シュタイナーから読み解く神秘学入門
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随分とブログを放置してしまったので、3か月ぶりに申し訳ない程度に書きます。 主演女優の麻薬所持で、巷ではお騒がせとなっている明智光秀の大河ドラマだが、昨今TVでも本能寺の変や坂本竜馬の暗殺、赤穂浪士の討ち入りなどの新説が披露されているが、どれも新説には程遠い感が否めない。 そこで新説でもないのだが、なぜか定説からは無視されている八切史観を懲りずに改めて紹介したい。昨今、巷で紹介されている新説など、いわゆる定説の趣向を変えたものとは全く異なり、辻褄があいすぎるので、かえって異端とされてしまっているので、あらためて定説の対極にある説として紹介する。 先に述べた明智光秀についても、子孫が新説を書籍で出しているが、それも八切史観と比べれば、全体をみていない。 では、八切史観の「本能寺の変」について簡単に書く。 黒幕は徳川家康である。というのも、信長に殺されようとしていたので動機は十分にある。なぜ信長に殺されようとしていたかは、家康が松平元康を殺し、成り代わって、信長の一字を与えた元康の子の松平信康と築山御前を、信長のせいにして殺したからである。 天下統一を目前にしていた信長にとって、このような不義理の情報を流す家康は目障りだった。それと桶狭間の戦いは実は戦いではなく、和睦しにいった信長が義元の本陣につくと手薄とわかり、近くにいた家康たちと共に、義元との和睦を反故にして謀殺してしまった単なる暗殺にすぎないことを家康が知っていたことにある。 まただから桶狭間の戦いとされる謀殺の手柄第一等は情報をもたらした簗田正綱で、義元の首をとった毛利良勝ではないのである。この桶狭間の真相を知る平手汎秀などは、徳川と武田の三方ヶ原の戦いの際に口封じで戦死した。三方ヶ原の戦いは、家康に主君元康を殺され、敵対していた松平氏が、武田氏に援軍を願って起こした謀反で、武田家に天下の野望などなく、だから家康に勝って甲斐に戻ったのである。 この謀殺について記録が抹消されたのは当然で、桶狭間の戦いという奇襲に書き換わった。 信長が援軍を出したのは、桶狭間の真相を知る人物を殺す目的だったのである。武田家と織田家は敵対していないし、家康が援助を願うから出しただけである。援軍を出したから、家康に、桶狭間の事は黙ってろ、ということである。 桶狭間も信玄の野望も、信長死後、徳川が政権安泰のために、都合よく書き換えてしまっただけである。武田信玄は晴信ではなく信虎という説もある。信玄は後付けである。同じく謙信も後付けで、於虎がで女性だったというのも八切説で、宣教師の書に、上杉景勝の叔母との記述があるという。だから謙信と呼ばれる於虎は、生理のため、長期戦ができないので、直ぐに撤退し、領土拡張はできないのである。謙信のイメージのほとんどは江戸時代の上杉家の創作である。 つまり、信長にとって家康は目の上のタンコブだったのである。 信長にとっては家康はいつか始末する存在だったのである。ついでにいっておくと、信長の天下布武とは、端的にいえば、身分制度改革である。織田家の先祖は八田で、昔は小田と八の中に棒を入れて名乗ったそうで、藤原氏が唐から進駐渡来する前の、八つの原住民王国の1つらしい。そのことを話し出すと長くなるので省く。 要するに当時の身分が低い原住民は、戦で手柄を立てて朝廷から身分をもらい生活を楽にするしかない。各地の守護が身分制度を管轄していたわけである。 信長の身分制度改革に反対する勢力が結託して、信長が義元を騙し討ちにしたように、家康が信長を騙し討ちにしたのである。因果応報である。 信長は家康を本能寺に誘って騙し討ちにしようとしてたのが、家康が、信長の正室で道三の娘の奇蝶を中心とする織田家の美濃派勢力の懐柔に成功して、徳川家の天下を譲る約定とともに、斎藤利三を中心にして起こしたのが本能寺の変で、当初、光秀は蚊帳の外だったのである。 家康のこのやり方は、秀吉亡き後の豊臣家の近江派事務官と尾張派武力官との関ヶ原の戦いにも生かされる。家康は豊臣政権の北の政所と淀の確執を利用し、闘争に向かわせる。ちなみに武力官が勝ったのは戦場での経験の違いである。事務官は勘定は得意だが、戦場での駆け引きに疎い。 つまり、家康が立てた算段は、利三が本能寺で信長を討ちとり、光秀を説得して、織田家美濃派勢力と徳川家で、織田家尾張派を除外して、織田美濃派=徳川連合で京都を守護する手はずだった。しかし誤算がでたのは、いち早く家康の策略を見抜いた秀吉と細川藤孝の裏切りだったのである。 家康は利三と奇蝶を懐柔し、もし徳川が政権を獲得した暁には斎藤氏に譲る事を約定し、実際、この約定は、利三の娘を春日局にし、家光を三代将軍にすることで果たされた。というのも秀忠の正室には、織田家の血がお市を通じて入っていたことで、自然、国松は家康を殺そうとした信長の血で、徳川家には不要となったからである。 しかし、家光も、天海と、春日局との子なので、家康の血は入っていないのである。ちなみに天海は、明智光秀の子の光慶であるという。
2019年12月09日
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