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『Manhattan』(マンハッタン)これは、リチャード・ロジャース作曲、ロレンツ・ハート作詞の作品で、1925年のレヴュー「ザ・ギャーリック・ゲイティーズ(The Garrick Gaieties)」の中の曲です。これまで、このコンビで曲を書き続けていましたが、これといったヒットがないまま6年あまりが過ぎ、ロジャースはサラリーマンになることを真剣に考え始めたころ、この曲が大ヒットしました。これが、このコンビの最初のヒット曲になったもので、これによって、このコンビはガーシュウィンなどがいたハームス・ミュージックと契約し、次々とミュージカル作品を、ブロードウェイやロンドンに送り出すのでした。このとき、日本は大正時代。1929年の大恐慌、第二次世界大戦以前の希望に満ちあふれたニューヨーク。楽しみ幸せに満ちあふれたマンハッタンは、みんなのあこがれの夢の街で、当時のマンハッタンの素晴らしさを歌っています。「僕らはマンハッタンを喜びの島に変えるんだ」楽天的な遊び人のハートらしい歌詞です。*****●マンハッタンManhattan作詞:ロレンツ・ハート作曲:リチャード・ロジャース1925年《ヴァース》ナイアガラかどこかへ行く夏の旅はイライラを増やすだけだから、旅費は節約しよう昔からあるマンハッタンの一角に僕は小さなアパートを借りているんだ僕らは街の中のこの場所に落ちつこうじゃないか《コーラス》ここにはマンハッタンにブロンクスとスタテン島もあるよ動物園を一巡りするのは楽しいねくたびれたデランシー通りだって考えようによっちゃあ粋(いき)じゃないか地下鉄のブレーキの圧搾空気だって満員電車の中では快いそよ風に感じるし7月のモット通りと比べられるような通りがほかにあるかな魚売りの手押し車のかぐわしい香りもただよってくるこの大都会はお坊ちゃんとお嬢さんのためにつくられた夢多きおもちゃなのさ僕らはマンハッタンを喜びの島に変えるんだ
August 31, 2005
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『Do Nothin' Till You Hear From Me』(ドゥー・ナッシン・ティル・ユウ・ヒアー・フロム・ミー)これは、もともとは、「Concerto For Cootie」という曲で、1939年に、デューク・エリントンがトランペッターのクーティ・ウイリアムスのために作曲したインストゥルメンタル・ナンバーで、1940年にレコーディングされました。1943年にボブ・ラッセルによって歌詞がつけられ、ヒットをねらったのですが、結局そのときはたいしてヒットしませんでした。その後、ビリー・ホリデイなどのジャズ・シンガーに歌われるようになって、少しづつ人気が出てきて、今ではスタンダード・ナンバーとして、すっかり定着しています。「僕の口から話を聞くまでは何もしてはいけないよ、周りの噂話なんか気にしてはだめだよ」「君を裏切ってはいない」と、一生懸命恋人に説明をする歌です。***** ●ドゥー・ナッシン・ティル・ユウ・ヒアー・フロム・ミーDo Nothin' Till You Hear From Me作詞:ボブ・ラッセル作曲:デューク・エリントン1939年1943年(歌曲として)《ヴァース》だれかがだれかに話し、そのだれかが君にそれを話したでも、みんな君を傷つけようというつもりではなかったと思うよだれだってそういう噂話は自分流の解釈をして人に伝えるものだから《コーラス》僕の口から話を聞くまでは何もしてはいけないよ周りの噂話なんか気にしてはだめだよどうして他人の夢を壊そうとする人がいるのか僕にはわからない問題さ僕の口から話を聞くまでは何もしてはいけないよとにかく僕たちの恋を考えておくれ君が耳にした噂話なんかを信じようものなら僕の立つ瀬はなくなってしまうだろう僕が新しい女性と一緒にいるところをだれかに見られたのは確かだけれどでも、それが君を裏切ったことになるわけではないだろう?僕らが別れていても僕が心の中で思う言葉は僕の君への気持ちをあらわしてくれているだれかとするキスは僕の思いを曇らせるかもしれないだれかと抱き合えば魅了されることもあるだろうだけど、頼むから僕の口から話を聞くまでは何もしないでおくれそうしたら絶対に後悔はさせないよ
August 30, 2005
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『Perdido (Lost)』(パーディド (ロースト))これは、デュークエリントン楽団のトロンボーン・プレイヤーのファン・ティーゾが作曲し、1942年にインストゥルメンタル・ナンバーとして発表されたものに、1944年にハリー・レングスフェンダーとアーヴィン・ドレイクが作詞しています。1937年の「Caravan」とともにファン・ティーゾのヒット曲になりました。ファン・ティーゾはプエルト・リコのサン・ファンの出身で、彼の曲にはアフリカの言葉やプエルト・リコ周辺で使われているスペイン語の曲名がついていて、ラテン色の濃い、エキゾチックな雰囲気を出しています。この曲名の「Perdido(パーディド)」というのはスペイン語ですが、カッコして「Lost」という英語の記載がされているように、「失われた」「途方にくれてしまった」というような意味で、歌詞の内容は、お祭りで出会った女性と踊ってキスをして抱きしめてサヨナラと言った。それ以来「僕は心を失ってしまった」、「僕は放心状態になってしまった」というものです。----------【参考】■プエルト・リコ [Puerto Rico] 西インド諸島、大アンティル諸島東端にある島。16世紀からスペイン領であったが、1898年アメリカ-スペイン戦争の結果アメリカ合衆国領、1952年アメリカ自由連合州(準州)となる。サトウキビ、タバコ、コーヒーを産する。住民の大半はスペイン系白人。中心都市サン・ファン。面積8900平方キロメートル。*****●パーディド (ロースト)Perdido (Lost)作詞:ハリー・レングスフェンダー アーヴィン・ドレイク作曲:ファン・ティーゾ1942年1944年(歌曲として)パーディド、僕の心はどこかへ行ってしまったパーディドしちゃったんだトリドへ行く途中でなくしてしまったお祭りが始まった日だったみんながボレロ(*1)を踊っていたんで僕も体をゆらしたんだ傾けたソンブレロ(*2)の下でキスをしたそのとき僕の心はどこかへ飛んでいってしまった彼女を抱きしめた時はまだ太陽が高かった「さよなら」と言った時はもう月が低かったパーディド、それ以来僕の心は失われてしまったどうしてもトリドへ行かなくてはならない失ったものを、パーディドしたものを見つけるために----------*1) ボレロ [(スペイン語) bolero] もともとは18世紀の末から広まったスペインの舞踊、またその舞曲。四分の三拍子で、踊り手の打つカスタネットが独特のリズムをもつ。ここでは中米のラテン・リズムの一つとなっているもので、ルンバよりも遅く、やや静かなリズム。*2) ソンブレロ [(スペイン語) sombrero] スペインやメキシコなどで用いられる、山が高くつばの広い帽子。
August 29, 2005
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『Satin Doll』(サテン・ドール)これは、ビリー・ストレイホーンが作曲したインストゥルメンタル・ナンバーで、1953年に発表され、デューク・エリントン楽団の曲として有名になりました。そして、その5年後の1958年にジョニー・マーサーによって歌詞がつけられました。軽くスイングするリズムとシンプルで親しみやすいメロディーのためか、日本でも、ジャズ・プレイヤーにジャズ・シンガーにリスナーにと人気がある曲で、さかんに演奏されるスタンダード・ナンバーになっていますが、ジョニー・マーサーが作詞しただけあって、歌詞の解釈がいろいろあって奥の深い曲といえます。曲も素晴らしいですが、歌詞も、さすがジョニー・マーサーといえるものです。「Satin Doll (サテン・ドール)」とは「サテンの人形」ということになります。「サテン」とは繻子(しゅす)織りという織り方をした織物のことで、一般的に「緞子(どんす)」と呼ばれる織物です。緞子は、もともとは絹織物の名称でしたが、今は化繊や、混紡のものが多くなりました。緞子は、縦糸が横糸を何本も飛ばして織り出されるため、生地表面は長く浮いた縦糸で覆われます。そのため生地はすべすべしていてなめらかで柔らかく、光沢があるのが特徴です。欠点は生地の強度が弱く、スレやすいこと(糸抜けしやすい)とあります。要するに、デリケートなものといえるのですね。生地の素材には、おもにレーヨン、ナイロン、絹(シルク)が用いられます。生地はこれらの原料の糸から織られますが、この当時は絹(シルク)のもののことでしょう。まあ、チャイナドレスを想像してみてください。それですよ。ということで、なんともセクシーでゴージャスな人形というイメージができましたか?そういうことです。「Satin Doll」とは、売春婦のことを言っていると解釈する人もいますが、 はっきりとそういいきれるというわけではありません。、街を歩いていると、だれもが振り返るような「セクシーでいい女」とでもいったところでしょうか?冒頭の歌詞は、「Cigarette holder which wigs me」「シガレット・ホルダーが僕の気をそそる」「wig 」とは本来「かつら」の意味なのですが、髪、頭から転じて「興奮する、興奮させる」というスラングです。こういうスラングはジャズメンが使い始めて一般化するものが多く、これももともとジャズメンの言葉だといいます。「Over her shoulder she digs me」「肩越しに彼女は思わせぶりに僕を見る」「dig」の本来の意味は「掘る」ですが、これもいろいろな意味のあるスラングで、「好む、味わう、関心を示す、熱中する、理解する」などといった意味があり、特にジャズでは「好き」とか「理解する」という意味に使われます。ということで、この彼女が「Satin Doll」ということです。男の立場で歌っている歌詞なので、女性シンガーが歌う場合、ここの「she(彼女)」を「he(彼)」に変えて歌っているものもありますが、そうするとなんともややこしく、おかしな意味のものになってしまうので、ここは「she」のままで、「me(僕)」を「him(彼を)」として第三者として歌うほうが良いと思います。「なんか彼女はオレに気があるんじゃないのかな」と思ってうきうき気分で誘ってみると、軽くあしらわれてしまうようです。そこで、「Doing my rhumbas with uno」「こうなったら最高の彼女を相手に、僕はルンバでせまるのさ」「uno」とはスペイン語で「一つ」という意味ですが、「ナンバー・ワン」とか「最高」ということで、「Satin Doll」のことを指していると解釈してみました。そして、「rhumba(ルンバ)=rumba」という言葉もにも多くの意味が含まれているようです。「ルンバ」 とはスペイン語で、もともとは19世紀初頭、キューバのアフリカ系住民の間からおこった舞曲、また、その踊りのことで、活気にみちた速い四分の二拍子のリズムに特色があるということです。しかし、ここでいうルンバとは、ラテンのダンスの一つの種類として社交ダンスの中に取り入れられたもののことで、キューバのそれとはかなり変化しているものと思いますが、情熱的な愛のダンスであるということです。最初は、男女が別々に踊り、そのうち女性が男性を誘惑するような踊り方を始めます。男性は、そんな女性の胸やお尻に触れようとします。つまり誘いに乗るわけです。女性は、男性のアタックをかわしながら、更に男性を誘うようにセクシーに踊るのです。つまり、セックスを色濃く表現しているという踊りになるのです。 ルンバとは社交ダンスではラテン種目の基本ともいえるダンスで、比較的ゆったりとしたテンポ(一分間に95~100拍ぐらいの四拍子)の音楽で踊る愛のダンスです。ルンバとは、そういうダンスなので、ここはサテン・ドールをくどくためにルンバを踊ろうというわけです。最後に、「And that'n' my Satin Doll」「そういうわけで、あそこを行くのが僕のサテン・ドールさ」 「that'n'」は「that and」の略で正確には「that's that」といった言葉の略で、「こういうこと」とか「そういうこと」といった意味になるということです。彼女はまだ完全に自分のものではないのに、自分だけがそう思っている、自分のものだといいふらしたいという気持ちが、ちらっと現れている一節です。スラングだらけで、そのうえ全体が風刺的だとも思える歌詞なので、言葉を細かく詮索すると、いろいろな意味に取れるというものです。そのためこの曲は、本当の意味をつかむのはなかなかやっかいで、それよりも感覚的にとらえて、プレイヤーは「自分なりの解釈でどう表現するか」ということが重要な曲だといえるようです。*****●サテン・ドールSatin Doll作詞:ジョニー・マーサー作曲:デューク・エリントン ビリー・ストレイホーン1953年1958年(歌曲として) シガレット・ホルダーが僕の気をそそる 肩越しに彼女は思わせぶりに僕を見るえものをあさるように・・・、あれがサテン・ドールさねえ、僕と一緒にうきうきと歩こうよおっと気を付けないと兄弟、熱を上げすぎちゃだめだぞ(自分に言い聞かせる)粋(いき)なことを言う、あれがサテン・ドールさ彼女はバカじゃない、だから僕もクールにいかなくちゃひとつやってみるだけさ、でも本当に彼女につかまるのはごめんだ電話番号は、えっ、たくさん知ってるねこうなったら最高の彼女を相手に、僕はルンバでせまるのさそういうわけで、あそこを行くのが僕のサテン・ドールさ
August 28, 2005
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『C-Jam Blues (Duke's Place)』(シー・ジャム・ブルース(デュークス・プレース))この「Cジャム・ブルース」という曲は、デューク・エリントンが作曲したものです。この曲は、1941年に作られたらしく、この年に、エリントン楽団のクラリネット・プレイヤーのバーニー・ビガードがレコーディングしており、そのときは「”C”Blues」という曲名になっていたそうです。そして、その翌年の1942年に、デューク・エリントン楽団によってレコーディングされたとき、 「C-Jam Blues」という曲名になったといいます。インストゥルメンタルのシンプルなリフのブルース・ナンバーなので、ジャム・セッションでも人気があり、よく知られている曲です。 そして、1950年代後半になって、プロデューサーのボブ・シールが、これに歌詞をつけたいと考えて、友達のルース・ロバーツとビル・キャッツの助けを借りて歌詞が作られました。そのとき、この「C-Jam Blues」は「Duke's Place」という曲名になりました。いまでは、インストゥルメンタルのときには「C-Jam Blues」といい、ヴォーカル入りのときには「Duke's Place」という曲になるという、2つの曲名を持つ楽曲となりました。当初は、この曲を歌う人はあまりいなかったといいますが、それでも少しずつ歌われるようになってきています。ルイ・アームストロングのものと、エラ・フィッツジェラルドのものが有名です。「C-Jam Blues」は、個人的にはレッド・ガーランドのものが好きです。*****●デュークス・プレースDuke's Place作詞:ボブ・シール ルース・ロバーツ ビル・キャッツ作曲:デューク・エリントン1942年(「C-Jam Blues」として)さあ、僕をデュークス・プレイスに連れてってくれ街で一番のところさ、デュークス・プレースはあのデュークス・プレースのピアノの音はたまらないねデュークス・プレースではサックスの音が魔法となってデュークス・プレースでは男たちは恋人と踊りまくるんださあ、デュークス・プレースで君も楽しみなよ空いている席を見つけて何か食べたいのなら見回して「ウエイター」って呼ぶのさカップには夢をいっぱいに盛っていっきに飲みほしてしまおうよ女の子と一緒なので、君は微笑みっぱなしさ3時だけど、まだまだ早いさまだデュークス・プレースに行ったことがないのなら商売女なんかも連れてデュークス・プレースへ行こうデュークス・プレースじゃあ人生がぐるぐる回るんださあ、みんな、デュークス・プレースにおいでよ
August 27, 2005
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Take The "A" Train』(テイク・ジ・エイ・トレイン)【A列車で行こう】この曲は、デューク・エリントン楽団のテーマ曲としてよく知られています。したがって、この曲をデューク・エリントンの作だと間違う人も少なくありませんが、これは、エリントンの片腕として作詞、作曲、編曲件ピアニストをしていた、ビリー・ストレイホーンの作詞、作曲によるもので、1941年に作られた曲です。この年は日本は昭和16年で、日本がハワイ真珠湾を攻撃した年です。当時、ラジオ局はASCAP*ともめていたため、エリントンの曲が使用できなかったので、ASCAPと無関係のストレイホーンのこの曲が使用されることになったそうです。日本でも、ジャズのスタンダード・ナンバーとしては最も知名度の高い一曲といえるでしょう。ビリー・ストレイホーンは、この曲のほかにも、「Lush Life」、「Satin Doll」、「Day Dream」など優れた作品を多く書き、エリントンが書いたのかストレイホーンが書いたのかわからないものも数多くあるといいます。「"A" train(A列車)」とはニューヨークをほぼ南北に走る地下鉄「Aライン」の急行列車のことで、各駅停車の列車ことは「"C" train(C列車)」というそうです。「ハーレムの”シュガー・ヒル”に行くのならA列車に乗らなくちゃ」シュガー・ヒルとはニューヨークのハーレム地区の143丁目から155丁目のあたりで、裕福な黒人たちが住む高級住宅街で、このころエリントンは、このシュガー・ヒルである155丁目に住んでいました。つまり、この曲は「シュガー・ヒルに住むエリントンのところに行くのならA列車に乗るのが一番速いよ」それは、言い換えれば、「エリントンのように成功したいのならA列車に乗ることだね」ということを言っているのではないかと思います。そして、そのことはまさにステレイホーンが23歳の時、田舎からニューヨークに出てきて希望と不安の中、雲の上にいるようなエリントンのところに思い切って会いに行った自分のことを、この曲に書いたのではないでしょうか。この曲もインストゥルメンタル的なメロディーで、歌詞をつけるのは難しかったでしょうし、シンガーにとっても、歌いにくい曲であると思います。私の持っている譜面にヴァースはありますし、この曲を歌っている人もたくさんいますが、私は、ヴァースを歌っているものを聴いたことがありません。----------【参考】*ASCAPとは、「American Society of Composers, Authers and Publishers」の略。米国音楽著作権団体のこと。米国の作曲家や音楽出版の70%~80%が参加している音楽著作権管理する団体の名称。1914年にニューヨークで設立され、現在は約68,000人が会員になっている。1995年に世界で初めて、インターネットなど、サイバースペースにおける音楽送信に関する著作権料の徴収をまとめた。*****●テイク・ジ・エイ・トレインTake The "A" Train【A列車で行こう】作詞:ビリー・ストレイホーン作曲:ビリー・ストレイホーン1941年《ヴァース》ハーレムへ行きたいんだったらシュガー・ヒルをのぼってそこは、何かで読んだことのあるダンスをする足が止(や)むことのないところ《コーラス》ハーレムのシュガー・ヒルへ行きたいんだったら”A”列車に乗らなくちゃあの列車に乗り損ねるとハーレムへの近道を逃してしまうよさあ、急いで、もう列車が来るよほら、レールが音をたてているのが聞こえるだろさあ、みんな”A”列車に乗って!すぐにハーレムのシュガー・ヒルに着くさ
August 26, 2005
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『In A Mellow Tone』(イン・ナ・メロウ・トーン)この曲は、1940年にデューク・エリントンが作曲したものに、あとからミルト・ゲイブラーが歌詞をつけたものです。私の持っている資料では、歌詞がつけられたのは1955年となっています。この曲は、インストゥルメンタル・ナンバーとして有名になり、エリントン楽団はもちろんのことですが、ビッグ・バンドの定番として演奏されています。これは、古くからあるスタンダード・ナンバーのコード進行を使ってメロディーを書いたもので、このあと、バップ・プレイヤーによって既存の曲のコード進行を使って別のメロディーをつけたり、アドリブをメロディー化したりして別の曲にするということが、さかんに行われるようになります。そうすれば、簡単にオリジナル曲を作ることが出来て、曲の著作権料を支払わなくてすむという理由からだということのようです。やはり、もともとインストゥルメンタルの曲として書かれたためか、あまり歌いやすいメロディーとは言えませんが、それでも、スタンダード・ナンバーとして、かなり多くのシンガーに歌われている曲になっています。シンプルですが黒人的なムードがよく出ている曲です。「メロウ(Mellow)」とは、ふつうは「やわらかい」とか「優しい」とか「まろやか」というような、果物が熟したときの甘いといった意味で使われますが、この場合のような、黒人英語やジャズにおいては「すばらしい」ということを意味する言葉です。「すばらしい音に包まれていると、私の人生は幸せだわ」という内容の歌詞です。*****●イン・ナ・メロウ・トーンIn A Mellow Tone作詞:ミルト・ゲイブラー作曲:デューク・エリントン1940年1955年(歌曲として)メロウな(すばらしい)音に包まれていると、のんびりした気持ちになるわ私は一人ぼっちじゃない、仲間がいると感じる一日中、何もかも全てがうまく行きこのメロウな(すばらしい)音に包まれていると、私はとてもいい気分だわメロウな(すばらしい)音に包まれていれば、人生は素敵だわめいってしまってふさいでいたら、体がダメになってしまうただ自分の道を進み、そして笑って演奏するのよメロウな(すばらしい)音の中には、きっと喜びがあるはずだから
August 25, 2005
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『In A Sentimental Mood』(イン・ナ・センチメンタル・ムード)この曲はデューク・エリントンが1935年に作曲したインストゥルメンタル・ナンバーに、あとから歌詞がつけられたようですが、そのときはデューク・エリントンが作詞したことになっていたのが、しばらくするとアーヴィング・ミルズが作詞したことになり、最近のものには、アーヴィング・ミルズとマーニー・カーツの共作になっています。このマーニー・カーツという人も、エリントンとミルズの影に隠れてしまっていた人と言えるでしょう。推測するには、例によってアーヴィング・ミルズがマーニー・カーツに作詞させたのに、始めは名前をクレジットしなかったのですが、あとになって、名前を入れなければならなくなったといったことではないでしょうか。エリントンが母の死を悲しんだ、センチメンタルな気分の中で書いたと言います。「こんなセンチメンタルな私を、あなたが愛してくれるなんて私は夢にも思わなかった」歌詞の内容は、センチメンタルな愛の歌になっています。この曲は、今では大変に有名なスタンダード・ナンバーになっていますが、1935年に、エリントン楽団のものがチャートの14位に入ったぐらいで、たいしてヒットはしませんでした。作られたときには、たいしてヒットしなかった曲でも、このように良い曲の場合は、長く愛される曲になるということです。*****●イン・ナ・センチメンタル・ムードIn A Sentimental Mood作詞:アーヴィング・ミルズ マーニー・カーツ作曲:デューク・エリントン1935年センチメンタルな気分の中星が私の部屋に光を差し込んでくれるあなたの愛に満ちたやさしさはまるで暗闇を照らしてくれる炎のようキスをするたびにどこからともなく不思議な甘いメロディーが流れてくるこのセンチメンタルな至福のなかあなたは私の天国を完全なものにしてくれるバラの花びらが散っていくあなたが私のものだなんてまるで夢のようこの夜をあなたが輝かしいものにしてくれる私の心は軽やかに躍っているこのセンチメンタルな気分の中で私は天にものぼるほどの世界にいるこんなセンチメンタルな私を、あなたが愛してくれるなんて私は夢にも思わなかったわ
August 24, 2005
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『Solitude』(ソリチュード)この曲は、デューク・エリントンがインストゥルメンタル・ナンバーとして作曲し、1933年にエリントン楽団でレコーデイングされたものに、1934年にエディー・デランジの作詞によって歌詞がつけられました。アーヴィング・ミルズもクレジットに入っていますが、例によって名前だけのことでしょう。1934年に歌詞がつけられたことによってヒットし、ASCAP*の年間最優秀賞となり、2500ドルの賞金をもらいました。やはりヒットするための条件としては、歌詞があるということのようです。「solitude(ソリチュード)」とは、「孤独、寂しさ、寂しい場所」といった意味で、この曲は寂しい歌です。----------【参考】*ASCAPとは、「American Society of Composers, Authers and Publishers」の略。米国音楽著作権団体のこと。米国の作曲家や音楽出版の70%~80%が参加している音楽著作権管理する団体の名称。1914年にニューヨークで設立され、現在は約68,000人が会員になっている。1995年に世界で初めて、インターネットなど、サイバースペースにおける音楽送信に関する著作権料の徴収をまとめた。*****●ソリチュードSolitude作詞:エディー・デランジ アーヴィング・ミルズ作曲:デューク・エリントン1934年過ぎ去った日々の夢とともにあなたの面影が、孤独で寂しい私につきまとう消え去ることのない思い出の中であなたは私を傷つける私はいすに座り、絶望でいっぱいになるこんなにも悲しい思いをすることはない憂うつな気落ちで、私は座ってじっと見つめるもう気が狂ってしまいそう孤独の寂しさの中で私は祈る天の神様、お願いです私の愛する人をかえしてください
August 23, 2005
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『It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)』(イッツ・ドント・ミーン・ア・シング(イフ・イット・エイント・ガット・ザット・スウィング))【スウィングしなけりゃ意味ないね】この曲は、1932年にデューク・エリントンが作曲したインストゥルメンタル・ナンバーに、1934年Iに、アーヴィング・ミルズが作詞したものです。この曲の題名は、よく「It Don't Mean A Thing」 とだけになっていますが、それだと、「スウィング(swing)」という言葉が入っていません。「It Don't Mean A Thing If It Ain't Got That Swing」ということで、「”スウィング”がなければ意味ないじゃん」という意味になりますが、題名としては長すぎるということなのでしょうか、「It Don't Mean A Thing 」となっているものがほとんどで、カッコして 「(If It Ain't Got That Swing)」と追記されていることがあります。「スウィング(swing)」という言葉については、前にも説明していますが、ジャズでスウィングという言葉が使われ始めて、ベニー・グッドマン楽団などのスウィング・スタイルと呼ばれるバンドが一世を風靡するようになった、いわゆる「スウィング時代」は、1935年から1946年とされているので、この曲の作られた1934年においては、初めて「swing」という言葉が使われたものであり、この曲が「swing」という言葉のブームを作った、はしりのものであるといわれています。そして同時に、この曲は「ジャズはスウィングが命である」ということをも認識させるに至った、重要な曲であるといえます。 ■参照⇒[March 15, 2005]の日記 「ジャズのスウィングの意味」 ■参照⇒[August 11, 2005]の日記 「A Fine Romance」 「この曲を完璧にするためには、メロディーでも音楽でもない何かもっとほかにある。スイートだろうがもホットだろうが、そんなことは関係ないね、とにかくスウィングしなくっちゃ意味ないね!」まさにジャズの真髄、ジャズのキーポイントを歌ったものです。「ジャズというものは頭でやるものではなく、身体でのるもの」この歌の意味が、理解できるようになったら、本当のジャズ・マニアといえるでしょう。*****●イッツ・ドント・ミーン・ア・シング(イフ・イット・エイント・ゴット・ザット・スウィング)It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)【邦題:スウィングしなけりゃ意味ないね】作詞:アーヴィング・ミルズ作曲:デューク・エリントン 1934年《ヴァース》メロディーのどこがいいの?音楽のどこがいいの?もし、素敵なものが、そこにないのならこの曲を完璧に素晴らしいものにしているのはメロディーでも音楽でもない何かもっとほかのものよ《コーラス》スウィングしなくっちゃ意味ないじゃないドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッまったく意味がないでしょさあ、歌って歌ってドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッスイートだろうがホットだろうが、そんなことはどっちだっていいのそのリズムに全てをぶつければいいのよとにかくスウィングしなくっちゃ意味ないのよ!ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ、ドゥワッ
August 22, 2005
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『Sophisticated Lady』(ソフィスティケイテッド・レディー)洗練されたように見せかけている女性この曲は1933年にデューク・エリントンにより書かれたインストゥルメンタル・ナンバーに、ミッチェル・パリッシュとアーヴィング・ミルズが作詞したとありますが、「Mood Indigo」のところでも触れたように、実際はミッチェル・パリッシュの作詞で、アーヴィング・ミルズは名前だけクレジットされているにすぎないと思われます。エリントンが通った学校の女性教師をイメージして書かれたものでしたが、この歌詞の内容は、エリントンが想い描いていたものとは違うものだったといいます。「Sophisticated lady」とは「洗練された女性」「高尚な女性」「気取った女性」といった意味ですが、この曲の中の女性は本当に洗練されているわけではありませんでした。「タバコを吸い、酒を飲み、明日のことなど考えない生き方、ダイヤを輝かせ、レストランで男と食事をし、ダンスをする」しかし、それは彼女が本当に望んでいることではありません。まだ、昔の恋人が忘れられなくて、誰もいないところで泣いています。「ソフィスティケイテッド・レディー」は悲しい女性ですね。エリントンらしい美しいメロディーとコードのモダンな曲で、一般的にはスロー・テンポで演奏されます。*****●ソフィスティケイテッド・レディーSophisticated Lady作詞:ミッチェル・パリッシュ アーヴィング・ミルズ作曲:デューク・エリントン1933年君は若いときに大きな恋を経験したそうだねそして君の心に大きな炎が燃え上がったある日、燃え上がった炎も消えてしまったそれから、その目の奥深くには絶望の色をしのばせ恋する愚か者も、やがては利口になるということを知ったんだねその歳月が君を変えてしまったということは僕にも見て取れるよタバコを吸い、酒を飲み、明日のことなど考えもせず、無頓着に生きダイヤを輝かせ、レストランで男と食事をし、ダンスをするそんなことが、君が本当に望んでいることの全てなのかい?もちろん、違うよね洗練された女性の君のことだ僕にはわかっているよ君がまだ、昔の恋人のことが忘れられないということをそして、誰もいないところで君は泣いているんだね
August 21, 2005
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『Mood Indigo』(ムード・インディゴ)死にたくなる気分この曲は、1930年にデューク・エリントンが作曲した「Dreamy Bluse」というインストゥル・ナンバーに1931年になってアーヴィング・ミルズとバーニー・ビガードが歌詞をつけたものです。作詞された時点に「Mood Indigo(ムード・インディゴ)」という題名になりました。「You ain't been "blue" no,no,noYou ain't been "blue", till you've had that mood "indigo"」「君はブルーだといってもたいしたことないよ、とんでもない。君はブルーだといったってどうってことないさ、インディゴの気分になるまではね」「blue(ブルー)」は「青い」ということで、「めいった気持ち」「憂うつな気持ち」のことをいいますが、「そんなものはどうってことはないんだ、インディゴの気分になるまではね」と、「indigo(インディゴ)」の藍(あい)色の気分は死にたくなるほど悲しいのです。ブルーをはるかにこえる悲しみのインディゴ、そんなインディゴの気分を歌っています。「When I get that "mood indigo" I could lay me down and die」「"インディゴの気分"になると横になって死んでもいいと思ってしまうんだ」アーヴィング・ミルズは、楽譜出版社、作詞、ブッキングマネージャーといったことをし、歌手として歌も歌ったといいます。ミルズは、エリントンの曲に多く作詞しており、エリントン楽団を発掘しプロモートして、エリントン楽団をトップに押し上げたのは、彼の力によるところも大きいと評価されています。バーニー・ビガードはエリントン楽団のクラリネット奏者で、エリントン・サウンドには欠かせない存在でした。この曲のクレジットは、ミルズとビガード作詞、エリントン作曲となっていますが、本当のところは、作詞はミッチェル・パリッシュという人で、作曲はバーニー・ビガードであり、そこへミルズとエリントンが入り込んできたということのようです。曲のクレジットとは法的なもので、名前さえ入り込めばよいというものなので、実際とは違う場合もよくあるものです。エリントンと誰かが共作になっているようなものは、実際に作曲したのはエリントンではないと考えた方がいいでしょう。ミッチェル・パリッシュは、ミルズが彼の才能を評価し自分の出版社に入れた人なので、ミルズの影にかくれてしまうことが多かったことでしょう。世の中とはそんなものです。*****●ムード・インディゴMood Indigo作詞:アーヴィング・ミルズ バーニー・ビガード作曲:デューク・エリントン1931年君はブルーだといってもたいしたことないよ、とんでもない君はブルーだといったってどうってことないさ、インディゴの気分でないのならあのインディゴ気分ときたら靴の底まで沈んでしまうように重苦しいんんだそういうときは、俺は座ってため息をついて「おまえなぁ、どこかにいっちまえよ」って言うんだけどね恋人が去っていってしまったから、俺はいつもインディゴ気分さ暗い明かりがともされるころは、寂しくなって泣いているよ誰も俺のことを気にもかけてくれないからこれ以上悲しいやつはいないというほど、俺は悲しい男さインディゴの気分になると横になって死んでもいいと思ってしまうんだ君はブルーだといってもたいしたことないよ、とんでもない君はブルーだといったってどうってことないさ、インディゴの気分でないのならあのインディゴ気分ときたら靴の底まで沈んでしまうように重苦しいんんだそういうときは、俺は座ってため息をついて「おまえなぁ、どこかにいっちまえよ」って言うんだけどね
August 20, 2005
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●ジャズのラテン・リズムについて「ラテン・リズム(Latin rhythm)」という言葉はアメリカ英語で、「ラテン・アメリカン・リズム(Latin-American rhythm)」を略した言いかたです。「ラテン」とは、本来は地中海沿岸の国々の民族のことですが、中米、南米を含めた地域を「ラテン・アメリカ」と呼んでいます。そして、それら中南米諸国の音楽のことを「ラテン・アメリカン・ミュージック」、略して「ラテン・ミュージック」といいます。しかし、この言葉の主流としては、ラテン・リズムなどのラテン音楽の要素を取り入れた、アメリカン・ポピュラー・ミュージックを指して言うことが一般的です。アメリカ大陸に入ってきたアフリカ黒人音楽は、大きく分けると次の3つに分類されます。 1.北米、いわゆるアメリカ合衆国を代表するジャズ、ブルース、ソウル、 黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル)、ゴスペル・ソングなど 2.中米のキューバを代表するルンバ 3.南米のブラジルを代表するサンバ「1」の北アメリカと「2」と「3」の中南米の黒人音楽とでは大きな違いがあります。アメリカはイギリスの植民地であり、中南米はスペインとポルトガルの植民地であるため、英国人はプロテスタントで排他的宗教から、黒人たちにドラムなどの打楽器の使用を禁止しました。一方、スペイン人とポルトガル人はカトリックで柔軟性があり、打楽器の使用に対しては寛容でした。[July 6, 2005]の日記 「アメリカとブラジルの黒人音楽の違い」のところで触れましたが、アフリカにはトーキング・ドラムという楽器があります。なぜ、トーキング・ドラムという名前なのかというと、文字通り話すことが出来るからです。それは、音調言語と呼ばれる単語や文章が高低2つのピッチで構成されているアフリカの言語を表現することの出来るドラムなのです。アメリカ合衆国において黒人に打楽器を使わせなかったのは、黒人に対する人種差別的考えが著しく、打楽器を使って遠方と反乱のことなどの話をされたくなかったためだということがあります。実際、このトーキング・ドラムの音は、邪魔になるような音がほとんど無い夜間や早朝などには10kmも届くと言われています。また、アメリカ合衆国ではアフリカの歌(ワークソングのような形態のものでも)も禁止の対象とされることもありました。そのため、黒人霊歌(スピリチュアル)などを歌うときは、白人に分からないような場所に固まって、かくれて歌われていたのです。太鼓などの打楽器のリズムと歌が大きな比重を占めているアフリカの音楽が、北米では主として歌だけが伝わり、中南米では双方が伝わったという違いが見られるということです。したがって、ルンバやサンバはアフリカの音楽性が色濃く伝わったのに対して、ジャズはアフリカの打楽器的なものが最も排除された形の音楽となったわけです。それがアメリカでも、1930年代中ごろになると、太鼓もドラム・セットという形で普通に使用されてきており、打楽器の重要性が認識されるようになり、中南米のラテン・リズムの魅力が注目されるようになってきました。そういったことで、ジャズにもラテン・リズムのブームが起こってきます。そのブームの発端には、デューク・エリントン楽団の影響があるといえるでしょう。そして1940年代になるとディジー・ガレスピーにより「アフロ・キューバン・リズム(Afro-Cuban rhythm)」というリズムが、アメリカのジャズのリズムとして確立されていきます。その代表的な曲の「A Night In Tunisia(チュニジアの夜)」は有名なスタンダード・ナンバーになっています。「アフロ・キューバン・リズム」とは、アフリカ・キューバのリズムという意味で、キューバのアフリカ黒人のリズムであるルンバが柱となり、アフリカ色を強調したリズムです。そして、このリズムはアメリカン・ポピュラー・ミュージックのリズムとして定着していきました。このラテン・リズムには、ボンゴ、コンガなどの打楽器(パーカッション)も重要なものになります。
August 19, 2005
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『Caravan』(キャラヴァン)この曲は、デューク・エリントン楽団のバルブ・トロンボーン奏者のファン・ティーゾとエリントンの作曲で、1936年にインストゥルメンタル(歌のない演奏だけ)の曲として書かれたものに、1937年にアーヴィング・ミルズによって歌詞がつけられました。ベンチャーズの演奏でもよく知られている、スタンダード・ナンバーです。中近東風のメロディーに、ラテン・リズムを取り入れたエキゾチックな雰囲気の曲で、「caravan(キャラヴァン)」とは、らくだに荷物を運ばせて砂漠をよぎる隊商のことをいっています。「あざやかに輝く星の夜、神秘的に輝きキャラヴァンの上に降りそそぐ。われらの砂漠のキャラヴァンの中で、愛の夢が真実のものになろうとしている」この歌詞の内容からすると、のんびりテクテク行くという、ゆったりとしたテンポを思い浮かべますが、なぜか、インストゥルメンタルでは速いテンポでワイルドに演奏されるものが多いようです。1930年代中ごろあたりから、ジャズにラテン・リズムを取り入れるのがブームになってきて、1940年代になると「アフロ・キューバン」というリズムができることになります。「ラテン・リズム(Latin rhythm)」という言葉はアメリカ英語で、「ラテン・アメリカン・リズム(Latin-American rhythm)」を略した言いかたです。「ラテン」とは、本来は地中海沿岸の国々の民族のことですが、中米、南米を含めた地域を「ラテン・アメリカ」と呼んでいます。そして、それら中南米諸国の音楽のことを「ラテン・アメリカン・ミュージック」、略して「ラテン・ミュージック」といいます。ジャズもそれらの「ラテン・ミュージック」のリズム(ラテン・リズム)の影響を受け、この曲は、そういうラテン色の濃いサウンドになった曲です。*****●キャラヴァンCaravan作詞:アーヴィング・ミルズ作曲:デューク・エリントン ファン・ティーゾ1937年夜・・・あざやかに輝く星ほのかに消えていく神秘の輝きがキャラヴァンの上に降りそそぐ砂漠をよぎっているあいだ私の肩にもたれて眠るがいい私が我がキャラヴァンの想い出を忘れないように刺激的な今宵あなたが誘うように私の腕の中で安らぐそのマジックに私はとろけていく青い空の下私のそばにあなたがいて愛の夢が真実のものになろうとしているわれらの砂漠のキャラヴァンの中で
August 18, 2005
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『Just Squeeze Me (But Don't Tease Me)』(ジャスト・スクイーズ・ミー(・バット・ドント・ティーズ・ミー))この曲は、デューク・エリントンが1946年に書いたインストゥルメンタル・ナンバーの「Subtle slough」という曲に、リー・ゲインズが歌詞をつけて出来上がったものです。それほどヒットはしませんでしたが、マイルス・デイヴィスがクール・ジャズの曲に仕上げて、スタンダード・ナンバーとして人気が高まりました。「squeeze」とは、「強く握る、抱きしめる、詰込む、圧搾する(される)、絞り出す」といった意味で、抱擁するという意味の「embrace」などよりももっと強く「ぎゅうっと抱きしめる」ということです。「私が、あなたにぎゅうっと抱きしめてもらいたい気持ちをわかって?ただ私をぎゅっと抱きしめて、でも、私をじらさないでちょうだい」バラードではなく、かなりゆっくりしたテンポでスウィングする粋な雰囲気の曲です。この年1946年に、エリントンはダウンビート誌のジャズ・アーティスト部門で一位になりました。*****●ジャスト・スクイーズ・ミー(・バット・ドント・ティーズ・ミー)Just Squeeze Me (But Don't Tease Me)作詞:リー・ゲインズ作曲:デューク・エリントン1946年《ヴァース》私が、あなたにぎゅうっと抱きしめてもらいたい気持ちをわかって?本当に、それがたまらないんだってことをわかってねでも私は、じらされるのは大嫌いだってこともわかってちょうだい《コーラス》おやすみを言うときは、私にやさしくしてねただぎゅうっと抱きしめて、でも、私をじらさないでちょうだいあなたに、きつく抱かれると私は気分上々ただ私をぎゅうっと抱きしめて、でも、私をじらさないでちょうだいあなたが行ってしまってから、とても恋しくて毎日歌で憂いを晴らしたり一晩一晩数えながら、あなたの帰りを待っているわこんなにあなたが好きだとは思わなかったってあなたに言わなければならないわあなたも私を愛してるって言ってちょうだいあなたに愛されているって感じたらもう私は有頂天だわだから私をぎゅうっと抱きしめて、でも、私をいじめないでちょうだい
August 17, 2005
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『Lush Life』(ラッシュ・ライフ)飲んだくれ人生この曲は、ビリー・ストレイホーンの作詞、作曲によるものです。ストレイホーンはデューク・エリントン楽団(オーケストラ)の作曲、編曲、ピアニストとして、1938年に入団し、それ以来1967年にガンで死ぬまで、デューク・エリントンの片腕としてバンドを支えてきました。ストレイホーンは、もともとはダンサーでしたがエリントンの音楽に心酔し、エリントンを訪ねて、彼の前で彼の曲をピアノで弾いてみせて採用になったといいます。この曲のクレジットは1949年になっていますが、オーデションのとき、この「ラッシュ・ライフ」はすでに作られていて、エリントンはこの曲を聴いて彼の才能を確信して雇ったということのようです。1938年、ストレイホーンは23歳のときです。メル・トーメは、彼が19歳のときに、この曲を作ったといっていますが、音程が微妙で非常に凝った音作りになっていて、歌詞はこのとき付けられていたのかはわかりませんが、とても19歳のときに書いたとは思えないほどの内容の曲です。ストレイホーンは、最初はエリントンの作る曲に作詞をするということで入団しましたが、すぐに曲を書き始め、編曲にも力を発揮し、エリントンは指揮をしていることが多いので、そのときはピアノも弾きました。エリントンは彼を相当信頼しており、「Satin Doll(サテン・ドール)」などの共作も数多いもので、どちらが書いたのかわからないようなものも多いといいます。この曲はエリントン楽団ではしばらくは演奏されることがなく、ほおって置かれたようになっていましたが、1949年に、ナット・キング・コールがレコーディングしてヒットしました。1963年にジョニー・ハートマンがコルトレーンの伴奏で歌って、さらに有名になりました。「Take The "A" Train (A列車で行こう)」はビリー・ストレイホーンの作詞、作曲によるもので、バンドのテーマ曲ともなり、デューク・エリントン楽団を代表する曲となりましたが、この曲は、1957年にエリントン楽団でもレコーディングされましたが、エリントン楽団のレパートリーとしての印象は薄い曲です。しかし、この極めて美しいメロディーは、スタンダード・ナンバーとして多くの人に愛され続けています。題名の「Lush Life(ラッシュ・ライフ)」とは「やけくそで飲んだくれの人生」という意味です。「lush」とは、普通は「豪勢、豪華、実りの多い、(草が)青々と茂る」といった意味なのですが、俗語として「やけくそ」とか「飲んだくれ」といった意味があります。好きな女に無視されて、やけくそになって酒におぼれる男の末路を「飲んだくれ人生」と表現しています。「私は、どこかの小さな場末の酒場で、やけくそで飲んだくれの人生を送ろう。 同じように寂しい人生を送っている飲んだくれどもと一緒に、そこで酔いつぶれて朽ち果てながら」歌詞の内容を理解していれば当然わかることなのですが、この曲も「みずみずしい人生」とか「豊かな人生」などという誤訳がまかり通っているものです。日本のジャズ評論家と称する人たちのいいかげんさにはうんざりします。ストレイホーンの伝記本「ラッシュ・ライフ」に、エリントンとの出会いが詳しく書かれていますが、その中で、ストレイホーンがホモセクシュアルだったということにも触れています。*****●ラッシュ・ライフLush Life作詞:ビリー・ストレイホーン作曲:ビリー・ストレイホーン1949年《ヴァース》以前よく私は娼婦のいる飲み屋なんかに行ったものだあるいは、いかがわしいショーを見せるところとかそういうところでは外れかかっていた生活の車輪がもとの軸に収まってジャズとかカクテルによって生きる力を取り戻すことができて、ホッとしたものだった私の知っている女たちは、みんな悲しげで暗く陰気な顔をしていた彼女たちの顔には濃い化粧のあとがはっきりと残っていたがそれは昼間から次々とお客を取っているために落ちてしまったのだということが誰にでもわかるほどだったそこへ君が現れて、私に気が狂わんばかりの誘惑の言葉を言ってきた君の笑顔の中にある影は、私へのかなわぬ恋の悲しさに浸っているからだと最初は私が思い込んでしまったほどだしかし、私は間違っていた、またしても間違っていた《コーラス》毎日の生活はまた孤独なものになったつい去年までは、何もかも確かなものに思えたがまた生活がこんなにすさんでしまったこんなときは多くの人の暖かい気持ちも、ただうんざりするだけだパリで一週間ものんびりすれば、その傷も癒ることだろうにだから私は笑顔を作るように心がけているそして君のことを忘れるのさまだ君が私の脳裏に焼きついて燃えている最中に君のことを忘れてやるのさロマンスなんてものは、毎日の生活と格闘しているようなやつらには息も詰まるほど退屈な話だろう私は、どこかの小さな場末の酒場で、やけくそで飲んだくれの人生を送ろう同じように寂しい人生を送っている飲んだくれどもと一緒にそこで酔いつぶれて朽ち果てながら
August 16, 2005
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『Don't Get Around Much Anymore』(ドント・ゲット・アラウンド・マッチ・エニイモア)この曲は1942年にデューク・エリントンが作曲したものに、ボブ・ラッセルが歌詞をつけたもので、もともとは1940年に作られた「Never no lament」という題名の曲で、アルト・サックスのジョニー・ホッジスのためのインストゥルメンタル(ボーカルなしで楽器だけの演奏形態)だったものに、あとから歌詞がつけられ、題名もそのときに変えられたものです。「Don't get around much anymore」は主語の「I(私)」が省かれているもので、命令形としてとると全く意味が逆になってしまい、「もう、これ以上避けないでちょうだい」ということになりますが、この場合は「I don't get around much anymore」ということで、「(私は)もうこれ以上歩き回るのはやめにするわ」という意味になります。エリントンの曲のほとんどは、演奏(インストゥルメンタル)のものとして曲が先にできたものに、あとから歌詞がつけられるというもので、そのせいか、やや無理のあるようなところが感じられることがあります。そういう意味では、作詞するほうとしては難しいことであるといえるでしょう。*****●ドント・ゲット・アラウンド・マッチ・エニイモアDon't Get Around Much Anymore 作詞:ボブ・ラッセル作曲:デューク・エリントン1942年《ヴァース》一人でカード占いをしていないときは、私は棚から本をとって読んでいるわ何かいいラジオ番組があれば、それを聴きながら私は自分のことだけに気持ちを集中させているわ《コーラス》土曜日のダンス・パーティーに行けなくて残念だったわ大勢の人が押しかけてフロアはごった返しだったそうねあなたなしではとても行く気しなかったのもうこれ以上歩き回るのはやめにするわクラブへ行こうと思ってドアの近くまでは行くのだけれどそうするとみんながあなたのこと私にきいてくるのよだから、もうこれ以上歩き回るのはやめにするわ私の気持ちは少し落ち着いてきたと思うわだから想い出をかき回すようなことはしたくないわ最近デートに誘われるから行ったほうがいいと思うんだけどでも、一体何のためかって思うのあなたがいるのといないのでは大違いだわもうこれ以上歩き回るのはやめにするわ
August 15, 2005
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Mood Indigo (1931) Sophisticated Lady (1933) It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing) 【スウィングしなけりゃ意味ないね】 (1934) Solitude (1934) In A Sentimental Mood (1935)Caravan (1937) In A Mellow Tone (1940)Cotton Tail (1940)Take The "A" Train 【A列車で行こう】 (1941) [Billy Strayhorn] C-Jam Blues (Duke's Place) (1942)Perdido (Lost) (1942) Don't Get Around Much Anymore (1942)Do Nothin' Till You Hear From Me (1943)Just Squeeze Me (But Don't Tease Me) (1946) Lush Life (1949) [Billy Strayhorn]Satin Doll (1953、1958)Black And Tan Fautasy 【黒と茶の幻想】 (1972)
August 14, 2005
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●『デューク・エリントン』はジャズのビッグ・バンド「デューク・エリントン楽団(オーケストラ)」のバンド・リーダーで、ジャズ・ピアニスト、アレンジャーとしてだけではなく、作曲家としても、たくさんの曲を世に送り出した、アメリカのジャズ、音楽界を代表する偉大なアーティストです。デューク・エリントン楽団のテーマ曲である「Take The "A" Train(A列車で行こう)」は、日本で最もよく知られているジャズ・スタンダード・ナンバーのうちの一つでしょう。「Satin Doll (サテン・ドール)」、「It Don't Mean A Thing(スウィングしなけりゃ意味ないね)」など、多くのスタンダード・ナンバーがデューク・エリントン楽団から生まれ、広く愛され続けています。デューク・エリントン(Duke Ellington)は、本名をエドワード・ケネディー・エリントン(Edward Kennedy Ellington)といい、1899年4月29日に、アメリカ、ワシントンD.C.で生まれ、1974年5月24日に、ニューヨークで、75年の生涯を閉じました。----------デューク・エリントンは、本名をエドワード・ケネディー・エリントンといい、1899年4月29日に、ホワイトハウスの黒人執事の息子として、ワシントンD.C.で生まれます。黒人上層階級の家庭に生まれた影響からか、幼いころから立ち振る舞いがスマートであったことから、「デューク=公爵」というあだ名がつけられたそうです。デュークの父親は彼をアーティストにしたいと願い、デュークは7歳の頃からクラシックピアノを学び、一方で絵の勉強もし、高校時代にはポスターコンクールで賞をとったこともあったといいます。作曲は10代のころから取り組んでいて、高校時代にはジャズに夢中になり、18歳で学校を辞めプロとしてワシントンD.C.やニューヨークなど東部のあちこちで演奏し、また、レビューのための作曲もするようになりました。1917年、日本は大正6年のことです。デューク・エリントンの音楽はニューヨークのハーレムによって確立されたといえます。それは、「コットン・クラブ」と「ハーレム・ルネサンス」です。デュークは1927年12月からハーレムの「コットン・クラブ」という有名な高級ナイトクラブの専属バンド(ハウス・バンド)になることによって、ここを拠点として活動し、彼は名声を確立することになりました。専属バンドの話は、始めキング・オリヴァー楽団に持ちかけられましたが、お金のことで折り合いがつかずにオリヴァーが断ったために、急遽、エリントン楽団が専属バンドになったといいます。日本は昭和2年のことです。このクラブでは毎夜豪華なショーがくりひろげられ、ダンサーたちが踊り、タップ・ダンスも見られました。エリントン楽団は、ミュートを多用したりするなどして「ジャングル・スタイル」という演奏スタイルを作り出し、エリントンが作った曲などの新しい曲も、次々と、このステージから生まれていきました。1920年代は「ハーレム・ルネサンス」と呼ばれる時期で、ハーレムから、黒人音楽のジャズだけでなく、黒人文学や黒人芸能のダンスやミュージカルも栄え、これらがお互いに影響し合いながら、より大きい総合的な黒人芸術を生み出している時でした。そのため、デューク・エリントンは歌もダンスも好きで、バンドに歌も取り入れていき、ミュージカルなど、歌の曲も書いています。彼の偉大なところは総合的な黒人音楽や芸術を追求したところにあったともいえるでしょう。デュークの音楽は常に黒人文化をテーマにしたもので、人種差別が激しいアメリカの中で、「黒人として生きるとはどういうことか」ということを音楽を通して訴え続けていたといいます。また、彼の作曲、編曲は画期的なものでした。ジャズにおいては作曲とジャズの本質であるアドリブ(即興演奏)とは、ある意味、相反する存在であるといえます。作曲、編曲においてしっかりとした譜面にしてしまうと、アドリブが制約されてジャズの本質である創造性が失なわれてしまいますが、逆に自由にアドリブを許すような曲作りをすると作曲や編曲の意味がなくなってしまいます。そこで、デュークはソロ・プレイヤーのアドリブを生かすような形で作曲することによって、アドリブと曲が両立するという、ジャズの本質を生かした演奏ができるようにしました。バンドのメンバー、それぞれの才能や音色を最大限に引き出す形の曲作りをしたのです。このことで、自己のバンドによって「曲を作りあげる」という、総合的パフォーマンス・アートとしての形でジャズを完成させたアーテイストといえるでしょう。デューク・エリントンは「バンドが私の楽器だ」と語っていたといいますが、まさにそういうことです。1931年2月にコットン・クラブを辞め、それからはツアー・バンドとして活動していきます。そして、アメリカの恐慌期を、ヨーロッパ・ツアーへ出ることで乗り切りました。1930年代、エリントン楽団は順調に発展していき、「It Don't Mean A Thing(スウィングしなけりゃ意味ないね)」などのヒット曲が生まれます。1930年代末には、後に「Take The "A" Train(A列車で行こう)」などを作曲し、編曲やピアニストとしてデュークの片腕となる、ビリー・ストレイホーンが入団します。それに続き天才ベーシストのジミー・ブラントン、テナー・サックスのベン・ウェブスターが入団して、ジョニー・ホッジス、クーティー・ウイリアムらが共に在籍していた1940年代前半は、デューク・エリントン楽団の絶頂期となりました。しかし、戦争が終わり1946年になるとビッグ・バンドは経営難のために相次いで解散し、「スウィング時代」は終わりを迎えます。エリントン楽団は世界各国をツアーして周り、モダンに進化していきます。1960年代は映画音楽やフランク・シナトラとの共演、「極東組曲」といったアルバムを出すなど、広く音楽活動を続けていきました。彼は黒人としては珍しく、構成のしっかりした大作をたくさん書いています。その作品は組曲やシンフォニックな曲、バレー曲、ミュージカル、映画音楽、ドラマ的な曲、宗教的な曲など実に多岐にわたっています。このように、彼は、優れたピアニストであるだけではなく、作曲家としても、またバンド・リーダーとしても精力的に活動をしていました。ファンク・ミュージシャンのジェームス・ブラウンは、デューク・エリントンのことを、「音楽業界一の働き者」と語っていたというほど、彼の仕事熱心ぶりは有名で、彼自身「週に7日働くよ」と言っていたというように、車の中でもホテルでも、少しでも時間があると作曲に専念していたといいます。そして彼は、生涯に作曲した曲は2000曲以上とも3000曲以上ともいわれています。また、デューク・エリントン楽団には優れたメンバーが在籍しており、デュークやメンバーが持ち寄ったモチーフをメンバーが膨らませ、それをデュークがまとめるという、メンバーと共に音楽を作るということを大切にしてきました。そのため、作曲の印税などをバンドの運営費用に充てるといったことをして、彼らが満足してバンドに在籍できるように心がけていたそうです。そんな人柄や、おしゃれなセンス、ウイットに富んだ会話などから彼に敬意を表して、周りの人たちから、音楽界においても「デューク=公爵」と呼ばれてきました。彼は子供の時から生涯「デューク」だったのです。ソウル・ミュージシャンのスティーヴィー・ワンダーも、彼を称えて「サー・デューク」という曲を書いています。デューク・エリントンは、じつに自由で柔軟な考え方をしていたようです。ある時、ジャズを定義してほしいと言われて、「この世には2種類の音楽しかない。それは良い音楽と悪い音楽だ」と答えたそうです。ジャズがどうのこうのといったような、ジャンルにとらわれた考えは持ち合わせていないということでしょう。彼のバンド「デューク・エリントン楽団」からは、いくつものスタンダード・ナンバーが生まれており、それらの曲は、いつまでも演奏され、歌い続けられていくことでしょう。デューク・エリントンがジャズのみならず、音楽シーンに与えた影響は絶大なものといえます。1974年5月24日に、ニューヨークで、75年の生涯を閉じました。----------デューク・エリントンは、1928年6月にエドナ・トムスンと結婚し、1919年11月3日にマーサー・エリントンが生まれました。デュークが1974年5月24日に亡くなると、マーサーがバンドを引き継ぎますが、マーサーも1996年2月8日に亡くなり、現在はマーサーの息子のポール・マーサー・エリントンがバンド・リーダーを務めています。妻のエドナはガンのため、1967年1月に他界しました。デュークは1938年の春から亡くなる1974年までの36年間、リース・イヴィ・エリスという美しい女性と一緒に暮らしていました。この間にもデュークはいくつもの女性関係がありますが、イヴィは変わらず彼につくすのでした。しかし、デュークは妻のエドナと別れることはしませんでした。
August 13, 2005
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『I'm Old Fashioned』(アイム・オールド・ファッションド)この曲は、ジェローム・カーンの作曲、ジョニー・マーサーの作詞によるもので1942年のミュージカル映画「You Were Never Lovelier」に使われました。その映画ではフレッド・アステアとリタ・ヘイワースが出演し、この曲を歌いました。アステアのレコードが翌年ヒット・チャートの23位に一週だけ入ったというもので、最初は、あまり目立った曲ではありませんでしたが、時を経るにしたがって、じわじわと人気が出てきたという曲です。 *****●アイム・オールド・ファッションドI'm Old Fashioned作詞:ジョニー・マーサー作曲:ジェローム・カーン1942年《ヴァース》私は最新の流行には、まったくうとくて田舎の若者から崇拝されることはまったくないわねでも、お高くとまってきたわけではないのよまわりから変わり者に見られるタイプなのね《コーラス》私は古臭いの月の光が大好き何でも古風なものが好きなの窓ガラスに当たる雨の音や四月に聞こえてくる星の歌なんか今年の流行なんて、すぐにすたれるわでも、ため息をついたり手を握ったりいつもいつも変わらないから私の心はよくわかるの私は古臭いのでも、気にしないわあなたが私と一緒に、古臭いままでいてくれるのなら私も今のように古臭いままでいたいわ
August 12, 2005
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『A Fine Romance』(ア・ファイン・ロマンス)この曲はジェローム・カーン作曲、ドロシー・フィールズ作詞で、1936年のミュージカル映画「Swing time(スウィング・タイム)邦題:有頂天時代」に書いたもので、この映画の中で、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが歌いました。女は「素敵な恋ね、キスもせずに」といやみを言うのに対して男は「キスもなくて、まったく素敵な恋だ」と言い合います。仲が悪いけれど、本当は愛し合っているという気持ちを歌っています。「スウィング・タイム」という題名は最初は違うものだったのが、3度目にこの題名になったと言います。「swing(スウィング)」という言葉は当時、音楽を表現するには新しい言葉であり、1932年のデューク・エリントンの「It don't mean a thing if it ain't got that swing(スウィングしなけりゃ意味ないね)」などによって言われるようになってきたもので、ベニー・グッドマン楽団などのスウィング・バンドが出てくるのは、この映画と同じころです。 ■参照↓こちら【March 15, 2005】の日記 「ジャズのスウィングの意味 」 ジャズの一時代を築いたスウィング時代というのは1935年から1946年とされているので、この映画の題名に「swing(スウィング)」という言葉が使われたのは、新しい感覚であり、ブームに乗ったものであったと言えるでしょう。*****●ア・ファイン・ロマンスA Fine Romance作詞:ドロシー・フィールズ作曲:ジェローム・カーン1936年《コーラス1》(女)素敵な恋ね、キスもせずに、なんと素敵だこと、この恋は私たちって焼きたてのジャガイモみたいに熱々でなければおかしいのにあなたはまるで、きのう食べ残したマッシュポテトのように冷たいわきれいな恋だこと、あなたは寄り添ってくれないもの清らかな恋だわね、あなたはもだえたり苦しんだりしないんだからこれじゃあオールドミスのオバサンとブリッジをしているのと変わりないわねまるでチャンスがないんだから、素敵な恋だこと《コーラス2》(女)私の素敵なあなた、清らかな恋ねあなたのお望のものがこんな恋がなら、私はゼリーでも食べてるわあなたって北極海のアザラシよりも冷たいのねまだ、アザラシならヒレをパタパタやって感情を表すのにけんかなんて全然しない、美しい恋だわ傷つけ合うこともしないし、とても道徳的あなたの青のサージのズボンを、しわだらけにしたことなんてないそんなチャンスは一度もなかったし、素敵な恋だわ《コーラス3》(男)キスもなくて素敵な恋だねまったく素敵な恋だ僕らはクラムチャウダーのハマグリみたいに、じっとくっつきあっているべきなのに胃薬の炭酸のようにシューシュー飛び散ってくだけだ激しく抱き合ったりすることもなく、素敵な恋だつねったりすることももちろんない君ってイル・ド・フランス号のように座礁させるのは難しいねまるでチャンスがなくて、素敵な恋だね《コーラス4》(男)素敵な恋だね、僕の貴婦人さんつえでも必要なくらい老いぼれちゃって本当の恋なら健全な犯罪が持っているような刺激があるはずだよねでも、僕らの恋は家族向けのラジオ番組の半分も興奮しない素敵な恋さ、僕の素敵な女性僕の筋金入りの樽で寝かせて、しっかり熟成させた女性僕が送ったランの花に、君は目もくれないああ、君はサボテンが好きなんだっけね、まったく素晴らしい恋だ------------------------------------------------------------『The Way You Look Tonight』(ザ・ウェイ・ユー・ルック・トゥナイト)この曲は、ジェローム・カーンの作曲、ドロシー・フィールズの作詞によるもので、1936年のミュージカル映画「Swing time(スウィング・タイム)邦題:有頂天時代」の主題歌に使われ、その中で、フレッド・アステアがジンジャー・ロジャースに歌いました。この曲は、アカデミー賞の主題歌賞を授賞しました。「いつの日か、私が失意に沈み、まわりが冷たくなったとき、今夜のあなたの様子を想うだけで、私の心は温かくなる」気分を害して隣室で洗髪を始めるジンジャー。弁解しようにも部屋のトビラを開けてくれないジンジャーに、アステアはピアノの弾き語りでこの歌を歌います。その歌声でジンジャーはキゲンを直します。もともとはこういうムーディーな雰囲気の曲なので、当然スロー・バラードなのですが、どういうわけかインストゥルメンタル・ナンバーはテンポが速いものが多いようです。*****●ザ・ウェイ・ユー・ルック・トゥナイト The Way You Look Tonight作詞:ドロシー・フィールズ作曲:ジェローム・カーン1936年
August 11, 2005
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『Yesterdays』(イエスタデイズ)この曲は、ジェローム・カーンの作曲、オットー・ハーバックの作詞によるもので1933年のミュージカル「ロバータ」に使われました。このミュージカルには、ほかに「Smoke Gets In Your Eyes」というヒット曲も入っていました。1935年の映画化「ロバータ」、そのリメイクの「ラブリー・トゥー・ルック・アット」(1952年)、カーンの伝記映画「ティル・ザ・クラウズ・ロール・バイ」(1946年)などでも使われました。ビリー・ホリデイ、ヘレン・メリルなど、多くのジャズ・シンガーたちによって歌われ、スタンダード・ナンバーとして愛され続けている曲です。この題名の「Yesterdays」は、1933年に発表された楽譜では、「Yesterday」になっていたと言いますが、それでは歌詞の内容から見るとおかしいと思われます。歌詞は冒頭の「Yesterday」のあと「Days I knew as happy,sweet,sequester'd days」と続きますが、そうなると「Yesterday」と「Days」は矛盾することになるだけでなく、「Yesterday」と「sequester'd days」でも韻(いん)を踏むことができなくなります。しかも、最後だけは「Yesterdays」となっているというので、これはハーバックが間違えたか、出版社のミスプリントではないかということで、その後「Yesterdays」と直されたということのようです。「Yesterdays」とは、「昨日」ということではなく、「過去」または「過去の日々」といった、過ぎ去った日々全体のことを言っています。「二人きりで過ごした、甘く幸せな日々。狂おしいロマンスと愛の日々。楽しい青春と真実が私のものだった。しかし今は過ぎ去った日々を夢見ている」過ぎ去った幸せに満ちた日々のことを想って歌っています。1965年に発表されたビートルズの「Yesterday」もスタンダード・ナンバーと言えますが、「s」が付くか付かないかだけの違いなので間違いやすい曲です。題名が酷似しているので、この2曲をメドレーにするシンガーも多いようです。余談になりますが、1934年の曲で「P.S.アイ・ラヴ・ユー」という大変素敵なスタンダード・ナンバーがありますが、1962年に出されたビートルズの同名の「P.S.アイ・ラヴ・ユー」は全く別の曲なので紛らわしくて困ります。ビートルズの「P.S.アイ・ラヴ・ユー」の作曲者のポール・マッカートニーは、この曲をデビュー曲、つまりデビュー・シングルのA面にするつもりだったのですが、プロデューサーのロン・リチャードに、この題名の曲はすでにあるのでダメだと言われて、B面の曲になってしまったという話があります。まあ、それだけスタンダード・ナンバーには大きい影響力があるということです。*****●イエスタデイズYesterdays作詞:オットー・ハーバック作曲:ジェローム・カーン1933年過ぎ去ってしまった日々、過ぎ去りし日々、幸せで甘い二人きりで過ごしたあのころ遠くに過ぎ去った日々、黄金のように輝いていた日々狂おしいロマンスと愛の日々楽しい青春と真実喜びに満ちた自由で燃えるような暮らしが確かに私のものだった想えば悲しく、想えば楽しい今、私は過ぎ去った日々を夢見ている
August 10, 2005
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『Smoke Gets In Your Eyes』(スモーク・ゲッツ・イン・ユア・アイズ)煙が目にしみるこの曲は、ジェローム・カーンの作曲、オットー・ハーバックの作詞によるもので1933年のミュージカル「ロバータ」に使われました。このミュージカルでは主演のタマラが歌いましたが、カーンはもともとこの曲はラジオ番組のテーマ曲のために書いたもので、なんと行進曲風な歯切れの良い曲だったと言います。譜面のメロディーの音符には、全てスタッカートの記号が付けられていたそうです。しかし結局その番組は放送されることがなくなってしまったため、このミュージカルに使うことにしたのですが、タマラたちはこの曲に全く興味を示さなかったので、カーンはテンポを遅くし、メロディーの音符を長く伸ばすようにしたところ、この素晴らしいバラードの曲に仕上がったということです。ミュージカルの中でもヒットしましたが、1933年の暮れにポール・ホワイトマン楽団とバニー・ベリガンのトランペットのものが、6週連続でヒット・チャートの1位を記録しました。その後も、たくさんの人にレコーディングされたものがヒット・チャートに入りました。1935年の映画化「ロバータ」、そのリメイクの「ラブリー・トゥー・ルック・アット」(1952年)、カーンの伝記映画「ティル・ザ・クラウズ・ロール・バイ」(1946年)などでも使われました。しかし、何といってもこの曲を世界的に有名にしたのは、1958年~59年にプラターズというポップ・コーラスグループがリヴァイヴァル・ヒットさせたことによりますもともとはミュージカルの曲が、多くのジャズ・ミュージシャンにより演奏されてきて、プラターズの大ヒットによって、この曲はポピュラー音楽としても広く知られることになりました。ジャンルを越えたスタンダード・ナンバーとして愛され続けている曲です。「恋は盲目。恋の炎が燃えさかっているときは、その煙で何も見えなくなっている。」・・・やがて恋は終わり、恋人は去っていった。涙をかくせない言い訳に「恋の炎が消えてしまった煙が目に入ってしみるのさ」と言う失恋の歌です。最近「禁煙」のキャンペーンでこの曲が使われていたと聞きましたが、タバコの煙が目にしみるわけではありません。したがって、あまりにも美しい曲なのですが、結婚式には向きませんね。*****●スモーク・ゲッツ・イン・ユア・アイズSmoke Gets In Your Eyes邦題:煙が目にしみる作詞:オットー・ハーバック作曲:ジェローム・カーン1933年みんなが僕に聞いてくるんだどうしておまえの恋が本物だってわかるんだい?ともちろん、僕はこう答えたさ「この心の中の何かが確かにそう言うのさ」でも恋は盲目だと言ういつかおまえにもわかるときが来るよ、とみんなは言うおまえの心が、恋の炎で燃えさかっているときはおまえの目は、その煙で何も見えないのさとだから僕は、みんなをからかって陽気に笑った僕のこの恋を疑うなんてバカげてるそれでも今日、僕の恋人は去っていった恋は終わり僕は一人ぼっちになってしまった今は友達があざけり笑う涙をかくせない僕のさまにねだから僕は笑って、みんなにこう言うんだ「恋の炎が消えてしまった煙が目に入ってしみるのさ」ってね
August 9, 2005
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『The Song Is You』(ザ・ソング・イズ・ユー)この曲は、ジェローム・カーンの作曲、オスカー・ハマースタイン二世の作詞によるもので、1932年のミュージカル「ミュージック・イン・ジ・エアー」に挿入されたものです。「どうしたら僕のハートが歌う曲を、君に伝えられるのだろうか。メロディーは甘く、歌詞は真実、この歌こそあなた」サビの部分で転調するのでコードは変わっているのに、メロディーの音は変わった感じがしないという面白い作りになっています。メロディーはシンコペーションのようなものがほとんどなく、抑揚のない曲ですが、大きく乗れる感じと転調感や歌詞の素晴らしさなどから多くのジャズ・プレイヤーに好まれ、スタンダード・ナンバーとなりました。*****●ザ・ソング・イズ・ユーThe Song Is You作詞:オスカー・ハマースタイン二世作曲:ジェローム・カーン1932年君の姿を見ていると音楽が聞こえてくる僕の心に思っていた、すばらしい夢の調べ僕の心の奥深くからその音が聞こえてくる音楽が始まり、溶けて消えていく君の手にふれると、どこからともなく音楽が聞こえてくるどこか魅惑の土地からくる素敵なメロディー僕の心の奥深くからそれが言う今日がその日なのだろうか?僕だけがこの愛らしい調べを耳にしてる僕だけにこのうるわしいメロディーが聞こえる永久に僕の心の中にやどる打ち消すことのできない君に聞いてもらうことができないメロディーどうしたら僕のハートが歌う曲を君に伝えられるのだろうかこの美しい愛と若さと春の狂詩曲メロディーは甘く、歌詞は真実この歌こそ君だ
August 8, 2005
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ノーベル賞に最も近い日本人と言われている、遺伝子工学の権威である筑波大学名誉教授 村上和雄(むらかみかずお)氏は、「笑いは副作用のない薬なのだ」ということを言っている。村上氏の研究によると、ふつう遺伝子の97パーセントは眠っているが、眠っている遺伝子を笑いでめざめさせることによって健康になるということがわかってきた。そして、その村上氏は次のように言っている。「今の科学は非常に発達していると言うが、細胞一個でも、もとから作ることはできない。細胞がなぜ生きているのかということは、まだほとんどわからない。まして、60兆の細胞でできている人間が生きているということ自体、不思議なことである。だから生きていることはすごいことで、生まれただけでエリート中のエリート中のエリートなのである。『生きていることはただごとではないんだ』ということをよく考えてほしい」何てことなく生きていて、生きていることは当たり前のように思ってしまう毎日だが、本当は『生きてるだけで丸儲け』ということなのだ。
August 7, 2005
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『Bill』(ビル) この曲は、ジェローム・カーンの作曲、P.G.ウドハウスの作詞によるもので、1927年のミュージカル「Show Boat(ショウ・ボート)」に使われましたが、この曲はもともと、別のミュージカルのために書かれたのに使われずにいたもので、カーンが「Show Boat」でヘレン・モーガンをオーディションしたときに彼女にぴったりだと思い、この曲を挿入することになったと言います。ヘレン・モーガンの歌により、この曲はヒットし、彼女も有名になりました。「Show Boat」のほかの曲は全てオスカー・ハマースタイン二世が作詞したもので、この曲だけウドハウスの作詞によるものでしたが、オスカー・ハマースタイン二世の名もこの曲のクレジットに入っています。ハマースタインは、この曲の歌詞には何もタッチしていないと断言していますが、どういうわけかクレジットに明記されてしまったようです。それは、作詞者、作曲者本人以外にも著作権にかかわりあいのある人がいるために、なんとか名前をクレジットに入れたいと思う人は、彼らのまわりにもいるということでしょう。P.G.ウドハウスというアルファベットの頭文字の名前になっていますが、本名はPelham Grenville Wodehouseと言い、イギリスの作家、脚本家、劇作家で、75歳の時にアメリカに帰化しています。*****●ビル Bill 作詞:P.G.ウドハウス オスカー・ハマースタイン二世作曲:ジェローム・カーン1927年《ヴァース1》私はいつも夢見ていたわいつか理想の人を見つけるって彼がふらっと私のそばに現れても私はすぐそれが彼だってわかるわそして、それから先もあれこれ想像をめぐらすの彼はすごく利口で上品な頭の恰好をしていて神様のような感じの男なのよ私の読む本の中の勇敢な英雄みたいにね《コーラス1》でも、ぜんぜん私のタイプでないビルがやってきたの道で会っても大抵の人はきっと気にもとめないわ恰好も顔も、その男性的な気品もよく銅像なんかで見るものじゃないからうまく説明できないけど私をドキドキさせるのは、彼の頭の良さではないわとにかく愛しているの、彼が素敵だからなぜって、彼はただ私のビルだから《ヴァース2》彼はゴルフもテニスもポロもできないわソロで歌えないし、ボートも漕げない私の知っているたくさんの男たちの半分も男前ではないわ背も低いし、すらっとスリムでもない着こなしもテッドやサムよりはるかに下手どうして彼がその人だって世界でただ一人の私の恋人だと感じるのかって私にもうまく説明できないわ《コーラス2》彼は私のビル、ただの普通の男彼には人に自慢できるものなんてないそれなのに彼のひざの上はとてもすわり心地がよくて広くて私にぴったりに感じるのうまく説明できないけど私をドキドキさせるのは、彼の頭の良さではないわとにかく愛しているの、私にはわからないけれどなぜって、彼はただ私のビルだから
August 6, 2005
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『Ol' Man River』(オール・マン・リヴァー)この曲は、ジェローム・カーンの作曲、オスカー・ハマースタイン二世の作詞によるもので、1927年のミュージカル「Show Boat(ショウ・ボート)」のために書かれたものです。「Ol' Man River」とは「Old Man River」で、このミュージカル「Show Boat」の舞台であるミシシッピー川のことを言っています。川を「老人」というように、擬人化して表しているもののようです。この時代、荷を運ぶ小型の船には動力が付いていないので、川を上る時は、黒人奴隷たちが川の両側から船をロープで引っ張ったということです。「黒人はつらい労働を強いられ、死ぬまで休むことはできない」粗野で無教養だが哲学的雰囲気を持った黒人奴隷が歌うというもので、どうしようもない運命への屈従と抗議の気持ちをあらわしている歌です。したがって、心して歌わないと歌えない部類のものです。この歌の各所に黒人なまりや、俗語的表現、雑な発音の言葉、二重否定形などがあり、非文法的で、粗野な歌詞になっています。*****● オール・マン・リヴァーOl' Man River作詞:オスカー・ハマースタイン二世作曲:ジェローム・カーン1927年《ヴァース》 黒人たちはミシシッピーで働くんだ黒人たちは、白人たちが遊んでいる間も働くんだ日の出から日暮れまで船を引っ張ってな最後の審判のときまで休みなしさ見上げてもだめ、見下ろしてもだめだわざわざ白人のボスの顔をしかめさせるようなことはしてはいかんひざまずいて頭をたれて死ぬまでロープを引っ張るんだ俺をミシシッピーから逃がしてくれ俺を白人のボスから逃がしてくれ俺をあのヨルダン川の流れに連れてってくれあの、俺が渡りたい川に《コーラス》オール・マン・リヴァー、あのオール・マン・リヴァーよやつはわかっているんだろうが何も言わないただ流れるだけ、流れ続けるだけだやつはジャガイモも植えないし、綿も植えない綿を植えたものたちのことなんか、すぐに忘れちまうだけどオール・マン・リヴァーよ、やつは流れ続けるだけだ俺もお前も汗をかいて苦労するだけさ体はくたくたに疲れて、どこもかしこも痛みやがる船を引っ張れ!荷物を運ぶんだ!ちょっと酔っぱらえば務所に放り込まれるのが落ちさくたくたで、もう何もする気力はねえ生きるのは飽きたけれど、死ぬのは怖いだが、オール・マン・リヴァーは、ただ流れ続けるだけさ
August 5, 2005
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『Can’t Help Lovin’ Dat Man (Of Mine)』(キャント・ヘルプ・ラヴィン・ダット・マン(・オブ・マイン))この曲は、ジェローム・カーンの作曲、オスカー・ハマースタイン二世の作詞によるもので、1927年のミュージカル「Show Boat(ショウ・ボート)」のために書かれたものです。曲名は「Can’t Help Lovin’ Dat Man Of Mine」と「Of Mine」が入っているものもあります。また、曲名の中の「Dat」 は「That」の黒人的な表現ということです。この曲のメロディーは、ブルースやジャズに使われる、黒人音楽独特の音である「ブルーノート」という音が使われていて、いわゆるブルージーなものとなっています。このことは、それまでのヨーロッパ的な白人音楽で作られていたミュージカルの中に、黒人音楽の要素が初めて現れたものと言われており、それはきわめて衝撃的なものであったことでしょう。しかしそれは、このミュージカル「Show Boat」が、人種差別などの社会的諸問題を取りあげていて、それまでの非現実的なものとは一線を画する、アメリカの現実をリアルに表現した内容になっていることから、この中の音楽も、それ相当の意味を持つ曲であるのは当然と言えることでしょう。*****●キャント・ヘルプ・ラヴィン・ダット・マン(・オブ・マイン) Can’t Help Lovin’ Dat Man (Of Mine)作詞:オスカー・ハマースタイン二世作曲:ジェローム・カーン1927年《ヴァース》 ねえ、ちょっと聞いて、私はあの人が好きなのよなぜだかはっきりわからないわあの人を好きになる理由なんかないんだものきっと天使たちが仕組んだんでしょう《コーラス》魚は泳ぎ、鳥は飛ぶものでしょそんなふうに、私はあの人を死ぬまで愛するのあの人を愛さずにはいられないあの人が怠け者で、ぐうたらでもいいわ私もバカよね、本当にそうねでも、あの人を愛さずにはいられないの彼が行ってしまったら、その日は雨だわそして、彼が帰ってきたら、その日は晴れて、お日様が輝くわいくら遅く帰ってきてもいいわあの人のいない家なんて、私には家ではないんだから私はあの人を愛さずにはいられないのよ
August 4, 2005
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『Make Believe』(メイク・ビリーヴ)この曲は、ジェローム・カーンの作曲、オスカー・ハマースタイン二世の作詞によるもので、1927年のミュージカル「Show Boat(ショウ・ボート)」のために書かれたものです。ミュージカル「Show Boat」は、エドナ・ファーバーの小説をもとに、オスカー・ハマースタイン二世が台本を書き、音楽の方の作詞をし、ジェローム・カーンが作曲をして、ミュージカルにしたものです。そして、これはアメリカ的ミュージカルの最初のものとされています。それまで、ミュージカルはヨーロッパから持ち込まれたオペレッタやレヴューなどが主流で、それらは幻想的であり、非現実的、空想的な内容のものでした。それが、このミュージカル「Show Boat」は、アメリカの日常的な物語を題材にしたものであり、そこには原作の中に出てくる人種差別、離婚、黒人水夫の生活といった社会的諸問題を取りあげ、それらを音楽によって楽しく表現しながらも、現実的なものであるという、今までのものとは違う、新しい内容のミュージカルとなったのです。このことによって、この「Show Boat」が、最初のアメリカ的ミュージカルであると言われています。現在の様な形のブロードウェイ・ミュージカルは、ここから始まったということです。このミュージカルは何度も再上演されており、映画化は3回されています。1回目の映画化は1929年で、2回目が1936年で、3回目は1951年です。この「メイク・ビリーヴ」は最初の方で歌われ、ヨーロッパ的な雰囲気が残ってはいますが、メロディーは美しいものです。この「Show Boat」の中から有名な曲として「Can’t Help Lovin’ Dat Man」、「Ol’ Man River」、「Bill」などがあります。これらの曲の中には、黒人のブルース音階を取り入れたメロディーがあり、それは、ミュージカルの中で黒人音楽が初めて演奏されたものでもありました。そういう意味でも、このミュージカルは白人文化が初めて黒人文化に触れたものであり、このことにより、真のアメリカ音楽が始まった瞬間だということになりました。要するに、アメリカ的なものを求めていたアメリカ人が、「真にアメリカ的なものとは何か」と考えた結果、それは、「黒人が生み出した音楽であるブルースやジャズなどにある」と気が付いたということでしょう。このあと、コール・ポーターやジョージ・ガーシュウィンなどのアメリカを代表する作曲家たちも、ミュージカルにジャズの要素をふんだんに取り入た曲を書いていくことによって、アメリカン・ポピュラー音楽が確立されていくのです。また、ジョージ・ガーシュウィンはクラシック音楽においてもジャズの要素を取り入れ、アメリカ的のクラシック音楽も生み出すことになります。ミュージカル「Show Boat」は、真のアメリカ的音楽というものは、「ヨーロッパの白人音楽とアフリカの黒人音楽の融合である」ということを示したものとなりました。*****●メイク・ビリーヴMake Believe作詞:オスカー・ハマースタイン二世作曲:ジェローム・カーン1927年《ヴァース》 (男)「ちょっと想像してみる」というゲームは僕の大好きなゲームなんだ僕らの見る夢は現実の世界よりもっとロマンチックなものさだから、僕の見る夢がもしそうでなかったとしてもそれは、まったく別の細かいことで、あまり重要ではないんだ(女)あなたと私が会ったことがないのは確かなことだけれど私たちは、しきたりや礼儀作法など気にしなくてもいいと思うわ私たちが望んでいることを思い浮かべ考えているとおりに行動すれば後悔することは何もないわ《コーラス》たとえば、僕が君を愛していると想像してみるのはどうかな君はただ僕を愛していると思えばいい多くの人がそう思うことによって心の安らぎを見つけているのだから君にだってできないことはないだろう?僕にだってできなくないさ僕たちにだってできなくないよね?僕らの唇が重なることを想像してごらん一回の想像のキスで、それとも二回、三回?同じように僕が君を愛していると思い込んでごらんそれはね、本当のことを言うと、僕は君を愛しているんだ*****●ミュージカル映画「ショウ・ボート 」Show Boat(1951)原作: エドナ・ファーバー 《あらすじ 》 ミシシッピーの流れを行くショウ・ボート。アンディ船長と継母パーシーに育てられたマグノリアは、美しい娘盛りを迎えていた。彼女と仲良しのジュリーは、ショウ・ボートの主演女優だが、混血児の身で白人俳優スティーブンと結婚していることが法に触れて、去って行かねばならなかった。入れ替わりに、粋なバクチ打ちのゲイロードが、スティーブンの後釜として乗り込んで来た。マグノリアはたちまち彼と恋に落ち、駈け落ちしてシカゴで愛の巣を育んだ。だが幸福は1年と続かず、ゲイロードはバクチに凝って財産を失い、マグノリアが妊娠していることも知らずに、姿を隠してしまった。悲しみのマグノリアは、昔ショウ・ボートにいたダンサー・チーム、エリーとフランクの世話で、ナイト・クラブに歌手として職を求めた。偶然そこには、スティーブンに捨てられ酒浸りになっているジュリーがスターとしていた。ジュリーはマグノリアの不幸な姿を垣間見て、彼女に職を与えようと、ひそかにそこを立ち去って行った。やがてマグノリアは父と再会し、ショウボートに帰ってキムという女の子を生んだ。そして5年、ゲイロードはある船の中でジュリーと会い、キムのことを知った。彼は矢も楯もたまらずショウボートに帰って行った。今はすっかり地道に帰ったゲイロードを、マグノリアは心から迎えるのだった。
August 3, 2005
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『Look For The Silver Lining』(ルック・フォー・ザ・シルヴァー・ライニング)この曲は、ジェローム・カーンの作曲、バディ・デ・シルヴァの作詞でミュージカル用に書かれたものですが、そのミュージカルは結局没になったそうです。1920年のミュージカル「サリー(Sally)」で使われ、そのときマリリン・ミラーとアーヴィング・フィッシャーが歌ってヒットしました。このミュージカルを映画化した「サリー」(1929年)では、マリリン・ミラーとアレクサンダー・グレイが歌いました。またカーンの伝記映画「Till the clouds roll by」(1946年)、マリリン・ミラーの伝記映画「Look for the silver lining」(1949年)にも使われました。***** ●ルック・フォー・ザ・シルヴァー・ライニングLook For The Silver Lining作詞:バディ・デ・シルヴァ作曲:ジェローム・カーン1920年黒い雲の向こうには白い雲が待っているもの空に雲があらわれるときはいつでもどこかに太陽が輝いているということを思い出してねそして、その太陽に、あなたも輝いてもらうの心が楽しさや嬉しさで満ちているときは悲しみや苦しみは消えてしまうものだから太陽が出る前の、ふちが銀色に光っている雲を見るのそして、いつも人生の明るい面を見ようと努力しましょう
August 2, 2005
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●アメリカン・ポピュラー・ソングの幕開け『They Didn't Believe Me』(ゼイ・ディドゥント・ビリーヴ・ミー)これはジェローム・カーン作曲、ハーバード・レイノルズ作詞で、1914年のミュージカル「ザ・ガール・フロム・ユタ(ユタから来た娘)」のために書いた曲です。このミュージカルは前年にロンドン公演をされたものを大幅に変えて、カーンの曲を数曲追加してブロードウェイで上演されましたが、この曲が大ヒットしたことで、興行的にも成功しました。第一次世界大戦中であったため、兵士たちがこの歌の替え歌を作ったりして愛唱されたらしく、楽譜も200万部も売れるという大変な大ヒットとなりました。これはカーンの最初のヒット曲となり、彼は作曲家としての名声を確立しました。そして、この曲は真のアメリカン・ポピュラー・ソングと言えるのです。この曲は、それまでの西洋的なミュージカルの曲とは違い、全体の構成や4分音符を多用するなど、新しい音楽性が示されていました。歌詞も、今までの「詩(poem)」というものから抜け出て、日常会話を歌にしたような口語的な「歌詞(lyrics)」という新たなものに変化してきています。そのため、曲だけがミュージカルから離れて世間の多くの人に口ずさまれるものになりました。そんなところから、真のアメリカ的な曲として大きく評価されました。1911年に、アーヴィング・バーリンの作詞作曲した「Alexander's Ragtime Band(アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド)」という曲が、アメリカン・ポピュラー・ソングの誕生と言われてまもなくのことでした。要するに、この曲は本当のアメリカン・ポピュラー音楽の始まりを意味する曲ということで、音楽の歴史的な面から見て、大変重要なものと言えます。 *****●ゼイ・ディドゥント・ビリーヴ・ミーThey Didn't Believe Me作詞:ハーバード・レイノルズ作曲:ジェローム・カーン1914年《ヴァース》(男)君って、やることすべてが可愛いね一日中見つめていたいよ君が僕のものになってくれるなんて考えただけで、すごいことだと思うよ君のその笑顔を見ていると生きててよかったと思えるよさあ、あちこち走り回って言いふらさなくちゃ僕がどんなに素敵なものを見つけたかってね(女)どうしてこんなことになっちゃったのかよく分からないわ夏の夜だったからかしらそれとも、何かしら、そんなこと誰にもわからないわよねとにかく、いろんなことが起きるものねはっきりしていることは、私が「ええいいわ」って言ったことぐらいそしたら、あなたは立っている私にキスをしたのよ誰でもそうしたかもしれないけれど《コーラス》そして、僕は君がどんなに美しいかって言っても誰も信じてくれなかった、誰も信じてくれなかった君の唇、目、頬、それに君のカールした髪の毛は比べようがないくらいに素敵だ君は見つけようがないくらい可愛い娘だそれで、君はやがて僕の妻になるってみんなに言うともちろんそう言うつもりだけどみんな僕の言うことを信じない、みんな信じないだろうよ君が、この素晴らしく大きな世界から僕を選んだなんてね
August 1, 2005
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