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クロニクル ラストダンスをあなたと…1940(昭和15)年10月31日81年前の今日のことです。東京の全てのダンスホールが,この夜限りで全面的に閉鎖されました。タイトルは越路吹雪さんが歌った、岩谷時子訳詩の「ラストダンスは私に」をもじってつけさせていただきました。どのホールも、ラストダンスを楽しむ男女で超満員の盛況だったと、当時の記事は伝えています。日米開戦に先立つ1年1ヶ月余り前のことですが、日中戦争は泥沼化しつつあり、軍部の横暴に眉をひそめる人々も多かった頃でした。横文字は御法度とされ、タバコも改名を余儀なくされ、当時の人気銘柄の「ゴールデン・バット」は「金鶏(きんし)」、「チェリー」は「桜」に変更されたのも同じ10月31日のことでした。野球用語のストライク・ボール・アウト・セーフなども、敵性語として使用を禁じられたのもこの頃のことでした。
2021.10.31
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クロニクル 大蔵省都銀の不良債権額を発表1992(平成4)年10月30日29年前になります。この日、当事の大蔵省は、都市銀行など大手銀行21行の9月末時点での不良債権の総額が12兆3千億円であると発表しました。不良債権とは、A.回収不能債権、B.回収に問題のある債権、C.金利減免債権という3種類の債権を指し、このうち回収不能債権は4兆円であることも発表しました。この年、7月末から8月にかけて、株式市場で銀行株が売り込まれ、89年12月末に38900円の史上最高値を付けた日経平均株価は、この8月14000円台にまで、売り叩かれていたところでした。地価の暴落で、企業に対する不動産融資に多額の焦げ付きが出て、銀行経営の屋台骨が揺らぐと、噂されたためでした。大蔵省は、この噂を打ち消そうとして、急遽金融機関に聞き取り調査を実施した上で、この日の発表となったのですが、当初、サブプライムローン関連の行き詰まりに発する金融界の損失を、1千億ドル程度と発表したアメリカFRBの発表と同じく、金融界の自己申告を鵜呑みにしただけの、根拠の薄い、信用の置けない数字に過ぎませんでした。その後、不良債権総額が増え続けていったのは、ご承知の通りです。決断できない大蔵省や日銀、そして金融界の揃い踏みで、まことに愚かな先送りを続けた結果、何年も迷走を続け、遂には大手金融機関の倒産ラッシュという、金融危機を迎える結果となりました。
2021.10.30
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クロニクル 第2次中東戦争勃発1956(昭和31)年10月29日65年前のことになります。この日、イスラエル軍は突然ガザ地区の国境を越えてエジプトに侵入、スエズ運河地帯の占領を目指して、エジプト軍への攻撃を開始しました。ここに第2次中東戦争(スエズ戦争)が始まりました。エジプトのナセル大統領は、この年7月26日にスエズ運河の国有化を宣言し、同運河を接収しました。スエズ運河はイギリスとフランスの資本が支配権を握り、実質的に両国が支配していただけに、この措置に両国は仰天し、次第に武力解決やむなしという判断に傾いていきました。この空気を敏感に察知したのが、イスラエルでした。英仏の尻馬に乗って、領土拡大を実現しようと、スエズ攻撃の先兵役を引き受けたのです。翌日、英仏両国軍は、スエズ運河の安全確保と、運河地帯の中立化のためと称して、スエズ地帯に大軍で侵攻しました。イスラエルにエジプトを攻撃させ、それを口実にスエズ運河を再占領しようという、あくどくかつ姑息な方法でした。当然国際世論は、英・仏・イスラエルに厳しく、英仏が期待したスエズ運河の再接収は、失敗に終らざるをえませんでした。12月22日、国連は緊急総会を開いて,英仏両国とイスラエルに撤退を勧告、スエズ再占領の目論見は失敗に終りました。 結果的に英・仏・イスラエルは、ナセル大統領の名声を高める役割を演じて、舞台を降りたのです。ここにナセル大統領は、一躍第三世界の主役の1人に躍り出たのでした。
2021.10.29
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クロニクル プラハの春再び1989(平成元)年10月28日32年前のことです。この日、チェコスロバキアの首都プラハで、民主化を要求する2万人の大デモが行われました。プラハは、ウィーンに移る以前に、オーストリアハプスブルグ王朝の宮廷所在地だったこともある美しい古都です。そのプラハの町が血で染められ、ソ連などの戦車で蹂躙されたのが、1968(昭和43)年8月20日のことでした。「プラハの春」と呼ばれたチェコの民主化運動が、ソ連によって鎮圧された瞬間でした。ドプチェク首相らの指導者は逮捕・投獄され、チェコの民主化への息吹はかき消され、再び冬の時代に戻ったのでした。苦節21年、チェコの市民は不屈の闘志を秘めて、再起のときを待ち望んでいたのです。それがこの日でした。21年ぶりの満を持しての再起。それが32年前の今日だったのです。運動は成功し、11月22日には、全土ゼネストが始まり、12月28日には、山地の製材所での労働を命じられていたドプチェクさんも帰還、連邦議会議長という名誉職に就任、名誉を回復したのです。68年に「二千語宣言」に名を連ねたとして、職を失い、名誉も剥奪されていた、女子体操の名花として、東京五輪とメキシコ五輪で個人総合を制したチャスラフスカさん、ヘルシンキ五輪で5千メートル、1万メートル、マラソンの3種目を制し、人間機関車の異名をとったザトペックさんのお2人も、この日名誉を回復しました。
2021.10.28
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クロニクル 秋月の乱1876(明治9)年10月27日145年前のことです。この日、福岡県の士族、宮崎車之助らが、秋月で挙兵。小倉の鎮台兵により、鎮圧されました。3日前の24日には、熊本の士族,太田黒伴雄らによる神風連の乱も起きています。ここに明治の日本は、翌年(明治10年)の西南戦争に連なる,士族叛乱の多発時代を迎えました。
2021.10.27
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クロニクル 桶川ストーカー殺人事件1999(平成11)年10月26日22年前のことです。22年前の今日、埼玉県桶川市のJR高崎線桶川駅前で、女子大生が元交際相手とその兄が雇った男によって殺害されました。事件の被害者は犯人グループから監視・中傷・脅迫・プライバシーの侵害等のストーカー行為を受けていたため、事件は「ストーカー殺人事件」と呼ばれました。またこの事件がきっかけとなって、「ストーカー規制法」が制定されました。 日本で最初に認知された集団によるストーカー事件です。この事件では、写真誌『フォーカス』の頑張りにより、警察の怠慢な捜査や隠蔽工作が暴かれました。被害者とその家族は、幾度となく埼玉県警上尾署に相談し告訴状を提出していたのですが、警察側は捜査をせずにこれを放置し、被害者の家族に告訴の取り下げを要求していたというのです。この警察の怠慢と隠蔽工作を週刊誌『フォーカス』が明らかにしました。こうしたいきさつは、翌年3月にテレビ朝日『ザ・スクープ』が大々的に取り上げ、視聴者の関心を高め、マスコミの集中砲火を浴びた埼玉県警が立ち上がり、遂に告訴状を改ざんしていた事実を内部調査の結果として、明らかにしたのです。最後に埼玉県警が不正捜査を認めて被害者遺族に謝罪しました。しかし、上尾署の適切な介入があれば、殺されずに済んだに違いないnihonnno 若い女性の命が、戻ってくることはありません。 そしてストーカー被害は、現在でも一向になくなる気配を見せないのも、気になるところです。コロナ対応もそうですが、日本の公権力は、いろいろな面で動きが遅すぎますね。
2021.10.26
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クロニクル 中華人民共和国国連に1971(昭和46)年10月25日ちょうど50年前になります。この日、国連総会は台湾追放・中国招聘決議案を圧倒的多数で可決しました。ここに中華人民共和国の国連議席が確定しました。考えてみますと、これは摩訶不思議なことでした。第二次世界大戦の末期に連合国は、国際連盟の失敗の苦い経験に基づき、衆知を結集して新国際連盟の発足を急ぎ、国連軍派遣の権限を持ち、連合国の中心をなした5大国(米・ソ・英・仏・中)が常任理事国として、拒否権を持った安全保障理事会を中核とする国際連合を組織したのです。ここに発足した国連に、中国は当然のように常任理事国として、議席を持っておりました。国民党内閣の中華民国として‥ ですから、中国の内戦が共産党の勝利に終わり、1949(昭和24)年10月1日に中華人民共和国が建国された時点で、中国としての議席は、大陸を支配下に置く共産党の中華人民共和国に譲られるべきでした。ところが、大陸を逃れ、アメリカ第7艦隊に守られて、台湾に逃れた蒋介石は、中国は一つであり、「二つの中国の陰謀には組しない」として、国連に居座ったため、7億(当事)の民を統治する正当な政府が、国連に出席できない状態が、この日まで続いていたのです。これは異常な事でした。中国の議席回復を願う国々も年々増えました。ここで、アメリカ政府の意向を忖度していた日本は、大きな失態を演じたのです。それは、大陸中国の招聘は台湾の追放とセットになっている重要事項である。ですから、重要事項に指定して、3分の2の賛成を必要とすることにしようと提案したのです。過半数から3分の2へ。これは中国の国連加盟をさらに遅らせる措置でした。そしてその急先鋒が日本だったのです。この年も同じでした。しかし、7月に翌年2月にニクソン大統領が訪中すると言う米中の関係改善が公表された後でしたから、中国の招聘は圧倒的多数で可決されたのです。日本は、相変わらず重要事項の指定を提案したのですが、この提案も大差で否決され、皮肉なことに中国招聘・台湾追放の決議案そのものが、3分の2を超える賛成を得たのです。こうして、大陸中国の国際社会へのデビューが、この日決まったのです。
2021.10.25
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クロニクル 東京五輪閉幕1964(昭和39)年10月24日57年前のこの日、15日間の会期を無事に終え、東京オリンピックが閉会式を迎え、無事に幕を閉じました。10日の秋晴れの開会式、その夜いきなりの重量挙げ三宅義信選手(女子重量挙げの三宅宏美選手の伯父にあたります))の優勝シーンから、毎日日本選手の活躍を、テレビにかじりついて応援していたのが、いまだについこの間のように感じられてなりません。重量挙げという競技は、この時はじめて見たのですが、見ているだけで肩が懲りました。はじめて肩こりを経験したのが、この時です。卒業論文の執筆をそろそろ始めなければいけない時期だったのですが、五輪の誘惑には勝てず、この2週間を棒に振りました。そのツケは、12月15日の締め切りギリギリにようやく自家製の製本を終えるという、最後は72時間で、睡眠1時間という強行軍で、支払わされました。古き良き時代でした。 コロナ禍の中で強行した先日の東京五輪、選手たちには実施してよかったのでしょうが、質素で環境にやさしい五輪という当初の触れ込みは、開催が決まった途端に放棄され、天井知らずに近い多額の税金が投入されました。政治屋さんと土建屋さんなどの懐に、どれだけ流れ込んだのでしょうね。マスコミが検証してくれると良いのですが…
2021.10.24
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クロニクル オルブライト国務長官訪朝2000(平成12)年10月23日21年前の話です。任期満了間近の、米国クリントン政権のオルブライト国務長官が、この日朝鮮民主主義人民共和国(略称北朝鮮)を訪問。金正日総書記と会談し、米朝間の関係改善について、意見を交わしました。オルブライト長官の訪朝は、米国政府の現役閣僚としては、初めてのものでした。このとき米国は約2週間後の11月7日に、ブッシュ・ゴア両候補による大統領選挙の投票を控えており、何とか自分の任期中に、北朝鮮との関係改善の道筋をつけておきたいという、クリントン大統領のなみなみならぬ決意が伺われました。こうしたクリントン政権の努力も、次のブッシュ政権ですべて反故にされ、「北朝鮮」との関係改善は、先送りされ今日に至っています。
2021.10.23
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クロニクル トウ小平氏来日1978(昭和53)年10月22日43年前になります。この日、トウ小平中国共産党副首相が来日しました。この年8月12日に日中平和友好条約が調印されたことを受けてのものでした。トウ小平氏は、86年1月に逝去された故周恩来首相に重用された人物でしたが、プロレタリア文化大革命の時代と、周首相逝去後に起きた76年4月の第1次天安門事件に絡んで2度失脚しており、2度復活したことから不死鳥と呼ばれ,肩書きは副首相でしたが、事実上中国共産党の最高指導者の地位にありました。そのため、日本側も国賓待遇の接遇で臨み、来日翌日の23日には、昭和天皇との会見もセットしました。席上昭和天皇は、予定になかった日中関係の過去について自ら言及し、「両国の間には、一時不幸な出来事もあったが…」と述べられ、感激したトウ氏は、「天皇の訪中を中国人民と中国政府は、共に切望しています」と述べて、天皇の訪中を招聘しました。しかし、昭和天皇の訪中には、国内保守勢力の反対が強く、天皇ご自身の強い意欲にも関わらず、ついに存命中に実現することはありませんでした。天皇訪中の実現は、1992(平成4)年に、息子の平成天皇の訪中として、ようやく実現を見ました。
2021.10.22
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クロニクル 第2次農地改革法公布 農地改革本格スタート1946(昭和21)年 10月21日ポツダム宣言を受諾し、GHQの占領下にあった日本は、商工業における財閥支配と、農業における地主支配を抜本的に改めることを迫られ、ここに財閥解体と農地改革の断行によって、日本社会の民主化を進めることになりました。75年前のこの日、前年12月29日に公布された第1次農地調整法に続いて、自作農創設特別措置法と農地調整法の改正法(第2次農地調整法)が公布されました。その結果、農地改革が本格的に推進されることになりました。4年後の1950年に完了した農地改革では、(1)不在地主の全貸付け地(2)在村地主の法廷所有地(1町歩=約1ha=3000坪、ただし、北海道ではその4倍の面積)を除く全貸付け地の公定価格による強制買い上げと、同じく公定価格での小作農などへの売却(3)残存する小作地の小作料は、田は生産量の25%・畑は15%を上限として、金納とすること。以上の点が厳しく実行に移されました。こうして、農民の80%以上が自作農または自小作農となり、残存小作地は全農地の10%余にまで減少しました。山林には手をつけなかったとはいえ、小規模自作農が多数を占める農村は、冬場の出稼ぎや、中卒男女の大都会や工場地帯への集団就職によって、商工業への労働力の供給基地ではあり続けましたが、もはや『女工哀史』や『あぁ、野麦峠』に描かれたどん底の貧しさとは違った社会に変身していったのです。公定価格での買取り、売却の決定後に顕著になった悪性インフレや新円切換えによって、地主は実質的に農地をただ取りされたような状態に陥り、農民達はただ同然の安値で自作農に変身できたのです。こうして小規模な土地所有者が多数を占める農村は、戦後保守の強固な地盤を形成することになりました。
2021.10.21
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クロニクル 小選挙区制で初めての選挙1996(平成8)年10月20日31日投票の衆院選が始まりました。実は25年前の今日が、小選挙区制となって最初の選挙の投票日でした。25年前のこの日、第41回総選挙が初の小選挙区比例代表並立制という選挙制度で行なわれました。戦後、男女平等の普通選挙が導入されて以来(この制度での最初の選挙は、1946(昭和21)年4月10日でした)、ずっと続いてきた中選挙区制を改めた新制度での最初の選挙でしたが、投票率は戦後最低の59,65%まで落ち込みました。この選挙は、各選挙区当選者が1人だけの小選挙区で300人、比例代表で200人の計500人を選ぶ選挙でしたが、選挙区と比例区の重複立候補を認め、しかも比例代表名簿の同一順位に何人もの候補者を並べることが出来、同一順位の候補者は、惜敗率(同じ選挙区で当選した候補に対する本人の得票比率を調べ、その比率の高い候補から当選とするという仕組み)で順位を定めるという,分かり難さが嫌われたのと、狭い選挙区のため、候補者が限定され、馴染みがあったり、応援したい候補がいないなどの理由で、投票所に足の向かない人が増えたのでしょう。また、小選挙区制は小政党に不利な制度であることから、政党の再編も進み、選挙直前の9月28日には民主党が誕生するなどしていました。選挙結果は、自民党239、新進党156、民主党52、共産党26、社会民主党15、さきがけ2、無所属10となり、小政党の苦戦は明らかでした。この時、公明党は、衆院のみ1時解党して、新進党に加わっていました。さて、その後の投票率ですが、2000年選挙は62,49%、 03年選挙は59,86%、 小泉郵政解散選挙の05年選挙は、ニュースバリューが高かったためか67,51%まで膨らみました。さらに09年総選挙は、政権交代選挙となったため、さらに投票率が上がり69,28%にまで上昇しました。しかし、期待した民主党政権は、期待外れも良いところで、国民一般の政治への期待は脆くも崩れ、政治にソッポを向く国民が急増、12年の自民党復権となった選挙の投票率は59,32%と、10p近くの下落を生み、14年選挙では、52,66%と最低を大きく更新、17年選挙でも53,68%と低空飛行を続けています。今回の投票率はどうなりますかね。
2021.10.20
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クロニクル 日ソ国交回復1956(昭和31)年10月19日65年前のこの日、モスクワで、日本とソ連の国交回復に関する共同宣言が調印されました。ソ連との国交回復に執念を燃やしていた鳩山一郎首相は、病躯をおして底冷えのするモスクワまで出向き、共同宣言に自ら署名したのです。ソ連側もマレンコフ首相が署名しました。この日、鳩山首相は、日ソ国交回復を花道に引退する決意も表明、この後、前年に誕生したばかりの自由民主党は、激しい総裁選に突入することになります。なお、日ソ共同宣言においては、歯舞・色丹・国後・択捉四島の帰属については、歯舞・色丹二島の返還で合意する手はずが整ったところで、米国から強い横やりが入ります。ダレス国務長官が、「歯舞・色丹2島の返還で合意し、ソ連と平和条約を結ぶなら、沖縄は米国領として永久に変換しないが、それで良いのか?」有名なダレスの恫喝です。この脅しは利きました。米国の怒りに触れた日本政府は、直ちに2島返還を拒否、あくまで4島返還を求めるという、ソ連側が飲めない条件に固執して、平和条約の締結を不可能にしたのです。
2021.10.19
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クロニクル ミニスカートの女王来日1967(昭和42)年10月18日54年前になるのですね。この日を境に、ミニスカート旋風が日本を席巻することになりました。東京オリンピック後の不況を克服し、再び勢い良く成長を続けた日本経済は、「昭和元禄」と命名されたのを、御記憶の方もいらっしゃると思います。消費の好調が続き、女性の服装も次第に派手好みになり、欧風ファッション、特にパリモードがもてはやされ、スカート丈も少しづつ短くなりだしていた頃です。そんな時に登場したのが、ミニスカートの女王ともてはやされたツイッギーでした。彼女の来日を機に、日本でも若い女性を中心にミニスカートが爆発的に流行し、駅の階段や歩道橋などでは、目のやりばに困ったものでした。ただ、このミニスカート、流行としての息の長さは大記録もので、現在では社会的に定着しています。女性の支持を得た結果ということでしょうね。
2021.10.18
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クロニクル 川端康成にノーベル文学賞1968(昭和43)年10月17日53年前になるんですね。この日川端康成氏にノーベル文学賞が授与される旨が発表されました。日本人初の受賞でした。西洋人には、最も理解し難い日本人作家と思われていた川端に付与されたことに、新鮮な驚きを感じました。その川端が4年後の1972(昭和47)年にガス自殺を遂げたこともまた驚きでした。
2021.10.17
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クロニクル マリー・アントワネットの処刑1793(寛政3)年10月16日228年前のことです。日本では老中松平定信による寛政の改革が、なお猛威を振るっていた時代の後期にあたります。毀損令による札差イジメが、深刻なデフレを招き、江戸市中にご老中への怨嗟の声が上がっていた時期でした。1月に処刑された夫のルイ16世に続き、この日王妃だったマリー・アントワネットもギロチンの露と消えたのです。コンシュルジュリーの獄に繋がれた王妃は、子ども達とも離されて次第に体調を崩し、かつての美貌はその面影をなくしていました。晩年の様子を表した肖像をご覧下さい。彼女も革命裁判にかけられ、前日の15日に革命裁判所は、死刑の判決を下しました。判決の下った翌日早速刑は執行され、彼女は10月16日午後12時15分に、この世を去りました。時に38歳でした。
2021.10.16
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クロニクル これきりこれきりこれきりですか1980(昭和55)年10月15日41年前のこの日を最後に、山口百恵が芸能界を完全に引退しました。理由はご存知の通り、三浦友和と結婚して家庭に入るためでした。彼女の引退サヨナラ公演は、この日の10日前の10月5日に日本武道館に大入り満員の観客を集めて行なわれました。また現役最後のテレビ生出演は、13日放送の『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』(日テレ)でした。そしてこの日、15日は所属していたホリプロの20周年記念式典で、この日歌ったのは「いい日旅立ち」でした。式典後、午後8時半過ぎに引退記者会見が開かれ、その会見の模様は、一部が生放送されたため、これが芸能人として現役最後のテレビ生出演となりました。引退時は21歳9ヶ月、芸能人としての活動はわずか7年半でした。それにしても見事な引き際でした。芸能界とは絶縁し、マスコミへの登場は、今でも拒否し続けています。
2021.10.15
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クロニクル 大政奉還1867(慶応3)年10月14日154年前のこの日、第15代将軍徳川慶喜は、京都の朝廷に対し、大政を奉還しました。この結果、260余年にわたる徳川幕府体制に終止符が打たれました。しかしながら、このことは、ただちに新政府が誕生したことを意味しませんでした。大政を奉還された朝廷の側に、全国の政治を担う基盤が準備されていなかったからです。慶喜及び幕府の要職にあった政治家たちは、そのことを十分に承知していました。それ故、大政奉還は名を捨て実を取る幕府側の作戦でもありました。慶喜の狙いは、奉還後に作られる新政府においても、自らが主導権を握ることにありました。10日後の24日、慶喜は将軍職の返上も申し出るのですが、慌てた朝廷は、2日後の26日、慶喜に対ししばらくの間政務を委任する旨の沙汰を下します。おさまらないのは、倒幕派の面々です。彼等は、巻き返しを狙って倒幕の準備を進めます。かくて幕末の動乱は、一挙に大詰に向っての、全力疾走に入ってゆきます。
2021.10.14
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クロニクル 社会党の統一1955(昭和30)年10月13日66年前ななります。この日、当時の左派社会党(鈴木茂三郎委員長)と右派社会党(河上丈太郎委員長)が一同に会した社会党の統一大会が開かれ、4年余に及ぶ分裂に終止符が打たれ、衆議院156議席、参議院118議席を有する、日本社会党が誕生しました。この革新政党の統一に刺激を受け、吉田自由党と鳩山民主党が自由民主党として、合同することを決議、保守合同が実現したのは、同年11月15日のことでした。ここにいわゆる二大政党対立時代、55年体制が成立をみました。合同した自民党は憲法改正を目指して,議会で2/3の議席を確保することを目指し、逆に憲法擁護を掲げた護憲政党の社会党は議会で1/3の議席を確保することを目的としていました。政権獲得を目指さない3分の1政党の存在が、冷戦の時代に米ソ2大国の狭間にある日本の立ち位置、とりわけソ連との関係を特に悪化させない上で、うまく機能した側面もありました。この観点は、忘れてならないように思います。
2021.10.13
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クロニクル 社会党の統一1955(昭和30)年10月13日66年前ななります。この日、当時の左派社会党(鈴木茂三郎委員長)と右派社会党(河上丈太郎委員長)が一同に会した社会党の統一大会が開かれ、4年余に及ぶ分裂に終止符が打たれ、衆議院156議席、参議院118議席を有する、日本社会党が誕生しました。この革新政党の統一に刺激を受け、吉田自由党と鳩山民主党が自由民主党として、合同することを決議、保守合同が実現したのは、同年11月15日のことでした。ここにいわゆる二大政党対立時代、55年体制が成立をみました。合同した自民党は憲法改正を目指して,議会で2/3の議席を確保することを目指し、逆に憲法擁護を掲げた護憲政党の社会党は議会で1/3の議席を確保することを目的としていました。政権獲得を目指さない3分の1政党の存在が、冷戦の時代に米ソ2大国の狭間にある日本の立ち位置、とりわけソ連との関係を特に悪化させない上で、うまく機能した側面もありました。この観点は、忘れてならないように思います。
2021.10.13
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クロニクル コロンブス隊西インド諸島に上陸1492(明応元)年10月12日529年も前になりますね。ヨーロッパ人が書くと、コロンブスが「新大陸」アメリカを発見したとなります。コロンブス自身は、インド周辺の島に到着したと考えたようです。ともかく、西欧人がカリブ諸島(西インド諸島)に到着し、上陸したのが529年前の今日のことでした。コロンブス一行は、総勢90名(このうち87名の氏名が分かっています)、3艘の船隊で同年の8月3日にスペインのバロス港を出港しています。彼自身がサン・サルバドル島と命名した島への投錨は、11日の深夜を過ぎ、日付が12日に替わって間もなくであったとしるされています。島への上陸は、日の出を待って行なわれ、スペインの国旗を立てて島の占領を宣言しています。一行がスペインに帰りつくのは、翌年2月のことでしたが、隊員中、23名は、植民のため、現地残留を希望し、帰国しませんでした。
2021.10.12
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クロニクル 戦後初の映画「そよかぜ」封切り1945(昭和20)年10月11日76年前のことになります。8/15の敗戦から2ヶ月足らず、まだ廃墟の中にある日本でしたが、この日、戦後に撮影・製作された始めての映画「そよかぜ」が封切りとなりました。この映画「そよかぜ」については、いくつかの館で10日に先行上映されていますが、多くの会場では11日の封切りでしたので、ここでは11日をとらせていただきました。「そよかぜ」の主演は並木路子さん。この映画の挿入歌として彼女が霧島昇と共に歌った歌が、皆さんもご存知の『りんごの歌』です。「紅いりんごに 唇寄せて…」と、戦後の焼け跡に流れた軽やかなメロディと、並木の明るい歌声は、敗戦に打ちひしがれた国民の心に癒しとして作用し、明日への希望を齎したのでしょう。大変な大ヒット曲となりました。サトウハチロー作詞、万条目正作曲の「りんごの歌」は、実は戦中に完成していたのですが、「軟弱すぎる」との理由でレコーディングを禁止され、戦後まで日の目を見なかったのです。映画の封切りと共に、人々に歌われ、翌1946(昭和21)年1月にレコードが発売されると、3ヶ月で7万枚を売り上げる大ヒットとなったのです。
2021.10.11
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クロニクル 東京五輪開幕1964(昭和39)年10月10日57年前になります。高度成長真っ只中の日本も、そして私自身も若くて元気いっぱいな時期でした。それだけにいまだに、つい先日のような気分が抜けません。困ったものですね。ロンドンで、銀メダルを獲得した、女子重量挙げの三宅選手の伯父にあたる、三宅正信さんが金メダルの第1号でした。卒論の準備で超多忙な時期でしたが、つい見てしまうのですね。まるで自分も一緒に担いでいるような力の入りようで、優勝の決まった後、はじめて肩が凝っているのに気づきました。テレビを見ていて、肩が凝ったのは、このときだけでした。バレーボール女子の金メダル、試合を終えたキャプテンの河西選手が、試合後1人残って選手が流した汗で濡れているコートを、せっせと拭っている姿、ローマ大会で彗星のように現れたはだしのアベベ選手が、東京大会では真っ白い靴を履いて甲州街道を走った姿、アベベ選手に次ぐ2位で国立競技場に入ってきた円谷幸吉選手が、追い上げてきたイギリスのヒートレー選手に抜かれても、追いかける余力なく3位と後退し、フラフラの状態にありながら、必死にゴールまで辿り着いた姿など、未だに目に焼き付いています。そうです。57年前の今日、そんな東京オリンピックが開幕したのです.環7通り、国立体育館、国立競技場、東京モノレール、そして新幹線と、矢継ぎ早に様々な施設や交通手段が完成して、国をあげて成功を目指していた、まさしく全国民的ビッグプロジェクトが、幕を開けたのが今日でした。体育の日改めスポーツの日は、10月10日であってほしいですね。
2021.10.10
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クロニクル ゲバラ死す1967(昭和42)年10月9日54年前のこの日、キューバ革命をカストロと共に戦ったチェ・ゲバラが、ボリビア政府軍との戦いで捉えられ、翌日射殺されました。39歳でした。ゲバラはアルゼンチン生まれの医師で、グアテマラで開業、夫人の影響でマルクス主義者となり、メキシコに亡命中にフィデル・カストロに出会ってキューバ革命への協力を決意。1959年のキューバ革命をカストロと共に指導しました。1965年にキューバを離れてボリビアに渡り、ボリビア革命を試みましたが、米国CIAの支援を受けた政府軍との戦いに敗れ、志半ばに倒れました。
2021.10.09
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クロニクル 閔妃(びんひ)暗殺1895(明治28)年10月8日126年前のこの日、駐朝鮮公使三浦は、書記官や軍部を動員して、反日姿勢を強めていた閔妃の暗殺を決行しました。この年、日清戦争に勝利した日本は、朝鮮王室に対する支配力を強めようとしていましたが、露・独・仏三国による、有名な三国干渉によって、遼東半島の租借権を清国に返還。その影響で朝鮮王室への影響力を低下させていました。この間隙をついて、朝鮮政府と王室はロシアへ接近、日露のバランスをとることで、主権の回復を目指す姿勢を鮮明にし始めました。具体的には、王宮の警備を日本軍人が指導する訓練隊から、アメリカ人教官が指導する部隊に換え、日本離れを鮮明にしたのです。この情勢にあせった三浦公使は、この日親日的な国王の実父、太院君を擁してクーデタを起こし、反日派の中心人物と言われた閔妃の殺害を決行したのです。三浦は「日本人の仕業と分からないように決行せよ」という指示を出していたのですが、実働部隊は、そのようなスマートな暗殺を行う訓練を欠いており、王妃の顔も分からぬままに、服装などから、王妃と思しき人物を次々と殺害、しかも焦りから、使用を厳禁されていた日本語を乱発、日本語を解せぬ侍女たちを脅えさせるおまけまでつけ、変を聞いて駆けつけた各国公使に、日本人の蛮行であることを、つぶさに目撃されてしまったのです。当然、日本政府には、各国から厳しいクレームがつけられ、日本の評判を著しく貶める結果に繋がりました。こうして、三浦は外交官として失脚、その他の関係者も厳しい処分を受けたのです。昨夜の首都圏の地震へのお見舞いありがとうございました。幸い私の住む麻生区は一時期川崎のチベットと呼ばれた川崎市の最奥に位置するため被害はなく、無事でした。私個人は丁度風呂から上がるところで、湯船を出て身体を吹き始めたところで、ドーンと突き上げるような揺れに出会い、慌ててガス給湯器をオフにしたところで、揺れがあさまりました。全く無防備の状態で大地震に会うこともあるなぁと、良い経験になりました。
2021.10.08
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クロニクル 米空軍、アフガン空爆2001(平成13)年10月7日20年前のこの日、米国空軍はアフガニスタンを空爆。アフガニスタンに対する軍事行動を開始しました。このアフガンに対する攻撃は、同年9月11日の、ニューヨークの世界貿易センタービル(通商ツインタワー)への攻撃などの「同時多発テロ」に対する報復でした。9月15日にはブッシュ米大統領は、「同時多発テロ」をオサマ・ビン・ラーディンの組織したアル・カイーダの仕業と断定。アル・カイーダに基地を提供し、ビン・ラーディンを匿っているとして、アフガニスタンのタリバン政府を非難。ビン・ラーディンの引渡しと、アル・カイーダの追放をタリバン政府に要求。要求に応じない場合は、タリバン政府も仲間とみなして攻撃すると言明しました。そして、この日、それを実行に移したのです。日本の明治政府は、江戸時代には奨励された仇討ちを禁じました。その論理は、仇討ちは、次ぎに仇を討たれた人物の身内に仇討ちの気を起こさせと、憎しみの連鎖を招き、決して幸せな未来を生み出さない。だから、仇討ちを禁じて法の裁きに委ねるべきだと、こういうことでした。法治国家の米国もまた、当然そうすべきでした。国際司法裁判所に提訴、場合によれば国際軍事法廷を開くことを要請して、入手した資料を提出して、判断を仰ぐべきでした。それから20年、米国に頼ることと、賄賂をため込むことしかできなかった「アフガン政府」とアフガン軍部は、遂にソ連同様にアフガンの統治を諦めたアメリカが、撤退すると同時に、幹部が国外に脱出する不始末を演じて、国の統治をタリバンに丸投げしてしまったのです。何とも情けない話です。イラクも含め、いったいこの責任を米国はどうとる積りなのでしょうか。
2021.10.07
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クロニクル イラク調査団報告書を発表2004(平成16)年10月6日17年前になります。この日、アメリカ議会が編成し、チャールズ・デュエルファー氏を団長とするイラク調査団は、「イラク戦争の海戦当時、イラクに大量破壊兵器は存在しなかった。」と断定した報告書を、議会に提出しました。ブッシュ政権は、不十分な調査に基づいて、イラク内の反フセイン勢力が捏造した疑惑を、真実と見なして、無実のイラク、そしてフセイン政府を攻撃したことになります。その結果は、今日に繋がる中東全体の不安定化を齎したのです。アメリカの責任は重いですね。
2021.10.06
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クロニクル 東久邇内閣総辞職1945(昭和20)年10月5日76年前になります。この日、8月17日に成立した皇族の東久邇宮稔彦内閣が、GHQの人権指令を実行できないとして、総辞職しました。4日後の9日、幣原喜重郎内閣が成立します。人権指令とは、政治犯の釈放、思想警察の全廃、治安維持法の廃止などとならんで、天皇に関する自由討議を指令したもので、皇族内閣が受け入れ、実行するには荷の重いものでした。敗戦直後の国内政治は、第2次吉田茂内閣が登場するまで、短命内閣が続きます。内閣の上にGHQが君臨していたがゆえに、何とかもったの感が強いですね。
2021.10.05
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クロニクル 自自公3党連立政権樹立で合意1999(平成11)年10月4日22年前のこの日、自由民主党・自由党・公明党の3党は、連立政権を樹立することで合意しました。この合意に基づき、翌5日に成立した小渕改造内閣には、自由党から1名、公明党から1名の、計2名が、連立政権の閣僚として参加しました。このうち、自由党の党首は、後に民主党代表になる小沢一郎氏でした。やがて、自由党から、野田毅、扇千影氏らが分離独立して、保守党の名乗りを上げ、その後自民党に吸収されてゆくのですが、小沢自由党は、03年の9月に、民主党との合併に合意して、民主党に合流、政権交代に成功しますが、その後がいけなかったですね。見方を変えると、この頃からの離合集散が、今なお続いているようにも見えます。日本の政治風土に似合わない小選挙区制を、「これぞ政治改革、金のかからない選挙の実現が、これで可能となる」などと、嘘八百を並べて強引に導入したツケが、いまなお続いている。こんなふうに見えてなりません。出来るならば自民党が、保守とリベラルに分裂し、リベラルが国民民主と立憲民主の非社会主義者と合流して、欧米流の2大政党制が機能するようになると良いのですが、まだしばらく自民党内での政権交代方式が機能しそうですね。野党が頑張らなくっちゃ…
2021.10.04
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クロニクル 三宅島で大噴火1983(昭和58)年10月3日38年前のこの日。三宅島の雄山が噴火しました。噴火の勢いは凄まじく、阿古地区の住宅400棟は流出した溶岩(大溶岩流)に飲み込まれ、全住宅が跡形もなく焼失、埋没しました。雄山はその後も活発に噴火活動を続け、2000(平成12)年6月の噴火は、長期に噴煙を上げ続け、次第に有毒ガスの二酸化硫黄の濃度が増し、人命が危険となったため、9月に入り、政府は全島避難を決定、島民は東京などに避難し、高校生の多くは全寮制の都立秋川高校に編入することになりました。この非難は、二酸化硫黄濃度の人体への影響が、ほぼなくなるまで続けられ、結局島への帰還が可能になるのは、2005年の2月になっての事でした。足掛け6年、まる4年半の避難生活でした。
2021.10.03
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岸田総裁の誕生 その3岸田新総裁の人事、マスコミ並びの世間の評判とっても悪いですね。麻生派と事実上の安陪派に配慮しすぎだ。これでは旧態依然とした自民党のままで、ちっとも変わってないじゃないかと。そうでしょうか。今回の総裁選、久しぶりに活気あふれた総裁選になりました。衆院選や参院選よりも生き生きとして活気にあふれていました。いささか竜頭蛇尾に終わった感なきにしもあらずでしたが、派閥横断で若手が闊歩した姿が印象に残りました。流動化した若手の動きを、派閥幹部が辛うじて押しとどめたように見えます。次はどうなるか。日本の政治はドラスティックに大きく変わるよりも、気がついたらあそこが分岐点だったといった変わり方を良くします。河野候補、惨敗に近い負け方でしたが、総裁を目指す芽は残っています。決選投票での彼の議員票、86票から131票へ45票も増えています。増え方が半端じゃないですね。5割以上ですから。議員心理は、その後を考えますから勝ち馬に乗ります。1回目に1票差でも勝利した岸田候補の勝ちは、揺るがないところでしたから、河野候補の議員票が5割以上も増えることは、まさにサプライズでした。派閥優先、長老支配に疑問を持つ議員たちが抗議の意志も込めて河野候補に票を投じたと私には見えます。彼がここで苦労して、人の使い方、議論の詰め方、丁寧に人の話を聞き、丁寧に質問や疑問に答えることを学べば、まだ芽は残っています。麻生氏が「お前はまだ苦労が足りない。もっと自分を磨け」と、出馬を止めようとしたのは、親分としての戒めの言葉とも受け取れます。 今後は彼次第ですね。ところで、私は岸田氏の人事、今のところ合格点を出しています。第一に麻生派の優遇が目立つことです。ですが、麻生氏の副総理兼財務相をに見事に首に鈴をつけて解除しました。良く首を縦に振らせましたね。この話をねじ込む前に、総裁は甘利幹事長を内定しています。彼は麻生派で安倍氏にも近い重鎮です。その上、麻生氏公認の財務相は麻生氏の推薦を黙って受けるから、名前を出してほしいといったのでしょう。鈴木善幸元首相の子息がすんなり決まったようです。そして麻生氏自身には党副総裁の椅子を用意しました。まさに至れり尽くせりの厚遇です。総裁選直後の人事では、協力してくれた派閥への借りを返す人事になるのは、いわば慣習です。これを怠ると、協力は期待できず、党内各所から批判が出て、政権は短命に終わります。自らの名罰には我慢させて、協力してくれた派閥に役付きの椅子を割り振るのです。麻生派の次は細田派(実質安陪派)に配慮し、次いで竹下派(ここでは、同派のマドンナで、同派がいずれ女性の総裁候補に育てたい小渕優子女史を党の役職に就けています)にも配慮してと、派閥均衡人事であっても、抜擢する人物には、岸田好みが透けて見えます。総務会長に据えた当選3回の福田氏などは、安倍氏の期待とは全く異なる人物だったのは、知る人ぞ知るサプライズだったそうですね。岸田総裁は、おそらく自派の議員たちに、「最初の1年は我慢してくれ」借りを返さねばならないから。朱印船と来年7月の参院選を乗り切れば、後2年少々の任期は波も立たない。1年後の内閣並びに党役員人事は遠慮はいらないので、ともかく1年は辛抱してくれと話しているでしょう。コロナの感染率が大きく改善してます。安倍氏が高市氏に肩入れしたおかげで、ネトウヨの人たちが高市支持で盛り上がりました。この人たちは自民党の保守右派の支持層です。盛り上がってますから、高市タクトに踊って、修身戦の投票率を引き上げるでしょう。ということで、11月選挙は自公両党で良い線いくでしょう。岸田首相の政権基盤は安定するでしょう。彼のカラーが出るのはそれからでしょう。最初の注目点は、来年度の予算案と見ています。
2021.10.02
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