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またまた新聞が小沢一郎攻撃に乗り出した。馬鹿のひとつおぼえみたいに小沢一郎、政治とカネ、旧体質などとしかいわないが、こういう説明では誰も納得しない。新聞社にとって小沢一郎がどうしてこれほどいやなのかきちんと説明しなさい。毎日新聞の個々の論説委員、編集委員には理のわかる人がいるのに、新聞社全体になると、小沢攻撃一本になるのはどうしてか。国民はもううすうす気づいている。小沢一郎は官僚の天敵だからだ。小沢は権力をとると大胆な公務員改革にとりかかるだろう。官僚封じ込めの手口は小沢の方が知っている。官僚はふだんから記者クラブで情報を新聞社に与えているから新聞社は官僚に依存せざるをえず、官僚のポチになっている。新聞社は官僚には逆らえない。だから必要以上に民主党が分裂するとか大揺れだとかを書き立てて悪人は小沢一郎だというだけである。どんな党でも組織でも意見対立があるのは当然であるが、それを外部で騒ぎ立てることにどんな意味があるかがポイントである。かつてソ連や中国の共産党内部で権力闘争が起こると、共産党に関係ない民間までまきこむ大衆動員という手口がとられた。今日本の新聞社がやっているのはこれと同じで一方の権力に荷担して、大衆を惑わしている。 見識のある編集委員はこういう見かけ倒しの報道をやめてきちんと背後事情を説明しなさい。
2010/08/27
中国のGDPが日本を超して世界第2位の経済大国になったというニュース。13億人も人口のある国だから1億2千万の日本、それも成長の止まった日本を超すのはおどろくべきことではない。ここのところ、東洋文庫で山東省の県レベルの統計資料を調べたが、ここ30年で中国の統計資料が実によくなったことに驚く。30年前の印象では中国の統計はいいかげん、あいまい、不備、おおざっぱというのが特徴であったがいまではそういう印象はない。いつから中国人は緻密になったのだろうか。おそらく若い世代が30年を経て、実務層が育ってきたということであろう。本屋に行ってもマルクスレーニン主義は影が薄くなっている。なのに、なぜ国民選挙による民主化がすすまないのか、という質問をかなりインテリの人にすると、あっさり片付けられる。いま国を構築中であるから、今の体制の方が効率がよい、である。私は長い間、中国の多すぎる人口はマイナスだと思ってきたが、今は考えを変えた。国土面積でいうならば、一人あたり面積は日本の方がはるかに多い。人口が多いことは内需がたっぷりあるということである。中国人は外国人を奥地に入れず、国内需要を自国企業で独占しようとしているのは、内需のメリットは簡単に外国には渡さないとしているからである。ニセブランドであろうと、品質が劣る物であろうと、とにかく手に入る価格の物を買うことによって内需はすこしづつ伸びてゆく。日本でも50年前は自動炊飯器からスタートして、洗濯機、冷蔵庫、やがて自動車となって行ったが、中国でもそうなりつつあり、一部の層は3C需要に進んでいる。大前研一氏の本を立ち読みしたところ、中国の奥地はまったく外国企業が進出していないと書いてあったが、まさにそうであろう。この前鄭州、洛陽に行ってその活性化に驚いた。だいたい日本の新聞をみていても中国の地名は北京と上海しか出てこない。どうしてもっと広く中国内部を報道しようとしないのだろうか。
2010/08/26
前回、先生は個性とか才でまとめるのはお好きではないと書いた。先生はご自分の「文明の生態史観」を作業仮説だと言われた。なぜ「仮説」と言わないで「作業仮説」としたのか。先生の「作業」という言葉には、現場に行って体を使って苦労して調べたという意味がこもっているのであろう。先生は世界の国130カ国以上をまわったと言われていたが、中国の場合でも1国になるが、先生は安徽省をのぞいたほとんどの省をまわったと言われた。オーストラリアでも西海岸まで行かれている。それも物見遊山ではなく調査と取材である。では、梅棹先生が中国のほとんどの省をまわられているので、そういう記述をされていると思うのに、そういう記述は著作集の中に見あたらない。先生は日記とかエッセイのたぐいは書かれていない。もし先生が日記やエッセイを書いておられたら膨大な知見を我々はえたに違いないが、先生が残されたものは、先生の頭脳の中にあった星雲のようなもののうち、ごく少ない部分でしかなかったように思えてならない。つまり先生は感想的なものや印象の段階のものについては筆を下ろさなかった人である。定義はすごく厳密で、たとえば私が世界の民族別地図を作りたいので分類について教えてくださいとお願いしたところ、民族の分類など簡単にするのは危険である。それぞれの民族は血がいりまじっていたり、混合などを経ているから、近親性はあるものの、厳密に民族の分類・定義はできない、と言われた。 先生は活動の割には著述が少なかったが、先生が残された大きな仕事は国立民族学博物館の設立と運営であろう。これはまさにハードとソフトの知的生産の技術の総合であろう。私が初めてこの博物館を訪れたときはたまげてしまった。というのは、私が住んでいる府中に有名な民俗学者の宮本常一先生が住んでおられたが、なんというか、ものすごくちっぽけな掘っ立て小屋みたいな家で、奥様はうちの人はほとんどここにいません、いつ帰ってくるかもわかりません、と言われ会うことができなかった。だから民俗学という学問は手弁当でやるマイナーでビンボーな学問だという印象があったのである。それなのに、大阪の万博の跡地に建てられた民博はまさに王宮のような豪華さだったからである。梅棹先生の政治力というか、そういう実現力に舌をまいてしまったのである。
2010/08/22
私たちは知研の講演内容がたまってくると、それらを文字化して編集して本にするということを始めた。「わたしの知的生産の技術」というシリーズで講談社から3巻出した。第1巻は非常に評判がよく16万部も売れた。梅棹先生に序文を書いていただいたことが売れた大きな原因のひとつであろう。しかし、梅棹先生に第1巻の序文を書いていただくのにとても時間がかかった。梅棹先生は当時出版界では「遅筆」として通っていて、講談社も、梅棹先生に序文を書いていただくことが絶対必要だが、それには時間がかかる。しかし、待つより仕方がない、ということになったが、それにしてはあまりにも遅かった。先生は当時、大阪の民族学博物館の初代館長になられ、多忙を極めておられた。面会者は毎日押すな押すなで一人15分という条件付きだったが、それでもついオーバーしてしまうから長い間待たされた。そういう状態だったからやむを得ないとあきらめていたが、遅筆の原因は何か、というと、1度書いたものはくりかえし書かない、書く以上は新しい発想が沸いたときでないと書かない、講演でさえ、新しいものを世に問うというときにならないと引き受けない、という態度から来ているが、しかし、いくらなんでもそうばかりではない。文部省筋など現実に業務上必要に迫られたものはさっと書く。とにかく「あのう、序文はいつごろになりますか」とおそるおそる言うと、それが年の初めだと「そうですねえ、桜の咲く頃にはできますでしょう」、秋になると、「年があけたら時間ができますから」という言い方を例の京都弁で春風駘蕩的におっしゃる。もうすっかりあきらめかけていると、三原秘書から「お書きになりました」という電話が入って飛び上がるほど嬉しくなった。今思うと、先生は、この序文というたいていの先生なら本の内容を一瞥してさっと書いてしまうものをなぜ時間がかかったかというと、やはり内容を丹念によんで吟味することをなおざりにされなかったからではないかと思う。しかし、2巻目のときの序文は早かった。ところが序文はふつう内容をほめて書く物であるのに、「個性のオンパレードである」ということには同意しかねるという指摘があった。これは酷評といってもよかった。 これは梅棹先生の知的生産の技術からきている。知的生産物にはざっというと、個性、才でものしたもの、知的労働、つまり足と汗でものしたもの、また個性、才と知的労働との総合、という3つにおおざっぱに分けると、私たちが日常、出版物で接しているものには個性、才でものしたものが比較的に多いのではないかと思う。もちろん知的生産をするほどの人は足と汗を過去のある時期にうんとかいていて、それがベースになって才が花開いている場合があるからいちがいにはいえないが、毎月の出版社の依頼に応じて書いたものにはそういうものが多いのである。梅棹先生は個性、才だけでものしたものはお好きではなかったといえよう。
2010/08/18
梅棹忠夫先生が知的生産の「技術」ということを強調されたのは、自分の研究方法を後輩に伝達するには、作業に使用している紙とかひらかなタイプライターとか、ノートとかカードとかの物理的なツールをふくめて技術にまでおとしこむことが必要だと考えられたからである。 先生は、普通の人、つまり「シロウト」でもこういう知的生産の技術を身につければ、かなりのことができると言われた。学者などとの区別などはないと言われた。これはすごい指摘である。たとえば、理科系の人で後に大きな発明発見をした人は、実験や観察を繰り返し行っている。こういうのはまさに知的生産の技術であろう。 梅棹先生は最初の出発点は動物学者であった。それが探検の経験をつむことによって民族学に移行した。民族学は人によって文化人類学とも言われていた。梅棹先生がユニークであったのは、一言でいえば、自然科学が対称とする自然だけでなく、人文、制度、文物、社会、文化などをも科学的なフィ-ルドワークの方法で調べ、意味付けを行ったところにある。これは日本の文系の学者が主に文献を対称にして調べ物をしてきたのと対照的である。 梅棹先生の個人の書庫をのぞいたことがある。そこにあったのは、著名な学者の理論的な著書はなく、すべて内外の民族学や探検記録などのレポートや資料的なものばかりであった。これと似たような感じをもったのは大宅壮一氏の書庫をみたときであった。彼の書庫にも理論書みたいなものはなく、山と積まれていたのは古い月刊雑誌や週刊誌で、彼は理論書などは要らない、自分がいるのは時代の世相、事件などを描いた雑誌であり、その時代の人心、世相を反映したもので、いったん消え去ったものを呼び戻す三文的な資料であると言っていた。 二人とも一次資料を重視して居た点で共通している。あとで知ったのであるが、この二人は面識がないと思っていたがそれは間違いでかなり接触があったようである。 明治以来我が国は欧米など西洋諸国から学説を輸入し、その翻訳、解説を行うことでもっぱら忙しく、学者や研究者はその段階で十分権威ある資格者たりえた。才子といわれる人は戦後、次々に目新しい新説や新解釈を言い出した。そういうマーケットがたくさんあったからである。知的生産は「技術」ではなくインスピレーション、魂の創造などと言う人は、主にこういう才子であったと思う。 ある人は、こざね法とかKJ法などは頭のよい人は頭の中でやってしまうもので、いちいちカードを作ったり、それを広げなくてもアイデアはでてくる、と言った。カードなどをつくって蓄積するなどというのは、時間と手間がかかりまだるっこしい、自分はそんなことをしなくても頭の中でやっている、というが、カードを丹念につくり、それえを机に広げてみて考える、あるいは台紙に小さいカードをはりつけて情報の意味別の地図をつくるKJ法というのは頭の中で行う作業を外部化するのでよくわかりありがたいものである。カードをつくるということは、その作業をすることによって記憶が整理され、鮮明化する効果がある。さらにカードが多ければ多いほど、情報量が増え、このことによってアイデアがでる可能性が確実に高まる。こういう蓄積した情報がもたらす貴重なものは「深み」である。この深みが洞察力につながる。
2010/08/16
このごろ、大新聞各社の編集委員たちの反省の弁がしきりである。小沢一郎氏や鳩山前首相を叩きすぎて政権を弱めてしまったことを反省しているのかもしれない。長い間の国民の悲願であった官僚政治からの脱却がだんだん遠のいていくことに、やり過ぎの失敗感をかみしめているのかもしれない。酒井法子いじめみたいないいかげんで執拗な世論調査で、国民が選挙で選び、自民党政治の積悪をただそうとした意図をくじいてしまったことにたいする自己韜晦なのかもしれない。世論調査は国民にあらゆる情報が正しく与えられていることを前提に、専門家が公平で正確に近く世論を推定できる調査方法を学問的に策定してメディアに従わせる必要がある。全国の国民を機械的にランダム抽出するというやり方が果たしていいのかどうか、サンプル数は何人以上が妥当であるのか、電話によるマルバツ式の質問でよいのかどうか、電話のない人や電話に出られなかった人対する調査が欠落している点をどうするか。面接、書面による調査をしなくてもよいのか。国民の中に一定数居る理解力をもっている人たちを尊重しないでいいのか。質問の方法とそれのまとめ方、個々の政策の是非に関して聞いた回答と全体的な支持率をどうつなげるか。政局に影響を与えるような時期に世論調査をしてもよいかどうか。メディアが勝手に世論調査を頻度多く行って世論に影響をあたえ、政治をゆがめないように、世論調査法をつくる必要がある。基本的には政党の選択、政策の選択は国民による選挙に任せるべきであって、新聞社やテレビ局のような1私企業が過剰に政治報道をして印象的なイメージをつくり出し、偏重した世論をつくることを防ぐべきである。
2010/08/15
岩波新書で百万部以上になった梅棹先生の「知的生産の技術」が40年前にいかに新鮮な衝撃を与えたかは知る人ぞ知るである。あの本に飛びついたのは、学者のタマゴである大学の助手や大学院生、各企業の技術系の人が多かった。それから企業の中堅の人たちである。研究とか学習の方法で迷っていた人たちにこの本は指針を与えた。梅棹先生自身が迷ったり試行錯誤したりして築いてきた調べ方の方法とか発想導き出す方法などがノートとかカードの作り方という具体的な仕方として紹介されていたからである。先生は、こういう本は一部のマイナーな人しか読まないだろうから2万ン5千部くらいで終わるだろうと見ていた。それが予想を大きくはずれ、眠っていた大きな鉱脈に突き当たったのである。梅棹先生は書名を最初は勉強法などというふうに考えておられたらしいが、湯川秀樹先生がこれは知的生産をするための技術を書いたものだから知的生産の技術がいいだろうと提案され、これに決まったという。梅棹先生が「技術」ということを強調されたのは、知的生産はインスピレーションだとか才能だとか、ひらめきだとか、名人芸だとかいくらいってもわからない。第一、人に説明できない。説明できなければ伝達できない。もし後輩や弟子に成長してもらいたいと思うなら、そういうことを技術というところまで落とし込まないとだめだ、と考えられたのである。これはきわめて明快な考えであるが、今に至ってもこのことが十分理解されているとか言えない。まず、私が知的生産の技術を普及するといって始めたところ、多くの既成の文化人のクロウト筋から、「技術」という点をとらえて馬鹿にされた。知的生産なんて魂の所業だとか、天からのひらめきだとか、技術なんていうものではない、技術を覚えたからといって知的生産ができるわけではない、君たちシロウトにできるわけがないとからかわれたのである。 しかし、ここに根底的な学問研究の問題が横たわっている。
2010/08/13
その後、先生と会うたびに私は先生から心の内を見透かされるような思いを経験した。先生に質問したりしたとき、先生が10秒か長いときは30秒くらい沈黙してから口を開かれた、と書いたが、この時に先生は、この男に回答するときには、こういう言い方がいいのではないかとか、こういう言い方をすればわかるだろうとこちらを見透かしながら、頭を巡らせていたのであろう。しかし、いつも私が予想する回答とは違っていたことが不思議であった。言葉遣いがすごく合理的である。ぴったりしたことしか言わない。抽象名詞などはあまりいわない。かならず具体的な落ち着きどころを示してくださる。知らないことは知らないとはっきり言われる。私がいつも不思議に思ったことは、どうしてそういうアイデアが出るのだろうかということだった。それで、「先生はどうしてそういうアイデアがでるのですか」と聞くと、笑って「それはわかりませんね」、と答えられた。先生を有名にした「文明の生態史観」という仮説がある。これはマルクス主義の生産力と生産関係論ではない説明の仕方であった。マルクス主義は生産力が発展して従来の生産関係と矛盾するときは、革命が起こり、社会の態様が変わるという説であるが、これは一部のヨーロッパは日本では当てはまるが、歴史の長い中国やその他の国には当てはまらない。これを先生はかんたんに説明された。ユーラシア大陸の例の楕円形の真ん中をななめに砂漠の帯が走っており、両側にヨーロッパと日本がある図である。両はしのヨーロッパと日本は互いに直接の交流がなかったにも関わらず同じような発展過程をしたのは、ユーラシア大陸の真ん中の地域に絶えず暴力と破壊が起こり、継続的な発展がなかったことを植物の遷移論にたとえ、両側は暴力と破壊から免れたから継続的な蓄積が変化を生み出したという説である。私は、「どうしてそういう説が頭に浮かんだのですか」とこれまた誰でもがする質問をした。すると先生は「行ってみたらそうなっていた」と答えられた。梅棹先生の核心はまさにここにあるのである。
2010/08/12
この岩波の付録雑誌に梅棹先生は「知的生産の技術以後」という後日譚を書かれていた。私はこれを書店のカウンターのところでみつけてよんでみると、「知的生産の秘術」がまあ売れて2万5千でしょうという予想をはるかに超えて10万部となり、さらに40万部50万部という数字になりつつあることが、予想外のできごとであり、毎日のように何百通という読者からの手紙が送られてきたり、B6カードが京大カードと銘打たれて一般商品として発売されたりした社会的変化までよびおこし、「・・東京では熱心な人が知的生産の技術研究会というものをこしらえて大変な数の人集めている」というようなことが書かれていた。私は「東京では、熱心な人が知的生産の技術研究会というものをこしらえて・・」というくだりを読んですっかり嬉しくなった。いったい先生は誰からこういう情報を聞いたのだろうか。さてはこの前呼んだ講師からか。しかし、とにかく、私は著者が悪い感情を持っていないことが確認されたので安心できた。これはすぐ京都に行かねばならぬと思い、京大人文研究所に電話を入れると、秘書の方が出られてすぐ納得され、1週間ほど先のいついつなら空いていますという返事をいただいた。 梅棹忠夫先生の印象は私がかねて感じていたするどいカミソリのような方というのとまったく違っていた。ゆったりとのまのびのする京都弁で話され、春風駘蕩といった感じが伝わってきた。私は京都の大宮人というような人はこのような人たちだったのかな、と思った。とにかく先生は、私が39才になるまでいっぺんもあったことのないような人だった。その後もこのような経験をしたことはない。何というのかな、偉い人というのは、人を寄せ付けない感じがあったり、上からの目線ですぐ人間を見る、たいして役に立ちそうもないと思ったらすぐ話を切り上げる、というようなところがあるが、先生は私という、どこの馬の骨かわからないような、世間的な地位も評価も何もない人間をきちんと対等に話を聞き、応対してくださった。何とも言えないすがすがしい気持ちのよい会見であった。秘書に対する話し方もまるで家族にたいするかのように親しげであった。以来私が感じるようになったことは偉い人にも天才型と秀才型があり、天才型に共通していることは謙虚であり、決して自分を偉いと思っておらず、永遠に自分は未到達な人間であるという意識をもっているが、秀才型はいわが世俗のあかに染まっており、自分はランキングの高い人間に連なったのだとおごりがある。威張ったりするのはこちらのほうであると思うようになった。梅棹先生と話していてまず不思議に感じたのは、こちらが何か質問したりすると、返事が返ってくるまでに、10秒か長いときは30秒くらい時間があくということである。30秒も空いたときは先生は何か気分を害されたのかとさえ思った。しかし、その間、適切な言葉を頭の中で考えておられたことがわかった。ありきたりの言葉でその場をしのぐということがお嫌いのようであった。つまり人と同じようなことは言わない方なのだと聞かされた。私は最期に「先生、うちの会の会長になっていただけますか」とお願いすると、今度は秘書を呼んで、今、京大人文研の所長であるから、公的な職に就いている身分の者は他の組織の会長職につくことは禁じられているからねえ、と確認し、顧問ならいいですよ、と言われた。これも不思議なことである。初対面の男に頼まれて、それもたいしたこともない小さな任意団体の顧問になるということを著名人がすぐその場で決めるというのはなかなかあり得ないことである。普通なら私の任意団体のことを調べてからとか、「まあ、考えてみるか」なぞと言って秀才型の人なら追い返すところである。それがそうでなかった。それから数ヶ月に1度は京都に行ってお会いし、「先生ご自分でご講演してくださいませんか」と何度頼んでもこれは即座にノーであった。理由は「あの本に全部書いたから」。また京都大学の有名な同僚の先生をご紹介していただけませんかと頼んでも、「それは君自身が交渉しなさい」であった。先生から言われたことは、出来るだけ早く知的生産の技術研究会でなくて研究所にしなさい、会報を毎月出しなさい、ということであった。
2010/08/11
さて、「知的生産の技術」で「方法論」を教える学校みたいなものを作ろう、という計画で知的生産の技術セミナーというものを始めた。いったどれぐらい人が集まるか、どきどきものだった。マスコミ塾の名簿、私の学生時代の同級生名簿などでDMする一方、新聞社をまわって「明日の催し」などと夕刊に小さく数行で紹介している欄が朝日にあるが、他の新聞社にもあった。そこに出してもらった。このほか学生がくるものと想定して各大学の掲示板に無断でビラを貼ってまわった。最初にやったのが、神楽坂の出版会館で、斉藤強三氏のひらがなタイプライターの話とKJ法の岩崎隆治氏の話であった。いったい何人くるか始まるまでどきどきしていた。ところがぞろぞろと70人もきたのでびっくりしてしまった。しかもおどろいたのは、やってきたのは20代の学生ではなく、30代以上の大人で知らない人がほとんどだった。彼らは熱心に聞いてくれた。そして言うではないか。「本当によい話を聞きました。ありがとうございます」と逆にお客さんのほうから一人一人お礼を言うではないか。赤字にならなかったので胸をなでおろしたが、そんなことよりお礼を言われたほうが嬉しかった。2回目に頭の体操でヒットしていた多湖輝先生のセミナーは大いに受け、100名近くになり、3回目の前園主計氏の講演ではついに100名を突破した。こうして知的生産の技術セミナーとともに売り出したひらかなタイプライターの売れ行きもまあまあで食うに困るということにはならずにすんだ。しかし、梅棹先生にどのようにして連絡をつけようかということが重く胸にのしかかっていた。「知的生産の技術」研究会とか知的生産の技術セミナーとか勝手に先生の著書からとって走っているが、著者はどう思っているか。挨拶もなしにやっているので不快に思っているのではないか。もしいきなり訪ねていって、許可をおねがいします、なんていったらお前の素性もわからないのに許可なんてできん、なんて断られたら一巻の終わりだと思っていた。当時の梅棹先生ときたら「文明の生態史観」とか「モゴール族探検記」とかで当たりに当たまくっていて、写真をみると、白皙のするどい面構えに前髪がちょっと額にかかっていて、カミソリのような切れ者、近づいたらたちまち八つ切りにされてしまいそうなイメージで、鈍い私とは対称系の人物であった。だから、私は梅棹先生に恐怖心を抱いていて、遠くからおどおどと京都をみつめているだけだった。ところが、うかうかしていられない事情がでてきた。講師にお願いした人が「私を本当に梅棹先生が推薦してくださったのですか」と目を輝かせて言うので、まあそうです、とあいまいに答えていたら、「近々京都に行って先生にお礼を言って参ります」というではないか。これにはあわてた。「先生はまた探検にお出かけになる予定のようですから、すぐにはお会いになれないかもしれませんよ」なんていってごまかした。しかし、チャンスというものはやってくるものである。それは岩波書店が出しているB6判の出版ニュースでそこに「知的生産の技術以後」というようなタイトルで梅棹先生が連載しておられたのである。
2010/08/07
さて、書店で梅棹先生の「知的生産の技術」に会ってから私の「方法論」圧力はいやが上にも高まってきた。これまで大宅壮一氏のところで開眼したのは、物書きとかマスコミプロになるための方法論だったが、梅棹先生の本が説いているのは学者、研究者系が研究をすすめて行くときの方法論、技術論である。梅棹先生は、これまでの先生たちは、物事を創造する瞬間に働くのはインスピレーションだ、天から降ってきた天恵のようなものだ、というだけであるが、梅棹先生はフィールドワークを丹念にして、集めたデーターを蓄積して、それをB6カードにきちんと整理して、いつもそれを眺めて、並べて、考えているうちに考えがうかぶ、そういう基礎的な技術をちゃんとしていけば誰でもが創造をなし得る可能性がある。そういうやり方は伝達できるから、伝達可能な技術に落としこんでいくことが先達としての学者の義務であり、おおぜいの人が創造に関わる機会を作り出せる。という思想である。私はすっかりうれしくなって、大宅壮一のところで学んだことと梅棹先生の本から学んだことをドッキングすればこれは「方法論学」ではないか。こういうことを専門に行う教育に携わることはできないか、これが自分が天から与えられた仕事ではないか、と考えた。しかし、そうは言っても会社には毎日行かなければならない。「方法論学」などという世界とはまったく無縁の営業を毎日やらねばならない。だからといって子供2人を抱えて会社をやめることなどできない。会社をやめたらどうして食べていくことができるだろうか。家内にどう切り出したらいいだろうか。毎日毎日こういうことを考えてもいい方法が思いつかない。最終的にたどり着いたのは、まず会社をやめることからスタートするしかないという結論だった。
2010/08/06
7月3日、梅棹忠夫先生が亡くなられた。90才で眠るような大往生だったと聞いた。私は5日に中国に旅したので、事実を知ったのは、6日に東京に電話したときだった。立つ前に送ったお中元のご好物のチョコレートが霊前の供物になってしまった。私が先生に初めて会ったのは、39才のときである。その3年ほど前にノンフィクションライターになりたいと思っていた私は大宅壮一のマスコミ塾というものに入り、大宅先生以下そうそうたる門人たちから、いろいろなプロの教えというか奥の手を受けて愕然とした思いを毎回の講義でしていたのだが、これがとうとう私の人生を変えるほどの内的な圧力に高まっきた。とにかく毎回の講義がおもしろくてたまらない。こんな教育があったのかと思った。学校で十何年も受けてきた教育にこんな興奮を感じたこと一度もない。それは既成の知識を教えるだけのものでしかなかったことがわかった。この世にあるのは、だいたいそんなことで塗りつぶされているのだが、もうひとつ違う世界があったのだ。大宅塾で受けたのは、物書きになりたいなら、こうしろ、ああしろ、こう書け、つまらない書き方はやめろ、物書きは要するに出版社に作品という商品を売りつけつけるのであるから、いくらまじめな内容でも売れない内容ではダメだ。まず編集者の目を引き、読者に受けるような内容と表現に徹底せよ、というではないか。いってみれば浅ましいほどの才覚と工夫が要るというのだ。先輩たちはみなそうしてきたのだ、と門人たちふつうなら言わない奥の手を話した。私は実際に世に出てみすぎする生き方は本来こんなものだということを教えてもらった。こういう教えってプロ筋の家庭で家伝を後継者に伝授するときにするのだろうが、普通は教える人がいないから教えない。逆にそんなことを教えたら文部省の規格に合わないから教えない。こういうのは一言で何かというと「方法論」なのである。何かをする場倍に最もいい方法な何かとか、成功するために効率いいやり方だとか奥の手みたいなものである。とことが、こんな方法論はどこでも教えるところがない。自分で人から盗んで身につける以外にない。私は大宅塾で、ノンフィクションライターになるのもいいが、こういう方法論を教える学校を作りたいものだと強く考えるようになった。それから2年ほどたち、大宅壮一先生は亡くなった。その頃、私は書店に平積みしてあった「知的生産の技術」(岩波新書)を発見した。何か長年求めていたものがそこにあったようなすごい興奮を覚えた。すぐ買って帰り、貴重なものを見るようにそれを読んた。
2010/08/04
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