全33件 (33件中 1-33件目)
1
今月の初めの台風21号は、まともに大阪にに上陸。強風で、うちの四半世紀前からある大きなバラの根が見えた。■二階のベランダに届く、大きな薔薇の木で、■そんなに手入れもしないし、肥料もやらないのに、いつも沢山の花を咲かしていたバラ。満開になったら咲いた花を、近所に配っていた。根が見えているといってもちゃんと土をかけ、毎日水をやれば、まだいけるだろう。でも、バラを処分することにした。今なら大きく張った深い根をを取り除く体力も気力もある。どんなに大事なものだって体力、気力のあるうちに処分しないと・・・。 数日かかって、取り除いたバラの枝と根を処分しながら■「老前整理、老前整理」■と呪文のように唱えた。*今月もめまいなし。*今年2月から5月まで、毎月あっためまいが、6月からない。ありがたい・・・。 ■2018年9月見た映画■*ゲンボとタシの夢見るブータン*寝ても覚めても*輝ける人生*英国総督最後の家*プロヴァンス物語 マルセルの夏*カメラを止めるな!■書き残したネタ■*イギリス旅行記*コッツウォルズ:イギリスにあった日本にないもの。*コッツウォルズ:日本にあったイギリスににないもの。*葛井寺と藤井聡太*会話力*妄想古民家カフェ「くるり」*大阪市営地下鉄の民営化*森友学園問題*漆の木・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.30
コメント(0)
■カメラを止めるな!■ゾンビ映画撮影のため、山奥にある廃墟にやってきた自主映画のクルーたち。監督は本物を求めてなかなかOKを出さず、ついに42テイクに至る。と、本物のゾンビが現れ撮影隊に襲いかかった。次々とクルーの面々はゾンビ化していくが、監督は撮影を中止するどころか嬉々として撮影を続行。37分ワンシーン・ワンカットで描くノンストップ・ゾンビサバイブムービーを撮った彼らとは……。 監督&俳優養成スクール、ENBUゼミナールのワークショップから生まれた異色ホラー。37分間にわたるワンカットのゾンビ・サバイバル映画の撮影に挑む俳優やスタッフの前に本物のゾンビが出現し、事態が混迷していくさまが描かれる。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2018で観客賞を受賞するなど、国内外の映画祭で話題となった。■メイキング making■ある映像作品を制作する際の過程を収録したものを指す。映画の撮影風景、コンサートの製作現場やリハーサル風景など。通常では一般の目に触れることが少ないため、そのメイキング自身が話題になることも多い。通常は作品の宣伝などに使用される。 漫画や映画を作るとき、ありえないような内容を描いて、オチが「ああ、夢だった」となるのがあるが、それをやってはいけないというのを聞いたことがある。この映画、それに似ていると思った。300万円使っていないといわれる低予算の作品で話題になったが、うーん、この映画は、なぜヒットしているのか私には分からなかった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.29
コメント(0)
■プロヴァンス物語 マルセルの夏■父がいた、母がいた、家族と友がいた。忘れ得ぬ、人生で最も美しい日々・・・。お針子と教師の間に生まれたマルセルは、幼いうちから読み書きに秀でた少年。やがて弟、そして妹も誕生したパニョル一家は、夏のヴァカンスを過ごすため、ローズ伯母とその夫ジュール伯父が借りている丘陵のヴィラに向かう。狩猟の名人である伯父は初心者の父ジョゼフを狩猟に誘う。マルセルが初めて目にする頼りない父親だったが、しかし彼はついにヤマウズラの王バルタヴェルを仕留める。やはり父はヒーローだった。マルセルは大いに自慢に思うのだったが、それはまた、夏休みの終わりを告げていた。マルセルは愛するこの丘と、ここで知り合った無二の大親友のもとに留まる策を見つけなければならない…。 フランスの小説家マルセル パニョルの少年時代の回想録を基にして作られた「プロヴァンス物語マルセルの夏」はマネやモネの絵画みたいな100年以上前のフランスを舞台にした映像が美しかった。時代は、19世紀末、20世紀はじめ。アール・ヌーヴォー、印象派(ポール・セザンヌ、クロード・モネなど)が活躍していた時代。大きな街には列車が走りだし、家にはガスが来ているところもあった。主人公の家には、母親がお針子だったこともあってかミシンがあった。パスツールは細菌を発見し、世の中は新しく始まった世紀に大きな期待を持っていた。小学校の教師をしているマルセルの父親も「20世紀には、家に電話がつく」とクラスの子どもたちに言っていた。しかし、実生活はまだまだ19世紀の続きで、荷馬車での移動や食事のシーン、母親の長い丈のスカートや結った髪、マルセルのセーラーカラーの服など、当時としては、当たり前のことが、いちいち美しい。 キッチンの道具や、カフェオレのボールなど、昔の物が好きな私にはたまらない。セピア色を帯びた、まるでモネなどの印象派の絵画の様な美しい映像に魅せられた。物語は、マルセルの誕生から始まり、普通の暮らしを描いている。ナレーションが大人になったマルセルなので、少年の日の当たり前の風景は二度と戻ってこないと切なく、ノスタルジーに浸る。「少年時代」という歌を思い出した。■少年時代■夏が過ぎ 風あざみ誰のあこがれにさまよう青空に残された 私の心は風模様夏まつり 宵かがり胸のたかなりにあわせて八月は夢花火 私の心は夏模様夏が過ぎ 風あざみ誰のあこがれにさまよう八月は夢花火 私の心は夏模様 何度でも見たい、1990年の作品。*マルセルの弟がかわいかった♪・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.28
コメント(2)
空を背景とした山岳や建築物の輪郭線や地平線、スカイライン。1990年代の前半■みどり学■という講座を受けた時、都市のスカイラインという言葉を知り、ずーっと心にとどめていた。ロンドンのスカイラインといえば、建物の高さが揃っているこの建物のようものを思い浮かべた。そんな中で、1999年末に出来たロンドン・アイは、ロンドンのスカイラインを壊し、都市の美観を損なうものだと今も思っている。2010年にロンドンに行ったとき、ロンドン・アイには行かなかったのは、そんな理由からだった。ロンドン・アイが許せなかったのだ。「みどり学」講座の講師は「みんなは、チャールズ皇太子を悪く言うけれど、私は彼を評価しています。」と笑いながら言った。当時、チャールズ皇太子は、ダイアナ妃と不仲で世間から悪者のように思われていた。チャールズ皇太子は、ロンドンの街並みの正しいありようと、乱開発で壊される街のスカイラインを嘆き怒っていたという。 ■チャールズ皇太子は■激しい口調で、当時ビックバンに湧くシティの乱開発について批判し、当時のシティの都市景観は、ナチスの空爆によって破壊された戦後のシティのスカイラインよりも遥かに酷いもので、「Rape of Britain」 だと糾弾したのである。チャールズ皇太子のシティのイメージは、丁度セント・ポール寺院が軍艦のように洋上に浮かんでいるシティなのだが、既に周りの色々な高層ビルが寺院を威圧してしまっていた。それに、悪いことに、イギリスの開発許可は、個々のプロジェクト毎に認可されるので、そのデザインについては統一性がなく、各個区々なので都市景観の統一性がないために、パリのように都市そのものの纏まりがなくて美観に欠ける。その後、BBCがチャールズ皇太子のこの見解に沿った特別番組を放映し、チャールズ皇太子がテームズ川を行く船上から、「あの建物はパソコンみたいで景観を害する・・・」等々問題の建築物を一つ一つ批判したのである。同時に、「A VISION OF BRITAIN A Personal View of Architecture」1989.9.8が出版されたので、チャールズ皇太子の一石が、英国建築界とシティ開発などに大きな波紋を投げかけて大論争になった。 「みどり学」の講師が言っていたのは、チャールズ皇太子が書いた「A VISION OF BRITAIN A Personal View of Architecture」のことだろう。 みどり学講座でチャールズ皇太子の話を知ってから私は、彼のファンになった。 1999年末に造られたロンドン・アイは、当時、ロンドンのスカイラインを壊し、ロンドンの景観を壊すと反対運動があった。だから5年の期限付きで造られたのだ。 そんな中、パリは、景観を重視した街づくりをしている。■パリの大観覧車、「歴史的景観」保護のため撤去へ!■【AFP=時事】仏パリの市議会は、パリ版「ロンドンアイ(London Eye)」とも呼ばれる大観覧車「グランド・ルー(Grande Roue)」の撤去をほぼ満場一致で決定した。日本も、チャールズ皇太子のように都市の景観を考えるセレブが出てほしいものだ。■ニッポン景観論■は面白い!!その時に聞いたのが永井荷風や鏑木清方などの景観論。 失われゆく江戸の残り香を愛惜し、横丁や路地に詩情を見いだす荷風ロマンチシズムの粋。 「もし今日の東京に果たして都会美なるものがあり得るとすれば、私はその第一の要素をば樹木と水流に俟(ま)つものと断言する。」「日和下駄」読んでみたい。 鏑木清方の本も講師のおススメ。「・・・私の一ばん関心をもつものは、建物が四ないし五、六割までで、あとは土と草と、木と水と、そういう総合美から成り立たせた住宅街、高層建築もそこだけには除いて・・・。」今度、絶対に読もう。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.27
コメント(2)
今から60年以上前、私が子どもの頃の岡山のいなかの話。 子どもの頃、私は、台風が好きでした。いつもと違う緊張感に、つつまれて過ごす夜。そして台風の去った後のお楽しみ。大水の出た、台風の翌日、川原に近い畑に行きます。川原の近くの畑は2枚。そのうち低い方は、昨日の雨がまだ溜まっています。 ひとりがソウケ(目の細かいザル)を受けて、もうひとりが、水溜りをバシャバシャと音をたてて、歩きます。すると、魚がおもしろいようにとれるのです。 大水は川を越え川原を越えて、近くの畑まで入り込み、それにつられて魚が畑まで入ってきたのです。 子どもたちが、魚を追い込んでいる間に、上の畑で、父が鎌でサトウキビをきってくれます。噛めば、ジワッと甘い汁が出るサトウキビは、子どもの大好きな夏のおやつ。魚が食べられるし、サトウキビは甘いし・・・。 川原や田畑という*遊水地*があった頃、台風の残して行くものは、負のものばかりではなかったのです。**遊水地(ゆうすいち)**降った、雨の一時預かりのような所。田畑、池、川原、などなど。 現在それらは、埋め立てられたり、「開発」されて家が建ったりしています。 川原も、草が生えている方が、今の3面コンクリート張りの川よりも保水能力が大きい。■2002.8.20■を少し変えて書き直しました。温暖化であの頃よりも、台風の数が増えたような・・・。あの頃は、台風の後には、魚をとる他に、強風で落ちた■あたり梨■を買いに行ったりまだ青い■椋の実を拾ったり ■・・・。田んぼの被害など、大人たちには、決して喜んでいられない台風も大人たちに守られ子どもだった私は、台風さえも楽しく暮らした。■「小屋が潰れとる」 ■*台風の被害にあわれた方にお見舞い申し上げます。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.26
コメント(2)
■2018.7.11(水)ロンドンの宿、エンリコ・ホテルでは、パン、ヨーグルト、果物、コーヒーなどの中から選ぶ朝食スタイルで、温かいビーンズ、ソーセージ、卵、ベーコンといフルブレックファーストではない。■2016年に行ったスコットランドのキルマイケル ハウスB&B■も冷たい朝食だったが、それ以外では、なかったような。 朝食後、8:55、宿を出て徒歩で、ビクトリア駅の近くの「オリジナルツアー」のバス停に着く。この日は、ロンドンパスを使って市内観光する。▲テレビ局。■ロンドンパスは■乗り降り自由な一日観光バスツアーで、60ヶ所以上あるロンドンの観光スポットで自由に利用できる観光パスです。バスにいろんな言語があって日本語を選択。街並みを見ながら、サウスバンクスとよばれる地域に。「サウスバンクス」は、テームズ川の南にあり、観光スポットが集まっている。「ロンドンアイ」は、その中の目玉。ロンドンの中でも1位、2位を誇る人気のこのアトラクション。「ロンドンアイ」はヨーロッパ一大きな観覧車。一つのカプセルは、25人も乗れるほど大きく、ゆっくりと30分かけて回る。1999年末に登場したロンドン・アイ。ミレニアム記念として作られたので、はじめは5年のみの営業予定だったが人気の高い観光地となったため恒久的な施設となった。▲観覧車の中から見た景色。▼▲観覧車の中から見た景色。▼ロンドン・アイを降りて対岸から観光船に乗った。これもロンドン・パスの料金に含まれている。船を降りてから、ロンドン塔に。(▲ロンドン塔になぜか、象の作り物が・・・。)■ロンドン塔は■1066年にイングランドを征服したウィリアム征服王が1078年にロンドンを外敵から守るために堅固な要塞の建設を命じ、約20年で現在のホワイト・タワーが完成した。1066年にイングランドを征服したウィリアム征服王といえば、■へイスティングスの戦いの王。■ウィリアム征服王からイギリスの歴史が始まったというがここにも足あとがある。▲大砲までも美しい。▼18:00、宿に戻る。◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.25
コメント(0)
■2018.7.10(火)この日は、アッシュフォードから電車でロンドンに向かう日。荷物が多いので、B&B「コーナーストーン」からタクシーでアシュフォード駅に向かう。切符は、昨日買っておいたので、乗り込むのみ。まずカフェでのんびりしてから、ホームに。10:32 アッシュフォード駅発、ロンドン・チャーリング・クロス駅行の列車に乗る。列車の中から「ロンドンアイ」が見えてきた。そして、チャーリングクロス駅に到着。ロンドン、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!(荷物が多い人はここから出る。)11:50に、ロンドン・チャリングクロス駅に着く。荷物が多いので、チャーリングクロス駅からヴィクトリア駅近くのB&Bまでタクシーに乗った。▲ロンドンのタクシーは、向かい合わせに座る。▼12時半ごろエンリコホテルに到着。この日から7日間ここに滞在。チェックインは3時なので部屋には入れないがスーツケースなど荷物は預かってもらい外出。ビクトリア駅のオフィスで、オイスターカードとロンドンパスを買う。■オイスターカード■は、現在、ロンドン交通局 (Transport for London, TfL) が運営するロンドン市内のすべての地下鉄、バス、DLR、トラムリンク、オーバーグラウンドで利用可能なほか、一部のナショナル・レールでも使用可能である。乗車(もしくは、乗車と降車の両方)の際にカードを改札機の読み取り部にタッチして、精算を行う。ロンドンパスも勧められて同時に2日分のを購入。便利な割引特典つきの観光パス。ケンジントン宮殿やロンドン塔、ウェストミンスター寺院といった人気のスポットが無料・割引になったり、優先的に入場できるヴィクトリア駅にあるカフェでランチ。そのまま、ロンドンをうろつく。ロンドンの街は、どこを向いても美しいものであふれている。建物の高さや色が揃っているのが、美しさの原因なのか。▲ヴィクトリア・コーチ・ステーション。アールデコスタイル!イギリスではアールエコは20世紀になってからの新しいスタイルだからはじめて見た。ここから、イギリス国内、ヨーロッパまでも行くことが出来る。▼夜も明るいので19:30分にホテルに帰った。スーパーで買った食材で夕食。部屋は狭く、ネットが出来ないので、ネットの繋がるダイニングルームで過ごす。はじめはロンドンでこのホテルで4泊、もう一つ別のホテルで3泊の予定だった。しかし、私が、同じホテルの方が効率的と提案したのが裏目に出た。ネットの繋がらない狭い部屋で1週間過ごすのはつらいけど、仕方がない。エンリコホテル・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.24
コメント(2)
■2018.7.9(月)■ストラトフォード・アポン・エイヴォン■で、レンタカーを借りたのが6月12日(火)、4週間が過ぎた。この日は、ドーバーのB&Bから、アシュフォードまでラストランだ。ドーバーで泊ったB&Bは、高台にあり見晴らしはいいがスーツケースを持って上がるのは大変だ。B&Bのご主人が手伝ってくれた。 朝食の後、出発。途中、洗濯をするために、B&Bで聞いていた、ランドリエッタに行く。(コインランドリーは日本語。)ランドリエッタの前は、駐車禁止なので洗濯をしている間、スーパー、「モリソンズ」へ。チーズ、果物、パン・・・。今回の旅行中、何度も何度もスーパーに行って買った袋を車に積んでB&Bへ帰ったけどそれも今日で終わり。もう一回、コインランドリーに行って、乾燥。また、スーパーへ。スーパーの駐車場で見かけた車は、自動車教習所のものだろうか?洗濯終了後、アッシュフォードに向けて出発。アッシュフォードのB&B「コーナーズ・ストーン」に着いたのは、お昼前。事前に、レンタカーの返却の件でメールしていたので、オーナーとすぐに話が通じ、チェックインできた。(▲部屋への階段部分の壁)老舗のB&Bという感じ。部屋で、一休みししてから、車の返却に向かう。▲車をかえす前にガソリンを満タンに。▼ハーツ・レンタカーの店舗はアシュフォード駅にあった。途中道が大幅な工事をしていて、大変だったが、なんとか無事返却。(▲この車は私たちの車の前に止まっていた。)28日間の全走行距離は、1530マイル=2448㎞。レンタカーでの旅、無時終了。駅内で、明日のロンドン行きの列車のチケットを購入する。そして、歩いて、宿に向かって歩き出す。▲歩いていると、「1918」「1945」と書かれた門を発見!▼中を見ると公園になっていた。▲1914、▼1918、って第一次世界大戦の始まった年と終わった年だ。「アッシュフォード・メモリアル・ガーデン」戦争記念なのだろう。公園を後に、B&Bに向かったが、途中、遅い昼食をとった。アシュフォードは、観光地ではないが、街は緑がいっぱいで美しい。「アッシュフォード」って、ここも浅瀬の川があるのだろうか。■トリビア・フォード■泊ったB&Bは、緑の広場みたいな街の裏側にあり、入口はここ。この路地を入ると「コーナーストーン」B&B。日本では、先日から豪雨。長女の連絡によると、7月6日が一番大変だったようで家族中休んだという。次女は、電車が運転見合わせのため、職場からバスで家まで帰った!という。「コーナーストーン」B&B。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.23
コメント(0)
■2018.7.8(日)■ドーバー城■を見た後、「ドーバーの白い崖」を見に行った。ドーバーの崖を歩く前に腹ごしらえ。▲カフェの前で海を見ながら持ってきたものを食べている人もいた。▼■ドーバーの白い崖は、■ケント州のドーバー海峡に面している有名な断崖である。ロンドン南方を東西に横切る低丘陵地帯ノース・ダウンズの東端にあたり、断崖の高さは110メートル(350フィート)に達する。断崖は主にチョーク(白亜)で構成されているため白く見え、所々に黒い燧石が混ざる。断崖の一部は途切れ、古代から重要な港湾であるドーバーの港がある。 ▲ここは、ナショナルトラストが管理している。イギリス海峡の最も狭い部分でヨーロッパ大陸に対峙しているドーバーの白い崖は、イギリスにとって象徴的な存在である。歴史的に大陸からの侵略に脅かされてきた地であり、断崖は侵略に対抗する象徴的な防壁となった。また、飛行機の時代が到来するまではドーバー海峡が大陸との主要交通路であったため、白い断崖はイギリスを訪れる者が最初に見るイギリスの景色であり、同時にイギリスを去る者が最後に見る景色でもあった。白い断崖は対岸のヨーロッパ大陸から視認でき、イギリスの通称「アルビオン」(ラテン語で「白い」の意味の「albus」が語源。)の由来となった可能性がある。 ▲船がひっきりなしに通っていた。1972年、初めてイギリスに来たときは、オステンドからドーバーの船に乗った。その次からは飛行機。2010年、ロンドンからパリに行ったときは、■ユーロスター■を使ってドーバーの海底を通った。■その頃、イギリスで暮らしていた■次女のレイは、パリからコーチ(バス)でロンドンに帰った。ヒースウッド・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.22
コメント(2)
■2018.7.8(日) ☚へイスティングス城にて。■ドーバー城:はじまり■1066年10月14日、ドーバーより南に行ったヘイスティングスの戦いで、イングランド王ハロルドに勝利した、ノルマン人の征服王ウィリアムは、10月21日にドーヴァーへたどり着き、町を燃やし、8日間ドーバーにとどまって、防御用の要塞を築く。やがて、ウィリアムは、カンタベリーへ赴き、その後、クリスマスの日に、ウェストミンスター寺院で、イングランド王ウィリアム1世として戴冠するためにロンドンへ。これから約20年後の、1086年の土地台帳(ドゥームズデイ・ブック)には、ドーバーには課税の対象となり得るものがほとんど記帳されておらず、ウィリアムによる破壊の度合いがかなりだったのではないかという事。また、ドゥームズデイ・ブックには、ドーバー城も記帳されていないそうで、当時、この場にどのような要塞が建てられていたかは定かでないようです。■ヘイスティングスの戦い■■ドーバー城:歴史■ドーヴァー城の現在の姿の基盤を作るのは、ヘンリー2世(在位1154~1189)。王の影響力から隔離された、教会と聖職者の持つ特権をめぐり、*カンタベリー大司教であったトマス・ベケット*と、ヘンリー2世は大喧嘩。結果、1170年、ヘンリー2世に忠誠を誓う4人の騎士によって、ベケットはカンタベリー大聖堂内にて暗殺。死後、瞬く間に、奇跡を起こす聖人として、イングランドのみならず、キリスト教世界全土にその評判が広がり、カンタベリー大聖堂への巡礼者は、ヨーロッパからもわんさと押し寄せるようになるのです。ヘンリー2世が1180年から、イングランド内の他のどの城の建設よりも大きな金額を注ぎ込んで、ドーバー城を建設させたのは、このカンタベリー巡礼を目当てに、ヨーロッパからやってくる主賓を迎えるにふさわしい場所を設けるためであったと言われています。フランスにも広大な領土を有していたヘンリー2世ですが、フランスへ出かけるときは、彼はドーバーではなく、ポーツマス、サザンプトンの港から出港しており、またドーバー周辺には狩猟ができ、大量に食用の肉、薪などが確保できるフォーレストも無かったため、王自身と宮廷が長期滞在する場所では無かったようです。いずれにせよ、ヘンリー2世が、フランスで死亡した時(1189年)には、ドーバー城は、まだ完成していません。20世紀の第一次世界大戦ではドーバーは英仏海峡防衛の中心となった。第二次世界大戦の間には市街がドイツ軍の爆弾と長距離砲による絶え間ない爆撃を受けた。■ダイナモ作戦は、■第二次世界大戦のダンケルクの戦いにおいて、1940年5月26日から6月4日にかけて行われた、連合軍の大規模撤退作戦のイギリス側コードネームである。イギリス海軍中将バートラム・ラムゼイが本作戦を計画し、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(ダイナモすなわち発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから名づけられた。▲地下の野戦病院。9日間に、860隻の船舶が急遽手配され、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)をフランスのダンケルクから救出した。この“小さな船たちの奇跡”はイギリス国民の心に深く刻まれ、大いに士気を高揚することとなった。▲戦争の間、ドーバーの崖の下の洞窟やトンネルは防空壕として使用された。▼▲地下ツアーがあって内部を見ることが出来る。 ▲地下トンネル内のスペース。▼■映画ダンケルク■■人生はシネマティック■など、「ダイナモ作戦」をテーマにした映画を見たので当時のことがよく分かった。■現在ではドーヴァー海峡を■泳ぐスイマーたちの目印であり、渡り切った暁には城下のパブで祝杯を上げるのが通例となっているという。☝カンタベリー大聖堂**カンタベリーが巡礼地として脚光を浴びたのは12世紀。**きっかけとなったのは、大司教トマス・ベケットにまつわる奇跡の物語。国王と対立の末、カンタベリー大聖堂の中で暗殺されたベケットが、死後、難病や大けがに苦しむ人々のもとに現れ、治してくれたという話が広まり、世界各国から巡礼者が訪れるようになったのです。カンタベリー、ヘイスティングス、そしてドーバー・・・。このあたりは、イギリスの歴史の宝庫だ。Heathwood・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.21
コメント(0)
♪チャンチャカ、チャカチャカ、チャンチャンチャン・・・(某国営放送の料理番組の音楽)みなさん、こんばんわ。天地 はるなの■「ごちそうさん歌」■の時間がやって来ました。■今年4月21日から5月1日に行ったスロベニア・クロアチア■のお土産にポルチーニ茸を買ったのですが、先日、やっと料理しました。参考にしたのは■このサイトさん■です。では、さっそく、材料から・・・。■乾燥ポルチーニ茸のクリームパスタ■■材 料 (2人分)■*乾燥ポルチーニ茸 5gから9g (私は10g使用)*戻し水(ぬるま湯 150cc )*牛乳 200cc *小麦粉 大さじ2 *玉ねぎ 半玉 *シメジ 半株 *オリーブオイル 大さじ1 *スパゲティ 200g *ささみ(無くてもよい 1本 *コンソメ 小さじ1/2 *塩胡椒 お好み■作り方■1.乾燥ポルチーニ茸を水又はぬるま湯で戻しておく。30分以上。 美味しいダシがでます。 使うので捨てないで。 2.玉ねぎ 半分を薄切りに。 ささみ1本は筋をとって小口切りに。3.しめじは半株を下処理してほぐしておく。 小麦粉大さじ2杯を測っておく。 4.ポルチーニは絞り別のお皿へ。 残っただし汁を計量カップへ。 水を足して150ccにして牛乳を入れる。合わせて350cc 5.フライパンにオリーブオイルを入れ玉ねぎとささみを中火で焦がさないように炒める。6.玉ねぎがクタクタになったらシメジと小麦粉を入れる。 粉っぽさが無くなるまで中火で焦がさないように炒めて。 7.4のだし汁MIXを4.5回に分けてフライパンに入れる。 入れる度にしっかりと混ぜ合わせてください。中火。8.混ぜ終わったら絞ったポルチーニ茸、コンソメを入れお好みの硬さまで煮込む。9.パスタを茹で、塩胡椒で味を整えたソースにあえて出来上がり。 イタリアンパセリなどがある場合は飾ると綺麗です。 10.※ささみはなくても大丈夫です。 ボリュームを出したい時だけ入れます。 シメジの他にマッシュルームでも美味しく出来ました。 「きのこの王様」とも呼ばれるポルチーニ。食べるのも、料理するのも初めてでした。私は、ささみを入れなかったのですが(肉を食べないので)美味しかったです。(^~^)ボルチーニ茸以外は、家にあるものばかりなのですが、ボルチーニ茸がもっと安ければいいですね。 それでは、また、お会いしましょう・・・。♪チャンチャカ、チャカチャカ、チャンチャンチャン・・・。 茸(きのこ)たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして■石川美南■■イギリスで謎の石のキノコを発見!■■過去のごちそうさん歌■■お好み焼き■■酢醤油卵■■鯖サンド■■大根と豆腐の炒め物■■牛肉とじゃがいものバルサミコ酢煮■■さんまとネバネバ野菜の酢の物■■筍の甘からおかか炒め■■緊急時のオイルサーデン料理■■筍のツナ缶料理■■小松菜とチリメンジャコのたいたん■■冬瓜とろとろ☆中華ステーキ■■玉ねぎパン団子■■簡単料理に愛を添えて■■にぬき■■ツクシ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.20
コメント(2)
■2018.7.7(土)■日中、カンタベリー市内を見て回ったが■あまりにも暑かったのでいったんB&Bで眠って4時過ぎからまた市内を回った。ウェスト・ゲート(西門)のそばに川が流れている。▲川の両側が公園になっている。ウエスト・ゲートガーデンだ。▼西門のすぐそばの橋の上から見ると右側に船着き場があり、客が乗り降りしていた。カンタベリーは田舎の小さな街なので自然が豊かです。私のおすすめは、カンタベリー市街の入り口ウェストゲート(West gate)のところを流れる小さな川に沿ってできた庭園、ウェストゲート庭園(West gate garden)です。緑がとても豊かで、夏が涼しいイギリスでは長期間きれいなバラが咲いているのを見ることができます。ウェスト・ゲートのすぐ前を流れるのは、スタワー川(River Stour)。この川岸が、ちょっとした公園(ウェスト・ゲート・ガーデンズ)となっていて、花壇が綺麗。帰りに、電車の時間を待つ間、ここのベンチでのんびり、なんていうのもいいかもしれません。川の一部にこんなところがあった!川底がレンガのようなもので平らになっている。■フォードだ!!■●フォードは、(歩いて渡れる)浅瀬。地名にあるフォードは、(歩いて渡れる)浅瀬を意味する。ストラトフォードは、ストラト(古英語のストリート)の浅瀬。オックスフォードという地名があるが、「牡牛の渡る浅瀬」。 帰ってから調べてみたら、日本では「洗い越し」といい方をするそうだ。街中でカフェのかわいい看板を見つけた!!入らなくても看板だけもこんなのを見るとパチリ♪この日のランチは「ワガママ」という名前のレストランで。私は餃子を食べた。ランチは餃子のみ。毎日よく歩き、小食だったから痩せた。もちろん、帰国したらすぐ元に戻ったけど・・・。_| ̄|○ザ シティ オブ カンタベリー・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.19
コメント(2)
■2018.7.7(土)街中が世界遺産という■カンタベリー■に行った。カンタベリー (Canterbury) は、イギリス・イングランド南東部ケント州東部に位置するシティ・オブ・カンタベリーの中心エリア。中世から代表的な巡礼地として栄えてきた。 「ウエストゲート(West gate)」という門がカンタベリー中心部への入り口。街の西にあるこのゲートタワーは町の玄関とも言える場所に堂々と立っている。昔のロンドンからの巡礼者はこの門をくぐりカンタベリー大聖堂へと向かった。ウエストゲートはイギリスで現存する最古の門で、今もなお実際に通行ができる大変貴重なものです。現在の門は630年以上もの歴史がありますが、最初に建てられたのは何と紀元3世紀。この頃、古代ローマ人たちが町を守るために造られました。(▲門の向こうが旧市街地。)その後、1380年代にフランスからの侵攻を防ぐためにより強固に造りかえられ、現在までその姿を維持しています。(▲新市街地?門の近くの八百屋さん。)この門を抜ける道が、そのままカンタベリー市街の目抜き通りへとつながっている。▲門の近くに川があって、川沿いに駐車場がある。▼この川の周りには、イギリスらしい昔ながらの家々が美しい状態で保存されています。▲カンタベリー大聖堂の門▼そのカンタベリーが、この「カンタベリー大聖堂」で、カンタベリー観光には外せないスポット。街の中心に位置する荘厳な大聖堂は、内部も圧巻で一見の価値ありです。外観も内装も精巧に作りこまれた大聖堂を見ていると、巡礼者たちが憧れ目指す聖地というのも納得できるでしょう。美しいステンドグラスを眺めるには天気のいい日中が最高ですが、夕暮れの大聖堂も素敵です。■聖オーガスティン修道院遺跡■現在、聖オーガスティン修道院の遺跡は世界遺産に登録されており、イングリッシュ・ヘリテッジに管理されている。 今日の修道院遺跡はカンタベリー大聖堂の東側のかなり広い範囲に及んでいるが、かつて修道院の全盛期には、修道院付属教会は近隣のカンタベリー大聖堂とその規模を競っていたのである。 しかし16世紀には修道院解散命令が出て、以降は宮殿として貴族たちに貸し出されましたが、18世紀以降になると廃墟となってしまいました。現在は、聖アウグスティヌスがもたらした歴史的功績をたたえて、ユネスコ世界文化遺産にも登録され、多くの観光客が訪れるスポットとなっています。マーティン教会は、世界遺産のひとつ聖オーガスティン修道院より徒歩で約5分にひっそりと佇む石造りの趣ある小さな教会です。イギリスで現在使用されている最古の教会で、イギリスの宗教史にとても重要な役割を担った教会です。▲マーティン教会の門▼6世紀にローマ教皇のグレゴリウス1世からキリスト教布教のために派遣された、アウグティヌスが同所を起点として布教活動したことでも知られています。アウグティヌスが 597 年に布教活動に訪れる前にケント王妃のベルタの私的な礼拝堂として建てられました。建設時期はローマ占領時代が終わった4世紀半ばだと考えられています。教会の基礎部分の煉瓦や教会内にあるタイルの壁などは古代ローマ時代のものです。 イギリスを代表する作家チョーサーの代表作である「カンタベリー物語」。■カンタベリー物語■は14世紀を生きた英国の詩人、ジェフリー・チョーサーが書いた物語集。カンタベリー大聖堂へと巡礼の旅にでかける一団が、道中の退屈しのぎに、それぞれが知っている物語を次々と披露していく様子をえがいています。■カンタベリーが巡礼地として脚光を浴びたのは12世紀。■ きっかけとなったのは、大司教トマス・ベケットにまつわる奇跡の物語。国王と対立の末、カンタベリー大聖堂の中で暗殺されたベケットが、死後、難病や大けがに苦しむ人々のもとに現れ、治してくれたという話が広まり、世界各国から巡礼者が訪れるようになったのです。現在は、ゴシック建築の最高傑作と称される大聖堂や、中世の美しい街並みが広がる旧市街を一目見ようと、世界中から大勢の観光客がやってきます。(☚街に立っていた人形)カンタベリー大聖堂、聖マーティン教会、聖アウグスティヌス修道院跡は、とともに、世界文化遺産群に指定されているということで、予定は消化した。この日、カンタベリーは、最高気温29度、最低16度だったとか。昼食後、B&Bに戻って16:30まで、休憩。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.18
コメント(2)
■2018.7.6(金)早朝、B&Bの周りを歩くと霧のリーズ城。その後、オーディオガイドを借りて城の中を見学した。■リーズ城は「the loveliest castle in the world世界で最も美しい城」■という惹句で語られている。実際リーズ城を訪れると、世界一と言い切ってしまうのは大袈裟な感もあるのだが、ヘンリー8世が行った大改築後のリーズ城は、確かにヨーロッパ随一の名城であったに違いない。ただ、その当時の名城の大部分は失われる運命をたどった。 16世紀に王族の手を離れた後のリーズ城は、20世紀に至るまで貴族階級である城主の手を渡っていくのだが、城には常に維持費と相続費の問題がつきまとっていた。時代が変われば変わるほど、城の存続は厳しさを増すばかりで、城は、英国中に散在する廃墟の城と同様、ただただ風化していくのを待つばかりに見えた。そこに救世主のごとく現れたのがオリーヴ・セシリア・パジェット――。後に「ベイリー夫人」としてリーズ城の歴史に欠かせない存在となる人物だ。オリーヴが初めてリーズ城を訪れたのは1926年。リーズ城をひと目見たときからその壮麗さに心奪われていたオリーヴは、1926年にリーズ城を18万ポンド(現630万ポンド=約9億5000万円)で購入。新聞王ハーストでさえ手を出さなかった曰くつきの物件を若干26歳の若妻が射止めることができたのには、彼女の類まれな蓄えによるところが大きい。もともと裕福な家庭に生まれ、金銭的には何の不自由もなく育ったオリーヴだが、その後も財運の女神に終始守られ、求めずとも豊かな富が流れ込んでくるような一生を送った。そして、自分の愛するもののために際限なく、その資産を注ぎ込んだのである。念願の古城を手にしたオリーヴは、自らの審美眼を試す絶好のチャンスを得て心躍らせたに違いない。自分好みの「マイホーム」になるよう、修復にあたってはさまざまな設計案、改築案を積極的に出したという。 若かりし頃にフランスで教育を受け、フランス文化に精通していた彼女は、当時国際的に活躍していたパリの建築デザイナーであり、室内装飾家のアルマン・アルベール・ラトーArmand-Albert Rateauをこの大修復の監修役に起用する。▲窓の下にある鉄の飾りのようなものは、暖房設備を隠すために考案された。▼また、この頃からリーズ城の内装を手がけ始めたフランス人室内装飾家のステファン・ブーダンStphane Boudinとも強い信頼で結ばれ、城をより美しくするための「共同作業」は、30年にも及んだ。ブーダンは、ホワイト・ハウスの内装を手がけたことで有名な、当時のインテリア界の大御所であった。ともに完璧主義の2人は意気投合し、各々の部屋について、床、壁の色調、家具、細部の装飾などが吟味され、さらに各々の部屋が全体として調和を奏でるよう計算し尽くされた。▲バスルーム。バスタブ▼(▲バスタブについているカーテンって、これから考えられたのだろうか?)リーズ城が、類まれな財産家であり、優れた審美眼を備えたベイリー夫人という人物に見初められ、蘇ったことはきわめて幸運なことだったといえよう。これにより、城は王宮だった中世の頃の品格と威厳を恒久的に持ち続けることができたのだ。週末の宴に招待された30名ほどの招待客は、金曜の夜か土曜の朝に車かチャーター便で到着し、土曜の朝食後はテニスやゴルフ、スカッシュ、乗馬、堀でのボートやスケートを楽しんだ。招待客の中には著名な政治家はもちろんのこと、ウィンザー公爵エドワード王子とウォリス・シンプソンや、ケント公ジョージ、ルーマニア王妃などを含む王族の他、ベイリー夫人が映画ファンだったことから、チャーリー・チャップリンやジェームズ・スチュアート、ロバート・テイラーなどの銀幕のスターたち、歌手や作家などが含まれていた。ベイリー夫人の、フランス仕込みの身のこなしや趣味の良さがゲストたちに受けたのは言うまでもない。ザ シティ オブ カンタベリー・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.17
コメント(2)
■2018.7.5(木)■シシングハースト・カースル・ガーデン ■を見た後、リーズ城に行った。この日は、外から眺めるだけ。(▲堀にかかった橋。)リーズ城の起源は9世紀に遡り、もともとはノルマン征服以前のサクソン人が所有していたものだった。1090年、ウィリアム2世が■ヘイスティングズの戦い■での功績を称え、従弟であるノルマン貴族に与え、12世紀になって石造りに建てかえられた。王族の所有となったのは13世紀のエドワード1世の治世で、王妃エレナーに献上され、王宮となった。その後、エドワード1世の後妻のマーガレット王妃に寡婦産(未亡人が相続する夫の財産)として譲渡されてからは、未亡人となった王妃が所有権を持つという慣習が始まり、エドワード2世のイザベラ王妃、リチャード2世のアン・オブ・ボヘミア王妃、ヘンリー4世のジョーン・オブ・ナヴァール王妃、ヘンリー五世のキャサリン・オブ・ヴァロア王妃などが所有および居住したため、「貴婦人の館」の異名を持つ。これら王妃のうち3人がフランスの王女だったため、フランス王室らしい室内装飾が施されるなど、中世を通して優雅さと気品に満ちた城だったことが伝えられている。リーズ城のシンボル「黒鳥」は、ベイリー夫人により初めてイングランドに持ち込まれた。鳥をこよなく愛していたベイリー夫人(20世紀になってからの城の持ち主)はドイツ、オランダ、ベルギーなどのヨーロッパ諸国はもちろん、南アフリカ、マダガスカル、オーストラリアまで自身で買い付けに出かけ、100種もの鳥を集めた。鴨池には珍鳥を含め、さまざまな水鳥が放し飼いにされている。そして、城の敷地内にある「リーズ城B&B」に一泊。ウサギのブックスタンドがある窓の下には▲美しい庭園が広がっている。▼▲珍しい草花で構成されている。▼▲庭には、クジャクが放し飼いにされていて大きな声で鳴いたり屋根に飛び上がったりと賑やかだった。▼翌日の朝食はバイキングスタイル。お茶のサービス券があったのでお城の見えるカフェでくつろいだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.16
コメント(2)
■2018.7.5(木)シシングハースト・カースル・ガーデン (Sissinghurst Castle Garden)は、イギリス、ケント州にある庭園。現在、ナショナル・トラストが所有し管理を行っている。シシングハーストの庭園がつくられたのは、1930年代、詩人のヴィタ・サックヴィル=ウェスト、彼女の夫で作家・外交官であったハロルド・ニコルソンによってである。(▲井戸のある風景。)ヴィタはブルームズベリー・グループの仲間である作家で、『オブザーバー紙』の園芸記者としてウィークリー・コラムを執筆し大きな人気を得ていた。そのため偶然にも(彼女は自分から売り込みを行ったことはなかった)、ヴィタ自身の庭が有名になったのである。シシングハーストの庭園は、イギリス全土において最も愛されている庭園の1つで、世界中から観光客を集めている。庭園そのものは、色やテーマによって異なる特徴を持ち、高く刈りこまれた垣根や多くのピンク色のレンガ壁で仕切られた、各々のルーム(room)の連続として設計されている。(▲堀と東屋(パビリオン))▲パビリオン(東屋)について書いてある。(▲木々に囲まれた美しい散歩道。)シシングハーストの土地は古くからある。ハースト(hurst)とはサクソン語で『囲まれた森』を意味する。防衛用に備えられた3つの堀を持つマナーハウスは、この地に中世に建てられた。ヴィタとニコルソンがシシングハーストを知ったのは1930年であった。2人がセヴンオークス近郊のロング・バーンに持っていた土地が、自分たちの管理が及ばないほどの開発が迫っていることを憂慮した後である。▲牧場へと続く。▼ シシングハーストは人の手が入らず遺棄された状態だったが、2人は邸宅の廃墟とその周辺の農地を購入した。それから2人は我々が現在知っている庭園をつくり始めたのである。▲ホワイト・ガーデン▼▲ホワイト・ガーデン▼▲植木鉢もユニーク。▼2009年、BBC Fourは8回シリーズのドキュメンタリー番組『シシングハースト』を放送した。住宅と庭園、アダム・ニコルソン(ヴィタとハロルドの孫)と妻サラ・レイヴンによる試みについて説明した内容であった。彼らはナショナル・トラストと協力関係にあり、シシングハーストの寄贈者であり住人でもある。▲この手の花の植え方、ヨーロッパでよく見る。うちに昔の流しがあるから真似したい♪▼ 【左】お揃いの帽子のカップル。【右】花模様が庭にピッタリ!2人はシシングハースト・カースル農場において従来のWealden農業のかたちを復元させている。▲野菜もかっこよく作られている。▼彼らの計画は、シシングハースト内のレストランで出されるランチ用食材を提供する目的で土地を活用することである。 ■ヴィタ・サックヴィル=ウェスト■*▲ヴィタの部屋がある塔。*▲塔の1階の飾り。▼**▲塔の上に上る途中で「VITA ヴィッタ」の文字。▲塔の上から見た庭。▼**▲庭は、白い花と銀葉で構成されている場所があった。▲古いベンチがあった。▲納屋リーズ城B&B・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.15
コメント(0)
■英国総督最後の家■♪音が出ます!!二つの国が生まれる時・・・。英国領インド最後の6か月、真実の物語。1947年、デリーのイギリス総督の大邸宅。インドを返却するため6か月間の最後の総督の役職を引き受けたルイス・マウントバッテン卿(ヒュー・ボネヴィル)が妻エドウィナ(ジリアン・アンダーソン)と娘とともに2階に暮らし、下の階には500人ものヒンズー教徒、イスラム、シーク教徒の使用人が住んでいた。2階では連日連夜、政治のエリートたちがインド独立の議論を行い、世界に多大な影響を与える歴史的な決断がなされようとしていた。彼らはインドを分断し、パキスタンに新しい国を作り出すという、人類史上最も大きな移民政策を打ち出そうとしていたのだ。一方、新総督のもとで働くインド人青年ジート(マニッシュ・ダヤル)と令嬢の秘書アーリア(フマー・クレシー)は互いに惹かれ合っていたが、宗派が違う上に、アーリアには幼いときに決められた婚約者がいた。 1947年のイギリスからの独立が迫るインドを舞台に、時代に翻弄される人々の姿を描く、人間ドラマ。6か月後の独立を控え、イギリスから主権譲渡のため、新総督に赴任したマウントバッテン卿とその家族、また、新総督の元で働くインド人青年と令嬢の秘書との恋模様もつづられる。「X-ファイル」シリーズのジリアン・アンダーソンが総督の妻を演じる。 この映画を見て、「ああ、そうだったのか」と思うことがいっぱいあった。★マウントバッテン卿は、エリザベス女王の夫と親戚。 チャールズ皇太子も卿を尊敬していたという。★マウントバッテン卿一家は、進歩的だった。特に妻は、調理場に出向いて親しく調理人と言葉を交わすなど、夫に言わせると、政治好きで左翼思想の持ち主だった。★英国総督の住む屋敷は、500人もの召使がいた!!ここはひとつの国家元首の家なのだと思った。★総督の屋敷でもインドのヒンズー教とパキスタンのイスラム教の対立があった。★■インドとパキスタンはなぜ対立してきたのか? ■インドとパキスタン、両国は独立から現在まで対立を続けている。最大の理由は宗教間の対立だが、中東などと同様に、宗主国イギリスが民族対立や宗教対立が起きやすくして強国にならないようにしたのも大きな理由の一つだ。インドとパキスタンに分かれて独立。ガンディー率いる「インド国民会議」は統一国家を目指したが、対立する「全インド・ムスリム連盟」はイスラム教徒の国を作ることで決議 。第一次世界大戦後、インド国民会議に加わったマハトマ・ガンディーを中心に非暴力の抵抗運動を進め、ガンディーはヒンズー教徒・イスラム教徒で一つの国家として独立させようとした。一方、全インド・ムスリム連盟は1940年にイスラム教徒の国を作ることで決議し、1947年、インドとパキスタンに分かれて独立した。 テレビドラマの「ダウントン・アヴィー」の主役がマウントバッテン卿になっていた。中東もそうだが、インドとパキスタンの対立ももとをただせば、イギリスが絡んでいたのがよく分かった。映画の中で流れていたインド音楽がよかった♪・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.14
コメント(2)
■輝ける人生■♪音が出ます!!泣いて笑って、恋をして。踊りましょう、幸せのステップで。35年寄り添った夫がナイトの称号を授与され“レディ”となったサンドラ(イメルダ・スタウントン)。順風満帆の人生だったが、記念すべき日に夫と親友の浮気現場を目撃。傷心を抱えながらサンドラは大きな荷物を担ぎ、ロンドンに住む姉ビフ(セリア・イムリー)の家に転がり込む。金や名誉とは無縁のビフは、なんでも話せる親友のチャーリー(ティモシー・スポール)やダンス教室の仲間に囲まれ、人生を心から謳歌していた。そんなある日、妹を心配する姉は、サンドラをダンス教室へ無理やり連れて行く。映画を見ての感想を箇条書きに。●ロンドン・タクシー、2階建てバス、タワー・ブリッジそしてナロー・ボート・・・。今年の夏に行ったロンドンの景色が懐かしくて楽しかった。●■♪ティンタラ・ディ・ルンナ 青いお月さま■という出だしの「月影のナポリ」が映画の中で流れていた!!!!主人公一行は、ダンス出演のためイタリアに行くが「月影のナポリ」が流れていた。懐かしい・・・!!■1960年6月、イタリアの歌手ミーナ(英語版)の『月影のナポリ』■(Tintarella di luna)は森山加代子の日本語カバーで50万枚の大ヒット。森山加代子の歌でしっていたが、ミーナの歌だったとは知らなかった。そして作詞は岩谷時子というのも、この映画を見てから調べて知った。 ●傷心のサンドラ(イメルダ・スタウントン)が姉のアパートを訪ねる時のスーツケース、ボストンバッグがお揃いの3点セット。●サンドラ(イメルダ・スタウントン)は、ジャケット姿の時が多かったがスカーフが素敵で参考になった。欲しい♪●サンドラの姉、ビフの部屋の食器棚は、ペパーミント・グリーンで50年代風。あたたかみがあって、これも欲しい。●主人公・サンドラを演じたイメルダ・スタウントンは、沢山出演しているのに驚いた。美人でもないし、スタイルもよくないから、リアリティがあるのか・・・。■マレフィセント■■家族の庭■●自主独立主人公・サンドラの夫はナイトの称号を授与され、彼女は「レディ」となった。しかし離婚すればただの老女。彼女は、いい妻、いい母親、いい祖母を演じすぎていた。そして、夫の愛人発覚でいやおうなく、心身ともに独立しなくてはならなくなった。失意の主人公はダンスによって、友人を得、立ち直るという物語だ。ダンスは、今昔、洋の東西をとわず人を癒す。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.13
コメント(4)
■2018.7.4(水)1泊した「ジョージホテル」は、1階がレストランになっている古いホテルだった。取り立てていうほどの所ではないかもしれないが、近くの看板などがかわいらしくて印象に残っている。7月5日朝早くから、散歩を兼ねてコインランドリーを探してうろつくも、見つからなかった。■ジョージ・ホテル The George Hotel Cranbrook ■歴史的な14世紀の建物を利用した美しいブティックホテルです。美しいオリジナル時代の特徴とスタイリッシュで現代的なデザインが見事に調和した、ユニークな内装の異なる12室の客室を提供しています。(▲1階はレストランになっていた。壁に木の柱が出ている、チューダー様式。)The George Hotel & Brasserieは、クランブルックで最も歴史的な建造物の一つで、元は遠く1300年代までさかのぼります。現在はユニークなブティックホテルに生まれ変わりました。(▲裏庭もある駐車場から道路を見る。)(▲駐車場にある「ジョージ・ホテル」の印。)(▲駐車場にある犬の印。)現代的な快適さと設備の備わる年代物の豊かな美しい客室、または最先端設備の備わる洗練されたスタイリッシュで現代的なデザインの客室など、エレガントで豪華な客室から選択できます。▲駐車場から見たホテル。▲ホテルの正面の道路の向かいにある薬缶の看板?▲これも道路の筋向いにあった。▲近くの建物もあった白い馬のマーク。▼▲ホテルの正面の道路から見た風車。▲朝食。▼・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.12
コメント(2)
■2018.7.4(水)■魅惑のガーデン~スコットニー・キャッスル・ガーデン Scotney Castle Garden■イングランドで最もロマンティックなガーデンと言えばここ、スコットニー・キャッスル・ガーデン。ロンドンの南に広がる風光明美なケントにある、英国の代表的なガーデンの一つです。ガーデンの中心には、14世紀に建てられた、静かな湖畔に建つお城。まるで絵本の中から抜け出てきたような古城です。18~19世紀にかけて、英国では風景式庭園(ランドスケープ・ガーデン)が人気を博していました。このガーデンは、そのデザインがあまりに整然とし過ぎているとの考えから生まれた、ピクチャレスク・スタイルという新しいコンセプトの下に作り上げられたものです。「ピクチャレスク(Picturesque)」とは、絵画のように完璧な景色のこと。ドラマティックでバラエティーに富んだ風景を意味します。古城は、この庭を設計する際にフォーカル・ポイント(視点を集めるポイント)となるように、必要な部分だけを残して取り壊されました。さらに1952年には、当時のオーナーであったクリストファー・ハッシーとその妻エリザベスによってさまざまな植物が植えられ、1年中、彩りの絶えないガーデンへと変貌していきます。特に5月から6月にかけての季節は圧巻です。エントランスをくぐって小道を歩くと目の前に現れる、まさに1枚の絵のような光景。古城を眼下にシャクナゲやアゼレア(ツツジ)が色鮮やかに咲き乱れています。その花々に囲まれながら緩やかな丘を下っていくと、やがて白藤の蔦がからまる古城と、それを映し出す鏡のような湖面が目前に広がってきます。まるでロマン派の風景画の中に迷いこんでしまったような、素敵な錯覚を覚えるガーデンです。▲ボートハウスこれも風景になっている。またこのスコットニーには、広大なエステイト(領土)もある。屋敷の中にも入ることが出来る。▲ナショナル・トラストのカフェで一休み。▼壁に「AD1837」と書いてある。ヨーロッパでは建築年代をいれてあるのをよく見る。▲納屋のような別棟にあった、かわいいおけ?B&Bのパーキングにあった犬のイラスト♪ザ・ジョージホテルB&Bの近くにあった看板。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.12
コメント(0)
■2018.7.4(水)●ヘイスティングズの戦い(バトル・オブ・ヘイスティングス)■バトル (Battle) は、■イングランド、イースト・サセックスにあるタウン、行政教区である。ロンドンの南南東79km、ブライトンの東46km、カウンティ・タウンのルイスの東34kmに位置している。タウンの南東でヘイスティングスと接している。ノルマンディー公ウィリアム=ギヨーム2世(同一人物)がハロルド2世を破ったヘイスティングズの戦いの舞台となった場所で、戦いに勝利したウィリアムは、1066年イングランド王ウィリアム1世となった。西フランク王国(現在のフランスに相当)王は、北西の沿岸部の土地をノルマン人の一部族の首領であったロロに与え、公爵として封じた。間もなくその一帯はノルマンディーと呼ばれるようになる。(■▲前日に行った「ヘイスティングス城にて撮影■)その後、1066年、7代目のギヨーム2世=ウィリアム1世のとき、イングランドの王位継承を主張してイングランド王国へ侵攻し、ハロルド王を破ってイングランド王に即位した(ノルマン・コンクエスト、ノルマン朝成立)。 (■▲前日に行った「ヘイスティングス城にて撮影■)そのウィリアム1世が建設したとされるのが■「Hastings Castle(ヘイスティングス城)」。■●戦後処理●ギヨーム2世=ウィリアム1世はイングランド南部を平定、12月25日にウィリアム1世=ギヨーム2世として即位し、ノルマン朝を開いた。(■▲前日に行った「ヘイスティングス城にて撮影■)ウィリアム1世=ギヨーム2世は反抗したアングロ・サクソン系貴族の土地を没収して本土から付き従っていた功臣に与え、彼ら諸侯に忠誠を誓わせて強大な王権を樹立した。またロンドンを首都と定め、教会組織も整えた。こうしてイギリスには、中世では例外的に王権が強力な独自の封建制が成立することになった。戦いが繰り広げられたバトルの地には征服王(Conqueror)とも称されるウィリアム=ギヨーム2世がその後、カトリック教のバトル寺院(Battle Abbey)を建立。寺院はその後、ヘンリー8世によるカトリック排斥の命を受け解体と相成ったが、修道院などの古跡が古戦場とともに人気の観光スポットとなっている。解説テープが聞ける受話器を耳に古跡や古戦場を歩くことができる。その後、ノルマン人はアングロ・サクソン人に同化し、文化の融合も行われた。(■▲前日に行った「ヘイスティングス城にて撮影■)言語もアングロ・サクソンの言葉を中心に、ノルマン・フランスそれぞれの要素を融合させ、今日の英語になっていったのである。 ●その後●ノルマンディー公は、フランス王に臣従する一方で、イングランドでは王として君臨した。このイングランドとフランスの複雑な関係は、後の百年戦争の遠因となる。■ノルマンディー家■7.ギヨーム2世(1035年 - 1087年)「庶子公」「征服公」 イングランド王(ウィリアム1世、 1066年 - 1087年)「征服王」もし、この時、ノルマン軍が負けていたら、文化や言葉が違うかもしれない。今のようなイギリスではなかったかも知れない。この日、この時歴史が動いた。この地はイギリスの歴史を変えた。日本では「天下分け目の天王山」というけれど、「天下分け目のヘイスティングスの戦い」。日本語の音声ガイドを聞きながら廻った。▲小学生が遠足に来ていた。バトル (battle) 小規模な紛争、戦争、戦闘の意味。▲氷室ここから氷室へお入口。もちろん、入れないのだが。もうひとつ、イギリスの歴史を変えた戦争の地を訪れたことがあった。■天下分け目のカロードンの戦い■2016.7.23に行ったスコットランド。ハイランド地方インヴァネス近郊のカロードゥン湿原(ムア)において、ジャコバイト軍とグレートブリテン王国(以下イギリス又は英国と表記)軍との間で行われた戦いである。▲この日のランチ。▼・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.11
コメント(0)
■2018.7.3(火)■「Hastings(ヘイスティングス)」■伝統的な漁港と美しい景観を併せ持つヘイスティングスは、ロンドンからの日帰り旅行に最適な場所です。 歴史的には1066年に起こった「ヘイスティングスの戦い」の舞台として知られています。アングロ・サクソンの王であったエドワード懺悔王の支配下にあった当時のイングランドでしたが、王の死後、その妻の兄に当たるハロルド2世が即位しました。そのことを不服とし、兵を挙げたのがエドワードの従甥であったウィリアム1世。勝利を収めたウィリアムがノルマン朝を開き、現在のイギリス王室の開祖となりました。(▲対岸のフランスからの遠足なのかフランス語で語り合っていた子供たち。)特筆すべきは、王となったウィリアムがノルマン人(フランス人)であったということ。その後ノルマン人はアングロ・サクソン人に同化されてゆきますが、イギリス王室がフランス人の手によって開かれたという史実に驚かされます。そのウィリアム1世が建設したとされるのが「Hastings Castle(ヘイスティングス城)」。現在では城跡を残すのみですが、その崩れかけた姿に寂れた味わいがあります。小高い丘の上に建つ城跡は、絶好のビューポイント。お天気のよい日には英仏海峡を見渡せるほか、美しいビーチとかわいらしい町並みが一望できます。歴史を刻む廃墟と青い海のコントラスト。どの角度をとってみてもフォトジェニックであることに間違いありません。●美しいビーチと町並みが魅力の「ヘイスティングス」▲丘の上の広場には野鳥のために水を用意している。丘の上から見ると街に置いた車が小さく見える。高いところにある城跡には、まちからエレベーター(リフト)が出ている。古くて小さなリフトは、レトロ感満載。中も木造で、これまたレトロ。ヘイスティングス城からも見下ろせる「Hastings Pier(ヘイスティングス・ピア)」は、19世紀に建てられたという桟橋。落雷や火災による被害により再建され、現在のものは2016年より使用されています。●港町で堪能する本場の味「フィッシュ&チップス」港町での楽しみのひとつは、なんと言ってもおいしいシーフードを味わうこと。お城の近くでフィッシュ&チップスを買って持ち帰り夕食とした。17:00 「ル・シャトー・ジャポネ」に着く。チェックイン。車は、ホテル前の路上駐車。1Fの2号室。部屋は、かなり年代が経っている様子。バスタブがあった。温水式の便器は、今回、初めて見た。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.10
コメント(0)
■2018.7.3(火)ビジターセンターから約1時間■蛇行するカックミア川■の畔を歩いてやっとセブン・シスターズの見える海岸に着いた。■セブン・シスターズは、■イングランド南部にある、石灰岩からなる海食崖。高いもので150メートルにもおよぶ、壮大な絶壁だ。その外観に似合わないかわいらしいネーミングは、7人の乙女が立っているように見えることから名付けられた。青い空の下、イギリス海峡に迫り出すように連なる白亜の断崖は、ダイナミックで見るものを圧倒させる。だが、いずれはこの景色も見られなくなってしまう。というのも、チョークと同じ素材の石灰石でできているため、波や風に浸食され、毎年数十センチずつ削られているからだ。数年ですべて消えてしまうわけではないが、景色は年々変わっていくはず。この美しい景色が見られるうちに、ぜひ訪れておきたいものだ。☚「打ち上げ花火下から見るか?横から見るか?」「セブン・シスターズ、下から見るか?横から見るか?」■上から見ても大迫力!!■帰りももちろん■蛇行する川の畔を■歩いてビジターセンターに。ビジターセンターの近くのカフェでランチ。ダイエットのためでもないのだが、ランチはいつもこんな風。セブンシスターズの近くのカフェを出て緑のトンネルを抜け次の目的地へ。▲途中、スーパー「テスコ」で夕食を買い物。「セブン・イレブン」毎日、朝7時から夜11まで営業。私たちは便利だけど働く人は大変。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.09
コメント(2)
■2018.7.3(火)■蛇行する川には蛇行の理由あり急げばいいってもんじゃないよと■俵 万智川は湿原に水を配りながら蛇行していました。人間はA地点からB地点へ、直線で行くことばかり考えがちだけど。白亜層の断崖「セブンシスターズ」を見るために、カックミア川を見ながら歩いた。セブンスターズに近づくためには、歩くしかないのだ。 行く前ビジターセンターに寄って片道1時間くらいかかるから、トイレを済ませて・・・。 歩きながら、なぜ川は蛇行するのかと考えてみた。そしたら冒頭の俵 万智の歌を思い出した。■川の蛇行はなぜおきるか?■川は最初から多少曲がって流れていますが、流れがとくにゆるやかになる下流では、わずかな障害物があっても流れの向きを変えることが多いです。そのとき、流れは岸の一方に当たってその部分をけずり、次には反対側の岸をけずります。また、流れがかわるときの内側の岸は、いつも流れの速さがおそいので、運ばれてきた土砂どしゃがたい積します。(▲雨が降らないので水が枯れていた。)このようなことがくり返される結果、川の曲がりかたはますますひどくなり、川の流路がヘビのうねった姿のようになります。これを川の蛇行だこうといいます。土が非常に薄いので、ほとんど草しか育たない。わずかな木も海からの強い風に一方に傾いている。ビジターセンターの近くではカヌーをする人でいっぱいだったけれど30分以上歩いたころには人影もまばらに・・・。そして、とうとう川の終点についた。■川は人生に似ている。■まっすぐ流れる川。蛇行する川。迷走する川。清流、濁流、奔流。私の人生の川はどんな川だったのだろうか・・・。この先は海・・・。そしてセブンシスターズ!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.08
コメント(0)
■2018.7.2(月)ワイト島からポーツマスを経てナイマンズ・ガーデンへ。■ナショナル・トラスト:ナイマンズ・ガーデン■ナイマンズの庭は、株式仲買人のルードヴィッヒ・メッセルとその家族により、1890年から半世紀かけてつくられました。ドイツから英国に亡命したルードヴィッヒは、ロンドンの金融市場で大成功を収めると、6人の子どもたちをのびのびと育てられる理想の田舎家を持とうと、ナイマンズの地所を買い求めます。 もともと美術に造詣が深かったルードヴィッヒは、新たな趣味として庭づくりに取り組みます。 知識豊富な庭師のジェイムズ・コーマーの力を借りながら、彼は美的センスを発揮して、ロックガーデンやヒースの庭、針葉樹園などをつくり、園芸界の注目を集めます。彼はまた、世界の珍しい樹木や植物を集めたり、それらの耐寒性を実験したりと、新しいものに取り組むチャレンジ精神も持っていました。1915年、ルードヴィッヒが亡くなると、長男のレオナルドが地所を受け継ぎます。レオナルドの妻モードは、芸術家肌の創造性豊かな人物で、古風でロマンチックなものが大好きでした。彼女はいささか平凡だった屋敷を、美しい中世の邸宅風に建て直させ、卓越した審美眼で室内も美しく設えました。しかし、残念ながら、屋敷の半分は、1947年に起きた火事で失われてしまいます。夫妻は別宅へと移りますが、皮肉なことに、廃墟のようになった外壁は、まるでおとぎ話に出てくるような美しい背景となって、ナイマンズの情緒ある庭景色に不可欠なものとなったのでした。1953年、レオナルドの死後、ナイマンズはナショナル・トラストに遺贈されます。娘のアンは、社交界の華として注目され貴族と結婚して伯爵夫人となった人物ですが、未亡人になると幼少期を過ごしたナイマンズに戻り、愛しい庭で余生を送りました。母譲りの美的センスを持つアンは、庭の花々を自ら摘んで、部屋の雰囲気に合わせて生けるのを楽しんだといいます。(▲暑かったので日陰で過ごすヒツジの群れ。)ナイマンズの庭園の外には素晴らしい森が広がっていて、ウォーキングや野生動物の観察を楽しむことができます。1987年、イングランド南東部を大嵐が襲い、ナイマンズの庭園や森では樹齢数百年の大木を含め、500本を超える木々が失われました。30年が経った今、庭や森は美しく再建されています。宿に向かう途中、スーパー(生協)があって、寄って食材を買ったが、そばにコインランドリーを見つける。とりあえず、洗濯ものをマシーンに入れてから、宿に向かう。ワーシングの「ハイダウンホテル」にチェックイン。Highdown Hotel&restaurant-Relaxlnnz・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.07
コメント(0)
■2018.7.1(日)■オズボーン・ハウス■の後、ホテルに行って車を置き、散歩しながら夕食を食べに行った。歩いていると キノコ!!発見!!そこからしばらく歩くと、一番上の写真のような家が見えてきた。オールド・ビレッジだ!!名(オールド)は体を表す!どの家も藁ぶき屋根で童話の中の家のように古い。中でも目立つピンクの家は、「ベスト ティー ルーム」。中に入らなかったのは残念。(ノД‘)屋根の上には、藁で出来たティーポットとティーカップ♪他の家にネズミを追いかける猫の屋根飾りもあったけど、何のためなのだろう・・・。目印なのかな・・・。謎・・・。ピンクの家の斜め前にあるイタリアン・レストラン「パバロッティ」で夕食。崖を見ながら宿に帰ることにする。崖の下にも家がたくさんあるし、砂浜には人も多い。下まで行くのは大変だー。▼ん??クリフ・ロフト?崖エレベーター?▼左の塔のような建物がリフト。 有料だ。▲ごみ収集車。▲マールボロー・ホテル1階。▼部屋の中ではWIFIは使えない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.07
コメント(2)
■2018.7.1(日)■カリスブルック城■の後、オズボーン・ハウスへ行った。■オズボーン・ハウス■■オズボーン・ハウス ■は、1845年から1851年の間に、イギリス女王ヴィクトリアと王配アルバートのために建てられた。設計はアルバート公自身がした。結婚してから3年が経過した1843年10月、ヴィクトリア女王は既に1男2女の母となっていた。当時のオズボーン・ハウスは、レンガと石から成るこぢんまりとした3階建てのものだったが、女王は「部屋は少々狭いけれど、気に入りました。子供たちのために改装して、増築すれば素晴らしい住まいになるでしょう」と、日記に記している。1845年、女王夫妻は342エーカーの敷地を持つオズボーン・ハウスを購入。さらにその3年後には、スコットランド中部アバディーンシャーにあるバルモラル城 Balmoral Castleも、オズボーン・ハウスと同様の理由で手に入れている(正式な所有権は1852年からとなる)。(2年前にスコットランドに行ってアバディーンにも行ったのにバルモラル・キャッスル行ってない(ノД‘)これにより夫妻は英国土を縦断するように、それぞれ北と南に一軒づつ理想的な別邸を有したのである。▲マグノリアの花のランプ♪オズボーン・ハウスにはレストランやカフェがあって、レストランでランチ。レストランには、マグノリアのランプがいくつも置いてあった。足元の部分も葉っぱのレリーフがある。こちらの人はマグノリアが好きなのか、この宮殿にもあったし、■アガサ・クリスティーの家■にも立派な木があった。■動物コレクション■▲痛ーーたたた!!首しめるな!痛いやないか!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.06
コメント(2)
■2018.7.1(日)■カリスブルック城■(引用)1000年頃に、ヴァイキングの侵略に対する防御としての壁が作られ、12世紀ぐらいからおよそ2世紀にわたり石壁や塔なども含めた城として整備されていきました。イングランド王が所有していた時期もたびたびあったようです。唯一処刑されたイギリス王チャールズ1世が、処刑前の4か月間、この城でとらわれていました。ワイト島の長官であったヴィクトリア女王の末娘ベアトリスの屋敷でもありました、わりと高台にあり、キャリスブルック村がよく見えました。そんなに展示物はなかったのですが、中は見学ができました。礼拝堂に入ってすぐのところにチャールズ1世の胸像(チャールズ1世がここに処刑前にいた)。キープ(天守)への階段はめちゃ急で、さらに、キープの周りも歩くことが出来ました。城壁の上を歩けます。城の庭の一角に、ロバがいた。間もなく、ドンキーショウがあるというので見た。屋根のある部屋の一部に大きな樽が置いてある。その前に井戸があった。ワイト島は島なので井戸を掘っても塩水が出るのではないか・・・。もし、真水を得ようとすれば、よほど深く掘らなければならないんだろうか・・・。とにかく、昔は井戸水を得ることは重労働だったのだろう。ロバが樽の中を回ることで、釣瓶に入った水が上に上がってくるという仕組みになっている。いくら足を前に出しても進むことのできない樽の中でロバは何を考えていたのだろうか・・・。ロバの考えなど人間はお構いなしにみんなロバに拍手を送る・・・。■イギリスで見た動物たちはみんな大事にされていたのに・・・。■城壁をあるいてみたいと思ったが、ワイト島には1泊のみで、この後の予定があったので、さっと引き上げた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.06
コメント(0)
■寝ても覚めても■違う名前、違うぬくもり、でも同じ顔。運命の人は二人いた。東京。カフェで働く朝子(唐田えり)は、コーヒーを届けに行った先で亮平(東出昌大)と出会い、真っ直ぐに想いを伝えてくれる亮平に戸惑いながらも惹かれていく。ふたりは次第に仲を深めていくが、朝子には亮平に告げていない秘密があった。亮平は、かつて朝子が運命的な恋に落ちた恋人・麦(ばく)(東出昌大)に顔がそっくりだったのだ……。芥川賞作家・柴崎友香の小説を東出昌大主演で映画化したラブストーリー。顔がそっくりな2人の男と1人の女との愛の行方がつづられる。 私は東出昌大君の大ファンだ。なに、あのスタイルの良さと顔の良さ・・・。将棋好きで落語が好きで読書好きという今どき珍しいような趣味も好き。端正な顔立ちなのに明るく親しみやすいのもいいだ。おまけに思慮深い物言い。スーツの似合う日本人で一番!!(天地はるな基準!!)そんな東出昌大君が二人のキャラクターを演じている。 ひとりは、「麦」と書いて「ばく」と読む、掴みどころのない青年(東出昌大)。パンを買いに行くと言ってどこかに泊ってくるくらいな人。麦(ばく)のそんなところに不安を抱きながら、だからこそなのか夢中になる朝子。麦(ばく)がいなくなって2年が過ぎても忘れることなく生きている朝子。 朝子はその彼と別れて傷心だった。そんな彼女の前に、麦(ばく)そっくりな亮平(東出昌大)があらわれた。誠実で一直線にぶつかてくる亮平(東出昌大)に心を動かされる朝子。そしてふたりは付き合うことに・・・。ここで私の脳内に■イミテーション・ゴールド■が流れる。 ♪ア・ア・ア・イミテーション・ゴールドア・ア・ア・その優しさで待ってて欲しい 今年の人よ日が当たれば 影が違う 色が違う 『光が変わる』ごめんね 去年の人を 忘れるその日を亮平は、麦(ばく)のイミテーションなのか・・・?朝子は麦(ばく)の呪縛から逃れることが出来るのか・・・? 「寝ても覚めても」の作者、柴崎友香氏は、きっと、東出昌大くんの大ファンなのだと思う。彼をイメージして、「つかのまのこと」という本を書いたのだから・・・。私も本を書いて、東出昌大くんに映画に出てもらい、知り合いになることを妄想する。(ノД‘)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.05
コメント(0)
■ゲンボとタシの夢見るブータン■♪音が出ます!!いつの世もどこの国の親も、子どもの幸せを願っている。ブータンの中部ブムタンにある小さな村。16歳のゲンボは、1000年以上もの間、家族が代々受け継いできた寺院を引き継ぐために学校を辞め、戒律の厳しい僧院学校に行くことについて思い悩んでいた。一方、自らを男の子だと思い、ブータン初のサッカー代表チームに入ることを夢見る15歳の妹・タシは、自分の唯一の理解者である兄に遠く離れた僧院学校に行かないでほしいと思っていた。そんななか、ゲンボとタシの父は、子供たちが将来苦労することなく暮らせることを願い、ゲンボには出家し仏教の教えを守ることの大切さを説き、タシには女の子らしく生きる努力をすることを諭すのだった。思春期の子供たちは自分らしい生き方を模索するが、それが何かはまだわからない。急速な近代化の波が押し寄せるブータンで、子供たちの想いと親の願いは交差し、静かに衝突する……。 ブータンに生きるある家族を追ったドキュメンタリー。監督を務めたブータン人のアルム・バッタライと、ハンガリー人のドロッチャ・ズルボーは、若手ドキュメンタリー制作者育成プログラムで出会い、国をまたがる6つの財団から資金を獲得し、国際共同製作の枠組みで本作品を完成させた。 ブータンといえば、着物みたいな服を着て、みなにこやかに微笑んでいるというイメージがある。しかし今どきのブータンの若者は、スマホで写真を撮り、SNSでつながり、「いいね」を押す。16歳の兄と15歳の妹もネットに夢中。 ただ、親の世代(きょうだいの親は映画の中では、50代後半か60代前半と思われる)は、スマホやネットに感心がないのか全くみようとしない。まあ、日本でも私の世代はネットをやる人の方が少ないのかもしれない。 寺の僧侶である父親は息子を今すぐ僧侶の学校に入れたいという。僧侶にならなければ、百姓か会社員。百姓は虫を殺す=殺生をするからダメ。会社員は人をだますからダメ。だから僧侶になりなさいというが、僧侶の学校の先生僧侶は「今どき子どもを僧侶にさせる親は少ない。」という。 妹は、性同一性障害で、小さい頃から「体は女性だけど自分は男性」という認識を持っている。このことに対する父親の態度に、びっくりした。本当は困っているのかもしれないが、映画の中では、あまり困ったというのが出していない。「前世が男だった」とたんたんと言っている。もっと怒ったりするのかと思っていたのだが・・・。兄は、弟のように接している。髪を男の子風に切ったり、サッカーの練習に付き合ったり・・・。このきょうだいに、どんな未来が待っているのだろうか・・・。授業は英語で行われていたのにはびっくり。映画の中の音楽が素敵だった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.04
コメント(0)
■舞台:コーラスライン■幾つもの涙の先に、輝くひとつの夢がある。N.Y.ブロードウェイ。幕が上がると、新作のためのオーディションの真っ最中。新進演出家ザックの元に集まった大勢のダンサーの中には、ザックの元恋人・キャシーの姿もあった。彼女はかつてスポットライトを浴びたこともあるもののハリウッドに進出して挫折、一からやり直すつもりで再びブロードウェイに戻ったのだった。 厳しいオーディションに合格したとしても手に入るのは「コーラス」、つまり無名の脇役。「君たちはスターを彩る額縁、誰も僕の目を惹いてはいけない」とザックに宣告され、それでもダンサーたちはたった8人の採用枠に残るために自分のすべてを賭ける。「君たち自身を知りたい」というザックの問いかけに、躊躇しながらも赤裸々に自分の人生について語り始める。 ミュージカルといえば、「ライオンキング」、■「美女と野獣」、■■キャッツ■など、背景や役者のメイクなど華やかなものが多い。「コーラスライン」は、「ライオンキング」や「美女と野獣」と違って、豪華なセットはない。内容も主役ではなく”その他大勢のキャスト”のオーディション会場での物語。なんにもないただ、白い線が一本だけの舞台と稽古着の出演者たち。コーラスラインというのは、舞台後方に引いてある”線”のこと。主役と違って”そのた大勢”の出演者は、コーラスラインから前に出てはいけない。 冒頭のダンスシーンが終わると、長い単調な舞台が続く。音楽も、聞き覚えのあるのは、「ワン」のみ。この作品は、舞台上では目立たない、その他大勢組のダンサーたちの物語。仕事を得るために整形した人、 同性愛者、身長が低い悩みの人、バレエだけが自分の支えだという人、さまざまな悩みや不安を持って、オーディションに集まってきた ダンサーたちが自分の人生を赤裸々に語っていきます。いろんな悩みがあるが、思春期の悩みは共通。地味な舞台だけに、 フィナーレの、金色のえんび服とシルクハット姿が華やかで素晴らしい!!英語の舞台だったので、舞台のそでの両側に字幕がついていた。 オリックス劇場のそばの公園で娘のレイと待っていたら舞台の役者さんたちと見られる人が数人歩いていた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.03
コメント(2)
■2018.7.1(日)10:15分、レンミントンフェリー乗り場からフェリーでワイト島を目指す。船の客は、犬を連れた人がけっこう多い。■ワイト島は■イギリスのイングランドの島であり、島全体で1州をなす。本土(グレートブリテン島)から狭い海峡を挟んだ南方に位置し、対岸はハンプシャー州。(赤字に白の字が鉄道。)フェリー乗り場のすぐそばまで、鉄道が敷かれている。フェリーに乗ってしばらくすると、賑やかな歌声とギターの音。10人以上の人が、ギターを弾きながら歌っていた。■「戦場のピアニスト」■ならぬ「船上のギタリスト」。 曲は、■ビー・マイ・ベイビー動画■♪音が出ます!!(▲ザ・ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」1963年。)(*´▽`*)この曲、大大大好き!!!もう一曲は、■ 「デイ・ドリーム・ビリーバー」■1967年。 もし、私が歌と英語が上手かったら、リクエストして、「夢のカルフォルニア」(1965)なんかも一緒に歌いたい♪ところで、ワイト島は、1970年には前年のウッドストックを上回る約60万人が集まった過去最大のロック音楽祭のひとつワイト島音楽祭の拠点になった。飛行場もない島に60万人が集まったなんて、その時代の熱を感じる。ノリノリの曲を聴いていたら、45分の船旅はあっという間に終わり11:00ワイト島・ヤーマス港に着いた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.02
コメント(2)
■防災の日■9月1日の日付は、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災にちなんだものである。また、例年8月31日 - 9月1日付近は、台風の襲来が多いとされる二百十日にあたり、「災害への備えを怠らないように」との戒めも込められている。■長靴での避難はNG!水害から身を守るため、知っておきたい5つのこと■ 豪雨災害は突如として起こるもの。もしもの時、いったいどうやって身を守れば良いのでしょうか。内閣府や国土交通省への取材や資料を元に、5つのポイントにまとめました。 1. 避難の際、長靴は厳禁 避難をする際には、必ず靴を履く必要があります。ただし、長靴を履くことは厳禁です。理由は、水が入って重くなり、動きづらくなる可能性があるため。脱げにくい紐付き運動靴などで避難しましょう。 2. 長い棒を頼りに そもそも浸水時の避難は危険ですが、万が一水の中を歩かなければならない時には、長い棒を頼りにしましょう。側溝やマンホールなどにはまらないよう、長い棒で確認しながら足元に十分注意して歩くことが大切です。持ち物はリュックに入れ、いざという時に両手が使えるようにしましょう。 3. 膝上浸水での避難は危険 水の中で、人は思った以上に歩けません。大人でも歩くことができないことがあります。浸水が50cmを上回る場所での避難行動は危険です。流れがはやい場合、20cm程度でも歩行が不可能になることもあります。また、用水路などがある場所では、10cm程度でも転落のおそれ危険が高まるため、避難を控えましょう。4. 避難ができない場合は、高いところへ 災害が起きそうなときは、近所の体育館や公民館に避難するだけが選択肢ではありません。外が真っ暗だったり、浸水が深く避難するのも危ないような状況のときは、自宅のできるだけ上の階や頑丈な高い建物に避難することが大切です。これを「垂直避難」といいます。土砂災害の可能性もあるため、山からできるだけ離れた部屋を選ぶなどして、最低限の安全を確保しましょう。5. 何より早めの「予防的避難」が大切 避難勧告や指示が出た場合は速やかに、落ち着いて避難することが大切です。河川の氾濫や土砂崩れは一気に起こるため、避難勧告が出た時点では避難が間に合わないこともあります。地球温暖化は着実に進行しており、それにともなって雨の降り方(頻度や強度)が変化する可能性が非常に高い。そのため、現在100年に一度の確率で起こるとされる洪水は、将来はより短い再現期間で発生するようになるかもしれません。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.01
コメント(2)
全33件 (33件中 1-33件目)
1