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***** うつ病からの脱出 第93号 人生の岐路2006年8月24日(木)、月曜日(3日前)に面接をしたソフト会社である株式会社Rから電話が来ました。残念ながら不採用ということでした。約束通り、ダメなので早めに連絡をくれました。この連絡を受け、やはりこのままプログラマーを目指した就職活動を続けていても同じことの繰り返しで採用されることは難しいのではないかと改めて感じました。そこですかさず、先日ネット上で見つけた就職率100%とうたっているSプログラミングスクールに電話をかけてみました。「S」と言ってもシンパシーの「S」ではありません。全く別のスクールです。シンパシーコンピュータ学院で学んだこと、その後就職活動を続けてもなかなか就職できないこと、年齢が現在35歳、11月には36歳になること、などを話し、Sプログラミングスクールで学んだあとは多分36歳になるだろうけれどそれでも就職先はあるだろうか?という質問もぶつけてみました。電話口の先生(Y先生)はあると思いますよ、と軽く言ってくれます。なぜこの学校が就職率100%なのかなどいろいろと話してくれました。とりあえず、無料説明会というのがあるので、土曜日の午後6時に行くことにしました。8月25日(金)、一次面接を通った冠婚葬祭会社あいプランの会社説明会に行ってきました。体調があまり良くありませんでした。階段を上っていると吐き気がしてきて立ち止まりました。大丈夫かなあと思いながらもちょっと心を落ち着けて、会場入りしました。体調の悪さも一時的なもので、時間が経つと体調は回復してきました。会社説明会は、10:00~15:00近くまでと、かなり長い時間の説明会でした。どんな職種を希望していようと、最初は研修で営業から始めてもらうということです。これは一次面接のときに既に聞いていたことです。給料体系なども提示されました。営業成績が上がれば上がるほど、本当に報酬が上がるようになっていました。「年齢や学歴は関係ない。」とのこと。とにかく営業成績さえあげればたくさんお金がもらえるシステムです。月数十万円も夢ではないシステムになっていました。この会社説明会に来ていたのは、13名くらいでした。一次面接の時の受付でちらっと名簿を見た感じではもっともっとたくさんの名前が書かれたリストがあったと思うので、全員が一次面接を通ったわけではなく、ちゃんとそれなりに人物評化して一次を通った人だけがこの説明会に呼ばれたことがわかりました。そして、28日(月)に二次面接があるのですが、その二次面接は入社の意思確認だということでした。「えっ?」と思いました。今日の説明を聞いて、会社のことを理解し、土日でよく考えて結論を出してほしいとのことです。ちょっと驚きました。ということは、二次面接で「入社の意思があります。」と表明すれば、採用されちゃうっていうことのように聞こえます。いきなり人生の岐路に立たされました。今のままでは札幌でプログラマーとして就職先がないことは、今年の4月からこれまでの就職活動で十分にわかりました。しかし、まだ半分あきらめてはいません。あいプランの最初の研修が営業からっていうところにも不安を感じます。営業成績さえあげればたくさん報酬がもらえるということがわかったので、お金の面では魅力的といえば魅力的です。しかし性格的に営業には向かないと感じます。まだ「うつ」が完治していないので、体調が悪くなることもたまにあります。今日だってそうでした。そんな状態で営業なんてできるのだろうか?とも思います。活きの悪い営業が玄関先に来て、お客さんは果たして契約をする気になるだろうか?Sプログラミングスクールに説明を聞きに明日行きます。札幌のプログラマーの求人がたくさんあるらしいです。36歳になっても就職先があるものかどうか、就職先はどんな会社なのか、よく聞いてこようと思います。とにかくこの時点で、進む方向にすごく迷いが生じています。未来を見ることができる人がもしいたら相談したい心境です。とりあえず、あいプランの2次面接の前にSプログラミングスクールの相談会の予定を入れておいて良かったです。つづく次回はSプログラミングスクールの無料相談会の様子をお届けします。うつ病からの脱出発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.com
2006.10.31
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061028061029 兵庫県立西播磨総合リハビリテーションセンター 志深の郷 *****うつ病からの脱出 第92号 冠婚葬祭業面接2006年8月23日(水)、あいプランの面接に行って来ました。プログラマーとは全く関係のない、冠婚葬祭の会社です。体調があまり良くなく、生きが悪かったので、面接官と会ったとき開口一番「元気無いですね~。」と威勢良く言われました。正直に「今日、あまり体調が良くなくて・・・」と言っておきました。当然、前の会社を辞めた理由を聞かれました。電子線露光装置業界の先行きがあまり見通しが明るくないこと、不採算事業部で会社からも予算があまりもらえなく、新しい仕事ができなかったこと、前々から地元の札幌に帰ってきたい気持ちがあったこと、そして「うつ」になった話も開き直ってしました。今までプログラマー志望の会社の面接では一度も「うつ」について話しませんでしたが、あいプランに対しては、まあ、悪い言葉で言えば「落ちてもいいや」的な思いもありましたので正直にさらけ出しました。会社辞めた理由の話の流れ上、自然と「うつ」を出さないと話が収集つかなくなってしまったということもあったのですが・・・。研修の話とかになったのですが、最初は営業からということでした。どんな職種を希望していても、最初は営業からとのことです。私は「葬祭スタッフ」を希望していました。正直なところ、営業は性格的に合わないと思います。だからこれまで技術畑でやってきたのです。もちろん理系で技術系が好きだったこともありますけれど。で、「営業、できますか?」と聞かれました。いくら落ちてもいいと思っている会社でも、さすがに正直に「自信無いです。」とは言えません。でも、「できます。」と空返事もしたくはありません。そこで、「営業は全く経験がないので、できるかどうか、やってみないとわからないですね~。」というような感じで答えを始めました。そして、「ここでハッタリで『できます!』とか言うのもイヤなんです。実際にやってみたら全然できないかもしれない。その逆に、やってみたらできるかもしれません。本当に未知の領域です。嘘はつきたくありません。」という感じで正直に気持ちを言いました。面接官曰く、「研修で確実に契約を取れる方法を教える、そのとおりやっておけば出来る。」とのこと。営業経験ない方がいままでの統計上成績はいいということも言われました。「どう思いますか?」と再度聞かれました。「できる、と断言はできませんが、、、できないことはないと思います。」なんとなく面接官にのせられたような感じでもありましたが、こんな答えになりました。それなりに最大限やる気を表現したつもりでした。面接官はニヤリと笑いました。長所、短所についても聞かれました。ありきたりな質問です。「長所は、物事の飲み込みが早いことです。」と答えました。最近はだいたいこういう答えにしています。「短所は、問題にぶつかったときに自分の中に閉じこもって考えすぎて、少し解決が遅れがちになることです。」と答えました。先日のトライアルで指摘されたことです。「さっさと誰かに相談するとかすればいいんですけどね、どうも自分で解決できそうな気がするのと、あまりにもくだらない質問だと相手にも迷惑がかかるかなーとも思いまして、自分で考えちゃうんですよね。」「そうか、なるほど。でも、聞くは一時の恥って言うじゃないか。聞けばいいんですよ。」ってな感じで面接官は返してくれました。君なら、物事の飲み込みが早いってことだし、研修で教えた通りにやれば営業もいい成績あげられると思うよ。独自に変に工夫とかするとダメだね。だいたい成績あげられない傾向にある。とのことでした。最後に、「あなたの人間的な魅力って何だと思いますか?」と聞かれました。これには困りました。「考えたこと無いですね~、、何でしょうね~」とか言いながら脳ミソフル回転で考えてみます。なかなか思いつきません。苦し紛れに、「あまり怒らないことですね。」と答えました。どうでもいい答えですね・・・。でも、この面接、真っ正直に面接官と会話できたって感じの面接でした。これは一昨日のソフト会社R社でもそんな感じでした。最近、そういう面接に自分で持って行くことができるようになったのかもしれません。質問は無いか?と聞かれたので、まず給与のことについて質問しました。月14万+諸手当で、実際にはいくらくらいもらえるのか?営業の成績がそのまま反映されるとの答えでした。件数取ってくれば取ってきただけ、諸手当が増えるシステムのようです。具体的な数字は教えてくれませんでした。他に質問は無いか聞かれました。そうですねえ・・・・と考えていると、「何を質問したらいいかわからないって感じかな?」と言われ、だったら、これをあげます。と、一枚紙をくれました。会社説明会と二次面接の日程の紙でした。「ここに二次面接って書いてありますけれど、一次の合否関係なく二次面接があるんですか?」と聞きました。そしたら、「これを渡した時点で、一次は合格です。」と言われました。ちょっと意表を突かれました。なんとその場で一次は通過したようです。うれしいような、うれしくないような、、複雑な気持ち。次は明後日の金曜日に会社説明会、月曜日に二次面接、という流れです。つづく次回は進路に迷いが生じて来た様子をお届けします。うつ病からの脱出発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.com
2006.10.30
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ふるさとひょうご創生塾第10期生中間発表*****うつ病からの脱出 第91号 プログラマーの道2006年8月18日(金)、トライアルが約1週間半で打ち切りになりました。この日の朝刊に、「あいプラン」という冠婚葬祭の会社のスタッフ大募集というチラシが入っていました。応募の締め切りは、履歴書送付で21日(月)必着となっていました。朝刊を見ている段階ではまだ出社前で、まさか今日トライアルが打ち切られるとは思っていなかったのでこのチラシは不必要だとは思ったのですが、何となく気になってとっておきました。で、出社してみたらトライアルが打ち切られたわけです。もう、プログラマーの夢を追うのは難しいのかなあとさすがに感じ始めました。で、就職の幅を広げた方がいいのかもしれないと思い、「あいプラン」に応募してみることにしました。チラシに書いてあった給料はすごく少なかったですけどね。14万円+諸手当とのこと。安すぎですが、無職よりはマシです。ちなみに8月19日(土)の朝の体重は68.3kg。この日の朝は食欲が普通にありました。トライアルのストレスから開放されたからでしょうか??さて、あいプランに応募したとは言っても、プログラマーを完全にあきらめたわけでもありません。まだ可能性はあると思っています。そこで次なる会社をハローワークのインターネット検索で探しました。めぼしい企業を4社ほど見つけたので、8月21日(月)にハローワークへ行ってみました。この日当たった事務員(中年女性)さんは、こっちが希望した企業にただ事務的に連絡をとる、というタイプではなく、親身になって相談に乗ってくれました。35歳から実務未経験でIT業界に入るのは正直言って難しいんですよねえ、とか、IT業界はいっつも募集しているけど、ホントにいい人が来た時しか採用しないとか、横のつながりで人を引っ張ってくることが多いとか、だからハローワークの求人で書類選考の企業には書類送ってもほとんど採用されない、とか、だからアピールするなら直接アプローチした方が良いとか、数打てば当たるようなものでもないんですよねー、とか、プログラマーとしてだけでなく、営業的な要素の仕事も視野に入れた方がいいかも、とか、IT業界に入りたいなら、別の角度からも崩して行ってみたらどうか?とか、その他諸々。めぼしいと思って持って行った企業4社のうち、3社はまず書類選考と求人票には書いてありました。こりゃ、ダメでしょうね、ということでその3社には連絡をとりませんでした。残った1社だけ書類選考じゃなくて面接のところでしたので、「どうします?受けてみますか?」と聞かれたので「受けてみます。」とお願いし、連絡を取ってもらいました。そこを仮に株式会社Rと呼ぶことにします。その企業に受かるのがもちろん一番いいけれど、もし面接の最中にダメだと思ったら、IT業界は横のつながりが結構あるから、いろいろと情報を聞いてみるのもいいですよ、とアドバイスをくれました。ハローワークで聞くよりも、現場の人事の人に情報を聞いた方がいい情報がたくさん入る、という感じで。で、急遽この日の16:00から面接になりました。実際に受けてみて、手応えは半々ってところでした。でも、ハローワークの人のアドバイスもあったおかげか、いろいろと話はできました。「ぶっちゃけ、35歳で実務未経験だと、採用は難しいでしょうか?」と聞いてみました。面接官は、回答に苦慮しながらも、「確かにそれはあります、」と答えてくれました。それを機にいろいろと話ができました。こっちが思っていることとか考えていることとか結構話せましたし。落ちたとしても自分的には久々にいい面接だったと思います。今、Javaの案件が3つくらいあるけれど、自社内でのしごとではなくて支援ということで客先に行ってする仕事らしいのです。で、どれかに私を組み込むことができるかどうか検討してみて、採否を判断してくれるとのことでした。結果は、一週間~10日後ってことで、8月末までには出す、と言っていました。「もしダメなら早めに連絡ください。」と頼んで来ました。プログラマー以外の道としてもう一つ、パソコン教室の先生とかできないだろうか?とも考えてみました。そこで、ネットでパソコン教室の採用情報が無いか調べてみました。が、なかなかそんな求人ありません。しかし、一つ目を止めるものがありました。求人ではありません。プログラミングスクールのホームページでした。なんと就職率100%、しかも札幌からの求人が300名を超えているとのこと。シンパシーコンピュータ学院とは大違いです。じっくりとホームページを読んでみると、この学校でもう一度学び直して就職するのもありかなあ、、という気持ちが芽生えてきました。でも、そうするとまた金がかかるし、どれくらいの期間学ぶのかもよくわかりません。少なくとも、11月には36歳になってしまいます。そうなったときにも就職先があるのかどうか、ちょっと不安です。株式会社Rに落ちたときに再検討しようと思いました。あと、あいプランの面接が23日(水)14:00~に決まりました。つづく次回は冠婚葬祭会社あいプランの面接についてお話しします。うつ病からの脱出発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.com
2006.10.28
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061009 熊本県人吉 青井阿蘇神社 住民デディレクタ-研修会 ***** =相談コーナー=部活の顧問から「言葉の暴力」【相談】 中学2年生で陸上部に所属していますが、顧問の先生(年配の女性)の言動で悩んでいます。信頼感が持てず部活を続ける自信もありません。勉強と足のけがの事が重なり退部を決意したのですが、顧問から呼び出され「卑怯者」とか「こんな神経の人間見たこと無い」など色々言われました。「勉強よりも部活が優先に決まっている」と言う言葉にも疑問を持ちました。実は今年3月に練習中に左ひざを7針縫うけがをしてしまい、最近も両膝と両アキレス腱を痛め、診断で部活をしばらく休むよう言われたので休部を顧問に申し出ました。それで了解を得られるはずなのに、「無断で3日以上さぼったら除名」「そんないい加減なヤツこの部にいらない」と言われてしまい、退部届を提出したら「社会人にはなれない」とか、あげくには「辞めるなら今度の大会で荷物持ちや補助員をしてから辞めろ」とも言われました。僕が間違っている部分もあるのだとは思うけれど、言っていい事と悪い事がわからない様な人から何を学べるのか分からない。目に見えない言葉の暴力がどれだけ人を傷つけるのか、もっとわかって欲しい。何をどう言えば、この顧問に伝わるのでしょうか。教えて下さい。 ―――福岡県、男性【回答】 若い時分に勉学に励むだけでなくスポーツなどの身体的活動に熱中することはとても意義のあることです。おそらくそんな思いからあなたも陸上に打ち込んだのではありませんか。しかし、部活は顧問と生徒との双方の人間的な信頼関係があって初めて円滑に機能するものです。それがここまで悪化しますと、修復はなかなか難しいことです。そして残念なことですが、学校の教師の中には学業の指導はおざなりにしてまで本来は副次的な業務である部活の指導に熱中する人がいます。生徒たちに絶対的な支配力を持ち、生徒を意のままに扱えることにある種の快感を覚えるのかもしれません。あなたのご相談からうかがえるこの顧問の言動は驚くべきものであり、とてもスポーツ医学等の心得があるようにも見えません。顧問は生徒の心と身体の管理がきちんと出来る人が望ましいのです。ここは医師の診断にあるようにあなたは当分の間運動を控えるべきでしょう。このまま部活を続ければあなたの体に取り返しの付かない損傷が残るかもしれません。学校事故報告書などがちゃんと教育委員会へ届いているのでしょうか。決断するに当たって大事なことは「あなたにとって部活とは何か」ということです。このまま部活をやめても悔いは残りませんか。そのことも含めじっくり親と話し合い、ここは親が出向いて(生徒の決意を軽く見ることもありますので)顧問にきっちりとその結論を伝えるべきでしょう。子どもの教育を学校任せ、教師任せにしてきたつけがこのような顧問を生み出すもとになっているのは否めません。この際、内申を気にして顧問にご機嫌うかがいをするような関わりではなく、子どもの教育には最終的には親・保護者が責任を持つのだという毅然とした態度で臨むべきだと思います。そのためにも、今回の決断に対してのあなた自身の動じない意志が問われていると言えそうです。回答者 ばば・あきら 学習塾勤務を経て月刊教育誌「ニコラ」を発行。フリースクール「ぱいでぃあ」も主宰。不登校、中退、引きこもり、子供の育ちや学び、進路などの相談活動。著書に「行ってみないかこんな『学校』」(ハート出版)など。 ◇ ◇ 学校、家庭での悩みや教育に関する相談を、電子メール( e-soudan@yomiuri.com )で24時間受け付けています。相談は無料。このコーナーに掲載する際は匿名にしますが、相談にはお住まいの都道府県名、氏名、年齢、職業(学年)、昼間連絡できる電話番号を明記してください。詳しくはヨミウリ・オンライン「よみうり教育相談案内」( http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/qanda/consul/explain.htm )をご覧ください。 手紙の場合は、郵便番号100-8055 読売新聞編集局地方部内信課、教育相談担当まで。
2006.10.27
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061009 熊本県人吉青井阿蘇神社 LIVE ***** うつ病からの脱出 第89号 トライアル開始&再会2006年8月8日(火)、DF社にトライアルの説明を聞きに行って来ました。過去にDF社が作成したWebサイトがあって、その構成や機能を自分なりに作成する、というのがトライアルの課題と告げられました。その際、DF社独自に使っているライブラリのようなモノを使用してくれということでした。期間は最長一ヶ月、たいていはそんなに時間をかけないそうです。というのは、途中で打ち切って断ることもあるし、その逆に途中からもうトライアルはやめて本業に就いてもらうことある、というわけです。トライアルで支給されるお金は全て込みで5万円とのことです。さて、果たしてこの課題をこなせるでしょうか?さっそく次の日から行くことになりました。勤務時間は9:00~18:00です。この日は、トライアルの説明のあと、メールソフトの設定だとかチャットをやるためのソフトの設定だとかをやりました。この会社は、元々はSOHOで仕事をしていた会社で、ちゃんとしたオフィスを構えたのは今年の4月からだそうです。だから正社員の人達はほとんどSOHOを続けていてオフィスにはあまり出て来ません。だから、メールやチャットでコミュニケーションをとることが必須のようです。8月9日(水)、トライアル初日です。実際にやってみて、やはりわからないことが出て来ました。いろいろ考えましたが、今日は解決できませんでした。社員の人に聞いていいかどうかも迷うところです。あまりに初歩的な質問だと、評価がマイナスになりそうです。日報は毎日メールで出さなければなりません。一日でやったこと、不明点等できるだけ詳細に書いてくれという指示でした。今日わからなかったことを一応不明点に書いておきました。書いておけば、助け舟が出るのかな?という期待もありました。この日、大学で一期上で元同じ会社(去年(2005年)の8月までいた会社)に勤務していて今は北海道大学に勤務しているE氏から突然久々にメールが届きました。大学時代の研究室の恩師(A先生)が札幌に来ているから飲まないか?とのことでした。(大学は室蘭)E氏に会うのもA先生に会うのも久々だから、行くことにしました。A先生もあと1年半くらいで退官になるらしいです。趣味で鉄道模型製作を始めたらしく、それが出来合いの模型を集めるような生半可なものではなく、模型を自分で加工して製作するようです。他にもたくさん趣味は持っていて、趣味用の別宅まで作ったらしいです。相変わらずエネルギー旺盛な先生でした。E氏も変わっていませんでした。(いい意味で。)北大に勤めているものの、一年ごとの契約だから、安定した職に就きたいようなことを言っていたようないなかったような・・・。我々がまだ学生だった頃に社会人として研究室に勉強に来ていたS氏のこともチラっと話題にのぼりました。S氏は博士号を取得して今は東京にある会社に戻っているのですが、精神的に不安定な状態になっているということをA先生は心配していました。「君たちと同じような状態になってるみたいだから心配してるんだよね。」というような感じです。「君たち」ってのは私とE氏なのですが、どちらも「うつ病」経験者。まだ完治していません。私もS氏と数ヶ月前直接メールのやりとりをしましたが、心療内科に通っていて精神安定剤系の薬を飲んでいるという話をしていました。「うつ」って何か一つの大きなきっかけがあって発症するって良く言われます。例えば家族、親戚、友人の死とか、リストラとか、逆に昇進とか。でも、それ以外のパターンもあると思います。例えば、先の見えない仕事や出口の見えない仕事をやっていて、さらに逃げ場がなかったりする場合も精神的に病んでくるような気がします。経験上。私はそうでした。仕事がつまらなくてイヤでイヤで仕方がありませんでした。S氏の場合も、仕事があまり先の見通しが付きづらいもののように感じます。そしてリーダー的な役割にも就いていますから、重圧は結構あるはずです。そういう状況下では、やはり精神的に不安定になるのも仕方がないのかもしれません。A先生も20代か30代で脱毛症になったときはツラカッタと言っていました。やっぱり精神安定剤みたいなたぐいの薬を飲んでいたとのことですが、そのせいで頭の回転が鈍ったりして、論文書きとかも思うように進まなかったり等いろいろと苦労したようです。ドクターコースを7年間もやったと言っていました。初めて聞きました。A先生も苦労していたということを初めて知り、やはり人それぞれ人生のうちで苦労する時期があるものなのだなあ、と思いました。「人生うまく行かないときもある、それはしょうがないんだ。」とA先生はおっしゃってました。私も同感です。でもいつか好転する時が来る、それを信じて進むしかないと思います。私が今日からトライアルを始めたという話題にもなりました。トライアルでうまく評価されれば、正社員になれること、さらにうまく行けば将来的にはSOHOで働ける可能性もあるということで、「うまくいけばいいね~」と励まされました。久々に先輩と恩師と話ができて、とても有意義な時間を過ごすことができました。ちなみに残念ながら相変わらず飲めませんでした。行った店はベルギービールの店。昔のように飲めたなら、その店はきっと楽しくてしょうがなかったと思います。いつの日か飲めるように回復するのでしょうか?回復することを願ってやみません。つづく次回はトライアルについて総括します。(今回始めたばかりなのにもう総括かい・・・)うつ病からの脱出発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.com
2006.10.26
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ひょつこむの コミュニティ-「必見 ありがとう こうへいくん (試案 調整中)」のコミュニティ-マップを作成してみました。http://hyocom.jp/comm_map.php?bbs_id=72 1コミュニティ-「必見 ありがとう こうへいくん (試案調整中)」をご覧いただきます。 2「コミュニティ-マップ」を開いてもらいます。 3地図が出ますので、右側の必要な県民局の前にある+の印をクリックしてください。 4ハザ-ドマップが表示されます。 510県民局の前にある+をクリックしますと、地図の右端に各県民局単位(色違い)で、更新情報等が表示されます。 事案をクリックすると、地図上にポイントが表示されます。 6地図上のポイントをクリックすると内容が表示されます。 7地図の拡大・縮小、移動は地図左上のところで調節してください。 8全県の更新情報等は各県民局の前の+をクリックすることで、表示できます。 出来ることなら、地域安全安心ステーション事業を推進・展開出来ればと考えます。http://www.npa.go.jp/safetylife/seianki55/station_jigyo/index.html例えば 飾磨橋西防犯グループ結成年平成16年主たる構成員の種別地域住民:防犯指導員地域住民:子どもの保護者地域住民:町内会・自治会員活動地域兵庫県姫路市活動内容防犯広報防犯パトロール:徒歩防犯パトロール:自動車危険箇所点検子どもの保護・誘導地域安全マップ作成防犯パトロールの実施状況実施時間帯7:00 ~ 23:00月平均実施日数月平均 30日青色回転灯装備認定状況認定を受けていないのように、組織的に、継続的に、ネットワ-クが作れればいいな・・・とこの「必見 ありがとう こうへいくん (試案 調整中)」のコミュニティ-マップを利用して、各地域(各小学校区単位)で参加できることから、参加できる条件を、整えたいものです。兵庫県警察の「ひょうご防犯ネット」が基になっています。お入りいただき、地域の安全・安心のネットワ-クに参加いただけませんか?兵庫県警察の「ひょうご防犯ネット」の特徴 ■全ての携帯電話に対応しています!■お子様をお持ちの方や、女性の方などに、不審者による子どもへの声かけ情報、ひったくり情報、防犯に関する情報などをメールでお届けします。■さらに詳しい情報を知りたい方は、ホームページでご覧いただけますhttp://www.police.pref.hyogo.jp/bounet/index.htm
2006.10.25
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うつ病からの脱出 第90号 トライアル2006年8月9日(水)から、DF社でトライアルが始まりました。試験的に課題をやらせてみて、スキルや人間性を評価して採否を決定する過程です。毎日メールで日報を詳しく書いて提出する必要があり、不明点なども書いておいてほしいということなので書いておきました。8月10日(木)、昨日書いた不明点について助け舟が出ているかな?と少し期待してメールソフトを立ち上げたのですが、何も返答はありませんでした。質問形式で書かなかったからかもしれませんが・・・。この日もまたわからないところが何カ所か出てきました。それさえわかればスムーズにコトが運ぶのに、、って感じです。一応、自力で解決した方がいいような気がして、一生懸命考えました。でも、その会社独自で作って使用しているライブラリのようなものに絡む部分なのです。問題解決にはそのプログラムを解読しなくてはなりません。問題解決ごときに長い時間掛けるわけにもいかないので、時間との戦いでもあります。一応、考えれば、自力で解決できる問題もありました。そんなこともあるので、結局この週はわからない部分を質問せずに終えました。日報には不明点として記述はしておきました。しかし、一つ問題を解決したと思ったら、また新しく一つ問題が発生する、というような感じで、やはりなかなか仕事がなかなかうまく進まない状況でした。こんな調子で採用されるのだろうか??と自分でも不安を感じました。週が明けて8月14日(月)、仕事の方は、4つ抱えていた問題のうち、一つは解決しました。2つは半分解決。以上自力にてです。残り一つは全く未解決。明日あたり社員の人に聞いてみようかなと思いました。いよいよ。今日、なんだか私に関してミーティングをやるという話をされたのですが、時間がなくなったので木曜日ということになりました。「トライアルもうやらなくていいですよ、力不足と判定しました。さようなら。」って話だったら大ショックだなと思いました・・・。でもあり得ます。もしホントにそうなったらどうしよう。プログラマーを目指すなんていう道に自身が無くなってきます。どうやって生きて行こう・・・、という感じです。8月15日(火)、不明点をいよいよ質問しようと思っていたのですが、トライアルを取り仕切っている社員の人が15日16日と夏休みということで、今日明日と聞くことができないことがわかりました。こればっかりは仕方がないです。とりあえずできるところを進めて行くようにしました。余裕があれば不明点について自分でさらに考えてみるということもしました。自分で考えているうちに、だんだんとその会社独自のライブラリの使い方もわかるようになってきて、自分なりに進み方も早くなってきたかな?と思えるようになりました。8月17日(木)、今日ミーティングをやりましょうと言われていたのですが、また時間がなくなったというので明日の午前中ということになりました。最悪、私の運命も明日までなのかもしれません。8月18日(金)、ミーティングに先立ち、現状の進捗度、抱えている問題点をまとめてメールで報告してくれと指示されました。それを元にミーティングをするとのことです。さて、いよいよミーティングです。トライアルを取り仕切っている社員の人と1対1でのミーティングです。進捗度を聞かれました。25%です。7日で25%。トライアルの期間は最長1ヶ月(20日)。あまり反応はよくありません。「正直なところ、期待していたほどの成果が上がっていないと思います。」と言われました。「不明点に関しても、日報には書いてあるけれど、質問という形ではなかったから答えは出しませんでした。」と言われました。「質問はウェルカムなんですけどねえ。」とも言われました。「どうも、問題にぶち当たったとき、自分の中に抱え込んでしまう傾向があるように感じる、そういう進め方ではちょっと仕事が遅くなってしまう。仮にこのままトライアルを続けて一ヶ月後、仕事を任せられるようになるかって考えた場合ちょっと任せられるような気がしません。ここは一旦トライアルをやめて、もう少し勉強してから再挑戦とかした方がいいと思うんだけど、どうかな?」というような感じでした。事実上、トライアル打ち切り宣言です。他にもいろいろ言われましたが、要約すると会社が求めているスキルには足りない、ということでした。「経験不足だと思いますよ、ちょっとトライアルに挑戦するの早かったんじゃないかな。」ということです。ま、確かにPHPの勉強を始めたのは5月の下旬からで、6月7月は派遣の仕事していたからほとんど勉強していなくて・・・ですからねえ。本を見ながらならできる!と思って見切り発車的に応募しましたからねえ。経験不足は全くそのとおりとしか言いようがありません。「今回で終わりというわけではなく、また挑戦してもらっていっこうにかまいません。」とも言われました。悪いところもいろいろと指摘してもらえたので、今後の改善点がわかったので結果的には良かったと思います。しかし、まさかこんなに早く打ち切られるとは思いませんでした。でも、ためにはなりました。いい経験が積めました。自分の現在の力量も実感できました。つづく次回はプログラマー以外の道も模索し始める話をお届けします。うつ病からの脱出発行人:あっし~ご意見、ご感想はこちらまで: VYA10642@nifty.com発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
2006.10.24
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兵庫県警察の「ひょうご防犯ネット」の特徴を基に安心・安全な地域創りを・・・・・兵庫県警察本部と兵庫県の行政区画の違いについて兵庫県の各県民局単位を基本とします。 神戸県民局:神戸市http://web.pref.hyogo.jp/area/kobe/index.html阪神南県民局:尼崎市・西宮市・芦屋市http://web.pref.hyogo.jp/area/n_hanshin/index.html阪神北県民局:伊丹市、宝塚市、川西市、三田市、猪名川町http://web.pref.hyogo.jp/area/n_hanshin/index.html東播磨県民局:明石市、加古川市、高砂市、稲美町、播磨町http://web.pref.hyogo.jp/area/e_harima/index.html北播磨県民局:西脇市、三木市、小野市、加西市、加東市、多可町http://web.pref.hyogo.jp/area/n_harima/index.html中播磨県民局:姫路市、神河町、市川町、福崎町http://web.pref.hyogo.jp/area/c_harima/index.html西播磨県民局:相生市、たつの市、赤穂市、宍粟市、太子町、 上郡町、佐用町http://web.pref.hyogo.jp/area/w_harima/index.html但馬県民局:豊岡市、養父市、朝来市、香美町、新温泉http://web.pref.hyogo.jp/area/tajima/index.html丹波県民局:篠山市・丹波市http://web.pref.hyogo.jp/area/tanba/index.html淡路県民局:洲本市、南あわじ市、淡路市http://web.pref.hyogo.jp/area/awaji/index.html以上を基本に、兵庫県警察本部、緊急情報・更新情報・検挙情報・住民情報を基に、「ひょつこむ」のコミュニティ「こうへいくん ありがとう」に発信し、各地域の子ども、住民よる安心・安全地図を作成し、各地域の住民のみなさんの意見を大事にし、各小学校区の関係部署(自治会、婦人会、老人会、PTA、子ども会、防犯等)と協力しながら、安全・安心について考えていきませんか。兵庫県警察本部http://www.police.pref.hyogo.jp/兵庫県警察の「ひょうご防犯ネット」の特徴全ての携帯電話に対応しています!■お子様をお持ちの方や、女性の方などに、不審者による子どもへの声かけ情報、ひったくり情報、防犯に関する情報などをメールでお届けします。■さらに詳しい情報を知りたい方は、ホームページでご覧いただけます。 http://www.police.pref.hyogo.jp/bounet/index.htmから、各県民局単位で記入(転載し、地図に発生場所等を記載する)していただける方を西播磨、中播磨、東播磨以外で募集します。ご協力をお願いします。ちなみに、県警本部のHPにはご存じですか「地域ふれあいの会」~みんなの力で安全な暮らしを~http://www.police.pref.hyogo.jp/seikatu/fureai/index.htm参加しましょう ご近所の防犯運動http://www.police.pref.hyogo.jp/seikatu/gokinjyo/index.htm 詳細はこちらから http://www.npa.go.jp/safetylife/seianki55/index.htmlなどがあります。各地域で参加できることから、参加できる条件を、整えたいものです。出来ることなら地域安全安心ステーション事業を推進・展開したいです。http://www.npa.go.jp/safetylife/seianki55/station_jigyo/index.html
2006.10.23
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061009 熊本県人吉 青井阿蘇神社 1008 太鼓橋より正面 神木 舞台 下見 打ち合わせ 1009 神事 放送開始 ****連載コラム[4] □・ 『 ひきこもりを7年かけて卒業した男の話 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424 最後にいちばん苦しい時期が来る、そして絶望によって終わる、というのが、私の不登校とひきこもりの共通点でした。 しかし、ひきこもりの苦しみは、不登校の苦しみの何十倍です。不登校児よりもひきこもり者のほうが「こもり方」が激しいことが多いのは、ひきこもりのほうが重い病理だからではなく、ひきこもりのほうが苦しみが大きいからです。 *6.求めていたもの 私にとって、ひきこもりというのはどういう体験だったのか。 現在の私の状況から逆算して思い返すと、答えが出て来ます。 私は今、自ら考案した『教育対策』という理念に基づいて仕事と市民活動をやっています。そしてそれこそ、私が一生をかけて進むべき道だという、信念を持っています。 そのような"生きる意味""自分の人生を捧げる目標"を見つけることができたのは、その前のひきこもり時代があったおかげです。 私のひきこもりは「変わるはずのない親が変わったことが信じられない」という、一般の人々にはおそらく不可解なこだわりによって始まりました。しかし、その"こだわり"こそが"生きる意味""自分の人生を捧げる目標"の発見へと、自分を導いたのです。 私が、不登校時代同様の"話し合い依存状態"に陥り、繰り返されるようになった話し合いのなかで、母の口から"誓約書の真相"を知ることになります。 そのことで、中学時代から教師を目指していたほどの"教育信奉者"だった私の教育観はガラリと変わり、教育や援助(カウンセリング等)の「功罪」に着目することができるようになりましたが、それを活かした仕事や活動を始められる状態になるには、さらに苦しみながら就職活動をする年月が必要でした。 そしてその年月で、福祉や民間教育の分野の見聞を広め、勉強と思索をさらに重ねることができたおかげで『教育対策』という理念の考案に至ったわけです。 このように考えますと、私がもしひきこもりになっていなければ、母との話しあいもなかったわけですから"誓約書の真相"を一生知ることはなく、カウンセリングの問題点にも気づきませんでした。 そうなれば「教育や援助の功罪」という視点を持つことも、一生なかったことでしょう。 また、その視点も、ひきこもりが短期に終わり、福祉や民間教育の分野の就職活動をしなかったら『教育対策』という自分なりの理念(オリジナリティー)に結実することはなく、したがって今のような仕事や市民活動の道が開けることはなかったに違いありません。 そのうえ、最近になって「不登校やひきこもりの経験者でもあり援助者でもある」という立場を活かして、講演や体験発表をする機会が増えてきたことで、自分の立場でできることがたくさんあると感じるようになってきました。 こう考えると、私はひきこもりになったからこそ、そして、ひきこもりが7年も続いたからこそ、自分の理念と言える信念をつかむことができ、今それをベースにした仕事や市民活動ができている、と言えます。 しかもそれによって、神奈川県内外はもちろん海外でも、志を共有できる人々と出会い交流することができています。こんなにダイナミックで面白い展開を、ひきこもり時代に誰が予想できたでしょうか。 確かに、大人になってからの7年という歳月は長く、失ったものも大きいと思います。ただ、今述べたように考えると、自分にとってひきこもりの7年間が人生の損失だとは、とても思えません。 要するに、私は何かを求めていたのです。ひきこもっている最中にはそれが何かわかりませんでしたが、ひきこもりを卒業してから、ようやくそれが「自分にとって、最も腑(ふ)に落ちる人生観・教育観・援助観・社会観」だとわかったのです。しかもその実感は、年月を重ねるにつれて、ますます強くなっています。 「自分にとって最も腑に落ちる人生観・教育観・援助観・社会観」をつかむことができた今の私には「これで生きていける」という揺るぎない感覚があります。それこそ、私の「生きる力」の源泉です。 不登校やひきこもりになった青少年は、みな何かを求めているのだと思います。そして、それをつかむまでには数年の歳月を必要とします。 またその間、本人は自分が何かを求めていることに気づかず、世間的な価値観(仕事をしない者はダメ人間)に苦しみ続けるわけです。 そして、求めているものをつかんだとき、彼らはそれを「生きる力」にして、自分の足で歩き出すことでしょう。 本誌の創刊から半年にわたり、これまでの私についてかけ足でお話ししてきました。簡単に書き過ぎた点やわかりにくい点が多々あったと思います。それらについては、今後のコラムのなかで随時ふれることにして、これまでの私をお話しする連載というスタイルの書き方は、今回までとします。 次回からは、不登校やひきこもりを中心に、自分の体験を踏まえながら、いろいろな論点を取り上げて、1回1回お話ししていきます。引き続きご愛読くださいますよう、また、ご意見・ご感想・ご質問をお寄せくださいますよう、心からお願いして"体験記4部作"を終了します。 私の体験が、何かのお役に立てることを願いつつ...。 (終)
2006.10.22
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10/9熊本県人吉青井阿蘇神社 *****連載コラム[4] □ 『 ひきこもりを7年かけて卒業した男の話 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424------------------------------------------------------------------- 不登校と大人のひきこもりとの違いは、周囲の状況です。不登校児には、在籍している学校からさまざまな刺激が来ますが、どこにも在籍していないひきこもり者には、どこからも刺激がないのです。 刺激が来ないほうが一見楽に思えますが、それを「社会から取り残された」と本人が感じているときは、むしろ非常に苦しいものです。 *5.心の支え 私がスクールソーシャルワーク(SSW)研究会に通っていない間、そこで大きな動きが起きていました。日本スクールソーシャルワーク協会(SSWAJ)の設立準備です。 1999年3月、2ヶ月前に設立された協会が、設立記念パーティを開催したとき、私は、SSW研究会で一緒に研さんしていた懐かしい旧知の仲間と、会場で再会しました。 長くつらい旅を終えて里帰りしたような気持ちでした。 翌4月、私は、教育対策研究所を自宅の自分の部屋の一角に開設しました。 これをもって、私のひきこもりは完全に終わりました。すぐに収入は得られないけれど、フリーランス(自由業)だけれど、とにかく私は個人の援助職(フリーワーカー)を名乗って、教育相談と市民活動を行う社会人として生き始めたのです。 教育対策研究所を拠点にして私は、まずはカウンセリングなどの講座や各種学習会などで研修しながら、仕事としては、スクールソーシャルワークに基づく教育相談を、市民活動としては、機関誌の発行や雑誌の自費出版などの研究・言論活動などを実施することにしました。 その後、研修のなかで得たヒントを活用して、青少年支援関係者の地域ネットワークをつくる呼びかけを始めたり、自ら学習会や講演会を開催するなどしました。そんななかの2001年度から、職名を現在の「スクールソーシャルワーカー」としています。 こうして、神奈川県内外を飛び回り、多くの出会いと学びを経験していた私は、本業の教育相談が有料であるというだけでボランティアセンターを利用できないなど、市民活動に支障があることから、仕事と市民活動の拠点を分けることにしました。 こうして2001年10月、研究所は市民活動拠点となり、このスタジオを教育相談所として新たに設立したわけです。 さて、私は、ひきこもってる間、援助と呼べる対応をまったくされませんでした。 不登校時代は、担任の先生やクラスメート、そして父の友人、最後にはカウンセラーといった周囲の人々に、私にとっての善し悪しは別として、さまざまな援助を受けたことは、以前の連載にもあるとおりです。 ところが、不登校時代にカウンセラーにかかったり、大学時代に人に相談した(援助を求めた)結果が、いずれも悪かったために「人に相談してもロクなことはない」と確信していた私は、ひきこもっている間は誰にも相談しませんでした。 自宅でも、両親は私のひきこもりに対して援助をまったくせず、誰にも相談しない"ほったらかし状態"でした。 というわけで私は、不登校のときは、前述のように多くの人に援助されたうえ、母が私に愛想を尽かしたことが直接のきっかけとなって、終止符を打ったわけですが、ひきこもりのときは、誰にも援助されないまま、自分ひとりで終止符を打ったわけです。 かつて「ひきこもりから自力で脱出した人はほとんどいない」と断言した精神科医がいました。しかし、これは現実をご存じない意見です。 少なくとも、私は自分ひとりで脱出(この言葉は私にはピンと来ませんので、以下「卒業」と表現します)したケースだと断言できます。 もちろん、親への怒りや恨みの気持ちを受け止めてくれるなどの"良い援助"をもし受けられていたら、私はひきこもりを卒業するまでに7年もかからなかったでしょう。その意味で、良い援助には、ひきこもりの長期化を防ぐ効果がある、とは言えるかもしれません。 他方、私はまったく何の支えもなくひきこもりを卒業できたのかというと、やはり違います。援助はなかったが、心の支えはありました。 誰からの援助も受けられずにひきこもっていた私にとって唯一の心の支えは、スクールソーシャルワークという、青少年を中心に据えた援助法を知っていたことと、その援助法を学ぶなかで培った人間関係(志を共有できる人とのつながり)でした。 もし、スクールソーシャルワークとの出会いがなかったら、私は今こうして生きているかどうかわかりません。 それだけに、SSWAJの設立記念パーティーは、私にとっての"ひきこもり卒業パーティー"と言えるものでしたし、かつての仲間も、私がパーティーに顔を見せたことを喜んでくれ、約2年ぶりにSSW研究会に参加したときも、ごく自然に受け入れてくれたのです。 仲間たちは、研究会に顔を見せなくなった私を気にはしていたと思いますが、だからといって私に連絡をとってきたり、私を援助しようとしたりしたことはありませんでした。でも、私が彼らの中に約2年ぶりに入っていったとき、彼らは何事もなかったかのように、以前とまったく変わらない態度で私と接してくれたのです。 今私は、そんな素晴らしい仲間たちと共に、SSWの制度化をめざしで活動しています。 (続)
2006.10.21
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http://www.motohikikomori.net/oya.index.htmlあなたは、「あいつはすごい」こんな言葉を言われたくはないですか?自分の居場所がほしいとは思いませんか?自分を愛してくれる、恋人がほしいとは思いませんか?自由に使えるお金がほしいとは思いませんか?なにより、充実した日々を送りたいとは思いませんか?今のあなたでは、上の項目は、一つも手に入れることが出来ないと思います。いきなりこんなことを言って、「何だこいつは?」そう思ったかもしれませんが、これは事実です。なぜこんなことをいえるのかというと、僕自身がひきこもりだったからです。そして、ひきこもりのとき、上に挙げた項目は、一つも手に出来ていませんでした。それでも、「お金がほしい、彼女がほしい、居場所がほしい」こんなことはよく思っていました。あなたも、ひきこもっていたって、僕が思っていたのと同じように、「お金がほしい、恋人がほしい、居場所がほしい」こんな風に思っているのではないですか?それでは、手に入れましょう。ですが、ひきこもりのままでは、不可能です。ですから、まず、あなたがやるべきことは、ひきこもりを抜け出すことです。ほしいものを手に入れるために、ひきこもりを抜け出すんです。引きこもりというものは、社会の中では○○です。それは確かなことです。ですが、引きこもりという時間を経験していなければ、できないこともあるでしょう。なので決して恥ずかしがらないでください、認めてあげてください。個性というものをですが、同時にこのままじゃだめだということも、言ってあげてください。引きこもりは、結局自分の意思でしか、抜け出すことの出来ないものですただ、その手伝いは出来ます。というか、誰かがやらないと、一生自分でこの生活を辞めようと思っても辞められないものです。それは、本人が話せるものではなくて、家族が気づいてあげなければなりません。そういう意味では、僕は親に恵まれたのかもしれません。やはり人は一人では生きていけないものです。助けてあげてください。そして何より大切なものは根気です一番身近な人に諦められたら、だれも信じてはくれないと思ってしまいます。ひきこもりは、ひきこもるから、よりひきこもるんです。わかりにくいですが、ひきこもりの問題は、ひきこもりの環境にあるわけです。使い方を間違ってしまうと、抜け出すのが難しくなってしまうんですね。そして、このひきこもりの環境を少し変化させるのが、親の役目です。それが、「ひきこもりをサポートして社会に送り出す方法」の基本的な考え方です。不登校ひきこもり(ニ-ト)は・・・・・いろいろ世間は言っているが、当事者は言われているからそうかな?と考える。しかし、コノシンドサドウニカシテクレという共通点はあるだろう。親の役割は何なのかゆっくりと考える時かも、親御さんを攻めているのではない、見かたを換えればシンドサか少なくなるかも・・・・(G-g)
2006.10.20
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10/9 人吉青井阿蘇神社 連載コラム[4] □・---------------------------------------- 『 ひきこもりを7年かけて卒業した男の話 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424------------------------------------------------------------------- ひきこもり状態に終止符を打ち、いざ働こうとするとき、制度的な多くの困難が待ち構えています。ひきこもり者はそのことがわかっているから、就職をめざすことがなかなかできず、それがひきこもりの長期化につながっているケースも少なくないと思われます。 *4.絶望の果て 前回お話しした構想を進めていた頃、高校時代の同級生が、児童養護施設の保育士に転職したことを知り、私は興味を抱いて、初めて福祉業界のことを調べて驚きました。教員免許を持ち、大学で教育学を専攻した自分が、児童福祉施設職員の有資格者だったことがわかったからです。 「この分野こそ自分の求めていた職業だ」と感じた私は、児童福祉施設に加えて、当時増加の一途をたどっていたサポート校(通信制高校の全日制補習塾)など、子ども関係の職場に就職したいという思いがフツフツとわき上がり、就職活動を始めました。 施設の見学や受験、サポート校教員などへの受験を通じ、福祉の現場や民間教育機関などへの見聞が、急速に広まりました。 しかし、ここでさまざまな障害にぶつかりました。 まず、年齢の壁。当時30才を越えていた私は、希望の受験先の年齢制限に引っかかることがよくありました。 次に、履歴書の空白。このことには、同じ状態の誰もがぶつかっていると思います。 さらに、仕事をしている他人との比較。就職活動を始めたとたんに、前述の同級生のような、燃えながら、悩みながら仕事をしている人々への負い目や嫉妬心に苦しむようになってしまったのです。 このような障害は、ここまで来た以上、どうあがいても取り返しがつかないことです。私は、わかっていたものの、やはり社会の現実の厳しさと、仕事をしていない自分の無価値ぶりを痛感し、強烈な不安と焦りと劣等感と後悔の念に、押しつぶされそうになっていきました。 毎月通っていたスクールソーシャルワーク研究会にも、最近知って毎週通っていた自助グループ「EA(感情面で新しい生き方をしようとする人の集まり)」にも、つらさの余り行かれなくなりました。 それほどの精神的苦痛のために"死への誘惑"にかられるようにもなってきました。自殺を試みることはありませんでしたが、死ぬことがとても身近に感じられるのです。 このような苦しみのなか、結局就職活動は足かけ3年にも及び、受験したすべての希望先に不合格という結果に終わりました。 ひきこもりに終止符を打つべく就職を模索したのに、すでに手遅れだったという思いが、自分が存在価値のない人間だという絶望感に、私を突き落としました。 それはまさに「万策尽き果てた」という感覚でした。 「自分の力でできることはもう何もない。」 「今まで親に対して怒ってたことに何の意味があるのか。」 「自分はほかの誰よりも劣っている。」 「誰にも認められずに生きて、死んでも誰にも悲しまれない時期が、そのうち来るんだろうな。」 今となってははっきり思い出せませんが、こんな思いが、頭のなかをぐるぐる巡っていたように記憶しています。 自分の人生に絶望していました。 そんなある日(高校時代のように、何月何日、と覚えてはいないのですが)、私の頭に、こんな考えが浮かぶようになりました。 「自分はもうどうなっても構わない。ホームレスになろうと、人知れず死のうと、みんなが自分のことを忘れようと、何とも思わない。野性動物は、誰に知られて死ぬわけでもなければ、死んでからも誰かに覚えられてはいない。自分も野性動物のように、自然のままに生き、自然のままに死ねればそれでいい。」 何日間かそんなことを考えているうち、絶望の苦しみがだんだん軽くなっていくのが感じれるようになりました。 それにつれ、3年くらい前に抱いた教育への問題意識が、具体的な教育観・援助観・人間観・社会観として整理されていきました。不思議なことに、ごく自然に、自分の考えがすらすらまとまっていったのです。 これには、当時からさらに年月を経て、福祉や自助グループなどへの見聞を身につけて、世の中をより幅広く知るようになっていたことが、大いに役にたったようです。 そしてその考えが、自分の生きる道へと具体化してきました。 自分の考えを『教育対策』と命名した私は、それを理念とする個人事務所「教育対策研究所」を自宅内に開設し、そこを拠点としてやれることをやっていこう、と決意しました。 「仕事であれ市民活動であれ、行動を通じて、自分が考案した理念を世に問い、普及・実践したい。」 1998年11月、私は、前にも名を挙げた佐々木賢氏(所属団体の中心メンバー)や知り合いなど数人に、研究所の企画書を届けたのを皮切りに開設準備にとりかかりました。 私のひきこもりは、こうして、かつての不登校のときと同じように、徹底的に絶望したことで、その幕を閉じたのです。 翌年4月の研究所開設までとすると、私がひきこもりだった期間は、ちょうど7年間でした。 (続)
2006.10.19
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10/9人吉青井阿蘇神社 ****□ 連載コラム[4] □・---------------------------------------- 『 ひきこもりを7年かけて卒業した男の話 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424------------------------------------------------------------------- 私はなぜあんなに怒っていたのでしょうか。それは、両親だけではなく、誓約書問題の原因をつくったカウンセラー、大学時代に私を非難した相談相手、そして、彼ら大人たちが問題にされずにいられる社会への怒りと、ひきこもり状態にある自分自身への、強烈な自己嫌悪と自己否定が高じての、ぶつけどころのないやり切れなさだったのです。 *3.生き方探し 閉じこもるようになってから2年がたった頃、私はようやく外の世界に出ていくエネルギーがわいてきて、かつて受講していたスクールソーシャルワーク講座の修了生が月1回やっている研究会に通ったり、シンポジウムを聴きに行ったり、地元にある不登校児のたまり場にボランティアに行ったりするようになりました。 この頃私は、半年前の母の"証言"がきっかけとなり、当時のカウンセラーの手法はもちろん、高校最後の三年間のなかでの一部先生方の指導(たとえば、生徒会本部とある運動部との間に起きた予算をめぐるトラブルを、生徒会役員と運動部のキャプテンとの話し合いで解決させるのではなく、生徒会と運動部の顧問の先生どうしが話し合って解決してしまった)など、私が体験した「教育」や「援助」のなかには、子どもの考え方や感じ方を無視したものが、実に多いことに思い至りました。 そのような問題意識から選んだ本(崎尾英子氏・佐々木賢氏・平井雷太氏らの本)は「教育」や「援助」が、子どもの考え方や感じ方を無視するのはなぜなのかを教えてくれました。しかも、それらの本が指摘していたことが、自分の体験にもよく当てはまったのです。 私は、自分がこれまでに経験してきた(親やカウンセラーや周囲の人との間に起きた)問題が、決して特殊な問題なのではなく、むしろ現代の社会状況や大人の意識と密接に関係している、普遍的な問題であると気づくと同時に、問題それ自体も、きれいに整理できたのでした。 たとえば、大学時代に両親がした策略を「トラブル予防」という"教育的配慮"に基づいた"教育的対応"と考えることで、なぜ両親が策略をやったのかが理解できましたし、自分自身が大学時代に味わった"脱げ殻"になるほどの苦しみも「自分はこうあるべき」という「自己教育的な思考」にとらわれすぎていたからだったのです。 つまり「両親は"子どものために善かれと思って策略に走る教育熱心な親"であり、私は"教育に忠実に(=教育を自分のなかに一所懸命取り込んで)生きてきた良い子"だった。このような親子の組み合わせこそ、自分が経験してきた問題の真因だ」と、私は理解したわけです。 それまで私が教師をめざしていたのは「教育は子どもの考え方や感じ方に沿って行う行為だ」という"教育の素晴らしさ"を信じていたからでした。ところが、今述べたように考えていくうち、私は、教育はそういうものではないと確信するに至ったのです。 第一に「親や教師が、子どもの考え方や感じ方にはおかまいなしに、自分たちの論理で教育を行っている。カウンセリングなどの援助も同様だ」ということ。 第ニに「子どもの考えや感じ方ではなく、大人や社会の論理から出発するものが教育だとすれば、教育は子どものニーズに応えないものなのだから、もともと功罪両面ある行為だ」ということ。 第三に「子どもは、大人と同様自分なりに考えたり感じたりしながら生きている。しかし教育は、子どもはそこまで真剣に生きていない存在という前提で行うものだから、親や教師はどんどん教育し、子どもの試行錯誤の機会を奪っている。これが教育の"罪"の面だ」ということ。 したがって「このように教育が盛んな現代では、教育に圧迫されたり傷ついたりしている青少年が多いだろう」ということ。 このような経緯によって私は、洗脳が解けたように、教育への見方ががらりと変わりました。 私の関心は「どんな教育をやるべきか(教育の方法論)」から「どんな教育をやめるべきか(教育のやりすぎ)」へと移ったのでした。 その結果私は、教育をどんどん行う「教育の推進者」ではなく、教育をほどほどに抑える「教育のブレーキ役」になろうと決心したのです。 具体的には、仕事としては、教師ではなく、子ども主体の教育を行う塾とか、不登校向けの相談機関などを始めることを考えました。 子ども主体の塾の例としては「らくだ塾」があります。公文塾と同じプリント学習ですが、解答時間の計測から採点にいたるまで、すべて子ども自身にやらせるという、教育の常識を超えた塾です。 不登校向けの相談機関とは、不登校相談やフリースペースの運営などを通じて、子どもが学校から離れて自分を取り戻すことができるよう援助する場です。 また市民活動として「教育との付き合い方を考える青少年団体」を結成することを考えました。 この団体は、かつて不登校児を、カウンセラーや精神科医といった専門家に任せないで、親自身で対応しようと「親の会」が各地に広がったのと同様に、自分をどのように教育するかを、親、教師、カウンセラーといった教育する側に任せきりにしないで、青少年自身で教育に対応する("教育のされすぎ"から身を守る)ための自助グループです。 しかし、これらの構想は、どちらも実現しませんでした。仕事は自信が持てずに、団体結成は参加者が集まらずに、それぞれ失敗しました。 そして、私にとっての最後のひと山を越える旅が始まったのです。 (続)
2006.10.18
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10月度行事 http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&bbs_view=2***************住民ディレクターツァ-参加について10/7 宮崎県JRえびの駅熊本県JR人吉駅熊本県人吉市 青井阿蘇神社 1200年祭http://www.aoisan.jp/住民ディレクターとは、まず地域創りのデイレクターであり、同時に地域情報の発信者である人。テレビ番組を制作するプロセスが地域創りに求められる幅広い企画力、取材力、構成... 7月中旬の予定が遅れてしまいましたが、8月1日、プリズムTVが開局しました。 ...http://www.prism-web.jp/index2.htmlなぜ 住民デイレクタ-養成が、「地域の活性化」に繋がるか?http://www.prism-web.jp/60201_1.pdf住民ティレクタ-応用例http://www.prism-web.jp/60201_2.pdfhttp://www.prism-web.jp/60201_3.pdfhttp://www.prism-web.jp/tsukaeru_F/tsukaeru1.html住民ディレクターについて まず地域創りのデイレクターであり、同時に地域情報の発信者である人。テレビ番組を制作するプロセスが地域創りに求められる幅広い企画力、取材力、構成力、広報力、構想力などを育てることを体験的に知った岸本が考案しました。平成8年から人吉球磨広域行政組合の人材養成事業として「住民ディレクター養成講座」をスタート。平成11年にはくまもと未来国体で70人を養成、一年間ラジオ、テレビの制作を行いました。熊本県山江村では20人の住民ディレクターが「マロンてれび」なるグループを作り、村のインターネットTVをはじめ、民放、熊本市のCATV衛星全国放送などあらゆるメディアを使い地域振興策に取り組んでいる。http://www.prism-web.jp/work_F/work8.html
2006.10.17
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10/7 宮崎県えびの市白鳥温泉 10月度行事 http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&bbs_view=2 連載コラム[4] □・ 『 ひきこもりを7年かけて卒業した男の話 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424 不登校やひきこもりで「何も話してくれない」という親御さんの嘆きを聞くと「自分とは違うタイプだな」と感じます。 私と両親との関係は、子どもの頃から「ケンカするほど仲がいい」という言葉がぴったりするものでした。 そのため私は、生来の内弁慶な気質も手伝って、不登校時代もひきこもり時代も、両親にはガンガン言っていました。 *2.のれんに腕押し 自分が信じていた価値観(信念)が崩れたとき、たいていの人は、頭を切り換えて現実を受け入れ、認識を新たにして生き方を変え、この社会に再適応していくことでしょう。 しかし、このときの私はそうはできませんでした。 前回お話ししたように、私は「親は一生変わらない」「親の背後には親と同じ考え(変わらない)を共有する大人たちによってつくられた社会がある」という価値観を、大学時代の混乱状態を経て、ようやくたどり着いたもの(到達点)と確信していました。 それだけに、両親が変わったことを、私は信じることができず、事実を認めて受け入れることもできませんでした。 何が何だかわからない、何を信じて生きていけばよいのか、という感覚。まるで夢を見ているようでした。 しかも「親の背後には親と同じ考え(変わらない)を共有する大人たちによってつくられた社会がある」はずなのに、私の親は変わったわけですから「親は変わらない」と私に教えた大人たちによってつくられている社会を、私は不可解なもの、言い換えれば"異界"つまり別世界のように感じるようになりました。 違う角度から言いますと「自分は人とは違う」と感じるようになり、自分が社会の外側にいるような感覚を持つようになったわけです。 こうして私は、教員採用試験の受験勉強も手につかなくなり、自宅で無気力な生活を送るようになっていきました。 しかも、前述のとおり両親が変わったことが信じられないため「大学時代のように何らかの対応をするはずだ」という、受け身の考えを持ち続け、自分の状態を自分で解決する意志が、一向によみがえりません。 当時の私は、月に2、3回買い物で外出する以外は、自宅でテレビを見るか(オリンピックの開催期間中は生中継を徹夜で見ていました)、読書を少しするくらいしかしない一方、母に対しては、不登校時代と同じように、ひんぱんに話し合いを持ちかけるようになりました。 「なぜ変わったのか」「変わらないと言っていたのは何だったのか」などと問いただすわけです。それに対し母は「社会人になったから変わった」の一点張り。そのうえ、かつて耳にタコができるほど両親から聞かされていた「親は変わらない」という言葉を、父が「そんなことは言ったことがない」「前々から親だって変わると思っている」と言い出したと伝え聞いたのです。 かつては両親が「親は変わらない」と言い、私はそれを信じなかったのに、このときは私が「親は変わらない」と言い、両親がそれを否定しているのです。つまり、知らないうちに両親と私の考えが逆転していたわけです。 このような両親の反応に、私は話し合いを重ねるほど混乱と迷いが深まるばかり。「言葉が通じない」と思ってしまうほど話がかみ合わない状況に、私はいつも怒っていました。 そうこうしながら半年がたった頃、話し合いのなかで母が、ひょんなことから、大学時代の策略的対応について、私が知らなかった事実を告げたのです。 それは、前に書いたように「誓約書を作らせたのが当時のカウンセラーだったこと」「それを教えると、私がカウンセラーの所に怒鳴り込むに違うないから、作り話を教えたこと」でした。 私は、誓約書の作成から9年半もの間、間違った事実認識を前提にして、両親と衝突したり、人に相談したりして、その結果苦しんできたことになります。 「高校最後の3年間の充実した生活を知っていながら、おれのことを人の職場に怒鳴り込むほど乱暴な人間だと、すうっと思い込んでいたとは・・・」「そう思っていたとしても、そのことを直接言わずに、嘘を教えるという策略を、なぜしたのか???」「本当のことを教えられていたら、両親とのトラブルや相談相手に非難されることは、なかったのに・・・」 このように思った私は、両親に対して怒りと恨みの塊(かたまり)になり、納得のいく説明を求めて、母への追及のボルテージをますます上げ、母の要領を得ない説明と、それに怒りまくる私という場面が、三日にあげず繰り返されるようになったのでした。 しかしはからずも、自宅では私が1日閉じこもっていても、両親は何の対応もせず、私が両親の言動を追及しても、まともに取り合わず、私がひとりで大騒ぎしているだけの状態が、延々続いていました。 私にとっては"のれんに腕押し"のもどかしさで、常にイライラし、怒りの感情が渦巻いていました。 こうして、2年の歳月があっという間に過ぎていったのでした。 (続)
2006.10.16
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10月14日 スト-ンエイジ上映会 イ-グレひめじより姫路城 アイメッセホ-ル受付白鳥哲監督舞台挨拶******* 連載コラム[3] □・ 『 不登校を11年かけて肯定した男の話 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=00000984246.大学卒業3年目─「不登校になってよかった・・・」 今でこそ、ひとつの高校に7年も在籍したことに対して「ギネスブックに載せてもらおうか」などと軽口をたたいたりする私も、この文章を書いた時は「ここまでたどり着いたなあ」と、感無量でした。 それでもまだ、現在の認識に比べれば不じゅうぶんな点がありますが...。 * 第一に、私は登校拒否になったおかげで、自己改革ができ、登校拒否の前とはまったく違う人間に成長することができた。ということは、あの登校拒否は、私の人格形成過程の一部である、ということになる。 つまり、登校拒否は新しい自分を創るための"産みの苦しみ"として、私の人生に必要なことだったと考えられるのである。 第二に、登校拒否から立ち直ったのは、学校に行こうとがんばる意志が強くなったからではなく、逆に、O高校へ通うことをあきらめたからだった。 登校拒否の最中は、一所懸命学校へ行こうとしていたが、ほんとうの気力は出てこなかった。ところが、それをやめると、とたんに気力が生まれたのだ。継続登校の実現は、その結果に過ぎず、かりにあのとき退学になっていたとしても、違う道で元気に生きていけたであろうことは明らかである。 それでも、登校拒否は「がんばって学校に戻りさえすれば解決だ」と言えるだろうか。むしろ、そういう考え方が本人の人生観を狭め、自分自身を見つめる心の余裕を奪ってはいないだろうか。 第三に、高校最後の充実した3年間は、その前の、ちょうど3年半の登校拒否が、もたらしたものだった。 というのは、部活動をはじめたきっかけは、5年目に入ったころテニスをやりたいと思いはじめたことだし、2年生以降のクラスや生徒会での活動のきっかけは、5年目にKの問題に接したことを契機としてはじめた勉強によって、知識を得、関心を持ったからだ。 ということは、もし私が登校拒否にならなかったら、あるいは登校拒否になっても、がんばって1、2年で立ち直っていたら、前述のさまざまな活動はすべて、時間的にあり得ないことがはっきりしているわけである。 このようにみると、登校拒否の時代は、同級生の友情や先生方の愛情と、自分が経験したことや考えたことが相まって、人生を積極的に生きるためのエネルギーとなり、それが心の中で除々に育まれていた時間だった、ということになる。そして、そのエネルギーがあふれ出したときに最後の3年間がはじまったのだから、私にとって登校拒否は、まことに運命的なできごとだったと言わざるを得ない。 以上の三点を考えるにつけ、登校拒否を通じて出会った同級生や先生方への感謝の思いは尽きないし、また、自分でも「登校拒否になってよかった」と思わずにはいられないのである。 それでも登校拒否は「本人の人生にとって大きな損失」だろうか。 * 以上で、私自身の不登校体験をめぐるお話は終ります。不登校のことについては、いずれまた一般論として、相談員としての実践経験などをもとに、理解や対応について、随時お話していくつもりです。 さて、前にもお話ししたとおり、私は大学卒業後に、1年間だけ非常勤講師として出身高校の教壇に立ちました。 非常勤講師の任用(採用)期間は、1年と決まっており、時間割しだいで、翌年にはいらなくなる、という不安定な立場です。私も、2年目の教壇に立つことはできませんでした。 そして、それっきり長いトンネルに入ってしまったのです。 次回から、そのお話をしていきます。 (終わり)
2006.10.15
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10月度行事 http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&bbs_view=2 10月14日 スト-ンエイジ上映会 白鳥哲監督 来姫決定 http://www.tetsu-shiratori.com/http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%C7%F2%C4%BB%C5%AFhttp://dir.yahoo.co.jp/talent/12/m99-0240.htmlhttp://ja.wikipedia.org/wiki/çTM½é³¥å"²http://mixi.jp/show_friend.pl?id=559594 お世話になりました。たくさんの方においでいただき、ありがとうございました。監督さんのお話、実行したいと思います。**************** 連載コラム[3] □・ 『 不登校を11年かけて肯定した男の話 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=00000984245.大学2年生──「弁解の余地無し」「大事な時代を棒に振った」 誓約書問題に揺れていた頃に書いたふたつの文章を抜粋してお見せします。 ひとつめの文章は留年前に書いた、ある不登校の親の会の会報に寄稿したもの(前の連載「不登校になると にんげんが見えてくる」に抜粋して載せたもの)で、自分の不登校を「産みの苦しみ」と、初めて肯定的に表現しています。しかし「クラスメート」と先生方を裏切った」という言葉が依然書かれてあり、罪悪感の強さがわかります。 ふたつめの文章は留年後に書いた、相談相手に事前に書き送った手紙で、自分の不登校を否定的に表現しています。前にもお話したように状況が悪い時期ですので、不登校への後悔の気持ちが強くなっていたためです。 状況によって、自分の不登校体験を肯定する境地に、近付いたり遠のいたりしていたことがわかります。 * 悪運強しというべきでしょうか、その年度末、担任の先生の強い弁護もあって、二代目の校長先生は、『もう一度留年させて、1学期がだめなら、こんどは間違いなく退学』を条件に、私の4度目の留年を許可したのでした。 私の高校生活は、こうして学年は相変わらず第1学年でしたが、在籍5年目に入りました。その年、私は、前年度の終わりの2週間半そのままの精神状態を保って、1年間通して通学しました。そして私は、クラスにいた『つっぱり』の生徒の非行・退学問題にかかわったのを機に、学校教育の諸問題について勉強するようになり、2年生(6年目)、3年生(7年目)のときには、その知識を活かして、クラス活動や生徒会活動に精を出しました。 思えば、あの4年目の3月、自分について考える機会をもてたことが、私の人生の転機でした。高校に入学して、初めての4年間は、心配してくれたクラスの仲間たちの友情と、待ち続けて下さった先生方への信頼を裏切り続けた、弁解の余地のない時代でした。しかし、この4年間があったからこそ、私の心に転機が訪れたと理解すれば、ある意味で登校拒否は、私にとって、自己変革と成長のための『産みの苦しみ』であったとも言えると思います。 事実、そのあとの3年間、私は、教室での学習はもちろん、生徒会活動、学級活動、部活動と行動範囲を広げ、たくさんの友人とともに充実した高校生活を、楽しく送ることができました。 昭和54年入学以来、実に7年間の長い高校生活の思い出です。 *(高校時代について)実に4年という貴重な時間を、私は棒に振りました。そしてその大きな犠牲の上に今の私があります。しかし、それだけです。ほかは何も変わっていません。 私は、高校時代に4回留年したことを、いつか必ず後悔する時が来る、と覚悟していました。就職する時か、結婚したいと考える時か、あるいはもっと先か・・・。とにかく、大学卒業直前の先のいつか、必ず後悔せざるを得ない出来事が何かあるだろうと予想していたのです。 現実の社会は、回り道をした人間におそらく寛容ではありません。だから私の高校時代の経歴は、どこかで損になると思われます。ところが─。 こんなに早く、その時が来ようとは─。 私は今、高校時代の留年を強く後悔しています。この期に及んで社会に出る時期がまた延びるとは。卒業する時には普通の人は社会人5、6年目などという比較はともかく、先の長さという点においてこの状況は、私の忍耐の限度を超えてしまったのです。 (続く)
2006.10.14
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10月度行事 http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&bbs_view=2 10月14日 スト-ンエイジ上映会 白鳥哲監督 来姫決定 http://www.tetsu-shiratori.com/http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%C7%F2%C4%BB%C5%AFhttp://dir.yahoo.co.jp/talent/12/m99-0240.htmlhttp://ja.wikipedia.org/wiki/çTM½é³¥å"²http://mixi.jp/show_friend.pl?id=559594**************** 『 不登校を11年かけて肯定した男の話 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424-------------------------------------------------------------------4.高校最後の2年生─「自分自身が弱すぎた」 最初の連載にも書いてあったように、私が不登校だった当時は、親の会もフリースクールもフリースペースもありませんでしたし「登校拒否(当時「不登校」という言葉はなかった)は悪いことではない」という説は聞いたこともありませんでした。逆に学校や相談機関や親からは「不登校は悪いこと」「人生の損失」という叱責しか聞こえてきませんでした。 今回ご覧いただく文章は、そんな不登校時代が過去のものになりつつあった、高校最後2年生の3学期に、ある雑誌に掲載された文章です。 この時期、すでに部活も生徒会活動もやって、充実した学校生活を送っていた私でさえ、不登校時代の自分をまだ責めています。 * 私が高校に入学したのは、1979年。学校は新設の公立全日制普通科。つまり私は一期生だった。 入学後半年で神経症、いわゆるノイローゼ(後に私を診察した神経科医による)になり始め、やがて"登校拒否"におちいる。出席日数不足で留年。 授業について行けず、友人も作らなかった。そして、夏休み以降、両親とうまくいかなくなり、こうした不満のうっ積がきっかけとなって、無気力状態になっていったのだ。 留年後の2年目、私は両親との問題にこだわり過ぎて心が安定せず、再留年。その後も立ち直れずに3年間進級できずに終わる。当時のクラスの仲間は、私のことを心配しつつ進級していった。 それでも先生方は待った。私は3度目の留年を許されたのである。何としてもこの学校を卒業したいという頑固な私の思いに、当時の校長は賭けたのだろうか。 4年目、私は自分を変えようと努力した。が、立ち直りかけては逆戻りするパターンを幾度も繰り返してしまう。そんなだらしのない私に、当時の級友達の支援は厚かった。彼らが私の立ち直りを願って、どんなに協力し、励まし、そして叱ってくれたかは、ここで書ききれないほどだ。 むろん先生方も同じだった。がそれも、私を進級させるまでには至らなかった。かんじんの私自身が弱すぎたのだ。たくさんの友情を裏切るほどに......出席日数が足りなかったのである。 担任の先生の強い弁護により、現校長は「1学期がだめなら退学」を条件に、私に4度目の留年を許可した。そして私は、普通の学校生活を取り戻して今年進級。入学以来6年目にして2年生となった。 この長い高校生活の中で、私はたくさんの"出会い"を経験した。時間がかかりすぎたとはいえ、私のような人間でも立ち直ることができたのは、この高校で素晴らしい先生やクラスに恵まれたからであるというよりほかにない。 現在、私は学年に関係なくたくさんの友人を得、充実した学校生活を送っている。 『月刊 考える高校生』1985年1月号より(抜粋) (続く)----・□ 教育相談のご案内 □・--------------------------------------------------------------------------------------------------------●● 教育相談のご案内 ●● スクールソーシャルワークという援助法にもとづき、面接のみならず、 相談員自ら家庭や学校を訪問し、本人を支えつつ周辺状況を改善する ことで、当事者主体の問題解決をめざします。 相談内容:不登校・引きこもり・子育て・家族間暴力・ 親子関係・相談機関の選び方と相談の仕方... ◎ 教育相談は事前予約制になります。 ◎ 初回相談は無料です。(「メール相談」は受けておりません) 詳細は→ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/sodan.html● 当スタジオは、教育相談以外に、フリースペースやグループワーク、 関連する体験学習・講座などの援助的プログラムも実施しています。 栄養満点の"育ちと学び"が体験できる空間に足を運んでみませんか... ※ 各種プログラム詳細ご案内は こちら→ http://homepage3.nifty.com/Husta/prog/indexx.html ◎ 相談予約・資料請求・申込みはこちら↓のフォームからどうぞ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/join.html
2006.10.13
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10月度行事 http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&bbs_view=2 10月14日 スト-ンエイジ上映会 白鳥哲監督 来姫決定 http://www.tetsu-shiratori.com/http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%C7%F2%C4%BB%C5%AFhttp://dir.yahoo.co.jp/talent/12/m99-0240.htmlhttp://ja.wikipedia.org/wiki/çTM½é³¥å"²http://mixi.jp/show_friend.pl?id=559594****************連載コラム[3] □・-------------------------------------- 『 不登校を11年かけて肯定した男の話 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424-------------------------------------------------------------------3.無用の苦しみを抱えた大学時代 両親が私に虚偽の事実を教えた→親子の話し合いがうまくいかなくなった→私が情緒不安定になり大学を留年した→私が自分の将来を考えるため他人に相談した→相談相手が私の生き方を否定した→私が抜け殻状態になった。 ここ2回にわたっておはなししたことを要約すると、このように、泥沼にはまってズブズブ沈んでいくようだったことがわかります。 この経緯を、両親と私の関係で表現すると、次のようになります。 両親が、本人のために善かれと思ってやったこと(虚偽の事実を教える)が、本人の苦しみの原因になり、本人が、自分の苦しみを克服するために善かれと思ってやったこと(他人に相談する)が、さらなる苦しみの原因になった。 ──このような「やることなることすべて裏目に出る」という悪循環は、青少年問題や子育てのなかでは、よく起こります。 特に、私の両親がやったような策略的な対応策は、悪循環の口火を切る"最初のボタンのかけ違い"の役割を果たしてしまいがちです。 ところが、わが子の不登校やひきこもりに直面した親御さんは、即効性を求めて特別な対応策を探さずにはいられず、通常では不道徳とされることでもやってしまうことがあります。たとえば、不登校のわが子をだまして入院させるといったことは、典型的な策略的対応です。 しかし、青少年はロボットではありません。彼らには彼らの感性や自分の人生への願望があります。そのことを無視して特別なことをやっても、かえって問題をこじらせる危険は大きいと思います。 反対に、親子としての自然なコミュニケーションの範囲内で対応するよう心がけたほうが、かえって解決への早道になりやすいのです。 その意味では、この問題の"影の主役"である、不登校時代のカウンセラーは、親子の間で話し合って決めた約束を破るという、実に特別なことを親にさせたのだなあと、つくづく思います。 カウンセラーが、あのときなぜ私たち母子の間に介入し、私が誓約書を書くことを防がなければならなかったのか、今でもわからないのですが、このような「過剰介入」も、学校現場や不登校への治療現場では、よく起こります。 教師やカウンセラーや精神科医のなかには、生徒どうしのトラブル、あるいは子どもの不登校に対して、トラブルの当事者、あるいは不登校の本人とその家族との間で、自発的なやりとりで解決することを、良しとしない人がいるようです。 専門家としてのプライドなのか使命感なのかわかりませんが、子どもどうしのトラブルや青少年問題を「自分が関わらないと解決できない」とでも信じているかのようです。 しかし、人が生きていくうえで直面している問題は、われわれが想像している以上に、通常の人間関係のなかで解決できる場合が多いのです。 さて、人のことばかり述べ立てましたが、私が大学時代に味わった苦しみの本質は、もちろん、私自身の心理的問題にあります。前回の最後に指摘した「自己受容」または「自己肯定」ができなかったことです。 前回もお話したように、私にとって高校時代の3年間は、大学時代とは逆に「やることなすことすべてうまくいく」という好循環の時代であり、それはその前の不登校があったから実現した時代でした。 ところが、当時の私はそのことに気づいておらず、過去の不登校に対して「人生の汚点」「同期よりも4年も遅れた原因」などと感じて、後悔や罪悪感を抱いていました。つまり「不登校がトラウマになっていた」と言えるわけです。 そのため私の心の底には、いつも「人生これ以上遅れてはいけない」というおびえや「普通の人生への憧れ」の気持ちが潜んでいたのです。 そのことから、大学も「早く卒業してしまいたい」とばかり思っていて、大学生活をエンジョイする気など、さらさらありませんでした。 そんな焦りがもとで、大学1年生の秋に、一時的に心身症的な症状が現れたほどです。 このように、自分の人生を受け入れられずにいたことが「不登校時代の心と体の状態(登校しようとしてもできない状態)がよみがえっ」たり、「抜け殻のような毎日」を送ったりした原因だったのです。 確かに私は、同期の友人たちより4年遅れて高校を卒業しました。しかしそれは、まぎれもない自分の「生きざま」であり、自分にとっての「現実」です。そのことを受け入れ「これが自分の人生なんだ」と、心から感じることができ、その結果、今を充実して生きることができる自分になることが、不登校を終わったあとの私の"宿題"だったのです。 以上のような、私の気持ちの移り変わりが、その時々に書いた文章に反映しています。そこで、連載の後半では、それらの文章を順に載せることにより、不登校体験を肯定できるようになるまでの、私の気持ちの変遷をご覧いただきます。 (続く)
2006.10.12
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10月度行事 http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&bbs_view=2 10月14日 スト-ンエイジ上映会 白鳥哲監督 来姫決定 http://www.tetsu-shiratori.com/http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%C7%F2%C4%BB%C5%AFhttp://dir.yahoo.co.jp/talent/12/m99-0240.htmlhttp://ja.wikipedia.org/wiki/çTM½é³¥å"²http://mixi.jp/show_friend.pl?id=559594****************連載コラム[3] □・-------------------------------------- 『 不登校を11年かけて肯定した男の話 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424-------------------------------------------------------------------2.抜け殻のような大学時代後半 留年したショックで2ヶ月間不登校になり、なんとか回復して迎えた夏休み、私は再び不登校になってしまった自分自身への不安(これからちゃんと生きていけるのだろうか)から、知り合いや専門家など数人の社会人に、今後どう生きていけばよいのかを相談することにしました。 その中の1人には、誓約書をめぐる両親とのやりとりを記した長文の手紙を、前もって送っていました。 8月のある日、その人と会って直接相談したとき、返って来た答えは「誓約書のことを問題にされたら親はたまらない」「君は心が貧しいので心配だ」という"非難の集中砲火"でした。このとき以上のショックは、後にも先にもありません。 ほかの相談相手も、そこまで激しくはないが、やはり私の生き方を否定する答えしかくれません。私は、相談すればするほど落ち込んでいきました。 自分は確かに誓約書への反感や親子関係のあり方にこだわっていた。しかし、ここまで全否定され非難されるほど、自分の生き方は悪かったのか・・・。 そう感じた私は「自分はだめな人間だ」という自己否定感にさいなまれるようになりました。しかも「だめな人間」というのは、高校時代に不登校だったことも含んでのことでした。 それから約2年もの間、大学に通学する以外何もできず、人目を恐れながら生活するという、抜け殻のような毎日が続いてしまったのです。 そんな私を救ってくれたのは、4年生のときに取り組んでいた卒業論文での研究でした。 6月にはなんとか出身高校で教育実習を終え、不登校をテーマにした卒業論文の研究に本格的に取り組むようになって、文献をあたっていくうち、本人の私以上に、不登校を肯定する人の本に何冊も出会いました。 私は、そんな本を読むたびに感動し、ときには涙ぐむことさえありました。 このとき私はやっと気づいたのです。「高校時代の不登校がなかったら、その後の自分はなかった」ということに。 高校最後の3年間に起こった出来事を思い出してみると、その前に4回留年してなかったら、起こらなかったことばかりだったのです。 たとえば、2年生以降のクラス活動や生徒会活動のきっかけは、最後の1年生のときにクラスにいた"つっぱり"(今で言う"ヤンキー")と呼ばれる生徒の、非行問題に関わったことがきっかけでしたし、硬式テニス部に入部したのも、その当時テニスに興味を持ったからです。 ということは"帰宅部"だった私が、もし不登校になってなかったら、あるいは不登校になっても、がんばって1、2年で学校に完全復帰していたら、前述の"つっぱり"とも出会えませんでしたし、テニスに興味を持つのは卒業後ということになります。したがって、クラス活動も生徒会活動も部活動も、まったくすることなく卒業しただろうことは間違いありません。 このように考えると、高校最後の充実した3年間は、その前の不登校があったから実現したとしか考えられないわけです。 さて、私にとって大学時代の課題は「自己肯定」または「自己受容」だったということが、おわかりいただけたと思います。 不登校やひきこもりの経験を、あとから「必要だった」「そうするしかなかった」などと、肯定し受け入れることができるかどうかは、その後の経過に決定的な違いをもらたします。"不登校やひきこもりだった自分"を認めることができないとき、人は生きる自信を持てず、ちょっとしたことでつまずくようになるわけです。 その点を踏まえて、次回は私の大学時代を検証してみます。 (続く)
2006.10.11
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10月度行事 http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&bbs_view=2 10月14日 スト-ンエイジ上映会 白鳥哲監督 来姫決定 http://www.tetsu-shiratori.com/http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%C7%F2%C4%BB%C5%AFhttp://dir.yahoo.co.jp/talent/12/m99-0240.htmlhttp://ja.wikipedia.org/wiki/çTM½é³¥å"²http://mixi.jp/show_friend.pl?id=559594****************連載コラム[3] □・-------------------------------------- 『 不登校を11年かけて肯定した男の話 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424-------------------------------------------------------------------2.抜け殻のような大学時代後半 留年したショックで2ヶ月間不登校になり、なんとか回復して迎えた夏休み、私は再び不登校になってしまった自分自身への不安(これからちゃんと生きていけるのだろうか)から、知り合いや専門家など数人の社会人に、今後どう生きていけばよいのかを相談することにしました。 その中の1人には、誓約書をめぐる両親とのやりとりを記した長文の手紙を、前もって送っていました。 8月のある日、その人と会って直接相談したとき、返って来た答えは「誓約書のことを問題にされたら親はたまらない」「君は心が貧しいので心配だ」という"非難の集中砲火"でした。このとき以上のショックは、後にも先にもありません。 ほかの相談相手も、そこまで激しくはないが、やはり私の生き方を否定する答えしかくれません。私は、相談すればするほど落ち込んでいきました。 自分は確かに誓約書への反感や親子関係のあり方にこだわっていた。しかし、ここまで全否定され非難されるほど、自分の生き方は悪かったのか・・・。 そう感じた私は「自分はだめな人間だ」という自己否定感にさいなまれるようになりました。しかも「だめな人間」というのは、高校時代に不登校だったことも含んでのことでした。 それから約2年もの間、大学に通学する以外何もできず、人目を恐れながら生活するという、抜け殻のような毎日が続いてしまったのです。 そんな私を救ってくれたのは、4年生のときに取り組んでいた卒業論文での研究でした。 6月にはなんとか出身高校で教育実習を終え、不登校をテーマにした卒業論文の研究に本格的に取り組むようになって、文献をあたっていくうち、本人の私以上に、不登校を肯定する人の本に何冊も出会いました。 私は、そんな本を読むたびに感動し、ときには涙ぐむことさえありました。 このとき私はやっと気づいたのです。「高校時代の不登校がなかったら、その後の自分はなかった」ということに。 高校最後の3年間に起こった出来事を思い出してみると、その前に4回留年してなかったら、起こらなかったことばかりだったのです。 たとえば、2年生以降のクラス活動や生徒会活動のきっかけは、最後の1年生のときにクラスにいた"つっぱり"(今で言う"ヤンキー")と呼ばれる生徒の、非行問題に関わったことがきっかけでしたし、硬式テニス部に入部したのも、その当時テニスに興味を持ったからです。 ということは"帰宅部"だった私が、もし不登校になってなかったら、あるいは不登校になっても、がんばって1、2年で学校に完全復帰していたら、前述の"つっぱり"とも出会えませんでしたし、テニスに興味を持つのは卒業後ということになります。したがって、クラス活動も生徒会活動も部活動も、まったくすることなく卒業しただろうことは間違いありません。 このように考えると、高校最後の充実した3年間は、その前の不登校があったから実現したとしか考えられないわけです。 さて、私にとって大学時代の課題は「自己肯定」または「自己受容」だったということが、おわかりいただけたと思います。 不登校やひきこもりの経験を、あとから「必要だった」「そうするしかなかった」などと、肯定し受け入れることができるかどうかは、その後の経過に決定的な違いをもらたします。"不登校やひきこもりだった自分"を認めることができないとき、人は生きる自信を持てず、ちょっとしたことでつまずくようになるわけです。 その点を踏まえて、次回は私の大学時代を検証してみます。 (続く)
2006.10.10
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10月度行事 http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&bbs_view=2 10月14日 スト-ンエイジ上映会 白鳥哲監督 来姫決定 http://www.tetsu-shiratori.com/http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%C7%F2%C4%BB%C5%AFhttp://dir.yahoo.co.jp/talent/12/m99-0240.htmlhttp://ja.wikipedia.org/wiki/çTM½é³¥å"²http://mixi.jp/show_friend.pl?id=559594****************連載コラム[3] □・-------------------------------------- 『 不登校を11年かけて肯定した男の話 』 * 連載コラム[2]までのバックナンバーはこちら↓でご覧下さい http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424------------------------------------------------------------------- 最初のコラム『高校を7年かけて卒業した男の話』でお伝えしたように、私は高校1年の秋から約3年半の間、不登校のため進級できず、不登校が終わってから「1年生→2年生→3年生」と順調に、しかも充実した3年間を過ごして卒業しました。 次のコラム『不登校になると にんげんが見えてくる』は、大学卒業後に書いた文章を載せたものです。 このふたつの連載コラムに該当する高校時代と大学卒業後との間、つまり大学時代は、私にとってどのようなものだったのか──それをお話しするには、入学3年前、不登校が終わった頃のことから説明を始めなければなりません。1.誓約書問題に揺れた大学時代前半 前にお話したように、私は不登校が終わる直前に、最も荒れていました。数日間ではありましたが、自分の苦しみを際限なく母に訴えて母の睡眠時間を削り、最後には暴れたりもしました。 そのようなパニック状態の末、大きな心境の変化によって不登校が終わったことも、前にお話したとおりです。 ところが、まさにその日、私に愛想を尽かした(後日本人談)母が、私の変化を知らないまま、親戚の家に移りすんでしまったのです。 その後高校では、担任の先生が「不登校が終わったから進級しても大丈夫」と、ほかの先生方に私のことを訴え始めていました。 そこで私は、母に対して、かつての乱暴な言動を謝罪し、二度としないことを誓う「誓約書」を提出することを条件に帰宅してもらう、という約束を取り付けました。 ところが、その後母が、当時私がかかっていたカウンセラーに電話をして、誓約書のことを相談したところ、カウンセラーが「本人に作らせてはいけない。親が規則として作った文面を、そのまま本人に書き写させろ」という指示を出したのです。 両親はこれに従い、私が学校にいる間に規則のような文面を作り、放課後、母が滞在していた家を訪れた私に、書き写すよう命じたのです。 そこに書いてあったことは、起床時間と就寝時間、1日の勉強時間、親への服従義務、などといった、私の反省の意思とはまったく無関係な規則が、契約書のごとく箇条書きになっていました。 前にもお話したとおり、私は高校を退学する覚悟はできていたものの、ここで母が帰宅するのをやめてしまえば「丸山はもう大丈夫」という担任の先生の言葉が、ほかの先生方に嘘だと思われてしまいかねません。 カウンセラーの指示だったとは知らず、訳のわからないなか進退きわまった私は、やむをえず両親の命令に従いました。 この出来事は、私の心の奥にわだかまりとなって残りました。約束を破られたことへの「なぜ?」という疑問と反感。そして何よりも「両親が私との関係を、言葉のやりとりではなく2枚の書面で処理した」という冷たい感じ。「こんな親子関係はいやだ」という思いは、充実した高校生活を過ごしているなかでも、心の奥に生き続けました。 3年後、私は両親に対し、約束を破った理由の説明と誓約書の取り消しを求めて"家族会議"を開くことを両親に訴えました。 ずいぶんあとから知ったのですが、このとき両親は「また始まった」と思ったそうです。ちなみに私は大学には正常に通っていました。 両親が、そのような不信感をまだ私に抱いていたことを知らなかった私は、誓約書のことは2、3回の話し合いで解決するものと思い込んでいました。 ところが、大学入学半年後から始まった話し合いのなかで、両親は、約束を破って誓約書を規則のようなものに変えた理由など、基本的な事実関係について、作り話を私に伝えたのです。 これもずいぶんあとから知ったのですが、両親が私に嘘を教えたのは、誓約書をカウンセラーが作らせたことを私が知ったら、私がカウンセラーのところに怒鳴り込むに違いない、と思ったからだそうです。 こうなると、両親は話のつじつまを合わせるために、嘘を嘘で塗り固めなければならなくなります。こうして話し合いはかみ合わなくなり、焦る私と両親との間に、親子ゲンカが起こるようになってきました。 ここで私の心に変化が起こります。親子関係が再び混乱し始めたとたん、不登校時代の心と体の状態(登校しようとしてもできない状態)がよみがえってきたのです。 するとどうでしょう。私は実際に欠席が増え始め、教職課程をとっていたため必要な単位数が多かったこともあって、2年生を単位不足で留年しなければならなくなってしまたのです。 翌年度の前期、私は留年したショックから、2ヶ月連続で欠席するなど、再び不登校状態に逆戻り。それでも、このときはそれ以上状態が悪くなることなく回復しました。 しかし、夏休みを迎えた私に、さらにショッキングな出来事が待ち受けていました。 (続く)
2006.10.09
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10月度行事 http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&bbs_view=2 10月14日 スト-ンエイジ上映会 白鳥哲監督 来姫決定 http://www.tetsu-shiratori.com/http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%C7%F2%C4%BB%C5%AFhttp://dir.yahoo.co.jp/talent/12/m99-0240.htmlhttp://ja.wikipedia.org/wiki/çTM½é³¥å"²http://mixi.jp/show_friend.pl?id=559594****************連載コラム[2] □・ 『 不登校になると にんげんが見えてくる 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424● 第6回 生きていることの大切さ 『...登校拒否が病気なのかどうか正直なところは私にもまだよくわかりません。私の場合は、ここで何とかしておかねば前に進めないという切羽詰まった気持と、運命的なものを感じていました。登校拒否をただ学校に行けない病気ととらえ、行けるようになればなおったと見る見方が世の中にはありますが、私は反対です。そんな生やさしいものじゃないというかんじです。 私が登校拒否から立ち直って元気に大学へ通っているという話をどこからか聞きつけた某ラジオの放送局が、母に出て話を聞かせてくれと電話してきたことがありました。「登校拒否がなおるなんでめずらしいから」と言ったそうです。母は、「娘の将来のこともありますし...」と母らしい考えでその話をことわったようですが、私は情けなくて、涙が出るほど腹が立ちました。一人の人間として、一生懸命生きているんだということを無視されたような気がしたのです。登校拒否という異常な事態を、どういうわけか無事のりきった特殊な「例」、めずらしい「話し」として扱われたことにです。母がもしラジオに出れば、「こうすれば登校拒否はなおる」とハウツーの1つとして紹介されたのかもしれません。無論、それが現在困っている多くの人々に何らかの形で援助になるのであれば、それにこしたことはないのかもしれません。私はいずれはそういう形で世の中の訳に立ちたいと思ってはいます。しかし、ともすれば、人の一生の問題を興味本位でとりあげてしまう現代の世相、世間というものが、私にはどうしようもなく情けなかったのでした。こういう世の中だからこそ、登校拒否児があとからあとから生まれるのだとも思いました。人間の心とかやさしさ、苦悩といった、すごく大変な問題を、「私たちはよくわかっているんです」という顔で、いとも簡単に扱ってしまうことへの腹立ちなのです。人が生きていくって、そんなに簡単なことではないはずです。登校拒否という症状をもってしまった子どもたちや、その周辺の人々にとってもそれは同じです。一生懸命生きていく過程において、すぎては通れなかったものなのです。それなのに、それを病気(異常)ととらえることで、自分の健康さに安堵している世の中の勝手さが私には許せないのです。 学校へ行けなくなった時、こんな状況で平気な顔をして学校へ行ける連中の方がおかしいと私は思いました。世の中の健康さとして扱われているものは、鈍感さだとも思いました。しかし、どちらが正常かという問題は、精神病患者と接する際にもよく言われることですが、本当はそんな大した問題でもないと思います。何かに気付いてつまずく人もいれば、そのまま通りすぎる人もいます。それをその人の強さとしてとらえるのは、早計な気がします。鈍感さだと、とらえるのも勝手すぎます。もっと大切なことを我々は見すごしているんではないかという気がします。うまく言葉では言えませんが、生きていることというそのこと自体をもっともっと大切にしなければいけないという気がします。そう生きざるを得なかった運命というものを─運命に変えられないもの、決められたもの、といったレベルでとらえるのではなく─真剣に考えたいと思います。(略)』 (匿名 女性) <『登校拒否・母親ノート法のすすめ』(創元社) より > 解 説 この文は、前掲書のなかで、著書の東山紘久氏(臨床心理学者)にあてられた書簡を紹介したものの一部です。同書によると「高校三年生の時に登校拒否になり、それを自分なりに乗り越えて、大学に進学し、卒業された人」とあります。 私が、大学4年生の卒業論文で「登校拒否」をテーマに選んで研究した際、文献をあたっていて出会った、何人かの経験者の発言のうち、私の"見えているもの"に最も近く、また読んで最も感動したのが、この文章でした。彼女の、人間に対する素晴らしい洞察力が、登校拒否の原因なのか結果なのかはともかく、並みの人よりはるかに"にんげん"が見えている発言であることは、よくおわかりいただけると思います。 さて、6回にわたる執筆を通して、この記事の題名に沿ってお話できたかどうかは自信がないのですが、私が一貫してお伝えしたかったのは、次のようなことでした。それは「普通に通学している限りなかなか見えてこない"人間の真実"のようなものが、登校拒否になることによって見えてくることがある」ということです。 この考えに基づいて私は、この連載で、自分のなかで燃え続けているもののほんの一部を、一つ一つお話してきました。「登校拒否を通して成長した人間」の一例として、参考にしていただければ幸いです。 『こうざつうしん』(1991) 丸山 著 より転載 ● 〔 今補足したいこと 〕 今回の記事で「彼女の、人間に対する素晴らしい洞察力が、登校拒否の原因なのか結果なのかはともかく」という部分がありますが、私は、これを書いたときから両方だと思っていました。 不登校児のなかには、もともと人を見る目が優れていたり、哲学者のように物事を深く考えたりする子が少なくありません。そして、それらの能力は、不登校になって孤独な毎日を送ることによって、さらに研ぎ澄まされていきます。 しかし、そういった彼らの持ち味は、現代の学校や社会では、それ以外の能力、たとえば社会性(このことばの意味についての検討も必要だと思いますが)が不足していれば発揮できないしくみになっています。 そのため、彼らが安心して生きていくためには、自分の持ち味を削ぎ落としてでも、社会性を身につけて学校や社会に適応しなければならない、ということになってしまうわけです。 三たび例に挙げますが、イチロー選手が入団後3年間試合に出れなかった一因は、"振り子打法"と呼ばれる彼独特の打撃フォームが、当時の監督に認められなかったからだ、と言われています。 人ぞれぞれの持ち味が活きる社会をつくることが、不登校児への最大の支援だと、私は信じています。 (終わり)----・□ 教育相談のご案内 □・--------------------------------------------------------------------------------------------------------●● 教育相談のご案内 ●● スクールソーシャルワークという援助法にもとづき、面接のみならず、 相談員自ら家庭や学校を訪問し、本人を支えつつ周辺状況を改善する ことで、当事者主体の問題解決をめざします。 相談内容:不登校・引きこもり・子育て・家族間暴力・ 親子関係・相談機関の選び方と相談の仕方... ◎ 教育相談は事前予約制になります。 ◎ 初回相談は無料です。(メールでの相談は受けておりません) 詳細は→ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/sodan.html● 当スタジオは、教育相談以外に、フリースペースやグループワーク、 関連する体験学習・講座などの援助的プログラムも実施しています。 栄養満点の"育ちと学び"が体験できる空間に足を運んでみませんか... ※ 各種プログラム詳細ご案内は こちら→ http://homepage3.nifty.com/Husta/prog/indexx.html ◎ 相談予約・資料請求・申込みはこちら↓のフォームからどうぞ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/join.html
2006.10.08
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10月度行事 http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&bbs_view=2 10月14日 スト-ンエイジ上映会 白鳥哲監督 来姫決定 http://www.tetsu-shiratori.com/http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%C7%F2%C4%BB%C5%AFhttp://dir.yahoo.co.jp/talent/12/m99-0240.htmlhttp://ja.wikipedia.org/wiki/çTM½é³¥å"²http://mixi.jp/show_friend.pl?id=559594**************** 連載コラム[2] □・-------------------------------------- 『 不登校になると にんげんが見えてくる 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424-------------------------------------------------------------------● 第5回 登校してればあんしんか こころの悩みをもつ子どもは、まわりのおとなたちにその悩みに気づいてもらい、救いをもとめるためのカードとしてさまざまな症状をあらわす。カードは、子どもたちのいろいろな行動であってよいはずなのに、なぜ「学校に行かない」ということのみがこれほどまでに効果的な切り札となりえるのだろうか。わが国の高学歴社会構造の荒波をまともに受けている家族力動、そしてあまりに画一的な学校教育のあり方などに内在する複雑な問題が、登校拒否の急増に深く関与していることは疑いのない事実である。 (山崎 晃資) 「慎重な登校拒否議論を」<『あも』3号 より > 解 説 今回は、登校拒否体験の"収穫"を、さらに二つお話します。 第1に、学校を相対化できるようになったことです。たとえば、1年少し前、当講座のOGの金田さんが所属している「校害TELTEL」の主催するシンポジウムに参加したことがありますが、そこで出された意見は、"脱学校"や"反教育"の意味あいを込めたものばかりで、学校化社会にどっぷりの、一般の人々(登校拒否前の私も)には、とても理解できそうにないものでした。しかし私は、それらの意見を何の抵抗もなく傾聴していたのです。やはり、一度学校から離れた経験が、学校を絶対視する価値観を変え、学校を多くの教育手段のひとつと捉えることを可能にしていたと言えそうです。 私は、母校の教壇に立って10ヶ月になりますが、実際、現場にいますと「現在の単線型の学校制度の"末路"が見えてくる日は近い」という印象を拭えないのです。 第2に、いわゆる「登校拒否」と「普通」の区別なく生徒をみることができることです。 世間では「学校における生徒の問題─いじめとか無気力とか─と、学校に来ない登校拒否生徒の問題とでは、後者の方が深刻だ」ということが、無条件に信じ込まれているようです。「登校拒否は他の行動より1ランク劣等」とでもいうかのように。 しかし、たとえば、学校に行かなくても、それによって心理的混乱に陥っていなければ、心配するには及ばないし、反対に学校に行っていても、悪質ないじめを繰り返していれば、非常に心配なわけです。ですから現在の私には、登校拒否児と他の生徒との間に、本質的な違いがあるとは、とても考えられないのです。 今回掲載した文章は、東海大学医学部の精神科教授が「登校拒否だけが突出した問題行動である」という常識的捉え方の深層を抉り出し、疑問を提出した部分です。 先日「登校拒否、史上最悪」というニュースがありましたが、登校拒否問題を「悪く」しているのは「登校拒否の増加」それ自体ではなく、学校に行けないというだけで大騒ぎする「世間」ではないか、と私には思えてなりません。 さて、私の"見えてきたもの"を何回かに分けてお話ししてきましたが、ご納得いただけたでしょうか。次の機会には、他の登校拒否体験者による文章をご紹介します 丸山 著 『こうざつうしん』(1991) より転載 ● 〔 今補足したいこと 〕 学校のパラドックス(逆説) 不登校の原因と言えば、昔は「学校場面への不安などから起こる情緒的混乱」という、いわゆる「神経症的な心のメカニズム」によるものが圧倒的でした。 ところが現在では「いじめ」が最も多いというデータを見たことがあります。「いじめられているため、学校に通い続けることが困難になった」というものです。 ところが世の中というのは不思議なもので、いじめっ子は学校に通い続けているばかりに、大して問題にされず、反対に不登校児は、常に問題にされ騒がれて、治療や矯正の対象にされるのです。 かくして、学校はいじめっ子は通えるのに、いじめられっ子は通えない場所になりつつあります。 学校は「通わなければ健全に成長できない」と、多くの人が信じている場所です。しかし、いじめられている子にとって学校は「通わない方が健全に成長できる」場所だと言っても過言ではありません。 学校が、いじめられていても我慢して通い続けなければならない場所だとしたら、学校とは何と理不尽な存在なのか、という視点を、いじめが原因で不登校になった子どもたちは求めていると思うのです。 (続)----・□ 教育相談のご案内 □・--------------------------------------------------------------------------------------------------------●● 教育相談のご案内 ●● スクールソーシャルワークという援助法にもとづき、面接のみならず、 相談員自ら家庭や学校を訪問し、本人を支えつつ周辺状況を改善する ことで、当事者主体の問題解決をめざします。 相談内容:不登校・引きこもり・子育て・家族間暴力・ 親子関係・相談機関の選び方と相談の仕方... ◎ 教育相談は事前予約制になります。 ◎ 初回相談は無料です。(メールでの相談は受けておりません) 詳細は→ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/sodan.html● 当スタジオは、教育相談以外に、フリースペースやグループワーク、 関連する体験学習・講座などの援助的プログラムも実施しています。 栄養満点の"育ちと学び"が体験できる空間に足を運んでみませんか... ※ 各種プログラム詳細ご案内は こちら→ http://homepage3.nifty.com/Husta/prog/indexx.html ◎ 相談予約・資料請求・申込みはこちら↓のフォームからどうぞ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/join.html----・□ お 知 ら せ □・------------------------------------------ 「スタジオ オープンデー」のご案内------------------------------------------------------------------- ★ヒューマン・スタジオ オープンデー(説明会付)★ ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 「ヒューマン・スタジオ」のことをもっと知りたくなった方に朗報! スタジオがどこにあるのか、どんなところなのか、実際に確かめていただける企画「スタジオ オープンデー」を、下記のとおり開催します。 ☆ 時間内出入り自由! ☆ 説明会でさらに詳しくわかる! ☆それ以外の時間もご意見ご質問自由! ☆お茶を飲みながら語りあいましょう!
2006.10.07
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連載コラム[2] □・-------------------------------------- 『 不登校になると にんげんが見えてくる 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424-------------------------------------------------------------------● 第4回 人生は時計反応 化学反応の一種に「時計反応」というのがある。これは、ある薬品どうしを混ぜると、その時には何も起こらないが、しばらくたつと突然、まさに突然見えるような変化(例えば色の変化)が起こることをいう。 本人の意識があったかどうかは別としても、高校生活の中で確かに培われて、将来起こるべく予定された、いくつかのすばらしい「時計反応」があることを期待したい。 (柴田 秀男) 「卒業生へ...」<『大清水新聞』20号 83.3.1 より > 解 説 これまでの3回を読まれて「登校拒否が突然"なおる"ことがあるのか」「急に活発になることがあるのか」などといぶかしく思われた方はいらっしゃらないでしょうか。 登校拒否について書かれた文献を読んでみますと、登校拒否が"なおる"過程の典型として「回復期」または「挑戦期」という、除々に再登校をはじめ、だんだん継続的な登校が可能になってくる──などと「だんだんなおる」時期があることが強調されています。 一方、私の場合は全然違います。すなわち、その年、高校4年目の3学期は、その年のなかで最も状態の悪い時期で、欠席も継続的だったのです。その最中に立ち直って、2度と登校拒否といわれる欠席をせずに3年間の高校生活を送ったわけですから。 いわゆる普通の子どもが部活動や生徒会活動をやってい驚く人はいないわけですが、同じことを私がやったら周囲が驚いたのも、無理からぬことだったのかもしれません。 しかし、これにはちゃんとした訳があるのです。それは、その前の3年半の間、時々登校するたびに感じた、先生方の愛情や級友の友情(第2回参照)が、自分の中に立ち直りのエネルギーとなって、除々に積み上げられていた──ということです。 それが一種の"臨界点"に達したとき、私は立ち直ったような気がしているのです。 そのあとの3年間の積極的な高校生活も、そのエネルギーのおかげなのです。ですから、あの登校拒否の足かけ4年間は、高校で自己実現するためのエネルギーを、無意識のうちに蓄積させていた時間だった、と言えるのかもしれません。 冒頭の文は、大清水高校の第2回卒業式の日に発行された学校新聞における、卒業学年各クラスの担任の先生の言葉を掲載した記事のなかの、ある先生の言葉ですが、これは、登校拒否のさなかにいる子どもたちにこそ、知ってもらいたいものです。 学校に行かない子どもには将来がないかのように思われている現代にあって、登校拒否は「無駄な経験」「人生の損失」などと捉えがちな本人やその親に対して、私が言いたいのは、今の苦しみも感動も、有益な人生経験として徐々に本人の心に積み重ねられていると信じてほしい──ということです。また、そのためにも、周囲の人々が適切な対応をして、本人の人生経験の蓄積に協力してあげてほしいと願うばかりです。 人間は、生きていくうえでさまざまな経験をします。そのなかには、成功もあれば失敗もあります。挫折体験や苦しんだ経験など、思い出したくない事もあるでしょう。しかし、私は最近、だんだん確信できるようになってきました。「人生には、無駄なものはひとつもない」ということを─。 丸山 著 『こうざつうしん』(1991) より転載 ● 〔 今補足したいこと 〕 待つことは積み重ねること 前回例に引いたイチロー選手の場合「4年目の200安打達成は、それまでの3年間の練習によって培われて、起こるべく予定されていた時計反応」と表現することができそうです。 このようなことは、私たち一般人にも起こすことができます。ただしそのためには"時計反応"が起こるまでの何年間かを、辛抱強く待ち続けなければなりません。 ただし「待つ」ということは「何もしない」ということではありません。原点に立ち返って、基本的なことを積み重ねる、ということです。 不登校の場合で言えば、それまでの親子関係・家族関係を変える必要はまったくありません。本人は、登校していなくても家族の一員、親御さんにとってはわが子であることに変わりないのですから、学校以外のことで、家族として親子として、つきあい続ければいいのです。 そのなかで、接し方に失敗したり傷つけ合ったりすることがあるかもしれませんが、常に本人を家族の一員として受け入れてさえいれば、つまり支持し続けてさえいれば、どんな経験も本人のエネルギーとなって、蓄積されていきます。 そして時計反応・・・。それはいつのことか、誰にもわかりません。どんな人生経験をいくつ積めば時計反応が起こるのかは、ひとりひとり違います。まさに"神のみぞ知る"です。 しかし、不登校児は新しい人生に向かって、確かに、少しづつ前進しているのです。その間、私たち周囲の人間ができることは、各自が本人との基本的な関係を維持し続け、本人を支持し続けることだけなのかもしれません。 (続)----・□ 教育相談のご案内 □・--------------------------------------------------------------------------------------------------------●● 教育相談のご案内 ●● スクールソーシャルワークという援助法にもとづき、面接のみならず、 相談員自ら家庭や学校を訪問し、本人を支えつつ周辺状況を改善する ことで、当事者主体の問題解決をめざします。 相談内容:不登校・引きこもり・子育て・家族間暴力・ 親子関係・相談機関の選び方と相談の仕方... ◎ 教育相談は事前予約制になります。 ◎ 初回相談は無料です。(メールでの相談は受けておりません) 詳細は→ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/sodan.html● 当スタジオは、教育相談以外に、フリースペースやグループワーク、 関連する体験学習・講座などの援助的プログラムも実施しています。 栄養満点の"育ちと学び"が体験できる空間に足を運んでみませんか... ※ 各種プログラム詳細ご案内は こちら→ http://homepage3.nifty.com/Husta/prog/indexx.html ◎ 相談予約・資料請求・申込みはこちら↓のフォームからどうぞ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/join.html
2006.10.06
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連載コラム[2] 『 不登校になると にんげんが見えてくる 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424-------------------------------------------------------------------● 第3回 意味への意思 アウシュビッツのユダヤ人大虐殺の記録「夜と霧」で知られているフランクルは「意味への意思」こそ人間にとって基本的なものだと主張した。(中略)そして彼は「生きる意味さえあれば人間はどんな事態にも耐えられる。死に直面してさえ生は無意味でない」と説く。 (片山 交右) <『自分を変える31の方法』アニマ2001より > 解 説 これまで2回にわたって、自分自身の体験をお話してきました。それは、高校入学半年後からの3年半にわたる登校拒否による留年で、結局5年続けて1年生をやった末に卒業したことをお知らせしたうえで、それほどの"重篤"な状態から、突如立ち直ったのはなぜなのか、そして、現在ではその過去をどのように自分のなかで位置づけているのか──といったことでした。 さて、立ち直ったあとの私は、新しいクラス(1年)で一緒になった"つっぱり"の非行問題の解決に奔放したのをはじめ、進級後はクラス活動、部活動(硬式テニス部)、生徒会活動と手をひろげ、私の登校拒否を知っていた人々を驚かせました。彼らの驚きは「登校拒否になるほどの弱虫だった生徒が、そこまで頑張れるようになるなんて...」というものだったようです。しかし、私自身は、単に「閉じこもっていた分を取り戻したい」という"願望"にかられて行動していたにすぎず、心の持ち方にしても、「心が強くなった」とか「頑張っている」とかいう自覚は、全くなかったのです。 むしろ、普通に登校しようと一所懸命頑張ってたときには、立ち直ることができず、反対に立ち直ってからは、何の努力もなしに学校へ行けてたことを考えると、心の強さが頑張りや努力の程度を決定するものではない、ということに気づかされます。 そこで、努力を「しなければならないもの」であるという"義務感"でとらえている限り「努力=苦行」です。できればしたくないものです。しかし、努力することに意味(目標、願望、~甲斐)があれば、意識して頑張ろうとしなくても、自然にエネルギーが沸いてきて、苦行どころか、努力を努力とも思わなくなるほど、自発的かつ無意識の心がけになります。私のような心の弱かった者が、その後前述のように行動できるようになった理由も、ここにあるわけです。 冒頭の文は、新しい心理療法のひとつ「ロゴ・セラピー」について触れた部分ですが、これを「努力」という視点から読み換えると、以上のことがよく理解できるように思います。 丸山 著 『こうざつうしん』(1991) より転載 ● 〔 今補足したいこと 〕 不登校児は根性無しか 野球に興味のない方にはわかりにくいたとえ話をします。 現在アメリカのプロ野球チームで活躍しているイチロー選手は、高校を卒業して日本のプロ野球チームに入ってから最初の3年間は、ほとんど試合に出れませんでした。 ところが、4年目に突然才能が開花し、不可能とされていた「130試合で200安打以上」という大記録を打ち立てて、以来7年連続首位打者に輝き続けました。 彼は、最初の3年間は怠けていたのでしょうか? もちろん、そんなふうに彼を見る人はいないと思います。頑張っても結果がでない時期でも、あきらめずに練習を積んできたことが、4年目の"ブレイク"につながったと、誰もが認めているはずです。 この事実は、不登校児を見るときの参考にもなります。 不登校児を「意志の弱い根性無し」と見る人が大勢いますが、通学するためには強い意志と根性が必要であるということなら、そういうことになります。しかし、本来学校はそんなに厳しい場所ではありません。 前回お話したとおり、不登校児はそれ以外の子どもがやらないほどの、徹底した"自分さがし"をやっているのです。家に閉じこもり、ゲームなどに熱中する一方で、悩み抜き、考え抜いているうち、生きる意味を見い出します。すると、眠っていたエネルギーが吹き出して"ブレイク"し、活動的で自分らしい生活を送るようになるわけです。 つまり、不登校児とそれ以外の子どもたちの間には、意志の強さや根性の有無に差はありません。両者は、生きざまが違うだけです。 (続)----・□ 教育相談のご案内 □・●● 教育相談のご案内 ●● スクールソーシャルワークという援助法にもとづき、面接のみならず、 相談員自ら家庭や学校を訪問し、本人を支えつつ周辺状況を改善する ことで、当事者主体の問題解決をめざします。 相談内容:不登校・引きこもり・子育て・家族間暴力・ 親子関係・相談機関の選び方と相談の仕方... ◎ 教育相談は事前予約制になります。 ◎ 初回相談は無料です。(メールでの相談は受けておりません) 詳細は→ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/sodan.html● 当スタジオは、教育相談以外に、フリースペースやグループワーク、 関連する体験学習・講座などの援助的プログラムも実施しています。 栄養満点の"育ちと学び"が体験できる空間に足を運んでみませんか... ※ 各種プログラム詳細ご案内は こちら→ http://homepage3.nifty.com/Husta/prog/indexx.html ◎ 相談予約・資料請求・申込みはこちら↓のフォームからどうぞ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/join.html
2006.10.05
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平成18年(2006)10月1日ひょつこむの公開運用が始まりました。 登録制 http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=35&PUT_SNSSESSID ■ ひょこむ の特徴「地域のソーシャルキャピタルの創造」という目的を実現するために、ひょこむは他のSNSにはみられない、次のような特徴を持っています。・実名登録制参加される方には、登録時に実名・現住所・連絡先の記入を義務づけています。(非公開にできます)・完全招待制参加するには、メンバーの紹介が必要です。紹介を希望の方は「ひょこむ」の趣旨をご理解いただきhttp://www.geocities.jp/fukinoto_himeji/test5.htmlのお問い合わせから配信してください。 兵庫県内にお住みの児童・生徒が居られる親御さん・関係者必見・後見人(スポンサー)制友人を招待したメンバーは後見人となり、新たに参加した方のサポートの義務があります。そこで、兵庫県警察本部の緊急情報をもとに、ハザ-ドマップを作成してみました。http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=72よろしければご利用下さい。兵庫県警察本部http://www.police.pref.hyogo.jp/子どものハザ-ドマップhttp://www.police.pref.hyogo.jp/hazmap/index.htm
2006.10.04
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兵庫県警察本部配信の緊急情報のハザ-ドマップコミュニテイ-キケン発生場所等「ありがとう こうへいくん 」 http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=72・・・・・・・・・・・・・・『 不登校になると にんげんが見えてくる 』 バックナンバー http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000098424● 第2回 "陣痛"としての不登校 思えば、あの4年目の3月、自分について考える機会を持てたことが、私の人生の転機でした。高校最初の4年間は、心配してくれたクラスの仲間たちの友情と、待ち続けて下さった先生方の信頼を裏切り続けた、弁解の余地のない時代でした、しかし、この4年間があったからこそ私の心に転機が訪れた、と理解すれば、私にとって登校拒否は、自己変革と成長のための"産みの苦しみ"であったとも言えると思います。 「登校拒否を卒業して」<「登校拒否児とともに歩む父母の会」会報『あゆみ』1987.7(一部修正) > 解 説 この文は、私にとって登校拒否がどのような意味を持っているか、という点についてまとめた部分です。すなわち、登校拒否を、新しい自己に生まれ変わるための"陣痛"ととらえているわけです。 言い換えれば、私には登校拒否が必要だったのです。決して、損失でも不幸でもありません。むしろ、私にとって登校拒否は、人格形成のためには不可避な、そう運命づけられた出来事だったと思われるのです。 なぜそう断言できるのか。登校拒否の前と後では、自分がまったくの別人だからです。 登校拒否になる前の私は、消極的で自ら友人を求めることもないほど、人間関係を軽視する尊大な子どもでした。ところが、登校拒否になってから、たまに登校したとき、クラスメイトや担任の先生が、じつに温かく気遣ってくれたことにショックを受け、私は生まれて初めて、友情や人間関係の素晴らしさや大切さに気づいたのでした。 そんな体験が積み重なってきた3年目、その年の担任の先生の示唆により、私は「自分を変える」という課題に取り組み始めました。そしてその結果、翌年には、自ら友人を求め、人間関係を大切にする人間になったと、自負できるまでに変わりました。立ち直ったのは、その年の3学期です(前号で詳述)。 そのようなわけですから、私は、あのとき登校拒否にならなかったら、と思うとゾッとします。登校拒否になったからこそ、人間の持つ優しさや温かさ、そして友人の大切さや人間関係の大切さを知ることができたからです。 東京大学病院の石川憲彦氏は「ある小学生が、登校拒否の後"登校拒否になって人格ができたような気がする"と言ったのを聞いて、それまで納得できなかったことが納得できた」*1) と述べておられますが、今の私は、まさにこの小学生と同じ心境なわけです。 以上のように、登校拒否経験者が皆、登校拒否を人格形成の過程の一部として、後から肯定的にとらえることができるようになることを、切に願ってやみません。しかし、難しいことです。 *1) 石川憲彦「人間を矯正しようとする治癒」(『登校拒否』太郎次郎者) 丸山 著 『こうざつうしん』(1991) より転載 ● 〔 今補足したいこと 〕不登校で自分らしさをゲット! 思春期を"第2の誕生"と表現することがあります。それをもじって言うと、不登校は私にとって"第3の誕生"でした。つまり、現在の私は、不登校が終わった日に生まれたわけです。 最近、私と同様「不登校になったから、今の自分がある」と語る不登校経験者が増えているようです。逆に言うと「不登校にならなければ、今の自分はなかった」ということです。これは重要な点だと思います。 「今の自分」という言葉は「自分らしい自分」「何の違和感もない自分」と言い換えることができます。それは「自分の生き方が、自分の個性や感性に合っている状態」を指しているのでしょう。 反対に「自分らしく生きていない」という「違和感」を自分に感じたとき、人は"自分さがし"を始めるのでしょう。しかし人は、通常の生活を送ったまま「自分の個性や感性に合った生き方」を発見できるほど単純な生き物ではありません。 子どもにしても、それまでの自分に違和感を持ったとき、通学を続けながらそれを調整し「自分の個性や感性に合った生き方」に変わっていくことは、並み大抵の努力でできるものではないはずです。 不登校になり、毎日通学する生活をリセットすることによって、初めて"自分さがし"が可能になり、その結果「自分らしく生きていない自分」に別れを告げ「自分らしく生きていられる自分」に変わることができるのなら、不登校も大いにけっこうなのではないでしょうか。 (続)----・□ 教育相談のご案内 □・--------------------------------------------------------------------------------------------------------●● 教育相談のご案内 ●● スクールソーシャルワークという援助法にもとづき、面接のみならず、 相談員自ら家庭や学校を訪問し、本人を支えつつ周辺状況を改善する ことで、当事者主体の問題解決をめざします。 相談内容:不登校・引きこもり・子育て・家族間暴力・ 親子関係・相談機関の選び方と相談の仕方... ◎ 教育相談は事前予約制になります。 ◎ 初回相談は無料です。(メールでの相談は受けておりません) 詳細は→ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/sodan.html● 当スタジオは、教育相談以外に、フリースペースやグループワーク、 関連する体験学習・講座などの援助的プログラムも実施しています。 栄養満点の"育ちと学び"が体験できる空間に足を運んでみませんか... ※ 各種プログラム詳細ご案内は こちら→ http://homepage3.nifty.com/Husta/prog/indexx.html ◎ 相談予約・資料請求・申込みはこちら↓のフォームからどうぞ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/join.html
2006.10.04
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「ありがとう こうへいくん 」 http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=72・・・・・・・・・・・・・・『 不登校になると にんげんが見えてくる 』 これから載せる記事は、前号までの体験記が雑誌に掲載された時から5年前、私が社会人1年生だった年に、ある講座の通信に連載されたものです。高校卒業からそれまでの5年間、私は教師をめざして大学生活を送っていました。しかしその時代は、私にとってとても暗いものでした。理由は次の連載でお話することになりますが、あるきっかけから再び精神的に不安定になり、青春時代を楽しむことなく終わってしまったのです。 4年生になり、出身高校での教育実習のあと、不登校をテーマとした卒業論文の研究を始めた私は、文献をあたっていくうち「不登校になってなかったら、今の自分はなかった」ということに気づきます。教員採用試験に合格できないまま卒業した私は、偶然にも出身高校に非常勤講師の空きを見つけ、1年間の講師生活を始めます。教員採用試験の受験勉強を続けながら教壇に立つかたわら、私はその講座の通信に、初めて自分の不登校を肯定する記事 『登校拒否になると にんげんが見えてくる』を載せることにしたのです。 ●● 第1回 立ち直る理由 暴れた翌日、私は1日中自分というものについて考えました。そして、何時間も考え続けたとき、ふと「退学になったからといって、それがなんだ」と、自然に思えるようになったのでした。こんな考えは、それまでの私には、まったく思いもよらなかったことでした。そして─この学校を卒業できないからといって、生きていかれないわけではない。「高校を卒業する」というのは、人生全体から見れば"目先の目標"にすぎないではないか。人生には、もっともっと大切なことがある─この、今考えればごく当たり前のことに、やっと気づいたのでした。 これにより、私の心は、落ち着きを取り戻していました。それまでは、留年のたびごとに「進級」を至上の目標にして、再スタートをしていた私でしたが、この日を境にして「精神的自立」という、学校とは何の関係もないものに変わったのです。不思議なもので、そうなりますと「何とか登校しなければ...」という焦りと気負いが、頭の中から消え去り、ごく普通の心理状態を取り戻すことができたのでした。 「登校拒否を卒業して」<「登校拒否児とともに歩む父母の会」会報『あゆみ』1987.7(一部修正) > 解 説 前号「発行者略歴」欄にありますとおり、私は高校の卒業までに7年かかりました。前半の5年間は"登校拒否"による出席日数不足のため、4回連続留年してずっと1年生。その4年目、3学期のある日に、私は立ち直りました。 上の文は、その立ち直った瞬間のことを書いた部分です。すなわち、この年、回復への意欲が出てきて、何とか立ち直ろうともがいて、進級まであと一歩のところまで出席日数を積み重ねたものの、結局崩れて、今度こそ退学だろうという切迫した事態に直面したとき、学校価値に囚われていた人生観が"クルッ"と転回して、人として本当に大切なものに気づいたとき、私がもがくのをやめた─ということを示しています。 もがいている限り立ち直れず、もがくのをやめたら立ち直った─というのは、不思議なことですが、事実なのです。思いますに"登校拒否"と呼ばれる状態のもっとも大きな要因は「立ち直らなければならない=平常に通学しなければならない」という方程式を必死になって解こうとして、もがき苦しむことにあるのではないか。だとすれば、どうすれば本人がもがくことをやめられるか─ということが"登校拒否"解決のカギだと言えるのかもしれません。 丸山 著 『こうざつうしん』(1991) より転載 ● 〔 今補足したいこと 〕「立ち直る」という表現について 「不登校から立ち直る」という表現を「不登校は直すべきものという誤解に基づく不適切な表現」と非難し、行政機関が発行した文書などにそういう記述を見つけたら、抗議して書き換えさせる方たちがいます。 確かに、不登校経験のない行政機関の方たちは、不登校への誤解からそのような言葉を使っているのでしょうから、不登校児を支援する方々が抗議するのは、よくわかります。しかし、私のような経験者が、実感から「立ち直る」という言葉を使うこともいけないのでしょうか? フリースペースもフリースクールもなかった昔は、登校しないこととそれによるプレッシャーや罪悪感などの精神的苦痛は"セット"であって、学校復帰に向かって"回復"するにつれ苦痛が軽くなる、というのが多くの不登校の経過でした。 前の連載で書いたように、私の場合は"セット"だったばかりか、最も苦しかったのは最後の数日間だったわけです。そこから抜け出すことができたことを「立ち直る」と言わずして、何と表現すればいいのでしょうか。 もっとも、私自身「不登校から立ち直る」という表現は、最近しなくなり、前の連載でも書いたように、今は「不登校が終わる」という表現をよくします。不登校は"直すべきもの"ではないと、私も考えているからです。 (続)----・□ 教育相談のご案内 □・●● 教育相談のご案内 ●● スクールソーシャルワークという援助法にもとづき、面接のみならず、 相談員自ら家庭や学校を訪問し、本人を支えつつ周辺状況を改善する ことで、当事者主体の問題解決をめざします。 相談内容:不登校・引きこもり・子育て・家族間暴力・ 親子関係・相談機関の選び方と相談の仕方... ◎ 教育相談は事前予約制になります。 ◎ 初回相談は無料です。(メールでの相談は受けておりません) 詳細は→ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/sodan.html● 当スタジオは、教育相談以外に、フリースペースやグループワーク、 関連する体験学習・講座などの援助的プログラムも実施しています。 栄養満点の"育ちと学び"が体験できる空間に足を運んでみませんか... ※ 各種プログラム詳細ご案内は こちら→ http://homepage3.nifty.com/Husta/prog/indexx.html ◎ 相談予約・資料請求・申込みはこちら↓のフォームからどうぞ http://homepage3.nifty.com/Husta/join/join.html
2006.10.03
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こうへいくん ありがとう http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=72*****親の気持ち・親の疑問(5) 「私(たち)がいなくなったらどうなるのでしょう」 年齢の高いひきこもり青年の親御さんは高齢ですから、お子さんの行く末をこのように心配されていることでしょう。事実この言葉は、親の会などでよく聞かれます。 前号まで、親御さんのさまざまな言葉に意見を返していた私も、これを言われると返す言葉が見つかりません。もちろん、これから意見を申し上げますが「何を言っても気休めにしか聞こえないだろう」という忸怩(じくじ)たる思いがあります。 それは、この言葉が正論だからです。親である以上、そういうふうに心配して当然ですし「大丈夫。必ず社会に出られるようになる」などと、将来を予言するような励ましを言っても、リアリティを感じていただくことができないことは、私にもよくわかっています。 現代社会は、それほどまでにブランクのある若者に冷たい社会ですから。 そう認識しながらも、あえて私がコメントするとすれば、次のようになります。 親御さんの、自分(たち)がいなくなったあとのお子さんの行く末へのご心配の内容は、大まかに言って次の三点ではないでしょうか。 1. 親無しで社会参加できるようになるのか。 2. 社会参加できるようになるまで、誰が経済的な面倒を見るのか。 3. 社会参加できるようになったとして、就職口があるのか。 しかし、よく考えると、これらはすべて社会の側の課題であることに気づきます。一点目は支援システムの充実、二点目は社会保障制度の運用、三点目は企業社会の柔軟性、という課題に行き着くのです。 言い換えれば、ひきこもり青年に対するこれらの課題への取り組みが進めば進むほど、誰にとっても生きやすい社会になっていきます。その意味でも、ひきこもり青年だからということではなく、誰でも生きやすい社会を実現する一環として、ひきこもり青年に社会が対応することの重要性を、現代人は認識する必要があると私は考えています。 「そうは言っても・・・」ということですよね。 社会が進歩するまで何年かかるのか。それまでの間、わが子はどうなるのか。 あるいは、社会保障のお世話になるような、みじめな人生を送ることになってしまうのか。 親というのは「自分が生きている間に、わが子に一人前になってほしい」「わが子がまともに生きていけることを見届けるまでは死ねない」などとお考えになるものだと思います。 この思いを私なりに翻訳させていただくなら「親が生きている間に結果を出してほしい」ということになるのではないでしょうか。 「結果を出す」というのは無味乾燥な表現ですが、学校を卒業する、就職する、あるいはそこまで行かなくても、せめて他人の中に入っていけるようになる、外出できるようになる、・・・など"精一杯譲歩しながらの切なる願い"を指しています。 ただ、そのことは、お子さん自身もよくわかっていると思います。 前号でもお話したように、本人は常に「何かしなければ」と焦っていますし、その気持ちの背景には「親が健在なうちに」という要素も含まれていることが多いはずです。 しかし、本人が計画的に「あと何年で結果を出す」と決められるものではありませんし、支援者が強制すれば実現するものでもありません。 本人がいつ「結果を出す」かは、誰にも予想できない、極論すれば、"神のみぞ知る"というレベルの事柄です。 ただし「親が生きている間に結果を出す」ことにこだわらなければ、現在の親御さんの対応によって、わが子の行く末に良い影響を与えることは可能です。 それはどういう対応なのか。いささかロマンチックに過ぎるというそしりを覚悟の上で、私の考えを申し上げます。 家庭のなかで、小さなことでもいいから喜びや楽しさを見つけて本人と笑い合う、そんな楽しい生活を、最後の最後までやり抜くことです。 楽しい生活は「生きる喜び」という栄養になります。それはお子さんの心身にも蓄積され、将来ひとりになったとき、生きるエネルギーとして使われ始めるのです。 私はこのことを、次のような"法則"として端的にまとめています。 親亡きあと、本人が幸せに向かってしっかり生きていけるかどうかは、親子で生活していたときの、本人の笑顔の数に比例する。 現在のお子さんとの生活で、お子さんが笑顔をたくさん見せるほど、将来ひとりになったとき、前向きに生きる力がより多く蓄えられていくのです。 5回にわたって、親御さんの「考えさせられる印象的な言葉」や「多くがおっしゃる言葉」を取り上げ、それに対する私の意見をお伝えするという、いささか僭越な連載をしてきました。 次号では、前号の最後にお願いした「親御さんからのご意見ご感想」または「こんなことをよく思う、よく言ってしまうという言葉」が寄せられたら取り上げます(末尾の「ご感想ご意見お便り」のアドレスをクリックして出たメールフォームをご使用ください)。8月9日までに寄せられなかった場合は、このシリーズは今回で終了します。:筆者:丸山 康彦(まるさん) スクールソーシャルワーカー(訪問子ども援助職)。高校時代、 不登校と留年の末、入学7年後に卒業。高校講師・ひきこもりを経て、 1999年4月に個人事務所「教育対策研究所」を開設。2001年10月に 当ヒューマン・スタジオを設立し代表に。━━・● ご あ ん な い ●・◎ 当メルマガ執筆者丸山が代表をつとめる教育相談機関・・・ 「ヒューマン・スタジオ」は、 スクールソーシャルワークという援助法にもとづき、面接のみならず、 相談員自ら家庭や学校を訪問し、本人を支えつつ周辺状況を改善する ことで、当事者主体の問題解決をめざしています。 詳細は「ヒューマン・スタジオ」のホームページでご覧ください→ http://homepage3.nifty.com/Husta/sodan/ ◎ ヒューマン・スタジオが、親御さんや教育・援助の関係者に贈る、 お役立ち情報誌「青少年支援ガイド」を発行しています! 子どもの不登校や青年のひきこもり等、青少年問題への対応のヒントや 関連イベント情報、ヒュースタ発のさまざまな情報を発信しています。 次号は夏季休業のため休刊します。 毎月第2・第4水曜は「青少年支援ガイド」をご活用ください! 詳細・ご購読登録は↓からどうぞ!http://homepage3.nifty.com/Husta/maga2.html
2006.10.02
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おめでとうございます。 コミュニティ型SNS「ひょこむ」2006年10月1日 公開、運用を開始 「住民ディレクターひょうご創設準備連絡会」 http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=35このことを機会に、兵庫県警の協力を得て、安全・安心に過ごせるためのコミュニテイ-を作成しました。よろしくお願いします。http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=72 コウノトリ-情報センタ-ふきのとう姫路(兵庫県ひきこもり世話人連絡会)-自立促進・就労サポ-ト事業 http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=34こころ豊かな人づくり500人委員会現役・OB広報(中・西播磨)-私設http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=38ふるさとひょうご創生塾広報(私設)http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=39情報センタ-ふきのとう姫路 スタッフ一同 http://www.geocities.jp/fukinoto_himeji/test5.html 親の気持ち・親の疑問(4) 「あの子は現実から逃げています」 前号で取り上げた「苦しんでいるように見えません」と共通するニュアンスを含んだ言葉です。 私の場合これは、親の会やインターネットの掲示板などでときどき見聞きするだけで、相談場面ではほとんど聞かないのですが、親御さんが本人のことをどう見ているかがうかがわれ、考えさせられる言葉です。 私が知るかぎり、この言葉は不登校やひきこもりそれじたいではなく「苦手科目の授業、テスト、就職活動、などから逃げている」とか「学校の教室に入れない自分の弱さを克服する努力から逃げている」などといった、個々の場面を指して語られることが多いようです。 「個々の場面をひとつひとつ乗り越えて、元の生きざまに一歩一歩近づいてほしい」という、親御さんの願いが伝わるような気がします。 112号で私は、そのような「現実から逃げている」と親御さんに思われる彼らの言動を、次のように描写しました。 たとえば「明日こそ登校する」と言いながら、翌朝になると「やっ ぱり行けない」と布団をかぶる。「テストだけは受ける」と言って勉 強しながら、当日になると欠席する。(中略) 彼らは「こうしよう」と本気で自分の行動を決めます。しかし、い ざその時になると、心にブレーキがかかる、体が動かない、といった 状態になり、実行できないのです。 つまり彼らは、登校したり学校や就職の試験を受けたりすることを、一度は決心します。ところが、当日になるとそれができなくなります。 そうなったとき、号泣した、あるいはさめざめと泣いた経験のある人は少なくないと思います。私も両方経験しています。 そんな本人を「また逃げた」と解釈し、泣いているのを見ても同情しない親御さんもおられるようです。 しかし、泣くということは、大きなショックと挫折感に打ちのめされて、深く傷ついていることの表れなのです。 以上のようにまとめてみると、不登校児やひきこもり青年は、現実逃避しているのではなく、逆に現実の重さを知っているがゆえに(99号参照)、その重さに押しつぶされているように感じるのです。 第一に、112号でお話ししたように、彼らの「登校しよう」「テストを受けよう」などの決意は、その時点での本心です。決して最初から逃げる気だったわけではなく「何かすべきだ」と思い詰めているのです。 第二に、彼らは何かを実行しようと決意したとき、そのことをあまりにも強く意識してしまって、頭がいっぱいになっていることが、実行できなくなる原因なのではないか、と思われるのです。 そのことを、スポーツ選手がスランプになったときにたとえてみましょう。 スポーツ選手は、調子が落ちてくると自分の思ったような結果が出なくなります。野球の投手ならコントロールが悪くなるとか、陸上競技のランナーならタイムが悪くなるとか。 そんなとき、調子を取り戻そうと躍起になると、ついつい力みがちになってフォームが崩れ、さらに調子が落ちる。それがだんだんプレッシャーになり、そのため普段は感じない焦りなどを感じるようになって、ますます調子が落ちる--という悪循環にはまっていきます。 不登校やひきこもりも、原理は同じです。 本人は、自分の思い通りに行動することができなくなります。登校できなくなるとか、試験が受けられなくなるとか。 そんなとき、登校しよう、試験を受けようと躍起になると、心のバランスが崩れ、さらに体が動かなくなる。それがだんだんプレッシャーになり、以前は感じたことのなかった焦りなどを感じるようになって、ますます実行できなくなる--という悪循環にはまっているわけです。 このように考えると、不登校やひきこもりは「人生のスランプ」のようなものだとわかります。 では、スポーツ選手はどのような対策でスランプを脱出するのでしょうか。 「練習あるのみ」と猛練習で克服できる選手もいれば、気分転換を兼ねて練習の方法を変える選手もいるのでしょう。 あるいは、思い切って練習を休んでしまう場合もあります。 プロ野球で、調子の悪いチームの監督が、練習日を休日にして、選手を休ませるのはその一例です。 練習を続ける立場からは、練習を休むのは「逃げ」に見えます。 しかし、休んでリフレッシュすることは、考えようによっては「正しい逃げ方」と言えることに、異論は出ないでしょう。 そこで、不登校やひきこもりという「人生のスランプ」の場合も、脱出するためには「登校しようとか試験を受けようとか考えること」を休むことです。寝ても覚めても「何かやらなければ」という焦りでパンクしそうな頭を休めて、リフレッシュするわけです。 彼らは逃げてはいけないのではなく、正しく逃げるべきなのです。 * * * * このシリーズに対する、親御さんからのご意見ご感想、または「こんなことをよく思う、よく言ってしまう」というお言葉を募集します。 末尾の「ご感想ご意見お便り」のアドレスをクリックして出た「ご感想・ご意見・連絡フォーム」をご使用ください。:筆者:丸山 康彦(まるさん) スクールソーシャルワーカー(訪問子ども援助職)。高校時代、 不登校と留年の末、入学7年後に卒業。高校講師・ひきこもりを経て、 1999年4月に個人事務所「教育対策研究所」を開設。2001年10月に 当ヒューマン・スタジオを設立し代表に。━━・● ご あ ん な い ●・◎ 当メルマガ執筆者丸山が代表をつとめる教育相談機関・・・ 「ヒューマン・スタジオ」は、 スクールソーシャルワークという援助法にもとづき、面接のみならず、 相談員自ら家庭や学校を訪問し、本人を支えつつ周辺状況を改善する ことで、当事者主体の問題解決をめざしています。 詳細は「ヒューマン・スタジオ」のホームページでご覧ください→ http://homepage3.nifty.com/Husta/sodan/ ◎ ヒューマン・スタジオが、親御さんや教育・援助の関係者に贈る、 お役立ち情報誌「青少年支援ガイド」を発行しています! 子どもの不登校や青年のひきこもり等、青少年問題への対応のヒントや 関連イベント情報、ヒュースタ発のさまざまな情報を発信しています。 次号は「スクールソーシャルワークの援助法を読んで」ほか。 毎月第2・第4水曜は「青少年支援ガイド」をご活用ください! 詳細・ご購読登録は↓からどうぞ!http://homepage3.nifty.com/Husta/maga2.html
2006.10.01
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