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マスコミはまだぐずぐず言っているが、検察が小沢を不起訴にしたのは、官僚側に、もうこれ以上やるとヤバイという政治的な判断が働いたからである。法廷裁判を維持できそうにないからだなどというのはマスコミのウソである。官僚は自分たちで作った法律制度、法治制度を維持しようとする。これは権力闘争に利用する場合はこれくらい公明正大にみえて都合のいいものはない。まさに今回はそれで、マスコミは単純に官僚に利用されてしまった。この世の中に悠久の昔から連綿と続いているのは、権力闘争である。法律も民主主義も社会主義も宗教でさえ、このために利用されてきた。すこし飛躍すると、エルバ島に流されたナポレオンはなぜ政敵に殺されなかったのか、毛沢東の執拗な政敵であったト少平を毛沢東はなぜ殺さなかったか。政敵を殺してしまえば簡単だったはずである。西郷隆盛も奄美に流されたが、殺されなかった。歴史にはそういう謎が多い。これは、そういう政敵を殺すと、将来、自分の能力の欠けた部分をおぎなう人間を歴史から抹殺してしまうことの恐れを感じたからであろう。日本の英雄といえば、信長、秀吉、家康ときまっていて、彼ら3人はいわば歴史のマネーロータリングみたいなものによって、権力闘争で犯した様々な悪行も消えて神様みたいにまつりあげられた。中国では明の太祖となった朱元ショウも毛沢東もこれに相当する。ロシア人もスターリンを否定していない。というのは、たとえ、権力闘争の過程でいかに残虐無惨に政敵や反対勢力を滅ぼそうと、権力闘争に勝てば官軍である。毛沢東は文化大革命でずいぶんひどいことをして、ひところ日本で読まれた「マオ」の本みたいに悪玉のかたまりみたいにされたが、中国人はそれでも天安門に巨大な肖像画をかざって毛沢東を尊敬しているのは、何千年もつづいた牢固とした官僚主義と地主主義を覆滅して、中国を軍事的な大国にした恩人だからである。レーニンとスターリンもロシアという後れた田舎の国をアングロサクソンに対抗できるほどの大国にしたからである。要するに勝ったからである。小沢一郎の話にもどると、小沢は「キョウ雄」の要素をもっている。キョウという字はフクロウを意味する難しい字をあてる。つまりあまりいいイメージではないが、権力闘争に強い英雄の相である。自民党の谷垣さん、与謝野馨さんにはそういう要素がありますか。ないでしょう。あれば自民党のなかでもっとのしあがっていたはずであるが、不幸にして育ちのいい二代目、三代目のインテリにはまったく欠けているものである。民主党の菅さんはなぜ黙っているのかとこの頃さかんにマスコミがつっついているが、菅さんにもそういう要素はない。彼は利口だから小沢の能力を利用しようとしている。大新聞社の論説委員、編集委員の人たち、評論家の人たちは、谷垣、与謝野、菅氏らと同じ性格、レベルの人たちでインテリである。つまりいうことは常識を出ない。官僚制度を倒すには権力闘争に強い小沢的なものが必要だということである。そのうち見ていてごらんなさい。アメリカはかならず小沢民主党議員訪問団を招いて小沢をとりこもうとするはずである。権力者には権力者のことがよくわかるからである。
2010/02/24
地方に旅行するたびに思うことは、地方にはあまりにも人が少ないということである。街をあるいていてもほとんど行き交う人がいない。一方、東京には人が多すぎるほどいる。夜11時を回っても、満員電車である。戦後の60年の間に我も我もと東京などの大都市に集まり、日本列島に極端な集中と分散が起きた。韓国でも同じでソウルの人口は全国人口の半分だという。地方の県知事の決まり文句は「地方経済の疲弊」「地方にもっと補助金を、もっと財源をよこせ」という主張である。私は分散しすぎてしまったところが疲弊するのは当たり前で、そういうところにいくら金をつぎ込んでもダメだと思う。人間の数が少なくなってしまったのだから、商店街が成り立たず、シャッター街ができるのは当たり前である。 だからどうしたらいいのかといえば、人を地方の中心都市に集める工夫をするしかない。強制移住をやる国があるが、日本ではなかなかそうはできないだろう。だから地方の中核都市に企業の工場をどんどん誘致して雇用を作り出し、人口をそこに集中させる。そこに病院施設を完備して、急患でも1時間以内にそこに行けるようにすれば、都会で退職した人々が地方にもどってくる。 分散しすぎたところは、それでも自然に依存していれば人間は最低の生活は維持できる。土地に作物を植え、海に依存していれば自然の恵みが人びとを最低生かしてくれる。 日本の農業人口は3%ほどになってしまったから少なすぎる。終戦時は50%も居たのだから、食糧の自給体制に持ってゆけば、10%以上の人口を吸収できるはずである。それには農業会社がもっとできてやる必要があるが、農業をやりたがらなくなった農民や元農民が土地を売りたがらないから、まだらにしか土地を買収できず障害になっている。この問題をなんとか解決しなければならない。 アメリカではトヨタがやられている。これにはアメリカの自動車産業やそれをバックアップする政治家が策動しているようだ。日本の自動車産業は中国に抜かれた。自動車産業もピークを過ぎた。これに変わる産業を興していかなければならない。いろいろやることがたくさんあるから、民主党の尻をひっぱたいてどんどんやれと強く言うべきなのは野党やメディアや評論家の役割だが、そういうことには頭が回らなくて、馬鹿の一つ覚えみたいに、鳩山首相や小沢氏のカネの問題、あるいは普天間の問題ばかり頭をつっこんでいる。彼らにはそういうネタしかなのかといいたい。
2010/02/21
先週の金曜は久しぶりに図解の講義を行う。自分でもうまくできたと思う。しかし、浜松町まで行ってするのは大儀だから、後は誰かにお任せすることにした。日曜日、懐かしくなったので森林公園に出かける。ずっと昔、子供たちをつれて家族で行った楽しい思い出がある。もう30年近く前のことだ。東武線に乗り換えて森林公園前からバスに載って公園の南口まで行き、そこからぶらぶら散策し、展望台に上がってみた。雲で連山の峰峰は見えなかったが、晴れたらすばらしい展望だろう。中央口に行ってやっと昔見た噴水に出会う。このあたりの様子は変わっていなかった。しかし、行きも帰りも大型バスに乗っていたのは私一人だった。2月とはいえ、日曜なのになんという人出の少なさだろう。これでは公園の維持管理は並大抵ではあるまい。帰ってからテレビの歌番組をなんとなく見る。このごろのテレビは経費を安く上げるためか昔の録画を見せるだけ。過去のものをあてがわれるだけというのは情けない限りだ。ある言葉を思い出す。ロマンチシズムとリアリズム。私の青春時代はこの2つの言葉に翻弄され、そして酔いしれた。今はこの2つの言葉がもつ緊張がなくなってしまった。文学は死んだのだ。近代が終わると、引き締まるような青春も終わる。この頃見るテレビのドラマにはまったくリアリティが感じられない。毎日のようにやっている刑事物に出てくるようなまじめでひたむきな刑事はいますか。ホームドラマに出てくるような感動的な親子や暖かい近隣の仲間などいますか。みなつくりものではないですか。つくりものからは感動は伝わってきません。妻は韓国ドラマがいちばんおもしろいといって毎日見ている。新聞や週刊誌は相変わらず小沢攻撃をしている。どうして新聞は官僚制度や社会の矛盾をもっと掘り下げて批判する記事を載せないのだろうか。というのは新聞社の編集委員クラスはみな年収1千万円クラスで保守化してしまっているのか、安直に攻撃できる小沢一郎を商売道具にしているのかなと思う。もうすぐ春。しのびあしでやってくる。税金の申告季節が始まる。
2010/02/16
昨日は新宿に映画を見に行った。「おとうと」。新宿ピカデリーは座席数の少ない小さな映画館を9階のビルの中に集めて、いろいろな種類の映画を見せる施設である。おおぜいの人でごった返していた。昭和30年代の映画が唯一の楽しみであった頃がよみがえった感じだった。うれしい。いい時代がもどってきた。これもテレビの凋落の結果だろう。映画館が混むと街もよみがえってくる。「おとうと」はよかった。なんといっても吉永小百合と鶴瓶という強烈な個性がよかった。この2人は「かあべえ」以来のいいコンビである。「かあべえ」は治安維持法で収監されたドイツ文学者の家族、母と娘2人の物語である。涙が出るほど感動した。この映画で鶴瓶は大阪の田舎の程度の低いおっさん役ででてくるが、今回の「おとうと」は吉永小百合のだめな弟役ででてくる同じような役である。こういう役をやれる絶品の役者だろう。私の子供の頃にも、こういうだめな親戚のおじさんがいて懐かしく感じた。子供たちにとってはこういうおじさんは楽しい。世の中にはどんな人だって必要にできているのであろう。吉永小百合のよさはどうだ。この人は「キューポラのある街」で川口の鋳物工場の若い女性労働者役ででてきたのがはじめてだったが、初めて彼女を映像で見たときの初々しさとピチピチしたはずむような若さの印象は衝撃的だった。まじめに、ひたむきに生きている、そして知的な感じ。一生懸命難しいマルクス書などととっくみ、ロシア民謡を歌っていたあの頃の若い女性労働者の典型を思い出す。こういう色気はないが、清潔で、聖的ともいえる役ができるのはこの人しかいないだろう。今はもう熟年だが、光るような美しい知的な女優になった。ベルリン映画祭で、吉永小百合を見た外国の人はすごい感動を受けるだろう。う。
2010/02/07
小沢一郎が不起訴処分になった。こういう法律用語はいやな感じである。要するに検察は法廷活動が維持できそうもない、という理由である。要するに、石川議員、秘書2名を逮捕して口を割らせようとしたが、肝心の口述がとれなかったというわけである。テレビのアナウンサーも「嫌疑不十分で起訴を見送り」などと表現している。不起訴になったとだけいえばいいのに、「嫌疑不十分」などと公共の電波でこんな言葉を使うのは暴言である。夕刊紙はこぞって、検察の敗北などと大活字にしているが、検察は、小沢一郎に黒いレッテルをはりつけて国民への影響力を削ぎ、民主党のイメージダウンをはかったのだから敗北とは思っていないだろう。私はずっと小沢一郎の弁護をしてきたが、世の中になにかが起こってくるときは、かならず耳障りのいいことが喧伝されて、新聞が書き立てて、皆がそれはそうだろうなと思っている間に、それが空気のようになってくるからで、かならず仕掛け人がいるからである。沖縄の基地問題もアメリカを怒らせたら何かまずいことが起きる、ということをいいひろめた人たちがいるわけである。何事も全部それだといっていいだろう。ほとほと困ったのは、新聞記者たちの多くが小沢一郎の逮捕は5分5分などと言っていたことである。新聞記者はもっと書くことに責任をもたねばならない。こういう程度の新聞記者たちが書く記事はもう読みたくないとつくづく思った。横浜事件の被告がようやく無罪になった。この中の一人の元中央公論社の木村亨さんを知てっているが、とうとうこの日を待たずに数年前に亡くなられた。治安維持法という死んだはずの悪法の被告を救済するのに司法は戦後65年もかかっている。新聞もさして報道しなかった。なんという冷酷な社会なのだろうか。ビルマの難民も今度はすこしばかり日本は入国させるという。こういうふうに変わってきたのはやはり政権交代の効果だろうと思う。これからは、新聞やテレビのいうことを信用しないことだ。自分で考えて判断するしかない。法律を守るということは大事だが、法律だけでは世の中は動かない。法律に違反しないで、悪いことをする人はいっぱいいる。刑事事件でなく民事ならほとんど強い者の言い分が通ってしまう。弱い者はこういう強い者を制裁できない。したがって弱い者を守るのは、政治の責任である。いい政治家か、どうか、弱者にとっていいことをやってくれる政治家かどうかを国民は判断してきめなければならない。小沢一郎は政治家として国民にとっていいのか悪いのかというのが判断基準である。
2010/02/04
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