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第 四十四 回 目 わざわざこんな風に、回りくどい断りを述べずにはいられないほど、私が 性 の問題に関して、古風で、頑ななことはあなたはよく御存知のはずですわね。時代遅れでも、旧弊でも女は、いえ、私自身は男女のセックスの問題には、こだわらないわけには行かないのです…、私には難しい理屈はわかりません。あなたが色々とお読みなった外国の小説や戯曲などに現れた、新しい女の生き方、若い男女の自由な恋の在り方。そして、それを支えている新しい時代の思想・哲学など。あなたのように東京の一流大学で、文学を勉強し、将来教師になられようとしている方の話されることですから、頭の悪い私は私なりに、一所懸命理解しようと努め、あなたにはお話しませんでしたが、あなたが例として挙げられた本を、何冊か買ってきて、勉強もしてみました。そして朧ろげながらも、あなたが仰有った事柄の幾分かは、理解できたようにも思われました。でも、本当には、飲み込めなかった。いえ、いえ、残念ながら私には難しい理屈は無理だった、ともう一度正直に告白すべきでしょう。 しかし、私には私流の生き方があります。どんなに心を許し、尊敬している相手でも、女としての私は、男であるあなたに拘泥しないわけにはいかなかった。簡単に唇を許したり、若い男女がよく出入りしている同伴喫茶やホテルなどへ足を向けることが、ひどく憚られた、いえ、男の人と手をつないだり、肩を寄せ合ったりすることすら、他の人たちの様に気軽に出来なかったのです。こう書いたからといって、私は何も他人様の事をとやかく申そうというのではありません。私はただ、自分の気持ちをありのままに、出来るだけ飾らずに披瀝したいと、考えているだけに過ぎませんの。そしてこの自分自身の物の見方、感じ方に従って行動する、私にとってはごく自然な態度が、あなたの目に依怙地で、水臭いものと映じたとしたら、事実、それが私に対するあなたの側の大きな不満でもあったのでしょう、それはもう、致し方の無い事だと、現在ではおもいます。でも、あの頃はそう簡単にあなたとの仲を、割り切って考えることは不可能でした。あれでも、色々様々、迷ったり、悩んだり、あなたの意向に合わせようと、可能な限りの努力を惜しまなかった心算でいます。それでなくてどうして、あの慌ただしく、忙しい一方で、物心両面に少しの余裕のない生活の中から、あなたに会う時間や、あなたとお話する為の読書の暇を、捻出することが可能だったでしょう…。くどいようですが、私はいまできる限り 在りの儘 を述べることに意を注いでおりますので、そのおつもりで、お読みくださいませ。 実際、地方からたった一人で東京に出て来た娘が、誰からの援助も無しに、部屋を借りて生活していく事は、想像以上に困難でした。その上、私は専門学校とは言え、夜学に通って勉強しなければなりません。通常の生活費の他に、授業料や教材費など、月々の出費は、切り詰めると言っても限度がありました。その上に、私の様にコネも何もない田舎娘が、昼間だけ働いて得られる収入は、嵩(たか)が知れているのですから。 時折、苦しさのあまりに学校を止めようか、それとも、両親に何もかも正直に打ち明けて、金銭の援助を乞おうか、と考えることもありました。が、それでは何のために今日まで、一人で頑張ったのか分からなくなってしまう。父や母があれ程に強く反対したのを、無理やり押し切って出て来た身が…。僅か二年余りで音を上げて、泣きついていくというのは、いかにも不甲斐ない。そう、考え直して、つまりは、自分の挫折や失敗を認めるのが悔しいばっかりに、歯を食いしばって耐えたのでした。勿論、あなたの存在も、私の心の大きな支えには相違なかったのですが、同時に、それに倍する、物心両面での大きな負担を蒙った事実も、否定しきれないのですわ。 上京してからあなたに出逢うまでの時期、私は可能な限り切り詰めた、ぎりぎり最低の暮らし方をしていました。テレビやラジオを持たないのは勿論のこと、新聞さえ自分では購入しないで、勤め先や図書館に行って読んでいたと申し上げれば、その他のことがどんなだったか、容易に想像していただけるのではないかしら。その私にとって、あなたとの交際を保っていく事は、いわば必然的に困難を伴うことだったのですから、最初から誰が悪いというような性質のものではなかったのですね。私は、あなたと一緒に過ごす時間が楽しかった。あなたのことを頭に想い描きながら、あなたに教えられた本を買い、通勤の途中や夜学への行き帰りの電車の中で読書する幸せを、噛み締めました。そして、幸福を手にするには、それだけの犠牲を支払うのは、当たり前なのだと思っていました。映画を観たり、お茶を飲んだりした際に、私が必ず折半、つまり 割り勘 を主張して譲らなかったのも、そういう考えが根底にあったからでして、決してそれ以上の意図はありませんでした。それに、二人分の勘定を持つとしたら、親掛りの学生の身分であるあなたより、私のほうがより相応しかったでしょうから…。とにかく、そうした 贅沢な 出費や、時間の 浪費 は当時の私にとってかなりの痛手でした。それにもう一つ、精神的な負担と言いますのは――、清水の舞台から飛び降りる程の勇気を出して、申しましょう、あなたの男性としての要求に素直に応じられないことから来る、心の悩みがあったのです、ええ。 二人の仲が深まり、恋の気分が昂まるに連れて、ごく自然な愛の表現として、接吻から抱擁、そしてそれ以上の関係へと移行していくものなのだと、観念的には理解できたようでも、実際の行動としては、なかなか頭で考えるようには行かないのでした。強い拒絶に遭ったあなたが屈辱を感じた以上に、私の方も激しく困惑し、また、直後に、あなたに対する申し訳ない気持で、胸が一杯になるのが常でしたわ。
2016年02月26日
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第 四十三 回 目 そんな折でした、高校の一年先輩であり、また淡い初恋の思い出を胸に秘め続けていた、当のあなたに、全くの偶然に再会することになったのは。三年ぶりで見るあなたは、見違える程に洗練された一個の大人の男性として、私の眼に印象づけられたのです。後から当時のことを振り返ると、あなたも私同様に随分背伸びをしていた事が解るのですが、あの頃はそれに気づくだけの心の余裕がとてもありませんでした。ただ、あなたがあの新宿の雑踏の中で、わざわざ声を掛けてくださったことが、たまらなく嬉しかった、無性に。もし仮に、あの時声を掛けてくれた人が、同郷の誰か他のひとであったとしても、やはり同じように私は感激したのに相違ありません。ですから、私たちの今度の失敗は(或いは、私のと言い換えるべきかも知れませんね)、あの最初の出会いの瞬間から既に、始まっていたと言えるのではないかしら…。 とにかく、私とあなたとの仲は急速に進展し、三ヶ月も経たないうちに、互いに恋人として相手を意識するようになっていたのでした。当時の私はあなた以上に、あなたとの恋にのめり込んでいたと思います。酷薄とでも形容するしかない、東京人の余りに自分本位な生き方。自己の生活だけに追われて、他人を顧みる余裕など少しもない硬直した生活態度。そんな中で、揉まれに揉まれた二年足らずの孤独で、冷え冷えした日々が、強気な私をすっかり弱気に、また、情に脆い、普通の娘に変えてしまっていたのでした。 いま、当時を回想してみますと、やはり夢の様に楽しく過ぎていった、懐かしく、愛おしい日々であったと思います。ただ一つだけ、不満と言うのでしょうか、もうひとつ二人の心がぴったりと寄り添わない感じが、残ってはいましたが…、結局それが、今日に至るまで尾を引いて、重大な破局を招ねくことになったのだと思います。が、それはひとまず置くとして、再び当時の私自身の心境の説明に戻りますと、或る全く漠然とした、それゆえに、掴みどころのない、正体不明の不安感が、あなたとの交際中ずっと、付き纏って離れませんでした。 ― こんな風に書きますと、私が絶えずそれを意識してばかりいて、あなたに対して素直に胸襟を開く時がなかったような、印象を与えるかもしれませんが、決してそういう意味ではありませんの。私は自分でも驚きもし、時には、躊躇(ためらい)さえ感じながらも、あなたとの楽しい語らい、公園での散歩、観劇、郊外へのハイキングに胸を弾ませ、幸福感に酔いしれていたのですから。私は、その事実を決して否定しようとは思いません。にも拘わらず……、それは君が素直になりきれなかったからだ、たとえば、僕があの小石川植物園の木陰ではじめて唇を求めたとき、君は異常な程の拒み方をしただろう。ああいう態度がいけないのだ―、きっとあなたはこんな風に仰有るでしょう。あなたの私に対する最大の不満、それを私は充分に承知している心算です。女の私にとっては随分と筆にのぼせにくい、恥ずかしさで、思わず顔が赧らむ程の問題なのですが、その点を避けていては焦点がボケてしまい、結局、話の主旨が伝わらない事になる懼れが多分にありますから、勇気を奮い起こして、申し上げることにいたします。
2016年02月22日
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第 四十二 回 目 集団就職で東京方面に出る新卒者の一行には混じらず、私が一人だけ後から出発した理由は、前にもお話ししたように、両親の強い反対があったからです。しかし当時の私は、何が何でも東京に出たかった。料理の専門学校へ通って調理師になる勉強がしたかったからですが、若い娘なら誰でも一度は胸に抱く、華やかな都会生活に対する漠然とした憧れが、根底にあったことも否定できません。自分の強い望みが叶えられない悲しさと悔しさから、私はよく夜の海辺へ出ては、一人で泣きました。負けず嫌いな私は、たとえ親兄弟であっても、自分の涙を見られたくなかったから…。そんな或る、月の無い晩にたった一人で波打ち際に佇んでいた私は、聞き慣れない海鳥の鳴き声を耳にしました。無論、鳥の姿は見ることができません。ただ、その暗闇に閉ざされた陸奥湾の彼方から、一陣の仄白い風が、音もなく静かに、吹き渡ってくる気配が感じられたのです。そして、翌朝、目を覚ますと直ぐ、父から東京行きを許されたとき、私はふと、前夜聞いたのは、あの伝説が伝える うとう(善知)鳥の声だったのではないかと思い合わせていました。 母方の、遠い親戚に当たる男の人が、目黒の方で運送会社を経営しているので、私はその永井という人を頼って、その人の監督の下に生活することを条件に、上京したのです。 ところが、聞くと見るとは大違いで、永井さんは私の両親に対しては、調子の良いことばかり吹聴しておきながら、実際に私が訪ねていくと、極めて冷淡に応対したばかりではなく、殆ど何の面倒も見てくれなかった。自宅では、住み込みのお手伝い同然に扱い、会社でも、約束の事務の仕事ばかりでなく、走使いや雑用など、休むまもなく命じられます。その上、お給料は満足に支払ってもらえず、料理の学校へ通うことなど、思いもよらないことでした。 それでも、世間知らずな田舎者の私は、文句一つ言わずに、半年ほど我慢しました。随分辛い思いもしましたが、郷里の親元には余計な心配を掛けないように、永井さん御夫妻の御好意で快適な毎日を送り、念願の学校にも、秋になったら通うことが出来ると、嘘の報告をし続けたのです。 次第に東京での生活にも慣れ、国電や地下鉄にも一人で乗ることが出来るようになった頃、私は身の回りの物をまとめて、黙って永井さんの家を出ました。そして、半年の乏しい給料の中から苦心して貯めたお金で、古ぼけた三畳一間のアパートを借り、新聞広告を見て、その日からアルバイトに出かけたのです―、洋菓子屋の売り子を皮切りに、大衆食堂、惣菜屋、肉屋、喫茶店、レストランなど、様々なところで昼間は働き、上京一年後の春から、夜は待望の専門学校へ入学して、料理の勉強に励んだのでした。 一日も早く調理師の免状を取りたい、という目的がありました。じょっぱり娘、負けん気が強く、人一倍の頑張り屋だと自惚れてはいても、所詮は一人の年若い娘にしか過ぎません。たまには人並みに着飾って街で遊びたい、夜は心ゆくまで睡眠を取りたい。そんな強い誘惑が昼間の仕事と、夜間の勉強に疲れた心と身体に、忍び寄ってきます。それに、夜更けに狭いアパートの部屋に戻った時の、侘しさ、寂しさ……、職場や学校で二三のお友達は出来ましたが、心置きなく何でも気軽に話せる相手には、巡り会えません。両親には永井さんの家を出た理由を、調理師学校の先生の世話で、通学に便利なようにそうしたのだと、重ねて虚偽の報告をしてありましたので、今更、泣き言を訴えるわけにもいきませんし。 そんな折でした、高校の一年先輩であり、また淡い初恋の思い出を胸に秘め続けていた、当のあなたに、全くの偶然に再会することになったのは。
2016年02月18日
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第 四十一 回 目 今度の場合、どんな釈明も、言い訳も意味を成さないことは、私自身よく承知している心算です…、それなら何故、ときっとあなたは思われることでしょう。正直なところ私自身にも、この手紙を書くはっきりとした理由が、上手く説明できそうもありません。ただ、あなただけには、自分の気持ちを、あんな気違いじみた行動へ走らざるを得なかった、私の切羽詰った、苦しい胸の裡のありのままを、是非ともお伝えしないではいられなかった、ええ、そうです、気がすまないのです。 前置きが長くなりました。こうして、上野行きの夜行列車の中で、この文章を綴っておりますと、つい数時間前に後にして来た鶴屋旅館の結婚式場の情景が、まだ興奮の続いている脳裡に、浮かんで参ります。 仲人をお願いした柴田の伯父さん御夫妻を始め、佐藤・久保両家の親類縁者の一同、あなたと私の親しい友人たち。それに、あなたのお父さんが三拝九拝の末に、やっとのこと来ていただくことが出来た、県会議員の山田兼末先生まで入れて総勢約百二十人。それ等披露宴に参列する予定の人たちがほぼ全員顔を揃えたので、さて固めの盃事を開始しようかと、仲人が花嫁の控え室に迎えに行ったところが、肝腎要の私は、「皆々様にご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありません。急に、茂雄さんと結婚できない事情が生じましたので、このまま失礼いたします。 菊江」という一片の走り書きを残しただけで、姿を消しているではありませんか…。 古風で、生真面目な柴田の伯父さん、伯母さんがどんなに仰天し、狼狽したか、そしてまた、お二人から事態を知らされた一座の方々が、どんなに吃驚し、また呆れたか、私には手に取るように想像がつきます。 ― 茂、こりゃ、なしたわけなんだ! ― わにも、なしてしまったが、さっぱり分んねェ。 ― お前(め)さにもわがんねェってェ!そったら馬鹿だ話(はな)すがあるが…。 ― なしてだんだが、狐に化(ば)げされたよんで、本当のよった気がしねェじゃ。 ― 菊江がどこさ行ったが、母(あ)っちゃも、父(と)っちゃもホントに、知らねェのが? ― 本当に魂消(たまげ)た話だなぁ。嫁っ子のいねェ祝言だなんて、聞いたごどねェじゃ。 ― 茂、菊江がどごさ行ったが、本当に知らねェのが? ― 分かる筈ねェじゃァ。皆ども覚(お)べでいだ様に、そったら様子っこはさっぱり無(ね)がったじゃ。 ― それさしても、一体、どしたらいがべがなぁ。山田先生にまでわざわざ来て貰ってしまって…。 ― とにかく、皆(みな)どで手分(てわ)げして菊江ば探さねがったら仕方(すかた)無(ね)がべなぁ。どうせ、まだ遠くさ行って無(ね)がべがらァ。 ところが、私はもうその頃には、バスに揺られて青森市内に向かっていたのです、野辺地駅からでは、顔見知りも多いし、直ぐに行方を知られてしまうと思いましたので。 青森駅に着いた時に、よほど自宅と、あなたの所に電話して、簡単に事情を説明しようと考えたのですが、とうとうそれもできませんでした、― 何を、どう説明したところで、私が非常識極まりない、無責任な行動をとった事、結婚の約束をしたあなたを式の寸前に見捨てて、逃げ出した事実に変わりはなく、また、それに対して、私が反省も後悔もしていない以上、事態を一層紛糾させるだけに過ぎないと思ったからなのです、ええ。一言も弁明せず、甘んじて皆々様方の指弾を受けなければいけない。厳しい非難・制裁の言葉を存分に浴びなければならない。それに黙って耐えること。それだけが今の自分に残されている唯一のみちなのだ。そんな風にも感じました。 上野までの切符を買った後、手元に残ったお金は千円にも足りません。いささか心細い気もしましたが、思えば四年前、やはりたった一人で東京へ旅立った日も、懐具合は似たようなものでした。あの時は、高校出立てで、年齢も若く、東京という大都会での未知の生活に対する不安と恐れが、幼い夢と期待を上廻るほど強く、私の胸の中に渦巻いていました。今度は……、そう、何故これほどまでに乱暴で、無茶苦茶なやり方まで敢えてして、再び東京へ出ていかなければならないのか、その一番大切な点を、お話するのが、このお便りの目的でした。 少し遠廻りをするようですが、お話しの順序として、どうしてもその時の事から始めなければなりませんので、もうしばらく我慢して、付き合って下さいな。
2016年02月15日
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第 四十 回 目 全ての古典、乃至、外国語の現代語訳や翻訳について同様の事が言えるのですが、大まかな解説や、大体の「移し」は可能なのですが、「全的な 写し」は本来不可能なのであります、その性質上。散文に関しては、それでも 大意 でどうにか用に足りるというか、我慢すれば、辛抱できない事もないのですが、和歌や俳句の勝れた物になるともう絶望でありますよ、足元にも及ばない、真実の有り様は。この辺の事情は、分かる人には解る、としか言い様がない。喩えて申せば、モーツアルトの曲を知らない昔の日本人に三味線の演奏で「説明」せよと無理難題を押し付けられた時の、場合を想像してみてください。誰だって、そんな 無茶苦茶 な相談には土台乗れはしない、そう答えるより、手が無いのであります、全く、実際。 私・草加の爺は目下、ライフワークのようにしてウェブ上で「源氏物語の現代語訳」を公開している。その目的は現代の若者たちに、少しでも日本の古典の傑作に親しんで貰いたい、理解を深める機会を設けたい、との切なる思い・願いからなのであります、はい、それだけ。しかし、初めから承知で「無理や難題」に「好き好んで」挑戦しているのでありますが、何しろ 難局中の難局 であります、相手は。ですから私としては、何度も、繰り返して「原文を手にしてください、近くの図書館に足を運んで…」と訴える事に必然的になってしまう。ならざるを得ない。ただ芸も無く、阿呆のように…。しかし考えてみれば、のっけから私の目的は「古典のすすめ」にあったわけですから、それで本望であると、断言致しましょう。 さあ、そこで、「奥の細道」に戻りましょう。下手な解説で、原作を「破壊」してしまうよりは、取り敢えず原文・原作を直に「体験」していただきたい、の思いが頻り。乱暴でも、強引でも、とにかく本物に直に触れてもらうに如くはない。そう決意しての 処置 なのですよ、実は。ご理解頂けたでしょうか。 玉石混交と申しますか、次には「ラジオドラマ用」に私が家内の悦子の立場に立って物した、フィクション をご披露したいと考えます。勿論、三十代半ばの若書きでありますが、題して「善知鳥(うとう)が啼いた」。 佐藤 茂雄 様 丁度いま、ホーム一杯に慌ただしい発車のベルの音が、鳴り響いていますが、私は青森駅発十和田四号の列車の中にいて、取り急ぎ 貴方 へのお手紙を書き始めようとしているところでした。 ― 何を、どう書いたらよいのか、考えががまとまらないままで、とにかく、最初にあなたへの宛名だけ駅近くの売店で買った封筒の表に、認(したた)めてみました…。 でも、どうしてもペンがそれ以上先に、進もうとはしないのです、まるで、背中を誰かに押されてでもいるように、お手紙を書かなくては、是が非でも、何か書き付けなくてはいられない、闇雲な気持ちに急かされ続けているというのに…。 あんな事を 為出かして おきながら、今更、何を弁解しようと言うのだ――あなたはそう仰有るでしょうか?それとも、私からの手紙と分かった瞬間に、怒って、破り捨ててしまうかも知れませんね。実際、私はそうされても仕方のない酷い仕打ちを、既にしてしまっているのですから……、でも、もしかして、私たちの関係がこうなってしまった今も、幸い、あなたの心の中に、私に対する信頼の気持ちが少しでも、ほんのわずかでも残っていたならば、勿論、私はそれを固く信じているからこそ、こうしてあなたへのお手紙を書き始めているのですが、どうか、文章の拙いことには目をつぶって、一通り最後までお読み下さるよう、心の底から、お願い申し上げます。
2016年02月10日
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第 三十九 回 目 秦皇(しんくわう)驚歎(けいたん)す 燕丹(えんたん)が去つし日の烏(からす)の頭(かしら) 漢帝(かんてい)傷嗟(しようさ)す 蘇武(そぶ)が來(きた)つし時の鶴の髪 ― 燕の太子丹が蓁の始皇のために人質となった時、カラスの頭が白くなったら放とうと言った時、たちまちカラスの頭が真っ白になった、蓁の始皇の驚きやいかばかり。漢の蘇武は匈奴に囚われて十九年、帰った時には頭の毛は、白鶴の様に真っ白であった、漢の昭帝の嘆きや痛みは如何許り…、テーマの「白」尽くしの賦である。 銀河(ぎんか)澄朗(ちようらう)たり素秋(そしう)の天 また林園(りんゑん)に白露(はくろ)の圓(まと)かなるを見る ― 仰げば、秋の夜空に、冴えた白銀の 天の河 が清かに澄み輝く。俯して見れば、森の木陰の、花園には白露が円(つぶ)らに珠(たま)なして白く光る。 しらしらし しらけたるとし 月光(つきかげ)に 雪かきわけて 梅(むめ)の花をる ― 白髪の年老いた翁が、白い月の光の下(もと)、白雪をかきわけて、白い梅の花の枝を折る、如何にもしらじらしいことだ。「しらじらしい事」で興が無いと言うのは、面白いことだ、と言うための一種の逆説。*撰集抄では、公任のこの歌に対して村上天皇は大いに感歎して、「ユユシキマデニホメ仰ノ侍リケレバ、公任其座ニテ、ケシカラヌマデ落涙セラレ侍ケレバ、主上モ御涙セキアヘサセオハシマス」とあり、「四条中納言此世ノ思出ハ是ニ侍リ」と言ったとある。 ここ迄「和漢朗詠集」の紹介をして参りました私・草加の爺の下心は、俳聖と言われる松尾芭蕉の大傑作「奥の細道」をご一緒に味読・鑑賞してみたいという、一点にありました。それと申しますのも、私は一時期、毛筆書道に嵌まり込んで、熱中して書きまくった経験があるから…。殊更に、特定の先生に私淑したわけではなく、あくまでも私流の、つまり勝手気ままな 自己流にしか過ぎません。王羲之・顔真卿に始まり、空海、良寛、かな文字古筆に至るまで、書きに書き、文字通りに書きまくりましたよ、なんと!何かの必要があったからではありませんで、それ自体が、筆を執って白い紙に墨を載せる事自体が楽しいから、そうしたまでのこと。夜中に、酔っ払って帰宅した際などにも、硯で墨を静かに下ろしている時間が待てないので、準備してあった墨汁を使っては欧陽詢や猪遂良、傅 山などを書き殴る、乱暴ですね、不謹慎ですね、でも、気分は実に 爽快 なのであります、実を申せば。で、ついつい、病みつきになって、「心の、精神の スポーツ」などと勝手な名称を附して、大いに楽しむ事も稀ではありませんでした。その流れで芭蕉の名文をじっくりと噛み締める時間を、貴重な体験を持つことができたのであります、はい。有り難かったです、実に。 月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年(とし)もまた旅人なり。舟の上に生涯(しやうがい)をうかべ馬の口とらへて老(おい)を迎ふる者は、日々旅(たび)にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて漂泊(へうはく)の思(おもひ)やまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋、云々―行(ゆ)春や 鳥啼き魚(うを)の 目は泪(なみだ) あらたふと 青葉若葉の 日の光 啄木(きつつき)も 庵(いほ)はやぶらず 夏木立(なつこだち) 野を横に 馬引きむけよ ほととぎす 田(た)一枚(いちまい) 植ゑて立ちさる 柳かな 風流の はじめやおくの 田植(たうゑ)うた 世の人の 見つけぬ花や 軒の栗 早苗(さなへ)とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり) 笈(おひ)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 紙幟(かみのぼり) 笠島(かさじま)は いづこ五月の ぬかり道 桜より 松は二木(ふたき)を 三月(みつき)ごし あやめ草 足に結(むす)ばん わらぢの緒(を) 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡(あと) 五月雨(さみだれ)の 降りのこしや 光堂(ひかりだう) 蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(しと)する 枕もと 涼しさを 我が宿にして ねまる也(なり) 這出(はひい)でよ かひ屋が下の 蟾(ひき)の声(こゑ) 眉掃きを 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花 閑(しづ)かさや 岩にしみ入る 蝉の声 五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川 (後略)
2016年02月06日
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第 三十八 回 目 世(よ)の中(なか)は とてもかくても おなじこと 宮(みや)も藁屋(わらや)も はてしなければ ― 世の中の事は、どうであれ、結局は同じ事さ。考えてもご覧よ、金ピカの宮殿だろうが、藁で出来たぼろ家だって、上は上でキリがないし、下は下で際限というものが無いのだから、そうでしょう。 池(いけ)の凍(こほり)の東頭(とうとう)は風度(かぜわた)つて解(と)く 窓(まど)の梅(むめ)の北面(ほくめん)は雪封(ゆきほう)じて寒(さむ)し ― 立春の日、東風が吹き渡って、池の氷も東から解け始める。が、窓の外の梅の北側の枝では、雪が固く封じ込めて依然として寒い。 年(とし)のうちに 春はきにけり ひととせを 去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ ― (陰暦では立春と新年とが一致せず、十二月中に立春を迎えることがあったので)歳の改まらないうちに、立春を迎えたが、この同じ一年を去年と言おうか、ことしと呼ぶべきなのか、ちょっと判断に困る事態であるよ。 水を拂(はら)う柳花(りうかわ)は千萬點(せんばんてん) 樓(ろう)を隔(へだ)つる鶯舌(あうぜつ)は兩三聲(りやうさんせい) ― 「暮春(春の末、晩春)の心を詠む」 柳枝が花をつけること千万点、池の水面に垂れて水を払い、鶯が二三声、重層の建物・楼の向こうから聞こえてくる。春が暮れようとしている時期に、柳の枝の花(柳のわた)は繁く、鶯の声は希に聞こえてくる…。 翔(つばさ)を低(た)るる沙鷗(さおう)は潮(うしほ)の落(お)つる曉(あかつき) 絲(いと)を亂(みだ)る野馬(やば)は草の深き春 ― 早朝、潮が引いた後の沙洲(砂の浅瀬)に鷗は翼を垂れて遊び、行く春の青草の野には、かげろうがゆらゆらと糸を乱して揺らめいている。 人更(ひとかさ)ねて少(わか)きことなし時(とき)すべからく惜(を)しむべし 年常(としつね)に春ならず酒を空(むな)しくすることなかれ ― 少年時代は二度と来ないから寸陰(わずかな時間)を惜しんで学ばなければならない。一年に春は二度と廻って来ないから、暮春を惜しんで酒の楽しみを尽くせよ。 いたづらに 過ぐす月日は おほかれど 花みてくらす 春ぞすくなき ― 空しく過ごす月日は多いのだけれども、花を見て暮す春の時間は誠に短いことだ。 もうお気づきでしょうが、「和漢朗詠集」からのアットランダムな引用でありますが、これは今日の演歌のルーツと言って良いもの、と申し上げたら、或いは吃驚なさる方がいらっしゃるかもしれませんね。この集は題名の通りに、日本と中国の詩文や和歌の 触り を集めたアンソロジー(詩華集)であり、しかも朗々と声に出して、妙なる調子を駆使して吟じたものでありますよ、平安貴族たちが、挙って、熱中した。自分たちが自家薬籠中のものとしている名文を、名調子で心ゆくまで歌い込み、心を許しあった 心友・親友 たちと一夕の宴をエンジョイする。昔も今も変わらぬ人の世の楽しい営みであるますよ、本当に…。
2016年02月03日
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