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クロニクル 夏季五輪東京開催を決定1936(昭和11)年7月31日五輪の東京開催といっても、今回のの東京五輪でも、1964(昭和39)年の東京オリンピックのことでもありません。日中戦争の激化の中で、ついに開催を返上せざるを得なくなった、1940(昭和15)年の幻の五輪のことです。85年前のこの日、ドイツの首都ベルリンで開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、4年後1940年に開催予定の夏季五輪を、日本の首都東京で開くことが決まりました。本来なら、当時の決まりとして、5年前のIOC総会で開催都市を決める予定だったのですが、1940年五輪については、ローマ、バルセロナ、ヘルシンキなど、有力候補地が多く、開催都市を決めきれず、翌年7月31日の総会まで、開催都市の決定が延ばされたのです。こうした激戦の末、東京はヘルシンキとの決選投票で36票を獲得、27票のヘルシンキを敗って、開催地に選ばれたのでした。しかし、軍部の暴走から拡大に拡大を続けた日中戦争が、益々激しさを増す中で、軍需物資への優先供給が続き、鉄やナマコンなど建設資材の不足から、会場設営が間に合わず、さらに軍部の強い開催反対の意思表明もあって、2年後の1938年、ついに開催を断念、開催権を返上するにいたりました。IOCは代替開催も検討したのですが、折から第2次世界大戦が勃発、40年大会は開催中止となりました。
2021.07.31
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クロニクル 自衛隊機と全日空機衝突1971(昭和46)年7月30日あれから50年ですか。そんなに経っているのですね。この日、午後2時3分頃、岩手県の雫石町上空で、千歳発羽田行きの全日空機に、航空自衛隊松島派遣隊所属のF86Fジェット戦闘機が衝突、全日空機は空中分解して乗員・乗客162名が全員死亡する事故が起こりました。全日空機は指定された高度と空路を守っており、自衛隊機が民間機の使用空路に紛れ込んだために生じた100%自衛隊機に責任のある事故でしたが、原因を作った自衛隊機の2人の乗員はパラシュートを使って脱出、命を取りとめただけに、遺族や世論の怒りは、凄まじいものがありました。当然のことながら、自衛隊の軍事優先、安全軽視の体質が問題視され、自衛隊への批判が集中、責任をとって防衛庁長官以下、統合参謀本部議長ら自衛隊幹部が辞任することとなり、航空管制法も抜本的に改正される騒ぎになりました。民間機に突っ込んだのは、飛行訓練中の練習生2名が操縦する練習機で、教官と助手が別の機から指示を出していたのですが、民間機の航路に迷い込んでいたことに、気付かないとは言語道断で、弁解の余地のない事故でした。私もそうですが、この事故で岩手県の雫石町の名を、脳裏に刻んだ方も多いのではないでしょうか。
2021.07.30
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クロニクル チャールズ・ダイアナの結婚1981(昭和56)年7月29日ダイアナ元妃がフランスで事故死して、間もなく24年になりますが、40年前の今日は、イギリスのチャールズ皇太子(当時33歳)とスペンサー家の令嬢ダイアナ(当時20歳)との結婚式が行なわれた日です。それはイギリス王家にとって、大変喜ばしい日でした。2人の結婚の翌年には、長男ウィリアム王子が生まれ、さらに2年後の84年には次男のヘンリー王子が誕生するなど、当初の夫婦仲は円満でしたが、13歳の年の差と、2人の生育環境の違いから、次第に不仲となり、1992年には公式に別居、96年には、遂に離婚に至りました。ダイアナ妃の事故死は、その翌年のことでした。
2021.07.29
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クロニクル アムステルダム五輪開幕1928(昭和3)年7月28日93年前の今日、日本はまだ前年の金融恐慌の打撃から回復していない時期でしたが、アムステルダム五輪が開幕しました。この年の五輪は、始めて聖火が登場して閉幕する8月12日まで絶やされることなく、ずっと燃やされたこと。コカコーラが初めて導入された大会スポンサーとなって、大会関係者全員に配られたこと。そして女子の陸上競技が始めて実施されたことなど、五輪の成長を辿る上で記念碑的な大会になりました。また日本選手が、初めて表彰台の中央に上ったのもこの大会です。記念すべき金メダル第1号は、三段跳びの織田幹雄選手。15m21cmの堂々たる成績で1位となり、見事に金メダルを獲得したのです。続いて、陸上女子800mで人見絹江選手が銀メダル、水泳200m平泳ぎでの鶴田義行選手の金メダルと、3個ものメダルを獲得したのです。この3人のメダル獲得は、日本国内は勿論、日本選手団の中でも想定外の出来事で、選手団は、表彰式であげる日の丸も、優勝者の栄誉を讃える演奏用の国歌の譜面も用意しておらず、大慌てとなったのです。その結果、国旗は他国の旗より4倍も大きな応援用の国旗が掲揚され、君が代にいたっては、国旗掲揚の途中からようやく吹奏されました。原発の想定外など、無責任極まりないいいわけもありますが、こういう想定外は、嬉しい悲鳴で、恰好は悪くても、笑って許せますね。ちなみに日本選手が初めてオリンピックのメダルを獲得したのは、1920年のアントワープ五輪で、男子テニスの熊谷一弥選手がシングルスと、柏尾誠一郎選手と組んだダブルスの双方で獲得した銀メダルでした。 次の1924年のパリ大会では、3位までの入賞者はゼロでした。
2021.07.28
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クロニクル 岩崎恭子さん金メダル1992(平成4)年7月27日昨日、女子スケボーで見事金メダル輝いた13歳の西谷椛(もみじ)さんに抜かれてしまいましたが、29年前のこの日、バルセロナオリンピックの200メートル平泳ぎの決勝が行われ、当時中学2年生で、14歳になったばかりの岩崎恭子さんが、2分26秒65のオリンピック新記録で、金メダルを獲得しました。世界記録保持者のアメリカ代表アニタ・ノールさんをゴール直前で逆転しての勝利でした。日本女子の水泳の金メダルは、1972年のミュンヘンオリンピックにおける100メートルバタフライの青木まゆか選手以来年ぶり、平泳ぎに限れば、「マエハタ ガンバレ!」のラジオ放送で知られる、1936年のベルリンオリンピックにおける前畑秀子さん以来、56年ぶりの事でした。あれから29年、日本の女子選手の史上最年少の金メダルだったのですが、昨日記録が塗り替えられたのですね。
2021.07.27
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クロニクル イラク特措法成立2003(平成15)年7月26日18年前のこの日未明、国会でイラク特措法が可決成立しました。この法の正式名称は、「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」と言います。なんだか、やたらに長いですね。法律名から明らかな通り、目的は非戦闘地域における人道支援となっているのですが、要するに自衛隊の海外派兵、それも実際に戦闘が行なわれている国に派兵するための法律でした。そのため、国会でも、戦闘地域と非戦闘地域との区分が大問題となり、時の小泉純一郎首相は、「自衛隊がいるところが非戦闘地域である」とか、「どこが戦闘地域かなど私に分かるわけがない」という答弁を行なって、物議を醸しました。この法は4年間の時限立法だったため、07年3月に2ヵ年延長され、09年で廃止となりました。この法によってイラクに派遣された自衛隊員には、幸い戦闘に巻き込まれるといった事態は起きなかったのですが、任務を終えて帰国した隊員の中には、精神のバランスを崩して、普通の市民としての日常生活の遂行に今なお支障をきたしている方が、かなりの数にのぼること、さらに自殺者も相当数出ている現実があります。派遣が有為な若者の将来を奪った事実もしっかり記録しておく必要があることも、忘れてはならないように思います。最近は、大陸中国の強引な海洋進出を受け、台湾有事や尖閣諸島の防衛を巡って、緊張状態に陥っており、自衛官の海外派遣は、簡単になしうるような法改正が、僅か20年足らずの間に大きく進んでいます。心配ですね。
2021.07.26
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クロニクル 初の試験管ベビー誕生1978(昭和53)年7月25日この日生まれたた女の子、ルイーズ・ブラウンは、今日が43歳の誕生日になるのですね。母となって、お子さんを育てながら、ブリストルの郵便局で働いているそうです。父ジョンと母レズリーは、9年間子が出来ず、婦人科医の診断を受けたところ。レズリーの卵管に異常があり、自然妊娠は不可能と診断されました。そこで、2人はケンブリッジ大学のエドワーズ教授らが研究中の体外受精に望みを託しました。前年11月10日に母から採取され、直ちに受精された受精卵は、2日半後に母の子宮に戻されて順調に成長、この日午前11時半過ぎ、元気な赤ちゃんが誕生しました。ルイーズは2004年に結婚、06年に元気な男の子を出産していますが、ルイーズの妹ナタリーも体外受精で生まれています。ナタリーは、ルイーズより早く1999年に元気な女の子を出産しており、体外受精で生まれた女性は、元気な赤ちゃんを産むことが出来ないとする、根強かった懸念を、事実をもって一掃しました。ルイーズとナタリーの父ジョンは2007年に、母レズリーは2012年に、子や孫に惜しまれながら、いずれも病死しています。
2021.07.25
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クロニクル 児島明子さんミス・ユニバースに1959(昭和34)年7月24日あれから62年ですか。アメリカ,カリフォルニア州のロング・ビーチで開かれた第8回ミス・ユニバース・コンテストで、日本代表の児島明子さんが、見事ミス・ユニバースに選ばれました。欧米人優位のミス・ユニバース・コンテストで、1953年の第2回大会で3位に入賞した、伊東絹子さんの成績を上回るグランプリの獲得に、日本中が沸きました。なにしろ、日本としてだけでなく、アジアとして初めてのグランプリだったのですから。児島さんの出身地の熊本では、10月の彼女の訪問に合わせ、最寄町での街宣パレードまで行なわれる騒ぎとなりました。それから48年後、2007年大会において、久し振りに日本人の森理世さんが、児島さん以来のグランプリに輝いたのですが、皆さん森さんて覚えていらっしゃいますか? 児島さんの頃とは、ミスコンに対する関心が大様変わりしてしまっています。事に最近は、ミスコンそのものが、女性差別だとする主張が勢いを増しています。
2021.07.24
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クロニクル 長崎大水害1982(昭和57)年7月23日今年も各地で、集中豪雨による洪水や土砂崩れ(土石流)などの被害が寄せられています。これ以上被害が広がらないと良いのですが…本日とり上げる長崎大水害は、39年前の出来事です。この年は梅雨入りが遅かったのですが、7月にはいると、九州北部を中心に雨雲が停滞、連日小雨が降り続け、坂の多い長崎では、たっぷり雨水を吸った土壌は、土石流の予備軍となっていました。問題のこの日、39年前の今日も、夕方まで小雨が続いていたこともあって、気象庁発表の大雨警報は、事実上無視されました。それが惨事を招いたことも確かです。長崎大水害と命名されていますが、死傷者の多くは、この土石流によるものでした。この水害による長崎市内の死者・行方不明者は299人、そのうちおよそ9割に当る262名が、土石流や土砂崩れによって、命を落としています。水害でいくつもの橋が流出したのですが、その中に重要文化財に指定されていた「眼鏡橋」の流出も、含まれていました。今年、熱海市伊豆山の土石流の映像を眺めて、長崎の災害に思いを馳せました。その後も大雨による被害が続いていますが、これ以上何事もないと良いのですが… 今は石垣島など先島諸島が気になっています。
2021.07.23
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クロニクル 米騒動始まる1918(大正7)年7月22日第一次世界大戦末期の1918年の話ですから、103年前のことになります。欧州中心の戦争ですから、不景気だったわけではありません。第一次世界大戦は、本質的にヨーロッパの戦争でした。そのため、漁夫の利を得たアメリカと日本の経済は大いに潤ったのです。しかし、工業の好調は、都市の工場や鉱山に向かっての農業労働力の流出を招き、コメの生産は不足気味になっていたのです。そこへ、ロシア革命への干渉戦争が組織され、日本軍も急遽シベリアへ大軍を送ることになったのです。出兵計画が明らかになると、米価の値上がりを見込んだコメ商人の買占めが始まり。米価の高騰を招いたのです。コメ不足と米価の高騰に不安を感じた人々は、きっかけさえあれば、実力行動に立ち上がる、そんな雰囲気が強まっていたのです。そこへこの日、1918年の7月22日の夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港に、北海道への米の輸送を行うために「伊吹丸」が寄航。伊吹丸への荷積みを行っていた十二銀行の倉庫前へ魚津町の主婦らが集まり、米の船積みを中止し、住民に販売するよう求めたのです。この時は巡回中の警官によって解散させられたのですが、住民らは集会をはじめるなど、米の販売を要望する人数はさらに増加していき、翌月8月3日には中新川郡西水橋町で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう要求したのです。これが、名高い米騒動の発端でした。8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となったのです。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させることに成功したのです。この件は地方新聞を通じ、全国の新聞に「越中女一揆」として報道されました。米騒動は、こうして始まったのです。この事件が都市の庶民を刺激し、以後の東京、大阪などの大都市圏での住民の実力行動に繋がって行き、遂には責任を負わされての内閣総辞職に繋がりました。
2021.07.22
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クロニクル ワールドコム粉飾決算発覚2002(平成14)年7月21日19年前のこの日。全米第2位の通信会社ワールドコムが、粉飾決算の発覚で破産しました。負債総額410億ドルは、当時の全米史上最大級の破産でした。粉飾決算に伴う破産は、前年12月のエネルギー大手エンロンに続いて2例目でした。そして手口も同じような粉飾でした。利益を過大に見せて株価を吊り上げ、高株価を利用して株式交換で買収を行ない、規模の利益を追求する。そのためには粉飾も辞さないという手口は、どこかの誰かさんにも共通していた気がしますが、この手口の発覚が株式市場と経済界に与えた衝撃は大きく、監査方式の見直しも進められていくことになりました。日本でもそうでしたが、この時期は米国でもITバブルが弾けた後だったために、経済不振で大きく傷ついた企業業績を覆い隠すために、粉飾という禁じ手に手を染めたということなのでしょうか。企業の社会的責任を自覚しない、或いは自覚できない経営者を見抜くというのは、とても難しいことですね。そんなことを考えさせられた事件でした。それにしても昨今の日本では、巨大企業の粉飾決算は、マスコミまで巻き込んで見逃されるようですね。「不適切な会計処理」とか、「不適切な決算」という言葉で…。 規模の大きな会社ほど、見過ごしてもらえるように見えますね。 あんなことをしていては、日本の証券行政や証券取引所は、世界の信用を失って、やがて身動きとれなくなるのではと、心配しています。
2021.07.21
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クロニクル 沖縄海洋博開幕1975(昭和50)年7月20日1972年の沖縄の本土復帰を記念する記念事業として計画され、3年の準備を経て、沖縄国際海洋博覧会(略称、沖縄海洋博)が、46年前のこの日開幕しました。会場は、沖縄県国頭郡本部町で183日間の会期(1975年7月20日 - 1976年1月18日)でした。「海-その望ましい未来」をテーマとし、日本を含む36ヶ国と三つの国際機関が参加しました。期間中は県内の至る所に「めんそーれ沖縄」と書かれた歓迎の垂れ幕類が立っていたのが、印象的だったと聞いています。しかし、入場者数450万人が目標とされたのに対し、最終的な入場者数は約349万人にとどまりました。このため、海洋博をあてこんでさまざまな商売を目論んだ人たちは、当てが外れて落胆することになりました。また、海洋博に合わせて行なわれた開発は、赤土の海への流出を招き、サンゴ礁に被害を与えるという海洋汚染も引き起こすなど、負の面も目立ちました。
2021.07.20
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クロニクル 禁門の変起こる1864(文久4)年7月19日前年8月18日の政変で、京都を追われた長州藩の尊皇攘夷派の過激分子は、157年前のこの日1千数百人の部隊を率いて京都を攻撃、御所の警備を奪還しようと試みました。伏見方面での行動開始は前日18日でしたが、京都での戦端が開かれたのは、19日でした。蛤御門での戦いは19日午前2時頃から行なわれ、警備の会津藩兵と激戦を展開しましたが、薩摩や桑名の応援が駆けつけたことで、敗退しました。これは、どう考えても勝算のない無謀な戦いでした。その上、自ら放った砲弾により、御所周辺の民家から市街全体に火災が広がり、2万8千戸が焼失、多数の流浪の民を生じたのです。孝明天皇の怒りは凄まじく、2日後の21日には、早くも長州藩に対する征討令が出されます。第1次征長が開始されるのは、それから間もなくのことでした。揺れ動く幕末政治史の一幕でした。
2021.07.19
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クロニクル 文部省創設1871(明治4)年7月18日丁度150年前になります。明治政府は、この日文部省を設置しました。西欧列強に負けない国づくりを進めるのに、何より不足しているのは人である。中央集権体制を確立するにも、富国強兵を実現するにも、外何をするにも今不足しているのは、人材である。人材の育成をともかく急がねばならない。そのための人づくり進めるには、国民全体の知的能力の涵養が欠かせない。そのための教育システムの構築と早期の実践を進めるために、役所が誕生し、早くも翌年には学制が公布されるに至るのです。
2021.07.18
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クロニクル 「水上の音楽」初演1717年7月17日304年前のこの日、イギリス国王ジョージ1世は、テームズ川で舟遊びを行って、日ごろのウサを晴らしたのですが、その船上で、ヘンデル作曲の「水上の音楽」が初めて披露され、国王をはじめとする乗船客に好評だったことが伝えられています。ジョージ1世は、アン女王の死去(1714年)で、後継者のいなくなったスチュアート朝に変わり、母方繋がりでドイツのハノーファーから、イギリス王として迎えられたのですが、殆ど英語を解しないため、政務は首相と議会に任せ、殆ど干渉しない態度をとり、出身地のハノーファーに静養に出かけることも多く、結果的に君臨すれども統治せずお慣習を造ったことで知られ右国王でした。
2021.07.17
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クロニクル 三内円山遺跡発掘1994(平成6)年7月16日27年前のこの日、青森市内の三内円山遺跡の発掘現場で、大量の土器が出土しました。遺跡発掘における超弩級の宝の山にぶち当たったのです。以後も慎重に発掘を進めた結果、国内最大の縄文遺跡(縄文前期後半から中期にかけての遺跡、紀元前5,900年~同4,200年頃)であることが明らかになり、考古学界は大いに賑わいました。遺跡の規模も大きく八甲田山から続く緩やかな丘陵地帯の先端部、海抜20メートルほどの高さに、約40ヘクタールもの広さを持っていたことが分かっています。居住人口については諸説あり、なお決着を見ていないのですが、数百名規模の居住者がいたことは確かで、500名以上だと主張する専門家もおります。遺跡の周囲には大量の枯れ死した栗の木が出土、三内円山の縄文人が、栗を主食にしていたらしいこと、その栗の木が寒さの襲来か何かで、全滅に近い被害を受けたことで、この地の生活は、終止符を打ったらしいことも、明らかになりました。昨晩は、どういうわけか、皆様のブルグは拝読できたのですが、コメント欄に入ると、どういうわけかどなたのブログにも書き込みが出来ず、司令しました。今日になったら、嘘のように書きこめましたので、良かったです。
2021.07.16
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クロニクル ニクソン訪中発表1971(昭和46)年7月15日あれから半世紀ですか。50年前のこの日、米国のニクソン大統領が翌年5月までに中国を訪問、朝鮮戦争以来険悪な関係のままだった米中関係を改善するため、毛沢東主席と会談する旨が、米中両国でほぼ同時に発表されました。仕掛け人はキッシンジャー大統領補佐官でした。ニクソン大統領は就任と同時に、ハーバード大の国際政治学者キッシンジャー氏を大統領補佐官(2期目は国務長官)に任命、ヴェトナム戦争の終結に向けての国際関係の再構築を委ねたのでした。キッシンジャー氏は、ヴェトナム戦争の集結には隣国中国の協力が不可欠と判断、中ソ対立の現状から米中関係改善に脈ありと考え、1949年以来親密な関係にあった台湾政府(自らは現在も中華民国を名乗っています)との関係を、微妙に調整してシグナルを送り、遂に中国の周恩来首相から、隠密裏の中国訪問を歓迎する旨の連絡を受けたのでした。当時米中関係の改善は、国際政治上の大事件でしたから、なおどうなるか分からない交渉の行方を考えれば、隠密行動は米中両国にとって、必要なことだったのです。こうして彼は公式にはヴェトナムを訪問、戦地を視察するとして、軍用機で香港へ飛び、車で広州入りし、そこから北京へ飛んだのです。時に7月9日のことでした。周恩来首相との数日に及ぶ会談の結果、中ソ対立に悩み、ソ連の攻撃を警戒する中国もまた、米中関係の改善に異論はなく、まさに「敵の敵は味方」を地で行くように、冒頭で記した翌年5月までのニクソン大統領の訪中が、決定したのです。慌てたのは、就任以来中国敵視政策を取り続け、中国の国連復帰を妨害し続けてきた佐藤内閣でした。あせり狂った佐藤首相は、あらゆるチャンネルを通じて中国へ接近しようとしたのですが、「佐藤内閣相手にせず」といなされ、目的は達成できず、沖縄返還を見届けて、翌72年の6月に退陣するにいたりました。当時の美濃部亮吉東京都知事が71年8月の訪中時に、周恩来首相に宛てた佐藤首相の親書を託され、周首相との会談時に手渡そうとして、「これはなかったことにしましょう」とやんわりと受け取りを拒否されたのも、佐藤首相の焦りを示す一幕でした。当時美濃部知事も二期目の任期中で、選挙戦ではストップサトウと佐藤内閣との全面対決を掲げて圧勝していただけに、後日明かになったこのエピソードは意外感を持って受け取られたのですが、その点について美濃部氏は、日中関係の改善は急務であり、人を選り好みすべきではなく、判断は周首相にお任せすれば良いと考えたと、答えていたのが印象的でした。
2021.07.15
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クロニクル 東京スカイツリー起工式2008(平成20)年7月14日13年前のこの日、東京スカイツリーの起工式典が行なわれました。東武鉄道が本社に隣接する貨物駅跡地を提供し、その地に建設されました。スカイツリーは、完成前から、新たな観光名所となっており、まさに東武鉄道は「損して得とれ」を地でいったといえましょう。東京スカイツリーの建設目的は、東京都心部の超高層ビルの増加によって、東京タワーからの送信が電波障害を生じるようになったため、TV各局が代替施設の建設の必要を痛感したことにありました。ですから当初は、地上デジタル放送のために、建設が計画されたわけではなかったのです。ところが、建設計画案作成期間中に地上デジタル放送が次第に普及し、2011年7月24日には地上アナログ放送が終了することになったため、地上デジタル放送用の電波塔に切り替えられたのです。そしてスカイツリーは、2012年2月に当初の予定通りに竣工しました。その後試験放送などを経て、これまた当初の予定通りに、2012年5月22日に開業しました。開業初年度の来場者数は、東武鉄道の予想を大きく超えました。事業主体は東武鉄道が筆頭株主の「東武タワースカイツリー株式会社」。事業費は約500億円。このために、同社は500億円のユーロ債のCBを発行して資金調達を行いました。発行後に円高=ユーロ安が進行しましたから、同社はかなりの為替差益という恩恵も受けらました。しかし、私はスカイツリーではなく東京タワーが大好きです。東京タワーの竣工時、東京で最も高いビルは地上8階のいくつかのデパートや、同じく10階に満たない丸の内のビル群でした。最初の超高層ビルとして霞が関ビルが竣工するのは、ずっと後のことだったのですから、東京タワーの高さは抜きんでていたのです。
2021.07.14
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クロニクル 母子手帳使用始まる1942(昭和17)年7月13日79年前のこの日、厚生省(現厚生労働省)は妊産婦手帳規定を実施に移しました。これが現在の母子健康手帳の原型ですから、母子健康手帳の利用開始は、戦時中のこの日だったことになります。私の生まれる3ヶ月少し前のことです。この政策は、まさに「生めよ増やせよ」政策の一環として、人口の増加を図るために、妊産婦に栄養食を優先的に配布するため、そして出産用品を確実に配給することを狙いとして、立案されたそうです。まだ、物不足が目立つ時期ではないのですが、将来における物不足を、厚生省が読んでいたとすると、そう読んだ人物は、端倪すべからざる慧眼の持ち主だったと言えますね。
2021.07.13
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クロニクル NHK本放送開始1925(大正14)年7月12日96年前のこの日、現在の日本放送協会(NHK)の前身、東京放送局が、東京府東京市芝区芝の愛宕山よりラジオ中波放送の本放送を開始しました。ラジオの商業放送は、1920(大正9)年11月に、米国ペンシルベニア州のビッツバークで行なわれた、大統領選挙の中継放送が最初です。この時ハーディング大統領の当選が伝えられました。以後、ジャズなどの音楽番組、スポーツ中継、そしてニュースを3本柱に、ラジオ放送は急拡大。ラジオ受信機は大ヒット商品になりました。日本への導入は、それから僅かに5年後という速さで行われたことになります。ただし、関東大震災で首都圏が壊滅状態になったのは大正12(1923)年9月1日でしたから、残念ながらまだラジオ放送のない時期でしたし、首都圏の新聞社のほとんどは、火災に巻き込まれて社屋を焼失しており、僅かに焼失を免れた3つの新聞社も、建物は損壊したため、活字を組むことが出来ず、新聞でニュースを伝えることが出来るようになったのは、それから5日経った5日の夕刊からでした。そのため、首都圏以外の地方は、東京の情報がつかめず、大変な流言飛語が飛び交っていたようです。そんなことも、日本でのラジオ放送の導入を早めたのかもしれませんね。ところで、1968年3月までは、NKHによるラジオ受信の受信料が徴収されていました。以後はラジオの受信料は免除され、受信料の徴収はテレビだけになりました。
2021.07.12
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クロニクル 御木本幸吉、真珠の養殖に成功1893(明治26)年7月11日128年前のことです。日清戦争が始まる1年前のことでした。この日、後に真珠王と呼ばれるようになる御木本幸吉さんが、初めて真珠の養殖に成功しました。彼が、「私は、いずれ世界中の女性の首を絞めてみせる」と豪語したのは、この数年後のことです。この発言は、御木本真珠のネックレスを、世界中の女性が憧れる商品、しかも誰もが身につけることが出来そうなリーズナブルな価格帯の商品に、育ててみせるという、並々ならぬ決意の表明でした。 ミキモトパールネックレス。最近は高額品が良く売れているそうです。ロングセラーですね。
2021.07.11
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クロニクル 『ぴあ』創刊1972(昭和47)年7月10日久し振りにクロニクルです。49年前のこの日。雑誌『ぴあ』が創刊されました。『ぴあ』社は社長の矢内廣が中央大学在学中に起業した会社で、学生起業のはしりとなリました。『ぴあ』は、当初は映画情報・コンサート情報をまとめた雑誌でしたが、その後チケット販売に傾斜するなど、時流に併せて主力事業を変化させて、生き残ってきました。2002年1月に東京証券取引所2部に株式を上場、翌年5月には第1部に昇格しています。その後も変化を続け、『雑誌ぴあ』は最後まで残っていた首都圏版が、2011年7月21日号を最後に休刊し、昨今では、インターネットを利用したチケット販売に主力を移し、特にスマホ向けの電子チケットの販売に注力しています。
2021.07.10
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イラン核合意(26)無人機による空爆が行われる中、核合意復帰に向けた交渉は、続けられましたが、最後の詰めの段階でもたついています。原因は、米国とイランの立場の違いにあります。バイデン政権は、核合意復帰を第一幕として、イランのミサイル開発やイラクやシリアなどの代理勢力への支援などを含めた、新たな包括的合意を目指した交渉に進むことを狙っているのに対し、イランは核合意に復帰することで、全ての経済制裁を解除してもらい、以後は一切の交渉に応じないことにすると、考えているのです。核合意をスタートと考える米国とゴールと考えるイランの立場の違いがネックになっているのです。核合意復帰後に、さらなる交渉を進めるためには、核合意復帰で解除される経済制裁が限定的であって、解除後になお一部の重要な制裁を残しておく必要があります。ソノタメバイデン政権は、「核合意と矛盾する制裁のみを解除する」と主張するのであり、ミサイル開発やテロ支援に関して科した制裁は残す方針をとっているのです。これは国内の保守強硬派とも言うべき共和党勢力と民主党内の中道寄り勢力の反対を抑えるためでもあります。この点は、イランにしてみれば、核合意に復帰しても経済制裁が残り、現在の経済的苦境から抜け出せないことを意味します。困ったイランは、6月25日にIAEA(国際原子力機関)との暫定合意のこれ以上の延長はしないと宣言し、「これ以上の交渉はしない」決裂か合意かは、米国とEU次第と揺さぶりをかけているのです。いわばイラン流の瀬戸際戦術です。7月に入って、表に出ない形での駆け引きが続いているのでしょうが、その点は見えてきません。又」ないか分かりましたら、ここにアップすることにします。
2021.07.09
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イラン核合意(25)しばらくご無沙汰してしまいました。多忙の為で別に体調を崩したわけではありませんので、ご休心ください。そんなわけで、事件から11日経ってしまいましたが、日本時間で6月27日、米軍の戦闘機F15とF16とが、イラクとシリアの国境付近に位置する親イラン派民兵組織の武器貯蔵施設など3カ所を空爆しました。バイデン政権発足後2度目の空爆でした。前回の空爆は2月でしたが、この時はイラク政府に配慮してイラク国内の拠点は狙わず、シリア領内のシーア派民兵組織の拠点だけを攻撃したのです。今回の米国の攻撃の引き金になったのは、イラク北部エルビル近郊の村にある建物に対して、3機の爆発物を搭載した無人機による攻撃がなされたことでした。明らかに米国権益を狙った攻撃でした。あまり報道されていませんが、今年に入ってイラク国内の米国権益に対する攻撃は6月までで実に43回に上るのです。(シリア領への攻撃はカウントせずにこの数字でした)幾つか例をあげますと、4月14日にイラク北部エルビル国際空港内で、最も気密性の高いCIAの無人機の格納庫が無人機による攻撃にあい、損傷しています。5月8日には、西部アルバン県の空軍基地にある米空軍の大型無人機リーバーの格納庫が、無人機の攻撃にあって損傷を受けています。いじれも人的被害は出ていないのですが、放置しておいては、益々攻撃がエスカレートしかねないので、今回の攻撃に踏み切ったと説明しています。シーア派民兵組織の攻撃は、米軍やCIAが最も秘密にしておきたい活動拠点が、ピンポイントで攻撃されており、イラク軍兵士の中に、シーア派民兵組織の隠れ樽協力者のネットワークが張られていることも確かなのです。2月の攻撃は、イラク領を除外して、シリアの施設のみが対象でした。その結果、シーア派民兵組織は、イラク領内は安全と考え、組織の攻撃拠点をいらう領内に移してきたのでしょう。その結果イラク政府との関係が悪くなるとしても、イラク政府には事後報告として攻撃に踏み切ったようです。その結果イラク政府は、イラクの主権侵害だ」と、米政府に強い抗議を寄せています。また、今回の攻撃は、8月3日に就任するイランの新大統領が強硬派のライシ師と決まった後で行われています。強硬派が強気になりすぎて米国のメッセージを読み間違えると、取り返しのつかないことになりかねないぞという、警告の意味も持っていたようです。どうやら、イランの最高指導部には、バイデン政権のメッセージは届いているようですね、イラン側の批判は、最高指導部レヴェルでは抑制されているように見えます。
2021.07.08
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イラン核合意(24)さて、ライシ師が正式に大統領となるのは、8月3日ですから、まだ1ヶ月先です。この間にアメリカとの交渉が決着し、核合意関連の米国の規制が解除される可能性は、まだ残っています。ライシ師にすれば、核合意の評判が悪ければ、責任を前任のロウハニ大統領に押し付けることが出来ますし、評判が良ければ、自分が後押ししたからと手柄を横取りすることも出来るのです。何より、ハメネイ親分が交渉の合意を望んでいるのですから、なお米国に揺さぶりをかけて譲歩を引き出そうとはするでしょうが、どこかで手打ちが出来、交渉がまとまる確率が、なお75%以上あるように受け止めています。ただ、今回の合意で米国が解除する制裁だけでは、なおイランの原油輸出が大幅に増えることはありません。核合意とは関連のない、イランのミサイルとかイランの影響下にある武装勢力への支援に対する規制は解除されないのです。こちらも解除されないと、イラン経済は苦しいままに置かれます。ですから核合意だけではだめなんです。米国の規制をさらに解除してもらう必要がイラン委はあるのです。ライシ師の立場、必ずしも安泰ではなさそうです。
2021.07.02
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イラン核合意(23)ライシ師の経歴を見ると、財団の会長職や専門家会議の副議長、そして検事総長と、トントントンと階段を上がるように出世の階段を駆け上がっているのですが、その出世の全てがハメネイ最高指導者の推挙によるものであることが分かります。つまり、ライシ師はハメネイ師が育てた弟子にあたるのです。82歳のハメネイ師は、自分の指示には忠実に従うライシ師を大統領にし、出来れば次の最高指導者にすることで、院政を敷こうと考えているのかもしれません。現実に6月18日に実施された、イラン大統領選挙の投票率は、水増しされている公式発表でも48.8%と50%に届いていません。実際の投票率は36%程度だったろうと、あちこちで分析されていますから、その60%少々しか得票できなかったライシ師は、実際のところ、国民の5分の1程度の人にしか支持されなかったことになります。現在のイランでは、人口の6割以上が、イラン革命後に生まれた人たちですから、聖職者が統治するという独特の政治体制を維持していくのは、簡単ではありません。そういう難しい舵取りを、ライシ師に任せて大丈夫か否か、ハメネイ師は見極めようと考えているのでしょう。その試金石の一つが、米国との核交渉をまとめ上げることが出来るかどうかなのです。 続く、
2021.07.01
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