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9月度行事予定http://www.rak3.jp/home/user/9484190/dialy1.html*****うつ病からの脱出 第80号 体調不良再発?2006年6月7日(水)、派遣先の会社の人達と歓迎会がてらの飲み会をしました。ジョッキ半分くらいしか飲めませんでした。ガブガブ飲めません。気持ち悪くなりそうで。この症状は全然回復していないようです。昔は浴びるほど(ちょっと大げさですが)飲めたのに、今飲めなくなっているという状態はとてもはがゆく、つまらないものです。でも、今後この症状が回復しない場合のことを考えると、今後は外で「お酒が飲めない人」というふうに自分で認識してその状態とうまく付き合って生きて行くしかないです。その上で、飲めなくても飲み会の雰囲気を楽しめればいいわけです。ちょっと悔しいですけどね。今回も、飲めなくても楽しもうという心持ちで臨みました。それなりに、いろいろと内情が聞けて楽しかったです。たのしかったけど、疲れました。連日家に帰ってくるのが20時~22時くらいなところに加えて今日は家に着いたの0時半くらいでした。疲れがたまっているのか、頭が痛いです。6月8日(木)、朝起きたらまだ頭がガンガン痛かったです。仕事を休もうかと思ったくらいでした。しかしそういうわけにもいかないので、バファリンを飲んでみました。多少頭痛が緩和されたので仕事に出ました。バファリンって、実は初めて飲みました。箱には「小粒」って書いてあるのにデッカイデッカイ。普段飲んでいる抗うつ薬とかに比べると何倍もデカイです。驚きました。正直、飲むとき気持ち悪くなりそうで苦労しました。仕事中、10時くらいからまた頭痛がして来ました。その後はだましだまし。昼休みも頭痛くて食欲が湧かないので昼食は食べませんでした。結局夕方までガンガン痛いまんまでした。今日のうちに片付けるべき仕事は終わったので、頭も痛いし18:30頃仕事は切り上げました。家に着いたのが19:15頃。まだ外が薄明るいうちに家に着いたのは久しぶりでした。夕食を食べてから少し頭痛も治って来たような感じがしました。6月9日(金)、幸い、この日は派遣先の創立記念日で休みでした。有り難いことです。ゆっくり休養しようと思いました。一応、頭痛は朝起きたらほとんど消えていました。しかしまだ何か本調子の体調ではありませんでした。頭が重いような、フラフラするような感じと軽い寒気がします。風邪かな?と思いましたが、熱はありません。10日(土)も朝起きて、熱が無いのに寒気がしたりフラフラするような感覚があります。変な体調です。食欲も無く、朝飯は半分くらいしか食べられませんでした。疲れがたまっているのか、精神的なものが悪影響をおよぼしているのか・・・?それでも、昼メシのスパゲッティは全部食べられました。午後になってからは寒気等もあまり感じなくなって来て、少し回復してきたかな?って感じでした。晩飯も普通に完食できました。だいぶ回復して来た感じです。明日1日で健康体に戻ってもらわないと、来週の仕事に支障が出ます。11日(日)、朝起きて、体調はほとんど元に戻ったような気がしました。それでもやっぱりほんの少し本調子ではない感じが残っています。夕方ちょっと寒気がしたので熱を測ってみたら6度9分ありました。早く寝ることにしました。6月12日(月)、今日からまた仕事です。朝眠く、食欲がありません。昼も食欲ありませんでした。金土日の休みで頭痛はほぼ無くなったのですが、夕方に近くなってまた頭が痛くなって来ました。19時くらいには普通の頭痛状態になってしまいました。ツライので、この辺で今日は仕事を切り上げました。なんか先週の水曜から体調不良がずーっと続いています。なんとか治ってくれないでしょうか。とてもツライです。やはり精神的なものなのでしょうか?前職に比べてやっている仕事内容は簡単なのでストレス等もほとんどないのですが。プログラミングの実務経験を積めない仕事だとわかり、落胆はありましたがだからといって嫌で嫌でしょうがない仕事というわけでもありません。私の体は一体どうなってしまったのでしょう?この日はサッカーワールドカップの日本vsオーストラリア戦だでしたが、頭が痛いから見るどころではなかったです。残念でしたが早く寝ました。つづく次回は東京に行かなくて良かったと思ったことなどについてお話します。うつ病からの脱出発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.com
2006.08.31
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9月度行事予定http://www.rak3.jp/home/user/9484190/dialy1.html ****~ 不 登 校 ・ 引 き こ も り か ら 社 会 へ ~ http://homepage3.nifty.com/Husta/ Byヒューマン・スタジオ □ 連載コラム[2] 『 不登校になると にんげんが見えてくる 』 これから載せる記事は、前号までの体験記が雑誌に掲載された時から5年前、私が社会人1年生だった年に、ある講座の通信に連載されたものです。高校卒業からそれまでの5年間、私は教師をめざして大学生活を送っていました。しかしその時代は、私にとってとても暗いものでした。理由は次の連載でお話することになりますが、あるきっかけから再び精神的に不安定になり、青春時代を楽しむことなく終わってしまったのです。 4年生になり、出身高校での教育実習のあと、不登校をテーマとした卒業論文の研究を始めた私は、文献をあたっていくうち「不登校になってなかったら、今の自分はなかった」ということに気づきます。教員採用試験に合格できないまま卒業した私は、偶然にも出身高校に非常勤講師の空きを見つけ、1年間の講師生活を始めます。教員採用試験の受験勉強を続けながら教壇に立つかたわら、私はその講座の通信に、初めて自分の不登校を肯定する記事 『登校拒否になると にんげんが見えてくる』を載せることにしたのです。 ●● 第1回 立ち直る理由 暴れた翌日、私は1日中自分というものについて考えました。そして、何時間も考え続けたとき、ふと「退学になったからといって、それがなんだ」と、自然に思えるようになったのでした。こんな考えは、それまでの私には、まったく思いもよらなかったことでした。そして─この学校を卒業できないからといって、生きていかれないわけではない。「高校を卒業する」というのは、人生全体から見れば"目先の目標"にすぎないではないか。人生には、もっともっと大切なことがある─この、今考えればごく当たり前のことに、やっと気づいたのでした。 これにより、私の心は、落ち着きを取り戻していました。それまでは、留年のたびごとに「進級」を至上の目標にして、再スタートをしていた私でしたが、この日を境にして「精神的自立」という、学校とは何の関係もないものに変わったのです。不思議なもので、そうなりますと「何とか登校しなければ...」という焦りと気負いが、頭の中から消え去り、ごく普通の心理状態を取り戻すことができたのでした。 「登校拒否を卒業して」<「登校拒否児とともに歩む父母の会」会報『あゆみ』1987.7(一部修正) > 解 説 前号「発行者略歴」欄にありますとおり、私は高校の卒業までに7年かかりました。前半の5年間は"登校拒否"による出席日数不足のため、4回連続留年してずっと1年生。その4年目、3学期のある日に、私は立ち直りました。 上の文は、その立ち直った瞬間のことを書いた部分です。すなわち、この年、回復への意欲が出てきて、何とか立ち直ろうともがいて、進級まであと一歩のところまで出席日数を積み重ねたものの、結局崩れて、今度こそ退学だろうという切迫した事態に直面したとき、学校価値に囚われていた人生観が"クルッ"と転回して、人として本当に大切なものに気づいたとき、私がもがくのをやめた─ということを示しています。 もがいている限り立ち直れず、もがくのをやめたら立ち直った─というのは、不思議なことですが、事実なのです。思いますに"登校拒否"と呼ばれる状態のもっとも大きな要因は「立ち直らなければならない=平常に通学しなければならない」という方程式を必死になって解こうとして、もがき苦しむことにあるのではないか。だとすれば、どうすれば本人がもがくことをやめられるか─ということが"登校拒否"解決のカギだと言えるのかもしれません。 丸山 著 『こうざつうしん』(1991) より転載 ● 〔 今補足したいこと 〕「立ち直る」という表現について 「不登校から立ち直る」という表現を「不登校は直すべきものという誤解に基づく不適切な表現」と非難し、行政機関が発行した文書などにそういう記述を見つけたら、抗議して書き換えさせる方たちがいます。 確かに、不登校経験のない行政機関の方たちは、不登校への誤解からそのような言葉を使っているのでしょうから、不登校児を支援する方々が抗議するのは、よくわかります。しかし、私のような経験者が、実感から「立ち直る」という言葉を使うこともいけないのでしょうか? フリースペースもフリースクールもなかった昔は、登校しないこととそれによるプレッシャーや罪悪感などの精神的苦痛は"セット"であって、学校復帰に向かって"回復"するにつれ苦痛が軽くなる、というのが多くの不登校の経過でした。 前の連載で書いたように、私の場合は"セット"だったばかりか、最も苦しかったのは最後の数日間だったわけです。そこから抜け出すことができたことを「立ち直る」と言わずして、何と表現すればいいのでしょうか。 もっとも、私自身「不登校から立ち直る」という表現は、最近しなくなり、前の連載でも書いたように、今は「不登校が終わる」という表現をよくします。不登校は"直すべきもの"ではないと、私も考えているからです。 (続)
2006.08.30
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□ 連載コラム[1] 『 高 校 を 7 年 か け て 卒 業 し た 男 の 話 』 バックナンバー: http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424※ 連載コラム[1] は全6回の予定でしたが、今回Vol.5で終了いたします。● Vol.5 新しい自分を創るために必要だった それでは、私の登校拒否体験のなかから、2つだけポイントを挙げてお話したいと思います。 まず、私はなぜ4回も留年しながら、中退の道を選ばなかったのか、ということです。 理由の第1は、そもそも学校が合わないから登校拒否になった人と違って、私の場合、学校に合っている人間だったから、ということです。特に、1期生としての"愛校心"から、この高校を卒業したいという思いが、人一倍強かったわけです。 理由の第2は、当時(1980年前後)の時代状況が大きかったと思います。というのも、当時はまだ、高校生が登校拒否になった場合、「再登校か退学(定時制や通信制の学校への編入または就職)か」という選択肢しかなく、したがって"第3の道"とでも言えるそれ以外の進路は、考えも及ばなかったのです。つまり、1)大学入学資格検定試験は、一般に知られてなかった。2)フリースクールは1つもなかった。3)学校に通うことと塾などに通うことの価値は変わるものではない、 という説は聞いたこともなかった。という時代だったわけです。そんななかでは「登校拒否とは、学校を休み始めてから復帰するまでのことである」としか考えられず、元の学校以外の選択をしなかったのも、無理からぬことだったと思われるのです。 次に、私にとっての登校拒否とは何だったのか、ということです。私にとっての登校拒否とは「道の踏み外し」でも「一時の気の迷い」でもなく、正真正銘「人格形成過程の一段階」だと言いきれます。つまり、登校拒否は新しい自分を創るための"産みの苦しみ"として、私の人生に不可欠なことだったと考えられるのです。 例えば、登校拒否の原因を問われれば、前にお話しした「家庭内のムードが悪くなった」という直接のきっかけは、まったく意味のないことであって、真の原因は「自分の成長のためには、あのとき登校拒否になることが必要だったから」と答えるのが正しいのです。また、登校拒否が終わった理由として、その時の場面についてお話ししたことを要約すれば、「学校に戻ることをあきらめられたから」ということになるわけです。 つまり、私にとって登校拒否は「学校に行かれなかったのが、がんばって行かれるようになった」という小さな出来事だったのではなく、「学校という狭い世界から、人生全体という広い世界に、視点を移し変えることができた」という「生きざまそのものの変革のプロセス」だったのです。 (完) 不登校専門誌『こみゆんと』27号(1996) [31歳の手記] 『「生きざま」そのものの変革のプロセスだった』著:丸山 より転載 ● 以上、私の高校時代をひととおり振り返りました。何しろ20年以上前の話ですから、今の状況には参考にならない点も多々あるかと思います。 しかし私は、世間の過半数の人々にとって、この体験記は「?」の連続だろうと思っています。「どうして急に元気になっちゃったの?」「不登校になるような子は、もっと弱いんじゃないの?」「不登校が必要だったなんて絶対におかしい」...等々。 したがってこの体験記は、不登校のことをよく知らない方々に"入門テキスト"として使っていただきたいと、私は思っています。 次回からは、今挙げたような、想定される世間の疑問に関連した文章をひとつひとつ取り上げ、私なりの回答を伝える連載記事を載せていきます。ただ、それらは今回までの体験記よりも前に書かれたものなので、さらに記述が古く(「立ち直る」なんていう言葉を使ったりしています)、不登校を積極的に支持している方には不満かもしれませんが、反対に不登校のことをよく知らない方に、今回までの体験記と併せて"入門テキストセット"として使っていただきたいと、私は思っています。 私が自分の不登校を通じて見えてきたもの、そして不登校の意味を、感じとっていただける記事だと思います。単なる体験記とはひと味違う不登校経験者の静かなる主張が、次回から始まります。どうぞ、おたのしみに...。
2006.08.29
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□ 連載コラム[1] □・--------------------------------------- 『 高 校 を 7 年 か け て 卒 業 し た 男 の 話 』 バックナンバー: http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424 ● Vol.4 このままでは自分がだめになる! こうして、在籍4年目を迎えようとしていた春休み、B先生は、職員会議での公約どおり、カウンセラーのH先生を紹介し、私は、学校に通いながら週1回カウンセリングを受けることになりました。 ところが、2年あまりの長い生活の乱れからいきなり規則正しい生活に戻ったことで、新学期早々から、激しい全身疲労によって、下校するや客室でバッタリと眠って夕食のときに起き、食後入浴してすぐ就寝しても翌朝起きられない、という毎日になりました。 そんな状態が5月になっても回復しなかったため、私は「このままでは進級できなくなる......」と動揺するようになり、再び睡眠時間がずれて学校も欠席がちになったまま、1学期が終わってしまいました。 この事態に、カウンセラーのH先生は、神経科医と組んで開業したばかりのクリニックで、私に脳波検査を実施したうえ、軽い睡眠薬を出し服用を指示されました。 これに対し、よほどのことがない限り薬を飲んだことのない私は、睡眠薬に頼りたくないという思いが強く、指示には従いませんでした。 結局、週1回のH先生からのカウンセリングは「今週何日出席したか」「睡眠薬は飲んでいたか」「睡眠薬で生活を正して毎日登校を」という話しかなく、自分の心の問題に関心を持っていた私は、先生に不信感が募るばかりでした。 その一方で、B先生に影響を受けた私は、「進級」と「自己変革」両方を目標にして通学していました。 具体的には「性格を明るくして友達をたくさんつくる」「堅い考えをやめて学校生活を楽しむ」というふうに、自分を変えよう──というわけです。 そのような努力の結果、私は入学以来初めて、たくさんの友達ができ、またスポーツや歌や作文など、得意分野を発揮する機会に恵まれて、楽しく充実した学校生活を送ることができるようになりました。 学校生活が楽しいため、出席日数も、2学期が終わるまでには、なんとか進級できそうな数字まで"がんばって"伸ばしていました。 しかし3学期、私は息切れして生活が乱れ、進級の望みがあっさり消えてしまったのです。「今度こそ退学だ......」 退学後の生き方が想像できず、目の前が真っ暗になった私は、3月第1土曜日の夜、沸き上がる焦りにパニック状態になり、母への八つ当たりという形で爆発しました。最初で最後の大暴れ、でした。 翌日、うそのように落ち着きを取り戻した私は、一日中、自分をみつめていました。 すると「学校とは関係なく、このままでは自分がだめになる」という危機感に心が揺さぶられた次の瞬間、「この学校を卒業するなんてことは、人生の目標としては小さすぎる」という、いまにしてみればごくあたりまえの考えがひらめき、続いて「退学しても、精神的に成長しながら、元気で生きていこう!」と、希望に満ちた気持ちで決心がついたのでした。 すると、目の前がパッーと開けたような明るさと、からだの中からこんこんと沸き出るエネルギーが感じられたのです。心が澄みきっていて、何とも言えない、神秘的な境地でした。 この日を境にして、私の目標は「進級」ではなく、「精神的自立」という、学校とは何の関係もないものに変わりました。不思議なもので、そうなりますと、それまでのような、「なんとか登校しなければ......」という焦りと気負いが、まったくなくなり、ごく自然な気持ちで、残り少ない3学期の学校生活を送るようになっていたのです。 その年度末、私にとって3度目の担任だったA先生の強い弁護により、私は「1学期がだめなら、今度こそ退学を」を条件に、4回目の留年を許されたのでした。 1年生最後の年になりました。2学期、クラスにいた"つっぱり"が、非行問題を起こして退学したのですが、彼の問題にかかわった私は、それ以来学校教育について勉強するようになり、3学期の3月、生徒の自治が大切であるという結論を書いたレポートを、担任のC先生に提出しました。また、それに先立ち、1月には成人式に出席しました。 前の年とは違い、1年間疲れもなく登校できたおかげで、体力の自信を取り戻した私は、興味を持っていたテニスをしたくなり、この年の最後の日に、テニス部に入部しました。 2年生に進級すると、前述のレポートを読まれた担任のD先生が、私の主張に共鳴され、自治的なクラスづくりをしていきたいと申し出られたため、私も教育の勉強を続け、またことあるごとに先生と意見交換しながら、学級活動に熱中していきました。 2学期、学校全体の生徒自治を推進したくなった私は、生徒会副会長に当選し、それから3年生の9月までの任期中、先生方に頼らない生徒会運営を確立するための"政策"を次々と提案し、ほかの役員と一緒に、その実行に動きまわりました。 こうして、高校最後の3年間は、4歳年下の同級生と一緒に、楽しく充実した毎日を過ごし、たくさんの思い出を残すことができたのでした。 (続) ※ 不登校専門誌『こみゆんと』27号(1996) [31歳の手記] 『「生きざま」そのものの変革のプロセスだった』丸山 著 より転載
2006.08.28
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http://www.rak3.jp/home/user/9484190/http://momo-mid.com/mu_title/aino_romance.htm・・・・・・・----・□ 連載コラム[1] □・--------------------------------------- 『 高 校 を 7 年 か け て 卒 業 し た 男 の 話 』 Back No: http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424 -------------------------------------------------------------------● Vol.3 学校以外の人生など想像もつかなかった 私は、学校に対しては「理由もなく欠席して、先生方やクラスのみんなに申し訳ない」という罪悪感を抱いてましたから、家庭訪問などの先生の指導に対しては、いつも平身低頭で臨んでいました。 また、多くの場合そうであるように「学校へは行くのがあたりまえ、行けないのはダメ人間」という考えでしたから、登校しようとするのですが、かえって緊張と焦りが大きくなり、その反動で無気力状態になるのです。 しかも、学校に行ってないためにさまざまな苦痛や出来事があり、そのたびに疲れて、自暴自棄に陥るなど、昼夜逆転の生活になることが多かったのでした。 それでも、朝起きられるようにと、居間に布団を敷いて寝るなど、ひたすら登校しようとがんばった結果が、前に示した「出席日数約50日」だったわけです。 一方、両親に対しては「留年する前の3学期にずいぶんひどいことを言われた」という思いが、感情的なしこりとなって残ったため、いつも「考えを変えて、わが子の再登校のために努力すべきだ」と考えており、今度は、私の方が三日あげずに母に話し合いを持ちかけては、そういう要求や、私の気持ちに無理解な言動への抗議に明け暮れるようになっていました。 でも、これはあとから思えば「両親に助けてほしい」という依存心の、歪んだ形での表現だったに違いありません。ただ、実際に言っていた内容は「親は○○すべきだ」という教育論のようなものだったため(私は小学生のころから「教育」に関心をもっていました)、両親は私の真意がわからず、逆に「思いどおりにならない親への腹いせに学校を休んでいる」といった誤解と怒りを生むばかりだったため、親子げんかがむなしく繰り返される結果にしかならなかったのでした。 翌年、つまり高校在籍3年目も、出席日数も家庭での生活ぶりも、相変わらずでしたが、すばらしい担任の先生との出会いが、私の状況を変化させてくれることになりました。 担任のB先生は、夏休み明けに、一対一の『交換ノート』をしようと、私を誘ったのです。長い間いろいろな思いが自分のなかに渦巻いていた私は、以後、思いのたけを帳面にぶつけていきました。 しかし「今度進級できなければ退学だろう」と推測していた私の書く内容といったら、深みのない親批判や自己批判のほかには「生徒生命をかけて」とか、「どうすれば進級できるのか」など、学校にしがみつこうとするものばかり。ところが、B先生のほうは「進級できるかどうかよりも、君自身がどう生きるかのほうがはるかに大切」という趣旨の内容を、繰り返し書いておられたのです。でも、学校以外の人生など想像もつかない当時の私には、そんな先生の文章の意味を理解することができませんでしたから、2人の記述は、すれ違いの連続でした。 そんなすれ違いが一挙に解消されたのは、その年度が終わりに近づいた3月の初め、先生に「自分を直視し、自己変革への努力を」と、静かに、かつきびしく叱られたときでした。 このとき私は、先生のお話に、目からうろこが落ちる思いでした。そして「自分を成長させる」ということに、夢と意欲を持つようになったのでした。 それから私の書くノートの内容も、自分自身を深く見つめるものに一変し、その後の私の変化につながってゆくのです。 結果、前に示したように、2年続けて59日程度しか出席できなかったことにより、私を退学させようという空気が、職員室を支配しつつあったようでしたが、最後の職員会議で、先生が知り合いのカウンセラーを私につけることを条件に、私の留年を認めてくれるよう訴えてくださった結果、異例の"再々留年"が認められたのでした。 (続) ※ 不登校専門誌『こみゆんと』27号(1996) [31歳の手記] 『「生きざま」そのものの変革のプロセスだった』丸山 著 より転載
2006.08.27
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2006年6月2日(金)、派遣で仕事を始めて2日目です。この日は21時過ぎまで仕事をしました。疲れました。デプロイ作業を始めて自分でやりました。(教えてもらいながら)一応手順書のようなものはあるので、そのとおりにやっていればとくに失敗も無く終わるというようなものでした。昼はあまり食欲がありませんでした。北洋銀行の社員食堂のカレーが半分しか食べられませんでした。夜、家に帰って来てからは普通に食べられました。帰って来てすぐ350ml缶の第3のビールも飲みましたし。仕事で使うためにMacを持って行っているのですが、一応使い物になりました。Virtual PC + Windows XP Professionalも入れていますから、これが意外と役に立ってくれています。入手した当時はOracle9iのトライアル版を入れるのが目的で、でもインストールでエラーが出ちゃって入れれなくて、これじゃあ入手した意味が半分くらいなくなっちゃったと思っていたのですが、まさか今になってこういうところで役に立つとは思いもしませんでした。しかし、Virtual PCは所詮エミュレーターなので動作速度が遅いです。今の最新版のMacなら、インテルチップ搭載でしかもBoot CampというWindowsをネイティブインストールできるソフトまでありますから、ネイティブの速度でWindowsを動かすことができます。あと1年かそれくらい経ったら、ニューMacを買いたいところです。6月3日(土)、去年の10月末に「トマトラーメン」という風変わりなラーメンを食べに行ったラーメン屋「ラーメンみのり」に普通のラーメンを食べに行ってみました。千歳にあるので車で片道50分くらいかかりましたが・・・。みそラーメンを食べたのですが、うまかったです。スープの味もいいし、麺のゆで具合もいいし、麺へのスープの絡み具合もいい。スープの味と麺の味のバランスの良さと美味さは、今まで食べたラーメンの中で一番かも。でも、チャーシューがちょっとイマイチおいしくなかったかな。これだけがマイナス点。だけど、時間かけて行った価値があるくらい美味いラーメンでした。店自体もスゴく繁盛していましたし。こんな感じで普通に外でも食事ができるのだから、昨日の昼に食欲が無かったのは一時的なものなのかな?と思いたいところです。6月5日(月)、プロジェクトの人達は東京から来ています。毎週月曜に札幌に来て金曜に東京に帰ります。だから今日の午前中は直属の上司に当たる人がいませんでした。眠たくて大変でした。昼飯はチャーシューメンを食べました。麺は完食できました。スープを飲み干すほどの食欲はありませんでした。やはりちょっと精神的な負担でもあるのでしょうか。仕事を終えて家に帰って来てPowerBookG4の電源を入れたら、Virtual PCのWindows XPが消えていました。驚いちゃいました。なんで消えるんでしょう??仕事場で電源切る直前までは使えていたのです。動いていたのです。いままでセットアップしたJavaとかTomcatとかApacheとかMySQLとかもろとも消えちゃいました。ガッカリです。仕方ないので、Virual PCのインストールCDから改めてWindows XP Professionalを入れ直しました。すかさずウィルス対策でVGA Free 7.1をダウンロードしてインストールしました。ウィルス対策しておかないと、仕事場で使えないからです。6月6日(火)、札幌医大病院に行って来ました。薬がまた減りました。ついにトフラニールを飲まなくて良いことになりました。従って、朝と晩にそれぞれトレドミン 25mg 2錠メイラックス 1mg 1錠だけになりました。一回に3粒でいいのです。これは嬉しいです。派遣会社の契約社員になったので、保険証も派遣会社のものになるのですが、まだモノが来ていませんでした。だから自立支援医療受給者証の保険証変更手続きもできていませんでした。そういうわけで今日は診療代と薬代は保留になりました。今月中に支払わないと、全額負担になるらしいです。いつもは薬は院外処方なのですが、こういう場合は院内処方になりました。保険証が今月に間に合わなさそうな場合は、「資格証明証」とかいうのを会社が発行してくれるそうで、それを窓口に出せば保険証と同じ扱いをしてくれて支払うことはできるということも教えてもらいました。役所での自立支援医療受給者証の保険証変更手続きは、支払いの前でも後でもいいそうです。手続き自体は保険証がないとできませんので、保険証入手待ちです。それと、「2006年度札幌市IT人材雇用プログラム説明会&一次選考会」というのが新聞の広告に載っていました。約2ヶ月間無料で研修を受けて実践的なスキルを習得し、その後就職するというプログラムのようです。募集人員はなんと120名。全員就職できるのでしょうか??研修カリキュラムは「Oracleコース」と「Windowsコース」の2つ。「Oracleコース」のほうがJavaとかでWeb系の技術を取り扱うみたいだから魅力的です。プログラマーになりたい私としては、これもまた良さそうな話です。一応申し込みました。6月18日(日)の説明会&1次選考会に申し込みました。実施内容は、結構多彩。・プログラム内容の紹介・アンケート(希望研修コース等について)・筆記テスト(PC・IT関連知識、一般常識など)・集団面接(5名一組)*所要時間:約3時間ひえ~~~つづく次回は体調不良再発?なお話をお届けします。うつ病からの脱出発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.com
2006.08.26
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うつ病からの脱出 第78号 超期待ハズレ2006年6月1日(木)、派遣とはいえ、記念すべき復職初日を迎えました。しかも目指していたIT業界です。期待と不安が入り交じった気持ちで出勤しました。中島公園駅で派遣会社の営業担当Tさんと待ち合わせし、派遣先の職場へ行きました。派遣先の職場は北洋銀行のシステムを運営しているような本部みたいなところでした。そこの玄関前で派遣会社のTさんが派遣先企業の人を電話で呼び出し、迎えに来てくれたところで私が引き渡されてそこでTさんとはサヨナラでした。さすがに銀行のシステムを運営している建物ということで、セキュリティが厳重です。プロジェクトの入っている部屋には、IDカードと手の指の静脈照合の二重チェックしないと入れません。私はまだIDカードも静脈の登録もしていないので、自由に出入りできません。だれかにたのんでドアを開けてもらって出入りしなくてはならないという不自由な状態でした。午前中、このプロジェクトの概要とかいろいろ説明を受けましたが、まあ、わかったようなわからないような、、という感じでした。わかったことは、データ収集チームとプログラム開発チームと開発支援チームの3つのグループがあって、それぞれいろんな会社の寄せ集めだということでした。中心になっているのがやはりIBMでした。私の仕事は開発支援です。札幌銀行でも同様のシステムを使っているとのことで、初出社早々午後からは先輩社員に付いていって札幌銀行の本部まで軽い出張でした。そこでどんな仕事なのかを見学していました。どうも、「デプロイ」という作業で、開発者が作ったたくさんのプログラムファイルをアプリケーションという形に固めて、システムにインストールするというような作業でした。夜7時過ぎまでやっていました。正直、ガッカリしました。「開発支援」という仕事は、「開発」ではないのはあたりまえなのですが、どうやらJava言語でのプログラミングを行うような仕事はなさそうな感じでした。したがって、プログラミングの実務経験は全くつかないように思われます。せっかく、プログラミングの実務経験をつけられると思ってこの仕事に応募したのに、これじゃあなんだかこの先時間の無駄のような気がしました。プログラミングはIBMの開発の人達がやっていて、IO社の開発支援の仕事はデプロイ。私に求められているのは、その作業の自動化とか、作業手順のドキュメント作りっぽいです。自動化は、DOSコマンドのバッチファイルでやりたいらしいです。これじゃあホントにプログラミングの実務経験積めません。ホントに、時間の無駄じゃねえか??と感じました。7月末までの2ヶ月限定の契約でよかった、、と思いました。帰りの地下鉄の中で意気消沈していました。もう、期待ハズレもいいところです。こんなことで2ヶ月も時間つぶすのかあ・・・と、やりきれない気持ちでした。そんな気持ちの中、ふと中吊り広告をそれとなく見上げたら、「IT業界未経験者のみ対象」とされた会社説明会の案内がありました。PT社主催で、CSK社という会社のものでした。6ヶ月間研修して、一人前のITエンジニアに育て上げるという、どこかの学校で聞いたような話ですが・・・・(笑)詳細のURLなどが書かれていたのですかさず携帯電話にメモして、家に帰ってから即Webにアクセスしました。EPR分野の開発者を育成し正社員として雇用するプログラムをスタートさせるとのことでした。EPR?なんだそりゃ?ということで調べてみたところ、ERP:Enterprise Resource Planning企業全体を経営資源の有効活用の観点から統合的に管理し、経営の効率化を図るための手法・概念のこと。今企業は、自らの持つ資源をきちんと把握・管理し、それらを事業展開に有効活用することが大きな課題となっています。そして、経営をしっかりサポートするシステムが不可欠です。とのことでした。とりあえず仕事はプログラマーのようです。これはもう運命的に出会ったのかもしれないと思いました。派遣先の仕事が期待していた仕事じゃないことがわかって、うちひしがれていた心に光明が差したような気持ちがしました。Webページを良く読んで、6月17日(土)の説明会にエントリーしました。「説明会へ是非一度ご参加ください」との返事がメールで来ました。もしこのプログラムの開始時期が早くて派遣の契約が終わる前だとしても、決まっちゃえば派遣なんて途中で辞めてこの研修に参加した方がいくらか役に立つだろうと思いましたし、派遣を途中で辞める覚悟もありました。それくらい、今回の派遣の仕事にはガッカリしたのでした。つづく次回は食欲落ち気味になった話をお届けします。うつ病からの脱出発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.com
2006.08.25
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東京市ヶ谷私学会館東プロント10:30~11;30スト-ンエイジ上映会IN姫路打ち合わせ会詳細は別紙スト-ンエイジ上映会無償ボランテイア募集募集人数:10名程度説明会 9月1日(金) 13;30~15:30場所 イ-グレ姫路1F西端 サロンドットコム前内容 10月14日(土)上映に向けてのスケジュ-ル調整等
2006.08.24
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平成18年度夏期セミナー埼玉会場出席 [ 700広報書籍報道資格臨床福祉心理士)等 ] 平成18年度夏期セミナー第16回教師&専門家のための不登校問題研修会「問題行動の早期発見・早期対応をめざして」埼玉会場 講座紹介&スケジュール 8月22日(火)~8月23日(水)B講座ひきこもりを伴う不登校への対応-カウンセリングとケースワークの実際について考える-不登校問題研究会代表幹事NPO法人教育研究所理事長 牟田 武生ひきこもりを伴う不登校への対応は難しく、長期間に及ぶ。対応を誤るとNEETへ移行することがある。ひきこもりをタイプ別に分け、その具体的なカウンセリングとケースワーク、家族支援のあり方を学ぶ。『全教員・相談員必修講座』国立女性教育会館(埼玉県比企郡嵐山町菅谷728番地)定員 25名(北海道、鹿児島、島根、滋賀、愛知、兵庫等)スケジュール 8月22日(火)8月23日(水)10:30~12:00オリエンテーション&講座紹介各講師によるワークショップ(3)13:30~15:00各講師によるワークショップ(1)各講師によるワークショップ(4)15:20~16:50各講師によるワークショップ(2)まとめと全体質疑(5)その後、解散
2006.08.23
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平成18年度夏期セミナー埼玉会場出席平成18年度夏期セミナー第16回教師&専門家のための不登校問題研修会「問題行動の早期発見・早期対応をめざして」埼玉会場 講座紹介&スケジュール 8月22日(火)~8月23日(水)B講座ひきこもりを伴う不登校への対応-カウンセリングとケースワークの実際について考える-不登校問題研究会代表幹事NPO法人教育研究所理事長 牟田 武生ひきこもりを伴う不登校への対応は難しく、長期間に及ぶ。対応を誤るとNEETへ移行することがある。ひきこもりをタイプ別に分け、その具体的なカウンセリングとケースワーク、家族支援のあり方を学ぶ。『全教員・相談員必修講座』国立女性教育会館(埼玉県比企郡嵐山町菅谷728番地)定員 25名(北海道、鹿児島、島根、滋賀、愛知、兵庫等)スケジュール 8月22日(火)8月23日(水)10:30~12:00オリエンテーション&講座紹介各講師によるワークショップ(3)13:30~15:00各講師によるワークショップ(1)各講師によるワークショップ(4)15:20~16:50各講師によるワークショップ(2)まとめと全体質疑(5)その後、解散
2006.08.22
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・・・・・・・ がしかし今更場所を移動する訳にも行かず死んだふりをしていたら、2人が何やらぼそぼそと耳打ちをしたと思ったら急に立ち・・・・・その日の帰り、パンチパーマに金のネックレスをじゃらじゃらっと首からぶら下げた兄ちゃんが、女子高生見たいな女を連れて地下鉄の階段を下りて来よった。はは~んあれが噂に聞く援助交際言う奴やな、間違いない!。私は蔑みと哀れみの目でその2人を見ていたら、急にパンチが階段を下りて行って、大きなキャリアーを持っていた爺さんから無言でそのキャリアー・・・・・何や、あんたもええとこあるやんか人は見かけによらんということ・
2006.08.21
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高校を7年かけて卒業した男の話● ヒューマン・スタジオ代表(チーフコラボレーター) の丸山こと "まるさん"です。こんにちは。こんばんわ。 ここに、私の高校時代を語るのにうってつけの材料があります。1996年3月に発行された不登校専門誌『こみゆんと』27号に掲載された手記『「生きざま」そのものの変革のプロセスだった』がそれです。 私が高校に入学してから7年後に卒業するまでを、不登校時代を中心にまとめたその文章を、これから連載していきます。● Vol.2 7年間在籍した高校を卒業した--はじまり 初めに、学年と出席日数を順に示しておきます(授業日数は年間約240日)。 1年目・1年生 137日(→留年) 2年目・1年生 約50日(→留年) 3年目・1年生 53日(→留年) 4年目・1年生 156日(→留年) 5年目・1年生 237日 6年目・2年生 226日 7年目・3年生 203日 つまり、最初の5年間は、登校拒否による出席日数不足のため、4回連続留年で1年生のまま、そのあと2年生、3年生と順調に進級して卒業--ということだったわけです。 1979年、新設校だったその高校に入学した私は、父の影響を受けた高学歴志向と、友達をほしいと思わない人間関係軽視の傾向が、なぜか急に著しくなり、学校と家とを往復するだけの、単調な生活を送っていました。 そのうえ、前述の「高学歴志向」とは裏腹な学業不振や、通学への疲労感(新しい生活を始めるといつもそうなる)などから、毎日が不調なため、知らず知らずのうちに、心の疲れがたまっていたようでした。 そんなことで、結局1学期は9回欠席したのですが、2学期に10回目の欠席をした日、担任のA先生が家庭訪問に来られ、両親との話し合いをされたとき、先生が「留年寸前」という意味の通告をしたと、両親が受け取ってしまいました(先生は否定しています)。 それからというもの、両親は私が寝坊するたびに「休むと留年になる」などと口走るようになるなど、家族全体が"留年の影"におびえるようになりました。 学校での人間関係が希薄だった私にとって、このように家庭内のムードが暗くなったことは、精神的安定を揺るがすのに十分でした。私はだんだん元気がなくなり、2学期中ごろから欠席がちになっていき、3学期は1日も登校できませんでした。 両親は、3学期の初めごろは、「病院に行ってはどうか」「薬を飲んではどうか」などとすすめるだけでしたが、県の教育相談機関に相談したとき「原因は友人がいないからで、登校すれば友人ができて休まなくなるから無理にでも登校させるべきだ」と助言されたこともあり、2月になると「いつ登校するのか」「学校へ行く気がなければ別の道を」などと、三日にあげず私を詰問するようになりました。 私は、そのたびに焦りが高じて、釈明する態度が反抗的になったため、親子げんかの連続となり、しまいには、父に罵倒された私が号泣するなど、混乱状態のなかで、私は傷つき疲れ果てて家にこもったまま、この年が終わってしまい、留年が決定したのでした。 でも、先輩後輩のタテ関係がはっきりしている日本の高校での留年というのは、現代の高校生には想像を絶することだと思います。 当時の私も例外ではあり得ず、新学期を迎えた日には、学校内外の風景がすべて逆立ちしているような、恐ろしい感覚に陥ってしまいました。「同級生とどうつきあえばいいのか」「どう自己紹介すればいいのか」 留年生としての学校生活に恐怖感を感じていた私は、始業式の翌日にはもう欠席していました。 ここから「数日間ないし1、2週間登校しては、数週間ないし1、2ヶ月間欠席する」というパターンを繰り返す2年間が始まりました。
2006.08.20
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うつ病からの脱出 第77号 派遣決定2006年5月25日(木)、派遣先企業のIO社の人二人と面接をしました。10:30~派遣会社である株式会社スタッフアイのオフィスにてでした。一人は太った女性(だけどシステム事業部サブマネージャー)、一人はうだつのあがらなさそうな男性(だけどシステム事業部の技師)でした。前職をなぜ辞めたかとかこれからの仕事に対する意気込みとかは全然聞かれませんでした。聞かれたのは朝は大丈夫ですか?とか。残業もほとんど毎日21時22時くらいまでありそうなことを言っていました。期間は7月末までを予定しているとのことでした。今まで聞いていた9月末までというのはどうやら間違った情報だったようです。とりあえずいろんな技術に接することができそうな感じを受けました。外につなげる用のマシンと中だけのマシンとは分けて区別しているらしいです。外につなげる用は各自持ち込みとのことです。それにはWindowsが使われているようだです、Macで大丈夫でしょうか?Virtual PCでWindowsが動くとはいえ・・・。システムはUNIXの一種の上に作るみたいでした。UNIXの基本的なコマンドは大丈夫か聞かれました。大丈夫です。よかったです。ですが、DOSコマンドとかExcellでのVBとかも使うことがあるそうです。DOSについてはWebで調べながらでも十分やって行けそうとのことですが、VBはそうはいかなさそうらしいです。サッパリわかりません。結果はスタッフアイに後日行くそうです。5月27日(土)、面接から2日経ちましたが、派遣会社スタッフアイから何も連絡がきません。まあ、今日は土曜ですが・・。でもダメだったのかもしれないです。6月1日から働くのなら、早めに返事が来てもいいようなものです。ダメだった場合のことを想定して、PHPの勉強を再開しました。5月ももうそろそろ終わりです。3月にシンパシーコンピュータ学院を卒業した時点では、まさかこの時期まで就職が決まらないとは思いもしませんでした。考えが甘かったのかもしれません。同期7名のうち、最年少だった24歳の男性が数日前に東京で内定をもらった(と先生から話を聞きました)らしく、やっとこれで同期で就職したのが2名。まだ2名。シンパシー札幌校の全日6期生は出来が悪いのかなあ・・・??5月29日(月)夕方、シンパシーのNさんから電話があって、派遣の件OKとのことでした。で、折り返しこっちから派遣会社スタッフアイに電話してくれとのことでした。ちょっとあきらめかけていたのですが、決まったようです。ラッキー。スタッフアイに電話したところ、いろいろと説明されました。仕事は、IBMとの共同プロジェクトだそうで、とりあえず7月末までの計画だそうです。だから、スタッフアイとの契約も7月末までとのことです。やはり9月末ではないようです。期間短いなーと思いました。進捗状況によって、そのあと延長があるかどうかということで、もし延長があったら再契約になるとのことでした。勤務時間は9:00~18:00、月22万円+交通費+残業代。パソコンを持ち込む必要があることも再度言われました。6月1日から勤務、この初日は、スタッフアイの営業担当者Tさんと待ち合わせして一緒に行くことになりました。9:10に中島公園駅に集合です。服装はスーツ、Mac持参です。これでPHPの勉強はまたやめました。とりあえず派遣で期間短いけれど仕事を始めることになりました。大丈夫でしょうか。やっていけるでしょうか。去年10月に学校に通い始めた頃は、プログラマーとしての入り口に立った気分でしたが、今度は「プロ」の入り口に立つことになるんだなあ、と思いました。5月30日(火)、スーツを2着買いに行きました。今まで持っていたものは10年以上前に買ったもの。「うつ」になる前までは問題なく着れていたのですが、再療養休暇期間に10kgほど太ってしまったおかげで、ズボンがはけなくなってしまいました。それで買わなきゃならないハメに。給与の振込先の手続きや契約社員としての契約のために派遣会社スタッフアイに行って来ました。年金手帳と前の職場を退職時にもらった離職表も渡しました。簡単なJavaの筆記テストがあったのですが、できませんでした。ショック・・・。やっていけるんだろうか・・・?結構不安になりました。5月31日(水)明日から仕事です。ちゃんと働けるのでしょうか。6月に仕事するのって、3年ぶりです。去年は2回目の療養休暇中でしたし、2年前は札幌医大病院の神経精神科に入院してましたし。ちなみに、東京行きの条件を出していたDN社からは、こちらからの質問のメールに対して何の返事も来ていませんでした。本当に採用する気あるのでしょうか?それとも質問の内容が失礼だったので見限られたのでしょうか。とはいえ、一応面接を受けて採用の条件まで出してくれた会社ですから、放っておくわけにもいきません。そこで一応、「辞退します」とのメールを出しておきました。そしたら出して1時間半後くらいに「了解いたしました。今後のご検討をお祈りしています。」との返信が速攻で帰って来ました。こちらからの質問にはサッパリ回答してくれなかったくせに、辞退の申し出には素早く返事が返って来ました。なんなんでしょう。つづく次回は超期待ハズレのお話をお届けします。---------------------------------------------------------------------------うつ病からの脱出発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.com
2006.08.19
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不登校ひきこもりニ-トフリ-タ-等若者の社会的自立促進・就労サポ-ト事業情報センタ-ふきのとう姫路 http://www.rak3.jp/home/user/9484190/***http://homepage3.nifty.com/Husta/ http://blog.mag2.com/m/log/0000098424/60755746.html?page=7□ 連載コラム[1] □・--------------------------------------- 高校を7年かけて卒業した男の話-------------------------------------------------------------------● スクールソーシャルワーカーでヒューマン・スタジオ代表(チーフコラボレーター) の丸山です。歌とスポーツとお笑いをこよなく愛する、純情湘南ボーイ(?!)です。あらためてよろしくおねがいします。 私は、この道に入ってまだ3年半しかたっていません。99年4月、自宅に「教育対策研究所」という個人事務所を開設したのがその始まりです。以来、研究活動・言論活動・地域活動などの市民活動を行いながら、カウンセラー(心理職)ではなくワーカー(福祉職)としての援助システムを確立することをめざし、1年前にスタジオを設立しました。 この道に入るまでの35年間は紆余曲折の連続でした。今お話した現在の自分の仕事は、その歳月を抜きにしては語れません。そこで、スクールソーシャルワークや教育対策研究所、当スタジオのあれこれを語る前に、まず自分自身のこれまでを語っていきたいと思います。 最初にネタばらしをしておきますと、私の青少年時代は"非社会的行動のフルコース"を織り込みながら展開されてきました。つまり、不登校もひきこもりも体験しているわけです。前号(No.1)で、"角山さん"が「不登校やひきこもりの当事者だった人の体験談は多くの人が聴きたいこと」と言っていました。確かに「本人から体験談を聴きたい」という言葉を私もよく耳にしますが、私自身はピンときません。自分の歩いてきた道が、特別のこととして人に語る価値があるとは思えないし、私自身も特に語りたいとは思っていないからです。 ですのでこのコラムも"貴重な体験談"などという教訓的なものとしてではなく、私がこの道を選ぶまでのいきさつを知っていただくものとして、淡々とお読みいただければと思っています。● Vol.1 運命の高校に入学するまで 私は東京オリンピックの年(新幹線誕生の年) 1964年に生まれました。父の家は医師を家業とし、次男だった父はT大卒の官僚、母はいわゆる庶民。両親は晩婚で、私は一人っ子だったせいか、溺愛されて育ったようです。私は2歳から4歳まで香川県に住んだほかは、すべて東京で育ちました。そして中学1年の3学期、父が所有している土地のあった藤沢市に引っ越し、以来現在まで至っています。 私は、早くから父の期待を自分の身体に取り込みながら生きていました。小学生時代には将来医師になることを心に誓い、こちらの中学に転校してからは、転校前に入っていた部活(卓球部)にも入らず勉強に専念することにしました。しかしこのような生き方は、私の個性とは正反対でした。本当の私は雑学やスポーツなどには熱中するが、学校の勉強にはテンで身が入らない...というタイプだったのです。そのため、結局私は一人遊びに明け暮れる毎日を過ごす"ドひま"な中学生と化し、社会と国語は得意だが英語と理数系はまったくダメという偏った学業成績をどうすることもできなくなっていきました。 一方、私は小学6年生の夏、『スパルタ教育』(石原慎太郎 著)という本を自宅の本棚で見つけて読んで以来「教育」に強い関心を持つようになっていました。それが高じて、中学3年の頃には、医師よりも教師になりたいと思うようになっていました。 ともあれ、中学1年の終わりに引っ越して部活にも入らず塾にも通わずの中学時代、学校生活はとても楽しかったものの、長くつき合う友人もできないまま、新設の公立高校に入学したのでした。そして私は、この高校で思わぬ歳月を過ごすことになります。入学後約半年にして不登校になったのが元で、卒業までに7年もかかってしまったのです。------ひとそれぞれのいき方があると考えます。人のいき方を参考にして・・・実際に歩んでいくのは、自分自身であるということが分かっていても、これでいいのか?何とかしなければ・・・・今後も、いめいめなことを記載、転載しますが、お互いに学びあうこと、情報を得て、明日の自分をよりよく生きるために、考えたいです。(G-g)---------
2006.08.18
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不登校ひきこもりニ-トフリ-タ-等若者の社会的自立促進・就労サポ-ト事業情報センタ-ふきのとう姫路 http://www.rak3.jp/home/user/9484190/*****●SADチェックシートhttp://www.sad-net.jp/sad_check.htmlhttp://www.sad-net.jp/sad_check.html SADは世間ではまだその病気があること自体、知られていないと言われています。ヨーロッパにおける調査ではSADにかかっている人の中で、医療機関の治療を受けている人は約15%にすぎないとの報告もあるほどです。しかしSADの中でも、あらゆる社交的場面で不安を感じる全般型のSADは自然に治ることが少なく、放置しておくことで「うつ病」や「パニック障害」等、別の精神的疾患を引き起こしてしまうものもあり、早く治療を受けることが必要とされています。もし、あなたが「自分はSADかも知れない」と感じていれば、ぜひこのテストで自身の社会不安障害度をチェックしてみてください
2006.08.17
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不登校ひきこもりニ-トフリ-タ-等若者の社会的自立促進・就労サポ-ト事業情報センタ-ふきのとう姫路 http://www.rak3.jp/home/user/9484190/*****http://www.sad-net.jp/sad_faq_1.html#q03 治療を受ければ、人前に出ても全く上がらなくなりますか?人前に出ると上がってしまうのは、誰にでもあることです。したがって、SADの治療をしたからといって全く上がらなくなるということはありません。SADの治療は、あくまでも著しい不安や恐怖を軽減することにより、何かの対人的な行動を避けてしまうことをなくし、滞りなく社会生活を送ることができるようにすることで、根本から性格を変えることではありません。友人がSSRIを持っているのですが、私が人前に出るときにもらって飲んでもかまいませんか?医師から処方される薬は、各個人の治療計画に即して出されるものですので、決して他人の薬を飲まないようにしてください。また、SSRIは痛み止めや酔い止めのような頓服薬ではなく、長く飲み続けることで効果を発揮する薬ですので、人前に出る直前だけに服用しても効果はありません。子どもが幼稚園でお遊戯をするたびにとても嫌がり泣き出したり、吐いてしまうのですが、SADなのでしょうか?目まいなどにより気持ち悪くなっているなど耳鼻科の疾患も考えられますが、SADの可能性もあります。SADは10代中盤で発症することの多い病気ですが、幼児で発症するケースも珍しくありません。特に、この年代の子どもでは、自分が病気である自覚がありませんので、周囲の大人が精神状況を察知してあげることが大切です。お遊戯のたびに吐いてしまうのであれば、その行為に著しい不安や恐怖を感じている可能性があります。一度、専門医に相談をしてみてください。
2006.08.16
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不登校ひきこもりニ-トフリ-タ-等若者の社会的自立促進・就労サポ-ト事業情報センタ-ふきのとう姫路 http://www.rak3.jp/home/user/9484190/年月は等しく過ぎていく・・・・こしかたの・・・自国を擁護する、守り、ともに反映させる努力を評論家にはすぐになれる、実行を、行動をとなると・・・・右翼・左翼の概念規定をはっきりさせて、日本国という国をうわさ等で行くべき方向を変えることはないと考えるが、日本が負けたから、61年も引きずっている・・・アメリカに従属し、アメリカ風にすることがいいことだ・・・自国の文化を自国で破壊していく国は・・・・Ex そろばん(そろばんは是非必要)、織物、・・・政争の具に使われていることは・・・・心ある人たちのみなさん、戦争は悪い、??負の遺産があることもしってほしい・・・・*****カ-ド会社が、借り手に生命保険に加入させる・・・今までも・・・?受取人はカ-ド会社表記方法、告知方法に、命を担保に・・・自己がしっかりしていなければ・・・戦前、戦中、昭和20年代の物不足による連帯が、お金の世の中で、連帯が薄れ、言葉のみが先行して、・・・・・角度を変えて、自分自身を、世間を見ることが出来る学びをしたい。***http://www.sad-net.jp/sad_faq_1.html#q03子どもが通学や外出を拒んでいます。SADと「不登校」や「引きこもり」は関係ありますか?子どもが「不登校」や「引きこもり」となる原因は、SADだけではなく「いじめ」や「うつ」等さまざまな原因が考えられますが、SADと関係がないとも言い切れません。SADの症状がひどくなると、公衆の場で話をすることが怖くなり「引きこもり」となるケースやクラスメートの前で赤面やふるえが出て、それが恥ずかしいために学校へ行けなくなり「不登校」となってしまう場合があります。SADの特徴は、自分の不安や恐怖が一般よりも強いと自覚している点ですが、患者さんが子どもの場合はそうした自覚が生まれないことがありますので、治療の開始が遅れてしまいがちです。 学校へ行きたくない理由を確認した上で、一度、専門医にご相談ください。パニック障害とSADは違うのですか?パニック障害は、場所や時間を問わず、突然、何の理由もなくパニック発作が起こる病気です。呼吸が苦しくなり、全身が緊張して冷汗をかき、「何かの病気でこのまま死んでしまうのではないか」という気持ちが起こるほど、苦しい症状に襲われます。それに対しSADは、あらゆる社交的場面(全般型)や「人前で話す」「電話に出る」「注目を浴びる」などの状況(非全般型)で、常に強い不安を感じて「顔が赤くほてる」「息苦しくなる」といった症状が現れる病気です。
2006.08.15
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http://www.sad-net.jp/meet_the_doctor.html病院検索 http://www.sad-net.jp/h_c_search.htmlhttp://www.sad-net.jp/how_to_support.html人前での行為に対して著しい不安や恐怖感を抱く患者さんは、症状について積極的に周囲の人へ相談しない場合もあります。家族や親しい友人だとしても「そんなことが知られたら恥ずかしい」「意見を発表したら笑われるかも」という気持ちを抱きがちなものです。 このように内面を隠すための頑張りが続くと、本人がどんなに苦しくても周りにはなかなかその苦しさが伝わらず、症状がますます悪化したり、「うつ病」や「パニック障害」等、別の精神疾患を引き起こしてしまう場合もあります。まず、第一にSADに悩む患者さんには、共感の姿勢が大切です。相手に対し「少しおかしいかな」「ちょっと悩んでいるのかな」と思う点があれば、「ねえ、恥ずかしいのでしょう」とダイレクトに指摘するのではなく、「○○な時、人に見られるのはツライよね」と共感を呼ぶ会話を心がけてください。自分の悩みを共感してもらえると感じれば、悩みを隠すことなく相談をよせてくれるでしょう。回復への第一歩は、周囲の人への信頼と相談から始まります。「自分ばかり悩んで、辛い思いをしている」と孤独感にさいなまれることのないように、サポートしあえるように接していくことが大切です。 たとえば、恐くて電話に出られない人に対し「こんなのは『慣れ』です。真っ先に受話器をとって慣れてください!」と無理を強いるのは逆効果です。病気に対する無理解はさらなる悪化を呼び込みかねません。恐怖感による回避行動は、決して「怠け」ではないからです。SADに悩む患者さんがプレッシャーを感じずに社会生活を送れるように、家族であれば「話を聞いてあげる」「休日の行動を無理強いしない」、学校や会社の友人であれば、「朝礼時等に人前で話をさせない」「食事の同席を強要しない」等、患者さんが負担に感じる状況を作り出さないようにしてあげてください。 医療機関での受診を始めた方は症状が少しおさまってくると、「楽になった」「副作用が恐いから」との理由で、自己判断によって薬の服用をやめてしまうことがあります。しかし、こうしたことは病気の回復の妨げとなるばかりか、症状の再発や「うつ病」等のさらなる病気の呼び水となりかねません。薬は1年以上継続して服用することが推奨されていますのできちんと飲み続けるように、周囲の人がサポートをしてあげましょう。
2006.08.14
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http://www.sad-net.jp/cure_sad_4.html薬物療法精神療法SSRIベンゾジアゼピン系抗不安薬β遮断薬認知療法行動療法神経細胞間のセロトニンの量のバランスを保つ薬で1年以上の継続的な服用が必要です。第一選択で用いられるケースが多い薬剤です。即効性が高い薬で頓用として用いられることが多くあります。高血圧の治療に用いるお薬です。不安を感じる場面が1つか2つに限られているタイプ(非全般型)に頓用で用いることがあります。不安がなぜ発生するのかのメカニズムについて学習し、あやまった認知パターンを修正する訓練を行います。不安が生まれる状況にあえて飛び込んで、刺激に身を曝す「曝露療法<エクスポージャー>」を行います。社会不安障害(SAD)の治療法には大きく二つ、薬を用いて治療する「薬物療法」と薬物を用いず心理的に治療する「精神療法」があります。二つの治療法は単独で行われたり、併用して行われます。いずれの治療法も専門医と相談の上、患者さん自身が納得して積極的に治療に参加することが大切です。薬物療法は不安感情を抑えることを目的とし、学校や職場を避ける等の回避行動を減らし、不安時の身体的症状の緩和を図ります。■SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)あらゆる社交的場面や「人前で話す」「電話に出る」「注目を浴びる」などの状況で、常に強い不安を感じてしまうSADの治療には、抗うつ作用と抗不安作用をもつSSRIが用いられるケースが多く見られます。欧米では積極的に治療に利用されており、その効果が本邦でも認められています。SADの原因は、今のところはっきりとはしていませんが、神経伝達物質であるセロトニンの放出バランスが崩れていることが原因の一つではないかと考えられています。SSRIは、一旦放出されたセロトニンが、もとの神経細胞に再取り込みされることを防ぐことで、神経細胞間の遊離セロトニン量のバランスを保つ薬剤です。■ベンゾジアゼピン系抗不安薬SSRIに比して即効性があるため、SSRIの効果が現れるまでの間に用いられます。あるいは強い不安に基づく身体症状に対して多く用いられます。■β遮断薬もともとは高血圧症等に用いられる循環器系の薬ですが、ヨーロッパでは多く用いられており、「非全般型」には効果はあるが、「全般型」には、効果があまりみられないとされています。精神療法では、「認知療法」と「行動療法」を組み合わせて治療が行われることが一般的です。■認知療法不安な気持ちが起こるメカニズムを勉強し、自らに不安感を引き起こしてしまう誤った認知パターンを修正できるようにするのが「認知療法」です。「なぜ、人前に出ると恥ずかしく不安になるのか」というメカニズムを勉強しながら、周囲の人の目や自分の能力を再認識し、不安が発生していた状況の認知を改めます。と、同時に呼吸法やリラックス法、上手な話し方等、不安状況への対処法も合わせて学習していくのが認知療法です。■行動療法不安が生まれる状況にあえて飛び込んで、刺激に身を曝す「曝露療法<エクスポージャー>」を行います 治療に際しては、唐突に刺激の強い状況に身を投じるのではなく、段階的な目標に沿って、徐々に身を慣らしていき、不安症状を改善していきます。SADの場合は、認知療法と行動療法をグループで行う「集団認知行動療法(CBGT)」も一般的に行われます。不登校ひきこもりニ-トフリ-タ-等若者の社会的自立促進・就労サポ-ト事業情報センタ-ふきのとう姫路http://www.rak3.jp/home/user/9484190/
2006.08.13
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登校ひきこもりニ-トフリ-タ-等若者の社会的自立促進・就労サポ-ト事業情報センタ-ふきのとう姫路 http://www.rak3.jp/home/user/9484190/****うつ病からの脱出 第75号 新しい言語に挑戦2006年5月15日(月)、22日にシンパシーコンピュータ学院札幌校で会社説明会をしてくれるというベンチャー系企業のDF社に話を聞きに行って来ました。この会社では、プラットフォームがFreeBSD(注1)のようです。言語はPHP、データベースはPostgreSQLで、オープンソースを主流に使っているとのことです。まず、時給1000円でのインターンシップ的な採用は、本当の学生さん(大学生とか一般の専門学校生)で趣味等でPHPを使ってWebサーバー等を立ち上げた経験のあるような人しか使っていないとのことです。 インターンシップで技術を教えるということはほとんどないそうです.ですから、私はこの条件に当てはまらないのでインターンシップ的な勤務はできないといわれました。そうなると、残るは中途採用の道になります。中途採用は、申し込んだ人に対してトライアルという形で課題を与え、その課題をやって行く過程を通して人物や技術を評価して採否の判断をするそうです。 課題はPHPとPostgreSQLを使ったWeb系の課題となるので、PHPとPostgreSQLの経験が無い私の場合は事前にある程度独学で勉強して、わかって来たところでトライアルに申し込むのがいいんじゃないでしょうかと提案されました.今、脈のある会社があるんだけれど、東京で月25万円だという話をしたら、驚いていました。それは安過ぎるでしょ、って。それじゃあ生活できないんじゃないの?って。そうだろうなあ。そうだよなあ。うちでは札幌だけどもう少し出しますよ、とのことでした。ということで、Linux, FreeBSD, Windows, MacOSXのどのOSで勉強するか決めてから本を買おうということに決めました。というのは、ひょっとしたらMacOSXで動かせる環境がWeb上に転がっているような気がしたからです。早速帰って来て調べてみました。そしたら、モロ、MacOSXでPHPとPostgreSQLを扱える環境をインストールするソフトを置いたページを発見しました。渡りに船です。これはMacOSXでやるのが早いでしょ。さあ、早速明日は本を買いに行こう。ちなみにDF社、安い人でも年収400万円くらいだそうです。実質。最低300万円から、とホームページ上には書いてあるのですが、そこまで安い人はいないということです。会社の規模からしたらそこそこいい給料を払っていると思う、とのことでした。とても魅力的に感じました。東京行きのDN社に行く気はほとんど無くなりました。5月16日(火)、車で15分くらいの距離にある大きな本屋に開店とほぼ同時に行ってPHPとPostgreSQLに関係する本を一冊買って来ました。やってみると、PHPからPostgreSQLのデータベースを呼び出すのがうまく行きません。買って来た本は、PHP5.0を対象にしているのですが、MacにインストールしたのはPHP5.1です。Webで調べてみると、なんとこの2つで、呼び出しの方法が違うことがわかりました。PHP5.1以降では、PDOというエクステンションを使うようになっていて、買って来た本とはいろいろと違うことが判明しました。こうなっては勉強が進まない、ということで、PDOのことも書いてある本を買いにもう一度本屋に行って来ました。今日2冊もPHPの本を買ったことになります。アップルからついにMacBookが発表されました。ディスプレイは13インチのクリアワイドスクリーンディスプレイ。Inter Core Duoプロセッサを搭載し、iBookG4より最大5倍速く、12インチPowerBookG4よりも4倍速いらしいです。MacBookは、従来のiBook, 12インチPowerBookG4の後継機種と位置づけられます。これまでのiBookカラーのホワイトモデルだけでなく、ブラックモデルも出ました。ブラックと言うと最近のノート型Macでは使われていなかった色ですが、昔ではPowerBookG3までPowerBookとして使われていた色です。でもデザインが全然違うから似てはいないです。MacBookのハイエンドモデルに2.0GHzのIntel Core Duoプロセッサが搭載されたことにより、15インチMacBookProがお値段そのままでプロセッサスピードが改訂されることも発表されました。これまでの1.83GHzモデルは2.0GHzに、2.0GHzモデルは2.16GHzにそれぞれ高速化。そしてCTOオプションとして、15インチ、17インチの両モデルとも、追加費用なしで新しいクリアワイドスクリーンディスプレイを選ぶこともできるとのこと。インテル搭載がされていないのは、残るはPowerMac G5だけになりました。5月17日(水)、PHPとPostgreSQLを連携させたWebページの勉強はそこそこ順調に進んでいます。データの呼び出し、データの追加はできるようになりました。データベースにつなぐ構文と、呼び出して読み込む構文がわかってきたので、だいたい構造がわかるようになってきました。勉強して1日でここまでわかるようになるとは思ってもみませんでした。注1)FreeBSD:PC上で動くUNIX互換OS(オペレーティングシステム)の一つ。注2)Linux:PC上で動くUNIX互換のOS。厳密にはUNIXから派生したものではない。つづく次回は派遣で働くという選択肢が出て来たことについてお話しします。※最近就職活動日記のような内容になっていてすみませんが、ご了承ください。発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.com
2006.08.12
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不登校ひきこもりニ-トフリ-タ-等若者の社会的自立促進・就労サポ-ト事業情報センタ-ふきのとう姫路 http://www.rak3.jp/home/user/9484190/ 【livdedoor News】不登校生は金(カネ)の卵?500万で卒業証書あげます 「不登校(54)」 [ メディア・記事 ] http://plaza.rakuten.co.jp/hikiken/diary/200608090001/不登校生は金=カネの卵なのか?不登校生の話題は、ニート、引きこもりなどと共に、マスコミなどのニュースにたびたび登場する。PJは以前、都内の公立中学校をいくつか回って先生にお話を伺ったが、不登校の生徒は、だいたいクラスに1人はいるようであった。 中学校単 式 学 級118162複 式 学 級23475条 の 学級8247126643人学校基本調査速報 -平成12年度- 初等中等教育機関 専修学校・各種学校編 統計表一覧 そのような生徒の進学はというと、とりあえず中学は義務教育だから中学を卒業することはできる。しかし、その後の高校進学は義務教育ではないので、本人に進学の意思がないと学歴は中卒扱いになってしまう。そこで"待ってました"とばかりに登場するのが、不登校を主に扱う私立の通信制高校だ。 そこへ入学して卒業となれば、高卒資格を得ることができる。しかし、問題なのは非常に高い学費だ。例えば都内にある某通信制高校は3年間で約500万円かかる。一般の私立高校の学費が3年間で約300万円(文部科学省「平成16年度「子どもの学習費調査」)とすればかなり高い。それでも子供に高卒資格はとって欲しい、という親の気持ちは、藁をもつかむ思いであり、入学させる家庭も多い。(PJニュース)戦後負の遺産くるところまで来てしまったのか?そうは思いたくないが・・・・・だんだんと、不登校比率http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/16/12/04121601/006/004.htmは増えて、親が金で・・・・こんなこと許していいのか、学校が学校としての機能を失いつつある過渡期なのか。教師の皆さん、将来に汚点を少しでも少なくするために、一生懸命業をなさっていると思いますが・・・・社会的ひきこもり等は各個人の生育暦に関係している可能性が、統計的には不登校経験者が占める割合は高いのである。その時、そのときに、し続けなければならないことを、親が、教師が、世間がその場、その場の楽のために、子どもに苦を教えなかった?美辞麗句をならべ、あたかも、子どもの側に立った、発言として、・・・・・・もう辞めませんか?なさなければならない時期があることを、お互い大人として考えてみませんか。一番困るのは、次代を担う若者だと思うのですが・・・言葉遊びにならずに、考えていきたいですね。あなた方に託すしか方法がないのです。お願いしますね(G-g)
2006.08.11
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不登校ひきこもりニ-トフリ-タ-等若者の社会的自立促進・就労サポ-ト事業情報センタ-ふきのとう姫路http://www.rak3.jp/home/user/9484190/http://www.sad-net.jp/cure_sad.html社会不安障害(SAD)を発症している人は、あらゆる社交的場面や「人前で話す」「電話に出る」「注目を浴びる」などの状況で常に強い不安を感じています。多くの人は、最初に不安を感じる状況でも時間とともに慣れ、不安感や恐怖感は徐々に薄れていくものですが、SADの患者さんはそうではありません。「他人は自分を見て笑っているかも」、そんな不安を強く感じ続けてしまうのです。 また、自らの著しい不安感が「人とは違う、この不安感や恐怖感は不合理なものだ」と認識していることはSADの患者さんに共通している点です。やがて、だんだんと自分が恐怖を感じる場所に行くことを避けるようになります。どうしても出かけなければならない場合には、その場に赴く前から非常に強い不安を覚えることになり、今まで以上に周囲の目が気になるようになってしまいます。こうした強い不安感は、学校や職場での活動にも大きな影響を及ぼし、不登校や中退、退職といったケースに至ることも多く、生活に大きな支障をきたすようになってしまいます。また、思春期前にSADを発症した場合は、自らの不安感を不合理であると認識できない場合があります。こうした子どもには、「よく知っている人の前では普通に振る舞えるが、よく知らない相手だと、大人だけではなく子ども同士のつき合いでも不安を感じている」「よく知らない相手と会う状況を避けたがる」等の症状が現れます。SADは、比較的若いうちから発症する病気で10代半ばから発症するケースが多いとされています。症状が慢性化してくると、「うつ病」や「パニック障害」等、別の精神疾患の合併が問題となります。また不安な気持ちを回避するためにアルコールを多量に摂取するようになり「アルコール依存症」を引き起こすこともあるため、充分に注意することが必要です。
2006.08.11
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不登校ひきこもりニ-トフリ-タ-等若者の社会的自立促進・就労サポ-ト事業情報センタ-ふきのとう姫路http://www.rak3.jp/home/user/9484190/ うつ病からの脱出 第74号 足元見られた2006年5月11日(木)、3月まで通っていたシンパシーコンピュータ学院からメールが来て、絶対札幌を希望する方にはお勧めの会社が5月22日に会社説明会をするという内容でした。2~3年東京行きを前提とした脈のあるDN社から詳しい条件が出るのが今週中。これは迷います。でもDN社との絡みで、22日までは待っていられません。そこで、もう少し早い日程で個人的に話を聞くようなことができないかどうか相談したくてシンパシーの担当者Nさんに電話してみました。今、脈のある会社があるのだが東京に2~3年という前提がある、でも札幌で働ける会社があるのなら個人的には札幌の会社を希望する等の現況と心境を話しました。そしたら、「東京に行くのはいいことですよ。勧めますよ。」とかいうトンチンカンな答えが第一声で返って来たのですが、「私としては札幌で就職できるならそっちの方がいい。」と改めて説明すると「その会社(仮にDF社)に個人的にアプローチしてもイイヨ」と言われました。ちなみにNさんの話だと、3ヶ月か半年くらいインターンシップみたいな形で時給1000円くらいで働かされて、採用するかどうか見極めるみたいなことも聞きました。タダ働きよりはマシです。でも1000円×8時間×20日=16万円かあ・・・・。手取りいくらだろうなあ・・・?とちょっと心配になりました。が、札幌で働けるチャンスなのだからそこは我慢だ、と思い、DF社のホームページの問い合わせフォームから問い合わせしたところ、素早い対応でメールの返事が返って来て、15日(月)13:00からどうですか?と提案されました。すかさず「伺います」と返事を出しました。それと、9日(火)に話をしたDN社から詳しい話の書面らしきメールが来ました。条件で、勤務地東京、月25万円となっていました。東京で月25万で暮らすのはちょっとキツいような気がします。2年後には年収400万円程度と書かれていました。ちょっと安くないですか??いくらなんでも2年経っても400万円しかもらえないなんて、バカにされている気がします。こう考える理由は、2年後には私は37歳になっていること、37歳で東京で年収400万円、2年の実務経験を積んですら400万円にしかならないということ、前職では33歳の時点で残業無しでも年収500万円程度あったこと、DN社との事前の話ではなるべく早く前職の収入に近づけてあげます、と言われていたから話がちょっと違うと思ったからです。東京勤務の期間とかも書かれていなかったので、2~3年で札幌に帰れるかどうかも怪しいです。どうなんだ一体?わからない事だらけです。全然詳しい話じゃないです。質問のメールを返す事にしました。質問メールの内容(抜粋)=======これまでの経験を元にひと月の出費を試算してみたところ、東京で暮らすことになると主に家賃が高いため、約30万円の出費と見積もられました。(内訳)駐車場代 : 9000(札幌で借りている駐車場)家賃 : 97000(千代田区・占有面積25平米以上バストイレ別物件最低価格 アパマンショップWebサイトでの検索結果)食費 : 50000年金保険料 : 13860(国民年金の場合)携帯電話 : 3000固定電話 : 2000インターネット環境: 4200健康保険 : 15000(現在支払っている金額)住民税 : 13000(前居住地を参考)所得税 : 15000(前職を参考)雇用保険 : 6000(前職を参考)生命保険 : 26000(個人でかけているもの)ガス水道電気新聞 : 20000雑費 : 30000---------------------------------------------------合計 :304060月給25万円として、毎月約5万円の赤字となります。家賃や食費や雑費を抑えるなどしても、限度があり、明らかに赤字もしくはギリギリの生活が目に見えています。実は履歴書の希望給与額に25万円と書きました。しかし、それはあくまで札幌勤務の場合を想定して書きました。(札幌勤務の場合は家賃分や固定電話、光熱費等が省けるため 25万円で十分生活できるとの見通しでした。)しかし東京で月25万円の生活は、正直かなりキツいと思われます。そこでいくつか質問させて頂きます.・家賃補助などは出ないのでしょうか。 または家賃の安い物件を紹介して頂けたりはしないのでしょうか。・加入保険等の雇用、労災、健康、厚生はおおむねいくらくらいになるのでしょうか。 わかる範囲で結構ですので教えてください.・賞与はあるのでしょうか、あるとすればいくらくらいでしょうか。・残業代はどの程度出るものなのでしょうか。・勤務地は東京のどこになるのでしょうか。東京事務所でしょうか。・東京勤務の期間は2~3年と考えてよろしいのでしょうか。未経験でも仕事をさせて頂けることは大変ありがたいお話だと思っています。そして未経験でも25万円頂けることは好条件なのかもしれないとは思いますが、先ほども書きましたように東京での生活では少し不自由に感じます.その辺りが不安に感じる部分です.お手数おかけしますがご回答よろしくお願い致します。なんか、東京に行きたくない気持ちありありなような内容のようにも見えますが、これくらいは聞いて確かめておかないととてもじゃないですが東京になど行けません。家賃設定とかちょっと無理があるところもありますが、おおむね必要経費はこんなものでしょう。最後の「雑費」は、実のところ「錦クリニックの頭髪治療代」です。だから、本当は「雑費ゼロ」の見積もりなのです。毎月5万円もの赤字では、東京に行く気にはなれません。札幌で16万円もキツいですが、実家で生活できるので多少の我慢はききますし、インターンシップの間だけです。つづく次回は新しいプログラミング言語に挑戦する話をお届けします。※最近就職活動日記のような内容になっていてすみませんが、ご了承ください。うつ病からの脱出発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.comVYA10642@nifty.com
2006.08.10
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当HPを観ていただいてありがとうございます。若者らが、情報を多く持ってくれればという思いで、転載、記載等をしております。管理人としては、「自立とはどういうことか」、「存在とは」、「自尊感情とは」、日々考えながら、そして、日常生活のトピックとかを学びの場として共有できればと考え、告示しています。ご了承下さい。うつ病からの脱出 第73号 東京行きか?それとも?2006年4月30日(日)、未明1:20~2:00までNHK総合で聖飢魔II恐怖の復活祭が放送されました。前日新聞のテレビ欄を見て思いがけず驚きました。すかさずDVDにタイマー録画しました。40分間フルに聖飢魔IIのミサ(コンサートのようなもの)の模様を編集した番組でした。デビュー時から解散までの活躍の様子をダイジェストで紹介する場面もありました。なかなかNHKにしては憎いことをしてくれます。ミサは恐怖の復活祭FINAL(2005.12.26)の模様を収録したもので、ジェイル大橋はもちろん、ゾッド星島(両者はデビュー時の構成員ですが途中脱退)の参加もあって大変盛り上がっていました。そして、365歩のマーチを引っさげて水前寺清子もゲスト出演。大盛り上がり。こんなに楽しいライブをできるのはやっぱり聖飢魔IIしかないなと思いました。(恐怖の復活祭の模様はDVDで6月21日に発売されました。興味を持たれた方は必見です。 定価税込み¥6,666ですがAmazon.co.jpでなら¥4,950で買えます。送料無料。)さて、5月1日(月)、先週金曜日に面接に行ったDN社から連絡が来ました。詳しい話をしたいので9日(火)に来てくれという話でした。どういう話なのかはわからなかったのですが、脈がありそうなので少しホッとしました。5月9日(火)、札幌医科大学付属病院の日でした。「病状が安定してどのくらい経ちますか?」と聞かれて、「どれくらいかな~・・・・」と考えているうちに、「半年以上経ちますか?」と聞かれて、「はい、経ちます。」と答えました。半年以上経っていれば、徐々に薬を減らして行ってみてもいいということで、トフラニール25mgを1回に2錠飲んでいたものが1錠に減りました。嬉しいです!これで服用薬は次のようになりました。朝食後:トレドミン25mg 2錠 トフラニール25mg 1錠 メイラックス1mg 1錠夕食後:朝食後と同じ一回5錠だったものが、4錠に減りました!4月から担当になった新しいこの先生は、なんとなくですが薬を減らして行こうという方針のようです。ありがたいことです。午後、詳しい話をしたいから来てくれと言われていたDN社に行って来ました。まあ、詳しいとは言ってもそれほど詳しい話ではありませんでしたが・・・。要は、前提として東京勤務を2~3年する、ある程度プログラミングができるという条件で送り込もうと思うがそれでも良いか?ということでした。だからその分、最初のうちはツライかもしれないが、という話です。C言語の制御系をやった方が息が長いということも教えてくれました。Web系は若いからねえ~~、、と。あまり勧めたがらない感じでした。仮にJavaの経験が1年あるという条件で行くのもアリとかいう提案もありました。どういう仕事をどういう条件でやるのか、などのもっと詳しい話に関しては、書面で今週中にくれるということになりました。その条件でこちらがOKすればそれで採用になるだろうし、OKしなければ不採用、のようです。ということで、東京行きがほぼ決まってしまったようなものです。それでも就職に見通しが立って来たので、良しとしようと思いました。5月10日(水)、もしうまく今話が進んでいるDN社に就職が決まったら、JavaじゃなくてひょっとしたらC言語で制御系をやる可能性もあります。というわけで、Windows環境でタダで使えるC言語コンパイラを当たってみました。CygwinというUNIX環境に似たものをWindows上に再現するフリーソフトがあって、それにgccなどのC,C++コンパイラをインストールすれば使えることがわかりました。日本語の表示もできます。Macのターミナルは日本語表示できないからな~・・・これが痛い。と思っていたのですが、こちらも表示できるようにする方法を見つけました。ターミナルを開き、command(リンゴマーク)+ Iでターミナルインスペクタを開き、ディスプレイの項目の文字セットエンコーディングを「日本語(Mac OS)」を選び、「設定をデフォルトとして使用」をクリックすると日本語表示するCのプログラムがちゃんと実行されて日本語表示されます。ただし、この設定のままだと、今度はls -vでは日本語ファイル名が文字化け表示になります。MacOSXは、ファイル名はUTF-8、Unixに由来する部分では日本語EUC、従来のMacOSに由来する部分ではShift-JISと、複数の文字コードが混在して使用されています。だから上記のような事が起こるようです。面倒ではありますが、手動で文字コードを切り替えながら使用すればなんとかなるということです。それと、WinAntiVirusという偽物セキュリティソフトに引っかかってしまったことに昨日気づきました。父のVAIOにインストールしていたのですが、3999円払ってしまっていました。インストールと支払い自体は何ヶ月か前の話です。で、GoogleなどでWinAntiVirusを調べてみると「スパイウェア」とか書いてありました。通常のちゃんとしたセキュリティソフトならamazonやヨドバシカメラ等でも売られているはずなので、ネットショップで検索かけてみましたが売っていません。これは明らかに偽物セキュリティソフトで、最悪スパイウェアです。すぐさまアンインストールしました。危険なソフトをインストールさせられたあげく3999円だまし取られてしまいました。腹が立ったので警察のホームページのご意見募集欄に書き込んでやりました。そしたら今日の朝早速警察から電話が来て、「情報ありがとうございます。」とかなんとか言われてなんか捜査開始するような雰囲気でした。こんなに速く警察が動いてくれるとは思ってもみませんでした。5月11日(木)、シンパシーコンピュータ学院からメールが来ました。札幌のベンチャー系企業の説明会が5月22日にあるとのことでした。絶対札幌を希望する方にはお勧めと書いてありました。う~ん、、これは迷います。会社のHP見たら、Web系の仕事っぽいです。2~3年東京行きを前提とした脈のあるDN社から詳しい条件が出るのが今週中。ひょっとしたら6月から勤務という可能性もありです。だとしたら早めに事を決めていかないと日程的につらいです。だけど22日に説明会のある会社も興味があります。あ゛~~~、もう少し説明会の日程が早ければいいのに。東京行きの会社には22日までこちらからの返事を待ってもらおうか?悩ましいです。つづく次回は、東京行きには経済的にキツい条件が提示された話をお届けします。※最近就職活動日記のような内容になっていてすみませんが、ご了承ください。うつ病からの脱出発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.comVYA10642@nifty.com いき方、考え方はいろいろあるんだと、そして、ものごと気づいた時が始まりだと考えます。(G-g)
2006.08.09
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http://www.jic-gifu.or.jp/np/newspaper/kikaku/gifusengo2/gifusengo2_10.htm 焼夷弾担ぐしかない 児童文学者の赤座憲久さん(78)=可児市今渡=が岐阜空襲で焼けた岐阜駅から久留米に向かう時、姫路駅も焼かれてはいても、姫路城天守は見えたはずだ。 姫路空襲は、岐阜空襲の六日前の一九四五(昭和二十)年七月三日。岐阜師範学校を四四年に卒業し、四五年六月に豊橋予備士官学校を卒業した鈴木頼恭さん(80)=岐阜市長良、元児童文学誌「コボたち」編集室長=は、姫路の中部第四十八部隊に配属され、小隊長となった。 鈴木さんは、今春の「ぎふ児童文学」戦争特集号に初めて戦争体験を書いた。 〈(初め広島に配属命令が出たが姫路に変更になった。広島だったらと思うと今でもぞっとする)天下の名城白鷺城を毎日隣にあった部隊から仰ぎ見て、いいところへ来たものだと思っていた...その(空襲の)夜わたしは、部隊本部で当直司令の任務についていた。部隊全体の夜の総責任者である...兵舎や付属施設のほとんどを焼失させたが、部隊の中枢である本部を残したことを、駆けつけた部隊長にほめられ、ほっとしたころ夜が明けてきた〉 鈴木さんは、部隊でただ一人の不発弾処理専門将校だった。といっても着任後に何日か講習を受けただけなのだが、一トン爆弾やら焼夷(しょうい)弾やら、米軍による都市空襲が激化する中、不発弾処理に部隊を引き連れて駆け回り場数を踏んで度胸をつけていた。 鈴木さんは一睡もせぬまま、朝から兵を集めて部隊内の不発弾を処理した後、自らの判断で姫路駅に駆けつけた。焼け落ちた駅の構内に残る不発弾を次々片付け、無事にレールを開通させたころ、本部から「姫路城へ行け」と伝令が来た。 〈途中街の焼け跡に不発弾を見かけたが後回しにして直行する。事務所員が『先ず天守閣の五階にあるやつを』と頼む...わたしは屈強の若い兵一人を伴って...急階段を駆け上った。最上階。五階の南側の床板に百ポンド焼夷弾がデンと転がっている。窓から見上げると、軒端の瓦が四枚ない。瓦を飛ばして窓から飛び込んできたらしい...よく見ると後部の信管が違う。こんなの初めて。どう処理してよいかわからない。ここで間違った外し方でもして、ドカーンとやったらおしまいだ。せっかく残った姫路城を焼いてしまう。と反射的に、さっとわたしはひっかついだ。かついで降ろすしか方法はない。途中でドカーンとやられるかもしれない。こいつと心中するのはいやだ。この時間の長かったこと、長かったこと〉 城外の広場まで何とかかつぎ出し、三十メートルほどの導火線をつけて点火。ドッカーンと、処理は成功した。その後もあちこちから処理依頼が殺到し、阪神の被災都市を駆け回るうち終戦。空襲は無くなっても不発弾はまだそのままで、連日の出動依頼で三カ月余が過ぎた十一月下旬、「このあたりで打ち切りにしたい」と部隊長らを残し、不発弾処理隊は解散、復員した。 中津川出身の鈴木さんは少年時代、陸上選手にあこがれた。駅伝の伝統校の中津商を出てから岐阜師範に進んだ変わり種だ。敗戦前後はこうして工兵顔負けに働き、戦後は教壇に。戦後六十年を機にこれまであまり公言してこなかった戦争体験を明かし、今月初めには姫路城を再訪した。天守に上ってみると、五階と思った最上階は六階だった。軒端瓦四枚の位置、焼夷弾が飛び込んだ窓、命懸けで担ぎ下ろした狭い階段...。記憶の糸をたぐるように確かめようとしたが「よく思い出せなかった」。もう六十年。長い時間が過ぎた。 (永井豪編集委員) (写真)「憲法9条を守れの一語に尽きる」と話す鈴木頼恭さん=6月、岐阜市長良の自宅 (写真)不発弾処理に奔走した見習い士官時代の鈴木さん 《岐阜新聞7月31日付朝刊総合面》
2006.08.08
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反射的に抱えた焼夷弾、細い階段リレー 不発弾処理した鈴木さん http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000075759.shtml 2006/07/23 姫路城内での不発弾処理の模様を語る鈴木頼恭さん=姫路市 姫路空襲で、姫路城天守閣の不発弾の処理にあたった当時の見習士官、鈴木頼恭さん(81)=岐阜市=が二十二日、姫路城を訪れた。決死の覚悟で焼(しょう)夷(い)弾を担ぎ上げ、複雑な城内から運び出した当時の状況を振り返り、「危険を顧みず不発弾処理にあたった兵隊の存在を知ってほしい」と話した。 鈴木さんは予備士官学校を卒業後、見習士官として二十歳で姫路に配属された。その後、大阪で不発弾処理の五日間の講習を受け、「即席」の専任の将校になった。 七月三日の姫路空襲時は、部隊本部の当直司令として、兵士の避難や消火を指揮した。翌朝、姫路駅の不発弾を処理していると、部隊本部から「姫路城内に不発弾がある」との伝令を受けた。 若い兵隊と二人で天守閣最上階に登ると、板間に百ポンド(約四十五キロ)焼夷弾が横たわっていた。実地経験を経て処理には慣れていたので、当初は安心したが、よく観察すると、信管の型が違い、処理の方法が分からなかった。 「間違ってドカンとやってしまったら、城を燃やしてしまう」。鈴木さんは反射的に不発弾を担ぎ上げ、もう一人の兵隊とリレーして細く急な階段を下ろしていった。 駆け付けた他の兵隊と交代で走り続け、城外の広場で爆破。途端に全身の力が抜け、その場にいた全員で大の字になって、たばこに火をつけた。 鈴木さんは「途中で爆発するかもしれないと思うと、運び出している間の長かったこと。若さと責任者意識で動いたが、いまだったら尻込みするだろう」と振り返る。 終戦後も不発弾処理の活動を続けた鈴木さんは、帰郷して小学校の教員となった。校長で退任後も児童文学の編集にかかわり、子どもたちに向き合い続けた。戦後六十年の昨年、児童文学研究会の機関誌に手記を寄せ、体験を初めて公表した。 現在は「岐阜・九条の会」の世話人を務めるなど、平和運動にも力を注ぐ。 「当時は、観光客がたくさん訪れている現在の光景など考えられなかった。やっぱり、平和がいい」。天守閣に目を細めながら、鈴木さんは感慨深げだった。
2006.08.08
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姫路城:1945年7月に焼夷弾が大天守を直撃していた 1945年7月の米軍による姫路空襲で、焼夷弾が姫路城大天守を直撃したものの不発で炎上を免れていたことが分かった。当時姫路中部第四十六部隊見習士官で不発弾処理の専門将校だった鈴木頼恭さん(81、岐阜市在住)の手記によると、空襲翌日のお昼頃に姫路城内に入ると、大天守最上階に焼夷弾の不発弾が横たわっていた。処理方法が分からなかったために、城外に運び出して処理した。 空襲下の姫路城が生き残った理由については米軍が意図的に攻撃対象から外したとの憶測もあるが、空襲に参加した米軍機長は回避との命令は受けておらず、残ったのは偶然と証言している。 現在、江戸期のいわゆる現存天守はわずか12城ですが、戦前まではほぼこれの倍くらい残っていました。代表的なところでは名古屋城、広島城、福山城、和歌山城や大垣城で、大変に残念なことです。今回のエピソードで、姫路城についても危機一髪といった状況だったわけで、現在の姫路城天守を見ることが出来るのはこの鈴木さんの勇気ある行動のおかげと言っても過言ではないですね。新しい史実?の発見ですか。焼夷弾が爆発していれば、今の姫路城はなくなっいてたのですから・・・・(G-g)姫路城天守閣に焼夷弾が直撃、不発 1945年7月 http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000075765.shtml 2006/07/23 一九四五年七月の姫路空襲で、姫路城天守閣に焼夷(しょうい)弾が直撃したものの、不発だったために、炎上を免れていたとみられることが二十二日、当時、不発弾処理にあたった元士官の証言で明らかになった。天守閣の戦災被害は記録にはないが、元士官から手記の寄贈を受けた姫路市平和資料館は「これまで知られていなかった逸話」として、関心を寄せている。 姫路市は同年七月三日深夜から四日未明にかけ、姫路城の南東部を中心とした半径約一・二キロが焼夷弾攻撃にさらされた。焼失家屋は総戸数の約40%に達したが、姫路城は奇跡的に残った。 当時、姫路中部第四十六部隊見習士官で、不発弾処理の専門将校だった鈴木頼恭(よりやす)さん(81)=岐阜市=の手記によると、空襲翌日昼ごろ、部隊本部の指令で姫路城内に入ったところ、大天守最上階南側の床板に焼夷弾の不発弾が横たわっていた。 爆発すると、着火した油脂が炸裂(さくれつ)して火災を引き起こすM47百ポンド焼夷弾で、屋根の軒瓦四枚を吹き飛ばし、窓から斜めに突っ込んだ様子だったという。信管が通常の型と異なっており、処理の方法が分からず、城外に運び出して爆破した。 空襲下の姫路城が生き残った理由については「米軍が意図的に攻撃対象から外したのでは」との推測もあるが、空襲に参加した元米軍機長は「回避せよという命令はなく、残ったのは全くの偶然」と証言している。 姫路城の被災は、西の丸が焼夷弾を受けたほか、三の丸にあった鷺城中学校が被弾・炎上した記録があるが、天守閣の被害は、修理記録も含めて記録にはない。 姫路市立城郭研究室は「焼夷弾は空中で散らばるので、西の丸が被弾している以上、天守に落ちていてもおかしくない。当時の記録がないのも、混乱の中でやむを得なかったのかも」とみる。 姫路市平和資料館の加古雄三館長は「奇跡といわれた姫路城残存の陰で、そうした逸話があったということは大変興味深い」と話している。(森本尚樹)
2006.08.08
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「スト-ンエイジ」上映会IN姫路http://plaza.rakuten.co.jp/9484190/diary/200608060001/******http://www.sad-net.jp/whats_sad.htmlhttp://www.sad-net.jp/whats_sad.htmlAさんは30歳の男性で、音楽イベント関係の企画・製作の仕事をしています。5年ほど前に自分の会社を設立してからも仕事は順調でした。1年ほど前から社員を前に話をするときや、出張先で仕事の段取りを説明するときに、言葉がうまく出ず、自分でもぎこちなさを感じるようになりました。特にはっきりしたきっかけはなかったようです。3ヶ月ほど前からは症状がひどくなり、顔が赤くなったり、声がふるえたりするのを自覚するようになりました。そのため、最近では人前でのスピーチなどは前もって避けるようになり、仕事にも支障を生じるようになってしまいました。ある日、雑誌や本で社会不安障害という病気があるということを知り、自分もそうなのではないかと思って、思いきって大学病院の神経科を受診しました。診察した医師からはやはり社会不安障害であると診断され、しばらくSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)を服用するように言われました。薬をのみ始めてしばらくして、人前で話をするのが苦痛ではなくなってきました。Bさんは34歳の主婦です。もともと学生時代やOL時代はとても明るく、友達も多いほうでした。出産後は育児に追われて家の中で過ごす毎日でしたが、子供が小学校に入学したのを機に、友人に誘われて英会話のサークルに入りました。ところが、初回の集まりで用意していた自己紹介がうまくできず、皆に笑われてしまうという失敗をして以来、自分が話す場面になると強いプレッシャーを感じるようになりました。胸がどきどきして息苦しくなり、顔がほてり、手のひらに汗をかいてしまいます。自宅ではなんともないのですが、最近ではサークルだけではなく、子供の授業参観のときも吐き気とめまいで立っていられなくなり、途中で退室しました。Bさんは後輩の結婚式でスピーチを頼まれていましたが、とてもできる自信がなく、思い余って近くのメンタルクリニックを受診しました。Bさんは社会不安障害と診断され、事前に抗不安薬を頓服することでなんとかスピーチを切り抜けました。その後、医師の勧めに従い、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)を続けて服用しており、次第に人前でも気分が楽になってきました。
2006.08.08
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「スト-ンエイジ」上映会IN姫路http://plaza.rakuten.co.jp/9484190/diary/200608060001/SADはこんな病気http://www.sad-net.jp/whats_sad.html「人前で何かをすることによって、悪い評価をされるのではないか・・・」「周囲から注目を浴びるようなことをして、恥ずかしい思いをしてしまうのではないか・・・」例えば結婚式のスピーチを頼まれて、「ちょっと恥ずかしいな」と思うのは誰にでもあることですが、スピーチを頼まれた時から失敗して他人から馬鹿にされはしないかと考えプレッシャーを感じて苦しい日々を過ごしたり、マイクの前に立ったもののふるえが止まらず、声もうわずり、スピーチを続けられなくなってしまう。あるいは、友達の家に食事に招待されたものの、不適切な食事のマナーを指摘されるのではなどと気になって、顔が真っ赤にほてり、おいしい料理ものどを通らなくなってしまう。このように、他人に悪い評価を受けることや、人目を浴びる行動への不安により強い苦痛を感じたり、身体症状が現れ、次第にそうした場面を避けるようになり、日常生活に支障をきたすことを、社会不安障害(SAD:Social Anxiety Disorder)といいます。この社会不安障害(SAD)は性格の問題ではなく、精神療法や薬物療法によって症状が改善することがある心の病です。ちょっと恥ずかしいと思う場面でも、多くの人は徐々に慣れてきて平常心で振る舞えるようになりますが、社会不安障害(SAD)の人は、恥ずかしいと感じる場面では常に羞恥心や笑い者にされるのではという不安感を覚え、そうした場面に遭遇することへの恐怖心を抱えています。思春期前から成人早期にかけて発症することが多いこの病気は、慢性的になり、人前に出ることを恐れるようになると、「うつ病」等のさらなる精神疾患の引き金となることもあります。日本国内に推定で約300万人以上の患者さん*がいると言われており、現代社会では多くの患者さんを抱える一般的な病気です。この病気にかかるのは決して特別な人ではなく、現在も海外では多くの患者さんが医療機関での治療を受けています。*SADの生涯有病率3~13%(American Psychiatric Association:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders.Fourth Edition,American Psychiatric Association,Washington,D.C.,1994.より)に基づき、日本国総人口1.27億人(総務省統計局人口推計、平成15年10月1日分)より試算。※SADの生涯有病率は他に、7~13%(Furmark T.:Social Phobia:Overview of Community Surveys)、13.3%(Magee,W,J.,Eaton,W.W.,Wittchen,H.U.et al.:Agoraphobia,Simple Phobia,and Social Phobia in the National Comorbidity Survey)、10~15%(Ballenger,J.C.,J.R.T.,Lecrubier,Y et al.:Consensus Statement on Social Anxiety Disorder from the International Consensus Group on Depression and Anxiety)1.8~3.2%(Schneier FR,et al.:Social Phobia.Comorbidity and Mordibity in an Epidemiological Sample)などがある。社会不安障害(SAD)の患者さんは、あらゆる社交的場面(全般型)や「人前で話す」「電話に出る」「注目を浴びる」などの状況(非全般型)で行動する際に、不安な気持ちやそこから立ち去りたいという強い恐怖感を覚えます。社会不安障害(SAD)が発生しやすい状況には次のようなものが報告されています。■ 権威ある人と面談する■ 人前での行為や会話■ 知らない人との会話■ 会議で意見を言う■ 試験を受ける■ 誰かを誘おうとする■ パーティーを主催する■ 人前でお腹がなる(なりそうになる)■ 人前でおならが出る(出そうになる)■ 自宅外でトイレへ行かなければならない社会不安障害(SAD)では、強い不安症状が自律神経に作用し、さまざまな身体症状を発症することがあります。比較的、頻繁に見られる症状は以下のようなものです。 ■ 顔が赤くほてる■ 脈が速くなり、息苦しくなる■ 汗をかく■ 手足、全身、声の震え■ 吐き気がする■ 口が渇く■ トイレが近くなる、または尿が出なくなる■ めまいがする■ パニック発作
2006.08.07
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http://mixi.jp/view_community.pl?id=679052 イ-グレ姫路 開館5周年記念「ストーンエイジ」上映会実施平成18年10月14日(土) イ-グレ姫路3F あいめっせホ-ル http://www.c-makes.com/stoneage/ 近づいてきました。 準備をしています。8月24日に東京で最終打ち合わせを行います。 それ以降、詳細準備に入ります。 姫路近郊で、「スト-ンエイジ」http://star.ap.teacup.com/applet/short-girls/200605/archive上映会IN姫路の無償ボランティアに参加していただけませんか。 お願いします。 以下のHPのメ-ルの左側の分から配信お願いします。 http://www.rak3.jp/home/user/9484190/ 10月14日(土)入れ替え制 ¥1000 当日受付で精算 (一回定員250名、先着順)、2回上映 1回目 13:00~15:00 (定員250名、先着順) 2回目 15:30~17:30 (定員250名、先着順) http://mixi.jp/view_event.pl?id=9251737&comm_id=679052http://mixi.jp/view_community.pl?id=679052
2006.08.06
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絵が心を語り始める時 心の喜び、体の元気 色彩心理研究家・末永蒼生 1日 86400秒×活かされている日数1ヶ月(30日)25380001年(365日)926370000・・・・自分の生い立ちを何時ごろから思い出せますか。メモしていきませんか?http://www6.ocn.ne.jp/~newport/1お母さんにしていただいたことは何時ごろから思いだせますか?お父さんのことは? 兄妹のことは?2良心:善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き まごころ【真心】 ふきのとう ふ ふさわしい(ことが)き きっと(ある)の のぼろうと トップでなくてもう うれしさもとめて***********************http://htthttp://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/century/news/20060713org00m100096000c.html絵が心を語り始める時 心の喜び、体の元気 色彩心理研究家・末永蒼生 今回はNさんが投稿して下さったお子さんの絵についての読み解きをご紹介したいと思います。 Nさんのお嬢さんは現在8歳になったばかり。送っていただいた絵には、「子供のこころの成長に寄り添うことができたら」というNさんのコメントがついていて、子どもの心を感じたいという母親としての思いが伝わってきました。 絵にはお花や生き物、それに虹などが描かれ、とてもカラフルな仕上がりですね。そのまま絵本の挿し絵になりそうです。つまり、見ているだけで物語が浮かんできそうな絵です。ということは、このお子さんがとても想像力が豊かであるということなんですね。子どもは見たり聞いたりしたことを覚えていて、それらの記憶を素材に絵を描きます。そこがつい見たままを写生してしまう大人の絵と子どもの絵の違いともいえます。つまり、子どもの絵は心の中のイメージの断片をコラージュするようにして、あっという間に新しい世界を描きだします。だから、子どもの絵は絵本のようなファンタジックな感じになるのだと思います。なかなか大人には真似ができません。 さて、Nさんのお嬢さんの絵をじっくり眺めてみると、なかなか興味深いことが感じられます。まず画面の真ん中のカタツムリ。なんときれいな彩りでしょう。右側の小さなカタツムリは子どもでしょうか。カタツムリの親子のようにも見えますね。小さなカタツムリは笑いながらしっかり大きなカタツムリに目を向けているし、大きなカタツムリはなんとウインクしてます。ラブラブ同士ですね。このように仲のいい生き物の様子をイメージするということは、やはり子ども本人の生活と関係があります。つまり、ご家族同士がとても親密なのだと思います。 そのことで本人の情緒がとても安定感があることが絵の構図からも感じられるんです。それは地面の緑と空の青の関係です。色彩学的には緑と青という配色は色としては親戚同士のようなもので「類似配色」になっています。このような配色も人間関係の穏やかさを反映していると見ることができます。 さて、右上の真っ赤に塗られた力強い太陽は何を語っているのでしょうか。子どもの絵に描かれる太陽は一般に父親のシンボルと言われることがありますが、実際はそれが父親なのか、母親なのか、あるいは祖父母なのかは、その家族構成によるでしょう。いずれにしても家族にエネルギーを与える存在であると考えていいでしょう。太陽がしっかり描かれるということは、中心的に支えてくれる人がいて、子どもに安定感を与えているといえます。自然界で光を受けて植物がどんどん伸びるように、子どもも大人のエネルギーを受けて成長していきます。そうやって育っている子どもは、自然の花や木々を眺めた時に共鳴するのではないでしょうか。だから、子どもの絵には必ずといっていいほど、太陽、植物、生き物たちが登場してきます。 ここに紹介した8歳のお子さんの絵もまさにその典型的な表現ではないでしょうか。左端の木を見てください。しっかりした幹に豊かな葉が茂っています。これはそのまま子どもの成長ぶりを表しているように思います。テーブルの上にはお菓子があるそうですけど、なんだか木がそちらに体を傾けているように見えるのもユーモラスですね。 それに、この絵の中には小さいけど素敵なポイントがあるんです。それは太陽の光を受けて出現した虹です。虹は子どもの心に何か感動的なことがあった時によく描かれます。この時期、何があったのでしょうか。 Nさんのお手紙によると、この絵を描いた頃から自転車の練習など体を動かすことを自発的にやるようになったということでした。何か、うれしいきっかけがあったのかもしれませんね。 もともと絵を描いたり歌ったり、また読書が好きだったりと精神的な活動が活発なお子さんのようですが、そういうベースがしっかり育ち、次に体で表現する面白さへと新たなステージに成長し始めているように感じられます。 子どもにはそれぞれ特有の発展のリズムがあって、その子なりの順序を持っているものです。その無意識のシナリオが子どもの絵には色や形となって自然に表現されます。彩りの豊かさ、勢いのいいタッチ、安定した構図、バランスのいい曼陀羅的な配置......。このお子さんの絵を総合的に見ると、心と体がステップアップしようとする時の喜びがあふれているように感じられてなりません。
2006.08.06
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うつ病からの脱出 第72号 妥協もやむなしの心境2006年4月11日(火)、札幌医大病院の日でした。この日から、退院以来ずっと外来で見てもらっていた女性の先生に代わって男の先生になりました。とりあえず薬等に変更はありませんでした。午後、プログラマー以外の職種ではどうですか?と言われたAS社へ面接に行きました.社長(50代くらいの女性)と企画室長(30代くらいの男性)との面接でした。プログラマー以外の仕事というのは、企画室長がそこに人材を欲しがっているとのことでした。営業ではありませんでした。会社に仕事が入ってくるのを、社内で振り分けたり、社内に人材がいなければ、別の会社に打診して振り分けて、出向先まで技術者を連れて行くような感じの仕事でした。企画室長は、「自分の会社の人間を悪くは言いたくないけど、正直出来悪いんだよね、だから出来のいい部下が欲しいんだよ。この経歴だったら、きっと頭の回転速いと思う。俺、頭の回転速い人と仕事したいんだよね。」と社長に言っていました。しかし、企画室長曰く、また何が気が変わったのか、「でもさあ、プログラマーとして応募してきたのなら、最初はやりたいことやらせるのもいいんじゃないの?」みたいな感じで、話の流れが変わって来ました。研修させてもらえる会社があるから、そことの面接をして通ったらそれでプログラマーとしてやってもらうことにしようという話になりました。話が意外に美味い方向へ転がり始めました。その会社、Javaの技術者がいるらしいのですが他の仕事でとられているようでした。できる人はなんでもできるようで、あちこちに引っ張られる、とか言っていました。今後はJavaの仕事も引き受けて行きたいからJavaをできる人間を増やして行きたいというようなことも言っていました。プログラマーというのは40代くらいで定年だと思ってくださいとも言われました。あんまり年行くと働きづらくなってくるらしいです。(何故なのかわかりませんが)そうなったとき、内勤で働いてもらえればいいという話になりました。結構いい話だと思いました.地獄に仏のような感じです。プログラマー以外の仕事と聞いていたのに、プログラマーの方向に転がり始めたのです。とにかくその研修させてもらえる会社との面接で受け入れてもらえるかどうかがこれからの勝負の分かれ目だと思いました。4月16日(日)、シンパシーコンピュータ学院で同期だった一人(同期では最年少の24歳の男)から「SUN Javaの資格に受かった」とメールが入りました。「これから東京での就職活動に入ります。」とのこと。今思うと、Javaの資格持っている方が就職にはそれは有利だろうなあ。でも今から勉強する気もなかなか起きないなあ・・・・というのが正直なところ・・・。だって、資格対策の勉強って、つまらないんだもん...。4月18日(火)、一週間前話が美味い方向に転がり始めたAS社から連絡がありました。研修先の会社から難色を示されたらしく、かなり粘ってくれたそうなのですがどうしてもダメとのことになり、結局この会社に採用されることはなくなりました。非常に残念です。IT系企業落ちたの改めて6社目です。学校からは「就職情報」と銘打って東京の会社が一社会社説明会を開くから聞きたい人は事前に連絡して来てね、というメールが来ましたが、東京には興味無しです。4月19日(水)、昨日ついにAS社にも落ちてしまったのを受けて、ハローワークに行って一社(仮にDN社とします)と連絡を取ってもらいました。一応、求人票では40歳以下、経験・学歴・資格不問となっていました。でもなあ、、このあいだ似たようなこと書いてあった会社(AN社)の面接でもうちょっと若ければなあとかもうちょっと何かあればなあとか言われてスゴスゴと帰って来た経験があるので、楽観はしていません。求人票にウソは書かないで欲しいものです。とりあえず履歴書と職務経歴書を送って書類審査です。実は4月17日に伯母(父の姉)が無くなりました。20日は葬儀でした。昼ご飯は焼き場での待ち時間に出た弁当だったのですが、なぜか食べている最中に途中で嫌になってきてこれ以上食べたら気持ち悪いというような状態になって半分くらい残しました。まだたまにこういう症状が出るんだよなあ・・・・精神的な病気って、ホントに完治するのに時間がかかるんですねえ・・・・。4月24日(月)、19日に書類を送ったDN社から連絡が来て、28日(金)11:00から面接ということになりました。学校からも電話があって、明日東京の会社が説明会を開くけれど(先日のメールで知らされていた内容)メール読んだかい?聞きに来ないのかい?ということでしたが、札幌に支社もない会社だしあまり関心が無いということで断りました。4月28日(金)、DN社に面接に行って来ました.とりあえず、全然ダメという感じではありませんでした。札幌での仕事となると今ちょっとすぐには思いつかないけれども東京ならいろんな仕事があるから1~2年行ってみる気はありますか?と聞かれました。やっぱり、また東京行きの話です。でも、もうこの際、期間限定であれば考えても良いと答えておきました。少し時間をくれといわれました。札幌でできることがあるかどうか検討してみるということと、東京の方でやっていくという2種類くらい提案するからどちらか選んでもらう、みたいなことを言われました。来週月曜あたりに連絡をくれるそうです。その提案でやってみる気になるようなら、もう一度会社の事務所で詳しい話を進めましょうということになりました。まあ、もしかすると東京でやるという一択しか出てこないかもしれませんが、もうこの際妥協することにしようと思いました。1~2年くらいの期間限定なら、本当に受け入れようかという思いになっていました。それで実務経験を積むことができればまた、世界が広がると思ったからです。つづく次回は東京行きほぼ決定かと思いきや、新たな情報も舞い込んできた話をお届けします。※最近就職活動日記のような内容になっていてすみませんが、ご了承ください。
2006.08.05
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1日 86400秒×活かされている日数1ヶ月(30日)25380001年(365日)926370000・・・・自分の生い立ちを何時ごろから思い出せますか。メモしていきませんか?http://www6.ocn.ne.jp/~newport/1お母さんにしていただいたことは何時ごろから思いだせますか?お父さんのことは? 兄妹のことは?2良心:善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き まごころ【真心】 ふきのとう ふ ふさわしい(ことが)き きっと(ある)の のぼろうと トップでなくてもう うれしさもとめて****************メール依存の女(2) 教育研究所所長・牟田武生 美貌(ぼう)でしかも理知的。仕事が出来るキャリアウーマンしか見えない女性に"お母さん"と意識して私は呼びかける。 「息子さんは寂しいのです。たまに、お母さんと2人きりで家にいても、お母さんはパソコンでいつもメールしている。外出しても携帯でメール。お子さんは寂しいのです。おかあさんを独り占めにしたいのに、お母さんの心はメールの相手にいっている」。さらに「お仕事、そんなに忙しいのですか?」と聞く。 女性は美しい項(うなじ)を誇示するかのように見せながら、重々しく口を開いた。 「先生、本当のことをカウンセリングですから言います。仕事場以外のメールは仕事ではございません。実はインターネットの仮想社会に恋人がいるのです......。現実社会では決して会うことがない恋人です。でも、先生はネット依存の本をお書きになっている専門家ですから、お分かりになると思いますが、現実世界では主人を愛していますが、実はその人と仮想社会でサイバーセックスをしています。私には大切なひとなのです」 「なぜ、そうなってしまうのか......。そのことが子どもの不登校の遠因にもなっていることにも気がついていました。普通のカウンセラーのところではなく、先生の所に来たのも、そのことを暴かれると分かっていました。怖かったけれど、自分の問題を解決したかったから、ここに来たのかもしれません。私は母親になれない女なのです」 「子どもが寂しい気持ちでいることは分かっている。でも、子どもを受け止める愛情がない。母親になりきれない女としての自分が存在するということでしょうか」 「たぶん、そうだと思います。母親になれない女なんているのでしょうか」 「子どもとの日常生活の関わりの中で母親は作られていくのです。あなたの日常生活を聞くと、お子さんとの生活がほとんどありませんね。同時に妻としての生活もない。あるのは現実社会では恋人としての夫と仮想社会の彼の恋人。そして、華やかな仮想現実のようなお仕事。生活臭という臭いのない世界ですね。私には女優としてスクリーンの中のあなたを見ているような錯覚に陥ります」 「あなたの家で生活実像のあるのはお子さんだけです。ご主人もあなたも虚像の中で生活している。スマートで非常に格好が良く、現代的ですがどこか寂しくむなしい。そんな現実を埋め合わせる行為がメールであり、仮想社会の恋人とのサイバーセックスなのではないでしょうか」 「サイバーセックスしている仮想社会の彼のことは、御主人は知っているのでしょうか」 「知らないと思います。実は私たち夫婦セックスレスなのです」と悲しそうな表情を浮かべ答えた。 「サイバーセックスって、私はやったことないからわからないのですが、メールやチャットでセクシャルなことを言い合い想像して楽しむことですよね」 「そうです。会ったこともない彼との想像の世界での脳内セックスです」 (つづく)
2006.08.04
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きてよかった(来さしてもらってよかった)いろいろな講師の話、自分の考えていることとの検証、発見、洞察、先見・・・・・受講者との出会い、北海道から沖縄まで800人余、活気がある、熱心に受講、、各講義中に眠る人がいないことに感心した。当たり前かも知れないのですが・・・・・、既成の考えからでは・・・・、もっと、真剣に、その時、その場で、学んでおけばよかったと考える日々だから、より、新鮮に想えたのかも知れません。研修の費用は自己負担で、年休を取って、毎年来ていたことを・・・・ 来させている、来てやっている、・・・・通常の出張でなく、旅費も出ず、自腹を切っての、目的を持った、自分自身が此処にいるという自覚の証しか?日数、学生等により参加費用は異なるが・・・・5日間¥30000 旅費・宿泊費・食事代・書籍代等・・・・お金でなく、来さしてもらって(此処にいられるために、いろいろな支えがあってのこと、ひと・もの・かね・情報等)、新鮮な風に触れられたことがうれしかった。現役の時は同じく真剣であり、学ばしてもらわなければという使命感があったが、その気持ちは変わっていなかった。しかし、違うところは、月給も、出張旅費もなく、出費は再生産されず、戻ってこないということ、もったいないと思いかけたこと、・・・・セセコマシクハシタクワナイガ・・・職があり、賃金を頂いていたありがたさを知る。ありがとう、懐かしい出会いが・・、懐かしい講師の先生に、尊敬する講師の先生に目的があることはいいことだと、周囲から、今さら、そんなことよりも・・・若者らの動き、ハンディをもった人の集団、・・・・動き動き、躍動感あふれるセンタ-内の動き・・・・・青少年センタ-前(かたせ友梨本社前)から¥200で新宿西口へテレビに風鈴のことで、明珍火箸が放映されているのを観た。
2006.08.03
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ヒステリー、変質者の再考 精神科医・斎藤学 1日 86400秒×活かされている日数1ヶ月(30日)25380001年(365日)926370000・・・・自分の生い立ちを何時ごろから思い出せますか。メモしていきませんか?http://www6.ocn.ne.jp/~newport/1お母さんにしていただいたことは何時ごろから思いだせますか?お父さんのことは? 兄妹のことは?2良心:善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き まごころ【真心】 ふきのとう ふ ふさわしい(ことが)き きっと(ある)の のぼろうと トップでなくてもう うれしさもとめて*********https://blog.mag2.com/m/log/0000185383ヒステリー、変質者の再考 精神科医・斎藤学 麻原彰晃と呼ばれた人に接見したり、秋田県の団地で生じた幼児殺人事件の犯人女性をテレビで見たりしているとヒステリーや変質者など、今は捨てられた古い精神科用語が懐かしくなってくる。これらの用語は、世間で用いられる意味と医師たちの理解との食い違いが甚だしくなり、結局捨てられたのだ。ヒポクラテスが子宮を意味するギリシャ語「ヒステラ」からヒステリーという女性固有の疾患を記載したのは紀元前4世紀という昔だが、このときの意味は女性に固有の臓器である子宮が体内各所を移動し、それによって多用な症状群が一過性に生じるという意味であったという。 もちろん女性に固有の病気と考えられていたわけだが、3世紀以後、ヨーロッパ世界がキリスト教で覆われるようになると、こうした「徴候(スティグマータ)」を示す女性の子宮には悪魔が宿っているのだと考えられるようになり、ルネサンス期に魔女狩りが盛んになるとその対象にされて沢山の女性が焼き殺された。痛覚の脱失や過敏(特に頭痛と生理痛を含む腹痛)、ヒステリー球(喉に球がはまって息苦しい感じ)、失明(盲)、失声(唖=あ=)、失聴(聾=ろう=)などの感覚器障害、失立失歩(ぐにゃりとして倒れ、起そうとすると極めて重い)などのまひ、全身の筋緊張(ヒステリー弓とというレスリングのブリッジのような反り返りを含む)、けいれんなどの運動機能障害、それに失神やもうろう状態などの意識障害はいずれもそうした「スティグマータ」の一部である。 この「スティグマータ」を犯罪者の中に見出そうとしたのは18世紀のフランスの医師モレルである。彼は進化論を援用しつつ、アダムから悪魔へと変成(進化の逆)を遺伝的徴候として備えた者を想定し、これを「デジェネレ(変質者)」と呼んだ。モレルの後輩マニャンは奇形からモノマニー(強迫行為、性嗜好異常など)に至る変質徴候を数え上げ、知的にすぐれながらそうした特徴を備えた犯罪者を優秀変質者と呼んだ。こうした考え方と相互に影響を与え合いながら犯罪者や天才の骨相学を創始したのはイタリアの精神医学者ロンブローゾで、この人こそ現在の脳計測学の祖である。 こうして古くから「いかがわしさ」の臭気を放ちつつ医学の周辺に捨て置かれてきたのがヒステリーや変質者だが、19世紀も半ばになり研究対象としての脚光を浴びることになった。当時の権威で組織病理学者(当然、死体を観察対象とする)のシャルコーが、「死体に何らの痕跡を残さないのに様々な症状を呈する」ということでヒステリーに「こだわった」のである。おそらく彼が院長を務めていたサルペトリェール病院が女性収容者数千人を抱えた女性精神病者のアジール(アサイラム、施設)で、そこに収容されている女性たち(彼女たちの死体がシャルコーの業績を支えた)と言えば、痴呆や慢性化した統合失調症者などの老女たちを除けばヒステリー精神病とてんかんの罹患者(りかんじゃ)だったからだろう。 シャルコーは一つの病棟にてんかんとヒステリーだけを集め、これがサルペトリェールにいるヒステリー患者の病像を変化させた。健忘を伴うてんかん様のけいれん発作が増えたのである。シャルコーはこれを「ヒステリー大発作」と呼び、今ではてんかん患者の発作をまねたヒステリー患者の偽発作にシャルコーがだまされたという話になっている。なぜまねたか? 多分、その場所の権力者シャルコーの「お気に入り」になりたかったからだろう、というのである。 もしそうならヒステリーは詐病(保証金の獲得、刑の執行延期などの動機によって病を装うこと)と変わりないものになる。詐病とまではいかなくても、出血や発熱を自ら作り出して病院への緊急入院を繰り返す虚偽性障害(ミュンヒハウゼン症候群)とほぼ同じということになる。そうだろうか。確かに多様なヒステリー症状の中には周囲の状況に影響されたと思われるものもあるが、その基底には意識統合という基本的機能の脆弱(ぜいじゃく)さがあるように思う。 現代の精神医学は変質者どころかヒステリーという用語まできらい、アメリカ精神病院協会のDSM(診断統計マニュアル)第3版(1980)ではヒステリーを解離性障害、身体表現性障害などと呼びかえることを提唱し、第4版(1994)になるとこの用語を放逐してしまった。しかし「ヒステリー患者」も「変質者」もいなくなったわけではない。心因性の朦朧(もうろう)状態(寝ぼけたかのように突然怒ったり暴力をふるったりして、後で憶えていない)も昏迷(しゃべらず、通常は動くこともないので、一見重症の意識障害のように見えるが、実は当人は外界を認識している)も精神錯乱も日常の臨床の中で確かにお目にかかるし、パラフィリア(性嗜好異常、例えばペドフィリア=小児性愛者)の手にかかって落命する少女もいる。そしてその犯人は「悪魔に唆された」などと述べている。これら精神医学の中でも薄暗がりの領域についてはもう一度照明を当てる必要があるだろう。家族機能研究所代表 精神科医・斎藤学(さいとう さとる) 1941年東京都生まれ。慶応大医学部卒業、フランス政府給費留学生、国立療養所久里浜病院精神科医長などを経て95年、家族機能研究所を設立。医学博士。闇をさぐる~現代の親子関係」(小学館)など多数。 http://www6.ocn.ne.jp/~newport/http://www.sad-net.jp/
2006.08.03
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メール依存の女(1) 教育研究所所長・牟田武生 1日 86400秒×活かされている日数1ヶ月(30日)25380001年(365日)926370000・・・・自分の生い立ちを何時ごろから思い出せますか。メモしていきませんか?http://www6.ocn.ne.jp/~newport/1お母さんにしていただいたことは何時ごろから思いだせますか?お父さんのことは? 兄妹のことは?2良心:善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き まごころ【真心】 ふきのとう ふ ふさわしい(ことが)き きっと(ある)の のぼろうと トップでなくてもう うれしさもとめて***************http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/century/news/20060623org00m100095000c.htmlメール依存の女(1) 教育研究所所長・牟田武生 先日、ある大手民間放送局の取締役秘書として働く女性がカウンセリングに見えた。その女性はとても美しく30代半ばとはとても思えない。独身の女性の方がカウンセリングに来ること自体、大変珍しいことだが、話を聞いてみると、すでに結婚していて私立小学校に通うお子さんもいるという。 容ぼうからはとても母親とは信じがたく、自分の目を疑った。ご主人は5歳年上で大手某商事会社のサラリーマンをしている。海外出張も多く、自分も忙しいので、すれ違い夫婦だとおっしゃる。現在は東京の実家に2世代住宅を親に建ててもらい住んでいる。 子育てをやってはいるが、自分も主人も仕事に忙しく、祖父母が子育てサポーターをやっている。そのために、お母さんの匂いがしないのだ。 「母親くさいひとよりも、いつも身奇麗にして現実社会に接点があった方が、自分は、貴女のことをいつまでも好きでいられる。すれ違い夫婦だから、家で、たまに会う時も夫婦というより恋人同士の方が、2人で素敵な時間が過ごせる」と彼(主人)は言うし、自分にとっても、たまに彼と一緒にいる時、夫婦だけど、好きでなくなったら別れるかもしれないという緊張感がどこかにあり、いつも新鮮な気持ちで接することができるから良いという。 放送局の取締役秘書の仕事も華やかであり、役員のスケジュール調整や時間管理も忙しく気が抜けないが、仕事は楽しく幸せに感じていると言う。 子どもは彼と考え、大学まであるエスカレーター式の学校に入れた。その方が受験勉強のことで悩まずにすむと思ったからだ。だが、最近、子どもが時々、理由なく学校を休むのでカウンセリングに来たという。 子どもは小学3年の男子で祖父母になつき、他人には「祖父母に良く育てられたためか、穏やかで気持ちの優しい子ですね」と言われる。祖父母と言っても、2人とも60代後半だからまだ若く元気だという。 その女性は自分がひとりっ子だったから、両親の育て方を見ると自分の小さい頃とダブって見える。だから、母親と言うよりも子どもの姉の感覚に近いのではと真顔で言う。 「お子さんはお姉さんではなくて、母親を求めているのではないでしょうか?」 「そんなことありません。学校から帰宅すると、祖父母の家に行き、おやつをご馳走になり少し休む。そしてピアノや学習塾から帰って、大好きな祖父母と3人で夕食を食べ、後片付けのお手伝いをやる。祖父母の家でお風呂に入って宿題や学校の勉強をし、2階の自分の部屋に戻って寝る。朝食は彼がいれば親子3人で取ります。息子にとって母親がふたりいるようなものです」 翌週、女性は小3の息子を連れてカウンセリングに見えた。子どもと2人で話していると、自分の耳を疑うようなことを子どもが言い出した。 「僕が寝ていない時間にお母さんは家に帰って来るのは、週に1、2回だけれども、たまに早く帰って来ても、お父さんが出張でいない日は、パソコンでメールしている。外に出ても携帯でメール。僕が話かけても、ウン、ウンとうなずくだけで答えは返ってこない。ツマラナイ」と言う。(つづく)
2006.08.02
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絵が心を語り始める時 子どもはパパにもサインを送っている 色彩心理研究家・末永蒼生 1日 86400秒×活かされている日数1ヶ月(30日)25380001年(365日)926370000・・・・自分の生い立ちを何時ごろから思い出せますか。メモしていきませんか?http://www6.ocn.ne.jp/~newport/1お母さんにしていただいたことは何時ごろから思いだせますか?お父さんのことは? 兄妹のことは?2良心:善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き まごころ【真心】 ふきのとう ふ ふさわしい(ことが)き きっと(ある)の のぼろうと トップでなくてもう うれしさもとめて******************http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/1お母さんにしていただいたことは何時ごろから思いだせますか?お父さんのことは? 兄妹のことは?2良心:善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き まごころ【真心】 ふきのとう ふ ふさわしい(ことが)き きっと(ある)の のぼろうと トップでなくてもう うれしさもとめて******************http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/century/news/20060615org00m100043000c.html絵が心を語り始める時 子どもはパパにもサインを送っている 色彩心理研究家・末永蒼生 最近は"パパの子育て"を特集する雑誌が目につくようになった。コマーシャルなどでも子どもと付き合う格好いい父親のイメージを使ったものが少なくない。一方で企業における「男の育休」についての議論も広がりを見せている。 ここにきてやっと男にとっての子育ての意味が浮上しつつあるのを感じる。あえて「ここにきて......」というのは、この20年近く子育ての現場ではあまりに問題が噴き出していたからだ。 いじめ、校内暴力、学級崩壊、児童虐待。1997年に神戸で起きた少年による児童殺傷事件、さらに大阪の池田小学校で8人の子どもたちが命を落とした衝撃的な事件。九州で続いた子どもが他の子を殺す出来事。これでもかこれでもかと子どもが犠牲になる事件が絶えない。あたかも社会の膿(うみ)が噴き出すような恐ろしい状況にあって、子育ての責任を負う多くの母親が不安の中で精神的に追いつめられていたと思う。 実際、私が講演で各地に出かけていくと、北海道でも沖縄でも子育てに強い不安を抱えた母親たちの質問を受ける。 「子どもの気持ちが見えない」「しつけと愛情のバランスをどうやってとったらいいのだろうか」「いじめで不登校が続いている。どう対応したらいいのか」「外で遊ばせたいけど事件が多いので、家で私が相手をしていて息がつまりそう」......。それらの訴えには切実な思いがこもっている。このような深刻な事態を母親1人でどう受け止めていったらいいのだろうか。 かつては、家族や地域で工夫して解決できたことが母親1人の肩にかかっている様子が伝わってくるのだ。少なくとも夫婦で話せば解決や協力の糸口が見つかりそうに思うのだが、その夫は残業続きで帰宅は子どもが寝てからという家庭も少なくない。 母親たちは気軽に悩みを話せる場があまりにないのではないだろうか。生真面目な親ほど育児の責任に追いつめられ、気づいたら子どもに手を上げていたということもあるようだ。「子どもを傷つける前に助けて」と、インターネットを通して自らの虐待の悩みを訴えるネットワークも広がっているほどだ。ここにも少子化の深刻な背景の一つがかいま見える気がする。 考えてみれば、一昔前とは子育てを取り巻く環境が大きく変質しているのだと思う。母親が子育てを何とかやれていた時代はそれを支えるゆるやかな環境があった。近所付き合いができる地域の人間関係やプレーパークなど子どもの遊び場があり、大人の目が注がれていた。核家族化とはいっても祖父母との行き来もありそのサポートもあった。 しかし携帯電話文化に象徴されるように、いまや家族の中にも自己中心主義といっていいような、互いの個人生活にできるだけ触れないライフスタイルが定着しつつある。このような生活は自立した個人の大人にとってはある程度必要かもしれない。しかし、成長過程で安心できる複数の親密な人間関係を必要とする子どもにとっては危機的状況といえる。心が育つ時期の子どもにとっては、子ども同士の関わりはもちろん、いろんな大人に触れ見守られているような風通しのいい環境が必要なはずだ。そのことが豊かな感情やコミュニケーション能力をも育んでいくからである。 いま、あたかも自然破壊で行き場を失った野生動物が暴力的な振る舞いをして傷ついていくように、子どもたちの行動も尋常さを失いつつあるのではないだろうか。実際、最近は街角で子どもたちの声を聞くことも遊ぶ姿を見ることも少なくなってしまった。 多分これから必要なのは、子どもたちを見守る新しい形のセーフティーネットだと思う。そして、その軸の一つになれるのが父親であるはずだ。育児に関しても、母親だけで育つというような極端な性別役割の限界が来ているのかもしれない。次の時代を支える人間を育てていくという"社会事業"にこそ、社会的な目線を持った父親の力が必要であることはいうまでもない。 おそらく、子育て現役の親たちがそのことを何より実感しているのではないだろうか。"パパの子育て"の話題が雑誌や新聞をにぎわし始めたのも、その現れではないかと思う。それに何よりパパと付き合いたいとメッセージを送っているのは、当の子どもたちかもしれない。私はアトリエに通ってくる子どもたちの絵を見ながら、父親的な存在感を求めている声なき声を感じるのである。 ここにあるのは8歳の男の子が描いた絵だ。画面いっぱいにはみ出さんばかりに描かれた父親の腕に思いきりぶら下がっている子ども。子どもの表情は見えないが「わーい!」という声が聞こえてきそうだ。びくともしない力強い父親への信頼と愛着が見事に描き出されている。じつは、この絵は20年ほど前の子どもの絵なのである。最近は画用紙からあふれるほどの存在感で父親を描く子どもは少ない。それだけ父親が育児や教育の現場から遠く影が薄いのかもしれない。 しかし、子どもたちはこの絵に見られるように父親に対しても愛のサインを送っている。子どもの心の中には父親的な存在に触れることによってこそ芽を出す種子が用意されているに違いないからだ。また父親の方も子育て、つまりファザーリングを通して親としての喜びや自信をふくらませていける。それはとりもなおさず、その父親の全人的な魅力にもなるだろう。私のアトリエに子どもを連れてやってくるパパたちは、どこか一味違う大人の魅力をにじませている。そんな素敵な父親たちに刺激され、私としても父親参加型のファザーリング・アトリエを始めたいと思っているところだ。------------------------------「子どものアトリエ・アートランド」主宰、色彩心理研究家 末永蒼生 1944年東京都生まれ。美術集団「グループ視覚」で、60~70年代のアートシーンに関わる。かたわら、自由表現の場「子どものアトリエ」を開き、色彩心理研究を始める。99年、米ホノルル大で心理博士号取得。講座「色彩学校」を主宰。その受講生が阪神大震災の後、現地の子供たちに行なった絵による心のケアは、アートセラピーへの関心を集めた。著書は「自分力を高める色彩心理レッスン」(ナツメ社・新刊)、「心を癒す魔法の色彩力」(主婦と生活社)など。 【絵を募集します】「こころのページ」では、色彩心理研究家・末永蒼生さんに、絵を読み解きしてほしい方を募集します。自由な時間に描いた絵の写真を、お寄せください。寄せられた絵の一部は、末永さんのメッセージとともに「こころの世紀」で公表いたします。デジタル画像は、kokoro@mbx.mainichi.co.jpへ送ってください。プリント写真の場合は、〒100-8051東京都千代田区一ツ橋1-1-1毎日新聞社デジタルメディア局「こころのページ」担当へ。電話番号、年齢、性別、気になる状況や様子を添えてください。匿名を希望する場合はお知らせください。ハート&カラーhttp://www.heart-color.com/世界子どもクレヨン基金http://www.shikisaigakuen.com/crayon/top.html「お父さんもお母さんも楽しめる子育て講座"ファザーリングの喜び"」実施。詳細は絵の読み解きの連絡先 2006年6月15日http://www6.ocn.ne.jp/~newport/http://www.sad-net.jp/
2006.08.01
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