吟遊映人 【創作室 Y】

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2010.02.20
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カテゴリ: 月下書人(小説)
  大井川鉄道線の金谷駅は、夏休みということもあってたくさんの鉄道ファンやツアー団体、家族連れで混雑していた。
 今年で三十五歳になる美智子は、生まれた時すでに新幹線も走っていた世代。小学四年生の僚介にせがまれてSLに乗ることにしたのだが、親子で初めての経験だった。だが隣りに夫の大介はいない。内緒で来てしまったのだ。
 駅員の誘導でいそいそと汽車に乗車したところ、車内に冷房設備はなく、レトロな扇風機が天井で大きく首を回していた。高らかな汽笛の音とともに出発。車内が大きく「ガタッ」と揺れた。
「あ、動いた!」
 僚介は無垢な瞳を車窓に向けた。
 美智子が大介を残して出かけてしまったのにはわけがある。ちょうど一年前ぐらいからだろうか、大介のケータイが時と場所を選ばず、頻繁に鳴るようになった。正確に言うと、ケータイが「震える」ようになった。着メロなんて煩わしい、耳障りだとか何とか文句をつけ、大介はいつもバイブにしていたのだ。ある時は背広の内ポケットで、またある時は車内の定位置で、あるいはテーブルの上で。その度に大介は自然体を装いつつ、美智子の視線を避けるようにして誰かにメールを返していた。
 いつだったか夕飯時、僚介が苦手な算数で満点を取ったと大盛り上がりの最中、突然ケータイが震えた。ケータイはズズズと鈍い音を立てながら僅かに位置を変え、ビールの注がれたグラスに当たって小刻みに揺れた。ケータイは、まるでそれ自体が意思を持って自己主張するかのように、ひと時の家族団らんに水を注した。さすがにその時の大介は被害者面して「なんだかなぁ」などとぼやいてみせたが、美智子の胸中は決して穏やかではなかった。
 ちょうどその頃、配置転換と昇進も重なったせいで、極端に帰宅時間が遅くなった。仕事量が以前より増えて忙しくなったことは分かる。でもそれだけのせい・・・?
 せめてもの救いは、どんなに遅くても必ず帰って来たこと。そして、子ども部屋を覗くと、僚介の寝顔を見てから寝室へ向かう大介であったことだ。

「この男の人、いつもお父さんの隣りにいるね」
 大介の会社で出かけた慰安旅行の写真を見ながら、僚介が呟いたのだ。
「ほらこの写真も、ほらこれも・・・これも隣りにいるし」
 まだ子どもだからと侮れない。実は美智子も、それらの写真には混乱していた。大介の隣りではにかむ、三十歳前後に見える、細身で中性的な顔立ちの男性に、何か違和感を覚えたのだ。
 夫に女の影を感じていたはずが・・・男?
 状況を把握するのにどれぐらいかかったであろうか。瞬きするのさえ忘れ、疲労した目蓋がヒクヒクと痙攣を起こすのを感じた。
 まんじりともせず夜が明け、思い立って、
「SL乗りにいくよ」
 と、かねてからの僚介の希望に応える形となった。ちょうど夏季休暇に入った大介は連日の残業疲れのためか布団の中で、美智子は、
「役員会合に行って来るわ」
 と、大嘘をついて出て来てしまったのだ。

 車窓から黒い煙がもくもくと後ろへ流れていくのを眺めていると、夏雲の影がせわしく近づいて来るのを感じた。住宅地からのどかな田園地帯、茶畑を通り過ぎると、景色は少しずつ山深くなった。手を伸ばせば山の地肌に届きそうなほど近づいたかと思うと、今度は徐々に大井川に接近。川の浅瀬で泳いでいる子どもたちが汽笛の音に一斉に振り返り、
「バイバーイ!」
 と大きく手を振るのが見えた。僚介も夢中になって、
「バイバーイ!」
 と返した。

 とその時、美智子のバッグの中でケータイが震えた。暫らく放って置いたがその震えは止まない。相手は分かっている。ためらいながらもケータイを取った。
「おまえ一体どこで何やってんだ!? 僚介もそこなのか?」
 猛烈な勢いで怒鳴る大介の声に、美智子はむしろ安心した。
 黒い煙が渦を巻いて、夏のジリジリとした大気中に溶けてゆく様子を、美智子はぼんやり眺めていた。

(了)





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最終更新日  2010.02.20 11:07:58
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