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『「南京事件」の探求』という本の中で著者の北村稔さんは次のように書いている。「中国語の同時代資料も、「30万人の大虐殺」を彷彿させるものではなかった。かえって、「想像以上に落ち着いていた南京」を垣間見せるものであった。それにもかかわらず、戦後の調査で明らかにされた膨大な遺体の埋葬数が決め手となり、日本軍占領中の「南京大虐殺」が確定されたのである。」この見解は、研究者の間の共通見解ではなかろうかと思う。虐殺の事実というのは、その質については個別のケースを発掘できるが、量については確定が難しい。だから30万人説の根拠になるのは、直接虐殺されたという数の調査ではなく、間接的に虐殺を推測できる数の調査からもたらされたであろうことは推測できる。それは上に語られているように、遺体の埋葬数がその大部分を占めるであろうと思われる。30万人説の根拠となるものが遺体の埋葬数であるなら、それはどのくらいあったのかという総数がまず問題になり、さらにその中のどれくらいが虐殺されたと考えられるかが問題になる。これらはある程度の誤差の範囲で算出されているだろうが、その誤差が30万という数字に比べて小さいものであるなら無視してもいい数字になるだろう。しかし、無視できない数字であるときは、これが疑問として提出される。30万人説の蓋然性を疑う疑問として考えられることになる。この埋葬数は記録に残っているものでその数字は確定している。もちろん記録に残っていないものもあるだろうから、それが無視しうる誤差の範囲にあるかどうかは考察する必要がある。しかし、、まずは記録に残っている埋葬数に信憑性があるかどうかを考えてみよう。北村さんによれば記録に残っている埋葬数は全部で16万あまりだそうだ。このすべてが虐殺された人だと考えても30万にはあと14万足りないのだが、その考察は後にして今はこの16万という数字の妥当性を考えてみよう。この16万という数字の内訳は、紅卍会が4万体あまりを、崇善堂に至っては11万体を報告していたと書かれている。この詳しいデータは、「世界紅卍字会南京分会救済隊埋葬班死体埋葬数統計表」と「南京市崇善堂埋葬活動一覧表」というページに掲載されている。このページのデータを見ただけでもいくつか疑問が浮かんでくるくらいだから、これから書くことはおそらくもはや常識に類するものとして研究者の間では当たり前のことになっているのだろうと思うが、北村さんのいくつかの指摘を紹介しよう。北村さんは紅卍会の統計数字に関しては信頼性が高いと判断している。それは他のデータと照らし合わせたときにかなり近い数字として一致するからである。それを列挙しておくと・大阪朝日北支版の38年4月16日の記事・満鉄上海事務所南京特務班の38年3月末の報告というようなものがある。また「紅卍会と日本軍はむしろ近しい関係にあった」と北村さんは語っている。近しい関係にあったので、埋葬数を小さくする恐れはあったかもしれないが、大きくする可能性は低いと判断されるのではないかと思う。だから、この数字が信頼性が高いと判断できるのではないだろうか。「現地の日本軍は、南京占領直後に遺棄死体は5万人あまりと報告していた」とも北村さんは書いている。この遺棄死体を近しい関係にあった紅卍会に埋葬させたと考えると、その数字の近さにうなづけるものがある。また、埋葬させたというニュアンスがあるのであれば、日本軍としてはこの遺棄死体の5万人を虐殺とは認識していなかったとも考えられる。この当たりははっきりと確認できるようには北村さんも書いていないので他の資料を探さなければならないだろう。ティンパーリー(マンチェスター・ガーディアン特派員)の報告では遺体埋葬数は4万あまりで、そのうちの30%が非戦闘員だとしているらしい。残りの70%が戦闘員だとしたら、彼らが戦闘の中で戦死したのか、捕虜となって虐殺されたのかは確定が出来ないことになるだろう。何らかの推定の根拠を提出して推定するしかないだろう。また、30%の非戦闘員も、戦闘の中で巻き込まれて死んだのか、戦闘とは関係なく虐殺されたのかを判別するのは難しい。戦闘の中においても、民間人が殺されれば「虐殺」だと定義したい人もいるだろうが、それが客観性を持つものかどうかは検討を要する。次に北村さんが注目しているのは、その遺体の男女・子どもの内訳だ。これは上に紹介したページにも資料として載せられている。これを見ると、その総数は次のようになっている。 男 4万1183 女 75 子ども 20圧倒的に多い男の遺体に関しては次のような整合的な説明を考えることが出来る。北村さんによれば「2月21日に「下関魚雷軍営埠頭」で収容され、腐乱しておりその場に埋葬された5000体の遺体が突出して多い」そうだ。ここは「幕府山で捕虜になった2万人に上る兵士の相当数が処刑された場所であることが、最近の研究により明らかになっている」らしい。つまり、男の遺体が大量に記録されているのは、この捕虜の処刑と符合する結果となっている。また、男の場合は、便衣兵として処刑されたものも相当数いるのではないかと思われる。この紅卍会の男の内訳が、このとおりであって正確な値だとしたら、紅卍会が埋葬した遺体は、何らかの意味で戦闘にかかわっていた人間が大部分で、戦闘終了後に民間人が虐殺されたものは入っていないと考えたほうがいいのではないかと思われる。だからこそ女と子どもの数が不自然なくらいに少ないのだと思う。これは紅卍会と日本軍が近しいという前提で考えると、ある意味当然のことではないかとも思われる。近しい関係にあったからこそ、自らの責任によって生じた遺体の処理を任せたのではないかとも考えられるからだ。自らの責任ではないと考えた遺体は、紅卍会には処理させなかったのではないだろうか。もう一つの崇善堂の記録からも、この男女比の大きな隔たりが読み取れる。崇善堂の記録は下のようになっている。 男 10万9363 女 2091 子ども 813紅卍会に比べれば女と子どもの数はかなり増えて入るものの、その比率はやはり圧倒的に男のほうが多い。女は片っ端から強姦されて殺されたと伝えられているが、その被害者の遺体はどこにいってしまったのだろうか。虐殺した日本兵が処理したのだろうか。この崇善堂の記録にはもう一つの疑問がある。それは、記録が、12月からの4ヶ月と、4月の1ヶ月とで極端に違いすぎるからである。この違いを整合的に説明することが出来ていないのではないかと思われる。12月から3月までの4ヶ月 男 6742 女 522 子ども 2854月だけ 男 10万2621 女 1569 子ども 528南京陥落直後が最も多く、だんだん減ってくるというのならまだ想像も出来るが、最後の4月が一番多く、しかもそれはその前の合計をはるかに上回っているということをどう説明するのだろうか。2倍や3倍ではない。男の数に至っては、20倍近い。これが前の3ヶ月の合計に比べてそうなのだから、同じ作業ペースで埋葬していたのなら、最後の4月だけでも作業員を50倍くらいにしてフル稼働しなければ処理できないのではないだろうか。果たしてそうなっていたのだろうか。なお北村さんによれば、崇善堂は保有していたトラックが一台しかなかったらしい。紅卍会は10台のトラックを保有していたらしい。その数字で計算すると、紅卍会は、トラック一台あたり50体の遺体を一日に処理していたと計算出来るそうだ。これは無理な数字ではない。しかし、一台しかない崇善堂では、計算上はこの一台のトラックで紅卍会の1か月分の処理が行われている。記録では、1ヶ月にどれだけ働いたかがかかれていないので単純な比較は出来ないが、トラックの台数だけでいえば、崇善堂は紅卍会の10倍の仕事をしなければならない。紅卍会が6日間働いたという記録になっているので、60日間働かなければならないのだが、1ヶ月は60日ないので、一日の稼働時間を倍にして毎日働かなければ同じ数量の処理が出来ないのではないかとも考えられる。これはかなり無理な想像なのではないだろうか。数が少ない4ヶ月でさえそうなのであるから、飛躍的に数が増えた最後の4月などは、崇善堂は、紅卍会の何倍の仕事をしなければならないのかは計算するのもむなしくなるのではないだろうか。30万人説の大きな根拠となったであろう埋葬数の記録は、その内訳のどれくらいの人が虐殺されたと考えられるかという点でも、記録そのものの信憑性の上でもかなりの疑問が提出されるものである。そのすべて16万人を虐殺された人の数だと単純に考えるわけにはいかないだろう。もとより数の確定は出来ないと思われるが、他に虐殺された人の数と合わせて30万人に達するなどということがまったく信じられない数字であることは確かだ。16万人という数字も疑わしいものであることが分かったが、それをとりあえず認めたとしてもあと14万人残っている。この14万人の遺体はどこにいってしまったのだろうか。この14万人はどのような虐殺のされ方をしたのだろうか。遺体が埋葬された人は、その虐殺のされ方が分からなくても、遺体が残っていて埋葬されたという事実から、それが虐殺である可能性が推察できる。しかし、遺体が残っていない人々については、どのような殺され方をしたのか、どうして遺体が残らなかったのかが整合的に説明されなければ、それは幻のような幻影だといわれてもしかたがないのではないだろうか。果たして、残りの14万人の状況証拠は残っているのだろうか。それを探して見たいと思う。
2007.03.31
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「資料:「犠牲者数」をめぐる諸論」というページに、「雑誌「偕行」の「証言による南京戦史」最終回に掲載された、加登川氏の見解」というものが紹介されている。ここでは、実際に南京の戦闘に参加した日本軍兵士の体験をもとに、南京で何があったのかを証言として記録しようとする過程で、虐殺の問題に行き当たったようだ。これはいわば加害者側の記録であって、その数字が小さく見積もられたとしても、立場上仕方がないところがある。加登川氏も次の弁明のような言葉を書いている。「この戦史が採用してきた諸資料にはそれぞれの数字がある。だがこれらはもともとが根拠の不明確な、いわば疑わしい数で、その真否の考証も不可能である。その数字をあれこれ操作してみたところで、「ほんとうか」と問いただされても明確に返答し得ない数字になるだけである。史料の確からしさの判定は読む人にもよろう。畝本君や従軍将兵の諸氏には、あの南京戦場を走りまわった体験から、そこに起こりうる事象の大きさについての個人的感触を持っている。巷間喧伝される数字がいかに大きくとも、そんな膨大な数があの狭い場所でと、納得できないところがあるのである。ここにこの推定集計の難しさある。だがなにがしかの答えは出さざるを得まい。」もともとが「虐殺」という現象を客観的に定義することが難しいので、虐殺された人が何人いたかという問題には確定した数字は出せない。しかし、日本軍兵士の立場からはこのような結論が出たということを示すことには大きな意義があるように思う。そもそもが、立場上違う人間が出す数字であるから、異なる立場からはそれをそのまま受け取ることは出来ないという前提のもとで、その立場ならこういう結果が出たという事実を受け止めることで南京事件を多様な視点で眺めることが出来るようになるだろうと思う。この記録が貴重だと僕が思うのは、この証言を集めた元日本兵たちは、ほとんどが南京での虐殺行為はなかったと思っている人たちが中心にいたように感じるからだ。これは日本兵の立場からすれば当然過ぎるような感情ではないかと思う。もし何らかの残虐行為があったとしても、それはまったく例外的なことであって、ほとんどは軍人として恥ずかしくない行為で戦闘を終えた、と思うだろう。だからこそこのような証言の記録を残そうとも思ったのではないかと感じる。しかし、結果として出てきた数字は、彼らの予想をはるかに上回る数字だったことが伺われる。それは、この引用の最後に書かれている加登川氏の次の言葉からそう感じるものだ。「中国国民に深く詫びる 重ねて言う。一万三千人はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数である。 日本軍が「シロ」ではないのだと覚悟しつつも、この戦史の修史作業を始めてきたわれわれだが、この膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない。戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量の不法処理には弁解の言葉はない。 旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった。」3000人という数字の重さを加登側氏ほど重く感じている人はいないのではないだろうか。それは、虐殺という事実が例外的ではなかったということの重さなのだ。この3000人という犠牲者の数が少なすぎると感じる人は、事実の質よりも量で虐殺を考えてしまっているのではないだろうか。30万人の犠牲者であれば「大虐殺」で、3000人だったら「小虐殺」だという感覚はおかしいのではないか。そのような感覚は、元日本兵だった加登川氏のヒューマニズム感覚に劣るのではないだろうか。僕がこの3000人という数字が貴重だと思うもう一つの理由は、これが犠牲者の最低ラインを語るものだと思うからだ。この数字が最低ラインとして信憑性が高いというのは、この数字が加害者側の元兵士から出されているということからくる。加害者である元兵士にとっては、自分たちの行為をことさら悪く言い立てる動機というのが存在しない。むしろ悪行の種類は小さく言いたくなる動機のほうが高いだろう。そのような動機があったとしてもこれだけの数字が出ているということは、これが最低ラインだということを信じてもいいのではないかと思う。少なくとも0(ゼロ)ではないということが、かなりの高い蓋然性を持って語れるのではないかと思うのだ。数字の3000人が確定したもので、これ以上は犠牲者がいないのだと論理を展開すれば、それは間違いになるだろうが、これが最低ラインとして提出されている数字だというふうに受け取れば、ここでカウントされなかった数が、現実にはどの程度になるかという考察を合理的に進めていくことが出来るだろう。それは加登川氏も語るように「参戦者の証言資料によれば不法に殺害したとされる事案に多くの疑問があるが、今日においてその真偽を究明することは不可能である。況んや広い戦場において「虐殺か否か」を一々分別し、虐殺数を集計することなど今においては不可能事である」のだと思う。だから、数字を確定することは出来ないと考えたほうがいいだろう。しかし、ある立場からこのようなものが虐殺に見えるとしたら、その概数はこのくらいになるだろうという提出の仕方は出来るだろう。南京事件の虐殺されたといわれる人々の数については、そのような姿勢で取り扱うことが客観性があるのだと思う。最低ラインの3000人という数字は、このページの作者によれば「「証言による南京戦史」で証言が得られたものについてのみしかカウントしていない、「スマイス調査」の結果に触れていない等、明らかに過少であると思われます」と語られている。このことからも、これが最低ラインだということが伺える。しかし、この最低ラインであっても、視点が違えば0(ゼロ)になる可能性もはらんでいる。この3000人という数字を算出した畝本正己氏の見解もこのページで紹介されているが、それはいずれも捕虜に対する「不法処理の疑いのあるもの」という根拠から推定されているものだ。つまり、この中には民間人に対する「虐殺」は含まれていない。畝本氏にしてみれば、そのような犯罪的行為は認められなかったのだろう。また、この証言集ではそのような証言は出てこなかったものとも推定される。このあたりは、立場からくる限界だろうとは思うが、仕方のないことだとも思える。畝本氏は3000人に対しては「不法処理の疑い」と語っていて、これが疑いのままであれば、数字は0(ゼロ)になる可能性もあると考えているようだ。南京事件に関しては、このように立場からくる数字には大きな開きがある。畝本氏は、編集委員の細木重辰氏からは次のように紹介されている。「初陣であられた畝本氏が南京戦における国軍の潔白を信じ、それを証明したいと念じられたのは、私自身の乏しい戦場体験に照らしても当然です。その立論の根拠はまずご自身の実戦体験であり、その動機は戦後数十年を閲して突然にして報道されたかの莫々大な「数字」です。」畝本氏自身とその部隊については、おそらく虐殺の現場には遭遇しなかったのだろう。これが、日本軍にとって普通だったのか例外的だったのかということは、多くの状況証拠から蓋然性の高い結果を出さなければならないことだろう。しかし、自身の体験の強さに確信をもっていた畝本氏は、深く調べることによって潔白であることが証明されると考えていたのだろうと思う。この証言記録に携わった人々の誠実さを物語るものとしては、同じく細木氏が次のように書いていることから読み取れる。「ところが私どもにとって最も衝撃であったのは探索のすえ歩兵第三十三聯隊の戦闘詳報のちぎれ残った紙片の中から初めて「俘虜ハ処断ス」の文字を見出したときで、その時に畝本氏が洩らされた苦渋に満ちた「困った」の一言はよく覚えております。これは一面、氏の誠実さを物語るものでありますが、私どもも一次資料のその重さ、怖さを身にしみて感じました。」「俘虜ハ処断ス」という言葉が、不当な行為につながることの証明になるだろうことは誰もが予測できるだろう。潔白を証明する側にとってまことに都合の悪い証拠が見つかったときに、苦渋に満ちた表情が出ようともそれを受け入れて作業を続けただろうことに、僕はこの証言集に携わった人々の誠実さを感じる。細木氏は「その後、お読みのように甚だ遺憾な証言・書証が多く発掘されてきたのですが、「南京で何が行われたか」を明らかにするという自らに課した編集態度は、どんなにつらくてもくずすわけにはまいりません」という言葉で最後を締めくくっている。3000人という数字の大きさよりも、このような重い受け止め方をすることこそが南京事件にとっての本質ではないのだろうか。このような誠実さを持った人々であれば、なお受け入れがたい民間人に対する虐殺行為に対しても、それが整合的に説明される事柄ならば、きっと受け入れる素地があるのではないかと思う。30万人という数字を単純に信じて、30万人も虐殺されたのだから日本軍の行為はひどいものだと発想するのは、おそらく論理的には順番が逆なのだろうと思う。むしろ個々の虐殺行為の現実性から、そのような不当な行為が、戦争という異常な状況のもとであれ確かにあったのだということを自覚することから出発することが大切なのではないかと思う。それが結果的に、何人の犠牲につながるのかは、確定した数字は出せないがさまざまな条件を付与して多様な議論を認めることが大切だろう。しかし、出発点としては、確かにそのような不当行為があったという前提を共有できることが大切なことだろうと思う。30万人という数字がまず最初に問題になってしまえば、このような質の問題はどこかへ消えてしまう。しかもそれが現実にはあり得ない、感情を揺さぶるだけが目的の数字だったら、不当行為の存在という共通の前提がもてなくなってしまう。それが存在しないものだと考える人たちは、どうして平和なときであればおこりえない虐殺行為が、あの南京の戦闘の際には起きたのかということを深く考えなくなるだろう。そしてそれを考えないことで、同じような失敗を繰り返す可能性を残してしまうのだと思う。まず30万人説ありきという前提で問題を考えれば、どちらの側にとっても建設的な未来はないだろうというのが宮台氏が語った趣旨であり、僕も賛成する考え方だ。
2007.03.31
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「南京大虐殺」と呼ばれる出来事について、そこで虐殺された人々の数が30万人だったという言説は、すでに完全に否定されているものだと僕は思っていた。少なくとも、この数字に蓋然性がないということは、立場を越えて明らかにされていると思っていた。だから、宮台氏が「南京大虐殺はなかった」という意味に取れるようなことを語ったときも、この30万人説がなかったという意味であればそれは了解できると思ったのだった。妥当な数字がどこかに落ち着くということはおそらくないであろう。専門家の間でさえ、数千人から10数万人という数字の間の主張があり、それは確定されていない。これは、誤差と呼ぶにはあまりにもかけ離れた数字になっている。しかし、どの数字も、専門家が語る数字であれば、どのような前提からその数字が算出されているかが語られている。どのような死者が「虐殺」に数えられているかが明らかにされ、その数字がどのように推定されるかが示されて、その主張の前提を認めれば結果も認めざるを得ないような論理的な流れの中で主張されている。専門家が主張する数千から10数万という数字は、それなりに論理的な妥当性を持っているので、論理的にはすべて並立しうる数字だといえる。これをどれか一つに確定することなど出来ないだろう。それに対して、「虐殺」がまったくなかったという0(ゼロ)という主張はばかげている。まったくなかったということを直接証明することはおそらく出来ないだろう。ないという事実は証明できない。あるということなら証明できるだろうが、ないということの証明は直接には出来ない。だから、これは論理的に考えれば、すべての死者は「虐殺」ではないという前提で考えるしかない。「虐殺」という言葉の定義に、すべての死者が含まれないような概念を使えば、論理的には「虐殺」された人はいないと主張できる。しかし、それに賛成する人はいないだろう。このような極論で数字を算出すること自体を疑問に思うはずだ。このような主張に対しては、数字を議論するのではなく、「虐殺」の概念そのものを問題にしなければならないだろう。このように「虐殺」された人が一人もいないと考えることが極論としてばかげているように、すべての死者が「虐殺」された人々だと考えるのも反対の極論なのである。このような前提を設けたら、「虐殺」という言葉で南京事件を考えること自体に意味がなくなるだろう。30万人説というのは、死者のすべてが「虐殺」されたのだと主張するに等しい、反対の極論なのだ。論理的な問題ではなく被害者感情という面から見れば、死者はすべて「虐殺」された人々だと思う感情が生まれるかもしれない。それは感情としては仕方がないと思うが、客観性という点からはまったく賛成できない。交通事故で、例えば酔払い運転などで家族が殺されたなどということがあれば、被害者遺族の感情としては、犯人を憎んでも憎みきれないと思うだろう。だが、この場合でも法的には「過失」として受け取られる。感情的には受け入れがたくとも、客観的にはそう見るしかないのである。30万人説がすでに極論として排除されていると思っていたのは、それを公的に主張しているのは中国だけだということからだった。日本の研究者で30万人説を主張するものは皆無である。最も多い数字でも20万人に届くかどうかというくらいだ。だから、専門家の間では、30万人説というのはもう検討するまでもなく間違っているということが確定しているのかと思っていた。30万人説を直接否定するには、他の数字が正しいことを確定しなければならないが、それは多分出来ない。一つに確定することは、政治上の理由や、証拠がつかめないということなどから今後も出来ないだろう。だから、30万人説を主張する専門家が一人もいないということから、その数字には蓋然性がないという結論は簡単に出てくるものだと思っていた。その数字を主張しているのが中国だけであるということは、中国共産党の政治的プロパガンダに過ぎないだろうという推測が出来るものだと思っていた。僕が語ってきたのは、この30万という数字の妥当性だけであり、対話が成立するとすれば、この数字の妥当性をめぐるものでしかない。南京事件そのものの存在については、僕は一度も否定したことがないし、それを肯定している。宮台真司氏もそうである。単に、30万という数字はありえないという主張であり、そのような極論を展開するから、南京事件が論理の問題として捉えられなくなり政治的な問題になってしまうのだという主張だ。この30万人説は、直接否定することが出来なくても、中国が主張する事柄が正確にわかるなら、その主張の矛盾点を突いて否定することは出来るだろうと思う。そこで、中国が主張する30万人説の正確な内容を求めたのだが、これがどこにも見つからない。日本の研究者の誰もこのような主張をしていないのであるから、専門家の記述の中に見つけることは難しいだろうと思ったが、中国の主張を報告するという形での資料もどこにも見つからなかった。この見つからないということを根拠に、30万人説の蓋然性が低いという推論をすることには、論理として受け入れがたいという感想があるようだが、そうであるなら、見つからないということの整合的な説明がほしいと思う。僕が推論したのは次のような仮言命題を正しいと思ったからである。「30万人説に蓋然性がある」→「その論証が多く語られている」蓋然性が高いなら、多くの人がそのことについて言及し、その蓋然性の高さを論証しているだろうと考えたわけだ。上の仮言命題の対偶をとれば次のようになる。「その論証が多く語られていない(すなわち、少ししかないか、あるいはまったく語られていない)」 ↓「30万人説には蓋然性がない」30万人説に蓋然性が高いなら、それは何ゆえにこれほど語られないのだろうか。誰かが語ることを邪魔しているのか。それが整合的に語られなければ、蓋然性は低いといわざるを得ない。蓋然性というのはそういうものだろう。北村稔さんという人が書いた『「南京事件」の探求』(文春新書)という本が、いくつか中国の主張を紹介している。この本は30万人説を批判しているので、立場上一方の側のもののように見えるかもしれないが、研究者としての節度は失わず、疑問や批判も論理的な展開の基に行っていると思えるので、一応の信頼が出来るのではないかと思う。ここでは虐殺の資料として郭岐という人の『陥都血涙録』を取り上げている。この資料を批判的に取り上げているのだが、それは事実の蓋然性に疑いを持っているからだ。これは北村さんによれば「「大虐殺」の決定的証拠として1946年の南京の裁判で判決文に特筆された資料である」ということだ。南京事件には他にも多くの資料があるだろうが、これが選ばれた理由には納得がいくのではないだろうか。もしこの資料が、このような特筆すべきものではなかったらその後の北村さんの議論も的外れになるのだが、北村さんの研究者としての節度に信頼を置いて、これが大事な資料であるということの前提の上であれば、いくつかの批判にはうなづけるものがあると思う。また、これがかつては重要であったにもかかわらず、今では批判がすんでいる取るに足りないものであれば、ことさら取り上げて批判の対象にすることもないかもしれない。そこで、インターネットを調べてみたが、この資料そのものを目にすることがなく、またその批判もすでに終わっているというようでもなかった。その意味では、北村さんが取り上げて批判の対象にすることには意義があると思われる。北村さんは、個々の具体的な事実に関して、その記述に蓋然性があるかを検討しているのだが、その一つに「空前の大火災」を記述した部分を考察したものがある。これに対して、北村さんは次のように書いている。「郭岐は火災をすべて日本兵の仕業だと記述するが、同時代の中国資料に基づけば、第(三)項-「交通部の焼失」と第(四)項-「下関の全焼」は、中国軍が撤退に際して火を放った結果であることが明瞭である。」これも、研究者としての北村さんが、まさか中国資料を捏造することはないだろうという信頼に基づいて、この記述を信頼すれば、郭岐の資料には明らかな嘘が含まれているということが分かる。すべてを信じるわけにはいかない。特に、その数字を見るときは、どのようにしてそれが算出されているかは慎重に検討しなければならないだろう。郭岐は「死者は10万人から30万人に及んだ」と書いているようだ。これは、自分で数えられる数ではないから、いろいろな調査や伝聞を元にしているのだろうが、どのようにしてこの数字を出したのかが分からなければこれを信じるわけにはいかない。30万人説を検討するには、どのような具体的算出方法で30万という数字が出てくるかが語られなければならないのだが、不思議なほどその資料が見つからない。せいぜいが埋葬記録からの推察くらいが見つかる程度だが、そこからは「虐殺」の実体は見えてこない。この程度の考察では「蓋然性」が低いと判断するほうが普通だと僕は思う。僕は、数字は数千から10数万の間で確定することはないのだと思っている。それを確定しようとする議論にはあまり意味がないと思っている。しかし、どのようにしてその数字を算出するかという算出方法には興味がある。その算出方法は、論理的な妥当性があるかを考えることが出来ると思うからだ。北村さんは、上の本で算出方法について考察をしている。このようなことを述べた資料は数が少ない。最も望ましいのは、中国側が自らどのような方法で算出したかを語った文献が見つかることだが、それが見つからないときは北村さんのような研究者が発表したものに頼るしかないだろう。10数万を主張する人についても、その具体的な算出方法を述べている人がいればその妥当性を考えてみたいと思う。僕が考えているのはあくまでも数字の妥当性だけなのである。それ以外の異論のあるものは、議論するつもりはない。そんなものは議論しても仕方がないからだ。前提の共有できない人間が、結論が違ったとしても、そんなことは論理の世界ではごく当たり前のことなのである。数学においてすべての数学者が同じ結論に到達できるのは、すべての数学者がもつ前提が同じだからなのである。前提を冷静に対話できる人間なら話も成立するだろうが、結論だけを取り上げて違うということを言い合っても仕方がない。僕の結論は明快だ。「虐殺された人々」の数が30万人だということはあり得ない、という主張だ。主張の本質は、30万人という数字の妥当性にあるのである。
2007.03.30
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以前のエントリーで、僕は本多勝一さんの次のような文章を引用した。「末子の弟は、まだ満なら一歳あまりの赤ん坊だった。空腹のあまり、母乳を求めて大声で泣いた。ろくな食物がないから、母乳は出ない。運悪く10人ほどの日本兵の隊列が土手の道を通りかかった。気づかれた。「鬼子」たち2~3人がアシ原の中を捜しに来た。赤ん坊を抱いた母を見つけると、引きずり出してその場で強姦しようとした。母は末子を抱きしめて抵抗した。怒った日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしり取るとその面前で地面に力いっぱいにたたきつけた。末子は声も出ずに即死した。半狂乱になった母親が、我が子を地面から抱き上げようと腰をかがめた瞬間、日本兵は母を後ろから撃った。二発撃った。一発は腰から腹へ、一発は肩からのどに貫通した。鮮血をほとばしらせて、母は死んだ。「鬼子」たちは同僚の隊列を追って土手の上を去った。」この報告は、南京陥落直後のことを語ったものとして報告されていた。その時期を含めて、ここで語られていることが正確な記憶によるものだということを前提にすれば、ここで殺された母子は明らかに「虐殺」に相当する例になる。赤ん坊には死に相当する正当な理由は何もない。母親に対してもそうである。それを、いわば自分たちの思い通りにいかなかったことの腹いせに殺したようなこの行為は「虐殺」と呼んでもいいだろう。上の報告に対しては、「虐殺」であるということは「蓋然性」の問題ではなく事実の問題として確認できる。ここで「蓋然性」が問題になるのは、語られたことが本当にあったという可能性がどれくらいあるかということの中にある。被害者本人の体験なのだから事実に違いないというのは情緒的な反応である。意図的な嘘ではないにしても、大きなショックのために記憶違いを起こす可能性はいくらでも存在する。直接見て確かめることは出来ないので、直接的な事実性を証明することは出来ない。間接的に「蓋然性」を語ることしか出来ないのだ。本多さんがこのような聞き書きの信憑性を測る基準としているのは、語られたことの全体像がどれくらい現実的であるかを判断することだ。つまり、全体の話としてつじつまが合うかどうかということを問題にする。具体的な事実が現実的に整合的かどうかを見て、記憶違いや後からの想像で付け加えられた部分がどの程度かを判断することになる。人間の記憶というのは、コンピュータのメモリーと違ってそのままデジタル情報で記憶されるわけではないから、間違いや想像による改変があるのが当然だ。問題は、それが本質的なものに関する間違いなのか末梢的なものに関する間違いなのかということだ。末梢的な事柄に属するものなら、その記憶はかなり信憑性が高いと判断してもいいだろう。本多さんのこのような考察は、本多さんがルポの技術を語った文章に書かれていた。本多さんの基本的な技術にそういうものが含まれているということが、僕が本多さんに抱く信頼感のもとでもある。個々の事実の「蓋然性」に関しては、僕は本多さんの技術を信用してその「蓋然性」を高いものと受け取っている。このように語る被害者の体験は、確かにあったのだろうという「蓋然性」の高さは、本多さんに対する信頼感から生まれる「蓋然性」の高さだ。もしも本多さんが、自分が「蓋然性」を判断した事実をすべてルポに書いていれば、本多さんに対する信頼感だけではなく、事実からの論理の展開で「蓋然性」の高さを、本多さんと同じように体験することが出来るだろう。しかし、そこまでの内容に関心を抱く人間があまり多くなければ、肝心なところをまとめて文章にするという、読ませる技術も考えなければならない。そこまで細かく考えるのは、読み手のリテラシーにかかわることだと考えたほうがいいだろう。さて数値データのことにかかわって考えれば、上の報告からは2名が虐殺されたということが伺える。この2という数値は、上の事実の信憑性の高さに従って同じ程度の「蓋然性」を持っているといえる。この体験を語った人は、他にも家族の中で、父と姉が日本兵に見つかって正当な理由なく(つまり犯罪等の理由などで処刑されたというのではなく)殺されたことを報告している。これも虐殺として数えられるから、この一家の4人が日本兵に虐殺されたと数えることが出来るだろう。この一家にはあと4人の兄弟姉妹が残されたらしい。この4人は、日本兵には見つからなかったのだが、日本の傀儡として働いていた「維持会」と呼ばれる中国人の組織が見つけて、売り物になる11歳の姉を売り飛ばして、3人の弟たちはこじきになったということが語られている。だから、この4人に対しては、日本軍の虐殺の対象にはならなかったということが分かる。ここでの虐殺数4人というのは、語られた事実に信憑性が高いものであれば「蓋然性」の高い数値として受け取ることが出来る。このように確認された数値の積み重ねとして30万人というものが提出されているのであれば、個々の事実の「蓋然性」の高さに数値データの「蓋然性」の高さも依存して高いものになる。これは、かなりたいへんな作業ではあるだろうが、もっとも「客観性」を高める方法としては、これ以上の方法はないのではないだろうか。このように確かめられた30万人なら、反対派からも文句の出ないものとなるだろう。しかし現実にはこれは不可能に近いのではないかと思われる。上の報告の場合は、たまたま生き残っていた人が語ることが出来たから事実の「蓋然性」を考えることが出来たが、一人も生き残らなかったような虐殺のケースでは、それを語る人がいないのでなかったことにされてしまう可能性もあるだろう。また、上の場合のように個別具体的に語ることが出来る事例はかなり「蓋然性」の高さのある報告になるが、たとえ体験したことでもそれを具体的に語ることが難しいものもある。以前のエントリーでやはり紹介した、10人ずつが川沿いまで走らされて射殺されたという事例では、約2000人が倉庫に詰め込まれて、そのすべてが虐殺されたというような報告に読めるように書かれていた。しかし事実としての「蓋然性」を感じるのは、10人が走らされて射殺されたということに関してまでだ。これは体験として語られていて、しかも10人程度ならその数を間違えて数えることもないだろうと考えられる。この体験に関しては信憑性は高いのではないかと、本多さんへの信頼感からそれは感じる。しかし、倉庫に詰め込まれていた人間が2000人いたということの信憑性は、本多さんの文章だけからは分からない。報告を聞いた人間がそのように語ったと受け取ったほうがいいだろう。日本軍が捕虜の数を正確に記録しておくような習慣でもあって、記録が残っているのならば信憑性も高まるだろうが、そのようなものはないのではないだろうか。だから、2000人というのは誤差を含んだ数字になると思うのだが、その誤差がどの程度に計算されるのかということが語られていないと、この数値データに関しては「蓋然性」は低いと判断せざるを得ない。2000人という人数は、数えられる人数ではないからだ。部分的に数えて合計でもしない限り把握は出来ない。いっぺんに大量の人間が虐殺されたという報告があるものでは、その数値データはどのように数えられたのかということが語られていなければ信憑性を判断することが出来ない。信憑性が判断できない数値データを「蓋然性」が高いなどということは、数学系には出来ない論理展開だ。信憑性の高い数値データは、それを測定する・数えるという行為に信憑性がなければならないから、部分的には小さな数字を確認するという手順を繰り返して、その数値の積み重ねで大きな数値に達するということがなければならない。いきなり大きな数値を提出されてそれを信じろといわれても、それは数学系には出来ないことなのだ。上のような、明らかに虐殺があったと確認できる具体的な事実を語る場合は、虐殺であることの「蓋然性」は高いと判断できるが、その数値データの信憑性については疑念を感じるものも出てくる。だから、30万という数値の「蓋然性」の高さを問題にするには、個々の疑念に対して整合的に応えるだけの論理を構築する必要があるだろう。そうでなければ、数値データの主張等はやめたほうがいい。そんな細かいことまで分かるわけがない、と考えるなら数値データの主張は、主張するだけ論理的には不利になるのである。直接的な虐殺の事例から導き出した数値ではなく、間接的なもの・例えば埋葬数などから算出された数値は、埋葬された人間のどれくらいが、南京事件において虐殺された人数かということの「蓋然性」が語られなければならない。中国側の直接の主張というのは探しても見つからなかったのだが、他の資料を見てみると、中国の主張の根拠の大きなものを占めるのはこの埋葬数らしい。膨大な埋葬数のほとんどが虐殺された人々だという解釈で30万人という数値を算出しているようだ。これは、そのときに大量に死者が出る理由というのが、虐殺以外の原因が考えられないという論理的前提があれば、この解釈でも「蓋然性」はあるだろう。この埋葬者が戦闘で死んだ人間ではないということであれば虐殺されたという可能性は高い。そうであれば、埋葬者が死んだ時期というのが問題になる。戦闘行為が終わった後に死んだということが確認されているのであれば、虐殺されたと考える理由も整合性を持つ。しかし、戦闘行為中に死んだ人も含まれるのであれば、誰が虐殺された人かということを判断する基準はどうするのかということが「蓋然性」の高さにかかわってくる。このあたりのことはまだ充分な資料が見つからないので疑念を提出することにとどめるが、「埋葬者=虐殺された人々」という等式が、少ない誤差の基で成り立つかどうかという疑念はぬぐえないと思う。また、埋葬者の数そのものにも疑念が提出されているそうだ。それは、「崇善堂埋葬記録について」というページの情報によると、それまでの4ヶ月で最高でも2500体程度だった埋葬者の記録が、ある月だけ10万体以上になっていることに整合的な説明がつけられないということの疑念だ。つじつまが合わないものというのは「蓋然性」があるとは考えられない。なぜこれだけ急激に増えているかは、何らかの理由がなければ疑念はぬぐえないだろう。数値データというのは客観的なものである。だからそれを提出するということは、情緒的な感情だけで処理できるものではない。それこそ重箱の隅をつついても不備がないくらいの論理が必要だ。数学系の人間だったらそのように考えるのが普通だ。どう考えても、数値データの争いになれば、30万人という数値を提出することは不利だと僕は思うのだが、どうしてこの数字に「蓋然性」があると考えるのだろうか。30万人という数値を出さなければ南京事件の事実はかなり「蓋然性」の高さを主張できるだろう。しかし、30万人などという荒唐無稽な数を主張すれば、正当な面を持っている他の主張までもが嘘のように受け取られてしまう。それがバックラッシュという現象なのだと括弧つきの「左翼」の側は自覚したほうがいいのではないだろうか。
2007.03.24
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南京事件に関連して、虐殺された人の数が30万人だというのは、その数字の出し方も曖昧にされているし荒唐無稽な「白髪三千条」という比喩的な意味しか持たない、ということで「蓋然性」が低いという議論をしてきたのだが、どうも議論がかみ合わないのを感じている。僕が主張しているのは、南京攻略戦で結果的に死んだ人の数が30万人いたかどうかということではないのだ。死んだ人の中に、虐殺されたと考えられる人が30万人いたかどうかという問題なのである。「虐殺」という言葉の概念そのものが客観的に確定されないのに、30万人という数字が確定すると考えること自体に論理的な無理がある。それだけでも論理的な問題は明らかなのだが、これが論理の問題ではなくどうしてもデータの問題であると言いたい人もいるようだ。そこで、僕もこの30万人説が、データの解釈としてもいかに事実的な「蓋然性」がないかということを考えてみようと思う。日本人の研究者で30万人説を唱えている人がいればそれを参考にして、いかにその解釈に「蓋然性」がないかを考えることが出来るのだが、残念なことに日本人ではもはや30万人説を唱える人はいないようだ。日本人の研究者であれば、30万人という数字には客観的根拠がないというのがほぼ明らかなのだろう。そこで30万人説を詳しく検討するには、中国がどのような主張をしているかを知らなければならないのだが、これがなかなか難しい。僕は中国語が読めないし、中国の主張を正しく伝える翻訳の存在も今のところわからない。これからいろいろと手を尽くして資料を探してみようと思うが、もし資料が見つからないようなら、その見つからないということにまた、30万人説の「蓋然性」がないということが示されていると僕は感じる。右翼的な言説であれば国家権力が絡んできたりするので、嘘でも宣伝に利用するということがある。しかし左翼的な反権力の陣営は、嘘の宣伝は致命的なダメージをこうむる。30万人説に「蓋然性」があるのなら、その資料が見つからないということがおかしい。日本の国家権力が、その資料が出てくるのを邪魔しているとは考えにくい。むしろ、そのような資料が出てくれば、思う存分たたくことが出来るので、右翼的には歓迎するところだろう。アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」という本が出てきたときも、反動勢力の側はむしろ歓迎したのではないかと思う。何度も書いてきたことだが、南京事件の問題を数字の議論にするのは、反動勢力側にとって有利に働くだけだ。なぜなら、確定の出来ない議論になるからだ。確定できない議論というのは、結局は確かなことは何もいえないのだという「不可知論」的な結論に落ち着く。そうすれば、南京事件を少しでも小さなものにしたい側にとっては非常に有利になる。30万人説が荒唐無稽な主張だということがはっきりして、日本でも中国でも、国家のイデオロギーに左右されない民衆の間での客観性を持った認識が共有できる時代がくることがもっとも望ましいことだろうと思う。30万人説は、中国が自国民のナショナリズムを刺激するために利用できる国家権力にとってのトリックに満ちた言説だと思う。30万人説のトリックの存在が見つけられるような資料を探したいと思う。中国が、どのような根拠で30万人説を主張しているのか、その正確な資料を求めたいと思う。
2007.03.23
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板倉聖宣さんが、『物の見方考え方第2集』(季節社)の中で手品とトリックの違いについて書いていた。どちらも「だますこと」に関連して結果的に人を欺くことになるのだが、手品の場合は始めからそれが嘘であることを宣言して人を欺くトリックになっている。しかし、トリック一般の中には、必ずしも嘘であることを宣言しているものばかりでなく、本当を装ってだまそうとするものもある。トリックは手品の前提となるものであるが、トリックのほうが対象となる集合の定義域が広い概念になっている。いずれも感覚的な錯覚や認識の一面性を利用して判断の誤りを引き出してだまそうとするのだが、それが嘘であるということの確証となるタネを見破るのは容易なことではない。タネが簡単に見破れるような手品の場合は、素人の余興としての宴会芸程度なら問題はないが、見物料を取って商売にするようなプロにとっては腕の悪い手品師として評判を落としてしまうだろう。優れた手品師が行う手品は、どんなに観察力の優れた人でもそのタネを見破ることは出来ないだろう。手品の場合は、それにだまされたとしてもわれわれに害になることはない。むしろそのことで楽しみを提供してもらえるのでわれわれにとっては有用な娯楽でもある。それが面白く楽しませてもらえるものであるからこそ見物料を払ってでも見たいと思うのである。それに対して、嘘であることを宣言していない、本物を装うトリックの場合は、結果的には詐欺になったり重大な判断の間違いにつながることがあったりしてわれわれに甚大な被害をもたらす。手品は楽しめばいいが、本物を装うトリックはその嘘にだまされて本物だと思い込まないような注意が必要だ。しかし、そのタネを見破ることが難しいトリックに対して、どのようにしたらだまされずに済むようになるだろうか。結果的に深刻な被害を受けたことが明らかになれば、タネがわからなくてもだまされたということが分かるだろうが、そのときになっては被害の回復が難しい。何とか被害が大きくなる前にだまされることに気づくような注意が出来ないだろうか。トリックのタネを見破るために事実を調べるというのはあまり有効な方法ではない。そもそも事実に表れないような配慮をされて構築されているのがトリックのタネというものだ。だまされないための有効な技術というのは、事実という情報を知る工夫にあるのではなく、そのトリックが存在する全体状況を論理的に把握するという論理の面にあるのではないかと思う。むしろ、細かい事実にこだわっていれば、手品師がそこに注目させて、タネのある部分からは目をそらせる工夫にうまく乗ってしまうような、だましのテクニックに引っかかるのではないかと思う。うまい詐欺師というのは、最初から相手をだますようなまねはしないそうである。最初は相手を信用させるような手口を使う。儲かりますよといって勧誘するときは、最初の数ヶ月は本当に儲けさせるのだという。そして、いよいよ相手の信用を勝ち得たときに、相手の全財産を巻き上げるような大きな嘘をつき、それで逃げてしまうというのがうまい詐欺師の手口だそうだ。小さい儲けのときに信用させて、大きい儲けでは嘘をつくという。このトリックに引っかからないですむ人は多分少ないだろう。手品は最初からそれが嘘であることを宣言しているから、嘘のタネを見破れなくてもそれが嘘だということは確信をもてる。嘘であることについては「蓋然性」の問題ではなく、事実であると受け取ることが出来る。これは手品師は、嘘をつくことが商売で、しかもそれが認められて人々に喜ばれるのであるから、手品師にとっても安心して嘘がつけるということを意味する。手品師にとって心配なのは、自分が作ったトリックという嘘が人々を楽しませることに失敗したときで、嘘をつくこと自体を心配したりしない。これに対し、本当を装うトリックで人をだまそうとする人は、それが嘘であることがばれることが心配になる。むかし駅の改札口でまだ人が切符や定期の確認をしていた時代は、キセルという行為がたくさんあった。正規のルートの乗車ではなく、間をごまかしたり、定期の場合なら期間をごまかしたりするような行為があった。それをベテランの改札係はよく見破ったのだが、ごまかそうとする人間はどうしても嘘がばれることを心配するので動作が不自然になる。これがベテランになればよく分かるのでかなりの高い確率で見破れる。逆にいうと、そういう動作を平然と行える人の嘘を見破るのは難しい。だから、だまそうとするのではなく、キセルをした本人も自覚せずにしているときはほとんど見破ることが出来ない。キセル行為というのは、一瞬の間に数字を読み取って判断しているのではなく、挙動不審の動きから判断しているからだ。自覚的にトリックを使ってだまそうとするときは、その自覚が人間の行為の他の面に現れて、そのことをきっかけにトリックが存在するという「蓋然性」の高さを知ることが出来る。トリックの存在は、事実として確認することは難しいが、「蓋然性」の高さを論理によって高めることが出来る対象になるだろう。儲け話の詐欺の場合は、そこにトリックが存在するかどうかを考えるとき、確実に儲かるという話をする本人自身がその儲けをなぜ自分で独占しないかということが問題になる。また、このことに一応整合的な理屈がつけられても、儲かるという現象自体に整合性があるかどうかも大事になる。儲かるというのは、何らかの形で利益が生まれるということなのであるが、その利益はどこから生まれるかということが整合的に語れるかどうかが大事なことだ。高度経済成長の時代は、製造業の発達により、新たな価値が生み出されているというのを実感できた。富そのものが増大しているのであるから儲けが出るのも理屈としてよく分かる。しかし、そのような実体的な富が作り出されていないのに儲けが出ると考えると、その儲けはどこからくるかというのが問題になる。全体の富が増えないのに、一部が儲かるとするなら、それは誰かが損をしなければその儲けは生まれない。バブル景気のころというのは、まさにそのような状況だっただろう。金が余っていたので儲け話に投資をするということが普通だったが、それは富を新たに生み出す儲け話ではなく、人々が儲かるだろうと予想した部分に金が集中しただけだった。だから、それが本当は儲からないということを知ったとき、人々がいっせいにそこから金を引き上げて、トリックに引っかかった人が大きな損害を受け、その損害の分だけ儲けた一握りの人々がいたという結果になった。このように、誰かの損を当てにして儲けるという話は、確実に儲かるどころか、自分がその損をする人間になる可能性もあるというリスクの高さを自覚しなければならないのだと思う。その自覚があれば、単純にトリックに引っかかることも少なくなるのではないかと思う。特に、誰かの損を当てにして自分が儲けようという意図を持っている人間は、どこかでトリックを使う可能性が高いので、その意図の存在を常に疑ったほうがいいだろう。トリックを使う動機が存在するところにはほぼ確実にトリックが見られるという「蓋然性」を考えていたほうがいいだろう。宮台氏などが「国家は信用ならないもの」というのを愛国心の基礎とすべしと主張するのも、国家権力は嘘をついてトリックを使う動機が常に存在すると捉えておいたほうがいいというものだろう。特に国家権力が情報統制をしているようなところでは、国家権力にとって都合のいい情報だけを流すというような「蓋然性」が高いということも考えたほうがいいだろう。かつての日本の大本営発表もそうだし、それと同じようなことを「北朝鮮」もしている。そして911のニューヨークテロの直後のアメリカは、近代民主主義国家であるにもかかわらず、一方的な情報のみが流れるという国家権力による嘘があふれていた。特に国家の利害に直接絡むような情報では、国家権力が嘘をつかないと考えるほうがおかしいというくらいの疑いの目を向けておいたほうがいいだろう。それは、嘘であることが事実として確認されなくても、「蓋然性」が高いという判断をしておいたほうが間違いがない。板倉さんの文章が収められているこの本には、本当を装うトリックとしての「超能力」の話題が多く分析されている。超能力の場合は、意図的にトリックを利用してだまそうとする場合と、本人の自覚なしにトリックに引っかかる場合とがある。しかし、いずれの場合にも本物の超能力などというものは、ほとんどあり得ないと考えておいたほうがいいだろう。ここで「ほとんど」と形容したのは、定義によっては「超能力」と呼べる場合が論理的には存在するからだ。しかし、それは実体としていわゆる「超能力」が存在するのではなく、「超能力」という言葉の定義を工夫して、現象をそうも解釈できるということに過ぎないのだと思う。意図的にトリックを使った「超能力」は、手品師が、本来の手品よりも大きな儲けになるということで「超能力」という見世物を行う場合だ。かつて日本で大ブームを巻き起こしたユリ・ゲラーのスプーン曲げなどがそうだろう。ユリ・ゲラーはスプーンをこすって曲げていたが、指も触れずに曲げる手品師もいたので、手品の腕としてはユリ・ゲラーはそれほどうまくはないのだと思う。だから、手品で商売をしようとすればたいした事はなかっただろうが、「超能力」という一大ブームに乗れば大金が稼げるということは確実だっただろう。ユリ・ゲラーの場合は、興行をしているということが明らかだったので、その「超能力」も見世物として受け取られていたが、その後登場した少年のスプーン曲げに対しては、本物ではないかと受け取る人が多くいた。これは、本物だと受け取りたい人が多かったので、その動機がトリックを見破ることを難しくしたようだ。トリックにだまされるというとき、だまされる側の人々が、むしろだまされるほうを望むということがある場合、それを見破るのはかなり難しくなる。ユリ・ゲラーの場合は、トリックが解明されなくても、その超能力を本当に信じた人は少ないと思われるが、少年の超能力のほうはトリックであることを完全に暴露しなければそのトリックから解放されなかったようだ。当時の週刊朝日が、超能力現象を隠し撮りして、少年が自らスプーンを曲げているのをカメラに収めることによってこのトリックの問題は決着した。この少年が、ユリ・ゲラーのように意図的にトリックを使ってだましていたのかというのは議論の分かれるところだった。無意識のうちに曲げていたのを、トランス状態に似たような状況の中で本人に自覚がなかったのではないかとも言われたし、遊びでやっていたことがあまりにも大きな問題になってしまったので引っ込みがつかなくなったのではないかとも言われた。いずれにしても、結果的にだましたことについて、少年には大きな責任はないのではないかと僕も感じた。ユリ・ゲラーや、少年のトリックを超能力だと大騒ぎした大人たちには社会的には責任があるのではないかと思う。トリックという嘘を本物のように装って、結果的にそれで利益を生み出したというのは詐欺ではないかという感じも受ける。トリックは、人を楽しませる手品として腕を磨くべきだろう。そしてだまされる側の人間は、トリックの性質をよく知ることによって、だまされないように工夫することが大事だと思う。論理はそのための道具なのだと思う。
2007.03.23
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南京で虐殺された人々が30万人もいたということに「蓋然性」がないというのは、簡単な論理の問題だと思ったのだが、なかなか論理というのは理解が難しいものだなと思う。僕は、宮台真司氏が「南京大虐殺はなかった」というような言説を語ったときに、かなりの違和感を感じた。それは、この言説が、南京事件という事実そのものを否定したように感じたからだ。いくらなんでもそんなことはないだろうというのが僕の感覚だった。つまりそのときは、宮台真司氏が明らかな間違いを語っているのではないかという違和感だったのだ。宮台氏ほどの優れた人間が、党派性丸出しの右翼イデオローグと同じようなことを語るだろうか、という疑問とこの違和感は一体のものだった。しかし、これが「蓋然性」の問題だと理解出来れば論理的な整合性を見つけることが出来る。そして、その「蓋然性」は30万人説と呼ばれる中国の主張に対する「蓋然性」の問題なのだ。南京大虐殺という事実がまったくなかったという主張が、党派性丸出しの右翼イデオローグならば、30万人説というのは中国共産党の党派性丸出しのイデオローグなのだと僕は理解した。この両極端は明らかな間違いで、現実には妥当性のある中間部分に落ち着かせて、党派性を超えたところから南京事件の実態を判断して日本と中国の建設的な関係を築くべきだというのが宮台氏の主張だと僕は理解した。南京事件がまったくなかったという話は僕はまったく信じていないので、その反対の極の30万人説が、論理的にいかに成り立たないかを考察したのが一連のエントリーだ。論理的にはまったく単純なことだ。まず判断というものの客観性において、対象の属性として確認できる物質的特性は、党派性を超えた客観的判断が成立しうる。これは自然科学の対象となるものに対しては、客観的な判断が成立するということである。それは、誰が観察しても同じ判断が出来るということを意味する。例えば、人が生きているか死んでいるかは対象の属性として観察できる。今のところは心臓が止まってしまった人は死んでいると判断している。心臓は今止まっているが、将来また動き出して生き返る人は今のところいない。生命維持装置につながれて、心臓は動いているが、それ以外の機能は停止しているという特殊な人を除けば、生きているか死んでいるかの判断に党派性は出ない。脳死が人の死かどうかで異論が出るのは、そこに党派性が絡んでくるからである。客観的判断は出来ないのだ。「虐殺」という判断も同じである。これは、対象である死んだ人に物質的に属している属性ではない。その判断をする人間が、何を「虐殺」と考えるかという定義を対象に投影して、自らの主観を対象に読み取ったときに「虐殺」という判断をする。つまり、何を「虐殺」と定義しているかという党派性が判断に影響するのは原理的に避けられない。この考察の時点で、30万人という数を問題にするのはまったく「客観性」がないという判断をしてもいいくらいだ。数の問題にしてしまえば、それは党派性の主張にしかならず、せいぜいがプロパガンダとして役に立つだけだ。そういう意味では、数を問題にして議論するのは、南京大虐殺を否定したい側にとっては有利に働くうまい戦術だと思う。30万人という数字には客観性がないのだから、そんなものは議論に値しないということで「蓋然性」がないと判断してもいいのだが、百歩譲って、「客観性」というものを自然科学的(唯物論的)な意味ではなく、社会的な意味・すなわち「言語ゲーム」的な意味で受け取って考察することも出来る。党派性が強く出た主張には「客観性」はないが、党派性を外れている第三者の大半が同意するような主張だったら、社会的には「客観性」があると判断してもいいだろう。そのような定義として「虐殺」を定義したらどうなるか、と考えたのが、戦闘行為終了後の、殺される必要のない人まで殺されたということでの「虐殺」の定義だ。戦闘行為途中でも殺される必要のない人が殺されるケースはあったかもしれない。しかし、それは確かめようがないだろう。どう具体的に、こういうケースがあったと判断するのだろうか。犠牲者が死んだということは、結果から判断できるが、「虐殺」されたかどうかはその過程をつかんで判断しなければ出せるものではない。30万人説を主張するなら、その具体的な過程について述べなければならない。最も信頼性の高いやり方は事実を提出することだが、それはおそらく出来ないだろう。だから、せめて推論によって妥当性の高い具体例を提出すべきなのだが、それはどれくらい語られているのか。数を問題にする以上、その具体例の合計が30万に達するという推測が必要だ。具体的な殺され方を論じなければ「虐殺」という判断など出来ないだろう。東京大空襲では約10万人の人が死んだといわれている。そのほとんどは民間人だ。民間人が殺されたということでそこに不当性を見るなら、10万人が虐殺されたという主張も成り立つだろう。この場合の数字は、死者のほとんどすべてを虐殺されたものと考えるところから提出される数字だ。しかし、この虐殺の判断が「民間人だから」という根拠で提出されたものなら、党派性的には異論が考えられる。たとえ民間人であっても、戦争遂行のための戦略ポイントにたまたまいたら、戦闘に巻き込まれて死んでも止むを得ないと考える党派性もある。それは事故のようなものだ。むしろ、民間人をそのような戦略ポイントから避難させなかった、攻撃される側の国を非難するという党派性もあるだろう。イラクのフセイン政権に対する非難はそういうものだった。東京大空襲の場合は、党派性によって「虐殺」であるかどうかという判断が違ってくる可能性がある。しかし、ある点を考慮に入れれば、第三者的な観点でこれを「虐殺」だと同意してもらえる視点を提出することが出来るかもしれない。それは、東京大空襲という攻撃が、警告なしに民衆の密集地帯に無差別に行われたということを指摘することだ。アメリカが日本の統治権力に対して、圧倒的な武力の差を見せつけるために攻撃をするのなら、まずは人が住んでいない地域に見本としての攻撃をして、降伏しなければ人口密集地帯である東京を攻撃すると警告することも出来ただろう。それを警告なしにこのような攻撃で民間人を攻撃するなら、第三者である人々も、同じような目にあった場合を想像すればその不当性を感じてくれるかもしれない。しかし、これも逆の党派的な論理を使えば、不当ではないということを主張することもできる。一つには、アメリカにもそれだけの余裕を見せるだけの圧倒的な武力の差があるという認識がなかったと言い訳することだ。また、民間人への攻撃ではなく、軍隊同士のぶつかり合いで圧倒的な武力の差を見せつけることも出来ただろうという考えに対しては、日本の大本営発表が、そのような事実をまったく民衆に知らせていなかったということから、民衆に知らしめるためにあえて攻撃をしたという論理も成り立つ。民衆が目覚めなければ、日本の戦争は終結しないという判断がそこにあったというのは、戦争で日本に被害を受けた国の民衆にとってはむしろ説得力があるようなのだ。東京大空襲も原爆も自業自得だというような判断も論理的には成立する。かように「虐殺」の判断というのは具体的には難しいのだ。これが難しいというのは、事実の問題ではない。論理として考察すれば簡単に分かることだ。と僕は思っていた。しかしこれが意外なほど難しいということが分かった。30万人が虐殺されたというような考えは、日本と中国の双方が建設的に未来志向をしていく基礎にはなりえないばかげたものだというのが宮台氏の考えであり、僕もそう思う。だから、こんなものにとらわれることなく、第三者的に「客観性」のあることを事実として確認していこうというのが宮台氏の主張だと思った。同時に、南京で虐殺がまったくなかったということもばかげた、未来志向を破壊する考えだ。そして、その数をことさら問題にすることも、未来志向を妨げる末梢的なことではないのだろうか。30万人を否定されて1万人だといわれると、なぜ「虐殺」を否定されたように感じるのだろうか。その数字は党派性が絡んだ数字であり「客観性」は持ち得ないのだと思う。1万人が事実として正しいということもあり得ないのだ。それは、何を「虐殺」と定義するかで違ってくるのだから。南京での「虐殺」された人の数を問題にするなら、いつでもその「虐殺」の定義と、「虐殺」された具体的状況からの判断をセットで提出して問題にしなければならない。そして、その定義と判断に同意する人間が、その数値を支持すればいいのだと思う。そして、それが第三者の大部分が同意するものであれば、そのときその数値は「客観性」を持つのである。南京大虐殺の30万人説の論理の問題はこれだけである。当時南京にどれだけの人がいたかというのは、すでに党派性の論理に入り込んでいるだけなので、問題にしても仕方がない。党派性を超えて論理だけを取り出すというのは、党派性の中にいる人間にとっては難しいのだろうと思う。南京事件という悲惨な出来事でさえも、他人事のように冷たく突き放して見ることが出来なければ、おそらく論理の対象にすることが出来ないのだろう。僕は、南京での「虐殺」された人が0であるという説と、30万人であるという両極端の説はまったくばかげていると思っている。そして、それはそもそもが数を問題にするから本質が見えなくなっているのだと思う。数ではなく、「虐殺」された行為の質を問題にすべきなのだと思う。その「行為」の不当性をこそ深く考えることによって本当の意味での「虐殺」ということが理解できるのだと思う。数という量のほうを重く見る人間は、おそらく質のほうを見誤るだろうと僕は思う。建設的な未来志向のためにも量よりも質のほうを見るべきだと思う。
2007.03.20
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僕は、「差別糾弾主義者」に対して、その「差別」の糾弾の仕方に不当性を感じていた。彼らの主張の一部に正しいものが含まれていたとしても、その糾弾の仕方では、糾弾される当の対立者にはもちろんのこと、それを眺めている第三者からも反感をもたれて支持はされないに違いないと思っていた。差別糾弾という運動が大衆的な広がりを持たなかったことから、僕の感覚は正しかったものだと思っている。普通の感覚で言うと、「差別」というのは不当性を伴っているので、その不当性が糾弾されるということに関連して「差別」が糾弾されるというふうに受け取る。だから、その糾弾に違和感を感じて、糾弾するほうこそ不当なのではないかと思うのは、糾弾している「差別」の対象を間違えているのではないか、あるいは「差別」ではないものを「差別」にしているのではないかという感じを受けることがあるからだ。僕は、実際に「差別」があったとしても、その糾弾の仕方にも問題があったと思っているのだが、一般的な感覚として「差別はすべていけないこと」というような流通観念にも疑問をもっている。「差別」がすべていけないというのは、「差別」という概念そのものにすでに不当性が含まれていると理解しているからだろう。だから、どこかに「差別」の現象を見つけたら、それを発見しただけで糾弾に値すると思ってしまう。そこに不当性があるかどうかという判断をしないで、「差別」だという判断で糾弾するに値すると思ってしまうのだ。三浦つとむさんは「「差別語」の理論的解明へ」(『言語学と記号学』:勁草書房に所収)という論文の中で「すべての言語は差別語」であるという主張を展開している。もし、「差別」という概念に不当性が含まれているなら、この主張は、言語を使う人間はすべて糾弾されるべき「差別者」だということになってしまう。極論としてそう主張したくなる人もいるかもしれないが、三浦さんの言うことの趣旨はそういうものではない。三浦さんの概念では「差別」という対象に、客観的に不当性が含まれているのではないのだ。それは、意味によって不当だと判断されたり、逆に正当だと判断される場合が出てくる「行為」の問題として捉えられている。「正当」な「差別」などという言い方をすると形容矛盾だと感じる人もいるかもしれない。しかし、概念的にはそういうものがありうると僕は思う。「差別」という言葉の概念を多面的な視点で考えてみようと思う。まずは辞書的な概念を調べてみると次のようなものになる。1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の―を明らかにする」2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって―しない」「人種―」1の意味には価値判断的なものはない。これは、対象の間にある「差異」を認識してそれに従って行動するという客観的に判断できる対象について語っている。このような客観的に判断できる「差異」を表現するときに言葉が使われるという面を、三浦さんは言葉の本質と捉えて「すべての言語は差別語である」という主張を展開したのだと思う。2の意味ではその概念の中に「他よりも不当に低く取り扱う」ということが入っているので、これは概念そのものの中に不当性が含まれていると考えられる。この概念が広く一般的に社会に流通すれば、人々は「差別一般」が不当なものだという判断を持つようになるだろう。だが、その判断の根拠はどこにあるのだろうか。辞書にこう書かれているからといって、それが正しい命題だとはいえない。辞書というのは、一般に社会に流通している意味を示しているだけだからだ。辞書に「神」という言葉が説明されているからといって、そこで説明されている「神」が実際に存在しているのだという根拠はどこにもない。「差別」という言葉に不当性の概念が含まれるというのは、「言語ゲーム」的な真理ではないかと思う。そしてこの真理は、間違った差別糾弾主義につながる危うい真理ではないかと思う。「差別」の不当性は、その具体的な「差別」の実態に則して判断しなければならないのに、そこに「差別」に値する現象を見つけただけで糾弾にまで走ってしまうという間違いを犯すようになるだろう。いわゆる「言葉狩り」と呼ばれるような間違った糾弾は、そのような不当性の判断を間違えたことから発生するように思う。ある言葉を使ったというだけで、「差別」という不当な行為をしたといわれるのは、言葉の意味を文脈から切り離して、意味を取り違えている間違いであるのに、「差別」という言葉に不当性が含まれているという概念を持っていると、ありもしない不当性を自分の頭の中に作り出して、それを現実の対象に押し付けるという観念論的妄想に陥る。「差別」という言葉の概念は、対象に存在する客観的な物質的属性と捉えるのではなく、人間の行為に伴う意味的な概念として捉えるのが現実を正しく認識する方向だろう。意味的な概念は、外見が同じように見えても、内容(=意味)が違うという判断がありうる。固定的に考えてはいけないのだ。辞書的な意味についても、「区別すること」「不当に低く取り扱うこと」と表現されているように、「する」「取り扱う」という動詞的表現が使われている。これは、「差別」という概念が行為として捉えられていることを意味していると思う。不当性のない現象は「差別」ではなくて「区別」ではないかと考える人もいるかもしれない。しかし、「区別」というのは、行為を伴わない、対象の静的な属性を捉えた実体的な概念だ。「区別」は対象を認識したこと自体で成立する。その後にどうするかということについては何も語られない。対象の差異を認識して、さてそれをどう扱うかという行為につながる部分で「差別」という概念が生じる。対象の差異に従って行為するということを「差別」の本質的概念として捉えると、正当な「差別」という対象を見つけることが出来る。例えば、乗り物の運賃において子ども料金はたいてい大人の料金の半分だ。これは明らかな「差別」であるが、そこには不当性はない。むしろ正当なものとして受け取っている人がほとんどではないだろうか。これは「区別」だと考えたい人もいるかもしれないが、料金を半分にして取り扱うという行為が伴う点で「差別」だと考えたほうが正しいと僕は思う。大人と子どもをどこかの年齢で区切るのは区別と呼んでもいいだろう。だが、区別と呼べるのはどこかで区切るというところまでだ。区切った対象に対して、扱いを変えるのは「差別」であり、その扱いがいろいろな観点で(社会的・生物学的などいろいろ)正当な扱いだと考えられるなら、正当な「差別」がそこに存在すると判断できる。「他社とは提供するサービスで差別化をはかる」という例文が辞書には載っているが、ここで語られている「差別」は、正当な「差別」のことである。つまり、消費者にとって便利とか得だとか思えるような差異を作り上げることを「差別化」と呼んでいるのであって、これを不当性のある差異を作ることだと理解したら、いったい何を言っているのか理解できなくなるだろう。「差別待遇」という言葉も、それ自体に不当性はないのではないか。例えば客商売をしている人間が、自分の客と親しい友を「差別待遇」するのは普通ではないかと思う。このとき、商売を大事にする人間は、客のほうを大事にするという「差別」をするだろう。客よりも友のほうを大事にするような店だったら、客のほうは不当な「差別」をされたと感じて、その店には行かなくなるに違いない。客にとっては、身内よりも客を大事に扱うという「差別」こそが正当な「差別」になるだろう。「すべての差別はいけないことだ」と考えるのは、「差別」という言葉に不当性を含んでいる限りで論理的には正しいと思う。その言明は、主張する人間が善人であることを示すだろう。しかし、この主張は善人ではあるけれども、物事を深く考えないということに通じるのではないかと思う。地獄への道を敷き詰める善意というものにつながるのではないだろうか。三浦さんが指摘したように、言語というのは、現実に存在するものの差異を表現するので、見つけようと思えばどこにでも「差別」を見つけることができる。現実に存在するものが同一のものでなく、違う存在であれば、差異が存在するのが当然で、その差異に従って行動すれば「差別」をしたことになる。人間の行為は「差別」をしないでは何も出来ないものになる。「差別」というのは、そのようにどこにでも見られるものなのだ。「差別」という言葉に不当性を含めて考える人は、四六時中他人を糾弾せずにはいられないだろう。そして、自分の行動はといえば、何かをするたびにそこに「差別」が生じてしまうので、他人を糾弾する以外には何も出来なくなるのではないか。どこかで「理由があれば差別をしてもいいのか」というような言葉を見かけたことがあった。これは、問いを考え直す必要があるだろうと思う。「差別」することの理由は見つけようと思えば必ず見つかる。だから、理由があるからそれをしていいということではない。その理由が見つかれば、その「差別」が正当なものであるのか不当なものであるのかが判断できると考えなければならない。正当性が判断できる理由があるのなら、「差別をしてもいい」という消極的な言い方ではなく、「差別をするべき」なのである。「差別」をするほうが正しいのだ。「差別」という問題は、すべてを十派一からげにして考えて正しい結論が出せるような単純な問題ではない。弁証法的に、多様な視点を捉えなければ間違える問題だろう。少なくとも、「すべての差別は許されない」というような単純な捉え方では「差別」の問題は解決しないだろう。この構造は、現在のいじめの問題にもよく似ている。「すべてのいじめは許されない」と道徳的に糾弾するだけでは、いじめという複雑な問題は単純な解決は出来ないだろう。いじめの正当性を議論するのは誤解を招くところがあるが、それが社会の安定に寄与していた部分を深く分析しなければ、不当ないじめの問題も解決は難しいのではないかと思う。
2007.03.19
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論理というものに慣れていない人は、「論理的」という意味を勘違いして使っているのではないかと思うときがしばしばある。日本の学校教育では論理についての教育をしないので、論理を知らない人のほうが大部分だと思うが、論理というのは、基本的に推論の部分を考察するのであって、結論が正しいかどうかを問うのではない。結論が間違っていても論理的には正しいということはいくらでもありうるし、結論が正しくても論理的に間違っているということはいくらでもある。結論の正しさは論理の正しさに直結しない。だから、結論に対して賛成できなくても、その結論の導き方が、論理的ではないと決して言えないのである。論理にとって大事なのは、ある前提を置いたときに、その前提のみから結論が導かれるかという整合性のほうであって、前提に何を置くかというのは、論理の問題ではないのである。それこそ前提に置かれる命題が党派性の強いものであれば、誰も賛成しないような結論ではあるが、その党派のものであれば賛成するというような結論が、論理的には正しいという場合がありうる。すべては神の意志の現れだということを前提に置いている人は、どんな事態が訪れようとも、それは神が望んだことだということを論理的に導くことが出来る。そして、神が望んだことだから自分はそれを受容できるということを論理的に納得することが出来る。どんな不条理な運命があろうとも、信仰が厚い人間は、その不条理を受け止めていくことが出来るというのは、論理的な帰結として導くことが出来る。「論理的」というのは、結論に何を言おうと関係がないのだ。関係があるのは、その結論を導いた推論に整合性があるかということだけなのだ。例えば、ある村に逃げ込んだゲリラを追っていた部隊が、誰がゲリラかを特定できないとき、一人のゲリラを逃がさないために、村人全員を処刑したとする。この処刑は、軍事的に正当性があるかどうか、つまり虐殺にあたるかどうかということを考えるとき、論理的には正反対の結論がともに正しいということがありうる。平和な時代の感覚を持っている人は、罪もない村人が、ゲリラを特定できないために処刑されるのは不当だという感じがするだろう。しかし、戦争状態のときの軍人の論理を使えば、この処刑も正当化される論理を構築できる。僕は軍人の経験はないが、それを想像することは出来る。軍人としての本分は、敵を殲滅することであって、敵に慈悲をかけることではない。敵が自分たちに危険をもたらすと思えば、その敵をどんな手段を使ってでも撃退するのが軍人の本質ではないかと思う。もしも、この軍人の本分よりも、ヒューマニズムの方が大事だという軍人がいて、それが軍人の普通の姿だと主張する人がいたら、それは証明してもらいたい事実だと思う。普通の軍人だったら、敵の殲滅のほうが第一であり、敵の生命を大事にするということのほうを優先するものではないだろう。勘違いしてほしくないのは、僕がこのように軍人の行為や心情を想像したとしても、それは単に想像して自分を重ね合わせているだけであって、僕自身がそのような心情を持っているというわけではないことだ。自分が思ってもいないことであっても、そのように考える人間がいるということは、想像力を使ってつかむべきことなのである。そうでなければ、自分が感じないことは存在しないというような観念論的な妄想に支配されてしまうだろう。軍人の本分がそのようなものであれば、一人のゲリラが紛れ込んだ村というのは、そのゲリラを特定して殲滅しなければ自分たちが危険であるということが論理的に帰結されるだろう。そして、その特定が出来ないとき、村人がゲリラを特定するだけの情報を与えなければ、そのことで村人が犠牲になっても仕方がないと考えるのが軍人の論理だろうと思う。軍人の論理に従えば、一人のゲリラを殲滅するために100人の村人が犠牲になっても、それは虐殺ではなく、任務遂行の際に起こった事故であり止むを得ない犠牲だと考えるだろう。それを虐殺だという判断が大勢を占めるようなら、軍人の論理がまったく通用しない「言語ゲーム」が行われているのだと思う。論理というのは推論の妥当性を問題にするものであり、どんな前提を置くかということは論理の問題ではない。だから、論理の前提に置かれる命題が、まったく自分とは違うものであった場合、論理的に正しい推論で、自分はまったく賛成できない結論が導かれることもあるということを知っておいたほうがいいだろう。このような場合は、結論だけを指して批判しても仕方がないし、結論が違うことを指して論理的ではないといっても仕方がない。論理的におかしいという指摘は、例えば戦闘行為の過程で起きた民間人に対する殺人行為が「虐殺」に当たるかどうかを客観的に決定できるとするような推論は、まったく論理的ではないと僕は感じる。客観的ではなく、主観的に、自分の立場からそれを「虐殺」だと主張することは出来るだろう。しかし、立場を越えて客観的に「虐殺」であるという判断が出来ると考えるなら、それは論理的に見ておかしい。客観的という言葉をどう考えているかが問題になるが、一つの考えは、人間の意志とは独立に存在する物質に属する性質を捉えたときそれは客観的と呼ばれるだろう。それは、人間の意志とは独立に存在しているので、誰が見ても同じ物を観察できると考えられるからだ。ある数値が結果として提出される測定などは「客観的」と呼ぶにふさわしいものになるだろう。「虐殺」の場合は、このような意味での客観性はない。「虐殺」というのは、ある物質的な実体に属する性質ではないからだ。これは「行為」の問題である。つまり外見上は同じ物質的状況に見えても、その意味が違ってくることがあるという問題になる。「行為」という対象は、外見ではその内容が判断できないのである。「虐殺」のように見えても「虐殺」ではないという判断も出来る対象なのだ。だから、意志とは独立に存在する物質としての客観性は「虐殺」にはない。それでは、まったく客観性がないかというと、社会的な意味での「客観性」を言うことは出来ると僕は思う。社会的な意味での「客観性」は、「主観性」に対立する意味での「客観性」だ。つまり、党派的な立場からの判断で導かれる結論は「主観的」であるが、党派を超えた、ほぼ誰でもそのような判断が出来るということであれば「客観的」になる、という意味での「客観性」だ。軍人の論理で言えば、一人のゲリラを殺すために100人の村人を殺しても「虐殺」ではないと判断できる。それは、軍人としての任務を遂行しているに過ぎない。この党派性を超えて、ほとんどの人が賛成できるような「虐殺」の定義が出来るだろうか。それが出来るなら、「虐殺」という概念を「客観的」に決定できるだろうが、戦闘行為が行われている過程では、僕は無理だろうと思う。それは、軍人の立場である「殺す側の論理」と、村人の立場である「殺される側の論理」では、前提とするものが一致しないので党派を超えた結論が出せないと思われるからだ。戦闘行為中の「虐殺」行為は客観的に決定できない。だから、戦闘行為中の「虐殺者」を数えるのは、党派的な主張にしかならない。客観的に正しい数字など出せるはずがない。だから、「南京大虐殺」で、虐殺された人の数に、戦闘行為の過程での人々が含まれているなら、僕はその数字の客観性は「蓋然性」がないと思う。どんな数字が出ようとも意味はないのだと思う。どんなに大きい数字でも、どんなに小さい数字でも、いずれも信用できる数字にはならない。党派的な、ある立場から主張する数字であって、権力のある側が主張するなら、それは単なるプロパガンダに過ぎないと思われても仕方がないだろう。「虐殺」という言葉に意味がある、客観性がもてるということで考えるなら、それは戦闘行為の過程ではなく、戦闘行為が終わった後の行為として考えるしかないだろう。つまり、戦闘行為終了後の民間人・あるいは捕虜に対する不当な殺人を「虐殺」だと定義するのは、客観性を担保するためのものなのだ。それは、ことさら虐殺された人の数を少なく見積もるための方便ではない。戦闘終了後であれば、軍人の論理であっても「虐殺」を認めざるを得ない定義が出来るだろうということだ。このような定義をすれば、当然のことながら30万人が虐殺されたなどということは言えなくなる。どのような方法を使えば、30万人が虐殺されたということを、上のような定義の意味での「虐殺」に対して言えるかという問題になるからだ。しかし、30万人が殺されなかったからといって、それで「虐殺」の責任が薄まるわけではないのだ。不当に殺された人々がいるということでの責任は、人数の大きさで重くなったり軽くなったりする問題ではない。どこで読んだか忘れてしまったのだが、日本の軍人たちが南京事件を調べて、確かにそこに「虐殺」が存在したということを確かめて「まことにすまないことであった」と謝罪の言葉を書いた文章を見た記憶がある。それは、もちろん30万人というような数字ではなかったが、たとえ何人であろうとも「虐殺」があったことは確かだったということを認めて、その不当性に対して謝罪の言葉を述べていた。それこそが、党派を超えて確認できる客観的な事実なのではないだろうか。30万人が虐殺されたとする説にはまったく「蓋然性」がないと判断する人はかなり多いのではないかと思う。「南京大虐殺はあった?なかった?」というインターネットでの調査を見ると、「なかったと世界に発信すべき」という意見が40.7%で最も多い。その次に多いのが「日本は自虐的教育をやめるべき」という意見で25.3%だ。「証拠写真はなくてもあった」とする意見は15.5%だ。これは何を意味するのだろうか。「蓋然性」のない主張は反発を呼び、かえって反対の極に振れてしまうということを語っているのではないだろうか。僕は南京事件はあったと考えるほうが「蓋然性」が高いと思っている。しかし、反発の強さがあまりにも強ければ、すべてを否定したいという気持ちが生じるのではないだろうか。このアンケートの信頼性をうんぬんしたい人もいるだろう。しかし、「蓋然性」のない主張が世論の支持を失わせるどころか反発さえも呼ぶというのは、論理的に考えてみてもいいことではないかと思う。少数派が、党派性に偏った主張だけをしていれば、いつまでたっても少数派であることを脱することは出来ないだろう。板倉さんは、「科学は10年にして勝つ」という言葉を語っている。これは、科学的真理は客観的真理だから、たとえ今は少数派であっても、やがて党派性を超えて賛同を得ることが出来るということを語った言葉だ。逆にいえば、客観的な真理性を持たない主張は、今流通している「言語ゲーム」的な真理に対抗することは出来ないということだ。多くの人が真理だと信じていることを覆すには、客観性のある真理を対置するしかないのである。
2007.03.18
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本多勝一さんの『中国の旅』から南京事件に関する記述を拾って、そこでの「虐殺」の現象がどのように考えられるかを、「言語ゲーム」的な発想で考えてみようかと思う。「言語ゲーム」の概念については、まだ充分わかったわけではないが、真理の決定における言語の影響という観点が大きいのではないかと感じている。普通唯物論的に物事を捉えると、真理というのは対象である物質的存在をよく観察することによって、存在と認識との一致ということから得られるものと考えられる。初期のウィトゲンシュタインの考え方からすれば、言語が現実を映し出すという「写像」という考え方が、真理関数というものにつながり、現実の事実が言明の真理を示すと考えられる。しかし、言語による言明が、現実の事実と完全に一致しなければ真理の判断は違うものになってしまう。言語の言明は、言語とは独立に存在している対象に属するものとしての真理と対応しているのではなく、言語を使うことによって真理が影響されるという関係にあるのではないか。それまでは真理の対象とならなかった事柄が、それについて語ることによって何らかの意味で真理と考えられるようになる。そのような現象が「言語ゲーム」として語られるのではないだろうか。本多勝一さんが語る「虐殺」の言明が、「虐殺」という判断の真理に影響を及ぼしていることが、その「言語ゲーム」から読み取れないかという観点で考えてみたい。本多さんは、姜さんという、父母と7人兄弟がいる人の話を報告している。姜さん一家は、日本軍の南京占領後に逃げ出したのだが、川のほとりのアシの茂みで身動きが出来なくなって隠れていたらしい。その一家を見つけた日本兵がどのような行動をしたのかを本多さんは報告する。「末子の弟は、まだ満なら一歳あまりの赤ん坊だった。空腹のあまり、母乳を求めて大声で泣いた。ろくな食物がないから、母乳は出ない。運悪く10人ほどの日本兵の隊列が土手の道を通りかかった。気づかれた。「鬼子」たち2~3人がアシ原の中を捜しに来た。赤ん坊を抱いた母を見つけると、引きずり出してその場で強姦しようとした。母は末子を抱きしめて抵抗した。起こった日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしり取るとその面前で地面に力いっぱいにたたきつけた。末子は声も出ずに即死した。半狂乱になった母親が、我が子を地面から抱き上げようと腰をかがめた瞬間、日本兵は母を後ろから撃った。二発撃った。一発は腰から腹へ、一発は肩からのどに貫通した。鮮血をほとばしらせて、母は死んだ。「鬼子」たちは同僚の隊列を追って土手の上を去った。」ここに報告されたことを姜さんという人物が語ったであろうことは事実に違いない。本多さんが物語を作る必然性というものはないからだ。本多さんは、中国の手先であって、中国のプロパガンダのためにこの報告を書いている、ということでもあれば別だが、それは信じるに値する「蓋然性」はない。語ったという行為は事実ではあるだろうが、その内容も事実かどうかは、これだけではわからない。本多さんは、記事にするときにそのあたりもかなり慎重に「蓋然性」があるかどうかの裏を取るので、これも信頼してもいいのではないかと思う。ここまでは事実に関する考察であって、まだ「言語ゲーム」的なことは考えていない。本多さんの報告が事実であると仮定して考えると、ここに語られていることはやはり客観的に見ても「虐殺」だといえるだろう。これが事実なら、「虐殺」はやはりあったのだといえるのだと思う。これが「大」か「小」かを考えるのは、僕は意味がないと思うのだが、30万人説はそのような意味のない方向に議論を持っていこうとする「言語ゲーム」のように感じる。この報告で重要な判断は、この殺人がまったくの不当なものであって、戦争であろうとも犯罪であることに違いないということだ。戦闘行為に運悪く巻き込まれて死んだというような、事故のようなものではないということだ。もう一つの報告は、約2000人の青壮年男子が狩り出されて虐殺されたというものだ。ある大きな倉庫に詰め込まれた大量の人々に対して、日本軍は次のような行為をしたらしい。「陳さんら10人が倉庫から出ると、両側に日本兵が列を作っていた。全員が着剣した銃を構えて向かい合っているから、銃剣のトンネルみたいになった。日本兵が、後ろから「走れ」と怒鳴った。10人は銃剣のトンネルの間を走っていった。 陳さんは先頭から4人目にいた。日本兵の隊列にはさまれたコースは、避風港の岸壁沿いに長江の本流まで約100メートルだった。本流の岸近くまで走ったとき、倉庫の影の土手に、30数人の日本兵が銃を構えて並んでいるのを見た。海軍と思われる黒っぽい制服を着ている。「銃殺だ」と、陳さんは瞬時に悟った。躊躇する余裕もなく、後ろから「早く走れ、走れ」と怒鳴られる。本流と避風港の接点あたりまで走ると「水に飛び込め」という叫び声が聞こえた。同時に一斉射撃の銃声。10人は、のけぞったり宙を踊ったりしながら、水の中へ倒れこんだ。」これも、このことを語ったというのは事実に違いない。ただ、この内容については、前の家族の体験と違って、そのまま事実だろうと受け取るのが難しい部分がある。それは、前の家族の場合であれば、殺されたのが母親であり、その死の理由も不当なものであることがすぐにわかるのだが、この報告で語られている、2000人という人数については確かめようのないデータとして受け止めなければならないだろうと思う。2000人というのは、すぐに数えられる数ではない。どのようにして求められた数字なのかがはっきり書かれていないので、これを科学的な歴史のデータのように扱うことは出来ないだろう。被害者が語ったこととして受け止めたほうがいい。銃殺に不当性があることの「蓋然性」は上の報告からはかなり伺えるような気がする。何か確たる理由があって集められたようには思えないからだ。走らせて、川に飛び込んだところを銃殺するというやり方もかなり異常な感じがする。逃亡した捕虜ということにして銃殺に正当性を持たせようとしたのだろうか。さて、この二つの事実から「言語ゲーム」的な面を考察しようというのは、事実から直接引き出されない真理を語ろうとするときに、「言語ゲーム」的な要素が見えるような気がするからだ。事実から直接引き出されない真理というのは、このような残虐な行為をするのが、日本軍の一般的な当たり前の行為として日常的に行われていたということだ。これは二つの事実だけからは出てこない。それこそ、戦争中のほとんどすべての事実を洗い出して、そこからの抽象としてそのような一般的傾向を引き出さなければならない。しかし、もしこの二つの報告から、やはり「南京大虐殺」は「大虐殺」であって、かなり法外な人数の人が虐殺されたのだ、と考えるならこのような行為があちこちであったと考えなければならない。そのような判断は、まず日本軍一般の特質という認識があって、それがこの二つの場合に表れていると考えなければならない。だが、この二つだけから、逆に日本軍の一般的特質を導いてしまうようなら、それは論理の飛躍であって、真理の判断としては間違っている。しかし、それが社会的に流通するようなら、それがまさしく「言語ゲーム」の現象なのではないだろうか。実際には、戦争中の日本軍についての事実のすべてを知ることは無理だろう。南京事件一つとってみても確立していない事実がたくさんあるのだから、とても戦争のすべてにわたって事実を確認することなど出来ないだろう。日本軍の一般的傾向については、「言語ゲーム」によって流通した事柄が真理とされていくのではないだろうか。僕は、映画や小説の表現から、かなりの部分で日本軍のイメージを作り上げている。それは、閉鎖的な組織の非人間性を物語るものであり、大きなストレスをかけて日常生活を送らせ、そのストレスを、弱い人間に対してぶつけて解消するような発散のさせ方をしている。戦後の学校もそのような軍隊組織の延長のような気がするだけに、日本軍というのも一般的にそういうものではないかというイメージを抱いている。そういうイメージからすれば、母親を強姦して赤ん坊を殺すという姿もありうるものとして「蓋然性」を感じる。逃亡した捕虜を銃殺したように見せかけて殺すというやり方も、ありうるものとして想像も出来る。しかし、この日本軍の姿は、本当に一般的なものなのかという疑問も捨てきれない。映画や物語というのは、ありふれた日常を描いてもインパクトが小さいので、描かれるとしたら特殊性のある事柄が選ばれる可能性がある。母親を強姦して赤ん坊を殺す日本兵や、捕虜が逃げたように装って殺してしまう日本兵というのは、本当に普通の日本兵だと言っていいのだろうか。それは、本当に多くの事実を確認して正しく抽象されたイメージなのだろうか。これは、ある種の流通観念がもたらした「言語ゲーム」による真理に過ぎないのではないだろうか。板倉聖宣さんは、人口統計というデータを使って、明治維新がいかに人々に希望と自由をもたらしたかというのを証明しようとしていた。希望と自由があったからこそ、停滞した江戸時代後期に比べて、人口が倍増するくらいの発展があったのだというのが、板倉さんの基本的な考え方だ。明治維新は、一握りの資本家に富を集中させ、その資本家と組んだ売国奴的官僚が私服を肥やした暗い時代を作ったという流通観念はないだろうか。もしそのような「言語ゲーム」環境があれば、人々は事実を調べることなく、明治維新はそういうものだという真理を受け入れるのではないだろうか。板倉さんは研究者であるから人口統計などのデータを手に入れることが出来るが、そのようなものを知らない一般人は「言語ゲーム」的真理を克服することは難しいのではないかと思う。日本軍の特性についても、専門家でなければなかなかそれを知るのは難しいだろう。専門家でなければ知りえないデータがなくても、何とか論理の力で、「言語ゲーム」的な真理のまやかしを見抜くことは出来ないだろうか。かつて旧ソ連は、共産主義の理想を実現する国としてユートピア的に語られたことがあった。「言語ゲーム」的には、ソ連が理想国家であることは真理だったのではないかと思う。そんな時代に、宮台真司氏の師である小室直樹氏は、そのような幻想を打ち砕く理論活動をしたらしい。小室氏が共産主義・あるいはソ連の専門家だとは思えないので、小室氏の判断は、データによるものというよりも論理によるものではないのかと予想される。当時ソ連の内情を知る人たちは、それがまったくユートピアでないことがわかっていたそうだが、それはソ連に近い人たちになるので、なかなか明るみに出ることがなかったようだ。小室氏の本を近くの図書館で見つけたので、これを借りて考えて見たいと思う。また、ソ連がユートピアだというのは、今ではそれが明確に否定された「左翼の嘘」の一つでもあるだろう。そのような観点からもこの問題を考えてみようと思う。小室氏の論理が、「言語ゲーム」的な真理の限界を超えさせてくれるのではないだろうかという期待を込めて考えてみようと思う。
2007.03.17
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ある事柄に対してその信憑性が高いとか、それが存在する確率が高いという判断は、何か別の事実やデータを持ち出してそれを根拠に主張することではない。事実というのは、論理的に言えば真理のことであるから、真理であれば100%確かでなければならない。何かの事実を根拠に論証するときなど、その事実は100%確かだという前提で推論しなければ、推論が長くなればなるほど結論の信頼性が低くなってしまう。事実が事実であるかどうか、つまりそれが真理であるかどうかは二者択一の問題であり、80%くらい真理だという判断などはないのである。真理は0か1かのどちらかであって、その信憑性という、われわれがそれを信じるかどうかという点で「蓋然性」が問題になるのである。信じるに足る根拠があれば信じるし、根拠があやふやであれば信じられないし、それは根拠となる事柄の論理性によって判断される。以前にNHKの問題で、現在の安倍総理や中川経済産業大臣が圧力をかけたのではないかという問題があった。このとき、何らかの事実が見つかって、例えば「番組を改変しろ」という命令があったと証明されたら、これは「蓋然性」の問題ではなく、「圧力があった」という判断がされる問題になる。事実の確認は、「蓋然性」を高めるのではなく、まさに真理が決定することを意味する。「蓋然性」というのは、そこで主張されていることが極めて信憑性が高いという判断なのである。安部氏や中川氏が圧力をかけたというのは、事実としては絶対にと言っていいくらい出てくることはおそらくないであろう。そういうへまなことをするとは考えられないからだ。このとき、単純に考えれば、事実が出てこないのであるから「圧力はなかった」といってしまえばいいことになる。しかし、このような単純な理解ではすまないところに「蓋然性」を考える意義というものが出てくる。直接証拠となる言葉は決して見つからないのに、圧力をかけたということの信憑性が高まるのはなぜだろうか。どのような考えから、圧力の存在の「蓋然性」が証明されるのだろうか。それは、事実を媒介にしてではない。あくまでも論理による推論の形での判断でなければならない。推論のポイントの一つはNHKの予算が国会の承認を経て成立するということだ。これは宮台真司氏が指摘していた。国会の承認を必要とするということは、そのときの政府である多数政党の意向が強く働くということである。予算を成立させるためには、時の政府のほうを向かなくてはならないというのが推論できるだろう。もちろん、そんなことをせずに、あくまでも正当な要求をして論理によって予算を通すという方向も選べないことではない。しかし、それができるためには、不当な扱いを受けたときにそれを是正することのできる制度的保障がなければならない。政府の要求が不当なものであった場合、それが白日の下にさらされ、次の選挙に影響するというようなことがあれば、不当な要求を突っぱねるという「蓋然性」も出てくる。しかし、そのようなものがなければ、不当だろうがなんだろうが政府の要求を飲んでおいたほうが有利だという判断が働くほうの「蓋然性」が高くなるだろう。また日本社会は「忖度社会」であるとも言われている。これは、直接要求しなくとも、力のあるほうの要求をうまくつかんで飲み込んだ人間が出世したりするという有利な面がある社会だということだ。そのような社会では、例えば直接話をしなくとも、「会いたい」といっただけでも相手がちゃんと忖度してくれることが考えられる。制度的なもの(NHKの予算が国会で承認される)や、日本社会の特質(忖度社会)などは、それ自体は一つの事実である。しかし、その事実が「圧力」を意味するものではない。それが「圧力」として働くというのは、さまざまな関係をつなぎ合わせた論理的判断だ。そして、この論理的判断が存在することによって、そこに「圧力」となるような直接の言葉がなくても、「圧力」が存在したという「蓋然性」が高いという判断ができるのである。直接圧力をかけるような言葉を使えば、その行為が不当であることは誰の目にも明らかになる。つまり、そのような事実があれば、その事実が「圧力があった」ということが真理であることを100%証明してくれる。もはやそれは事実の問題であって「蓋然性」の問題ではなくなる。このようなことは誰にでも分かるだろう。ということは、政治家になるほどの優秀な人間が、この程度の配慮をせずに、直接圧力をかけるとは思えないのだ。もしその程度のことも考えられない人間だったら、おそらく他の面でもかなり大きなぼろを出すのではないかと思う。圧力があったかどうかが「蓋然性」の問題になるのは、それが直接事実として証明できないからだと思う。これは原理的におそらくできないと思う。そのような問題は、「蓋然性」という視点で考えるべきで、圧力をかけたという「蓋然性」が高いと判断できれば、やはり政治的な責任が生じるだろうと思う。実際に、安倍氏や中川氏の行為は、圧力をかけた「蓋然性」が高いと思われるので、現在の制度(NHKの予算が国会で審議されるというようなこと)が続くのであれば、時の統治権力である政府の人間は、NHKに対して一切の働きかけをしてはならない、会ってもいけないというようなことをすべきだろうと思う。これは、圧力をかけなかったとしても、かけた・あるいはかけられたと相手が判断してしまう可能性が高いので、誤解されるような行為を排除することが必要だと思う。事実というのは、おそらく単純なことしか確実な判断は出来ない。少しでも複雑な判断が入り込めば、それは「蓋然性」の判断しか出来ないのではないかと思う。また、単純だと思われたことも、ちょっと深く突っ込んで考えるとたちまちその単純さが失われる。柳沢大臣が「女性は子どもを産む機械」と発言したときも、これは柳沢氏の女性蔑視の差別性が露呈したものと受け取られた。これは、事実を単純に受け止めればそのようになるだろうと思う。しかし、これを少し突っ込んで考えると、柳沢氏は本当にそのような女性に対する差別意識を日常から持っていた人間だったのだろうか、というような「蓋然性」が問題になってくる。マル激のゲストで出ていた西部邁氏は、柳沢氏には女性ばかりの子どもがいて、家庭では女性に囲まれて生活している人だと語っていた。そして、家庭ではむしろ女性の指示を仰ぐような日常であって、単純に差別性をうんぬんできるかどうかに疑問を呈していた。あの言葉一つだけを取って、他の面を一切見ないという単純さで判断すれば、柳沢氏の差別性が真理として浮かび上がってくるかもしれない。しかし、他の面をいくつか見ながら考えれば、それは「蓋然性」の問題として浮かび上がってくる。NHKの圧力の問題は、制度的な面を考えれば、圧力がないと判断するほうが「蓋然性」がないと判断できる。宮台氏も言っていたが、自民党政府の要人から「会いたい」と言われてそこに何の圧力も感じないNHKの職員がいたとしたら、それはよほど鈍感な人間だろうということだ。「蓋然性」の問題は、それが論理的に判断できるものであれば、その妥当性はかなり高められるのではないかと思う。論理ではなく、偶然に左右される面が強いときは、「蓋然性」はわからないといったほうがいいだろう。「南京大虐殺」における「30万人説」というのも、「大虐殺」された人々が「30万人」だという主張だと僕は受け取っている。単純に戦闘の結果として犠牲になった人々が「30万人」だったということではないと受け取っている。このような受け取り方をしたとき、この主張が語ることにはやはり「蓋然性」がないと僕は考える。この「大虐殺」にわざわざ「南京」という言葉をつけるのは、南京攻略戦という一つの戦いにおける「虐殺」を意味するものだろうと普通は考える。戦争のある期間を通じて虐殺者が30万人に達したというのなら「蓋然性」はあるだろう。しかし、それはどの期間かということを具体的に指摘することになれば、「蓋然性」の程度は違ってくる。戦闘状態にいる兵士が敵を殺す場合でも、殺すという行為自体に残虐性を見たい人もいるかもしれないが、それを「南京大虐殺」ということで考えている虐殺行為に入れてしまえば、そもそも「虐殺」などという概念を考える必要はなくなる。すべては「殺人」で一緒くたになってしまうからだ。だから、この「蓋然性」の判断も、何を「虐殺」と見るかという定義が深くかかわってくる。僕は、戦闘行為の間の殺人行為は、虐殺であるかどうかの客観的な判断ができないと思う。虐殺とそうでないものとの区別はつかないと思うのだ。だから、基本的に虐殺という行為が見られるのは戦闘行為終了後のことであり、例外的に戦闘行為中に見られるとしたら、戦闘を行っていない部隊で起こったものに限るだろうと思っている。戦闘行為終了後に、どのように整然と虐殺行為を行えば30万人を虐殺できるかと考えれば、その「蓋然性」はまったくないと考えざるを得ない。だいたい戦闘行為が終わっているのに、30万人も殺す必要があるのだろうか。この30万人には、そもそも数字の確からしさを検討するだけの意味はまったくないのだと思う。いわば「白髪三千条」というときの「三千」と同じだろうと思う。大きいという形容のレトリックに過ぎないのだと思う。「南京大虐殺」の議論が数字の問題になってしまったのは、それを否定したい側のうまい戦略だと思う。それは、そもそもが決定することの難しい数字であり、いくらでも議論の余地のあるものに流すことができる。しかし、数字である以上、それは曖昧には出来ずに決定されなければならない。決定されなければならないのに決定できないものを考察すれば、結論が出ない議論になり、結論を出したくない側にとってはまったく都合がいいものになる。「南京大虐殺」で語られていることの本質というのは、数字が大きいか小さいかということではなく、むしろ「虐殺」という事実の質の問題ではないかと思う。どのような殺され方をしたのかということのほうが重要なのではないだろうか。そういう意味ではやはり「南京大虐殺」という言い方には抵抗を感じる。これは「南京事件」でいいのではないか。そこではどのような「事件」が具体的に起こったのか。その質をこそ問題にすべきではないだろうか。そして、それが信じられないような「事件」として語られているなら、その「蓋然性」こそが検討されなければならないだろうと思う。
2007.03.17
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宮台真司氏が「南京大虐殺」というものに疑問を呈して、それが「なかった」と受け取れるような発言をしたときに僕は大きな違和感を感じていた。しかし、その「なかった」という意味は、「南京大虐殺」そのものを否定するいわゆる「否定派」と呼ばれる人々の言説とは違うだろうという感じも抱いていた。「週刊ミヤダイ」というインターネットラジオの放送を聞いて、それが蓋然性の問題として、中国などが主張する「30万人説」に蓋然性がないという意味での「なかった」ということなのだということが最近分かった。つまり、宮台氏が語る「なかった」という意味は、中国などが主張する「虐殺者が30万人いたという意味での南京大虐殺」はなかったということだったのだ。このとき重要なのは、虐殺者が30万人に達していたかどうかということだ。犠牲者が30万人いたかどうかということではない。虐殺者が30万人いたということは、論理的な問題として考えた場合に、その蓋然性はほとんどありえないという意味で蓋然性が低いと判断できる。これは論理の問題であって、具体的なデータの問題ではない、と僕は判断する。具体的なデータの問題は、100%の確実性を要求すれば、すべての場合に渡って疑わしいとしか言いようがなくなる。だからこそ蓋然性が問題になるのだが、その蓋然性はデータによって生み出されるものではない。データそのものは、結果的には信用できるかできないかという二者択一の結論しかないもので、それこそ0か100かという話になってしまう。それをどの程度信用できるかという「程度の問題」にするのは論理の問題なのである。そして、論理の問題として重要なのは、その考察している対象をどのように定義するかという言葉の問題でもある。「虐殺」というのは、いったいどのようなものを指すのか。日本軍に殺された中国人はすべて「虐殺」だと定義すればすっきりしていてわかりやすいが、これは客観的に見て賛成する人はほとんどいないだろう。だから、犠牲者数=虐殺者数ではない。そうであれば、30万人説で主張されている人数が、いわゆる南京攻略戦における犠牲者数とほとんど変わらない数なら、それは具体的なデータにかかわらず、論理的に言って蓋然性がないと結論できるのである。南京攻略戦というものが、どこからどこまでの範囲を含むものかというのでは異論があることだろう。だから、このことで100%確実なデータを出すことなど出来ないに違いない。これもどの程度なのかは蓋然性の問題であり、「程度の問題」だ。その数が、30万人に近い数であるなら、どのような数であろうとも、論理的には、犠牲者数=虐殺者数ではないのだから、虐殺者30万人説というのは論理的に言って蓋然性はなくなる。それでは、南京攻略戦の犠牲者数が30万人をはるかに超える数だったら、虐殺者30万人説は蓋然性が高まるかといえば、これは論理的にはそうはならない。なぜなら、そのような結論を出すには、論理的に、犠牲者数の中に占める虐殺者数が一定の割合で算出できるという前提が必要だからだ。このような前提がなければ、数が多ければ虐殺者も多いというわけにはいかない。30万人説の蓋然性を高めるには、実際に30万を虐殺できるだけの可能性があるということを示さなければならない。それは、30万人の対象となる人間が確かにいたということを示すことがまず必要だ。そういう意味で、南京陥落後の人口が問題にされるのだと思う。これは、当時南京全体にどれだけの人が住んでいたかという問題ではない。そのような人口が何人いようとも、その数だけでは30万人説の蓋然性の証拠にはならない。なぜなら、戦闘行為の途中での虐殺というのは、たとえあったとしても計算上は誤差が大きすぎて、数を算出しても意味がないからだ。虐殺なのか、戦闘行為における結果としての死者なのかが判定できないだろう。そのような数を虐殺者の中に含めるなら、これは虐殺者数を論議することに始めから意味がなくなる。東京大空襲や広島・長崎の原爆で犠牲になった民間人は、僕の感覚で言えばすべて虐殺者だと思うのだが、これも戦闘行為の延長での死者であり、比喩的に言えば事故で死んだことと同じだと判断する人もいるだろう。虐殺ではなく、止むを得ない犠牲だったという考えは、アメリカ人などはだいたいそうではないかと思う。これらの犠牲者を虐殺されたというのは、日本人としての立場からそう思えるというのではなく、客観的に見てやはり虐殺だと思うのだが、それでも異論が出るくらいだから、戦闘行為の途中での死者に対しては、それは虐殺者として客観的な数字には出せないだろうと思う。そうであれば、虐殺者の中に、戦闘行為中の人数がかなり含まれていれば、それはやはり蓋然性はなくなるだろう。ある立場からすればそう考えられるが、客観的にはそうは言えないという主張になる。戦闘行為終了後の虐殺者が29万人で、戦闘行為中の虐殺者を1万人くらいと推定して30万人にしているのであれば、それはほぼ30万人という言い方もできることになる。だから、30万人説が主張する虐殺者数は、ほとんどが戦闘行為終了後だと考えなければ、蓋然性を議論することにそもそも意味がなくなるだろうと思う。そうすると、南京の人口に関しても、戦闘行為終了後に日本軍が駐留して活動できる地域に住んでいた人がどれくらいいたか、あるいは捕虜の数がどれくらいいたかということが問題になってくる。南京全体の人口というような大雑把な数では議論にならない。南京城内の安全区を管理していた南京安全区国際委員会が収容数を20万人と認識していたということが問題にされるのは、このような考えからだろうと思う。虐殺者というものを、戦闘行為終了後に、正当な手続きなしに処刑あるいは、犯罪行為の末に殺された人々と定義するなら、30万人という数が多すぎる数であり、論理的にはありえないという結論にならざるを得ないだろう。これには多少の誤差もあるだろうが、この蓋然性はデータの問題ではなく、定義から導かれる論理の問題なのである。もし30万人説を正しいとするなら、それこそ当時の日本軍が毎日公務として虐殺でもしていない限り30万人には達しないのではないか。ナチスが作ったアウシュビッツのような殺人システムがなければこの数は無理なのではないか、というのが蓋然性の問題だ。勘違いしてはいけないのは、30万人説に蓋然性がないからといって、虐殺の事実そのものに蓋然性がないわけではないということだ。虐殺の事実そのものを否定する人はほとんどいないし、事実否定説に対しては、これもまったく蓋然性がないと考える人のほうが多いだろう。正当な手続きなしに処刑された捕虜についての報告もあるし、犯罪行為によって殺された民間人も多くいたということも語られている。30万人いたから「大虐殺」だという論理は危うい論理なのだと思う。数がどのくらいいたかにかかわらず、不当行為によって殺されたのなら「虐殺」なのだと思う。それが大きいか小さいかなどは問題にしても仕方がないのではないか。むしろ不当性をこそ深く追求しなければならないのではないか。30万人という数はインパクトがあるし、これだけの人数が虐殺されたのであれば、日本軍による行為の責任の重さというのも、他の具体的な指摘がなくても、これだけを根拠に追求が行えるほどのものになってしまう。追求する側にとって、30万人が虐殺されたというのはまことに都合のいいことだ。しかし、都合がいいだけに、それが覆されたときのダメージもまた計り知れない。権力を握っている側だったら、このような誇張によるプロパガンダをしても、大衆動員ができればいいという考えも出てくるだろう。宣伝に対するナチスの考え方などはそうだったようだ。しかし、権力のない側が同じように発想するのは致命的なダメージにつながりかねない。宣伝のためなら嘘でも利用しろというのは、権力のない側にとっては最終的にはマイナスに作用するだろうと僕は思う。虐殺者数が30万人でなければ虐殺の主張ができないということがそもそもおかしいのだと思う。不当に殺されたという事実は、数の問題ではなく、個別的な事実で十分インパクトを持つ主張になるだろう。本多勝一さんの『中国の旅』が報告したものはまさにそのようなものだったのではないのだろうか。また、日本の側にとっても、当時の不当行為の原因がどこにあるかを真摯に反省して自覚するのは大きなプラスになることだと思う。当時の軍隊という組織の非人間性がその原因の大きな部分を占めていると思うのだが、それは、ひいては日本社会の非論理性や非科学性にも通じているのではないかと思う。そのような日本社会の欠陥を自覚するためにこそ反省をすべきではないかと思う。30万人説というのは、そのような反省を促す力にはならない。むしろ反発を呼ぶだけだろうし、それが明らかな嘘だということが判明してしまえば、バックラッシュ現象が起こるに違いない。宮台真司氏が「左翼の嘘」というものを語るとき、それこそが昨今の右翼化とバックラッシュ現象の現実的な根拠だと語っているような気がする。それは、バックラッシュ言説の内容が正しいということを語っているのではなく、バックラッシュ言説が起こってくる現象を合理的に理解するには、その原因としての「左翼の嘘」に注目しろということなのだろうと思う。30万人説を語ることは戦術的に非常にまずいことになるだろうと思う。そのことに対する反発で、本来は不当性が存在する南京事件に対して、その不当性さえも否定したくなるナショナリズムを日本の側に生み出しかねないのではないかと思う。これは、むしろ現在の日本の統治権力にとって有利に働くのではないかと思う。中国が、今の日本の統治権力と手を握って、自国民に対してはプロパガンダをしたいというのなら、30万人説は便利なのかもしれないが。宮台氏も僕も、否定したいのは30万人説であり、南京事件そのものではない。むしろ、南京事件の本来の意味=本質を知るためにも、胡散臭い30万人説は否定されなければならないのではないかと考えるのである。今議論されているのは30万人説ではないと言いたい人もいるかもしれないが、それならそれで30万人説を否定されたくらいで敏感に反応する必要はないだろう。30万人説が否定されるのが当たり前で、今は本来の問題の議論をしているのだというなら、南京事件の問題は、やがて政治家も妄言をはかなくなるだろう。しかし、いつまでも「あったか、なかったか」という議論がされているというのは、僕はこの問題がまだ決着を見ていないのだと思う。少なくとも、中国側がこの問題の健全な方向に気づかなければ30万人説は克復されたとはいえないのではないかと思う。
2007.03.16
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ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方はとても分かりにくい。つかみ所のないものという感じがする。この難しい概念を理解するために、本質という面からこの対象に近づいたらどうだろうかと考えてみた。どのような対象が「言語ゲーム」と呼ばれ、どのような対象がそう呼ばれないかという、対象がもっている特質がつかめれば、この分かりにくい概念が理解できるのではないかと思った。対象が単純なものではなく、複雑で難しい場合は、現象として見られるものとその本質とが違っていることが多い。だから、複雑で難しい対象を正確に把握するためには、その対象に関する本質論を考える必要があるのではないかと思う。本質論がうまく立てられるなら、それは対象の理解を深めることになり、教育や学習という面で大きな成果があげられるのではないかと思う。このようなことを考えて、さて「言語ゲーム」の本質はなんだろうかと考えていた矢先に、参考図書として読んでいた『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均・著、ちくま新書)に次のような記述を見つけた。「ところで、言語ゲームがいかに多様だとはいえ、それらがすべて「言語ゲーム」と言われるからには、それらすべてを貫く何か共通の本質があるはずではないか。ここで、それらすべてを「言語ゲーム」たらしめている当のものは何か、というソクラテス的な問いが立てられることになる。 ウィトゲンシュタインは、この問いを拒否した。同じ名で呼ばれているからといって、そのすべてに当てはまり、他のものには当てはまらないような、何か一つの共通本質があるわけではないのだ。むしろ、相互に別々の点で類似しているものが集まって、一つの家族をなしているのである。彼はこのことを、比喩的に「家族的類似性」と名づけた。一つの家族は、体格、顔つき、目の色、歩き方、気質、といった別々の点で互いに似ているのであって、何か一つの点で互いに似ているのではない、ということである。だから、「ゲーム」と呼ばれるすべてのものに共有されるような本質的特長は存在しないのである。「ゲーム」だけではない。「数」の本質も、「生命」の本質も、「言語」の本質も、「科学」の本質も存在しない。さまざまな言語ゲームの中で、緩やかな家族をなしたそうした語が、実際に有効に使われている--それだけなのである。」「言語ゲーム」の本質を求めようとしたのだが、そこには本質はないのだというのだ。本質はなく、ただ「実際に有効に使われている」という現象があるだけだと言っているようにも受け取れるこの文章の意味はどう理解したらいいのだろうか。「言語ゲーム」というのは、人間的な活動のすべてに渡って発見出来るようだ。およそ社会を形成している場所なら必ず何らかのコミュニケーションが行われている。そこでは、何らかの了解が前提とされてコミュニケーションが行われている。その前提を「ルール」という視点で捉えれば、何らかの「ルール」が存在している場はすべて「言語ゲーム」と呼ぶことができる。つまり「言語ゲーム」というのは、そこにすべてが含まれてしまうので、区別する他の存在というものがないのだ。本質というのは現象との対比で考えられるものであるから、区別するほかのものが何もなければ、本質というものもないということになるのだろうか。もし「言語ゲーム」の本質を、人間的な活動であると語れば、それは「言語ゲーム」と呼ぶ必要のないものになってしまう。人間的な活動でないものは「言語ゲーム」ではないことになるのだが、それは「言語ゲーム」という概念で考察する必要もないので、わざわざこの言葉を使う有効性というものがない。人間的活動を考えるときに「言語ゲーム」という視点が使われるのだが、そのときは、すべての活動がそれに含まれてしまう。そうなれば、どうしてわざわざこのような名前で呼ぶ必要があるのだろうか。「言語ゲーム」の分かりにくさは、その有効性がどこにあるかが分かりにくいところにあるのではないかと思う。本質が見つからないので、この言葉を使うことによっていったいどのような発見があるのかが分からないのだ。これは「弁証法論理」を学び始めた最初のころの状態によく似ている。弁証法を教科書的に定義すれば、それは現実世界における対立物の統一であり、矛盾の分析をする論理だということになる。この定義で現実世界を見てみると、あらゆるところに弁証法性を見つけることができる。およそ存在するもので対立物を背負っていないものなどないのだ。存在するものはさまざまな視点で見ることができる。どこかに正反対の解釈を許すような視点が発見できる。このような現実の性質を指して板倉さんが語ったような「どちらに転んでもシメタ」というような弁証法的なことわざが出来上がったりするのだろう。しかし、弁証法性があらゆるところに見つけられるということは、弁証法にも本質というものはないということを意味する。弁証法性は解釈の問題であって、弁証法性のないものを見つけようと思っても、解釈によってどこかに弁証法性が見つかってしまう。つまり、弁証法に関しては、その否定を論証しようとしても出来ない。反証可能性がないという意味では「科学ではない」と言ってもいいだろう。しかし、このようにどこにでも見られるという解釈ができる概念がいったいどのような役に立つというのだろうか。現実世界に弁証法性を見つけて、ある出来事が弁証法だと確認したところで、そんなことはごく当たり前のつまらないことになってしまわないだろうか。僕は、弁証法論理を勉強し始めた最初は、弁証法というのは当たり前のつまらないことを語っているか、あるいは頭の中にしかない空想を現実と取り違えている詭弁にしか見えなかった。形式論理が数学の論証をする見事さに比べて、なんと貧弱な論理しか提出できないのかと思ったものだ。しかし、三浦つとむさんの『弁証法・いかに学ぶべきか』という本を読んで、優れた仕事の中にこそ優れた弁証法を見出さなければならないのだということを知った。弁証法の定義を覚えて、それが弁証法の本質だと思って、あらゆる現象の中に弁証法を探しに行っても、弁証法の真髄というものは見えてこない。弁証法は、それを有効に利用するにふさわしい対象を見つけ、その仕事で高い成果を上げたとき、その論理の流れの中に浮かび上がってくるものとして示されるものだったようだ。弁証法は、それを直接語っても、それが何であるかがつかめない。優れた仕事を成功させることによって「示す」ことしか出来ないのではないかと思う。僕は、本多勝一さんのルポルタージュの中に優れた弁証法を発見し、これが自分の弁証法理解のために大いに役立ったと思っている。その後も優れた文章に出会うたびにそこに見事な弁証法論理を発見することが出来た。板倉さんは、論理の展開に行き詰まったときに、とんでもない考えかもしれないけれど、対立物の統一という矛盾が存在すると考えてみることの有効性が出てくるという。本来は矛盾は、順調に行っている・あるいは正当だと思われている存在には顕在化してこない。つまりそれを問題にする場面というのはほとんど見当たらないのだ。現実世界というのは、矛盾を必要としないときのほうがうまく回っている。しかし、どれほど努力してもうまくいかない深刻な問題が生じたとき、そのときは、ばかげたことかもしれないが矛盾した発想をしてみると、対象の本質が見えてきて問題の解決への一歩を踏み出すことが出来る。弁証法自体に本質はないのだが、弁証法を利用することによって問題の本質が見えてくるということが起こる。板倉さんはこのように考えたので、弁証法を発想法として捉えた方がいいと思ったのだろう。いじめが深刻な問題となっているとき、単純に矛盾なしに考えれば、悪意を持った悪い人間がいじめをすると考えることができるだろう。これが正しいものであれば、その悪意を指導して善に導くということがいじめの解決になる。このこと自体は難しいことかもしれないが、方針が決まれば何かやりようはあるだろう。しかし、この方針で深刻ないじめを解決した学校はないのではないかと思う。いじめという深刻な問題は、矛盾なしにそれを考えては、現象的な理解にとどまり本質がつかめないのではないかと思う。板倉さんは、「いじめは正義から起こる」という逆説的な発想でこのことを考えた。いじめをする人間、特に深刻ないじめをする人間は、悪意のある悪い人間であるよりもむしろ善の意識の強い正義の人である場合が多いというのがその発想だ。この矛盾した本質がいじめの解決を難しくしていると考えたようだ。この発想は、いじめ問題の専門家である内藤朝雄さんの考え方などとも通じているように見える。内藤さんは、いじめに関して個人の資質よりも中間集団全体主義という環境のほうをより大きな要素として考えていた。これは、その集団の存立条件を正義だと考えるなら、その正義を守ろうと強く意識する人間こそが全体主義を強めて深刻ないじめに走ると考えられるだろう。いじめが深刻な問題となっていないときに、「いじめは正義から起こる」などといったら、とんでもない詭弁を語る人間だと思われてしまうだろう。しかし、今の深刻ないじめの解決の方向を探るには、このような弁証法的な発想が有効ではないかと思われる。この発想がいじめ問題の解決に寄与するようなら、弁証法が有効に働く具体例を見ることができるだろう。「言語ゲーム」というのも、現実をいつでもそのように解釈できるという意味では、このこと自体は「科学」ではなくありふれた事実を語る言説に過ぎないことになる。それは、現実の中に「言語ゲーム」の例をいくら探してもその真髄はつかめないだろう。それこそ、つまらない例をいくら取り上げても、「言語ゲーム」が有効に働く場面が見つからないので、そんなものがなんの役に立つのかという気分になるだろう。「言語ゲーム」も、それ自体を語ることは、弁証法がそれ自体を語ることが出来なかったのと同じように出来ないのではないかと思う。そして、弁証法が、優れた仕事の中から優れた弁証法が発見されたように、「言語ゲーム」も優れた仕事の中からそれを発見することがこのことを学ぶ一番の方法ではないかと思われる。弁証法の場合は、ある問題に行き詰まったときに、弁証法的な発想でそれを乗り越えるという形で優れた仕事の中にそれを発見することが出来た。「言語ゲーム」もそのような形で優れた仕事の中に発見できるだろうか。「言語ゲーム」は、人間の社会的な活動の全般に渡って発見できる。であるとすれば、人間社会を扱った優れた仕事の中に「言語ゲーム」的な方法を発見できるかもしれない。「言語ゲーム」そのものの本質はつかむことが出来ない。しかし、「言語ゲーム」という発想を手がかりとして、把握の難しい対象の社会的な現象の本質をつかむことが出来るかもしれない。それが「言語ゲーム」の真髄であり、違う意味での本質ということになるのかもしれない。
2007.03.14
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武谷三男さんの三段階論を辞書で引くと「科学的認識は「現象論・実体論・本質論」の三段階を経ながら発展するとしたもの」という説明があった。ここに書かれている「本質論」の「本質」とはいったいどのようなものを指すのだろうか。それは、「現象」や「実体」とどのように違うのか。この「本質」はやはり関係として捉えられるものなのだろうか。武谷さんの三段階論は『弁証法の諸問題』という本に納められた「ニュートン力学の形成について」という文章の中で語られている。まとめてみると次のようになるだろうか。現象論的段階第一段階:現象の記述(実験結果の記述)「この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。」……個別的判断、個別的な事実の記述実体論的段階第二段階:現象が起こるべき実体的な構造を知る。この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得る。「ただしこの法則的な知識は一つの事象に他の事象が続いて起こることを記述するのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬとゆうことにはならない。」……特殊的判断、その法則は実体との対応において実体の属性としての意味を持つ本質論的段階第三段階:実態的段階を媒介として本質に迫る。「諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。」……普遍的判断、概念の判断(任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明らかにする)三段階論において「本質」として指摘されている認識の段階が、板倉さんが言う意味での「科学」である。これは、普遍的なものである。つまり個別の実体に束縛された命題ではない。「任意の構造の実体」「任意の条件」という任意性を持った命題として語られる真理を指す。ここで語られている「本質」は、個々の具体的な存在である対象に縛られない。どんな対象であろうとも、その真理性を問題にしている対象であれば、そこに法則性が語られ、具体的な実体における法則性の表れが、むしろこの普遍性から演繹されるという論理的な関係にある。この法則性は、実体を媒介としている(板倉さんの言う意味での実験を経ている)が、実体を越えたものとしてもはや実体的なものではなくなっている。この各段階を天体の運動という科学史の中から拾ってみると、現象論的段階は、ティコ・ブラーエの天体観測がそれに当たるという指摘を武谷さんはしている。この段階は、文字通り見たままを記述する段階として「現象論的」と呼ばれるにふさわしい。時間や位置などのデータを正確に記述することがここでは求められる。まだここには判断はない。むしろ、何らかの判断を持つような先入観は極力排して、判断抜きにあるがままに記述することで客観性を担保する。次の実体論的段階は、天体を実体として捉えることで、その知識を媒介にして「天体の運動として」の個別的な法則性として法則が求められる。武谷さんは、ケプラーの段階の法則的認識がこれに当たると指摘している。ケプラーの法則は次の3つである。第1法則: すべての惑星は太陽を1つの焦点とする楕円軌道をえがく。第2法則: 惑星と太陽を結ぶ線分が一定時間にはく面積は、それぞれの惑星について一定である。第3法則: 惑星の公転周期の2乗と軌道長半径の3乗の比は惑星によらず一定である。これらの法則は、現象論的段階であるティコ・ブラーエの観測結果というデータだけを見ていたのでは決して出てこない。観測結果の数値を合わせるだけなら、コペルニクスの地動説を使わずとも、天動説であってもつじつまを合わせることができる。しかし、ケプラーの法則は、コペルニクスの地動説を基にして、つまり太陽系という天体を実体的に把握して、その実体の間にどのような法則が成り立つかという観点で観測結果を見なければ浮かんでこないものなのである。このケプラーの段階は、科学史においては画期的な意味を持っている段階だ。天体の運動というのは、目に見える姿では天動説が正しいように見える。しかし、実体的な対象の相互作用という視点で見ることによって、単純に見たままの形ではない法則性が導かれている。複雑な形での真理が得られている。だが、この真理であってもまだ「本質」とは呼ばれていない。個別的な実体を離れて、それを越えなければ「本質的」とは呼ばれていないのである。武谷さんが「本質的」と呼ぶのは、個別的な実体である天体という存在から離れて、普遍性を持つ任意の存在である、質量を持った物質という対象に成立する運動法則が求められたときである。これがニュートン力学の段階であると指摘されている。ガリレイにおいても力学運動という視点では、ニュートンに近いものが得られていたと武谷さんは指摘している。しかし、まだガリレイの段階では、その力学法則は地上の物質的存在に限られていたので、それは実体的段階にとどまっていたという評価をしている。任意の、質量をもつ物質のどれにも当てはまる力学法則が提出されたのはニュートンの段階であり、それが「本質論的」と呼ばれるにふさわしい段階であると武谷さんは語っている。武谷さんが語る「本質論」では、実体は影を隠し、そこに見られるのは普遍的な(抽象的な)存在同士の相互作用として語られる法則だけだ。これはまさに相互作用としての関係性が語られているといっていいものだろう。武谷さんの三段階論において重要なのは、「現象論的な知識が十分ではなくて直ちにその原因を思惟するとき形而上学に陥るのである」という指摘だろう。これは天動説における間違いを考えると、この指摘が当たっていることが分かるのではないかと思う。恒星の運動だけの記述で直ちに天体の運動の原因を思惟すると、地球が宇宙の中心であるという考えが固定化され、形而上学的にその発想から抜け出られなくなるのではないだろうか。やがて惑星の運動が記述されて現象的知識が増えてきたとき、形而上学的な発想から抜け出られない天動説では、この惑星の運動を無理やりつじつまを合わせようとする「周点円」なるものを設定しなければならなくなる。実体を導入して、実体論的な思惟ができれば、形而上学的な発想を免れることができるだろう。必ずしも、地球を宇宙の中心に置かなくてもいいという発想ができるだろう。武谷さんは、「一足飛びに本質論には行かないのである」とも語っている。これは、現象から、実体論的段階を抜いて、本質論的段階と直結されるような発想はありえないという指摘だろう。これは、実体を忘れ去り、空想的な実体をこっそりと設定する機能主義的発想の間違いではないだろうか。具体的な例は思いつかないが、このとき空想的な実体ではなく、観測され実在が確認される実体に基礎を置いた実体論的段階を経ることができれば、機能主義は、現実にふさわしい機能主義になり「本質論的段階」の機能=関数を求めることができるようになるのではないだろうか。ニュートンの運動方程式という本質的な法則(関数)が求められるのではないだろうか。現象の記述をそのまま本質と勘違いする方向は、三浦さんが批判していた「機能主義」と呼ばれる発想の特徴の一つでもあるのではないかと思う。見たままを素直に受け取って、現実をあるがままに肯定すれば、世の中はそのようになっているのが本質だという間違いをするのではないかと思う。世の中はそれほど単純なことばかりではないのだ。見たままと本質が違うことはたくさんある。三段階論に関しては、板倉さんが脚気の研究とともに面白いことを語った資料があった。「武谷三段階論と脚気の歴史」という講演記録がそれで、そこには「自分の願いに関わらず,自分は本質論的な法則を見つけたいと願っても見つけられない段階,見つけるべき段階でない段階がある。実体論的認識を目指したくたってだめだ。現象論的認識をきちっとやらなくては駄目だ。あるいは現象論的認識にとどまっていてはいけない。実体論的認識に進まなくてはいけない。あるいは本質論的認識に進まなくてはいけない。そういう情勢の時もある。その情勢は自分の気持ちとは関係ない。「俺は肝が小さいから本質論はできない。俺は現象論でいきたいよ」と言っても駄目。その時の情勢。つまり,その時の研究段階があってそれに併せて本質論的認識を進めなくてはいけない。こういうことです。」と書かれている。これも「一足飛びには本質論には行けない」ということを語っている。現象論的認識が不十分であるときは、それを徹底するまでそこにとどまっていなければ、次の実体論的段階には行けないのである。どんなに本質論的段階にあこがれて、それがすばらしいものであると思っていても、実体論的段階を終えたということがなければ、本質論には行けないのである。板倉さんは、脚気の研究において、何が脚気に効いたかという現象論をちゃんとせずに、脚気の治療法という本質論に行こうとしたことが森鴎外をはじめとする東大優等生医師団の失敗だったと『模倣の時代』という本で語っていた。各段階を正しく通過しなければ、本質論的段階は得られないのである。僕の専門である数学は、高度に抽象化されているため、いきなり本質論から展開することが多い。だが、そのような学習をするために、現象論的段階や実体論的段階が抜け落ちてしまって、形而上学的発想に陥っているケースが多いような感じがする。計算して答を出すことはできるのだが、その答が現実にどのような意味を持っているかが見えなくなっている。それは単にデータとしての数値が出ただけのもので、まさに機能だけが空想的に固定されているだけのように見える。本質を理解するための現象論と実体論の段階を丁寧に追いかけることを忘れてはいけないと思う。これは教育においても重要なことだろう。
2007.03.11
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三浦つとむさんは、『日本語はどういう言語か』という本で、言語の本質を語る際に、絵画や映画との比較から始めている。これは、表現一般というものをまず考えて、言語もそのような表現の一種としての性格を持っていることを前提として、それではそのような表現一般の中で言語に特有の性質としては何があるかを考えることで言語の本質というものを求めているように感じる。言語は表現としての側面も持っているので、当然のことながら表現としての側面として、表現一般の本質という性質も持っている。これを言語の本質と取り違えてしまう可能性があるだろう。本質というのは、対象をどのように扱っているかという主体の側の条件によっても変わってくるということになるのではないか。さて、表現というのは辞書の説明によれば次のようになる。「心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。また、その客観的形象としての、表情・身振り・言語・記号・造形物など。」表現にとってなくてはならないもの、つまり本質とは次のようなものになるだろう。・客観的に観察可能なものであること(物質的存在であり、他者がそれを認識しうる)・物質的存在に、表現者の認識という観念的なものが関係付けられている。これを欠いたものは、どれほど表現に似ていようとも表現とは呼ばれない。自然の作用によって岩が削られて何かの形に見えたりしても、それを自然が表現したとは言わない。本質とは、表現とそうでないものとを区別する指標となるものだ。この表現としての本質から求められるものに、三浦さんが挙げている、サルや赤ちゃんなどが勝手にタイプライターのキーをたたいて、偶然ある言語表現と同じものを印字した場合などが言語ではないというものがある。この印字した文字の背後には、表現者の認識が関係付けられているとは考えられないからだ。つまり、それは表現ではないと考えられるので、当然言語でもないと判断できる。このように、その対象を含むより広い範囲のものについての本質は、そこにおける区別は、その範囲に入らないものはより狭い範囲のものでもないということが、集合の包含関係から分かる。だが、その広い範囲に入るものは、例えば表現の場合は、言語ではない絵画や映画も入ったりするので、表現であるからといって言語だとは限らない。言語を言語として区別するには、言語特有の本質というものも必要になる。ここで言語の本質に行く前に、表現の本質をもう一度関係性という面からちょっと考えてみよう。表現は物質的存在でなければならないという点で客観的な判断においては唯物論的でなければならないという本質を持っている。唯物論的な前提というのは、客観性という面において必要不可欠なものだ。客観性というのは、自分だけがそれを理解するのではなく、自分と同等の任意の他者も認識できるということを前提とするからだ。ところが、物質的存在であるだけでは表現にはならない。表現は、人間にとって認識可能であるという側面で、物質的存在としての本質を持っているが、表現にとってより重要な、固有の本質というのは、表現者である人間の認識と関係付けられているということである。ここに、本質は関係として現れるという面を見ることができる。物質的存在を本質と直結させてしまうような考え方は、本当の唯物論とは言えず、三浦さんが語っていた「タダモノ論」ということになるのだろう。さて、三浦さんは言語特有の本質を求めるために絵画や映画という表現と言語とを比べている。それでは、その違いはどこに現れていると語っているだろう。それを4つの側面から考えている。1 主体的表現と客体的表現との統一2 写生的立場と地図的立場の現れ方3 過去・現在・未来などの時間的な関係の現われ方4 物質的な同一性と意味の同一性とのずれ主体的表現というのは、表現する主体の側についての情報が読み取れる表現の部分を指す。主体の側の感情はもちろんのこと、その立ち位置などが含まれる。それに対し客体的表現というのは、表現主体が対象として認識している物質的存在に関する情報を指す。人間は何かについて表現をするのだが、この「何か」に関する情報が客体的表現ということになる。三浦さんは、机に向かって勉強する子どもを描くスケッチというものを例に絵画の場合を考えている。このスケッチから得られる客体的表現は、そこに描かれている子どもや机などという物質的存在だ。絵画の場合は、客体的表現が何であるかは分かりやすい。しかしそこに表れている主体的表現は、注意深く読み取らなければ分かりにくいだろう。三浦さんは、正面から描いているのか側面から描いているのかという、立ち位置のことを指摘している。これなどは、作者の立場に同化するという意識をもたなければあまり気づかないことではないだろうか。ましてや、その作者がどのような感情を抱いて絵を描いているかはなかなか分からない。これに対して言語表現の場合は、主体的表現である感情を直接表現することもできる。「嬉しい」と書けば、その表現者の感情を読み取ることができる。しかし、本当は嬉しくも何ともないのに、言葉として「嬉しい」と書くこともできるので、言語の場合はその表現された感情が本物かどうかは判定しがたい。絵画の場合は、外見が本物に似ているかどうかは判定しやすいが、言語の場合はそれが難しいということがあるだろう。このあたりに言語の本質というものが隠れている感じがする。写生的立場というのは、できるだけ外形に忠実に写すという表現になる。それに対して地図的立場というのは、余計なものを捨象して、必要なものを抽象するという表現になる。絵画の場合は、ある一面から見える平面的な外形に関しては、かなり忠実に本物に近いものが表現できるのではないだろうか。彫刻ならば立体的に忠実に写すことができるだろう。それに対し言語表現の場合は、写生的立場にはかなりの限界がある。本多勝一さんも書いていたが、目に入ってくるものすべてを表現しようとしても、次々に新しいものが見つかってしまい、終わりのない表現になってしまう。しかも、それをいっぺんに表現することは出来ず、必ずどれかを先にしてどれかを後にしなければならない。存在は同等にそこにあるはずなのに順番をつけなければならないというのは、写生的な表現は出来ないということでもあるだろう。言語の場合は選択と順番という表現の制約のため写生的立場には限界がある。その代わりに地図的立場は言語が得意とする表現の分野ではないだろうか。三浦さんは、言語の本質を「概念を表現する」ことに置いているような気がする。この概念というのは、対象の具体性を捨象して本質を抽象してくるまさに地図的な認識を指しているような感じがする。言語が抽象と捨象を得意としている表現だということから、人間は言語を用いて思考することによって思考が深まってきたとも言えるのではないかと思う。この二つの立場に関しては、想像の問題も語られている。想像というのは、三浦さんの用語では「観念的な自己分裂」と呼ばれているのだが、地図的な立場による表現には、直接目に見える物質的な世界ではなく、そこに捨象と抽象という作業を経て見えている想像の世界がある。この想像の世界は、現実的な自己のままでは見えず、必ず観念的に分裂したもう一人の自分が見ているという設定が必要だということだ。これは、直接見えるものを表現する絵画と大きく違うところだ。もっとも絵画のほうも、抽象画になると直接見えていないものを表現するので、この観念的な自己分裂が問題になってくるかもしれない。時制の問題と意味の問題は言語に特有の本質を見せてくれるものでもある。言語は、過去・現在・未来というものをかなり自由に表現できるが、言語以外の表現においてはそれはかなり難しいのではないかと思う。また、意味の多様性という問題も言語特有のものではないだろうか。文脈によって意味が違ってくるというのは、絵画や映画などにも表れてくるかもしれないが、言語表現ほど多種多様な解釈がそこから読み取れるということは少ないのではないだろうか。言語表現の場合は、表現者の意図とまったく違うことを読み取られることがしばしばある。しかも、それは無意識の中にあったもので、表現者自身も気づかずにそう語ってしまったなどと言われることさえある。言語の本質というのは、対象が複雑なものであるだけに一言で言うことは難しい。しかし、それは物質的属性として語られるものではないだろうとは予測できる。物質的属性というのは、人間が認識の対象に出来る、つまり考察することの出来る対象であるという、最も広い範囲の対象としての属性=本質ではあるが、言語固有の本質ではあり得ないだろう。言語の本質もやはり関係性に求めるのが妥当だろうと思われる。そして三浦つとむさんもおそらくそうしているだろうと思う。これはちゃんとまとめたことがないのでそう予想しているのだが、三浦さんの言語論をもう一度読み返してみて、その本質論のところをまとめてみたいとも思う。実体をそのまま本質だとするのは「タダモノ論」であって唯物論ではないだろうと思うので、三浦さんもやはり本質は関係性のほうに見ていると思うのだ。唯物論というのは、その対象が物質的存在でなければ、人間には認識できないという基礎の部分を指すのだと思う。そしてこの関係性というものが、ある意味では数学的な「関数」によく似たものに感じる。そうすると、数学における「関数」は function のことであり、これは「機能」という意味ももっている。そうであれば、本質というのはやはり「機能」のことを指すのではないかとも思える。現実の存在がそれを対象にした思考の際に、他のものと区別される決め手になるのは、物質的具体性の故ではなく、抽象的に想像された「機能」面にあるというのは、ものを考える際に重要なことではないだろうか。本質が「機能」に現れるというのは、一見「機能主義」と呼ばれる考え方のようにも思われる。しかし、批判的に語られている「機能主義」と、この本質を「機能」に見るという発想とはどこか違うもののようにも感じる。三浦さんが批判していた「機能主義」というものの本質も、それが区別される決め手となる特性も一考の価値があることではないかと思う。三浦さんの著書を読み返して考えてみたいとも思う。
2007.03.07
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本多勝一さんは、かつて「事実と「真実」と真理と本質」という文章で、これらの言葉を比較して、その意味を論じたことがあった。そのときに、これらの言葉の辞書的な意味を調べた部分で次のように書いていた。「そこで平凡社の『哲学辞典』を引いてみますと、「真理」の項目にはギリシャ語 aletheia 、ラテン語 veritas 、ドイツ語 Wahrheit 、フランス語 verite 、英語 truth 、というふうに、まずヨーロッパ語が並べられていて、真理についての歴史的経過が述べられています。これを読むと、真理というものはそれぞれの立場によって違うということが分かる。キリスト教の真理、スコラ哲学の真理、カントの真理、弁証法的唯物論の真理……。当然ながら、ニクソンの真理、佐藤栄作の真理、殺し屋の真理、殺される側の真理……と、それぞれ違うことになります。」この部分に書かれている、ということは、本多さんのここでの論説の本論となっているものではないが、これはちょっと説明が必要なものではないかと僕は感じた。本多さんが主張していることは間違いではないと思う。しかし、この主張を文字通りに受け取って、真理はそれぞれの立場によって違うのだから、客観的に誰もが賛成するような真理はないのだと解釈してしまうと間違えると思う。社会的な立場というのは、具体的に考えるとそれぞれ個性をもっている。したがって、その個性を前提とした真理というのは考えられる。だが、その個性を捨象して、立場を解消することもできるのである。そうなれば、抽象的には具体的な立場を持たない真理が存在する。それが科学的な真理となるのだと僕は考える。本多さんが語っているそれぞれの立場によって違ってくる真理というのは、仮言命題的な意味での真理なのだと思う。つまり、ある立場を前提として、その前提の下での結論がどうなるかということを考えているのだ。この真理は、常に前提が存在するのであって、前提なしに一般的に成立する真理ではない。記号で表現すれば、 A ならば Bという仮言命題において、Aに当たる前件の部分に立場というものが入ってくるのである。その立場に立ったときに、Bという結論が真理となるという意味での「真理」なのだ。この結論のBは、無条件に成立する真理ではない。ニクソンの真理とは、ニクソンの立場に立つという前提を設けたときに真理となるような命題のことを指す。ニクソンの立場に立ちたくない人にとっては、その結論だけを提示されても、それは少しも真理ではない。しかし、あえてニクソンの立場に立てばそれが真理だと判断できるものが「ニクソンの真理」なのだ。前件のAに当たる立場が個性の強いものであるときは、その個性に合致するものは少なくなるので、その真理に賛同する人間も当然少なくなるだろう。その立場に立てない人間にとっては、その結論は受け入れがたいものになるに違いない。しかし、そんなときでも、仮言命題としての論理の展開に間違いがなければ、それは仮言命題としては真理なのである。仮言命題というのは、結論そのものを取り上げるのではなく、前件から結論を導くその論理過程の正しさについて語っているだけだからだ。科学的真理というのは、この前件Aの中に社会的立場がほとんど入り込まないものを立てる。自然科学などは、どのような社会的立場であろうとも承認せざるを得ない観測から得られたデータを前提にして考える。社会科学になるとここに、考察する人間の社会的な位置というものが具体的に入り込んでくる可能性はどうしても排除できない。だから、社会科学は長い間「主義」という言葉で呼ばれて、自然科学のような客観性を持たないものとされていた。しかし、社会科学であろうとも、考察する人間の社会的立場を最大限排除して捨象することができると僕は思う。板倉さんが展開している、統計資料を元にした歴史考察などは、その一つの可能性を探るものだろうと思う。科学は、考察する人間の社会的立場を出来るだけ捨象して、立場を越えた客観性を持たせるように努力する。だから僕はこれを信用できると思っているのだが、科学でないものは、しばしばこの立場を強引に固定して、その立場がひとつの前件に過ぎないことを忘れて、結論を無条件に真理だと主張する場合がある。その最たるものは政治的プロパガンダではないかと思う。今話題になっている「従軍慰安婦」問題や、かつて話題になっていた「南京大虐殺」問題なども、政治的プロパガンダという意味を強く持っているものだ。この政治的プロパガンダを、立場による真理に違いがあっても当然だという考えで容認することは、政治的プロパガンダとしても逆効果を招くのではないかと僕は感じる。昨今のバックラッシュと呼ばれる左翼たたきの現象は、この逆効果によって生まれてきているのではないかとも感じる。政治的プロパガンダにとっては、「従軍慰安婦」の問題は、日本という国家がその大きな責任を持っているのだということを強調したいだろうと思う。そのときに、「強制連行」の責任の大半が国家にあることを主張できれば、そのことによって日本の責任追及がやりやすくなる。しかし、このプロパガンダが、実は事実としては間違いだった、つまり立場を越えた客観的前件から見ても間違いだったと分かった場合は、今まで日本という国家を追求している立場にいた人たちからは真理と見えていたものが、今度はその人たちを攻撃することの正当性を保障する前件となってしまう。嘘も宣伝の道具にするというのはナチスが用いた手段で、これは確かに政治的には効果を発揮した。しかし、ナチスの末路を見ると、この効果は短期的なものであって、長期的にはやはり正しい政策がなければ、嘘からスタートした支持はいつかは破綻するものではないかと思う。政治的プロパガンダが、嘘を利用してでも宣伝効果をあげようとするのは、ナチスの失敗を繰り返すことになるのではないだろうか。「従軍慰安婦」問題での「国家による強制連行」という問題は、ナチスのように意図的な嘘で宣伝したものではなく、認識の間違いから生じたものだろうと思うが、それが結果的には日本における左翼たたきにつながったという点では、やはり、無条件に立場の違いによる真理があるのだということを容認してはいけないのではないかと思う。宮台氏が言う、この「国家による強制連行」があったというのはだという主張は、国家の責任を追求する立場からは真理と見えるものを単純に信じてはいけないという戒めを語っているのではないかと思う。それは願望を事実と勘違いしているのではないかと思う。その間違いは、実は国家の責任を追及する立場にとっては、かえってマイナスに働くようなものになるからこそ戒めとしなければならないのではないだろうか。そのような戒めの意味として、宮台氏は、「新しい歴史教科書を作る会」が、このを暴いたことを評価しているのではないかと感じた。立場によって確かに真理は違ってくる。心が通い合わなくなった夫婦にとって、日常の同じ行為が、夫の立場と妻の立場ではまったく違った意味を持ってくるだろう。そのとき、両者は、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのではなく、どちらかの立場に立って見てみればどちらも真理を語っているのだと思う。それは、それぞれが自分の視点で事実を見ているから、前件が違ってきてしまい、そのために結論が違ってくるのだと思う。このとき、この夫婦のそれぞれの立場を越える視点が見つかれば、その前件から得られる結論は、ある意味で客観的なものになりうる。それは、夫婦のそれぞれ、夫や妻にとっては受け入れがたい結論かもしれないが、第三者にとっては妥当だと思えるような結論になるだろう。立場によって真理は違ってくるが、その立場をできるだけ大きなものにしていく努力はできるのではないかと思う。それが科学的な思考の方向であり、公的な妥当性を持った結論へ導く道ではないかと思う。三浦つとむさんは、真理はいつでもその条件によっていると語っていた。真理は、仮言命題として捉えることが真理の本質的な理解なのだと思う。真理は立場によって違う。仮言命題の前件を変えれば、結論も違ってくる。それは結論が違うからといって間違いではない。結論を導く論理に間違いがなければ、その前件を置いたときの仮言命題としては真理になるのである。立場によって違う真理というのはそのように理解しなければならないだろう。安倍総理が「国家による強制があったとする証拠はなかった」という言い方をするとき、それに感情的に反発することなく、どのような前件のときに、この結論が真理となるのかを吟味する必要があるのではないだろうか。そして、「強制」という言葉の意味を恣意的に判断して、国家の責任を追求するという、自らの立場だけから真理を認定しようとするのは、将来的なマイナスを引き起こさないかを考えなければならないと思う。国家による強制がなくとも、国家の責任は追及できると思う。「従軍慰安婦」の問題は、民間の業者の責任が大きいとしても、それを規制せず、逆に利用していたような面があるとすれば、国家の責任は重大なものになるだろう。嘘でも、利用できるものは利用して責任を追及するのではなく、正当な論理で追求できる方向を考えなければいけないのではないかと思う。
2007.03.06
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「社会科学の科学性について」というエントリーにコメントをもらった佐佐木晃彦さんの「<本質=関係>把握としての弁証法」というページを訪ねてみた。三浦つとむさんから学んだというその内容はたいへん興味深かった。ここで語られている内容そのものもたいへん興味深いのだが、その前段階として「本質」という概念についてもう少し考えたいような気分になった。それは、「本質」を「関係」として捉えるという思考の展開が、必ずしも自明に自然なものには見えなかったからだ。もう少し説明が必要なのではないかと感じた。何故に「関係」という点に「本質」を見るのか。その必然性がどこにあるかというのを考える必要を感じた。この前段階をよく考えた後に本論のほうへ入っていきたいと思う。「本質」という言葉は「現象」という言葉と対比させて考えられるのではないだろうか。現象というのは、辞書によれば「人間が知覚することのできるすべての物事。自然界や人間界に形をとって現れるもの」とされている。つまり、現象というのは「すべて」の対象を含むものであり、非常に高い多様性を持っているものだ。しかし、「本質」というのは、そのように多様に現れた「現象」の中から、その対象がそれであるという規定になくてはならないものとして、他の「現象」と区別される。多くの「現象」は、偶然的に現れた末梢的なものであり、その「現象」(=形)がなくても、対象にとっては別に不都合はないというものだ。しかし、「本質」として現象してくる性質は、それが無くなったら、対象そのものも無くなってしまうという重要な属性になる。その「本質」が「関係」という面に現れるということの意味をもっと詳しく考えてみよう。「本質」というような複雑な概念を理解するには、いきなり難しい対象を考えても分からなくなるので、最初は単純な対象の考察からはじめようと思う。例えば台所で使われる「包丁」という対象について、その「本質」を考えてみよう。包丁に現れてくる多様な現象のうち、そのどれを欠いてしまえば、それはもはや包丁と呼ばれなくなるだろうか。あるいは、その現象がたとえ違うものになったとしても、なおその対象は包丁と呼ばれるというようなものでありつづけるなら、変化しうる現象は「本質」ではないということになる。包丁の場合、その外形は変化しても包丁としてありつづける。先がとがっていなければ包丁ではないということはない。刃の部分を持っているという外形は、包丁であるならどの包丁も持っているので、これは「関係」ではない「実体」としての「本質」になるだろうか。これは難しい判断だと思うが、刃の部分を持つものは包丁に限られない。もっと広い範囲の集合の属性となってしまう。ナイフも鋏も刃の部分を持つが、これは包丁ではない。「刃の部分を持つ」という現象は、包丁にもいつでも見られるものだが、それは包丁を含むより広い対象が持っている属性なのでいつも見られるというものになる。その現象は、包丁を特定する個別的な存在に対応する現象ではない。この場合、個別の対象を特定する現象ではないということが、「本質」という概念からはやや離れるのではないかという感じがする。三浦さんは、言語を表現の一種としたが、人間の認識が形として表に現れる「表現」の本質を言語の本質とはしなかったように感じる。言語の本質は、言語の個別的な属性を特定する、「一般化=抽象化」という面や、「社会的」というところに求めていたように感じる。なくてはならない性質としての「本質」という点を考えると、より広い範囲の対象に当てはまる本質は、「本質」というもののレベルが違ってくると考えたほうがいいのかもしれない。それでは包丁固有の現象で、これなしには包丁という存在になりえないというものがあるだろうか。それは「食材を切るという行為」に見られるのではないかと感じる。食材を切るには、他の道具も使うという人がいれば、まな板とともに使うという条件を入れてもいいかもしれない。形や素材という実体的側面は、他のものを使って包丁を作ることもできるということから、多くは本質でないものとして捨象される。実体的側面を捨ててしまったら、残るのは機能的側面であり、数学で言えば関数ということになる。これはまさに関係として捉えられるものになる。「本質」を「関係」として捉えるというのは、「本質」は実体としてつかみ出せるものではないという考えからくるのではないかと思う。しかしここで一つ引っかかることがある。三浦さんは機能主義を鋭く批判し、どこまでも実体的な物を忘れないという唯物論を基礎にして理論を展開してきた人ではなかっただろうか。その人が、機能こそが本質であるという、「関係」に本質を見る見方を主張するのは変ではないかとも思われる。このあたりの整合性はどう捉えればいいのだろうか。それは、三浦さんが批判してきた機能主義というものが、統一を欠いたものであり、実体と切り離した機能を論じてきたものを批判したのではないかと捉えることで整合性が取れるのではないだろうか。唯物論的でありつづけるためには、実体と切り離した観念的な対象のみで理論展開をするのではなく、常に統一されたものとして対象を捉える必要があるのではないだろうか。三浦さんは、言語を認識を表現するものとして機能的に扱っている。そして、その認識は一般化した概念を表現するものとして捉えている。言語の機能は、人間が個別的に捉らえた個性ある対象を一般化し、その概念を表現する約束としての言語規範を社会が共通に持つことによって、コミュニケーションが成立するというものだ。三浦さんは、言語の本質をこのような機能的側面に見ていたが、頭の中だけに存在して表現されることのない「内言語」という概念には反対していた。これは、言語のコミュニケーションの側面を担う言語規範が、一人の頭の中であたかも言語表現のような展開を見せる現象を指している。思考の展開と呼んでもいいかもしれない。三浦さんは、言語規範を言語と呼ぶことには反対していた。このあたりがソシュール批判の中心になっていたのではないかと思う。三浦さんは、言語というのは物質的な形としての現象である「音声」や「文字」という実体が存在しなければ言語と呼ばなかった。ここに、機能と実体が統一された唯物論的な見解が表れていると思う。三浦さんが批判した機能主義は、実体である「音声」や「文字」というものを言語の本質から除いてしまって、「音声」や「文字」のような物質的属性を持たない言語規範を言語の中に数えていた。それに対して三浦さんは反対していた。これは統一されたものとして対象にならなければならないのだと思う。実体と統一されていない機能主義は、機能という観念的存在が肥大して空想から妄想に陥る危険性をはらんでいる。新興宗教的妄想の大部分がそのようなものではないだろうか。この世を支配しているような秩序という機能が空想的に肥大していくと、その秩序をつかさどる神が見えてくるような感じがする。本質を関係に見る機能主義において、実体的な存在を忘れずにいるという唯物論的な感性を持ちつづけることは難しい。三浦さんも、徹底した唯物論者でいることがどれほど難しいかをいつも語っていた。実体を忘れて機能だけを見ていると、何か空想的な実体を前提にすれば論理的にはうまくことが運んでしまうからだ。数学における「虚数」の設定などはそのような例の一つではないかと思う。本質という概念は、個別の実体に張り付いているものではなく、多くの実体を一般化して抽象しなければ捉えられない。本質は、個別の実体に個性的な形で現象はするけれど、それがそのまま本質になるわけではない。だから、本質は実体として見つけることは出来ない。これが、本質を実体ではない関係と見ることの必然性だろうと思う。そこに横たわるのは、抽象化という過程だ。抽象化という過程においては、具体的な実体的側面は捨象される。唯物論的基礎をいったん捨てて、抽象化の後にまた戻ってくるという円環運動が必要になるわけだ。これはかなり難しいのではないかと思う。いったん抽象化の方向へ向かったら、そっちのほうへどんどん行くほうが分かりやすい。行きつ戻りつしながら思考を展開していくのはかなり難しさを感じる。今、小林良彰さんの『市民革命の先駆者 高杉晋作』という本を読み始めているのだが、高杉晋作に関しては、その評価が大きく分かれていて、その本質が見えにくくなっているといわれている。小林さんのように高く評価する人もいれば、明治以後の民衆を弾圧するような国家権力の肥大に手を貸した人間として非難する人もいるようだ。現象としてはどっちの面も見られるようだ。また、高杉晋作の豪快な生き方に共感して、それを面白く脚色して楽しむ人々もいる。高杉晋作個人の生涯という現象をいろいろ調べれば、そこにはさまざまな解釈のできる出来事があるだろう。そこから、末梢的な部分を捨てて、本質的な部分を拾い出すのはかなり難しいと思われる。ある一面を肥大化して取り上げれば、抽象だけが一人歩きするような妄想的な高杉晋作像が出来上がる。しかし、細部にこだわって個人的なエピソードばかりを追いかければ、本質と抹消の区別がつかず、面白いだろうけれど本当の理解には達しないということが出てくるだろう。物語としての歴史が出来上がる。小林さんの方法は、高杉晋作の生涯を歴史的に位置付けて、歴史の中での高杉晋作の動きの意義からその本質を求めようというものだ。歴史的に位置付けるというのは、時代の変わり目や変化をどう抽象的に捉えるかという問題にもなってくる。個別を捨てて一般化して考えなければならない。しかし、高杉晋作個人を評価するには、高杉晋作の個人的な側面を捨てるわけにはいかない。小林さんの仕事の中に、現象から本質へ至る道を学びたいものだと思う。本質は実体にそのまま表れているのではないので、関係という機能的側面に注目して捉えたほうが発見しやすいだろう。しかし、機能を考察するときに、どこまで実体を引きずって再帰的にそこに戻るかを意識しておかなければならないのではないかと思う。本質が関係に表れるということの理解はそういうものではないかと感じた。このことを前提として、次は本論である弁証法について考えたいと思う。
2007.03.04
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宮台真司氏が、以前に「南京大虐殺はなかった」というような発言をしたことがあった。これに対して僕は、かなり大きい違和感を感じたのだが、単なる感情的な「愛国心」からこのような言葉が出てきたのではなく、宮台氏が言うからには、何らかの確たる根拠があるに違いないという気がしていた。その根拠に当たるものを、今週配信された週刊ミヤダイで聞くことが出来た。今週の週刊ミヤダイのテーマは「従軍慰安婦問題と河野談話の扱いについて」というものだった。この問題の発端は、従軍慰安婦問題で日本政府に謝罪を求める決議案が米下院に提出されていることだった。これに対し、宮台氏も、「決議案は客観的事実に基づいていない。日本政府の対応を踏まえておらず、はなはだ遺憾だ」と不快感を示した政府見解とほぼ同じ感想を述べていた。日本政府に責任がある事柄で告発されているなら仕方がないが、いわれのない嘘で告発されているときは、それに対して反論するのが当然だというのが宮台氏の主張だった。この「いわれのない嘘」というのは、日本政府が主導して「強制連行」したというものだ。事実として政府による「強制連行」はなかったというのが宮台氏の指摘だ。ここで間違えてはいけないのは、「強制連行」という事実がなかったからといって、従軍慰安婦という存在そのものがなかったことにはならないことだ。「強制連行」までしたことがけしからんと言われたら、それに対しては事実が違うという抗議をしなければならないが、反対の極に振れてしまって、従軍慰安婦などというものもなかったのだと言えば「責任逃れ」の卑怯な人間だと思われてしまう。従軍慰安婦がいなかったということと、「強制連行」がなかったということは、事実としての確認には違いがあるのである。それを同じレベルで議論をするところに、話がかみ合わないところが出てくるし、事実誤認だというような批判も出てくるのだ。しかし、事実というのは確認ができるものだろうか。このときに、100%確実な事実でなければ事実とは呼ばないというような前提をもっていれば、すべての場合において事実の確認など出来なくなる。事実などない、そこには物語があるだけだということになってしまう。このような考え方を僕は不可知論と呼んでいる。これは科学の成立を妨げる考えかただ。この不可知論を打ち破る考えが、週刊ミヤダイで宮台氏が語っていた「蓋然性」の考え方のように感じた。「強制連行」があったかなかったかを100%確実に事実確認することはおそらく出来ない。それをほのめかすような事実は幾つか見つかるかもしれないが、それは決定的なものにはならないだろう。そうすれば、これは立場の違いによって小さな事実をどれだけ重視するかで判断が違ってきてしまう。立場によって事実(=真理)が違ってくるということになってしまう。これでは歴史は科学にはならない。このとき、宮台氏が語るように、「強制連行」はなかったという判断のほうが蓋然性を持っているという論理はどのように成立するのだろうか。それは、そのような違法行為を、公的な政府がおおっぴらに行うということに「蓋然性」がないという判断からもたらされるのではないだろうか。アメリカの西部劇の時代であれば、どれほどの違法行為であろうとも、誰も見ていなければそれで告発されることはないのだからやり放題だということがあるかもしれない。しかし、戦争になれば相手がいるのであり、しかも近代戦ということになれば戦場にはいつでもジャーナリストがいる。このような状況の下で、無法行為でもなんでも、とにかく勝っていればやりたい放題だと、統治権力である政府が考えることに蓋然性があるだろうか。これにはかなり無理があると思う。むしろ、従軍慰安婦という制度が便利なものだと考える人間がいたとしても、政府がそれに直接手を出すことなく、責任は他に押し付けられるような仕組みを考え出すほうが蓋然性が高いのではないだろうか。今の時代は、やくざだって無法行為でその存在を示すよりも、合法的に悪いことをすることの方を選ぶのではないだろうか。もちろん、政府が直接手を出さなくても、それを利用したということであれば、政府にはその点において責任があることは確かだ。だが、その責任は、直接手を出したときと同等に扱われるべきではない。どの程度の責任かは、具体的に検討されなければならないだろう。最初から、「強制連行」が行われたという前提で責任を問われるようであれば、それはいわれのない濡れ衣だと抗議しなければならない。悪いことをしているのだから、そんなことを言うのは屁理屈だと感じる人もいるかもしれない。しかし、この責任の重さを考慮するということは、個人の裁判の場合と同じではないかと思う。悪いことをした人間はみな同じ責任をとらせろということでは、止むを得ない事情の下に起こってしまった犯罪というものを特別扱いすることが出来なくなる。これは、責任というものを考える際には、考慮すべき事柄ではないかと思う。この問題に関連させて、朝鮮半島から日本へ来た人々についても、これが大半が「強制連行」で日本に連れてこられたというのは「左翼の嘘」であると宮台氏が語っていた。事実は、生活に困った人々が、何とか一旗あげようと思って、当時としては朝鮮半島よりは豊かだった日本へ来たのだという。食い詰めたという原因を誰が作ったかという問題はあるものの、在日朝鮮人の人々は、「強制連行」ではなく、大部分が自らの意志で日本へ来たというのが事実だというのだ。これも、何らかの個々の事実を取り上げて「強制連行」がなかったという主張をしているのではなく、蓋然性からの判断をしているものだと思われる。個々の事実としては、宮台氏の近くにいる在日朝鮮人の人たちから、「強制連行」ではなかったという事を聞いていたということはあったらしい。しかし、自分の周りの人間がそうだからといって、在日朝鮮人全体がそうだとは限らない。やはり全体を判断するときには「蓋然性」というものが重要になってくる。この場合の蓋然性は、在日朝鮮人の大部分を「強制連行」するだけの余裕が当時の日本にはなかっただろうというところから考えられる。もし、国家を代表する政府がそのようなことをするなら、軍隊の戦力のかなりの部分をそこに割かなければならなかっただろうが、そのような余裕があったとは思われない。また、そこまでしなければ政府が国益を守れなかったかというところもある。政府は、賃金の安い労働力である朝鮮半島からの人々を利用はしただろうが、強制的に連れて来て労働させるということまでしても、利益はそれほど大きくならなかったと考えられるのではないだろうか。相手が囚人であったりすれば、懲役という大義名分で連れて来ることが出来ただろうが、そうでない場合は、強制までして連れて来るという蓋然性が成立しにくいのではないかと思う。このことに関しては、「左翼の嘘」を暴露したという点で「新しい歴史教科書を作る会」を宮台氏が評価していたのは面白いところだと思った。しかし、それが感情的に左翼たたきの方へ向かってしまったのは間違いだったという指摘も忘れていない。嘘を正して、客観的事実を元にした歴史の展開の方向へ行けば、歴史が物語ではなく科学になったのだろうと思う。「南京大虐殺」がなかったという問題に関しても、宮台氏が言う「なかった」という主張は蓋然性の問題として語っているのだと思う。例えば、よく議論になっている「30万人説」というのがある。これは、南京で殺された人々の数が30万人だという説で、中国がずっと主張していることらしい。これは、蓋然性としてはありえないということを宮台氏は語っていた。これはその指摘が正しいだろうと思う。当時の南京の人口が30万人に近い数だったのだから、犠牲者の数が30万人だったら、ほぼ全員が殺されたことになるのだが、これはまったく信じられない。原爆のような大量破壊兵器であれば、一回の戦闘での犠牲者が大量になることが考えられるが、それでも30万人という数は多すぎる。蓋然性という点ではまったく妥当性がない。しかし、犠牲者の数が30万人ではなかったというのは、犠牲者はいなかったのだということにはならない。宮台氏も、もしかしたら1万人くらいはいたのかもしれないというようなことを語っていたが、1万人だから「大虐殺」ではないという主張も変なものだ。強姦されたり、不当な殺され方をした人がいれば、たとえ一人であろうとも「大虐殺」だと言えるかもしれないのだ。日本軍の軍隊教育の非人間性や、指導者に大局的な見通しがなかったことなどを考えると、南京の戦闘で、非人間的な行為がどこかで起こっただろうことは、それがまったくなかったと考えるよりも蓋然性がある。不当行為はどこかで起こったに違いない。しかし、それは30万人も殺すような「大虐殺」だから、それにふさわしい責任をとるべきだと糾弾されるのは、いわれのない非難だと感じるだろう。歴史事実に限らず、現実の事柄に関しては、0%か100%かという見方は不可知論に陥ってしまう。それはどの程度の蓋然性を持っているかを客観的に考える必要がある。特に、責任が問題になるようなデリケートな事柄ではそのように考える必要があるだろう。100%の悪や100%の善はあり得ないのだ。宮台氏が語る「南京大虐殺はなかった」ということは、30万人もの虐殺はなかったという蓋然性の問題だと理解すれば、確かにそのとおりだと同意できるものだ。しかし、それは南京での不当な殺人がまったくなかったという主張ではない。そう言ってしまえば、逆の意味での嘘になる。どの程度の事実があったかは蓋然性によって判断すべきなのだ。そして、その蓋然性は、立場の違いによって変わってくるものではなく、客観的に同意できるようなレベルがあるはずだ。そして、それをもとにすることによって、歴史を始めとする社会科学も本当の意味での「科学」になるのだと思う。
2007.03.03
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「疎外」という現象は、人間が作り出したものであるにもかかわらず、人間のコントロールの範囲を越えてしまって、それが独自に活動してしまうことによってさまざまな問題を生じるようになる。これをどう解決するかということを考えるのに、とても分かりやすい比喩を大塚久雄さんは『社会科学の方法』の中で語っている。群集のなだれのような動きというものを考えて、これに翻弄されずに治めるにはどうしたらいいかを考えることで、その他の社会現象についてもそれをコントロールする方法というものを比喩的に考えている。初詣に有名な神社などに行くと、大勢の人が流れるように動いているのを見ることができる。この流れに沿って歩いているときはいいのだが、これに逆らって違う方向へ行こうとするとかなりたいへんだ。これは多くの人が経験しているだろう。そのような状況のときに、ちょっとしたパニック状態が起こって、その群集がいっせいに、ランダムに動き始めようとするとたいていは自分の意志と違う方向に引きずられていってしまう。かなり危険な状況になり、問題が発生したと言っていいだろう。この問題を解決するにはどうしたらいいのだろうか。群集のランダムな動きを秩序あるものにするにはどうしたらいいか。この解決方法について、大塚さんは、個別的な方法と集団的な方法と二つの方法を考えている。個別的な方法というのは、個々の人々のデータを集めて、個々の人に働きかけていくというものだ。全体の動きも、元をたどれば個人の動きに帰着するのだから、その原因を何とかして解決しようとするものだ。これは、全体はあくまでも部分の総和だという考えに基づいている。この方法は、無駄ではないが効果はあまりないと大塚さんは主張しているように見える。部分の問題を解決して全体の問題が解決する場合は、その現象がランダムな偶然性の下に起こっているものではなく、必然性が求められるときにしか効果がないのではないかと思う。部分と全体の結びつきが、ある種の必然性に基づいているときは、その必然性に働きかけることによって、部分的な解決が全体の解決に結びつく。しかし、ランダムな現象の場合は、その解決が全体に結びつくのもランダムなことになってしまい、効果が出るときもあれば、効果が出ないときもあるということになってしまうのではないかと思う。群集のランダムな流れを押しとどめようとするときに、個別に対応すると言うのは、その群集の中の個人に関して細かいデータを求めるということを意味する。そして、その個人の一人一人に働きかけることが部分の解決になるのだが、一人の問題を解決している間に、他のところでまた問題が生じてくるというのがランダムな現象の特徴になる。こうなったら、問題の解決は現実的にはいつまでたっても出来なくなるのではないかと思われる。このような「疎外」現象は、個人の意志の自由を越えてしまうので、個別的な対応では解決が出来ないと、マルクスもそう考えていたのではないかというのが大塚さんの語るところだ。「疎外」現象は、個人から生まれたという過程があるものの、それを捨象して「疎外」されたものを全体として一つの存在のように扱うことからしか、その問題の解決が見つからないのではないかということだ。全体をあたかも一つの存在かのように扱うというのは、宮台氏が語るシステムの捉え方にも通じるものだ。大塚さんが考えるマルクスの解決というものは次のようなものになる。「彼の考え方を、私なりに解釈して比喩的に説明してみますと、むしろ、こういうことになるのではないでしょうか。--どこか小高いところに立って、群集全体の動きを見渡す。高いところから見るのですから、個々の人間の細かい動きはともかく、群集全体がどこからどこへ動いているか、その大筋がはっきりと分かるでしょう。その場合、個々の人間を、独自な個性的な動きをする人間として取り扱うことは当然二の次です。群集全体が自然と同じようなものになって動いているのですから、さしあたっては人間は物扱いにするほかはありません。ともかく、群集全体の動きを見定めて、方々に伝令を飛ばし、方向をいろいろ変えさせたり、止めたりしていくわけですね。その権限は、軍隊などのように、計画的な隊列を作らせることになるでしょうが、ともかく、こうして混乱は収拾されるでしょう。つまり、計画的に隊列を作って行進すれば、そうした混乱は起こりえないのだから、群衆に隊列行進という計画性を与えて、その混乱を解消していく。こうして、人間の「疎外」現象を解消していけばいいのだ。こうマルクスは言うのだと思います。これが彼の言う社会主義とその計画経済の意味するところでしょうが、それはともかくとして、社会的分業の自然成長性の結集たる「疎外」現象のために、人と人との関係がわれわれの目に物と物との関係として現れて来るような資本主義社会の経済現象を、科学的に認識するためには、このような意味で、人間の営みである社会現象を自然史的過程として捉え、自然科学と同じ理論的方法を適用することが必要ともなり、可能ともなるというわけです。」ここで語られていることの一つは、まずは群集を全体として把握するには、それを視野に入れられるだけの「高い視点」が必要だということだ。群衆に近づきすぎていれば、それは目の前の一部だけしか見ることが出来ない。群集から遠く離れることによってその全体像がやっと見えてくるというわけだ。「疎外」現象の場合は、個々の存在にべったりとくっついていては解決の方向が見えてこない。そこから離れることがまず必要なのだ。そして、ただ離れるだけではなく、全体像が見える場所にまで離れるということが必要なのだ。次に語られているのは、全体を把握した後に、その全体に働きかけることができる「権限」というものがなければならないということだ。いくら全体を正しく把握しても、解決する方向へ働きかけることのできる現実的な力がなければどうしようもない。これは、集団が大きくなればなるほど強い力、つまり権力というものが必要になる。さらに語られているのは、この現実の権力がうまく機能するための訓練された組織というものの必要性だ。具体的には軍隊というものが挙げられている。このようなさまざまな道具立てがそろって、ようやく全体の問題として捉えられた「疎外」が生み出す問題が解決される。ランダムな現象が集まって生じた「疎外」が生み出した問題は、このような手順を踏まないと解決が出来ないだろうということは論理的に納得がいくことだ。しかし、ここで何か引っかかりを持つ人もいることだろう。上の考察では、権力や軍隊の存在の意義と必然性が語られているが、それは全体の秩序を保つために個人を弾圧する方向へも働く可能性があるからだ。全体に生じた問題を解決するためには、高い視点から見ることのできる指導者と、その指導者の指導に基づいて動く組織と、それを動かせる権力が必要なことは分かる。しかし、その指導者の指導が正しいことはどうやって保障されるだろうか。マルクスの考え方は論理的にはたいへんすっきりしている。間違いのない方向だと思う。しかし、その正しさがもたらされるのは、指導者に間違いがないという前提があってのことだ。だが、社会主義国家の崩壊の歴史は、その指導者がほとんどすべて間違いを犯したということを証明してしまったのではないだろうか。マルクスの論理は正しかったが、その前提が現実的に正しくなることがなかった。これを修正できる考え方というのはあるのだろうか。大塚さんの考えでは、それはヴェーバーが考えたような社会学の方向ではないかということだ。宮台氏も語っていたが、マルクスは社会における経済を基礎的な土台として考えて、それ以外の人間的な営みを上部構造として、相対的に独立して動くこともあるけれど、本質的には従属するものとして捉えているが、社会学では経済だけに独立の地位を与えるのではなく、その他のシステムも同等なものとして位置付けて考えている。経済だけを他のものよりも重い存在にしてしまうと、経済権力を握った人間がすべてを支配するような体制が出来上がってしまうのではないだろうか。その場合は、その権力者が間違っていた場合に、その間違いを押しとどめる力が存在しなくなる。しかし、いろいろな方向に権力が分散すれば、それぞれが牽制しあって、ひどい間違いを犯すことは避けられるかもしれない。しかしこの場合は、群集のランダムな動きが問題を引き起こしたという構造は新たな形で残ることになる。今度の場合は、群衆ほど予測不可能ではないにしても、それぞれの部署で、その部署にとっての利益に基づいたランダムな動きが生じる可能性はある。これは、群衆ほどの量的な問題はないので、何とかコントロール可能な形にする可能性はあるかもしれないが、同じような構造が残るので問題が生じる可能性は残る。社会の問題というのは、実は根本的に終止符が打てるような解決というのはないのかもしれない。常に問題に対処することが可能なように社会を設計していくしかないのかもしれない。これが、最終的に求められる理想社会だなどという幻想にとらわれてはいけないのかもしれない。マルクス主義の間違いのもっとも深い根はこのようなところにあったのではないだろうか。社会の混乱という問題は解決されなければならない。破壊された秩序は、やがて個人にも不利益をもたらす。しかし、その秩序回復のために用いられた処方箋は、それによって必ずしも最終的な解決をもたらすものではなく、それもまた新たな問題を引き起こす可能性を常にはらんでいる。そして、その新たに発生した問題を正しく解決できる指導者は、また新たな人に求める必要があるのではないだろうか。古いやり方で成功した指導者が新しい問題に正しく対処できるかどうかは分からない。むしろ古いやり方を捨てきれなくて失敗する可能性のほうが高いのではないだろうか。権力者の問題というのは、優れた能力で社会の問題を解決して権力の座に着いた人間が、その権力の強さのゆえに失敗をしても権力者の地位を落ちることがないというところにあるのではないだろうか。人間の社会は、この問題を解決することが出来るのだろうか。民主主義は一つの解決の方向だっただろう。権力者個人が間違えているとき、大衆がその間違いを判断して権力者の権力を奪うことができるシステムが民主主義制度だろう。しかし、この制度がうまく働くためには、大衆の側が正しく判断するという前提が必要だ。さまざまな問題に対して、人間は多くの失敗を繰り返す。その失敗から何かを学び、問題解決の新たな方向を見出していくというのが人間の歴史だろうと思う。試行錯誤によって進歩していくというのが、常に生じてくる問題への正しい対処というものだろう。試行錯誤の重要性というものをもう一度深く考えてみたいものだと思う。
2007.03.01
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