとんどない先生もいますが)し、企業の営業の人のように厳しい数字のノルマに追いまくられることも一般にはあまりありません。 だから甘いと考えることは、「甘い」のです。 決まった形のノルマがないということは、楽なことである反面、まったく違った意味での辛さ、しんどさがあるものなのです。 人は仕事をして、それが非常に成功したのか、失敗であったのか、その結果が、サラリーマンだったら、売り上げ成績や昇進など、漁師さんだったら網に入った魚の量、農家の方だったら収穫量といった形でフィードバックされます。自分の仕事が良かったのか悪かったのか、自分の中ではっきり整理されるわけです。しかし、教師はそのはっきりした自分の仕事へのフィードバックがないのです。 例えば、1人の教師があるクラスを担任したとします。最初はまとまりのないがやがやしたクラスだったのに、その先生ががんばって、クラスとして落ち着かせました。 この先生は自分のした仕事をどう見るか。どう評価するか。 自分の力で集団にまとまりを作ることができたと考えることもできる反面、子ども達を力で抑えつけたのではないかという自己批判もするかもしれません。集団としてはうまくいったように見えても子ども達個人をみたらどうなのだろうか? いや、今の状態は本当に落ち着いている、まとまっていると言えるのだろうか? 学習面をみるとどうなのか?テストの点などをみると、反復練習で基本的なことが身についた子ども達は多いが、彼らに考える力がついているのだろうか? 子ども達が先生の目、意図を意識してしまっているのではないか? こんな風に、教師は自分がやっていることは本当にいいことなのか?、自分の教育は子どもに有効に作用しているのか、空回り、またはひとりよがりになってしまっているのではないかという不安をいつも慢性的に抱えています。 いくらやっても誰からもOKはでないし、ノルマをクリアという到達点はありません。 不安なのですよ。 心の底にこういう不安を抱えている「先生」は、アブない人たちかもしれません。 やりすぎといえるほどに仕事にのめり込む先生、 子どもに極端に厳しい先生、 無気力な先生、 中には尊大、傲慢な態度になる先生もいます。 教師を理解するひとつのキーワードは「不安」だとぼくは考えています。
2007.06.02
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