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『Golden Earrings』(ゴールデン・イヤリングス)【黄金の耳飾り】 この曲は、ヴィクター・ヤングの作曲、ジェイ・リヴィングストンとレイ・エヴァンスの作詞、1946年の作で、翌年、1947年の映画「Golden Earrings(邦題:黄金の耳飾り)」に使われました。その中では、主演のマレーネ・デートリッヒが歌いました。映画の内容は、イギリスの情報将校がデートリッヒ扮(ふん)するジプシー女性の助けをかりて、ドイツのナチから毒ガスの製法を盗み出すというもので、この曲は、ジプシー女性が歌う曲として書かれたものです。ペギー・リーが歌ったレコードがヒットしました。*****●ゴールデン・イヤリングスGolden Earrings【黄金の耳飾り】 作詞:ジェイ・リヴィングストン レイ・エヴァンス作曲:ヴィクター・ヤング1946年 《ヴァース》ある日、一人のジプシーが金の耳飾りを見せて私にそれを買うようにすすめたたいへんめずらしい輝きを持った古い耳飾り彼はそれが私に不思議な魔力をもたらすと断言した《コーラス》ジプシーが信じている話がある恋人が金の耳飾りをしていたらその彼は自分のものになるのだというしかし、この話しはほとんど知られていないこの金の耳飾りを私がつけると愛する人が私のもとへやってくるという暖炉の燃える火のそばで耳飾りはきらめく炎とともに輝いて欲望が心のうちにそっとささやきかけるだから私のジプシーになってちょうだい恋の光のように導いてもらい今夜はこの金の耳飾りの魔力に身をまかせましょう
September 30, 2005
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『Love Letters』(ラヴ・レターズ)【ラヴ・レター】この曲は、ヴィクター・ヤングの作曲、エドワード・ヘイマンの作詞で、1945年の映画「Love Letters(ラヴ・レターズ)」の主題歌として使われました。この曲は、アカデミー主題歌賞にノミネートされましたが、発表された当時は特に大きなヒットではありませんでした。1962年のケティー・レスターのロック調の歌でヒットしてから多くの歌手が歌い始めたもので、エルヴィス・プレスリーやナット・キング・コールなど広いジャンルのシンガーに歌われてきており、今では広く知られるスタンダード・ナンバーになりました。しかし、ヴィクター・ヤングは、この曲がヒットする前の1956年にこの世を去っています。「あなたからのラヴ・レターが離れている二人を結びつける。手紙の内容は一字一句暗記してしまった。そして、手紙の最後のあなたのサインのところにはキスをして、また最初から読み直す」甘美なイメージの「ラヴ・レター」ですが、映画のほうは、戦地から送られた代筆のラヴ・レターが生む悲劇を描いた作品。***** ●ラヴ・レターズLove Letters【ラヴ・レター】作詞:エドワード・ヘイマン作曲:ヴィクター・ヤング1945年《ヴァース》空に星がなく夜は月が出ていなくても僕の心の中には光があるあなたが僕を愛しているということを僕の心の底では知っているからなぜかというと愛してるとあなたが言ってくれたからさ《コーラス》あなたの心のうちを綴ったラヴ・レター離れていても僕たちの気持ちを近づけてくれるあなたが手紙に書いてくれる愛があるから僕は夜も少しも寂しくない僕は一字一句暗記してしまうあなたのサインのところにはキスをしてねそして、また最初から読み直すんだあなたの心のうちを綴ったラヴ・レターを
September 29, 2005
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『Stella By Starlight』(ステラ・バイ・スターライト)【星影のステラ】この曲は、ヴィクター・ヤングの作曲、ネッド・ワシントンの作詞で、1944年のオカルト映画「The Uninvited(邦題:呪いの家)」の主題曲として使われました。最初、歌詞はなく、映画自体はかなり好評だったようですが、この曲のほうはあまり話題にはなりませんでした。しかし、1946年に、ヴィクター・ヤング・オーケストラのレコードがヒットして注目されるようになり、その年にネッド・ワシントンにより歌詞もつけられ、今では有名なスタンダード・ナンバーになりました。映画は、美女を死の世界に誘い込もうとする悪霊と、美女を護る善霊、 彼女を愛する若い作曲家の戦いという、いかにもオカルトっぽいものですが、歌詞のほうは、映画の内容とは無関係のもので、「ステラ」という女性を自然の美しさにたとえて称賛するという、美しいメロディーに合った美しい歌詞です。なお 「Stella」 は星を意味する言葉のスペイン語(estella)からきている名前なので、曲名の「Stella By Starlight」は、「星影のお星さん」みたいなことになるようです。32小節構成の一般的なスタンダード形式で、美しいメロディーが印象的ですが、めまぐるしく転調を繰り返すもので、ジャズ・プレーヤーにとっては演奏のしがいのある曲と言えるでしょう。その辺も、この曲が好まれて演奏される理由になっているのでしょう。また、もともとインストゥルメンタル・ナンバーとして作られたものなので、音域が「1オクターブと完全5度」とかなり広く、シンガーにとっては難曲中の難曲と言えるものです。*****●ステラ・バイ・スターライト Stella By Starlight【星影のステラ】作詞:ネッド・ワシントン作曲:ヴィクター・ヤング1944年1946年(歌曲として)《ヴァース》星の光に包まれたステラを見たことがあるかい?月明かりを髪に浴び一人たたずむ彼女を星の光に包まれたステラを見たことがあるかい?こんなにめずらしい狂喜をいつ知っていたって言うんだい?《コーラス》いつも春のように小鳥がさえずるあの歌は歳月を経っても変わらないそっと寄り添う恋人たちを岸辺のさざ波がつつむ夕暮れどきの小川のせせらぎ壮大なシンフォニーのような星の光のステラそれは夢ではない光の中のステラ私は心底思うステラはすべてで、それ以上のものステラはこの地球上で私にとってのすべてステラはみんなが崇拝するすべてだということ
September 28, 2005
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『Beautiful Love』(ビューティフル・ラヴ)この曲は、ヴィクター・ヤング、ウェイン・キング、エグバート・ヴァン・アルスタインの三人の作曲で、ヘイヴン・ガレスピが作詞したものです。1931年の映画「Sinng s Jingle」に挿入されて、知られるようになった曲です。ジャズ・ファンには、ビル・エヴァンスの演奏で有名になった曲と言えるでしょう。この曲のセンチメンタルな雰囲気は、まさにビル・エヴァンスの世界と言えるものです。「Love」には「愛、または恋」という意味だけではなく、「愛する人、または恋人」という意味もあり、この曲の「Beautiful Love」の「Love」には「愛」ということだけではなく、歌詞の内容からは「恋人」という意味にもとれるところがあります。「Beautiful Loveに、私の心は激しくゆさぶられる。私の夢はかなうのかしら?」と、センチメンタルに歌われます。*****●ビューティフル・ラヴBeautiful Love作詞:ヘイヴン・ガレスピ作曲:ヴィクター・ヤング ウェイン・キング エグバート・ヴァン・アルスタイン1931年美しい愛、あなたはとても神秘的なもの美しい愛、あなたは私に何をしたの?あなたがやってくるまでは、私は何不自由なかったというのにあなたの歌に私の心は激しくゆさぶられてしまう美しい愛、私はあなたのパラダイスをさまよってきた愛をさがし求めて、夢をかなえるために天国にまで手をさしのべた、あなたをたよりに美しい愛、私の夢はかなうのかしら?
September 27, 2005
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ヴィクター・ヤングは、映画音楽の作曲家として数多くの名曲を生み出し、今では、それらはスタンダード・ナンバーとしてみんなに親しまれているものです。また、編曲や音楽監督としても活躍し、自己のオーケストラを率いての演奏も残しており、ヴィクター・ヤング・オーケストラの演奏する「エデンの東」は驚異的なヒットになりました。1900年8月8日、アメリカ、イリノイ州シカゴ生まれ。1956年11月11日、カリフォルニア州パーム・スプリングスで死去。享年56歳----------ヴィクター・ヤングは、1900年8月8日、アメリカ、イリノイ州シカゴで、ポーランド系ユダヤ人のオペラ歌手の息子として生まれました。この父親は、オペラ歌手といっても巡業歌劇団のコーラス員だということでしたが、音楽が彼に与えた影響は大きいものであったことでしょう。6歳のころよりヴァイオリンを習い始めますが、10歳の時に母親が急死したため、ポーランドのワルシャワにいる祖母のところで育てられることになりました。この不幸が彼に音楽の才能を伸ばすきっかけになりました。彼はワルシャワ音楽院に入学し、正式に音楽を学び、ヴァイオリンの腕をみがきました。そして、13歳の時にはすでにワルシャワ・フィルハーモニーに入団し、ソリストとしてデビューするほどの天才ぶりを発揮しています。そして、ロシアでコンサート活動をしていたのですが、第一次世界大戦に巻き込まれて彼の活動予定はメチャクチャになってしまいました。1920年、やっとのことでアメリカに逃げ帰ってきました。再びヴァイオン奏者としてアメリカ各地を回りますが、これがあまりパッとしないので、ロサンゼルスやシカゴのシアター(映画館)のオーケストラのリーダーをつとめますが、映画は、やがてトーキーの時代に移り、シアターのオーケストラの必要はなくなったため、彼は、やむなくバンドを解散し失意にくれていたそうです。そこで心機一転を考え、クラシック音楽界からポピュラー音楽界へ転身することになりました。ヤングは、アレンジャー、ソング・ライターとして知られていたポピュラー・バンドのテッド・フィオリト楽団に、ヴァイオリン奏者兼編曲者として入団します。当時のバンドはトランペット、サックス、トロンボーンなどの管楽器を中心とするジャズ・バンド以外は、ヨーロッパ流のカフェ・ソサエティー・バンドの流れを汲んでいて、ヴァイオリンなどの弦楽器(ストリングス)がメロディーを奏でていました。1928年より、シカゴのラジオ局で指揮者の仕事を3年ほどつとめ、1931年にニューヨークに移ります。ここで、放送の仕事を中心に行い、ヤングの名はかなり知られるようになってきました。そして1934年に、再び自分のバンドを結成して、当時人気ボードヴィリアンのアル・ジョルソンのラジオ・ショーのバンドをつとめるようになり、さらにヤングのバンドの人気は高まっていきました。ビング・クロスビーとの親交もこの頃に生まれています。これがキッカケで映画界から声がかかり、ヤングは映画音楽の仕事にたずさわることになります。ヴィクター・ヤングが本格的に映画音楽界に進出したのは1935年、35歳のときで、その翌年の1936年にはハリウッドのパラマウント映画のミュージック・ディレクターとなります。1940年、パラマウント映画の音楽監督に就任し、そこで10年間、映画音楽の編曲、指揮をつとめることになります。ヤングは親友のビング・クロスビーの依頼で、彼が出演した映画「海は桃色」の編曲を担当し、注目を集めるようになりました。そして、ジェームス・ディーン主演の「エデンの東」など、多くの作品の音楽の編曲、指揮を担当しました。1936年から1956年までの20年間という、決して長くはない間に350本もの作品を手がけ、ワーナーのマックス・スタイナー、20世紀フォックスのアルフレッド・ニューマンと共に、映画界の一時代を支えました。さらに、ヤングはバンド・リーダーとして、自己のオーケストラを率いての演奏や、ビング・クロスビーなど歌手たちの伴奏者として、多彩な活動を続けました。ヴィクター・ヤング・オーケストラの演奏する「エデンの東」は日本でも驚異的なヒットになり、今だにベストセラーを続けています。しかし、特に映画ファンというほどでもない私が、なぜヴィクター・ヤングの名前を親しみを持って知っているかというと、彼は、私たちが親しんでいるスタンダード・ナンバーの作曲者であるからです。映画ファンでなくても、ジャズ・ファンであれば、彼の曲を聴いたことがないという人はまずいないでしょう。「Stella By Starlight(ステラ・バイ・スターライト)」、「My Foolish Heart(マイ・フーリッシュ・ハート)」、「Love Letters(ラヴ・レター)」、「When I Fall In Love(ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ)」、「Golden Earrings(ゴールデン・イヤリング)」、「Around The World(アラウンド・ザ・ワールド)」といった曲は、みんなもともとはヴィクター・ヤングが、映画のテーマ・ソングとして書いたものであるのですが、その素晴らしさゆえに、これらの曲は不滅のスタンダード・ナンバーとして、今でも愛され続けているのです。ヘンリー・マンシーニも彼から影響を受けた一人で、「ヴィクター・ヤングは私のヒーローだった」と語っています。ヤングは、アカデミー主題歌賞、音楽賞に何と22回もノミネートされていながら、生前にオスカーを手にすることは一度もありませんでした。それは、徹底したメロディー中心主義で大衆受けしたことが、1950年代のハリウッドでは認められなかったからだと言います。しかし、彼の作った素晴らしい曲は、われわれジャズ・ミュージシャンの宝物となっています。1956年の映画「80日間世界一周」で、’56年度アカデミー賞の劇映画音楽賞を受賞しますが、授賞式は1957年3月27日のことで、ヴィクター・ヤングはそれを知ることなく、1956年11月11日に、カリフォルニア州パーム・スプリングスで過労のために亡くなってしまいます。医者の警告を無視して、酒もタバコもやめなかったことも、その一因であったということです。まだ56歳でした。「ヴィック(ヴィクターの愛称)はあまりにも働きすぎた。それが彼を早く墓に送ったのだと思う」と、ヘンリー・マンシーは語っていたそうです。映画音楽というと、取るに足りない音楽で、もはや音楽の体をなしていないとまで言われ、文化的にも音楽的にもほとんど無視されていると言ってもいいでしょう。しかし、ヴィクター・ヤングの作った映画音楽は素晴らしい音楽であるということに違いないと思います。コール・ポーター、ジェローム・カーン、ジョージ・ガーシュウィン、リチャード・ロジャース、ハロルド・アーレンと並んで、ヴィクター・ヤングは、私にとってアイドル的存在です。*****●代表曲Beautiful Love 【ビューティフル・ラヴ】 (1931)A Ghost Of A Chance(I Don't Stand A Ghost Of A Chance With You) 【ほのかな望みもなく】 (1932)Street Of Dreams (1932)A Hundred Years From Today (1933)Stella By Starlight 【星影のステラ】 (1944)(歌曲として1946)Love Letters 【ラヴ・レター】 (1945)Golden Earrings 【黄金の耳飾り】 (1946)My Foolish Heart 【愚かなりわが心】 (1949)When I Fall In Love 【恋に落ちたとき】 (1952)The Call Of Far Away Hills 【遥かなる山の呼び声】 (1953)Johnny Guitar 【ジャニー・ギター】 (1954)East Of Eden 【エデンの東】 (1955) 《編曲、演奏》Around The World 【世界一周】 (1956)
September 26, 2005
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『The Man That Got Away』(ザ・マン・ザット・ガット・アウェイ)【行ってしまった男】この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、アイラ・ガーシュウィンの作詞で、1954年の映画「A Star Is Born(邦題:スター誕生)」に使われました。この映画は、2度目の再映画化作品で、その中で主演のジュディー・ガーランドが歌いました。そして、以後、彼女の持ち歌となりました。ジュディーは、この映画でアカデミー主演女優賞を噂されましたが、新星グレース・ケリーの「喝采」によってそれはかないませんでした。「The Man」を「The Gal」に変えたフランク・シナトラのレコードが、この年7月にチャートの21位に入り、ジュディー・ガーランドのものが、翌年8月に22位に入りました。アーレンは白人なのですが、ブルース色の濃い人で、コットンクラブで活躍していたときには、「最も黒い白人」と言われたほどでした。この曲も、ブルース形式ではないのですがブルース色の濃い作品で、ポピュラー・ソング的なブルースの響きを持ったものであると言えます。曲名の「The man that got away」とは、「逃げた男(または夫)」というようなことで、逃げて行ってしまった男を忘れられない女の歌です。*****●ザ・マン・ザット・ガット・アウェイ The Man That Got Away【行ってしまった男】作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ハロルド・アーレン1954年夜は苦痛だわ星たちも輝きを失っているし、風は冷たさを増し突然老けこんでしまったみたいそれは、みんな行ってしまったあの男のせいよもう彼の熱心な電話もなくて、何か悪い予感がするわ夢見た夢は、みんなどこかへ消えてしまったわ私を勝ち取った男は、私を置いて行ってしまった素晴らしい始まりだったのに、もう最終回を迎えるところ何が起こったのかわからない、これはみんな狂ったゲームよあのいつものスリルはもう何もないだって、これだけ苦しい思いをしたのだからもう二度と恋なんかしないでしょうね何度もだまされたけれどももうこれであの人のウソともさっぱりお別れねでも、愚か者はどこまでも愚か者よあの人はどこへ行ってしまったの?道は険しく、より辛く、孤独になっていくわ希望は燃えつきても、明日にでも彼が現れるかもしれない一日中、一晩中、苦しみは休みなく続く逃げて行ってしまった一人の男しか頭にない女がその男を捜し求めているなんてこの世の中に、これ以上悲しいものはないわね
September 25, 2005
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『Come Rain Or Come Shine』(カム・レイン・オア・カム・シャイン)【降っても晴れても】この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、ジョニー・マーサーの作詞で、1946年のミュージカル「St.Louis Woman(セントルイス・ウーマン)」のために書かれたものです。今では歌っている人も演奏している人も多い、よく知られているスタンダード・ナンバーになっていますが、このミュージカルはアーレンとマーサーの黄金期にしては不本意な失敗作となりました。アーレンとマーサーは、この曲をよほど気に入っていたと見え、その後、この曲に日の目を当てようと何度か興行に使うのですが、いずれも失敗に終ってしまいます。アーレンとマーサーの曲は爆発的なヒットを飛ばすような、直接大衆の耳に訴えるようなものではないようです。彼らの曲は、何回も聴いて噛みしめれば噛みしめるほど味わいがジワジワと出てきて、その粋なメロディーやコードの流れ、歌詞の内容の良さが感じられるものであると言えるでしょう。言ってみれば、うわべだけでものを見る”ミーハー”受けするものではなく、深いところまで入っていって感じとることができるようになってくると、ジンワリと良さがわかるものであるということでしょう。これも、そういった曲であるということは、当時全くヒットしなかったものが、あとになって多くの人に愛され続けているということが、そういうことを意味しているということでしょう。「雨が降ろうが晴れようが、幸せなときも幸せではないときも、お金があろうがなかろうが関係ない。どんなことがあってもお互い愛し合う。私は、いつもあなたのそばにいる」「Come rain or come shine」 この邦題は「降っても晴れても」ですが、内容はただ単に天気のことを言っているのではなく、これは「雨が降ろうが晴れようが・・・」ということで、要するに「何でも来い」ということです。「何があっても、どんなときにも、私はあなたを愛す」と、相手への愛の深さを語って口説くラヴ・ソングです。*****●カム・レイン・オア・カム・シャイン Come Rain Or Come Shine【降っても晴れても】作詞:ジョニー・マーサー作曲:ハロルド・アーレン1946年私は誰にも負けないほどあなたを愛してみせるわ雨が降ろうと晴れようと山のように高く、川のように深く雨が降ろうと晴れようと初めてあなたが私と出会った時はよくある出来事にしか思わなかったでも、私の気持ちを疑う方に賭けたりしないであなたさえ許してくれるのなら、あなたに真実の心を捧げるわあなたも私を愛するの、誰にも負けないほど雨が降ろうと晴れようと幸せなときも一緒、幸せでないときも一緒どっちでも素敵だわ空は晴れるかもしれないし曇るかもしれないでも、私はいつもあなたと一緒よ雨が降ろうと晴れようと私はあなたのそばにいるわ
September 24, 2005
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『My Shining Hour』(マイ・シャイニング・アワー)この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、ジョニー・マーサーの作詞で、1943年の映画「The sky's the limit(邦題: 青空に踊る)」の中の曲で、主演のフレッド・アステアが歌いました。この中にはもう一曲「One For My Baby(ワン・フォー・マイ・ベイビー)」という曲もスタンダード・ナンバーとして残っていますが、不思議なことは、この二曲とも映画が上映されているときにヒットしたわけではなく、半年くらい経ってからジワッと人気が出てきたということです。そして今では、二曲ともスタンダード・ナンバーとして定着しています。「私の輝ける時間。おだやかで幸せで輝いている時間。あなたの顔が夢の中で花開く。あなたは私を見守る天使のよう。あなたに再び会うまでの、この時間は私の輝かしい時間」第二次世界大戦当時のこと、離れている恋人に会うまでの時間を輝かしい時と歌うラヴ・ソングです。恋人に会う時間ではなく恋人に会うまでの時間を輝かしい時と表現しているところは、まさに、ジョニー・マーサーの素晴らしい世界と言えるでしょう。*****●マイ・シャイニング・アワーMy Shining Hour作詞:ジョニー・マーサー作曲:ハロルド・アーレン1943年《ヴァース》恋の中のこの時間この毎分毎秒が空に輝いてひかりを残していくそして、どれだけ時が経っても消えることなく残っていくに違いない《コーラス》これは僕の輝ける時間だおだやかで幸せで輝いている時間 あなたの顔が夜の暗がりをとおして夢の中で花開く目の前に広がる、家の明かりのようにあなたは私を見守る天使のようだあなたに再び会うまでの、この時間は僕の輝かしい時間だ
September 23, 2005
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『One For My Baby(And One More For The Road)』(ワン・フォー・マイ・ベイビー(アンド・ワン・モア・フォー・ザ・ロード))この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、ジョニー・マーサーの作詞で、1943年の映画「The sky's the limit(邦題: 青空に踊る)」の中の曲で、主演のフレッド・アステアが歌いました。「One for my baby and one more for the road」「僕の恋人に一杯ついでくれ、そして帰り道にもう一杯」恋人に待ちぼうけをくわされ、待ち合わせ場所にしていた店を閉店したいと思っているバーテンダーに「恋の顛末(てんまつ)」を歌って聞かせるというものです。数多く、スタンダード・ナンバーとなる曲を歌ってきたアステアが、「自分のために書かれた歌では最高の部類に入るもの」と絶賛しています。この1940年代のアーレンとマーサーのコンビの曲は、どれも魅力あるもので、アーレンは美しく、思ってもいない展開をしていく意外性のあるメロディーを書き、マーサーは粋で緻密で、それでいて堅苦しくない詞を書くという、まさに黄金のコンビと言えるものです。*****●ワン・フォー・マイ・ベイビー(アンド・ワン・モア・フォー・ザ・ロード)One For My Baby(And One More For The Road)作詞:ジョニー・マーサー作曲:ハロルド・アーレン1943年もう3時15分前だねとうとう君と僕だけになってしまったそれじゃ酒を入れなおしてくれジョー、聞いてもらいたい話があるんだよある物語の終わりを祝って飲もうじゃないか、いいだろ?僕の恋人に一杯ついでくれ、そして帰り道にもう一杯お決まりの話しなんだけど、ジューク・ボックスにコインを入れてくれひどく滅入っているから、音楽は夢のような悲しいのがいいな君は営業規則(閉店時間)を破りたくはないのだろうが、話しは長いんだ僕の恋人に一杯ついでくれ、そして帰り道にもう一杯君は知らないだろうが、僕には詩人のようなところがあってあれこれと言いたいことが山ほどあるんだ僕が落ち込んでいるときは黙って僕の話しを聞いてくれ全部話してイライラを吐き出してしまうまでなまあ、よくある話しだけれどジョー、君は店を閉めたくてイライラしてしてるようだなそれじゃ、元気づけてくれてありがとう君の耳を無理に借りたみたいで悪かったなこの恋の火はなんとか消さなくてはそうしないと、すぐさま爆発しそうなんだ僕の恋人に一杯ついでくれ、そして帰り道にもう一杯、この長い長い道にも・・・
September 22, 2005
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『That Old Black Magic』(ザッツ・オールド・ブラック・マジック)この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、ジョニー・マーサーの作詞で、1942年の映画「Star spangled rhythm」の主題歌になりました。レコードではフランク・シントラのものなどがヒットしました。1959年にルイ・プリマとキーリー・スミスのコンビのものがヒットし、ヴォーカル・グループ部門でグラミー賞をとっています。この曲はアーレンが曲を先に作ったものをマーサーが持ち帰って、二、三日後に仕上げて持ってきたそうですが、出来上がった詞はマーサーの実力を如実に見せ付けられたものになりました。このマーサーの詞について、アーレンは、「その言葉は聴くものの関心を引きつけ、意味がよくとおっていて、忘れられないフレーズを含んでいたし、一つの物語りになっていた。この詞がなかったら、この曲はありきたりなものだったろうね」と語っています。この曲のヒットは、ジョニー・マーサーのすばらしい歌詞に負うところが大きいようです。インストゥルメンタルばかり演奏していて歌には最も縁のなさそうなミュージシャンであるグレン・ミラーは、自分を訪ねてきたソング・ライター志望の若き日のメル・トーメに、「君はもっと曲の歌詞を注意して考えなくてはいけないね。いい曲を作るのは歌詞だからね。ポップ・ソングに関しては、問題は言葉で、その背後にあるアイディアだよ」と言って、この曲の譜面を出してきてピアノの上に置いたので、メル・トーメはそのメロディーをたどたどしく弾きはじめたところ、「いやいや、メロディーはどうでもいいんだ、歌詞を見なよ。これはハロルド・アーレンとジョニー・マーサーの新曲さ。どうだい、僕の言っている意味がわかるかい?この歌詞が君の脳裏に”魔女の手のような冷たい指が背筋を上へ下へと走る”とか、”君の視線が僕の目をとらえた途端にその魔力でがんじがらめ”とかいった像を結ばせるのさ。マーサーは作詞家の中でも最高だね。ジョニー・マーサーを忘れないように。ジョニー・マーサーの曲なら何でも手に入れて、そこから勉強してみるといいよ。メル、読むんだ、何でもいいから手に入るものはみんな読むんだ。いい作詞家の書くものは何でも、それだけでいい読み物だからな」と、アドヴァイスをしたそうです。*****●ザッツ・オールド・ブラック・マジックThat Old Black Magic作詞:ジョニー・マーサー作曲:ハロルド・アーレン1942年あの古い不思議な魔力がまた僕をつかまえてしまった君がもののみごとに編み上げたあの妖術さ魔女の手のような冷たい指が背筋を上へ下へと走るんだ君の視線が僕の目をとらえた途端にその魔力でがんじがらめさ内部で感じるあのいつもの刺すようなうずきだそれからいつもエレベーターが上昇しはじめるそして僕は下へ下へと落ちていきぐるぐる、ひらひらと回るのさ潮の流れにつかまった木の葉のように君からはなれていなくてはいけなかったんだでも、僕はどうしたらいいっていうんだい?君の名前を耳にしただけで、もう燃え上がってしまうんだこげるような思いで火のように熱くなるもんだからあとは君のキスでしか、その火を消すことができないんだなぜって、君こそ僕が待っていた恋人だから運命の女神が君のために僕を作ったのさそれで、君の唇が僕の口に触れるといつものようにそして僕は下へ下へと落ちていきぐるぐる、ひらひらと回るのさその回転の中で、その回転を愛しながら恋というあの古い不思議な魔力にグチャグチャにされて下へ下へと落ちていくんだよ
September 21, 2005
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『Blues In The Night』(ブルース・イン・ザ・ナイト)【夜のブルース】この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、ジョニー・マーサーの作詞で、1941年の同名の映画「Blues In The Night(ブルース・イン・ザ・ナイト)」の主題歌になりました。しかし、この映画、最初は「Hot nocturne」という題名の予定だったのですが、映画の封切よりも先に、ジミー・ランスフォード楽団とダイナ・ショアの歌で録音されたレコードが大ヒットしてしまったために、急遽、映画の題名も「「Blues In The Night」に変更されたということです。この曲はブルースという名前がついていますが、厳密にいうと純粋なブルース形式ではなく、12小節(ブルース形式)+12小節(ブルース形式)+16小節(ブルース形式ではないブリッジ)+12小節(ブルース形式)という構成になっていて、曲の中にブルース形式ではないブリッジが入っています。それに、アーレンとマーサーという白人の作曲家と作詞家が作ったという点でもいわゆる南部の黒人のブルースとは違うものであるということです。本来ブルースとは、黒人奴隷の音楽であるからです。ただし、アーレンのメロディーもマーサーの詞も、黒人のブルース・フィーリングをよくつかんでいて、映画音楽でありながら、みごとにブルースらしく仕上がっています。アメリカではブルースの精神、雰囲気を持っているものを、形式に関わりなくブルースと呼んでいます。したがって、この曲は完全にブルースだということです。*****●ブルース・イン・ザ・ナイトBlues In The Night【夜のブルース】作詞:ジョニー・マーサー作曲:ハロルド・アーレン1941年ママがよく言っていたわまだ、三つ編みををしていたころママがよく言っていたわいいかい、おまえ、男ってのは甘い言葉をかけてきて優しい目つきをするけれど甘い言葉もそのときだけさ男ってのは二つの顔を持った(うそつき)、悩みの種にすぎないよおまえなんか置いてどこかに行ってしまいそして、あんたは一人、夜中にブルースを歌うことになるんだよ雨が降ってきた、列車の汽笛が聞こえるママがよく言っていたわあの寂しげな汽笛の音が線路の土手をよぎって吹き抜けるのが聞こえるかいママがよく言っていたわ列車の走る音のこだまと共に響く、夜のブルースがここまで聞こえてくる夜の風は木々に嘆き声をあげさせるそして月さえもひかりを隠してしまおうものならだれもが夜のブルースに包まれてしまう本当よそんな夜は、ものまね鳥がこの上なく悲しい歌をさえずるのよこんな夜は何もかもうまくいきっこないって言うのねでのその通りなのよナッチェズからモービルまで、メンフィスからセントジョーまで、四方八方の大きな町ならどこでも私が行ったことがないところはないくらいそして、いろんなことを言う人の話を耳にしてきたけれども確かなことはただ一つ男ってのは二つの顔を持った(うそつき)、悩みの種にすぎないよそして、あんたは一人、夜中にブルースを歌うことになるんだよママは正しかったわだって、夜はいつもブルースでいっぱいなんだもの
September 20, 2005
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『Over The Rainbow』(オーヴァー・ザ・レインボウ)【虹の彼方に】この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、E.Y.ハーバーグの作詞で、1939年のミュージカル映画「The wizard of Oz(邦題:オズの魔法使い)」に書いたものです。その中では、主演の少女役で、当時14歳のジュディー・ガーランドが歌いました。この曲はアカデミー賞の主題歌賞をとり、この映画はほかにも作品部門、特殊効果部門、オリジナル・スコア部門と、ジュデー・ガーランドが特別賞をとり、合計5部門で授賞しました。合計9200人の役者が出演するという、壮大な作品でした。アーレンは映画を見にいく途中の車の中で、突然冒頭のメロディーと「Somewhere over the rainbow」という歌詞が同時に浮かんだと言います。作詞家のハーバーグに聴かせると、「田舎の小娘には似合わない歌だ」と言われたそうです。そこで、アーレンはアイラ・ガーシュウィンに聴いてもらったら彼は気に入ってくれたので、和音などを少し修正してもう一度ハーバーグに聴かせたら、まあいいだろうということで、歌詞と題名をつけてもらい、この曲が完成しました。しかし、今度は映画会社の”MGM”のお偉方が、「14歳の少女が歌うのには向かない」と、三度も落とされそうになるのですが、そのたびにプロデューサーのアーサー・フリードが説得して、それを食い止めたそうです。また、出版社の方からも、「メロディーが冒頭でいきなりオクターヴも上がるのでは、子供向けの歌としては難しすぎる」と、この曲の採用に反対する意見が出る中、その難関を押し切ってやっと採用されることになったと言います。何度となく消滅してしまいそうになったこの曲は、今ではアメリカの子供から大人まで、アーレンの名前は知らなくても、この曲を知らない人はいないというくらいに、誰からも親しまれる曲になりました。そして、ジュディー・ガーランドにとっては、生涯のテーマ曲となりました。2001年に発表された全米レコード協会などによって選ばれた「20世紀の歌」365曲のうち、第1位がこの「オーヴァー・ザ・レインボウ(虹の彼方に)」で、2位がアーヴィング・バーリンの作詞作曲した「ホワイト・クリスマス」ということです。ジャズ・シンガーにも、ジャズ・インストゥルメンタルとしても、ポピュラー・ミュージシャンにも、あらゆるミュージシャンに愛され、親しまれて演奏されている曲と言えるでしょう。「Somewhere over the rainbow blue birds flyBirds fly over the rainbow,why then,oh,why can't I?」「虹の彼方のどこかには青い鳥たちが飛んでいるわ鳥たちが虹の上を飛んでいるのに、どうして私にはできないの?」私も虹の彼方へ行けるのかしら?虹の彼方にあるはずの楽園を夢見ているのに、そこへはなかなか行けなくて感傷的になっている少女。虹の彼方にあるという楽園に行くのは決して簡単なことではありません。でも、希望を持ち続けていれば、いつかかなう日がくるかもしれないということでしょうか?この物語は、フランク・ボームという人が書いた子供向けの本で、「The wonderful wizard of Oz」という題名で1900年に発表されて、アメリカの子供たちには広く読まれているものです。映画の中にはカカシとライオンとブリキ男の三人組が登場しますが、このイメージは映画「Star wars」のもとにもなっていると言います。この映画化の前にもミュージカルとして上演されていますが、1975年に「The Wiz(ザ・ウィズ)」として、全て黒人キャストによって上演され大成功し、1978年には、マイケル・ジャクソン、ダイアナ・ロス、リナ・ホーンらの主演により、「The Wiz(ザ・ウィズ)」で映画化されました。*****●オーヴァー・ザ・レインボウ Over The Rainbow【虹の彼方に】作詞:E.Y.ハーバーグ作曲:ハロルド・アーレン1939年《ヴァース》世界中が絶望的なほどめちゃくちゃになってい雨がそこらじゅうに降っているときは天の神様が魔法の道を開いてくれるものよたくさんの雲が空の道を暗くしてしまっているときは虹のハイウェイ(道路)が見つかるでしょうあなたの窓の下からずうっとつながって雨より一歩先の、お日様のところまで行っている虹の道が《コーラス》虹のはるか彼方遠くの向こう側のどこかに私がまえに子守唄の中で聞いたことのある場所がある虹の彼方の空は真っ青なのそしてめったに見ないような夢でさえかなうのよいつの日か私は星に願いをかけるでしょうそして目がさめると私は雲がはるか下に見えるところにいるのそこでは悩み事なんかレモン・ドロップのように溶けてしまうわ私がいるのは煙突の上の、はるか彼方なの虹の彼方のどこかには青い鳥たちが飛んでいるわ鳥たちが虹の上を飛んでいるのに、なぜ、おお、なぜ私にはできないの?もし幸せの青い鳥たちが虹の彼方まで飛んで行けるのならきっと私にだってできるはずよね?
September 19, 2005
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『As Long As I Live』(アズ・ロング・アズ・アイ・リヴ)私が生きている限りこの曲は、ハロルド・アーレンの作曲、テッド・ケーラーの作詞で、1934年のコットン・クラブのショー「Cotton Club Parade(コットン・クラブ・パレード)」に書いたものです。その中では、リナ・ホーンが歌いました。このコットン・クラブのショーは、1932年、’33年、’34年と3年続けて上演され、’32年はキャブ・キャロウェイ、’33年はデューク・エリントン、’34年はジミー・ランスフォードの、それぞれオーケストラが出演し、シンガー、ダンサーなど多くの出演者がショーを彩(いろど)り、それは豪華絢爛(ごうかけんらん)なものでした。このショーの中から、「I've Got The World On A String」や「Stormy Weather」、そしてこの「As Long As I Live」など、今まで多くのジャズ・シンガーに歌われ続けるスタンダード・ナンバーが、つぎつぎと生み出されていきました。コットン・クラブとは、1920年にアメリカが酒類の製造販売を禁止した禁酒法を発令したことによって、やくざが密造酒で儲けるための手段として1922年に開いた高級クラブです。1925年には禁酒法違反で裁判所から閉鎖命令を出されたり、1932年の不況のどん底の時期でもショーの素晴らしさで乗り切り、1940年6月に閉店するまでの間、ハーレムの文化の象徴であり続けました。また、コットン・クラブのショーは、たびたびラジオでアメリカ全土に放送されていたので、このショーの内容は、アメリカの音楽全体に与える影響も大きなものでした。*****●アズ・ロング・アズ・アイ・リヴ As Long As I Live私が生きている限り作詞:テッド・ケーラー作曲:ハロルド・アーレン1934年できるかぎり長生きして、いつまでも私はあなたを愛したいと思っているけれどきっとそんなに長くは生きられないわね人生はそんなに長くはないからでも私は生きている限りあなたを愛し続けるわダイヤとかそんなものをあなたにあげたいと思うけれどたぶんそれもできないかもしれないでも、これだけは約束するわ生きている限り、私はあなたを愛し続けるということを今まで、ぜんぜん気にしていなかったけれどあなたと会ってからは長生きできないかもしれないって思うのが怖くてしかたがないわだから今は雨が降ったときにはレインコートを着るようにしているそして、毎日リンゴを一個食べてその上お医者さんに診てもらうようにしているできるだけ長く生きてあなたを愛したいと思っているわでもそれができないかもしれないけれど、それでもいいの生きている限り、ずうっとあなたを愛し続けるって私が約束するんだから私が生きている限り・・・
September 18, 2005
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『Let's Fall In Love』(レッツ・フォール・イン・ラヴ)【恋をしましょう】この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、テッド・ケーラーの作詞で、1934年の映画「Let's fall in love(レッツ・フォール・イン・ラヴ)」の主題歌になりました。この映画の中で、アーサー・ジャレットとアン・サザーンによって歌われました。また、この曲は、このあとも多くの映画に使われてきています。これは、アーレンにとっては初めての映画音楽の仕事で、この映画のために、この曲のほかに4曲書いたのですが、そのうち2曲は、落とされて使われなかったと言います。ブロードウェイのミュージカルでも、脚本、演出、振り付けの変更にともなって曲が追加されたり、削られたりするものですが、作詞作曲者は、たいていその場に立ち会って自分の意見を言って、みんなで話し合いながら進んでいくものです。しかし、ハリウッドの映画では、作詞作曲者は曲が完成したら渡すだけで仕事は終わりで、あとは一切立ち会うことも、意見を言うこともできないので、映画ができあがってみたら、このように2曲削られていたということになるわけです。これをアーレンはカリフォルニア・メソッドと呼び、「まったく理解できない」と不満をもらしていたそうです。このことはジョージ・ガーシュウィンも同じようなことを感じていて、「ハリウッドの仕事は曲を作って渡すだけで終ってしまうので、ブロードウェイと違って、なんとも面白くないものだ」と言っていたそうです。さあ、恋に落ちましょう。恋をしてはいけないという理由はないでしょう?私たちが若い今が、恋をするとき。さあ、恋に落ちましょう。」と、ウキウキムードの歌です。「Let's Fall In Love」を日本語に訳すと「恋に落ちましょう」となりますが、「落ちる」というと、ちょっと陰湿なイメージがありますが、この場合、全体の歌詞の内容からは、「さあさあ、私たち、恋をしましょう!」言い換えると「私たち、愛し合いましょう!」と、ウキウキ気分で明るく言っている雰囲気をイメージしたほうがいいようです。*****●レッツ・フォール・イン・ラヴ Let's Fall In Love【恋をしましょう】作詞:テッド・ケーラー作曲:ハロルド・アーレン1934年さあ、恋に落ちましょう恋をしてはいけないという理由はないでしょう?心は恋からつくられるのだし、恋をするチャンスを逃す手はないわどうしてそれを恐れるの?目を閉じましょう、そして私たちのパラダイスをつくりましょうそれがどんなものかわからなくても、やってみることはできるわなんとかうまくやりましょうもともと私たちは一緒になるように決まっていたのかもしれないわ決まっていたかどうかは心が答えを見つけるわさあ、恋に落ちましょう恋をしてはいけないという理由はないでしょう?私たちが若い今が、恋をするときさあ、恋に落ちましょう
September 17, 2005
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『It's Only A Paper Moon』(イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン)【ペーパー・ムーン】この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、E.Y.ハーバーグとビリー・ローズの作詞で、1933年のブロードウェイのレヴューを映画化した「Take a chance(テイク・ア・チャンス)」に使われました。その中では、ジューン・ナイトとバディー・ロジャースが歌いました。この曲は最初、「If you believe in me(イフ・ユー・ビリーヴ・イン・ミー)」という題名で、1932年の芝居に挿入されましたが、その芝居は一週間ほどで終ってしまったので、曲名を変えて、この映画に使ったということです。このあと1945年の映画、「Too young to know(トゥー・ヤング・トゥー・ノウ)」に使われ、この年、ナット・キング・コールのレコードが大ヒットしました。さらに1973年に、映画「Paper moon(パーパー・ムーン)」にも使われました。この映画はアメリカの評論家からは、ぼろくそにけなされたものでしたが、日本では、この曲の人気を一気に高めたものになりました。「It's Only A Paper MoonBut it wouldn't be make-believe if you believed in me」「それは、だだの紙の月だけど、君が僕を信じてくれれば、これは偽りではなくなるよ」これは、「君さえ僕を信じてくれれば、ただの紙の月も本物になるのさ」とういことで、「虚実の境目は気持ちしだい。信じることが大切だ」ということを言っています。そして、「この世の中はウソ偽りばかりだけれど、僕の愛は本物だよ」という愛の歌です。*****●イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン It's Only A Paper Moon【ペーパー・ムーン】作詞:ビリー・ローズ E.Y.ハーバーグ作曲:ハロルド・アーレン1933年《ヴァース》僕は君とはなれていると何一つ現実のものとは思えなくなってしまう君に抱きしめられていなければこの世界は仮の駐車場みたいにしか見えないン、ンー一分間くらいしかもたない泡のようなものかなン、ンーでも、君が微笑めば、その泡に虹がかかってくる《コーラス》ねえ、それはボール紙で作った海の上を動いていくただの紙の月には違いないけれどでも、君が僕を信じてくれればウソではなくなるよそれはモスリンの木の上にかかったキャンバス地で作った空には違いないけれどでも、君が僕を信じてくれればウソではなくなるよ君の愛がなければ、ただ騒がしいだけのパレードみたいだ君の愛がなければ、ゲーム場の安っぽい音楽のようなものだそれは、バーナム&ベイリー*のサーカスの世界みたいなものだし何もかも「まやかし」だというのは確かだよでも、もし君が僕を信じてくたなら、これはみんなウソではなくなるよ----------*「バーナム&ベイリー」とは、バーナムとベイリーはどちらも有名なサーカスの名前で、両者が合体して「バーナム&ベイリー」という名前になった。
September 16, 2005
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『Stormy Weather』(ストーミー・ウェザー)【荒れ模様】この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、テッド・ケーラーの作詞で、1933年のコットン・クラブのショー「Cotton Club Parade(コットン・クラブ・パレード)」に書いたものです。その中では、エセル・ウォータズが歌い大ヒットしました。このショーは1932年にも上演されていますが、この曲は1933年のショーのときに書かれているようです。アーレンはこの曲をキャブ・キャロウェイの歌として書いたということですが、ケーラーの歌詞はキャロウェイ向きのものではなく、結局、エセル・ウォーターズの曲になりました。彼女はすでにヴォードヴィルのスターでしたが、これによってその名声を確実なものにしました。1943年の映画「Stormy weather(ストーミー・ウェザー)」では主題歌として使われ、その中で主演のリナ・ホーンが歌いました。それ以来、リナ・ホーンの持ち歌となり、リナ・ホーンと言えば「Stormy Weather」というくらいにお互いに有名になりました。これはトーチ・ソングといって失恋の歌というものの代表的な曲として有名です。「あなたが行ってしまってから、ずうっと雨が降りっぱなし私にはもう太陽は見えない、ひどい天気」雨が降り続けても何も見えない。希望の太陽も見ることができない。「お願いだから、もう一度私に太陽の下を歩かせてちょうだい・・・」あまりにも悲しくてしかたがない気持ちをたとえて「ひどい天気」、「荒れ模様」と言っています。この曲は1コーラスが12小節の構成である、いわゆるブルース形式の曲ではありません。アレーンも、この曲はブルースではないと言っています。しかし、メロディーは、まったくのブルース調であるため、アメリカでは、この曲をブルースの曲として扱っているようです。1コーラスが12小節でなければブルースとは言わないのですが、アレーンはそういった小節数には全くこだわっていなかったようで、あくまでもメロディーによって小節数が決まるという作り方をしていたようです。ですから、スタンダード形式では、1コーラスは32小節になるのが一般的なのですが、この曲は36小節になっていて、それは一小節も削ることはできないものになっていると言います。*****●ストーミー・ウェザーStormy Weather【荒れ模様】作詞:テッド・ケーラー作曲:ハロルド・アーレン1933年《ヴァース》どうしてだかわからないけれども、空には太陽が見えないわひどい天気ね私があの人と別れてしまってからずうっと雨が降りっぱなしなの毎日の生活はむなしくて、そこらじゅうが陰気で惨めなことばかりひどい天気だわ何も手につかない私は疲れきっているの、いつも、いつも疲れきっているの《コーラス》彼が行ってしまったらブルースにとりつかれてしまったわ彼が帰ってこなければ、私は老け込んで、きっと揺りいすから立てなくなるわすることといったら、神様にお祈りするだけよ「もう一度私に太陽の下を歩かせてください」ともうこれ以上続けられないわ、全てを失ってしまったからひどい天気、なんてひどい天気なの私があの人と別れてしまってからずうっと雨が降りっぱなしずうっと、ずうっと雨が降りっぱなしなのよ
September 15, 2005
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『I've Got The World On A String』(アイヴ・ガット・ザ・ワールド・オン・ナ・ストリング)【思いのまま】この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、テッド・ケーラーの作詞で、1932年のコットン・クラブのショー「Cotton Club Parade(コットン・クラブ・パレード)」に書いたものです。その中では、エイダ・ウォードが歌いました。アーレンとケーリーのコンビは、コットン・クラブのショーのためにたくさんの曲を書き、ショーの場面に合わせて細かい曲もたくさんありましたが、それらの曲は、著作権登録をしていないものも数多くあったと言います。ケーラーは物静かな人物で、ショー・ビジネスの華やかな雰囲気を感じさせなかったと言います。アーレンはピアノにすわり、ソファーに横になっているケーリーに、今、作っている曲を聴かせますが、いつもケーラーからは何の反応もなく、「千回も弾くこともあった」とアーレンは話していたそうです。そのうちケーラーが居眠りをしていることがわかると、アーレンは「テッド!」とどなります。するとケーラーは飛び起きて、テンポに合わせて足踏みをしたり、メロディーを口ずさんだりして、寝ていないふりをするといったことが度々あったようです。アーレンがそういうケーラーにうんざりしていると、ケーラーは「脳細胞を休めていたんだよ」と言って弁解したそうです。しかし、曲が仕上がると内容はいつも完璧なもので、全く修正の必要がないものだった言います。「I've got the world on a string」とは「私は糸でつられた世界を持っている」ということで、要するに「自分は世界を糸であやつることができるんだ」といったような意味になるでしょう。*****●アイヴ・ガット・ザ・ワールド・オン・ナ・ストリング I've Got The World On A String【思いのまま】作詞:テッド・ケーラー作曲:ハロルド・アーレン1932年僕は世界を糸であやつれるのさ虹の上に腰かけて、糸を僕の指に巻きつけてねああ、なんて素晴らしい世界なんだろうなんて素晴らしい人生なんだろう僕は恋をしているんだ僕には歌える歌がある指を動かせばいつだって雨をやませることだってできるんだラッキーな僕、わかるだろう、僕は恋をしているんだ人生って素晴らしい、その糸をつかんでいるかぎりでも、糸を放してしまったら、どこかのお馬鹿さんになってしまうけれど僕は世界を糸であやつれるのさ虹の上に腰かけて、糸を僕の指に巻きつけてねああ、なんて素晴らしい世界なんだろうなんて素晴らしい世界、なんて素晴らしい人生僕は恋をしているんだ
September 14, 2005
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『Between The Devil And Deep Blue Sea』(ビイトウィン・ザ・デヴィル・アンド・ザ・ディープ・ブルー・シー)【絶対絶命】この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、テッド・ケーラーの作詞で、1931年のコットン・クラブのショー「Rhythmania(リズマニア)」のために書いたものです。その中では、エイダ・ウォードが歌ってヒットしました。アーレンは1930年、「Get Happy」のヒットがきっかけで、ハーレムの高級クラブのコットン・クラブの専属作曲家になっていました。このころは、今まで専属バンドであったデューク・エリントン楽団がやめて、キャブ・キャロウェイのバンドに代わったときで、アーレンとケーラーのコンビは、キャロウェイのためにも曲を書き、次々とヒットを飛ばします。この曲は、そんな中でも忘れられた存在にはならずに、派手に目立ちはしませんでしたが、ゆっくりとスタンダード・ナンバーとして残っていきました。「You've got me in between the devil and deep blue sea」曲の題名にもなっているこの歌詞を直訳すると、「君は、僕を悪魔と深海の狭間(はざま)に追い込んで身動きできなくさせてしまったのさ」ということですが、自分をだましている女と別れようにも未練がある。もう必要としていないのに、失うのはいや。「嫌いなんだけれども、好き」というジレンマを「悪魔と深海にはさまれた状態」と言っています。要するに前にも後ろにも行けない状態にさせられてしまったということで、「進退ここに窮(きわ)まる」=「絶体絶命だ」ということを歌っています。*****●ビイトウィン・ザ・デヴィル・アンド・ザ・ディープ・ブルー・シー Between The Devil And Deep Blue Sea【絶体絶命】作詞:テッド・ケーラー作曲:ハロルド・アーレン1931年《ヴァース》君が僕をだましているのはみんな知っていることだよきっと君は全て僕がわるいんだと言うだろうありふれた手でも、君にやられると効くねこっちが勝手に大きな間違いをしていたのはわかっているけれどどうしてまだ君とはなれられないのか、わからないよ《コーラス》君をほしくはないよ、でも失うのは怖いんだ進退ここに窮(きわ)まるといったところかな君のことは許すよ、どうしても忘れられないから君は、僕を悪魔と深海の狭間(はざま)に追い込んで身動きできなくさせてしまった僕のリストから君の名前をバツ印で消すべきなのに君がやってきて僕のドアをたたくと運命の女神が僕の心を揺らすんだそして僕はもっと君を求めて走り寄っていってしまうんだ君を嫌いにならなくてはいけないのに、どうにも愛しているみたいだ君は、僕を悪魔と深海の狭間(はざま)に追い込んで身動きできなくさせてしまったから、絶対絶命だね
September 13, 2005
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『Get Happy』(ゲット・ハッピー)この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、テッド・ケーラーの作詞で、1930年のレヴュー、「9:15Revue(ナイン・フィフティーン・レヴュー)」のために書いたものです。これは、アーレンの初めて出版された楽譜でしたが、それがヒット曲になりました。1929年、アーレンはミュージカルの歌手として雇われていましたが、ピアニストが病気で休んだため、アーレンがその代わりをすることになったのですが、リハーサルの最中、音楽監督がコーラス・ガールにあれこれ注意を与えているあいだ、アーレンは暇だったので、ピアノでフレーズを作って暇つぶしをしているうちに、何となく曲ができてしまい、それを音楽監督が聴いて曲に仕上げたらどうかと勧めたためテッド・ケーラーが詞をつけて、この曲ができあがったと言います。このレヴューは実際は7日間しか上演されなかったにもかかわらず、この曲は大ヒットしたため、ハロルド・アーレンは一躍注目される存在となりました。そしてそれは、歌手の道を目指していたアーレンを、作曲家アーレンという道に進む人生に大きく変えることになりました。正規のピアニストが病気で休んだために一生が変わる事態になるなんて、人生とは、どこでどうなるかわからないものです。*****●ゲット・ハッピーGet Happy作詞:テッド・ケーラー作曲:ハロルド・アーレン1930年《ヴァース》ハレルヤ、ハレルヤ、罪人たちよ、みんな集まるのだハレルヤ、ハレルヤ、全ての罪人たちよ、見てくれここに、疲れはてた者が永久に自由になれる土地がある罪人たちよ来い、そして私に従うんだ《コーラス》悩み事を忘れ、みんな幸せになろう心配事は全て追い払うんだハレルヤと歌い、幸せになろうそして審判の日にそなえよう太陽は輝いている、さあ幸せになろう神があなたの手をとろうと待っているハレルヤと叫び、幸せになろうわれわれは約束の土地へ行くんだ河をよぎって進もう潮流の中で、罪を洗い落とすんだ向こう岸には幸せが満ちている悩み事を忘れ、みんな幸せになろう心配事は全て追い払うんだハレルヤと歌い、幸せになろうそして審判の日にそなえよう
September 12, 2005
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『ハロルド・アーレン』 HAROLD ARLEN1905年2月15日、アメリカ、ニューヨーク州バッファロー生まれ。1986年4月23日、ニューヨークで死亡。アメリカのポピュラー・ミュージックの作曲家で、ミュージカルや映画音楽のための曲を作り、その中から数多くのスタンダード・ナンバーが生まれました。ハロルド・アーレンの名前は知らなくても、「オーヴァー・ザ・レインボウ(虹の彼方に)」という曲を聴いたことがないという人はいないでしょう。2001年に発表された全米レコード協会などによって選ばれた「20世紀の歌」365曲のうち、第1位がハロルド・アーレンの作曲した「オーヴァー・ザ・レインボウ(虹の彼方に)」で、2位がアーヴィング・バーリンの「ホワイト・クリスマス」ということです。アーレンの曲はブルージーな曲が多いのが特徴で、形式的にはブルースではなくても、彼の曲のメロディーはブルース・フィーリングあふれるものとなっています。そういう意味で、アメリカン・ポピュラー・ミュージックの作曲家の中で、最もブルージーな曲を書いたのは、ジョージ・ガーシュウィンとハロルド・アーレンだと言えるでしょう。また、アーレンはパフォーマーとしても才能豊かな人でした。ジョージ・ガーシュウィンはピアノの名手としても知られていますが、アーレンはピアノにも歌にもたけていて、弾き語りのショーのテレビ・フィルムや自らの弾き語りのアルバムも多く残しています。ハロルド・アーレンは、1905年2月15日、ニューヨーク州バッファローの黒人居住地区で生まれます。彼の両親はユダヤ人で、父親はユダヤ教会の歌手で、母親はピアニストでした。その影響で、アーレンは子供のころから教会で歌ったり、ピアノを弾いたりしていました。両親は彼が音楽教師になる事を望みますが、彼はポピュラー歌手を志し、15歳のころよりクラブやミュージカルなどに、ピアニストや歌手として出演します。1925年、20歳のころマンハッタンにでてきて、バンドのピアニストと歌手の仕事をします。偶然のことから書いた、1930年、「9:15(ナイン・フィフティーン)レヴュー」というレヴューのための、「ゲット・ハッピー」という曲が大ヒットし、作曲家として注目されました。それがきっかけで、ハーレムの高級クラブのコットン・クラブの専属作曲家になり、レヴューのための曲を書き、その中にジャズやブルージーなものを取り入れるようになりました。同じ年、「アール・キャロルのヴァニティーズ」の曲を担当しブロードウェイにデビューします。このころは、作詞家のテッド・ケーラーとコンビを組むことが多かったのですが、1932年ごろからは作詞家のE.Y.ハーバーグやジョニー・マーサーと組むようになります。アーレンはブロードウェイのステージとハリウッドの映画の、両方の音楽を書いていました。映画の方は、1933年の「レッツ・フォール・イン・ラヴ」、1934年の「ザ・シンギング・キッド」、1936年に「ゴールド・ティガーズ・オブ・1937」などの音楽を書きましたが、なんといっても1939年の「オズの魔法使い」は大ヒットをして、この中の「オーヴァー・ザ・レインボウ(虹の彼方に)」は、主演したジュディー・ガーランドの生涯のテーマ曲になりました。1941年の映画「夜のブルース」も注目され、ジュディーが再出演した1954年の「スター誕生」では、作詞家のアイラ・ガーシュウィンと組んで「ザ・マン・ザット・ガット・アウェイ」がヒットしました。ハロルド・アーレンはショーガールのアーニャ・タランドと結婚しますが、彼女はユダヤ人でなかったため、ハロルドの両親は歓迎しませんでした。ハロルドとの結婚生活も、途中からうまくいかなくなり、彼女は精神病で入院したりしました。晩年は二人は仲良く暮らしたと言いますが、アーニャは脳腫瘍のため1970年3月9日に亡くなりました。ハロルドも晩年はパーキンソン病になり、1977年以降、亡くなるまでの9年間は、全く作曲をしていないと言われています。1986年4月23日に、ニューヨークで81年の生涯を閉じました。*****●代表作Get Happy (1930) Between The Devil And Deep Blue Sea 【絶体絶命】 (1931) I've Got The World On A String 【思いのまま】 (1932) Stormy Weather 【荒れ模様】 (1933)It's Only A Paper Moon 【ペーパー・ムーン】 (1933) Let's Fall In Love 【恋をしましょう】 (1934) As Long As I Live (1934) Over The Rainbow 【虹の彼方に】 (1939) Blues In The Night 【夜のブルース】 (1941) That Old Black Magic (1942) One For My Baby (1943) My Shining Hour (1943) Come Rain Or Come Shine 【降っても晴れても】 (1946) The Man That Got Away 【行ってしまった男】 (1954) A Sleepin' Bee (1955)
September 11, 2005
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『DO-RE-MI』(ドレミの歌)この曲は、リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン二世の作で、1959年のミュージカル「The sound of music(サウンド・オブ・ミュージック)」の中の曲です。この曲はジャズのスタンダード・ナンバーというよりも、アメリカン・ポピュラー・ミュージックとして大変有名なスタンダード・ナンバーと言えるでしょう。*****●ド-レ-ミDO-RE-MI 【ドレミの歌】作詞:オスカー・ハマースタイン二世作曲:リチャード・ロジャース1959年「ド」(doe)は鹿、雄鹿のこと「レ」(ray)は黄金色に輝く太陽の光「ミ」(me)は私が自分を呼ぶなまえ「ファ」(far)は遥かに、遥かに走っていくところ「ソ」(sew)は針が糸を引っ張るところ「ラ」は「ソ」のあとに続く音「シ」(tea)はジャムとパンに合う飲み物それからまたドに戻るのよ----------*シのことは英語では「ティ」といいます。
September 10, 2005
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『My Favorite Things』(マイ・フェイヴァリット・シングス)【私のお気に入り】この曲は、リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン二世の作で、1959年のミュージカル「The sound of music(サウンド・オブ・ミュージック)」の中で使われました。舞台ではメアリー・マーティンとパトリシア・ニューウェイが歌いました。1965年に映画化され、その中ではジュリー・アンドリュースが歌っています。ロジャース&ハマースタインのコンビのミュージカルは1943年の「オクラホマ!」から次々と大ヒットミュージカルを世に送り出してきていて、これがその頂点に達した作品であり、そしてこのコンビの最後の作品となりました。このミュージカルの完成間近のころ、二人ともガンに侵されていて、ロジャースは病院と舞台を往復しながら、ハマースタインは余命宣告を受けながら、最後の「エーデルワイス」を書き下ろしたと言います。このミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」が上演された翌年の1960年に、オスカー・ハマースタイン二世はこの世を去ります。お手伝い役のジュリー・アンドリュースが、トラップ・ファミリーの子供たちに歌って聴かせる歌なので、夢はあるけれども色恋とは無縁のものです。「私のお気に入りのもの、それはバラの花びらにたまった雨のしずく、子猫のお髭、ピカピカの銅のヤカン、毛糸の手袋、ひもで結んだ茶色の紙包み・・・」この曲はコードがめまぐるしく変わるので、むずかしいものとなっています。そのうえ、歌詞の内容も健全すぎるためか、歌としても演奏としてもジャズ・プレイヤーにはあまりとり上げられてはいませんでしたが、コルトレーンの演奏でこの曲の常識がくつがえされました。アドリブはメロディーのコード進行でやるのではなく別のワン・コードでやるという、一発ものとして知られるようになって、ジャズとしても有名な曲となり、それ以来、ジャズ・ミュージシャンたちによる歌も、演奏も増えてきたと言えるでしょう。*****●マイ・フェイヴァリット・シングスMy Favorite Things【私のお気に入り】作詞:オスカー・ハマースタイン二世作曲:リチャード・ロジャース1959年バラの花びらにたまった雨のしずく、子猫のお髭ピカピカの銅のヤカンに毛糸の手袋ひもで結んだ茶色の紙包みこれは私のお気に入りのもののほんの一部クリーム色の子馬に、食べるとパリパリと音がするリンゴのシュトルーデルのお菓子ドアのベルやソリの鈴、そしてヌードルを添えた子牛のカツなんかもお月さんを翼にいだいて飛ぶガンの群れみんな私のお気に入りのものなの白いドレスに青いサテンの飾り帯をつけた女の子私のお鼻やまつげに積もった雪のかけらとけて春へと姿を変えていく白銀の冬こんなものも私のお気に入りなの犬に噛まれたって、ハチに刺されたって悲しくてどうしようもないときだって私はただ、こういう私のお気に入りのもののことを考えるのそうすると、もう私の気分は悪くはなくなってしまう
September 9, 2005
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『It Might As Well Be Spring』(イット・マイト・アズ・ウェル・ビー・スプリング)【春の如く】この曲は、リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン二世の作で、1945年のミュージカル映画「State Fair(ステート・フェア)」に使われました。彼らのミュージカル映画はほとんどが、ミュージカルの映画化のものですが、これはその中で唯一オリジナルのミュージカル映画でした。ジーン・クレインが映画に出演してその中で歌いましたが、声はルアンヌ・ホーガンが吹き替えたものでした。1945年のアカデミー主題歌賞を獲得しました。この曲は発表されたときは、たいしたヒットはしませんでしたが、時間が経つにつれて少しずつ人気が高まってきて、多くのシンガーたちによってレコーディングされ、今では、スタンダード・ナンバーとして定着しました。それは、一見平凡そうに思えた曲が、実は少しも平凡ではない作品だということであり、それは時間が経につれてみんなが感じてくるものであるからだと思います。*****●イット・マイト・アズ・ウェル・ビー・スプリングIt Might As Well Be Spring【春の如く】作詞:オスカー・ハマースタイン二世作曲:リチャード・ロジャース1945年嵐に揺れている柳のように僕は落ち着かない糸で操られている人形のようにびくびくしているまるで春風邪でもひいたような感じだだけど春でないのはわかっている目は星のようにうるんで、ぼんやりと満たされない気持ちだ歌が歌えなくなったナイチンゲールのようにどうして春風邪なんかひいたんだ春でもないのにどこかほかのところにいて見知らぬ通りを歩きやがて会うかもしれない女性から聞いたこともない言葉を耳にしているそうだったらいいのにと僕は思い続ける白昼夢を紡いでいるクモののように僕は忙しいブランコの上の赤ちゃんのように目がまわるクロッカスもバラのつぼみも空を飛ぶコマドリも見ていないのにうきうきしてやるせなく感じられまるでもう春ではないのかと思ってしまう何もかもが春と同じように見える
September 8, 2005
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『Bewitched』(ビイウィッチド)【魅惑されて】この曲は、リチャード・ロジャース&ロレンツ・ハートのコンビの作で、1941年のミュージカル「パル・ジョーイ(Pal Joey)」に挿入されました。このミュージカルの初演は374回と成功しましたが、1952年に再演され、そのときは540回と、初演をさらに上回る大成功となりました。1957年に「夜の豹」という邦題で映画化されました。この曲は、発表されたときには、それほどヒットはしませんでした。それは、ASCAP(アメリカ著作権協会)がラジオ局を相手にストをやっていて、この曲は、ラジオで放送されなかったからだと言われています。しかし、理由はまだほかにもあって、それは、この曲がブロードウェイで歌われていた時の歌詞が今のものと違っていて、もっとどぎついもので、要するに当時のピューリタン倫理にそむくような内容だったからだということもあると言われています。どこで歌詞が変わったかはわかりませんが、その後この曲はフランス語に訳されて、パリでヒットしました。そして、1940年代の後半になってアメリカでも聴かれるようになり、1950年にヒットチャートのトップになり、1951年に「パル・ジョーイ」の全スコアがレコード化されたことにより、1952年に、このミュージカルの再演ということになったわけです。このような過程を経て、この曲は今では多くのジャズ・シンガーが歌うスタンダード・ナンバーとなりました。この曲名は、本当は「Bewitched,Bothered and Bewildered」と言います。「魅せられて、悩まされて、そして当惑させられる」あなたにいかに夢中であるかを並べて愛の告白をするという、遊び人のハートならではの大げさな口説き文句とも言えます。そして、面白いことに、頭文字が「B」で統一されています。*****●ビイウィッチドBewitched【魅惑されて】作詞:ロレンツ・ハート作曲:リチャード・ロジャース1941年《ヴァース》彼は愚か者、私にもそれはよくわっかているわでも愚か者にも魅力はあるものよ私は恋をしていて、抱かれた赤ん坊のようにそれを隠せないこの切ない恋のときめきは、昔感じたものと同じなのにここのところ一睡もしていないのこの取るに足らない、まがいもののような男が私を狂わせるから《コーラス》また気持ちが激しく燃え上がってきて、好奇心でいっぱいなのつくり笑いをしたり泣いたり、すぐ気分が変わる子供みたいに魅せられて、悩まされて、そして当惑させられている私眠れないけれども、眠りたいとは思わないだって、恋がやってきて眠らせなてもらえないんだもの魅せられて、悩まされて、そして当惑させられてしまっている私心を失ってしまった、でもそれがどうしたと言うの?彼は冷たいわ、それはわかっている彼は笑うけれど、私はそれが好きなの私のことを笑っているとしても私は彼のために歌うの、春には必ずそして、彼に抱きつくことができる日を待つの魅せられて、悩まされて、そして当惑させられてしまっている私
September 7, 2005
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『This Can't Be Love』(ディス・キャント・ビイ・ラヴ) この曲は、リチャード・ロジャース&ロレンツ・ハートのコンビの作で、1938年のミュージカル「The boys from Syracuse(邦題:シラキーズから来た男たち)の中の曲で、このミュージカルからは、この曲と「Falling In Love With Love」(昨日9月4日に紹介)が、スタンダード・ナンバーとなり、よく知られています。このミュージカルの最初の上演回数は235回でしたが、1963年にオフ・ブロードウェイ*で再演され、そのときは502回という成功をおさめました。作詞のロレンツ・ハートは、いつもあわただしく現れては、小さな紙に無造作に歌詞を殴り書きして、また、すぐどこかに消えてしまうというものだったと言います。また、ショーの準備に入っても深酒をしていて、一度に二、三日は消えてしまったりしていたとも言います。ロジャースたちは、ハートが消息不明になることについては特に気にならなかったようでした。ロジャース、ハートと仕事をしていた、制作、演出のジョージ・アボットという人はこのように話しています。「ラリー(ロレンツの愛称)は、現れるときは稲妻みたいに素早かった。もし、僕らが新しい歌詞がほしいと言うと、彼は鉛筆と紙を持ってせかせかと隣の部屋へ入っていって、ほんの数分で僕らが必要としているものを書いて戻ってくるのさ。『Falling In Love With Love』を書いたのも、まったくこんな風にしてだった。僕とディック(リチャードの愛称)が何かを話しているときに、彼はそこらにある紙切れのうらに殴り書きして、それを仕上げたんだ」ハートは同性愛者であり、このころは自分の将来を悲観してか、毎日浴びるように酒を飲んでいたと言います。ロジャースはそういう彼の状態をいつも気にしていて、なんとか荒れた生活を止めさせられないものかといろいろやってみるのですが、結局、どれもあまりうまくいかなかったようです。ハートは、そんな酒びたりの生活を続けていたので、だんだんと体調を崩していき、この5年後の、1943年の11月に肺炎でこの世を去ることになります。これは、「やけくそで飲んだくれの人生」を送っていたためのことなのですが、ある意味、自殺行為だったのではないかとも言われているようです。----------【参考】*オフ・ブロードウェイ(Off-Broadway)とは、マンハッタンにある比較的小さい劇場で上演される演劇を指す。ブロードウェイにあっても、劇場が小さければオフ・ブロードウェイと呼ばれる。目安としては500席以下(100-300席という説もあり)の劇場を呼ぶ。さらに小さい劇場で上演されるものはオフ・オフ・ブロードウェイと呼ばれたりする。ブロードウェイではミュージカルが多いのに対して、オフ・ブロードウェイではストレート・プレイ、パフォーマンス、1人芝居、ダンス、ミュージカルなど様々なジャンルの作品が上演されている。*****●ディス・キャント・ビイ・ラヴ This Can't Be Love作詞:ロレンツ・ハート作曲:リチャード・ロジャース1938年これは恋ではないわねだって、私は気分爽快だもの泣きもしない、悲しくもない、ため息もでないこれは恋ではないわね魅せられてめまいがするわけじゃないし私の頭は宙を舞っているわけでもないわ私の心臓の鼓動が止まったりはしない聞いてみて、このビートを!恋と言うには気持ち良すぎるわこれは恋ではないわねだって、私は気分爽快だものでも、あなたの目を見つめるのは好きよ
September 6, 2005
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『Falling In Love With Love』(フォーリング・イン・ラヴ・ウイズ・ラヴ)【恋に恋して】この曲はリチャード・ロジャース&ロレンツ・ハートのコンビの作で、1938年のミュージカル「The boys from Syracuse(邦題:シラキーズから来た男たち)に挿入され、その中では、ミュリエル・アンジェラスが歌いました。このミュージカルの原作は、シェークスピアの「The comedy of errors(間違いの喜劇)」で、シェークスピア作品のミュージカル化の一番最初のものとなりました。1927年に上演された、エドナ・ファーバーのベストセラー小説をもとに、オスカー・ハマースタイン二世が台本を書き作詞をし、ジェローム・カーンが作曲した「Show boat(ショー・ボート)」が、アメリカの最初のミュージカルということになりましたが、これ以降、今までレヴューだったものが物語りを使うようになったため、使用する物語の確保に困るようになり、こういった古典が使われるようになりました。この作品を最初に、このあとシェークスピア作品のミュージカル化がいくつもされるようになります。メジャーな曲調で軽快にスウィングするものが多いのですが、歌の内容は、「恋に恋することは愚か者のすることだ」とわかっているのに、恋に恋してしまうのですが、結局、恋は壊れてしまうというブルーな曲です。*****●フォーリング・イン・ラヴ・ウイズ・ラヴFalling In Love With Love【恋に恋して】作詞:ロレンツ・ハート作曲:リチャード・ロジャース1938年恋に恋するということはないものをあると信じるようなもの恋に恋するということは愚か者のするお遊び何かをすごく好きになるなんて若いときだけの幻想信用することは、小学生の子供たちがちょうど学習していること月の光がいっぱいの、ある夜私は恋に恋してしまった私は愚かにも目が見えなくなっていたいつまでも変わることのない愛によって私は恋に恋してしまったでも、恋は私をつきはなしたのよ
September 5, 2005
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『Spring Is Here』(スプリング・イズ・ヒア)この曲はリチャード・ロジャース&ロレンツ・ハートのコンビの作で、1938年のミュージカル「I Married and Angel(邦題:私は天使と結婚した)」に挿入されました。舞台ではデニス・キングとヴィヴィアン・シーガルによって歌われました。「春」はセンチメンタルな「秋」とは対象的で、恋の芽ばえや恋の成就を象徴する、うかれた感じのする季節で、普通は「春」がつく曲にはハッピーなものが多いようです。しかし、「春なのに・・・」というブルーな曲も結構あるものです。この曲もそういう暗い曲で、「春なのに、私の心はうかない。夢も希望もない。星の美しい夜も、私を招いてはくれない。誰も私を愛してくれる人なんていない。春が来たというのに・・・」という典型的なトーチ・ソングです。曲調はメジャーでさわやかで、メロディーも美しいのに・・・やはり、こういうところはビル・エヴァンスの得意とするもので、私としては彼の、その美しすぎるほどにセンチメンタルな表現が印象的です。----------【参考】「トーチ・ソング(torch song)」とは、片思いや失恋など、恋の痛み、悲しみを歌った泣きの歌のこと。昔はトーチ・シンガーというのがいて、トーチ・ソング専門の歌手がいたくらい、ジャンルとして確立されていたものです。*****●スプリング・イズ・ヒアSpring Is Here作詞:ロレンツ・ハート作曲:リチャード・ロジャース1938年春が来た!どうして私の心は、踊り始めないの?春だというのに!ワルツにうっとりしないのはなぜ?願望なんてない私を引っ張ってくれる野心もないたぶんそれはだれも私を必要としてないからだわ春が来た!どうしてそよ風が私を喜ばせてくれないの?星がたくさん現れても夜は私を招いてくれないのはなぜ?たぶんそれはだれも私を愛してくれないからだわ「春が来た」というだけの話よ
September 4, 2005
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『My Funny Valentine』(マイ・ファニー・ヴァレンタイン)この曲は、リチャード・ロジャス&ロレンツ・ハーツのコンビの作で、1937年のミュージカル「ベイブス・イン・アームス(Babes in arms)」に挿入され、舞台ではミッツィ・グリーンが歌いました。1939年に「Babes in arms(邦題:青春一座)」で、このミュージカルが映画化され、その中ではジュディー・ガーランドが歌いました。この曲は今まで多くのミュージシャンによって演奏、または、歌われ続けてきており、誰もが耳にしたことがあるであろう、大変有名なスタンダード・ナンバーになっています。そして、ロジャース&ハーツの曲の中で、最も有名な曲と言えるでしょう。「ヴァレンタイン(Valentine)」とはキリスト教カトリックの聖人ヴァレンチノの英語読みのことで、聖ヴァレンタインが殉教した2月14日は、「Saint Vaientine's Day(聖ヴァレンタインの日)」として、クリスマスとともにキリスト教の祝日となっています。ところで、聖ヴァレンタインという人は同名の人が何人かいるという説があり、どのような人か本当のところはわかりませんが、一般的に言われているのはこういうことです。西暦3世紀のローマでのことで、時の皇帝クラウディウス二世(在位268-270)は、若者たちがなかなか戦争に出たがらないので、手を焼いていました。その理由は、彼らが自分の家族や愛する人の下を離れたくないからだと考え、クラウディウスは、ついに結婚を禁止してしまったのです。ところが、インテラムナ(イタリア中部にある町で、現在のテラモ)のキリスト教司祭であるヴァレンチノ(英語読みではヴァレンタイン)は、そんな兵士たちを見かねて、内緒で結婚をさせていました。それを皇帝に知られてしまったことから投獄され、ついには西暦270年2月14日に、処刑されてしまったということです。また、自ら禁忌を破って結婚をしたために処刑されたという説もあるようです。いずれにしても、ヴァレンタインという人は愛を称賛した人として、のちにキリスト教の聖者に列せられ、2月14日は、イギリスとアメリカではクリスマスと同じように祝日となりました。しだいに、その日に男性が好きな女性に愛の気持ちをつづった手紙を出すようになり、現在では男女とも、お互いにヴァレンタイン・カードを出すようになりました。そこには「あなたのヴァレンタインより」と書いたり、「わたしのヴァレンタインになって」と書いたりすることもあると言います。女性が、好きな男性にチョコレートを渡すという日本の「ヴァレンタインズ・デイ」は、チョコレート会社の策略にすぎませんね。遊び人で皮肉屋のハートは、ヴァレンタインの名を使って、こんなラヴ・ソングを書きました。「私のへんてこなヴァレンタイン、可愛くて、こっけいなヴァレンタイン、こっけいなあなたの顔は、私を死ぬほど笑わせてくれる。笑える顔、写真写りの悪い顔、ギリシャ彫刻とは全く違う容姿、しまりのない口元」と、ぼろくそに言っていますが、「でも、そんなあなたが私のお気に入り。いつまでも、そのままのヴァレンタインでいてちょうだい!そうすれば、毎日がヴァレンタインズ・デイになるから」ヴァレンタインはそうとうのブサイク?「でも、私は、そんな今のままのあなたが好き」ということを言っています。映画での主人公、ジュディー・ガーランドがお熱をあげている恋人役がミッキー・ルーニーという人で、彼は小柄でずんぐりした俳優で、そのルックスは歌のとおりだったようです。まあ、そんな歌です。ラヴ・ソングには違いないのですが、こんな歌詞の内容なので、結婚式でこの曲をやると、新郎新婦がブサイクだと言っているようなものなのでどうですかね。それに、愛の告白をするときに、この曲を使う場合は、「私のへんてこなヴァレンタイン」なんて、相手がシャレのわかる人でないと、逆に気分を悪くしてしまいますかね?また、この曲はバラードで、しっとりと歌われたり演奏されることが多い曲ですが、歌詞の内容を知らずに、あまりにも切なそうに、しんみりと歌うのは、ちょっと変な気がします。なんてことを考えていたら、私の音楽パートナー、シンガー「かおりん」は自分のホームページで、この曲を語っていました。下記は、かおりんの「My Funny Valentine」の解説から勝手に拝借してきたものです。 『要するに、この曲、『Stay little Valentine Stay!』 ポイントは最後のハイトーン&ロングトーン「STAY!」 お願いだから、ずっと、そのままで・・・・。 きっと、容姿の事をとやかく云っているんじゃないんです。 ずっと、そのまま、、わたしを愛して下さい・・と。 強がりを云う女の、本当はとっても、繊細で弱い部分を、 こんなにストレートにさらけだしている訳ですから、、、、。 だから、この曲は、とっても素敵な愛の告白。 マイナーキィで、ムーディーな曲調ですから、歌い手によって、 辛気くさくなりがちです。 こうして、詞をひも解いて行くと、やさしい気持ちで明るく歌いたいですね。』う~ん、納得、そういうことですね。奥が深いですよ。この曲が書かれた年は、日本は昭和12年です。★「かおりん・うさこ」のページは、↓こちら【Kaorin's Website】 *****●マイ・ファニー・ヴァレンタインMy Funny Valentine作詞:ロレンツ・ハート作曲:リチャード・ロジャース1937年《ヴァース》きらびやかに着飾りし、調子良き友の、これみよがしのさまを見よそれにひきかえ、わがウスノロなる友、そなたそなたは、おのが姿も知らずうつろな眉、くしゃくしゃの髪に良き意図も隠すそなたは気高く実直で正直で、マヌケな紳士なりあなたは・・・《コーラス》私のへんてこなヴァレンタイン 可愛くて、こっけいなヴァレンタインあなたの顔は、私を死ぬほど笑わせてくれるわあなたの顔を見ていると、ふきだしちゃうし写真写りもひどいものだわねでも、そんなあなたは、私のお気に入りのアートなのよあなたの姿は、ギリシャ彫刻のように端正ではないでしょう?あなたの口元はしまりがなくてその口から出る言葉は、ちっともスマートではないでしょう?でも、髪の毛一本たりとも変えないでねもし私のことを想うのならいつまでも、そのままのヴァレンタインでいてちょうだい!そうすれば、毎日がヴァレンタインズ・デイになるのですもの
September 3, 2005
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『My Romance』(マイ・ロマンス)これはリチャード・ロジャース&ロレンツ・ハートのコンビの曲で、1935年のミュージカル「ビリー・ローズのジャンボ(Jumbo)」の中で使われ、ドナルド・ノヴィスとグロリア・グラフトンによって歌われました。1962年に、このミュージカルは映画化され、そこではドリス・デイがこの曲を歌いました。「私の愛の物語には月なんかはいらない。青いさんご礁も、5月の陽気もきらめく星の光も、ひっそりと隠れた場所もギターのソフトな音もいらない。私の愛の物語には、あなた以外は何もいらない」「二人の人間が本当に愛し合っているのなら、ありふれたロマンチックな小道具などはいらない」という歌です。ロマンチックな格調高い曲風からか、ビル・エヴァンスが好んで演奏していました。*****●マイ・ロマンスMy Romance作詞:ロレンツ・ハート作曲:リチャード・ロジャース1935年私の愛の物語には月なんかはいらない。 私の愛の物語には、青いさんご礁がそばになくてもいい5月の陽気も、きらめく星の光もいらないひっそりと隠れた場所も、ギターのソフトな音もいらない私の愛の物語には、そそりたつスペインの城なんかいらないたえず変化するメロディーにあわせて踊らなくてもいいはっきり目がさめていても私はどんな幻想的な夢も見ることができるから私の愛の物語には、あなた以外は何もいらない
September 2, 2005
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『Blue Moon』(ブルー・ムーン)これは、リチャード・ロジャース作曲、ロレンツ・ハート作詞の1934年の作品です。始めは「The Player」という曲名で映画のために書いたものだったのですが、その映画は未完成のために使われなかったため、「Manhattan Melodrama」という映画に「The Bad In Ever Man」という曲名で使われました。そのあと、歌詞を変えてもう一回書き直して、そのときに「Blue Moon」という曲になりました。この曲は映画やミュージカルのために書いたものではなく、楽譜だけが単独で出版され、彼らの作品の中では一番楽譜が売れたといいます。このあと、非常に多くの映画に使われ、スタンダード・ナンバーとなりました。「Blue Moon」という言葉はハートの作った言葉のようで、「憂うつ」「寂しい」「悲しい」といった意味のある「Blue」という言葉と、「夢」という意味ももつ「月」の「Moon」という言葉をつけたものです。「憂うつな寂しい月、ブルー・ムーン」に、一人ぼっちの私を見られてしまいますが、突然、私が恋こがれていた人が現れて「私を愛してください」と囁く声が聞こえます。すると、今までの青く寂しい「ブルー・ムーン」は金色に変わって見えたという恋の歌です。*****●ブルー・ムーンBlue Moon作詞:ロレンツ・ハート作曲:リチャード・ロジャース1934年《ヴァース》遠い昔、私がまだ笑うことすら知らないころ私は月の光が大嫌いだった詩人たちが粋だなんて言う夜の影も月の光と同じように無味乾燥にしか見えなかった待つ人なんか誰もいなかったから私は10時には寝た誰よりも寂しいこの私にとって人生は苦い飲み物のようだった遠い昔、私の心はただの臓器にすぎなかった私の生活には、これといった目的もなかったでも今の私にはあなたがいるモーガン財閥*ぐらいの金持ちになる野望さえも持つようになったかつて私は朝の明るさをののしりながら7時に起きたのが今は目をさますと天国にいるのかと思うくらい世界は何もかも素晴らしいという気持ちだわ《コーラス》ブルー・ムーン、あなたに私が一人ぼっちなのを見られてしまったわ心に夢もなく、恋人もいない一人ぼっちの私をブルー・ムーン、あなたに私がつぶやいているのを聞かれてしまったわ誰か本当に愛せる人が欲しいと私が頼んでいるのをするとそのとき私の目の前に私の腕がいつも抱きしめていたいと思うただ一人の人が突然現れて「どうか私を愛してください」と囁く声が聞こえたの見るとブルー・ムーンが金色に変わって輝いていたわ!ブルー・ムーン、もう私は寂しくないわもう、心に夢もなく恋人もいなかった私ではないのだから----------【参考】*モーガン財閥モーガンとは「John Pierpont Morgan」(1837-1913)という金融家のことで、「On The Sunny Side Of The Street」というスタンダード・ナンバーの中に出てくるロックフェラーと同じように19世紀後半20世紀前半にかけて大財閥を築き上げた人物のこと。
September 1, 2005
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