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エベレストの初登頂を目指し、三度の挑戦の末についには 帰らぬ人となり、その75年後に遺体が見つかったイギリスの 登山家ジョージ・ハーバート・リー・マロリーは、記者から なぜエベレストに登るのかと聞かれ、そこに山(エベレスト)が あるからと答えたと伝わっている 名古屋には、そんなチャレンジ精神の気持ちにもなるような 「究極の名古屋めし」を食べさせる事で、全国に名を轟かす 「喫茶マウンテン」があり、春まだ浅い、雨の降る日にも 関わらず、店の中には順番待ちの猛者ばかり 隣の学生風のお兄さんたちは、関東地方からやってきたらしく 「甘いもんが好きなんです」という一人の青年が注文をした 春らしい期間限定の「甘口いちごスパゲティ」が出てくると 一斉に携帯での撮影会状態で、横から私も撮ってもいいかと 聞くと「どうぞ、どうぞ」という事なので マトモなものを注文した仲間が食べ終えても、甘いもの好きと いう割にかなりな苦戦をしていたようだ。恐るべしマウンテン そんな無謀な戦いを旦那と二人でするのも・・・と、私の注文は 美味しそうな普通のジュースにしたら、お菓子なども2つも 付いてきたのが、いかにも名古屋らしい そしてお待ちかねの「甘口抹茶小倉スパゲティ」が旦那の前に やってきた。お~、量も半端ではなく多い。これをぐちゃぐちゃ 混ぜて食べるらしいが、餡子は餡子、クリームはクリームという 食べ方がいけなかったのか・・・・無言・・・・・・・ なんとか二人で完食をしたのだが、いまだにマウンテンという 言葉や、とても甘い抹茶味、スパゲティは旦那にはトラウマだ ちなみに喫茶マウンテンへ向かうことを「登山」、完食すると 「登頂」、一人で食べきる場合は「単独登頂」。残してしまうと 「途中下山」で、食べすぎなどで気分が悪くなると「遭難」と 言うらしい 遭難寸前の状況で、雨の中を向かった先は徳興山建中寺である 慶安4(1651)年に、第二代の尾張藩主である徳川光友が 父の第一代藩主徳川義直の菩提を弔うために建立した大寺院で 江戸時代を通じて代々の尾張藩主の廟が置かれ、創建当時には 周囲は石垣と堀で囲まれて、四万八千坪の境内に多数のお堂が たちならんでいたそうだ しかし天明5(1785)年に火災で多数の建物が焼失をして しまい、後に再建。 火災に巻き込まれなかった総門や三門は 創建当時のものであり、名古屋市指定有形文化財に指定を されている 第二次大戦後の区画整理で、境内の規模は縮小をしてしまい 歴代藩主の墓所も、徳川光友のものを除いては平和公園に 移されている。また廟や門など建物の中には、名古屋市内や 近辺の寺院に移築をされたものも多いそうだ 天明8(1787)年に再建された本堂は、名古屋市内最大の 木造寺院建築とされ、ご本尊の阿弥陀仏像は止利仏師作と 伝わり、大火の時はいち早く持ち出して無事であった お堂の外側には、何やら色んな彫り物があった ここからは別の日に娘と出かけた、名古屋駅前のお話で 駅前の再開発によって、1999年に竣工をした駅ビル JRセントラルタワーズから名古屋城方面を見てみる 建設当時には、中部地方で最も高い建造物だったのだが 現在はミッドランドスクエアに抜かれてしまった。しかし 世界一売り場面積の広い駅ビルとして、ギネス・ワールド・ レコーズに申請をしているそうだ 名古屋駅を発着をする電車や、新幹線も見物をする事も 出来たりもする。ビルにはジェイアール名古屋タカシマヤや 東急ハンズ、三省堂書店といった商業施設や、レストラン街 などもあるので、とても利用者も多い JR東海の子会社が運営をするアソシアホテルズ&リゾーツの 一つである名古屋マリオットアソシアホテルには、幾つもの レストランがあるので、中部地方の懸賞ではお馴染であり 私も何度となく、様々なレストランでタダご飯を食べさせて いただいた 今回は、以前に当たっていた5千円分のホテル利用券を 使って、パーゴラでランチブッフェをいただく事にした いっ・・・いかん・・・・こんなに食べすぎては! またまた 遭難しちゃいそう オマケの画像は、別日の名古屋ドーム横の商業施設からで 旦那が、6月の名古屋ドームでのシーズン・チケットを2枚 タダで貰ったので、今季の公式戦を初参戦が決定。目の前で ドアラのパフォーマンスが見れそうだ ラストのビルは、名古屋駅前のモード学院のビル 平成21年冬から22年早春に、名古屋市内で撮影
2010年05月31日
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織田氏は系図上は桓武平氏流と自称をしているが、実際は 越前国の織田庄(福井県丹生郡越前町)にある織田剣神社の 神官の出自であるといわれている 敦賀の豪族である藤原有仁の一族の藤原信昌、藤原兵庫助将広 父子が越前織田家の先祖ではないかとも言われ、実際に信長も 自らを「藤原信長」と称した事もあるそうだ 越前国や尾張国の守護を務める斯波氏の配下となり、尾張国へ 移住をして尾張守護代となった織田氏は、斯波氏に代わって 戦国大名として勢力をつけ、尾張上四郡を治めた岩倉織田家と 尾張下四郡を治めた清洲織田家に分裂をし対立を深めた 清洲織田家が岩倉織田家と抗争を繰り広げる中で、それを 補佐するべきはずの同族である、清洲三奉行家(藤左衛門家、 因幡守家、弾正忠家)が台頭し、主家をしのぐ始末であった その中でも、尾張南西部を支配する勝幡城主である弾正忠家 織田信秀は、今川氏豊の居城であった那古野城(名古屋城)を 奪取し、愛知郡(名古屋市)に勢力を拡大し、西三河や、美濃 までにも触手を伸ばす有様で・・・ わずか2歳にして那古野城主となった、織田信秀の嫡子である 吉法師(信長)は奇矯な行動が目立ち、主筋である清洲織田家の 清洲城に数騎で火を放つなど、尾張の大うつけと称されていたが 信秀が没した為に若くして家督を継くことになった ところが清洲織田家の織田信友は、信長の弟である織田信行の 家督相続を支持し、信長謀殺計画を企てたのを、名ばかり守護の 斯波義統が事前に信長に密告をした為、織田信友は怒りに任せ 斯波義統を殺害をしてしまったのだ 息子の斯波義銀が信長を頼ったのをさいわいに、尾張守山城主で 叔父の織田信光と協力をし、織田信友を謀反人として殺害た為に 清洲織田家は滅亡し、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し 岩倉織田家を討ち、斯波義銀を追放し、尾張国を手に入れたのだ そんな信長様の清州城に行ってみようと、まだ春浅き頃に 出かけたのだが・・・・・リニューアルの為に臨時休業だった (今なら、リニューアルをした城も見えるでしょう) 仕方がないから、城外にいる敵を討つ為に鉄砲を放つ 「鉄砲狭間(てっぽうはざま)」から、中をうかがう ちなみに、この城は新幹線で名古屋を過ぎた頃に間近に 見ることが出来るので、よくお知りではないだろうか 尾張国の中心に位置し、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し 中山道にも連絡する交通の要所として、長らく栄えた 清州であったが、関ヶ原の戦いの後に徳川家康の九男の 徳川義直が入城して後・ ちょうど四百年前の慶長14(1609)年に、徳川家康によって 清須から名古屋への遷府が指令をされた為に、清須城下町は 名古屋城下に移転(清州越し)され、清須城も名古屋城築城の 資材として利用をされ、廃城となった 清洲城の資材を使った、名古屋城の御深井丸西北隅櫓は今も 残っており国の重要文化財に指定をされている。また愛知県 尾張旭市にある良福寺山門は、裏門を移築したものだそうで 清洲城の障壁画は、名古屋市にある総見寺に移されているとか 歴史の中に埋もれてしまった清州の城跡もまた、時の流れと 共に開発によって大部分は消失してしまい、東海道本線と 東海道新幹線によって分断をされてしまい、今では本丸の 土塁の一部が残っているのみだ 東海道本線の南側の城跡(清洲公園)には、信長の銅像があり 北側の城跡(清洲古城跡公園)には、清洲城跡顕彰碑があり 城址の脇の五条川の護岸工事で発掘された石垣の一部も 復元をされていた 今の天守は平成元年に旧清洲町の町制百周年を記念し、城跡に 隣接をする清須市清洲地域文化広場内に建設された模擬天守だ 斎藤道三と小見の方(明智光継の娘)の間に生まれ、信長の 正室である「濃姫」とは、美濃国出身の高貴な女性という 意味からだそうで、帰蝶(きちょう)というのが本名だとか 信長を本能寺で討った明智光秀とは、従兄妹同士という説も 最後に、フィギュアスケート選手で織田信長から数える事 17代目の末裔である織田信成が、「清須越四百年事業」の PR役として、清州城の名誉城主となった 中部国際空港(セントレア)が開港された事で、長年の間 名古屋と世界を結んでいた、名古屋(小牧)空港の国際線 ターミナルビルが閉鎖をさてたので、その広大な建物は 100店舗以上が入る大型複合商業施設に生まれ変わった そこかしこに、国際空港の雰囲気も残したアレンジが面白い 一日中ここにいても飽きない感じで、家族でまったりと 週末を過ごすのもいいかも うちの場合は食事に寄ってみたが、何を食べるか悩む 屋上のスカイデッキからは、県営名古屋空港を発着する 民間の飛行機や、滑走路を共有をしている航空自衛隊の 小牧基地の軍用機も見物できる なによりでかいウルトラマン。子どもが小さかったら 喜んだろうなぁ 平成22年2月27日に愛知県で撮影
2010年05月28日
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楽天ブログでも、平城遷都1300年祭に沸く奈良へ 行かれたという日記を幾つも拝見し、話題になった 「せんと君」の画像などもあり、いつかは見てみたい とは思うのだけど、いかんせん華がない。かといって 京都出身の島田紳助が、京都市とタイアップをした 「新選組リアン」は、芸能人ぽいので敷居が高いし そんな中、全国の歴女の皆さんが、名古屋開府四百年を 迎える金シャチ輝く名古屋城に出没するのは、名古屋弁で 有名な「河村たかし市長」に会いに来たわけでもなく・・・ (名古屋城では、おいそれと会えません!) 「400年の旅人」と呼ばれ、名古屋市の市章である 丸八印の風呂敷包みをいつも担いだ「はち丸」に 会いに来たのでもなく・・・ (一部、ゆるキャラのファンは会いに来たのかもね) あぁ、コンクリートでできた名古屋城をバックにした 時代絵巻スペクタル! 「名古屋おもてなし武将隊」の イケメンな皆様にお会いしに駆け付けている次第だ その様子は後半のお楽しみという事で、まず名古屋城を 探検するとしよう この地は、駿河の今川氏が尾張守護を兼ねていた頃に その庶流にあたる、那古野氏が領有をしていたそうで 今川氏が、大永年間(1521~1528年)に築城した 「柳の丸」を、織田信秀が城を奪って「那古野城」と 名付けたそうだ 織田信秀の嫡男である信長は、那古野城で生まれたとも 言われ、信秀は那古野城を幼い信長に譲って、古渡城を 築いてそこに移ったそうだ。(勝幡城で誕生をした説も) 織田信秀の後を継いだ若き信長は、一族である織田信友を 滅ぼし、清須城に移り、那古野城には信長の叔父や重臣が 入城したが、のちに廃城となり、鷹狩に使われるような荒れ 野になってしまったという 徳川家康が御三家の尾張藩の初代藩主とする、九男の徳川 義直の居城として慶長15(1610)年に、豊臣恩顧の西国の 諸大名の助役による天下普請で築城されたのが名古屋城だ 縄張は牧野助右衛門が務め、普請奉行は滝川忠征ら5名 作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられ 石垣は諸大名の分担によって築かれたので、それぞれが 自藩の石とわかるように「刻文」が彫られている 中でも異彩を放つ一番大きな石は、加藤清正が運んで きたといわれ「清正石」と呼ばれているが、この石塁の 施工大名は黒田長政であったので単なる言い伝えかも しれないが、なぜ加藤清正が有名であったかと言うと 最も高度な技術を要するという天守閣や小天守の石垣を 加藤清正が築いた為なのかもしれない。遠方で切り出し された石は大きな船に載せられ、海路で熱田まで運ばれ そこからは、修羅と呼ぶ木橇(きぞり)に石を載せて 丸太の上を転がしながら、普請場まで運ぶそうである 加藤清正は美しく着飾った小姓と共に、石の上に乗り 綱引きの人々をはやしたて、沿道の見物人に酒を振る 舞ったそうだ。こうして名古屋城の普請も無事に終えた 清正は熊本への帰国の途中、大坂城で豊臣秀頼に 拝謁したそうである 熊本に帰った翌年に清正は没し、長男忠広が後を継いだが 寛永9(1632)年に、忠広の子でわずか14才の正光が 諸大名の名前と花押を記した、謀反の連判状の偽物を作って 家臣をからかった冗談が幕府に伝わり、謀叛をたくらんだと いう罪で熊本52万石から、出羽丸岡に1代限り1万石の 所領を与えられ、家族や20名の家臣と庄内へ移封された 光広は飛騨の高山藩主金森重頼にお預けとなり、天性寺に 蟄居となったが1年後に病死をしたそうで、自刃をしたとか 毒殺説もあるそうだ。あぁ・・・また横道に逸れてしまった 名古屋城は第二次大戦の空襲で炎上し、天守は戦後に コンクリートで再建をされたが、現在は本格的な木造の を造営中で工事の様子を見物できる。また河村市長は 天守も木造で再建をしたいとも話されているとか 慶長15(1610)年に、名古屋に生まれたはち丸君には 自然と平和、スローライフを求めて世界を旅しているカメの だなも (やっとカメ)や、頭にオスの金鯱とエビフライを 飾ったエビザベス (なごやジョウ)や、はち丸の風呂敷の 中に入って一緒に旅をしているかなえっち (ねがいボシ)と いった友達がいるそうだ そして、いよいよおもてなし武将隊の登場だ。一番手前に おいでになるのが、子孫がどえりゃ~目にあった加藤清正だ 尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区)の鍛冶屋の子に生まれ ながらも母親が秀吉の生母である大政所の従姉妹であった為 長浜城主時の秀吉に小姓となり、後の賤ヶ岳七本槍の一人だ そして織田信長の奥に控えるのは徳川家康。三河の山奥の 松平郷の紹介で先祖の話はしたが・・・織田と今川の狭間の 三河国の岡崎城主の松平広忠の子として生まれ、幼き時は 織田氏の人質として、数年を名古屋の地で過ごした事もある かなりなタヌキ爺らしいが・・・ 愛の武将の仮装をした子供をからかうのは、太閤豊臣秀吉 尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区)の半農半兵の家に 生まれて、織田信長に小者として仕えてからの大出世は 目覚ましい。信長の不幸もあって、ついには天下人になった そして武将隊を率いるのは、第六天の魔王とも恐れられた 織田信長。これは宣教師フロイスの書いた書簡にあって 遠江、三河に侵攻をしようとした武田信玄が「天台の座主 沙門信玄」と署名した手紙を、信長に送ってきたので 「第六天の魔王信長」と署名をして返事をしたからだとか 尾張国の戦国大名である織田信秀の次男として、那古野城 (勝幡城説も)で生誕をした。もし信長が生きていたら 日本はどんな国になっていたんだろう? 大河ドラマでも主役をはった加賀百万石の祖、前田利家は 尾張国海東郡の荒子城主であった前田利昌の子と生まれ 織田信長の小姓から、のちには赤母衣衆として仕えて後 槍の名手だったので「槍の又左」の異名をもつ戦国大名と 出世した 漫画やドラマでも、イケメンの傾奇(かぶき)者として有名で 人気の前田慶二(前田利益)は、いろんな名前が残されて いるみたいで、信長の重臣であった滝川一益の一族ながら 実母(姉、おば?)が、荒子城主の前田利久(利家の兄)の 妻となり、子が無かった前田利久により養子に迎えられて 前田家の通字「利」と、滝川家の通字「益」から、利益だとか 名乗った ところが織田信長より家督を、弟の利家に譲り隠居をする ように命ぜられた利久に従って荒子城から退去し、後には 養父利久と共に叔父の前田利家に仕えたが、利久の死後に 前田家を出奔し、愛の武将とのよしみで上杉家に仕官をし 米沢での隠棲後は、和歌や連歌を詠んでいたそうだ 平成22年2月27日に名古屋城で撮影 武将都市ナゴヤHP http://busho.ncvb.or.jp/ ここから、はち丸くんや、おもてなし武将隊のブログに飛べます
2010年05月25日
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信州の日記が半数以上を占めているので、私が 信州人と思いの方もいるかと思うけど、一応は 馬籠(まごめ)在住。今も昔も木曽路に変わりは ないけれど、ちょっと前までは長野県民で、今は 岐阜県民 そんなオトナな事情に関係なく、島崎藤村が眺めた 恵那山と何らかわりなく、木曽路はすべて山の中 先日も海外のお客様が増えたと、ここに書いたけど どうやら、レストランの格付けガイドでも知られる ミシュランの「緑のガイド(ギド・ヴェール)」での 日本編に星一つで、木曽路の馬籠や妻籠 奈良井などが紹介をされたのも影響があるかも かのニューヨークタイムズの「死ぬまでにもう1度 訪れたいお店」という企画で、紹介された喫茶店も 馬籠にあると知ってはいたが、なかなか紹介できず やっと先日、娘と食べてきました 急な坂道の馬籠宿の上の方にある、その喫茶店は まるで蕎麦屋のようであり、「死ぬまでにもう1度 訪れたいお店」という雰囲気は感じないけど、奥は オープンテラスになっており、そこからは恵那山の 絶景が望める その日は桐の花が咲いていた。私たちがいる間にも 海外の方が二組、「いらっしゃいませ」の言葉を受け 「ノー、ノー、ピクチャー!」と言いながら、店の中に 入って、テラスで写真を撮影し、サンキューの言葉も 無く足早に店から立ち去っていくので、お店の方も 気の毒だなぁと思った そんな絶景だけではなく、ニューヨークタイムズに 紹介をした人が魅かれたのが、芸術的なフルーツパフェ だそうで、東京あたりで頼んだら千円は軽くするけど なんと600円♪ 二つでも1200円! う~む。見た目どころか価格も魅惑的だ パフェを平らげたばかりの娘は、更に里芋をつぶし 練りこんだ「いも焼もち」なんぞも食べ歩く 信州塩尻近辺のワインなども、販売をされているが その特徴がアイスワインに・・・・高いワイン! なるほど~~と納得 木曽の木工品を紹介したけど、ここでもお買い物が 出来る。檜、栃はともかく、う~~む。読めないし 坂の途中のなじみの水車が いつの間にか電力発電してるし! ここからはオマケ。今まで全国で普通に食べられて いると思っていた「からし豆腐」(木綿豆腐の真中に からしの塊が少し入っている)が岐阜県など一部の 限られた地域でしか売っていない事を知って驚いた そんな地方色満載のからし豆腐や、ビタミンちくわに 馬肉の盛り合わせを、「娘の住む南信州の伊那市」で 購入をしてみた 更に、愛知県に本部のある大手スーパーなども進出を しているので、売り場では中日ドラゴンズの歌がかかり ドアラ商品も購入できる 中日新聞や中日スポーツも購入できるし、お店に置いて あるような、伊那市の権兵衛トンネル付近の夕焼けが とても綺麗な5月中旬の話だった やっと冬物を洗濯に出して、半袖も出してはみたのに 今日は寒くて、衣替えのやり直し? 平成22年5月中旬に馬籠&伊那で撮影
2010年05月23日
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4月も終わりだというのに、春まだ浅き山里は ここは信州大町。黒部ダムへの入口にあたり 大町温泉にもほど近い ガイドブックに或る訳でもなく、大町温泉にあった 大きなマップで見つけたのは、「江戸時代末期の 農家」も残るという魅惑的な誘い文句で、早速 車を走らせた といっても、大町温泉からほんの数分といった 間近な農村は、昔も今も変わらぬ風景・・・・ 白き山も間近に(大町の北側の山) 日陰には残雪。いつのものだろうか 田植えを控えて、水が田に満たされ 何やら城のような一般のご家庭も 行き当たりばったりというのが、旅の醍醐味かもと 見知らぬ農村で思う 間近に白き山を望み(こちらは大町の西側) 大町温泉で足湯なども楽しむのもよし されど、薬師の湯で日帰り温泉を楽しみもする ここの露天風呂につかりながら、白き山の絶景も 検索が面倒で、白き山とごまかすが大町の西側の 山などは、地図などでお確かめください お腹もすいた娘と二人で、大町駅前の豚のさんぽ ラーメンチェーンの凌駕のコラボだけに、娘はラーメンって もやしと豚肉てんこ盛りでラーメンが見えんし! 私は念願の大町のご当地グルメ「黒部ダムカレー」 ご飯で ダムを作って湖面がカレーとった定義があり、お店それぞれ いろんなダムカレーが楽しめる 平成22年4月下旬に信州大町で撮影
2010年05月21日
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勢いで平成19年の初夏の日記を掲載。あ~ そんな事もあったんだなぁ・・・などとしみじみ 当時の事を思い出したりもする。そんな訳で 再びのタイムスリップ!! ここは、平成18年に国の重要伝統的建造物群 保存地区に選定もされた、漆器店が軒を連ねる 信州は木曽平沢(きそひらさわ)の街並みだ 海抜900メートル程の高地に位置し、夏は涼しく 冬は厳寒という独特な気候が、漆(うるし)を塗る 作業環境に適しており、豊かな木曽の森林を持ち 中山道と交通の面でも恵まれ、4百年程の歴史を持つ 伝統工芸木曽漆器の生産地である 現在も漆器生産量は日本有数で、駅前には約50軒の 漆器店が並んでおり、長野冬季オリンピックでの漆を 使ってのシックなメダルを作った 宿場のはずれには、貞享5(1688)年に松尾芭蕉が 木曽を訪れたときに詠んだと言われる句碑があった 送られつをくりつはては木曽の秋 更には崩れかけた、中山道に面した石垣も 天正10(1582)年に武田勝頼と木曽義昌の合戦で 焼失した後に、享保17(1732)年に再建をされた 平沢の諏訪神社の本殿。ここの御柱祭が木曽谷における 南限地であるそうだ そしてこちらは、中山道33番目の宿場にあたる贄川宿 (にえかわじゅく) 以前には温泉があった為に「熱川」と なったのが、温泉が枯れてからは現在の漢字になったとか 木曽の福島関所の補助的役割として、宿場には贄川関所が あって、女改めや木材・木製品などの監視をしていた 深澤家(屋号・加納屋)住宅は、行商を中心とする贄川きっての 商人で、主屋は嘉永7(1854)年の建築で切妻造りで国の 重要文化財に指定をされている 宿場の中ほどには、大きな水場 そしてトラックの行きかう、国道19号桜沢橋南詰 本山宿と贄川宿の間にあるのが「是より南木曽路」の 石碑で、馬籠宿と落合宿間の「是より北木曽路」の 碑と対を成している 木曽路を離れて信濃路の最初にあたるのが、中山道の 32番目の本山宿であるが、慶長19(1614)年の 中山道のルート変更によって、塩尻宿や洗馬宿と共に 新設された宿場だ 宝永3(1706)年に、芭蕉の門人である森川許六の 「風俗文選」の中で、「蕎麦切といっぱ(いうのは)、 もと信濃ノ国、本山宿より出て、あまねく国々にもてはや されける」と紹介をしたそうだ 蕎麦粉を練った蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り)と区別を する為に、蕎麦切り(そばきり)と呼ばれたものが、今では 省略して「蕎麦」となった そんな訳で、先日も紹介をしたけど地元の奥さんたちが やっている「本山そばの里」で舌鼓~ 平成19年初夏に中山道で撮影
2010年05月19日
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いよいよ世間では薔薇のシーズン。そういえば お蔵入りしている下書きの日記で、一番古いのが 薔薇のだったっけ・・・と、この機会に引っ張り 出してきた たぶん平成19年の秋であるらしい。実家の甥と 出かけた先は、岐阜県可児市にある「花フェスタ 記念公園」。私は3~5度目の来園となった 品種数で世界一を誇るという東海地方有数の薔薇の 名所だ。そんな変わった薔薇の情報も、携帯電話で バーコードを読み取って簡単に判るのは便利かも 岐阜県の県営都市公園として計画され、1989年の 春に「花トピア」(岐阜県花き総合指導センター)を 開設したのが始まりで、その数年後、1995年の春 ここで「国際花と緑の博覧会5周年記念 花の都ぎふ・ 花フェスタ'95」を開催した 大阪で開催をされた「国際花と緑の博覧会」の理念を 継承をして、岐阜県内で施策された「花の都ぎふ」運動の 5周年を記念したもので、自然の大切さを認識をして 自然と人間の共生のた為の知識を得る場としたかったとか なぜ薔薇であるかと言うと、岐阜県はバラの苗の生産量 日本一であるそうで(県民も知らなかった~)岐阜県の 一大イベントとして、取り組んでの積極的な宣伝の効果や 同時期に競合をするイベントが無かった事と、期間中の 天気が良かった為、予想を遥かに上回る来場者が訪れた 来場者数を50万人、一日あたりのピークは5万5千人と 想定して、それに合わせた施設や人員を整えていたのだが 実際の総来場者数は4倍近くと伸び、一日の最高入場者数も 98233人(5月27日)! その入場者の7割以上が 女性で、更にはリピーターが多かったのも特徴であったとか 閉幕後に、当時の梶原拓知事は花フェスタ記念公園として 世界一のバラ園に育てる方針を示し、翌年の春に再オープン 後年の「花フェスタ2005ぎふ」の開催時には、7千品種 6万本と、品種数では世界一のバラ園に整備をされた 薔薇の写真や、公園の様子は以前にここのブログでも紹介を した事があるが、何度来ても良いところだ。当日は可児市の 農業祭が開催をされており、農産物の直売の他にも近隣の グルメなども楽しめた そろそろ春の薔薇のシーズン到来。久しぶりに出かけて みようかな たぶん平成19年秋に、岐阜県可児市で撮影
2010年05月18日
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愛知県西部にあたる尾張(おわり)に生まれたのは 織田信長に豊臣秀吉。愛知県東部の三河(みかわ)の 徳川家康といった三英傑の他に、それに与して大名と なった武将らも、この両国での出身者が多い その中でも江戸幕府の初代征夷大将軍にとなった家康の 祖先が誕生をしたのが、室町時代に興った弱小な豪族の 松平(在原?)氏の本拠であった三河国加茂郡松平郷 (愛知県豊田市松平町)といわれている 室町時代初期(14世紀後半)に、清和源氏の新田氏の 支族である世良田氏(得川氏)の一族の世良田有親の子 世良田(得川)親氏が、鎌倉公方(または斯波氏)に敗れ 足利氏の追捕を避ける為に出家をして、徳阿弥(とくあみ)と 名乗り諸国を流浪していた 三河国加茂郡松平郷に流れ着いた徳阿弥を、領主である 松平(在原?)信重は、その器量を見込んで末娘の婿養子と したので、徳阿弥は還俗し松平三郎親氏と名乗り、松平郷に 郷敷城を築いて「中山七名」と呼ばれる近隣の領主らを 滅ぼし勢力を拡大させ、その後の松平氏の基礎を築いた しかし証拠となる史料などは無く、東国から流れてきた 一武士が、松平信重の家を乗っ取ったのだとか、諸国を 放浪をする職人だったとする説などもあるが、おそらく 将軍家の出自だけに、上記のような箔をつけた次第だ 松平氏の重臣となった酒井氏の系譜では、初代となった 酒井広親は、徳阿弥(親氏)が松平氏の後を継ぐ前に 三河国碧海郡酒井村の領主の婿に入った時の子だそうで 酒井氏も松平氏の同族であるという 徳川家の家紋の「三つ葉葵」は、元々は酒井家のもので 酒井忠次の代に、松平氏の家紋であった「片喰紋」と 交換をしたそうだ 他にも松平親氏が松平郷に入った後、賀茂明神に祈願し 加茂神社の神紋(二葉葵・加茂葵)にちなんで葵を家紋と したとか、第七代の松平清康が吉田城や田原を攻める際 本多正忠が味方したことで、勝利をおさめたと喜んで 本多家の家紋であった「三つ葵」を召し上げたという説も 葵紋はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化をした もので、フタバアオイの通常の葉は2枚で、三つ葉葵は 架空のものであるそうだ 松平親氏を助けて共に活躍をした、親氏の嫡子(叔父か 弟ともいわれている)の泰親が、松平氏二代目を継いで 近隣十数か村をも領有をするような、氏族に育てあげたと 伝わっている 松平家系譜の史料などで、実在が確認できるのは三代目の 松平信光からで、第二代の松平泰親(叔父か大叔父とも 言われている)、もしくは初代の松平親氏の嫡子(または 末子)といわれており、生母は松平信重の娘であるそうだ 松平信光は、室町幕府の政所執事を務める伊勢貞親に仕えて いたそうで、安祥(愛知県安城市)に進出をして西三河にも 勢力基盤を築き、戦国大名としての松平氏の足固めをした こうして松平氏が平地に進出をする中、元来の所領である 山間部の松平郷は、松平親氏の庶長子である松平信広に 継承されたが、安祥松平家が台頭をするまでは、元来の 所領を受け継いだ事から、その当初は松平嫡宗家と見られて いたらしい 松平信重までの松平郷の領主が名乗る、太郎左衛門少尉の 通称から、松平郷松平家(松平太郎左衛門家)の当主も 代々「松平太郎左衛門」を通称として名乗っていたという 戦国の世で大きな手柄に恵まれず、江戸時代を迎えての 所領は250石余り(のちに加増を受け440石)の旗本身分に 留まったのだが、将軍家の発祥の地である松平郷を領有し 松平親氏の直系の家である為、「交代寄合」として大名並みに 参勤交代を行う家柄とされたそうだ この松平郷松平家のように、特別の由緒がある地方の豪族や 大名家の分家、改易をされた大名家の名跡を継ぐものなどが 「交代寄合」に列せられたそうだ。松平郷松平家には江戸に 拝領屋敷はなく、参府の際には分家もしくは、前回にここで 紹介をした、陣屋大名の「奥殿(のち田野口)」の大給松平家に 宿したそうだ 明治中旬に生まれた松平郷松平家二十代目の松平信博は、東京 音楽学校の器楽部を卒業し、外国航路の楽士として世界各国の 楽譜を収集し、詩人の西條八十と組んでの流行歌や、映画音楽 管弦楽曲などを残している 郡司次郎正の小説「侍ニッポン」は5度の映画化をされているが 昭和6年の大河内傳次郎主演での主題歌は代表作となり、その 歌碑があった 人を切るのが 侍ならば 恋の未練が なぜ切れぬ 伸びた月代 寂しく撫でて 新納鶴千代 苦笑い そんな流行歌で有名になった信博を苦々しく思って いたのが、四人兄弟の長女として生まれ、思春期を 迎えた娘の松平須美子で、とかく横道にそれてしまい アコーディオンなど買い込む父親に、もっと本格的な 芸術をやれと喧嘩をふきかけて父娘二人が、大声で 言い争いをする始末だった そんな東京の下谷区上野桜木町の松平家からは、彫刻家の 木内克のアトリエが見え、黙々と彫刻をつくり続ける姿に 須美子は自分の父親にはない、芸術の道に真摯に打ち込む 芸術家の姿に次第に憧れていった 昭和23年。須磨子が22歳の時、木内が裸婦モデルを必要と している事を知って「私は芸術は好きだが、自分で創作する事は できない。だから役立つものなら、そういう仕事をしたい」と 志願をして以来、30年にもわたって木内の専属モデルとして アトリエに通い詰め、木内に献身したそうである。当時、木村は 56歳で、あんな賑やかな落着かない娘にできるわけがないと 思ったそうである 1952年3月末の木内のアトリエ開きでは、純粋で感受性の 強い須美子は「牧神の午後」のイメージで、木内と新アトリエの 為に一糸まとわぬ裸で乱舞し、一同は静まりかえって、須美子の 姿に吸い込まれたそうである 1977年3月4日、急性肺炎のために85歳で木内が亡くなり 須美子は人目もかまわず、激しく泣き伏したそうである。歴史と いうものは面白い。国を動かすような政治家や、経済人、文化人 だけではなく、沢山の無名の人たちこそが、この国を作り上げて 歴史を作ってきたのではないかと思う そんな訳で将軍や音楽家や、芸術の女神ミューズをも生み出す 事になった松平氏のふるさと。山深き里には松平氏の城や 館、菩提寺、墓所などなど所縁の史跡が立ち並んでいる 帰りには大きな饅頭、紅白の饅頭なども売っている和菓子屋の ノーマルな松平まんじゅうを土産に買った 平成22年3月28日に松平郷で撮影
2010年05月17日
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久しぶりに娘のところのパソコンを使ってみたら・・・ ・・・・遅い。やっぱウィンドウズ7&光ファイバーは 早いです。ストレスなしって事で 今までは5枚の写真登録に20分以上かかってたのが わずかに2分って事で、3月半ばから新しいパソコンに ため込んでいた旅日記の写真も、みんな登録を済ませ ブログの日記下書きにタグも貼り終えたので、下書き 状態の日記が一気に28件・・・。一番古いのは3年前 まだ古いパソコンに、昨年暮れから3月上旬までの写真が 残されているので、早急にそれも今のパソコンに移して へたすりゃ下書き上限50件も夢じゃない! こちらのブログで時期を逸しず、紹介を出来ればいいの だけど・・・と、最近はハイペース更新中だったりもする 写真の登録中に「今年の桜」が、まだ残っていたのに気が ついた。時期は3月28日。春浅き頃の愛知県岡崎市での 旅日記はジンヤからスタート! 陣屋(ジンヤ)とは、江戸時代に徳川幕府の直轄領の お代官の住居を兼ねた役所が置かれた屋敷や、小藩の 中で城を持たない大名が、陣屋に藩庁を置いているのを 無城大名や陣屋大名と呼んだ 徳川秀忠に仕えての大坂の陣の戦功で、三千石を与えられた 松平真次から奥殿松平家は始まった。二代目の松平乗次の 時に、一万六千石の大名となったそうだ 宝永4(1707)年には奥殿(愛知県岡崎市奥殿町)に 陣屋が完成して以来、文久3(1863)年に、田野口に 移転をするまで、奥殿藩の中心となっていたそうだ 徳川家康が抱える鉄砲組は家康の故郷である松平郷を中心に 三河の若者で固められていたのだが、慶長18(1613)年の 駿府城(静岡市)での上覧花火に刺激をされ、郷里に帰った 若者らが花火作りを村祭りの余興に出したとか、砲術家の 稲富伊賀守直家が尾張藩へ身柄預かりとなって、稲富流 花火が三河に誕生をしたとも言われる ちなみに最後の藩主で、老中となった松平乗謨(大給恒)は 佐野常民とともに、博愛社(日本赤十字社の前身)の設立と 育成に貢献し、日本赤十字社をつくり育てた人と言われている 廃藩置県で御殿、役所、書院、学問所などは移築や取り 壊しを行われたが、岡崎市桑原町の龍渓院の庫裏になって いた書院が移築復元をされている 陣屋の裏手には徳川家康の祖である、松平家の親藩として 初代の真次から代々の藩主墓塔が立ち並ぶ。七代乗友の 五男は裏千家十一世玄々斉宗室であり、八代乗尹の子の 永井尚志は、旗本の永井尚徳の養子となり、幕府の日本初の 海軍学校である、長崎海軍伝習所創設時に総監理となった 後に若年寄にまで出世もし、榎本武揚と共に蝦夷へ向かって 函館奉行となり新政府軍と戦っ人物で、明治政府にも出仕し 開拓使御用係、左院小議官、元老院権大書記官に任じられた 余談だが、永井尚志の養子である永井岩之丞の娘の夏子は 官僚の平岡定太郎に嫁いで、その孫が平岡公威。小説家の 三島由紀夫であるそうだ 更に平岡定太郎は夏目漱石と東大予備門で同期であるそうで 夏目漱石の小説「それから」に出てくる平岡常次郎と、「門」の 安井のモデルとも言われている 奥殿陣屋の向かいにある工場の脇に植えられた、何でもない ような桜を見上げたり、携帯電話で撮影している人もあり 何がそんなに珍しいのかと、近くに行けば飛騨の三大桜の 株分けされた桜だった まずはは岐阜県高山市一之宮町の「臥龍(がりゅう)桜」で 千年を超えるエドヒガンザクラで、龍が地に臥しているように 見えるので、この名がつけられた 「淡墨(うすずみ)桜」は、岐阜県本巣市(旧本巣郡根尾村)の 樹齢1500年以上のエドヒガンザクラで、蕾の時は薄いピンク 満開時には白色、散りぎわには特異な「淡い墨色」になるそうで 継体天皇お手植えという伝承も そして岐阜県高山市荘川町の国道沿いの「荘川(しょうかわ)桜」 樹齢四百年と推定されるアズマヒガンザクラという野生種の桜で 御母衣ダムの建設で水没をした照蓮寺、光輪寺の庭にあった 二本の巨桜を移植したもの そんな荘川桜の話に感銘を受けて、旧国鉄バス名金急行線(名古屋~ 御母衣~金沢間)の車掌であった佐藤良二氏は、太平洋と日本海を 桜で繋ごうと桜を植え続け、映画化やドラマ化もした「さくら道」 飛騨の桜は見た事がないのだが、えらいところで三大桜が揃い咲き 平成22年3月28日に愛知県岡崎市で撮影
2010年05月14日
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コンパクトカメラでも高倍率になって、何が 嬉しいかというと、こうやって遠くにいる人物も その表情まで判るほどにアップで写せる事だ 岐阜県恵那市明智町。またの名を日本大正村では ゴールデンウィークに「ちょっとおんさい祭り」が 開かれて、目当ての火縄銃の実演を見物してきた 火縄銃が種子島に伝来をして、大名らはこぞって それを取り入れて、火縄銃を巧みに撃つ技術を 身につけた砲術家を高禄で召し抱え、家臣らに 学ばせたそうだ 江戸時代には、砲術は武士のたしなみの一つとされ さまざまな流派が尊ばれ、その中でも「稲富流」は 稲富伊賀守祐直が慶長年間(1596~1615)に 始めた最も古い流派の一つで、徳川家康や浅野長政 井伊直政などが学んだそうだ また田付流は、田付景澄が慶長年間に始めた流派で 景澄は稲富祐直、安見右近と並んで鉄砲の三名人と いわれ、子孫は江戸幕府の鉄砲方を務めたそうだ 今回はそんな稲富・田付流による火縄銃の実演され 使用をされた火縄銃は、全て江戸時代に作られたもの だそうだ 長篠の合戦で、織田信長が武田騎馬軍団を打ち破った 前・中・後の隊列にる三段構えの鉄砲隊の戦法による 実演もあった 戦いすんで。さすがにイマドキのお侍はペットボトルも 必需品だ かわいい親子侍も家路を急ぐ 山深い小さな町は、蚕糸を地場産業として明治時代から 大正時代にかけて大変に繁栄した為に、当時の建物が残り まるでタイムスリップをしたよう 初代村長は高峰三枝子が務め、現在は東宝の看板女優と して、数多くの映画に出演し大活躍をした司葉子村長だ 無料でつきたてお餅の配布や、さまざまな地元民による 良心価格の屋台もあって、買い食いもして大満足で会場を 後にして・・・近くの道の駅にはキラキラのデコレ車が 止まっていた。他の部分もとってもキラキラだった この時期の山は、新緑が鮮やかでドライブもまた最高の季節 これじゃあ、まだお腹も一杯にならないと旦那が言うので 遅いお昼を食べに出かけたのは岐阜県瑞浪市のうどん屋さん とにかくメニューも豊富で、安くて量も多い この定食はワンコイン500円。近くには高校野球で有名な 中京高校(愛知の中京大中京とは別)がある為に、野球部の 出入りも多かったようで、福岡ソフトバンクホークスの城所 龍磨選手が食べていたというメニューもあった ソフトバンクでは、昨年はケガで戦線離脱。今シーズンは 復帰して頑張っている松田宣浩選手も。店内の壁には様々な 球団(中日や巨人とかも)の選手のサインが飾られていた。 平成22年5月3日に岐阜県恵那市、瑞浪市で撮影
2010年05月13日
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諏訪大社の御柱祭が世間で話題になっている頃に 岐阜県恵那市の山里にある東濃屈指の厄除寺として 有名な飯高観音萬勝寺で、ひっそりと観音様の ご開帳がこの春に行われていた 比叡山二代目貫主である慈覚大師(円仁)の作とも 伝えられる、秘仏である千手観音菩薩像の17年に 1度のご開扉とは、これはいかねばなるまい 観音様からのびた白い布が、静かな春の山里の外れ まで、長く長く伸びているのが印象的だった。早速の 家族の願い、速攻で叶えてくださって観音様有難う さて春のグルメ紀行は今回は名古屋特集! 名古屋駅 (メーエキ)の「名古屋ルーセントタワー」に出没をした 目的は・・・ 「猿Cafe」ルーセント店が、名古屋開府四百年を 迎えた名古屋市とタイアップした「武将Cafe」に 出陣をせねばなるまいて 月替わりで名古屋にゆかりの戦国大名のメニューもあり 私が出かけた3月は、ずばり信長様~なご馳走でござった しかも名古屋の市章である丸八印(尾張徳川家の合印)に ちなんでの飲み物も付いたプレートは880円也 ちなみに今日、5月12日は織田信長の誕生日だとか 少しばかりの金子(きんす)も払っての西洋菓子も 和風なドーナッツが有名で、土産に武将のマーク入りも 名古屋ルーセントタワーの同じフロアには、名古屋名物の 味噌カツ、きしめん、ひつまぶし、名古屋コーチンの名店が 一堂に会す「名古屋丸八食堂」で、別の日に娘と食べたのは 私は「カネ勘」のきしめん 娘は「矢場とん」のみそかつ丼 名古屋ルーセントタワーへは駅から、専用の地下道もあって 名古屋に観光&出張の皆さんには、良いグルメスポットかも 黒いにゃんこが、てくてくと陸や、空や、海の中を地下道を 一緒に歩いているのも面白い。エスカレーターの無い側のは ぴょんと飛び下りる こちらはJR名古屋駅エキワン内にある「驛麺通り」で 屋台つけ麺をいただく こちらは名古屋インター近くの「パン工房アヴァンセ」 長久手店で、スペイン製の石窯で焼き上げられたパンが 味わえるベーカリーだ パンを購入した人はコーヒーを貰えるので、その場で 食べれるのも楽しいし、1日に個以上売り上げると いう牛肉たっぷりの長久手カレーパンは、焼きあがって 売り場に並ぶと即完売。私も食べましたがうまかった そしてなによりの収穫は、メーエキのデパートで開催を していた大九州展で、かき氷の上に練乳をかけて果物を 盛り付けた鹿児島の「白くま」が出店をしていたので 20分位は並んで食べてきましたよ~ 娘はその間にラーメンを食べてきたらしく、ちょうど 私のところに「白くま」が運ばれる直前に戻ってきて お店の人にスプーンとの器を貰い、半分近くとられた 息子へのお土産は佐世保バーガー 平成22年春に名古屋&恵那で撮影
2010年05月12日
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信州・春の花紀行の終了で、急きょ始まったのは 信州・春のグルメ紀行~!? そんな訳で今回 ご紹介をするのは伊那市の東に位置する「長谷」 道の駅の「南アルプスむら長谷」 高遠の桜も既に 終わったけど、最近はやりの「パワースポット」の 分杭峠のゼロ磁場のにも近いのか、全国各地から おいでになった人たちで大賑わい ちょうど出かけた直後に、NHKの朝の情報番組で この道の駅を紹介をしていたけど、熊のはく製なども あったりします~ 錦鯉なんかも販売していたりします。この時には 写真を撮らなかったけど、NHKで紹介をしていた 貴重な「日本ミツバチ」の地元産の高価な蜂蜜も ありました 今回のお目当ては道の駅に併設をされたナチュラル フードが評判のレストラン「野のもの」でのお食事 私が食べた和風パスタには、目を凝らしてもらうと わかりますが、ブツブツのたらこみたいな雑穀入り インカ帝国の昔から、種子を穀物として食用にして トウモロコシや豆類同様の重要作物であったという アマランサスだ~ 娘が食べたのは肉ではなくって、雑穀米で作られた ヘルシーなハンバーグのっけごはん(味噌汁付き)だ そして、この道の駅の一番人気が焼きたてのパン屋で 全国からもお取り寄せの注文が殺到とするというのが ミニクロワッサンで、一人で20個、30個というように 大量購入をする美味しさだそうだ 他のパンなども購入しようと、レジ前の長い行列を作って いたら「お待たせして申し訳ありません。お待ちの間に クロワッサンをお食べください」と、焼きたてほかほか ミニクロワッサン(丸々1個)を、その場の人たちで 試食をさせていただいた 普段はよく出かけるのに、この春の諏訪大社の御柱祭には 行く機会がなかったのだが、下社春宮の建て御柱の最中に ワイヤーが切れて、氏子の方2名が亡くなられてしまった 死亡事故が多いお祭りだとは言っても、つい直前に千曲の 古大穴神社の御柱祭で、建て御柱の最中に御柱が突然に 倒れて、下敷きになった氏子の方が亡くなったばかりで 同様の事故が続けてというのは、とても残念としか言い ようがない 亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます ちょうど西田敏行主演の「火天の城」を借りてきて いたので、ここでも安土城天守を支える親柱として 二千年の木曽ヒノキの巨木を建てるシーンがあって 椎名桔平の信長は、私の持つ信長像とぴったりだ その諏訪湖に観光スポットが誕生をした。養命酒製造が 経営をする健康生活提案型複合施設「くらすわ」である 1階は信州のお土産のショップやベーカリーカフェがあり 2階はレストラン、屋上は諏訪湖を見渡せる展望ガーデンと なっている その日の諏訪湖行きの目的は、諏訪インター近くにある ハルピンの2号店にあたる、ハルピンラーメン下諏訪店 前にここのつけめんが、信州の情報誌こまちのラーメン ランキングで南信州の1位になっていて、娘が食べたいと いっていたのだ しか~し。目的のつけめんではなく、メニューを見た 娘は「たれつけ」を注文。じゃ、お母さんがつけめんに しようかと聞くと「同じタイプのを頼んでも」という事で 「ハルピン新味」のラーメンにしたら、横から娘の箸が 横から伸びてきた。かわりに私もたれつけを一口貰う こうして4月の信州のグルメ旅も幕を閉じた。長野県の 天然記念物に指定された、樹齢千年ともいわれる古樹 箕輪町の中曽根の権現桜(エドヒガンザクラ)も今年も 見事に咲いていた 平成22年4月に信州で撮影
2010年05月10日
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4月に入って直ぐ、1日2300円でJRの普通電車を 乗り放題が出来る青春18切符を使って、出かけた 先は甲子園球場だった。えっ、阪神戦? いえいえ 元々、大阪に娘が所要もあったのだけど、春の選抜高校 野球で岐阜の大垣日大が、ベスト4になったと聞いて 降雨での順延後の沖縄の興南との準決勝を、すごく見たく なったので、娘にくっついてのこのこ出かけたのだ JR大阪駅で娘と別れて、阪神電車に揺られての甲子園 プロ野球のシーズン中では、考えられないような良席で あか~ん。大会屈指の興南の島袋投手に抑えられての ワンサイドゲームで、ハイサーオジサンばかりが耳に付く こりゃ甲子園探検でも繰り出すかと席を立ち、グルメを 求めて・・・。お~、野球ボールを見立てたメロンパン 昭和9年11月、日米野球でベーブ・ルースが甲子園を 訪れた際に、第1次大戦時にドイツ海軍のコックだった ヘルマン・ウォルシュケが日本軍捕虜となり、そのまま 日本に住みついて、ホットドックを観客に販売したのが 日本初だそうで、現代風にアレンジされたヘルマンドックも 売っていた 何やら、のども渇いてきたので飲み物などを・・・・って やたら黄色い縞模様が目立つんですが。ま、金運には良い かも知れない 席に戻れば、あ~。また点入れられてるし。まっ!昨春は 菊池投手見れたし、今年は島袋投手って事で、共に将来の スーパースターなりそうだし 大垣日大のナインも、この悔しさを胸に夏の大会に出場し 更によい成績を残してほしいです。また青春18切符で 応援に駆けつけるので(笑) 甲子園は正式には阪神甲子園球場といい、阪神電気鉄道が 所有する野球場で、全国中等学校優勝野球大会の開催を 目的にして、ニューヨーク・ジャイアンツの本拠地である ポロ・グラウンズをモデルにして1924年に完成をした ちなみに1935年に阪神電気鉄道が、大阪タイガースを 説立し、翌年に東京ジャイアンツ、名古屋軍、阪急軍と 日本職業野球連盟を結成したのが、日本プロ野球リーグの 始まりとなった (1961年に阪神タイガースに変更) ついでに言うと、球団歌の六甲おろしは球団の結成時に 「大阪タイガースの歌」として、作られたものなので 歌詞の中で連呼をされる感嘆詞「オウ、オウ・・・」は 大阪タイガースの「大(おお)」と韻を合わせたもの であるそうだ お初「徳さん、甲子園のことがよう、わかりましたわ」 なんて二人で話していそうなのは、人形浄瑠璃や 歌舞伎で有名な「曽根崎心中」のお初と徳兵衛 元禄16年4月7日、大阪堂島新地天満屋の女郎のお初と 内本町醤油商平野屋の手代の徳兵衛が、大阪梅田の曽根崎 露天神社の森で、互いを連理の松の木に縛り覚悟を確かめ 情死をしたが為に、お初天神とも呼ばれる 菅原道真公が、太宰府へ左遷配流をされる途中に立ち寄って 「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」と 詠んだので「露天神社」と称するようになったとか 他にも梅雨の季節になると、境内にある「露の井」から清水が こんこんと湧いてきたので「梅雨の天神」と呼ばれるように なったとも 曾根崎お初天神通り商店街には、後からテレビで特集をして いたけど、有名人のグルメ店がいくつもあるんだとか そんなことも露知らず、新大阪駅で娘と食べたのは出張中の サラリーマンも嬉しい、お得な価格の串カツ定食~ 以前紹介した豚まんで有名な「551蓬莱」の阪神百貨店 地下のフードテリア内にある、551蓬莱阪神飲茶店で~ もちろん娘は、ミックスジュースも忘れていなかった! 帰りも気長に、大阪から青春18切符で電車に揺られて 関ヶ原駅の車窓から、ほんのちょっぴり戦国気分。というか JR西日本、JR東海と天下分け目の「米原」での乗り換え むちゃくちゃ悪すぎじゃないですか? 冬場に40分も 寒いホームで立たされて、これは何かの罰ゲームかと思った 新幹線使わせる作戦? でも庶民はそんな贅沢出来ないし 平成22年4月2日&4月3日に関西で撮影
2010年05月08日
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娘が、お母さんって4○歳やら~? あれ4□歳やった? と、ことごとく実年齢よりは、上の年齢を言うものだから 自分では4○歳と昨年から思い込んでいたのだが・・・ 4月半ばに旦那が5△歳になったと聞いて、あれっ?私より 5歳年上なのに、計算が合わん。これじゃあ6歳差になると 気がついて、実は4○歳よりも1つ年下であったという事に いまさらになって気がついた 最近、誕生日を迎えた私は晴れて今年も4○歳。なんだか 得した気分もあるが、一生に一度の「4△歳を返せ~」と 娘にぼやきもする。古巣に戻った現役のプロ野球選手も おいでになるので、私も今年も頑張るぞ~ そんな訳でこどもの日も済んだけど、3月31日に出かけた 愛知県半田市の半田運河は、こいのぼり~♪が泳いでいた かつては黒澤明の「姿三四郎」のロケ地だったとか 一見レトロな、黒板囲いの醸造蔵だと見えるけど やっぱり中身は最新式のようである。 半田の街中でも黒板壁が今も目立つ かつては船の帆を染めた染物屋が、数軒あった事から 「紺屋海道」の名が付けられ、多くの人々が行き交う 賑やかな通りであったそうだ 今回の半田入りは、この喫茶店に行くつもりだったのに 定休日かよ~。というか事前に調べていかなかったのも 悪いけど、残念だ 明治末期に、第10代の中埜半六が、鈴木禎次に設計を 依頼した洋館は、ドイツの山荘を模したもので、国の 重要文化財に指定をされている 現在は紅茶専門館「T's CAFE」となっており、次こそは ここでお茶したいものだ 仕方がないので暇つぶしにてくてく歩いたら、またカブト ビールの旧工場に来てしまった 明治時代にはカブトビール醸造工場として、戦中、戦後は 飛行機製作所の倉庫や、コーンスターチの加工場などにも 使われてきた建物だそうだ う~~む、上部のドア・・・・外にもドアロブあるけど JR半田駅駅前の半田市鉄道資料館には、昭和46年に 当時の日本国有鉄道から貸し渡しを受けた「C11265 蒸気機関車」が展示をされていた 明治43年1月に作られた半田駅の跨線橋(こせんきょう)は 現役でJRでは、最古のものなのだとか 大正3年には先ほどのカブトビール工場から、半田駅まで 私設軌道が敷設され、製品がトロッコで運び込まれていたとか 半田での買い食いは、お茶屋さんのソフトクリーム! 平成22年3月31日に愛知県半田市で撮影
2010年05月07日
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さて2010年の信州の花紀行も、いよいよ今回が 最終回。4月半ばの松本市民のお花見スポットである 「弘法山古墳」で、国の指定史跡にあたる 松本市街地の南にある弘法山にある古墳は、墳丘が 数十メートルあり、3~4世紀と東日本では最も古い 古墳の一つだ 前方後方墳やS字甕など、濃尾地方(美濃、尾張など)の 特徴を持ち、濃尾地方の土器も出土をされていることから その地方との結びつきの強い権力者の墓であるらしい ソメイヨシノ、ヤエザクラなど二千本が植えられ桜の山と 化しており、そこからの松本市街地や北アルプスも絶景だ 今までにも紹介をした信州のタウン情報誌「こまち」が10周年 記念だそうで、県内各地のグルメ店などの特定のメニューが ペアで半額や30%オフになるクーポン券があるので、早速 利用をしてみた 松本の女の子たちに人気だという「はなぐるま」さんの 好きなパスタに、サラダ、ドリンク、シフォンケーキが ついたセットが半額に近い(パスタによる)1050円で 食べることが出来た お腹一杯になった大満足で、お店の写真を撮り忘れ~ 引き続き、春に食べた信州各地のグルメ特集に突入 以前も紹介をしたけど、塩尻側から木曽への入口にあたる 本山宿にある、地元の奥さんたちがやっている蕎麦屋さん ここでも「そばがき」 お店によってこれもいろいろだ 娘は蕎麦ばかりの定食で、あれもこれもが蕎麦ばかり 伊那谷でチェーン展開をしているラーメン「じゃげな」 南箕輪店。個性的な店構えに敬遠していたが、店内は いたって普通で、ファミリーでも楽しめそうだ ぶっ・・・ぶれてしまったけど、美味しいラーメンで しかも、次回からは、ラーメンの具1品を無料で トッピングが出来るカードをいただけたのは嬉しい 早速、そのトッピングカードを使おうと、「じゃげな」 フルーツライン高森店に出かけたらオヤジに大人気~ しかし、私が頼んだのは具が全部トッピングされている 「リトルじゃげな」で、トッピングの無料カードを忘れた 娘に、その権利を譲った。おまえ~、肝心な時に! こちらは駒ヶ根の和食屋・・・と思われるような店舗だが ネパール料理が食べられる「ポカラダイニング」 「ポカラ」とは、駒ヶ根市と姉妹都市であるネパールの 都市だそうで、ネパールの山岳地方の料理や文化を 信州の人に伝えたいと開いたそうだ ラストは、1コイン(500円)ランチで有名なお店で、娘は 日替わり定食の和風ハンバーグ。私はお腹が空いて なかったのでアイスコーヒー100円と、カツサンド200円也 何せ混まない11時30分からが狙い目だという、ここは 伊那市役所の食堂で、一般人も利用ができる。12時を 過ぎると職員で混むのだ。曜日限定で、ソースかつ丼と ローメンの伊那セットが500円だとか、レディースセット 400円もあるので、また出直したい 道路の中央分離帯上にあるのは、松本神社の御神木の大欅 平成22年4月に信州松本周辺で撮影
2010年05月06日
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世間ではゴールデンウィークも最終日。皆さんは如何 お過ごしでしたか? 渋滞嫌いな私は高速は使わずに 国道、県道、市道を使って「海~!山~!祭~!」に 出かけてきたのだが、それらの旅の日記は後日として まずは、4月上旬の「信州花紀行」の続き 以前の千曲の杏(あんず)の花を、桜と勘違いをされた 方も多かったが、このピンクのかわいいのは「桃の花」 南信州は果樹園も多いので、山里の4月はどこも花盛り 飯田市周辺で、お花見を楽しんだ おやおや、桃の花畑の向こうの白い花は・・・ 「梨の花」。これはこれでゴージャスな感じだ 梨や桃を毎年のように食べる人は多くても、花の時期は 短いもの。その花を見た事がある人は少ないのかも この花はどう見ても桜に似ているような気もするが、樹の 感じが違うような気もするし、何の花だろうか? のちの道祖神にもつながるような、諏訪神社ゆかりの 神様ともいわれるのが、社御司(シャゴジ)であり 農業神として自然や木や石を祀ったものであるそうだ そんな自然いっぱい、花盛りの山里から飯田市街地へ JR飯田線の飯田駅は、何やら牧場のようでカワイイ 飯田のシンボルが市街地の中心地にある大通りに 植えられた「りんご並木通り」で、日本の道百選や かおり風景百選にも選ばれている 飯田に疎開をしていた岸田國士や、出身の日夏耿之介など 飯田にゆかりの文化人の碑や、彫刻家の作品があって のんびりと散歩をするのも良い 市街地の大半を焼き尽した1947年の「飯田の大火」の 復興の際に、飯田市立飯田東中学校の生徒たちの提案により 林檎が植えられて、今も生徒らの手で育てられている 50年もの古い樹もあり、収穫をされた林檎は、生徒らが 食べたり、施設・官庁・報道関係などに無償で配布をして いるそうだ そんな大火でも焼け残ったのが、並木の脇にある三連蔵で 飯田市が取得をして修復をして、市民や観光客向けの施設 として親しまれている 樹齢260年以上の紅梅の古木は、飯田城主から拝領をされ 藩士邸にあったものが、後にここに移植されたもの 飯田を代表するお菓子は、松に巣づくる鶴のめでたさを 唄った「鶴の巣ごもり」から名付けられた「巣ごもり」で 卵黄で練り上げたあんを、ホワイトチョコレートで包んだ ものだが、最近は色んな味があるみたいだ そして飯田市民に古くから親しまれているのが、こちらの 「一二三屋」の素朴な味わいの黒糖まんじゅうだ。飯田は 菓子の街としても有名で、あちらこちらにお菓子屋が 平成22年4月上旬に信州飯田で撮影
2010年05月05日
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