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『All The Things You Are』(オール・ザ・シングス・ユー・アー)君は我がすべてこれは、私が最も好きなスタンダード・ナンバーです。スタンダード・ナンバーで好きなものを一曲選ぶとしたら、この曲になります。美しいメロディーと美しいコード進行と美しい歌詞、どれもが完璧な美しさです。ジェローム・カーン作曲、オスカー・ハマースタイン二世の作詞で、1939年のミュージカル「ヴェリー・ウォーム・フォー・メイ(五月にしては暑すぎる)」のために書いた曲です。カーンとハマースタインのコンビは、1927年のミュージカル「ショーボート」の大ヒットで確固たる名声を得ました。しかし、このミュージカル「ヴェリー・ウォーム・フォー・メイ」は、わずか59回で終るという大失敗となりました。ミュージカルの祖と称される大作曲家のジェローム・カーンは、この失敗のためにブロードウェイを去ることとなりました。オスカー・ハマースタインも同様に、これで彼の作詞家人生は終ったと評されました。このミュージカルはあまりの失敗作ゆえに、記されているものはほとんどないようなので、どんなものだったのか今となっては調べることは困難ですが、当時のブロードウェイ・ミュージカルには受け入れられない難解さがあったのではないかと思います。この曲を見ると、そのミュージカルの内容が伺われるかのように、何もかもが実に難解なものとなっています。しかし、この曲はジャズの曲として知らない人がいないくらいの、代表的な大スタンダード・ナンバーになりました。ただ、インスト(演奏)のものがほとんどで、それもかなり速いテンポで演奏されますが、歌としてはゆったりとしたバラードでしか歌いようのないものです。メロディーとしては音域が広く歌詞も難解のため、おいそれとは歌えない曲と言えるでしょう。ジェーロム・カーン54歳、オスカー・ハマースタイン二世44歳のとき、この最低の作品から生まれた曲が、大スタンダード・ナンバーとして66年の歳月を経た今も輝き続けるということになりました。大ヒットしたからといって必ずしもスタンダード・ナンバーとして残るとは限りません。ところが、このように当時全く評価もされなかったものが大スタンダード・ナンバーとなることもあるという、何とも不思議な話です。このオスカー・ハマースタイン二世の詞には、あまりにも比喩的で意味が広い表現の言葉が多いので、直訳するとわけがわからないものになってしまい、解釈も多様なために、どういう訳をするかは歌う人の解釈のしかたによって変わってきます。実に難解と言える曲ですが、言い換えれば歌い手、あるいは聴き手ががそれぞれの感覚で、自分に当てはめて解釈することができるという自由度があり、人それぞれ、自分の思いを歌に重ね合わせて共感できるという魅力がある曲だと言えるでしょう。「君は星を明るくする天使の輝きのようだ。君がいるということは僕にとって一番大切なことなんだ」「いつの日か、君をこの腕に抱く日が来て、君のすべてが僕のものになったとき、僕にとって、それは至福のときだと感じることだろう」私はこの曲に、春の訪れとともにやってきた恋の始まりの予感に夢を描くという、春と恋の訪れに胸をときめかせる、甘酸っぱいういういしさを感じます。オスカー・ハマースタイン二世は、どういうつもりでこの詞を書いたかは本人にしかわかりませんが、春を恋の始まりにたとえ、やがて春は終わり夏が来て、秋が来て冬が来るといった、恋の始まりと季節の移り変わりを比喩しているようにも思えます。*****●オール・ザ・シングス・ユー・アーAll The Things You Are邦題:君は我がすべて作詞:オスカー・ハマースタイン二世作曲:ジェローム・カーン1939年君は、希望に満ちた春の訪れを知らせるキスのようなもの寂しい冬が、どんなに長く感じられたことか君は、息を止まらせるほどの夕闇の静けさだ恋の歌が始まろうとする予感の、かすかな振るえを感じる君は、星を明るくする天使の輝きのようだ君がいるということは、僕にとって一番大切なことなんだいつの日か、君をこの腕に抱く日が来るだろうそして、君のすべてが僕のものになったとき、僕にとって、それは至福のときだと感じることだろう
July 31, 2005
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『Love Is Here To Stay』(ラヴ・イズ・ヒア・トゥー・ステイ)「愛は永遠に続く」ジョージ・ガーシュウィン最後の曲これは、ジョージとアイラのガーシュウィン兄弟が、1938年の映画「ゴールドウィン・フォーリーズ」のために書いた曲で、その中ではケニー・ベイカーが歌いました。また、その後の映画「アン・アメリカン・イン・パリス(邦題:巴里(パリ)のアメリカ人)」でも使われてその中ではジーン・ケリーとレスリー・キャロンが歌いました。1937年に、この映画「ゴールドウィン・フォーリーズ」の仕事を依頼され、これにはバレエの場面があり、ジョージはそのバレエ曲も書くことになっていました。しかし、この仕事の途中、1937年の7月に、ジョージ・ガーシュウィンは脳腫瘍で倒れ、手術するものの、そのまま帰らぬ人となってしまいました。まだ38歳という若さでした。この曲は、アイラの詞はできあがっていましたが曲の方は未完成で、20小節まで書かれていた状態でした。この映画の残りの音楽を、バレエ曲も含めてヴァーノン・デュークが依頼されたのですが、ピアニストのオスカー・デヴァントがジョージ・ガーシュウィンのビバリー・ヒルズの家に入りびたっていたために、ジョージがいつも弾いていたこの曲のメロディーやコードを覚えていたので、ヴァーノン・デュークはオスカー・デヴァントの助けを借りて、この曲を完成させたと言います。この曲はジョージ・ガーシュウィンの最後の曲となりました。「どんなことがあっても、僕たちの愛は永遠に続くものだ。たとえ、ロッキーの山脈が崩れても、ジブラルタル海峡がひっくり返ったとしても・・・・」甘く優しいメロディーが心にしみます。ジョージ・ガーシュウィンはアメリカに移民してきたロシア系ユダヤ人の両親から、4人兄弟の2番目として生まれました。長男のアイラは読書が好きで勉強家でしたが、ジョージは勉強は大嫌いで、学校もしょっちゅうサボっていたと言います。ジョージは、近所でも評判の不良少年で、みんなから「将来、ろくな人間にならないだろう」と言われていました。もちろん、音楽とはまったく無縁であったのですが、ある日、彼が外でボール投げをしていると、友達の弾くバイオリンの「ユーモレスク」のメロディーが耳に入ってきたときに、「それがまるで天から聞こえた啓示のように私を打った」と言っています。その時から、ひそかに音楽に興味を示すようになり、2年後両親がアイラのためにピアノを買うと、当時14歳だったジョージが、すぐさまそのピアノを独占して弾きまくっていたと言います。アイラは、そのおかげでピアノを弾かなくてすんだので、内心ホッとしたそうです。そしてジョージは15歳のときには、すでにプロのピアニストとして活動しているのです。幼い頃から音楽教育を受けていたわけではなく、むしろ音楽とは無縁だったジョージは、ある日突如として音楽にめざめたのです。ジョージを知る人はみんな、彼の音楽は彼自身の中から自然に生まれてきていると言います。彼は作曲するために、この世に生まれてきたのだということです。まさに、ジョージ・ガーシュウィンのような人のことを天才と言うのでしょう。38歳という短すぎる生涯は惜しまれるところです。*****●ラヴ・イズ・ヒア・トゥー・ステイLove Is Here To Stay作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1938年《ヴァース》僕は新聞を読めば読むほど、世界のことがわからなくなってしまうんだ世界中でみんながあれこれたくらんでいてなんだかんだの大騒ぎがいったいどうやって決着がつくのかなんてね永遠に続くものなど何もなさそうだけど、でも、僕らの仲は違うよね僕らは永遠に続くものを持っているんだそうさ、お互いを想う心をね《コーラス》僕らの愛が永遠に変わらないのは、わかりきったことじゃないかそれも一年なんてもんじゃなくて永遠にねラジオや電話や映画なんて、ほんのつかの間のはやりものでいつのまにか、なくなってしまう幻想かもしれないでも、ああ・・・愛しい君よ、僕らの愛は永遠に続くものなんだよ僕らは一緒に、これからとても長い道のりを歩んで行くのさロッキー山脈だっていつかは崩れるかもしれないジブラルタル海峡だってひっくり返るかもしれないでも、僕らの愛は永遠に続くのさ
July 30, 2005
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『They Can't Take That Away From Me』(ゼイ・キャント・テイク・ザット・アウェイ・フロム・ミー)誰も奪えぬこの思いこれはジョージとアイラのガーシュウィン兄弟が1937年のミュージカル映画「シャル・ウイ・ダンス(邦題:踊らん哉(かな))」に書いた曲です。この中で、フレッド・アステアがジンジャー・ロジャースに向けて歌っています。また、1949年のミュージカル映画「ザ・バークレイズ・ブロードウェイ(邦題:ブロードウェイのバークレイ夫妻)」でもアステアが歌いました。「君の帽子のかぶり方、お茶のすすり方、君のスマイル光線、調子っぱずれの歌い方、ナイフの持ち方、3時まで一緒に踊ったこと・・・、それらの想い出を取り去ることはできない」「君はたとえ奪われてしまっても、思い出は誰も奪うことはできない」曲の最後に「これは誰も僕から奪えやしないんだ!」と終ったかと思ったところに、しつこくもう一回「誰も奪えやしない」と繰り返し言って終ります。終ってしまった恋人との思い出だけを大切にとっておくという、引きずる想いの歌でしょうか。*****●ゼイ・キャント・テイク・ザット・アウェイ・フロム・ミーThey Can't Take That Away From Me邦題:誰も奪えぬこの思い作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1937年《ヴァース》あしたには君がいなくなるけれど僕らの恋を悲しく終らせたりはしない歌は終っても、「メロディーは残る」と曲には書いてある君を奪われてしまったら君と抱き合ったことを恋しく思うだろうでも、たとえ君を奪われたとしても僕の心の中には残っているものがあるさ《コーラス》君の帽子をかり方君のお茶のすすり方そういったすべての思い出はいいや、これだけは誰も僕から奪えやしないんだ!君のスマイル光線や君の調子っぱずれな歌い方君が僕の夢につきまとうこともいいや、これだけは誰も僕から奪えやしないんだ!恋のけわしい道のりの中では僕らはもう二度と会えないかもしれないでも、僕にはいつまでも君の思い出をとっておくさ君のナイフの持ち方、3時まで一緒に踊った時のことや君が僕の人生をすっかり変えてしまったこといいや、いいや、これだけは誰も僕から奪えやしないんだ!いいや、これだけは誰も僕から奪えやしないんだ!
July 29, 2005
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『Nice Work If You Can Get It』(ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット)それができたら素敵これは、ジョージとアイラのガーシュウィン兄弟が、1937年のフレッド・アステア主演の映画 「A damseil in distress(邦題:踊る騎士)」に書いた曲です。 フレッド・アステアと、ずっとコンビを組んでいたジンジャー・ロジャースが休養を申し出たため、この映画は美人だが歌も踊りもできないジョウン・フォンテインを相手役にして作ったものです。この映画は、うちひしがれた貴族の娘役のフォンテインを、一介のダンサー役のアステアが救うという内容のもので、この映画の中の曲で、ほかに「A Foggy Day」は有名です。*****●ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イットNice Work If You Can Get Itそれができたら素敵作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1937年《ヴァース》金儲けだけで生きている人は必ずしも楽しい人生を送れるとは限らない同じように、名声だけを追って生きている人も時がその名声をかき消してしまわないとは限らないだから、本当のところ唯一本当に幸せをもたらしてくれることは男の子と女の子のためのものつまり、恋に落ちることそれは誰も後悔なんかしないそれができたら素敵だね、最高だね《コーラス》満天の星の下で手を握り合うんだそれができたら素敵だねやればできるさ一人の女の子とため息をつきながら歩くんだそれができたら素敵だねやればできるさ誰かがコテージの前で待っている姿を想像してごらんそこで、二人の心が一つに結ばれるのさこれ以上何を望むんだい?愛する人に愛されて、そして誓をかわすんだそれができたら素敵だねでも、どうやってやったらいいかその方法を僕に教えてくれないか?
July 28, 2005
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『A Foggy Day』(ア・フォギー・デイ)霧深き日ジョージとアイラのガーシュウィン兄弟が、1937年のフレッド・アステア主演の映画「A damseil in distress(邦題:踊る騎士)」に書いた曲です。映画の中では、アステアがロンドンの街を舞台に、霧につつまれて歌います。「憂うつな霧の中でも、あなたが目の前に現れた途端に霧の街が太陽が降り注いだように輝いて見える」という内容の歌です。もともとは「A foggy day in London Town」という曲名でしたが、いつのまにか「in London Town」がとれて「A foggy day 」となり、今ではその名前でスタンダード・ナンバーとして定着しています。フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースがコンビを組んだ映画は、これまで7本続いたので、ロジャースが休養を申し出たため、この映画は美人だが歌も踊りもできないジョウン・フォンテインを相手役にして作ったので、やはり、いま一つという感のものになってしまったようです。*****●ア・フォギー・デイA Foggy Day邦題:霧深き日作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1937年《ヴァース》僕はこの街でひとりぼっち僕の知っている人はみんなこの街を出て行ってしまった何か自分を哀れみたい気持ちだった何をすればいいんだ?何をすればいいんだ?何をすればいいんだ?見通しは全く暗かったでも、霧の深い道を一人歩いていると今日は、今までにない最高にすばらしい日になったんだ《コーラス》ロンドンの街で過ごす霧の深い一日に僕は憂うつな気持ちにさせられてしまっていたそんな気持ちで朝を過ごすと大英博物館は色あせたものに見えてしまったいったいいつまでこんな気持ちが続くのだろうかと長い間、思いをめぐらせていたことだろうしかし、あの奇跡の時代は終わってはいなっかたなぜって、突然君が目の前に現れた途端霧の立ちこめるロンドンの街のどこもかしこも日の光が降り注ぐように輝いて見えたからさ
July 27, 2005
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『I Loves You, Porgy』(アイ・ラヴズ・ユー、ポーギー)愛するポーギージョージ・ガーシュウィンが1935年に書いたフォーク・オペラ「ポーギーとベス」の中の曲です。作詞は兄のアイラ・ガーシュウィンと、原作の小説「ポーギー」の作者のデュボース・ヘイワードです。デュボース・ヘイワードは南部の名門の家柄の出で、大変なインテリだったようです。作家としても、この小説を発表したときは、すでに有名でした。この小説「ポーギー」の主人公のポーギーは、彼がチャールストンでよく知っていた実在の人物をモデルにして書いたもので、その人物の名はサミュエル・スモールズと言い、真っ黒な黒人で、足もポーギーと同じように悪く、小さな箱に車輪をつけてそれに乗り、ヤギ(ゴウトgoat)に引かせて街中を動き回っていたので、みんなから「ゴウト・サミー」と呼ばれていたそうです。サミーは、自分の異様な姿を見て、通行人がいくらかの小銭をほうり投げるのを待ちながら、宇宙の彼方を茫然と見つめる癖があったと言います。サミーは前科があり、そのほとんどは女性に暴行したり強姦したりしたものらしく、そんなことを繰り返しているうちに、チャールストンの沿岸の孤島で水死体になって発見されたそうです。ヘイワードは子供の頃、小児麻痺にかかって少しびっこをひいていたらしく、そんなところからもサミーへと興味を示し、ポーギーという物語の人物を作りあげていったようです。このオペラ「ポーギーとベス」の中の曲では「サマータイム(Summertime)」、「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ(My Man's Gone Now)」、「イット・エイント・ネセサラリー・ソー(It Ain't Necessarily So)」などが有名で、これらは多くの歌手によって歌われていましたが、この 「アイ・ラヴズ・ユー、ポーギー( I Loves You, Porgy)」も多くのジャズ・プレイヤーに取り上げられている曲です。この曲の題名は「I Loves You, Porgy」がオリジナルですが、これは非文法的なので、「I Love You, Porgy」になっていたり、ただ単に「Porgy」となっているものもあります。劇中では、ベスとポーギーのデュエットで、「ポーギー、あなたを愛しているわ。だから私を守ってちょうだい」と歌うバラードです。この歌は、もともとベスとポーギーがかけ合いで歌うようになっているので、スタンダード・ナンバーとして一つの曲として女性歌手が一人で歌う場合は、歌う人の解釈でベスの部分を取り出し、構成して歌っていて、それはそれぞれの歌手によって違っているため、決まった構成の形は特にありません。*****●アイ・ラヴズ・ユー、ポーギーI Loves You, Porgy邦題:愛するポーギー作詞:アイラ・ガーシュウィン デュボース・ヘイワード作曲:ジョージ・ガーシュウィン1935年《ベス》私はここにいたいけれど、その資格はなさそうねあなたみたいなお上品な人には、私のことなんかわからないでしょあいつの熱い手でしっかり抱きしめられると催眠術にかかったようにあの人の言いなりになってしまうのよ《ベス》いつかきっとあいつはわたしを連れ戻しにくるわそして私を、もてあそぶのよわかっているの、それは死ぬほどつらいことだってでも、あいつが呼びに来たら、私はついて行かないわけにはいかないのよ《ポーギー》もし、クラウンがいなかったら、ベスもし、おまえとポ-ギーだけだったらどうするんだい?《ベス》ポーギー、あなたを愛しているのよ、だから私をあいつに渡さないであいつにもてあそばれて気が狂いそうになるまで、私を放っておかないであなたが私を守ってくれるなら、いつまでもここにいたいのよあなたと一緒なら、いつまでもここにいたいのよ《ポーギー》そうだベス、もう何も怖がることはない!おまえはここで幸せに出会い、悩みはみんな捨てたんだ気ままに豪勢な暮らしをしてやるのさ街中のどの女よりも晴れ晴れとした顔をしてなそれで、いいか、クラウンが来たらすべて俺に任せるんだ《ベス》ポーギー、あなたを愛しているわ、私をあいつに渡さないで《ポーギー》いったい何のために俺がここにいると思ってるだあの飢えた狼みたいなやつに、おまえを渡すわけがないだろう?《ベス》あの熱い手を私にさわらせないようにしてちょうだい《ポーギー》もし、ポーギーと一緒にいたいのならここにいるんだそう、もう家も愛も手に入れたのさ《ベス》あなたが私をここに置いてくれるのなら、ここにいたいわ《ポーギー》そう、だからもう泣くんじゃないよ、わかったかい?そして歌いながら仕事をするんだ《ベス》いつまでも、あなたと一緒に《ポーギー》こうしてポーギーはおまえのものになったんだから《ベス》私はいい人がいるのね《ポーギー》そうさ、おまえのいい人が付いているさ《ベス》あなたを愛しているわ
July 26, 2005
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『It Ain't Necessarily So』(イット・エイント・ネセサラリー・ソー)なんでもそうとは限らないジョージ・ガーシュウィンが1935年に書いたフォーク・オペラ「ポーギーとベス」の中の曲です。作詞は兄のアイラ・ガーシュウィンです。地元の教会主催のピクニックの中で、スポーティング・ライフが酒に酔って歌い出します。歌の内容は、旧約聖書に出てくる話しを持ち出し、「この聖書に書かれていることだって、必ずしもそうじゃないぜ」と、女たらしの麻薬密売人が敬虔なクリスチャンに対して説教し出すという皮肉に満ちた内容ですが、小柄で足が不自由なポーギーが大男のクラウンを倒してベスを完全に自分のものにしてしまうという、これから起きるストーリーを暗示する歌でもあります。映画ではスポーティング・ライフ役で出演したサミー・デイヴィス・ジュニアがこれを歌いヒットしました。*****●イット・エイント・ネセサラリー・ソーIt Ain't Necessarily Soなんでもそうとは限らない作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1935年なんでもそうとは限らないぜそれは、必ずしもそうじゃないってことだよ聖書に書いてあることだって正しいと決まっているわけじゃないんだぜダビデはチビだった、それなのにさ!ダビデはチビで可愛い男だったのに!バカでかいゴリアテと戦って、ゴリアテが倒れて死んだって言うだろダビデはチビだったのにさ、おやまあ何てこったい!ワドゥー、ズィン、バン、ボドゥルー、ウーッ!・・・ (スキャット)あのヨナはさ、鯨の中で生き続けたろヨナは鯨の中で行き続けたって言うじゃないか鯨の腹の中を住みかにしてたのさあのヨナは鯨の中で生き続けたんだぜモーゼは川の流れの中で見つけられたんだ赤ん坊のモーゼは川で見つかったんだぜファラオの娘が見つけるまで川の流れに浮いていたのさ娘がその川から吊り上げたんだよそんなことってあるのかいワドゥー、ズィン、バン、ボドゥルー、ウーッ!・・・ (スキャット)なんでもそうとは限らないぜそれは、必ずしもそうじゃないってことだよ悪魔のサタンは悪いやつだってみんなによく言われるだろけどそれだって必ずしも悪いやつとは限らないんだぜ天国に行きたいのなら「サイコロの7が出ろ」なんてわめいてちゃだめさ清く生きろよ!過ちを犯すな!俺だってそういう教えを守れるときは守るよただしテキトーに割り引いてなメトセラは900年も生きたって言うじゃないかメトセラは900年も生きたそうだがどんな女にも相手にされなかったというのに900年も生きたって何の意味があるんだい?だから俺様がお前らに説教してえのはなあものごとってえのは、いつも決まって必ずしもそうとは限らないんだってことなんだ!《アンコール用歌詞》紀元前五千年くらい前あのアダムとイヴは逃げなきゃならなかったそりゃそうさ、あいつらエデンの園であれをやっちまったんだからななのに、何でお前や俺たちが、それで罰せられなくちゃならないのさ?注)「ダビデ」「ゴリアテ」「ヨナ」「モーゼ」「メトセラ」は聖書の中の登場人物
July 25, 2005
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『My Man's Gone Now』(マイ・マンズ・ゴーン・ナウ)うちの人は逝(い)ってしまったジョージ・ガーシュウィンが1935年に書いたフォーク・オペラ「ポーギーとベス」の中の曲です。作詞は原作の小説「ポーギー」の作者のデュボース・ヘイワードです。オペラ「ポーギーとベス」の冒頭は赤ん坊を寝かしつける子守唄「サマータイム」が歌われますが、その静けさはさいころ賭博のいさかいによって破られ、けんかが始まり、セリーナの夫ロビンズはクラウンに殺されてしまいます。セリーナは悲しみにうちひしがれて、これを歌います。*****●マイ・マンズ・ゴーン・ナウMy Man's Gone Nowうちの人は逝ってしまった作詞:デュボース・ヘイワード作曲:ジョージ・ガーシュウィン1935年うちの人は逝ってしまった、もう耳をすましても仕方がないわあの人が階段を昇ってくる疲れた足取りはもう聞こえないああ、ああ!悲しみのやつがやってきて、あたしにつきまとう祈っているあいだも、あたしの耳元でささやくのよああ、ああ!働くのがイヤだって言ってるわけじゃない仕事とあたしは一緒に旅してるようなものだから一緒に約束の地にたどり着くまではでも悲しみのやつがいつも一緒についてきて「おめえも老け込んだな」と言うのよ、あの人を亡くしたからね「あいつは亭主を亡くしたからな」、そう、あたしは夫を亡くしたのよああ、ああ!悲しみのやつが暖炉のそばに座っているよそして一晩中ずっとベッドのなかのあたしのそばに横になって朝も昼も夜も、あたしに同じことを言い続けるのさあの人が死んじまったから、もうあたしは独りぼっちだってああ、うちの人は逝ってしまったああ、ああ!
July 24, 2005
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『Summertime』(サマータイム)ジョージ・ガーシュウィンが1935年に書いたフォーク・オペラ「ポーギーとベス」の中の曲です。作詞は原作の小説「ポーギー」の作者のデュボース・ヘイワードです。この曲は説明がいらないくらい有名で、良いのか悪いのかわかりませんが、演歌や歌謡曲の歌手までが歌ったりするほど日本では有名な曲となっていますが、この歌の意味を知っている人はどのくらいいるのでしょうか?この曲は、黒人の漁師の夫ジェイクと黒人の妻クララの子供に歌われる子守唄で、オペラ「ポーギーとベス」の中では3回歌われます。一回目は、オペラの冒頭、夕暮れ時の船着き場で漁師ジェイクの妻クララが歌います。二回目は、嵐が起こり、漁に出たまま帰らない夫ジェイクを案じて歌われます。三回目は、クララは嵐の中、赤ん坊をベスに預けて外に飛び出し、結局、ジェイクもクララもクラウンもみんな帰ってきませんでした。そんな状況で、ベスがジェイクとクララの子供を抱いて「サマータイム」を寂しく歌います。ラストシーンでポーギーがベスを追ってニューヨークに旅立つ時、この赤ん坊は、夫ロビンズを賭博のいざこざで殺されたセリーナに抱かれています。この歌は回を重ねるごとに周囲の状況に悲壮さが増すという、何ともやりきれない歌です。そして、この歌詞の内容は現実とは全然違う、全くのウソッパチなのです。現実には絶対にありえない夢のような世界と子供への想いを歌っています。こういうことを考えると、この歌は少なくとも中途半端な気持ちでは歌ってはいけない歌に思えてきます。ビリー・ホリデーが歌っていますが、黒人の私生児として生まれ、強姦、売春、投獄、アルコール中毒、麻薬といったものを身をもって体験した彼女は、この歌をどういう気持ちで歌っていたのでしょうか?この曲は、ブルース進行に近いものでマイナー・キー(短調)なので、暗い曲調です。黒人霊歌の「時には母のない子のように」からヒントを得たとされています。なお、曲名の「Summertime」は一語で成り立っていて「Summer Time」というように二語ではないので、間違わないように注意が必要です。*****●サマータイムSummertime作詞:デュボース・ヘイワード作曲:ジョージ・ガーシュウィン1935年ああ、夏だわ、そして生活は楽だわね お魚も飛び跳ねてるし、綿もよく育って高く伸びたしねお前のお父さんは金持ちだし、お前のお母さんは美人だよだから赤ちゃん、泣くんじゃないよ そのうち、お前も歌いながら立ち上がる朝がくるんだろうねそれからきっと大きく翼を広げて、空に向かって飛び立っていくんだわでもその朝が来るまで お前はここにいれば、なんの心配もいらないんだよお父さんとお母さんがいつもそばにいて、あなたを守っていてあげるからね
July 23, 2005
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●フォーク・オペラ『ポーギーとベス』(Porgy and Bess)1935年、ジョージ・ガーシュウィン、アイラ・ガーシュウィン、デュボース・ヘイワードは、フォーク・オペラ『ポーギーとベス』を発表しました。ジョージ・ガーシュウィンの最高傑作はこれだという人も多くいます。このオペラの原作はデュボース・ヘイワードが1925年に発表した小説『ポーギー(Porgy)』で、ジョージ・ガーシュウィンはこの小説が発表されるとすぐに読み、貧しい黒人たちの悲劇に強い感銘を受け、この作品をブラック・オペラの形にしたいと思っていました。ジョージ・ガーシュウィンは長年オペラの作曲を夢見ており、一方で黒人文化に惹かれていました。小説の発表から2年後の1927年に、ヘイワードは妻のドロシーと台本を作りました。これをミュージカルにするためヘイワードは作曲をジョージ・ガーシュウィンに依頼し、作詞はヘイワードとアイラとで担当し、このオペラができあがりました。よくミュージカルやジャズと間違われますが、これはかなりの規模のオペラになっています。普通「フォーク・オペラ」と言われ、「ジャズ・オペラ」という呼び方もされるようです。フォーク・オペラと言うのは、アメリカの黒人文化を描いた民族的なオペラだということから、そう呼ばれます。題名は『ポーギー』の予定だったそうですが、ジョージが原作との混同をさけるため『ポーギーとベス』に変えたそうです。余談ですが、よく『ポギーとベス』と訳されていたので、私は長い間「ポギー」と認識していましたが、「ポーギー(ポーギィというニュアンス)」のほうが正しい発音のようです。この物語は、奴隷制度から解放されたとはいえ、なお存在する根強い人種差別や偏見、無教養、貧困の中に生きることを強いられた20世紀初頭のアメリカ南部の黒人社会の生活や愛情、犯罪などを扱ったもので、そんな環境の中で精一杯生きる黒人たちの人間模様に、非常に重く奥深いものを感じる作品です。サウス・キャロライナ州チャールストンのキャットフィッシュ街(ロウ)という、黒人スラム街が舞台で、足の不自由なポーギー、殺人を犯して逃げていくクラウン、そのクラウンに捨てられるベス、女たらしで麻薬の売人のスポーティング・ライフなどが登場します。白人の警官役以外の出演者は全て黒人のみで、台詞もほとんど黒人特有のスラングで占められた上に、音楽全体にジャズや黒人霊歌の雰囲気が漂うという、古典的なヨーロッパ系オペラとは全く違う異色の作品です。 ガーシュウィンは「このオペラを黒人以外の人間が演じてはならない」とまで言ったほどです。ジョージ・ガーシュウィンは他の全ての仕事の話しを断わって、このアメリカ独自のオペラの創作に意欲を燃やしました。原作者デュボース・ヘイワードの生まれ故郷であり、作品の舞台であるサウス・キャロライナ州チャールストン近郊にあるフォーリー島のある小屋に、ヘイワードと共に長期滞在し、黒人のナマの生活と音楽のなかに自ら身を置きながら、黒人の音楽や言葉などを研究した上で、作曲に11カ月、オーケストレーションに9カ月、合計20カ月をかけてスコアを完成させました。構想から考えると約10年の歳月を経て完成したことになります。メトロポリタン歌劇場から上演の引き合いがありましたが、黒人歌手を使うということでダメになりました。結局、中身を少しカットしてシアター・ギルドで上演したので、ミュージカルと間違われたようです。この公演は話題を集めましたが賛否両論で、124回の失敗に終わり、莫大な借金を負ったと言います。人種差別が根強い当時のアメリカで、黒人ばかりのキャストによる全く新しい形のこのオペラは、やはり大衆には受け入れられなかったのでしょう。所詮は白人から見た黒人社会、白人が作った黒人音楽という虚構の世界だと批判する人もいました。しかし、ジョージもまた祖国ではユダヤ人として抑圧され、新天地のアメリカにたどり着いた民族であることに考えるところがあったのではないかと思います。普段は陽気な彼が、突然「僕は哀しいロシア人さ」と言って、暗い横顔を見せることがあったと言います。ジョージ・ガーシュウィンは、その2年後、1937年に38歳で急死します。このオペラ「ポーギーとベス」は最初の公演から7年経った1942年に再演され、このときは286回と、やや成功し、1952年から4年に及ぶ世界公演が行われ、その時はニューヨーク公演も含め、かなり成功したようです。ノーカットの上演は、アメリカ建国200年の1976年に初めて実現したと言います。1959年、オットー・プレミンジャー監督によって映画化もされましたが、それほどヒットはしませんでした。ガーシュウィンの遺族はこの映画化に強い不満を覚え、映画に関するすべての権利を買い戻した後、存在するすべてのプリントを焼却処分してしまったらしく、「ポーギーとベス」は幻の映画となました。この「ポーギーとベス」からはいくつかのヒット曲が生まれていますが、なかでも「サマータイム(Summertime)」は、多くの歌手によって歌い継がれ、彼の代表的な曲となりました。そのほかに有名な曲は「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ(My Man's Gone Now)」、「イット・エイント・ネセサラリー・ソー(It Ain't Necessarily So)」、 「アイ・ラヴズ・ユー、ポーギー( I Loves You, Porgy)」などがあります。---------●フォーク・オペラ『ポーギーとベス』 全3幕(上演時間:約3時間)Porgy and Bess原作:デュボース・ヘイワード『ポーギー』より作詞:デュボース・ヘイワード作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1935年 《あらすじ》【第1幕】このオペラには明確な時代設定がありませんが、原作が書かれた当時の現代、つまり1920年代の話と言えるでしょう。アメリカ南部サウス・キャロライナ州チャールストンの海に面する黒人スラム街のキャットフィッシュ・ロウ。ここに暮らす黒人たちは、綿花の運搬や漁などで貧しいながらも生計を立てています。男たちが労働から帰り、女たちは家事が一段落したところから物語が始まります。男たちは「クラップ」と呼ばれるサイコロ賭博に夢中になっています。そこにいるのは、綿花運びで腕っ節が強い大男のクラウンとその情婦ベス、足は不自由だがサイコロ投げの名人の青年ポーギー、女たらしでクラウンやベスらに麻薬を売っている麻薬密売人のスポーティン・ライフ、漁師のジェイク、ロビンズらです。そのサイコロ賭博で起こった些細なトラブルから、麻薬に酔っていたクラウンはロビンズを怒り狂った勢いで殺してしまいます。「人殺しだ!」「警察が来る!」「トラブルはごめんだ!」ということで、住人たちはさっさと家へと逃げ帰ってしまいます。そして、殺しの張本人クラウン自身もベスをおいてさっさと逃げてしまいます。行くところもなく途方に暮れていたベスを窮地から救い、自分の家にかくまったのは、前からベスに想いを寄せていたポーギーでした。その事件をきっかけに、ポーギーとベスは、クラウンが身を隠している間に恋人同士になってしまいます。しかし、ベスをモノにしたいと思っていたスポーティン・ライフは、「二人の男が一人の女を巡って争えば、一人は殺され、一人は殺しの罪で捕まる、そしてじゃまな男は二人ともいなくなるのさ!」と不気味なことを言い出します。【第2幕】殺しの件も忘れかけた頃、キャットフィッシュ・ロウの住人たちが、地元の教会主催の離島ピクニックへ行くことになり、足が不自由なため行くことができないポーギーは、一人ではイヤと言うベスに行くことを勧めます。結局ベスはピクニックへ行くことになりますが、行った先でもサイコロ賭博のときと同じように酒宴に興じる者もいて、異様な活気に満ちていました。その酒宴の席でスポーティン・ライフが歌うのが「It ain't necessarily so(それは必ずしもそうじゃないぜ)」です。ピクニックが終わろうとしたその時、ベスの前に逃げていたクラウンが現れました。そして、ベスはクラウンに身をまかせてしまうのです。そういったことから、ベスはみんなが離島から帰る船に乗り遅れてしまいますが、ポーギーは帰宅が遅れた理由をベスから聞かされても、ベスを責めようとせず優しく迎えるのでした。ある嵐の日、漁に出たまま帰らないジェイクを集会場の中でみんなが案じています。そんなところにクラウンが現れて、ベスを巡ってついにポーギーとの対決が始まるところでしたが、そこに、ジェイクの漁船が半壊状態で桟橋に漂着します。しかし船の中にジェイクはいません。ジェイクの妻のクララはそれを見たとたんに半狂乱となって、ベスに赤ん坊を預け外に飛び出して行ってしまいます。クラウンは「助けに行かないとは情けない奴らだぜ!」と言いながら、自分も嵐の中へ飛び出します。結局クララは荒波にさらわれ水死、クラウンも行方不明となって、みんなは悲しみに暮れます。【第3幕】ベスがジェイクとクララの子供を抱いて「サマータイム」を寂しく歌っています。ジェイク、クララ、クラウンの葬儀が行われ、みんなが悲しみにくれているところに、実は生きていたクラウンがこっそり帰ってきますが、この事実を知っているのはポーギーとスポーティン・ライフだけでした。クラウンは今度こそベスを取り戻そうと、闇夜のうちにベスのところへ忍び込もうとしますが、逆にそれに感付いたポーギーによって殺されてしまいます。ポーギーが「ついにベスは俺のものだ!」と喜んだのもつかの間、警察の捜査の手がポーギーに及び、ポーギーは参考人として警察に連行されます。クラウンが殺され、ポーギーも連行されて途方に暮れるベス。そこへ蛇のように忍び寄ってきたのはスポーティン・ライフです。彼はベスに「ポーギーはもう戻ってこない」とうそぶいてベスを麻薬でたぶらかし、強引にニューヨーク行きの船に乗るようにしてしまいます。そして、麻薬に酔ったベスはスポーティン・ライフと一緒に出て行ってしまいました。そこへ、ポーギーは証拠不十分として釈放されて帰ってきます。収容所でやったサイコロ賭博で儲けた金でお土産をいっぱい買ってきての慢心の帰郷のはずだったのですが、ベスがスポーティン・ライフと一緒にニューヨークへ行ってしまったことを知って悲しみに暮れます。しかし彼はそこであきらめず、ベスを捜しにニューヨークへ行くことを決意します。南部の海岸沿いから北部のニューヨークまで、数千キロも離れた地へ、行く金もなく、行く宛も分からないという、絶望的な状態であるにも関わらず・・・。ポーギーが旅立っていくシーンでこのオペラは終わります。
July 22, 2005
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『But Not For Me』(バット・ノット・フォー・ミー)ジョージとアイラのガーシュウィン兄弟の作で、1930年のミュージカル「ガール・クレイジー」の中の曲です。今ではスタンダード・ナンバーとしても、有名な曲になっています。オリジナル・スコアには、「悲観的に、やや遅く」というジョージの指示が書き込まれていました。ジンジャー・ロジャース扮するモリー・グレイという女郵便局長が、恋人とのけんかの後に歌われました。1943年の映画化の中では、ジュディー・ガーランドが歌っています。「たくさんの人が愛の歌を書いているけれど、でも、それは私のためのものじゃない。空には幸運の星が輝いている。でも、それは私のものじゃない」とひがみ、「彼とのキスの味が忘れられない。でも、彼は私のものではない」と、最後までいじけています。この曲には、意味のよくわからない固有名詞や表現が出てきます。(*1)「ベアトリス・フェアファクス(Beatrice Fairfax)」や(*2)「ポリアンナ(Pollyanna)」(*3)「「bananas」、(*4)「 「two by four」などです。これは、1977年にアイラが書いた著書があり、その中で説明をしていて、それによると、(*1)「ベアトリス・フェアファクス」というのは新聞などで恋愛相談をしていたその道の草分け的存在のコラムニストの名前で、1920年代頃の人のことですから普通に調べてもわからない名前でしょう。(*2)「ポリアンナ」は、1913年の同名の少女向け小説の主人公の名前で、いつも陽気な性格なので、楽天家の女性の代名詞になっているということです。(*3)「bananas(バナナズ)」とは果物のバナナの複数形ではなく、スポーツ記者で漫画家のトーマス・アロシウス・ドーガンという人がはやらせた俗語の一つで、不信感を表すやや下品な言葉だといいます。「バカ言え!」とか「下らん!」とかいうことらしいですが、そういえば、「そんなバナーナー!」(そんなバカな!のギャグ)と言えば通じるらしいということを聞いたことがあります。(*4)「two by four」は2インチX4インチの建築材のことを言うのではなく、ただ単に仲むつまじい恋人どうしの将来の夢である家を表現したにすぎないと言っています。(*5) さらに「feller needs friend」という表現は、「When a Feller Needs a Friend」(友達が必要な時)という題の昔なつかしい少年漫画への”やや遠くからの賛辞”として使った言葉だと言っています。まあこんなことは、この詞を書いたアイラ本人が語らない限り、わからないことです。*****●バット・ノット・フォー・ミーBut Not For Me作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1930年《ヴァース》ねえ、お日さまさん、ちょっと聞いてちょうだい!夢は必ずかなうものだなんて 決して言わないでよ!もしそんなことを言ったら、大暴れしてやるからねベアトリス・フェアファクス(*1) あなたは決して「彼はそのうち振り向きます」だなんて言わないでこれが最後の幕だってわかっているからいつも陽気なポリアンナ(*2)の話なんて聞きたくないわ運命の女神が未来のだんなさまを連れてくるだなんてそんなバカなこと、誰が言ったの!(*3)《コーラス》たくさんの人が愛の歌を書いてるけれどそれは私のためのものじゃない空には幸運の星が輝いているでも、それは私のものじゃない愛に導かれるままになんて言うけれど私がそうすると暗雲がたちこめてきてロシアの悲劇なんてもんじゃないことになるわ私ってバッカみたい恋に落ちたあげくの果てが、こんなことになるなんてああ~!ほんとにもう~!どうしようもなく悲しいわ!彼とのキスの味がどうしても忘れられないけど彼は私のものではないみたい彼がドアをたたいてるでも、それは私の部屋じゃないあの人は家を建てる夢があるんだって(*4)でも私のためじゃない恋はゲームだってことは私にもわかってるわそれでもやっぱり私はとまどってしまうの私は誰かに引き寄せられているの?それとも私が引き寄せているのかしら?私にはさっぱりわからないわ初めはとってもうまくいってたのになんてひどい終わりかたなの!こんな時こそ、友達が必要な時なのね(*5)どんな恋愛だって結婚という結末で終わるのに私には、そんなハッピーエンドはないんだわ
July 21, 2005
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『I Got Rhythm』(アイ・ガット・リズム)この曲は、ジョージとアイラのガーシュウィン兄弟の作で、1930年のミュージカル「ガール・クレイジー」に挿入され、舞台ではエセル・マーマンが歌いました。このミュージカルが、ミュージカル・スター=エセル・マーマンのブロードウェイでのデビューとなりましたが、彼女の声は立見席の客はもちろん、ロビーの切符切りのところまで聞こえるほど大きく、曲中で、高いC(ド)の音(女性にしては高い音)を16小節も歌い続けて話題になったと言います。この後、マーマンはこの曲を自分自身のテーマ曲として歌っていました。この曲はジョージが数年前に作ってあったものに、アイラがあとから歌詞を付けることになり、メロディーが例によって器楽的でリズミカルなものだったので、それにうまく言葉をのせるのには苦労したようです。アイラは二週間以上も何種類かの題名と歌詞をいじくりまわして苦しんだと言っています。とにかく作ってみると、面白いがあまり意味のないマザーグース風の言葉遊びになってしまって、どうもうまくいかなかったようです。そこで韻(いん)を踏ませるのはすっぱりあきらめて作ったら、うまくこの歌詞ができあがったと言います。韻を踏んでいるのは二か所のみで、あとから韻を踏んだヴァースを付けて補っています。彼は「こういう作り方をしたからってべつにどうってことはないけれど、いつも”押韻(おういん)保険”に頼っている僕にとっては、ちょっとした冒険だったね」と言っています。”押韻保険”とはいつも使っているであろう韻の辞典とか参考書とかのことを言っているのだろうか?それとも、韻を踏んでいることによって保障される曲の安全のことをそう表現しているのだろうか?いずれにしても、アイラという人は面白いことを言う人のようです。「私にはリズムがある。これ以上望むものは何もないわ」と、底抜けにハッピーな歌です。このミュージカルは1932年と1943年に同じ題名で映画化され、1965年には「When the boys meet the girls」という題名で、合計三度、映画化されています。二度目の映画化ではジュディー・ガーランドがこの曲を歌い、三度目ではコニー・フランシスとルイ・アームストロングらが歌いました。ジョージは1934年に、このメロディーを使って「The variations on I got rhythm」というピアノとオーケストラのための協奏曲も作っています。*****●アイ・ガット・リズムI Got Rhythm作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1930年私にはリズムがあるわ音楽もあり、恋人もいるわこれ以上何を望むことがあるの?緑の草原にはひな菊も咲いてるわ私には恋人がいるわこれ以上何を望むことがあるの?昔の男に困らされることがあっても家にまで来ることはないのだから気にすることはないわ星の光もあるし、甘い夢も見られるわ私には素敵な恋人がいるからこれ以上何を望むことがあるの?もうこれ以上何もいらないわ
July 20, 2005
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『I've Got A Crush On You』(アイヴ・ガット・ア・クラッシュ・オン・ユー)これは、1928年のガーシュウイン兄弟によるミュージカル「トレジャー・ガール」に挿入された曲です。その2年後のミュージカル「ストライク・アップ・ザ・バンド」でも使われていますが、楽譜には「楽しく」という注釈があったので、2回ともアップテンポで歌わて、この曲はホットで速いものだと思われていました。その後、リー・ワイリーがどう解釈したのか、スローなバラードで歌っていたのを聴いて、アイラ・ガーシュウィンは驚いたと言います。「だが、3回聴いてみて彼女の解釈が好きになった」と言っています。それから、この曲は完全なスロー・バラードとして定着しました。「クラッシュ(crush) 」とは本来「つぶす」とか「粉砕」、「殺到」という熱狂的な意味がありますが、「 圧倒する」、「参る」、「降参」、「首ったけ」、「夢中」といったような解釈をされるでしょう。「私はあなたに夢中」または「私はあなたに首ったけ」ということです。この曲は恋人どうしの男女二人が交互に歌う形のものになっているので、女性が一人で歌う場合は、女性の立場で歌いきるように変えられて歌われます。*****●アイヴ・ガット・ア・クラッシュ・オン・ユーI've Got A Crush On You作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1928年たくさんいる男たちは私をつかまえられたらどんなに喜ぶことでしょう。でも誰もできなかったわだけど、あなたはあまりにも粘り強く私のかたくなな心を解きほぐし私は恋に落ちてしまったのそれはとても心地よかったわあなたは大きくて勇敢でハンサムなロミオどうしてあなたが私のものになったのかわからないわあなたが魅力的だったわけではないのにあなたの姿が目に入ったときに私の心はときめいたのよあなたに夢中よ、スウィーティー・パイ昼も夜もため息をついてばかりこんなに胸が高鳴るなんて全く予想もしなかったわやさしく囁いてちょうだい私を想っているって可愛い小屋で一緒に暮らせるかしら?恋に狂った私のたわごとを、世間は許してくれるでしょうだって私はあなたに首ったけなのよ私はあなたに夢中なのよ
July 19, 2005
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『'S Wonderful』(ス・ワンダフル)これは、ガーシュウィン兄弟の作曲で、1927年のミュージカル「ファニー・フェイス」に挿入されました。その中では、アレン・カーンズとアデール・アステアが歌いました。映画にもたくさん使われています。ジャズ・ミュージシャンにとってもスタンダードナンバーとなっていて、非常に多く歌われ、演奏されています。「wonderful」、「marvelous」、「paradise」と言葉を変えて「素晴らしい」ことを何度も言っています。何が「素晴らしい」かと言えば、「あなたが僕を愛してくれていること」と言っています。「’s」とは「it’s」の省略形で、これはアイラ・ガーシュウインが「it’s」の「it」を削って残った「ス」という発音を強調したかったために、わざわざそういう言葉にしたのです。正しい発音の「It's wonderful」、「It's marvelous」、「It's paradise」としてしまったのでは歌の流れが悪くなってしまうということです。そういうことで、この曲はアイラ・ガーシュウィンの詞の力を示した代表的な曲と言えます。この発音のおかげで、歌詞が強く印象に残り、そのおかげでメロディーも生きてくるという、歌詞とメロディーの良い相乗効果を生んでいると言えるでしょう。何にでも「ス」を付けたしつこさが、この曲を印象付けるのにうまく効果を出しています。*****●ス・ワンダフル'S Wonderful作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1927年素敵だ、なんて素晴らしいんだろう君が僕を愛してくれるなんて!とても素敵さ、まるで天国のようだ見ているだけでも好きになってしまう君が僕の人生を輝かせてくれたんだよ僕が浮かれているからって言っても責めないでおくれ幸せいっぱいの時間僕の心は、はしゃぎすぎてオーヴァー・タイム素敵だ、なんて素晴らしんだろう君が僕を愛してくれるなんて!
July 18, 2005
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ジョージ・ガーシュウィンは一度も結婚はしませんでした。しかし、彼はもて過ぎたと言われるくらい、女友達が山ほどいて、しかもみんな美人揃いです。彼の周りには、いつもたくさんの女性がいました。彼は、当時の女性の憧れの人物だったのです。彼と親しかった、かつて美女として鳴らしたマベル・シャーマーやケイ・スイフトも、彼との付き合いや、女性関係について話をしています。ジョージは一人でいる孤独を嫌って、いつも女友達と一緒にいたと言います。彼は一人で仕事をすることも嫌がったので、マベルは毎日彼を訪ねて行って、仕事をしているときは、彼のそばで刺繍などをし、夕方になると一緒に公園でジョギングをしたりしていたと言っています。パーティなどでは、女性が彼の周りを取り囲み、帰りには彼の後を追って、いつも2、3人の女性が家まで付いていったそうです。みんな、なんとかして彼と親しくなりたかったのだということです。そして、ジョージは、いつも女の子用の曲を用意していて、曲の中にその女性の名前を入れて口説いていたとも言っています。晩年彼はビバリーヒルズに豪邸を構え、自宅でしょっちゅうパーティーを開いては、女性たちと遊んでいたそうです。中でも彼がもっとも心を開いていたのはケイ・スイフトという女性で、ケイ自身音楽家で、教養があり、知的でウイットに富む面などで、ジョージををささえていました。彼女には家庭もあり子供もいましたが、夫公認のもとで彼と付き合っていて不倫関係にあったと言います。彼のヒット・ミュージカルに「オー、ケイ!」(1926年)というものがありますが、この「ケイ」とは、ケイ・スイフトのことです。スタンダード・ナンバーの名曲「サムワン・トゥー・ウォッチ・オーヴァー・ミー」は、このミュージカルの中から生まれました。ほかにも、ポーリン・ハイフェッツや、息子アランを生んだと言われたモー・チャールストンとも付き合いがあり、ジュリア・バン・ノーマンとはファンレターから交際が始まり、その娘のナンシーは、自分はジョージの子供だと信じていたと言われます。「ウイロー・ウイープ・フォー・ミー」の作曲で知られるアン・ローネルも、彼に可愛がられた女弟子の一人で、ジョージの紹介でピアノを弾いたり作曲したりしました。
July 17, 2005
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『Someone To Watch Over Me』(サムワン・トゥー・ウォッチ・オーヴァー・ミー) やさしい伴侶を(誰かが私をみつめてる)この曲はジョージとアイラのガーシュウイン兄弟が1926年のミュージカル「オー、ケイ!(邦題:万事円満)」に書かれた曲です。アメリカのミュージカルに初出演したイギリスのミュージカル女優のガートルード・ローレンスが、このミュージカルの中で歌い、大ヒットしました。その後、ジョージ・ガーシュウィンの伝記映画「ラプソディー・イン・ブルー」(1945年)や、ローレンスの伝記的ミュージカル映画「スター!」(1968年)や、その他多くの映画に使われています。つい最近のところでは、SMAP(スマップ)の草なぎ剛が演じる「ホテル・ビーナス」(2004年)で使われました。フランク・シナトラ、リー・ワイリー、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、リンダ・ロンシュタットなど、多くの人に歌い継がれているスタンダード・ナンバーです。この曲はバラードといってゆっくりとしたテンポで歌われるものと決まっていますが、最初ジョージはダンス・コーラスに使うつもりで速いテンポで作曲し、アイラもそのつもりで作詞したのですが、あるときジョージがなにげなくテンポを落として弾き始めたら、二人は顔を見合わせたと言います。これはゆっくりしたテンポで演奏されなければいけないということに気が付いた二人は、それまでとはうってかわってスローなバラードの曲として仕上げたと言ういきさつがあります。「私の心に描いている人をさがしているの。私は森の中で迷子になった子羊。私を見守ってくれる羊飼いはどこなの?私にはいつも見守ってくれる人が必要なの」と、私を見守ってくれる、いまだ見ぬ理想の相手が早く現れくれることを想って歌います。このミュージカルの曲を作っている途中で、アイラは盲腸炎になって入院してしまい、ショーのリハーサルに間に合わせるため、彼の友人のハワード・ディーツに手伝ってもらっていました。この曲の題名は、ディーツがいくつか考えたものの中の一つをアイラが気に入ってそれを付けたということで、アイラが作ったものではないということです。ちなみに、このミュージカルの題名の「オー、ケイ!」の「ケイ」とは人の名前で、彼がもっとも心を開いていた女性のケイ・スイフトのことです。ケイは音楽家で教養もあり、ウイットに富む知的な面などでジョージをささえていました。彼女には家庭もあり子供もいましたが、夫公認のもとで不倫の関係にあったと言います。*****●サムワン・トゥー・ウォッチ・オーヴァー・ミー Someone To Watch Over Me邦題:やさしい伴侶を(誰かが私をみつめてる)作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1926年《ヴァース》恋は盲目と昔から言うわねでも「求めよ、さらば与えられん」とも言うしだからずうっと心に描いていた若者を、私はさがし求めるわでも、あちこちさがしてはいるけれど、まだそういう人は見つけられないのきっと彼とは忘れることができない大きな恋愛になると思うわ結婚して彼のイニシャルを私のものに加えたいわねえ、教えて、この私という迷える子羊の羊飼いはどこにいるの?《コーラス》私が会いたいと想い続けている人がいるのその人は、いつも私を見守ってくれる人だといいなぁ私は森の中で迷子になってしまった子羊なのでも私を見守ってくれる彼の前でならいつも私はいい子でいられるわ女の子たちに、もてはやされるようなハンサムな人ではないかもしれないでも彼こそ私の心の鍵をにぎっている人なのよねえ誰かその人に「もっと急いで」って言ってよそして「私のお願いを聞いて」って伝えてちょうだいああ、どうしても必要なのいつも私を見守ってくれる人が、とても必要なの
July 16, 2005
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『The Man I Love』(ザ・マン・アイ・ラヴ) 私の愛する人(私の彼氏)この曲は、ジョージとアイラのガーシュイン兄弟が1924年のミュージカル「レディー・ビー・グッド」のために書いもので、フレッド・アステアの姉のアデール・アステアがオープニングで歌うことになっていましたが、ショーに合わないということで、1週間でショーから外されてしまいました。ガーシュウィン兄弟は次にこの曲を1927年と1928年の2回ミュージカルで使おうとしたのですが、結局は2回とも使われませんでした。そうこうしているうちに、この曲だけが単独で歌われてあまりにも有名になってしまい、逆に今度はミュージカルで使うことができなくなってしまいました。この曲はブロードウェイのために作られたのに、結局は1度もブロードウェイで使われなかった曲ということになりました。それで、アイラはこの曲を「3度も孤児になった歌」と呼んでいます。この曲が初めて歌われたのは1925年にエバ・ゴースィアーがコンサートで歌ったものだそうです。そして、楽譜が出版され、それをイギリスの人が持ち帰ってオーケストラに演奏させたためにロンドンでヒットしてしまい、次にパリに移ってまたヒットし、1928年になってアメリカでもヘレン・モーガンのレコードがヒットしました。独り者の女性がいまだ見ぬ恋人のことを想い、現れるのを毎日待ち続けているという内容の歌です。1927年の「ショー・ボート」が上演されるまでのミュージカルやレビューは本質的にはコメディーでした。この曲がショーから落とされたのは、女性が理想の男性を夢みるというシリアスな歌の内容が、当時のコメディータッチのミュージカルには合わなかったということでしょうか。しかし、この曲はガーシュウィン兄弟の最高傑作とも言われています。*****●ザ・マン・アイ・ラヴThe Man I Love邦題:私の愛する人(私の彼氏)作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1924年いつか彼が現れるわ、私の愛する人が彼は大きくて強いのよ、私の愛する人はそして彼が私のそばに現れたら彼をひきとめるために、なんだってするわ彼が私を見て微笑むだけで、私のはすべてがわかるのよやがて彼は私の手をとるでしょうそしてすこし変に見えるかもしれないけれど私たちは一言も言葉を交わさないのたぶん日曜日には彼に会えるでしょうそれとも月曜日かしら、でも月曜日ではないかもしれないでも、いつかは必ず彼に会えると思うのたぶん火曜日がその日になるでしょうね彼は小さな家を建ててくれるでしょう、二人でだけの家を私はその家からどこへも行かない、誰が出たいと思うの?そうでしょう?だから、何よりも、何よりも私の愛する人を待ち続けているの
July 15, 2005
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『Fascinating Rhythm』(ファシネイティング・リズム) 魅惑のリズムこの曲も1924年末のミュージカル「レディー・ビー・グッド」のために、ジョージ・ガーシュウィンが作曲し、兄のアイラ・ガーシュウィンが作詞したものです。このミュージカルの中で、フレッド・アステア、アデール・アステアとクリフ・エドワードが歌いヒットしました。ミュージカル「レディー・ビー・グッド」の中でこの曲が始まると、観客は拍手喝さいになったと言います。このミュージカルの成功で、ガーシュウィン兄弟のコンビは有名になり、また、アステア姉弟を一挙に有名にすることにもなりました。この曲は、変拍子のように思わせるユニークなリズムのメロディーからできていますが、アイラはそれに、その内容のとおり「魅惑のリズム」という意味の題名をつけました。この曲のメロディーはとても斬新なものでした。ジョージが先に器楽曲のようなメロディーを作ってしまったので、アイラはこれに歌詞をつけるには至難の業であったであろうと言われていますが、何の不自然さもなくみごとに仕上がっています。しかも、非常にジャズ的なエッセンスに満ちているので、多くのジャズ・ミュージシャンたちに愛されてきました。メロディーに遊び心があるため、実際に変拍子を入れて演奏されることもあります。それにしても、今から80年余り前の1924年、日本では大正の時代に、ガーシュウイン兄弟はエンターテイメントの場にこのような曲を提供し、また、それが大衆に受け入れられたということはすごいことだと感じてしまいます。*****●ファシネイティング・リズム Fascinating Rhythm邦題:魅惑のリズム作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1924年私を魅了するリズム、あなたは私を休ませてはくれない!私を魅了するリズム、あなたのせいで私は震えっぱなしよあなたは、なんて騒ぎをおこすの?、近所の人はみんな知りたがっているわなぜ私が安物の車のように、いつもガタガタしているのかってね毎朝太陽とともに目をさますけれど夜になって気が付くと、なんにも仕事をしていないの以前はべつに気にならなかったけれども、最近のあなたはひどいわよあなたがパタパタと動き始めると、私は最低の気分よ一日くらい休みをとったらどうなの?もういいかげん消えてちょうだいどこか遠くへねえ、ほらさっさとしてよああ以前の私に戻れたらどんなにいいことか私を魅了するリズムよ、お願いだから私につきまとって悩ますのはやめくれない?
July 14, 2005
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『Oh,Lady, Be Good』(オー・レディー、ビー・グッド)この曲は1924年末のミュージカル「レディー・ビー・グッド」のために、ジョージ・ガーシュウィンが作曲し、兄のアイラ・ガーシュウィンが作詞したものです。ミュージカルの名前は「レディー・ビー・グッド」ですが、この曲名は「オー」が付いて、「オー・レディー、ビー・グッド」となっています。このミュージカルは330回続演される大ヒットとなったので、主演の弟のフレッド・アステアと姉のアデール・アステアのアステア姉弟は、ダンサーとしての名声を確立しましたが、ガーシュウィンもジョージとアイラの兄弟が始めて一緒に仕事をしたものだったため、すばらしい作曲家と作詞家のコンビが誕生したという評判を得ました。このショーの音楽は、始めはジョージ・ガーシュウィンを予定していなかったのですが、新しさを吹き込むという意味で、ジョージ・ガーシュウィンに依頼することになりました。そのときジョージは、「現代的な音楽を付けて、まったく新しいミュージカルにしたいが、いい作詞家が見つからない」と父親に話しをしたところ、「アイラとやってみたらどうだ?」と言われて、このコンビが誕生したのだと言います。アイラはそれまでも作詞家として仕事をしていましたが、弟のジョージが有名になってしまったため、その名声にたよった形になるのがいやだったので一緒に仕事をしていませんでしたが、このころにはアイラも名の通った作詞家になってきていたということも、このコンビが実現した要因となったようです。これ以降、ジョージとアイラは一緒に曲を作ることになります。このころのミュージカルは格調の高い音楽や詩を取り入れたヨーロッパ的なものが多い中で、この台本はかなりコミカルで、一見バカげているように思われたそうですが、フレッド・アステアはこの 「オー・レディー、ビー・グッド」を聴いて単なるドタバタ喜劇でない新しさに気付き出演する決心をしたというほど斬新なものだったそうです。それほど、この曲がショーの核心をついていたのか、台本を書いたガイ・ボルトンとフレッド・トンプソンの二人も、この曲を聴いて考え直し、当初違うものに決まっていたショーの題名自体を曲名の方から取って「レディー・ビー・グッド」に変更したそうです。普通、ショーの題名から取って主題曲を作るものですが、こういう逆の現象はまったく異例なことでした。*****●オー・レディー、ビー・グッドOh,Lady, Be Good作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1924年《ヴァース》僕の悲しい話を聞いてくれよひどく悲しい話だけれど本当のことなんだ一張羅(いっちょうら)できめたっていうのに行くとこはなくいつも夜になるとひどく落ち込むんだ陽気なことを見つけなければね、お嬢さんこのままではいられないよ君のような女性といられたらきっと心に花が咲くはずさ、だから・・・《コーラス》ああ、愛らしいお嬢さん、やさしくしてくれないかい?ああ、お嬢さん、やさしくしておくれ僕はひどく誤解されているからだから、お嬢さん、やさしくしてくれないかい?ああ、お願いだから哀れんでおくれ僕はこの大きな街で、ひとりぼっちなんだ森の中におきざりにされた孤独なやつさああ、お嬢さん、だから僕にやさしくしておくれ
July 13, 2005
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『Smebody Loves Me』(サムバディー・ラヴズ・ミー) 誰かが私を愛してるジョージ・ガーシュウィン作曲、B・C・デシルヴァとバラード・マクドナルドが作詞し、1924年、ブロードウェイの*レビュー「ジョージ・ホワイツ・スキャンダルズ・オブ1924」に挿入されて、ウイニー・ライトナーが歌い、大ヒットしました。その後も、この曲はいくつもの映画に使われました。大勢の美女たちが歌い踊るレビューは、アメリカの一大産業となっていました。ジョージ・ホワイトは1919年から1939年まで、13本のスキャンダルシリーズのレビューを上演しましたが、第1回目は128回とあまり成功したとは言えませんでした。ホワイトはそれを音楽を担当したリチャード・ホワイティングのせいだと考えていて、作曲者を代えたいと思っていました。ジョージ・ガーシュウィンは1919年の「スワニー」の大ヒットで、一躍有名作曲家となりました。ガーシュウィンは1920年にホワイトのところへ尋ねて行って、スキャンダルシリーズの音楽に自分を使ってもらえないかともちかけたところ、ホワイトもガーシュウィンの名声を知っていたので、話はすぐに決まったそうです。そして、ガーシュウィンは1920年から1924年までの5年間、ジョージ・ホワイトにスキャンダルシリーズの作曲家として雇われ45曲を書きました。最初は週給50ドルで、少しづつ上がっていったものの最後の年でも週125ドルという、当時としてもかなり安い金額でしたが、彼はブロードウェイでの自分の評判を高めたいと考えていたので、安くても良いと考えていたようです。----------【参考】*レビュー (revue)とは、フランス語で舞台芸能の形式の一つ。フランスのボードビル、イギリス・アメリカのバラエティーから発展したバラエティー・ショー。歌・踊り・コントなどあらゆる舞台芸術・演芸の要素をとりこみ、華麗多彩な展開を見せる娯楽性の強いショー形式のもの。日本では宝塚少女歌劇団が最初に上演した。*****●サムバディー・ラヴズ・ミーSmebody Loves Me邦題:誰かが私を愛してる作詞:B・C・デシルヴァ バラード・マクドナルド作曲:ジョージ・ガーシュウィン1924年誰かが私を愛してるわ誰なのかしら?いったい、どんな人なのか気になるわ誰かが私を求めているわそれがわかったらいいのにその人は誰なのか気がかりだわだから通りがかったどの男の人にも声をかけるのよ「ねえ、ちょっと待って!もしかしたらあなたは私の恋人になるはずなんじゃないの?私はあなたの恋人になる運命なのよ!」とね誰かが私を愛してるわいったい誰なのかしら?そう、もしかしたらそれは、あなたなのかもしれないわ
July 12, 2005
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●「シンフォニック・ジャズ」と「ジョージ・ガーシュウィン」クラシック音楽において20世紀初頭ごろから第二次世界大戦の終わりごろまでの音楽を指すものに、近代音楽と呼ばれるものがあります。アメリカで新しく生まれた音楽としてジャズがあります。一般的にはクラシック音楽とジャズは切り離して語られるものですが、アメリカの近代音楽について考えた場合、このジャズ(最初期のディキシーランド・ジャズやスウィング・ジャズ)と、クラシック音楽を融合させた作曲家としてジョージ・ガーシュウィンが挙げられます。ガーシュウィンはクラシック音楽の作曲にも取り組み、1924年「ラプソディー・イン・ブルー」を発表し、アメリカ音楽のジャズとヨーロッパ音楽のクラシックを融合させた新しい作品として世界的に高く評価されました。そして、この音楽を「シンフォニック・ジャズ」と呼び、この曲はその代表作品ということになりました。「シンフォニック・ジャズ」というのは、ジャズとクラシック音楽の融合された音楽ということなので、クラシック音楽とジャズの双方に存在するカテゴリーということになりますが、ジャズの要素が入っているということで、アメリカ的な香りを感じさせる芸術音楽として扱われています。 「ラプソディ・イン・ブルー」はピアノ独奏と管弦楽のための作品で、ピアノソロが入るため、一種のピアノ協奏曲風な雰囲気もあります。ただし、オーケストレーションはファーディ・グローフェの手によるものでした。ガーシュウィンはオーケストレーションを自分の力でできなかったことをひどく気にしていたようで、ラヴェル、ストラビンスキーなどに教えを請うことまで考えて、師事を申し込みますが、ラヴェルには「既に一流のガーシュウィンなのに、二流のラヴェルになる必要はないでしょう」と言われ、ストラヴィンスキーには自分より収入が格段に多いということで相手にされなかったといいます。ほかにも師事を仰ぎましたが、みんな断られたようです。そこで、ガーシュウィンはオーケストレーションを独学で学び、後に「ピアノ協奏曲へ長調」などの傑作を残しました。
July 11, 2005
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●「ティン・パン・アレー」と「ジョージ・ガーシュウィン」ジョージ・ガーシュウィンを語るときに「ティン・パン・アレー」という言葉が出てきます。それは、ジョージ・ガーシュウィンの音楽は「ティン・パン・アレー」から始まったからです。アメリカン・ポピュラー音楽の始まりと言われる1890年代、ニューヨークは人口300万人を抱える大都市となり、音楽産業の分野でも、ニューヨークの「ティン・パン・アレー」と呼ばれる地域がその中心地となりました。1890年代のアメリカは、ピアノ、バンジョー、ギターなどが大量生産できるようになり、これらの楽器(特にピアノ)が中流家庭に急速に普及していきました。そして、子供の音楽教育がブームとなり、音楽産業のマーケットが拡大すると共に、アメリカン・ポピュラー音楽の作曲家を生み出す環境が、この時出来上がったと言えます。ニューヨークの28丁目、ブロードウェイと五番街にはさまれた通りの一帯は、19世紀末から楽譜(シート・ミュージック)を売る店が軒を並べ、ポピュラー音楽の出版社が集まっていました。レコードやラジオがまだなかったこの時代のポピュラー音楽は、簡単なピアノ・アレンジがほどこされた楽譜が売り出されいて、全米の家庭に大量に入り込んでいました。そして、曲のヒットの目安は、その楽譜の売り上げで計られていました。作曲家をかかえて曲の反応を見たり、楽譜を出版しプロモートするには、ブロードウェイの近くで、全米のエンターテイメントの中心地であるニューヨークが、最適な場所だということです。この一帯ではたくさんの店から、一日中ピアノの音が、あちこちから響きわたっていて、まるで鍋や釡でも叩いているような賑やかな状態だったことから、その音を擬音化して、いつしか「ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)」と呼ばれるようになりました。1910年代から30年代には42丁目から56丁目西の地域に移動していきました。ティン・パン・アレーには新しい曲を求める人たちが、毎日つめかけました。出版社や小売店では、ソング・プラッガーという、曲を売り込む社員がいて、その人たちは朝から店頭に出てピアノを弾いたり、歌を歌ったりして直接客たちに楽譜を売ることから、全米の販売店に出張したり、劇場や酒場に出向いて自社の曲を盛り上げるサクラになったり、有名スターやプロデューサーに売り込みに行ったりということをしていました。1920年代に入って曲のセールス媒体がレコードやラジオによって取って代わるまでは、楽譜の販売をするために、ソング・プラッガーの力が大きいものであり、若手の作曲家や作詞家志望の人たちにとっても、ちょうどいい修行の場所でもありました。ジェローム・カーン、アービング・ヴァーリンといった、アメリカを代表する大作曲家も、始めはこのティン・パン・アレーで、ソング・プラッガーをしながら作曲をしていました。そして、ティン・パン・アレーの音楽出版社に曲を提供していました。こうした背景を受け、1910年代のティン・パン・アレーは数百曲の楽譜のミリオンセラーを出し、楽譜(シート・ミュージック)産業の勢いは、この時頂点をきわめました。ビルボード誌が毎週楽譜のベストセラーを発表するようになったのは1913年のことです。19世紀末から、1920年代くらいのアメリカの初期のポピュラー音楽はここから生まれたのです。ジョージ・ガーシュウィンは、15歳のときに学校をやめて、ティン・パン・アレーのレミック社という音楽出版社のソング・プラッガーとなり、自分たちの出し物のために使う曲を探しにくる歌手などのために、毎日朝から一日中、新曲をピアノで弾いて聴かせるデモンストレーターの仕事をしていました。そして、「彼が一番うまく曲を弾きこなす」と、大勢の客にひいきにされる存在になりました。ガーシュウィンと、ブロードウェイやハリウッドのミュージカル・スターのフレッド・アステアとが出会ったのも、このレミック社でした。アステアは姉のアデーレと*ボードビルのチームを組んでいて、ニューヨークにいるときは、よくティン・パン・アレーに来て、出し物に使えそうな曲を探していました。その曲が出し物として当たってヒットすれば、そういう曲を手に入れた歌手は有名になり、各地の公演によって曲が広まるので、他の歌手たちも取り上げるようになると共に、その曲の楽譜の売り上げが上がり、出版社も儲かるといった仕組みになっていました。ガーシュウィンは、そのうちブロードウェイの大手のハームス・ミュージック社と作曲家として契約をし、1919年にジョージ・ガーシュウインの作曲、アーヴィング・シーザーの作詞した「スワニー」という曲は、アル・ジョルソンがボードビルやミュージカルに使い、レコードも大ヒットしたために、その楽譜は1年間で100万部も売れました。しかし、エジソンによって既に発明されていたレコードはこの時代に改良を加えられ、1910年代は、まさにこのレコード産業が楽譜産業を脅かしていた転換期でした。そして、そのうちポピュラー音楽の媒体がレコードやラジオになっていくようになると、ソング・プラッガーの重要性も減少し、放送局やレコード会社、映画会社などに取って代わられ、ティン・パン・アレーも、その地域的なメリットが失われていきました。その後、1930年代頃までアメリカン・ポピュラー・ソングを呼ぶときに、「ティン・パン・アレー・ソング」という呼び方をされることがありますが、これは、大量に消費される取るに足らない曲という軽蔑の意味として使われていました。しかし、最近では古き良き時代の当時のポピュラー・ソングの総称として使われるようになりました。そして、その中で今でも歌われ続けている曲が、スタンダード・ナンバーとなったのです。----------【参考】*ボードビル(vaudeville) とは、歌・踊り・パントマイムなどが間に入る風刺的風俗劇で、大衆演芸のこと。もともとはフランスの地名で、その地方ではアカデミック(文部省推薦)なものと正反対の民衆の文化(vaude-ville)が栄えていた。そこからいわゆる大衆演芸という意味がでてきた。シェークスピアも、もともとはボードビルの一つだった。
July 10, 2005
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『Swanee』(スワニー)アーヴィング・シーザーが作詞、ジョージ・ガーシュウィンの作曲で、1919年に作られた曲です。もともとこの曲は、当時はやりのダンス音楽を作ろうとしたもので、シーザーが語るには、シーザーとガーシュウィンは、ほんの10分くらいで書き上げたと言います。ニューヨークのキャピトル劇場で映画の前にこの曲を大々的に紹介しましたが、反応はひどいものでした。しかし、当時大人気だった歌手のアル・ジョルソンが、この曲を聴いて興味を持ち、コンサートで歌うととても良い反応を得られました。そこで、1918年から彼が主役で行われていたミュージカル・ショーの中でも、この曲を取り入れて歌いました。そして、1920年1月にジョルソンはこの曲をレコーディングしたところ、これが大ヒットとなり、一年間でレコードが200万枚、楽譜が100万枚売れ、シーザーとガーシュウィンの著作権料も一年で各々約1万ドルという当時としては大金を得ることになりました。ガーシュウィンは21歳の時で、この後も38歳までの間たくさんのスタンダードナンバーを作るのですが、それらは、長い間の累計ではものすごい枚数のレコードを売るものの、この曲ほどのヒットはありませんでした。「スワニー」はジョージ・ガーシュウィンの最大のヒット曲となったのです。この曲の大ヒットによって、ガーシュウィンは一躍若手作曲家としてトップに躍り出ることになりました。アル・ジョルソンもこの曲があまりにもヒットしたので、この後、もう一曲ガーシュウィンの曲を取り上げて歌いましたが、これはあまりヒットしなかったため、曲名を変えて再度歌ったのですが、やはりヒットはしませんでした。ジョルソンは「スワニー」を「ザ・ジョルソン・ストーリー(’46)」や「ラプソディー・インブルー(’46)」などの映画の中でも歌っています。ジュディー・ガーランドもこの曲を、映画「ア・スター・イズ・ボーン(’53)」で歌っています。*****●スワニーSwanee作詞:アーヴィング・シーザー作曲:ジョージ・ガーシュウィン1919年スワニーどんなにおまえを愛していることか愛しい僕のスワニーよディキシーの仲間のところへ帰れるのならば僕は全てを捨ててもかまわないさママも僕の帰りを待ちながらスワニーのほとりで祈ってくれているだろうあのスワニーのほとりにたどり着いたのなら北部の人たちとはもう会うことはないだろうスワニー、スワニー僕はスワニーに戻るんだママ、ママ僕は故郷の懐かしい仲間たちが大好きさ僕はスワニーの懐かしい仲間たちが大好きなんだあのスワニーのほとりにたどり着いたのなら北部の人たちとはもう会うことはないだろう
July 9, 2005
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きょう、イオン・グループでは全国390店舗とインターネットで、32型液晶テレビを10万円で、限定1万台を販売したらしい。これは、普通は20万円以上するので半額以下だと言える。各店舗、先着約100台が10分位で完売したとのこと。まあ、買えた人はみんなきのうから並んでいたと言うのだから、開店してから行っても買えませんね。このテレビを作っているメーカーは台湾のTECO(トウゲンデンキ)というところだそうだ。部品はほとんど台湾製で、大量生産をしているために可能になった価格だと言う。イオンでは将来的に、このような格安テレビを常時販売することを考えていると言う。日本のメーカーの高いものは、ますます売れなくなりますね。
July 8, 2005
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『Rhapsody In Blue』アメリカと言えばニューヨーク、ニューヨークと言えばマンハッタン、マンハッタンと言えば高層ビルが立ち並ぶ光景が思い浮かびます。そして、そこに合う音楽といえば、ジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」ではないでしょうか。それほど、この曲は、いかにもアメリカを象徴する曲と言えるでしょう。ウディー・アレンの映画「マンハッタン」のオープニングでも流れてきます。ジョージ・ガーシュウィンが1924年に作曲した「ラプソディー・イン・ブルー」は、彼の多くの作品の中でも、もっとも重要なものの一つです。この曲は、クラシック音楽でありながら、ジャズ的要素が大胆に用いられものに仕上げられ、クラシック史上でも画期的な作品として高く評価されています。クラシック界出身で、ジャズの重要性に気づいたポール・ホワイトマンは、ディキシーランド・ジャズをいち早くニューヨークに持ち込み、自らの率いるオーケストラで演奏し、大ヒットさせました。ホワイトマンはジャズを白人向けにわかりやすく整理して、オーケストラによるダンス音楽として広めることに成功しました。彼のヒットさせたオーケストラによる音楽が、後のビッグバンド・ジャズの原型となり、スイングジャズへと発展していきました。そんなポール・ホワイトマンは、ジョージ・ガーシュウィンの作る音楽に注目し作曲の依頼をしました。1924年2月12日、リンカーン大統領の生誕記念日に、ホワイトマンは「アメリカの新しい音楽の試み」というコンサートを企画し、このコンサートで数々の作曲家による作品が発表されました。人々は新しいアメリカ音楽の誕生を期待して集まっていました。しかし、これといった作品がないままにプログラムは進み、しだいに観客は飽きてきました。そして、最後に演奏されたのが、ポール・ホワイトマンがジョージ・ガーシュウィンに依頼した、「ラプソディー・イン・ブルー」だったのです。この曲はクラリネットのイントロで始まり、ピアノをソロ楽器とした協奏曲風の曲で、ジャズ的要素を大々的に取り入れたものとなっていて、ピアノはガーシュウィンが自ら演奏しました。客席を見たガーシュウィンは愕然としたそうです。ストラビンスキーやラフマニノフといった、当時のクラシック音楽界の大物が顔をそろえていたのですから、緊張と不安で、いてもたってもいられなくなったと言います。しかし曲が終わると、いままでの空気がいっきに変わり、観客は総立ちになって、この新しい音楽に拍手を送ったのでした。これが、クラシック作曲家としてのジョージ・ガーシュウィンが誕生した瞬間です。この曲はジャズとクラシックを融合させた、もっとも早い試みのひとつだと言われています。ストラビンスキー、ラヴェル、バーンスタインといったクラシックの音楽家たちにジャズを認めさせただけでなく、これによって、ジャズはクラシック音楽にも影響を与えることになり、ヨーロッパでも高く評価されたことで、アメリカの音楽を世界に認めさせることにもなりました。この「ラプソディー・イン・ブルー」には、さまざまな音楽の要素が入っていて、しかも、曲のどこの部分を聴いても楽しめるという構造のスタンダードナンバーとなりました。それは、まるでニューヨーク、アメリカを象徴するかのような音楽になったのです。ジョージ・ガーシュウィン、25歳の時でした。
July 7, 2005
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●アメリカは黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル)、ブラジルはサンバアフリカから黒人をつれてきて奴隷にしたとしては同じ、アメリカ合衆国とブラジルの両国。しかし、黒人音楽のルーツの形にはそれぞれ違いがあります。アメリカ合衆国とブラジル、どちらも奴隷制を取ってきた国ですが、現在の黒人音楽のルーツには違いが見られます。最も違うのは、ブラジルではサンバのように様々な打楽器を使った音楽が特徴的であるのに対して、アメリカ合衆国では黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル)のような歌の形として、黒人音楽のルーツがあるということです。ブラジルでは黒人文化にいく分寛容な態度を取っていたのに対して、アメリカ合衆国では黒人文化に弾圧的だったという違いがあります。それは、カトリックとプロテスタントという宗教上の違いもさることながら、ブラジルを植民地化したポルトガル人が、異文化との混交の歴史を持っていたことが大きいのではないかと思われます。一方で、アメリカにおいては黒人に対する嫌悪感を見出すことが出来ます。たてまえは別として、本質的には他の人種に対して寛容ではないと言えるでしょう。実際、今日の両国における人種差別の実態においてもその違いは歴然としています。アフリカにはトーキング・ドラムという楽器があります。なぜ、トーキング・ドラムという名前なのかというと、文字通り話すことが出来るからです。それは、音調言語と呼ばれる単語や文章が高低2つのピッチで構成されているアフリカの言語を表現することの出来るドラムなのです。アメリカ合衆国において黒人に打楽器を使わせなかったのは、打楽器を使って遠方と反乱のことなどの話をされたくなかったためだということです。実際、このトーキング・ドラムの音は、邪魔になるような音がほとんど無い夜間や早朝などには10kmも届くと言われています。また、アメリカ合衆国ではアフリカの歌(ワークソングのような形態のものでも)も禁止の対象とされることもありました。そのため、黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル)などを歌うときは、白人に分からないような場所に固まって、かくれて歌われていたのです。一方で、ブラジルを植民地化したポルトガルは、イベリア半島の歴史を見れば分かるように、キリスト教徒とイスラム教との間でその支配権を争った時代がありました。イスラム教はアフリカにおいて強い影響力をもち、実際、黒人奴隷の中にはイスラム教徒がいた事実もあるそうです。そのイスラム教徒が、アフリカ側からイベリア半島に進出してきたために、アフリカの文化等が持ち込まれ様々な影響をもたらしたと考えられます。そのため、他文化への理解とまでは行かなくとも影響はあったと言えます。実際、装飾タイル、噴水などはその影響を受けたものです。また、排他的なプロテスタントでは無く柔軟性があるカトリックは、植民開始時から積極的に先住民族の文化を吸収していきました。様々なインディオの言葉は、今日でもブラジルの中で使われています。ポルトガル人の文化の多様性は、混血に寛容で、黒人文化の保護にもある程度努めたと考えられます。このような理由から、太鼓と歌が大きな比重を占めているアフリカの音楽が、アメリカでは主として歌が伝わり、ブラジルには双方が伝わったという違いが見られるということです。
July 6, 2005
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●アントニオ・カルロス・ジョビンの音楽のほとんどは、ボサノヴァとは何の関係もないものです。『アントニオ・カルロス・ジョビン ―ボサノヴァを創った男』『ボサノヴァを創った男』とされているアントニオ・カルロス・ジョビンは、彼自体が、すなわちボサノヴァといったイメージが強いものです。しかし、ジョビンは50歳を過ぎた頃に、「僕の音楽の80パーセントは、ボサノヴァとは何の関係もないものだ」と発言しています。この言葉の中には、自分の音楽が世界に認知された、ポップス音楽としての「ボサノヴァ」というジャンルにカテゴライズされることへの拒絶を示しているように思います。現実に、交響曲など全くボサノヴァではないものもたくさん作っています。そして、ジョビンはいつもこう言っています。「私は私の音楽をやってきただけです」彼は生涯、自分の好きな音楽を作り出すだけだったのです。彼は若い頃から「ザ・マン・アイ・ラブ」「ナイト・アンド・デイ」「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン」「ラブレター」などといったアメリカン・スタンダード・ナンバーを聴いて過ごし、死ぬ直前にピアノの上に置かれていた譜面が、これも有名なスタンダード・ナンバーの「ゼア・ウイル・ネバー・ビー・アナザー・ユー」であったといいます。これらの曲はみんな、もともとは素敵な歌であり、ジョビンもそのようなスタンダード・ナンバーとしての歌と同じように、自分の音楽を響かせていたのではないでしょうか。もう一人の『ボサノヴァを創った男』として忘れてはならないジョアン・ジルベルトも、「自分のやっている音楽はサンバである」と言っています。ブラジルでは、もはやボサノヴァという音楽は完全に過去の音楽になっています。ごく一部の人達が今もやってはいますが、主流はMPB(ブラジル・ポピュラー・ミュージック)というものです。しかし、ジョビンの曲は今もなお、スタンダード・ナンバーとして生き続けているのです。
July 5, 2005
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●15歳少年、無免許飲酒運転でパトカーに追われ赤信号無視、5人死傷4日午前0時ごろ、神奈川県相模原市古淵の国道16号交差点に、パトカーに追跡されていた同市在住の会社員の少年(15)運転の軽乗用車が赤信号を無視して進入。右側から走ってきたバイクに接触後、左側から来た乗用車の側面に衝突した。 この事故で、乗用車を運転していた同市在住、建設作業員 木村猛さん(33)が全身を強く打つなどして死亡、少年が腰の骨を折り重傷。バイクに乗っていた同市在住の男性美容師(23)と少年の車に同乗していた少年(19)、少女(15)の計3人も重軽傷を負った。 運転していた少年は「酒を飲んでおり、無免許なので逃げた」と供述しているという。相模原南署は少年の回復を待ち、業務上過失致死容疑で逮捕する方針。 まったくこういうことには、たまらなく憤りを感じる。自分が悪いことをして見つかりそうになって逃げたために、バイクに乗っていた人を傷つけ、たまたまそこを通りかかっただけだった、乗用車を運転していた人を殺してしまったのだ。これで「業務上過失致死」なのだから、最高刑でも懲役5年ということだ。
July 4, 2005
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『Wave』(ウエイヴ)作詞、作曲共にアントニオ・カルロス・ジョビンが1967年に書いたボサノヴァ曲です。バサノヴァの曲はポルトガル語の歌詞に対して、だれかアメリカの作詞家が英語の歌詞をつける、というのが一般的な中、これはジョビン自身が最初から英語の歌詞をつけています。今ではこの曲は、ジャズのスタンダード・ナンバーとしても定着しています。「波がこっちへやってくるのが僕らにはわかる。あとはその波をとらえればいい。僕を愛することを恐れてはいけない。二人で一つの夢を見れば、寂しさなんてなくなる。」「二人が結ばれる運命の波がこっちにやってくるから、あとはそれを逃がさないように、つかまえるだけだ」という内容です。*****●ウエイヴWave邦題:波作詞(英詞):アントニオ・カルロス・ジョビン 作曲:アントニオ・カルロス・ジョビン1967年そう、目を閉じてごらんそうしたら感じとれるだろう君の心だけ知ってほしいということを二人で一つの夢を見れば、寂しさなんてなくなるのさうち消そうとしても無駄なことさ高い荒波に向かうことなどやめたほうがいい空の月や星にも逆らってはいけないそして僕にも二人で一つの夢を見れば、寂しさなんてなくなるのさ君と始めて会ったのは3時半だったが君の目が僕を捕まえた時、全ては永遠になったのさもう今、その波がこっちへやってくるのが僕らにはわかるあとはその波をとらえればいいそして、僕を愛することを恐れてはいけない二人で一つの夢を見れば、寂しさなんてなくなるのさ
July 4, 2005
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●『Chega De Saudade』(シェガ・ジ・サウダージ)ブラジル・ポルトガル語の意味『シェガ・ジ・サウダージ』という曲をもう一度考えてみます。この「シェガ・ジ・サウダージ(Chega De Saudade)」という曲はブラジル音楽の上でも今までのものと違う新しいボサノヴァと呼ばれる音楽の誕生という点で重要な曲ですが、この題名自体も、ブラジル人にとっては深く、そして重く、大きな意味を持つものでしょう。そして、ボサノヴァを語る上でも、非常に意味深いものです。ポルトガル語には2種類あって、ポルトガル語を公用語とする国の中でも、ポルトガルで使われるポルトガル語と南米であるブラジルで使われるポルトガル語では違いがあります。ブラジルで使われているものは、「ブラジル・ポルトガル語」と呼ばれ、発音を含め微妙に違うということです。本屋に行っても、それぞれ別のものとして売られているのです。「saudade」という言葉は、日本語にすると普通「郷愁」というように訳されます。ポルトガルで使われるポルトガル語では「サウダーデ」と発音し、確かに「懐かしさ」や「やるせない想い」をさす言葉ですが、ブラジル・ポルトガル語では「サウダージ」と発音し、もっと切ない思慕感情をさし、この感情には悲しみの涙が伴うほどのものだそうです。それは、アフリカから無理やりつれてこられた黒人や、白人に支配されることになった先住民が感じる、切ない心情がこのブラジルの「サウダージ」の根底にあるということです。単語のつづりは同じでも、ブラジルの「サウダージ」は、一般的なポルトガル語とは質が違うものだと言えます。心の中ではすぐ近いところにあり、片時も忘れることのできないのに、実際の距離は遠くてどうにもならないという対象への想い、というのが「サウダージ」ということです。それが現代では、なんらかの理由ではなればなれになっている夫婦、恋人、愛する人への切ない想いにもサウダージが使われ、歌にもひんぱんに出てくる言葉で、サンバやサンバ・カンサゥン(怨演{えんか})というブラジル音楽の根底にあるやるせなく悲しい感情もサウダージということで、ブラジル音楽を理解する上では、きわめて重要な情感を表す言葉であると言えます。「シェガ・ジ・サウダージ」を直訳すると「サウダージなんてもうたくさんだ!!」という意味で、「想い出なんてもうたくさん!!」とでも言えばよいのでしょうか?要するに、今までの「サウダージ」との決別をも意味するものではないでしょうか。「過去のセンチメンタルな想いは捨てて、新しく素晴らしい未来を見ようよ」とも言っているように聞こえます。「想いあふれて」という邦題からだけでは、ちょっと飛躍しすぎてしまっているため、「サウダージ」の意味が本当にわからないと理解しにくい題名と言えます。そう考えると、この「サウダージ」は、アメリカ黒人の「ブルース」の意味合いに非常に近いと言えるのではないでしょうか。ですから、英題では「ノー・モア・ブルース」となっていて、「ブルースはもうたくさんだ!!」という意味になるのでしょう。歌詞の内容は、ポルトガル語オリジナルのものと英語版のものとは違いがあります。ところで、日本では「サウダージ」や「ブルース」に当たるものは何なんでしょうかね?ある人は津軽三味線にそれを感じるとか言っていましたが、「民謡」、「演歌」・・・?。日本人の心の歌って何なんでしょうかね?日本人は、奴隷のような経験はないので、そういった感情というものは本当には理解しがたい部分があるのではないでしょうか。*****【オリジナル】●シェガ・ジ・サウダージ Chega De Saudade作詞:ヴィニシウス・ジ・モライス作曲:アントニオ・カルロス・ジョビン1958年【ポルトガル語オリジナル歌詞の訳】悲しみよ僕は彼女に訴えるおまえなしではダメなんだとお願いだから戻ってきておくれさもないと僕はもうこれ以上生きてはいけない想い出なんてもうたくさんだ!(シェガ・ジ・サウダージ)彼女なしの世界なんて考えられないこの世のどんな美もありえない僕の中に終わりがなく、あるものは悲しみと憂うつだけ彼女が戻ってくれたのならなんて素晴らしいことだろう海に泳ぐ魚の数よりもたくさんのキスをあげるよこの両腕に、しっかりと彼女を抱きしめてなにも言わずにその身体のぬくもりを深く深く感じるだろうに飽きるほど抱擁し、キスをして愛撫の雨を降らしてあげられるのにそんな生き方はさせないよ僕と離れて生きるなんて独りになどさせはしないそんな生き方はやめるんだ僕と離れて生きるなんて---------【アメリカ版】●ノー・モア・ブルースNo More Blues 英語版作詞:ジョン・ヘンドリックス ジェシー・キャヴァノー 作曲:アントニオ・カルロス・ジョビン1962年【英語版歌詞の訳】もう、悲しむことはない、家に帰るんだもう悩みもおわりだ、さまよったりしないと約束するよ我が家こそ心の住家だおかしなことに僕の心はずっとそこにあったんだもう、涙もため息もおわりさそして怖くもない、もう、さよならも言わない旅が僕を呼んでも 今度は誓って断るさ故郷に落ち着けば もう、悲しむことはない家から遠く離れているときはいつでも 僕の心は家に向かっているどんなときも 故郷に向かっているしあわせを求めて世界中を旅してまわったけれど僕がみつけたしあわせは故郷にあったもう悲しみはいらない、故郷に帰るからなんの借りもない、もう放浪は卒業したのだからさあ、故郷に落ち着こうそして、自分の生活をし、家を建て、妻となる人を見つけよう故郷に落ち着いたらもう悲しみはない、しあわせ以外に何もない故郷に落ち着けば もう、悩むことはない
July 3, 2005
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『How Insensitive』(ハウ・インセンシティヴ) この曲は、ヴィニシウス・ジ・モライスの作詞、アントニオ・カルロス・ジョビンの作曲で、1961年に作られたものです。英語の歌詞は、いつものようにノーマン・ギンベルがつけています。アメリカ版の始めての録音は1963年で、アルバム「ジャズ・サンバ・アンコール」に収録されています。その後、アストラッド・ジルベルトなどが英語の歌詞で歌っています。「Insensitive(インセンシティヴ)」とは「無神経」とか「無感覚」といったような意味で、曲名の「How Insensitive」とは「なんと無神経な」といったことになるでしょう。「なんと無神経な」というのを、邦題では「お馬鹿さん」としたのでしょうか?歌詞の内容を見ると、「お馬鹿さん」という感じはします。「どうすればよかったのだろうか?恋が終わったときに、何ができるというのだろう?」英語の歌詞はオリジナルのヴィニシウスの歌詞にやや似ているという程度で、完全な英訳というわけではないようです。*****●ハウ・インセンシティヴ 英題:How Insensitive 邦題:お馬鹿さんポルトガル語原題:Insensatezオリジナル作詞:ヴィニシウス・ジ・モライス英語版作詞:ノーマン・ギンベル (1964年)作曲:アントニオ・カルロス・ジョビン1961年僕は、なんと無神経な男に見えたことだろうあの人が僕に愛してると言ったときあの人が心をこめてそう言ってくれたとききっと僕はどんなことにも心を動かされることのない冷たい人間に見えてしまったのだろう振り向いて黙って冷たい視線を投げかけただけだなんてなんて冷たい男だろうって彼女は思ったことだろうなにを言えばよかったのだろうか?恋が終わったときに、なにが言えたのだろう?あの人は、もう今は去ってしまったそしてあの最後の表情の思い出があるだけで僕はひとりぼっちぼんやりとして、ひきつったような悲しげな顔が今でも僕の目の前に見えるようだ恋に破れた心のすべてがあの最後の表情に見えるようだ振り向いて黙って冷たく見つめるだけだなんてなんて冷たい男だろうって彼女は思ったことだろうどうすればよかったのだろうか?恋が終わったときに、なにができるというのだろう?
July 2, 2005
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『Corcovado』(コルコヴァード)Quiet Nights Of Quiet Stars(クワイエット・ナイツ・オブ・クワイエット・スターズ)作詞、作曲共にアントニオ・カルロス・ジョビンが1960年に書いた曲で、ボサノヴァ・スタンダード・ナンバーとして、ジャズ・ミュージシャンにも多く演奏されている曲です。曲名の「コルコヴァード」とは、ブラジル、リオデジャネイロのコパカバーナ海岸の近くにある、標高710メートルの山の名前からきているということです。その山頂には、高さ30メートルで両手を広げているキリスト像があり、リオの観光名所となっているそうです。このキリスト像はアメリカ、ニューヨークの「自由の女神」の方を向いているので、キリストが自由の女神をはらませてしまい、「どうしてくれるの」と問い詰められたところ、両手をひろげて「どうしようもないよ」と言っているのだ、と リオの人たちは説明してくれるそうです。「窓の向こうにはコルコヴァードの丘が見え、キリスト像が美しく微笑みかけている」オリジナルの歌詞には、このコルコヴァードの丘やキリスト像のことが入っていますが、英詞の方にはそのことがなくなっている以外は、ほぼ似たような内容になっています。「イパネマの娘」などが入っている、1963年のアルバム「ゲッツ/ジルベルト」に収録されていて、アメリカでは、このアルバムが大ヒットすることになりました。*****●コルコヴァードCorcovado 英題:Quiet Nights Of Quiet Stars(クワイエット・ナイツ・オブ・クワイエット・スターズ)邦題:静かな夜作詞:アントニオ・カルロス・ジョビン作曲:アントニオ・カルロス・ジョビン英語版作詞:ジーン・リーズ (1963年)1960年星がみちている静かな夜私の弾くギターのやわらかな和音が私たちをつつむ静けさの中をただよってくる黙ってものを想い、静かに夢をいだきおだやかな小川のふちを、静かに散歩するそして、あの山と海を見渡すことのできる窓があるなんと素晴らしいこれこそ命の火の最後のきらめきまで私があなたと二人っきりですごしたいと望んでいた場所にほかならない途方にくれ、孤独にさいなまれ人生は苦しく悲惨なたわむれでしかないと思っていた私が今、生きていく意味を見つけることができた愛する人あなたといっしょに
July 1, 2005
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