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ゴンを踏みつけるハゲシマ 暖かいを通り越して暑くなった。とりあえず、ゴンのカゴ横以外の保温器を撤去する。・・・その作業中、ゴンが落ちたので、拾い上げてテーブルの上に置く。ウチの文鳥は墜落で骨折したことが無いから不思議だ。 日中水浴びもし、体調が良いらしいゴンは、他の文鳥をけん制しつつカナリアシードをむさぼり食べていた。途中、独占されてしゃくに障ったらしいシマに踏んづけられていたが(通常交尾するために襲うものだが、この場合踏んづけてそのまま逃走する)、それ程ダメージも無く、翼は垂れているものの悠然としていた。 まだまだ頑張ってくれるものと期待したい。
2008年04月30日
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つぼ巣検査中のシン 暖かくなったおかげか、心配したゴンの体調は元に戻ったようだ。 明日はさらに暖かくなるらしい。暖かくなれば水浴びの回数が増え、当然のように底に敷いた新聞紙がグチャグチャになる。それを避けるために犬猫用のおしっこシーツを半分に切って新聞紙の下に敷いてあるのだが、それでも追いつかなくなる可能性が高い。そこで、明日からは底に何も敷かずに、毎日カゴのトレーを洗うことにしようと思う。 さて、暖かくなるなら我が家ではつぼ巣にしなければならず、NPF社製に慣れさせているのだが、今日中サイズから大サイズに変えたところ、なかなか評判が良かった(特にシンとミナ)。人間の感覚だとチクチクして痛いのではないかと思えてしまうが、そういった不都合は無いようだ。 とりあえず、NPF大サイズとマルカン大サイズを用意し、それぞれの様子を加味して設置することにしよう。・・・まず、念のため日光干しだ。
2008年04月29日
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題とも内容とも無関係なシマミサイル とても微妙な変化だが、ゴンの容態が芳しくない方向に一歩進んだような気がする。 前日とどこが違うかと言えば大した違いはない。いつもどおり、皿巣の上でこちらに背を向けてたたずんでいる。しかし、仔細に見ると、クチバシを鳥カゴの格子に差し込んで、うつらうつらと目を閉じている姿は、ゴンでは初めて見るものだ。この様子は、私には実に芳しくないもののように映るのだ。 ただ、今日も放鳥時間に出入り口までやって来たし、食欲も旺盛だ。たんに格子を枕と言うか支えとして使う生活の知恵を身につけただけかもしれない。少し注意したいところだ(注意しても何も出来ないのだが)。
2008年04月28日
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鑑定中のヤッチと見守るサイ そろそろ箱巣をつぼ巣に切り替えなければならない。つぼ巣は、カワイ社の中サイズを常用していたが(つぼ巣の実物は『文鳥屋』の写真で比較して頂きたい)、仕様が糸を使わない形式に変更になり、しかも腹立たしいことに長らくメーカー欠品中だ。そこで、何を使用するか悩ましい問題となっている。 マルカン社の大サイズは、我が家の鳥カゴには少しばかりかさ張る。黒瀬ペットフード社の古式ゆかしいつぼ巣も1羽には大きい。ペッズイシバシ社のものは2羽には小さい。NPF社はどうか、ごわついた手触りのそれは、最近入手したので我が家の文鳥たちは未見だ。すでに開封し、日光干ししたものをお披露目して、文鳥たちの評判を確かめることにした。 生物種として過敏であることを運命付けられている文鳥に対し、見慣れぬ初物をすぐさま鳥カゴに設置するのは早計だ。人間は納得出来ていても、文鳥には見慣れぬものが突然出現するのだから、怖がらないほうがおかしい。しかし、その様子からすぐに諦めるのも早計で、しばらく見慣れさせておけば普通問題は起きない。 放鳥部屋に設置。・・・さほど違和感はないらしい。入れ代わり立ち代り上に乗り、、ごわごわツンツンと飛び出ているワラをかじったりして様子を確かめている。ただ、中に入ろうとはなかなかしない。結局、最初に侵入を試みたのは、つぼ巣クラッシャーで、おそらくそれが原因で体調を崩した過去のあるヤッチだった(古いつぼ巣を壊しに壊していた。古いので雑菌が入ってしまったようだ)。入り口に脚を置き、首を伸ばして中の様子を繰り返し確認していた。彼なりに鑑定しているに相違ない。 不評ではなさそうだが、もう2、3日様子を見て、このNPFか黒瀬ペットのいずれかにしようと思う(カンのカゴはマルカンのほうが良いかもしれない)。
2008年04月27日
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なぜチベットの人たちや、それを支持する人たちが、政治とは無関係という建て前のオリンピックを契機として、「フリーチベット」などと場違いに訴えるのでしょうか? とりあえず、「オリンピックに政治のゴタゴタを持ち込んで欲しくない」とか、「聖火リレーは楽しくにこやかに行いたい」などと、何も知らない他人事として綺麗事を並べる前に、チベットの歴史的事実と現実を踏まえたいところです。 まず、チベットは歴史文化的に大昔から漢民族の支配領域とは違っていました。そもそも同じであれば、西遊記の玄奘三蔵はあれほど苦労するはずがないのです。漢民族にとってチベット民族の居住する西域が広大な異界という共通認識があったからこそ、あのような大衆文学が生まれたと言えるでしょう。 あまり古い話をしても仕方がないですが、とりあえずダライ=ラマを祭政の指導者として現在に続くチベット政府(ガンデンポタン)にしても、17世紀にポタラ宮が整備された頃には成立していました。それだけでも300年以上の歴史があるわけです。一方、当時漢民族の居住する中国は、満州族(女真族)による征服王朝である清帝国の支配下にありました。この清帝国は強大で、チベットもまたそれに帰属する、悪く言えば隷属する状態になります。しかし、ダライ=ラマもその政府も存続し、宗主国である清帝国は属国の宗教に介入などしないので、大幅な自治が認められる状態であったと見なすことが出来ます。 その後20世紀に清帝国が弱体化し滅亡すると、中国の内戦状態の混乱の中で長くチベットの位置づけはあいまいなものになりました。チベットは独立国家として国際的に承認されなかったものの、実質的に独立国家として存在する状態になっていたのです。ところが、欧米列強の侵略、軍閥の割拠、国民党の台頭、中国共産党の出現、満州国の建国、日本による侵略、国共(国民党・共産党)の内戦といった混迷から、1949年中国共産党による統一が実現すると(中華人民共和国)、「チベットは中国の一部」の実現に向けた動きが一気に現実化します。1950年には早速人民解放軍が軍事的に制圧し(チベット侵攻)、翌51年には中国側の圧倒的軍事力の元でチベット政府を中国の一地方政府として位置づけられたのです。 中華人民共和国の指導者であった毛沢東の掲げる共産主義は、基本的には宗教を否定するものですから、「民主改革」「社会主義改造」の名のもとで、チベット仏教を生活の中心におくチベットの伝統文化との軋轢は避けられませんでした。そして、チベット人たちの不満が募った結果として、1959年中国勢力の一掃のために東部のチベット人たちが武装蜂起し(チベット動乱)、結果、動乱はチベット政府が地方政府として自治を行う西部地域に波及、人民解放軍(中国軍)の圧力にダライ=ラマはじめチベット政府はポタラ宮を脱出し、ヒマラヤを越えてインドに亡命政府をつくって今日に至っています。 ダライ=ラマは政治権力のみではなく、生き仏と位置づけられる宗教的存在で、チベット仏教の信者にとっては最も重要な崇拝対象です。それは、彼がポタラ宮を追われてからも続き、普通の信者ならその肖像を掲げるのは当然と言えます。 ところが中国政府はこれを認めず、チベット仏教ではダライ=ラマに次ぐ存在であるパンチェン=ラマの後継者選定に介入し※、その存在を利用しつつ、ダライ=ラマを信仰する人々を、チベット仏教の中でも異端な「ダライ集団」として迫害しているのが現状です。※ チベット仏教においては、死んだ人間は再び別人として生まれ変わる転生が信じられており、ダライ=ラマやパンチェン=ラマの地位も、自身の生まれ変わりである子ども(転生霊童)に継承される。 1989年にパンチェン=ラマ10世が亡くなったので、1995年にダライ=ラマ14世のチベット亡命政府は、6歳の少年を転生霊童と認めて公表した。ところがその3日後には、転生霊童とその両親を中国当局が連れ去り(中国政府は「保護」としているが、現在までその所在も安否も明らかでない)、別の少年を転生霊童として国家的に認定した。 なお、俗物的にもこの転生による地位の継承は合理的だと、個人的には考えている。なぜなら血縁による世襲制では、先天的に問題のある人物が権力を握る恐れがあり、また、前任者の指名で決める場合は、前任者の恣意が働き客観的に問題が生じる恐れがある。転生霊童を後継とするなら、そういった問題は生じない。両親が善良で有能そうな子どもを選んで、静かな環境で正しく育てれば、暴君の出現はまずあり得ないのである(伝統的価値観がその集団の共通認識とされていなければ継続は困難)。 チベット仏教徒でなければ、ダライ=ラマを生き仏として敬う必要はありません。また、祭政一致という制度については疑義もあるところです。しかし、それがチベット民族の文化であれば、他民族はそれを尊重し、変革が必要なら彼ら自身で行わせるのが、民族自決の原則だと信じます。 しかしながら、現在までの中華人民共和国の行動は、チベット人たちの個々の信教の自由を認めず、文化を破壊し、チベット民族を政治的に分断するものと見なされてもやむを得ないところではないでしょうか。 このように個人の信仰にまで露骨に介入する国家権力の圧力に対し(今回の暴動でどのような鎮圧行動があったかは分からないが、外国メディアを完全に排除して実態を隠した、中国当局の考え方は露骨に分かった)、「フリーチベット」を叫ぶ人々に同情するのは、自由民主主義を前提とする国の人間としては当然でしょう。まして、多少とも問題の背景を知っているなら、にたにた笑って聖火リレーを見送ることも、ましてそれを掲げてハイタッチしようなどと、年を取るほどにどうかしてきているのかも知れないコメディアン以外には考えることも難しいものと思います。平和だとか、人権だとか、人々の幸福を祈るなら、まずはチベット人たちについてのそれを考えるべきで、そうした現実的な思いやりを掛けられるわずかばかりの知性があるなら、加害者側と見なされうる国家が、その国家の威信を掛けて開催するスポーツ大会に対して(中国当局は、客観的な他国のメディアを締め出した時点で、正当性を疑われる立場に自らを追い込んでしまった)、自由民主主義を基本とする社会の一員としては、人権的に疑義のある国家の行為を認めない姿勢を示すため、笑ったり手を振るなどせず、義務的に黙って聖火リレーするしかなかったと、私は思います。 オリンピックを開催することにより、中国がより良い方向に向かって欲しいと言うのが、観音菩薩の化身であられるそうなダライ=ラマ14世猊下のお考えのようで、個人的にもそうあってもらいたいと思っています。 今現在、人権意識の強い欧米にしても、昔は帝国主義に基づき、未開の人種を保護だとか教化するとして(人間未満なので動物並みに保護対象とした。彼らは人類進化において白色人種を最終型とし、有色人種を下位の存在と見なすのを科学的と思い込んでいた)、植民地獲得競争に明け暮れましたし、日本もその後塵を拝しつつ、当の中国を政治的に分断し領域的に蚕食しました。あのアメリカ合衆国にしても、強圧と欺瞞で先住民族のインディアンの居住地を奪い、その宗教的聖地を汚した過去を背負っています。その点日本も、北海道のアイヌたちに対し、やはり保護の美名のもとに、その文化の多くを葬り去りました。 悠久の歴史を持つ現在の中国の特に漢民族の人たちが、「昔欧米も~」とか「昔日本も~」などと主張したくなるのも道理ですが、「人のふり見て我がふりなおせ」と言われるように、せっかく悪しき前例を承知しているのなら、それを踏襲する必要はないと思います。 オリンピックを機会に、開かれた中国、文化思想的にも将来世界をリードし得る姿を、全世界に是非アピールして欲しいところです。
2008年04月27日
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禿げないモレ モレは、禿げシマの妻で、禿げハルの母だが、自身は禿げない。産卵し抱卵も熱心だが孵化させられず(孵化直前だった卵が蒸発したことがある・・・)、息子のハルも卵段階から養父母に育てられたのだった。 文鳥にも人間にも微妙に距離を置く性格だが、シマと同居させる時も文句を言わず、今でも仲良さそうに時計の上などに2羽でいるし、気づくと二の腕にへばりついたりしている。何を考えているのか謎の多い文鳥だ。 最近抱卵に専念しているようだったが、昨日珍しくへばりついてきたので、爪が長いのを発見してしまった。捕獲して切る。爪が一本少ないので少し楽だ。 昨日はその後人間に近づかなかったが、今日は機嫌を直してくれたようだ。カメラを向ければポーズをとってくれる。フンまみれの電気ポットの上でなければ、より美しいのだろうが・・・。
2008年04月26日
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綺麗なハゲのオッキ ハゲにも上品なものがあるらしく、オッキのハゲは写真では良く分からないが生え際が美しい。これは元に戻らなくても良い気がするのだが、戻っても、夫のゲンとの羽毛繕いの応酬でまた同じようになると思われるので、とりあえず、さっさと換羽して欲しいところだ。【余談】 文鳥墓苑に植える花木や草花を用意するうちに、本人の嗜好とは別に何となく詳しくなってきている。 とにかく、現在は花木の『テンノウメ』が開花間近、『シロナンテン』は若葉がうっとうしい状態だ。草花は『サフィニアホワイトミニミニ』と言うサントリーが作ったベチュニアを植えてみたが、まだ開花する様子は無い。 昨年草花として墓苑に植え、大変に気に入った『アレナリアモンタナ』は、暑さに弱いので、夏に日陰に避難できるように別のプランターで栽培している。『アレナリアモンタナ』の変種『かぐや姫』ともども、今開花の季節を迎え、花など愛でる精神性の持ち合わせのない人間にも、大いなる満足を与えてくれている。 また、昨年別のプランターに植えた『ナデシコ』は実にあつかましく冬中も咲き続け、今はさらに力を増して伸び、一緒に植え開花中の『キンギョソウ』を圧倒してどんどんと咲いている。ヤマトナデシコとは違うのだろうが・・・、実にたくましい。 さて、文鳥墓苑の草花は何が良いのか、今のサフィニアはアレナリアモンタナとは逆に冬枯れするらしい。実にあつかましく咲き続けてくれるナデシコは花の形はいまいちだが、それ以上に丈が大きくなりすぎるのが難だ。丈が低く、枯れず、白い小さな花を咲かせる、これが望みなのだが・・・。 今日良さそうな草花をホームセンターで見つけた。『オリビア ピュアレホワイト』という矮性のナデシコだ。買ってきて調べてみたら、今年から販売されるようになった新種らしい↓。重イオンビーム・・・、実に人工的だが、とにかく厚かましく根を張って欲しいものだ。http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2008/080416/index.html文鳥墓苑の周辺矮性ナデシコ オリビア ピュアレホワイト
2008年04月25日
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死刑廃止論を唱える人の中に、法律で復讐(仇討ち)を認めて良いのかと真顔で主張する人が、驚くほどたくさんいます。昨今では青山学院大学で教鞭をとってるという某女史が、山口県光市の18歳だった男に対する死刑判決に対して、「国は復讐代行業になった感じ」とブログで否定的なご見解を示された(書きなぐった)ようですが、個人の復讐を代行しない国家などあり得るでしょうか? この女史のような人々は、例えば古代のハンムラビ法典のような復讐法を、野蛮なものに感じているように思われますが、それはあまりにも単純な誤解です。確かに、国家による刑罰とは、被害者もしくは被害者の関係者個人による応報(私刑・リンチ)を否定するものには相違ありません。しかし、それは「私」の代わりに仇を討つという役割を国家が担うという暗黙の大前提があって初めて成り立ちうるものです。犯罪行為を犯したものを、個人的に裁けず、国家なり集団も裁いてくれなければ、世の中は無理が通れば道理が引っ込む弱肉強食の修羅世界になってしまいます。国家なるものが、公正な法律に基づいて加害者に制裁を加えてくれる、つまりは代理に復讐なり仇討ちをしてくれるからこそ、私刑の連鎖を抑えることが出来るのです。 ハンムラビ法典の「目には目を、歯に歯を」という有名なフレーズを聞けば、現代の文化人は何と野蛮な古代の遺物といった印象を持つかもしれません。しかし、本来は、目を失明させられたからと言って、その加害者の生命を奪うような過剰な復讐を禁じたのが、この法律の主旨です。つまり、与えた被害に見合った制裁を加える、いわば罪刑の均衡を目指した条文であって、これは現代の刑法にも通じるはなはだ公正で合理的な内容なのです。現在は、復讐の実行を国家の法律に任せ、量刑という名で復讐方法を客観的に細かく裏付ける法体系をもつ罪刑法定主義が採用されていますが、これは基本的にハンムラビ法典と同一線上の存在と見なすべきで、むしろ私刑を禁じた今の方が、国家権力は強大で復讐に果たす役割は絶対的なものとなっていると見なすべきです。 青学で学問を教えている極めて優秀なはずの人物でも、義務教育もまともに受けていないような人物でも、法律にしろその背負っている歴史について無頓着な人は多いでしょう。何しろそのようなものは知らなくとも、現在の民主主義で法治国家の日本で生活するのに支障は無いからです。しかし、少し新聞を読むなりニュースを聞くだけでも、現在の裁判官が述べる判決の際に、遺族感情について言及するくだりがあることくらいは知ることが出来るはずです。その遺族感情云々は、裁判官が遺族に対してリップサービスをしているわけではなく、国家による罪科が遺族の代理行為である側面を有していることを、明確に示しているものだという事くらいは、近く裁判員制度など実施しようとしている国の一員として理解していて損はないと思います。 肉親や自分が愛した人を奪われた遺族が、その報復を求めるのは当たり前で、これは自己防衛に近い自然な感情だと私は思います。自分が愛する人なら自己と密接不可分な存在のはずで、その自分の一部に対する攻撃を自身への攻撃として認識するのは、極めて人間として当然な感情でしょう。 しかし、犯人の命を奪ったところで被害者は生き返ってくれませんから、遺族の誰もが加害者の死刑を望むとは限りません。私個人は、人を殺すような償い得ない罪を起こせば、遺族がどのように考えようと、加害者自身が人間としての尊厳を守るのであれば、とりあえず死んでわびる(わびようがないので死ぬ)しかないと考えますが、無理にでも生かして反省の日々を送らせるべきとの考え方もあるように思います。何しろ、腹を切って死なず、出家遁世して人里離れた山の中で、死ぬまで読経三昧で過ごすのも、責任の取り方として厳しいもののはずだからです。 凶悪な犯罪者であれ、生きている者の命を奪うのは気分の良いものではないですし、自殺などそれが何であれ自分の責務からの逃避と見なすことも出来るわけで、そのような行為は許されないとする宗教もあるでしょうし、その考え方も納得できるものです。つまり、もし愛する人を奪った凶悪犯人に対してすら、死刑を望まない人も多いはずです。しかし、そうした死刑を望まない人々であっても、その犯人が、数年して社会に戻り、また犯罪を起こすことは望まないでしょうし、過去の自分の行為を忘れて、生まれ変わって幸福な一生を送ろうとすることまで許せるでしょうか?おそらく大多数は、死刑にならなかった加害者に、彼が墓場に入るまで己の罪を背負って生きて欲しいと思うのではないでしょうか。具体的には、山奥で修行し続けるか、刑務所の中で生涯を過ごすことをです。 ところが、今の日本の法体系では、死刑の次に重い罪は無期懲役で、実際には10年も経てば出所してしまい、それで罪をあがなったことになってしまいます。これでは、大多数の被害者遺族は納得がいかないでしょう。 死刑に反対するのは一つの考え方ですが、それには終身刑を用意し、遺族感情が死刑ではなく終身刑を望むような社会的合意を醸成する必要があります。そうでなければ、法が裁かないのなら私刑を下すといったことが生じ、法治国家の根本が揺らいでしまうでしょう。理念的な死刑廃止など叫ぶ暇があるなら、まずは終身刑の導入を求めたいところです。それは、受刑者の増加による経費や施設(刑務所)の問題などをどのように克服できるか、より具体的な現実的議論を必要とするでしょうが、結局は死刑廃止に通じる一歩になるのです。死刑廃止論者には、言葉遊びではなく、現実を見つめて欲しいところです。
2008年04月25日
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上下ハゲのハル ハルの場合は毎年しっかり換羽をしているのだが、今年は無残な姿になっている。原因は、病気の妻カンが、ヒマなのかイラつくのか何なのか分からないが、相当執拗に夫の羽毛繕いをしたことにありそうだ。 羽毛というものは、抜けてしまえば新しい羽がすぐに生えてくるが、「毛根」が残っていると、如何に涼しげな姿となっても新しい羽は生えないようなのだ。これはどの部位でも同じで、翼の羽も抜いてしまえばすぐ新しいのが生えてくるが、途中から切断してしまうと次の換羽までそのままになる。たまに悪質というか、認識の低いペットショップで、ヒナの翼の羽(風切り羽)を乱暴に切ってしまうことがあり、健全な成長を願う飼い主なら、さっさと切られた羽を根元から抜いてしまうべきだと思うが、これを怖がる人は多い。慣れれば簡単なのだが(爪切りなどより簡単)、やる前から腰が引けてしまうのだろう。枝毛のある自分の髪の毛は抜くにもかかわらず・・・。 ハルといえば、 「ジャニーズ系」の姿の良い文鳥だったのだが、早く元の姿を取り戻して欲しいところだ。
2008年04月24日
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禿げシマさん シマも伊豆の三島まで真夏に遠征して、姿が良いので買ってきた文鳥だったが、換羽を十分にせずに禿げちょろけ、昨秋少し回復したものの、再び外見上まったく不都合な状態となっている。今年は、元の姿に完全に戻って欲しいところだ。 このように挙げていくと、我が家の文鳥は禿げばかりのようだが、半分に満たないので多いとは言えない。禿げる理由も実は様々なようで、ゲン・オッキ・ハルは妻なり夫に羽繕いされた結果と見なせる。一方、ミナ、クラ、シマは彼らの繁殖期状態が続き、換羽が正常に行われなかった結果のように思われる。 前者は仲良くするなとは言えないので不可避だが、問題は後者で、これはなかなか悩ましいところだ。やはりこうした場合は、一時的に巣を取り上げるなどの処置をした方が良かったかもしれない。むしろ活発で元気なので、判断というか割りきりが難しい。
2008年04月23日
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尾羽が一本生えてきているミナ 換羽中で尾羽が短かったり無かったりする文鳥を、個人的に「シッポナ」と呼ぶようになったのは、ずいぶん昔からのことだ。尻尾が無いという意味だが、私より少し上の世代は『ひみつのアッコちゃん』に出てきた猫の名前を連想するらしい(私にこのアニメの記憶はほとんど無い。残念なことに納豆屋は存在しなくなっていた)。では、「オッポナ」と呼ぼうと最近考えている。 そのオッポナ状態が長く続くミナ。尾羽を平面に擦り付けておそろしく動き回るので、使い古したほうきのように尾羽がボロボロで短くなってしまうのだが、数ヶ月ぶりに新しい尾羽が出てきているのに今日気がついた。このまま、順調に換羽して欲しいところだ。 さて、今日は珍しくゴンが外に出てきた。ハルが警戒音で鳴き続けるので妙だと思ったら、床に落ちていたのだ。逃げるのを追いつめて捕まえ、テーブルの上に置く。最近水浴びをしているため、ボロボロではあるがフンなどは付いていない。実に結構なことだ。 明日からは念のため、落下地点にクッションを置かせていただこう。換羽中でも調子は良いらしいゴンナ様
2008年04月22日
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今日も出入り口でたたずむゴン ゴンが皿巣やつぼ巣を利用しやすいように、よりバリアフリー化を徹底させ、また暖かい季節であっても夜間や明け方の涼しさに対応出来るように、新しいカゴと言うかケージを準備した。 前面と背面と上面がプラスチックパネルになっているSANKO社のケージをベースに、止まり木の上に底網(GB社325用)を乗せるることで底上げし、底網の一部は必要に応じて切断、皿巣やつぼ巣が入り込めるようにしてある。これにより、ほとんど段差はない環境が実現出来た。 しかしながら、当分このケージを導入することは出来そうもない。なぜなら、今日ゴンは、何と珍しいことに、外掛け式水浴び器に入ったのだ。このバリアフリーケージでは、外掛け式の水浴び容器は設置できない(サイドなら可能だが、隣カゴが存在する我が家では不可能になる)。また、最近、放鳥時に出入り口までお出ましになっているので、形状を大幅に変えてその楽しみを奪わない方が良い気がするのだ。つまり、今は新しいケージに取り替えない方が良いという結論になる せっかく作ったのだが、とりあえずどこかにしまっておこう。
2008年04月21日
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変わり果てたクラ クラはビジュアル重視のセーヤのために、足を棒にして捜し求めた婿鳥だった。鎌倉で彼を見つけた時は、その容姿に惚れ込み、ペアで売っていたのを割高で購入したのであった。 それが今や見る影も無い。年下の妻(ミナ)の繁殖行動につき合わされた彼は、昨春十分な換羽をせず、また、妻の羽づくろい攻撃にさらされ、顔の半分が禿げちょろけてしまった。文鳥ペアは人間の漫才コンビと同じく、立ち位置が大体決まっているので、羽づくろいは半面に限定され、結果こういったことになってしまいがちのようなのだ。 昔の姿に少しは戻って欲しい。
2008年04月20日
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麻呂眉のミナ 今年は今のところ激しい換羽は見られないが、じわじわと始まっている。例えばキューは、何となくおとなしくなり、尻尾の羽が生え変わってきている。他にも、メイは完全に換羽モードとなり、シンと浮気することが無くなった。そのシンと女房のマルも換羽し始めている気配だ。 一方、もっとも換羽が望まれる麻呂眉でモヒカンで尻尾が無くてすすけている白文鳥ミナは、まだ始まらないようだ。・・・しかし、換羽して美しくなっても、すぐに尾羽を擦り切らせてしまうのだろう。
2008年04月19日
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新しい鈴を観察するアト 飼い主には特にこだわりは無いが、鈴にこだわる文鳥はいる。今では信じられないが、あのゴンは、若い頃自分のカゴのブランコに鈴が無いの気に入らず、毎晩他の文鳥のカゴに入って鈴を鳴らし続けたものだ。 今は鈴マニアと言えばアトだろう。ただ一羽ヒナ換羽を完全に終え、外見上幼い2羽の先輩とはやはりあまり親しまない彼は、毎晩鈴を狂ったように鳴らす。鈴とケンカするのが趣味と言ってもよいだろう。そんな彼のため、壊れたベルを高級そうな鈴に取り替えてやった。まだ用心していたが、すぐに鳴らしまくることだろう。 さて鈴。先日ブランコの鈴の話題があった際、浅草橋に鈴の専門店なるものがあることを知ってしまった↓。 http://www.suzu-minami.co.jp/ カウベルの小さいのはどういった音がするのか、どうにも興味があり、文鳥のお遊びグッズとして店で扱う事も無いではないことにして、下調べに買出しに行った。 お店はやたらと小さかったが、場所はすぐに分かった。確かに鈴ばかり売っている。お店の人は、鈴を物色するおじさんをどのように考えたかは知らないが、世の中は成り行きで必要上意外な行動をとることになるから不思議と言うものであろう。そして、↓のようなものを買って、ただそれだけのことをして、さっさと地下鉄の駅に戻ったのであった。 福鈴、宝来鈴2つ、カウベル、ベル、?、犬型、どんぐり型・・・(すずらん型を撮り忘れた)。以前手芸店で通販で購入した時は、福鈴を探して果たせず、宝来鈴で妥協したものだったが、探せばいろいろあるものと、感心したのであった。 お店には親切に丸カン(アクセサリーなどの接続に使う金属製の小さな輪)が売っていたので、径6mmのものを使い、ブランコに取り付けたら↓のようになった。いろいろ好みでアレンジするのも楽しそうだ(あまり有害物に神経質にならなければ。最もメッキなり塗装を削って食べるようなことは無いはずなので、通常の感覚では安全と考える)
2008年04月18日
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ティッシュの詰まった現場をのぞき見する小僧たち 繁殖期も終わろうとしており、キューも巣材集めに血眼になるわけでもなくなったが、それでも探さねばいけない気持ちは残っているようで、ゴミ箱あさりをしようとする。 せっかくなので、一枚のティッシュを裂いてやると、こんな薄く細い物では気乗りしない、と「言う」ので、残りの半分を丸めて放ってやった。すると、しばし考えた後カゴへ持ち帰ったのだが、すでに満杯の箱巣にしっかり織り込む気力は無いらしく、適当に入り口付近にねじ込んで、そ知らぬ顔でまた出てきてしまった。 キューのファンであり弟子であり付き鳥であるポン・テン・アトは、この入り口のふさがった箱巣に興味を示していたが、出入りの障害になるので、結局撤去してやらねばならなかった。・・・そろそろつぼ巣への切り替えを考えよう。
2008年04月17日
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開閉口にたたずむゴンナ様 最近ゴンは、皿巣の上の奥の隅に止まり、こちらに背を向ける姿勢でいる時間が長い。岩窟にこもる修行者か、世をすねてすべてに背を向けているようだが、好き好きなので放っておくしかない。 今夜は、どうしたことか開閉口に止まってこちらをうかがっているではないか!また落下して騒動になるのを危惧しつつも、お迎えに参上し手を差し伸べると、くるっと向きを変えて皿巣へとヨレヨレバタバタと飛びのいた。・・・実に感じの悪い年寄りだ。
2008年04月16日
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妻(マル)の前で浮気をする文鳥(シン)の図 人間社会においては、社会的立場が性差以上に重要だと思っている。例えば、タクシーの運転手が男でも女でも関係ない。何しろ、彼なり彼女は「運転手」以外の何物でもないので、そういった社会的立場で人を見ている限り、その人が男でも女でもどうでも良い。 頭の悪い教師と生徒が恋愛関係になるというお話は、ずいぶん昔から存在するものだが、それぞれ教師と生徒という社会身分である以上、性差に基づく恋愛など本来あり得るはずはないものである。恋愛は自由ではない。教師はオスであれメスであれ教師と呼ばれる社会的存在であり、生徒もオスであれメスであれ生徒と呼ばれる社会的存在以外の何者でもない。 ただ、生き物として見た時、性差による違いは厳然として存在すると認識している。これはやむを得ない。平均レベルの男以上の身体能力を有する女は多いに決まっているが、常人をはるかに超えたレベル、例えばスポーツの記録において、女性の世界記録が男性のそれを超越することは、まずあり得ないのである。 さて、文鳥には社会的な立場というものがない。となれば、人間よりも自由といえる側面もある。オスの浮気だ。これはまったく平然と、妻の前でも臆面なく他のメスに求愛する。 さらに性質の悪いことには、逆に妻が浮気しようものなら、多くは妻が散々に折檻されてしまうのである。何と言う亭主関白ぶりであろうか! しかし、これは生き物としては普通の態度だ。何しろメスは、浮気相手の子どもであろうと、産んだ子は自分の遺伝子も引き継ぐ存在に違いない。一方、オスにとっては「赤の他ニン」となってしまうので、断じて妻の浮気は許せないのだ。 このように見ると、不義密通の妻を何人も妾を抱えた夫が殺害して良いという、大昔の制度などは、物を知らずに「じぇんだふりー!」などとわめいている他愛ない人たちが信じるような、男尊女卑の表れではなく、たんに生物としてのオス側の立場の弱さを示しているように思われる。 それにしてもシンの奴は、妻がもてないのでやきもちを焼くこともなく、浮気し放題。実にお気楽な立場ではないか!
2008年04月15日
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おとなの家を冷やかして帰って来るテン・ポン 我が家では、プラスチック製の安いブランコをカゴに常設しているが、昔から鈴の付いた物を優先的に買っていた。ところが4、5年前から鈴の付いた物を見かけなくなり、鈴を別に買ってきて鈴なしの物に取り付けるようになった。鈴にこだわる文鳥がいるからだが、その細かな取り付け作業をしつつ、なぜメーカー(コバヤシさん)は鈴付きを止めてしまったのかと密かに恨めしく思っていたのだった。 それで、商品として売る立場になった時、迷惑になると気が引けながらも、鈴付きはないのかとメーカーに直接電話で尋ねたのは、個人的には必然の行為であった。お答えは、鈴を付ける職人さんが亡くなって製造中止になったものの、在庫は少々あるといったものだった。当然ながら仕入れたのだが、実物を見れば、それは我が家が使用していたのより一回り大きな鈴であった。 おかしいな、と少し思ったが、そちらの鈴の方が立派でもあるので、仕様変更があったのだろうと気にも止めずにいた。それが、今日になって真相が判明した。たんに違うメーカーだったのだ。私が使用する機会の多かった鈴付きブランコは、細野製作所という会社が製造したものだった! なぜ気づかない?と思われるかもしれないが、何しろ誤差は微少で、並べてよくよくよくよく見比べないと分からない。・・・確かに、微妙に鈴の取り付け部の形状が違う。カゴへの止め具となる針金の太さが違う。全体の形や大きさや厚みも、ミクロから最大2ミリ程度違う。・・・↓の写真で分かるだろうか?分かるまい。・・・実に個人的には奥深い話だ。
2008年04月14日
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レジ袋に挑むキューとカナ あるいは風車に突進するドン=キホーテのごとく、カナは今日も昼間レジ袋と格闘していた。 何しろガシャガシャやかましいので、飼い主として薦めているわけではない。しかし、部屋の隅にたまたま置き忘れたレジ袋を、恐ろしいまでの目ざとさで見つけて引っ張りだしてしまうのだ。 カナが始めると、キューが追随する。血縁関係などまるでない両者だが、やたらと性格は似ていて、果てしなくガシャガシャと続ける。 ・・・やはりレジ袋は廃止し、マイバッグを持つべきだと思った。
2008年04月13日
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キューの紙くず御殿 今日は卵の査察を実施する。サイ以外は大量に産んでいなかった。 それにしても、キューと言えば巣作りの名匠で、イグサを巣材として編んだそれは、芸術品のように思えたものだが、今や紙くず箱同然に変わり果ててしまった。 来シーズンはどうなるのだろうか。予想がつかない。【蛇足-お店探訪記-】 何年ぶりかに、横浜のサカタのタネガーデンセンター↓に行ったので、その様子などを記しておきたい。 http://www.sakataseed.co.jp/gardencenter/yokohama.html 何が目的かと言えば、アレナリアモンタナという花の変種である「かぐや姫」の苗を探しに行ったのだ。プランターにモンタナ・「かぐや姫」・モンタナと並べて植える予定だったのだが、「かぐや姫」がなかなか売り出されず、通販でそれだけを買うのもどうかと思い、2週間ほど実店舗を探していたのだ。 結局、アレナリアの苗は見つからずがっかりしたのだが(通販で注文した)、併設されているペットショップには文鳥が多くいて、久しぶりに大いに満足であった。販売中!単品3.5号【アレナリア】かぐや姫 このお店は、数年前まで大昔の鳥獣屋然としていて、ほめられた環境ではなかったのだが、いつの間にか近代的に清潔になっていた。それでも、個々のケージ内の環境が十分かと問われれば疑問符が残るものの、以前に比べれば格段の進歩なのは一目瞭然であった。しかも、文鳥がクリームまでいるのである。 陳列されていたのは、白・桜・シナモン・シルバー、そして「イノ」の成鳥。この「イノ」はが薄く目が赤く、シルバーイノのように見えたが、基がシナモンでないとも言い切れず、よくわからない。それぞれ、オス・メスの価格が明示されていて(ペアだと割安)、性別で分けているようにも思えないのだが、羽数の割には手狭なケージ2台に、種々雑多な状態で放り込まれていた。彼らが、根っこ付きの小松菜を争いむさぼる姿は、「生存競争」の四文字を想起させ、ワイルドであった。 それと、ペアでの販売のみとなるらしい「ライトシルバー」とクリームが一組ずつ、それと、「若」として餌づけヒナの売れ残りと思われる中ヒナの桜が2羽、それぞれ別のケージに入れられていた。なお、詳細な価格は控えたいが、最も高いクリームはペアで3万円台半ば、安い「若」が2000円で、品種の価格としては平均的と思われた(「イノ」がシルバーより安いのは珍しいかもしれない)。 個人的には、雑多に詰め込まれたケージにいた1羽、これも餌づけヒナの売れ残りと推測される桜文鳥が気に入った。我が家のテンのようにヒナ羽毛を残しているが、ケージの前で「ピー・ピピヨン」とヘイスケ流さえずりで挨拶すると、すぐにさえずり返してくれた。・・・オスを探している時なら、迷わず買いなのだが! 手のりヒナとして売られていたのは、白2羽とシルバー2羽のみだった。白たちはケースをのぞくと口を開けてくるし、別のケージにいるシルバーはすでに飛べるまでに育っており、ケージ前面に「文鳥キック」をしてくれた。なかなか愛想が良い。昔は、インコなどのヒナと一緒の透明ケースに放り込まれていたものだが、ずいぶん良い環境になっている。素晴らしい。店員など一顧だにしなかったが、感動した(個人的には白ヒナは暗いところに置いて欲しいが、それでは商売になりにくい・・・)。 店内の巨大なケージ(室外ケージ)には、文鳥はいなかったものの雑多な鳥たちがいて、ふと気がつくと、目の前にジャンボセキセイがまどろんでいた。考えてみれば実物を見たことがなかった。確かに大きい。こういったいろいろ発見のある、なかなか面白いお店になってくれていた。小鳥屋さんの閉店が相次ぐ昨今であれば、実に貴重と言えるかもしれない。有難い。
2008年04月12日
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恋愛関係に発展しそうなオス同士 問題を色々と内在しているものの、平穏な日が続いている。わざわざ平穏を壊すこともなかったのだが、突然目に付いてしまったので、放鳥部屋の「頭上庭園」の横、箱巣などを置いている箇所をを片付けることにした。 ここはもともとが物置場所で、骨格はジャーポットを置く台を裏返したものであり、使わない茶碗とかお盆とか空き箱などが雑然と存在しているのを放置したまま、その上に文鳥のフンよけに板を乗せてごまかしていたのだ。 洗剤のオレンジエックスを散布しつつ、せっかくなのでジャーポット台を正位置に戻し、不必要な物を排除した。すると、板の位置がかなり低くなってしまうので、止む無くプラスチックケースなどでかさ上げする。 結果、人間の目から見るとさほど変わりはないのだが、文鳥たちはやはり機敏に察知し、警戒してあまり近づかなくなった。一週間くらいはこの状態が続くかもしれない。・・・せっかくなのでもう少し改良しようかとも思う。
2008年04月11日
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シマに言い寄るシン 最近、禿げシマに言い寄るシンの姿を、しばしば目撃するようになった。 シマが直立不動で聞き入るのでうれしいのかもしれないが、もしかしたら、ビジュアル的に魅かれているのかもしれない。とりあえずシマがオスである点には目をつぶり、「どのあたりが好みなのかね?」と尋ねてみたいところだ。
2008年04月10日
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貯めフンのシズ 起きて活動している文鳥は、食べてはフンをする。フン製造機と言って良い。もっとも、そのフンは小さく臭いも感じ取れないような代物だが、抱卵や育雛の際は別格になる。巣の中でフンをせずに貯めに貯めたものを、つまり通常なら何回、何十回分ものそれを一度に出すのだ。 シズ。この文鳥は、カゴの外に出て貯めフンをするのが習慣化している。抱卵しているのか怪しい時期でも、なぜか貯めフンはしっかり出してくれる。主に放鳥部屋の上方隅にある太い止まり木でそれを排出するため、落下した際の衝撃音はすさまじく、よってシズが出てきたことがわかるのだった。 貯めフン、巣を汚さないためとか、巣の近くにして巣を発見されないためとか言われているが、ほめて良いものか、実に悩ましい。
2008年04月09日
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付近は洪水に 外の春の嵐は通り過ぎようとしている。家の中、水浴び場の嵐は、断続的に激しい水しぶきをもたらすものの、まだ、最終的に500ミリリットル程度の消費に止まっている。 この容器、本来犬の水飲み器なのだが、見た瞬間に文鳥の水浴び容器になると思う人間がいるのだから、世の中面白いと言うべきだろう。ただ、文鳥たちが使用してくれるまで、かなりの時間を必要とした。ヒナたちにやらせて、おとなたちに見慣れさせるようでないと、なかなか難しいかもしれない。 もともとのボトルでは足りなくなるので、徐々に大きくしている。バランスが悪くなりそうに見えるが、どれほど重くなっても、重さは真下にいくだけなので問題ないようだ。 (自分で仕入れて売るにしてもこの↓価格は無理だろうなあ・・)PETIOディッシュ 給水器付き ブルーPETIOディッシュ 給水器付き ブルー
2008年04月08日
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情夫の様子をうかがう文鳥とオス同士仲の良い文鳥たち このような事を考えるの不吉で不謹慎だと思われるだろうが、文鳥の夫婦ともに健康であってもなくても、一方が亡くなった際に残された方をどのようにするか、その後をいろいろとシミュレーションする習慣が出来ている。したがって、亡くなったのを確認したその瞬間に、ほとんど反射的に次のことも考えているようだ。おかげで、喪失感に浸りきらずに済んでいる面もある。 いろいろ考える中で、メイはポン・テンのいずれかと夫婦にするというシナリオもあるのだが、今のところお互いにまるで意識していない。何しろ我が家では白文鳥が不人気で、メイの方も相手はシンだけだと思い込んでいる様子だ。 まったく白ければ白いほど喜んだオマケが懐かしいが、突然何の脈絡もなく白文鳥が好みになったクラのようなこともあり得るかもしれない。実はその点で、メイの旦那候補として、白文鳥を片親に持つアトに最も期待しているのだが、どういった展開になるのか見ものだ。
2008年04月07日
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特に変わりないマル 昨日に続きマルが巣外に軟卵を産んでいた。夜カゴの底に落ちているのを発見、午後に掃除をしたので産んだのはその後だ。 軟卵というのは、卵殻が形成されない卵のことで、薄い膜に包まれぶよぶよとして柔らかい。柔らかいために、卵管にまとわり付いて排出されにくく、卵づまりを起こし難産になるケースが多い。普通産卵は朝なので、午後まで産めないのは卵づまりであったと見なして良い。つまり、本来なら重大事だ。 ところが不思議なことに、朝昼と苦しそうな様子は一切見られなかったし、夜の放鳥時間もいつもどおりの行動をしている。まるでダメージはなさそうなのだ。 はてな。この顔の大きな文鳥は、規格外なのかもしれないが、とにかくカルシウムなど栄養を強化したものに変えておく。いかに頑健でも、警戒はしたほうが良いだろう。
2008年04月06日
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親父(デコ)を押しのける息子(ポン) ブログというのは日記と言って良いので、記載は夜に集中する。その日のことはその日のうちに書くわけだが、そうなると就寝前のアクセスが増えるのも宿命と言える。 昨晩も、楽天、アクセスの集中で落ちる。「ただ今メンテナンス中」などと表示されると、「違う時間にやれ!」と、かえって怒られるのではあるまいか。 さて、いつものように水浴び場は修羅の巷となっているが、暖かさが暑さに変わっていけば、さらに壮絶な様相を呈すると想像される。現在タンクは1.5リットル。昨年の実績から考えれば、おそらくこれでも足りない。特に必要のないお茶などを飲んで、2リットルのボトルを用意しておこう。
2008年04月05日
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仲の良い男同士のテン・ポン 今日はオカマの日だ。以前その方面の人がテレビで言っていたのだが、恐ろしく説得力があった。3月3日は桃の節句、いわば女の子の日。5月5日は端午の節句で、いちおう男の子の日。となれば、その中間は・・・。 ・・・しかし待てよ、3月3日も5月5日も子どものための日ではないか。ヒゲを厚化粧で隠す方々は大人だろうに。 さて、ポンとテンは男同士だが、実に仲良く同居生活をしている。昔もそういった「兄弟」文鳥がいたなあ。確か、ビビとボンチという名だった。 ただ一緒に育てば、仲良しであり続けるほど単純でないのが文鳥の面白いところで、うまい具合にオスとメスであっても、やたらケンカばかりの関係になることもある。気が合う、合わないがあるのだろう。 ポン・テンは、しばらく気の合う「兄弟」として、仲良く同居してもらおうと思う。
2008年04月04日
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さて、「世も末だ!」と「近頃の若い者は・・・」は、古今東西の人類によって何千年前からの繰りかえされた戯言で、世も末と言われつつ、その近頃の若い者が歴史を進めてきたのが、動かしがたい真実です。 しかし、先の茨城県の事件や、岡山県でホームの前列に並んでいた人を、「誰でも良かった」「刑務所に行きたかった」などととして、突き落として殺すような若者のニュースを聞くと、世も末だし、近頃の若い者は、と思えてしまいます。 岡山の犯人である若者は、家庭の経済事情で大学進学をあきらめ、2、3年仕事をして学費を貯めて進学しようと考え、ハローワークに行き、郵便配達の面接を受けたものの、その収入の少なさに絶望していたとの報道がなされていました。何と殊勝な心がけではないですか!もしこの報道が本当なら、近くに「新聞でも配れば?」と一言アドバイス出来る大人がいなかった不幸を嘆かずにいられません。もし、その一言さえあれば、彼は罪を起こさず、理不尽に殺される人も無く、家族の死で苦しむ人たちも出なかったように思います。 近頃の若い者は・・・、新聞奨学生も知らないとしたら、これは紹介しておかなければならないでしょう。 もちろん、新聞奨学生などやらずに済めばその方が良いでしょうし、もし女の子なら私は薦めません(朝暗いうちに一人でうろうろするのは、安全とは言えないから。ただ、出来ないことではなく、実行された方も多い)。男ならそうした苦労をしても損はないかもしれません。販売店により処遇はいろいろで(給料は規定があり一定のはずだが住環境は一定とは言えない)、中にはとんでもない所もあるかもしれませんが、そうした場合は遠慮なく事務局に訴えて、別の販売所に移れば良いでしょう。とにかくも住む所は用意され、予備校や大学の学費は払ってもらえるし、倹約すれば貯金も出来ます。今なら、夕刊の配達がないという選択肢もありますから、キャンパスライフにさほど支障も出ないはずです(私は浪人時代に一年間体験しただけ)。 ところで、今はどのくらいもらえるのでしょう?※以下首都圏の場合・広告が多く分厚くなる読売新聞(その代わり配達距離は総じて短い) 読売育英奨学会 http://www.yc1.jp/yomisho/ 月給13万5,700円 奨学金年120万円まで免除(他に賞与あり)・広告が多く分厚くなる朝日新聞(その代わり配達距離は総じて短い) 朝日奨学会 http://www.a-kumiai.or.jp/as/ 月給13万7,200円 奨学金年90万円支給(他に賞与あり)・広告の量はほどほどの毎日新聞(育英会が運営する予備校がある) 毎日育英会 http://www.mainichi-ikueikai.com/ 月給13万6,000円 奨学金年80万円まで免除(他に賞与あり) ・夕刊がなく広告が少ないので薄い産経新聞(その代わり配達距離は総じて長い) 産経新聞奨学会 http://www.sankei.co.jp/pr/ikuei/ 月給9万1,400円 奨学金年72万円支給(他に賞与あり) 以上は大まかな数字で、詳細はいろいろなオプションがあります。とりあえず昔より給料が良くなっているものの、食事は外食が基本となっており、販売店で食べる場合はその分給料から天引きされるようです(昔は朝晩の賄い付きが基本)。 実は個人的に新聞の宅配制度などやめた方が良いと考えていて、いかにナベツネ氏が反対しても、時代の趨勢としてなくなる運命にあると思っています(いろいろな資源の無駄になるから。当然ペーパーレス化は避けられず、配達でバイクを使うくせに電気化しようともしません。新聞社は部数ばかり気にするくせに、拡張員はヤクザまがいが多いです)。しかし、今のところは、やはり経済的に困難なら、「新聞配れば?」は有効と言えそうです。 例えば、「私学の雄」であらせられ、都の西北に鎮座まします早稲田大学。あの伝統的なバンカラ大学のイメージとは裏腹に、文系の学費が少々お高い学校を目指す場合はどうなるでしょう。 とりあえず、入学金とか初年度納付金などという、これまたどのように考えても理不尽な悪習により、入学の際に30万円ほどのまとまったお金が必要となります。なぜ入学するのにそれほど金を払わねばならないのか、そんなものに胡坐をかいているから、能無しでも卒業させて無理やり空きを作り、結果大卒馬鹿を増やすだけになったと、どさくさに紛れて糾弾してやりたいですが(教授に単位を出すように圧力をかける)、それ以上に、「新入生一人に必要な経費を明示してもらおうじゃねえか、え!」と、教育者のふりをした経営者どもをつるし上げねばならないでしょう。しかしながら、現実としてそれを納めなければ入学を認められません。どの道、少子化により入学数は減るので、卒業させずに在学生からの授業料で経営していくようになるしかなく、そう簡単に卒業させないという、本来あるべき姿になるのも近々の未来なのは明らかですが、これも時代の産まれあわせで止むを得ないところでしょう。未来に生まれてやり直しなど出来ないのです。 また、これは理不尽と言うより、完全な詐欺ではないかと個人的には思っているのですが、入学試験には受験料として3、4万円必要となります。予備校の模試など数千円ですから、試験そのものの実施に何万円もの必要経費が計上されるはずはないにも関わらず、この高価な受験料は昔から習慣化され、ほとんど各校横並びに状態で続いています。談合と言って悪ければ、申し合わせでもあるのでしょうか?これは、公正取引の上ではなはだ不当、法律上も疑義がある重大な詐欺行為としか思えませんが、これまた少子化の客(学生)寄せのために、近い将来の「価格破壊」は確実でしょう(無料で試験するようになるだろう。その際卒業生から、昔収奪したものを返還要求されたらどうしますか?)。しかし、はなはだ遺憾ながら、とにかく必要なのが現状です。嫌でも、払わなければ試験が受けられないのです。そして、1校しか受験しないことはあり得ませんから、とりあえず20万円くらい試験を「受けてやる」だけで必要となってしまうでしょう(受験生はお客さんなのだ)。 となれば、入学するまでに50万円程度は必要となります。これを時給千円以下で普通の生活をしながら貯めるのはつらいですが、夕刊も配って集金もしていれば13万円ほど給料がもらえ、住居費は要らないしボーナスは20万円にもなるわけですから、予備校に通ったとしても1年で貯められるはずです。 そして、めでたく都の西北の大隈講堂に行くことになれば、午後の授業をとり易くするため夕刊のないところに移っても良いかもしれません。ご不満もあるかもしれませんが、産経。大学1、2年時の奨学金は年額72万円、一方学費は85万円ほどと推測され、書籍などを含めれば90万円にはなるので、奨学金のみでは18万円ほど足りません。月1.5万円の赤字ではありますが、月給から差し引くと、それでも7万6400円残ります。これで食費(推定4万円)・水道・光熱費(推定1.5万円)を賄わねばなりませんが、・・・余裕でしょう、2万円以上残るではありませんか。さらに日本育英会の奨学金の貸与などを受けられたら(月額約6万円)、超リッチな生活も可能です。 これくらい具体的に話しが出来れば、経済的理由で簡単に進学を諦め絶望することはなかったのではないでしょうか。返す返すも残念です。
2008年04月04日
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取り返しのつかない行為や、償えない行為をしてしまったら、生きながらえる意味がないように思います。死刑については賛否両論あって当然ですが、この論議の上で誤解してはならないのは、死刑は被害者への償いのためのものではなく、償いようがないので死んでわびるに過ぎないという点かもしれません。本来なら、「死んでお詫び仕る!」と人間である自分が、人間として生き抜くために、自分自身に処さなければならないものながら、自分で首をくくるのは何かと逡巡されるので、制度上処刑して頂くだけのように思うわけです。 何しろ、もし、自分の行為に対して認識し人間らしく考えることが出来るなら、他人の命を奪いながら、自らは生きながらえようとする結論には達しにくそうですし、何とかそのように思い込んだとしても、永久に後ろめたさを感じるのではないでしょうか? 一方、犯罪時に心神を喪失し人間性を失っていたので、罪には問えないケースがありますが、私はこれはおかしいと思っています。なぜなら、死刑と言えば他人から下される処罰のようですが、前述のように基本的に自裁、「死んでお詫び仕る!」以外ではなく、それは切腹する武士に介錯するようなものだと結論付けているからです。もし犯行の瞬間に自分自身の意識が飛んでいようと、それの当事者が自分であると後で認識出来るのなら、「死んでお詫び仕る!」になるしかないのではないでしょうか? それでは、今現在も心神喪失状態が続き、自裁するのが無理な場合はどうでしょう。それを考えた時、私は人喰い虎の末路に思いを致さずにはいられません。彼らには当然人間性はありません。食べやすそうな獲物を襲って己の糧にしたに過ぎないのですが、さて、心神を喪失している罪の意識など欠片もない彼を、人間集団は許すでしょうか? 私は断固虎狩りをすべきで、その人喰い虎を生かしてはおけないとする意見に賛同します。もしそれを野放しにしては、人間が安心して生活出来ないからです。何しろ誠に遺憾なことではありますが、人間でない者に教え諭すことは出来ず、個としての人間の弱さを心得て、それを襲うような生き物は、人間集団の敵対者として排除する以外にないからです。もちろん、圧倒的な数量の人間たちに狩りだされて、嬲り殺されてしまう一匹の虎に、人間的な罪は何一つないわけですが、人間社会の一員である限り、それを処分しなければならない存在なのも確かなのです。 そこで心神を喪失した人は無罪とする人たちにお尋ねしたいのですが、心神喪失で人間性を失っている哀れな人間と、天然自然に生きて人間的な倫理規範など生まれながらにあるはずもない虎の違いとは何でしょうか?心身を喪失して他人の命を奪うような者を、治療したと称して、またその彼の心神を喪失させしめた社会に放り出せるなら、どうして罪のない人喰い虎を、また人を襲う危険性は十分以上にあったとしても、しばらく餌づけして野に放つという選択が出来ないのでしょうか? 昔、飼育場から逃げ出した虎が、別に人を襲ったわけでもなかったにもかかわらず、その可能性があるとして追い回されて射殺されました。千葉県でのことです(1974年)。昨今、外見上は人間ながら、明らかに人間性を失った生き物が、何の関係もない老人を殺害し、さらに鉄道の駅で無差別殺人を行ったのは、隣県の茨城での出来事でした。 虎は人を襲った実行犯ではなかったのですが、直ちに近隣住民に知らされ、夜間外出禁止まで布告されたようです。一方、最近の人間の外見をした生き物の方は、すでに何の罪もない人命を奪いながら、その生き物が逃亡しているのを一般人に周知されず、間抜けな私服警察官の面前で凶行が繰り返されてしまいました。 飼育場から何となく逃げ出し山にこもった虎よりも、人を殺して繁華街に紛れた外見上人間の生き物の方が、人間社会の不安要因としては大きかったのではないでしょうか。にもかかわらず、なぜ野放しにして、麻薬密売人を逮捕するように、私服警察がこっそり駅で待ち伏せねばならなかったのでしょう。加害動物の捕獲よりも、被害拡大を防止しなかったのはなぜでしょうか? 結局、裁判ともなれば、弁護士及び鑑定医師より「人間でない」と宣告され、罪にも問えなくなるのが目に見えている人非人を、その間抜けな警察官たちは、人間として見ていたのかもしれませんが、人間でないものを、人間の基準で推し量るべきではなかったように思います。 人間社会の法秩序というものは、人間の社会集団が安心して生活出来るために存在しているのだと信じています。ようするに、大多数の健全な人間の市民を守るためのものでなければ、法が存在する意味は無いと思うのです。ところが、虎は人喰いどころかその危険性のみで処分されてしまい、人非人は人を殺してさらにその敵対行為を続ける危険性があっても処分しないようです。しかし、それでは、今後社会不安は高まるばかりではないでしょうか? 処刑は本来刑に服するもので、人間である自らを裁く意味合いのものとすれば、確かに心神を喪失した人非人を処刑することは出来ません。それでは、なぜ虎のように処分しないのでしょうか。もちろん、それが生物学上人間である限り、人間性が再生できると信じるのも無理はありません。しかし、それであれば、少なくとも現在のように再犯せざるを得ないような状態、つまり、心神喪失を理由に無罪とし、適当な治療をしただけで、彼を人非人たらしめた社会に再び放り出すような制度は、早急に改めねばならないと思います。そうでなければ、罪に問えない以上、敵対動物として裁判などせずに処分せよ、と言った極端な状態に追い込まれるのも、それ程遠い将来のことではないように思えるのです(人間性を回復しながら、自己の起こした犯罪を背負って生き続けるのは、本来地獄の責め苦だと思います)。
2008年04月04日
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よくわからない夫婦(サイ・ヤッチ) 昨年の換羽期、夫の神経衰弱により別居、離婚の危機に陥ったヤッチとサイの夫婦、今のところ仲良く生活している。飼い主は、また昨年の悪夢が繰り返されないか戦々恐々としているのだが、当事者にはそういった記憶はまるで残らないのだろう。何ともうらやましい。 ただ、昨年よりもサイがパワーアップしており、ようするに場慣れして図々しくなっており、ヤッチを尻に敷いている形成なので、万一神経衰弱が再燃しても、同様の事態にはならないような気がする。 しかし、油断はせず、おかしいと思ったらすぐ別居させようと思う。
2008年04月03日
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夜はつぼ巣のゴンナ様 どうせなら徹底的にバリアフリー化してしまおうと考え、底網を適当に金切りバサミで切り、巣を底に埋めようと企てていたが、実行する必要はないようだ。ゴンは、こちらの目論見のとおりに新しい環境の生活を、まるでそれが当然のように送っている。 昼間は皿巣のヘリに止まってのんびり過ごしている。時折エサを食べに下りる以外は、結構いろいろな角度を変えつつも、皿巣から離れない。それが放鳥時間になると下りて、エサをバリバリボリボリとかなり長い時間かけて食べ、「それでは、おやすみなさい」とばかりにつぼ巣へ移動する。賢い・・・。 基本的に気に入っているように思われるので、万一より脚が弱くなり現状の段差では巣に入れなくならない限り、このままにしようと思う。
2008年04月02日
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右往左往するキュー エイプリルフールと言えば、小学生の時の友人O橋のんちゃんを思い出す。彼はゴールデンウィーク近くまで、他愛ない嘘で人を驚かせては、「エイプリルフールから、×日め~!」と叫びつつ走り去るのであった。 その無邪気な子どもも、中学生の時に警察やら家裁やらのお世話になるのだから、まったく世の中困ったものだ。その後どうなったのか知りたくもないが、三転して楽しい日々を送っていて欲しいものだ。 さて、昨日バリアフリー化したゴンのカゴ。ゴンは実に賢く、こちらの目論見どおりに利用してくれている。昼は皿巣の上で過ごし、夜はつぼ巣に移動するのだ。環境の変化にはまるで動じないタイプのようだ。 一方、隣カゴの間取りの変化という、まったく自分には無関係であろう事態に、やたら過敏に反応する文鳥がいた。キューだ。隣カゴの様子が変わったのが気になって、昨晩から自分のカゴに帰れなくなってしまったのだ。やむを得ず、ゴンのカゴに外掛け容器を復活させる。まあ、あれもなみなみ注げば、水は頭の高さになり飲みやすくはあるのだが・・・。
2008年04月01日
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