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第17回「同志がいる」という心強さ豊生会元町総合クリニック院長 池田 慎一郎さん 周囲の友の「生老病死」の苦悩に〝わがこと〟のように寄り添う いつまでも若々しく、健康で暮らしたい。それは誰しもが願うところでしょう。私がかつて、消化器外科医として多くのがん患者さんにかかわってきましたが、その願いに向けて年々、医療も進歩していることを感じます。すい臓がんの根治手術の入院期間を例に挙げれば、30年前は3~6カ月近くかかることが多かったのが、今では2~3週間で退院することも可能になりました。しかし、病気そのものがなくなったわけではありません。日本では今でも2人に一人ががんになり、4人に1人ががんで亡くなっています。一方、この20年間で平均寿命は3歳延びました。それは喜ばしいことですが、身の回りのことを一人でできる「健康寿命」との差を見ると、20年前も現在も10年で変わっていません。この数字は、〝誰かの介助を必要としなければならない期間の長さ〟を意味します。つまり、老いの悩みは変わらずにあるということです。医療現場は、そうした「生老病死」の悩みと向き合う最前線ですが、それは突然にやってくるからこそ、一人一人が真っすぐに見つめ、体力的にも精神的にも、また経済的にも含めて準備していくことが大切だと思っています。 学会活動での経験では、どうすれば、そうした捉え方ができるのでしょうか。結論から言えば、仏法の生命哲学を学び、唱題行を実践し、学会活動を通して同志と切磋琢磨する中で培われるものだと思います。そんな私も、26年前まで入会しておらず、信仰にも無関心でした。私の心が変わったのは、看護師だった妻と結婚する1年前、妻の両親のもとへあいさつに伺った際、妻の「この信心は私の生き方です。理解してもらえず結婚できなくなっても、私の信心でみんなを必ず幸せにしてみせる」との確信の言葉に触れたからです。実は当時、妻の両親は信心に反対で、私との結婚を機に学会を辞めさせようとしていたのです。しかし彼女の決意は揺るがず、むしろ私も〝そこまで言える宗教とはどんなものか知りたい〟と思い、入会しました。とはいっても、すでに医師として多忙な生活を送っていた私は、会合にもほとんど参加できませんでした。本格的に信心と向き合ったのは、結婚後にアメリカに留学する機会を得て、その地で活動するようになってからです。アメリカで忘れられないのは、池田大作先生の『法華経の智慧』などの書籍を、メンバーと勉強会で学び合ったことです。そこには80~90代のパイオニアのメンバーも参加していました。先生の著作を明るく学び合い、前向きに生きようとする姿に触れ、宗教や老いることへのイメージが大きく変わりました。また法華経寿量品について学ぶ中、「永遠の生命」や「死後」について語り合っていることも心に残りました。仏法では、私たちの生命は今世だけでなく、過去世・現在世・未来世と、三世にわたるものと説いており、生命は永遠に死を繰り返していると捉えています。その勉強会は、私にとって衝撃的でした。病気と闘う患者さんと接する中で、私自身は生老病死を身近なものと捉えてきましたが、それは病院内での出来事で、多くの人にとっては普段から意識するものではなく、〝自分とは関係のないもの〟と思い込んでいる人もいるのではないかという感覚があったからです。〝いつまでも生きていけると死から目を背けるよりも、〝この人生はいつか終わる〟という有限性に目を向けられる人の方が、今を大切にできます。さらに〝死んだら終わり〟ではなく、〝次の人生の始まり〟と捉え方が、人生の最終章まで「生」を輝かせていくことができます。池田先生も『法華経の智慧』の中で、「『生と死を学ぶ』という意味で、創価学会の教学運動は、時代を先取りしてきた」と語られていますが、まさに仏法には説得力があり、学会の中で鍛えていくことは、自らが悔いなき人生を送る力となり、医師としての力にもなると確信しました。 仏法が目を向けるのは——「病」だけでなく「人間の幸福」 現代医学との違い私は、現代医学と仏法とでは、見ている根底の部分に違いがあると感じています。それは、患者さんをどう見るかにも表れています。例えば、現代医学は病気の原因を臓器ごとに究明し、臓器別に診療する中で発展してきました。それによって高度な治療が可能になり、さまざまな病気を治せるようになってきました。それは良いことですが、臓器は健康になっても心身のバランスが崩れ、逆に不健康になってしまうというケースも出てきています。そうしたことを踏まえ、今では全身をトータルで診る「総合診療」を掲げる病院も出てきましたが、全体から見ればまだ少ないのが現実です。また医学部では、死について当然のように学ぶだろうと思われるかもしれませんが、実は私が医学生だった時、死について学ぶ機会はありませんでした。それは、医療はあくまで病気を治すためにあるとの認識があったからかもしれません。もちろん、今では死について考え、患者さんの心に寄り添う体制が整ってきましたが、これまでの流れの根底には「人間」ではなく、「病」だけに目を向けてきたことがあると思えてなりません。一方、仏法はどこに注目してきたのでしょうか。古代インド医学では、患者を身体という物質的側面だけでなく、心も含めた「生命」という視点で捉え、一人一人がいかに幸福な生活を送っていけるかに心を砕いてきました。そして、仏典には、こうしたインド医学の真髄が取り入れられました。つまり、仏法では「病」だけでなく、「人間」や「人間の幸福」にも目を向けてきたのです。私は現在、外来受診、訪問診療を通し、病気だけではなく、患者さんの全体像を診ることを意識しながら診療に当たっています。その中で、ご高齢の患者さんと向き合うことも多いのですが、超高齢社会を迎えた今、こうした視点は重要だと思っています。年を重ねれば、身体機能が衰え、病気にもなります。それが治るものならば、治療することが大切ですが、衰えた体力では治療による身体へのダメージも大きい。そこで大事になるのが、目の前の患者さんが、どうすれば一日でも長く、自分らしい人生を歩んでいけるかを考えることだと思うのです。 心理状態と生存率仏法では、「人間の幸福」に目を向けているからでしょう。患者の気持ちが前を向けるよう、周囲の関りも重視しています。例えば、仏典には〝医学の知識のみで治療するのではなく、慈悲の心が大事である〟(金光明経)と意思の心構えが記されていますし、看病に当たる人には〝患者に慈悲で接することはもちろん、病人が歓喜するようにすること〟(四分律)といった心得も教えています。池田先生も「もちろん、医者としての技術は重要である。しかし、それだけではなく、医者の『振る舞い』や『心』が患者にとって大切な場合がある」「大切なのは、病気の人が少しでも元気になるように、激励していくことだ」と教えてくださっています。それらを踏まえて、イギリスの心理療法家グリアー氏が行った調査を見ると、興味深いことが分かります。この調査とは、手術から3か月後の乳がん患者の心理状態を、次の四つのグループに分類し、その後の生存率を調べたものです。そのグループとは——A=がんに負けないとの闘争心を持ち、前向きに対応した人たちB=がんであるのを忘れたかのように過ごした人たちC=がんを冷静に受け止めて粛々と治療に励んだ人たちD=もうダメだと絶望的になり、死への恐怖を持った人たち——です。結果、生存率が高かったのはAの人で、B、Cと続き、Dの人が最も低いことが分かりました。また、それは死と向き合う場合も変わりません。私自身、多くの方々の臨終の場に立ち合わせていただきますが、患者さんとそのご家族、また医療従事者といった、そばにいる人々との関係性が良好な場合は、旅立つ側も安らかで、見送る側も感謝をしてお別れできると感じています。 決して一人にはさせない!同苦の精神は闘病の力に 確信の祈りと激励日蓮大聖人は御入滅の7カ月前、闘病中であった門下・南条時光を救わんと、烈々たる気迫のお手紙を認められました。その中で、時光を苦しめる病魔を厳しく叱責されています。「鬼神どもよ、この人(時光)を悩ますとは、剣を逆さまになるのか、自ら大火を抱くのか、三世十方の仏の大怨敵となるのか(中略)この人の病をすぐに治して、反対に、この人の守りとなって、餓鬼道の苦しみから免れるべきではないのか」(新1931・全1587、通解)大聖人御自身も病と闘われているさなかでしたが、病身を押して筆を執られ、全精魂を注いで時光を励まされました。そして、時光は大聖人の師子吼に触れ、50年も更賜寿命することができたのです。生老病死に苦しむ友を、決して一人にはさせない!私たちの祈りで、必ず友を病魔から守ってみせる!こうした同苦の心は、学会にも脈打っています。実は、私の家族も、数々の緊迫した病気の悩みと向き合ってきました。そのたびに、多くの同志の方々から「必ず治るよ」との確信の励ましや、「題目を送っています」との温かな声をかけていただきました。まるで〝わがこと〟のように寄り添い、声に耳を傾け、一緒に病に立ち向かってくれる。こんなに心強い方々はいません。◆◇◆今年で結婚して25年。思えば、私の学会員としての人生は、妻の「私の信心でみんなを必ず幸せにしてみせる」との言葉から始まりました。当時、信心に反対していた妻の実家に御本尊を御安置することができ、今は一家和楽と健康・長寿に向けて祈れるようになりました。その中で、妻の言葉通りの人生へと進んでいる確信を深めています。人生の師匠・池田先生と、生老病死に立ち向かう素晴らしい同志に出会えた感謝と誇りを胸に、これからも学会活動と仕事に全力で臨み、北海道ドクター部のメンバーと共に「生命の世紀」を開いてまいります。 いけだ・しんいちろう 1969年生まれ。札幌医科大学医学部卒。同大学大学院修了。医学博士。南カルフォルニア大学病理学教室リサーチフェロー、札幌市内の病院勤務を経て、2020年に現職。日本外科学会認定医・専門医・指導医。日本医師会認定産業医。創価学会北海道ドクター部長。支部長。 【危機の時代を生きる希望の哲学■創価学会ドクター部編■】
October 31, 2024
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大切にしたい動物とのかかわり大塚 敦子(ノンフィクション作家)読み聞かせで落ち着くアメリカでエイズ患者と動物とのかかわりを目の当たりにして以来、30年にわたり、人と動物たちとのポジティブな関わり方を見てきました。日本では「アニマルセラピー」と呼ばれますが、正式には「動物介在介入」といいます。動物たちとの触れ合いを、人の福祉や健康、教育などに生かそうという試みです。非常に多岐にわたる取り組みを紹介したく、近著『動物がくれる力』(岩波新書)を出しました。その中から、いくつか代表的な取り組みを紹介しましょう。最初は、子どもが犬に読み聞かせる「R.E.A.Dプログラム」です。1999年にユタ州で始まり、瞬く間に全米、カナダ、ヨーロッパへと広がりました。日本でも行われています。読むのが苦手な子どもは、人の前で大きな声を出すのが恥ずかしい、読み間違いをして笑われたらどうしよう、などのプレッシャーにさらされています。だから、決して自分を笑ったり、ばかにしたりしない聞き手を相手に読むことが重要なのです。某物たちには、読んでいる内容は理解できるはずがないのに、だんだん子どもたちの声が大きくなってきます。そんな子どもたちの姿を見ていると、読み聞かせをすることで満足感を得て、自己肯定感が強くなっていくのが分かるのです。近年アメリカでは、アニマルシェルターにいる動物たちに読み聞かせをするプログラムが広がってきます。これまで行われてきたように訓練を受けたセラピー県ではなく、シェルターに保護された犬や猫のために読み聞かせをしようというもの。元々は、本を読むのが苦手な子どもたちのために考えられたプログラムですが、動物たちにとっても不安を和らげ落ちつかせる効果があったのです。吠え続けていた犬が静まったり、奥出知事困っていた犬が前に出てきたりするそうです。猫の場合も、読んでいる人の方を見る回数が増え、人の注意を引こうとする回数が増えるそうです。このような行動を見せる動物たちは、引き取られやすくなり、シェルターにいる動物たちの譲渡率もアップにもつながっているそうです。 人と動物がともに再生 教育・福祉・医療の現場でも 互いに気持ちが通じる次に紹介したいのは茨城県にあるNPOキドックスです。ここでは、不登校や引きこもりの若者たちの自立支援と、保護犬の譲渡促進を組み合わせるという、ユニークなプログラムを行っています。キドックスに来るのは、発達障害、診断はされていないものの発達障害の傾向がある、いじめや対人関係の問題を抱えている、家庭での虐待・性暴力など、さまざまな困難と生きづらさを抱えた若者たち。彼らに、保護された犬たちの世話やトレーニングを担ってもらい、その過程で彼ら自身の成長を図ろうというもの。人が怖くて引きこもってしまい、ここに通い始めた女性は、最初は母親に付き添われて1時間いるのがやっとでした。それが犬のためならと頑張り、苦手だった周囲との連携もできるようになり、今では、スッタフからも頼りにされる存在に。現在、保護犬ルター、保護犬と出会えるドッグカフェ、ペットボトル、トリミングサロンなどがあり、徐々に地域の人向けのサービスも展開して、地域を巻き込みながら進めていくそうです。最後は、沖縄女子学園のプログラムです。動物愛護管理センターの収容期限が切れた犬のうち、問題行動があり、譲渡会に出せない犬のトレーニングを、少年院にいる生徒たちに手伝ってもらうというもの。保護犬の訓練プログラムは、これまで千葉の八街少年院でも行ってきました。沖縄では、より一歩進んだ取り組みとして、訓練の期間中に、数回の犬とのショートステイを行いなす。これによって、生徒と犬との距離が一気に縮まるのです。ある生徒は、それまでは人に見下られたくないから、力で解決する、というタイプでした。それが、犬に対しては優しい気持ちで接するしかないと気付き、ショートステイの時には、自分が母親になったかのような慈しみの心が育っていったようです。身近な動物たちとの触れ合いによって、どれだけ心が開かれていくことか。その効果は計り知れません。心の再生を図り、他者への思いやりと共感性を高めていく。そんな取り組みが増えてほしいと思います。 =談 おおつか・あつこ 和歌山県うなれ。商社勤務を経て、紛争地を取材するフォトジャーナリストに。その後、困難を抱えた人と自然や動物との絆、人と動物の関りをテーマに執筆。著書に『犬が来る病院』『犬、そして猫が生きる力をくれた』『〈刑務所〉で盲導犬を育てる』など多数。 【社会Culture】聖教新聞2023.9.29
October 31, 2024
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ユダヤ人の日常言語で創作作家 村上 政彦シンガー「カフェテリア」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、アイザック・パシェヴィス・シンガー(イツホク・パシェヴィス・ジンゲル)の『カフェテリア』です。シンガーはポーランド生まれのユダヤ人で、イディッシュ語を巧みに操り、ニューヨークに移住して、すぐれた小説を書きました。ユダヤ人は聖書を記したヘブライ語を持っていますが、こちらは核が高く、日常的には俗語のイディッシュ語を使用していました。しかしヒトラー率いるナチスの起こしたホロコーストで、イディッシュ語を使用するユダヤ人の多くが命を奪われ、すでに死んだ言葉として思われていた。ところが、シンガーは英語圏で暮らすようになってからも、イディッシュ語で執筆を続けた。その文学は高い評価を受け、ノーベル文学賞を与えられるに至りました。本作『カフェテリア』は、すでに著名な小説家となったシンガーと思しき人物が主人公です。彼は食事をするのに、行きつけのカフェテリアへ出向く。常連は、売れない作家、定年になった教師、画家、翻訳家など、みなイディッシュ語を話す。新しくやってくる客は、ていてい主人公の読者であり、作品をほめた後、必ず批判する。言ってみれば、このカフェテリアはイディッシュ語のサロンのようなもの。ユダヤ人たちが羽を休めることのできる居場所でした。主人公はカフェテリアでエステルという娘と出会った。彼の作品の熱心な読者です。「若くて、背丈も低く、華奢で、少女のおもかげをたたえた女だった」。2人はつかず離れずの関係で、そのうちだんだん親しくなり、ある夜、エステルから電話があって、どうしても話したいことがあると言われ、自宅に招いた。やって来たエステルが語ったことは、あのカフェテリアで白衣姿のヒトラーが集会を開いていた。そして、翌日に火災が起きて建物が焼けた(実際、作中でカフェテリアは火事になる)。主人公は、エステルが心を病んだとは言わない。「心霊現象」と評して、過去の光景を覗き見たという。ユダヤ人にとって、ヒトラーは、恐ろしさ、おぞましさなど、人間のあらゆる闇の強迫観念の大本です。著者が、この逸話を登場人物の狂気のせいにしてしまわないところに、逆にリアリティーが生じる。そこには、主人公自身の恐れも表わされています。やがて主人公は、エステルと距離をとって会わなくなる。旅のために街を出たとき、覚えのある男と一緒にいる彼女を見かけた。それが彼の知っている男なら、もう80代。ところが30年の昔のままの姿なのです。旅から帰った主人公はカフェテリアに出向いて、エステルの消息を尋ねたところ、どうやら自殺したらしいことが分かる——。この物語は、現代史にまつわる、イディッシュ語が見た夢です。[参考文献]『世界イディッシュ短編選』西成彦編訳 岩波文庫 【ぶら~り文学の旅 海外編㉞】聖教新聞2023.9.27
October 30, 2024
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サインを見逃さないよう注意産業医・精神科医 井上 智介心の不調に気付く「メンタル不調」と聞くと、どのような症状をイメージするのでしょうか。全然元気がなくて、無表情でボソボソと小声で会話する様子だったり、すごく落ち込んで、なにごとにも意欲も出てこない様子を想像するかもしれませんね。もちろん、これらの心の症状も出てきますが、メンタル不調の最初の段階では、心の症状より体の症状が出てくることを知ってください。例えば、頭痛や腹痛、胃痛などの「痛み」は典型的なメンタル不調の症状です。このような症状に悩まされると。ほとんどの人が、最初は近くの内科クリニックを受診します。そこで、いろいろと検査しても、特に原因となる異常は見つからず、ストレスによるものが原因と分かり、心療内科を紹介される流れになります。ほかにも、原因不明の微熱やのどが詰まった感覚が続くという体の症状もよくあります。忘れてはいけないのは、メンタルが不調のとき、睡眠に大きな影響を与えます。例えば日中にたくさんスポーツをして疲れているとき、夜はぐっすり眠れますね。しかし、心が疲れているときは、良い睡眠が取れません。寝つきが悪かったり、夜中に何度も目が覚めてしまったりします。この様子が2週間以上も続くようなら、早めに心療内科を受診してください。「体の症状が出ているから自分はメンタル不調ではない」と決めつけるのではなく、今は心が疲れているかもなぁと、サインを見逃さないように注意してください。 【若者のメンタルヘルス②】公明新聞2023.9.26
October 29, 2024
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昭和歌謡の誕生と魅力出版ジャーナリスト 塩澤 実信米国のジャズやポップスが底流広辞苑で「歌謡曲」の項目を引くと、「ラジオ・テレビ・レコード・映画などを通じて流布されている大衆的気歌曲。日本放送協会で昭和初めの新奏局などの意、また西洋歌曲(チート)の役として使われ、1933年より70年代まで、主にわが国で西洋の流行曲のリズム・形式と日本伝統的旋律・情感を合わせ持って作曲された流行歌の意で用いられた」と解説されている。ラジオ・レコード・テレビ・映画は、昭和の時の流れと足並みを揃えているから、今日から見て七十年を超えることになる。六十余年にわたった昭和は、明治維新の開幕と同時に、滔々と流入してきた西欧文化が、ほぼ行き渡った時代であった。ドレミの音階で歌われる西欧の七音音階が、小学校の唱歌に採用されていて、小学校教育からゆき渡っていった。太平洋戦争に敗れ、連合国の統治に入った1945年以降は、帝国主義から民主主義へと一変した。世相の変貌をドラマチックに見せつけたのは、ポップス・ジャズを、異の一番にもたらした戦勝局の、米国文化だった。強烈なジャズ音楽のリズムが、「ファ」と「シ」の音を欠いた、七四抜き音階に逼塞していた日本の若者を覚醒させ、極東の島嶼国はポピュラー音楽から開けていったと考えても、過言ではない。以降、ポピュラー音楽の流行が、若者文化を先導していった。 世相風俗が巧みに織り込まれる この流れは、現代へ通じていて、時代の変化変遷は、まずポップスに表示するやに見える。由来「歌は世につれ、世は歌につれ」の慣用句があるが、確かに「流行歌」「歌謡曲」には世相風俗、時代の傾向、潮流が明確に表現されているようである。ただし、流行歌が意味するように、世相風俗は、汲み取っても、その底を流れる思想・心理・哲学に名で言及することは困難ようだ。それ故、流行歌というと一概に、軽佻浮薄視される傾向もある。かつて私は、「日本レコード大賞」の審査員を委託されたが、使い走りの時期を過ごしたことがあった。その間の何とも言いようのない照れ臭さのあったことを忘れない。その理由は、「日本レコード大賞」の名称がまだ世間に行き渡っておらず、歌謡曲の分野で、クラシックの領域まで犯しているのがやや気がかりだったからだった。しかし、その懸念はほどなく、杞憂となった。流行歌、歌謡曲には時代世相が巧みに織り込まれていて、ラジオ・テレビ・映画でエフェクトに用いると、たちまち当時が蘇ってきた。今は、過去を遡る時、当時流行した歌が背後に流す効果音として使われる。例えば、敗戦直後を再現しようとして、笠置シヅ子が舞台を狭しとエネルギッシュに踊って歌うブギウギが流れれば、混乱の時代が容易に蘇ってくる。が、同時に時代の陳腐さも映し出される。最近では、昭和歌謡を聞き直そうと手を伸ばされる方も大勢いらっしゃるようだが、皆さん感じておられることは、懐かしさに加え、若き当時の思い出は溢れ出し、気恥ずかしさで胸が一杯になったことでしょう……。これもまた、歌謡曲が持つ不思議な魅力である。(しおざわ・みのぶ) 【文化】公明新聞2023.9.22
October 29, 2024
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抑圧された人々によるジャーナリズムインド北部、ウッタル・プラデージュ州でダリトと呼ばれるカースト外の最下層にいる女性たちが創設した新聞社「カバル・ラハリャ」。ドキュメンタリー「燃え上がる女性記者たち」は、偏見や暴力に怯まず報道を続ける女性たちの姿を映し出している。公開に間に合わせ来日した監督のリントゥ・トーマス氏、スシュミト・ゴーシュ氏に聞いた。 ドキュメンタリー「燃え上がる女性記者たち」の監督に聞く地方の物語から世界へ広がる 制度的差別に切り込む〈「カバル・ラハリャ(〝ニュースの波〟の意)」は2002年に創刊。女性への暴力や性犯罪、ライフラインの負整備の問題などの社会的抑圧に抗い、報道を続ける〉——「カバル・ラハリャ」の映画を作成しようと思ったきっかけは何でしょうか。 トーマス●2016年のことですが、ある写真記事で、ウァタル・プラデーシュ州でダリとの女性たちが14年間にわたってジャーナリストとしての活動を続けていることを知りました。そこにはダリとの女性たちが自らの新聞を配りながら乾いた大地を歩く姿が写っていて、とても興味を引かれました。というのも、私たちは常に民主国家における女性の役割は何かを考え続けていたからです。女性をリーダーとする民主国家とはどのような社会化、深い関心を持っていました。また、同紙は当時、デジタルに移行する時期でもあり、その変化の流れに飛び込む絶好のタイミングでもありました。 ——「カバル・ラハリャ」からは、さまざまなエネルギーを感じたそうですね。 トーマス●制度的差別に切り込むダリトの女性、その自由なデジタルテクノロジーが持つエネルギーです。社会の不正をただす使命を忘れた既存メディアに対し、彼女たちはニュースを、自分たちの権利を取り戻すものに作り直そうとしていました。ラリトは報道されることのない人々であり、ニュースになっても、それは全て受け身的な内容でした。そのなか、ダリトの声を社会に届ける彼女たちからは強いエネルギーをまんじました。また、デジタルテクノロジーは、この国に強固に横たわり変化を拒む社会の制度や慣習とは反対に、自由な環境を与えるものです。デジタルへの移行が「カパル・ラハリャ」をどう成長させるのか、とても興味がありました。(主要メディアに先駆けデジタル化を進めた「カパル・ラハリャ」のニュースは、ドキュメンタリー完成時には、再生回数1億5000万回を超えた) 生活圏の中で不正をただす〈作品の中では、主任記者のミーラ、若手成長株のスニータ、信心記者のシャームカリを軸に反社会勢力の存在、警察の怠慢を明らかにする同紙の活動が映し出される〉 ——撮影の中でこだわった点などあるでしょうか。 ゴーシュ●作品の中にはインド会社に残るあしき慣習等が写り込んでいますが、それを目的に撮影したことは一切ありません。一方、女性記者を見下す男性記者や、彼女たちが外で働くことに批判的な家族の姿を、皆さんは作品を通してみることでしょう。私たちは女性記者として取材を続けるダリトノ女性たちが、どのような環境で働き、暮らしているのか、伝えたいと考えていました。あらかじめ場所や時間を決めて撮影し、インタビューする形も取りませんでした。そうすることで、よりリアリティーを持って、彼女たちの姿を伝えられたのではないかと思っています。 ——彼女たちがジャーナリの活動を続けてこられた理由はどこにあるのでしょうか。 トーマス●目的意識の高さ、不正をただすという思いが強いことが、その理由です。取材に出かける場所も自らが暮らす場所も同じ生活圏にある彼女たちにとって、不正をただす報道は被害者のためであると同時に、自らが住むコミュニティーのためでもあります。かつて採石場で児童労働に駆り立てられたスニータ記者が選んだ取材先は、その採石場で行われていた違法採石でした。また、ダリトとして社会的差別を受けてきた彼女たちでしたが、「カバル・ラハリャ」で記事を書くことを学び、スマホを使い発信することを学びました。こうした力を得た彼女たちにとって、身の回りで起きている問題の全てが放っておけない問題に感じられたのではないでしょうか。 デジタル技術の可能性にも 個々の要素を普遍的につなぐ ——国際映画祭で数々の賞を受けています。インドの一地方のストーリーが世界で共感を与えるものになっているのはなぜだと思いますか。 ゴーシュ●作品中の一つ一つの要素が普遍的につながることで、たとえ一地方のストーリーであっても、それは世界に広がるものだと考えています。この作品では、背景の異なる3人の記者が、ドキュメンタリーを支えるキャラクターとして登場します。彼女たちがダリトノ女性であることで、作品の扱うジャーナリズムは、「抑圧された人々によるジャーナリズム」になりました。そこには権力の不正をただす挑戦も描かれます。デジタル移行によるSNSの活用も取り上げました。これらの点が線となり、面となり、女性の持つ力を描けたのではないかと考えています。そして何より、その声を届けることさえできなかった人々が、彼らを抑圧してきた社会に立ち向かい、成し遂げたこと、それが人々の心に響いたのだと思います。 Rintu Thomas/Sushimit Ghosh インドの映画監督・製作者。2009年にノンフィクション映画製作会社Biack Ticket Filmaを設立。作品は世界各地の期間で活動支援・推進・教育ツールとして活用され、12年にはインド映画界最高栄誉である大統領メダルを授与された。 【社会・文化】聖教新聞2023.9.19
October 28, 2024
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太田道灌とゆかりの地歴史作家 河合 敦荒川に山吹の里伝説 今も愛される名将JR日暮里駅(東京・荒川区)前に、山吹の花を両手に持った娘の銅像がある。これは同地ゆかりの武将・太田道灌(一四三二~八六)の「山吹の里伝説」にちなんで制作されたもので、荒川区に寄贈されて二〇一八年に設置された(「山吹の花一枝像」)。太田道灌がある日、鷹狩りをしていて急な雨にあい、立ち寄った民家の娘に「蓑を貸して欲しい」と頼んだ。ところが、その娘は何も言わず、山吹の一枝を差し出した。立腹して立ち去った同館だったが、のちに、山吹には「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」と古歌があり、娘は「実の」と「蓑」をかけ、「家が貧しく、お貸しする〝蓑がない〟」と伝えようとしていたことを知る。無学を恥じた道灌は以後、歌道に励むようになったという。これは江戸時代の『常山紀談』に載る逸話だが、かつては教科書に掲載されていたので、ご存じの方も多いだろう。この山吹の里が荒川区内(諸説あり)にあったので、「山吹の花一枝像」が置かれたというわけだ。なお、この像の数メートル先には馬に乗った道灌像があり、こちらの方が古い(一九八九年設置)。太田道灌(資長)は、室町時代に扇谷上杉氏の家宰をつとめた武士である。当主を補佐して家臣をまとめるのが家宰職で、政務を代行することもあった。室町時代、関東地方は幕府の出先機関「鎌倉府」が支配していた。鎌倉府のトップを鎌倉公方、それを補佐して政務を担う職を関東管領と呼んだ。ところが、同館の時代には、鎌倉公方は古河公方と堀越公方に分裂し、関東管領を継ぐ上杉下山内家と扇谷家が分立、互いに入り乱れて抗争を繰り返していた。同館は築城術に秀で、河越城や岩付城(異説あり)を造り、築城した江戸城を拠点としたが、京都から高名な歌人である僧の万里集九など多数の知識人を招いて詩文を学び、詩歌会などをたびたび催した。まさに関東第一級の文化人だったわけだが、同時に名将でもあった。文明八年(一四七六)、長尾景治が反乱を起こした。関東管領・上杉顕定の家宰だった父の死後、同じ家宰を継げなかったのを不満に思い、主君・顕定に対して挙兵したのだ。関東は騒乱状態になった。この時道灌は顕定を助けて溝呂木城、小沢城、練馬城など次々と景春方の城を落とし、本軍を敗走させ、景春の拠点・鉢形城を夜襲で奪取。四年近くかけて反乱を終息させたのである。かくして道灌の声望は大いに上がり、急激に勢力が膨張した。これに恐れをなしたのが、道灌の主君の上杉定正であった。あるとき道灌を自分の糠谷館に招き、入浴中に暗殺させたのである。刺客の曽我兵庫助に斬り付けられたとき、「当家(扇谷家)滅亡!」と叫んだと伝えられる。五十五歳であった。なお、扇谷上杉氏はその後、道灌が造った河越城をめぐる争いで、当主の上杉朝定が討ち死にしたことで滅亡した。そんな河越城があった川越市の市役所前にも道灌像がある。江戸城があった近くの東京国際フォーラムにも、江戸城を向いて道灌像が立っている。これ以外にも都内や首都圏には道灌の像や碑が多くあるので、興味があれば巡ってみるのもよいだろう。(かわい・あつし) 【文化】公明新聞2023.9.20
October 28, 2024
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人道に反するとの非難も科学文明論研究者 橳島 次郎人口知能兵器の是非今年7月、国際連合の安全保障理事会で、人工知能(AI)に関する公開討論会が開かれた。国際平和の維持を任務とする安保理が、AIという一先端技術を取り上げたのは、それが軍事目的で使われることが大きな脅威をもたらすと考えられたからである。特に焦点となるのが、人間の関与なしに搭載されたAIだけで敵を識別し殺傷を伴う攻撃を行う、自立致死兵器システム(LAWS)の開発についてである。AIにより衛星画像や通信情報などを収集し偵察を行い、人間が知れ位下範囲で自動的に目標を補足し攻撃を行う兵器は、すでに実用化されている。ロシアによるウクライナ侵攻で、双方が使用している無人機(ドローン)は、その代表例である。ほかにも水上・水中の敵の偵察と戦闘を行う無人艦艇や、迎撃だけでなく地雷除去やサイバー戦も行う無人地上車両などの開発例もある。こうした自動兵器システムをさらに高度化し、一切人間の操作なしにAIが独自に、つまり自律的に作戦を決め攻撃を行うのがLAWSだ。まだ実用化には至っていないが、技術的な農政は早くから検討されており、その倫理的是非も議論されてきた。LAWS、第一に人間の折衝与奪の権を機会に委ねることになるので、人道に著しく反すると非難される。AIが敵の識別を誤り、非戦闘員(民間人)を殺傷したり、過剰な苦痛や損害をもたらす攻撃を行ったりしないかも懸念される。どちらも国際人道法に違反する行為だ。また、人間の指揮官や作業要員がAIに依存し現場から離れ、作戦を統括する能力が衰えてしまう恐れもある。この問題は2017年に設けられた国際条約締約国政府専門家会議で検討されてきた。だが、禁止するよう求める中南米などの非同盟諸国と反対するロシアや米国を筆頭とする軍事大国の意見の隔たりは埋まらず、LAWASをどう管理し規制するか、具体的な方策を決められないでいる。日本政府は、人間が一切関与しない完全自立致死性兵器システムの開発は行わないが、国防の作業負担を軽減できる利点があるので開発を認めることにしている。昨年公布された経済安全保障推進法により、特定重要技術とされるAIに関し、軍民両用可能な技術開発を全省庁が、自立殺傷兵器の開発につながることになるのか、注視する必要がある。 【船体技術は何をもたらすか‐6‐】聖教新聞2023.9.19
October 27, 2024
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佐渡流罪④創価学会教学部編日蓮大聖人が予言してこられた「自界叛逆難」が、文永9年(1272ねん)2月、「二月騒動」として現実のものとなりました。 阿仏房・千日尼らが帰依「種々御振舞御書」によれば、その前月(文永9年1月)に行った塚原問答の後、大聖人は佐渡国の守護代・本間重連に鎌倉を訪れる時期を尋ねられます(重連は主君の北条〈大仏〉宣時が住む鎌倉と佐渡を往来していたと考えられます)。「康作が終わった7月の頃に」と答えた重連に大聖人は、「ただ今、戦が起ころうとしている時に、急いで鎌倉へ上り、名声を得て、所領を賜らないということがあるでしょうか。(中略)地方にいて耕作のせいで戦に臨めないのは(武士としては)恥というものでしょう」(新1238・全918、通解)と声をかけられました。重連は何も言わず、「どういうことだろうか」と疑うばかりでした。ところが2月18日、二月騒動の知らせが佐渡に届いたのです。重連は大聖人の予言の的中を知って驚き、大聖人に『蒙古国も必ず来ることでしょう。念仏を信じる者が無間地獄に墜ちることも間違いないことなのでしょう。今度は決して念仏を申しません」(新1239・全919、通解)と告げ、慌てて鎌倉に向かったのでした。こうした中、佐渡の地でも大聖人に帰依する者たちが次々に現れました。阿仏房・千日尼夫妻や国府入道夫妻などです。地頭や念仏者らが大聖人のお住まいに近寄るものを監視していましたが、門下たちは夜中に食料をお届けするなどして大聖人をお支さえしました。鎌倉や下総国(現在の千葉県北部とその周辺)などに残った門下たちも、使いを送ったりしました。四条金吾や日妙(乙御前の母)、富木常忍などです。また、日興上人らが大聖人のお側に仕え苦難を共にしました。大聖人は後に、千日尼に心からの感謝のお手紙を送られています。「阿仏房に櫃(食料等を入れる箱)を背負わせて、夜中に度々訪ねてこられたことを、何度生まれ変わろうと、忘れることがあるでしょうか。亡き母が、佐渡国に生まれ変わったのでしょうか」(新1741・全1313、通解)阿仏房・千日尼夫妻も、大聖人をお支えしたために、住むところを追われ、罰金を科され、家宅を取り上げられるなどの迫害を受けています(新1741・全1314、参照)。大聖人は佐渡を離れた後も、障害にわたって門下の真心を忘れることなく感謝を続けられました。 「観心本尊抄」を御執筆同年(文永9年)の4月頃、大聖人は、塚原から石田郷一谷(現在の佐渡市市野沢)に移され、念仏者である一谷入道のもとに身柄を置かれました。塚原の荒れ果てた堂から一谷入道の敷地内の宿所への移送は、待遇の改善とする見方もありますが、阿仏房ら塚原近在の門下から孤立させるためであったいう説もあるなど、移送の理由は定かではありません。大聖人に付き従う弟子たちは多くいたにもかかわらず、流人である大聖人を管理する名主(荘園・公領などの経営に携わり、年貢の徴収などを担う有力者)から支給される食料はわずかであり、厳しい生活を強いられました(新1762・全1329、参照)一谷入道は大聖人に次第に心を寄せ、生活の便宜も図るようになり、入道の妻が大聖人に帰依します。後年、一谷入道が亡くなった折、千日尼(阿仏房の妻)へあてられたお手紙(「千日尼御前御返事〈真実報恩経の事〉」)の中で、大聖人は、入道に助けられたことへの感謝の思いをつづられています。「入道の堂の廊下で、たびたび命を助けられた御恩に、どう報いればよいのであろうか」(新1743・全1315、通解)この一節から、大聖人が何度も危険にさらされ、入道が命をお守りしたことがうかがえます。一谷へ移送された翌年の文永10年(1273年)4月25日、大聖人は「観心本尊抄」を著し、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について解き明かされています。「観心本尊抄」は略称であり、正式な題名は「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」といいます。「如来滅後五五百歳」とは、釈尊が入滅してから5番目の500年、つまり末法の初めのことで、上行菩薩がこの世に出現する時を明かしており、「始む」とは上行菩薩が始めて弘めるという意義を明かしています。さらに、「観心」とは法華経の肝心である南無妙法蓮華経に縁のある末法の衆生の観心を明かしており(後述)、「本尊」とは末法の衆生が拝する本門の本尊を明かしています。「観心の本尊」と「の」の字を入れて読むのは、観心のための本尊をであることを明らかにし、経文上の仏や菩薩を本尊とする「教相の本尊」とは区別する意味があります。したがって、題号の意味は、「末法の初めに、地涌の菩薩の上首(中心者)・上行菩薩が初めて弘通し、一切衆生が信じる対象となる、本門の本尊を明かした書」と拝せます。この上行菩薩の働きをされたのが、末法の御本仏・日蓮大聖人です。 誰人も実践し成仏できる修行 「受持即観心」の法門「観心本尊抄」では、始めに、一念三千〈注1〉の根拠となる経文が示されます。「摩訶止観」巻5の門を掲げ、そこに説かれる一念三千こそが天台大師(智顗)の究極・最高の教えであること示されます。次に、「観心の本尊」のうち、「観心」について明かされます。「観心」とは、己心(自己の心・生命)に十界〈注2〉が全てであることを衆生が観ずる(洞察する)ことであると示し、末法の凡夫である私たちの生命に仏界を含めて十界が全て具わっていて、縁に応じて開き現わせると教えられています。その肝要は、私たち普通の人間に仏界という最高の生命境涯があることに気づくことです。そして「観心」についての結論として、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」(新134・全246)と仰せです。釈尊の因行(成仏のために積んだ膨大な修行)と果徳(修行によってさまざまな果徳)の全ては、「妙法蓮華経の五字」すなわち南無妙法蓮華経に具わっており。南無妙法蓮華経を受持することで、自ずと仏の因行と果報の両方を譲り受けることができるとの仰せです。具体的に末法における観心とは、大聖人が顕された南無妙法蓮華経の御本尊を信じて受持することで、観心の修業が完結し成仏できるのです。これを「受持即観心」の法門といいます。一念三千の法門によって成仏の可能性を理論的に解き明かした像法時代の天台大師の教えに対して大聖人は、末法のどんな人でも実践し成仏できる方法を探求されました。その結論が、南無妙法蓮華経の御本尊の受持なのです。 一切衆生のために御本尊を御図顕 信受すべき「本尊」続いて大聖人は、末法の私たちが信受すべき「本尊」について明かされます。まず、釈尊が成道してからの50余年の間に説かれた諸経の本尊を掲げ、法華経本門を説いた久遠実成の釈尊が最も優れていることを示されます。さらに、釈尊が、自身が亡くなった後、本門の観心である南無妙法蓮華経を弘めるように託したのは、地涌の菩薩だけであることを示し、その本尊の姿は、寿量品が説かれている虚空会の説法の場を用いて表現した、南無妙法蓮華経を中心とするものであると明かされます。続いて、五重三段〈注3〉を説き、根本の仏である久遠実成の釈尊を生み出した仏種(成仏の根本の原因)の南無妙法蓮華経こそが、末法の凡夫にとって成仏を可能にする本尊であると示された。その後、自界叛逆難、西海侵逼難(他国侵逼難を蒙古の外圧として捉えた表現)が起こっている本抄御執筆の当時こそ、地涌の菩薩が出現して本門の本尊を顕す時であると述べられます。結論では、「一念三千を識らざる者には、仏、大慈悲を起こし、五字の内にこの珠を裏み、末代幼稚の頸に懸けしめたもう」(新146・全254)と、成仏の根本法である一念三千を知らない末法の衆生に対して、仏が大慈悲を起こして、一念三千の珠を妙法蓮華経の五字に包み、釈尊の時代から遠く離れた、子どものように無知な凡夫の頸に懸けさせるのであると仰せです。この御文は、末法の御本仏・日蓮大聖人が大慈悲を起こして、末法の一切衆生に信受させるために、南無妙法蓮華経の御本尊を御図顕されたと拝することができます。大聖人はその後も、次々と書状を執筆し、日蓮仏法が未来にわたって世界に広がりゆくことを高らかに宣揚していかれます。一方で、大聖人を憎む者たちが、大聖人を亡き者にしようと計画をしていくのです。(続く) 池田先生の講義から(「一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり」〈新1099・全790〉を拝して)その無限の生命力を教えるために、大聖人は御本尊を顕してくださったのです。私たちは、御本尊を明鏡として、この生命の力を、自分において、友において、そして万人において信じていくべきです。(中略)「観心の本尊」は、偉大なる本尊革命であり、人間の可能性を最大に尊重し、現実に変革を可能にする「人間のための宗教」の精髄です。竜の口の頸の座で、人間とはかくも偉大な存在であると明かされた日蓮大聖人だからこそ、人間を最高に人間タラ占める根源の法を万人のために御図顕していかれたのです。一切衆生救済の誓願の結晶であり、万人の成仏のための御本尊——それが日蓮大聖人の「観心の本尊」にほかなりません。(『池田大作全集』第32巻) 〈注1〉 天台大師が「摩訶止観」巻5で、法華経の教えに基づいて、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の生命をはじめとする森羅万象が収まっていることを通して、心が概念でとらえられない不可思議なものであることを洞察するための修行法として明かしたもの。「摩訶止観」は、天台大師が講述し、弟子の章安大師(灌頂)が記した。仏教の実践修行を「止観(瞑想修行)として詳細に体系化した書。〈注2〉 衆生の住む世界・境涯を10種に分類したもの。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種。天台大師は、十界それぞれに他の九界が具わっているという「十界互具」を説いており、人界を衆生である私たち人間の生命にも十界が全て具わっていることになる。〈注3〉 釈尊の教えを五つの段階にわたって重層的に分析し、それぞれを序分・正宗分(教えの核心部分)・流通分の三つの部分に分けて、仏が説こうとした最も根本の教えを明かしたもの。 [関連御書]「種々御振舞御書」「観心本尊抄」 [参考]「池田大作全集」第32巻(「御書の世界」〔上〕第九章)、同第33巻(「御書の世界〔下〕」第十章)、「大百蓮華」2012年6月号「勝利の経典『御書』に学ぶ」(「種々御振舞御書」講義③)、小説『新・人間革命』第11巻「躍進」 【日蓮大聖人 誓願と大慈悲の御生涯】大百蓮華2023年9月号
October 27, 2024
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〝死を見つめ〟善の行動を第2回ハーバード大学公演30周年1993年9月24日、池田先生は招聘を受けたアメリカ・ハーバード大学で講演を行った。91年9月に続き2回目となるこの公園は「21世紀文明と大乗仏教」と題し、「死」を巡る洞察から始まる。——「死を忘れた文明」といわれる近代は生死という根本課題から目をそらし、死を忌むべきものとして日陰者の地位に追い込んできた。世界規模の戦争が相次ぎ「メガ・デス(大量死)の世紀」となった20世紀の様相は、死の側から手痛いしっぺ返しを受けているようである。この問題提起から30年——。感染症の世界的流行が起き、〝地球沸騰化の時代〟が到来。各地で紛争が続き、核兵器使用の懸念が高まり、物価高騰・食糧難が深刻化している。私たちは、何もしなければ、より大きな破局を招くことを頭では理解している。しかし、どこまで真剣に行動できているのだろうか。根底には今も、死の厳粛さを忘れ、目を背ける〝死の忘却〟があるのではないか。その行き着くところは、あたかも永遠に生きられるかのかのように振舞う、惰性的態度であろう。そうした人生の態度は、「生」の、そして今日という日の価値をおとしめはしないか。先生は講演で、死に割り振られた「悪・無・暗」等の負のイメージの払拭を訴える。死は「次の生への充電期間」であり、「生と同じく恵み」である。ゆえに仏法では「生も歓喜、死も歓喜」と説く、と。同時に、今世での善業も悪業も、全ては生命に厳然と刻まれ、次の生へと持ち越される。それが分かれば、だれが悪業を積み重ねる愚かな生き方を選ぶだろうか。仏法の生命感は、生死の流転を見つめつつ、「強く、善く、賢く」生きることを促している。そこにこそ、「生」の本当の輝きがあり、人類の宿命を転じて「生命の世紀」を実現しゆく道があろう。先生は講演の結びに、小さな自分(小我)を超え、人類の苦をも我が苦となす「大河」の生き方を強調。それは、「常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げる」生き方であると。そして、この大河が脈動する中に、「生も歓喜、死も歓喜」の生死観が確立されゆくと結論している。世界の平和と全人類の幸福へ——私たちは、その使命を担い立ち、縁する人々の幸せを祈り、励まそう。この尊き菩薩の使命に生き抜く時、生死の苦しみも全て、我が人生を宝になると信じて。 【社説】聖教2023.9.16
October 26, 2024
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歴史物語の作り方作家 伊東 潤ここ最近、「この小説やドラマ、どこまで史実に基づいているのだろう」といった声をよく聞く。まず歴史上、史実とされていることは、ごくわずかだということを忘れないでほしい。また時代をさかのぼるに従って資料は少なくなり、現代に近づくほど資料が多くなるという当たり前の原則もある。つまり海面に顔を出している氷山(史実)の数が、歴史をさかのぼるほど少なくなり、現代に近づくほど多くなるというイメージだ。本物の氷山は、海面上に見えている部分の何十倍も海面下に隠れており、また複数の氷山が海面下でつながっていることもあるという。歴史研究は海面上の見えている氷山だけを扱い、類推や解釈を行うにも、すべての史実の裏付けを必要とする。一方、小説やドラマは海面下の氷山まで想像で描いていく。ただし小説やドラマも史実を改変してはならない。すなわち海面上の氷山の形を変えず、また海面上に見えている都合の悪い氷山を無視してはならないのだ。歴史の名のついた小説やドラマを作るには、このルールに従っていなければならない。そこでは、どこで差別化を図っていくかというと、海面上の氷山をいかに解釈し、海面上の氷山と無理なくつなげていくということにあると思う。歴史物語の価値は、一に歴史解釈力、二に人間洞察力、三にストーリー・テリング力だ。とくに三は「歴史は結末が分かっている」という弱みを持ちながらも、いかに一気読みさせられるかという点で作業の力量が問われる。しかしそれも一と二があってのもので、妥当性のある歴史解釈と緻密な心理描写なくして三は生きてこない。こうした原理原則を大切にして、私は歴史物語を紡ぎ続けていくつもりだ。 【すなどけい】公明新聞2023.9.15
October 25, 2024
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なぜ焼きそばはソース味?「焼きそば探訪録」ブログ管理人 塩崎 省吾パロディー料理の一種焼きそばの食べ歩きブログ「焼きそば名店探訪」を運営していなす。これは、消えていく各地の焼きそば店について、記録だけでも残したいと始めたもの。日本全国だけでなく海外までも足を延ばし、〝焼いた麵料理〟を食べ歩いてきました。その中で気になったのが、焼きそばは、いつ、どこで、どのように生まれたのか。また、各地にある〝ご当地焼きそば〟はどのように生まれたのか、などなど。そうして疑問を調べていくと、これまで定説と思われていた約側の期限が違っていることが分かりました。そんな焼きそばの面白さを紹介したく、近著『ソース焼きそばの謎』を出しました。結論としては、焼きそばが発祥したのは大正初期。浅草のお好み焼き屋でパロディー料理の一つとして生まれました。当時のお好み役というのは、現代とは異なり、小麦粉を水で溶いて焼いただけの料理。それをソースで味をつけて香ばしく焼き上げる。いわゆる〝一銭洋食〟〝こども洋食〟でした。近代食文化研究会の『お好み焼きの物語』では、当時のお好み焼き屋の様子を詳しく紹介しています。そもそも、ソース焼きそばとお好み焼きには共通点が多い。鉄板での調理、ソースでの味付け、付け合わせの青のりと紅ショウガなどです。 スパイスが洋食っぽいお好み焼きが屋台で売られるようになる前段階、江戸時代に「文字焼き」というものがありました。水溶き小麦粉で鉄板の上で文字を書いて、焼き上げるというもの。具も入っておらず、子どもの駄菓子の一種だったのです。明治30年代になると、文字焼きの衰退によって、屋台ではお好み焼きが売られるようになっていきます。大正初期のお好み焼き屋のメニューには、「肉天」「えび天」「いか天」などが並んでいます。いわゆる天ぷらではなく、パロディー料理。肉やエビ、イカなどが、どんどん焼きなどの具になっているもの。同じように、カツレツ、しゅうまい、かに玉、おしる粉などの料理も。オリジナル料理と全く似てないのですが、これがパロディー料理として人気を博していました。洋食や中華、和食など、人気料理の名前を借り、あくまでしゃれっ気を楽しむ子ども向けの駄菓子だったのです。ここで生まれたのがソース焼きそば。中華料理の「炒麺」のパロディーです。炒麺は。麵を焼いて餡をかけるタイプの焼きそば。それを同じように麺を焼いて、洋食のシンボルだったウスターソースをかけて、香ばしく焼き上げたわけです。焼きそばのおいしさの決め手は、ソース焼けた香ばしさ。ソースを使うことで、一気に洋食っぽくなり、子どもでも食べられる値段で提供したものです。ソースにはスパイスが含まれ、焦げた時の香ばしい香りが、食欲を刺激します。スパイスの香りというのは、それまでの日本料理にはなかったもの。それが加熱され、香りを増して提唱されるのです。それは非常に新鮮な体験だったことでしょう。 お好み焼き屋とは切り離せない ソース後かけタイプもお好み焼きの一種として生まれた「ソース焼きそば」は大人気となり、全国に広がっていくことになります。戦後の闇市で提供され、GHQによる小麦の援助とともに、より広がりました。上京してきた地方出身者が地元に持ち帰ったり、屋台を運営していた露天商たちが全国に広げたりして、昭和30年代には焼きそばは全国に普及していったのです。全国の焼きそばを食べ歩いていると、不思議な焼きそばを目にします。その一つが、ソースのあとかけタイプの焼きそば。軽く塩やガーリックで味付けされた白い焼きそばに、自分でソースをかけて食べるのです。戦後の物資不足の時代、安価なソースには人工甘味料が使われ、加熱すると苦くなってしまったのです。そこで、風味を損なわないように、ソースの後替えが始まったと考えられます。ただ、現代では、伝統を守り先代の味を残すために、いまだに残っているのです。焼きそばは、安価に誰でも作れる、究極のストリートフード。バーベキューの締めとして、縁日の屋台、学校の文化祭など、野外で食べるのに適した料理です。近年、都内の高級志向の焼きそば店がメディアに取り上げられる機会が増えています。しかし、北関東や東海などで提供されている基本的な焼きそばにも、独特の面白さがあります。そんな焼きそばについても、見直してもらう機会になればと思っています。 =談 しおざき・しょうご 1970年、静岡県生まれ。ブログ「焼きそば名店探訪録」管理人。国内外1000件以上の約側を食べ歩く。本業はITエンジニア。著書に『ソース焼きそばの謎』(ハヤカワ新書)、電子書籍『焼きそばの歴史(上・下)』がある。 【社会・文化】聖教新聞2023.9.14
October 25, 2024
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世界遺産シルクロード展東京富士美術館 学芸部長 平野 賢一日中平和友好条約45周年本年は日中平和友好条約から45周年、東京富士美術館の開館40周年に当たります。この記念の意義を込めて「世界遺産 大シルクロード展」を開催します。東洋と西洋を結ぶシルクロードは、古代から重要な交流、通商ルートであり、多様な民族が興亡した文化融合の地でもありました。本展は中国の洛陽、西安、蘭州、敦煌、新疆地域などの各地の主要な博物館、研究機関の所属する文物の中から、シルクロードの名宝を紹介します。日本と縁が深い唐時代を中心に中国の名品を紹介するとともに、世界遺産に登録された遺跡の遺品を展示します。シルクロードの研究は19世紀後半より始まり、約140年の歴史がありますが、日本では特に半世紀程前にNHKで放映されたテレビ番組の印象が深く、砂漠のかなたや最果ての地に多くの人が憧れを抱くようになりました。学術的にも、奈良の正倉院に伝わる宝物の故地として、ペルシアや中央アジア、ひいてはギリシア・ローマに期限する文化が注目され、交流の歴史が研究されてきました。近年では発掘調査や学術研究がこれまでにない勢いで進められ、新しい発見が続いています。 東西の文化交流の道から一級文物を含む名宝が来日 シルクロードは「長安—天山回廊、カザフスタン、キルギスの3カ国共同で世界文化遺産に申請され、2014年に登録されました。そのうち中国では五つの省・自治区にある22の遺跡が含まれています。シルクロードに関連する中国国内の世界遺産としては、ほかに敦煌の莫高窟(1987年文化遺産登録)、大同の雲崗石窟(2001年文化遺産登録)、また新彊の天山(2013年自然遺産登録)などがあります。東京富士美術館は2019年から足掛け5年をかけて現地調査を重ねて準備してまいりました。本展は中国側の全面的な協力の下、9勝2自治区の広範囲にわたる27カ所の博物館、研究機関から金銀器、青銅器、陶磁器、ガラス、染織、壁画、絵画、模写絵、経典、仏像、歴史資料など中国一級文物200点を展覧いたします。世界遺産認定後、中国国外で初めて行われる大規模なシルクロード展となります。展覧会の構成は3章からなります。第1章「民族往来の舞台—胡人の活動とオアシスの遺宝」では、西方や北方の香り高い遺宝の数々のほか、シルクロードの金貨銀貨、砂漠の正倉院と称されるアスターな古墓群、近年注目されているもう一つのシルクロード、青海地域の出土文物などを紹介します。第2章「東西文明の融合—響きあう漢と胡の輝き」では、《車馬儀仗隊》《六花形脚付杯》など漢時代から唐時代の名品を中心に紹介します。第3章「仏教東漸のはるかな旅—眠りから覚めた経典と祈りの造形」では、投稿で偶然発見された鳩摩羅什訳の《妙法蓮華経》などの貴重な経典や、さらには新彊、中元の各地で収蔵されている仏教技術の優品を紹介します。シルクロードを通じて日本と中国が長い文化交流の歴史を持っていることを、本店であらためて感じていただけたら幸いです。(ひらの・けんいち) 【文化】公明新聞2023.9.13
October 24, 2024
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思い通りにいかない「他人」産業医・精神科医 井上 智介ストレスの源「ストレス」という言葉を聞くだけで、気分が悪くなりませんか。できるなら、ストレスを感じずに生きていきたいですね。一体、ストレスとは何なのでしょう。わかりやすく言えば、ストレスとは自分の思い通りにいかない環境や物などに対するモヤモヤした気持ちです。あなたにとって思い通りにいかないのは、どのようなものがありますか。例えば、テストで分からない問題が出てきたとき、寝るときに外から工事音が聞こえてきたとき、部下に仕事の指示を出したのにやってくれないときなど、あらゆるところにストレスの源があります。そして、思い通りにいかないものの代表は、「他人」であることは、ぜひ覚えておいてください。他人を思い通りにすることができないからこそ、人間関係は悩みの種になります。極論ですが、他人というのはストレスの源なのです。だからこそ、最近は一人で過ごす時間の大切さも叫ばれ、「ひとり○○」という言葉をよく耳にします。とはいっても、ずっと一人だけで生きていくことはできません。買い物一つでも、商品を作ってくれた人、運んでくれた人、売ってくれる人などたくさんの人が関わってくれています。要するに、生きるだけでストレスだらけで、ストレスを感じるのは当然なので悪いことではありません。大切なのは、ストレスの原因を理解し、それをコントロールする力を身に付けることです。 【若者のメンタルヘルス①】公明新聞2023.9.12
October 23, 2024
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偏屈卿と呼ばれた男の回想記作家 村上 政彦マシャード・ジ・アシス「ドン・カズムッホ」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、マシャード・ジ・アシスの『ドン・カムズッホ』です。著者のマシャードは、ブラジルのリオデジャネイロ出身。黒人奴隷の血を引く父と、白人の母を持つムラート(混血)でした。家は貧しく、それでも親が文字を読み書きすることができたので、マシャードは書店に就職します。これが転機となって、彼は文学の世界へ入っていく。詩人、ジャーナリストから始まり、小説を書くようになるが、収入が安定しないので官庁へ。そこで働く傍ら文学に打ち込んだ。『ドン・カズムッホ』は晩年の長編小説ですが、彼の代表作であり、ブラジル文学の偉大な遺産です。本作は、語り手の「わたし」=ベント・サンチアーゴが50代になり、障害の回想記を欠くという設定になっています。ある日、ベントは子ども時代を過ごした屋敷の再現を思い立つ。2階建てで、正面には三つの窓。奥にテラス、寝室、今も同じ。客間の対以上と壁も同じ。小さな庭、井戸、洗濯場もある。食器や家具も古い。外見は、往時を過ごしたホームができた。だが、「人生の両端を結び合わせ、老境に青春をよみがえらせる」目的は果たせなかった。はっきり言えば、住んでいる人間が違うのです。ベントは家族もいない一人暮らし。父母はとうに亡くなり、妻子もある理由から遠く離れている。(この理由が本作の肝です)。そこで、回想記を書いて記憶の力で生き直すことにした。まず語られるのは、近所の少女カピトゥとの思い出(これが、せつないほど秀逸!)。当時、2人は14,15歳で、互いに好意を抱いていた。彼の母グロリアは死産を経験し、次に身ごもった子は神父にするので、元気に出産させてほしいと祈り、ベントを生んだ。神との約束を破るわけにはいかない。彼女は息子を神学校へ入れることにします。ペントは嫌がるけど、カピトゥの仲が深まり、それぞれ結婚の意思を固めたことで、神学校へ入る。そこで親友のエスコパールと出会う。やがてベントとエスコパールは神学校を出て、弁護士と商売人になり、家庭をもつ。子どもができないことが悩みだったベントは、ついに男の子に恵まれた。ただ、その子は成長するにつれて親友に似てくる——。物語は、人間の奇怪さ、複雑さを感じさせる展開になります。愛妻が信じられなくなり、孤独に陥り、やがてカズムッホ(偏屈)になっていくベントの心の動きを、作家マシャードは極めて巧みに、かつ自然に描く、本作がブラジル文学の遺産たるゆえんです。[参考文献]『ドン・カムズッホ』武田千香訳 光文社古典新訳文庫 【ぶら~り文学の旅㉝海外編】聖教新聞社2023.9.13
October 23, 2024
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食する「命」に全力で向き合い養鶏家 宮下 寛美[プルフィル]みやした・ひろみ酪農・養鶏等の「宮下ファーム」を営む。家畜人工授精師。農業経営士。認定農業者。76歳。1987年(昭和42年)入会。愛知県瀬戸市在住。副支部長。県農光部長。 「地産地消」の生産者〝物価の優等生〟と呼ばれるタマゴ。しかし、最近では、飼料や輸送費の高騰などで、価格が値上がりを続けています。やはり今の時代、地元の食料を地元で消費する「地産地消」で、「食」を守っていくことこそ、大事なことだと感じています。「宮下ファーム」では、標高約600㍍の涼しい気候下で、名古屋コーチンやウコッケイなど約3000羽のニワトリを飼育しています。そのタマゴを、地元の愛知県瀬戸市を中心に販売しています。地域の方々からは、「このタマゴばっかり買ってるよ」と、とても好評。かつて近隣に住んでいて、他県に引っ越した方も、〝宮下ファームのタマゴじゃダメなんです〟と、わざわざ取り寄せてくださるほどです。農家になって、妻(美代子さん=女性部副本部長)と歩んできた約半世紀、地域のみなさまに愛していただき、ここまで続けてくることができました。 少しも気を緩めずにもともと、ウシ1頭から始めた酪農業が宮下ファームの〝原点〟です。酪農も養鶏も、毎日世話を欠かしてしまっては成り立たない〝一日も休めない〟仕事です。休めないだけではありません。ニワトリやウシの鳴き声から体調を推測し、温度変化に気を使い、エサの配合も工夫。朝は午前5時に起きて祈り、タマゴ配達に駆け回り、戻ってきたら翌日配達するタマゴの回収……。やることは尽きません。少しでも気を緩めてしまえば、みんな病気にかかってしまいます。逆に、少しの目配りで、大きな違いが表れることもあります。日蓮大聖人は、「白米は白米にはあらず、すなわち命なり」(新2064・全1597)と仰せです。「食」としていただく大切な命に全力で向き合い、私たちも命を注いでいく——。こうした思いがありますから、いかなる小事もおろそかにすることはできないのです。歩んできた日々を振り返ると、「月々日々につより給え。すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし」(新1620・全1190)とも御文も、心に迫ってきます。信心の歩みとともに、環境の変化に対応するため、今でも酪農の勉強を重ね、少しでも質の高い「食」を皆様に届けようと、奮闘しています。2015年には、農畜産物の生産拡大と、「地産地消」の推進への貢献を評価していただき、瀬戸市から功労表彰を受けました。厳しい農業の世界で、〝他の人の何十倍も〟との思いで積み重ねてきた努力が実を結んだ瞬間でした。 地域を「食」で照らす妻と私は、これまで地元農協の責任者も経験。地域の小中学校の職場体験や、農業大学の研修の受け入れなど、池田先生から農漁光部に贈ってくださった「地域の灯台たれ」との指針を胸に、常に進んできました。ここ数年は、海外からの農業実習性も受け入れ、学んだことを彼らが帰国後、自国で実践している様子を伺い、世界とも農業でつながっていることを実感しています。一方、全国各地の農家では、後継ぎに悩むことばかりで、瀬戸市でも農家は激減しており、厳しい状況です。そうした状況の中でも、大学卒業後、ヨーロッパでも農業を学んだ二女(優子さん=地区副女性部長)夫妻が、酪農を担ってくれ、孫たちも「跡を継ぐよ」と農業を学びながら携わってくれています。ウシ約60頭の飼育や、搾った牛乳を使用した菓子の生産など、朝鮮を重ねています。跡を継いでくれる家族がいることにも、感謝の思いでいっぱいです。すべて題目の力だと実感しています。地域を、世界を「食」で照らしゆく使命を胸に、まだまだ頑張っていきます! 妻・三代子さんの話夫と共に歩んできた半世紀は、苦難の連続。「我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界へいたるるべし、天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ」(新117・全234)との一節を抱きしめ進んできました。夫は、これまで胃潰瘍や、異穿孔などで何度も入院を重ねてきました。近年も、入院する事態が。少しでも王衣装などが残ってしまった場合、仕事は即、廃業せざるをえません。しかし、信心の功徳で、その後は回復。今も元気に働くことができています。池田先生に教えていただいた信心と、〝地元のために〟との思いがなければ、多くの苦難を乗り越えて長年、農業は続けていくことはできませんでした。現在、経営は安定。事業の規模を拡大できており、信心の喜びを実感しています。 視点食の三徳宮下さんは、「自分たちの事だけを考えていたら、絶対にここまで続けることはできなかった」と語っていました。日蓮大聖人は「食物三徳御書」(新2156・全1598)で、「食の三徳」——すなわち、食の三つの働きについて教えられています。①生命を維持する働き②健康を増す働き③心身の力を盛んにする働きです。食は命の源です、その職を守り、人々を支える功徳が絶大であることは、間違いありません。この御書には、「人のために火をともせば、我がまえあきらかにまるがごとし」とも。〝人々のために〟——この思いで行動を起こしていく中に、自身の福徳がらんまんと咲き薫っていくのです。 【紙上セミナー「仏法思想の輝き」地消地産の生産者】聖教新聞2023.9.12
October 22, 2024
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理想なき現実主義が悲惨をバラまいている姜●我々が言っていることは「それは正論かつ理想論だ」と言われるかもしれませんが、結局リアリズムの名を煽る空想的な理論が、世界にいろんな悲惨をバラまいているわけです。「イラク戦争がアメリカの勝利に終わった」というときに、日本でも多くの人は喝采を送りました。メディアにいる人間も学者も、それから文化人もです。「これなら北朝鮮もOKだ」と。それが今、がらりと状況が変わっている。だから私は、理想なき現実主義は、いつの間にか現実主義それ自体を裏切っていくのではないか、と思っています。私たちを「単なる理想を語るだけでいいわねぇ」という人もいると思うんですが、では理想のない生き方を人はできるのか? できません。矢内原忠雄という人が、「国家の理想」という論文(「国家の理想—戦時評論集—」岩波書店に所収)で語っている通り、「現実を批判するのは現実ではない。現実を批判するのは理想なのだ」ということです。だからこそ、現実について何の知識のない人も、現実を批判することができる。小森●多くの人が「理想」という言葉を間違って考えていますよね。姜●そうですね。小森●「理想」というのは、「理(ことわり)に「想う」と書くんです。もちろんこの二字熟語はイデアの翻訳語として近代以降使われますけれど、本来の意味は、「ことわりにかなったことを想う」、つまり合理的な思考をする、ということに他なりません。それを考えていただければ、明白です。理想とは、最も現実的な理に基づいて現状を分析し、そこから推論してこの現状をどのように、かつどの方向にもっていったらいいのかを想い描くことなんですよ。最近の脳科学風に言うと、前頭前野をきちんと使わないと出てこないのが「理想」なんです。姜●だから、憲法窮状を理想だと考えると、我々がやらなければならないのは、工夫をしてもっと現実的に活用していくことです。私は間違いなく、今後「実」の方向に少しずつお互いていくと思います。それはもちろん、行ったり来たりジグザグを遂げるのでしょうけれど。何か目線を高いところで国家のいくべき指針を示すなどということは、我々にはできない。ただ、「実」のある人々が少し勢いを取り戻す手伝いが出来るだけです。しかし「実」の兆候が、今少しずつ起きているのではないでしょうか。小森●その兆しの一例だけご紹介しておきましょう。私は一〇年間北海道で学んだのですが、ワインの産地である余市という町があります。ここには「余市九条の会」というのがあり、その代表者の一人は書道の先生です。その方は今まで政治運動を異才やってこなかったような人なんですが、一念発起して呼びかけ人をやりました。人口二万数千の町で、「九条の会」の呼びかけが二〇〇〇人以上いるんです。その代表委員の一人は地元の自民党の幹部です。その人は「私は本気で、自衛隊は陸海空軍その他の戦力ではない。自衛のための最低限の実力だ! とまわりに説明してきた。これがそうじゃなくなると、私が嘘つきになる。絶対に許せない」とおっしゃっています。町の雰囲気は違うんですよね。決してかつての保守か革新とか、自民か社会化という二項対立ではないんです。ですから、一人ひとりが今の日本の現状をどっち向きに変えたいのかということを、いろんな縛りをいったん捨てて、率直に「この現場をどうするか」というところで議論をしたときに、私は「虚から実へ」の具体的な動きが生まれてくるのではないか、と思っています。 【戦後日本は戦争をしてきた】姜尚中(政治学者)・小森陽一(文学者)/角川文庫
October 21, 2024
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封印された100年前の悲劇に迫る森達也監督福田村事件集団心理の怖さ、「恐怖・不安」が産む暴挙、100年前の事件だが今につながる問題を孕む作品が誕生した。それが映画『福田村事件』だ。1923年9月1日11時58分、関東大震災が発生、東京は壊滅的な打撃を受ける。その5日後、事件は起きる。利根川沿いの千葉県葛飾郡福田村(現在の野田市)で、香川県から薬の行商15人の集団が朝鮮人と間違われ、村の自警団によって9人が無残にも殺害されたのだ。彼らの話す佐貫弁を理解できなかったのも一因だ。しかもその遺体は利根川に流された。当時、このような事件は各地で発生。曰く「鮮人(朝鮮人)が集団で襲ってくる。井戸に毒薬を投げ込んだ」等の流言蜚(飛)語、デマがまことしやかに囁かれた。また内務省からの通達にまで「朝鮮人が混乱に乗じて犯罪、暴動を画策をしているので警戒すべし」などの情報が流され、多くの住民に「恐怖・不安」の感情が広がっていく。時として、この感情は平常時には極穏健な人々を暴徒にまで変えてしまう。まさに震災後の状況はこれであり、福田村の悲劇もこれが背景にあった。事件はタブーとなった一方で、行商談が被差別部落民だったため、差別を恐れ、被害の声を上げにくかったなどの事情から、長く封印されてきた。フィクションではあるが、『A』『——新聞記者ドキュメント——』で知られるドキュメンタリー作家の森達也は当時の状況に鋭く迫った。これを果たして100前に起こった不幸な事件と言い切れるだろうか。「恐怖と不安」が生み出す事件は現代でも起きている。いつの時代も人は些細なきっかけで暴走する。作品は史実の要素を損なわない範囲で想像力(朝鮮から戻った夫婦は創作)を働かせた群像劇だ。自警団8人は殺人罪で逮捕投獄されたが、2年後、大正天皇死去の恩赦で全員釈放されている。(映画ライター 浅野桂二) 【ソーシャル・シネマ】公明新聞2023.9.8
October 21, 2024
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大阪初の「国際空港」武庫川女子大学名誉教授 丸山 健夫大阪市内を流れる木津川は、江戸から明治の時代、街の水運を支える大河川のひとつだった。その木津川の加工、現在の大阪市大正区船町付近に、大正十二年(一九二三年)、水上機のための飛行場が作られた。水上機とは、機体から伸びる足先に車輪ではなく浮きをつけ、水の上からの離発着ができる飛行機のことだ。水上飛行機とこの飛行場を使って、日本の草分けとなる定期空港路が誕生する。現在の日本航空とは無縁だが、同じ名前の「日本航空株式会社」が運営した。空港旅客事業の黎明期だ。当初、機体は小さく三、四人乗り、乗客もせいぜいに、三人だった。初の路線は大阪と九州の別府を結んだ。なぜ別府だったのか。当時、別府温泉は関西定番の観光地だったし、何より空から見る瀬戸内海の景色が美しかった。巨大なクレーンを使って期待が木津川の川面におろされる。乗客を乗せると飛行機はゆっくり海上に進んで離水。半日かけて瀬戸内海を縦断し、別府の的ヶ浜沖に着水した。浜には巨大な格納車も建設されて観光名所となる。昭和四年(一九二九)、木津川飛行場は陸上機も離発着されるように拡張され、大阪の公共飛行場となった。大阪飛行場と称し、東京、福岡、上海、大連などへの定期便が飛んだ。そして旅客数、発着数ともに日本一の空港へと成長したのである。ところが周辺の工場の高い煙突と煙が問題となる。対策として昭和十四年(一九三九)、大阪第二飛行場が検察された。伊丹空港とも呼ばれる現在の大阪国際空港である。今では木津川尻に、大阪の初代国際空港があったことを知る人は少ない。記念碑がたったひとつ、新木津川大橋の袂に建っているだけだ。 【すなどけい】公明新聞2023.9.8
October 20, 2024
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「人の支配」政治体制のおぞましさロシアの民間軍事会社「ワグネル」創設者プリゴジン氏の不可解な死は、プーチン政権による「暗殺」「粛清」「公開処刑」などと、さまざまな憶測を呼んでいる◆真相は闇の中だが、政敵や反対勢力の不審死や暗殺を疑われる事件が続いていただけに、政権が関与した可能性は高いとの見方が広がる。強権体制の冷酷で異常な〝性格〟が露呈したと思わざるを得ない◆名優オーソン・ウェルズの監督作品のなかで語られる寓話を想起した。こんな話だ。サソリが、湖を渡りたいから背中に乗せてほしいとカエルに頼む。きっと君は刺すとカエルは断る。そんなことをしたら僕も溺れてしまう、安心してくれとサソリが言うので、カエルは承諾する◆ところが湖の真ん中でサソリは突然、カエルに毒針を突き立てる。水の底に沈みながらカエルはサソリをなじる。《なんてことをするんだ。君も死ぬんだぞ》。するとサソリはこう答える。《でもどうしようもないんだ。これが僕のキャラクターなんだ》◆「悲劇だ。しかしほかの選択肢はなかった」。ウクライナ侵略を正当化するロシアの指導者はそう、うそぶいた。「法の支配」ならぬ、「人の支配」とも言うべき政治体制のおぞましさを感じる。 【北斗七星】公明新聞2023.9.6
October 18, 2024
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障害者辞典を編む日本障害者協議会藤井克徳代表に聞く 権利条約の成立がきっかけに新たな人権モデルの展望を 当事者参加の審議に学ぶ——辞典を製作するきっかけは障害者権利条約の成立(2006年)と日本の批准(14年)だったそうですね。 障害者権利条約の制定に向けた議論は02年7月から国連の特別委員会で議論が始まり、06年8月、歓声と拍手が鳴りやまないなか仮採択されました。(本採択は同年12月)。私は第1回の特別委員会から傍聴してきましたが、そこから二つのことを学びました。一つは障害者支援の近未来像を具体化する議論に加わることで日本も国際水準へ引き上げていくだろうということ。もう一つは、国際NGOによる発言が毎回行われるなど、当事者参加の審議を目の当たりにしたことでした。文字通り目から鱗が落ちる様な体験をした私たちは、国内でも障碍者に関する法令が整備され、条約の批准につながるよう、政府にも働きかけてきました。また、この機を逃さないためにも、障害問題のバックグラウンドを総合的に知ることのできる辞典が必要であると考えるようになっていました。条約の制定、批准の流れの中で、時点の政策を一つの記念事業としたいという思いが固まっていったのです。 ——27章で構成された辞典には、大項目から細項目に整理された計328項目が開設されています。 章立ては、障害者権利条約の条文を基盤にしています。権利条約は60箇条で構成され、第1条から第33条までが障害者の社会参加にかかわる内容になっています。辞典もそれを基本に開設し、さらに障害者運動に1賞を割き、国内の活動についても記述しています。各項目の執筆については、日本障害者協議会の加盟団体を中心に、障害者団体や事業者団体、専門職団体、学界など、各分野で活躍される方々に協力をいただき、広く障害分野をカバーできるものになったと思っています。昨年、国連の障害者権利委員会による日本政府への第1回総括所見が公表されましたが、こうした新たな動きも意識し、権利条約と総括所見の履行に貢献できるよう、辞典の政策に取り組みました。 共通言語の共有を目的に——辞典を通し、障害分野への着眼点を磨き、障害問題の本質をくみ取って欲しいと訴えていますね。 障害への差別意識はどこから生まれるのでしょうか。例えば、日本の精神科医療は入院中心で、先進諸国と比べても病床数が多く、在院期間も長くなっています。こうした長期入院が障害者への差別感情を助長していることを知ってほしいと思います。障害者権利委員会の総括所見も「障碍者の精神科病院への非自発的入院」を認める日本国内の法令に懸念を示しています。同じ例は知的障害者の入所施設にも見られます。さらに、こうした問題の本質には、障害者やハンセン病の患者を不良な人間として、その出征を防止することにした優生保護法やその元になった優性思想があります。優生保護法は1998年まで存在しました。権利条約の制定に向けた審議では、第2次大戦化実施された忌まわしい歴史の猛省に立った議論も行われています。こうした歴史を学ぶことも大切だと思います。 ——日本では障害分野での言葉の解釈が十分に共有されないことも問題ではないでしょうか。 本時点の特長の一つも「共通言語の共有」ということです。例えばバリアフリーの施策が語られる際、「合理的配慮」という言葉が使われますが、「配慮」というと、恩恵、好意によるものとイメージが強い。しかし、元になった障害者が持つアメリカ人法の「リーズナブル・アコモデーション」の正しい解釈は、他の市民との平等を確保するための調整、工夫ということです。したがって海外では「便宜的措置」や「正当な条件整備」という訳を当てている国もあります。リハビリテーションやアクシビリティー等の言葉には、本来、人権や平等、自由という意味が込められていますが、こうした理解はまだ十分に浸透していません。 主体性尊重した支援こそ 社会モデルを包含し進化へ——本辞典には「障害」とともに「人権」という言葉が加えられています。 障害者支援の理解は、障害で失われた機能や能力を問題とし、「障害の克服」を求める〝医学モデル〟から、障害者を取り巻く環境や障壁を問題とし、環境のバリアフリー化を目指す〝社会モデル〟へと移行してきました。こうした医学モデルから社会モデルへの障害理解の転換は、障害者権利条約の下支えになっています。しかし、障害者支援はそれで解決ではありません。福祉や教育、就労、所得補償など総合的な支援が必要であり、かつ機能障害の種類や程度にも焦点が当てられなければなりません。同時に個人の複雑なニーズも大切になります。これらに応えていくためには、種会社の主体性を尊重した支援、人権を基本としたモデルが必要になります。権利条約もまた、障害感を進化させながらの荒孔人権モデルを展望していくように思います。本辞典が人権を基盤とした障碍者支援の未来像を展望する一書になることを期待しています。 ふじい・かつのり 1949年、福井県生まれ。養護学級教諭退職後、東京・小平市での共同作業所作り等に参加。社会福祉法人きょうされん理事長、日本障害フォーラム副代表等を兼務。 【社会・文化】聖教新聞2023.9.5
October 17, 2024
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果てしなく欲望招く倫理的問題も科学文明論研究者 橳島 次郎オルガノイド知能昨年、オーストラリアの研究チームが、シリコンチャップ上で培養したヒトの脳神経細胞に、卓球のテレビゲームをプレーさせることが出来たと発表し、話題になった。生きている脳のニューロン(神経細胞)に、ゲーム捜査に関する情報データを入力して学習・記憶させ、プレーする電気信号を出力させることに世界で初めて成功したのである。脳でコンピューターを作る一歩が踏み出されたといえる。今年2月には、米国の大学を中心とした国際研究チームが、ヒト多様性幹細胞から作った脳神経細胞を立体的に培養したミニ脳(脳オルガノイド)で人工知能を作ろうという「オルガノイド知能」計画を発表した(オルガノイドとは臓器のようなものという意味)。現在の人工知能の基本計画は、脳の神経回路の働き方をモデルにしている(ニューラルネットワーク)。だから人間のニューロンを人工知能の本体として活用しようという発想は十分ありうる。オルガノイド知能が実現すれば、今の人工知能にとって代わる存在になるかもしれない。ただそこで気になるのは、培養したミニ脳に知能を持たせることができたら、独自の意識くぉもつ存在にならないかという問題だ。機械の中のプログラムである人工知能が高度に発達したら、人間をしのぐ異質の存在にならないかと恐れられてきた。人間の脳細胞を元にしたオルガノイド知能には、そういう恐れはないだろうか。そこまでは心配しすぎかもしれないが、知能を持つ脳オルガノイドに対して、私たちはどう向き合うべきだろうか。単なる研究材料=モノではなく、人間に近い、あるいは少なくとも感覚と意識を持つ実験動物と同等の、倫理的な配慮を必要とする存在だと考えて、研究を規制するべきだろうか。また、オルガノイド知能をだれの細胞で作るかという問題も気になる。医療現場などで採取され匿名化された細胞を使えば、問題はないのか。もし、私の細胞でオルガノイド知能を私の脳とつないで、知的能力を高めたいといわれたら、研究者は応じてもいいだろうか。そんな人間の果てしない欲望が招く倫理的な問題も想定して、研究の行く末を見守る必要がある。 【選対委技術は何をもたらすか-5-】聖教新聞2023.9.5
October 16, 2024
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朝鮮半島の分断に日本はかかわっていた小森●そのとおりですね。沖縄の問題は、非常に大事なことだと思います。戦後の昭和天皇裕仁がどのように生き延びたかを図っていくのか、ということについては、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波書店)を読んでいただきたい。どれだけ密室の、しかも執念深い談合がGHQ当局と天皇の側近との間で行われたか。天皇の独自録の一つの文言までお互いがチェックし合っていたことが、見えてくるはずです。それをもとに私も『天皇の玉音放送』(五月書房)という本を書きました。大事なことは、見事に談合だと思うんだけれども、まず一九四五年の九月二七日にマッカーサーと昭和天皇が会って以後、裕仁がいちばん重視しているのは、戦争を終えたことを「皇祖皇宗」に報告することなんです。報告したい、とマッカーサーに願い出る。姜●「皇祖皇宗」は説明した方がいいですね。小森●「皇祖皇宗」というのは伊勢神宮の天照大神からはじまって明治天皇、大正天皇まで順番に報告するわけなんです。その最終段階で一一月に靖国神社に参拝する。今は個人的に参拝したかどうかという話になっていますが、この時点では一九四六年一月一日の「人間宣言」はまだ出していないんですよ。GHQから国家神道をやめろという「神道指令」が出たのは四五年一二月です。四五年一一月の段階ではまだ大日本帝国憲法下ですから、昭和天皇裕仁は靖国の祭祀権を持ったままの現人神なのです。現人神のまま、四五年一一月に靖国神社を個人的に参拝する、個人的といっても現人神には違いありません。靖国神社を参拝したことによって、太平洋戦争で命を落としたすべての軍人たちは「英霊」になれた。この瞬間、靖国の妻や母たちにとって、間違った戦争で間違った死に方をしたと位置づけられてしまいそうだった自分の夫や父親、兄や弟を全部英霊にしてくれたのが裕仁だ、ということになり、戦後のカリスマ性の根拠になります。これが敗戦後の日本社会の女性たち、遺族の心をわしづかみにした。それこそ哲学者の高橋哲也さんが指摘した「魂の錬金術」(『靖国問題』ちくま新書)が見事に行われたわけです。そして、この昭和天皇裕仁の靖国参拝が終わった段階で「神道指令」がでる。そして四五年一二月には、日本の陸海二軍が完全に解散します。神道指令が出たのはその後のことです。全部近代日本の天皇制の、国家神道の協議にのっとったスペクタルイベントがきっちと行われた段階で、四六年一月一日に「人間宣言」が出る。あの人間宣言でも、天皇は自分が人間だとは言っていないんですよね。いきなり五箇条の御誓文を出して、日本は昔から民主国家だった、私と国民とのつながりは神話よりももっと現実の歴史の中で深いのだ、と言っている。姜●確かに天皇は「人間」だと言っていません。小森●戦争における戦死者の魂を人質にして、自らの権力の温存、生き延びる道筋を図るというのが巧妙です。そしてアメリカもそれを占領支配に使う。冷戦構造はヨーロッパだけではなく、中国大陸で人民解放軍は国民党を追い出していく方向になります。そうなると、日本に共産主義革命が波及してしまえば、現人神でなくなってしまった自分の地位が危うくなる。そう思って昭和天皇裕仁は、1947年にアメリカが軍事を支配した、あの本土決戦の演習として多くの非戦闘員を巻き込んだ決戦をした沖縄を、自ら「アメリカさん、どうぞ使ってくださいませ」と売り渡してしまうのです。本来沖縄の問題というのはさまざまな外交カードで使えたはずなのに、或は様々な責任問題をアメリカに対して主張できたはずなのに、天皇が自らの生き延びを図るために売り渡してしまった。アメリカが軍事要塞の島として冷戦下ずっと沖縄を支配してきた要因の出発点は、ここにあります。沖縄が冷戦下における最も過酷な軍政支配の犠牲になった。その状況をつくり出したのは、昭和天皇裕仁です。そしてもう一つ考えておかなければいけないのは、一九四五~四六年のプロセスにおいて、日本が植民地支配をしていた韓半島を、そのまま温存したことですよね。ここが韓半島が南北に分断される大きな理由になる。そのあたりを私たちは認識しておかなければいけないと思います。姜●国際政治学者の新藤栄一さんも、天皇メッセージによって沖縄を租借地みたいな形で売り渡した、と言っています。近衛文麿は、天皇に対して、早く戦争終結を出すべきだと進言してきました。ジョン・ダワーは『敗北を抱きしめて』より以前に、『吉田茂とその時代』(中公文庫)という本を出しています。それを読むと分かることですが、天皇の側近や重臣の間には、軍首脳の中で東条英機をはじめとする統制派(陸軍内の派閥。クーデターによらず合法的に政府を操作しようとした)が覇権を握って、彼らがそのまま行くと天皇制自体を破棄するのではないかという危惧が広がっていきました。岸信介をはじめとするいわゆる革新官僚(戦時統制経済、総動員計画を作成した官僚層)は、北一輝的な国家社会主義的思考を持っているわけです。天皇というのはあくまで国家の上に乗っかっている。悪く言うと国家があっての天皇であって、天皇あっての国家ではない。多くの人々は天皇あっての国家だと、現人神的に考えているわけだけど、天皇の側近や重臣たちの考えはそうではない。軍首脳の考え方がもっともっと極端な方向に走っていくと、国家社会主義が完成し、天皇制自体が廃棄されるのではないか、という危惧は敗戦問題から、保守派を中心に非常に高くなっていくわけです。ですから天皇制の温存のために終戦工作もやり、反共的な勢力を結集させようとしたりもする。いわば敗戦から内乱へ、革命へと向かっていくことを恐れた予防革命的な動きがあったわけです。ポツダム宣言の受諾をめぐる逡巡も、そうしたことと関連しています。これは岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」のなかにもよく表れています。結局ポツダム宣言の受諾が遅れたことが、南北分断にとっては決定的な意味を持ってきます。小森●そこは詳しく話してください。姜●朝鮮戦争がなぜ起きたのか? なぜ朝鮮半島が分断されたのか? とよく聞かれます。ひどい偏見ですが、同じ民族で殺しあうのは、やはり民族性に起因する問題があるのではないか、と思っている人もいるようです。たとえば、吉田茂はかつて「韓国人が二人集まると三つの党派ができる」とひどく揶揄しています。彼は韓国人に対して、「韓国人に民主主義を教えるよりは、春に種を植えればちゃんと秋には稲穂が伸びるんだ、ということを教えてあげるんだ」などと、非常に蔑視的なことを平気で言っています。要するに韓国・朝鮮人はまとまりがない、諍いの好きな民族だというわけです。もちろん、三八度線はだいたい軍管区から言うと朝鮮軍と関東軍(満州に駐屯した陸軍部隊)との仕切り線だと一般的には言われています。それから米ソの事実上の占領政策における境界線にもなりました。しかしなぜそうだったのか?アメリカ側は、朝鮮半島については全く知識は持っていませんでした。中国と日本に挟まれたあの半島について、日本の占領政策に比べると一人のルース・ベネデュクトもいなかったのです。それほど無知でした。無知だったんですが、やがて西側で、ヨーロッパ冷戦が米ソの主戦場となります。そして、東側では朝鮮半島の分捕り合戦が非常に大きな意味を持ってくる。とはいえ、ヨーロッパにおける境界線をどこに引くかがスターリンにとっては最大のテーマでしたから、東側、つまり朝鮮半島では譲歩していい、と思っていた。アメリカは、朝鮮半島は当初完全にソビエトの勢力圏に入るのではないかと考えていた。しかし冷戦とともに、彼らから見れば中国に不穏な動きが起きて栗。中国共産党が国民党を駆逐していく動きが出てくると、朝鮮半島は地政学的に重要だと判断したのです。そして一九四五年八月一〇日ごろに当時の国務省にいたディーン・ラスクらが、三〇分からそこらで境界線を引きました。「これぐらいが適当だろう」というわけです。これが分断線です。もし日本が半年早く降伏していたら、私は朝鮮半島分断はなかったということもあながち否定できないと思います。あと半年幸福が遅れていたら朝鮮半島分断はなかったのではないかという人もいます。小森●私もそう思います。分断された三八度線は、日本占領時代の軍隊の管轄の分割線だったのですから。 【戦後日本は戦争をしてきた】姜尚中(政治学者)・小森陽一(文学者)共著/角川書店
October 15, 2024
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郷土かるたで学ぶ地域の歴史と文化大東文化大学教授 宮瀧 交二昭和初期から各地で数多く誕生皆様はお正月に〝かるた〟遊びをしていますか? 今日は私たちが暮らす地域の歴史や文化を楽しく遊びながら学ぶことができる「郷土かるた」についてお話します。まずは〝かるた〟の歴史をたどってみましょう。ご存じのようにその語源はポルトガル語のcarta(もちろん英語ではcard)です。広義には南蛮貿易によってポルトガルなどの異国からもたらされたトランプなどのゲームカードも〝かるた〟になりますが、日本では一般に「百人一首」や「いろはかるた」のような「読み札」と「取り札」からなるものを指します。これに類する遊びとしては、蛤の貝殻を左貝と右貝の二つに分け、それぞれの内側に和歌の上の句・下の句や絵画を描いて、他の蛤の貝殻を見つけ出すという「貝合わせ」遊びが、すでに平安時代から貴族の間で人気を集めていました。こうした遊びが南蛮渡来のゲームカードと結びついて、江戸時代初期には、現在の「百人一首」のような〝歌かるた〟、注いて「石の上にも三年」(どんなに困難なことでも、じっと我慢して努力すれば、いつかは必ず報われる)というたとえや諺などを記した〝たとえかるた〟の「読み札」の冒頭に、いろは四十七文字を一つずつ用いた「いろはかるた」も、江戸時代の終わりまでには誕生したようです。さて、このような〝たとえかるた〟とりわけ「いろはかるた」をはじめとする各種の〝かるた〟は、明治政府が欧米にならって導入した学校教育の現場や庶民の家庭などでも、一種の教育玩具として、ますます普及していったようです。そして、地域の歴史や文化を遊びながら学ぶことが出来る〝かるた〟として昭和期に作られたのが「郷土かるた」です。 『上毛』は今も県民に高い人気 「郷土かるた」は、都道府県、あるいは市区町村を単位として作られていて、その総計は二千種類を超えているようです。そのような中、「郷土かるた」の代表とも言うべき長い歴史と県民からの高い人気を誇っているのが、昭和二二(一九四七)年に群馬県で誕生した『上毛かるた』ではないでしょうか。群馬県内の小学校では早くから授業に導入され、よく、昭和二三年から毎年「上毛かるた競技県大会」も開催されています。今年二月には前橋市のぐんま武道館で第七四回大会が盛大に開催されたようです。「浅間のいたずら鬼の押し出し」以下、五十音に「読み札」が作られていて、登場する群馬県ゆかりの歴史上の人物には、高校の歴史教科書等でもおなじみの内村鑑三、関孝和、田山花袋、新島襄、新田義貞らがいますが、その一方で、船津伝次平(農業技術指導者)、呑龍上人(浄土宗の高僧)、塩原太助(豪商)といった人物は、全国的な知名度は決して高くはありませんが、『上毛かるた』に取り上げられていた故に、群馬県民の間では高い認知度を誇っているようです。どうかお近くに群馬県出身の方がおられましたら、この『上毛かるた』についてたずねてみて下さい。きっと話が止まらなくなること間違いなしです。ちなみに私が暮らす埼玉県にも、昭和五七(一九八二)年に誕生した「さいたま郷土かるた」をはじめ、六十種類前後の「郷土かるた」がありますが、群馬県のようには普及しておらず残念です。また、西日本地域にも「郷土かるた」はありますが、その種類は少なく、「郷土かるた」は〝東高西低〟のようです。(みやたき・こうじ) 【文化】公明新聞2023.9.3
October 14, 2024
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関東大震災から100年「記録」を「記憶」へ教訓を未来に生かす挑戦 インタビュー 東北大学 災害科学国際研究所今村 文彦教授 過去の災害を振り返る意義——関東大震災は、近代日本の首都圏を襲った巨大地震として知られています。今、改めて、当時のことを振り返る意義はどこにあるのでしょうか。 一つの世代を30年と考えると、100年という時間は「3世代」に当たります。当時の記録は限られていますし、震災を直接、話を聞くことも難しくなってきています。私自身が震災経験者にインタビューしたのも、もう10年ほど前の話です。それでも、大きな節目の今この時に、未来をイメージするために歴史を見つめ直すことは大切です。関東大震災は、自身、火災、そして津波という複合災害でした。揺れそのものは、震源であった神奈川県を中心に大きかったことが分かっています。土砂災害に加えて相模湾の津波は、鎌倉、伊豆半島の伊藤や熱海で特に被害が大きかったようです。しかし、多くの犠牲者が出たのは、震源地から離れた場所での災害でした。人口過密といった地域の脆弱性が、下町を中心に二次災害を引き起こしたのです。また、不安の中でデマが横行したことも分っています。関東大震災を振り返るもう一つの意義は、帝都の迅速な復旧。復興が迫られたということです。被災者は生活を送ること自体も難しく、70~80万人という人々が、北海道から九州と、全国各地に広域避難をしています。2011年の東日本大震災による原発事故でも、福島の人を中心に広域避難を行いましたが、100年前にも、こうした対応が行われていた事実は知っておくべきです。南海トラフ巨大地震や首都直下型地震が起こった際、同様の対応を大規模で行う可能性があるからです。近年、各地で建物の耐震化や、備蓄などの防災の取り組みが進められていますが、地域によって対策に〝温度差〟があるのが現状です。災害時には、十分に対策ができていなかった場所ほど大きな被害を受けます。100年という節目に際し、関東大震災を過ぎ去った歴史としてではなく、未来への教訓としてとらえていくことが、大切だと考えています。 〝わがこと〟にするためには——100年前の出来事を〝わがこと〟として捉え直すには、どういった観点で歴史を見つめればよいでしょうか。 人間は、災害などの経験を記憶します。それを普遍的なものとして残すて行くために、写真や文字、映像といった形で「記録」するわけですが、そうして残された情報を目にするだけでは、どうしても、〝人ごと〟にとどまってしまいます。それを〝わがこと〟とするには、記憶をもう一度、「記憶」に戻していくということです。それには工夫が必要です。ポイントは「共感」です。一例として今、白黒の写真をカラー化する技術がありますが、町を焼き尽くす炎や、避難する人々の衣服などに色が付くだけで、100年前といっても〝今と変わらない〟〝似ているね〟と思えます。そうして捉えた100年前の記憶を、今度は、自分が直接見聞きした災害の記憶と結び付けられれば、他者の過去の出来事であっても、身近に感じるようにできるようになります。現在、津波の再現シミュレーションも行っていますが、最新技術を駆使することによって、よりリアルに災害当時の津波をイメージすることができます。本年2月に発生した「トルコ・シリア地震」の被災地を先日、視察しました。トルコでは耐震基準を満たしていない建物が多く、大きな被害が出ましたが、拠点病院は耐震・免振化されていたため、病院機能が失われなかったことを知りました。聞くと、東日本大震災の被災地をトルコ政府が視察し、耐震・免振化された石巻の赤十字病院が災害時に果たした役割を知ったことで、帰国後、迅速にトルコでも同様の対策を行ったといいます。甚大な被害が生じた中で、病院という重要なインフラが守られたことは、遠く離れた東北の記憶を、トルコの未来へと還元した一つの事例だといえるでしょう。 歴史の風化に抗う取り組み——記憶は、風花との戦いでもあります。 私たちは日々、新しい情報に接して生きています。時とともに、過去への記憶が脳の奥へと追いやられていくことは、ごく自然なことです。それでも歴史を風化させずに、未来へと生かしていくように努めなければならないからこそ、古い記憶を時々、表に出して、新しい記憶として取り入れ直すことが大切です。戦災を扱ったアニメや映画を見たり、避難訓練に参加したり、戦災の伝承施設を訪れたりと、どんな方法でもいいと思います。これは一人でも多くの人が震災伝承施設を訪れ、災害の教訓を知って盛るためのもので、東北各地に点在する施設の情報を分類・整理し、効果的に学べる仕組みを作っています。うやはり、現場で遺構を直接見て、語り部の生の声を聴くと、震災の捉え方は大きく変わります。小・中学校の修学旅行を含め、南三陸の自然を楽しむと同時に、遺構に足を運んでいただきたいと思います。また同時に、私たち東北大学災害科学国際研究所はこれまで、戦災に関する写真や動画、証言などをアーカイブ(記録・保存)というプロジェクトを推進してきました。誰もがアクセスできるデータとして公開し、防災・減殺対策に結び付けられることを目的としてきました。 防災は「共に生きる力」を磨く地域の魅力を再発見する機会へ 正しい「認識」がとるべき行動に——昨今、自然災害の頻度や規模は私たちの想像を超えるほどです。どのような「自助」の意識が求められているのでしょうか。 〝災害多発時代〟にあって、備蓄品をそろえるなど、防災の「意識」は高まっていると感じます。その意識を、これからは防災への正しい「認識」に変えていくことが必要です。それがあって初めて、とるべき「行動」が見えてきます。ひとえに自然災害といっても、自身と水害では、避難すべき場所も違えば、対応も異なります。まずはハザードマップなどをもとに、自分が数でいる地域は〝いざ〟という時に、どんな被害をどれくらいの規模で受けるのか、どこに避難すべきかなどを具体的にここに認識しておくことが大切です。災害ごとに、あらかじめどういった状況になったら動くか、どの情報をもとに、どのタイミングで避難するかという〝しきい値(境目となる値)〟を設けておくことも、リスク認識の一つとして大切でしょう。一緒に避難する家族に高齢者がいる場合や、住んでいる地域が被害の出しやすい場所なのか否かによって、行動すべきタイミングは異なります。避難行動に移すかどうかという判断に、個々人の価値観が働くのも自然なことです。だからこそ、自分はどうするかという「主体性」が不可欠です。災害を〝わがこと〟として具体的に想像することで、「意識」は「認識」へと変わり、それが引いては、自らの命を守る行動へとつながるのです。 小中学校での「出前授業」——災害科学国際研究所では、小・中学校で出前授業を行っていますね。子どもたちの災害を〝わがこと〟と捉えるための取り組みであると思います。 はい。私たちもそこに期待しています。出前授業では、科学的な裏付けのある津波の映像を見せたり、最新の災害の話題などを取り入れたりしながら、普段の学校とは違う授業を心がけています。一見、おとなしそうに聞いている子でも、ワークショップなどを通して一緒に防災について考える中で、「なぜ?」「どうして?」と、率直に疑問をぶつけてくれます。文部科学者が数年前に「学習指導要領」を改訂しましたが、海底に込められた思いとして、「『生きる力』を育む」と記されています。〝この目標はこれからも変わることはない〟とも。防災は〝生き残る力〟〝生き抜く力〟を考えることです。まさに防災教育こそが、今の日本が目指す教育の大目的に適ったものだったと思います。災害が起きたらどうするかを一緒に考える。〝共に生きるために、共に学ぶ〟のが防災教育です。そこで培った力は、災害に備えるためのものではなく、人生全般に役立つ力を育むことができるものだと思うのです。 事前復興が育む自助・共助の心——〝共に生きるために、共に学ぶ〟という防災の観点は、地域社会にも通じるものです。今村教授は、地域の未来を考える「事前復興」の大切さも語られています。 事前復興は、災害が起こることを前提として、被害想定をもとに災害に強い町づくりを事前に行うというものです。東日本大震災の時もそうでしたが、実際に災害が起きた時には、計画なんか議論できないほど混乱します。だからこそ、重要な公的施設や住宅施設をどう培っておくかを事前に検討し、少子高齢化・人口減少時代に合わせた災害に強い町にしておこうという考え方です。先いつ、出席した内閣府の「南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ」でも、大きなテーマの一つでした。この事前復興は、災害に備えるとともに、地域の未来を語るチャンスでもあります。大きな被害があった時、災害の前と後で、全く同じ町づくりはあり得ません。であるならば、災害があってもなお、未来へと残していきたい地域の魅力とは何なのか。それを考えることで、事前復興は、地域の魅力を再発見するプロセスにもなるのです。そこには、ぜひとも地域の未来を担う若い人たちにもかかわっていただきたい。地域として、同災害に備えるかを考えることで、その地域に住む一人としての「自助」「共助」の姿勢も大きく変わっていくと思います。私自身、東日本大震災から復興の歩みを通して思うのは、復興する力とは、「地域を大切に思える力」であるということです。その思いがないと、いくら行政が予算をつけ、インフラを整備しても、中身のないものになってしまう。事前復興の取り組みは、地域の絆を結ぶ絶好の機会になると考えています。 ——事前復興の取り組みがもつ可能性は大きいですね。 今、個を大切にする時代の流れにある中で、住民同士のコミュニティーといったつながりは、一昔前に比べて希薄になっています。しかし、東日本大震災でもそうであったように、大変な時に互いの支えとなるのが、身近な人のつながりです。そんなつながりを、日常から増やしていくことは、事前復興の大きな柱であると思います。一方で、最近は災害時にインターネット上で情報提供をするといった〝デジタル共助〟の可能性が模索されています。実際、災害時にSNSで情報をもらって命が助かったという事例もあります。場所や空間を超えて「共助」が育まれる時代だともいえます。身近な地域であっても、SNS上であっても、相手の置かれた状況を〝わがこと〟として捉えて、おもいをはせていく。「共に生きる力」を磨く防災は、そんな思いやりの心を育むものであると思います。そういった意味でも、「防災」を私たちの社会や教育の大きな柱としていくことは、課題が山積する困難な時代を生き抜き、幸福な未来を築いていくための確かな力になっていくと信じています。 いまむら・ふみひこ 1961年、山梨県生まれ。東北大学工学部卒。同大学院博士課程修了。同大学助教授、京都大学防災研究所客員助教授、東北大学工学研究科教授、同大学災害科学国際研究所所長などを歴任。現在、同研究所災害評価・低減研究部門津波工学研究分野教授、「3.11伝承ロード推進機構」代表理事、復興庁復興推進委員会委員長。 【危機の時代を生きる=希望の哲学=】聖教2023.9.1
October 13, 2024
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究極のアンチエイシング年齢を重ねると物事を予測寿司効率化する思考に流れ、経験値の範囲で動こうとする傾向が強まる。若い頃のように未知の世界に飛び込んで体当たりで乗り切る機会はめったになくなるし、避けがちだ◆その自覚があるなら、いつまでもチャレンジ精神を失わない人がまぶしい。だが、それにしても、この人は飛び抜けている◆90歳の冒険家・三浦雄一郎さんが一昨日、富士山の登頂を果たした。過去に3度、70歳、75歳、80歳で世界最高峰エベレストを盗聴した経歴を持つ。驚異的というほかない◆10数年前に取材でお会いした際、三浦さんはチャレンジの動機を未知や自身への好奇心だと語った。楽しみとも。しかし、輝かしい実績の裏側には、体力の衰えや、けがや病気との壮絶な闘いがある。信念のような強い意志を感じずにはいられない。◆好奇心に従い、目標を立て、夢中になって挑戦する。それが自身の生きる力となることを熟知しているのだろう。当時も75歳のチャレンジを振り返り、「70歳の時よりも元気で、回復も早かった。ある意味で。ある意味で究極のアンチエイシング」と話した◆富士山頂で仲間に囲まれ、「最高だ」とほほ笑む三浦さんに、人生を心から楽しむ極意を教わった気がした。 【北斗七星】公明新聞2023.9.2
October 13, 2024
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ことわざで知るロシアジャーナリスト 小林和男さん暮らしや考えに深く関係文学や音楽をはじめとする業績に魅了されてロシア語を学ぼうと入った大学の最初の授業。教授を務める佐藤勇先生からロシア文字の短文が並ぶプリントが配られた。すべてロシアの〝ことわざ〟だという。ロシア文字を読むのもおぼつかなかったが、先生は「声を出して覚えるように」とおっしゃる。懸命に覚えた。この時に覚えたことわざが、放送局の記者になり、念願かなって赴任したロシアで偉大な力を発揮した。現大統領のプーチン氏をはじめとする政府の要人、バレエのプリセッカヤら芸術・文化の関係者、市井の人々まで、数えきれないほどロシアの人々とあってきたが、誰もがこのことわざをよく口にするのだ。ならばと、学生時代に覚えたことわざを私も使ってみた。とたんに相手の表情が緩む。仲の良い友人に接するような態度になるのだ。言葉にして数秒。そこに人生の機微が詰まっている。佐藤先生はロシア人のメンタリティーを深く理解しておられたのだろう。2022年、ウクライナ侵攻が始まった。ロシアの人々はどんなことわざを口にしているのだろう。モスクワの友人に尋ねると、多くの人が「頭じゃロシアはわからない」といっているという。19世紀末のロシア帝国の外交官で詩人だったフョードル・チュッチェフが作った4行詩「頭じゃロシアはわからない/並みの尺度じゃ測れない/その身の丈は特別で/信じることができるだけ」の冒頭だ。「一人の言葉だけではことわざにならない」という。歳月を重ねて暮らしや考えに深くかかわっていることわざから考えれば、「頭じゃわからない」ロシアがいくらか身近になるのではないか。以前から思いを実現しようと去年の夏に書き始め、今年7月に上梓したのが、『頭じゃロシアはわからない 諺で知るロシア』(大修館書店)だ。ロシアの人たちが親しむことわざを、できるだけ多く紹介した。例えば「歌あれば事はうまくいく」「語らいは道中を短くし、歌は仕事を短くする」「物語は作り事。歌は真実」は、いかにも〝歌の国〟ロシアらしい。ロシアは〝弁舌の国〟だ。だれが話しても起承転結があり、文章になっている。詩人プーシキンの作品を子どものころから暗唱するのが国語教育の基本だ。対話の時も、目線を大切にすることが身についている。文書に目を落として読み上げるなど言語道断。失礼だけで収まらず、軽く見られてしまう。集会などでマイクの前に立つ時も、メモをポケットから取り出して棒読みするようなことはない。ゴルバチョフ氏もそうだった。私が取材するときは常に膝詰めで丁々発止。「心から話し合いたい」という気持ちが伝わってきた。ニューヨークでインタビューした時のことも印象深い。カメラスタッフが映像の効果を考えて氏と私の座席をセットしてくれていたのだが、その距離が遠いと感じたのだろう。部屋に入ってきた氏は夫人のライサさんに「手を貸して」と言い、自ら椅子を動かして距離を近づけ始めたのだ。本書で紹介したのは全て私自身が体験したこと、感じたことだ。「目は遠くを見るが、知恵はもっと先を見る」という、ロシアの大地のようなスケールを感じさせることわざがあるが、本書が世界の未来を考える何かの手がかりになれば望外の喜びである。=談 こばやし・かずお 長野県生まれ。NHK入局後、モスクワとウィーンに14年にわたり駐在、特派員・支局長を務める。NHK解説主幹などを歴任。モスクワジャーナリスト同盟賞など。民間外交推進協会専門委員。『エルミタージュの緞帳』『1プードの塩』など著書多数。 【文化Culture】聖教新聞2023.8.31
October 12, 2024
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家族の絆、親子の愛情の大切さ幼い娘に食事を与えず何十回も入院させ、共済金をだまし取った容疑で母親が逮捕されるなど、児童虐待事件が相次ぐ◆「おやこある物はさだまれる事にて、おやぞさきだちける」。鴨長明が『方丈記』に大飢饉の中、少しでも食べ物が手に入れば親は子に譲るため、先に親が亡くなると書いたのは、遠い昔のことなのか◆直木賞作家・出久根達郎氏の著書『漱石を売る』(文春文庫)に「雪」という題名のエッセーがある。雪が降る夜、出久根氏が営む東京の古書店を老夫妻が訪ねる。リュックから分厚い本を出し、妻が「この本はお宅さまでお売りになられたのでございましょうか」と聞いた。本は、下総国の殿様のスケッチした雪の結晶図譜の翻刻本だった◆出久根は約1年前の雪の降る午後、男子学生が雪の結晶図譜を買った時のやり取りを覚えていた。結晶図譜に美しさに感心する学生に、出久根氏が店先ですくった雪の結晶を拡大鏡で見せると、学生が驚いた様子などを夫妻に語った。学生は夫妻の一人息子で2カ月前に交通事故で亡くなっていた。沖縄在住の夫妻は受験で上京した際の息子の足跡を追っていたのだ家族の絆、親子の愛情の大切さに思いをはせる。 【北斗七星】公明新聞2023.8.30
October 12, 2024
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社会的不平等や軍事利用も懸念も科学文明論研究者 橳島 次郎脳と機械をつなぐ㊦前回、心身の障害のある人でも、脳と機械をつなぐことで、意思疎通や社会活動が可能になる技術が開発されていることをみた。そうした脳と機械をつなぐ選対委技術は、かけた機能を取り戻すだけでなく、すでにある心身の能力を向上させる目的にも応用される。日本では内閣府の「ムーンショット型研究開発」プロジェクトで、誰もが自由に身体能力や知覚・認知能力を拡張し、生活に活用できる技術の開発と普及を目指すという目標が立てられる。そのなかには、脳の決道を読み取りかっしんする機器の開発を発展させて、脳をインターネットでつなぎ、他の人や人工知能などと直接やり取りすることができる「脳のインターネット」の構築を目指すプロジェクトがある。実用化されれば、個々人のコミュニケーションや情報処理の能力は格段に向上するだろう。ムーンショット研究が目標とする「身体、脳、空間、時間の制約からの解放」が、実現するのである。だが一方で、能力の向上のために先端技術を用いることは、倫理的な是非を問う議論もある。遺伝子組み換え技術を人に施す際、成長をつかさどる遺伝子を低身長症の患者に投与するのは遺伝子治療だから認めるが、健常な人の身長を伸ばすために使うのは認めないとされてきた。向上目的での技術の利用を認めると、利用できる人とできない人の間に不公平が生じ、経済格差などの社会的不平等が拡大される恐れがあるからだ。特定の能力の向上が不用意にブームになると、同調圧力が生まれ、選択の自由が失われることも懸念される。脳のインターネットではそれに加えて、考えていることや行おうとしていることが他社に知られ、プライバシーが侵害され、医師や行動が左右される恐れが、他の脳と機械をつなぐ技術と比べ、一層高くなると予想される。また、インターネットと接続する機器をいったん脳に埋め込むと、容易に取り外せなきなることも懸念される。離脱の自由が確実に保障されなければならない。さらに脳のインターネット構築技術は、中国の人民解放軍が兵士の脳を索敵・通信式・兵器システムとつなぐ軍事目的で開発を進めているという。この技術により個々の兵士の能力は確かに向上するだろうが、他方で、兵士が調節脳を操作されて先頭の道具にされる事態も懸念される。脳と機械をつなぐ技術は、軍民両面に使えるという問題も考えなければならない。 【先端技術は何をもたらすかー4-】聖教新聞2023.8.29
October 11, 2024
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原発事故避難者の支援国連人権理事会報告書は訴える清水 奈名子特別報告者の訪日調査「国内避難民」という言葉を聞いたことがあるだろうか。武力紛争や政治的暴力、天災や人災などを理由として、住み慣れた故郷を離れることを余儀なくされ、居住国内の別の地域に避難している人々を指す言葉である。このような定義を聞くと、日本から遠く離れた紛争地域に存在する人々が創造されるかもしれない。ところが現代の日本社会にも国内避難民は存在しており、その人権が十分に保障されていないことが、国連人権理事会において問題となってきた。2011年3月に発生した東京電力福島第一原発事故では多くの人々が避難を余儀なくされたが、こうした原発避難者に対する日本政府による支援策打ち切り問題に関連し、国連人権理事会は、原発避難者を国内避難民として保護し、支援を継続すべき年提起しているのである。世界の人々の人権・基本的自由の促進・用語に責任を有する国連人権理事会が、原発避難者の人権状況を注視していることは、「国内避難民の人権特別報告者」であるセシリア・ヒメネス=ダマリー氏が、22年9月から10月にかけて訪日調査を実施したことからも、明らかである。23年5月に公表され、7月に人権理事会において報告されたダマリー氏の最終報告書によれば、外務省、法務省、復興庁や福島県の関係者をはじめ、福島県内外の被災者、避難者、支援者等と面談し、調査を実施したという。 差別なき支援の必要性この最終報告書において特に指摘されているのが、原発避難者の避難本が避難指示区域内外のいずれかであるかを問わず、国内避難民として差別なく支援することの必要性である。ダマリー氏は、次のように勧告する。「福島からのすべての避難者は、避難指示による避難か、原発災害の影響を懸念して避難であるかを問わず、同じ権利を有する国内避難民である。すべての国内避難民は、どの持続可能な解決策を追求するかについて意思決定するために、必要な情報を取得し、自らの意志によって決定する権利を有するが、これらは移民と居住の自由に由来する」(第97段落)原発事故後に公表された放射能汚染マップが示すように、事故による汚染を受けた福島県内外の地域のうち、避難指示が出されたのは一部に限定された。そのため、汚染されたが、避難指示が出なかった多くは、自己責任で避難をするのか、避難せずに生活を続けるのかを選ばざるを得ない状況に追い込まれることになった。その結果、避難指示区域内外からの避難者が多く発生したが、東電からの賠償はごくわずかであり、政府による住宅支援策は原則として17年3月に避難指示が解除された住民への支援も、打ち切りが始まっている。 公営住宅からの退去は人権侵害 以上のような政府による避難指示の解除や支援打ち切りを受けても、期間を今すぐに希望せず、避難継続を望む避難者は一定数存在してきた。23年5月時点で、福島県外で避難を続ける人々は、登録されているだけでも2万868人、福島県内の他の地域に避難している人は6147人、登録されていない人々を含めれば、その数はもっと多いと思われる。期間を望まない利湯は多様であり、自意味に好調さによれば、避難先で生活基盤ができているといった理由から、サービス等への不安、また事故を起こした原発や放射線への不安などが指摘されている。 政府が果たすべき責任最終報告書が特に重視するのは、避難当事者が避難を継続するのか、帰還するかについての自己決定権の尊重であり、以下のように指摘している。「そして政府は、国内避難民が自らの意志で、安全に、尊厳を維持しつつ、帰還できる、または他の場所に自らの意志で再定住できるようにする条件を整える第一義的な義務と責任を負っている」(同然)また、福島県が公営住宅からの避難者の退去を求めて裁判を起こした事案にも言及し、「不本意ながら帰還することを予防する対策が取られないまま、公営住宅から国内避難民を立ち退かせることは、国内避難民等の権利の侵害」であるとの見解を示した(第69段落)。他の国連機関による勧告と同様に、特別報告者の勧告に法的拘束力はない。しかし、ダマリー氏が指摘した移動と住居の自由は、日本も締約国として順守の義務を負う自由権規約の権利である。また当事者の自己決定の尊重に関しては、12年に成立した「原発事故子ども被災者支援法」において、被災者が自らの意志で決定した選択を適切に支援する政府の責任を明記している。最終報告書で言及されている「国内避難民に関する指導原則」を尊重して原発避難者支援を行う意向を日本政府は表明しているが、実行は伴っていない。日本政府が果たすべき責任が、国際社会から問われているのである。(宇都宮大学教授) 【社会・文化】聖教新聞23.8.29
October 11, 2024
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「明るさ」の奥に浮かび上がる「暗さ」生誕100年 司馬遼太郎を読む立命館大学 教授 福間 良明日本陸軍の暴力とその背景戦争体験根差す批判精神司馬遼太郎は、1923年の大阪・浪速に生まれている。昭和戦前期に幼少期・青春期を過ごし、戦争末期には学徒出陣で戦車部隊に配属された。司馬の歴史小説では、戦国時代から幕末、明治期まで、さまざまな時代が扱われているが、その行間には戦前・戦後の体験が投影されている。司馬の作品といえばすぐ思い起こされるのは、『坂の上の雲』だろう。秋山好古・真之兄弟や正岡子規を主人公に、日露戦争終結までの明治の時代が描かれている。「明治百年」のタイミングで新聞連載が始まったこともあり、近代日本を謳歌する作品として受け止められている。だが、この作品は「明治の明るさ」ばかりを描いたわけではない。藩閥の機能不全や政治・軍の組織病理も、じつに色濃く描きこまれている。「昭和の暗さ」も際立っていた。作品のなかでは、明治の「明るさ」(もしくは「暗さ」)との比較対象で、昭和陸軍の過剰な精神主義と合理性の欠如、セクシャナリズムなどの問題が随所に言及されている。それは明らかに、戦車という「敵のロジーの塊」を扱いながら、合理的な運用を欠き、末端兵士を無駄に消耗するばかりの軍隊に身を置いた芝の戦争体験に根差していた。今日の軍事史学の見方とは異なるものの、二〇三高地攻防戦で何万野の兵士を無為に投じては死なせるばかりの第三軍司令官・乃木希典の描写は、その典型だった。司馬にとって「明治の明るさ」は、フィルム写真でいうところのポジではなく、むしろ、司馬が退官した「昭和の暗さ」を描くためのネガでしかなかった。同様のことは、他の作品にも当てはまる。『国盗り物語』では、室町期の不毛なしがらみをかなぐり捨て、自由でのびやかな経済と合理的な軍事・政治を模索する斎藤道三や織田信長が描かれている。『竜馬がゆく』の坂本龍馬、『花神』の大村益次郎にも、幕末という変革期を背景にした主人公の合理性と伸びやかさを見出すことができる。他方で、大坂の陣と豊臣家の滅亡を描いた『城塞』は、決して「明るい」物語ではない。むしろ、秀頼や淀殿の取り巻によって政治・軍事の合理性追求が繰り返し阻まれ、その結果、じりじりと袋小路に追い込まれる組織病理が描かれている。だが、ある時代を明るく描こうが暗く描こうが、そこに重ねられていたのは、昭和の明治・軍事・経済のひずみだった。それが明示されないことも少なくないが、見る人が見れば、例えば兵力の逐次投入の誤謬により失敗に終ったガダルカナル戦や旧日本軍による戦地での暴虐を、容易に思い起こすことができる。司馬の歴史小説には、明るく伸びやかな記述は少なくない。だが、司馬の戦争体験やそこにいたる昭和史を念頭に置いて読み直してみると、実は昭和陸軍の暴力やそれを生んだ政治・社会への批判が色濃く込められている。「明るさ」をいかに直視するか。司馬遼太郎生誕百年の今日、そのことを改めて考えてみてもよいのではないだろうか。(ふくま・よしあき) 【読書】公明新聞2023.8.28
October 10, 2024
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幸福な社会を築く力は心の財を積む生き方に第24回本当の豊かさとは 東洋大学名誉教授 八巻 節夫さんGDPが示すもの幸福な社会とは、どうすれば実現できるのでしょうか。経済学の分野で長らく、国の経済の大きさを表すGDP(国内総生産)が伸びれば、人々の暮らしは豊かになり、幸福度をも上がると考えられてきました。しかし、現実は違うようです。日本ではGDPで世界3位ですが、2023年3月に発表された国連「世界幸福度報告書」によれば、日本の幸福度は137か国中47位。この報告書では、日本だけでなく、経済大国と呼ばれる国々も上位に入っていません。実は、経済的な豊かさが、直接的に幸福度と結びつくとは限らないことは1970年代から言われ始め、さまざまなことが明らかになりました。例えば、GDPを人口で割った「1人当たりGDP」は、国民の平均的な豊かさを表しますが、「世界価値観調査」を見ると、1人当たりGDPが1万ドルを超えると、幸福度と相関関係が見られなくなることが分かります。つまり、収入などが増えても、幸福になるとは限らないということです。ちなみに、日本の1人当たりのGDPが増えても幸福度は現在、約40万ドルです。なぜ経済成長し、DGPが増えても幸福度は上がり続けないのでしょうか。それもそのはずで、例えば環境破壊が進んでも、交通事故が起きても、GDPは増えるのです。GDPとは、一定期間内に国の中でモノやサービスによる付加価値、つまり製品やサービスの販売額から途中の仕入れ額や流通経費などを差し引いた、いわゆる〝もうけ〟がどのくらい出たのかを示すものです。例えば、ある期間内に、製品がたくさん生産されたり、個人が多く生じしたりすれば、GDPは増えます。交通事故の話でいえば、事故に遭った当事者は、肉体的・精神的に打撃を受け、幸福度は落ち込みます。にもかかわらず、GDPは保険の適用や自動車修理、病院での治療やお見舞いの花束の購入などで、たちまち増加するのです。逆に、主婦(夫)の家事や家庭での暖かな団らん、ボランティア活動を通じた人々の交流などは、商品やサービスの売買が伴わない限り、GDPに含まれません。つまり、GDPは「物の豊かさ」には寄与したとしても、幸福度とは必ずしも結び付くものではないということです。 経済の仕組みでは、人々の幸福に結びつく経済の在り方とは、どのようなものが考えられるのでしょうか。それについて今、世界の研究者たちが模索しているところです。例えば、フランスの経済学者ジャック・アタリ氏は、「命の経済」というものを提唱しました。これはコロナ禍による死者が増える中、経済的に豊かな国々が、人々の命や健康に十分な予算が割いていなかったことから、保健、教育、物流、再生可能エネルギーなど、健康に役立つ分野で働く人や企業を優先的に支援すべきだと主張したものです。環境分野では、すでに二酸化炭素の排出量に価格をつける「カーボンプライシング(炭素の価格付け)」が推進されています。これは、気候変動対策に積極的に取り組む企業が評価される企業が評価される経済の仕組みです。もちろん、アタリ氏の言うように命の安全や健康は、人々が幸福を感じる上での土台になるもので、私は賛同を寄せる一人です。ただ、それだけでは十分ではありません。というのも、経済的に豊かで体が健康であっても、不運な出来事に遭遇し、心が落ち込んでいれば、幸福とはいえないからです。そうして意味で、希望や生きがいと言って「心の豊かさ」を育む経済の師国を模索することが大切だと思うのです。その仕組みは、心の豊かさを含めた生命にとっての価値を増進するという意味から、私は「生命価値経済」と名付けています。例えば、前述した家事やボランティア活動など、人間の心や社会を豊かにする分野を正当に評価に、カーボンプライシングのように、経済活動の中に組み入れていくことが考えられます。育児休暇やリモートワークの拡充の流れなども、その一例といえるでしょう。 仏法の視点「心の豊かさ」を育む経済を目指す前提として、「心の豊かさ」とは、どのような条件のもとで高まっていくのかについて考えたいと思います。その要素はいくつかあるでしょうが、特に私は「態度価値」「社会関係資本((ソーシャル・キャピタル))のが要になると捉えています。一つ目の「態度価値」は、オーストラリアの精神医学者、V・E・フランクルが名付けたもので、逃れられない運命に対し、どのような態度で受け止めるかによって生まれる価値のことです。フランクルは第2次世界大戦時、ナチスの強制収容所に入れられました。自由を奪われ、死と隣り合わせの環境で、〝この苦しみはどんな意味があるのか〟を問い続けました。その経験を経て、避けられない出来事をどう解釈し、そこにどんな意味を見出すかという態度によって、人生の捉え方や生き方が変わることを痛感したのでしょう。実際、フランクルはどの状況に置かれることはなくても、人それぞれ、さまざまな出来事に遭います。その時、前向きにとらえて挑戦するか、「もう駄目だ」と諦めて歩みをやめてしまうのか。その受け止め方は、後の心の在り方にも影響を与えていくものです。ここで強調したいのは、逆境や試練に対し、自分自身を向上させる糧として移行する前向きな態度が大切ということです。そうした捉え方ができれば、どんな状況でも「心の豊かさ」を育んでいけるからです。二つ目の「社会関係資本」は、社会や地域での信頼関係や、人との結びつきなどを資本ととらえる概念です。以前から、こうした〝他者との関係性〟が心を豊かにし、幸福な人生に不可欠な要因となることは指摘されてきました。例えば、経済協力開発機構(OECD)の「より良い暮らし指標」では、「社会的つながり」が幸福度の指標の一つになっています。また、アメリカの研究では、社会的に孤立している人は、社会的なネットワークを多く持つ人よりも男性で2.3倍、女性で2.8倍も死亡率が高いとの結果が出ており、他者とのつながりは健康にも影響を与えることが分かっています。先ほど挙げた「態度価値」も、人々暖かな言葉や励ましといった「関わり」によって生まれる部分もあります。そうした中で「心の豊かさ」が育まれることを考えると、人と人のつながりを築いていく大切さも分るでしょう。そのうえで、私は仏法の思想・生き方こそ、この「態度価値」や「社会関係資本」を育む力になると考えています。例えば、仏法の「願兼於業」という法理は、民衆を救済するために、あえて願って宿業を背負い、悪世に生まれてきたという意味であり、悲しみの原因である「宿命」を、自身の生きる意味である「使命」と捉えていく生き方を教えています。これは、まさに「態度価値」のことで、人々の生きる力を増進していく前向きな態度でしょう。また、仏法には「縁起」という考え方があります。あらゆるものは「縁りて起こる」という関係性にあり、いかなる物事も単独では成立せず、互いに依存し、影響しあう中に存在しうると考えます。人間も、自分一人だけで存在しているのではなく、実は互いに支えあっている。こうした視点に立てば、他者を排斥するのではなく、むしろ、他者と共生するための知恵が生まれるのではないでしょうか。その意味で、ここには「社会関係資本」を育む力があります。 宿命を使命にこれまで、人々の幸福に結びつく経済の在り方について考える中、「物の豊かさ」よりも「心の豊かさ」が必要であり、「態度価値」や「社会関係資本」が要となることを述べてきました。この「態度価値」や「社会関係資本」は、GDPには含まれていませんが、こうした「心」を重視する経済へと軸足を移してこそ、一人一人の幸福感も増していくと考えます。しかし、私は「物の豊かさ」が幸福に結びつかないといって、経済成長それ自体を否定しているのではありません。また「態度価値」によって「心の豊かさ」が生まれるのなら、貧困などの経済格差が固定化されたままで構わないと言っているわけではありません。アメリカの心理学者マズローも、飢えや渇きを満たしたいという「生理的欲求」や、恐怖や不安から逃れ、安心した暮らしがしたいという「安全の欲求」が満たされてから、「精神的な欲求」が生まれると述べられています。その意味からも、貧困対策や福祉政策はないがしろにしてはならないですし、そのために国の経済が豊かになっていくということも大切なことです。私は仏法のまなざしも同じであると感じています。日蓮大聖人は「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」(新1596・全1173)と仰せです。ここで重要なのは、蔵の財(物の豊かさ)や、身の財(健康や身に付けた技術・地位など)を否定しているわけではないということです。ただ、それを追い求めるだけでは、本当の幸福をつかめない。だからこそ、心の財(心の豊かさ)を積む生き方が大事であるということです。創価学会員は仏法の希望の哲学を心に刻みながら、宿命を使命に変える生き方を貫いています。そして、孤立や孤独が深まる現代にあって、周囲に励ましを送り、積極的に人々とのつながりを育んできました。こうした互いの「心の豊かさ」を増していく運動は、今の社会にますます求められているのではないでしょうか。また、仏法の哲学を語り広げることは、まさに私が述べた「心の豊かさ」を育む経済をはじめ、人々が幸福感を感じられる社会を築く力になっていくと確信します。私自身、学術部のモットーの一つにある「正義・勝利の連帯」を広げながら、「本当の豊かさ」を施行する経済学の発展を目指し、さらなる探求に励んでまいります。 やまき・せつお 1943年生まれ。経済学博士(財政学)。国士舘大学大学院博士課程修了。東洋大学経済学部教授などを経て、現在、東洋大学名誉教授。著作に『改訂新財政学』(文眞堂)、「地球環境時代と生命系経済学」(『地球環境と仏教』所収、東洋哲学研究所)など。創価学会学術部参与。総神奈川・相模総緑区主事(総区太陽会議長兼任)。 【危機の時代を生きる 希望の哲学■創価学会学術部編■】聖教新聞2023.8.26
October 9, 2024
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東欧の小国の悲劇を生き生きと描出東京外国語大学名誉教授 西永 良成読者を解放 7月に逝去したチェコ出身の作家ミラン・グンデラの「笑い」チェコの功名な批評家フヴァチークが、「グンデラは自らの作品の主題を選ぶ必要はなかった。時代が彼の作品の主題を選んでくれたのだ」と述べているように、彼は1948年のチェコの共産主義革命から、68年の「プラハの春」とソ連によるその弾圧、それに続く非人間的な、「市場課」の時期、そして89年の「ビロード革命」まで、東欧の小国の悲劇を『冗談』『生は彼方に』『笑いと忘却の書』『存在の耐えられない軽さ』『無知』などの小説を生き生きと描出し、20世紀の壮大かつ過酷な社会実験というべき、共産主義的実存の記念碑的な作品群を残した。グンデラはこのようなチェコ現代史の悲劇を描いた作品によって歴史に残る作品になるに違いないが、忘れてはならないのは彼の本領はもともと喜劇にあったことだろう。このことは『おかしな愛』「別れのワルツ」「不滅」「無意味の祝祭」のような喜劇的な作品の系列を読むことで容易に納得できる。 喜劇的なものが残酷に無意味さ容赦なく暴露 「悲劇的なものは人間の偉大さという幻想を差し出すことによって私たちに慰めをもたらす。喜劇的なものはそれよりも残酷であって、容赦なくあらゆるものの無意味さを暴露する……喜劇的なものの真の天才とは最も人を笑わせるものたちのことではなく、喜劇的なものの未知の地帯を明らかにするものたちのことだ。〈歴史〉は常にひたすらまじめな領域だとみなされてきた。ところが〈歴史〉には未知の喜劇的なところがあるのであり、これは(受け入れるのが困難な)性に喜劇的なことがあるのと同じである」と言っているが、グンデラが「喜劇的なものの未知の地帯」を最初に取り上げたのは『可笑しな愛』であり、彼はここで例外なしに滑稽な性の形態を描いて見せた。これ以外にも『緩やかさ』や『無知』でも、『チャタレー夫人』の愛読者ならきっと憤慨するに違いないような非叙情的な性の情景を描き続けていた。喜劇的なものが残酷にあらゆるものの無意味さを容赦なく暴露するという点で、グランデらの考えをもっとよく示しているのは最後の小説『無意味の祝祭』である。彼は時に神聖視される歴史や性愛を含むあらゆるものを笑いのめすこの小説の登場人物のひとりに、「ねえ、きみ、無意味とは人生の本質なんだよ。それはいたるところで、つねにわれわれもつきまとっている。……しかし大切なのは、それを認めることだけでなく、それを、つまり無意味を愛さなければならないということだよ」とまで言わせる。このようにグンデラら読者に慰めや励ましを与える作家ではなく、笑いによって読者を解放する作家だった。それは「あるがままの人生は敗北である、ひとが人生と呼ぶ避けがたい敗北に直面して、私たちのこのされる唯一のことは、人生を理解しようと努めることだけだ」ということをよくよく見極めた認識だった。(にしなが・よしなり) 【文化】公明新聞2023.8.25
October 8, 2024
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世界から注目される豊岡の取り組み中貝宗治(豊岡アートアクション理事長)一流が来る創造の場に皆さんは、フランスのカンヌやアヴィニヨンをご存じでしょうか。カンヌは世界三大映画祭の一つカンヌ国際映画祭が開催され、アヴィニヨンは世界で最も成功した演劇祭の一つが開催される町、小さな地方都市ながら、世界中の多くの人が知っている「小さな世界都市」なのです。兵庫・豊岡も、何かに突き抜けた魅力を持つ「小さな世界都市」を目指しています。それを伝えたく、近著『なぜ豊岡は世界に注目されるのか』(集英社新書)を出しました。一番の取り組みは、演劇の町づくり。演劇の町づくりというと、皆が演技気を上演し、それを見て楽しむ、というメッセージを持つかもしれません。でも、それでは、自分は関係ないと思う人も多く出てしまいます。個人の好き嫌いではなく、演劇を町づくりに生かしていこうという取り組みなのです。実際、9月に行われる豊岡演劇祭には、昨年には約1万8000人の来場者がありました。城崎国際アートセンターは、宿泊しながら部隊を作り上げる「アーティスト・イン・レジデンス」として、一流のア-ティスとが世界中からやって来ます。これを観光につなげ、町を元気にしていくのです。また、子どもたちはコミュニケーション能力を高めるため、学校で演劇を学び、最近は、認知症の人とのコミュニケーションに演劇を生かせないかという取り組みも進められています。 演劇によって町を活性化小さな世界都市をアピール 地方に残る日本らしさこれまで豊岡は、コウノトリ野生復帰で注目されてきました。また、農薬に頼らない「コウノトリを育む農法」を普及。安全・安心な農作物として人気を集めています。さらに、城崎温泉は日本の伝統的な風景が残されている温泉街として、海外の人たちからの観光人気が高くっています。出石にしても、江戸時代の城下町のような情緒が残っています。海外の人たちが観光に来たら、まず東京、大阪、京都などに行くことでしょう。でも、その次となると、都市部ではなく、日本らしさが残っている地方になるはず。豊岡はその候補地になるわけです。豊岡では、コウノトリ、インバウンド、演劇に加え、ジェンダーギャップの解消を加えた4本の矢を考えています。人口減少を考えると、問題なのは若者がいなくなっていること。高校を卒業し、都会の大学へと進学した和漢のが、就職時には地元に戻ってこないのです。特に女性の減少が問題です。現在は、市内103の企業がジェンダーギャップを、どう解消するかに取り組んでいます。その中から、初めて女性管理職が誕生したり、社長自らが1カ月の育児休暇を取ったりするケースも。まだ、ゆっくりですが、変わり始めています。 多様性を生かせる社会コウノトリが空を舞い、伝統的なものにひかれて海外から多くの人が集まり、豊岡を素敵な場所だと言ってくれる。また、演劇が世界と結びついて、豊岡が創造の場になる。町の人々も、演劇的なワークショップがコミュニケーションのために役立つ。さらに、ジェンダーギャップがかなり解消され、男性でも女性でも、障がいがあってもなくても、お年寄りでも若くても、それぞれに居場所があり、ちゃんと社会的役割を果たしている。そんな多様性が生かされている町になったら、本当に素敵だと思います。そこに向かう取り組みが、少子化、人口減少という危機を克服することにもつながるのではないでしょうか。ローカルの魅力は、大都市のように「大きい・高い・速い」ではありません。大切なのは、何かに突き抜けようとする意識を持つこと。突き抜けられそうなものを見つけ、磨いていく。それが町の魅力になり、町を変えていくことになるのだと思います。=談 【文化Culture】聖教新聞2023.8.24
October 8, 2024
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豊かな想像力で育まれやがて芽吹く種子アニメ研究家 氷川 竜介 —宮崎 駿監 督作品-君たちはどう生きるか宮崎駿監督ならではのイマジネーションの奔流。卓越した描写力によって空想世界にグイグイと引きずりこまれるアニメーションの映画だ。「死別した母に再会したい」「新しい母親になじめない」など現実と齟齬を生じた少年が、「ここではないどこか」に旅立ち、何か違うルールを持つ世界で現実を再検討できる経験を積んで帰還する。つまり、神話から連綿と紡がれてきた物語の王道が援用されている。ただし、目の前に現れる事象には、遊園地のようなガイドや安全装置が付いてこない。観客は自分の内面にあるものだけで判断し、受け入れたり拒絶したりしながら、意志の力で先へ進む必要がある。振り落とされる人も少なくないだろう。筆者は言外に示されたイメージの総体から、脳内が刷新された気分がわき上がりつつ、劇場を出た。そんな体験性の強い、稀有な映画とも感じた。場面の写真の一枚すらなく(執筆時点)、具体的な解説が皆無だったのも、体験の純度を高めるためだろう。最終的に問われるのは「君たちはどう語るか」だから、「うまい宣伝手法ですね」などと言ったとたん、映画の側から冷ややかな視線が飛んでくる。迂闊な語り方をすると底の浅さが露呈する、そんな怖さも備えているのだ。これは、「あれは何だったのか」と引っかかったところを反芻し、自分の変化や成長に即して再吟味できる点で「残る映画」だとも思った。アニメが「コンテンツ」と呼ばれ始めて以後、マネーメイキング目当ての「消費物」の性質を帯びた作品が無数に繁殖した。この映画に登場するインコの群れもそう見えたりするが、ただしそんな下世話な反骨心だけで、この映画は作れない。むしろ宮崎駿監督が「物語」に対して、それまでよりも誠実に向き合っている点に心を動かされた。実は、題名に引用された吉野源三郎の小説以外に、本作に影響を与えた小説はもうひとつある。『失われたものたちの本』(ジョン・コネリー著、東京創元社)という児童文学で、監督の推薦文にも帯に添えられている。同署は、母と死別した少年が新しい母とその子になじめず、姿を消したい血縁の遺物から「物語の世界」へ旅立つという内容だ。構造的に関係があるわけだが、もっと注目すべきは、亡き母が「物語とは何か」を主人公の少年に語る序盤部分である。人の想像力に根を下ろし、その人を変えるものが物語であり、決して固定されたものではないと、そんな趣旨が語られている。映画『君たちはどう生きるのか』に詰めこまれた諸要素も、観客の深奥深くに忍び込み、やがて芽吹く「想像の種子」だと考えられる。だとすると題名は、「君たちはその趣旨を育てられるか?」という問いかけではないか。映画の中で傷つき汚れた少年の心は浄化され、拒絶していた他者を「お母さん」「友だち」と呼べるように変わる。「さて、君たちは?」と考えれば、これも一つの種子であろう。こうした問いかけと答えを、多くの人と末永く語り合えるという点で、本作は、「今だからこそ必要とされる物語」になったのではないだろうか。 ひかわ・りゅうすけ 1958年生まれ。東京工業大学卒。著書に『日本アニメの革新 歴史の転換点となった変化の構造分析』(KADOKAWA)など。 【文化】公明新聞2023.8.23
October 7, 2024
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先住民女性が受ける二重の差別作家 村上 政彦ソル・ケー・モオ「女であるだけで」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、ユカタン・マヤ語(先住民言語)の話者であるソル・ケー・モオの『女であるだけで』です。私は女性に頭が上がりません。祖母、母、妻——彼女たちがいなければ、今、生きていることすら想像できません。ところが、広く世界を見ると、女性が差別され、虐げられている国や地域があります。本作の主人公オノリーナ・カデナ・ガルーシアも、その一人です。彼女は家畜が病気にかかり、一頭も残らず死んだ時、父によって「四百ペゾと一足の靴、そして金のネックレス一本」で売られてしまいます。買った男の名は、フロレンシオ・ルネス・コタ。二人下、ユカタン半島の高地・チアパス州出身のマヤ系ツォツィル先住民です。フロレンシオはオノリーナに宣告する。俺はお前の所有者だ、俺の言うことに従え、と。つまり、二人の関係は夫婦ではなく、主人と奴隷なのです。この男は、アルコール依存症に陥るほど酒を飲む。酔っぱらえば、オノリーナの髪を掴み、ベルトで叩く。素面のときはまともかといえば、やはり、同じことをする。彼女が妊娠中であろうと容赦しない。手にした物で殴る。床に倒れると、蹴る。そのせいもあってか、四人の赤ん坊が死に、生きているのは二人の男の子だけです。ひどい仕打ちはそれだけではありません。オノリーナが市場で物売りをして稼いだ収入を全て巻き上げる。暮らしは貧しい。オノリーナいわく、彼らの家は「四本の柱が立っているだけで、その上にトタン板の屋根が載っかっているだけさ。壁は木の間を、段ボール紙や政党のスローガンの印刷された毛布、ナイロン袋で塞いであるんだ。風が吹くと、それがひらひらと揺れるんだよ」。フロレンシオは、人夫頭をしていたバナナ・プランテーションで、逆らう人夫を殺して、別の町に列車で逃げる。その後、工事現場のセメントを盗んで横流ししたことが発覚し、刑務所に収容される。その間は、オノリーナが自由を満喫した時間でした。オノリーナは、インディオと女性という二重苦を背負っていることで、すべてを諦めています。しかし許せないことが一つだけあった。フロレンシオに売春を迫られたことです。死んでも嫌だと抗ったら、子どもを殺すと脅された。そして、ついにオノリーナはナイフを手にする——。本作は先住民言語で書かれたフィクションですが、そこで扱われている差別の問題は、現在のメキシコの先住民女性に起きていることなのです。女性が平等に扱われることは、男性を偏見の楔から解放することでもあります。本作には、このような強いメッセージが込められています。[参考文献]『女であるだけで』 吉田栄人訳 国書刊行会 【ぶら~り文学の旅㉜海外編】聖教新聞2023.8.23
October 6, 2024
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コレステロールを正しく知ろう循環器内科部長 増田 大作さん動物性の脂で体に必要な栄養素コレステロールは、動物性の脂のことであり、人にとって必要な栄養素です。細胞膜やホルモン、胆汁酸を作る材料となっています。食事によってとるイメージがあるかもしれませんが、体に必要なものなので、肝臓など全身で常に作られています。コレステロールは、血液中のタンパクにのって運ばれますが、その濃度が一定の数値を超えると、動脈硬化のリスクが高まり、狭心症や心筋梗塞、脳梗塞を引き起こします。コレステロール値は食事によって変動しますが、糖尿病や甲状腺機能低下症、慢性腎臓病などの病気や女性ホルモンに関する薬が原因で高くなっていることもあります。大事なことは、食事や生活習慣によってだけ異常値になるのではなく、遺伝的にコレステロール値が高かったり、他の病気が影響したりすることもあるので、混同せず見極めることが必要です。ただ、そのためには医学的に冷静な判断が望ましく、思い込みは避けるべきです。心配な人は、日本動脈硬化学会の専門医がいる病院で診察を受けることをお勧めします。専門医のいる病院は、同会ホームページで調べることができます。 動脈硬化予防の生活習慣動脈硬化を予防するため、喫煙は絶対にNGです。1本吸うだけで、格段に動脈硬化のリスクが高まると考えてください。受動喫煙も同じです。避けるようにしましょう。予防には適切な運動が大切です。ジョギング、ウオーキング、水泳など何でもいいので、週3回以上、30分以上の少しの負荷を感じる程度の有酸素運動をしましょう。続けるためには、一緒に取り組む仲間を見つけることがポイントです。運動が続かなくなり地番の〝敵〟は言い訳です。一人だと、「今日は雨だから」「忙しい日だから」と、やらない理由を探してしまうものです。食事で注意したいのは、飽和脂肪酸。牛や豚など脂の多い肉、鳥の皮、乳製品などは、とり過ぎない様にしましょう。アルコールは1日ビール1缶程度まで抑えてください。一方で、魚、緑黄色野菜、海藻、キノコ、大豆製品などは、摂取量を増やすように意識しましょう。伝統的な「日本食」が、動脈硬化予防に効果的です。卵は、コレステロールの多い食材として有名ですが、数値が正常な人が多めに食べたくらいでは、影響はないといわれています。 無料アプリ「これりすくん」脂質異常で病院に来る方は、恥ずかしそうに診察を受ける人が多い印象です。食べ過ぎ、飲み過ぎばかり指摘されてきたかもしれません。しかし、実際は体質の問題もあります。コレステロールの生産が多い・回収が悪い・吸収しすぎる体質の人はとても多いのです。遺伝的に「家族性コレステロール血症」という病気の人も300人に1人います。診察の際、蓄積された疫学データをもとに、年齢、性別、各数値、遺伝など、さまざまな情報で点数をつけ、総合的な判断をして、治療目標を決めていきます。個人では、それを調べるのは簡単ではありません。そこで、の本動脈硬化学会では、一般の方向けに、コレステロールのリスクを調べられる、動脈硬化性疾患発症予防アプリ「これりすくん」を無料で公開しています。自分がどの程度、動脈硬化のリス子をもっているか、ぜひ調べてみてください。動脈硬化の予防のために効果的な食事や生活の情報も得ることができます。まずは正しい知識を身に付け、動脈硬化の予防に努めていきましょう。 悪玉と善玉は〝運び屋〟「悪玉コレステロール」「善玉コレステロール」という言葉を知っていますか。これらの働きと呼び方の理由について解説します。肝臓で作られた中性脂肪やコレステロールは、リボタンパク質と呼ばれる〝運び屋〟によって、血管の中を進みます。運び屋は2種類あり、LDL(低比重リポタンパク質)が「悪玉」と呼ばれ、HDL(高比重リポタンパク質)が「善玉」と呼ばれます。LDLは、トラックをイメージしてください。中性脂肪やコレステロールをのせ、中性脂肪はエネルギーとして使われ、残ったコレステロールを含むLDLは、細胞や血管の壁などを作るために使われます。このLDLが過剰になると、〝渋滞〟〝事故〟を起こし、血管の壁にごみとしてたまっていきます。これが動脈硬化であり、壁が膨れて血管の内側が狭くなり、狭心症などを起こすのです。一方、HDLは、ごみ収集車のイメージです。血管の壁にたまっているごみを、もう一度、肝臓に戻し、動脈硬化を減らす働きをします。一般的にLDLは多いと悪いので悪玉。HDLは多いと良いので善玉と呼ばれます。ただ、両方とも体に必要なコレステロールを運び仕組みではあるのです。 ポイント① 食事だけが原因ではない。② 喫煙はNG、受動も回避③ 伝統的な「日本食」が効果的 ますだ・だいさく 地方独立行政法人りんくう総合医療センター循環器内科部長、先進医療開発センターのセンター長などを兼務。産業医。専門は脂質代謝異常(食後脂質異常・レムナント代謝)、循環器疾患、未病医療、メタポリックシンドロームなど。メディア出演多数。 【健康プラス】聖教新聞2023.8.22
October 5, 2024
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緊張が高まる東アジア情勢広島私立大学・広島平和研究所 吉川 元 特任教授多国間協調枠組みの確立が必要危うい勢力均衡の安定——今年6月から7月にかけて、米国のブリンケン国務長官、イエレン財務長官が相次いで訪中し、中国との関係改善に向けた外交姿勢を示しました。今月18日には、日本・米国・韓国の首脳会談がワシントンDC 郊外のキャンプデービットで行われ、東アジアの秩序安定が焦点になりました。 吉川元・特任教授●東アジアの安全保障環境は今、いつ何が起きてもおかしくない危険な状況です。その理由として、アジアの国際関係が「勢力均衡システム」を特徴としていることが挙げられます。これは、軍事力の近郊によって、過労いて平和を維持する古典的な仕組みであり、軍拡競争を招くことになるのです。近年、中国の軍事力が一段と増強されています。地域別軍事費動向を見れば、中国、日本、韓国を含む東アジアの総額は、米国・カナダの北米地域に次いで2番目であり、すでに欧州全体を上回っています。しかも、東アジア地域の安全保障に深くかかわる米国、ロシア、中国、北朝鮮の4か国が核兵器を保有しえいるのです。 ——北朝鮮のミサイル問題も深刻な課題の一つです。 吉川●北朝鮮の国営メディアによれば、北朝鮮は新型SLBM(潜水艦発射型弾道ミサイル)の開発に成功したといいます。米国は、一線を越えたと判断したのでしょう。金正恩の個人独裁体制の北朝鮮は、現体制の安全・維持の保証を得ようと、核・ミサイル開発を強力に推進しています。昨年3月、韓国で尹錫悦大統領が誕生し、日本と韓国の関係は改善されています。日本・米国・韓国の3カ国で連携し、北朝鮮の動きを抑え込むことになるでしょう。 ——どのような平和創造の処方が考えられますか。 吉川●第1次世界大戦以降、国際平和への取り組みは、長い歳月をかけて推進されてきました。例えば、①戦争の違法化、武力行使の禁止原則、②軍縮・軍備管理に関する国際条約、③ユネスコ(国連教育科学文化機関)に代表される友好・相互理解の促進④WTO(世界貿易機関)に発展した経済相互既存関係⑤集団安全保障体制——など、戦争・紛争の抑止策が講じられ、一定の成果を上げているものの、決して十分ではありません。唯一の成功例としては、欧州の共同体アプローチが挙げられます。EU(欧州連合)によって、通貨や経済が統合され、人の移動も自由となった。今では、EU機内の国同士で武力行使に訴えることは不可能になったといえます。 OSCE(欧州安全保障協力機構)の成功と失敗——OSCEも、地域の安全保障に大きな役割を果たしました。 吉川●その通りです。OSCEは、法の支配・民主主義・人権・自由の尊重を軸とするグッドガバナンス(良い統治)の規範の拡大に貢献したのです。東西冷戦が終結した後、東欧の国々、バルト三国(ソ連から独立したエストニア、ラトビア、リトリニア)では、旧体制時代の人権侵害の責任者を訴追するとともに、秘密警察の職員と、これに加担したものの名簿を公開。そのファイナルへのアクセスの自由も保証しました。東欧諸国はOSCEの強力な支援を受け、こうした民主化・自由化への「移行期正義」を実施したのです。また、旧体制下の共産党指導者や秘密警察職員を公職追放する「浄化」も徹底された。それを積極的に推進したチェコスロバキアでは、42万人以上が公民権を停止されました。第2次世界大戦後の日本で、公職追放された人数が約20万だったことに比べ、いかに多いかが分かります。この過程に経て、東欧・バルトの国々は、欧州協議会やEU、NATO(北大西洋条約機構)への加盟が認められたのです。 ——ロシアもOSCEのメンバーです。 吉川●96年2月、欧州協議会は特に厳しい条件で、ロシアの加盟を認めます。6月に「旧共産主義の全体主義体制解体措置」を決議し、移行期正義と浄化の徹底を要請すると、ロシアは民主化・自由化に逆行していきます。エリツィン大統領の時代には、新興財閥「オルガルヒ」が台頭し、寡頭政治に傾いていく。2000年にプーチン大統領が誕生すると、旧KGB(国家安全保障委員会)や軍の将校などを中心とした「シロビキ」と称される集団が政府の要職に抜擢され、プーチン体制を支えていくのです。 ——ロシアによるウクライナ侵攻から間もなく1年半を迎えます。ロシアにとって、NATOの「東方拡大」が脅威になったといわれます。 吉川●大きな転換の一つは、1999年のコソボ紛争でした。90年代を通じ、OSCE加盟国では、OSCEを中心にして新しい欧州を目指すことが共通認識になっていた。「OSCEファースト(第一)」という言葉も生まれた。ところが、コソボ紛争では、OSCE主導の解決ではなく、NATOが国連安保理を無視して「人道目的」で非互助型の武力介入を実行しました。同じ年、OSCEの安全保障概念を定めた「欧州安全保障憲章」が採択されましたが、この内容も、ロシアが主張するOSCE第一ではなかった。この後、NATOの東方拡大が進み、2004年には、冷戦期の東側軍事同盟・ワルシャワ条約機構の旧東欧諸国全てがNATOに加盟。プーチン大統領は激怒したといいます。協調的安全保障のプラットフォーム(基盤)であったOSCEの中で、ロシアは次第に孤立し、安全保障上の脅威認識を求めていったのです。 非軍事分野から協力を——EUやOSCEを先例とし、東アジア地域の安定に生かすことは可能でしょうか。 吉川●EUのような共同体は理想ですが、今は現実的ではありません。東アジアの国際関係は今も、冷戦時代の基本構造である、米国と核国の2国間条約を中心としたハブ・アンド・スポークス体制(中心拠点〈ハブ〉とそこから伸びる拠点〈スポーク〉によって構成される仕組み)が特徴です。冷戦期のイデオロギー対立も残っています。また、中国、北朝鮮は国内の懸案事項に対し、国際社会が干渉することを断固拒否します。多国間の安全保障制度を確立することも困難な状況ですが、それを実現できなければ、日本と韓国の安全保障政策は、経済発展のために中国を選ぶか、国家安全保障のために米国との関係を継続するかの岐路に立たされることになるでしょう。 ——どのような取り組みが可能でしょうか。 吉川●現在、気候変動、環境危機、災害といったグローバルな危機が深刻化しています。そうした非軍事的な分野での相互に協力する体制を構築することは可能でしょう。非伝統的な領域をテーマとして、政治対話フォーラムを始めることも一つです。また、偶発的な武力衝突が起きないように、信頼醸成措置を講ずることが重要だと考えます。OSCEの前身であるCSCE(全欧安全保障協力会議)では、1975年に「ヘルシンキ宣言」が採択され、信頼醸成措置の取り組みを明確化しました。具体的には、軍の演習や移動に関する透明性を確保するとともに、それに違反する疑いがある場合には、「現地査察を受け入れることを義務付けました。それによって、参加国の間に安心感が生まれ、欧州の分断状況も克服されていったのです。 ——唯一の戦争被爆国・日本は、いかなる役割を果たすべきですか。 吉川●今年5月、G7サミット(主要7カ国首脳会議)が広島市内で開催された際、G7首脳が原爆資料館を見学しました。カナダのトルドー首相は、滞日期間中、再び資料館を訪れています。核軍縮に関する合意文書「広島ビジョン」は核抑止論を前提にしており、残念ながら各なき平和の展望は見えません。しかし、世界の指導者が被爆の実相に触れることで、時が経つにつれ、「軍事力によらない平和」への国際世論の形成に貢献すると期待しています。平和の尊さを世界に訴えることは、日本が担うべき未来への責任だと考えます。 取材メモ1987年、当時のゴルバチョフ書記長は演説の中で「欧州共通の家(共同体)」構想を提唱した。「90年代までは、ロシアが欧州評議会、EUに入ることを望んでいた。欧州が一つになるという夢がありました」と吉川教授。 【オピニオン】聖教新聞2023.8.21
October 5, 2024
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「利根と通力とにはよるべからず」日蓮も、釈尊同様、通力に依存することを厳しく戒めています。まず、日蓮の著作の中から通力ついて言及された部分を拾い出してみましょう。まず、『題目弥陀名号勝劣事』には、 「通力ある者を信ぜば外道天魔を信ずべきか。或る外道は大海を吸干し、或る外道は恒河を十二年まで耳に湛えたり、第六天の魔王は三十二相を具足して仏心を現ず。阿難尊者、猶魔と仏とを弁えず。善導・法然が通力いみじしというとも、天魔外道には勝れず。其の上、仏の最後の戒めに、通を本とすべからずと見えたり」 とあります。ここには、鎌倉時代当時にも通力を強調する風潮があったことをうかがわせていますが、日蓮は、「仏の最後の禁しめ」として通力を根本としてはならないと述べています。さらに日蓮は、『唱法華題目抄』において、 「通力をもて智者愚者をばしるべからさるか。唯仏の遺言の如く、一向に権教を弘めて実経をつゐに弘めざる人間は、権教に宿習ありて実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、但し、法門をもて邪正をただすべし、利根と通力とにはよるべからず」 と述べ、「通力」を智者と愚者の判断材料としてはならないと戒めています。思想や、宗教の何がどう正しくて、何がどう間違っているのか——を判断するときは、あくまでも法門によって行うべきであるというのです。「利根」とか「通力」によってはならない。「超能力があるから、あの人はすごい。あの人の言うことだから、きっと正しいだろう」などということはできないということです。 「仏道に入つて理非を勘へ見るに、仏法の邪正は必ず得通自在にはよらず、是を以て仏は依法不依人と定め給へり」 という言葉も見られます。「依法不依人」とは、「法に依って人に依らざれ」という『涅槃経』の有名な言葉です。仏法の邪正は、通力を自在にこなすことができる「人」によるのではなく、普遍的な心理とも言うべき「法」に基づいて判断すべきであるということです。 【仏教に学ぶ対話の精神】植木雅俊著/中外日報社
October 4, 2024
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永遠・常住に根差した〝今〟における実践法華経の行者の自覚の深まりとともに、永遠・常住の世界が、日蓮自身の体験した世界として描写されてくるように思います。それが、日蓮の著作に「日蓮」を主語とする描写が多い理由でありましょう。日蓮は、一般論的としての理論よりも、具体的な歴史的事実として、自らに体験した世界を説いたといえます。それが、天台等を「理」とし、自らを「事」として位置付けた理由でありましょう。法華経の行者の実践を通して、現在において虚空会に列座する——それは永遠・常住の世界であり、そこに連なることによって大確信の歓喜・法悦がほとばしります。そしてまた、その永遠・常住の世界に列座しつつ法華経の行者の実践へと還ってまいります。それは、何も日蓮に限ったことではなく、「所化をもって同体なり」とあったように、弟子檀那もまた、しかりであります。三世にわたる歴史的使命を自覚した地涌の菩薩の、永遠・常住に根差した「今」という瞬間における実践がそこにあるのであります。この地涌の菩薩について『法華経』従地涌出品には、 「善く菩薩の道を学びて、世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し」 とあります。蓮華は汚泥の中より出でて、その汚泥に染められることなく、自ら清浄な花を咲かせるという譬えを踏まえた説明です。蓮華の清浄さに象徴される歴史的事実にかかわりを持ちつつも、それに染まることがない。しかも、自らは蓮華のように清らかな存在として、その現実社会を浄化していく働きを持つということであります。地涌の菩薩は、あえて現実社会という汚泥の真っただ中で弘通し、菩薩の実践を貫きますが、永遠・常住の世界に一念を置くがゆえに、自らそれに汚されることなく清浄であることができるし、また現実社会をも清浄ならしめ、変革することができるということでしょう。日蓮がその実践によって示さんとしたことは、まさにそのことであり、その底流には永遠性に根差しつつも現実へのかかわりを重視する歴史的な時間意識があったということが確認できるのではないでしょうか。 【仏教に学ぶ対話の精神】植木雅俊著/中外日報社
October 3, 2024
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「羅生門」教科書で触れる文学日本近代文学館事務局 宮川 朔芥川の代表作として定番教材に教科書で多くの方に目に触れてきた芥川龍之介「羅生門」には、いくつもの草稿類が存在することをご存じだろうか。日本近代文学館の展示では、近代文学の専門家を編集委員としてお招きし、最新の研究動向を交え構成している。夏季企画展では、「教科書のなかの文学/教室のそとの文学」と題したシリーズで、高校教科書の定番教材となっている芥川龍之介「羅生門」、中島敦「山月記」、森鴎外「舞姫」、夏目漱石「こころ」の四作品を順番に取り上げている。今年度は二〇一七年度に続き「羅生門」をテーマに開催中だ。芥川の研究者である庄司達也先生を編集委員としてお迎えし、現役の高校生から以前教科書でこの作品に触れた方まで、一つの作品をじっくり見直す時間を共有できる展示となった。全体は二部構成となっており、第二部は紅野健介先生の編集の下、「羅生門」搭乗以前の小説の歴史を振り返る展示となっている。誕生の背景にはいくつもの苦労山梨県立文学館所蔵の「羅生門」関連ノートなどの資料からは、見事な文章と筋の展開で読書に鮮烈な印象を残すこの短編が、一気呵成に書き上げられたものではなく、一定の準備段階を経て完成したことがわかる。のちに「下人」とされる主要な登場人物の名前を、「交野」という大阪の摂津あたりの地名を関していくつも試すなど、さまざまに試行錯誤を重ねてきた小説なのだ。雑誌に発表後、作品に対する批評はわずかで、友人たちからも積極的に評価されることはなかったが、芥川は第一短編集の表題を『羅生門』とし、単行本収録時には都度手を入れて、表現を見直し続けた。そして生まれたのが、現在私たちが親しんでいる「下人の行方は、誰も知らない。」という末尾の一文だった。芥川龍之介という広く東西の芸術文化に通じ、それらを珠玉の短編軍に消化していった「天才」の代名詞である人物との見方があるが、代表作「羅生門」の誕生の背景には、いくつもの苦労があったことが窺える。芥川は「羅生門」と同時期に書いた「鼻」を敬愛する夏目漱石に激賞され、作家として幸福なスタートを切ることになるが、彼が「羅生門」にかけた時間を知ると、この作品が現代の私たちにとって大切な表現を選び取るための青春の時間を持った。一人の人間であることに思いを馳せることができる。作家を身近に感じていただくことができれば、教科書のなかの文学に、教室の外で親しんでいただくための準備は、すでに整っているかもしれない。(みやかわ・さく) 【文化】公明新聞2023.8.20
October 2, 2024
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「現在は力、未来は理想、過去は形骸」=三木清日蓮の言っていることは、今現在という瞬間に、虚空会、久遠、あるいは生命の根源としての無作三身如来の命、すなわち南無妙法蓮華経という法と智慧を開き、歓喜の源流としてほとばしる、そこに、瞬間が永遠と開かれるということだと思います。哲学者の三木清氏が、「友情——向陵生活の一説」と題する小論で、 現在は力であり、未来は理想である。記録された過去は形骸にすぎないものであろうが、われわれの意識の中にある現在の過去は、現在の努力によって刻々に変化しつつある過去である。一寸の現在に無限の過去を生かし、無限の未来の光を注ぐことによって、一瞬の現在はやがて永遠となるべきものである」 と、言っているのは示唆に富んでいます。このように、『法華経』が志向したのは、<永遠の今>である現在の瞬間であり、そこに無作三身如来の命をいかに開き、顕現するかということだったと思います。以上のことを踏まえますと、成仏とは、この「我が身」を離れてのことではなく、今自分がいる「ここ」を離れるものではありません。要するに、「今」「ここ」にいるこの「我が身」に無作三身如来を開き、具現するということであります。こうしたことが、「久遠即末法」の意味しようとしていることではないでしょうか。これに対して、「今」ではなく「死後」、「ここ」(=娑婆世界)ではなくて「あちら」(=死後の世界)、「我が身」は不浄なものであり否定されるべきものとする宗教がありますが、これは、法華経の人間観、人生観、国土観とは全く逆行するものであり、日蓮の否定するところとなりました。その批判の理由の一つが、ここにあったわけです。『法華経』は、現在の瞬間に<本因・本果・本国土>の三妙を合するものであるといえましょう。それは、現代的に言い換えれば永遠・常住の世界が開けることであります。日蓮の言う「本時」とは、三妙の合するときということができるのではないでしょうか。 【仏教に学ぶ対話の精神】植木雅俊著/中外日報社
October 1, 2024
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「賢者の論」と「王者の論」仏教史上において、実際に行われた異民族、異文化の対話としては、『ミリンダ王の問い』が有名であります。これは、パーリ語で書かれた『ミリンダパンハー』と、漢訳の『那先比丘経』とが現存しております。っこれは、ギリシアのバクトリア王・メナンドロス(インドの名でミランダ、漢訳では弥蘭と音写)と、インド人で仏教の学僧・ナーガセーナ(那先)との対話であります。ここにおいて、インド側の対論者、ナーガセーナが、対話には二種類あることを指摘しています。それは、「賢者の論」と「王者の論」のことです。『ミリンダ王の問い・1』からその部分を引用してみましょう。 王は問う、『尊者ナーガセーナよ、わたしとともに<再び>対論しましょう』『大王よ、もしもあなたが賢者の論を以って対論されるのでありならば、私はあなたと対論するでしょう。しかし、<大王よ>、もしあなたが王者の論を以って対論なさるのであるならば、私はあなたと対論しないでしょ』『尊者ナーガセーナよ、賢者はどのようにして対論するのですか?』『大王よ、賢者の対論においては解明がなされ、解説がなされ、批判がなされ、修正がなされ、区別がなされ、細かな区別がなされるけれども、賢者はそれによって怒ることはありません。大王よ、賢者は実にこのように対論するのです』『尊者よ、また王者はどのようにして対論するのですか?』『大王よ、しかるに、実にもろもろの王者は対論において、一つのことのみを主張する。もしそのことに従わないものがあるのならば、「このものに罰を与えよ」といって、そのものに対する処罰を命令する。大王よ、実にもろもろの王者はこのように対論するのです』『尊者よ、わたくしは賢者の論を以って対論しましょう。王者の論を以っては対論しますまい。尊者は安心し、うちとけて対論なさい。例えば、尊者が比丘、あるいは沙弥、あるいは在俗信者、あるいは賢者と対論するように、安心して対論なさい、恐れなさるな』 少し長くなりましたが、以上のごとくであります。 【仏教に学ぶ対話の精神】植木雅俊著/中外日報社
October 1, 2024
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