全42件 (42件中 1-42件目)
1
食事中のミナとクラ 禿げて煤けた白文鳥ミナは、3週間ほど前に頭のハゲ部分の一部に新しい羽が生えてきて、ついに本格的な換羽が始まるかと思ったら、また産卵を始めてしまい、現在中途半端な状態にある。 一時的につぼ巣を取り上げようと考えたが、夫のクラの反応が心配なので実行出来ない。何しろ彼は、片目が外傷性白内障であり、加えて何かショックがあると気絶する(目をつぶり身動きが出来なくなる)繊細な神経の持ち主なのだ。何とも困った組み合わせだ。 隔離中の「ムツ」は、かなり鳴くようになったが、ぐぜる様子はない。アワ玉ばかりよく食べて元気だ。 いちおう明日も様子を見て、あさっての朝にアイと同居させてみようと思う。
2008年06月30日
コメント(0)
岐阜の女子短大生が、イタリアのフィレンツェにある世界遺産地区のカトリック教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)の見晴台の壁に落書きをし、問題視されましたが、最近では他の日本語落書きを検証する動きになり、落書きをしたことが特定された(何しろ所属と実名を書いている・・・)大学生は停学処分、高校の野球部顧問は解任と言った騒ぎになっています。 当初、あまり頭が良くない女の子たちが、貴重な文化財を汚したといった報道に接して、私も馬鹿なマネをするものだとあきれていました。しかし、短大側から謝罪を受けた当の教会側のコメントを聞いて、おやっ?と思ったのです(文字化されたニュースソースが見当たらない)。それは修復の必要はなく、むしろ落書きについてこれまで謝罪されたことはなかったことから、今回真摯な謝罪をする日本人の文化財保存の考えに感銘している、といったものでした。東洋の異教徒が馬鹿なマネをして、さぞお怒りかと思いのほか、かえってお褒めになっているのですから不思議ではありませんか? その理由はテレビで問題の落書きが映された際に、その横にアルファベットらしき落書きが見えた時に、私にはわかった気がしました。ようするに、そこは世界各国の文字で山ほど落書きがされている場所で、教会側も野放しにしていたところ、突如日本人がやたらと低姿勢で謝罪してきたので、驚いたのが真相なのではないでしょうか。何しろ、問題視されるきっかけは、日本語の落書きに腹を立てたらしい他の日本人観光客が、記されていた短大名から学校に指摘したのが始まりのようですから、イタリア側では寝耳に水の話なのです。 実際のところ、記事によれば、その見晴台の壁の落書きで日本語が占める割合は1割(10パーセント)程度とのことです。 この割合をどのように考えるかはそれぞれですが、突出して多いとは言えない比率だと私は思います(世界人口の2.5パーセントは日本人)。日本人が見れば、1割だけでも日本語の落書きは目立ちますが、おそらく欧米人が見れば、字というより絵感覚になって、特異に浮き出てはこないのだろうと思います。つまり、数ある落書きの中の一部に過ぎないわけです。 そして、落書きした日本人も、周囲にみっしり落書きがあるので、それが罪だとも思わず、むしろ旅の記念の記帳のような気分で(記事によれば、「大聖堂入り口で現地の人に勧められてペンを購入し、軽い気持ちで書いてしまった」と野球部監督は証言しているらしい。先ほど学校の記者会見をテレビで見聞したところ、そこに2人の名前を書くと幸福になるといった口上で、数人がマジックペンを売っていたそうだ)、貴重な建造物を汚してしまったものと思われます。これは、罪は罪ですが、情状酌量の余地はあり、少なくとも、駐禁の場所でも1台止まっていれば前に習ってしまいかねないような人たちが、自分のことを棚にあげて非難するのも如何なものかと思います。当然、ことの理非曲直、軽重の判断もせずに、大学が停学させたり、ましてや職を奪うような態度は、臭くなくともフタをするものと見なされる恐れがあり、少なくとも教育機関ならば、一時的な世論に惑わされずに、慎重に行うべきものだと思います(2年前の私事の旅行先で落書きをして、それにより罪になっているわけでもないのに、勤め先なり所属団体が何の罰を与えられるのか?与えるとしたらその根拠は何か?)。 もちろん落書きが良いわけはありません。それがトイレの壁であれ、商店のシャッターであれ、世界遺産の建造物であれ、許されるものではありませんし、実際問題として器物破損罪です。例えすでにたくさんの落書きがあっても、そのような愚行を真似することなく、恥ずかしいものと認識しなければならないと思います。 しかし、何も無いところに落書きをするのと、書いても良さそうなところ(むしろ書くように薦められたところ)に実名で何か書き付けるのは、同じ「落書き」とは言え、私は違うと思います(個人情報を書き残す危険の方を考えないのは軽率だが、それだけ見ても犯罪の意識はゼロなのは明らか)。「世界遺産に落書き!」という見出しに騙されず、冷静に見れば、「落書きの名所の1割が日本語」という話に過ぎず、落書きされる側も野放しで、むしろ慣行化していたのが事実である以上、その事情も踏まえずに見出し文句でレッテルを貼り、個人の微罪を社会的に糾弾するのは不当ではないでしょうか。少なくとも、「赤信号みんなで渡れば怖くない」に近い行為を過去に行ったか考えてみれば、そういった自分の日常的行為を棚に上げ、正義面して他人を糾弾することは出来ません。 従って、マスコミの生贄さがしには辟易しますし、街行く日本人や「文化人」などと称する輩の『一億総懺悔』的態度にも腹立たしさを覚えます。恥を感じるなら、むしろ事態の詳細も考えようともせず、その場の雰囲気で個人を糾弾しようとする態度だと思います。 さて、身元が特定されてしまった人たち自身に、落書きを消させなければならないと言うのは、正しくはあっても、現実論としては疑問です。 世界遺産を傷つけずに可能でしょうか?自分の分だけ消すのでしょうか?全体の1割の日本人の落書きだけを消すのでしょうか?せっかくだから全部日本人が綺麗に修復すべきでしょうか? 第一、教会は迷惑するかもしれません。もし積もり積もった落書きを、特に建物を傷つけずに綺麗に出来ても、それを維持するには、今後監視員を置かねばならないでしょうから。また、現地で油性ペンを売っている人は、売り上げが減るでしょう・・・。特に何にもしなければ、一年後にはまた同じ状態で、一体何を空騒ぎしたのか、と言うことになりかねません(どうせ忘れられているので良いのでしょうが)。 むしろ、一所懸命消した後、現地では次のような言葉が、油性ペンを売る際に添えられるかもしれません。「ROMAJIDEKAITE!」・・・。気が利いているNOVA講師出身者でもいれば、「郷に入らば郷に従え!ローマではローマ人のようにローマ字で!おぅ!こっこはフィレンツェね!」くらいの口上を期待したいところです。
2008年06月30日
コメント(0)
ポンをめぐる三角関係 「ムツ」は、まだ静かにしている。フンその他に異常は見られない。青菜を食べブランコに乗っているが、配合エサを食べあさる様子はなく、アワ玉ばかり食べているようだ。 ヒナ換羽中なので手乗り崩れと想像したが、それにしては人間に親しげな様子はなく、手を見れば逃げる普通の非手乗りの反応をしている。これは当初の目論見からはずれてしまうが、手乗りで愛着がわくとオスだった時に返しにくくなりそうなので、かえって非手乗りの態度を保持してくれた方が気楽かもしれない。 さて、ポンとテンは予想通り美形文鳥になった。外見上の最大の違いは、のどの白色の大きさで、ポンの方が小さい。つまり、ごく些細な違いしかなく、実に似通っている。 しかし、ポンはアイとべったりなのに対し、テンは異性としての興味を示さない。何となく、双方の父親(キューはクール、デコはしつこく付きまとい交際)の性格を継いでいるようだ。 アイは昨晩からハルと別居し、ポン・テンのカゴの「隣の離れ」で一羽暮らしをしている。それについて、ハルは特に何とも思っていない様子で、カナとオッキにちょっかいを出すことだけを考えて生きているようだ。ようするに、今のところ一羽暮らしで良いのだろう。飼い主としては、結構なことだ。
2008年06月29日
コメント(0)
さらにニューカマー「ムツ」 ここはヒラツカ~。 平塚、前身がフジタでベルマーレ平塚と称したサッカーチームは、湘南ベルマーレと名前を変えたが、茅ヶ崎市出身の友人によれば、相模川(個人的には馬入川の方がしっくりするのだが)を越えたら湘南とは言わないそうだ。この解釈に従えば、湘南とは藤沢市と茅ヶ崎市という、かなり限定的な地域呼称ということになる。何しろ藤沢の東隣の鎌倉市民は、「鎌倉は鎌倉であって湘南ではない!」と断言するはずの地域なのだ。しかし、元々湘南とは、平塚の西隣の大磯あたりの海岸風景が、中国の湘南地域に似ているとされたのが起源らしいので、むしろ本家は相模川の西側だろう(友人は絶対に認めようとしなかった)。 さて、「しょうなん」という言葉の響きにはいかがわしさしか感じない私は、相模川の西の海っぺりも、東の海っぺりも、湘南と言いたければ言えばいいだけだと思っている。別段海っぺりの地域呼称など何だって知ったことではない。ただ、ベルマーレ平塚の時の方が強かったのに・・・、とは思う。 そういった人間が初めて平塚駅に降り立ったのは、サッカー観戦のためでも、競輪観戦のためでも、平塚七夕祭りのためでもない。目的はただ一つ、文鳥探しなのであった。本当は忙しいのだが、もし暇でも長居をしないことは確かだし、7月になればお祭りの竹飾りが邪魔になるだろうと、わざわざ前倒してやって来たのであった。 何しろ、事前調査によると、この平塚駅周辺には、文鳥の存在が期待出来そうなお店が5軒もあるのだ。正午に家を出て、横須賀線(スカセン)を東海道線(湘南電車)に乗り換え、平塚駅西口へ降り立った。片手にはマス箱の入った保冷トートバッグが握られていたのであった。 ・・・それで、結果から言えば全滅。 西口から徒歩15分、近くに検察庁があるらしい店は、鳩小屋がある飼料屋と言って良く、店内に文鳥が数羽見えたが、飼料袋が散乱していて近づけない有様だ。遠目にも、桜は1羽しか見えず、この店で買う気は起きないのでさっさと引き返す。 2軒目は平塚駅南口の商店街にある小鳥屋だが、店内は必要以上に薄暗く十姉妹が数羽いるだけの体たらくであった。次。 3軒目は南口の百貨店7階にあるペットショップだ。何だか、昔は百貨店とかデパートの屋上で見かけた感じの店で、奥に文鳥がかなりいた。見れば、白文鳥はみな立派だったが、桜は白い差し毛が多く、なおかつ換羽中のものが多かった。しかも、この店の価格設定は特殊で、オスメスの価格差が激しい。桜はつがいで6825円と手頃だが、1羽だとオス2940円、メス6090円と書いてある。メスが割高なのは普通だが、倍以上と言うのは初めてだ(白文鳥は、つがい7875円、オス3570円、メス6930円)。オスを探す時には良いが、これほど露骨な設定の中で、メス1羽を買う気にはなれないし、万難を排しても求めるほどの価値も見出せない。次。 4軒目は、駅の南口から東へ歩いていった先のホームセンター内にある。ここは、ミナとシズの出身店であるセキチューみなとみらい店内のお店と同系列店だ。しかし、品揃えや価格設定は統一的ではなかった。中雛のみで桜3980円、白4980円であった。次。 5軒目は、南に歩いていった先の小さなペットショップで、生体は陳列されていなかった。しかし、小売の見かけとは別に、この店は卸売を行っており、おそらく生体も卸し用のものが2階にいるらしい。かなりやかましく鳴き声が聞こえるのだ。ここで、動物取扱い業で、実は取引もある私は、見学させてもらおうと思えば出来たと思えるが、面倒であり、気に入ったのがいない場合、家に帰るまでの体力も無くなりそうなので止めた。 かくして、ヒラツカ作戦は失敗に終わったのであった。 手ぶらで戻るのは嫌だ。そこで、湘南電車に揺られつつ、藤沢から江ノ電で鎌倉に回ろうと考えた。しかし、土曜日に鎌倉はうっとうしそうなので、「金沢八景」に向かうことにした。カナに似ていた方が良いなら、同じところで買うのが一番ではないか。 大船で下車し、金沢八景行きのバスに乗る。中途半端な田舎のバスは、料金が均一ではなく、行く先を運転手に告げてそこまでの料金を前払いする形式であった。300円。 途中ちょっとした渋滞と、なぞの外人部隊(朝比奈の山でハイキングでもしていたらしい)の乗車によりバスは遅れ、金沢八景駅手前のバス停まで、1時間近い時間を要した。 ひとしきり店内の様子を探ると、ヒナから成鳥まで、かなりいろいろな文鳥がいた。売れ残っているのだろうか、・・・横浜近辺の文鳥好きは、この店が地上に存在するうちに行くべきだと思いつつ、桜文鳥のメスをくださいと、店主のおじいちゃんに言う。 店主、おそらくペアを分けるよりも、多少不確かでもメスになりそうな若い文鳥の方が良いだろうと考えたに相違ない。生後4ヶ月頃でヒナ換羽中の5、6羽が入った中で、1羽いた桜文鳥(残りは白)を、あれはメスだと言う。私、ほんの一瞬考えた。 『あの段階でメスかどうかなどわかるはずはないが、50%以上の確率でメスになるのは間違いない。また、あの段階で卸されるはずはないので、おそらく売れ残りの手乗り崩れで、あっさり手乗りに戻るだろうし、間違いなく若い。そして、店がメスとして売るからには、オスなら交換を要求すれば良いだけだ』 少し白い羽が多い気がしたが、ろくに見もせず買うことにする。店主、クチバシを見せて色が薄いし形もメス的だというようなことを説明したが、軽く聞き流して、 「万一、オスだったら取り替えてくれますよね」 と念のため釘をさしておく。 4500円を支払い、飛ぶように帰る。名前は、六浦(ムツウラ)で『おむつ』が取れていないから「ムツ」で良いだろう。 とりあえず3日ほど隔離して様子を見てから、今夜からハルと別居させたアイと同居させようと思う。 なお、体重は26グラムであった(書き忘れたようだが、アイは5200円で購入し、こちらも体重は26グラムであった)。
2008年06月28日
コメント(2)
仲を裂くのは難しそうなポン・アイ もはや、ハルがアイと夫婦になるのは無理と判断する。 ハルは猛女のカナの二号、愛ジンとしてしばらく過ごすしかなさそうだ。彼自身が望むのだからやむを得ない。 アイはポンと一緒になるのが幸福だろうが、そうなるとテンがあぶれてしまう。当面3羽でも大丈夫な気もするが、オス2、メス1の組み合わせは危険すぎる。やはり、テンにも嫁候補を準備しなければなるまい。早めに見つけ出し、とりあえずアイとメス同士同居させ、ハル・ポン・テンにどういった反応が起きるのを見定めてから同居させようと思う。 しかし、カナに似たメスなど、そう簡単に見つかるだろうか、かなり疑問だ。何でも、似ていることにしてしまおう・・・。
2008年06月27日
コメント(1)
アイの初卓上水浴び ハルは改心せず、アイには興味を示さない。ところが本命のカナには振られ、、近づけばデコとカナ自身から攻撃を受ける。2番手と思っているらしいオッキに近づくと、ゲンの強烈な体当たり攻撃を受ける。3番手と思っているらしい飼い主の元には他にもいろいろいて、特にアトから攻め立てられる。・・・哀れにも行き場を失った。 冷静に考えれば、アイに接近する以外ないのだが、アイには虚勢を張り威嚇するのだから、文鳥の気持ちというのも割り切れない。 アイの方は、夜の放鳥が楽しみになっているようだ。ポンにはかしずかれ、シンには言い寄られ、好きなものを食べあさり、今日は他の文鳥たちを真似て水浴びまでしていた。 この文鳥。店の説明では昨年8月の入荷と言うから、すでに1歳半にはなっているはずだが、桜文鳥の若い頃に見られる茶羽を残すし、やたら適応力があるし、もっと若いのかもしれない。・・・ハルめ、何が不満だと言うのか! なお、キューとシズのとんがり卵の孵化予定日は、来月の2~4日と思われるものの、孵化するかは怪しい。また、孵化して万一(本当は確率50%だが・・・)メスでも、この状態で成長するまで待てるだろうか。 ・・・・待つとしたら、ポンよりむしろハルの方が良いかもしれない。それなら自業自得ではないか!
2008年06月26日
コメント(1)
アイとシンとポンとテンと ハルとアイの距離は縮まらず、事態は混沌としてきている。 デコとカナはほぼ元の鞘に収まり、女傑のカナも落ち着いたのか、換羽が始まったようで、ハルに対する関心は急速に薄れているようだ。従って、徐々にハルが同居しているメスを意識するのを待てば良い・・・はずなのだが、そのアイにポンが思いを寄せ、その執着が日々に募っている様子で、一波乱も二波乱も必至の情勢になっているのだ。 さらに、個々の文鳥の好悪が複雑なのだ。アイにしても、同居のハルとは疎遠、求愛するシンのことは嫌いで、付きまとうポンのことは好ましく思っているものの、実はキューに最も魅かれているらしい。もちろん、キューは抱卵に忙しく、いつものようにクールだが、ポンは愛する両者の間で悩み、なおかつ同居する弟分に「浮気」をなじられる状態だ。 飼い主も混乱してくるが、さらに、ゲンとオッキがハルを目の敵にし、ハルはカナの次にそのオッキを恋愛対象に考え、またカナをテンも本命視していたり、よく分からないが、ドロドロとした物が沸騰してきているような、実に不気味な様相となってきていて、・・・考えようによっては面白い。 財布の中身の問題と、飼育数の限界問題、さらに来月にヒナが生まれる可能性、これらを勘案すると、飼い主としてはしばらく身動きが取れない状況となっている。 とりあえず、キューとシズの卵が孵化するか結果を待って、少し遠征してペットショップめぐりをすることになるかもしれない。貯金が肝要だ。
2008年06月25日
コメント(5)
アイに好意を寄せるポン ハルの奴、少々攻撃的になり、アイを邪険に扱っている。あくまでも本命はカナなのだろうが、そのカナは、換羽のイライラもあってかハルに対して攻撃的になった夫のデコを見直し、関係がほぼ修復してしまった。今の彼女にとって、ハルは愛ジンに過ぎないものと思われる。 一方、アイに対するポンの好意、と言うよりはっきり恋愛感情は、昨日より一段と強くなっている。相棒のテンが、ポンと一緒にいるアイを追い払おうとすると、かえってテンを追い払う按配だ。ようするに、同居させればペアの誕生となる状態と言える。 しかし、ポンには悪いがそれをすぐに実行するのは難しい。一羽になったハル、テンをどうすれば良いのか?また、今日確認したところ、中止卵になっていないらしいキューとシズのとんがり卵が孵化して成長したら、これを一体どうするのか? とりあえずハルが改心することに期待したいが、望みは薄いような気がする。
2008年06月24日
コメント(1)
おしゃべりが好きでも、議論に向かない人の特徴は2つあるように思います。 一つは、相手から反論されれば、再反論する材料がなくとも言わずにはいられない点です。つまり、話の内容よりも、黙っていると言い負かされたことになると認識し、その敗北感に耐えられないのでしょう。 もう一つは、自分の意見に対する相手の指摘には一切答えず、自分の感情的な主張を繰り返す点です。他人の話を聞く気がなければ、本来他人に議論を挑むべきではありません。そもそも、他人にもその人なりの意見があるはずですから、それを聞く気もないのに自分の意見なり要望だけを投げかけられると考えるべきではありません(日本人には議論が下手な人が多いです。例えば政治家の討論会などでも、一方的な演説が多いですが、まさにアレです)。 「ご返信のご心配は無用にお願いいたします」と書いたはずですが(この場合私は受け手)、やはり返信が来ました。そして、当然のように何ら私の指摘には答えていませんでした。まさに不毛です。 短いので全文載せても良いのですが、感情表現のため余白を設けたかったのか、改行が多いので要点のみ抜き出してみます(ほぼ全文です)。 「当方からのお願いは、里親でなくても子育ての経験があるかたがたからは、ご理解頂いておりますが・・・・・」 「里親・里子からすれば、言葉は時代と共に移り変わるものだとか、言葉狩り、という表現で簡単に済まされるものではありません。」 「(私の返信内容は)目的が正しければ、そこへ至る手段や過程は何でもかまわない(里親・里子の心の傷口を逆なでするような言葉を遣っても)という論法に聞こえ、抵抗を感じます。」 「(「文系」なら)言葉の重みと、それによって人びとに与える印象・影響ということについて、お考え頂きたいと思います。」 意味が無いので返信はしませんが、いちおう感想としては、おそらく面倒くさいのでまともに返信する人は少なかったに相違なく、言葉狩りが簡単な問題なら言語学者は無用の長物で、論法より論理による立証能力の重要性と、自分たちのこの行動による結果(自分たちが「養育士」などと呼ばれるようになる可能性)は考えないのだろう、といったところです。 実際に傷つく子どもがいるのは、実に重要な論点で、親の虐待などで傷ついた子どもは、はるかに過敏にはなるはずで、それを心配する気持ちは十分に理解できます。しかし、あえて言えば、私はこれこれの過去を背負っていますと看板を掲げて生きていけません。インターネットを含めて世の中は、いろいろな考えを持つ人がいる厳しいところなのです。そこでは、甘言を弄する人が味方とは限りませんから、その場の耳障りの良い話にのせられない大人になってくれることを期待しています。おそらく、つらい体験をしただけ、人間に対する洞察力も鋭いはずで、それが里親さんたちの努力を糧に、良い方向に生かされることを心より願っております(厳しい社会で普通に生きていけるようになってもらうために、普通の家庭で養育する意味があるものと信じている)。 とりあえず、広報氏たちの考え方に賛同される皆様には、他の里親さんたちの足を引っ張らない程度のご奮闘をお祈りしたいです。
2008年06月24日
コメント(0)
最近、人間の里親団体の一つの広報担当をされている方(以後広報氏)から、文鳥の飼い主探しなどをする掲示板の名称に、「里親」という単語を使わないで欲しいとの要望を頂きました。 それについて、残念ながらご要望に沿いかねる旨を返信し、その返信内容をこの場にそのまま転載しました。人間の里親制度をご存じない方もいるでしょうから、少し考える機会になれば、わざわざ零細な掲示板に要請された努力に報いることにもなると思ったのです。 しかし、メール内容をそのまま掲げただけでは、少し無責任のような気もしてきたので、この間考えたことををまとめておきます。 ペットの新しい飼い主を探す際に、「里親」の用語が使われることを排除しようと試みる人が、里親制度に基づき保護児童を養育されている里親さんたちに多いのか、私にはかなり疑問があります。おそらく、実際養育に当たられている方は、少なくとも日常生活では意味のないことを気にしている暇などないと思うのです。擬制的な関係であろうと、実の親子として生活しているのですから、その日常において「里親だ・里親だ・里親だ!」といった意識を持ってはいられないでしょうし、他人行儀で務まる役割ではないだろうと思うのです。 人間の里親制度については、現在NHK連続テレビ小説『瞳』の重要なテーマとなっているので、かなり一般的にも認知されてきているかもしれません。それが「たくさん繁殖したから里親さん探すわ!」などといった、ペットの里親探しと同列に論じるものではないのはもちろんのことです。児童虐待・育児放棄などが頻発し、養育の義務が果たせない親権者が増大する今日、如何に里親制度を充実化させ里親さんたちを社会的に支えていけるか、喫緊の課題の一つであると認識すべきだと思っています。 人間の里親のみなさんが抱える問題を、体験的ではなくとも想像できる人間であろうとするなら、深く考えもせずに「気にしている人がいるなら止める」といった、一見やさしく物分りが良いようで、実は問題に目をつぶるだけの無責任に終わりがちな対応は出来ません。また、人間の里親さんたちの総意ではなく、その数ある中の一団体の主張されている話に過ぎなくとも、それに耳を傾け、論理的に納得出来ればそれに従い、零細なブログでもホームページでも、大いに喧伝し社会的な動きにつながるわずかばかりの手助けくらいは、個人として行っても良いものと考えています。 しかし、私個人には、仄聞していた「里親」という言葉の限定的使用論に、全く納得していなかったので、文鳥の飼い主募集のための掲示板を設ける際に「里親・里子募集板」とした経緯がありました。そして、その考えを覆すほどの新しい論拠は、今回直接頂いたメールの中にも見出せず、むしろその粗ばかりが目に付いてしまい、かえってこういった活動が、里親制度について認知度が高まっている昨今の動きに、冷や水を掛けかねない危惧すら抱くに至っています。 その団体広報氏は、「里親」をパソコンで検索したところ、ペットの里親募集ばかりがヒットし、「自分もこのように扱われたのだろうか」と「非常に不快なショックを受けた」子どもがいた(※里親制度は本人【「里子」】に実子ではないことを告知する必要がある。縁組による養子ではないので、里親とは別姓のまま生活する)との体験事例を挙げられ、可能であれば「文鳥の里親でなく、文鳥の新しい家族というような別の呼称・表現にしてほしい」と要望されました。 そういった人がごくわずかでもいれば確かに問題で、善良な人たちが、この意味において名称の変更を要請するのも的外れとは言えません。しかし、早急に社会全体が「里親」を使用しないようにさせるのは、全体主義の国では不可能なので、「飼い主にとって、ペットは「コンパニオン」とされ、実の子どものように扱われるもので、もし「里親里子募集」とあれば、それは、人間の里親になるくらいのつもりでしっかり育ててくれることを期待している」ことを説明して、その個人の誤解を取り除くことをお薦めしました。私は、誤解しそうなことを無くすより、子どもの誤解は一々に周囲の大人が解くことこそが、教育というものだと信じています。 広報氏は、上記のような事例を挙げられた後、さらに「里親」の不使用を要請する「理由を申し上げます」として、「里親」という言葉が、里親制度に基づく人間の里親のみに使われるべきことの理由を説明されました。それは「里親」を三省堂の『広辞林』で調べると、1 里子を預かり親代わりになって育てる者2 児童福祉法に基づき都道府県知事の委託を受け、保護者のない児童などを引き取って育てる者。 とあると例示し、「本来人間に対して用いられる言葉です」と断定され、ペットその他で使用するのは間違いであり、本来の里親関係者傷つけ不快にさせる行為になるといったものでした。 しかし、これはあまりにも突飛な主張です。何しろ、辞書の語義1こそが本来の里親の意味のはずで、これは人間限定にするような明確な規定であるはずもなく、2は法律が元々あった「里親」という一般的な単語を使用したに過ぎないのです。2で使用しているから、1の広範な用例は否定されるべきだとするのは、これは本末転倒というものです。まして、同じ三省堂の辞書でも『広辞林』(1983年)より新しい『大辞林』(2006年)では、1 他人の子を預かり親に代わって養育する人。そだて親。しとね親。2 児童福祉法に基づき、保護者のない児童や保護者に監護させることが不適当な児童の養育を、都道府県知事に委託された者。3 飼い主がいないペットや、元の飼い主が飼育を続けられなくなったペットなどを引き受けて飼育する人。 と「里親」に三番目の語義が追加されています。そもそも単語の語義など変幻無碍で、人間社会での使用され方によって変わるのは当たり前であり、それに合わせて辞書の記載も変化します。「里親」では、現に3番目の解釈が一般化しているわけです。 つまり、辞書を持ち出して云々するのは蛇足です。しかし、広報氏は第2メールにおいても、「「里親」「里子」を本来の使用対象以外にしよ(※原文ママ)するのは、「里親・里子」の尊厳を傷つけ損なうもの」と、繰り返されました。 そこで、私は何を言っても理解されないのを承知の上で、とりあえず「言語学的にも法律学的にも認めがたい、『使用対象以外』と強調され、辞書の条文を例示されるのは、お控えになった方がより説得力を増す」と注意喚起だけは試みておくことにしました。 本人は気づかず、それが明らかな善意もしくは一種の正義感に基づくもの、もしくは第三者から正当と認められるべき一面があったとしても、論理性のない無理な主張を繰り返せば、面倒がらずに論理性の是非で判断する者には、奇異な印象しか残しません。感情だけで法律は出来ませんし、大多数の冷静な第三者の理解を得ることは出来ず、かえって、非論理的な奇異な集団というレッテルがはられてしまう結果もありえます。 従って、里親制度への関心を呼び起こすために、ペットでの「里親」表現回避を軽く要請するにしても、その主張の論理性の破綻した蛇足部分(辞書には云々)は、必ず排除すべきだと、強くお薦めしたいところです(「辞書にある」で納得出来るのは子どもだけです)。 なお、第2メールには、広報氏が「保健所へ収容され処分寸前のラブを救護し、フィラリアの治療をした後に新しい飼い主に届けるなどの「レスキュー活動」を個人的になさっているとを示されて、「遺棄された犬・猫等ペットの実態ですとか、命の重さは十分認識し」ているとされ、「里親・里子という言葉を使用しなくても、不幸なペットをレスキューしている団体、個人が多数ある事を、お知らせしたい」と書かれておりました。 わざわざご教示頂いてありがたい限りですが、個人なり同じ志を持つ人々の団体が、能動的に不幸なペット動物の新しい飼い主を探すのと、どのような知識をどの程度持っているのかまったく不明な不特定多数の人間が、基本的にはそれぞれ個人の考えに基づいて新しい飼い主なり、そのペット動物そのものなりを探す場に過ぎない掲示板という場を提供するのとは、比較することも出来ない異質なものです。もちろん、「里親」という単語の存在すら知らない人が応募するかもしれませんし、新しい飼い主探しの際は「里親募集」と書かねばならないと信じて疑わない募集者もいるでしょう。これが、インターネットにおけるペットの「里親・里子」募集掲示板の内実で、とりあえず「里親」「里子」をペット募集の際に使用する用語と考える人が多く存在する限りは(何しろ辞書に載ってます!!)、本来の意味などより、現在通用している意味を尊重するしかありません。間違っても、募集をされる方が「里親募集」と書くのに、いちいち論拠薄弱な文句など言えないので、とりあえず普通に使用されるであろう「里親」「里子」が何かも分からない人のために、「文鳥を譲りたい人(里親募集)・文鳥が欲しい人(里子募集)の掲示板」などと表示するのが、管理人として出来る限界だと思います。 もちろん、「里親・里子募集板」よりも、短くより内容をうまく表現出来る言葉があれば、それを問題視する人たちが一握りでも存在するのを知っている以上、避けたほうが良いと考えたいところです。しかし、例えば「飼主・文鳥募集板」では私個人が募集していると勘違いされそうですし、「譲渡希望掲示板」では何を譲渡するのかされるのか分からない上に、扱うものが品物のような印象も受けてしまいます。また、「飼い主探し掲示板」では迷子の飼い主探しと間違われてしまいます。つまり、なかなか代替すべき言葉が見つからないのです。 今回の件で、辞書的には2番目の語義である法律上の「里親」の方を、いっそ呼び名を変えてしまってはどうかと、無責任にいろいろ考えてみました。「養育親・養育子」が一番のお薦めなのですが(東京都では里親制度を「養育家庭制度」と呼ぶ)、やはりこれも「里親・里子」の方がすっきりしている気がしますし、わざわざ定着しているものを変えるのも、好ましいこととは思えません。 あまり過大な問題にせずに、大多数がそのようにしているように、とりあえず共存共有が一番ではないかと、現状では結論するしかないと思います。【補足】 散見の限りでは、人間の里親団体のホームページで「里親」の一般的使用自体を止めさせるべきとの主張を掲げるのは、広報氏の所属される団体のみのようです。 他の里親団体では、「里親の名称独占を!」として、犬猫などの新しい飼い主探しをする団体が、NPO法人名に「里親」を使用するのを止めさせようとの主張を目にしました。こちらは児童福祉法を元に、これを広義に解釈すれば「里親」の名称を独占出来るはずで、さらに児童福祉法の改正で『保育士』のように他がその名称を使用するのを止めさせようとの内容となっています。 しかし、この主張もかなり無理がありそうです。児童福祉法での「里親」の定義は、児童福祉法内だけの話であって(条文「この法律で、里親とは~」で、法律内での用語の内容を示しているだけ。契約書に「甲は~」「乙は~」と言うのと同じ)、「保育士でない者は、保育士又はこれに紛らわしい名称を使用してはならない」といった法の規定がない現状で、他団体に名称変更を強請すれば、営業妨害に問われかねません。それでは「里親」が『保育士』のように、特定の職分のみを示す単語に出来るでしょうか?やはり一片の法律で昔から使われる単語の意味を限定するのは至難でしょう。むしろ、「里親士」とか「養育士」など、他と重ならない造語に落ち着く可能性が大きいように思われます。 ・・・それで良いのでしょうか?望んだのとは違う案外な結果を招かないためには、どういったことが起こりえるか十分に考えても良いかもしれません。
2008年06月23日
コメント(0)
ゴンナ様にあいさつするアイ 劇的には変化していない。同居2日目のハルとアイは、仲の良いそぶりを欠片も見せず、お互いに微妙な距離を維持しつつ、お互いを無視して生活していた(ケンカはしない)。ハルがブランコにでも乗りつつさえずって誘えば、あっさりカップルが誕生するはずだが、あいにくその気はなく、カゴの外に出ることばかり考えている様子だった。 一方のカナは、夫のデコの調子が戻ってきたので、今は二股をかけている模様だ。やはり文鳥にしておくのは惜しいキャラクターだ。 同居のハルとはあまりうまくいっていないが、アイは小さな水入れで水浴びをするなど、環境にあっさりと慣れてしまった。なぜか、隣カゴのゲン・オッキがハルに敵愾心をむき出しにして、一日中威嚇し続けてやかましかったが(人間的に解釈すれば、一緒に生まれ育ったカンをどこへやったのかと抗議しているものと見なせる。しかし、より現実的には、放鳥時のつぼ巣争奪における遺恨があるものと思われる。ゲン・オッキは2羽共同でハルをたたき出してつぼ巣を占拠するが、ハルの協力者カナ1羽により撃退される。・・・カナは恐ろしく強いのだ)、それもまったく気にしていなかった。 アイは放鳥にも完全に慣れたようで、今日はテーブル上のトウモロコシを喜んで食べていた。ビジュアル重視のゴンにも気に入られたらしく、さらにポンに一目ぼれされた気配だ。なかなかもてるのかもしれない。今のところアイは関心がないようだが、ポンとの仲は注目したいところだ。
2008年06月23日
コメント(0)
梅雨らしい天気が続くようになってきましたが、『揚州』5、『ネパール』2、順調に成長しています(画像は『ネパール』)。
2008年06月23日
コメント(0)
好奇心旺盛なアイと新入りを気にしないシズ 朝からハルとアイを同居させたものの、ハルはアイを軽く怖がって、カゴの外に出せと要求し続けた。とにかくカナと一緒にいたいと考えて落ち着かず、後妻候補が目に入らないのだろう。 この成り行きに当惑していたが、夜の放鳥で好転したような気がする。 アイは、特に問題なく自らカゴの外に出てきた。最初は危なっかしい飛行だったが、少しずつコツをつかみ、さてどこへ行くかとなれば、半日一緒のカゴにいたハルの近くがとりあえず無難だと考えたに相違ない。そうとは知らずにカナとつぼ巣の近くにいるハルの元に行く。ハルは困惑し、気の強すぎるカナはこの見知らぬ「女」を当然排除する。・・・排除しつつも、夫にしようとしている「男に女の影」を感じ取ったに相違ない。昨日よりもハルと距離を置き、つぼ巣を離れてテーブルの上や人間の元に下りてくるようになった。 さらに、デコが奮起した。換羽初期の倦怠感からいく分回復したらしい彼は、カナを追って下りて来たハルを迎撃し、妻のカナに近づけない気概を示した(飼い主も加勢した)。そのため、カナは夫を見直したらしく、デコとツーショットの位置にいる時間も長くなった。 その間、場慣れしてきたアイは、シンに言い寄られつついろいろと見て回り(アイはペットショップで濃い色の桜文鳥とペアだったので、白文鳥に興味はないらしい)、あっさりとテーブルの上にもやってきて、いろいろつまみ食いまで始めた。・・・ペットショップに1年近くもいたわりには、ずいぶん適応能力があって頼もしい(昨年8月入荷は間違いかもしれない)。 さて、カナとの間に距離が出来たのに気づいたらしいハルは、とりあえずオッキにさえずっていたが、帰宅時間になりカゴに戻る時に、そこに同居していたメスがいたことに改めて気づいた・・・ような気がする。カゴの前面に来て「出せ!」と要求せずに、ブランコに乗っていた。 明日から急速に親密になるのではなかろうか?期待したい。26g均整のとれたアイ
2008年06月22日
コメント(1)
冒頭本題からはずれますが、朝から後妻候補「アイ」を迎えた文鳥のハルは、新入りを怖がって逃げ惑っていますが、おかげでケンカにはならず、時間をかければうまくいくかもしれない状況です(「アイ」が攻撃し始める危険がある)。 さて、一段落して、「アイ」のカゴを片付け、「文鳥墓苑」の様子を見ようとベランダを見ると、奇妙な光景が目に入りました。ミシシッピアカミミガメ、通称ミドリガメが金属格子から首を出しているのです。 とりあえず写真に撮っておこうとデジカメを取ってきて撮影、不思議なことに動きません。おかしいな、と思い近くでよく見て、ついでに頭を小突いたのですが、生きてはいるものの、いつものように憎たらしく噛み付いてこようとしません。 そもそもこのカメ、5年以上前に父が孫(私の姪)のために買ってきて、母親(父の娘・私の姉)に「いらない」と一蹴され、行き場なくバケツの中でプカプカ浮いてたのを、あまりに不憫なので私が水槽に移して飼育した生き物です。みるみる巨大化し、恩人である私に噛み付きもしたので、ベランダのストックケースで飼育されるようになっています。 この生き物を愛してやまない人には申し訳ないのですが、はっきり言って私はこの生き物は嫌いです。すぐに水が汚れますし、凶悪で大食で、なおかつ長生きです。間違っても自分では買わないので、実際いい迷惑なのですが、世話はそれなりにするので、カメ自身は元気で卵まで産んでいます。 その文鳥とは比較にならないほど可愛げのないカメ(あくまでも主観です)、首がはさまって動けなくなっているのでした。ひねったり引っ張ったり試そうにも、食い込んでしまって少しも動かず、半ば宙吊り状態でおのれの重みに苦しんでおり、笑っていられる状態ではありませんでした。このまま死なせるわけにもいかないので、舌打ちしながら金属格子を切断し(それ用の工具を持っている・・・)救助しました。 文鳥のほうがはるかに知的で手間がかからず素晴らしいな(繰り返しますが私の主観です)、とこのカメの世話をするたびに思い知らされるのでした。
2008年06月22日
コメント(2)
某団体の方から、「里親」「里子」という言葉を、文鳥の新しい飼い主探しなどで使用しないように要請がありましたので、次のように即日返信いたしました。備忘のため掲載いたします。以下メール本文。=======================某 様 文鳥専門「里親・里子掲示板」の管理人です。 わざわざ丁重なお申し出を頂き、お手数をおかけして恐縮しております。 しかしながら、説明は長くなりますので結論を先に致しますと、誠に遺憾ではございますが、しばらくは名称を変更の予定はありませんので、ご看過頂くしかないと考えております。 実を申しますと、当掲示版を設置する際、ペット動物の譲渡に「里親」という言葉を用いることの是非についての意見があると仄聞しており、代替の言葉を、かなりいろいろと考え、結局見つからなかったので(「新しい家族募集・新しい家族に立候補」ではわけがわからないと思います)、あえて選択いたしました。 言葉というものは、時代により用いられ方が変化し、ペット動物の飼い主が、飼い主というより親の立場となっている現在、子どもであるペットを譲り渡す先を表現するのに、「里親」が最も適当となってしまっている現状がある以上、名称としてのわかりやすさを考えれば、それを選択するのが有効とするしかなかったのです。 この点貴会におかれましては、『広辞林』にて「里親」についての解釈をなさっていらっしゃいますが、『広辞林』の後継となります『大辞林』には、第三項として、「飼い主がいないペットや、元の飼い主が飼育を続けられなくなったペットなどを引き受けて飼育する人」と明示されております。そのように言葉の意味は、時代により変質付加されるものです。 本来「里親」という語は、第一項「里子を預かり親代わりになって育てる者」を意味したものと思われます。この場合里子が人間に限定されていたのは当然ですが、その認識は時代とともに変わり、上記のような第三項が付加される状態となっております。一般的に定着してしまっては、これを変えるのは難しいものがあります。 一方、第二項も「児童福祉法に基づき都道府県知事の委託を受け、保護者のない児童などを引き取って育てる者」は第一項の意味を踏まえて、条文での表現に用いた結果に過ぎません。実はこちらの解釈は、法律の条文における呼称を別のものに変えてしまえば、あっさりと変更は可能かもしれません。 誠に残念なことながら、悪貨は良貨を駆逐するの例えのように、言葉の流れを変えるのは至難のことと思われます。 貴会のような有意な団体は、言葉の「誤使用」の指摘以上に、児童福祉法に基づく里親をなさっているような誠実な方々や、問題をかかえながらも努力を惜しまない里子の皆様が、些末な言葉など気にされないようにご啓蒙活動をなさっているはずで、そのご努力にただ敬服するのみです。 そして出来ましたら、犬猫鳥、ペットの飼い主にとって、ペットは「コンパニオン」とされ、実の子どものように扱われるもので、もし「里親里子募集」とあれば、それは、人間の里親になるくらいのつもりでしっかり育ててくれることを期待しているだけ、つまり、児童福祉法の里親さんたちの真摯な気持ちにあやかりたいだけとご理解頂き、子どもらしい誤解から「非常に不快なショック」を受けられ方などに、ご説明頂ければ幸甚です。 以上、長々と失礼致しました。 貴会の今後益々のご活躍を、心よりお祈りいたします。======================== 22日返信を頂き、 「里親制度についてどのような誤解をお持ちなのでしょうか?」という疑問形があったので、しつこいと思われるに相違なく、理解もされないはずで嫌だったのですが、さらに長々と返信しました(面倒なのでわざと名乗らず、おそらく不毛なので返信をお断りしました)。某 様>ジャクボー様は、里親制度についてどのような誤解をお持ちなのでしょうか? 特に誤解もしていないと思います。 少なくとも人間の里親制度が、ペットの募集掲示板で譲渡されるような安易なものであるはずもなく、名詞が共通するからと言って、内容を混同するはずがないものだといった程度の、ごく常識的な認識は持っております。 当事者ではないので、一般的な知識しかありませんが、おそらく皆様方が、実社会において直接的に、一部の無恥な人間から受けていらっしゃるはずの偏見や差別について想像はつきますし、それが不当なものとする憤りは、大多数の一般市民と同じくらいに持っていると思います。また、先に申し上げたように、掲示板の名称を考える時に少し調べて考えたので、おそらく普通の人より細かなことも知っていると思います。 私が個人的に心配するのは、まるで何の知識もなく、むしろ何らかの誤解に基づく偏見を持っている人間が、貴会の活動のごく一部である「里親」という言葉の限定化についての啓蒙活動をどのように考えるかと言った点です。 一時一部の人権団体が推進した差別用語の撤廃運動は、現在過度の言葉狩りとして、かえって奇異な目で見られる事態にもなっているのは周知の事実です。事情を理解できない人間が、単純にそれと同一視してしまうことを危惧している次第です。 ご承知のように、個人や団体が行うレスキュー活動と、掲示板の管理人は立場が異なります。掲示板は場の提供に過ぎず、その場に集まる人は特殊事情などわかるはずもない一般の人が多いため、一般的に使用される用語を看板なり説明で使用しなければ、場に人を集めることが出来なくなります。 私は個人は、掲示板に人が集まっても集まらなくても、何も困らないのですが、集まれば集まるだけ新たな出会いがあるのが事実ですので、一般的に一番理解されやすい用語を用いる必要が出てきてしまいます。>「里親」「里子」を本来の使用対象以外にしよするのは、「里親・里子」の>尊厳を傷つけ損なうものと考えられます。 繰り返しても、理解して頂けないと思いますが、いちおう文系のものとして一言申し上げます。 言葉・単語そのものに、本来とか本来でないとか、そういった区分はあり得ません。本来の目的でないと一部は認識し、それがいかに正当な主張であっても、大多数が本来的には誤った目的で使用していれば、それが既成事実として変わってしまうのが、言葉・単語というものです。 「「里親・里子」の尊厳を傷つけ損なう」ので、使用はなるべく避けるように軽くご要請になるのは、私は何の問題もないと思いますが、言語学的にも法律学的にも認めがたい、『使用対象以外』と強調され、辞書の条文を例示されるのは、お控えになった方がより説得力を増すことが出来るように、老婆心ながら愚考いたします。 さらに長々と失礼致しました。 なお、お手数をかけて申し訳ありませんので、ご返信のご心配は無用にお願いいたします。
2008年06月21日
コメント(3)
昨夜同様ないがしろにされる脱力キャラのデコ デコとカナの夫婦関係を、とりあえず明日まで持続させようと努力していた。何しろ、カナは新しい夫を迎える気満々でデコをつぼ巣に近づけず、一方のデコは換羽で少し神経質になって逃げ回っているのだ。 つまり、まだ繁殖を望むカナは、換羽に入った夫に失望し、ちょうど妻に先立たれたハルに目をつけ(実は前から気があったのでは・・・)、これを新しい夫にして自分の巣に迎えようと画策しているのに間違いない。実に大胆不敵、前代未聞の女傑と言えよう。 とりあえず、関係を修復させようと2羽だけで放鳥したり、つぼ巣への固執をやわらげるため卵を処分したり、さらにつぼ巣を取り替えたり・・・。隣のカゴでハルが「出せ~!」と騒ぐのを無視して、飼い主の涙ぐましい努力が続いたのであった。なお、ハルの姿はカナには見えないようにしてある。 おかげで、何とか今日は完全な破綻をきたさなかった。しかし、明日になったら、おそらくハルが押しかけ旦那になるか、カナが卵の無くなったつぼ巣を捨てハルの元に走るのは、ほぼ確実であろう。こういった予想は、はずれないのだ。 「アイ」は、日中は動かないくらいにおとなしく、夕方になると文鳥キックを繰り返している。お店での習慣を示したものか不明だが、とりあえず体を丸くすることも無ければ、かゆそうにむしることも無く、エサも(カナリアシードばかり)食べ、フンには特別異常は見られない。それでも、まだ一抹の不安が残るので、もう少し隔離したいのだが、緊急事態でありそのゆとりは無い。この際目をつぶって、明朝ハルのカゴに放り込もうと思う。・・・ハルが受け入れる可能性は80%以上と見ているが、少々甘いだろうか。ま、なるようになるだろう。 キューとシズの卵を検査してみる。先のとがった卵が1つ有精卵。他はまだ確認できる段階に無いようだ。・・・いびつな卵は避けたいのだが、とりあえず何となく選んだもう1つと2個残し、後は擬卵と交換した。 あまり熱心に抱卵しているようでもなし、キューが運び込む新聞紙でつぼ巣の中はゴチャゴチャだし、あまり期待できないが、数日したらもう一度検卵してみよう。
2008年06月21日
コメント(1)
公然と不倫をする妻(ハルとつぼ巣に入り夫デコを寄せ付けない) 想定はしていたし、防止策(後妻候補の購入)も他人から見ればせっかちなくらいに早かったはずだ。しかし、現実は想定を超えて急展開している。 誤算はカナだ。この文鳥、実は昔から含むところがあったのか、換羽中の夫をあっさり見限り、独身になったハルの元に走った。明らか過ぎるほどの恋愛関係に入り、夫のデコをないがしろにし、それを追い払う勢いを示している。・・・素晴らしい、やはり女性の時代だったと思いつつも、数日は不倫を拒むだろうと目論んでいた飼い主の予想は、ものの見事に崩壊したのだった。 デコが換羽の初期と言うのも、実に間の悪い話であった。ただでさえボッーとした文鳥なのに、調子が悪くてはどうしようもないのだ。哀れ、妻と実父が仲良く連れ立っているのを、呆然と見守るしかない。 ・・・この際、ハルとカナを同居させ、デコと「アイ」を一緒にした方が良いのではないか。否、やはり早めに隔離を終えてハルのカゴに「アイ」を放り込み、ハルが強奪愛に向かうのを防いだ方が自然かもしれない。・・・悩ましい。 とりあえず、明日一日は「アイ」に異変が無いかよく見て、問題なければ、予定を一日切り詰めて明後日朝にハルのカゴに放り込もう。もし、少し怪しい点があったり、ハルと「アイ」がうまくいかなければ、様子を見つつ、デコとカナを離婚させ、デコの換羽終了を待って「アイ」と再婚させよう・・・か?・・・困ったものだ。【余禄】 実は今日でブログ開設一年だ。この間毎日更新している私は・・・・、何と偉いのかと自分自身に驚嘆している。ブログとは日記帳以外の何物でもない自分では思っているが、その日記と言うものをつけようと考えたことすら無かった人間なのだから、これは奇跡という以外にない。 何事もまず面倒だと考える私をして、自分の基準では無意味に近い行動を続けさせているのか、これは定かではない。と謎めかしたいところだが、たんに自縄自縛して習慣化するのに成功した結果に過ぎない。 三日坊主というが、とにもかくにも3日我慢して1週間頑張れば、たいていのことには慣れる。さらに1ヶ月続ければ、1年くらいさほど苦もなく続くものだ。そして、1年続けばさらに永続も可能だろう。 これが、もし不定期だと続かない。毎月何日に更新と決めたら意地でもそれを続けて義務化しなければならない。2、3日に一回書くなどと言うのは、かえって離れ業で、私には絶対に出来ない。「明日でいいや!」になって、なし崩しになるに決まっているのだ(『「教えて!」さんど~んと来い!!』はまるで更新していなかったではないか・・・)。それなら毎日書くことに決めてしまったほうが、よほど続く可能性がある(決まった曜日で書くことにすると、曜日を忘れてしまい、1回サボるとだんだん面倒になる)。 そこで、昨年の今日、突発的にブログを作ろうと思いついた時、毎日続ける習慣をつけるにはどうするかを、まず考えたのだった。そして、それは自分を毎日更新せざるを得ない立場に追い込んでやるのが一番だとわかった。そこで私は、毎日天気予報を見て、それが当たるか外れるかチェックするコーナーを、ブログの設定をするのよりはるかに時間をかけてわざわざ作った(本当は週間天気予報を検証してやるつもりだった。例えば日曜日の天気予報が月火水木金土でどのように「大きく!」変わるか・・・。気象庁自慢のスパコンを茶化すのにはその方が面白そうだったが、より面倒なので、対象を翌日の天気にしたのだった)。 この、自分の性格の悪さを読みきった作戦が奏功し、天気予報をおちょくりたいばかりにせっせと毎日更新し、そのことでブログへの関心を持続させ、結果毎日更新することの習慣化に成功したわけだ。一旦習慣化してしまえば、あとは惰性で続く。 つまり、一年休まず続けても性格が几帳面と見なすことは出来ない。自分で自分を罠にかけるのが、実にうまかったとは言える。とりあえず、更新が滞るブログの管理者には見習って欲しいところだ。日記は毎日書かないと書けなくなるので、書けないならブログよりホームページの方が気分的にはるかに楽だと思う。
2008年06月20日
コメント(1)
かっこよく変身中のポン・テン 予想通り、換羽に入るらしい夫のデコが・・・、否、普段でも夫の嫉妬など気にしないのだろうが、カナとハルの関係が怪しくなっている。今夜の放鳥時には一緒につぼ巣に入っているではないか。・・・とりあえず、4、5日でデコが追い払われないことを祈りたい。 後妻候補の「アイ」の方は、午前中までほとんどエサも食べずに固まっていたが、午後になってエサ入れにある大量のカナリアシードを食べあさり、下階から聞こえる文鳥たちの声に反応して鳴き、ブランコの鈴をかすめてカゴの前面に文鳥キックをお見舞いするようになった。おそらく、明日はもっと好き勝手をするようになるだろう。 環境に慣れさせるには、静かにしてそっとしておくのが基本だ。しかし、お店のような、仲間もいて、他の生き物の雄たけびが始終聞こえ、なおかつ人間がジロジロ見るような環境に長くいた文鳥を、一羽にして静かなところに隔離すると、かえって緊張してしまうものなのだ。こういった場合は、人通りのあるところで、適当に声をかけてやったほうが順応しやすいかもしれない。つまり、ケースバイケースなのだが、隔離の意味があるので、我が家の場合は「文鳥団地」から遠ざけねばならない。 さて、ポン・テンの換羽が進み、凛々しい姿になろうとしている。オス2羽。嫁探しはいつくらいからどうやって進めるか考えておかねばなるまい。
2008年06月19日
コメント(1)
文鳥墓苑の朝 昨夜は、ブログを挙げた時点ですでにアルコールが入っていたのが真相だ。放鳥終了後、掃除しながら濃い水割りを2杯飲んでいたのだが、もちろん意識はまったく正常で(私は嫌なことを忘れるために深酒をする習慣を持たない)、22時30分に「文鳥団地」で物音がした気がしたので様子を見に行ったのだった。その時ハルはブランコに乗っていた。カンは・・・、つぼ巣の中でこちらに顔を向けていた。目は閉じていた。寄りかかって眠っている様子だったが、すでに息はないようにも見えた。しかし、皆が寝静まった状態で騒動を起こしても何の意味もないので、そのままにして、当然のように本当に眠ってしまったのであった。・・・こういう人間は、精神病にはなりにくいだろう。 そして今朝、5時15分。昨晩見た時と同じ状態で冷たく硬直している亡骸を取り出し、キッチンペーパーに包んだ。カナリアシードなどの副葬品をティッシュペーパーに包んで添え、「文鳥墓苑」の墓石と敷石をどけて埋葬。墓石などを元に戻し、せっかくなのでお香を1本立ててみた。 お香のグレープフルーツの香りがたゆたう中で、2つのカゴの準備を始める。伝染性はないはずだが、ハルのカゴは取り替えねばならない。もう1つは、後妻候補を迎える準備だ。・・・かくして、後妻探しが間髪をいれずに始まるのだった。 京急K駅のガーデンセンター内。このお店は、昔は二度と近づきたくないような状態だったが、最近見たら大幅に変わっていて見直していたのだった。小ぶりなカゴに2台に、それぞれ5、6羽がひしめく中に桜文鳥もいる(ヒナも数羽別にいた)。開店してからエサの取替えなどをしている店の姿勢に悪感情を膨らませつつ、文鳥たちをよく観察する。みな胸にボカシが無いほど色が濃い。2羽は顔が大きく、アイリングが損傷しているようだ。1羽は健康に問題がありそうで、1羽だけ気の引かれる容姿の文鳥がいる。しかし、オスに見えた。むしろシナモンやシルバーや「シルバーイノ」の方にメスらしい綺麗な容姿の文鳥がいる。しかし、いずれも、どれがオスかはわからない。脚環もない。カゴが2つあるのは、それぞれオスとメスに分かれているのだろうか?とりあえず、店員のオバさんに尋ねてみる。 ・・・特にオスとメスに分けているわけではなく、その場の見た目で判断するそうだ。「オスの方がクチバシが大きく~」、例の能書きを語りだしたので、「あうぁ~、結構!」と言ったか、たんに「うぇ~!」と声ならぬ声を発しただけだったか、ついでに右手で払ったか、覚えていないが、とにかく話を強制的に打ち切り、「ここでは買わない・・・」と背を向けてさっさと出てきたのは確かだ。この店員さんだけの責任ではないが、そのうちに『お前らごときが見た目で判断できるなら苦労はしない!!』と声に出してなじる日も近いだろう。 適当にオスかメスか言ったとしても、当たる確率は50%はあるはずだが、見た目で分かると言い切った店で、性別が違わなかったことが無かったのだから、不思議なものだが、そんないい加減な話の相手はもうたくさんなのだ。 再び京急に乗りI駅で降り、歩いて昔からよく知る不衛生な鳥獣店に行く。相変わらず汚い。ざっと見たところ、オス6千数百円との表示のあるシルバー文鳥と、ペアで7千数百円の表示がある桜文鳥たちがいた。桜文鳥。オスにしか見えない方は、ずいぶん目が大きく色が濃い。メスの方もまだらだが悪くない。しかし、何となくこのカップルはこのままの方が良い気がし、無理に仲を裂くのは他に無い場合で良いだろうと思えた。やめて帰宅する。 午前中は失敗だった。家での仕事を終え午後の部開始。 再び京急に乗り杉田で降り、JR新杉田駅に行く。途中にあったペットショップは無くなっていたが、想定内で、そのまま京浜東北線K駅で下車、かなり歩いてホームセンターにたどり着いた。・・・とりあえず、入り口で家族に頼まれていた『ペンタス』とかいう星型の花を買い、地下のペットショップへ行く。・・・サルやら猛禽類やらシロハラインコやら何だか良く知らないフィンチ類やら、相変わらずいろいろいるが、桜文鳥しか眼中に無い。基本的に綺麗なお店(と言うよりコーナー)だが、いろいろな生物がいる場所には長居したくないのが本音なのだった。 桜文鳥。シルバーと一緒のカゴに1羽とペア状態の2羽(台湾産と表示されたヒナもいた)。どれも合格点だ。確かコウを買った時は、脚輪のあるのがメスだったが・・・、と思いつつ見たが脚がよく見えない。せっかくなので店員のお姉さん(にしておこう)に聞くと、果たして脚輪がある方だという。ペアの1羽に赤い脚輪が見えたので、それをくれと言う。その後、お店側が入荷日や出身地の確認で手間取る内に、シルバーの方にも黄色い脚輪が見えた。こちらの方が色が濃いですよと店員さんは言う。確かにそうだが、容姿は赤脚輪の方が好みだ(シルバー組の方は頭が小さく見えた)。それにさえずっていた相方と仲良く寄り添っていた。一方の黄脚輪は、シルバーの相方とカゴの端端に分かれて止まっている。・・・これは、赤脚輪の方がペアにしやすいことを示しているのではあるまいか。 そういったことを考えるうちに、店員さんの確認作業は終わり、その文鳥が愛知県出身で昨年の8月からこの店にいるという申告を受けた。ずいぶん売れ残ってしまっていたようで、少々気がかりな面もあるが、年齢的にはハルの後妻にちょうど良いだろう。 確認書に住所・電話番号・氏名の記載を求められた。これは、「動物愛護法」で飼養についての説明を受けたことの確認のため署名するようにされていることから流行している行為だが、あれは普通に考えればサインすれば良いだけのはずだ。・・・プライバシー問題に発展しかねない困った過剰反応だと思いつつ(嫌な人はでたらめを書けば良い)、さっさと記入して帰る(5,200円)。 羽を間引き切りし、爪を切ってカゴに入れて、脚輪を取り、脚の角質を見て、確かに2歳になっているかもしれないと思いつつ、「文鳥団地」からははるか遠くに隔離する。店員さんの指を思い切り噛んでギャーギャー叫んでいたが、激変に固まっているようだ。とりあえず来週まで隔離する予定だが、名前は愛知県産を信じて「アイ」にしようと思う。少し年季の入った「アイ」
2008年06月18日
コメント(9)
病身の妻を守るハル ブログは欠かさなかったおかげで、記録が正確に残っている。 カンが調子を崩したのが今年の1月2日。お腹を見て胆のう腫らしいと判断したのが2月3日だ。この間良くなったり悪くなったりで、市販薬などを与えていたが意味がないので止めた。そして、「死病に余計な治療などするほうが酷だ」と考え、初めから病院に行くことは一切考えず今日に至っていた。 「青色のしこりを発見してから、だいたい半年から一年以内に」亡くなってしまう不治の病だが、昨夜はいつもどおり湯漬けエサを食べ、特別メニューのエダマメも食べていた。それが、今朝少し元気がなく、13時頃には下段の止まり木の上で、嫌な感じに丸くなっていたのだった。 なお、この嫌な感じに丸くなると言うのは、おそらく経験しないとわからないだろうが、よほど鈍感でなければ、初見でもすぐわかるはずなので、未経験者は気にすることは無い。気にしたくなるくらいに関心を持って文鳥と接していれば、異常と言うのはわかるものなのだ。 さて、経済上の用事がある。看病しても治らない。どうするかと言えば、私はカンを指に乗せて上段のつぼ巣に戻してやり外出した。そして、・・・自分の中の数パーセントは釈然としないくらいだから、他人には理解できないだろうが、用事ついでに足を伸ばしてメス文鳥が売っていないか見に行ったのである。だが、セキチューみなとみらい店にいたメスの文鳥は、少し目付きが悪く肉付きがやたら良さそうなシナモン文鳥と、ごま塩加減の桜文鳥だけだった(後はオス数羽と静岡県産の桜文鳥のヒナが1羽いた)。 いくら何でも不謹慎だろうと言うのが、私の中の数パーセント、少数派の意見だ。しかし、もし夫のハルと引き離して隔離し、一所懸命看病し、今日の危機を越えても、不治である以上、それは闘病が長引くだけとも見なせるし、それでも結局は亡くなる。亡くなれば遺されたハルは、その日のうちに他所の女房(息子ハルの嫁のカナが第一候補)に言い寄るのはほとんど自明で、はるかに腕力のある父が息子の家庭を破壊するのを防がねばならない。つまり、遅かれ早かれ後妻は必要なのであり、万一うまくいかなくてもポン・テンの妻にすることも出来ると、三分の二以上の圧倒的多数の説得力ある意見は動かしがたい。私は、それに従って行動しないわけにはいかない。 15時30分。家に帰りカンを見ると、つぼ巣で丸まっている。安心半分の複雑な思いを抱きつつ(短い方が楽という意見も有力だ)、以前ゴンのために作っておいた療養用ケージを持ち出し、とりあえず湯漬けエサをかじらせてみることにした。逃げる元気はないので、簡単につかみ出せる。事態が飲み込めていないようでボンヤリしている。湯漬けエサをクチバシに付けてみても無反応だ。・・・そのまま手のひらに置き様子を見ると、2,3分後に意識を取り戻したようで、目を開いた周りを見渡し、湯漬けエサを少しかじってくれた。しかし、あまり手の中でのんびりしたくもなさそうなので、ハルの待つカゴのつぼ巣に帰す。 夜の放鳥時間。また下段の止まり木で丸くなっている。一段と体が冷たく感じられ、クチバシは細く見える。フンを確認すると、これは黄色っぽい粘液のひどい下痢状態だ。 さて、カンはどこで最期の時を迎えたいのだろうか?手の中、面白いもので、近くにハルが来ると湯漬けエサを食べるが、実際はもう食べる気はないようだ。しばらくじっとしているが、上に行きたそうなので、いつものように上方のつぼ巣に送って行く。放鳥時間が終わり、様子を見ると、ウトウトと眠っている。静かにつかみ出し、いちおうアルカリ水に少々パウダーフードを溶かした物を与えてみる。飲み込むのも厄介なのだろう。鼻から出てしまう。余計なことをせずカゴのつぼ巣に送っていく。転げ込むように中に入っていった。きっとここが望みの場所なのだろう。 後は何もせずに、飼い主も水割りでも飲んで寝てしまうべきだ。
2008年06月17日
コメント(3)
神経衰弱にならなかったヤッチ ヤッチの換羽は最高潮に達しているが、今年は神経質になり過ぎることはなかった。相変わらず手のひらには乗らないが、腕に乗って普通にカゴに帰ってもくれる。もちろん妻のサイとの関係も良好だ。 コソコソと他の文鳥たちがいなくなってから、エダマメを拾い食いする姿は、我が家の8代目として情けないものがあるが、贅沢なことは言えない。多少神経質なくらいは良いのだ。手がつけられない異常よりは・・・。 ・・・出来れば、元のおだやかな優等生で人間好きの性格に戻って欲しいものだが。【余禄】 「文鳥墓苑」の植木(盆栽)の白南天が咲いている。昨年は咲かず、花が綺麗だとは聞いたことがなかったが、悪いものでもないように見える。 花が咲いた以上、実をつけてくれるものと期待したい。
2008年06月16日
コメント(0)
モヒカンミナと換羽を終えたクラ ミナの換羽が、ようやく本格化しそうな様相を見せている。絵に描かれるような姿に戻って欲しいものだ。【余禄】 絵と言えば、適当に検索していたら、興味深いサイトを発見したので紹介しておきたい。 『二人散脚』と仰るサイトで、ご夫婦でいろいろとお調べになったことを公開されている↓。 http://www18.ocn.ne.jp/~bell103/index.html 文鳥の事も綿密に調べられていて、まだじっくり拝見していないが、実に参考になる内容であった。不勉強で知らなかった貴重な情報の数々に感謝感激だ。 ・・・とりあえず、台東区下谷の小野照崎神社の絵馬は何かのついでに買ってこようと強く思っている。
2008年06月15日
コメント(1)
『揚州』5、『ネパール』2、ともに順調に成長している。 しばらく梅雨らしからぬ日が続くらしいので、さらに期待したい(画像は『揚州』)。
2008年06月15日
コメント(1)
凶悪な事件や災害で亡くなられた人たちや残された遺族の方たちに哀悼の意を告げる際、「ご冥福を祈ります」という言葉が頻繁に使われますが、これについては異論があるようです。 実は私も、「我が家の文鳥が亡くなりました」と言われた時、さて何と言えば良いのか、いろいろ考えた末に、結局面倒なので「ご冥福をお祈りします」と返信することにしています。いったい何を悩んだのかと言えば、特定の宗教を信心されている方の気分を害する可能性に気がついたのです。 何しろ「ご冥福を祈る」とは、死後に霊魂がさ迷う世界とされる冥土(冥途・冥府・冥界)での道行き良かれとお祈りする意味ですから、この冥土を仏教の専門用語としてのそれ、つまり地獄の通じる領域と認識すれば、あたかも地獄へ行けと催促しているといった解釈が成り立ってしまうのです。その点、まずは専門家の意見を参照いただきたいところです。 大谷大学のお坊さんのご見解 http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/173.html しかし、この解釈は仏教でも浄土真宗、それも原理的な考え方に基づくもので、おそらく過半数の日本人の感覚というか宗教感とは異質なもののように思えます。 そもそも、この際断言しますが、当の日本仏教界自体が良くも悪くも非原理的で世俗的です。これは、例えば普通に僧侶が妻帯している事実からもあまりにも明白です。普通何らかの教義に基づいた宗教において、国家が妻帯を刑罰の対象からはずしたからと言って、宗教原理に反するような妻帯をなし崩しに許してしまうはずがありません。何しろ宗教とは政治とは別個に存在するはずのものですから、それが当然なのです。ところが、日本の仏教界は、明治5年に「僧侶肉食妻帯蓄髪並ニ法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」と政府が太政官布告を出すと、なぜか破戒行為が普通のことのようになってしまいました(カトリックの神父は、別に国の法律に違反するわけではありませんが、妻帯すれば当然その地位を教会から剥奪されます)。もちろん私個人は、僧侶の妻帯に反対する気はまったくありませんが、妻帯僧侶は、聖俗で言えば思い切り俗な存在としか言いようがありません。 その点、浄土真宗は元から僧侶が妻帯する珍しい宗派なので、批判には当たらないと言えるでしょうか?何も宗祖である偉人に及びもつかない凡百が、その点だけ真似をするのはどうかと思いますが、それはさておき、死=阿弥陀様による救済と考え、七七、四十九日の冥土の旅を否定するなら、やはり当然のことながら四十九日法要をするのは控えているのが、この宗派の原理原則のはずです。ところが、実際にはこの宗派にあっても大いに励行されています。何しろ日本の習慣上広く行われているので、原理原則上は否定されるべき(少なくても必要性の正統的根拠を見出せない)この法要を行わざるを得ないに相違ありませんが、それは便宜主義・ご都合主義であり、ようするに原理的ではないのは明らかです。 そうなると、世俗に合わせてに宗教上の原理原則を変えているサイドの人たちが、一般人が慣用句として用いている言葉の重箱の隅、言葉尻を捉えて、専門家面で原理原則に反するなどと批判するのは、正直片腹痛いだけではないでしょうか? 従って、私は浄土真宗的な原理は考慮しないことにしました。 そもそも、「冥土」の聞いて、それが地獄のとば口だと認識すること自体、普通の発想ではありません。例えば、「正月は冥土の旅の一里塚」といった慣用句を年寄りが口にしたとして、自分が悪逆で地獄に行くこと必定だと宣言していると聞き取る人はいないはずです。これは冥土=漠然たる死後の世界くらいに認識し、そこへ一歩一歩近づいているのだから、よく生きなければいけないといった自戒を込めた言葉だなぁ、と何となく考えるのが普通でしょう(昔は誕生日に関わりなく、正月を迎えるごとに年齢を重ねた【数え年】)。また、「冥土の土産にする」もよく耳にする言葉でしたが、この冥土を地獄と規定して、鬼への語り草とするつもりだと考える人はまずいないでしょう。きっと死後に極楽なり天国なり何なりで先に亡くなっている親しい人に会って、自分の経験したことを話すのだろうと、漠然と受け取るはずです。 つまり、冥とはご臨終瞑目した後の漠然たる死後の世界の意味以外に意識していないのが、昔から日本の一般人としてごく普通な感覚なのです。そして、その福を祈るとは、祈る者にとっては未知な死後の世界で、亡き人が(それを感じ取ることが出来るなら)幸福であって欲しいと、ごく素朴に祈る以外の何物でもあり得ません。そういった普通の言葉の解釈に、賢しらに仏教原理など持ち込むなど、浮世離れしているだけでしょう。 それでも、当然ながら他の言い回しも考えました。浄土真宗やキリスト教徒の内部で薦められているらしい「哀悼の意を表します」ではかた苦しすぎるので、「お悔やみを申し上げます」なら使いやすいと思ったのものです。しかし、浄土真宗にせよキリスト教にせよ、よく生きて神仏の元に導かれた善男善女の死を悔やんで良いのでしょうか?そこが不信心者には悩ましいところです。 もちろん、その宗派の今現在の研究者なり権威がそれを可とし、それを信じて使っている信者に他人が意見する必要は皆無だと思います。まして、私などは、そういった言葉は、どういった文句であれ誠意の問題で、他人から「お悔やみを申し上げます」と言われても、さらに祈ってくれる人の信じる神に向けた言葉であれ(言われたこちらはまるで実在を信じていない)、まるで気にならず、言葉の細かな解釈などより、何にせよ気にかけてくださるお気持ちに感謝するだけです。 しかし、自分でいろいろ意識してしまえば、「お悔やみを申し上げます」は「ご冥福を祈ります」よりも引っかかるものがある言葉なので使用しなくなりました。と言うのも、例えば闘病の限りをつくして亡くなった場合、悔やむべきことなど、亡くなった者にも看護した者にもないような気がしてならなかったからです。悔やむとは、何か心残りに思うことを示す意味の言葉に相違なく(辞書には「失敗したことや、十分にできなかったことなどを、あとから残念に思う。後悔する」とある)、細かく考えてしまえば、よほど失礼な気がしないでもないのです。 亡くなった者にも、それを見届けた者にも、私はねぎらいたい気分が強いです。まして、私の場合は亡くなった対象が文鳥ですから、飼い主が先立たれて残念な気持ちは十分に理解できても、飼い主が看取ってもらわないと困ります。従って、飼い主に対しては、残念というよりしっかり義務を果たしてえらいと褒めたい気持ちを強く持つことになります。となれば、「ご苦労様でした」か「寂しくなりますね」くらいしか、本来言える言葉がありません。ところが、それらは特別に「弔意」を表す挨拶ではないですし、まして不慮の事故に際して「ご苦労様でした」では嫌味になりかねません。また、寂しいに決まっているのに、それをわざわざ口にするのは、個人的にわざとらしく思えてしまうことも多いです。 そのようにあれこれ考えた挙句、よほど学問的に細かに考える人でない限りは、宗教上多少気になっても、慣用句として聞き流すか、意を汲んでくれるものと考え、すべて「ご冥福をお祈りします」と表現することにしました。 それがどういったもので、あるのかないのか知るはずもありませんが、その死後の世界なるもの、もしくは神仏のお側なりに旅立っていった者が、それぞれが望んだ望ましい方向に向かうことを、他人ながらに勝手に祈念する意味と考えるなら、むしろ「ご冥福をお祈りします」は、宗教を問わず何にでも適用出来るはずの言葉だと信じます。 亡くなった人やその遺族、人間とその他の生き物を同列にしては怒られそうですが、亡くなった文鳥とその飼い主、それぞれの望む方向にあって欲しいと、ご冥福を祈ります。
2008年06月15日
コメント(1)
変身中のポン・テン 東北地方で大きな地震が起きた。関東南部はさほど揺れなかったので、我が家の文鳥たちはへ依然としていたが、震源地に近い地域の文鳥たちはさぞ驚いただろうと思う。 地震列島に住む身としては他人事ではないので、こういった際は自分たちの住む地域で起きた場合のことを考えねばならない。大きな地震が起きたら、文鳥たちをどうしたら良いのか、である。 とりあえず、文鳥と飼い主が生き延びなければ話にならない。生き延びても倒壊家屋から文鳥が外に出てしまえばどうしようもない。とりあえず倒壊せず、飼い主と文鳥たちが無傷であった場合、これも問題だ。避難先に鳥を持ち込むのは難しい、と言うより、他人の迷惑になる。数日経てば、ボランティアに一時預けることは可能かもしれないし、被災地を避けて疎開させることも出来るかもしれないが、とりあえず2、3日は生き延びさせなければならない。従って、エサは少し備蓄して、鳥カゴを置けるテントくらいは用意しておいた方が良いかもしれない。 ・・・、などといろいろ考えても、おそらく実際に起きれば、その都度考えなければならないことが多くなるものと思う。平時に考えても机上の空論に過ぎないことも多いのだ。とりあえず、鳥カゴが倒れにくいようにして、エサや水は用意し、後は鳥カゴを持って右往左往する覚悟をしておくしかないのだろう。 さて、ポン・テンの換羽が進行している。すでにテンの「眉毛」は無くなり、ポンもヒナ羽毛を脱しつつある。やはり両羽とも、スリムな美鳥になりそうだ。楽しみなところだ。
2008年06月14日
コメント(0)
本日、東北地方で大きな地震がありました。現在も余震が続き、被害の全容も明らかとは言えず、行方不明者の安否が気遣われる状態にあります。 で、ありながら、先ほど(17時30分頃)1チャンネル、NHKを視聴したところ、プロ野球中継(埼玉ライオンズ対広島カープ)をしていました。・・・唖然としました。これはどういった了見なのでしょうか?地震発生以来関連のニュースを続けて飽きたわけではないでしょうが、なぜ野球中継なのでしょう?私にはまったく理解できません。 日本の一地方に激甚災害が起き、日常生活を送れず、もちろんテレビも見れない人があふれ、生死が危ぶまれる人もいる状況で、たかが一部の趣味人の娯楽に過ぎないプロスポーツの中継など、どういった頭の構造を有していれば放映出来るのか、思わず苦情の電話を入れようと思ったほどです(おそらく私よりアクティブな人から、山ほど苦情があったはず)。 確かに、民放を含めて各局が同じような緊急ニュースを放映されても、横並びでうんざりするかもしれませんが(いやな人は黙ってTSUTAYAへ行け!)、そのために、関東地方には12チャンネル(テレビ東京)という輝かしい存在があります。おそらく、たんに全国ニュースをカバーするほどの取材力もネットワークがないだけでしょうが、この局は、何があっても緊急特別番組など組みませんから、それがアニメであれ、演歌番組であれ、必ず番組表どおり粛々と放映してくれるはずです。天災に遭った昔風に言えば同胞である国民に背を向け、娯楽番組を放映したい「どちら様のNHK?」でありたいなら、国営放送などやはり無用の長物だと思えました。 さて、関東地方、特に私の住む南部は、60年に一度は大きな地震が起きると言われています。前回の関東大震災は1923年でしたから、すでに80年以上過ぎており、明日起きても不思議はないというのが、もっぱらの評価です。 何十年のずれなど珍しくないとは言え、いつ起きてもおかしくないのは本当でしょう。しかし、関東大震災にせよ、東海地震にせよ、海洋プレート型の大地震の脅威ばかりを強調しすぎているように、私には思えて仕方がありません。何しろ、今回も、昨年の能登半島地震も2004年の新潟中越地震も、1995年の兵庫南部地震も、すべてプレート内部の活断層による地震です。つまり、日本には近くに活断層がない地域などまずないので、本来どこに住んでいても、いつ自身に遭遇するかわからないのが現実です。 しかし、何となく安全だと思わされてしまっている地域が多いようです。気づかないだけとも言えますが、例えば地震保険料の地域偏差を見ると、「思わされている」ような気がして仕方がありません。 財務省「地震保険制度の概要」 http://www.mof.go.jp/jouhou/seisaku/jisin.htm#04 東京都・神奈川県は非木造でも年16,900円ですが、兵庫県も新潟県も6,500円で、昨年の石川県や今回の盛岡県などは5,000円です。活断層についての研究などまるで不十分な状態で、何を根拠に保険料を決めているのか知りませんが、とりあえずこれを見たら、保険料の低い地域の人はまだ安心だと(少なくとも危険性は三分の一以下?)、かえって誤解してしまうような気がします。 そこが日本である限り、どこの地域でも明日はわが身と思って考えたいものだと思います。
2008年06月14日
コメント(0)
行動的なカン 梅雨の晴れ間などという言葉は、今年は当てはまらないようだ。晴れの間に雨が降る。晴れ間の方が長いのだ。 秋葉原の歩行者天国が当面中止だそうだ。当然だろう。7人も亡くなっている現場で、へらへら笑って歩く気分になれるはずもなく、ましてコスプレなど論外だろう。七七、四十九日か、人のうわさも七十五日は自粛しなければ、人間性が疑われよう。 さて、空梅雨のおかげか、文鳥諸君は好調のようだ。今日も飛び出してきたゴンは、最長不倒を記録したため、クッションの外に落ちて、飼い主に冷や汗をかかせるほどだ。 一方産卵中のシズたちは抱卵を始めない。これは暑さの影響なのか、明日あたりから始めるのか、ちょっと予想できない。 我が家のホコ天ならぬ放鳥は毎晩で、仲間が亡くなっても自粛はなく、病気であっても悲壮感がない。これは主役である文鳥という生き物の性質によるものだろう。ありがたい事だ。今現在明らかに重篤なカンも、行動そのものは元気でむしろ滑稽と言える。今日も湯漬けエサを食べに「降って」きたし、目測を誤って人間の胴体にベタリとへばりついていた。 とりあえず・・・、今年は冷夏で・・・。
2008年06月13日
コメント(1)
二重尾羽のアト 換羽。新婚のアトも換羽となった。現在尾羽が二重の状態だが、経験則から言えば、この後どっと抜けてくるはずだ。 ミナもようやく換羽になる気配が見える。さっさとオンボロの不思議生物から文鳥の姿に戻って欲しいところだ。 ゴンの換羽は相変わらずゆっくりと進行中。最近はアワ玉をよく食べている。頑張ってもらいたい。 困ったことに、お腹がこれ以上ないくらい大きくなっているカンにも、換羽が始まりそうな様子になっている。毎晩、外に出てきて湯漬けエサを食べ散らかすのを楽しみにしつつ、こちらにも頑張ってもらおう。
2008年06月12日
コメント(1)
今日はトウモロコシ、そして手前がシズ・・・ 朝、エサ交換時の短時間一部放鳥。シズがシャープな体型になっているので巣の中を確認すると、すでに2個の卵があった。今朝方まとめて産んだのか、1個は昨日すでに産んでいたのかわからないが(文鳥の卵は約1日に1個形成されるが、前日の卵が産卵されずに止まり、翌日分と間をおかずに産卵となることもありうると思う)、とにかく顔色一つ変えずにケロッとしている。 私の何となくの基準では、シズのような容姿の文鳥は難産タイプとなるのだが(すらっとした容姿の方が安産という思い込み)、この基準は当てにならないようだ。極め付けの安産タイプに相違ない。有り難いことだ。
2008年06月11日
コメント(2)
『揚州』5株、『ネパール』2株(写真)、順調に成長しています。『ネパール』は、あと3粒小さな種を撒いてあるので、忘れた頃に後1つくらい芽吹くかもしれません。
2008年06月11日
コメント(0)
お腹の大きなシズ 周囲が換羽する中で、お気楽なシズは産卵をするつもりらしい。 このままでいくと、換羽せずに来年の春まで産卵を続けるかもしれない。いっそ一回1羽だけ孵化させて育てさせたほうが良いかもしれない。もし、50%の確率でメスになってくれたら、ポンの妻候補に出来るではないか・・・。名前は真夏育ちだからマナで良いし(オスでも)。 いちおう、その可能性も考えておこうと思う
2008年06月10日
コメント(0)
エダマメを食される「ボロッチ」さん 換羽期のヤッチと言えば、確か一昨年は内蔵炎で衰弱して飼い主の心胆を寒からしめ(中古つぼ巣の破壊行為が原因か)、昨年は空前絶後の極端な神経衰弱で飼い主の焦燥を煽り立ててくれたものだ(妻を含む世の中のすべての存在を怖がり、回復すると理不尽な復讐を妻に始めた)。 今年はどうなるものか、まさに薄氷を踏む思いであったが、「ボロッチ」状態になったものの、神経過敏で手がつけられないようでもなく、夫婦仲も良好だ。また、放鳥時間が終われば二の腕に飛び乗って静かに帰ってくれる。 実にありがたい。このまま無事に換羽が終わることを祈るばかりだ。
2008年06月09日
コメント(1)
帰宅拒否症のテン 換羽中のテンが帰宅拒否症になっている。否、帰宅拒否というより指先不審症と言うべきか、とにかく指に乗せて帰そうとされるのを拒否する。 今朝は、なだめたりすかしたりしつつ、何とか腕に乗せ、何度も間を入れつつ試みて、ポンの助けもあって(迎えに来るのである)、何とか30分後に帰すことが出来た。何しろ、このお坊ちゃんは自分では帰れないのだ。 昼は、自粛してカゴの外に出てこなかった。夜は、少々手こずらせながらも指に乗って帰った。これはあり難かった。何しろ、昨日、一昨日は、真っ暗にして捕獲しなければならず、捕まえると断末魔の叫びをあげたのだ。 ヤッチの孫でもあり、神経が繊細なのだろう。早く換羽が終わって落ち着いて欲しいところだ。 なお、今日はゴンが落ちてきた。こちらも捕獲時にギャーギャー叫ぶのだが、低反発クッションにより、落下の衝撃は問題なさそうだ。
2008年06月08日
コメント(0)
換羽を終えたシン シンが再び美しい姿になった。尾羽の付け根に残っていた有色羽毛も無くなり、順調に純白となった。 一方、その息子で所帯を持ったアトは、これから換羽になる気配だ。ボロボロになって夫婦仲がこじれたら面白いと、密かに期待している。
2008年06月07日
コメント(1)
キューと付き鳥と妻鳥 八百屋で3本398円のトウモロコシを買ってきたので、ゆで蒸しにして(塩を入れない少ない水でフタをしてゆでる)文鳥たちに振舞った。 文鳥という生き物は、半年振りに箱巣を見せると忘れたかのような態度をとるのだが、エサに関しては実に良い記憶力を有している。一度この味を知った文鳥たちは、迷いもなく、一瞬のためらいもなく、群がり食べ散らかし始めた。 一方、この食べ物を見たことのないポン・テン・アト・シズは(テーブルに降りて来ないシン・メイは問題外)、シズをのぞいて始めは警戒をしていたが、やがてその味を覚えたようだ。なお、言うまでもないことだが、シズは始めから興味深々であった。 来週もどこかで買ってこよう。
2008年06月06日
コメント(2)
大福文鳥 メイはお尻の辺りにわずかに有色羽毛があったはずだが、今回の換羽で純白になったようだ。色つやが良く、実に福々しい姿になっている。 この文鳥は、オマケに先立たれてから、毎晩交尾するものの産卵はしなかったので、余力は十分にあるはずだ。秋を待たずに産卵を始めるのではないかと、不安になってきている。
2008年06月05日
コメント(0)
眉文となっているテン ポンとテンのヒナ換羽を兼ねた換羽が進行中だ。名残惜しいところだが、どちらもきっかりと色の濃い端整な桜文鳥になってしまうことだろう。 ところで、後輩のくせにとっくの昔におとなの姿となり、妻帯者にまでなったアトは、予想通り人間とは疎遠になりつつある。何しろ、あの年上の妻はテーブルの上に降りてこないので、誘うのをやめて、自分も物を食べるとき以外は上空で過ごすようになってしまったのだ。・・・姑の気持ちがわかるというものだ。
2008年06月04日
コメント(1)
クチバシの羽毛を気にするカナ 文鳥たちが騒然としていると思ったら、ゴンが出てきていたようだ。嫌な音がしなかったので、今日はうまく2連クッションの上に落下したようだ。抵抗し悲鳴をあげるのを拾い上げテーブルの上に置く。・・・おかげで誰も近づかない。 と思ったら、カナが肩にやって来た。よく見たらクチバシに羽毛がくっ付いている。取れないで気持ちが悪いので、何とかして欲しいのかもしれない。しばらく様子を見ていたが取れそうもないので、電気を消して捕獲、取って差し上げる。特にうらむ様子はないが、感謝しているのかは微妙だ。
2008年06月03日
コメント(2)
雨が降り続け肌寒かったですが、天気予報が強調したほどの強い風は吹きませんでした。 朝顔たちは無事でした(右奥が西洋朝顔)。
2008年06月03日
コメント(0)
我が家の生活を謳歌するシズ シズは我が家生まれの文鳥ではないし、非手乗りとして売られていたのだが、今や好き放題だ。否、初めから遠慮など欠片もしていなかった気がするが、最近はより楽しげに、他の文鳥より以上に、めまぐるしく動き回り食べ散らかしてくれている。 夏季の月曜日は基本的に枝豆の日となるが、これも大変に気に入ったらしく、ほお張りまくっている。この文鳥の場合、人間の手の上にも平気で乗るし、あのゴンナ様が横にいても気にせず、誰が威嚇しようと相手にしないので、何であれ、いつであれ、望めば何でもかじることが出来る。実に得な性分と言えよう(オスには襲われることもなく、嫌われてもしない)。 ・・・しかし、なぜ故に写真にすると憎らしげになるのか、それがわからない。
2008年06月02日
コメント(2)
『揚州』5つ、『ネパール』2つが双葉となりました。この原種系朝顔の双葉は、緑色ではないのが特徴的かもしれません。 『揚州』の方は、2つを別のプランターに植えかえ、そこに西洋朝顔ヘブンリーブルーも1つ加え、やはり3つ編成にしました。この西洋朝顔は、原種や日本の朝顔とは別種になるので、交雑は起きないようです。種になった時も形が違うので、間違うことはないと考えています。 一方、『揚州』と『ネパール』は葉の形が違うらしいのですが、おそらく種になると区別が付かなくなるので、ベランダの両端に分けて置くことにします。昆虫により自然に交雑してしまう可能性は否定できませんが、これはやむを得ないところです。 心配なのは、今日例年より早く入梅し、明日は低温で暴風雨になるかもしれない点です。いちおう軒下に移動させましたが、無事を祈りたいところです。
2008年06月02日
コメント(0)
静かに換羽中のゴンナ様 ゴンは調子が良いのかもしれない。ゆっくりと換羽中だが、食欲は旺盛だ(青菜を食べないのが気がかり)。今夜はなかなか積極的に飛び出した。・・・しかし、そのため落下を想定したクッションを20cmほどオーバーしてしまったのであった。 クッションはより大きなものを用意しなければならなそうだ。
2008年06月01日
コメント(0)
全42件 (42件中 1-42件目)
1