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『アメリカン・ポピュラー・ミュージックのルーツ~ジャズのルーツ』交響曲第五番「新世界」は黒人音楽により生まれた。アントン・ドボルザーク(ドボルジャーク)は、1892年にアメリカ国立音楽院の初代院長にヨーロッパ、チェコから招かれます。そのときドボルザークは「アメリカの芸術音楽は後期ドイツ・ロマン派に追随する伝統に支配されている」と指摘しました。彼は、黒人の生徒を通じて黒人音楽のニグロ・スピリチュアルについての知識を深めます。そして、来米翌年の1893年に交響曲第五番「新世界」を発表し、つづいて弦楽四重奏「アメリカ」、弦楽五重奏を書きますが、これらは黒人音楽に影響されていることを語っています。「これら美しく変化に富んだ主題の数々は、まさに《土》から生まれたものだ。これらはアメリカのものである。これこそアメリカの民族音楽(フォーク・ソング)であり、アメリカの作曲家たちが顔を向けるべきものだ。アメリカの黒人音楽の旋律の中に、偉大で気高い音楽と呼ぶにふさわしい全てを私は見いだすことができる」
October 31, 2005
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『アメリカン・ポピュラー・ミュージックのルーツ~ジャズのルーツ』真のアメリカン・ポピュラー・ソングの誕生は1911年。アメリカン・ポピュラー・ミュージックがどこから始まったか?それは、スティーブン・フォスターから始まったと言われています。誰もが小学生のときに歌ってきた(歌わされてきた)フォスターです。フォスターは1826年に生まれ1864年に亡くなりました。彼が活躍したのは19世紀中ごろということです。それ以前のアメリカはアメリカ独自の文化というものはなく、何でもヨーロッパから持ち込まれたもので、音楽もヨーロッパから入ってきたクラシック音楽が大部分を占めていて、演奏され、聴かれ、楽譜が売られているものは、ほとんどがヨーロッパの音楽でした。それでは、純粋に「アメリカ的な音楽は何か?」と考えていくと、結局はアメリカの黒人が作った音楽にたどりつきます。もちろんネイティブ・アメリカン(インディアン)の音楽もアメリカ固有の音楽と言えますが、ポピュラー・ミュージックへの発展ということから考えると除外されるでしょう。つまりアメリカン・ポピュラー・ミュージックが確立していく過程は、アメリカの黒人音楽が白人社会に浸透していく過程であると言えます。それでは、フォスターは黒人であったかというとそうではありません。しかし、非常に黒人的であったと言うことができます。フォスターは格調高いクラシック作品を作りたいと考えていたようですが、結局は19世紀のアメリカの大衆芸能のミンストレル・ショーのために曲を書いていました。ミンストレル・ショーというのは、焼きコルクで顔を黒塗りにした白人の芸人たちが、黒人の会話やユーモア、歌やダンスの物真似をするショーで、ヨーロッパの模倣ではない、国産の芸能として1843年に登場し1840年代に人気を集め、その後半世紀にわたって最もポピュラーな娯楽として発展していくことになります。皮肉にもアメリカが抱える奴隷制度という問題が、オリジナルな大衆芸能を生みだす基盤となったわけです。フォスターの有名な曲の「故郷の人びと」も、最初に歌われたのはミンストレル・ショーでした。フォスターはミンストレル・ショーに曲を書いて、かなりの収入を得ますが、浪費癖のため文無しになり、ニューヨークの街中で行き倒れのように死んでいったと言います。そんなフォスターの音楽には黒人的なものがありました。彼の曲は南部の農場の中の奴隷とその労働を歌った牧歌的なものでしたが、農場の奴隷の労働やその生活が牧歌的なわけがないので、フォスターの音楽の黒人的な見方には賛否両論ありますが、フォスターの曲は、メロディーや歌詞などが黒人的な音楽性によって表現されているものであったと言えます。フォスターが死んでまもなく、1865年に南北戦争が終り、奴隷解放が行なわれました。黒人たちは、それまでは悲惨な生活ではありましたが食料と寝床は与えられていたので、わずかながらも余暇には楽器を弾いたり歌たりする時間があったのですが、奴隷解放によって、彼らは何の教育も技術もないのに自由競争の世界に放り出されてしまったのです。家も仕事もなく、それこそ今まで以上にきびしい生活を強いられることになった彼らには、もう歌ったり踊ったりする余裕などあるはずがありません。このことによって、いままで少しずつ芽ばえてきていた黒人的音楽が、ちまたからすっかり消えてしまったかに見えました。ようやく、1870年代になってニグロ・スピリチュアル(黒人霊歌)(*1)という黒人音楽が現れてきて評判になります。しかし、このころは白人のポップ・ソングの作曲家たちが、この黒人音楽の影響を受けたとは言えませんでした。黒人にとって大衆音楽的なスピリチュアルも、白人にはやはり聖歌であり、ポップ・ソングとして浸透するには、あまりにも黒人的すぎるものであったのでしょう。しかし、スピリチャルがアメリカ黒人の音楽としてのルーツとなって、やがてラグタイムやジャズ、ブルースといった音楽を生み出すことになります。1870年代に、ミンストレル・ショーのほうでも黒人だけで形成された黒人ミンストレルが出現してきました。そして、このミンストレルが1880年代になると、フォスター的な曲ばかりではなく、黒人ライターによる曲の人気が出てきて、もてはやされるようになりました。そこからケイクウォークというダンスやクーンソングという歌が生まれてきて、黒人的なものが、かなりポップなものとしての形ができてきました。そして19世紀末の1890年代、次に顔を出したのがラグタイムでした。ラグタイムはラグとも言い、もともとはアフリカのリズムとダンスからできたものだと言われています。基本的にはピアノの演奏スタイルで、左手でベース音または和音で規則正しく2拍子のリズムを刻み、右手で「シンコペーション」(*2)が入ったメロディーを弾くものです。記録で残っているものでは、1899年に出版されたスコット・ジョップリンの曲「メイプル・リーフ・ラグ」がその代表的なものとされています。ラグタイムは19世紀末に始まって1910年代まで非常に大きなブームとなりました。こうなると、ようやくポップ・ソングの方へも影響を与えるほどのものになり、世間は「ラグ」と名の付くポップ・ソングであふれることになりました。しかし、実際のところは「ラグ」とは名ばかりで、ヒットをねらったソングライターたちが、バラードでさえも「ラグタイム」と名付けて売るような始末で、膨大な量のラグタイムとうたった曲の中で、本当にラグタイムと言えるものは、ほんのわずかしかなかったようです。しかし、シンコペーションというリズムをアメリカの大衆に認識させ浸透させていったことは重要な出来事で、それが、1910年代末に「ジャズ」という音楽ができる基盤にもなっていたのです。1911年にソングライターのアーヴィング・バーリンがいち早く、このシンコペーションを取り入れ、「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」という曲を書き、それが空前の大ヒットとなりました。まさにこの時が真の「アメリカン・ポピュラー・ソングの誕生」の時ということです。この曲も本当のところはラグタイムではないのですが、これまでのアメリカン・ポピュラー音楽が、ヨーロッパのポピュラー音楽であるポルカやワルツといったようなものの真似でしかなかったものに、初めて「シンコペーション」というリズムを取り入れたもので、それはアメリカのポピュラー音楽史上、革命的なことでした。これによって、アメリカのポピュラー音楽がヨーロッパ音楽のまねではなく、独自のものとして、本当の意味での「アメリカのポピュラー音楽の誕生」ということになったと言えるでしょう。そういうことで、このラグタイムが誕生し浸透したことはアメリカのポピュラー音楽の歴史の中で、非常に大きな意味を持つものだと言えます。そして、このラグタイムが白人の世界に触れるきっかけをつくったのはミンストレル・ショーでした。ミンストレル・ショーは黒人揶揄(やゆ)のもので、黒人を無責任で、楽天的で、大口で大きい声を出して笑い、すり足で踊り、バンジョーを弾き、歌って踊る存在であるという概念を規定したもので、それは白人が作り上げたものでした。しかし、ミンストレル・ショーは多くの黒人たちに舞台を提供したことにより、黒人音楽が初めて、ニグロ・スピリチュアルよりも先に、白人世界に伝わる機会になり、黒人音楽はアメリカ文化の表舞台に現れてきたのでした。それにより、ミンストレルはヴォードヴィルなどの新しいショーの形式を生み出し、ミュージカルの誕生にもつながり、そこからラグタイムなどの黒人音楽が表に出てきたことにより、新しい形の、真のアメリカン・ポピュラー・ミュージックを生み出すことになりました。そして、それは「ジャズ」というアメリカン・ポピュラー・ミュージックの誕生に大きく関わるものでした。----------【参考】*1.シンコペイション(syncopation)とは、同じ音程の弱拍と強迫がタイで結ばれることにより、本来の弱拍と強迫が逆になるリズムのこと。要するに、4拍子の場合、本来は1拍目と3拍目が強迫であるが、シンコペイションでは、2拍目や4拍目の弱拍であるところにアクセント(強い音)がくるようになる。言い換えれば、2拍、4拍目のウラというところにアクセントが来るリズムということで、これが「ジャズ」では基本的なリズムの要素ということになる重要なもの。----------*2.ニグロ・スピリチュアル(negro spritual)とは、スピリチュアル、黒人霊歌とも言い、19世紀、アメリカ南部で奴隷となっていたアフリカ黒人の間で生まれた民謡ふうの宗教歌謡。アフリカ音楽を基盤とし、白人の聖書、賛美歌などの西洋音楽の要素を取り入れている。歌詞は旧約聖書の伝説を多く含み、奴隷としての苦しい境遇からの信仰と想像による逃避を願うものが多い。奴隷制度が廃止され、奴隷解放された1865年から6年後の1871年に、フィスク大学の合唱団ジュビリー・シンガーズによってスピリチュアル・コンサートが行われ、白人好みに洗練されたものがアメリカ全域に紹介され、ニグロ・スピリチュアル(黒人霊歌)として世界にも知られるようになり、一方、教会内ではゴスペル・ソングとして発達した。
October 30, 2005
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日本には「AOR」という音楽ジャンルがありますが、それは「アダルト・オリエンテッド・ロック(Adult Oriented Rock)」の略だと思っていませんか?確かに、日本では「アダルト・オリエンテッド・ロック」として「大人向けのロック」の意味で使われる場合が多いのですが、それは日本人が勝手に付けた解釈です。本当は「アルバム・オリエンテッド・ロック(Album Oriented Rock)」の略であり、「AOR」のもともとの使われ方は、ピンク・フロイドやイエスなどの、シングルではなくアルバムを重視したスタイルのロックを指す「アルバム ・オリエンテッド・ロック」のことを言っているものです。アメリカでは、現在でもこの意味で使われているのです。ちょうどAORという言葉が使われだした1980年前後は、プログレッシブ・ロックをアメリカ流にアレンジしたプログレ・ハードと呼ばれるジャンルが出現した時期でもありました。カンサスやボストンといったバンドが代表的なプログレ・ハードですが、アルバム中心主義でありながら聴いていて心地よい落ち着いたサウンドであったため、「大人向けロック」という「Adult Oriented Rock」と解釈されて日本に輸入されたのです。その後、日本ではこの意味での独自の解釈が進み、現在ではボズ・スキャッグスやTOTO、クリストファー・クロスといった大人向けポップ・ロック・アーティストのジャンルとして定着しています。なお、アメリカのビルボード誌では、このジャンルは 「AC」=「アダルト・コンテンポラリー(Adult Contemporary)」と言います。
October 29, 2005
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アーヴィング・バーリンなどの曲を集めた輸入版のCDアルバムには「CLASSIC ALBUMS」とか「CLASSIC SONGS」 というように、ジャケットに「クラシック」と記されているものがよくあります。また、アルバムのタイトルに使われているものもあり、フランク・シナトラのCDアルバムにも「クラシック・シナトラ」というものがありますが、これは決してシナトラがクラシック音楽を歌っているわけではありません。なぜジャズやポピュラー音楽がクラシックなのか?それは「クラシック」という言葉が音楽に関して使われるとき、日本と英語圏ではちょっと指す内容が違っているからです。日本では「クラシック」とは一般的に「クラシック音楽」のことを言いますが、英語圏ではジャンルに関係なく「みなさんおなじみの曲」といった意味を表します。クラシックとは、ただ単に「古い」ということでもありません。クラシックという言葉には、「いつの時代でも高い評価を受けるようなすぐれた模範的作品」という意味があります。ですから、 第1級のものでなければクラシックとは言えないのです。ロックの大名曲を「ロック・クラシック」とか1970年代の代表的な曲のことを「70'sクラシック」というように使われるのです。
October 28, 2005
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ホワイト・クリスマスを作曲したアメリカを代表する偉大な作曲家、アーヴィング・バーリン。彼のあとを追って偉大な作曲家となったジョージ・ガーシュウィンは、バーリンのことを「アメリカのシューベルト」と呼び、バーリンと同世代のアメリカを代表する作曲家のジェローム・カーンは、「バーリンをアメリカ音楽に位置づけることはできない。バーリンがアメリカ音楽だ」と語っています。しかし、彼のことを知れば知るほど、彼の音楽に関するアカデミックなものが、あまりにもないことに驚かされます。バーリンはピアノが弾けない、コード(和音)も知らない、楽譜が読めない、書けない、歌も、声は か細くオセジにもうまいとは言えません。にもかかわらず、ヒット曲を次から次へと世に送り出し、ソングライターとして大成功しました。彼は歌が好きで、歌手として音楽の世界に入ったのですが、生涯ピアノを弾けるようにはなりませんでした。彼の弾くピアノは、ほとんど黒鍵ばかりを使うF♯のキー(調)で、単音でメロディーを弾いて作曲し、転調もできないし、コード(和音)もつけられないし、楽譜に書くことすらできません。結局、彼が雇った音楽の専門家がそれを聴き取り、転調し、コード(和音)をつけて楽譜に書きました。バーリンは、音楽の技術が何もないにもかかわらず彼の書く曲はあまりにも素晴らしく、そういう彼のことが知られるようになると、彼の周囲からはある噂がたつようになりました。それは、彼が「無名の若い黒人をかくまっていて、その若者が彼のためにそれらの曲を書いている」というものです。根も葉もないバカげた噂話だったのですが、それだけ彼の才能は人々の大きな羨望(せんぼう)を集めていたのでしょう。人々からバーリンの才能が信じがたいものに映ったように、彼自身も、それが信じがたいものに思うことがあったようです。バーリンは、彼の曲が誰かほかの人によって書かれているという誹謗中傷(ひぼうちゅしょう)の声にいつも悩まされていて、そういうことにヒステリックに反応し、一生涯「ピアノが弾けない、音楽がわからない」という劣等感にさいなまれていました。あるとき、バーリンの曲を譜面に書く採譜屋のウィル・アーウィンに、バーリンは作曲している途中に、ふと、「君は黒人の若者の話をきいたことがあるかい?」と、ゴースト・ライターの噂のことを聞いたと言います。アーウィンが「はい、聞いたことがあります」と答えると、バーリンは、「だとすれば、いったいどれほど多くの黒人の若者を僕がかくしもっていなくてはならなかったか、君にもわかるだろう?」と語ったそうです。そして、アーウィンの譜面を書く能力に対して感心して「僕も勉強しなくちゃなあ」と言ったりしました。アーウィンはバーリンの作曲する能力が非凡のものであるということがわかっており、そのころは彼を心酔する敬虔(けいけん)な辛抱者(しんぼうしゃ)になっていたので、そんなバーリンに、「バーリンさん、僕はあなたを知ってからあまり長くありませんけれど、あなたは少し劣等感をもちすぎているように思いますよ」と言ったということです。こういうアーヴィング・バーリンを見ていると、音楽的教養があることやピアノなど楽器を上手に演奏できることと、人々の心をつかむ曲が作れるということとは全く別のものであるということがよくわかります。
October 27, 2005
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『It's A Lovely Day Today』(イッツ・ア・ラヴリー・デイ・トゥデイ)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲で、1950年のエセル・マーマン主演のミュージカル「Call Me Madame」に書いた曲で、その中でギャリーナ・タルヴァとラッセル・ナイプが歌いました。この曲は、彼の生涯で終わりの方の作品になります。バーリンは1960年代初めまでは曲を書き続けますが、 1964年にMGMがバーリンの曲でミュージカル映画を制作する企画をしたものの、結局実現しませんでした。それは、1960年に入ると世の中はロックンロール・ブームになり、バーリンの名は過去のものとなってしまったということでした。以後、彼は曲も書かず、ほとんど活動らしいことは何もせずに余生を過ごしました。1988年の5月11日に、彼の百歳記念コンサートがカーネギー・ホールで開かれ、映画やミュージカル界のスターが総出演でバーリンの曲を歌いました。この模様は全米で放映されたので、彼は自宅でそのテレビ中継を見ていたのでしょうが、このときはもうほとんど目も見えなくなり、誰とも会おうとしなかったと言います。その約3ヵ月後に妻のエリンが亡くなり、バーリンは、翌年の1989年の9月22日に101歳でこの世を去りました。アーヴィング・バーリンは、まさにアメリカン・ポピュラー・ソングとともに生きた人でした。「バーリンがアメリカ音楽だ」とまで言われた作曲家=アーヴィング・バーリン*****●イッツ・ア・ラヴリー・デイ・トゥデイ It's A Lovely Day Today作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1950年《コーラス》今日は素敵な日だわねだからあなたがやらなければならないことをするといいわそれにちょうどいい素晴らしい日だもの、本当にでもあなたが何をするにしてもそれは二人でするものだといいわ私はここにいたいんだもの今日は素敵な日だわねだから何をするにしても私はあなたのお手伝いをして、それを一緒にやれたら嬉しいわでもあなたが何をするにしてもそれが一人でできてしまうものなら今日は素敵な日だねって言うしかない私には言うことがなくなってしまうのよ本当に素敵な日だわね
October 26, 2005
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『There's No Business Like Show Business』(ゼアリーズ・ノー・ビジネス・ライク・ショー・ビジネス)【ショーほど素敵な商売はない】この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲で、1946年のロジャース&ハマースタイン制作のミュージカル「Annie, Get Your Gun(邦題:アニーよ銃をとれ)」に書いた曲で、その中の第一幕でレイ・ミドルトンとウイリアム・オニールが歌い、フィナーレでは全員で歌われました。また、1950年の同名の映画でも使われ、1954年の映画「There's No Business Like Show Business」では主題歌として使われました。そして、この曲は「ショー・ビジネスの世界の国歌」と言われるものになりました。しかし、この曲を作曲しているときに歌詞を秘書のマイナ・グラナトにタイプをしてもらっていると、彼女は「バーリンさん、これを歌だというのですか?こんなの歌じゃありませんよ。これはだめです」とつぶやいたので、自分では最大級のヒットになると確信していたものに、そんなことを言われて自身を喪失してしまったそうです。そんなところ、演出のジョシュア・ロウガンとリチャード・ロジャースに、この曲を聴かせたところ、二人ともあまり良い顔をしていないようだとバーリンは勝手に思ってしまい、次のリハーサルのときには、この曲を外してしまったのでした。リハーサルが終ると、ロジャースがバーリンに近づいてきて、「アーヴィング、どうして君は僕の好きな曲を落としてしまったんだい?」と言ってきたそうです。バーリンは、「この前この曲を弾いた時に君の顔を見ていたら、全然楽しそうじゃなかったから、嫌いなのだと思って落としたんだよ」と答えると、ロジャースは、「じゃあ言うが、僕はあれが大好きだよ。もどしてくれよ!」と言ったので、この曲は復活することになり、1947年の7月にビング・クロスビーのものなどがヒット・チャートの25位に入りました。この曲は、バーリン自身が数多い自作曲の中でも好きな曲ベスト5の中にあげてるものです。*****●ゼアリーズ・ノー・ビジネス・ライク・ショー・ビジネス There's No Business Like Show Business【ショーほど素敵な商売はない】作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1946年《ヴァース1》肉屋もパン屋も八百屋も会社員も人目につかないということでは不幸ねだって肉屋もパン屋も八百屋も会社員も働いた分だけお金をもらうけれども拍手はもらえないみんなお芝居の仕事ができるなら喜んでそのひどい仕事にさよならするでしょうねその理由はね《ヴァース2》 衣装に舞台装置に化粧に小道具の人たちは落ち込んでいても観客の顔を見ればウキウキする頭痛に心痛に背中が痛かったり失敗作だったり景観に街の外まで送り出されたり初日には心臓が太鼓のように高鳴る観客が来なければ幕を閉めるの《ヴァース3》カウボーイに曲芸師にレスラーに道化師夜明けとともにテントを移動する雑用の人たち音楽とスポットライトがあって、街から街へ荷物にはたくさんの札がつけられておがくずに馬にいろいろなにおい最後に泊まったホテルからもってきたタオル《コーラス1》ショーのような仕事はほかにはないわこんな仕事はほかに知らないショーのすべてが魅力的なの交通機関も止まってくれるのよ最後に何度もお辞儀をするときのあんな幸せな気分はほかでは得られないわショーの人たちは普通の人たちとは違うわね閉まるとわかっているような失敗作で落ち込んでいてもみんな笑顔をつくるわ寒さで立ち往生してしまうこともあるけれど金塊の袋をくれたってショーを止めたりはしないわさあ、ショーをつづけましょう《コーラス2》ショーのような仕事はほかにはないわこんな仕事はほかに知らない好きだったおじさんが明け方に亡くなったとかおまけにお父さんとお母さんが別れたとかショーが始まる直前に知らせをうけたら心はぼろぼろだけれど、でもショーはつづけるわショーの人たちは普通の人たちとは違うわね食べるのに困ることはないわいつも天使が、あちこちからたくさんお金をもってきてくれるのそしてそのお金がなくなっても非難されたりしないのよ返さなくていいお金なんて、ほかにどこで手に入るのさあ、ショーをつづけましょう《コーラス3》ショーのような仕事はほかにはないわこんな仕事はほかに知らない全国を旅してまわるって素敵初日の夜、入り口の外に立って劇場が満員になっていくのを見ているといい気分になるのそれに大きく書かれた自分の名前にライトがあたっているショーの人たちは普通の人たちとは違うわね落ち込んでいてもみんな笑顔をつくるわきのう、君はもうこれ以上無理だと言われても当日の夜の開演はうまくいったりするのつぎの日には更衣室にスターのマークがぶらさがっているわさあ、ショーをつづけましょう
October 25, 2005
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『They Say It's Wonderful』(ゼイ・セイ・イッツ・ワンダフル)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲で、1946年のミュージカル「Annie, Get Your Gun(邦題:アニーよ銃をとれ)」で、エセル・マーマンとレイ・ミドルトンが歌いました。また、1950年の同名の映画ではベティ・ハットンとハワード・キールが歌いました。このミュージカルはリチャード・ロジャース&ハマー・スタイン二世が制作し、アーヴィング・バーリンがスコアを担当するというもので、偉大なソングライター同士が同じ仕事をするという、珍しいかたちのものでした。この曲でも、バーリンはハマースタインから歌詞の助言をうけており、バーリンは、のちにハマースタインをほめたたえ、「本当に詩人と呼べる作詞家は一人しかいない。それはオスカー・ハマースタイン二世だ」と語っていたそうです。「恋は素晴らしいと人は言う。月が輝いていれば、なお素晴らしい」ジョニー・ハートマン、トニー・ベネットなど、多くの人が歌いスタンダード・ナンバーになりました。*****●ゼイ・セイ・イッツ・ワンダフル They Say It's Wonderful作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1946年《ヴァース(アニー)》噂が耳に入るけれどもどこから来るのかわからない人の心のことなのでなおさらそうねそれが私の心を燃え上がらせるような話しなの私が聞いたことが本当ならいいのに《ヴァース(フランク)》噂を聞いてもたいていはそのとおりだとは信じられないねでも君はそれを確かめるのにぴったりの場所に来たね君の聞いたことは全部そのとおりさ僕は一、二度経験しているから知っているんだ《コーラス(アニー)》恋に落ちるのは素晴らしいことだとみんなが言うの素晴らしいって、そうみんなが言うの月が上で輝いているって素敵ねそれは素敵だとみんなが言うの誰が言ったのか思い出せない本で読んだわけではないただみんなが恋は素晴らしいって私に言うのロマンスと言われているものは素敵とにかく素敵なんだってみんなが言うの《コーラス2(フランク)》ある朝君の家を出て行こうとする何の前ぶれもなく君は人々が恋は素晴らしいと叫ぶのを止めようとする腕に男性を抱きしめることは素晴らしいとにかく素晴らしいんだよ
October 24, 2005
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『White Christmas』(ホワイト・クリスマス)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲のもので、これを聴いたことがないという人はいないでしょう。1942年の映画「Holiday In」のために作られ、その中でビング・クロスビーが歌いました。また、1954年のビング・クロスビーとダニー・ケイ主演の映画「White Christmas」では、主題歌として使われました。1942年に出されたビング・クロスビー、フレディー・マーティン、フランク・シナトラのレコードは、全てミリオン・セラーになりました。この曲のヒットには、コール・ポーターの「You'd Be So Nice To Come Home To」と同様に、戦争の影響がみられます。戦争で戦地にいる兵士たちに故郷を思い起こす気持ちが、この曲に重なったということです。著作権料としては世界一のものでしょう。1965年12月までに楽譜が500万部、レコードが約350種類で、5000万枚売れたということですから、とにかくものすごい量といえるでしょう。ちなみに、レコードのうちの2500万枚はビング・クロスビーのものだといいます。そして、その後もいまだに売れ続けており、毎年クリスマスの時期になると世界中で軒並み使われるですから、この一曲だけでの著作権料は見当がつかないくらいにものすごいものになるでしょう。著作権は作者が亡くなってから50年まであるので、1989年に亡くなったバーリンのこの曲の著作権は2039年まで続くことになります。この曲は歌っている人も多く、それも見当がつかないくらいです。世界中の多くの国でもレコードが作られており、フランス語、ドイツ語、オランダ語、イタリア語、ポーランド語、ポルトガル語、スペイン語といった外国語にも訳されて歌われているということです。バーリンは、この曲を自作曲の中の好きな曲、5曲のうちの1つにあげています。*****●ホワイト・クリスマスWhite Christmas作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1942年《ヴァース》太陽が輝いていて草は緑だオレンジやヤシの木が揺れているしばらくなかったほどの素晴らしい天気だここロスアンジェルスのビバリー・ヒルズはでも今日は12月24日だし僕は北へ行きたくてたまらないよ《コーラス》僕はホワイト・クリスマスを夢に見ている以前みんなで楽しんだようなクリスマスをツリーの上のほうは飾りで輝いている子供たちは雪の中を走るソリの鈴に耳をかたむける僕はホワイト・クリスマスを夢に見ているクリスマス・カードを一枚一枚書いては思いをはせる毎日が君にとって楽しく明るい日々であるようにそして、みんなが雪に包まれたホワイト・クリスマスを迎えるように祈っている
October 23, 2005
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『God Bless America』(ゴッド・ブレス・アメリカ)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲のもので、1939年の作品です。この曲は、もともと1918年の陸軍のショーのために書いたのですが、制作の段階で落としてしまいました。それは、このショーは資金集めのものだったので、この曲は少しまじめすぎ、固いと感じたからだと言います。それから20年後の1938年、歌手のケイト・スミスが第一次世界大戦の休戦記念日(11月11日)に、ラジオで愛国歌を歌うことになり、バーリンにそのための曲を書いてほしいと頼みました。バーリンは、以前に作って発表されなかったこの曲のことを思い出し、苦労して楽譜を探し出しました。ただ、歌詞はいくらか変更をしたということです。原曲には「to the right」というものがあり、これは20年前は「国を正しい道に導く」という、「正しい道」という意味でしたが、20年後には「右より、右翼的」という意味を持ってしまったので、「through the night」=「夜の間」に変えました。また「victorious」=「勝利」という言葉が入っていたのを削除しました。彼はこの曲を勝利を目指すための「戦争歌」にはしたくないと考え、勝利より平和への賛歌であってほしいと願ったからだと言います。そして、歌詞を変更したため、それに合わせたメロディーに変更して仕上げ、これをケイト・スミスは、1938年11月11日のラジオ番組で歌いました。そして、翌年1939年のニューヨーク万国博覧会でもケイト・スミスが歌いました。また、ケイト・スミスとビング・クロスビーのレコードが長期に渡って売れ続け、1940年5月のメモリアル・デイで、ブルックリン・ドジャースのホームグランドのエベッツ・フィールドでこの曲が演奏されると、観客は国歌に対するように立ち上がって帽子をとったと言います。バーリンの持つ楽譜出版社が、印刷が間に合わなくなるほどの勢いで、この曲の楽譜が売れました。やがて自然にこの曲は非公式の国歌としてアメリカの第二の国歌と言われるようになり、この曲を本当の国歌にしようとする動きまであったと言います。しかし、右翼からの反対運動にあったり、クー クラックス クラン(KKK)(*1)やWASP(ワスプ)(*2)は、バーリンがロシア生まれのユダヤ人であることから、この曲のボイコットを働きかけました。それでもこの曲は大ヒットしました。そして、バーリンが何よりも自慢したことは、この曲に関しては一切宣伝や売り込みをしていないのにヒットしたということで、それは、「曲自体が、歌詞が、そして歌が素晴らしかったからだ」と彼はなにかにつけて語っていたということです。そして、彼はこの曲の著作権料を一切受け取らずに、その印税でゴッド・ブレス・アメリカ基金というものを作り、ルーズベルト大統領夫妻を著作権者として1939年に登録しなおし、寄贈した形になりました。以後、この基金はボーイ・アンド・ガール・スカウトによって管理され、彼らの活動資金に使われています。バーリンは、この曲に関しては彼の曲集以外の出版物への掲載を一切禁止しており、しかも、この曲の歌詞を他国語に翻訳することも禁じました。それは、彼にとってこの曲は意味深い曲であるということで、アメリカについて考える上でも見逃せない重要な曲と言えるでしょう。この曲は、バーリン自身が数多い自作曲の中でも最も重要な曲だと言っています。2001年9月11日の全米同時多発テロ事件後、アメリカ国民に国歌以上に頻繁に歌われています。ブロードウェイの舞台、国会議事堂前、犠牲者の追悼式、株式取引所、野球場でと、アメリカのあらゆる場所でこの曲が歌われました。そしてテロ事件後、この曲は、また多くの人たちにより、レコーディングされました。セリーヌ・ディオンがこの曲を歌いましたが、フランス系カナダ人の彼女がアメリカ賛歌を歌ったということで一部で批判的な声があがったそうですが、それは、作曲者のバーリン自身がロシア生まれのユダヤ人であったことによって受けたものと同じように、アメリカではいつの時代にも、そういった意見は出てくるもののようです。「God Bless America」「アメリカに神の祝福を」、「神よ、アメリカをお守りください」----------【参考】(*1)「クー クラックス クラン(Ku Klux Klan)」 とは、アメリカの白人至上主義の秘密組織。南北戦争後に結成。黒人や黒人を支持する白人に暴力を加え、白衣・白覆面をつけて十字架を燃やす儀式を行う。略して「KKK」とか「3K」とも言う 。(*2)「WASP(ワスプ)」とは、[White Anglo-Saxon Protestant]の略称アングロサクソン系白人新教徒のことを指す。アメリカの政界での主流派であるが、近年は勢力が弱まっているとも言われる。*****●ゴッド・ブレス・アメリカ God Bless America作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1938年著作権者:ルーズベルト大統領夫妻1939年神よ、アメリカをお守りください我が愛する祖国を神よ、そばにいて、お導きください夜の間も天から光をさしのべてください山々から平原へ希望に満ちた広大な海へと神よ、アメリカをお守りくださいいとしの我が家を神よ、アメリカをお守りくださいいとしの我が家を
October 22, 2005
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『Let's Face The Music And Dance』(レッツ・フェイス・ザ・ミュージック・アンド・ダンス)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲のもので、1936年の映画「Follow The Fleet」のために書いたものです。その中で、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが歌い、踊りました。マックス・スタイナーの編曲。この映画でも、この曲のダンス場面でロジャースの衣装についていた小さな鉛の玉がアステアの顔にあたるので、また二人はもめ、そこへ「Cheek To Cheek」のときと同じように、ジンジャーの母リーラが出てきて、お決まりの、ののしり合いが始まったといいます。「Let's face the music and dance」「苦しみを受けいれる」⇒「音楽に顔を向けて踊ろう」⇒「音楽に身をまかせて踊ろう」⇒「どうせ苦しむのだったらその前に楽しもう」⇒「苦しいときも楽しくいこう」*****●レッツ・フェイス・ザ・ミュージック・アンド・ダンスLet's Face The Music And Dance作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1936年これから先、困難に遭うことがあるかもしれないでも月の光と音楽と愛とロマンスがある限り音楽に身をまかせて踊ろうよヴァイオリン弾きが行ってしまう前に会計を済ましてくれと言われる前にまだ僕らにチャンスが残っているうちに音楽に身をまかせて踊ろうよもうじき僕たちの上から月がなくなり僕たちは違う歌を口ずさんでいるだろう二人で一緒に涙を流すこともあるだろうだからまだ月の光があって音楽と愛とロマンスがある限り音楽に身をまかせて踊ろう、踊ろう音楽に身をまかせて踊ろうよ
October 21, 2005
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『Cheek To Cheek』(チーク・トゥー・チーク)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲のもので、1935年のフレッド・アステアとジンジャー・ロジャース主演の映画「Top Hit(トップ・ハット)」に書いたものです。その中で、アステアが歌い、二人が踊りました。また、1938年の映画「Alexander's Ragtime Band」にも使われました。この曲を制作映画会社(RKO)の関係者の前で発表したときは、みんな当惑しました。バーリンは大変に有名だったので、みんな彼に会えるのを楽しみにしていたのですが、彼の弾くピアノのあまりのひどさに、「ええ、これがいいの?」と驚いたといいます。バーリンは一つのキー(調)でしかピアノを弾けないので、「転調できるピアノ」という特殊なピアノを使って10曲ほどを伴奏をして歌ったのですが、振り付けのヘルメス・パンは、「とくに”Cheek To Cheek”はよく覚えているね。いやあ、彼が歌って弾くざまなんて、もうそれはそれはひどかったよ」と語っています。しかし、そんなこの曲も音楽監督のマックス・スタイナーの手にかかると、何もかもが全く変わって素晴らしい仕上がりとなったということです。映画の製作段階でも、とんだハプニングがあり、さんざんなものだったそうです。この映画で一番重要な「Cheek To Cheek」の撮影のリハーサルのとき、ジンジャーはダチョウの羽根でできた豪華なドレスで着飾ってやってきたのですが、アステアとジンジャーが踊り始めると、ジンジャーの衣装から細かな羽根が飛び散りそれがアステアの目や鼻に入ってアステアはくしゃみを連発して、リハーサルは中止になりました。翌日、衣装係が処置をして大丈夫だと言ったのですが、やはり羽根は飛び散りダメでした。このとき、アステアは怒ってジンジャーを怒鳴りつけたため、ジンジャーは泣いてしまったといいます。ジンジャーの母親のリーラは典型的なステージ・ママで、それを見ていたリーラが入ってきて、今度はアステアとリーラがののしり合って、その日は終わるということになりました。それで、衣装係が徹夜で縫いこんで3日目にやっと撮影に成功したといいます。「天国だ、僕は天国にいるんだ。好きな山登りで頂上に登ったときも好きな釣りをしているときも君と頬(ほお)を寄せて踊るときに比べたら楽しさは半分くらいなものさ心臓がドキドキして口もきけないくらいに興奮している」と底抜けに舞い上がっているハッピーなこの曲も、こんなみんなの苦労によって素晴らしいものに仕上がったということです。ちなみに、トム・ハンクスが出演している1999年の映画「グリーンマイル」を見たことがあるのでしたら、そのシーンを見て、この歌も聴いているのです。「天国だ、僕は天国にいるんだ、話もできないくらい胸が高鳴る、捜し求めていた幸せを見つけたような気がする。さあ一緒に頬寄せて踊ろう(Dancing cheek to cheek)」と、幸福な恋の気分を歌っているところですが、「グリーンマイル」ではこの場面が、一度も映画を観たことのない死刑囚に、死刑執行前の最後の望みをかなえてやるというところで写し出されます。しかもその囚人は無実の罪のキリストのような「聖者」の黒人で、映画を選んだのは白人の刑務官です。死んだ後に行く「天国」はこんな所だ、と言いたかったのでしょうか? 1935年大恐慌下の暗い世相を忘れさせる夢のような名作「トップ・ハット」も、このように使われると、死に行く者の不幸や悲哀が強烈に写し出されることになり、印象深いものでした。この曲を歌っている人は数限りなく、有名なスタンダード・ナンバーになりました。「Cheek(チーク)」とは顔の「頬(ほお)」のことで、「チーク・ダンス」や「チーク・タイム」といったものに使われている「チーク」のことです。「Cheek To Cheek」とは、「頬と頬を寄せて」ということで、男女がお互いに頬をすり寄せて踊る雰囲気が想像できます。*****●チーク・トゥ・チーク Cheek To Cheek作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1935年天国だ、僕は天国にいるんだ心臓がドキドキして口もきけないくらいに興奮しているよ一緒に外に出て頬を寄せて踊っていると探し求めていた幸せを見つけたような気がする僕は天国にいるような気持ちだこの一週間僕にまとわりついていた悩みが一緒に外に出て頬を寄せて踊っているとバクチのツキのように一瞬で消えてしまった僕は山登りが好きだそして一番高い頂上に登るんだしかし君と頬を寄せて踊るときに比べたらその楽しさは半分くらいなものさ釣りに行くのもとても好きだ川や渓流で釣りをするんだしかし君と頬を寄せて踊るときに比べたらその楽しさは半分くらいなものさ僕と踊っておくれ、僕は君を腕に入れたいんだ君を取り巻く魅力は僕を通り抜けて導いてくれる天国だ、僕は天国にいるんだ心臓がドキドキして口もきけないくらいに興奮しているよ一緒に外に出て頬を寄せて踊っていると探し求めていた幸せを見つけたような気がする
October 20, 2005
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『Easter Parade』(イースター・パレード)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲のもので、1933年のミュージカル「As Thousands Cheer」に使われ、クリフトン・ウェブとマリリン・ミラーによって歌われました。1942年に映画「Holiday Inn」で、ビング・クロスビーが歌い、1948年の映画「Easter Parade」でフレッド・アステアが歌いました。1933年にクリフトン・ウェブの歌がヒット・チャートの5位に入り、その後も’39年、’42年、’46年、’47年、’48年、’54年と、何回もチャート入りをしています。この曲は、バーリン自身が数多い自作曲の中でも好きな曲ベスト5の中にあげてるものです。*****●イースター・パレード Easter Parade作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1933年《ヴァース》こんなにきれいな君は見たことがないよこんなにきれいに着飾った君も初めてだよ素敵なイースターの朝のデートが待ち遠しいな出てくるときの僕の心臓の高鳴りはすごかったよ《コーラス》飾りのついたイースターの帽子をかぶった君はイースターのパレードで一番華やかな女性だね僕は本当に幸せだみんなが君を見るとき僕はイースターのパレードで一番鼻が高いよこの通りで、五番街の通りでカメラマンはみんな僕らを撮るだろうそして君は新聞のグラビアに載った自分を見るだろうこれで僕はイースターの帽子とパレードに連れていった女性のことを詩に書くことだってできるね
October 19, 2005
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『How Deep Is The Ocean? (How High Is The Sky?)』(ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン?(・ハウ・ハイ・イズ・ザ・スカイ?))この曲は、1932年にアーヴィング・バーリンの作詞、作曲したもので、ミュージカルや映画とは関係のないものです。発表した当時は、最高で1932年の10月にガイ・ロンバード楽団のものが4位と、そう大きなヒットではなかったのですが、その後も多くの人に歌われ続けて、この曲はスタンダード・ナンバーになりました。1946年には映画「Blue Skies」で、ビング・クロスビーが歌い、フランク・シナトラも映画の中で歌いました。バーリンはこの曲を不出来だとして永らく発表を控えていたといいます。確かにこの曲はバーリンの曲らしくなく、ジャズ・ミュージシャンが好みそうな凝ったコード進行になっています。バーリンの曲はミュージカルに合うように、踊りや衣装、歌詞の内容を前面に出すために、メロディーやハーモニーが単純でストレートなのが特徴で、そういうわかりやすいところが一般大衆にうけ入れられていたと言えます。そのため、バーリンの曲調はコール・ポーターの曲調とは全く正反対に感じられます。ところが、この曲は凝った作りになっていて、コール・ポーターを思わせる屈折した作風になっているため、バーリンは自分らしくないと思っていたのでしょうか?しかし、チャーリー・パーカー、ベン・ウェブスター、デューク・ジョーダン、ビル・エヴァンスなど、多くのジャズ・ミュージシャンに取り上げられています。曲名は普通は「How Deep Is The Ocean?」、「海はどれくらい深いのだろうか?」ですが、それに続く「How High Is The Sky?」、「空はどれくらい高いのだろうか?」というところまで記されている場合もあります。「How deep is the ocean How high is the sky?」疑問形ばかりの歌詞になっています。*****●ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン?(・ハウ・ハイ・イズ・ザ・スカイ?) How Deep Is The Ocean? (How High Is The Sky?)作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1932年《ヴァース》僕の心の中にあるものを君にどうやって言えばいいのだろう?その一つ一つがどれほど大きいかをどうやって量ったらいいのだろう?僕が君をどれほど愛しているかをどうやって君に言えばいいのだろう?僕が君をどれほど愛しているかをどうやって量ればいいのだろう?《コーラス》僕は君をどのくらい愛しているのだろうか?ウソを言うつもりはない海はどれくらい深く 空はどれくらい高いのだろうか?一体一日に何度僕は君のことを想うのだろう?いったい何本のバラの花がしずくにぬれるのかな?君のいるところへ行くにはどれほど旅をすればいいのだろう?ここから星まではどのくらい旅をすればいいのだろう?そしてもし僕が君を失ったら僕はどれくらい泣き叫ぶのだろうか?海はどれくらい深く 空はどれくらい高いのだろうか?
October 18, 2005
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『Say It Isn't So』(セイ・イット・イズント・ソー)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲で、1932年のもので、ミュージカルや映画とは関係のない曲です。この時期は大恐慌のときで、バーリンも映画で失敗しており、彼は自身喪失におちいっていました。この曲を書いたときも自分ではまた失敗作だと思い込んでしまいました。それを、バーリンの片腕の作曲家のマックス・ウィンスロウが独断で、当時ラジオで売れていた歌手のルディー・バレーのところへもっていきこの曲を弾いて聴かせたところ、大変気に入って、すぐにラジオ番組で歌い、レコードも出してヒットさせました。1932年9月にポール・オスマンの歌がチャートの1位になり、ルディー・バレーのレコードは10月に12位に入りました。その他の人のものもチャートに入り、この曲の成功でヴァーリンは自身をとりもどし、すぐに次の曲「How Deep Is The Ocean? 」を書くことになります。スタンダード・ナンバーに精通していたことで有名な、故、大滝譲司氏は、120曲に厳選したスタンダード・ナンバーに入れており、アメリカでは充分にスタンダード・ナンバーなのですが、日本では知名度が低い曲のようです。ビリー・ホリデイ、ビング・クロスビー、パット・ブーン、ペギー・リーなど、多くの人が歌っています。「Say it isn't so」、「そうじゃないと言っておくれ」、「そんなことはないと言って」、「そんなのウソだと言って」と歌います。ホール&オーツのものに同名異曲があります。*****●セイ・イット・イズント・ソーSay It Isn't So 作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1932年《ヴァース》みんな噂話をすることはやめられないだからみんなあれこれ噂をしているそのみんなが話していることを耳にすると僕の心は恐怖でいっぱいになるみんなは君が裏切ったと言うけれど僕はそんなことは信じないみんな間違っているに違いない君の口からそれを聞かないかぎり《コーラス》そうじゃないと言っておくれ、そうじゃないってみんなが君はもう僕を愛していないと言うそんなことはないと言っておくれ僕の行く先々で、知っている誰もが君が僕に飽きてきているとささやくそうじゃないと言っておくれ君が誰か新しい恋人を見つけたからしだいに僕から去っていくだろうとみんなが言うそんなの本当のことではないと言っておくれ何も変わりないと言っておくれ僕が知りたいのはそれだけだそしてみんなが言っていることをそうじゃないと言っておくれ
October 17, 2005
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『Blue Skies』(ブルー・スカイズ)この曲は、1926年12月に始まったロジャース&ハートのショー「Batsy(ベッツィー)」に出演することになっていたベル・ベイカーの依頼を受けて、アーヴィング・バーリンが特別に書いたものです。特別というのは、ロジーャス&ハートのショーには、他人の曲を挿入することを禁ずる契約になっているのですが、出演者のベル・ベイカーの「たっての願い」によって書いたものだからです。ベル・ベイカーはヴォードヴィルのスターでしたが、このショーの中に「ベル・ベイカー・ソング」がないと言って、ショーの始まる前日に、以前から親しかったバーリンのもとに曲を作ってほしいと泣きついたのでした。そこで、バーリンはベルのアパートへ行って、徹夜でこの曲を仕上げたと言います。本当はロジャース&ハートのショーにバーリンの作った曲を入れることはできないのですが、ベルはロジャース&ハートには内緒で歌うことにしました。このショーは、ベルが恐れていたとおり、さんざんな結果でしたが、終わり近くで彼女が歌ったこの曲だけは大いにうけて、この曲を24回もアンコールされて歌ったと言います。しかし、「Batsy」はこの一曲だけしか成功しなかったために、39回で閉幕になりました。この曲は、翌年の1927年4月にベン・セルヴィン楽団のものがチャートの1位になり、その後、多くの歌や演奏が次々とチャート入りして、それは翌年まで続きました。1928年にはアル・ジョルソンが映画「The Jazz Singer」で歌い、1946年の映画「Blue Skies」ではビング・クロスビーが歌い、 「White Christmas」などの映画でも使われました。その後も多くの人の歌や演奏がチャート入りをしています。多くのジャズ・プレイヤーに取り上げられて、スタンダード・ナンバーになりました。この歌の「Blue」は「憂うつ」や「寂しい」というものではなく、太陽が輝いている明るく幸せな「青い空」のことを言っています。ロジャース&ハートは、この件で、その後何年ものあいだ、ベル・ベイカーに口をきかなかったと言います。*****●ブルー・スカイズBlue Skies作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1927年《ヴァース》私はどうしようもないほど落ち込んでいた毎日が私には曇りの日するとある日幸運がやってきて私のドアをたたくのずっと灰色だった空はもう少しも暗くなきなったわこれからは風が東西どちらに吹くのかも気にかけるわ最悪のことが最善だというのなら怒りはしないそんなのウソだとみんなが言うのなら私はだまってはいないそして笑わなければいけないわ、もちろん私はそうするわ《コーラス》青い空が私に微笑みかける私には青い空のほかには何も見えないわ青い鳥が歌を歌っているわ一日中青い鳥以外は何もいないわこんなに太陽がキラキラ輝いていてこんなに全てがうまくいっているなんて恋しているときは毎日が飛ぶように過ぎていくああ、その速いこと暗い日々はみんな遠くへいってしまったわもうこれからは青い空ばかりだわ
October 16, 2005
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●1964年10月15日、コール・ポーター(Cole Porter)没(1891~1964)73歳41年前の1964年10月15日は、私の大好きなアメリカのポピュラー・ミュージックの偉大な作詞作曲家、コール・ポーターが亡くなった日です。コール・ポーターは、1891年6月9日、アメリカ、インディアナ州ペルー生まれ。1964年10月15日、カリフォルニア州サンタモニカで73歳で亡くなりました。今年6月に、彼の伝記映画の「五線譜のラブレター」というDVDが出ています。コール・ポーターは、1920年代末から1950年代終わり頃までにおいて、数々のミュージカルや映画音楽を世に送り出してきました。その中から多くのスタンダード・ナンバーが生まれていて、それらの曲は彼の死後40年以上たった今も、世界中で愛され続けています。日本では「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥー・カム・ホーム・トゥー」がよく知られているものでしょう。日本では「ニューヨークのため息」というキャッチフレーズのヘレン・メリルが歌うものでヒットしましたが、とにかくこの曲はいろいろな人に歌われ、また、楽器(インストゥルメンタル)奏者にも演奏されています。オリジナルは1943年の映画「サムシング・トゥ・シャウト・アバウト」の主題歌として作られたもので、ジャネット・ブレアとドン・アメチが歌ったものです。「帰ってくれたら嬉しいわ」という間違った邦題を付けられてしまったので、この曲のイメージは、違うものになってしまいましたが、本当は、「あなたが待っている家に帰って、あなたを愛することが出来るのなら素晴らしい」と、離れている愛する人のもとに帰りたい、と歌っているラブソングです。 あなたさえいれば何もいらないと思ってしまう あなたは私のパラダイス あなたのいるところへ帰って あなたを愛することができるのなら なんて素敵なことなのでしょう時代背景から考えると、この曲が作られた1943年のアメリカは第2次世界大戦の時、戦場で、家に残してきた愛する人のことを想う気持ち、また、戦場にいる愛する人のことを想う気持ちとも重なって、当時のアメリカで、この曲は浸透したのでしょう。そして、この曲の始まりと曲中のマイナー・キーのアンニュイなメロディーが、日本人にも受け入れられやすいものになっているのでしょう。そのほかによく知られている曲は、「ナイト&デイ(夜の昼も)」、「ビギン・ザ・ビギン」などがあり、「ソー・イン・ラヴ」も以前、日曜洋画劇場のエンディング・テーマで使われていたので、聴き覚えのある人も多いことでしょう。アメリカの全時代を通じて最も人気のある、オール・タイム・ヒット・ソング35曲の中に、コール・ポーターの曲が5曲入っています。それは、下記の5曲です。Night And DayBegin The BeguineWhat Is This Thing Called Love?I Get A Kick Out Of YouJust One Of Those Things【関連記事】「May 27, 2005」の日記
October 15, 2005
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『Always』(オールウェイズ)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲で、1925年の「The Cocoanuts」というショーのために作ったのですが、結局はそれには使われずに、1925年の12月にヒット・チャートの1位になった「Remember(リメンバー)」のあとに出版しました。1926年の4月にジョージ・オルセン楽団のものとヴィンセント・ロペス楽団のものが共にチャートの1位になり、そのほかにもチャートの上位に入り、ヒットしました。1944年の映画「Christmas Holiday」にも使われ、ディアナ・ダービンが歌ってリヴァイヴァルしました。この曲は多くの人に歌われ、非常に有名なスタンダード・ナンバーになりました。バーリン自身も、数多い自作曲の中でも好きな曲ベスト5にあげています。ちなみにほかの4曲は、「Easter Parade」、「God Bless America」、「White Christmas」、「There's No Business Like Show Business」ということです。また、バーリンの二番目の妻になるエリン・マッキイのために書いた「Remember」につづく四番目の曲でもあります。バーリンとエリンは翌年の1926年に結婚します。*****●オールウェイズ Always作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1925年《ヴァース》何もかもうまくいかなかったそして一日中気分が重かったずいぶん長い間笑うことを忘れていたそのとき僕は君と出会ったもう僕の暗い日々は終わりを告げたとうとう僕は君を見つけたたくさんの夢が次々とかなうだろう君とともに歳をとり来る日も来る日も前の日よりも楽しく春が来るまで時間は飛ぶように過ぎていくだろうでも今度は春が過ぎても愛する人がずっとそばにいてくれるだろう《コーラス》僕は君を愛しているだろう、いつまでも真実の愛で、いつまでも君が何か手助けを必要としていれば僕はわかってあげられるだろう、いつまでも素晴らしい日ばかりではないから、いつまでもそういうときこそ僕がそばにいてあげよう、いつまでもたった一時間でもない、たった一日でもないたった一年でもない、ずっといつまでも
October 15, 2005
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『Remember』(リメンバー)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲で、1924年のクリスマスに恋人のエリン・マッキイを想って書いたもので、ミュージカルや映画とは関係のないものです。この曲は、彼が二年ほど前から作っていたものがまだ未完成のままだったのですが、クリスマスの日に彼女は旅行に出ていたために、バーリンは一人で彼女のことを想いつめていたら、一気に完成してしまったと言います。バーリンとエリンの恋は、エリンの父親の猛烈な反対にあっていて、このときも父親が娘を自分と一緒にヨーロッパ旅行に連れ出し、自分だけ先に帰国するのですが、娘には、そのまま監視をつけて長い間帰らせないようにしていたのでした。完成したこの曲を、彼の出版社の役員たちに聴かせると、「ひどいできなので出版しないほうがいい」と言われ、バーリンはすっかり自信をなくしてしまいますが、思い直して出版することにしました。その楽譜(シート・ミュージック)はすぐには売れなかったのですが、1925年の5月に、シーモア・サイモンズの歌がチャートの6位に入り、その年の12月にはアイシャム・ジョーンズ楽団のレコードが1位になり、翌年の1926年2月にもクリフ・エドワーズの歌が10位に入るなど、レコードが次々とヒット・チャートに入るようになりました。さらに、1938年の「Alexander's Ragtime Band」などの映画にも使われ、バーリンの代表曲になり、そのほかにも多くの人に歌われて、この曲はスタンダード・ナンバーになりました。 *****●リメンバーRemember作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1925年《ヴァース》一度の軽いキスとひとときの喜びそして深い後悔のときが来るほんの一度の軽い微笑みしばらくするとそれを忘れようとする証拠のように残されたかすかな心の痛み不注意に壊されたかわいいおもちゃ君は僕の夢の中に迷い込んできたようだったそして君も僕を愛してくれる日がきた僕の夢が実現した世界は五月のように晴れたしかし5月のときはすぐに12月に変わり君は忘れてしまった、覚えているかい?《コーラス》あの夜を覚えているかい、あの夜を君が「あなたを愛しています」と言った夜を君は頭上の星に誓ってくれた君は覚えているかい?覚えているかい僕たちは二人きりになれる場所を見つけたそして僕は熱烈に君を愛するようになり君は僕のことを忘れないと約束してくれたでも君は思い出してくれなかった
October 14, 2005
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レコード(コンパクト・ディスク)や本などが100万枚(部)以上売れることを「ミリオン・セラー(million seller) 」と言いますが、今、レコード(コンパクト・ディスク)アルバムが100万枚売れたとすると、作詞、作曲者に支払われる印税は、約145’000’000円(1億4500万円)になるといいます。
October 13, 2005
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『All Alone』(オール・アローン)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲で、1924年のレヴュー「Music Box Revue of 1924」に書いたものです。また、バーリンと1926年に結婚する二番目の妻になるエリン・マッキイのために書いたものでもあり、彼女に捧げた一番目の「What'll I Do?」に続いて二番目の曲になります。バーリンはこの曲を書くために、ニュージャージー州アトランティック・シティーのリッツ・ホテルに滞在し、昼間は海岸を散歩し、夜に作曲活動をして仕上げたといいます。1925年1月に、アル・ジョルソンの歌のものと、ポール・ホワイトマン楽団のものが次々とヒット・チャートの1位になり、その後も続々とチャートに入り、まもなくジョン・マコーミックの歌も1位になりました。それらのレコードはすぐに100万枚をこえ、楽譜も100万枚をこえ、ピアノ・ロールは16万本をこえる大ヒットになりました。*****●オール・アローンAll Alone作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1924年《ヴァース》どこからともなく漂うメロディーのように君の姿が昼も夜も僕からはなれない君がいなくなるまでわからなかった僕がどれほど君が好きだったかもう君なしでは生きることはできないつかの間の間君は僕のものだった君は夢のように消えてしまったまた君を抱きしめたい僕の生活はとても寂しい僕が望むのは君だけだ《コーラス》一人ぼっち、ぼくは一人で寂しい君以外には誰もいない電話のそばにじっと一人ぼっちでいるリンリンと鳴るのを待っている毎晩僕は一人ぼっち憂うつな気分で一人寂しい君がどこにいてどうしているのか考えながらそして、もしかしたら君も一人ぼっちなのかもしれない
October 13, 2005
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『What'll I Do?』(ホワットル・アイ・ドゥー?)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲で、バーリンの二番目の妻になるエリン・マッキイに書いたもので、1923年のレヴュー「Music Box Revue of 1923」の上演中に挿入されたものです。このころは、母リーアが亡くなった時期でもあるので、母を失った思いも込められているといいます。そして、この曲は1924年に出版され、楽譜もレコードも100万枚以上を売り上げるヒットになりました。1948年に映画「Big City」に使われ、ナット・キング・コールとフランク・シナトラが歌ってややヒットしました。「What'll I do?」は正しくは「What shall I do?=私はどうしたらいんだろう?」のことですが、バーリンはこの「What'll I do?」という表現が好きらしく、「All By Myself」の歌詞の中にも出てきていました。他の人が「What shall I do?」とわざわざ正しく表現するとバーリンは「「What'll I do?」と訂正させたと言います。ソングライターはみな、こういうことにはこだわりをもっていて、アイラ・ガーシュウィンも「'S Wonderful」を正確に「It's Wonderful」と直されると不快感を表明していたそうです。*****●ホワットル・アイ・ドゥー?What'll I Do?作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1924年《ヴァース》あの素晴らしかった恋が去ってしまった壊れてしまってもう取り戻せないあなたも私もそれぞれの道を歩んでいくでも今は私たちの愛の夢が終ってしまったあなたはあの喜びに満ちた夜のことを覚えているかしら?月の光がやさしく降りそそいでいてあなたの唇と私の唇が結ばれた不幸な終わりが待っていたキスで結ばれた夜のことを《コーラス》あなたが遠くへ行ってしまったら私はどうすればいいかわからない私は悲しく、どうしたらいいかわからない誰があなたとキスしているのかと気をもむ私はいったいどうしたらいいのかしら、私はどうすればいいの?私の悩みを話す相手が写真だけだなんて私はどうすればいいかわからないもうかなわないただあなたの夢だけで私は一人ぼっち私はどうすればいいの?
October 12, 2005
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『All By Myself』(オール・バイ・マイセルフ)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲で、1921年のパレス劇場のヴォードヴィル・ショーのために書いたものです。このショーは大した成功ではなかったようですが、この曲は、この年に何人もの人により歌われたり演奏されたりして、それらが軒並みヒット・チャートの上位を占め、レコードも楽譜も100万枚以上売り上げるものになりました。また、ピアノ・ロールも15万本売れたといいます。1946年に映画「Blue Skies」にも使われ、ビング・クロスビーが歌ってややヒットしました。この曲は、バーリンの母親が危篤のときに書かれたので、母を喪失する気持ちが込められていると言います。なお、この曲は同名異曲が多い曲です。ちなみに、エリック・カルメンのものとは同名異曲です。*****●オール・バイ・マイセルフAll By Myself作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1921年《ヴァース》僕は不幸せだ、どうしたらいいのだろう?僕に同情してくれる人がいればいいのにもう一人では生きていくのはいやだ僕は一晩中眠れずに泣き叫ぶ誰も僕を愛してはくれない、それが理由さ《コーラス》朝が来れば僕はたった一人夜もずっとたった一人僕はテーブルとイスに一人座り不幸せに一人でトランプをするたった一人で僕は寂しい棚の時計を見るだけさ僕は疲れた頭を誰かの肩の上で休めたいこのまま一人ぼっちで歳をとるなんていやだ
October 11, 2005
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『Play A Simple Melody』(プレイ・ア・シンプル・メロディー)この曲は、アーヴィング・バーリンが1914年に初めてショーのスコアを書いたときの作品で、ミュージカル「Watch Your Step」の中のものです。このショーは「シンコペイテッド・ミュージカル・ショー・メイド・イン・アメリカ」という、うたい文句がついていました。これは、アメリカのミュージカルがまだ誕生したばかりのものであることと、シンコペイションというものの音楽が、まだ生まれたばかりのもので、一般的には知られていない新しいものであるということを示しています。シンコペイションのリズムがついた音楽は、ラグタイムという種類の音楽から発生したものですが、このころは、バーリンがそれをアメリカのポピュラー音楽に取り入れ、ジャズにもこのリズムが受け継がれてジャズの重要な要素になる過程の時期でした。この曲は、二つのメロディーが対位法的に動くものになっています。バーリンはハーモニーの知識はないのに、どうしてこういうことがうまくできるのか、だれもが不思議に思うところですが、彼は音をかなり正確に聴き分けることができたようなので、自分の耳だけをたよりに感覚的にやっていたのでしょう。バーリンはメロディーよりも歌詞のほうが難しいと感じていたようで、「メロディー部分は僕はとくに苦にならないが、二つの歌詞をお互いにぶつかり合わないようにするのがとても難しいんだ」と言っていたそうです。*****●プレイ・ア・シンプル・メロディーPlay A Simple Melody作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1914年《コーラス1》私のお母さんがよく歌ってくれたようなやさしいメロディーを弾いてくださらない?懐かしい聴きなれたハーモニーがついている簡単なメロディーを弾いてちょうだい《コーラス2》音楽という怪物は恋人を夢心地にしてしまうのね何かラグ*を一曲弾いてくださらない?その古臭い退屈な曲はやめて何か甘くきれいなスローの曲に《コーラス3》しびれるような曲を弾いてくれれば心からの喝采を送るでしょうそれはもちろん私がラグを聴きたいからなの----------注)*「ラグ」とは「ラグタイム」のことを言っていると思われます。
October 10, 2005
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『Alexander's Ragtime Band』(アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド)この曲は、アーヴィング・バーリンの作詞、作曲のもので、1911年の作品です。そして、この曲は彼の名前をアメリカ全土に知らしめた出世作であり、彼の代表曲だと言えます。バーリンは、1911年にクラブのショーに歌手として出演を依頼され、そのショーのためにこの曲を作りました。最初に歌ったのはヴォードヴィルで有名だったエマ・カールスという女性で、この曲は大変な評判になりました。バーリン自身も歌って好評を得ました。このころ、楽譜はヒットした歌手の写真を表紙に載せて売られることが多く、カールスの写真を表紙につけた楽譜が出版されましたが、この曲は、爆発的な大ヒットだったために、ほかにも、アル・ジョルソンからビング・クロスビーなど、数限りない人たちによって歌われ、それぞれがヒットしたため、楽譜のほうも、最終的には65種類もの異なる写真を載せたものが出されたそうで、これは、最高記録のようです。アメリカ中の若者たちが「カモナ・ヒヤー、カモナ・ヒヤー」とこの曲を歌い、それが社会現象になったほどで、この曲によって、アーヴィング・バーリンの名前は一気に有名になりました。しかし、何よりもこの曲はアメリカの音楽史上においても重要な意味を持っているものでした。それは、これまでのアメリカン・ポピュラー音楽というものは、ヨーロッパのポピュラー音楽であるポルカやワルツといったようなものの真似でしかなかったものに、初めて「シンコペーション」(*)というリズムを取り入れたもので、それはアメリカのポピュラー音楽史上、革命的なことでした。これによって、アメリカのポピュラー音楽がヨーロッパ音楽のまねではなく、独自のものとして、本当の意味での「アメリカのポピュラー音楽の誕生」ということになったと言えるでしょう。この「シンコペイション」というリズムは「ラグタイム」と呼ばれている演奏スタイルの中の特徴的なもので、19世紀後半のアメリカで発生したものです。そして、このラグタイムは、ジャズの誕生にも大きく関わっているという重要なものでもありました。「はやく来て聴かなきゃ、来て聴きなよ。アレキサンダーのラグタイム・バンドは最高だよ」歴史的に重要な曲なのですが、桁外れに古い作品で、歌詞も曲調も単純すぎるため、ジャズ・プレイヤーやジャズ・シンガーに取り上げられることはあまりないようです。----------【参考】*シンコペイション(syncopation)とは、同じ音程の弱拍と強迫がタイで結ばれることにより、本来の弱拍と強迫が逆になるリズムのこと。要するに、4拍子の場合、本来は1拍目と3拍目が強迫であるが、シンコペイションでは、2拍目や4拍目の弱拍であるところにアクセント(強い音)がくるようになる。言い換えれば、2拍、4拍目のウラというところにアクセントが来るリズムということで、これが「ジャズ」では基本的なリズムの要素ということになる重要なもの。*****●アレキサンダーズ・ラグタイム・バンドAlexander's Ragtime Band作詞:アーヴィング・バーリン作曲:アーヴィング・バーリン1911年はやく来て聴かなきゃ、来て聴きなよアレキサンダーのラグタイム・バンドさはやく来て聴かなきゃ、来て聴きなよどこへいったって最高のバンドさ軍隊ラッパだってだれも聴いたことがないくらいうまいんだよあまりにも素晴らしいのですぐに戦争に行きたくなるほどさなんてったって最高のバンドさなあ、坊やほらちょっと来て寄ってきな、来て寄ってきな手をとってあげるからねあの男のところまでバンドリーダーのあの男のところまで「スワニー川」をラグタイムでやるのを聴きたいと思うのならはやく来て聴かなきゃ、来て聴きなよアレキサンダーのラグタイム・バンドを
October 9, 2005
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アーヴィング・バーリンは、自分の曲を守るために厳しい態度をとっていました。彼は、初期の一部の作品以外は作詞と作曲との両方をやっていて、そういう作品は、本などで他のソングライターの曲との混載を禁じていました。曲集や楽譜といったものにはたいてい多くの人の曲が入っていますが、彼は自分の曲は他の人の曲と一緒ではなく、自分の曲だけでなければ使用を認めませんでした。バーリンの曲を掲載したければ、バーリンの曲だけで構成したものでなくてはならなかったのです。ですから、子供向けのクリスマス・ソング集のような本にも、バーリンの「White Christmas」は載せることができなかったというわけです。私が持っているスタンダード曲集などの楽譜にも、バーリンの曲が載っているものは一つもありません。歌詞も同じことで、たとえば、クリスマス・ソング集のCDについている歌詞カードには、「White Christmas」の歌詞だけは載せることができませんでした。バーリンの作った曲に「God Bless America」という曲がありますが、これを本当のアメリカ国歌にしようとまで言われ、今では自然に非公式の国歌としてアメリカの第二の国歌になっていますが、この曲に関しては、彼の曲集以外の出版物への掲載を一切禁止しており、おまけに、この曲の歌詞を他国語に翻訳することも禁じていました。それは、彼にとってこの曲は意味深い曲であるということで、アメリカについて考える上でも見逃せない重要な曲と言えるでしょう。1989年にバーリンが亡くなり、遺族はこの禁止規定を解いたので、現在では混載が認められるようになったということです。
October 8, 2005
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アーヴィング・バーリンは、アメリカのポピュラー音楽の創始者的な作詞、作曲家。1888年5月11日、帝政ロシア、モヒレグ生まれ。1989年9月22日、アメリカ、ニューヨークで101歳で死亡。----------アメリカン・ポピュラー・ソングを考えるとき、やはり、真っ先に名前をあげなくてはならないのがアーヴィング・バーリンでしょう。アメリカン・ポピュラー・ソングはジャズの原点でもあり、そのアメリカン・ポピュラー・ミュージックの創始者であるアーヴィング・バーリンは、アメリカのポピュラー音楽史上、最も重要な作曲家ということになります。アメリカでは、アーヴィング・バーリンの名前を知らない人は、おそらくいないでしょう。それは、アメリカの第二の国歌と言われている「God Bless America(ゴッド・ブレス・アメリカ)」の作曲者であるからです。しかし、日本ではアーヴィング・バーリンの名前は、コール・ポーターなどから比べると、かなりなじみの薄いものだと言えるでしょう。とは言っても、日本でも彼の曲を聴いたことがないという人は一人もいないと言ってもいいでしょう。それは、彼の作った「White Christmas(ホワイト・クリスマス)」は誰でも知っているはずです。彼の曲には、古き良きアメリカの文化が詰まっており、アーヴィング・バーリン=アメリカそのものなのです。アメリカのポピュラー音楽を理解し、語る上では彼の音楽は絶対に避けて通ることはできないものです。バーリンとその曲を解釈するということは、20世紀初頭のアメリカを理解するということでもあり、はば広い文化的視点も要求されることになります。したがって、彼の曲の歌詞を解釈し、メロディーを歌ってみると、そのころのアメリカを感じとることができます。そういう意味から、アーヴィング・バーリンは、アメリカを代表する作曲家だと言えるでしょう。----------アーヴィング・バーリンは、本名をイズラエル・バリン(Israel Baline)といい、1888年5月11日、ロシア系ユダヤ人のモウゼスとリーアの8人兄弟の末っ子として、帝政ロシアのモヒレグで生まれます。1893年、イズラエルが5歳のとき、両親と8人の兄弟の一家で、アメリカのニューヨークに移民してきました。一家は、ロシア人やポーランド人の移民が多く住むマンハッタンのロウワー・イーストサイドで生活を始めますが、父親は移住から4年目に亡くなり、イズラエルの兄たちが家計を支えることになりました。イズラエルも新聞配達や雑用を引き受けては家計を助けるようになりました。父親はユダヤ教会で歌を歌う朗詠(ろうえい)者で、イズラエルも父親と一緒に教会でよく歌っており、歌が好きな子供でした。イズラエルは、16歳になるとバワリーにある酒場の歌うウエイターになり、客のリクエストに応えて歌ったり、酒を運んだり、即興で歌を作ったりしていました。このころに「Marie From Sunny Italy」という曲を始めて出版しますが、作曲は店のピアニストのニック・ニコルソンで、作詞がイズラエルでした。この楽譜には、本名の「Baline(バリン)」が、ミス・プリントで「 I.Berlin(バーリン)」と印刷されたと言われていますが、このときに改名したとも言います。その後、1909年にティンパンアレーのテッド・スナイダー・パブリッシング・カンパニーに曲を持ち込み、作詞家として契約をしますが、その時、イズラエルはファーストネームをアメリカ的な響きのする「アーヴィング」に変え、「Irving Berlin(アーヴィング・バーリン)」という名前でサインをしました。そして、ティンパンアレーでソング・プラッガーをしたり、ヴォードヴィルに出演したりしながら、作詞だけでなく作曲も手がけるようになりました。1911年に、彼が作詞作曲した「Alexander's Ragtime Band(アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド)」という曲が、爆発的に大ヒットし、バーリンの名前は一気に有名になりました。この曲は、それまでのヨーロッパ的な音楽であったアメリカのポピュラー音楽から、真の「アメリカのポピュラー音楽」というものになった初めてのものと言われています。アメリカ中の若者たちが「カモナ・ヒヤー、カモナ・ヒヤー」とこの曲を歌い、それが社会現象になり、ある意味では風俗に大きな影響を与えるくらいのものになりました。ちょうどこのころ、1900年初頭は、ニューオリンズではジャズの誕生の動きが出てきていました。その後、バーリンは1960年代まで、作詞、作曲家としてミュージカルや映画のために曲を作り、その数は1500曲を越すと言われ、多作でも有名です。その間に、第二のアメリカ国歌と言わるようになった「God Bless America(ゴッド・ブレス・アメリカ)」や、「White Christmas(ホワイト・クリスマス)」など、多くのヒット曲を生み、アメリカン・ポピュラー・ミュージックを作り上げた国民的な作曲家として知られるようになりました。アーヴィング・バーリンは101歳まで長生きをし、1989年9月22日、ニューヨークで安らかに息をひきとりました。----------アーヴィング・バーリンは、やはり非凡な才能の持ち主であったのでしょう。彼は正式に音楽教育を受けたことはなく、楽譜は書くことも読むこともできませんでした。また、彼の弾くピアノはひどいものだったらしく、キー(調)は「F♯」でしか弾けなかったと言います。要するに、ピアノの黒鍵でしか弾けない「猫踏んじゃった」状態であったようです。しかし、彼のイメージの中では、だれにも考えられないようなサウンドが響いていたということです。彼の作曲方法は口ずさんだメロディーを採譜者に書き取ってもらうか、直接アレンジャーに歌って聴かせるというものだったと言います。また、この時期にちょうど「転調できるピアノ」という、キー(調)をレバー操作によって変えることのできるピアノがあったらしく、彼は、それを使っていろいろなキー(調)に変えてピアノを弾くことができるようになり、そのことが、彼の作曲作業に大いに役立ったようです。ちなみに、この転調できるピアノは、現在は存在していないということです。彼は「黒鍵は手のすぐそばにあるじゃないか、Cのキーは音楽を勉強する者のためにあるのさ」と、音楽教育を受けていない自分の弁解とも、音楽教育を受けたものへの嘲笑ともとれるようなことを言っています。そして、「僕は音楽の法則に無知なもので、いつも法則を破ってきたが、結果的にそれが個性的な魅力になったのだ。音楽教育の欠如から、僕の語彙(ごい=その人が使う語の総量)は限られたものになり、いつも歌詞が単純なものにならざるを得なかったように、ポピュラー・ソングでは、音楽に対する相対的な無知、無理解が有利に働くこともあるのさ」と、音楽教育を受けていないことを一つの資質だと自慢するまでになりました。しかし、このことは彼がそれだけ非凡な人間であったということで、凡人にとっては当てはまるものではないでしょう。*****●代表作Alexander's Ragtime Band (1911)Play A Simple Melody (1914) All By Myself (1921)What'll I Do? (1924)All Alone (1924)Remember (1925) Always (1925)Blue Skies (1927)Say It Isn't So (1932)How Deep Is The Ocean? (How High Is The Sky?) (1932) Easter Parade (1933)Cheek To Cheek (1935)Let's Face The Music And Dance (1936) God Bless America (1939)White Christmas (1942)They Say It's Wonderful (1946)There's No Business Like Show Business (1946)It's A Lovely Day Today (1950)
October 7, 2005
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ジャズの素材としてのアメリカン・ポピュラー・ソングを考えるとき、その原点として、ジェローム・カーンとアーヴィング・バーリンという作曲家の名前があがります。アメリカン・ポピュラー・ソングは、この人たちの手によって始まることになったからです。1900年代初頭のアメリカ、ルイ・アームストロングがポピュラー・ソングをジャズの素材として見事に融合してみせた1910年ごろから始まり、エルヴィス・プレスリーとビル・へイリー&コメッツが出現して、ロックンロール時代が到来し、それらの曲がポピュラー・ソング・ヒット・パレードを席巻して、良質の音楽が生まれる環境を失ってしまう1960年ぐらいまでの間に作られた曲の中から、現在の音楽シーンにおいても消えることのない、永遠に不滅のスタンダード・ナンバーが生まれています。1960年以降の曲でもスタンダード・ナンバーと言えるものはでてきていますし、これからも、新しくスタンダード・ナンバーとなるであろうものもありますが、多くのスタンダード・ナンバーは、この1900年から1960年ぐらいまでの曲だと言えます。アメリカン・ポピュラー・ソングの一つの特徴として、スタンダード・ナンバーという概念があります。これは、おもにプレイヤーの歌唱または演奏のスタイルを第一に考えるということから生まれたもので、もとの曲はその素材として考えられ、その素材としてよく取り上げられる曲のことを、スタンダード・ナンバーと呼んでいます。そして、その素材を提供してきたのがティンパンアレーであり、ブロードウェイ・ミュージカルであり、映画音楽だということです。ですから、ロック、フォークソング時代以降はプレイヤーが自分たちで作ったオリジナル曲を演奏するという、シンガー・ソング・ライター(自作自演)の時代になると、素材としてのスタンダード・ナンバーは必要がなくなります。また、そういう曲は、どんなにヒットしてもプレイヤーのイメージとサウンドが曲に強く結びついているため、曲の素材化ということでは難しくなってしまいます。それは、たとえば、フィフティーズ(オールディズ)のリヴァイヴァルは単なる曲のリヴァイヴァルではなく、その演奏スタイルとファッションがリヴァイヴァルしているということであって、曲を素材として扱って、編曲などをしてしまったのではその意味をなさないということをみてもわかります。もちろんビートルズ・ナンバーやスティービー・ワンダーなどの曲のように、新しくスタンダード化しているものもありますが、それはあくまでも、彼らが素晴らしいメロデーィー・メーカーであるからです。大ヒット曲を持つプレイヤーが、全て素晴らしい曲作りの腕前を持っているわけではないということです。現在もジャズ・プレイヤーをはじめ、多くの人たちに親しまれているスタンダード・ナンバーは、真のプロフェッショナルなソングライターたちによって作られたもので、アメリカの文化がぎっしり詰まっており、ある意味アメリカの風俗をも変えてきた力を持っていると言えるでしょう。何を「スタンダード・ナンバー」というか、明確なものはありませんが、「スタンダード・ナンバー」とは、『ジャズやポピュラー音楽のなかで、いつの時代にも根強い人気で、歌われ、演奏される曲。長い年月を経ても消えることなく、歌われ、演奏され続けている曲。』ということです。そこには、美しいメロディーと美しいコード進行があり、素敵な歌詞があります。そして、一曲一曲にドラマを感じます。それは、オリジナル演奏者が有名無名に関係なく、多くの演奏者が好んで歌ったり、演奏する曲が、スタンダード・ナンバーということになるでしょう。大ヒットした曲が必ずしもスタンダード・ナンバーになるわけではありません。ある時期一世を風靡した曲でも、単なるその時の流行歌で終わり、忘れられてしまっていくものもあります。また、ロックだからスタンダード・ナンバーにならないとも言えません。言えることは、楽曲としてオリジナル性の強いものは、スタンダード・ナンバーになりにくいということです。その人の歌、演奏、オリジナルのアレンジのものでなくてはならないような曲のことです。その反対に、だれが歌っても、だれが演奏しても、その曲がその曲として成り立つものが、スタンダード・ナンバーになりえます。ですから、メロディーラインがしっかりしていて、それだけですぐその曲だとわかるというものです。オリジナルがどういうものかということは関係なく、その曲自体が立派に独立していくものが、その時代を越えて、長い間いろいろな人たちに受けつがれていくのです。たとえば、「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」のオリジナルは、「サムシング・トゥ・シャウト・アバウト」という映画の中で歌われていたもので、歌っていた人はジャネット・ブレアとドン・アメチだということは、ほとんどの人が知らないでしょう。しかし、逆にこの曲自体は、いろいろな人の演奏によって多くの人が知っています。スタンダード・ナンバーはオリジナルがどういうものかということは問題ではないのです。曲として純粋に存在していて、演奏者によってよみがえってその時間を生きることができるのです。永遠に語りつがれていく魅力のある曲、それが「スタンダード・ナンバー」です。----------そのスタンダード・ナンバーの生みの親と言えるプロフェッショナルなソングライターたちの中で、最も重要な人物は次の5人の名前があげられます。●ジェローム・カーン●アーヴィング・バーリン●ジョージ・ガーシュウィン●コール・ポーター●リチャード・ロジャースそして、この5人はアメリカを代表する文化的所産の一つであるブロードウェイ・ミュージカルを作り上げ、数々のアメリカン・ポピュラー・ミュージックを世に送り出した偉大な作曲家として、「ミュージカル5大作曲家(Mighty Five)」と呼ばれています。----------
October 6, 2005
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『A Ghost Of A Chance (I Don't Stand A Ghost Of A Chance With You)』(ア・ゴースト・オブ・ア・チャンス(アイ・ドント・スタンド・ア・ゴースト・オブ・ア・チャンス・ウイズ・ユー))【ほのかな望みもなく】この曲は、ヴィクター・ヤングの作曲、ビング・クロスビーとネッド・ワシントンの作詞による、1932年の作品で、映画やミュージカルとは関係のない曲です。ヴィクター・ヤングと親交のあった、ビング・クロスビーが歌ってヒットしましたが、ヴィクター・ヤングはこの時期、ダンス・バンドのテッド・フィオリト楽団のアレンジャーをしていたので、フィオリト楽団のレコードもヒットし、スタンダード・ナンバーになりました。この曲名は「A Ghost Of A Chance」か「Ghost Of A Chance」が普通ですが、「I Don't Stand A Ghost Of A Chance」か「I Don't Stand A Ghost Of A Chance With You」と、全部記してある場合もあります。「私はあなたと一緒になれる望みはこれっぽちもなさそうだわ」という切ない曲名。*****●ア・ゴースト・オブ・ア・チャンス(アイ・ドント・スタンド・ア・ゴースト・オブ・ア・チャンス・ウイズ・ユー)A Ghost Of A Chance (I Don't Stand A Ghost Of A Chance With You)【ほのかな望みもなく】作詞:ビング・クロスビー ネッド・ワシントン作曲:ヴィクター・ヤング1932年《ヴァース》どうして私があなたを好きになるようにさせたの?どうして私が恋に落ちるようにさせたの?私があなたの前にいてもあなたは私に気づきさえしないことがはっきりしているのにどうしてこんなことになってしまったの?《コーラス》あなたの愛が私にはどうしても必要なのあなたを愛しているわそれもものすごくねでも私があなたと一緒になれる望みはこれっぽっちもなさそうだわとうとう私はあなたという人を見つけたと思ったのにでもあなたは恋人にかこまれているし私があなたのそばにいられるチャンスはないようね!もしやさしいキスを一、二回許してくれるのなら私があなたにぴったりの恋人だということがわかるのにいつまでも変わらない本当の恋人だということがでもあなたと将来のことを考えるのは無駄なことねわかっているわ、私が夢見ているってことはだって私があなたと一緒になれる望みは、これっぽちもなさそうなんだから
October 5, 2005
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『Around The World』(アラウンド・ザ・ワールド)【世界一周】この曲は、ヴィクター・ヤングの作曲、ハロルド・アダムソンの作詞で、1956年の映画「Around The World(邦題:80日間世界一周)」の主題歌として書かれたものです。当時アメリカでけではなく世界中でヒットし、日本でも知らない人がいないくらいに有名な曲になりました。ジャズのスタンダード・ナンバーというより、永遠のポピュラー・ソングとして知られている曲です。映画はマイケル・トッドの製作で、65ミリの大スクリーン方式のもので、178分という、普通の映画の約2倍の長さの大作でした。上映時間が長いので、途中で約15分の休憩が入れられましたが、プロデューサーのトッドは、この休憩中もこの「Around The World」を流し続けるように、契約条項に入れたと言います。主演は、デイヴィッド・ニヴンで、その他、豪華キャストで44人の大スターが出演しました。ヴィクター・ヤングは、アカデミー主題歌賞、音楽賞に何と22回もノミネートされていながら、今までにオスカーを手にすることは一度もありませんでした。それは、彼の書くものは非常にメロディックであるのが特徴ですが、1950年代の映画界では構成や編曲に重点が置かれていたために、あくまでもメロディー中心主義の彼の曲は認められなかったからだと言います。彼も、音楽的才能のない作、編曲家のよくやる、メロディーをあまり前に出さずに、和音や編曲などで派手に気を引く、はやりのリズムなどを取り入れていれば、いくつも賞を取れたに違いないと言われています。音楽の賞とは所詮はそんなものだということです。ヴィクター・ヤングは、この曲で初めてアカデミー賞の劇映画音楽賞を受賞しますが、授賞式は1957年3月27日のことで、彼はそれを知ることなく、1956年11月11日に、カルフォルニア州パームスプリングで過労のため、56歳で亡くなってしまいます。演奏のものではヴィクター・ヤング楽団やマント・ヴァーニー楽団のものなどがヒットしました。また、たくさんのシンガーによって歌われていますが、ナット・キング・コールが歌ったものが有名で、彼は、自分のショーで必ずこの曲を歌っていたと言います。*****●アラウンド・ザ・ワールド Around The World【世界一周】作詞:ハロルド・アダムソン作曲:ヴィクター・ヤング1956年世界を周(まわ)って僕は君を探し続けてきた君と一緒に旅をする望みがかなわなくても僕は旅を続けてきたどこかで、いつか、何かのときにきっと君が僕を見つけてくれてこの今のものと同じ君の笑顔を僕も見れるさそれはアイルランドのダウン地区かもしれないそれともニューヨークか、あるいは華やかなパリかもしかしたらロンドンかもしれないでももうこれ以上世界を周るのはやめたんだそれは、僕は君の中に自分の世界を見つけたからさ
October 4, 2005
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『Johnny Guitar』(ジャニー・ギター)【ジャニー・ギター】この曲は、ヴィクター・ヤングの作曲、ペギー・リーの作詞で、1954年の映画「Johnny Guitar(邦題:大砂塵[だいさじん])」のために書かれたものです。ジョウン・クロウフォードが主演した西部劇映画で話題になりました。曲のほうも、ペギー・リーの歌とヴィクター・ヤングの編曲、演奏のものがヒットしました。ペギー・リーは1926年生まれで、1941年にベニー・グッドマン楽団のシンガーとして参加し、この1950年代前半は、映画に出演したり主題歌をつくったり歌ったりしています。「Johnny」の発音は「ジョニー」と言うよりは「ジャニー」のほうが近い感じになります。*****●ジャニー・ギター Johnny Guitar【ジャニー・ギター】作詞:ペギー・リー作曲:ヴィクター・ヤング1954年ギターを弾いて、もう一度奏でて、ジャニーたぶんあなたは冷たい人なのかもしれないけれど、でもあなたの心の内側はとても温かい私は私のジャニーがとっても好きなのみんなが呼ぶジャニー・ギターが私はとても好きなのもう一度弾いて、ジャニー・ギターたとえあなたが出て行こうと行くまいと、私はあなたを愛している冷たくされてもいいわ、本当はあなたはやさしい人だとわかっているから私のジャニーのような男は決してほかにいないわなんながジャニー・ギターと呼ぶ彼のような男は・・・
October 3, 2005
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『When I Fall In Love』(ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ)【恋に落ちたとき】この曲は、ヴィクター・ヤングの作曲、エドワード・ヘイマンの作詞で、1952年の映画「One Minute Zero(邦題:零号作戦)」のために書かれたものです。その中で、主演のロバート・ミッチャムとアン・ブライスが歌いました。この映画は朝鮮戦争に関するもので、映画もこの曲もそれほどヒットしませんでした。しかし、1957年の映画「Istanbul(イスタンブール)」にも使われて、ナット・キング・コールが歌いました。その年に、ナット・キング・コールのレコードがヒットして有名になりました。その後、多くのシンガーにより歌われるようになり、1962年にはレターメンのレコードがヒットしています。「僕が恋をするときは永遠に続く恋をしたいと思っている。 あなたも同じように感じているとわかったら、そのときこそ僕があなたと恋に落ちるときだ」この曲の邦題はよく「恋に落ちたとき」となっていますが、それはちょっと違っていて、「恋に落ちるとき」ということを歌っています。*****●ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴWhen I Fall In Love【恋に落ちたとき】作詞:エドワード・ヘイマン作曲:ヴィクター・ヤング1952年《ヴァース》僕のような考え方の人間はたぶん古臭いんだろうねたぶんいまだに過去を生きているのだろうでも僕にぴったりの人に出会えたらいつまでもその人を愛することだろう僕の最初の恋は同時に最後の恋になるだろう《コーラス》 僕が恋をするときは永遠に続く恋をしたいねそうでなければ恋なんかしたくはないこれほどめまぐるしく動いている世の中では恋は始まる前にもう終っている月の光の下でかわした、たくさんのキスも太陽の光の暖かさの中でさえ冷めていくんだ僕が心を捧げるのなら全てを捧げたいそうでなければ心なんかだれにも捧げないさそしてあなたも同じように感じているとわかったらそのときこそ僕があなたと恋に落ちるときだ
October 2, 2005
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『My Foolish Heart』(マイ・フーリッシュ・ハート)【愚かなりわが心】この曲は、ヴィクター・ヤングの作曲、ネッド・ワシントンの作詞で、スーザン・ヘイワード主演の1949年の映画「My Foolish Heart(邦題:愚かなリわが心)」の主題歌として使われました。 映画の内容は、主人公の女性が空軍兵士と恋をし子供を宿しますが、彼は戦争により死んでしまい、彼女は妊娠していることを伏せてほかの男と結婚し出産するものの、やがてその結婚は破綻し、不幸な境遇に落ちていく姿を描いたメロドラマ。雑誌「TIME」は三枚のハンカチがいるといい、雑誌「LOOK」はヘイワードの演技が素晴らしい映画だと評判が良かったようです。この曲のほうも、アカデミー主題歌賞にノミネートされました。この映画が発表された翌年に、ビリー・エクスタインの歌ったレコードがミリオン・セラーになったことによって、多くのシンガーに歌われる、有名なスタンダード・ナンバーになりました。インストゥルメンタルのものでは、やはりビル・エヴァンスのものが有名でしょう。「Beware, my foolish heart」「気をつけて、私の愚かな心よ」と自分の心を擬人化して警告をしています。「今までだまされてきたので、魅惑(fascination=魅了されること)には気をつけなさい。でも、唇と唇が重なってしまったらもう火がついてしまう。今度こそ、本当の恋なのよ。」と、私の心へと語りかけます。自分は客観的に、私の心は「愚かだから気をつけなさい」と言い聞かせて自制しようとするのですが、結局のところ私は、「今度こそ本物」と私の心に言い聞かせて、またしても恋に落ちていってしまいます。何度もだまされた自分の心を「愚か」だと言っていますが、この恋はきっと本物だと信じて歌います。*****●マイ・フーリッシュ・ハート My Foolish Heart 【愚かなりわが心】作詞:ネッド・ワシントン作曲:ヴィクター・ヤング1949年《ヴァース》夢を見るための用意はととのっているわ恋が私の心を戸をノックしているでも、私の心は、どうもその気になれないのなぜって、私たち(私と私の心)は今まで何度もだまされているから《コーラス》夜が美しい調べのように語りかけている気をつけなさい、私の愚かな心よいつものお月様が今夜はなんと白いこと用心を怠らないようにね、私の愚かな心よ恋と魅惑の間にははっきりと違いがあるのよただこんな夜にはそれがわからなくなってしまうのなぜって、キスの魔力に酔いしれているときはどちらもまったく同じに感じられてしまうものなのああ、彼の唇と私の唇が近すぎる気をつけて、私の愚かな心よでも、もし私たちの熱望している唇が重なってしまったらもうそのときは火花を飛ばしてしまいましょうなぜって、このときは、それは単なる魅惑ではないのよばらばらになって消えてしまう夢ではないのよそれは恋なのよ、今度こそ本当の恋なのよそうよ私の愚かな心よ・・・
October 1, 2005
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