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岸田総裁の誕生 その2党役員など、人事の発表前に名前が漏れてきていますね。その名前を見ると確かにベテラン、中堅、若手とバランスはとれています。が見事に黒幕が安倍前首相の細田派の優遇が目につきます。総裁選が派閥の勝利に終わったことが、あからさまに表面に出ています。選挙には金がかかり、また人の支援(応援演説や選挙を仕切ってくれる人の支援)が欠かせません。若手が派閥に入り、幹部や先輩に頭が上がらないのは、この辺りが効くからですね。でも、今回の総裁選、良いところもありました。コロナ禍の総裁選で、アチコチ遊説に回って、人の多い駅頭や盛り場での演説が出来ませんでした。その分、ネットやテレビを使って4候補の討論会が1週間近く続けられました。総裁選で真面目な製酪論争が交わされた例は、過去にありません。防衛政策、外交政策、財政政策、金融政策、そして経済政策に、少子化対策、教育政策に福祉政策、国会の予算委員会などよりずっと充実した議論だったように思えました。夫々の違いも出ていました。この討論で一番ぶれたのが河野氏だったことも、彼には痛かったですね。あれだけ、はっきり互いに打ち出したのですから、これはこのうちいくつかは実現しないと、来年の参院選に大きな影響が出るでしょうね。衆院選はすぐですから、間に合わなくて当然ですが、年末の予算編成に併せて、何をどう実現するかが問われます。そこに岸田色をどう出すか。彼は、安倍・黒田ラインのアベノミクスの失敗を一部認めて(全部失敗と全てを否定するのは、控えたようですね)、アベノミクスは金持ち優遇施策だった、その結果おいて行かれた所得の低い人たちの生活を危機に陥れ、社会の分断を進めてしまい、分厚かった中間層の分裂を生み、結果として日本社会は不安定化してしまったと、中間層の再建、低所得者の所得補償即ち、最低賃金の大幅引き上げ、とりわけ生活が出来ないからと退職者の多い、介護職員、保育職員、その他派遣社員等の給与の見直しと、職の安定性のアップを口にしています。いわゆる社会福祉政策の採用です。米国や欧州に遅れて、日本でもセンターレフトでも申しますか、新自由主義政策の無自覚なウソ、「富裕者の所得が伸びれば、トリクルダウン現象で、貧者にもおこぼれが行き渡り、誰もが収入の増加を享受できて、生活満足度が上がる。」という誤った考えを否定し、貧者の保護に力点を置く政党や勢力が政権をっく得していますね。米国のバイデン政権もそうですし、ドイツでは社会民主党中心の政権が誕生しそうですし、日本でも自民党の枠内の進歩派政権が誕生しました。私は安倍・黒田路線は、資産バブルを創り出し、不必要な資金を市場にばらまきすぎたとみております。結果は円安にぶれ、自動車など輸出企業を潤しましたが、輸入物価は大きく値上がり、内需型企業はその影響で苦しみ(国民が貧しくなっていますから、値上げがしにくいのです)、ガソリンの値上がりは庶民を大いに苦しめました。使いきれない資金は、銀行を通じて日銀への預金という形で、日銀の金庫に眠っているのです。ゆっくりゆっくりでしょうが、11月予定の衆院選で、そこそこの成績を収めて、政権が安定すると、「経済の事は、子の池田にお任せください」と大見えを切った「経済の池田」を祖とし、大平……宮沢という経済通の系譜を引く宏池会の岸田「首相」のお手並みをじっくり拝見したいと、私は見ています。
2021.09.30
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岸田総裁の誕生自民党の総裁選、岸田総裁の誕生で幕が下りました。第1回投票では河野候補に及ばないが、決選投票で逆転勝利する。こんなシナリオがささやかれており、その通りになるものと私も考えておりました。ところが、河野票予想外に伸びなかったですね。1回目投票の票数は候補名 議員票 党員票 合計岸田 146 110 256河野 86 169 255高市 114 74 188野田 34 29 63 以下決選投票岸田 249 8 257河野 131 39 170河野候補、議員票では、高市候補にも28票もの差をつけられて3位に沈み、強いと言われた党員の支持も169票と過半数にさえ遠く届かず44.2%しか獲得できなかったですね。評判の悪い菅さんが河野氏支援で動いたことが、この期に及んで院政狙いかと、嫌われたのでしょう。菅さんの支持に頼ったことが、完全に裏目に出ましたね。若手議員の派閥で投票を縛らず自由投票で…という動きも、勇ましいように見えましたが、金魚のフンのように、みんなで群れないと何もできない情けない動きに見えました。本当に信じるままに動くなら、かつて暴れ馬と命名された河野太郎がそうであったように、1匹オオカミよろしく、1人でもわが道を行かなければ、鍛えられません。やはり自民党の総裁選は、力が衰えていると言われても、派閥の論理で動くのですね。岸田派が派閥としてただ一つ、派としてまとまって行動した強みがしっかり出た結果でした。たった1票差でも勝ちは勝ちです。第1回投票からしっかり1位をとって、決選投票では87票もの差をつけて、文字通りの圧勝でした。今回の総裁選は、有力とされ、決選投票でも争った岸田、河野の両氏は、元々の自民党のルーツでいうと、池田勇人元首相が作った宏池会から派生した派に属しています。自民党内では中道派に近い、党内左派です。安倍前首相や菅総理は、党内右派です。そこで右派の候補がいないのでは、議員も含めて右派に連なる党員(ネトウヨも含めて)が出番がなく、選挙が盛り上がらないのです。そこで、出tがっていた高市候補を推してみることにした。彼女の票が予想以上に伸びたのは、自民党の右傾化がそこまで進んでいることを示します。これは怖いですね。そして、この票数を撮ったということは、高市後見人の安倍前首相の顔色を常に注意してみなければならないことを、岸田新総裁に意識させたことになります。岸田新総裁、第1回目投票から勝ち切った堂々たる勝利でしたが、雑音に惑わされず、ご自分で考えた党役員人事を貫くことが出来るかどうか、明日が見ものです。 続きます。
2021.09.29
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クロニクル 自動ドアの登場1926(大正15)年9月28日95年前になるのですね。この日、京浜線に初めて自動ドアを組み込んだ電車が登場しました。今まで手で開け閉めしていた電車のドアが自動で動くのですから、車内の乗客もホームの乗客も大いに驚き、大変なニュースそして話題となり、新聞各紙は競ってこの話題を追いかけたということです。京浜線に少し遅れて、山手線にも自動ドアを組み込んだ電車が投入されたことが知られています。
2021.09.28
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クロニクル 昭和天皇、マッカーサーを訪問1945(昭和20)年9月27日敗戦の年ですから、76年前のことです。この日午前10時、昭和天皇はGHQ総司令官のマッカーサーを米国大使館に訪ね、35分間会談しました。この会談で、天皇はマッカーサーが手際良く占領を遂行したことに感謝の意を述べ、マッカーサーは円滑に占領が進んだのは天皇のリーダーシップのおかげと,先ずはエールの交換が行なわれたように報じられました。会談に先立って撮影された写真が、29日に新聞各紙に公開されると、モーニングの正装で訪問した天皇と軽装のマッカーサーの対比に注目が集まり、これが占領というものかと、悲憤慷慨する声が噴出したと言われます。しかし根本的には、マッカーサーが天皇を訪問するのではなく、天皇の方が足を運ばざるを得なかった事実に、両者の力関係が読み取れます。GHQこそが日本の統治者である現実を、日本国民に最も強く印象付ける方法として、天皇の訪問を劇的に利用する、これがマッカーサーの戦略でした。写真掲載に関して、当時まだ天皇=現人神説に捉えられていた山崎内務大臣は、「天皇の写真を新聞に掲載することは、恐れ多い」と語って、掲載した各紙を、発禁処分としました。直ちにマッカーサーが介入、GHQ本部は発禁解除を命令し、写真が無事に掲載されるという一幕もありました。
2021.09.27
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クロニクル 安倍晋三復活2012(平成24)年9月26日今回の総裁選は、29日投開票となりましたが、最近の自民党の総裁選は、9月が圧倒的に多いですね。なんだか不思議ですが、2006(平成18)年のこの日は、小泉純一郎内閣が総辞職し、第一次安倍晋三内閣が誕生した日ですし、翌2007(平成19)年に、福田康夫首相が誕生したのも、同じ26日の事でした。そして2012(平成24)年の9月26日がやってまいります。この日行われた自民党総裁選では、石破茂氏と安倍晋三氏が、1位と2位を占め、決選投票の結果、安倍晋三氏が勝利し、自民党史上初めて、一度退任した人物が総裁に返り咲いたのです。やがて安倍は首相に返り咲き、6年の長期政権を担ったのですが、コロナ禍に適切な手を打てず、またまた病気を理由に2020年に退任し、後任の菅総裁・総理も危機管理への対応を誤り、短期政権に終わり、3日後の総裁選で、新総裁の誕生を見ることになります。
2021.09.27
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クロニクル 希望の党結党平成29(2017)年9月25日平成28(2016)年7月の東京都知事選で圧勝した小池百合子氏は、都議会多数派の自民党都連と対立、翌平成29(2017)年7月」の都議選での勝利を目指して「都民ファースト」の会を設立、思惑通り選挙で圧勝し、立場を強化することに成功します。9月に入り安倍首相が、28日に衆議院を解散して総選挙に踏み切りことが明らかになると、小池は25日に記者会見を開き、自らが代表を務める「希望の党」の結党を発表したのです。正式な結党は翌々日27日に、14人の国会議員と共に行われました。14人のメンバーは、民主党改め民進党の離党者や自民党の離党者そして無所属議員の一部などで構成されていました。民進党代表の前原誠司は、28日の衆院解散後、民進党としては比例代表を含めて、党としては1人も公認候補を出さず、希望者全員を希望の党に公認申請することを提案、了承されます。民進党を解党して、希望の党に合流するとしたのです。慌てたのは自民党執行部で、これは小池氏にしてやられるかと、緊張が走ったのですが、前評判に気を良くし過ぎた小池代表は、ここで痛恨の大ミスを犯します。「民進党メンバーを、無条件で受け入れるのではなく、政治姿勢が異なる左派系の皆さんは、排除します」と民進党のメンバーを選別し、一部を排除するという、排除の論理を掲げたのです。女帝の傲慢さが、見事に表に出てしまったのです。ここに、民進党は分裂して、希望の党合流組、立憲民主党結党組、国民民主党結党組、無所属組となり、希望の党結党のショックは、一場の夢と終わったのでした。
2021.09.25
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レナちゃんありがとう我が家のニャンコたちの8~9代目にして、最後のニャンコちゃんになっていたレナちゃんが、本日朝6時過ぎ、老衰のため息を引き取りました。2001年5月23日生まれと聞いておりますので、ニャンコ流数え年で21歳、満年齢で20歳と4ヶ月でした。レナちゃんは、ワイフの猫好きの友人のそのまた友人の庭猫の子として、表記の2001年5月に生まれ、縁あって、同年8月14日に、同じ姉妹のカヤちゃんと一緒に我が家にもらわれてきました。積極的で物おじしないカヤちゃんとは対照的に、臆病でおっとりしていて、食が細く食べるのも遅い子でした。もらわれてきたときは、お母さん代わりのおばちゃん猫チョビちゃんと、兄貴分で元気のよいタッちゃんがおりました。 丁度、タッちゃんの仲間の狩りの名人ヒューちゃんが交通事故で亡くなって間もなく、タッちゃんが元気をなくしていたので、子守をして元気になれともらってきたのです。家の前の通りの車の通行が激しくなったので、カヤちゃんとレナちゃんは、我が家の猫では初めて完全な室内飼いとし、外気に触れるのは2階のベランダだけにし、外に出さなかったものですから、他のニャンコと喧嘩して怪我をするとか、病原菌をもらうとかはなく、まさに病気知らずですくすく育ちました。ニャンコのホームドクターに、必要なワクチンと去勢手術はしてもらったのですが、以来ドクターのだみ声が大嫌いとなり、嵩じて私と息子以外の男の人には2ニャンとも決してなつかず近寄らずで、男性嫌いのお姫様ニャンコに育ちました。外の冒険をしないため、精神的には大人にならず、顔つきはいくつになっても幼さが抜けず、精悍さのかけらもない可愛いニャンコでした。多頭飼いの欠点は、食事の管理が難しいことです。小食のレナちゃんは良いのですが、食いしん坊のカヤちゃんは、お兄ちゃんやおばちゃん、そしてレナちゃんの残り物まで、平らげてしまう大食漢となり、10歳を過ぎた頃には、5kg弱のレナちゃんに対し、ゆうに7kgを超えるオデブちゃんになりました。そのため、これはカヤの方が、先に行くなと話していましたら、まったくその通りで、昨年2020年の5月23日、数え年20歳、満19歳の誕生日に、旅立ちました。食いしん坊が最後の1週間はお水だけで頑張って、感心にトイレのおもらしは、亡くなる前の1回だけという頑張りを見せました。それからが大変です。おばあちゃんながら幼いお姫様気質のレナちゃんが、初めてお友達が誰もいない、たった1人の境遇に置かれたのです。私どもが、もう10年ぐらい若ければ、またまた野良ちゃんの子や、捨てられた子を引き取って、仲間を作ってあげられるのですが、これから若いニャンコをもらってきたのでは、その子が天寿を全うするまで付き合ってあげられないことは明らかです。仕事のある息子や娘が後を引き受けるのも困難です。ニャンコはレナちゃんで打ち止めと決めていましたので、甘えん坊で寂しがり屋のレナちゃんが一人です。 ちょっとでも人の姿が見えなくなると、大きな鳴き声を上げて、探し回るのです。ワイフが一人留守番となると、トイレのドアも締められない騒ぎがしばらく続きました。カヤちゃんが旅立って半年ほど過ぎた頃から、ようやく1人に慣れたようで、通電した電気座布団を陣地にして、リビング中を見渡せる位置に陣取って春まで過ごしました。暑い7月は、タイル敷の荷物置き場に陣取って過ごしたのですが、今月初めから死期を悟ったらしく、リビングを離れた隠れ家に籠り、お水、食事、トイレの用事以外では、人間に用のない顔をするようになり、家族皆これはいよいよかと覚悟を決めていたところ、次第に食が細くなり、トイレや水飲み場へ行くにも、途中で寝そべって一休みしてから、重い腰を上げてようやくたどり着くようになり、21日には、食べ物を拒否して受け付けなくなり、お水だけの生活になりました。そして、昨日は、朝のうちに水に口をつけただけで、水まで拒否するようになり、これはと思っていたところ、今朝6時過ぎ、大きく息を吸い込んで、姿勢を変えたところで。、力尽き穏やかな顔のまま、呼吸が途絶えたのです。本日午後、歴代のニャンコが眠る庭の一郭に、我が家のルールに従って、土葬しました。昨年5月カヤちゃんが亡くなった後、せめて半年は持ってほしいなと話し合っていたのですが、食の細さが幸いしたのか、1年4ヶ月も頑張って生きてくれました。レナちゃん、長い間いろいろ楽しませてくれてありがとう。今頃はもう、カヤちゃんやチョビちゃん、タッちゃんたちと会えたかな。君が会ったことのない、初代のミーちゃん、2代目のクロちゃん、3代目のランちゃん、4代目でランちゃんの息子のアルちゃん、5代目のヒューちゃんたちも待っていたでしょう。あんまり多くてびっくりしたかな?
2021.09.24
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クリニクル 鉄砲伝来1543年9月23日(天文12年8月25日)478年前になります。この日種子島の西村前の浜に、ポルトガル人の乗った船が漂着しました。船には100名近くの外国人が乗っており、言葉が全く通じなかったのですが、中に1人中国人の儒者が乗っていたため、この人物と種子島領主のお抱え儒者とが、筆談を交わし、この船がポルトガルの船であり、ポルトガル人がほとんどであることがわかり、又彼らが火縄銃を持っていることも把握できたのです。報告を受けた領主の種子島時暁(ときたか)は、鉄砲の実写を見て、その威力を知り、自ら2丁買い求め、火薬の調合やら、撃ち方を学び、同時に1丁をお抱えの鍛冶屋に預けて、鉄砲の国産化にも道筋をつけました。また、鉄砲伝来の噂を聞いた根来衆や堺筋らが鉄砲技術の習得に島までやってきて、製造技術を習得して帰国、短期間に日本は、世界一の鉄砲生産国になってゆきます。なお、種子島への伝来は、42年説や44年説もあり、今日でははっきりした到来年は、特定できないとされています。
2021.09.23
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クロニクル 日本初のBSE患者確認2001(平成13)年9月22日昨日は、BSE牛の日本での発生を取り上げましたが、同じBSEでも、今日は人間のBSEです。20年前のこの日、千葉県で日本初のBSE(牛海綿状脳症)感染者が確認されました。BSEは1990年代に欧州諸国で大流行し、放牧牛を中心に大量の被害がでたのですが、病気の牛を食べた人間にも、同様の症状が現れることが確認されました。人への感染被害はイギリスが中心でしたが、やがて、カナダ経由で米国でも、被害が確認されました。しかし、日本人に比べ、はるかに多くの牛肉を口にし、脳漿や臓物等なども口にする欧米人に比べ、日本人が感染する確率ははるかに低いだろうと考えられていただけに、この日の感染確認は、センセーショナルでした。この男性は、90年代に1ヶ月程度、イギリスに滞在し、勧められるままに、牛の脳漿を口にしたことが分かり、日本国内での感染とは異なるらしいことが明らかとなりましたが、その後、日本への牛肉輸出の多い米国で、BSE牛が発見されると、かなり長期にわたって米国からの牛肉輸入がストップするなど、食の安全を巡る議論がしばらく賑やかになりました。BSE牛が1頭もでなかった、南半球のオーストラリア並びにニュージーランド産の牛肉は、安全のお墨付きがだされて、一時期もてはやされました。
2021.09.22
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クロニクル 狂牛病遂に日本でも...2001(平成13)年9月21日20年前のことになります。この日、千葉県で日本初の牛海綿状脳症(BSE、狂牛病)を発症した牛が見つかったことを、厚生労働省が確認しました。11日前の10日に発生の疑いがある牛についての報告があり、以後経過観察を続け、この日BSEに感染してることを確認したのです。マスコミや国民への発表は、翌日の22日となりました。この牛以降、日本では平成21(2009)年1月までに、36頭の感染が報告されましたが、以後の感染は報告されておりません。世界でも、2013年には感染牛の報告が、年間で7頭まで減少しました。家畜の飼料に牛の脳や脊椎の組織を混ぜない指導が徹底したことが、効果をあげたようです。なお、現在では狂牛病という呼び方を廃して、BSEと呼ぶことに統一しています。油断は大敵、このままの状態が続くと良いですね。
2021.09.21
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クロニクル 中国憲法採択1954(昭和29)年9月20日 67年この日、中国共産党が指導する中華人民共和国は、開会中の全人民代表者会議(略称 全人代)の席上で、中華人民共和国憲法を採択しました。 憲法は共産党の指導を明記した上で、全人代で国家主席、首相を指名することなどを明記したもので、初代国家主席に毛沢東党主席を、首相に周恩来氏を指名しました。 成立した憲法は、75年、78年、82年と改訂され、82年憲法が現在の憲法の土台となっていますが、条文を追加する形での改訂は、ちょくちょく行われています。しかし54年憲法の骨格は、現在も変わっていません。憲法の上に、共産党が存在するわけですから、党の命令が政府の命令よりも優先されることは、何も変わっていないのです。
2021.09.20
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クロニクル アイスマン発見1991(平成3)年9月19日あれから30年経ったのですね。この日、ヨーロッパアルプスの氷河で、約5300年前の男性のミイラが発見され、「アイスマン」と名付けられました。発見場所のエッツ渓谷は、オーストリアとイタリアの国境地帯に当たりますが、発見されたのは、国境を僅かにイタリア側に入っていたことから、発見者はオーストリアの記者だったのですが、ミイラはイタリア警察に引き渡されました。なぜ警察か。それはミイラといえども死体は死体だからです。アイスマン発見のいきさつとその後は以下の通りです。アイスマンの発見者は、アルプスの登山道から離れた場所を歩いていた、ニュルンベルクからの観光客夫妻でした。当初は、遭難者の遺体と見られていたのですが、遭難者の遺品と思われる物品が、現代のものとは思えなかったことから、遺体を解剖に付す前に、考古学者に鑑定を依頼したところ、遺品が青銅器時代前期のものと判明し、にわかに世紀の大発見と話題になったのです。それにしても、さっさと司法解剖していたら、せっかくの青銅器時代人のミイラが、形を整えないことになっていたのですから、まさに危機一髪。考古学者に解剖前に鑑定を依頼した判断は、大ヒットだったのです。遺体が5千年前のアイスマンとなると、学術的にも観光資源としても、大きな価値を持ちます。発見場所はオーストリアとイタリアの国境地帯ですから、当初連絡を受け、遺体を収容したのは、オーストリアだったのですが、ここにイタリアの政府や警察も乗り出し、調査の結果、遺体の発見場所が、国境から僅かにイタリア側に入っていることが判明し、渋るオーストリアも、やむを得ずアイスマンの遺体をイタリア側に引き渡したのです。このアイスマンについて、現在もイタリアの南チロル考古学研究所が調査を続けているのですが、同研究所で作られた精巧なレプリカが、所持品のレプリカと現在までの研究成果を付して、現在も世界各地で巡回展示されています。日本でも名古屋で開催された「愛・地球博」に合わせて、名古屋ボストン博物館で「アイスマン展」として展示されました。さて、アイスマンは冷凍保存されてきたのですが、2012年にはじめて解凍調査が行われ、瞳と髪の毛は茶色、肌は白、身長160cm程度、体重50kg前後、骨の分析から年齢47歳前後などが明らかとなりました。体系は筋肉質で、腰椎すべり症を患っていたことが分かっています。持ち物には、作りかけの矢や銅製の斧が含まれており、銅の純度が99,7%もあることから、大変高度な銅の精錬技術が、当時既に普及していたことが明らかになっています。なお、アイスマンの血液型はO型、動脈硬化の要因となる遺伝子を持っていたことも、明らかになっています。ではアイスマンの死因は何かというと、2001年実施のX線検査で、左肩にやじりが見つかり、矢に射られて亡くなった可能性が高まりました。その後2007年になってコンピューター断層撮影が行われ、動脈損傷による失血死であることが明らかになりました。右眼窩に骨にまで達する深い傷があり、さらに後頭部に即死に到る量の脳内出血の痕跡が認められることから、彼を矢で射た者が、とどめをさすために、倒れたアイスマンを後方から石などの鈍器で、打撃を加えたであろうことが、推察されました。また、アイスマンの身体に付着していた花粉などの分析から、彼の死亡時期は、晩春と推察されています。
2021.09.19
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クロニクル 満州事変ここに始まる1931(昭和6)年9月18日90年前のこの日、夜10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近で、関東軍参謀の板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐ら数名の計画の下に(実行は河本末守中尉ら)、満鉄の線路の一部を爆破しました。爆破といっても、列車の運行には支障のない程度の、ごく小さな爆破だったのですが、関東軍は、ただちに中国軍の仕業と断定して、満州(現中国東北地方)各地の制圧に乗り出し、満州全土の制圧を目指したのです。ここに満州事変の口火が切られ、日中15年戦争が開始されました。若槻内閣は、不拡大方針を唱えていたのですが、出先軍部(関東軍)は、統帥権の独立を楯に、政府の方針を無視して戦争を拡大、ついには満州国の建国そして国際連盟の脱退に繋がるのは、皆様ご承知の通りです。
2021.09.18
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クロニクル 小泉首相訪朝 2002(平成14)年9月17日19年前のこの日、「北朝鮮」訪問を決断した小泉首相は、平壌(ピョンヤン)を訪問、金正日総書記と会談しました。席上金正日総書記は、日本人拉致の事実を認め、生存者の日本訪問を認め、拉致の事実について、遺憾の意を表しました。しかし、拉致された人々の多くが、既に死亡している旨の報告に、日本側出席者は驚きを禁じえず、強硬派は交渉を打ち切って即時帰国を主張するなど、訪朝団の中で、足並みの乱れが問題となる局面もあったようです。しかし最終的には、首相の判断で交渉は継続され、日本側は日本の植民地支配を謝罪し、北朝鮮は日本人の拉致を認めて謝罪しました。両者は国交正常化交渉の再開を約し、「日朝平壌宣言」に調印しました。それから19年。3家族5人の拉致被害者とその家族の帰国は実現しましたが、死亡したとされた人々の死亡時の状況、遺骨などの返還は進んでおらず、今なお、今後の課題となっています。が、しかし日本政府に打つ手がないのが現状です。
2021.09.17
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クロニクル 三里塚で第2次強制代執行1971(昭和46)年9月16日新東京国際空港(成田空港)の建設を巡っては、激しい反対運動が続けられていました。そうした睨み合いの中、50年前のこの日、建設予定地に残る反対派の4ヶ所の拠点に対して、第2次の強制代執行が行われました。同年2月22日から3月25日にかけて行われた第1次強制代執行でも、逮捕者487人、負傷者700人を出すなど、反対同盟の激しい抵抗にあったのですが、この日も同じでした。三里塚・芝山空港建設反対同盟の農民や支援の学生・労働者ら3千人以上が、代執行の対象となった団結小屋に立て籠もり、空港周辺ではゲリラ活動も展開して、5千人を超える機動隊と各所で衝突するなど、早朝から騒然たる空気が漲っていました。代執行の開始直後、角材や火炎瓶などの攻撃を受け、機動隊員3人が死亡、重軽傷者115人を出すなど、成田闘争最大の惨事となり、結局代執行は翌日以降に持ち越されました。政府の閣議決定の仕方から、地元への丁寧な説明の欠如など、政治の対応のまずさが、反対運動の活発化を招き、結局71年春の開港予定は、7年も遅れて1978年5月となりました。土着農民の先祖伝来への土地への愛着に対する理解を欠いた政治家と官僚の拙速主義が招いた誤算でした。開港はしたものの、滑走路は1本だけで、横風用滑走路もない片肺空港であり、二期工事の進展が待たれたのですが、それは遅々として進まない状態が続く中で、昭和の時代は過ぎ、平成の世となって初めて、政府・運輸省の側に和解に向けて、反対派農民に向けての謝罪の機運が生まれます。こうして最終的には、1995年に成立した自社さきがけ3党連立の村山内閣が、正式に反対同盟に謝罪し、政府、国土交通省(旧運輸省)そして空港公団が「地元のコンセンサス作りを怠ったのは、私たちの大きな誤りだった」と自らの誤りを認めたことで、主な反対同盟のグループとは和解が成立したのですが、未だに二期工事予定地内に、ポツポツと公団に土地を売らない1坪地主などが残っており、なお工事が出来ない状態が続いています。ヤレヤレ
2021.09.16
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クロニクル 立憲政友会結成1900(明治33)年9月15日19世紀最後の年ですから、121年前のことです。この日、午前10時より、帝国ホテルで立憲政友会の結成大会が開かれました。総裁に就任した伊藤博文は、「これからの政党は、国家の利害を第一義として、私的利害を捨てて活動すべきである」と強調しました。日本の政党は、自由民権運動を背景に、1890(明治23)年の国会開設に先立ち、板垣退助らの自由党と大隈重信らの立憲改進党等が、反政府派によって結成され、総称して民党と呼ばれていました。これに対し、政府支持派による政党作りは遅れていました。政党作りを意識するようになったのも、伊藤が1898(明治31)年に第3次内閣を組織した際に、その必要を感じたのがきっかけでした。この時の伊藤の試みは成功しなかったのですが、それから2年、ようやく最初の政府系政党(政府党と言われます)として、この日の立憲政友会の結成となったのです。こうして政府支持派も反政府派も、政党に結集して理非を争う時代が登場しました。日本にもようやくにして、政党政治の時代が訪れたのです。この立憲政友会を基盤に、翌月には第4次伊藤内閣が誕生し、閣僚のほとんどが立憲政友会の党員が占める内閣(陸相、海相、外相以外の全員)が登場したのです。
2021.09.15
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自民総裁選 安倍前総理の思惑自民党総裁選、マスコミが寄ってたかって大騒ぎですね。衆院選が近いというのに、見事に自民党の宣伝をただで引き受けているかの感があります。選挙の趨勢は岸田氏と河野氏の一騎打ちで、高市早苗さんは記念受験に過ぎません。高市さんは安倍さんを右へ右へと引っ張る右翼団体、日本会議の有力メンバーです。いわば右翼団体に属する政治家です。右翼的な論客として知られる櫻井ヨシ子氏などと共に、女性でありながら女性を蔑視する発言をあちこちで垂れ流しています。女性宮家の創設や女系天皇を否定し、選択的夫婦別姓にも、「日本の良き伝統や風習を阻害する」などと、訳の分からない主張を掲げて反対しています。そんな主張に対し、安倍前首相も持て余しているのですが、そんな高市氏のなぜ安倍さんは応援することにしたのか。彼には本気で彼女を応援する器など勿論ありません。立候補に必要な「20人の推薦人(議員に限られます)を集めてあげるよ」程度の支援なんです。その狙いは、岸田VS河野の争いは、党内のリベラル派同士の争いであり、せっかく2012年の自民党の政権回復以降進めてきた自民党の右傾化が、党内保守派に程よい総裁候補がいないために、リベラル派にトップを譲るとなると、元の中道路線に引き戻される危険がある。ここは、保守派の力を見せつけて、「保守派への手厚い配慮を怠るなら、本気で極右に近い高市を推すぞ」というメッセージなんですね。しかし、本気で高市候補の票集めはする気がないのです。しかし、高市立候補の効果は大きく、河野候補などは、早速安倍氏を訪問し、彼本来の主張を封印して、保守派よりの発言がグンと増えている状況になっていますね。変人扱いされながら、誰がどう言おうと、郵政民営化の旗を降ろさず、議会を解散して反対派に刺客まで差し向けて、自分の主張を押し通した小泉純一郎元首相の強さは、河野氏はないようですね。少々残念です。
2021.09.14
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クロニクル 「二十四の瞳」封切り 1954(昭和29)年9月14日 67年前になるのですね。この日、壺井栄の小説『二十四の瞳』を原作に、木下恵介監督が自ら脚本も手がけた松竹映画、『二十四の瞳』が封切られました。 主演の大石先生に高峰秀子、男先生に笠智衆、他に渋い脇役陣を揃えていましたが、12人の分教場の生徒達が、生き生きとして見事な準主役振りを発揮していました。 封切り直後から人気が高く、同年製作の『七人の侍』を抑えて、各映画賞を総なめにしました。 映画の舞台は壺井栄の故郷小豆島。撮影も夏や春など学校の休暇を中心に、岬の分教場を借用して行なわれました。 私自身は、1978年に当時はそのまま保存されていた分教場を訪ね、実際に撮影に使われた教室に座ってみたことがあります。学校からすぐの砂浜からは、子ども達が歩いて渡った湾が続いていましたが、海がきれいだったことが忘れられません。 87年にリメイク版が製作され、その時のセットを活用して、「二十四の瞳映画村」が小豆島に設けられていると聞きますから、分教場も補強されながら維持されているのでしょうね。もう一度行ってみたい所の一つです。
2021.09.14
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クロニクル スーパーマリオブラザーズ発売1985(昭和60)年9月13日発売から32年ですか。この日、任天堂のファミコン用ゲームソフト、スーパーマリオブラザーズが発売されました。カメ一族のクッパ将軍にさらわれた、キノコ王国のピーチ姫を助けるために立ち上がった配管工のマリオとルイジの冒険物語です。発売と共に爆発的な人気を集め、日本国内で681万本強、全世界では4,024万本を売り上げ、「世界一売れたゲーム」としてギネスブックに登録されました。息子が仲間たちと集まっては、ワイワイガヤガヤと楽しんでいました。その様子は、TVがぜいたく品だった時代に、ご近所が集まって一緒に見せていただいていた時代を思い出させるものでした。全世界で4千万本も売れたのですから凄いですね。
2021.09.13
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クロニクル 比叡山焼き討ち1571(元亀2)年9月12日450年前になりますが、この日織田信長は、比叡山延暦寺が宿敵朝倉義景を支援することを怒り、傘下の諸将に命じて、比叡山の全山焼き討ちを命じました。この時、信長38歳。比叡山は天台宗のみならず、広く仏教学・仏教哲学の学び舎として、当事の大学並びに研究機関の役割を果たし、多くの学僧が学ぶ場でもありましたが、宗教的権威を楯に、しばしば政治に口出しする悪弊も目立っていました。信長は、宗教の政治介入を否定し、政治に口を出す宗教を排除する、合理的思考の持ち主でしたから、この比叡山延暦寺の行動を許さず、一罰百戒の狙いを込めて、徹底的な焼き討ちと殺戮を実行しました。僧侶などの死者は、合計で3千人とも4千人とも言われ、実数ははっきりしませんが、女人禁制の信仰の府に、いないはずの女人や子どもが少なからず混じっていたのですから、信仰の府の腐敗、堕落も明らかでした。また、政治に口出しする割りに、仏法を奉ずる自分たちを攻撃できるはずがないと思い込むなど、延暦寺側が政治センスに欠けていたことも、また事実でした。
2021.09.12
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クロニクル 藤山・ダレス会談1958(昭和33)年9月11日63年前になります。この日岸内閣の藤山愛一郎外相と、米国のダレス国務長官とが米国で会談、日米安全保障条約の改定交渉を行うことで合意しました。この合意に基づき、10月4日から、東京で、安保条約の改定に関する交渉が開始されました。戦後日本における最大の反政府闘争に発展する、安保(改訂)反対闘争の芽は、ここに芽生えたと考えることが出来ます。その反対エネルギーの根幹は、二度と戦争はごめんだという、民衆の反戦の情念にありました。現在の世相を見ると、隔世の感を覚えるのは、私だけでしょうか。時の岸首相は、安倍晋三の母型の祖父に当たります。
2021.09.11
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クロニクル カラーテレビの本放送始まる1960(昭和35)年9月10日51年前のこの日、NHKに民放各局を含めた五つの放送局で、一斉にカラーTVの本放送が始められました。肝いりは政府とりわけ、郵政省と通産省の連携プレーでした。4年1ヶ月後の1964年10月10日には、東京でオリンピックが開かれることが決まっていましたから、その五輪中継をカラー放送すれば、カラーTV受像機の売り上げは飛躍的に伸びることが期待できる。こう考えて電機業界にハッパをかけた通産省と、カラー受像機が増えれば、カラー契約によって、受信料収入が飛躍的に伸び、NHKの経営改善になると期待する郵政省の思惑が見事に一致したのです。こうして、この日始まった本放送は、今からみると、色も悪く、色合いや濃淡の調整に苦心するシロモノでしたが、映画のような天然色が可能になったと、国民の興味を多いにそそりました。当初のカラー番組は1日に1番組程度でしたが、その後次第にカラー番組が増え、ナイター中継も63年にはカラー化し、オリンピックのカラー中継にメドを立てました。そこからです。「オリンピックをカラーで見よう」の大キャンペーンが華々しく展開されたのは…。かくいう私は大学生でしたが、我家のTVがカラー化したのは、オリンピックの1ヶ月くらい前のことだったのを覚えています。
2021.09.10
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クロニクル 毛沢東主席死す1976(昭和51)年9月9日45年前になります。中国共産党の最高責任者毛沢東党主席が、この日82歳で没しました。同年1月8日に78歳で没した周恩来首相に続く死でした。これを受けて約40日後の10月22日には、毛氏の未亡人の江青夫人らの文革4人組が逮捕されるなど、中国では文化大革命路線からの脱却が、急ピッチで進められることになりました。晩年の毛主席は、文化大革命の名による権力闘争に明け暮れるなど、マイナスの面も目立ったのですが、中国における社会主義建設の大功労者の死は、一つの時代が終ったことを、世界に自覚させる効果を持ちました。毛主席の逝去から45年、中国では第2の毛沢東を目指す人物の独裁体制が着々と築かれつつあるように見えます。実際には、今日に繋がる中国の繁栄の基礎は、毛沢東、習近平体制によってではなく、周恩来、鄧小平体制によって築かれたものであり、個人崇拝や個人に依る独裁を排除し、トップの地位は長くても2期10年に限るとする、独裁をコントロールする態勢によって築かれたものでした。さて、習独裁体制は、何時頃どのような終わりを迎えるのか? じっくり観察してやろうと考えています。 日本のトップ政党の総裁争いよりは、真剣に興味が湧きますから…
2021.09.09
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菅退任の決定打は?6日に書く予定が8日になりました。さて、菅総裁(首相)が総裁選への出馬を取りやめると表明したのは、3日11時半からの会合の席でした。その席で突然退陣を決意したとは考えられませんから、2日夜から3日朝にかけてのどこかに、退任を決意させた何かがあったことになります。すると、2日夜の二階幹事長との10分少々の会談が浮かび上がります。この席で、二階氏は首相に塔の情勢を説明し、自分に助け船を求められても、それはもはや無理だと首相を突き放したと考えるからです。派閥を持たない菅総裁にとって、安倍、麻生、二階の3派閥の長の支持は、失ってはならない大切なバックボーンであり、自らが総理・総裁に留まれる欠かせぬ土台でした。権力の座について、時間の経過とともに、3氏の支持を常に固めるための努力と低姿勢を怠るようになった菅氏をみて、そこに打つ手打つ手がまずく、国民の支持を失ってしまった菅氏が、自分たちのコントロールを離れようとしているとなると、3氏には菅総裁を支える必然性は無くなります。菅氏はこの肝腎のところが読めなくなっていたのですね。8月31日、岸田氏との一騎打ちの総裁選では、勝ち味がなさそうだと悟った菅氏は、派閥を持たない首相であるにも関わらず、自分には解散権があると思い込んでいたのでしょう。総裁選を先送りするために、総裁選前に解散・総選挙を断行すると、目論見ました。自分支えている三頭立ての馬車の誰にも相談せずにです。昔を振り返ってみましょう。ロッキード事件で田中前首相の逮捕を承認した弱小派閥の三木武夫首相は、田中・福田・大平3派を中心とした包囲網に解散権を封じられ、任期満了選挙となっています。麻生首相も解散時期を逸しました。無派閥の首相に解散権なんて事実上ないのです。そして、私利私略でコロナで大変な時期に解散するとはと、そして不人気なお前の下で選挙したら、どのくらい可愛い若手の屍がでるか分かっているのかと、怒り心頭に達した安倍・麻生の両氏は、早速解散を封じるとともに、菅支持を完全にとりやめ、菅おろしに動きます。焦った菅総裁は、最後の砦とばかり二階氏に助けを求めました。空気が読めなくなっていたのです。二階氏は、菅氏が自分の首を取りに来た時、あっさりとそれを受け入れました。しかし、心中この恩師知らずめと思ったに違いなく、首を承知したことで、菅氏との貸し借りはフラットになった、二階派は菅首相からフリーハンドを取り戻したと考え、無理して菅首相を支える必要はないと考え、郷里をとったのです。政界の離合集散はそれほどドライなのです。その二階氏を最後に頼った菅氏に、二階氏は「オレにはもうあんたを支持する義理はないよ。幹事長交代を受け入れたことであんたとはフラットな関係になったと思っている。」とはっきり、菅支持を断ったのでしょう。これが菅総裁に最後の都止めとなったのです。万策尽きた菅総裁は、朝までの時間を使って、辞任理由を考えるしかなかったのですね。この辺りが今回の辞任劇の真相だろうと、今は考えています。?
2021.09.08
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首相VS幹事長岸田氏の二階切り構想が好評なことを意識した菅首相は、二階外しに動きました。敵が得点を挙げている二階切り(二階氏はその強引な手法で、党内で顰蹙を買っていたのです)に動きました。首相から退任を打診された二階氏は、意外なことにあっさり退任を受け入れたのです。これには驚きました。二階氏が幹事長職に拘り続けたのは、党の政務活動費を自由に動かすことが出来るからです。二階氏が幹事長に就任した2016年8月から、実に37億円もの資金が二階氏に流れていることが、自民党本部の政治資金収支報告書で確認できます。職を離れれば、こうした資金は懐に入りません。それなのに何故?82歳の二階氏にとって、今年の選挙はともかく、次の選挙を考えると、引退の時期と後継問題が思い浮かびます。そうでなくとも今年に入って、当選歴の長い長老議員の引退報道が相次いでいます。すんなり身内にバトンを譲れればいいのですが、選挙区に光景を狙う大物がいたりすると厄介です、二階氏の場合、三男坊に禅譲したいようですが、地元の和歌山県選出の世耕弘成参院議員が鞍替え出馬を公言しており、簡単に三男に禅譲できる状況にはなく、公募によって複数候補の中から後任を決めるという、プロセスをとる必要に迫られるのです。二階氏はこう考えたはずです。自分が世間で不人気なのは承知している。菅首相も不人気だ。不人気同士で選挙をやって、大きく議席を減らした場合、首相は勿論自分も責任を取らされる。そうなると求心力も無くなるため、その次の選挙で引退しても三男を後継に指名する力は、自分には残らないだろう。首相が退任を求めてきたのはチャンスだ。ここは二階退任を受け入れ、解散のどさくさ時に政界引退を表明し、公募の時間がないからと、三男への禅譲を約束する音を条件にしよう。自分の議席は二階家で死守しよう。どうやらこんなことを考えたようです。政界というのは凄いところですね。さて、総裁選不出馬、菅さんの首に鈴をつけたのも、私は二階氏と見ています。その辺は明日にします。
2021.09.05
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菅首相辞任へ菅総理、横浜市長選で大敗してからというもの、呆れるほど悪手を打ち続けていましたが、ついに刀折れ、矢尽きて、討ち死にしてしまいました。横浜市長選後の、権力にしがみつく姿は、見苦しいの一語に尽きました。 横浜市長選では、自民公認の小此木さんを担いだものですから、選挙の後半戦は、菅首相の信任投票の様相を呈していました。それが大差で敗れたのに、自分の不人気に気付かぬふりをして、して、自分の不明を恥じるとも言わずに、総裁続投を目指すと言い出して顰蹙を買い、その後は、岸田さんが発表した二階幹事長下ろしの評判が良いと分かると、自ら二階下ろしに動いて、党三役の交代を言い出して、あれあれと思われ、挙句は党総裁選の前の解散総選挙をいいだして、いったん党の正式機関が決定した総裁選の先送りを言い出すなど、まさに殿のご乱心が続き、見苦しい限りでした。 この乱心に、党の大御所連中が立ち上がり、総裁選前の解散をストップ。解散権を封じられた首相は、最後の手段とばかり党三役と内閣の改造に勝負をかけたのですね。 ところが、あまりの乱心ぶりに呆れていた党内は、菅総裁の再任は党内事情からありえないと見たのでしょう。沈みゆく泥船には乗れないと、三役や閣僚の椅子を提示されても、引き受ける人物がいなくなってしまい、三役の交代も内閣の改造も行き詰まってしまったのです。昨夜の菅・二階会談で、その点がはっきりし、おそらくその場で、辞任した方が良いと言われたのでしょう。 さすがにご乱心の殿も、ここで目が覚め、自らの間違いに気づいたのでしょう。現在の任期を全うして(安倍総裁引継ぎの任期は今月30日までです)やめる。総裁選には立候補しないと、腹を決めたのでしょう。 それが伝わった瞬間から、兜町の空気も変わりました。経済界も明るく感じたのでしょうね。誰が新総裁になっても、菅でなければ自民党の負け方は小さくなると考えたのでしょう。選挙に弱い若手の行動が菅おろし(彼の下では、自分は落選だという恐怖感ゆえの行動でした)を産んだのです。次の段階は、国民に人気のある政治家の方が、選挙には有利だ。それなら河野さんがいいやと、彼らは河野太郎に飛びつくでしょう。 彼が立候補すれば、若手中心に相当の票を集めるでしょう。でも、どうでしょう。二階追い落としの功績は岸田さんにあります。大御所や中堅は、この功績を買って岸田総裁で動きそうですね。渋いですが、安定感はありますし、今は勢いに乗っています。岸田か河野か今の段階では分かりません。さて、二階さん、彼があっさり幹事長を降りることを承知したのは何故でしょう。明日この点を書かせていただきます。
2021.09.03
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クロニクル タイタニック号発見1985(昭和60)年9月2日36年前のこの日、1912年の処女航海の折に北大西洋で沈没したタイタニック号が、同海域の海底探査で発見されました。沈没から73年が経過していました。9月1日に探査を開始した、海洋考古学者ボブ・バラード率いるアメリカ海軍の調査団は、この日海底3,650mに沈没したタイタニック号を発見したのです。このときバラード隊の調査目的は、タイタニックではなく、同海域に沈没した原子力潜水艦スレッシャー とスコーピオン (2艦は既に引き上げ済み)から回収できなかった核燃料から、放射性物質が漏れていないかどうかの探査と計測だったのですが、思わぬ発見となりました。歴史の皮肉ですね。その後、タイタニック号は引き上げられることもなく、海底での腐食が進んでいます。特に金属を食べるバクテリアによって、劣化は著しく進んでおり、今後10年程度で、原型を留めることなく、消滅するものと考えられているようです。
2021.09.02
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クロニクル 原子力船「むつ」放射能漏れ1974(昭和49)年9月1日47年前のことです。この年8月26日早暁、反対派の隙をついて出港した原子力船「むつ」は、出港から6日目の9月1日、反対派の不安が見事に適中、放射能漏れを起こしたのです。出港2日後の28日、「むつ」は出力臨界実験に成功します。しかし、それから4日後の9月1日に原子炉の出力上昇試験に入ったところで、警報ブザーが鳴り、放射能漏れが明らかになったのです。洋上修理が不可能なため、母港へ帰ろうとしたのですが、地元漁民ばかりか青森県知事や議会も、「安全と説明していたのに、この事故はなんだ」と猛反発、母港への入港を拒否されたのです。こうして「むつ」は沿岸への仮停泊も出来ず、以後51日にわたって、洋上を漂流したのです。数年後、結局「むつ」は廃船となりました。
2021.09.01
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