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第 七十五 回 目 出家した義清の前に、現世が別の相貌を呈して、現れてきた。恋の為、己の生存の証の為にも、捨てて悔いなかった筈のこの世での生活が、非常に愛おしく、愛着あるものに思えて来た。妻や愛娘との家庭生活、院に仕える公務、父や母や弟達との情愛、朋輩達との友情、どれもこれもが堪らなく懐かしく、掛け替えのない貴重な物に見える。彼の心に迷いと後悔の念が、生じたのであろうか?否である。浮世を本当に捨てた者にだけ解る真実というものがあるのだ。心の迷いや後悔と呼ぶには、余りにも美しく、又、限りなく大きな現世に対する、愛惜の情である。 そうした人生への量り知れない魅力に目覚めた義清にとって、己の強さや勇気を証明する行為であった、得子への闇雲な情熱もまた、違った意味を持つに至った。在俗時の彼は燃え盛る炎・得子を目指して突進し、為に身を焼き盡くす夏の虫さながらであった。しかし今は得子は夜空に燦然と瞬く星である。彼の新しい人生の門出に、明るい希望の灯火を掲げる、暁の明星の如き存在と化した。 とは言え、秋の夜長に一人虫の音に耳を傾けている折など、心をよぎる寂寥と孤独の想いは、遠くかそけき光の存在を忘却させる。誰に縋り、何に頼って、生きていこう…。或る時は、月影にも擬える御仏の教えが、また或る時は昼の太陽に譬えられる神の存在が、彼の苦境を救い心を慰める縁として、顕現することもある。が、神や仏は余りにも実体のない、非人間的な対象でありすぎる。今の義清が一番必要としていたのは、彼と同じ血の通っている、近寄れば暖かい体温の感じられる、人間であった。人間でなくとも、せめて声を発して鳴く虫や獣なりとも、と淋しさに耐え切れずに、思うこともあった。それでも、夜毎に細って行く蟋蟀の声を耳にする際には断腸の愁いを重ね、一層苦しみをますばかりである…、人が恋しい、恋しくてならない。気も狂わんばかりの煩悶は、幾晩も繰り返し襲ってくる。そんな最中に、月の光が妖しい魔力を添えて、萩原の其処、此処に潜み隠れている悪鬼共の影を、彷彿とさせるのだ。義清の衰弱した神経が、奇っ怪な幻影を闇の世界に展開させるのか、はた又、俗塵を去った清浄な心眼が、仮の世に宿る真実の姿を、垣間見させるのか、定かではなかった。義清にはっきりと解っていた事は、その鬼共の醜怪な容貌も、不様な動作も、彼にとって等しく心懐かしく、慕わしい昔馴染みにも似た、仄かな、しかし確かな郷愁の情を齎してくれる好ましい性質のものなのだ。 日夜を分かたず襲ってくる、様々な煩悩と寂寥の責め苦が、義清に発見させたもう一つの物、それは文学、和歌であった。学問であると同時に、上流貴族社会に身を処す社交上の大事な道具でもあった、敷島の道・歌道が出家した義清に謂わば仮面を取った、素面の魅力と可能性とを、自ずから啓示するに至ったのだ。彼の歌人としての資質が然らしめた、必然であると言えるかも知れない。兎も角、義清は自己の種々の心の憂さを 三十一文字に託して吐露したのである。それは義清の強靭な生命力の発露であり、自分自身に対する積極的な肯定の姿勢にも、道を通じていた。但し、彼自身の主観的な立場に即して言えば、死にもの狂いの必死さに近い、足掻きにほかならなかったが。 俗世の諸々の絆を一応断ち切った身にとって、心を遣り、縋り付くべき対象は、実体の無い 言葉の世界 にしか見出し得ない道理であった。そしてまた、僧侶としての彼の本業たるべき仏道修行と、彼が今新たに発見し直した、この和歌の道とは決して矛盾も齟齬も、しなかったのだ。いや、そればかりではない。両者は積極的で、密接な関連を有していた。己の心の苦闘をぶつけ、格闘する相手は、自身の中にもあったがもっと大きな存在、血筋とか宿命とか呼ばれ、或いは、歴史とか自然とかの言葉で表現される、自分を遥かに超え、自分を支配している何物かとの対決、この方が比重が勝っている…。 別の言葉で言えば、己と戦うことによって、御仏と戦うことでであった。人の世に偏在する永遠の存在を、己の中に発見する事、と言っても良い。弘法大師空海の説く 即身成仏 とは、その様な事を意味するのではないか?難解な「即身成仏義」を熟読玩味した果てに、彼が掴んだ一応の解釈でもあった。
2016年07月29日
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第 七十四 回 目 いつになく思い詰めた眼差しで彼女を見る、夫の視線が言葉や声よりも雄弁に事の次第を、告げていたのである。想えば、短い夫婦としての縁であった。先の世からの約束事とは言え、別れの淋しさを軽減する術は、この世には見当たらない。人として、またか弱い女の身として唯一つ出来ることは、大きな悲しみに浸り、存分に涙を流すことしか無いのである。 京都西山の山裾にある勝時寺で剃髪し、仏門に身を置いた義清は、その後数年の間、洛外の嵯峨、東山、鞍馬と坊を移している。家を出る際に、あの聖から与えられて日夜読み耽った「即身成仏義抜萃」だけは忘れずに、僅かな身廻品の中に入れてあった。 季節の変わり目毎に、実家から衣類や日用品など共に、妻からの便りが添えて届けられたが、義清の方からは返事を書かなかった。 始めの時期、義清の周囲には天台の僧侶が多かった。自然、天台の教義と仏教観から強い影響を受け、仏教の根本経典である法華経を学び、且つ、修行することになった。 仏教の教義を学び、仏道修行をすると言っても、義清の場合には、僧侶として身を立てる考えなど、毛頭なかった。家柄・地位・身分など、この世のあらゆる繋縛を脱して、新しい人生を生きる為の自由な立場に立つこと。世を捨て、しかも、この世をより能く生きる権利と資格とを、我が物にするための修行だった。消極の極みを経て、真の積極に達せんが為の方便とも言えた。そのことを、彼は最初から強く意識していた。しかし、そのための犠牲と損失も、少なくはなかったのである。 肉親に対する天然自然な愛着を振り払い、世間的な、ごく当たり前な野心や権力欲を断ち切り、そうして、人生の謂わば表の舞台から姿を消すという事は、何と言っても、辛く切ないことだった。強い挫折感と、敗北感とを噛み締めねばならなかった。それを象徴するのが藤原得子との悲恋である。 義清が出家を遂げた翌年、永治元年三月に鳥羽院は出家して法皇となり、その法皇の意によって崇徳天皇が譲位、僅か三歳にしかならぬ幼帝・近衛天皇が践祚した。こうして近衛天皇母となった得子は、直ちに皇后となっている。一方は、女の身としては現世に於ける最高の位にまで上り詰め、片方は、名もない世捨て人の境涯に落ちる。その激しい隔絶は、唯々、目を覆うばかりである…。偶々、同じ時節にこの世に生を享けて、互い魂が惹かれ合い、心と心が激しく寄り合った男と女が、晴れて相擁し合う事が許されなかった。のみならず、両者が自身にまたの逢瀬をきつく禁じなければならない立場へと、自ら追い込んでいたのだ。女が皇后としての自由を手にしたのなら、男は世捨て人としての勝手気儘さを持った。が、互の自由や気儘さは、二人が相手を求め合う行為だけは、絶対に許さない性質のものであった。 女御・得子は北面の武者を密かに愛し、恋慕する心の自由を有していた。鳥羽院の寵愛を受けながらも、不倫の恋は、心理的に可能であった。また義清は、身分の低い下僕として、一命を擲つ覚悟さえつけば、己の恋の野望を遂げる事が出来た。現に二人は、後にも先にも一度だけではあったが、密会に成功している。内実は、密かな逢瀬とは名ばかり、形ばかりの出会いではあった。が、ともかく義清は得子の局まで忍んで行き、己の胸に得子を抱擁している。黒髪に頬を擦り寄せている……。 しかし、現在ではそれが不可能になっていた。周囲の状況が変化したからではない、二人の気持ちの在り様が違ってしまったのだ。義清の場合、出家する覚悟は、この奇しき不倫の恋を諦める覚悟から発していた。出家とは、唯に己一身の何物かを捨てるに過ぎなかったが、得子との恋に命を賭けるとは、己の一命の他に妻子や親・弟妹、その他一門の係累に列なる者達の、安穏な生活を悉く破壊する事を意味していた。それ程の重大な危険を敢えて犯すと、と言っても、畢竟するするに、己の現世的な利己心を滅却することでしかない。若い義清は恋の猛火の中にそれを投げ入れて悔いないだけの決意を、一旦は固めていた。自分を卑怯者とは思いたくなかったので。自分に対決を迫る強大にして圧倒的な力の前で臆する、己を恥じた。己の勇気の証さえ立てば、不倫の恋が成就するか否かは、問題でないと信じた。その強い信念があったればこそ、命を賭して、得子の許に忍んだのだ。不幸にして発覚した際には、潔く自害して果てる腹であった。 また得子は、その美貌の故に鳥羽院の心を捕え、皇后の位に昇った。それは確かに彼女の積年の宿願であったし、その為にあらゆる手段と策を盡くした。ある意味で本望であった。女の身としてこれ以上大きな倖せと満足とを、味わう者は外には居るまい、とも実感している。しかしながら、女の業とでも呼ぶしかない紅蓮の炎(ほむら)は、鎮まりきってはいなかった。望みが全て叶えられた今、叶わぬ想いだけが、次第に大きさを増し、ジリジリと彼女の胸を焦がし続けている。そして、彼女の中の母性が、我が子を天皇に持つ母親の心が、地獄の苦しみに耐える恐ろしい程の力を、彼女に与えているのだ。むしろ、こう言う方がより正確かも知れぬ。つまり、完成されて目の前に存在する現実に較べて、未遂の儘に残った恋の理想は、余りに力弱く、儚な過ぎたと。
2016年07月24日
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第 七十一 回 目 力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をも、憐れと思わせる――― と、先人は説いた。が、己の心の中に在り、胸底に渦巻いている万感の想いを、言葉に託すことは、蓋し至難の業であろう…。言葉に掬われ得ず、表現として形を成さずに滅んでいった数々の感情や想いたち。それら、無数の恨みを嚥んで虚しく幽冥界に、今尚彷徨い続けているに相違ない、忘れられた情念、そして感情たち。無数の 亡者 たちが言葉を失って、茫然自失している義清の耳元で、嘲り、罵る声が聞こえてくるようだ。以心伝心、無言の裡に相手の心をそっくり感じ取り、また、こちらの想いが先方に通じるものなら、どんなにか人の心が休まり、安らぎを得ることが出来るであろうか…。 何も言わずに心が相手に通じる場合とは、始めから分かりきっ事柄だけ、言わずもがなな内容のみ。本当に、真剣に伝えたい心は、まだ母親のお腹の中にあって、顔も形も分明でない胎児の如き、正体不明の存在である。流産し、或いは、母体の安全の為に故意に堕ろされる嬰児たちが、この世の日の目を見て、健やかに生い立っている子供達より、劣っているとする理由など、何処にもないのだ。恐らく、数の上でも圧倒的に多数であろう、水子たちの霊が和歌の道、言葉の芸術の天分を豊かに賦与されていると、自他共に認めている義清の、現在の為体(ていたらく)を見て、蔑み浅んでいる様子が、眼前に彷彿とするのである…。 恰も日光を受けて濡れているかの如くに映じる、玉砂利から視線を転じ、松の枝に懸って澄み渡っている、月の面を眺めると、義清の波立っている心が、苛立った気持ちが鎭まり、冴え冴えとした晴れやかさが、次第に胸中に漲って行く。 酒の酔いも程良く全身に廻って、陶然たる恍惚感が、忽ちに彼の躯を支配していた。月に酔いまた酒に酔い、そうして切羽詰つた己の妻に対する、苦しい釈明の義務感から解放された義清は、急に唄を歌いたいような、気分になっていた―― またもや残暑がぶり返して、真夏を思わせる強い太陽が、校庭一杯に照りつけている。木曜日の放課後であった。眞木が図書室で調べ物をしていると、佐々木法子が入ってきた。 法子は、教頭が隅にいることには気附かず、真っ直ぐに、校庭に面した窓際の書棚の方に、進んだ。しばらく何か本を探している様子であったが、やがて一冊の分厚い百科辞典を手にして、眞木のいる隅の机にやって来た。眞木の斜め前の椅子に腰を下ろしてから、始めて彼の存在に気附いたらしく、ぎくりとしたように、一瞬教頭の顔を見た。眞木の狼狽の方が、法子の驚きよりも強かったであろうが、少女は教頭に黙礼しながら、頬を赧く染めた。彼は心の動揺を誤魔化す為に、エヘンと一つ咳払いをして、後は全く少女を無視した如くに、目の前の資料のファイルに視線を落とした。そして、熱心に内容を検討する風を装った。が、彼の全神経は、少女の方に集中していた。常に眼の隅に、斜め前の少女の存在が、捉えられている。 佐々木法子はしばらくは躊躇するように、辞典を閉じたまま、顔を伏せるようにしていたが、教頭が自分のことなどは眼中に無いように、書類に見入っている気配を察してか、やがて思い切った如くにページを繰り始め、何かの項目を一心に探している。全身を耳にしている眞木は、少女が何について調べようとしているのか、ひどく気に掛かるのだ。そのうちに眞木は我慢が出来なくなって、身を机の上に大きく乗り出し、少女の読んでいる頁を、上から覗き込んだ。果たして、彼が予期した通り、法子は「売春」の項目を見ていたのだ、しかも、それは彼が最初に思った百科全書や辞典の類ではなく、六法全書などの法律に関する辞典である。彼は咄嗟に、全ての事情を、了解していた。母親のみならず法子までが、不純な行為を犯していたのだ。彼は直ぐに、どこか適当な場所で、少女に厳重な注意を与えなければいけないと、考えた。何故か、ここでは、校内の図書室では都合が悪いと、思った。 他の生徒たちや担任の尾崎の目につかない、静かな場所。出来れば全くの二人きりになれる、秘密の場所が必要であった。…気が附くと、いつの間にか眞木は、校門を出て、バス停がある方向とは逆の公園の方へと、足早に歩いていた。佐々木法子は、そのあとから素直について来る。その法子が、何を考えているのか見当もつかないような、無表情な顔付きをしているのを、眞木は後ろを振り返って見なくとも、解っていた。 公園には意外なほど人影が多かった。寄り添うように散歩する、高校生らしい男女、子守をしている老婆、ベンチに腰掛け所在無げにスポーツ紙に目を通している労務者、ブランコや滑り台で遊んでいる幼稚園児と母親など、どこの公園でも見られる風景であった。 眞木がちょっと困ったようにしていると、こちらの心理を見透かした如くに、法子が「いい場所を知っている」と言って、表通りに向かって歩き始めた。眞木が慌てて後を追うと、法子は折りから通りかかったタクシーを停めて乗り込み、眞木に対して急ぐように、手で合図した。眞木が急いで法子の隣りに乗り込んだのと殆んど同時に、タクシーは猛烈な勢いで、走り出していた。彼が乗る前に法子が既に行き先を告げているのか、ドライバーは目的地を心得顔に、スイスイと車を走らせ続ける。 法子は、まだ新しい手提げカバンを膝の上に載せ、その上にきちんと両手を重ねている。恐る恐る横目で、法子の顔を盗み見してみる。血管が透けて見える、白い、潤いのある肌。そこに密生している細い綿のような産毛、濡れて、形のよい、弓型に弧を描いて、伸びている睫毛。それらが、窓からの逆光を受けて、眩く輝いている…、眞木はこの少女の不行跡を、厳しく窘め、叱責しなくてはならない自分の立場を忘れて、少女といることの幸福感と、満足感に浸った。
2016年07月14日
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第 七十 回 目 夫の自分に対する態度には、何も変化がなかった。その優しい心遣いには、むしろ、一段と温かい気持ちが加わった気さえする。しかし、はっきりとこれと捉え、その正体を見極める事はできないながらも、確実に夫の心が、日一日と、何処か彼女の手が届かない遠い場所に、離れていく様が解るのであった。彼女はひとり苦しんだ。また、悩んだ。そうした鬱屈した心が身体に悪い影響を及ぼしたのであろうか、長男を失ってから一年後に、今度は流産してしまった。が、やがて今年四歳になる女の子が生まれた。夫が、あんなにも嬉しそうな様子を顕にしたのは、何年ぶりのことであろうか。待賢門院様の女房方に依頼して、高価な布地の着物を、愛娘のために作っていただいた事もあったし、お上の宴席に列なる光栄に浴した折には、珍しい菓子類を土産に、そっと忍ばせて帰ったこともあった。この愛らしい一人娘を媒介にして、私達夫婦は結ばれているのだから、この娘がいる限りは、元気で健やかに成長を続けてくれている限りは、夫との間は、上手く行くかも知れない。そんな風に、自分自身を励まし、勇気づけてきた日々ではあったが、彼女の心を吹き抜ける隙間風の存在を、否定し切ることは叶わなかったのである 世間の噂に上った待賢門院様とのこと、また、女御・得子様との根も葉もない世評、どれもこれも彼女の心を微動だにさせたことはなかった。そういう方面で、彼女が夫に寄せる信頼は絶対的なものがあった。世間の若い夫達は、それぞれの身分と甲斐性に応じて、正妻の他に二人も三人も側室を抱え、更に大勢の女性たちをその時々の交際相手と定めて、様々な交渉を持っているようである。彼女はそうした時代の風潮の中に成人し、かかる結婚制度を別に、不自然とも感じていなかった。 女性たちの間にも、昔からの悪しき遺風が生き残っていて、男達の行動に匹敵するだけの自由さを、恋愛乃至結婚の行動・行為の中に、しっかりと確保していた。男に、恋愛や結婚に於いて自由気ままが許されるなら、その相手である女もまた、自由気ままであるのは当然の帰結であると、彼女は素直に考えていたのだ。確かに考えの上では、彼女は現実肯定論者であった。が、実際の行動の面では、大分様子が違うようでもあった。彼女は夫に対して貞潔であった。のみならず、娘時代の彼女も、男に対して潔癖であった。彼女の家庭環境がそのように仕向けたのだとばかりも言えない。現に、彼女の異母姉は地方の豪族に嫁ぐ前に、かなり自由な恋愛を享楽していたし、又、それを口煩く咎められるということもなかった。貧乏な、地方の侍階級の娘ならいざ知らず、財力のある両親が後ろ盾にあるならば、女の貞操など結婚の条件として、あまり重要な意味を持ってはいない。それが世間の常識というものであった。世間が、周囲の眼が、性的な放縦を黙認するからと言って、人様の如くに振る舞えないのが、彼女の生まれながらの気質であった。 娘時代に、乳母や家庭教師役の女などが、男を彼女に手引きしようとしたことがあった。それは彼女達の好意や親切心から出たことであり、彼女自身もそれを承知していたが、以来、彼女はその女たちを、決して自身の身辺に近づけようとしなくなった。彼女には子供の頃から、信念のようなものがあった。―― 自分の夫になる男性は、この世に一人しか存在しない。そして、自分は生涯にただひとり、その男性しか必要としない。その運命の男性と出会う事ができないならば、死ぬまで独身を貫き通そう。いつの頃からか彼女は心に固く、そう決めていたのである。そんな、実の両親にとっても風変わりで、理解し難い所のある娘が、佐藤義清の名を聞くと、直ちに結婚を承知したのである。今回も頑な拒否を予想していた両親は、逆に、拍子抜けがしたような気分に、陥ったくらいである。所が、彼女には既に心の準備が出来ていたのである。 或る夏の夕暮れのことである。祖母に連れられて物詣でに行った帰り、彼女は一人の若者の姿を、目撃していた。赤毛の裸馬に跨ったその若者の、真っ黒に陽灼けした肌が、汗で光っている。若者はその時、沈み行く夕日を眺めているものの様であった。よく熟した卵黄の如き日輪が、最前までの猛々しい輝きを、思い切りよく断念して、全身の火照りを静かに収める時を稼ぐかのように、ゆっくりと、しかも王者に相応しい風格を漂わせつつ、垂直に落下する。息を呑むような荘厳さが、世界を支配する一瞬であった。凛々しい若者は金色の光の箭を、躯の真正面から受けている。馬が軽く前足で地面を蹴り、首を縦に二度三度と、上下させる。次の瞬間、若者の手にした笞が鋭い音を立て、馬は忽ち、全速力で疾駆を始めた。人馬はそのまま近くの林の中に、その姿を消した。彼女は、その時自分が眼にしたものは、果たして金色の太陽であったのか、褐色の若者の姿であったのか、判然とはしなくなってしまった…。祖母が耳元で、若者の名前を囁き、教えてくれることが出来なかったとしたら、彼女はきっと、自分が幻を見たのだと、判断したことであろう。 彼女は今でも、あの時の情景を思い浮かべると、不思議な気がする。夫、義清はあの時、本当に夕日を見つめていたのだろうか。彼女には、どうしてもそうは見えなかったのだ。夕陽が義清を凝視していた、或いは、義清が自分の姿を、追っていた―― 上手く表現できないのだが、そんな風に言う方が、まだしも真相を、彼女が受けた実際の印象に、近いのである。どう考えてみても、義清が太陽であり、太陽が義清なのである。両者が渾然一体となって、突如、彼女の前に湧出した。そう解釈するよりほかに、仕方がない。彼女はこの体験を誰にも語ったことがない。夫にも話していない。話す必要もないことだったから。彼女が神の啓示を受けて、夫たる人物を発見した。結局、ただそれだけの、彼女にとってだけ意味のある、事柄であったからだ。 そして、仮に神が彼女に指し示した義清のイメージが、黄昏の日輪であるならば、美しい残照を見せたまま自身は彼方の空に没する、夕陽である夫はやがて、彼女の許を去っていくであろうことは、容易に予感された。勿論、いかなる理由によって、どのような具合に、そしてまた、どのような時期においてなのかは、分からなかったが。 しかし、あの長雨の日、全身濡れ鼠になった夫が、一冊の書物を大事そうに抱えて戻った際、なぜかしら彼女は、夫との別離が間近に迫った事を、直覚した。 あの日以来、勤めから帰ると昼も夜も、彼女には内容の想像もつかない、難解な経典らしい書物を耽読する夫の姿を見る度に、次第に彼女の密かな確信と不安は、大きくなって行った。ただ、無邪気な幼子の、無心に戯れる様子に視線を注ぐ、夫の表情に、微かに動く、安らぎの翳だけが、覚悟は出来ているとは言え、今では精神的にギリギリの限界にまで追い込まれた彼女の、誠に儚い、望みの綱であった…。 九月十五夜の満月が皓々と夜空に照り映え、眩いばかりの白銀の箭が、広い庭一面に射込まれている宵のことであった。珍しく夫の義清が酒を飲みたいと所望した。どちらかと言えば下戸の方で、家では滅多に盃を手にしたことのない夫である。いそいそと酒肴の準備を整える妻の心には、身内を駆け抜ける戦慄に似た強い緊張感があった。月見酒だから一緒にどうだと、夫から盃を勧められた時には、彼女の瞳に、思わず涙が浮かんでいた。その雫が、月の光を受けて真珠色に輝いているのを、義清はしばらく無言で見ていた。彼はその時、突然胸に堰きあげる火のように熱い想いを、懸命に怺えていたのである。涙で潤み、月の雫を加えて仄かに霞んでいるのは、妻の瞳であるのか、それとも、自分の方なのか…。辛うじて涙の落ちるのを我慢した義清は、再び視線を庭の方向に向けた。 様々な想いが、色々な言葉が、義清の胸に去来している。一体、何を、どう語ればよいというのだ。長年連れ添い、夜毎にその肌に触れ、秘部を接してきた妻に対してさえ、いざという場合に、言葉が用に足りない。さすれば、言葉とは、人にとって何の益をもたらすと言えるだろう。
2016年07月09日
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第 六十九 回 目 が、彼の淡い初恋は、ある日、誠に呆気無く終りを告げた。しばらくして、その女性が町に姿を見せなくなった頃、人伝にその女性がお嫁に行ったことを、知ったのである。眞木はその時、自分がほっとしたと同時に、大声で泣き叫びたい程、悲しかったのを、覚えている。どちらの気持ちも本当であり、自分はもう二度と、似たような想いを経験することはあるまいと、何故か予感していた事も、記憶に残っている。 予感は見事に的中し、青春時代を通じて彼は、再び恋心を覚えることがなかった。今にして思えば彼に恋をする能力が欠けていたと言うよりは、それに相応しい相手に邂逅わなかったのだ、と考える方が正しいのかも知れぬ。しかし、今頃になって相手にもよりけりだが、何とも不釣合いな相手に対して、実に奇妙な感情を抱いてしまったものだ。人間が本来自由ではないと言ううのは、斯の如き現象を言うのであろうか? 人の心というものが自分の意の如くにはならず、何か途方もなく理不尽な、巨大なる力によって操縦されているとすれば、隣の奥さんが突然蒸発した事も、別に驚くには当たらない。空飛ぶ円盤だとか、宇宙人だとか、合理精神に惚れ込んだ現代人たちが、不合理なもの、神秘的な現象に対して、一見すると科学的と思える衣装を着せて、自分自身に目潰しを喰らわしている。物の怪といい、妖怪といい、一体、宇宙人とどこがどう違うと言うのだろう…、合理や科学に対する打ち込み方、のぼせ方が不足している為だろうか……、佐々木法子の母親が男好きで、売春まで行っているにせよ、彼女のその 不行跡 を背後から操っているもの、昔の人が「血」と呼んでいたものの存在を、認めるとするならば、誰が正面切って彼女を批難し、また、軽蔑し去ることができるだろうか。その様な資格のある人間は、そもそも一人も存在していないのではないか、キリスト教やイスラム教が説く唯一絶対の 神 以外には。眞木は、そこまで考えてきて、待てよ、と自分を警戒し、反省する気持ちになった。十三歳の未熟な少女に、不可解な恋心を覚えるという、己の心の異常さを弁護したい心理が、粗雑な思いつきの屁理屈を、あたかも大哲学者の、深遠な哲理の如くに錯覚させていはしないか。小さな剃刀で足りる場面に、大きな鉞(まさかり)を持ち出したりしてはいないか… --- 保延五年五月、鳥羽上皇に皇子・体仁親王が誕生した。皇子の母親は、待賢門院・中宮璋子と上皇の寵愛を競う、女御藤原得子であった。七夕の夜、義清が女御の局に密かに侵入した、翌年のことである。三月後の八月、早くも体仁親王が皇太子となるに及んで、上皇の愛情を一身に集めることに成功した女御得子と、待賢門院・崇徳天皇母子との間の、数年に亘る激しい確執には、事実上終止符が打たれた。女御と中宮との勢力が、完全に逆転したのである。尚も、執拗に巻き返しを謀る四十歳近い待賢門院の姿には、鬼気迫るものがあった。若い頃から上皇を熊野へ誘って、足繁く参詣したのは、何のためであったろう。そう言って悔し涙に噎ぶ、中宮の悲嘆の御様子は、義清もお側附きの女房達や、徳大寺公能を介して、耳にしていた。更に、この様な事態に立ち至った時点での、当今・崇徳天皇の胸中も、察するに余りあるものがあった。鳥羽上皇に実権を掌握され、結局は上皇の意図に従わざるを得ない、形だけの帝としては、生まれたばかりの異腹の皇太弟・体仁に、位を譲らなければならないのは、時間の問題だったからである。 今、義清の心は、この天皇に強く惹かれた。不幸な出生故に、父親の鳥羽院から疎まれ続け、今また盛りを過ぎた母中宮とともに、権力と栄光の中枢の座から、追い落とされようとしている。火の手は不気味な黒炎を燻ぶらせながら、既に直ぐ足元にまで達しているのだ。 義清は世を捨てる決意を固めて以来、この悲運の天皇に対し、幾度か匿名で、慰めの和歌を贈った。天皇に対する臣下の感情ではなく、同じ人間としてこの世に生き、苦しみ、悲しみを共有する者としての、人間愛に溢れた歌であった。その底には、深い同情と、限りない温かさとが、秘められていた---- 翌、保延六年、佐藤兵衛の尉義清は出家し、法名をを圓位と称した。時に義清、二十三歳。世を捨てる覚悟は二年前からきっぱりと出来ていたので、父や母には内々の承諾を得てあった。 家長の座を、温厚な弟の仲清に譲りたいというのが、義清の腹でもあった。数年前まで長子の義清に過大な望みを託していた、父康清も、従来通りの左兵衛尉止まりの藤原 ― 佐藤家の家柄に甘んじる気持ちが年を追うごとに強くなっており、今日ではせめて眼の中に入れても痛くない程溺愛する末子・仲清に、自分の跡を継がせてやりたいと考えるのが、唯一の望みとなっていたのだ。第一、義清の生母はいわば側室であり、仲清の方は正妻の子であったのだから。 問題はむしろ、義清の妻のことであった。聡明な彼女は、ある意味では義清自身よりも早く、このことのあるのを予知していた。六年前、二人の間に生まれた最初の男子を、病死させてからというもの、優しい夫の心に重大な変化が起こったことを、彼女は感じ取っていたのである。
2016年07月06日
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第 七十二 回 目 車が急停車した気配に、ふと眼を開けると、人気の無い裏通りの景色が橙色の夕陽を浴びて、浮かんでいる。少女にうながされてタクシーを降り、その場に放心下如くボンヤリと佇んでいる眞木の腕を、自分の胸にだき抱えるようにして、法子はすぐ前の小さな門の中へ、足を運ぶ。眞木が躊躇したり、怯んだりする隙を与えない、物慣れた、又、素早い少女の動作であった。 打ち水をした玉砂利を踏んで、玄関に達すると、和服を着た中年の女が、二人を二階の部屋に案内して、去った。全てが無言である。案内された所は、六畳の和室とダブルベッドの置かれた八畳ほどの広さの洋間とからなり、比較的清潔な雰囲気が漂っていた。 入り口に立って、困惑しながら周囲を眺め回している眞木の手を取って、部屋の中央へと請じ入れると、法子は彼の背広やズボンを脱がして、傍らにある浴衣に着替える手伝いをし、卓袱台の前に座らせる。そして今度は、お盆の上にひとまとめに置かれた道具を手に取って、お茶を淹れる準備を始めた。驚いた彼が、初めて見る法子の大人びた、甲斐甲斐しい様子に、只管、見惚れていると、 「わたし、いつか教頭先生と、こんな風に二人だけで、お話がしてみたいと、思っていたのです」 俯いた儘、眼だけ上向けて、眞木を恥ずかしそうに見る法子の仕草が、何ともいじらしく、実際、震い付きたいほどの色気と悩ましい魅力を、白いブラウスと紺のスカート姿から、発散させている……、妻の春美が、嘗てこんなに濃艶で、しかも清潔さを失わない、美しいポーズを夫の彼に対して、示した事があったろうか? ―― 眞木は法子の淹れたお茶を啜りながら、殆んど夢見心地であった。彼は既に教頭としての立場と、少女に対する目下の責務とを、完全に忘却した。思いも掛けなかった愉悦と興奮とが、いつか彼を自分でも驚き呆れるほどに、大胆且つ、自由にしていた。 法子が立ち上がり、隣の部屋に姿を消した。お茶を飲み終わって一服していると、浴室の方から水音が聞こえてきた。法子がお湯をかぶっているらしい。眞木はその音に誘われる様に立ち上がり、ベッドの置いてある洋間に隣接したバスルームの、脱衣場を覗いた。ブラウスとスカートと下着が丁寧に畳まれ、浴衣の脇に脱いであった。「ご一緒に、いかがですか…」と、眞木の気配を察したらしく、中から少女の声がした。彼はごく自然に、何らの抵抗も覚えず、直ぐに裸になり、バスルームの戸を開けて、中に入った。白い湯気の立ち罩める浴槽の中に、少女の白い裸身が沈んでいる。薔薇色に上気した顔の、青々とした両の瞳が、謎めいた笑みを湛えて、彼の痩せた体を眺めている。彼が照れたように少女に背を向けしゃがみ、蛇口から桶にお湯を受けていると、少女は素早く浴槽から出て、彼の背中を流し始めた。去年まで一緒に入浴していた長女の悦子が、気が向くとこうして呉れたことを憶い出したりしたが、自分が現在、教え子の少女と不道徳極まりない行為をしているといった、罪の意識は、不思議と湧かない。それどころか、自分の娘と入浴している以上に自然で、何か非常に寛いだ気分に浸れるのだ。彼の四十数年の人生の裡で、今のように心がゆったりとし、又、伸び伸びした気持ちを味わうのは、初めてのように思える。背中を上から腰にかけて流すにつれ、少女の片手が彼の肩や首筋を、軽くつまむように移動する。石鹸の泡でスベスベした感触が、一種小気味よい快感を齎らす。眼を閉じて、その快感に浸っていると、少女が唱歌を歌い始めた…。 「父さん、お背中(せな)を流しましょ、さらソロ、さらソロ、さら、ソロロ――」 無邪気で、楽しげで、軽く弾むような、声であった。美しい、夢のような、歌であった。彼は思わず目頭が熱くなるのを、覚えた。背中を洗い終えた少女が、湯船からお湯を汲んで、肩からかけて呉れる。有難う、声にならない感謝の言葉を、口の中で呟いて、眞木は浴槽に浸かった。 少女が腰掛けに座って体を洗い始めた。雪のような泡が、全身を覆って行く。「今度は、私が背中を流してあげよう…」、すべすべした肌理の細かな少女の背中は、小さな染みひとつなく、靄のような薄い脂肪の光沢が透き通って見える皮膚は、娘の悦子とは違う、女性らしい丸みと弾力を、帯びている。しかしそれは、妻の春美のそれのような官能的な佇まいを、少しも示していない。謂わば、無色透明な女性美が少女の背中から、匂い立っていたのである。眞木が背中を洗い終えると、少女が立ち上がりごく自然に、体の向きを変えた。タイルの上に胡座をかいていた彼の、丁度目の位置に少女の股間があった。恥毛の生えていない、のっぺりとした下腹や、膨らみの見られない胸部は、次女の和恵のそれと類似していた。彼は無心で、ただ少女の手足を丸めた手拭いで、擦っ行く。たっぷりと泡立った石鹸が、瞬く間に、少女の胸から腰、太腿から足先までの皮膚を隠す。
2016年07月02日
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第 六十八 回 目 気が付くと腕の中に、得子がいた。義清の胸に、そっと頬を寄せるようにして、躯を預けている。悩ましい髪の匂いが、咲き誇る満開の桜花の如き体臭が、若者の鼻を痺れさせる…。気の遠くなるような陶酔と愉悦が、芳醇な、強い酒のように、若者の心を揺すり、蕩かしていた。 「儂は、御方の招きに応じて、参上致した。とうとう、儂は……」 義清は半分譫言のように、低く呟いて、長く豊かな黒髪に埋まった横顔に、眼を落とした。白く透き通るような項が、微かに、微かに、揺れ動いている。若者の逞しい手が、その胸元に触れた瞬間、驚きとも、歓びともつかぬ、小さな声が女の口から発せられ、花びらが風に誘われて枝を離れる如くに、女の躯が若者の膝の上に、沈んでいた。義清は、得子が意識を失った事を、相手の重みで知った。 妻のお喋りを逃れて書斎に戻り、半分惰性のように読んでいる小説に、再び眼を通し始めたのだが、色々と気が散って、はかが行かない。佐々木法子の蒼白い顔が、瞼の裏にちらついて、落ち着かないのだ。 法子の母親というのは、どのような女性なのだろうか?尾崎の説明では、男出入りの激しい、淫奔な性格だと言うが、娘からは想像もつかない思いがする。眞木はさっきから銜えたタバコの先が、長く灰になり、それがポトリと机の上に落ちたのにも気附かず、物思いに耽っている。 ―― 眞木はまだ、小学生の頃に、恋をしたことがある。相手は、恐らく二十歳を越えていたであろう、美しい女性である。無論、恋などとは言えない、淡い憧憬の感情であり、先方にも通じない、一方的な片想いであった。それを眞木が敢えて 恋 と呼ぶのは、それが彼の半生に於ける、唯一の恋情の思い出であり、常に打算を事として行動する現代人である眞木の、計算を超えた、不合理にして不条理な感情で、あったからである。一体に彼は、理屈に合わないこと、説明のつかない奇妙なことは、頭から信じないことにしている。その様なバカバカしい事柄にかかずりあっている時間も、気持ちも持ち合わせていはいなかったのだ。第一に、正体のはっきりしない相手と付き合うことは、不経済に過ぎるではないか…。その様な所から、何か新しい利益や便利が、出てきた験しは無いのである。常に、同じことの繰り返し、袋小路を行ったり来たり。暇を持て余している閑人ならいざ知らず、彼のように忙しい人間には、他にいくらでもすることがあったし、その為には、人生は余りにも短か過ぎた。 初恋を経験した小学校五年生の頃にも、彼にはちゃんとした将来の設計があり、その目的に向かっての日々の生活があった。人は或いは小学校五年生、たかだか十歳かそこらの子供に、何が将来の設計、何が日々の生活と言って、哂うかも知れない。しかし、大人たちが考える程には、子供は子供でないのだ。 彼は学校でも指折りの頭の良い、成績優秀な生徒だった。その彼の将来の夢は、医者になることであった。今日のように、町医者と言わず、大学病院の医師と言わず、軒並みに評判の悪い時代ではなかった。「医は仁術」という古色蒼然たる、美しい夢物語が立派に世間に生きていたし、彼のような子供が本気で医者に憧れ、貧しい人々の苦しみを少しでも救って上げたい、と志すことが可能だったのだ。しかも、表面だけの子供じみた、ロマンティックな単なる夢ではない。経済的な裏付けもちゃんと有った。 その当時、物資が不足して、人々が苦しい窮乏生活を余儀なくさせられていた戦時下にあってさえ、彼の一家が住んでいた東京近県のM市では、医者は一種の貴族の如き、物質的に豊かな生活を送っていることを、彼は知っていた。その頃は彼の家が農家だったので、食う物には事欠かない、比較的に恵まれた生活を送っていたのであるが、何といっても贅沢な医者の存在は、魅力だった。長男だったこともあって、彼は幼時から一日も早く、一家の大黒柱になることを、自分の使命と心得ていたのだ。単なるヒロイズムやロマンティックな美しいだけの憧れに、溺れているわけにはいかなかった。 その彼が突如、得体の知れない、非生産的な感情の虜に、なってしまったのである。その女性は、今考えると恋人か許婚者を戦場に送り出していた、悲しい境遇の人だったのかも知れない。粗末なモンペ姿の彼女を町で見かける時、美しい顔に漂う憂愁の翳りを、彼はいつも発見した。その、子供の彼には理解しがたい悲しみの表情が、一層彼の心に染み、勢い幼い恋心に油を注ぐ結果に、なったのかもしれない。お白粉も塗らず紅もささず、増して今時の若い女性たちのように、カラフルなドレスも身に着けていない彼女が、この世のものならぬ美しさで輝いていたのは、一体何故だろうか。彼女が悲しみというベールを纏っていたからだろうか、それともまた、愛する男性をひたすら待ち続けていたからだろうか…。長い、清潔そうな髪が川岸に芽吹いた柳のように、風に靡くとき、懐かしい郷愁に似た幻の香気が、彼を恍惚とさせた。その瞬間、彼は毎日の勉強も、医者になって豊かな生活を手に入れる、将来の夢も、何もかも実に儚い、蜻蛉のように実体のない、そしてそれ故に自分にとってどうでもよい、詰まらない事の様に、思えてくるのだった。 しかしやがて、その恍惚状態から醒めると、恐ろしい夢魔にでも魅入られた後の如く、薄気味が悪くなってもうその人の事を考えまいと、決意する。だが、無駄だった。学校の教室にいるときも、桜並木の続いた土堤の上を歩いている折も、裏山の叢に寝そべって、青空を眺めている場合にも、その女性の小麦色の面影が、瞼の裏に灼きついて、離れようとしないのだ。そうして、あの人が自分の姉さんだったりしたら、いや、自分がもう大人で自由に恋をしたり、結婚出来る年齢であったら、恋人になれるかもしれない。そうすれば、どんなに自分は倖せなことだろう―― そんなことを、ぼんやりと空想してみるのだった。
2016年07月02日
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