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〔ビリー・ホリデイの代表曲 33〕What A Little Moonlight Can Do (R 1935)*Billie's Blues (1936)Summertime (R 1936)Why Was I Born? (R 1937)Easy Living (R 1937)Strange Fruit 【奇妙な果実】 (1939)*Fine And Mellow (1940)Body And Soul (R 1940)St. Louis Blues (R 1940)All Of Me (R 1941)*God Bless The Child (1941)As Time Goes By (R 1944)Lover, Come Back To Me (R 1944)On The Sunny Side Of The Street (R 1944)Lover Man (R 1944)*Don't Explain (1946)Good Morning Heartache (R 1946)I Loves You, Porgy (R 1948)Crazy He Calls Me (Crazy She Calls Me) (R 1949)Blue Moon(R 1952)Stormy Weather(R 1952)Love For Sale (R 1952)Easy To Love (R 1952)Yesterdays (R 1952)A Fine Romance (R 1955)Trav'lin Light (R 1956)But Not For Me (R 1957)I'm A Fool To Want You (R 1958) You Don't Know What Love Is (R 1958)For All We Know (R 1958)Violets For Your Furs (R 1958) But Beautiful (R 1958)*Left Alone (1961) 【注記】1.『*印』はビリー・ホリデイが作詞、作曲にかかわっているものです。2.年号の前に『R』がついているものは、レコーディングの年です。 但し、同じ曲でも何回か録音しているものがありますが、これは私が持っているもののデータです。3.この代表曲は、私が好きなものを独断と偏見で挙げてあります。
December 31, 2005
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ビリー・ホリデイの歌は約400曲余り録音されています。その録音記録は、大きく3つの時代に分けることができます。1.初レコーディングの1933年から1944年までのコロンビア時代。2.1944年から1950年までのデッカ時代。3.1950年以降のクレフ=ヴァーヴ時代。ビリーの「コロンビア」時代の録音は、別テイクやラジオ放送のエアチェックを含め、約230曲の存在が確認されています。この時期のビリーの録音は、彼女を発掘したジョン・ハモンドによって企画されたテディー・ウイルソン名義の楽団のブランズウィック・レーベルのセッションと、ビリー・ホリデイ楽団名義で録音されたヴォカリオン=オーケイ・レーベルのセッションの2つがあります。両セッションとも、当時のジャズ・シーンを代表するスター・プレイヤーが多数レコーディングに参加しています。そのときのビリーの歌声は若々しく、後年の凄みこそはありませんが、すでに確固たる独自の世界を築いており、ビリーの声が一番良い状態の歌が聴ける時代です。『レディ・デイの肖像』と名付けられたコロンビア時代の録音から編集されたベスト・アルバムは、コロンビア時代を代表する録音が収められています。そして、ミルト・ゲイブラーによって設立された「コモドア・レーベル」に1939年に吹きこんだ『奇妙な果実 (Strange Fruit)』によって、ビリーは一気に有名になります。この曲は、強烈な歌詞のため、メジャー・レーベルからは当時発売出来なかったものだったので、社会的な問題作になりました。1941年にコロンビアに録音された『ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド (God Bless The Child)』も、この時代の代表曲と言えます。1944年から55年の「デッカ」時代はレコーディングの環境にあまり恵まれないときではありましたが、『ラヴァー・マン (Lover Man)』『ドント・エクスプレイン (Don't Explain)』『グッド・モーニング・ハートエイク (Good Morning Heartache)』などのヒット曲が生まれました。1950年代に入るとノーマン・グランツのプロデュースによって「クレフ」(のちにヴァーブの一部になったグランツのレーベル)にさまざまな作品を発表しますが、彼女の体は麻薬によりむしばまれていき、声の衰えはひどくなり、かすれた声は老婆の囁きのようになってしまいました。「ヴァーヴ(クレフ)における彼女は、往年の輝きを失っている」という一般的評価は、声の状態だけを取れば事実かもしれませんが、そんなことは問題にならないほどの「深さ」を感じさせられます。1958年に久し振りに「コロンビア」に残したアルバム『レディ・イン・サテン』は、衰えた声で歌うにもかかわらず、鬼気迫るビリーの歌声が聴く者に歌の本質を考えさせる名唱と言われるものになりました。1959年3月4日と11日に、レイ・エリス楽団をバックに最後のアルバム『ビリー・ホリデイ・ラスト・レコーディング』の録音をしました。このあとすぐに意識不明になり、7月17日にニューヨークのメトロポリタン病院で44歳で亡くなります。
December 31, 2005
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ビリー・ホリデイは、非常に恋多き女性としても知られています。ビリーが一緒に寝ることを望んだ男たちから、彼女は強くインスピレーションを受けたと言います。ビリーが20代のころには、ミュージシャンの愛人が大勢いて彼らはよく暴力を振るったので、彼女は目の回りに黒あざ、からだは傷だらけの状態で歌うことがよくあり、友人から評判の悪い男を遠ざけるよう忠告されると、それまで以上に男たちを追いかけたそうです。男たちはビリーを利用して食いものにしたので、彼女はお人好しだという評判にもなりました。 ビリーの人生におけるさまざまな出来事がいつ起こったか、明確なことはわかりませんが、その中の出来事をいくつかあげてみます。たとえば、自伝によるとベニー・グッドマンとも不倫関係にあったと語られています。ソニー・ホワイトという若いピアニストと婚約したとき、ビリーは、これまでの多くの気ままな情事とは違い本気で結婚を考えていたそうですが、二人とも母親を養っていて、結局込み入った家庭事情のために、二人の関係は終わりを告げました。テナー・サックス奏者のレスター・ヤングはビリーにとって最高の友人でした。レスターはビリーを「レディ・デイ」と呼び、ビリーのほうはレスターのことを「プレス」と呼びました。ビリーの自伝では二人は同棲するようになったと語っていますが、プラトニックのみの関係だったとも言います。二人で一緒に作った音楽から、レスターがビリーの魂の内面の奥底に触れていたことがうかがえます。何年かのちに、二人が別々の道を歩むようになったとき、レスターはこう言いました。「いつまでも、彼女が私のレディ・デイであることに変わりありません」1941年に、ビリーは実業家のジミー・モンローと出会って結婚しました。ジミーは麻薬をやっていたので、二人の結婚が崩壊し始めたとき、ビリーはジミーと一緒になって、自分も麻薬をやれば、何か大きな力が得られるかもしれないと考えたようです。ビリーは30歳になる前にジミーと別れ、当時25歳だったトランペット奏者のジョー・ガイと暮らすようになります。ところが、それはビリーとジョーと麻薬との関係で結ばれたものになりました。その後ビリーは、たびたび麻薬所持で逮捕されています。そしてビリーが次の恋人として選んだのはジョン・レヴィで、彼はまさに「悪い男」と言えるものでした。レヴィはナイトクラブを経営し、仕事をビリーに押しつけ、レヴィはビリーに洋服や宝石を買い与えながら、いつしか彼女の財布を握ってしまいます。ビリーは週3500ドルも稼いでいたのに、この男に小遣いさえせびらなければならなかったほどお金に困りました。レヴィは結局、南部巡業中に破産し、ビリーのバンドとともに彼女を置き去りにして消えてしまいました。1956年、ビリーはルイ・マッケイと二度目の結婚をしました。マッケイはクラブの所有者で、ビリーのマネージャーでした。しかし、この関係も長続きせず、1958年の終わりになって、二人はカリフォルニアで離婚を提訴しますが、彼女は離婚裁判の決着がつくのを待たずして、1959年7月17日、だれにも知られることなくこの世を去りました。
December 30, 2005
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ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)は、アメリカを代表する黒人女性ジャズ・シンガー。彼女は「ジャズ史上最高のシンガー」と言われています。本名は、エリノラ・フェーガン(Eleanora Fagan)。愛称は、レディ・デイ。1915年4月7日、アメリカ、メリーランド州ボルティモア生まれ(出生時データは諸説あり)。1959年7月17日、ニューヨークで44歳で死亡。----------ビリー・ホリデイは「最高のジャズ・シンガー」と呼ばれ、唯一無二の存在であるということに、だれも異論を唱えることはないでしょう。しかし、彼女はあまりにもジャズの負のイメージを背負ってしまったところがあります。かすれた声で切々と歌う彼女のあまりにも鬼気迫るリアリティーさが、彼女の不幸な境遇や生き様と重なり、必要以上にジャズの暗く悲しく苦しい部分だけを浮き彫りにしてしまっているように思います。ビリー・ホリデイは、1915年4月7日、アメリカ、メリーゴーランド州ボルティモアで、父親クラレンス・ホリデイが15歳、母親サディ・フェーガンが13歳のとき、私生児として生まれました。父親のクラレンスは、のちにプロのギタリストになりますが、15歳の彼には一家を背負えるはずもなく、家庭をかえりみることもありませんでした。ビリーは、6歳のころからメイドのアルバイトをして、なんとか飢えをしのいでいました。そのころ、仕事先のラジオから流れてくるブルースやジャズのサウンドに心を奪われるようになっていたと言います。ビリーは10歳のときに強姦され、そのとき彼女は被害者であるにもかかわらず、人種差別による偏見のため不良少女として扱われ、感化院(*1)に送られてしまいます。そのうち、売春宿で働くようになり、 そのころ、夢中で聴いていたベッシー・スミス(*2)やルイ・アームストロングの音楽が、彼女に大きな影響を与えたと言っています。14歳のとき、売春の罪で投獄されます。彼女はそれまでの不幸を振り切るようにニューヨークに出て行きますが、そこでも家賃滞納で追い出され、途方に暮れてしまいます。そこで、ハーレムのあるナイトクラブで仕事を懇願し、その場で歌った彼女の歌が多くの人の心をひきつけ、1930年、15歳のシンガー、ビリー・ホリデイが誕生します。「ビリー・ホリデイ」というステージ・ネームは、父親の苗字の「ホリデイ」と、彼女が幼いころから好きだった映画女優のビリー・ダヴから「ビリー」という名前をとってつけられたと言います。初めてステージで歌ったときから、彼女はチップをもらうにも、それなりの品格をもっていたので、周りの人たちはビリーのことを「レディ」と呼ぶようになりました。1933年、ナイトクラブで歌っていたビリー・ホリデイにレコード・プロデューサーのジョン・ハモンドが注目し、自らがプロデュースしていたベニー・グッドマン楽団と彼女を共演させ、そこでは初めてレコーディングもしますが、評判はあまり思わしくなく、泣かず飛ばずの状態が続きます。しかしそれから2年ほど経って、ようやく出すレコードも売れるようになり、人気ジャズ楽団との共演が実現できるようになり、彼女の人気は高まっていきました。1937年にカウント・ベイシー楽団、1938年にアーティー・ショー楽団と共演しています。そのころ出会った、カウント・ベイシー楽団のテナー・サックス奏者のレスター・ヤングから大きな影響を受けます。レスター・ヤングはビリーにとって最高の友人でした。 レスターのオブリガートはビリーのムードと完全にマッチし、二人で一緒に製作したレコードは、ビリーのレコードの中でも素晴らしいものと言われています。レスターはビリーを、それまでの愛称の「レディ」に「ホリデイ」の「デイ」をつけて「レディ・デイ」と呼び、ビリーのほうはレスターのことを「プレス」と呼びました。これは、ビリーはいつもレスターのことを最高の人だと思っていたので、アメリカで最高の男と言われていた「大統領(プレジデント)のルーズベルト」にちなんで、「プレジデント」と呼んでいたのが縮まって「プレス」になったと言います。この時期、ビリーこそは最高の歌手であったに間違いなかったのですが、人種問題が多かったころということと、そのうえ彼女の歌い方は個性的すぎて一般大衆受けのするものではなく、うまく事は運ばなかったようです。しかし、ミルト・ゲイブラーによって設立された「コモドア・レーベル」に1939年に吹きこんだ『奇妙な果実 (Strange Fruit)』という人種問題を歌った内容の曲が思いもかけずにヒットし、ビリーは一気に有名になります。この曲は、強烈な歌詞のため、メジャー・レーベルからは当時発売出来なかったものだったので、メディアが取り上げ、社会的な問題作になりました。1941年にコロンビアに録音された『ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド (God Bless' The Child)』も、この時期の代表曲と言えます。そして、ビリーは「モダン・ジャズ・ヴォーカルの元祖」と呼ばれるようになり、そのころのビリーのステージをエラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレイといった、その後のジャズ・ボーカルの大御所もビリー・ホリデイのステージを一生懸命見ていたのでした。ジャニス・ジョップリンも、ビリー・ホリデイに影響を受けたというシンガーの一人です。しかし、1940年代に入るとビリーは麻薬にむしばまれ、1950年代には名声を得たのと比例するようにトラブルも増えていきます。1944年から55年の「デッカ」時代はレコーディングの環境にあまり恵まれないときではありましたが、『ラヴァー・マン (Lover Man)』『ドント・エクスプレイン (Don't Explain)』『グッド・モーニング・ハートエイク (Good Morning Heartache)』などのヒット曲が生まれました。1950年代に入るとノーマン・グランツのプロデュースによって「クレフ」(のちにヴァーブの一部になったグランツのレーベル)にさまざまな作品を発表しますが、彼女の体は麻薬によりむしばまれていき、声の衰えはひどくなり、かすれた声は老婆の囁きのようになってしまいました。「ヴァーヴ(クレフ)における彼女は、往年の輝きを失っている」という一般的評価は、声の状態だけを取れば事実かもしれませんが、そんなことは問題にならないほどの「深さ」を感じさせられます。1958年に久し振りに「コロンビア」に残したアルバム『レディ・イン・サテン』は、衰えた声で歌うにもかかわらず、鬼気迫るビリーの歌声が聴く者に歌の本質を考えさせる名唱と言われるものになりました。1959年3月4日と11日に、レイ・エリス楽団をバックに最後のアルバム『ビリー・ホリデイ・ラスト・レコーディング』の録音をしました。このあとすぐに意識不明になり、7月17日にニューヨークのメトロポリタン病院で44歳の若さで亡くなります。それは、レスター・ヤングが1959年3月15日に49歳で亡くなり、ビリーも、まるでレスターのあとを追うかのように、この世を去ったのでした。----------彼女は悲劇的すぎる人生の中でも、決して歌うことをやめませんでした。40歳を過ぎたころから晩年は非常にしゃがれた声になり音域も極端に狭いのですが、それでもなお、おどろくほど感情豊かな歌声で、聴く者を虜にしてしまいます。彼女の歌を聴いていると、うわべだけのテクニックを追い求めた空虚な音とは全く違うものであるということを、まざまざと感じさせられ、彼女の歌い方をまねしようということは無意味であるということを思い知らされるほどの個性的なものと言えます。ですから、彼女にまつわる悲劇はとりあえず忘れて、彼女の歌に耳を傾けてみましょう。そうすれば彼女のなんとも言えない魅力を感じ取ることができることでしょう。ビリーはステージに立つとき、髪に白いくちなしの花をつけ、いつしかそれは彼女のトレードマークになりました。くちなしの花言葉は「私はしあわせ」ということです。ビリーはいつも「私はしあわせよ」と思って歌い続けていたのでしょうか?それとも歌っているときが「私はしあわせよ」ということを意味していたのでしょうか?私は、ビリー・ホリデイの歌には、彼女の絶望的な人生ばかりではなく、彼女が見ていたであろう「希望」が歌われているのだと思います。そして、ビリー・ホリデイは、神が使わせた「シンガー」であるとしか言いようがありません。「何も考える必要はない。ただ感じ取ってそれを率直に歌うだけ」「私が歌うものが何であれ、それは私の人生の一部なの」「“愛してる”なんて言われると不安になる。ただ、雨の中を一緒に歩いてくれるだけでいいの」・・・ビリー・ホリデイ----------【参考】●(*1) 感化院(かんかいん)とは、教護院(きようごいん)の旧称。不良行為をし、またはする恐れのある児童を入院させてこれを教護することを目的とする児童福祉施設。●(*2) ベッシー・スミスとは、少女時代のビリー・ホリデイはベッシー・スミスがアイドルで、彼女の歌に影響を受けたと言います。ビリーは幼い頃、売春宿にあった蓄音機で、ベッシーのレコードを聴きたいばかりに、タダ働きをしていたという逸話があるほどです。したがって、ビリーはベッシー・スミスのブルースを受け継いだ歌手だと言われていますが、ビリーは「ベッシーはブルース・シンガー、私はブルースのスピリッツ(精神)を持ったジャズ・シンガー」と言っています。ビリーの歌にはブルースの精神が受け継がれていますが、ビリーのものは全く独自のものであり、誰かの模倣、物まね、影響といったものは全く感じられません。そしてそれは、ブルースの枠には収まらない、ビリーそのものであると言えるものでしょう。●Bessie Smith ベッシー・スミスビリー・ホリデイ、ダイナ・ワシントン、マヘリア・ジャクソンらが影響を受け、その後の黒人女性シンガーのルーツとなったブルースの女王。「ブルースの女帝」と呼ばれています。ベッシー・スミスは1894年、テネシー州チャタヌガに生まれます。9歳で初舞台を踏んだ彼女は、その後ニューヨーク、メンフィス、シカゴなどの劇場で歌うようになります。初期こそボードヴィル調のナンバーを披露していましたが、徐々にブルースへ移行していきます。そして、後にブルースのスタンダードとなる「Nobody Knows You When You're Down And Out」、「'Tain't Nobody's Bizness If I Do」などのヒットで、1920年代は人気実力共にブルースの世界に君臨します。しかし、1930年代の大不況後は人気が衰え、彼女の魅力的な容姿も晩年は酒浸りで肥満してしまい、1937年に自動車事故で悲劇的な死を遂げました。もし彼女がいなかったら、ブルースの歴史も変わっていたかもしれないと言われ、その素晴らしさは、後世のシンガーに大きな影響を与え続けています。
December 29, 2005
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☆ My Favorite Standard Number ☆『I'm A Fool To Want You』(アイム・ア・フール・トゥー・ウォント・ユー)【邦題:恋は愚かというけれど】=注記:この邦題は日本独自の曲名で、原題を訳すと“私は君をほしがる愚か者”ということになります。この曲は、ジョエル・S・ヘロンが作曲し、ジャック・ウルフとフランク・シナトラが作詞したもので、1951年にフランク・シナトラが歌って発表され、ヒットしました。これは、シナトラが経営していた楽譜出版社の社長のベン・バートンが、シナトラのために見つけてきた曲で、その歌詞をシナトラが手を加えて自分の好みのものにしたと言います。シナトラの歌が、1951年3月にアクセル・ストーダールの編曲、指揮のオーケストラの伴奏で録音され、6月にチャートの14位になりました。シナトラは1949年の終わりから、女優のエヴァ・ガードナーとの交際が始まり、1951年5月に妻のナンシーと離婚し11月にエヴァ・ガードナーと結婚したので、この曲はちょうどそういう時期と重なり、シナトラのナマナマしく苦悶する情感があらわれているものです。シナトラは1957年にもこの曲を録音していますが、こちらは「全く見事に歌っているが、51年のときのような情感には欠けている」と評されました。もっとも、エヴァとは1954年に離婚しています。この曲の冒頭の部分は、まさに気持ちのいいツボを押さえたというメロディーで、鳥肌の立つほど大好きな曲です。私の中ではトップクラスの名曲です。フランク・シナトラのほかには、ビリー・ホリデイ、チェット・ベイカーなどが歌っているものがあります。ディー・ディー・ブリッジウォーターは「I Fall In Love Too Easily」とメドレーで歌っています。デューク・ピアソンのピアノ・トリオのインストゥルメンタルのものがまったくもって素晴らしく、私の愛聴盤です。*****●アイム・ア・フール・トゥー・ウォント・ユー I'm A Fool To Want You【邦題:恋は愚かというけれど】作詞:フランク・シナトラ ジャック・ウルフ作曲:ジョエル・S・ヘロン1951年《コーラス》君をほしがるなんて僕は愚か者だ僕は君をほしがる愚か者さ本当に実を結ぶことがない愛をもとめるなんてみんながほしがっている恋人を望むなんて君を抱こうとするなんて僕は愚か者だ僕は君を抱こうとするほど愚か者さ僕だけのものでないキスをもとめ悪魔さえ知っているキスをしたがるなんて何度も何度も君と別れると僕は言った何度も何度も僕は去って行ったでも、君を必要なときがきてまた僕はこの言葉を言わなければならない君をほしがるなんて僕は愚か者だ僕は君を必要とするなんて哀れだな間違っているのはわかっている、きっと間違っているでも、正しいとしても、間違っているとしても僕は君なしでは生きていけないんだ・・・
December 28, 2005
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☆ My Favorite Standard Number ☆『Fly Me To The Moon (In Other Words)』(フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン(イン・アザー・ワーズ))この曲は、バート・ハワードが作詞作曲したもので、1954年に「In Other Words(イン・アザー・ワーズ)」=「言いかえれば」という曲名で発表されました。そのときはスロー・テンポのワルツ調の三拍子の曲で、フェリシア・サンダースが歌いました。クリス・コナーやナット・キング・コールなども歌いましたが、どれもヒットしなかったため、一般的には、ほとんど知られることのない曲でした。ところが、1962年にピアニストのジョー・ハーネルが、ボサノヴァのリズムで演奏したものがヒットしたことで、多くの人々に知られるようになりました。また、このときに曲名を歌詞の中にある「Fly Me To The Moon(フライミー・トゥー・ザ・ムーン)」=「私を月に飛ばして」に変えられました。アメリカ航空宇宙局(NASA)が設立されたのが、1950年代の終わり頃で、アポロ11号が人類初の月面着陸に成功したのが1969年ですから、この「Fly Me To The Moon」が大ヒットした当時のアメリカは、アポロ計画によって実現するかもしれない月旅行の話題でもちきりだった時代ということです。この「Fly Me To The Moon」は、こういう当時のアメリカの時代背景から、その話題に便乗したもので、そして、当時新しいボサノヴァのリズムを取り入れたアレンジとも合わせて、その宣伝戦略がみごとに成功し、1954年にはヒットしなかったこの名曲が、一般大衆に知れ渡ることになりました。歌のものでは、1965年にトニー・ベネットが歌ったものがヒットし、作者のバート・ハワードは「トニー・ヴァージョンこそ決定版だ」とベネットに語ったと言います。ジャズ通で知られるクリント・イーストウッド主演・監督作品の2000年の映画「スペース・カウボーイ」のラストシーンに、フランク・シナトラがカウント・ベイシー楽団をバックに歌ったヴァージョンが使われました。ジャズ、ポピュラー・シンガーはもちろん、ボビー・ウーマックや宇多田ヒカルまでもが歌っています。メロディーもきれいで素敵な曲ですが、何といってもこの歌詞はロマンチックでかわいらしく魅力的なものです。この曲も、原曲は3拍子のワルツ調ですが、最初のヒットの影響からかボサノヴァのものも多く、スロー・バラードからアップ・テンポのフォー・ビート、はたまたエイト・ビート、ロック調と、どんなアレンジにも自然にできてしまう、名曲中の名曲と言える大スタンダード・ナンバーです。歌詞の内容からすると、なんとなく女性が歌ったほうがピッタリしているように思えますが、男性シンガーも女性シンガーと同じぐらい多く歌っており、歌詞もその意味も変わりません。英語の歌詞では男性、女性のどちらでもそのままで歌えるものが多いのですが、日本語には男女の区別が歴然とあるので、なかなか同じというわけにはいかないというところは、英語と日本語で大きく違う部分の一つであると言えるでしょう。私が持っているものの中では、ナット・キング・コールのものとナンシー・ウィルソンのものが1962年より前の録音なので、曲名は「In Other Words」になっていて、どちらも4拍子のスロー・バラードで歌っています。私がこの曲を初めて知ったのは1975年、大学生のとき六本木のホストクラブでアルバイトをしていたときです。もちろん、アルバイトはホストではなくバンドのキーボード・プレーヤーです。このバンドはジャズ・バンドではなくディスコ&ポップスのバンドでしたが、この曲はレパートリーに入っているくらい、そのときにはポピュラーな曲になっていたということです。*****●フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン(イン・アザー・ワーズ)Fly Me To The Moon (In Other Words)作詞:バート・ハワード作曲:バート・ハワード1954年《ヴァース》詩人たちは、しばしば単純なことを言うのに多くの言葉を使って表現しようとするものね詩を歌にするには、時間と思案と韻が必要だわ私は演奏し歌ってきた音楽と言葉であなたの為に、曲を書いてみたの私が何を言っているのかよくわかってもらえるように私が歌に沿って説明していくわね《コーラス》私をお月様へ飛ばせてそして、お星様の中で遊ばせて木星や火星にはどんな春が訪れるのか見せてちょうだい言いかえると、それはね、私の手を握ってということなのそう、言いかえると、つまり、私にキスしてちょうだい、あなた・・・私の心を歌で満たしてそして、私にいつまでも歌わせてあなたは私が思い焦がれるすべて私が尊敬し憧れるすべてを備えた人よ言いかえると、それはね、変わらず誠実でいてちょうだいということなのそれは言いかえれば、もうわかるでしょ、あなたを愛してる・・・
December 27, 2005
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☆ My Favorite Standard Number ☆『Misty』(ミスティー)この曲は、エロール・ガーナーが1954年に作曲したものに、翌年の1955年に、あとからジョニー・バークが作詞したものです。ガーナーがシカゴへ向かう途中、飛行機の中から窓の外に見える深い霧の景色をながめているうちに、この曲のメロディーが頭に浮かんできたと言われています。ガーナーは譜面を書いたり読んだりすることが苦手なので、音符を記しておくことができないため、忘れないように頭の中で記憶していて、空港に着くなりホテルに駆け込んで、そこのピアノで仕上げたということですが、サンフランシスコの霧を念頭において作ったという話もあります。こういったエピソードは、本人が語ったとしても本当のことかどうかよくわからないことが多いものです。コール・ポータの場合、本人はいつもデタラメなことを言っているので全く当てにならないようです。エロール・ガーナーはジャズ・ピアニストで、1954年の7月にガーナー自身のピアノとベースとドラムのトリオ演奏のインストゥルメンタルのものが最初に録音されました。このときのガーナーの演奏のものは、ジャズ通のクリント・イーストウッド初監督作品の1971年の映画「恐怖のメロディー」の中で重要な部分に使われ、話題になったそうです。1955年に歌詞がつけられ、1959年にジョニー・マティスが歌ったものがミリオン・セラーになり大ヒットしました。サラ・ボーンの持ち歌でも有名で、歌に演奏にジャズからポップスまで、幅広く取り上げられていて、ポップスの曲集にも載るくらいに、大変有名なスタンダード・ナンバーで、名曲と言えるでしょう。「私を見て、木の上の子猫のように途方にくれている私をまるで雲にしがみついているような気持ちだわどうしてなのかよくわからないけれどI get “misty” just holding your handあなたの手を握ると“misty”になっちゃうの」「misty」とは「霧がかかった」「霧が深い」という意味のほか、「不思議な」「わからない」「ぼんやりした」「はっきりしない」といった、不確定なあやふやな感じを表した意味も含まれていて、最初は、この主人公も自分の気持ち「misty」が何だかよくわからないのですが、最後に、この「misty」な気持ちは恋なのだと気がつきます。起伏に富んだ美しいくセンチメンタルなメロディーで、歌詞の内容からするとスロー・バラードとして演奏されるのが自然な感じの曲ですが、フォー・ビートでスウィングすることもでき、どんなスタイルでも演奏できる魅力を備えているところにも、だれからも愛されるスタンダード・ナンバーになる要素があると言えるでしょう。この曲は、私が中学生のころ、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」の譜面がほしくて、ポピュラー・ピアノ曲集を買ったときに、その中にあったくらいポピュラーな曲になっていたというものですが、私は、この曲のことは何も知らずにピアノで弾いてみたら、あまりにも素敵な曲なので感動してしまいました。それ以来、何十年も弾き続けている、お気に入りの曲のうちの一つです。私は、フランク・チャックスフィールド作曲で有名なポピュラー曲「Ebb Tide(エブ・タイド)(引き潮)」も好きで、よくピアノで弾いていたので、そのたびに「Misty」の出だしの3音が「ひき潮」と全く同じだと思っていました。ですから、出だしの3音を聴いただけではどちらの曲か区別できません。盗作にはなりませんが、「引き潮」は1953年の作曲なので、だれもが「まねした?」と感じたことでしょうね。*****●エロール・ガーナー(Erroll Garner)この曲の作曲者のエロール・ガーナーは黒人ジャズ・ピアニストです。1921年6月15日、アメリカ、ペンシルバニア州ピッツバーグ生まれ。1977年1月2日に、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルスで55歳で亡くなりました。ガーナーは3歳のころからピアノに触れますが、全くの独学だったので楽譜は読めなかったと言います。1937年に16歳でプロ活動を開始し、地元のバンドで活動しました。スラム・スチュアート・トリオのメンバーになり、その後自己のバンドを結成します。1945年から1949年には各レーベルから多くのレコードを出し、大きな評価を得ました。そして、コロンビアの専属になりドル箱的ミュージシャンになりますが、自分の会社を設立して、たびたびヨーロッパ・コンサート・ツアーを行い成功しています。ガーナーは作曲もしていて、この曲のほかにも多数作曲をし、自身で演奏しています。彼のピアノの演奏スタイルは、左手が1拍づつビートを刻み、メロディーを弾く右手は自由自在にタイム感をズラすというもので、ビハインド・ザ・ビート・スタイルと呼ばれました。手で演奏するというより、楽しそうな表情で演奏するという、ユニークなスタイルでも人気がありました。*****●ミスティーMisty作詞:ジョニー・バーク作曲:エロール・ガーナー1954年(インストゥルメンタル曲として)1955年(歌曲として)《コーラス》私を見て、木の上の子猫のように途方にくれている私をまるで雲にしがみついているような気持ちだわどうしてなのかよくわからないけれどあなたの手を握るだけで不思議な気持ちになっちゃうのあなたが近づいてくると一斉に千台ものヴァイオリンの音が聞こえ始めるのそれは私の聞き違いで、あなたの「こんにちは」という声かもしれないでも、私にはその音楽が聞こえるのあなたがそばにいると私は何か霧に包まれたような、ぼんやりとした気持ちになってしまうのあなたは私をもて遊んでいるみたいだわでも、本当は私の気持ちがそれを望んでいるようね私がどれほど絶望のどん底にいたか、あなたにわかるかしらだから私は黙ってあなたのあとについてきたの私一人だったら、この不思議な世界をさまよっていなかったわ右足と左足の区別もつかず、帽子と手袋もわからない状態で私は今とても不思議な気持ちなの、どうやら恋におぼれてしまったみたいだわ・・・
December 26, 2005
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●スタンダード・ナンバー [Standard Number] とは、一口で言うとジャズやポピュラー音楽などで、いつの時代にも根強い人気をもって演奏される曲目のことです。しかし、この呼び方は日本独特のもののようなところがあり、アメリカでは、時代を越えて歌われているものをクラシック・ソングという呼び方をします。アーヴィング・バーリンなどの曲を集めた輸入版のCDアルバムには「CLASSIC ALBUMS」とか「CLASSIC SONGS」 というように、ジャケットに「クラシック」と記されているものがよくあります。また、アルバムのタイトルに使われているものもあり、フランク・シナトラのCDアルバムにも「クラシック・シナトラ」というものがありますが、これは決してシナトラがクラシック音楽を歌っているわけではありません。なぜジャズやポピュラー音楽がクラシックなのか?それは「クラシック」という言葉が音楽に関して使われるとき、日本と英語圏ではちょっと指す内容が違っているからです。日本では「クラシック」とは一般的に「クラシック音楽」のことを言いますが、英語圏ではジャンルに関係なく「みなさんおなじみの曲」といった意味を表します。クラシックとは、ただ単に「古い」ということでもありません。クラシックとは「古典」という意味があり、「古典」というのは「古い」ということではありません。「古典」という言葉には、「いつの時代でも高い評価を受けるようなすぐれた模範的作品」という意味があります。ですから、 第1級のものでなければクラシックとは言えないのです。たとえば、ロックの大名曲を「ロック・クラシック」とか1970年代の代表的な曲のことを「70'sクラシック」というように使わます。そして、アメリカン・ポピュラー・ソングで時代を越えてクラシック化(スタンダード化)しているものに対しては、「アメリカン・クラシック・ポピュラー・ソング(American Classic Popular Song)」という言葉で表されます。それは文字通り「アメリカの古典的な大衆歌謡曲」という意味で、一時的な流行(はやり)物とは違う、時代を越えた作品のことです。
December 25, 2005
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今日、12月24日は「クリスマス・イヴ」です。「クリスマス・イヴ」とは、「クリスマス・イヴニング(Christmas Evening)」のことです。したがって、12月24日のイヴニング(夕方)からクリスマスが始まっているということです。クリスマス・イヴにはミサが行われ、要するに24日の夜は聖夜=クリスマスの夜ということで、25日の夜は、すでにクリスマスは終っています。24日の夕方からがクリスマスであって、クリスマス・イヴがクリスマスの前夜という考え方はおかしいのです。日本ではほとんどの人が、クリスマス・イヴのことを「クリスマスの前夜」の意味だという間違った認識を持っているので、12月23日のことを、クリスマスの前の前ということで、「クリスマス・イヴ・イヴ」などというバカげた言葉ができてしまうのでしょう。*****今日の曲紹介はクリスマスにちなんで、クリスマスの曲の中で私が一番好きな、「ザ・クリスマス・ソング」をとりあげてみました。
December 24, 2005
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『The Christmas Song』(ザ・クリスマス・ソング)これは、メル・トーメの作曲、ロバート・ウエルズの作詞に」よるクリスマスの曲で、1946年に作られたものです。1946年に、メル・トーメ自身の歌でも録音されていますが、ナット・キング・コールが歌ったものが大ヒットになり、彼の代表曲の一つになりました。数あるクリスマスの曲の中でも、この曲はメロディー、歌詞ともに大変魅力的で、コード進行もおしゃれで、何もアレンジしなくてもそのままでジャズらしい雰囲気のするものです。1970年代以降、多くの人が歌うようになり、人気が高くなってきました。最近、日本でも特に女性に人気があるということで、レコード会社がクリスマス・ソング集には、この曲をセールス・ポイントに持ってくるということを耳にします。クインシー・ジョーンズは、ナット・キング・コールの歌うこの曲を絶賛していて、「僕にとってはとろけちゃうような曲だったね。14歳の頃、この曲にあわせてよく踊ったものだ。恋するたびにこの曲に耳をかたむけて、もうメロメロになっちまったもんだ」と語っています。*****●ザ・クリスマス・ソング The Christmas Song作詞:ロバート・ウエルズ作曲:メル・トーメ1946年《コーラス》栗の実が暖炉で焼けているみんなの鼻は寒さで凍りつきそうだコーラス隊がクリスマス・キャロルを歌うそして、みんなエスキモーのように着ぶくれしている誰もが知っている七面鳥と宿り木がクリスマスを華やかにしてくれるということを小さな子供たちは目を大きくして輝かせ今夜はとても眠れそうもないと思っているさあ、もうサンタさんはこっちに向かっているよソリにおもちゃやたくさんの品物を山のように積んでそしてどのお母さんの子供もトナカイが本当に空を飛べるかどうかどうか今夜こそ見てやろうと思っているのさというわけで私はこの簡単な言葉を、1歳から92歳までのいたずらっ子たちに捧げようもう何度もいろいろな形で言い尽くされてきているけれどよいクリスマスでありますように・・・Merry Christmas to you
December 24, 2005
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『My Foolish Heart』(マイ・フーリッシュ・ハート)【愚かなりわが心】この曲は、ネッド・ワシントンの作詞、ヴィクター・ヤングの作曲で、スーザン・ヘイワード主演の1949年の映画「My Foolish Heart(邦題:愚かなリわが心)」の主題歌として使われました。 ●この曲の説明は、↓こちら【October 1, 2005】の日記
December 23, 2005
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『On Green Dolphin Street』(オン・グリーン・ドルフィン・ストリート)この曲はネッド・ワシントンの作詞、ブロニスロウ・ケイパーの作曲で、1947年の映画「On Green Dolphin Street(邦題:大地は怒る)」のテーマ曲で、その映画の中ではインストゥルメンタルの曲で歌詞はありませんでした。「愛の日々を思い出すとき、グリーン・ドルフィン通りの大地にキスをしたくなる」という歌詞はあとから付けられたものですが、イギリスの港町「Green Dolphin Street」を舞台にした映画の内容に合わせて作られています。「Green Dolphin Street」とは、そのイギリスの地名のことを言っています。マイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスなどの演奏でスタンダード・ナンバーとして有名になり、インストゥルメンタル奏者には人気が高い曲なのですが、そのわりにはシンガーにとっての人気はそれほどではないという、インスト奏者とシンガーとで人気の違いのある曲と言えます。作曲のブロニスロウ・ケイパーは、1902年、ポーランドのワルシャワ生まれの、映画音楽の作曲家で、ミュージカル映画よりは普通の映画音楽を多く書いています。1983年に、ロサンゼルスで亡くなっています。*****●オン・グリーン・ドルフィン・ストリートOn Green Dolphin Street作詞:ネッド・ワシントン作曲:ブロニスロウ・ケイパー1947年《ヴァース》まるで夢のようだけど、本当にあったことなんだ男、女、キス、それに別れロマンスがテーマ、そしてそれを演じたのは私たちだった僕はそれを、ため息なしでは思い出せない《コーラス》聞いておくれ、ある素晴らしい日のことだ恋がやってきた、僕の心にとどまるつもりで舞台はグリーン・ドルフィン通りが提供してくれた忘れることのできない思い出の舞台をそしてこの生き生きとした時間の思い出は僕の心の中に生き続けている僕が見つけた愛を思い出すとき僕はグリーン・ドルフィン通りの大地にキスをしたくなる
December 22, 2005
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『Stella By Starlight』(ステラ・バイ・スターライト)【星影のステラ】この曲は、ヴィクター・ヤングの作曲、ネッド・ワシントンの作詞で、1944年のオカルト映画「The Uninvited(邦題:呪いの家)」の主題曲として使われました。最初、歌詞はなく、映画自体はかなり好評だったようですが、この曲のほうはあまり話題にはなりませんでした。しかし、1946年に、ヴィクター・ヤング・オーケストラのレコードがヒットして注目されるようになり、その年にネッド・ワシントンにより歌詞もつけられ、今では有名なスタンダード・ナンバーになりました。●この曲の説明は、↓こちら【September 28, 2005】の日記
December 22, 2005
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『When You Wish Upon A Star』(ホエン・ユー・ウィッシュ・アポン・ア・スター)【星に願いを】この曲は、ネッド・ワシントンの作詞、リー・ハーラインの作曲で、1940年のウオルト・ディズニーの長編アニメ映画「Pinocchio(ピノキオ)」の主題歌として書かれました。このサウンド・トラックでコオロギのジミニーの声に扮したクリフ・エドワーズが歌いました。クリフ・エドワーズはウクレレ・アイクの名前で1920年代から1930年代に人気のあったヴォードヴィルの歌手です。「ピノキオ」は19世紀のイタリアの童話作家コローディが書いた物語で、木彫りの人形ピノキオが、ジミニーというコオロギの忠告を聞かずに悪いことをしてしまい、罰を受けるのですが、最後には勇気ある行動で人助けをして、念願だった人間の子供になれるというもので、ディズニーがそれを映画化しました。この映画はディズニーの長編アニメ映画としては、1937年に大ヒットした1作目の「Snow White and the seven dwarfs(白雪姫と七人の小人)」に続く2作目で、1作目よりさらに完成度が高く、大変好評で大ヒットしました。この曲は、アカデミー主題歌賞を受賞しました。そして、この曲はディズニーの代表曲として有名になり、1960年代に日本でも毎週ディズニーのテレビ番組が放映されていたときに、この曲がそのテーマ曲として使われていました。もちろん想像ができないくらい多くのミュージシャンが取り上げ、誰もが知るスタンダード・ナンバーになっています。「When you wish upon a starMakes no difference who you are」「星に願いをかけるときは、あなたが誰であろうと関係ない」これは言い換えれば、「星に願いをかけることは、誰にでも出来ることなんだ。そして、運命の女神には、あなたが誰であるかなんて、どうでもいいことで、大切なのは、あなたの心から思う“願い”なのだ」ということを言っています。この歌の中には、まだまだ人種差別の激しかった当時のアメリカで、「あなたが誰であろうと、運命の女神の前では、平等なのだ」というメッセージが隠されているのですね。作曲のリー・ハーラインは、1907年にユタ州、ソルト・レイク・シティーで生まれ、ユタ大学で作曲、ピアノ、オルガンなどを学びました。1928年にロサンゼルスに移り、1930年代はラジオ局の仕事をし、1932年から1942年までディズニー専属のアレンジャーを務め、その後フリーランスになり映画音楽の仕事に従事しました。1969年にロサンゼルス近郊のロングビーチで亡くなっています。*****●ホエン・ユー・ウィッシュ・アポン・ア・スター When You Wish Upon A Star【星に願いを】作詞:ネッド・ワシントン作曲:リー・ハーライン1940年《ヴァース》星が生まれるときには贈り物を一つ二つ持ってくるそのうちの一つがこの望みをかなえてくれる力なのです《コーラス》星に願いをかけるときはあなたが誰であろうと関係ない心から望むことならばきっと願いはかなうでしょう夢見る人がするようにその願いが本心からのものであればどんな願いでも大きすぎるということはない運命の女神は愛し合う人々の願いをそっとかなえてくれるでしょう運命の女神がどこからともなく突然やってきてあなたを助けてくれるはずです星に願いをかければきっとその夢はかなうでしょう
December 21, 2005
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『The Nearness Of You』(ザ・ニアネス・オブ・ユー)【あなたのおそばに】この曲は、ホーギー・カーマイケルの作曲、ネッド・ワシントンの作詞で、クレジットのうえでは1940年の曲になっていますが、実際は1937年に作られたようです。●この曲の説明は、↓こちら【December 16, 2005】の日記
December 21, 2005
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『A Hundred Years From Today』(ア・ハンドレッド・イヤーズ・フロム・トゥデイ)この曲は、ネッド・ワシントンとジョウゼフ・ヤングが作詞、ヴィクター・ヤングが作曲し、1933年のレヴュー「Blackbirds 1933-34」に使われました。ベニー・グッドマン楽団とエセル・ウォーターズの歌のレコードがややヒットしたぐらいでしたが、その後、純粋に歌詞の魅力からジャズ・シンガーに歌われるようになりました。この曲はアメリカでは人気があるのに、日本では人気がないというもので、それは、日本では、この歌詞に目をやっていないということが言えるでしょう。この曲の魅力は、歌詞があってこそ出るものだということです。曲名や歌詞にある「from today」という部分は「from now」とされているものもあります。ジョウゼフ・ヤングという人は1889年にニューヨークに生まれ、ヴォードヴィルの雑用係を経て音楽出版社に勤めるようになり、第一次大戦のころは舞台にも立っていました。それから作詞をし、多くの曲を書きました。1926年から亡くなる1939年までの13年間、アメリカ作曲者・作詞者・出版者協会(ASCAP)(アスキャップ)の理事を勤めました。*****●ア・ハンドレッド・イヤーズ・フロム・トゥデイA Hundred Years From Today作詞:ネッド・ワシントン ジョウゼフ・ヤング作曲:ヴィクター・ヤング1933年《ヴァース》人生は大きな冒険のようなもの毎日の生活の中で生きることを学ぶのさこの地上で僕たちがすることは世界の誰もが非難できない《コーラス》キスを惜しまないでまわりに振りまかなくてはいけないよその理由はいたって論理的なことさ今から百年たったら君がそうしたってことを誰が知るんだい女王様にぴったりの最上階の部屋をほしがってどうするんだい大地の緑の中にいれば天国によっぽど近いさ何百万ドル持っていたって今から百年たったらそれが何の意味があるのかいだから笑って歌って、大切なのは愛だけにして楽しめるうちにできるだけ楽しまなくてはどこかに君を幸せにしてくれる人が一人はいるものだよ月が輝いている、これはいいことがある印だねさあ、僕に抱きついて、君が僕のものだと言っておくれ忘れないで、僕らは月なんか見られなということを今から百年たったら!今から百年たったら!
December 20, 2005
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『A Ghost Of A Chance (I Don't Stand A Ghost Of A Chance With You)』(ア・ゴースト・オブ・ア・チャンス(アイ・ドント・スタンド・ア・ゴースト・オブ・ア・チャンス・ウイズ・ユー))【ほのかな望みもなく】この曲は、ビング・クロスビーとネッド・ワシントンの作詞、ヴィクター・ヤングの作曲による、1932年の作品で、映画やミュージカルとは関係のない曲です。●この曲の説明は、↓こちら【October 5, 2005】の日記
December 20, 2005
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『I'm Getting Sentimental Over You』(アイム・ゲッティング・センチメンタル・オーヴァー・ユー) 【センチになって】 この曲は、ネッド・ワシントンの作詞、ジョージ・ベイスマンの作曲で、1932年に作られました。作曲のジョージ・ベイスマンは、アンドレ・コステラネッツ楽団やベニー・グッドマン楽団などのビッグバンドの編曲の仕事をした人で、この曲は、スコアを提供していたクラリネットのジミーとトロンボーンのトミーの兄弟が結成したドーシー・ブラザース楽団のために書き、1934年11月にチャートの20位に入りました。その翌年の1935年、弟のトミーは兄のジミーと音楽的なことでケンカになってバンドをとびだしてトミー・ドーシー楽団を結成します。そして1936年の2月にトミー・ドーシー楽団のものがチャートの8位にまで上がるヒットになりました。その後、この曲はドミー・ドーシーのテーマ曲として使われ、誰もが知る有名な曲になりました。この曲はインストゥルメンタルの曲として有名になった曲で、歌ではあまり大きなヒットのものはありませんが、「恋なんかしなくてもいいと思っていたのに、今はあなたにセンチメンタルな気持ち」という歌詞がつけられています。トミー・ドーシーに見いだされ、トミー・ドーシー楽団の専属歌手をしていたことがあるフランク・シナトラが歌ったものなどがあります。*****●アイム・ゲッティング・センチメンタル・オーヴァー・ユー I'm Getting Sentimental Over You【センチになって】 作詞:ネッド・ワシントン作曲:ジョージ・ベイスマン1932年《ヴァース》僕は恋をあざ笑っていた一人だった恋はぼくには向いていないよと言ってでもそこへ君が現れて一目見たとたんにこれこそ僕が待っていた人だとわかった《コーラス》僕が恋に落ちるなんて思わなかったでも今は恋が僕を呼んでいる僕は君に夢中になってしまった君の言うことや、することの全てが僕の気持ちをかき乱す僕は君にセンチメンタルな気持ちさずうっと幸せだと思っていた恋なんかしなくても生きられるとでも今は恋人のことしか考えられない僕に優しくして心を決めておくれ僕に甘くそして優しくしておくれなぜなら、僕は君にセンチメンタルな気持ちだから
December 19, 2005
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『Baltimore Oriole』(ボルティモア・オリオール)この曲はホーギー・カーマイケルの作曲、ポール・フランシス・ウェブスターの作詞で、映画やミュージカルとは関係なく1942年に作られたものです。1945年に、へミングウエイの原作でカーマイケル自身も出演した映画「To have and have not」で、インストゥルメンタルの曲として使われました。そしてこの年に「The stork club」「Johnny angel」などの映画にも使われました。変わった雰囲気の曲で、特別ヒットしたというわけではありませんが、ごく一部の歌手と熱烈なファンの間だけで好まれている、かくれたスタンダード・ナンバーと言えるでしょう。「この曲は“現代のおとぎ話”だ」と言われ、また、「この曲の存在とカーマイケルの曲だということは知られているが、それでいてこの曲があまり有名にならないのが不思議だ。たぶん、これはとていい歌詞なのだが、それが鳥の恋のたわむれだけを扱っているからなのだろう」というふうに言われています。ちなみの私が持っているスタンダート・ナンバーの楽譜集には載っています。*****●ボルティモア・オリオールBaltimore Oriole作詞:ポール・フランシス・ウェブスター作曲:ホーギー・カーマイケル1942年《コーラス》ボルティモア・オリオール(*1)が温度計に目をやったら華氏(*2)40度以下さ雪の中で羽を引きずりまわすなんてレディーの生活じゃないってさみしい僕を置いて彼女はタンジパホ川へ飛んでいってしまったそこでオリオール嬢は可愛い娘にはすぐに手をだすブラックバード(*3)に出会っちまったのさまったくあの野郎の羽をかきむしってやりたいよボルティモア・オリオールはあの大口野郎とかかわっちまった奴があの娘の羽をだめにするまでね許すしかないよ女性にはよくあることだから仕方ないさでもあの娘を故郷へ帰しておくれあの娘の鳴き声がない故郷なんて故郷じゃあないからねさみしい男を幸せにしておくれ、ボルティモア・オリオールその枝から降りてきて、僕のところへ飛んできておくれ・・・----------【参考】■(*1)Baltimore Oriole(ボルティモア・オリオール)とは、北米産のoriole(ムクドリ)の一種で、正式には「ボルティモア・ムクドリモドキ」という名前の小鳥。■(*2)華氏温度 〔「華氏(かし)」は考案者のドイツ人ファーレンハイト(Fahrenheit)の中国音訳「華倫海」による〕一気圧での水の凝固点を32度、沸点を212度とする温度目盛り。アメリカなどで使われている。「°F」 で表記する。摂氏(せっし)(セ氏)温度との関係は C=5(F-32)/9 で表される。カ氏温度。ということで、ここで言う「華氏40度以下」とは「摂氏約4度以下」ということです。■(*3)ブラック・バード(blackbird)北アメリカで、ハゴロモガラスなどムクドリモドキ科の数種の総称。
December 18, 2005
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『Skylark』(スカイラーク)この曲はホーギー・カーマイケルの作曲、ジョニー・マーサーの作詞による1942年のもので、映画、ミュージカルとは関係がなく単独で出版されました。グレンミラー楽団の演奏でレイ・エヴァリーが歌ったものがヒットしました。この曲は、歌手にも楽器奏者にも好かれている正真正銘のスタンダード・ナンバーと言われています。ジョニー・マーサーは、できている曲にあとから詞をつけるという方法で作詞をするので、できた曲を持ち帰って詞を完成させ、普通は二、三日で持ってくるようです。しかし、この曲ができたのは持ち帰ってから一年ぐらいもかかったということで、そのときには作曲したカーマイケルは、もうすっかりこの曲のことを忘れていたと言います。「skylark」とはヒバリのことです。「ヒバリよ、私の愛を待っている人を教えてちょうだい。私の心が飛んでいける緑の谷を見たら、月に奏でるジプシーのセレナーデを聴いたら教えてちょうだい」ジョニー・マーサーの作品紹介のときに取り上げましたので、●歌詞の日本語訳を見たい方は、↓こちら【November 11, 2005】の日記
December 17, 2005
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ネッド・ワシントンはアメリカの有名なポピュラー音楽の作詞家で、叙情的な作家でした。ミュージカルや映画などの多くの曲の歌詞を書きました。1901年8月15日、アメリカのペンシルヴァニア州、スクラントン生まれ。1976年12月20日、カリフォルニア州、ロサンゼルス、ビヴァリー・ヒルズで75歳で死亡。----------ワシントンは9人兄弟の一人としてアメリカのペンシルヴァニア州に生まれ、小さい頃から詩を作り、地方新聞に載せていたほど根っからの詩人でした。一家がヴァージニア州に越してからも熱心に新聞や雑誌に詩を載せ続け、1922年にニューヨークに出てショー・ビジネスの世界に入りました。始めはヴォードヴィルの司会やエージェントをやり、台本も手がけていました。1928年のアール・キャロルのショウで初めて曲を書いたのをきっかけにレヴューの曲の作詞をいくつかやり、その年にカリフォルニアのハリウッドへ行き映画の曲を書き、1930年にニューヨークに戻り、1932年に書いた「I'm Getting Sentimental Over You(センチになって)」という曲がトミー・ドーシー楽団のテーマ曲になり有名になりました。1935年に再びハリウッドに行き、1937年にホーギーカー・マイケルと「The Nearness Of You」を書きました。(著作権登録は1940年)1940年から1962年までに11回、アカデミー賞にノミネートされました。1940年にディズニー映画「Pinocchio(ピノキオ)」の主題歌「When You Wish Upon A Star(星に願いを)」で、主題歌とスコアで2つのアカデミー賞をもらい、1950年には映画「High Noon(真昼の決闘)」の主題歌でもアカデミー賞をもらいました。1964年から亡くなる1976年までの12年間、アメリカ作曲者・作詞者・出版者協会(ASCAP)(アスキャップ)の副会長を務め、1976年12月20に心臓発作で、75歳で亡くなりました。ワシントンはソング・ライターの殿堂入りをしました。*****[代表作]I'm Getting Sentimental Over You 【センチになって】 (1932)A Ghost Of A Chance (I Don't Stand A Ghost Of A Chance With You) 【ほのかな望みもなく】 (1932)A Hundred Years From Today (1933)The Nearness Of You 【あなたのおそばに】 (1940) When You Wish Upon A Star 【星に願いを】 (1940)Stella By Sterlight 【星影のステラ】 (1944,歌曲として1946)On Green Dolphin Street (1947)My Foolish Heart 【愚かなり我が心】 (1949)Wild Is The Wind (1957)
December 17, 2005
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『The Nearness Of You』(ザ・ニアネス・オブ・ユー)【あなたのおそばに】この曲は、ホーギー・カーマイケルの作曲、ネッド・ワシントンの作詞で、クレジットのうえでは1940年の曲になっていますが、実際は1937年に作られたようです。カーマイケルは1937年はパラマウント映画の仕事をしていて、この曲はそのときに作られたもので、楽譜は1937年に出版されたそうです。1938年の映画「Romance in the Dark(ロマンス・イン・ザ・ダーク)」に使われ、グラディス・スウォートハウトが歌ったとされていまが、このときはヒットしませんでした。しかし、1940年にグレン・ミラー楽団でレイ・エヴァリーが歌ったものが始めてヒットしてから、たて続けに数種類のレコードがヒットし、少なく見ても230種類のレコードが出ていると言います。そして今では多くのジャズ・シンガーやジャズ・プレイヤーが取り上げるスタンダード・ナンバーになりました。王道的コード進行に大変美しいメロディーで、「甘い会話やソフトな明かりが私を興奮させるのではない。それはあなたのおそばにいるからなの」「あなたのおそばにいさせてほしい」と歌うラヴ・ソングです。●作詞のネッド・ワシントンについては、明日の項に記します。*****●ザ・ニアネス・オブ・ユーThe Nearness Of You【あなたのおそばに】作詞:ネッド・ワシントン作曲:ホーギー・カーマイケル1940年《ヴァース》あなたと、その不思議な魅力が私に近づいてくると私はめろめろになって、まるでなされるがままになってしまうのあなたが遠くにいると私の心はそわそわして落ち着かないでも、近くに来たら、ああ、どうしよう!《コーラス》私を興奮させ、ときめかせ喜ばせるものは青い月の光なんかじゃないいいえ違うわ、それはあなたのそばにいるからなのよ私の気持ちをこんなにたかぶらせてくれるのはあなたの甘い会話じゃないいいえ違うわ、それはあなたのそばにいるからよあなたが私の腕の中にいて私のそばからはなれなければ夢に見た私の願いはみんなかなえられるわソフトな明かりのような演出はいらないわあなたが私にお許しを与えてくれればいいのあなたをいつまでもしっかりと抱きしめて夜もずっとあなたのおそばにいさせてくれるというお許しをね
December 16, 2005
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『I Get Along Without You Very Well (Except Sometime)』(アイ・ゲット・アロング・ウイズアウト・ユー・ヴェリー・ウエル)【あなたなしでも暮らせるわ】この曲は、ホーギー・カーマイケルの作曲で、クレジットには作詞もカーマイケルの名前になっていますが、本当は彼の作詞ではないということです。この曲のクレジットは1939年ですが、歌詞のほうはその数年前に人からもらったもので、発表するときにこの詩を書いた人を探したのですがわかりませんでした。そこで、ラジオの番組でディスクジョッキーに頼んで詩を読んでもらい、その作者を探してもらいました。そうしたら、それに対して48人の人が名乗り出てきたのですが、全てニセ者だったので、さらに調べたら、ある雑誌にこの詩が「J.B.」のイニシャルで載っていたのがわかり、それはJane Brown Tompsonという女性だということでした。しかし、その女性は1931年の1月にすでに亡くなってしまっていたので、結局この曲には彼女の名前は入らないで、カーマイケルの名前のみのクレジットになったということです。いかにも大衆受けしそうな感じ、という曲ではないのですが、ほのぼのときれいなメロディーの曲で、ビリー・ホリデイやチェット・ベイカーなどに、しっとりと歌われています。*****●アイ・ゲット・アロング・ウイズアウト・ユー・ヴェリー・ウエル(エクセプト・サムタイム) I Get Along Without You Very Well (Except Sometime)【あなたなしでも暮らせるわ】作詞:ホーギー・カーマイケル作曲:ホーギー・カーマイケル1939年《コーラス》私はあなたがいなくても生きていけるわ、もちろんそうよただ雨がしとしと降って雨だれが木の葉から落ちてくるときはべつだけど・・・そういうときはあなたの腕の中で守られているときのよろこびを思い出してしまうのもちろんそうなのよでも、私はあなたがいなくても生きていけるわあなたのことはほとんど忘れたわ、もちろんそうよただあなたの名前を耳にしたりあなたにそっくりな笑い声を聞いたときはべつだけど・・・でも、あなたのことはほとんど忘れたわ、自分でもあきれるほどにね!この失恋の痛手を負った心がお月さんに隠せると思うなんて私はなんて馬鹿なんでしょうそれじゃあどうしたらいいの?また彼に電話をしたほうがいいの?いいえちがうわ、私は私の道を行くのが一番よ私はあなたがいなくても生きていけるわ、もちろんそうよただ春はべつでしょうねでも春のことは考えないようにするわ春がくれば私の心は二つに割れてしまいそうよ
December 15, 2005
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『Heart And Soul』(ハート・アンド・ソウル)この曲はホーギー・カーマイケルの作曲、フランク・レッサーの作詞によるもので、1938年の映画「A song is born」に使われました。1939年のミュージカル映画「Some like it hot」にも使われました。(注:これはマリリン・モンロー主演の「Some like it hot(お熱いのがお好き)」と同名ですが違うものです。)カーマイケルは1937年にパラマウント映画に入り、この曲はそのときにフランク・レッサーと作ったもののうちの一つです。カーマイケルは子供の頃よりジャズの影響を受けていて、バンドや弾き語りでピアノも演奏していて、ジャズ・ミュージシャンとも親交がありました。Stardust (1929)Rockin' Chair (1930)Georgia On My Mind (1930)Lazy River (1931)といったこれまでのカーマイケルの曲はジャズ的な要素があり、ジャズ・ミュージシャンにも人気のあるスタンダード・ナンバーになりましたが、映画会社の仕事をするようになってからブロードウェイやハリウッド向けの曲作りになり、やや非ジャズ化していきました。*****●ハート・アンド・ソウルHeart And Soul作詞:フランク・レッサー 作曲:ホーギー・カーマイケル1938年《ヴァース》私をとりこにしてしまうような腕に抱かれたこともいく度となくあったわでも、あなたがくれたものはただ抱かれている喜びではなくそれ以上の、もっと素晴らしいものだったわ《コーラス》心も魂の心底で私はあなたに恋してしまったの愚かの人がするように心と魂の全身全霊でそれはあなたが私をきつく抱いて夜、キスを奪ったから心と魂の心底から私は愛されたいと願い夢中で頭から飛び込んでいったの、それも喜んで魔法にかけられたような夜月明かりの霧の中で私たちはキスをしたわああ、でもあなたの唇の素晴らしかったことなんと素晴らしかったことかしら私の唇がいままでになく不思議なくらいに欲しがったくらいでも今、私にはわかったわたった一度抱き合っただけでどんなに素敵なことが起きるかということが私を見て、私はこんなにあなたに夢中よあなたが奪ったあのキスが私の心と魂全てをつかんでしまったのよ
December 14, 2005
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『Lazy River』(レイジー・リヴァー)この曲は、ホーギー・カーマイケルとシドニー・アローディンによって、1931年に作られました。カーマイケル自身がレコーディングし、ベニー・グッドマンやミルズ・ブラザーズのレコードがヒットしました。シドニー・アローディンはニューオリンズ出身のクラリネット奏者で、1920年代後半から1930年代はニューヨークとニューオリンズで仕事をしていました。1930年に、カーマイケルは友人に勧められたため、アローディンに会いにニューヨークのクラブに行ました。そして、アローディンがコーラス部分を作曲し、カーマイケルがヴァースと全ての歌詞を書き、この曲ができました。カーマイケルは、この曲によって、ソング・ライターの野望が達せられたと言っています。それは、フォーク・ソングのように、どのような形でも歌ったり演奏したりすることができ飲んだくれのバンドでも、ピアノ・バーのブロンド美人のピアニストでも、最後まで歌い通すことができるような歌を自分の曲のリストに加えるという野望だと言います。*****●レイジー・リヴァーLazy River作詞・作曲:ホーギー・カーマイケル シドニー・アローディン1931年《ヴァース》僕はけだるい天気が好きだ僕はのんびりした日々が好きだのんびりした生活もそういう日々のせいだろうかドアの横のけだるく眠ったような川は陽のあたる岸辺にささやきながら流れていく《コーラス》古い水車小屋のわきのけだるい川の流れをあの真昼の太陽の中のけだるい川の流れをのぼってやさしい大木の陰に入ってしばらく休んでごらんそこで悩みを忘れて僕と一緒に夢を見ようよコマドリのさえずりと明るい朝で目をさますそんな静かな川のほとりでのんびりと過ごせたら空は青く、みんなが恋しているこんなにけだるくのんびりした川のそばなら、君もどんなにか幸せなことだろうこんなにけだるくのんびりした川のそばで、僕と暮らせたら・・・
December 13, 2005
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『Georgia On My Mind』(ジョージア・オン・マイ・マインド)【我が心のジョージア】この曲は、ホーギー・カーマイケルの作曲、スチュアート・ゴレルの作詞で、1930年に作られました。日本でも、レイ・チャールズの歌でおなじみなので、中には、レイ・チャールズが作った曲だと思っている人も少なくないのではないでしょうか?そのぐらい、この曲はレイ・チャールズによって有名になった曲と言えるでしょう。レイ・チャールズが歌ってヒットしたのは1960年ですが、この曲が作られたのはその30年も前のことなのです。1931年にミルドレッド・ベイリーが歌い、カーマイケル自身も歌っています。この曲も「スターダスト」と同様に、ジャズからロックといった、さまざまなジャンルのミュージシャンに取り上げられ、ジャズというジャンルにはとらわれないポピュラー・ミュージックのスタンダード・ナンバーとなりましたが、レイ・チャールズの歌の大ヒットによって、この曲は完全にリズム・アンド・ブルース(R&B)の曲というイメージが固まってしまったところがあります。レイ・チャールズは、ちょうどこの歌ができた年と同じ1930年にジョージア州で生まれ、幼少の頃よりこの曲を歌っていたと言いますから、まさにこの歌を歌うために生まれてきたかのようです。この曲が誕生して30年、レイ・チャールズ30歳にして始めてのビルボード・ナンバーワンになり、グラミーの「最優秀男性歌唱賞」を受賞しました。1979年に、この曲はジョージア州の州歌になりました。この歌の中の「ジョージア」とは、いっけんジョージア州の地名のことを言っているようですが、ヴァースには「ジョージア、どうして私たちは別れてしまったのだろう?」という部分があり、ジョージアとは女性の名前でもあり、ジョージアを人の名前として置き換えて考えると、ジョージアという恋人のことを言っているようにもとれます。土地と恋人と両方への想いを歌っているように聞こえるところが、この曲の素晴らしいところで、それが、この曲をアメリカの国民的なものにしているところであるとも言えるでしょう。作詞のスチュアート・ゴレルはカーマイケルの同級生で、「スターダスト」という名前をつけたことでも知られています。*****●ジョージア・オン・マイ・マインド Georgia On My Mind【我が心のジョージア】作詞:スチュアート・ゴレル作曲:ホーギー・カーマイケル1930年《ヴァース》メロディーが僕の心の中にとどまっている想い出をよみがえらせる僕はジョージアに想いをはせるどうして僕たちは別れてしまったのだろう?花びらが舞い、世界が歌うような素晴らしい日に僕はジョージアのところへ帰ろうそこが僕の帰るところだから《コーラス》ジョージア、ジョージア、懐かしい甘い歌が一日中僕の気持ちをジョージアに引き寄せるジョージア、ジョージア、松の木の枝から差し込む月の光のように甘くそしてはっきりと君の声が聞こえてくるたくさんの人の手が僕に差しのべられるたくさんの人の目が優しく微笑んで僕を誘うそんな甘い夢の中にいても君のもとへ帰る道を見ているジョージア、ジョージア、ここでは幸せは見つけられないただ一つの懐かしい甘い歌が僕の気持ちをジョージアに引き寄せる
December 12, 2005
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『Rockin' Chair』(ロッキン・チェア)この曲は、ホーギー・カーマイケルが作詞、作曲したもので、登録は1930年ですが、実際は1929年に書かれていて、2月に録音されましたがそれは発売されなかったようです。最初のレコードは1929年の12月にルイ・アームストロングのバンドでカーマイケル自身が歌ったものですが、翌年の1930年まで著作権登録はされなかったことになります。そしてこの曲はカーマイケルの曲の中でもよく歌われる曲になり、スタンダード・ナンバーになりました。1990年まででも、少なくとも100曲以上のレコーディングがされていると言います。ロッキン・チェアに座り、ジンを飲み、「この世ともそろそろおさらばするから、お迎えの馬車をよこしておくれ」古いロッキン・チェアが、あの世に行く日が近いことを知っている、ということを歌っています。この曲は、カーマイケルが1925年にインディアナ大学で学んでいるとき、彼の実家のブルーミントンの近郊に住んでいた黒人の老婆、グラニー・キャンベルのことをもとにして書かれたものだということです。カーマイケルはこの老婆のことがよほど深く印象に残っていたようで、自分の老後のことをその老婆に結びつけていたのか、それから4年後にこの曲として出来上がりました。ミルドレッド・ベイリーの歌が有名で、自分のテーマ曲としてこの曲を歌い、彼女は「ロッキン・チェア・レディー」とまで呼ばれていました。ベイリーはポール・ホワイトマン楽団の専属歌手だった1932年と、その後1937年、1941年と、3回録音しています。*****●ロッキン・チェアRockin' Chair作詞:ホーギー・カーマイケル作曲:ホーギー・カーマイケル1930年《ヴァース》スワニー川のぬかるんだ岸でも月が光っている昔はうちのドアまで聞こえてきた歌がすっかり聞こえなくなってしまったいつのまにか歳月だけが過ぎていき俺はもう二度と来ない幸せだったころのことを思うだけさ《コーラス》古いロッキン・チェアの世話になる歳になってしまった杖をそばに置いてせがれや、ひっぱたかれたくなかったら、さっさとジンを持って来いこの小屋から出られないんだどこにも行くところなんてありゃしないただここに座って、ロッキン・チェアの周りのハエをたたくだけさハリエット叔母さんはもう天国にいるんだろうな最後の苦しみに豪華な馬車をお迎えによこしておくれ古いロッキン・チェアが俺をつかんで放そうとしないからもうすぐ俺もあの世へ行くことになるだろう俺の古いロッキン・チェアにつながれたまま
December 11, 2005
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『Stardust』(スターダスト)この曲は、ホーギー・カーマイケルの作曲で、今では名曲として広く知られているスタンダード・ナンバーです。最初は歌詞はなく、1927年の10月にカーマイケル自身がインストゥルメンタル・ナンバーとして録音しているので、歌詞なしの曲としては1927年に作られていたことになりますが、最初の著作権登録は「Ster Dust」という曲名で1928年となっています。そして、1929年にミッチェル・パリッシュにより歌詞がつけられ、そのときに「Stardust」という曲名で登録されたとされています。カーマイケルは1926年に、生まれた地であるブルーミントンのインディアナ大学の法科を卒業し、1927年に弁護士になるためにフロリダの法律事務所に就職しました。しかしそのころ、ミルズ楽譜出版からも誘いがきていて、彼は音楽か法律か、どちらの道に進むべきか迷っていました。そんなときに、街のラジオ店の蓄音機から流れてきた自分の作曲した曲を耳にしたことで、音楽の道に進む決心をし、その年の夏に故郷のブルーミントンに帰ります。そこである日母校のインディアナ大学を訪れて、構内に腰をおろして、懐かしい学生生活や学友たちの想い出にひたっていました。そうしているうちに彼はかつての恋人で「大学の女王」と呼ばれていた美しいドロシー・ケイトとのことを想い出して、北方の夜空に輝く星を見ていたら、無意識にこの曲のメロディーを口笛で吹いていたと言います。彼は我に返ってすぐにそのメロディーを本の余白に書き記して近くのカフェの古いピアノを使って曲として書き上げ、それには「Barnyard Shuffle」(=“納屋の庭シャッフル”という意味)という曲名がつけられた、とカーマイケルは自伝で語っています。それは「シャッフル」という曲名のように、速いテンポのラグタイムの曲として書かれました。彼の同級生で後に「Georgia On My Mind」の作詞をすることになるスチュアート・ゴレルが、この曲は「夏の空の中から落ちてくる塵(ちり)のようだ」ということで、「Ster Dust(星くず)」という曲名を提案したことで、カーマイケルはこの曲を「Ster Dust」にしたと言います。そして、1927年10月にエミール・シーデル楽団をバックにカーマイケル自身のピアノで、ピアノ曲として、この曲は初めて録音されましたが、それはヒットしませんでした。1928年1月に歌詞なしの「Ster Dust」の曲名で著作権登録をし、10月にドン・レッドマンの楽団とアーヴィング・ミルズ楽団がレコーディングしていますが、いずれも話題にはなりませんでした。1929年1月にミルズ楽譜出版社が「Stardust」という一語のつづりの曲名で楽譜を出版しましたが、このときにはまだ歌詞がありませんでした。1929年9月にアーヴィング・ミルズ楽団がカーマイケルのピアノで再びレコーディングしますが、これもあまりヒットしませんでした。ここまではまだ歌詞がついたものはなく、全てインストゥルメンタルのものでした。ミルズ楽譜出版社の経営者のアーヴィング・ミルズはデューク・エリントン楽団のエージェントもしていたので、さっそくこの曲をコットンクラブのショーで演奏させたと言います。1930年5月にヴィクター・ヤングが編曲し、アイシャム・ジョーンズ楽団がレコーディングしたものが、スロー・テンポのものとしては初めてのもので、それは1930年9月からようやくヒットし始めました。カーマイケルも音楽仲間から「テンポを遅くしたらどうか」という助言があったと言っており、カーマイケル自身もピアノでエミール・シーデル楽団をバックにスローで録音し、少しずつ、この曲はスロー・バラードの曲というイメージができてくるようになります。ミルズ楽譜出版社は星を歌った歌詞を多く書いたミッチェル・パリッシュにこの曲の歌詞を依頼し、1929年の5月に歌詞のついた「Stardust」が出版されたと言われていますが、歌詞付きのものは1931年だという説もあったようです。カーマイケルの失恋、星を見上げながらのメロディー、「星くず」をイメージする曲調と曲名からつけられた歌詞は、あとからつけたとは思えないくらい、みごとにこの曲とマッチしました。この曲は、カーマイケルがドロシーに失恋しなければできなかった曲と言えますが、そのカーマイケルが自ら体験した失恋、そしてその想い出を、星くずと重ね合わせて失恋の悲しさを歌った歌詞は、まるで本人が書いたかのようにメロディーと一体化していて、この曲をさらに素晴らしいものにしています。この曲も、当然の如く日本ではあまりにもメロディーの美しさのみしか評価されていないような感がありますが、この曲の本当の素晴らしさは、この歌詞があってこそと言えるでしょう。事実、この歌詞がなかったらナット・キング・コールのような大ヒットはなかったはずです。ヴァースの部分は、この歌詞がつけられたときに作られたと言いますが、これほど有名なヴァースはないと言ってもいいでしょう。スタンダード・ナンバーのほとんどの曲にはヴァースという、本編のコーラス部に入る前に、語るように歌われる導入部のようなものがありますが、このヴァースは省略されることが多いものです。しかし、この曲の場合は逆にヴァースが省略されることの方が少ないようです。1931年にビング・クロスビーが歌ったものがヴォーカルによるものの初めてのもので、その年の9月からヒットし、ルイ・アームストロングのものが12月からヒットして広く知られるようになります。1936年にはトミー・ドーシーとベニー・グッドマンが録音し、この2つのものが1枚のレコードの両面に入った、両面とも同じ曲という異例のSP盤が出ました。そして1941年にアーティー・ショーのレコードが200万枚を売り上げる大ヒットになりました。それまでは、この曲はまだまだテンポが速めだったのですが、アーティー・ショーのものはスロー・テンポで演奏され、この大ヒットによって、この曲はスローの曲としての解釈が一般的になりました。こうして、この曲はその時々でさまざまに変化していき、ジャズ・プレイヤーにも多く取り上げられてきて、広く知られる有名なスタンダード・ナンバーになっていきました。ジャズの演奏では1947年のライオネル・ハンプトンのライヴ録音が歴史的名演として知られています。1956年に、スロー・バラードとしてゴードン・ジェンキンスが編曲した、ナット・キング・コールの歌が大ヒットして、スタンダード中のスタンダードと呼ばれるようになり、スタンダード・ナンバーの代名詞のようなものになりました。そして、その後、アメリカの人々はこの歌を誇りにしているとまで言われています。1965年にアメリカで有名なリーダーズ・ダイジェスト誌が、読者の最も好きな歌を調査したら、アメリカの歌においてのトップが「スターダスト」で、外国の歌のトップは「枯葉」だったと言います。そのことからもわかるように、この曲は「アメリカ最高の名曲」というものになりました。もちろん、この曲はホーギー・カーマイケルの代表曲になりましたが、アメリカン・ポピュラー・ミュージックの代表曲にもなったのです。日本でも、この曲はよく取り上げられ、団塊の世代より年長の人なら、かつてNHKテレビの歌謡番組「夢で逢いましょう」のエンディング・テーマで、双子の歌手ザ・ピーナッツが歌っていたのを懐かしく思い出すでしょう。また、40歳以上の人なら「シャボン玉ホリデー」というテレビのバラエティー番組のエンディングで、毎回クレイジー・キャッツのハナ肇が、ザ・ピーナッツに肘鉄をくらわされるところで流れていたのを聴いていたことでしょう。ちなみに、この「シャボン玉ホリデー」を来日したカーマイケルが偶然に見たために、この番組に出演したことがあったそうです。この曲は40カ国語に訳されていて、1300種類ものレコードが出ていると言いますが、この数は今もどんどん増え続けているので、現在はこの数字どころではないでしょう。この曲が、このように変化して大きくなっていったのには作曲者のカーマイケル自身が一番驚いていたようで、この曲が友達の協力もあって生まれ、その後自分のもとを離れて一人歩きして、さまざまな優れたミュージシャンによって育てられ、成長していった変容とそれに対する気持ちを次のように語っています。『このメロディーは僕よりも大きくなってしまった。もう僕の一部ではないみたいだ。たぶん僕はこれを全く書いちゃいないんだよ。この曲はまるで僕のよく知らない人みたいな感じさ。でも僕の曲だということは主張しておきたいから、僕はこの曲に向かってこう叫びたい。“たぶん僕はおまえを書いてはいないのだろうけれど、でも、僕がおまえを見つけてやったんだよ”とね。』楽譜やレコードには「Ster Dust」と表記されているものと「Stardust」と表記されているものとがありますが、厳密には1929年以降のものは「Stardust」のほうが正しいということになります。*****●スターダストStardust作詞:ミッチェル・パリッシュ作曲:ホーギー・カーマイケル1928年(「Ster Dust」の曲名で歌詞なしの登録)1929年(「Stardust」の曲名で歌詞付き楽曲として登録)《ヴァース》そして今、夕暮れの紫の黄昏が僕の心の草原にしのび込んでくる小さな星が空高くのぼり僕らが離れていることをいつも想い出させる僕には消えることのない歌を残し君は小道をさまよいながら遠ざかっていった恋は今、過ぎ去った日々の星くずとなり過ぎ去った歳月の歌となった《コーラス》時々僕はある歌を夢に見て何で孤独な夜を過ごすのだろうか?と不思議に思うそのメロディーが夢の中に入ってきて気が付くと僕はまた君ともう一度一緒にいる僕たちの恋が始まったばかりのころはどのキスも何か新しいことを知り、ときめかせてくれたでも、それは今ではもう遠い昔のこと今の僕の慰めは歌の星くずの中にある庭園の壁にもたれ、星の輝きを浴びながら君は僕の腕の中にいるナイチンゲールがおとぎ話を語っているバラの花がいっぱいに咲く楽園のおとぎ話を僕の夢はむなしく終るけれどもこの星くずのメロディーが恋の調べの想い出が心の中にいつまでもくりかえし響き続くことだろう
December 10, 2005
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ホーギー・カーマイケルは、数々の名曲を残したアメリカのポピュラー音楽の作曲家で、日本でも「スターダスト」や「ジョージア・オン・マイ・マインド(我が心のジョージア)」といった彼の曲は、だれもが耳にしたことがあることでしょう。1899年11月22日、アメリカ、インディアナ州ブルーミントン生まれ。1981年12月27日、カリフォルニア州パーム・スプリングスで82歳で亡くなりました。----------ホーギー・カーマイケルは1899年生まれで、これはデューク・エリントンと同じ年の生まれです。1920年代、カーマイケルは弁護士になるつもりでインディアナ大学の法科に入りますが、 この頃から友達とバンドを作り、作曲も手がけていました。そのとき、作曲した曲がアーヴィング・ミルズが経営するミルズ楽譜出版社から出版されました。彼はピアノを演奏し、大学のダンスバンドに参加することでジャズに夢中になりました。1926年、カーマイケルはブルーミントンのインディアナ大学で法律の学位を取得して卒業、1927年、弁護士になるためにフロリダの法律事務所に就職しました。しかしそのころ、ミルズ楽譜出版社からも誘いがきていました。そこでカーマイケルは音楽か法律か、どちらの道に進むべきか迷っていましたが、そんな時に、街のラジオ店の蓄音機から流れてきた曲の演奏を耳にしたことで、音楽の道に進む決心をしたのでした。そのとき流れてきた曲とは、自分が作曲しミルズ楽譜出版社から出版されていた曲で、それはジャズのアレンジがされていて、その素晴らしさに雷に打たれたようなショックを受けたと言います。そして、その年(1927年)の夏、故郷ブルーミントンの母校インディアナ大学を訪れ、 かつての恋人のことを思い出していて浮かんだという曲が、かの有名な「スターダスト」です。その後、1930年に「ロッキン・チェアー」、1931年に「ジョージア・オン・マイ・マインド(我が心のジョージア)」、1940年に「ニアネス・オブ・ユー」、1942年に「スカイラーク」といった名曲を世に送り出しました。そしてこれらの曲は、ナット・キング・コールやレイ・チャールズなど、数多くの人が歌い、ジャズ・プレイヤーにも好んで演奏されるスタンダード・ナンバーとして、現在よく知られています。ホーギー・カーマイケルは歌も歌い、彼のピアノの弾き語りによる録音など、彼の歌声も多く残っています。また、彼は俳優としても活動し、日本でも1960年代に放映されていた「ララミー牧場」というテレビ番組に、「カーマイケル爺さん」という役で出演していました。コール・ポーターとジョージ・ガーシュウィンが都会のサウンド・トラックを書くならば、ホーギー・カーマイケルはアメリカの中核地帯の声と言えるものでしょう。*****[代表作]Stardust (「Ster Dust」の曲名で歌詞なし登録1928, 歌詞付き楽曲登録1929)Rockin' Chair (1930)Georgia On My Mind (1930)Lazy River (1931)Heart And Soul (1938)Two Sleepy People (1938)I Get Along Without You Very Well (1939)The Nearness Of You (1940)Skylark (1942)Baltimore Oriole (1942)How Little We Know (1944)In The Cool Cool Cool Of The Evening (1951)
December 9, 2005
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アメリカン・ポピュラー・ミュージックが誕生したのが20世紀初めの1910年頃です。そして、ロックンロールというスタイルの音楽が台頭し、それまでのスタイルのアメリカン・ポピュラー・ミュージックが崩壊するのが1960年頃。その20世紀前半の50年間でアメリカでは約30万曲のポピュラー・ソングが書かれたと言います。これだけ多くの曲が書かれれば、全く同名の曲ができてしまうのは当然のこととも言えるでしょう。そして、そのことから裁判沙汰になることもあったようです。サミー・カーンの書いた曲の「Day By Day」や「Time After Time」なども、同名の曲が書かれてしまい、そういうことについて彼は気に入らなかったようで、カーンは自伝で同名異曲について不快感を語っています。「プロのソング・ライターたちは今までに書かれたほぼ全ての曲と歌詞には精通しているし、また、そうでなくてはいけないと思う。僕はビートルズを尊敬しているし素晴らしいと思っているけれど、僕なら「Yesterday」という曲は書かないだろうね。ジェローム・カーンが「Yesterday」をすでに書いているからね。(注記:ジェローム・カーンの曲は現在「Yesterdays」と言いますが、最初は「Yesterday」と表記されていたようです)だから、僕ならスティーヴン・シュワーツが「Godspell」でやったように、曲に「Day By Day」という名前は付けないだろうね。僕とストーダルとウェストンが、すでに「Day By Day」という曲を書いているからだ。スティーヴン・シュワーツは、きっと僕の曲の著作権料をもらいたいとは思わないだろうし、僕も彼の曲の著作権料をもらいたいとは思わないよ。ヴァン・ヒューゼンと僕が映画「Robin and the seven Hoods」の主題歌を書いた時は、シカゴのことを歌う曲が必要だった。だけど「Chicago」という曲はすでにあったので、その名前の曲を書くわけにはいかないから、僕らは「My Kind Of Town」という曲を書いたんだ。問題は曲名を著作権登録できないということにあるね。そうすれば面倒なことはなくなると思うんだけれど。」また、これは歌手のドリー・ベイカーの話ですが、彼女もカーペンターズが「For All We Know」を歌ったときに憤りを感じたと言っています。「For All We Know」という曲は1934年にすでに書かれていて、スタンダード・ナンバーとして知られていますが、そのとき、この曲を歌った彼女や、それを聴いていた世代の人たちにとっては、自分たちの過去や思い出がその歌詞やメロディーと共に刻み込まれており、その思いが、曲名によってよみがえってくるものなのです。彼女はカーペンターズが「For All We Know」という同名異曲を歌ったとき、異様に腹が立ち、いらいらして仕方なかったと言います。これは、少し次元の違う話になるかもしれませんが、私たちのレパートリーにコール・ポーターの「True Love」という素敵な曲があります。あるときそのレパートリー表を見て「True Love」をリクエストしてくるお客さんがいたのですが、どうもその曲を知っていてリクエストしているようには思えなかったので、よくよくきいてみると、藤井フミヤの歌っている「TRUE LOVE」と間違えていたのでした。「スタンダード・ナンバーばかりのレパートリーの中にそんなものが入っているわけがないじゃないか!」と思って笑ったものです。
December 8, 2005
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『Call Me Irresponsible』(コール・ミー・イレスポンシブル)この曲は、サミー・カーンの作詞、ジミー・ヴァン・ヒューゼンの作曲によるもので、1963年の映画「Papa's delicate condition」に使われました。その中で、主演のジャッキー・グリーソンが歌いました。レコードはジャッキー・グリーソンのものとフランク・シナトラのものがヒットし、アカデミー主題歌賞を受賞しました。*****●コール・ミー・イレスポンシブルCall Me Irresponsible 作詞:サミー・カーン作曲:ジミー・ヴァン・ヒューゼン1963年《ヴァース》私はいつも決めているどの夜も新年を迎える前の晩だと立派な建物の前の銅像に刻まれている崇高な言葉のような私にはとうてい無理なことを誓ったり物事がうまくいっている時にお辞儀をしたりすると必ず話はダメになり、私は一人残されて悪気はなかったのに、とつぶやいているのよ《コーラス》私を無責任と言ってちょうだい私を信用できないと言ってちょうだいそれに、あてにならないとも言ってちょうだいあなたに会えなかったときの私の言い訳にはもうあきあきしたでしょう?私が利口ではないというだけで、私はただあなたが好きなだけ私のすることは予想できないと言ってちょうだい私が現実的でないと言ってちょうだいいつも虹を、非現実的なことを追いかけているの私を無責任と言ってちょうだい私を信用できないと言ってちょうだいでも間違いなく本当のことだけど私は無責任になってしまうくらいにあなたに夢中なのよ
December 7, 2005
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『The Second Time Around』(ザ・セカンド・タイム・アラウンド)この曲は、サミー・カーンの作詞、ジミー・ヴァン・ヒューゼンの作曲によるもので、1960年の映画「High time」に使われました。その中で、主演のビング・クロスビーが歌い、アカデミー賞にノミネートされますが受賞は逃がしました。また、この曲はフランク・シナトラほか、多くの人に歌われています。*****●ザ・セカンド・タイム・アラウンドThe Second Time Around作詞:サミー・カーン作曲:ジミー・ヴァン・ヒューゼン1960年《コーラス》恋は2度目の方がいいわ足が地に付いた恋はそれなりに素晴らしいものだから本当の愛の歌が歌われるのは二度目だし若者は若さだけでなく愛も浪費してしまうものだと気が付くのも二度目よ恋におちるのは二度目のほうがもっと心地いいものよ優しくもてなしてくれる家も二度目のほうが居心地がいいわ恋は一度しか来ないと確信している人がいるでも、私たちは二度目に会えてとてもうれしいわ
December 6, 2005
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『All The Way』(オール・ザ・ウエイ)この曲は、サミー・カーンの作詞、ジミー(ジェームス)・ヴァン・ヒューゼンの作曲によるもので、1957年の映画「The Joker is Wild(抱擁)」の主題歌として使われました。その中で、主演のフランク・シナトラが歌いました。この映画は、コメディアンのジョー・E・ルイスという人の伝記映画で、シナトラがルイスを演じました。ルイスは1920年代、ナイトクラブの歌手でしたが、ギャングにのどを切られて歌が歌えなくなり、コメディアンになったのですが、この曲は、ルイスが声を喪失する場面で歌われます。作曲のヴァン・ヒューゼンは、ルイスが声が出なくなる場面をドラマティックに描くために書いたもので、二小節目の終わりから三小節目の半ばにかけて音が大きく飛躍するところは、ルイスが歌うのは無理だと思えるように、あえてそういうふうに作ったと言います。このところで、彼が歌手生活を続けたいという希望は無残にも壊れるということを表した曲です。カーンとヴァン・ヒューゼンは、エージェントのリリアンと三人で、この曲を聴かせるために、ラスヴェガスのホテルにいるシナトラをたずねました。彼は朝食前に聴くと言うので三人は午後四時に行き、ヴァン・ヒューゼンが伴奏をし、カーンがこの曲を歌いました。カーンが歌い終わると、シナトラは振り向いて「食べようか」とだけ言ったそうです。カーンたちの三人にとっては昼食で、シナトラにとっては朝食の豪勢な食事を終えて外へ出ると、リリアンは目に涙をうかべて「どうしてこの曲を気に入ってくれなかったのかしら?」と言いました。するとカーンは「彼はこれを気に入ったよ」と言います。「どうしてそう思うの?」と彼女は言うと、「どうしてって、気に入ったから気に入ったのさ」とカーンは言うのでした。「Three Coins In The Fountain (1954)」「All The Way (1957)」「High Hopes (1959)」 などの作品は、カーンがシナトラのために書いてアカデミー賞をとりますが、これらの曲を初めて聴かせた時のシナトラの反応は、いつもこんなふうだったと言います。フランク・シナトラのレコードはミリオン・セラーになり、アカデミー主題歌賞を受賞しました。やや抽象的な大きな愛を歌う歌詞と、崇高なメロディーと、シナトラの歌唱によって名曲となりました。フランク・シナトラの代表曲の一つです。----------●ジミー(ジェームス)・ヴァン・ヒューゼン JIMMY(JAMES) VAN HEUSENジミー(ジェームス)・ヴァン・ヒューゼンは、数々の名曲を残したアメリカのポピュラー音楽の作曲家で、1913年1月26日、アメリカ、ニューヨーク生まれ、1990年2月6日、カリフォルニアで77歳で亡くなりました。ジミーまたはジェームス・ヴァン・ヒューゼンというのはアメリカ人らしくない名前ですが、本名はエドワード・チェスター・バブコックと言い、ジミーまたはジェームス・ヴァン・ヒューゼンというのは、彼が自分でつけた仕事用の名前で、高校在学中に放送局のアルバイトをしていたときに、上司から名前を変えるように言われて、彼は、たまたま目に入ったヴァン・ヒューゼン衣類製造会社の広告から名前を取ったと言います。しかし、このとき彼は本当は学校には行っていませんでした。学校で卑猥(ひわい)な歌を歌ったということで退学処分になってしまったということです。一年後に別の学校に入りますが、今度はビリヤード場に入りびたっていてどうしようもないということで、また退学処分になりました。彼はアルバイトでカモフラージュしていたので、退学になっていたことは親にはバレなかったと言います。その後、彼は正規のアナウンサーになり、1930年から2年間、学校で作曲とピアノを勉強しました。1933年に、作曲家ハロルド・アーレンの弟のジェリー・アーレンと組んで作曲をし、作曲家としての活動を始めます。ハロルド・アーレンがコットン・クラブをやめるときに、その後任を務めることになりました。1955年頃から作詞家のサミー・カーンとコンビを組むようになり、おもにフランク・シナトラに曲を提供していきます。数多くの名曲を生み出し、スタンダード・ナンバーとして残っています。【ジミー・ヴァン・ヒューゼンの代表作】Deep In A Dream (1938)Darn That Dream (1939)I Thought About You (1939)Imagnation (1940)Polka Dots And Moonbeams (1940)Swinging On A Star (1944) It Could Happen To You (1944)Like Someone In Love (1944) But Beautiful (1947)Here's That Rainy Day (1953)All The Way (1957)The Second Time Around (1960)Call Me Irresponsible (1963)My Kind Of Town (1964)*****●オール・ザ・ウエイAll The Way作詞:サミー・カーン作曲:ジミー・ヴァン・ヒューゼン1957年《コーラス》だれかが愛してくれるならいつまでも愛してほしいどんなときにも元気付けてくれる人がほしいときそばにいてくれて幸せだと思うような人でなくてはどんな高い木よりも高くのぼったように感じられる恋でなくてはどんなに深く青い海よりも深く本当の愛ならそれくらい深くなくてはだれかが必要としてくれるのならいつまでも必要としてほしい豊作の年も、凶作の年もその中間の年も、何が起ころうと僕らがこれからどうなるかは誰にもわからないわかると言うのは愚か者だけさでも、君を愛することを許してもらえるのなら僕はきっといつまでも愛し続けるだろうずうっといつまでも、いつまでも・・・
December 5, 2005
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『Teach Me Tonight』(ティーチ・ミー・トゥナイト)【今夜教えて】この曲は、サミー・カーンの作詞、ジーン・ディ・ポールの作曲によって1953年に作られたもので、映画やミュージカルとは関係のないものです。当時カーンは映画会社のワーナーに所属していたため、この曲は最初、ワーナーで使ってもらえないかと話をもちかけたところ断わられたので、デッカ・レコードに持っていき、ジャネット・ブレースの歌でレコードを出しますが、全く売れませんでした。カーンによると売れたのは三枚で、買ったのは自分とディ・ポールと歌った歌手だと冗談を言っているくらい売れなかったようです。その二年後に、キャピトル・レコードから、ディーン・マーティンのところに電話がかかってきて、今大ヒットしている曲のカヴァー・レコードを出したいということでした。カヴァー・レコードというのは、小さなレコード会社が出した曲がヒットしたとき、すぐに大会社がその曲を大スターに歌わせて出すレコードのことで、こうやって大会社はそれを強奪するわけです。そのときに、カーンはその場にたまたま居合わせていたので、その曲は何という曲だとマーティンにたずねると「Teach Me Tonight」だと言うのでした。カーンは驚きましたが同名異曲ということがあるので、曲名だけではそれが自分の作った曲かどうかわからないため、そのレコードを探したら、そのレコードには自分の名前が書かれていたということでした。こうして、この曲は作者も知らないうちに、発表された二年後、デ・カストロ・シスターズのレコードがヒットし、さらにキャピトル・レコードのジョー・スタッフォードが歌ってそのカヴァー・レコードも思わく通り大ヒットし、カーンのヒット曲の中でも最大級のものになったというのですから、おもしろく、不思議なものです。以後、多くのジャズ・シンガーに歌われてスタンダード・ナンバーになりました。「今夜、私に恋の“A”から“Z”までを教えてちょうだい」とユーモラスに迫る、かわいらしい歌です。*****●ティーチ・ミー・トゥナイトTeach Me Tonight【今夜教えて】作詞:サミー・カーン作曲:ジーン・ディ・ポール1953年《コーラス》“まだ、勉強がたりないね?”とあなたは言うの?あら、習うのがいやだと思ってはいないわ教わるにはとてもいい機会だから今夜私に教えてちょうだい“A,B,C”から始まって終わりの“X,Y,Z”までその謎を解くのを助けて今夜私に教えてちょうだいあなたの上の高い空は黒板ね流れ星がきたらそれをチョークにして“アイ・ラヴ・ユー”と書くわ空いっぱいに千回もね一つよくわからないことがあるのだけれども先生はこんなに近くにいていいのかしら?卒業はもうすぐね今夜私に教えてちょうだい
December 4, 2005
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『It's You Or No One』(イッツ・ユー・オア・ノー・ワン) この曲は、サミー・カーンが作詞し、ジュール・スタインが作曲したもので、「It's Magic」と同じく、1948年の映画「Romance on the High Seas」に使われました。その中で、主演のドリス・デイが歌いました。この映画は、はじめジュディー・ガーランドに出演の話しがありましたが折り合いがつかなかったため、次にベティー・ハットンのところにいきましたが、彼女は妊娠していることがわかりできなくなりました。そこでベティー・ハットンの姉のマリオン・ハットンのところに話しがいったので、それならとサミー・カーンはドリス・デイを推薦しました。カーンはこの映画の監督のマイケル・カーティーズに、こう言いました。「ジュディー・ガーランドは大スターだよ。ベティー・ハットンも映画スターだね。でもマリオン・ハットンはバンド歌手だよ。バンド歌手を使うと言うのなら、僕が最高のバンド歌手をつれてきてあげるよ」結局、マリオン・八ットンとジャニス・ペイジとドリス・デイの三人でオーディションを行い、カーティーズはドリス・デイを選び、ジャニス・ペイジは脇役に選ばれました。映画会社のワーナーの社長はドリス・デイはセクシーではないという理由でとりたてていませんでしたが、カーティーズ監督が独断でドリス・デイを起用しました。そしてこの映画の成功により、無名だった彼女は一躍スターの座を上りはじめ、その後、ワーナー撮影所のクイーンになります。作曲家のジュール・スタインはこのころ離婚をし、ブロードウェイに行こうと言いますが、カーンは逆に結婚して子供も二人いたので、ブロードウェイには行けないと言うと、スタインは、「僕には妻と子供が二人いたけどね」と言い去っていきました。これによって、1942年の「I've Heard That Song Before」から続いた、カーンとスタインのコンビは終ります。*****●イッツ・ユー・オア・ノー・ワンIt's You Or No One作詞:サミー・カーン作曲:ジュール・スタイン1948年《ヴァース》この恋の暖かさがつづくなんてどうしてわかったの?この長い孤独が終ったとどうして思えたの?わたしはただあなたを見つめただけで私はそれが一瞬でわかったのよ《コーラス》私にはあなただけでほかには誰もいないキスするたびにそう確信するわ永遠にそうよ、そして永遠が終ってもあなたこそただ一人の人だと思うわお願いだから私に“違う”と言わないであなたがそんなことを言ったら私はもうおしまいよそういうことなのあなたのいない人生なんて空っぽの世界よわたしにはあなたのほかに誰もいないわ
December 3, 2005
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『It's Magic』(イッツ・マジック)この曲は、サミー・カーンが作詞し、ジュール・スタインが作曲したもので、1948年の映画「Romance on the High Seas」に使われました。その中で、主演のジャック・カーソンとドリス・デイが歌いました。そして、ドリス・デイのレコードがミリオン・セラーになりました。ドリス・デイはこの映画に出演するまではレス・ブラウン楽団の専属歌手でしたが、映画スターとしてはまだ無名でした。この映画によって、いきなり主役に抜擢されました。カーンとスタインの二人に、この映画の音楽の話が入ってきたので、スタインがスコアを書き、歌詞を書くためにカーンが楽譜を見ると、ラテン音楽が響くキューバのナイトクラブに、ジャック・カーソンがドリス・デイを連れていく場面で、変な曲が入っていると思ったので「なんだいこのタンゴみたいな曲は?」とカーンはスタインにきくと、「僕が2年もの間、君に弾き続けてきた曲だよ」と答えました。スタインはかなり前からこの曲を作曲していて、たびたびカーンに弾いて聴かせるのですが、なんとなくスペイン風の響きのするこの曲に、うまく歌詞を付けることができなくて、ずうっとほうっておかれたということでした。カーンは「じゃあ、今度は少し遅く弾いてみてくれないか」と言い、聴き終わると、「もっと遅く、もう一度たのむよ」と言うので、スタインはもっと遅くその曲を弾くと、タンゴの雰囲気はなくなってバラードになり、そこでカーンはやっと歌詞を書くことができたと言います。この曲はアカデミー賞にノミネートされますが、受賞は逃がしました。*****●イッツ・マジック It's Magic作詞:サミー・カーン作曲:ジュール・スタイン1948年 《ヴァース》*フーディーニや、すごい手品師は知っているわでもあなたは最高の手品師よりも上よ私にとってはあなたこそが最高の人なのそれに、あなたは彼らみたいに小道具なんか使わないもの今まで不可能だと思っていたことでもあなたには信じさせる力があるわとくにこんなすばらしい夜はあなたは絶対に失敗はしないでしょうね《コーラス》あなたのため息は、歌のように聴こえてくるあなたの話し声はヴァイオリンのように聴こえるわ それは魔法ね空から星がなくなったかと思うといっせいにあなたの目の中に入り込んでいくそれは魔法ね金の杖も魔法の呪文もないのにあなたの腕にだかれると素晴らしいことがおきる私たちが手に手をとって歩いていると世界はまるで夢の国のようになってしまうそれは魔法よね雨も降っていないのにそれらの虹はほかにどう説明するのそれは魔法よねこうして起きるすべてが本当のことだってどうして私は自分にいいきかせるのかしらわたしの心の中でこの魔法はあなたへの愛だってわかっているの----------【参考】*フーデーニ(Houdini)とは、1874年-1926年に生きた。ハンガリー生まれのユダヤ人で、小さい時にアメリカに移民した。20世紀初めの手品師の大家で、縄や鎖、手錠、檻などから抜け出す大がかりな手品を得意とし、ヨーロッパでも興行していて世界的に知られていた。
December 2, 2005
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『Time After Time』(タイム・アフター・タイム)この曲は、サミー・カーンが作詞し、ジュール・スタインが作曲したもので、1947年の映画「It happened in Brooklyn(下町天国)」で使われました。その中でフランク・シナトラが歌いました。この曲は多くの人に歌われ、スタンダード・ナンバーとして親しまれています。この曲の歌詞も、いかにもカーンらしい、ほのぼのとしたあたたかさを感じるものです。シンディー・ローパーの作詞作曲のものは同名異曲です。カーンと作曲家のジュール・スタインとのコンビは、1942年の「I've Heard That Song Before」から始まって、1948年までつづきます。----------●ジュール・スタイン JULE STYNEジュール・スタインは1905年12月31日に、イギリスのロンドンで生まれました。両親はロシア系のユダヤ人の移民で、彼が7歳の時に一家はアメリカに再移住しました。彼はピアニストになるための教育を受け、シカゴ・シンフォニーの子供向けのコンテストで銀賞になり、2つのシンフォニーと共演しますが、13歳の時に手が小さすぎると言われてピアニストの道を断念します。16歳で作曲を始め、17歳でジャズ・バンドで演奏し始めます。1926年、20歳の時に、のちにフランク・シナトラなどが歌ってスタンダード・ナンバーになった「Sunday」を作曲し、1930年代に入って、20歳中ごろから作曲活動に専念するようになりました。1994年9月20日に、ニューヨークで88歳で亡くなりました。【ジュール・スタインの代表作】Fall In Love Too Easily 【惚れっぽい私】 (1944)It's Been A Long, Long Time 【お久しぶりね】 (1945)Five Minutes More 【あと五分】 (1946)Time After Time (1947)It's Magic (1948)It's You Or No One (1948)Diamonds Are A Girl's Best Friend (1949)Bye Bye Baby (1949)Never Never Land (1954)Three Coins In The Fountain 【愛の泉】 (1954)Just In Time (1954)The Party's Over (1956)Everything Coming Up Roses (1959)Beautiful Friendship (1959)Make Someone Happy (1961)People (1964)*****●タイム・アフター・タイム Time After Time作詞:サミー・カーン作曲:ジュール・スタイン1947年《ヴァース》僕が君に言う言葉に何か意味があるのかな?だって僕が心で思っていることを少しも伝えてくれないから僕が言い残したことを君が聞き取ってくれたらどんなにかいいのに《コーラス》何度も繰り返して僕は自分に言い聞かせるんだ君を愛することできて幸運だと夕方、一日が終ると君は走ってまで会いにきてくれるそんな人になれて幸運だ僕にはよくわかっている、これからの年月がそれを証明してくれる君は僕の愛する気持ちをいつまでも変わらないものにしてきただからこれからも僕は君に何度も繰り返して言いつづけるよ君を愛することができて幸運だと・・・
December 1, 2005
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