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久しぶりの更新。俺には、聞くとゾワっとする言葉がある。ゾワという表現が正しいかは分からないが、なんだかやるせない気持ちになるのだ。その言葉は、「エモい」だ。若者言葉として、浸透した「エモい」は今やテレビでも聞かれ、職場の同僚が使う場面も聞く。ある意味で「エモい」は市民権を得た言葉となり、世間で認知されているのだ。俺は声を大にして言ったことがない。言ったことがないからこそ、「エモい」を聞くとゾワっとする。ある日、妻がテレビの若者言葉のエモいについて発言をした時に堪えきれずに言った。「その言葉さ、俺大学時代から使ってたよ!なんなら、普及した側かもしれん。」妻にはそんなの嘘だよ。と返された笑心が小さくソワソワした。その時、俺はエモいに対して特別な思い入れがあるんだと気がついた。すぐにエモいについて検索をかけた。以下wikipedia 引用若者言葉としての「エモい」自体は2007年頃から存在していたが[1][10]、三省堂の「今年の新語 2016」で2位にランクインしたことをきっかけに話題になった[11]。ベンチャー企業「COMPLExxx(コンプレックス)」の調査に拠れば、10 - 20代の女性中心516名のうち、79%が「エモい」について「知っている」と回答[1]。使うシーンとしては「ぐっと来た瞬間、感動した瞬間」53%、「『ヤバい』の代用」20%、「悲しい、寂しいなど暗い感情のとき」10%であり[1]、同社代表より言葉にできない絶妙な感情を表現する目的で、これまでの『ヤバい』と似た使われ方をしているとの指摘がなされている。2007年・・・絶対にそれ以前に使っていた自負がある。決して今の使われ方が間違っているとか言う訳ではないが、自分が愛してやまなかった「エモい」が、コミュニティ内のコミュニケーションで使用していた「エモい」が、すごい遠くに行ってしまった気分なのだ。これは、幼稚園からの幼馴染が芸能人になったり、大谷翔平になったり、三苫薫みたいになったのに近い感覚なのだ。まさに、今の俺のエモいに対する感情はめっちゃエモい笑ということで、2005年からブログを続けているのだから、当時エモいを使った記事もあるだろうと探してみた。これは、本当に俺達は幼馴染だったよなという確認作業でもある笑100から200件の自分のブログを探す。ブログ内の検索機能を使用してもない。2006年頃に「エモ」というタイトルのブログはあったが、文脈的にエモいには触れていない。まさに、砂粒の中から一粒の砂金を探している気分だ。俺達、幼馴染だったよな。エモい!エモい、俺たちは・・・疑心暗鬼になり諦めかけていたその時ついについに、あった。エモいあった。エモいあったよ〜〜!あったよ、あったよ、あったよ、俺の愛して止まなかったエモいが!エモいがあったよ〜!2007年1月26日のtestowatyoみたいな記事の日記以下はペーストした本文人生人生人生 死ぬ死ぬ死ぬ 生と死、産まれては死ぬ 生と死、産まれては死ぬ 吸血鬼は永遠に死なない約束されたもの♪ ハハハハ(笑) この歌おもしれぇ!! ちなみに、この曲洋楽です!! でも日本語で歌ってます(笑) エモすぎる。フフフ このバンドの国内での人気はヤバすぎです!! サマソニで人気すぎて人が入れなかったほどの人気さ!! 某雑誌のインタビューにて 今回の作品はテーマが重いですねぇ そうなんだ。俺はいつも陽気な曲を作ってるんだけど、もっと自分の内面をかこうと思ってね。 どうだい、俺の内面でいろいろ深い事を考えているという事がわかっただろう?俺の違う一面を見せたかったんだよ!! てな感じのインタビューでした(笑) 深いというよりエモい!! 深いというより暗い(笑) てか、なんで吸血鬼がでてくるんだよ(笑) 俺はこのバンドが大好きです!! さてさて、テストがついに終わりました。 バンザァイ、バンザァイ そうそう、テストを受ける前に友達にジェットラッグて言われて吹き出しそうになった!! たぶんグットラックと言いたかったのかな。てか、オヤジギャグだったのかな!! 笑ってたし・・・ 時差ボケって・・・ ハハハハ(笑)グッドシャーロットというバンドの3rdアルバムの記事を見てエモいと言ってるブログだ。エモい・・お前、ここまで大きな存在になりやがって・・俺は、今エモいをギュッと抱きしめた笑エモい、お帰り!お帰り、お帰り、エモい!・・・・回想シーン2006年、俺は世田谷の学習塾でバイトをしていた。学習塾の仲間の中に、the get up kidz、jimmy eat worldといったいわゆるemoというジャンルが好きな友人が何名かいた。最近は、emoという言葉は楽曲にしか使用していなかった。jimmy eat worldのあの曲めっちゃエモい曲ですよね。とかそんな感じだった。それが次第に、今日めっちゃエモいことあったんですよとか世間話に転用していき、その会話を聞いていた他の講師から「何ですか?そのエモいって。」と尋ねられる機会も増えていった。次第に、仲間内で使用していたエモいは男女問わずに講師仲間内で使われる場面を見ていた。結局、俺は大学の卒業を契機にエモいとも離れ離れになり、その後、エモいが何をしているかもわからなかった。そして、妻と出会い社会人になった頃、テレビで若いタレントが言った。エモい・・(えっ、エモ、エモい・・)お前、いなくなったんじゃあそこからは、ゾワゾワする日々の連続だった。エモい!ゾワエモい!ゾワエモい!ゾワ(実は、エモいとは幼馴染でして・・・)そんな訳ないじゃーん笑ゾワゾワ俺とエモいはもう二度とあの頃には戻れない。そう感じたのだ。だが、今回確かに俺はエモいと改めて幼馴染であったことをブログの確認作業を通して再確認できた。そう。だから、俺は胸を張る。エモいが三笘級になろうと、大谷級になろうと俺は、エモいを愛してる笑ちなみに、コーヒー飲んでます。
2025年07月19日
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備忘録コーヒーの美味しいとは主観性が占める部分が大きい。コーヒーを淹れる上で、美味しいの定義を知ることは大事だ。美味しいには100人いたら100の美味しいがあり、トップバリスタは、100の美味しいを引き出せる幅がある。ただし美味しいの幅にも正規分布があり、逸脱しすぎる部分を美味しいと言えるのかは議論の余地があると思う。なので、世の中にあるコーヒーを美味しく淹れる方法なるものは、まず美味しいとは何かと向き合わずに盲目的にその抽出方法を信奉すると、出せる美味しいの幅が狭くなる。盲目的にならないために必要なことは、抽出者自身が様々なコーヒーを飲むことで美味しいの幅を理解することが必要。また、美味しいの再現性を高めるためには、抽出者自身の味覚を磨くことは必須で、飲んだ印象を言語化し表出する作業は美味しいコーヒーを淹れる上での第一歩となる。購入するコーヒーには、フレーバーが記載されているチョコレート、ワイン、ナッツのようなといった具合にだ。これはバリスタの共通言語と言ってもよいだろう。道標がないのに、コーヒーを言語化することは難しいため、先人が味の道標として記した用語に即して言語化を重ねる内に、コーヒーの味は言語として昇華されていく。コーヒーの美味しいを知ること、それがコーヒーを淹れる上での第一歩。備忘録21杯のコーヒーから感じる春夏秋冬コーヒーには季節がある。冷めたコーヒーは美味くないと言うが、それは古い考え方だ。美味いコーヒーは冷めても美味い。時間をかけて温度変化していく一杯のコーヒーを、春夏秋冬のように味わいの変化を楽しむ。淹れたてのコーヒーは香りとコクを楽しみ、温度が下がってから出てくる果実感や酸味を楽しむ。一杯のコーヒーから楽しめる多様な味の変化も、コーヒーの美味しいの楽しみ方の一つだ。備忘録3バリスタはコーヒー豆の100%以上は引き出せない。基本的にコーヒーの抽出は減点式だと考えている。これは、バリスタによって考え方は違うだろうが、豆のポテンシャル以上は引き出せないと考えている。故に、美味しいコーヒーを飲むためには、絶対的に品質の高い豆を選ぶことが大事なのだ。もちろん、品質と美味しいが比例しているのならば管理が大事なのは当然である。管理が疎かであると品質も下がるため、当然ながら適切な管理方法を知る事も大事だ。コーヒーを淹れる上で技術から学ぼうとすることは良いことだが、一番大切な一歩は美味しいを知ることだ。味覚は経験で養い、技術は知識と練習で養い、豆の知識を蓄えることで始めて美味しいの土俵に立てる。コーヒー道は奥が深い。
2023年10月15日
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初の12月キャンプ、初の伊豆キャンプに行ってきました。今回は、弓の又キャンプ場から抱いていた夢の実現に向けての試金石となるキャンプでした。弓の又キャンプ場から抱いていた夢というか野望は、満天の星空の下で星空を見ながら寝るというものです。当初は、テントにフライヤーを張らずに寝ることを考えていましたが、ギアの試行錯誤をする中でハンモック泊が星空を見る上では最良だとの結論に至りました。弓の又キャンプ場で抱いた野望から、2回のハンモックキャンプでハンモックの実用性に確信を持ち、今回の伊豆キャンプに至ったのです。そもそも、何故伊豆なのかという話しなのですが、12月の降水率が6%かつ晴天率が75%というコンディションだからです。かつ、冬は最も星見に適した時期でもあります。しかし、冬は多くのキャンプ場が閉鎖し、星空で有名な多くのキャンプ場で冬季は休業せざるを得ない状況でした。そこで、白羽の矢が立ったのが西伊豆にあるオートキャンプ銀河でした。キャンプ場の名に銀河を入れる通り、星空自慢のキャンプ場です。冬キャンプかつ星空が見れる条件が整いました。ですが、星空を見るためにはまだまだハードルがあります。そもそも、ハンモック設営が可能かという問題です。ハンモッカーの仲間入りして1年半余りが経過していますが、まだまだマイノリティな領域です。全国のハンモッカーがハンモック設営が可能なキャンプ場をマップにしてシェアするほど、ハンモックキャンプは限定的です。オートキャンプ銀河はハンモックマップには掲載されておらず、まさにハンモッカーには未開のキャンプ場になる訳です。私は、恐る恐る管理人に電話をかけて木に結びつける形でハンモック設営が可能か問い合わせしました。なんと、OKの二つ返事です。星空が見れるキャンプ場でハンモックという条件が整いました。しかし、ハンモックをかける場所は大概が林間サイトです。林間サイトを利用する場合、いくら星空自慢のキャンプ場と言えども空が木に遮られる可能性大です。そのため、このロケーションを最大限に活かすための工夫が必要となるのです。ギア選考編につづく
2021年12月25日
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初の12月キャンプ、初の伊豆キャンプに行ってきました。今回は、弓の又キャンプ場から抱いていた夢の実現に向けての試金石となるキャンプでした。弓の又キャンプ場から抱いていた夢というか野望は、満天の星空の下で星空を見ながら寝るというものです。当初は、テントにフライヤーを張らずに寝ることを考えていましたが、ギアの試行錯誤をする中でハンモック泊が星空を見る上では最良だとの結論に至りました。弓の又キャンプ場で抱いた野望から、2回のハンモックキャンプでハンモックの実用性に確信を持ち、今回の伊豆キャンプに至ったのです。そもそも、何故伊豆なのかという話しなのですが、12月の降水率が6%かつ晴天率が75%というコンディションだからです。かつ、冬は最も星見に適した時期でもあります。しかし、冬は多くのキャンプ場が閉鎖し、星空で有名な多くのキャンプ場で冬季は休業せざるを得ない状況でした。そこで、白羽の矢が立ったのが西伊豆にあるオートキャンプ銀河でした。キャンプ場の名に銀河を入れる通り、星空自慢のキャンプ場です。冬キャンプかつ星空が見れる条件が整いました。ですが、星空を見るためにはまだまだハードルがあります。そもそも、ハンモック設営が可能かという問題です。ハンモッカーの仲間入りして1年半余りが経過していますが、まだまだマイノリティな領域です。全国のハンモッカーがハンモック設営が可能なキャンプ場をマップにしてシェアするほど、ハンモックキャンプは限定的です。オートキャンプ銀河はハンモックマップには掲載されておらず、まさにハンモッカーには未開のキャンプ場になる訳です。私は、恐る恐る管理人に電話をかけて木に結びつける形でハンモック設営が可能か問い合わせしました。なんと、OKの二つ返事です。星空が見れるキャンプ場でハンモックという条件が整いました。しかし、ハンモックをかける場所は大概が林間サイトです。林間サイトを利用する場合、いくら星空自慢のキャンプ場と言えども空が木に遮られる可能性大です。そのため、このロケーションを最大限に活かすための工夫が必要となるのです。ギア選考編につづく
2021年12月20日
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20代までの趣味の作り方って、自分の内なる興味が転じて趣味になることが多かった。 だが、30代に入ってから自分の内なる興味の拡がり方はやや遅くなり、内的な誘因だけで新たな趣味を創出するのも難しくなってきた。 だが、趣味の作り方は内的誘因だけでなく外的誘因でも趣味となることにも最近気がついた。 というのも、キャンプとコーヒーは30代になってから、完全に外的誘因によって趣味になったからだ。 キャンプはもともと興味あったかと言えば、全くなかった笑 ただ、友達がキャンプ行きたいというので、友達とダベりたい俺はキャンプについていくことになる。 そして、現地では火起こしからテント張りまで全てに自信がなく、完全にキャンプ場ではお客様になる気分だった。(末っ子気質) というか、野外で汗かきながらテント設営とかダルいと思った。 だから、友人にキャンプ場では全てを任せるために、キャンプ場の手配は自分が全てこなした。 キャンプ道具のレンタル、キャンプ場の手配、タイムマネージメントなどだ。 よし、ここまでやったぞと言う自負はあった。 だから、キャンプ場ではみんな頑張れって感じで着いていったら想定外のことがあった。 みんな素人だったのだ。 仕方なく、火付けやテント設営に加わる。なんとか、キャンプという形のものが出来上がる。 そういったキャンプを2回ほど繰り返す過程の中で、毎回レンタルを手配するのは面倒だと考えるようになった。 なら、テント買っとくか。 ここが、キャンプ趣味の引き金となった。 自分の道具をそれなりの対価で買ったなら、その価値を取らないと考えるようになった。 これは、心理学のコンコルド効果に少し似ている。 コンコルド効果とは、ある対象にお金や気持ち、時間を投資し続けることが大きな損失になるとわかっていても、それまでの投資を惜しんでやめられない心理のことだ。 例えば、行列に一度並ぶと並んだ時間の対価を求めるために、抜けれなくなったり ギャンブルやゲーム課金などもコンコルド効果の一例だろう。 俺がテントを、買ったことはコンコルド効果のニュアンスからは微妙にズレているかもしれないが 少なくとも、俺がテントを購入するという行為はあくまで手段に過ぎなかったのだ。 そういった意味で、対価を求めてキャンプを楽しもうとした結果、趣味になった。 コーヒーも全く同じだ。 接客が素晴らしいコーヒー屋で、30分以上コーヒーの淹れ方のレクチャーを受けた。 そのままありがとうございましたと帰れたのだが、人の善意にめちゃくちゃ弱い俺は何も買わずに帰るのは申し訳ないと思った。 そこで10000以上の金をかけて、コーヒーを淹れる道具一式を買ってしまったのだ。 その後は、キャンプ同様に元を取ろうと躍起になった。 結果から言えば、外的誘因によってもたらされたコーヒーとキャンプは、俺の内的な世界をかなり拡げた。 そして、それと同時にこんな趣味の作り方もあるんだなと思った。 その結果、今は全く興味がないものでも最初から素通りするのではなく、もしかして将来の趣味になるかなと足を止めて考えるようになった。 自分の内側だけで世界を広げるのには限界がある。 時には、思い切って自分の想像しない行動をすることにも価値はあるなと最近では考えるようになった。
2021年09月27日
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コロナ禍で制約の多いご時世となった中で、なかなか夏らしいイベントができていない。 そんな中、新たな時代の価値の創出として新しいアクティビティを作り、それを実践してみた。 その名も、リモート夏フェス オンライン 夏フェスはコロナ禍での参加することは難しいので控えたが、夏らしくイベントに参加したい気持ちはあった。 そのため、自宅にいながらして夏フェスを開催しようと思ったのだ。 まさに、ハンドメイド夏フェス2021 用意したものは4k対応プロジェクターと100inchのスクリーン アマゾンプライムのセールとポイントで7000円台でget! you tubeを流すためのアマゾンfire tv 4k対応のstick Bluetoothを発信させるためのトランスミッター トータルで15000円くらい。 フェスの2日券を買ったと思えば、なかなかのコスパ プロジェクターにアマゾンfire tv stick4kを挿して、その後Bluetoothトランスミッターをつければプロジェクターの音を複数のイヤホンやヘッドホンやスピーカーに飛ばせる。 俺はBOSEのBluetoothイヤホンにつないで準備完了した。 ハンドメイドしたフェスの面々はyoutubeにあるlive楽曲を中心に56アーティスト 多様性のあるステージ構成で楽しいライブとなった。 1.岩ステージ 大森靖子 眉村ちあき きのこ帝国 andymori Asian Kung fu generation ナンバーガール 2.フォレストステージ ペトロールズ Def Tech 高木正勝 predawn 原田郁子 3.サンセットステージ フジファブリック 台風クラブ Tempalay toe D.A.N Cero 4.スペースステージ 君島大空 ゆらゆら帝国 ogre you asshole My Bloody Valentine cornelius ZAZEN BOYS 5.火山アリーナステージ 中村佳穂 カネコアヤノ CHAI 矢野顕子 MUSE ビリーアイリッシュ avicii 6.チルアウトステージ lmyk furui riho yona yona weekenders 吉澤嘉代子 alicia keys 7.パワーステージ 日食なつ子 age factory アイナジエンド reol (sic)boy 8.パークステージ 中西俊博 nakamura emi fncy 七尾旅人 daichi yamamoto 9.クラブステージ vava 踊 foot works tofubeats nujabes トリビュートバンド skylar spence 10.ニューエイジステージ トライコット mekakushe doul omoinotake millennium parade 初めてのハンドメイド夏フェスは素晴らしい仕上がりとなった。 また、やろう。
2021年08月14日
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人の行動に理由はあるのか? ここ4〜5年、人の行動に理由なんかないと感じてる。 純粋に意思が先にあり、その意思を肯定するためのツールに過ぎないと考えるようになると 思った以上に物事をシンプルに解釈できる。 天気が良いからキャンプがしたい。 この場合、天気が良いからが理由 キャンプがしたいが意思 でも、極論はキャンプがしたいが真理なんだと思う。 情報過多な時代で、様々な理由や考えが飛び交う中で真理を見失いがちになる。 ただ、物事をシンプルに見れば理由なんてもんはあとからついてきたもんで この社会には億千万の意思しか存在しないのではないだろうか。 今、私が書いてるブログ 自分の考えを記録したいから 息子に自分の考えを残したいから など どうでもよくて こんな風に理由をつけると、自分自身に嘘をついてることにすら気づけない まるで、その理由のために行動しているように錯覚に陥るが 真実は簡単 ただ、書きたいという意思があるだけなんだなと思う。 理由は行動を強化するツールとして便利であるが 時として、自分自身をも偽るツールになりかねない注意があると感じた。
2021年06月05日
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新しいものを受け入れられなくなると老いが始まると言う言葉を聞き、すでにインスタやtik tokなどから程遠い自分は老いの過程の中にいると実感しています。 そんな自分が、姉からクラブハウスとかいう新しいネットサービスに招待されたのだが ちょっと22世紀を見た気分になり そっとアプリを閉ざして早2ヶ月になります。 そんな情報音痴で老化進行中な自分ですが、音楽だけはこのブログの開設当初と熱量を変えずに向き合えています。 毎週金曜日に更新されるi tunesの曲を1週間に渡って視聴し、自分のプレイリストを更新するという作業を10年は続けています。 そんな、10年を続けていくと音楽シーンの変化には敏感になるもので そのシーンの変化に戸惑いも感じています。 ここ最近の音楽的な傾向を見ると、2015年以降くらいからソロアーティストの躍進がかなり目立っていると感じます。 米津玄師をはじめとするネット発とする音楽は2020年までに加速的に拡大し 超個人時代が到来していると言っても過言ではない音楽シーンが来ていると思います。 個人的には、音楽にどハマりした20代前半はバンドシーンの全盛期であったため 1人で音楽を作成し、1人で音楽を発信するシーンに驚きと可能性を感じる一方で 正直、戸惑いもあります。 バンドサウンドの良さは、人に溢れていたと感じます。 1人だけのアイデアでは生まれないような、複数人の知恵が詰まった叡智のような曲が生まれることもあり、個人的にはバンドサウンドには暖かみを感じることがありました。 ですが、その一方でバンドサウンドには脆弱性もあり人間関係の関係性が崩れると、これまでの音楽発信が難しくなります。 そういった意味では、個人の音楽発信の方が安定感はあるのかもしれません。 さて、昨今の音楽シーンは80年90年の音楽シーンの再来なんて言われています。 音楽的なブームは20年周期と言われているので、ディスコサウンドやシティポップシーンが台頭しているのでしょう。 20年周期という枠に置いて考えれば2020年代の音楽シーンは再び大きな転換期を迎えると予想します。 純粋に20年周期と考えると、次に流行るのはミクスチャーやパンクやrockといったバンドサウンドになるでしょう。 ただ、先にも申した通り超個人時代が到来する音楽シーンにおいて、再びバンドサウンドが2020年代に流行るのは想像がし難いです。 ですが、ミクスチャーやロックやパンクシーンの音楽を1人で配信したら・・・ そんな、アーティストが2020年代は出てくるかもしれません。 今、自分が注目しているアーティストの1人に(sic)boyというアーティストがいますが、これからのシーンを占う上で面白い存在だなと注視しています。 もしよければ、視聴してみてください。 rage against the machineやLinkinなどを彷彿とさせるサウンドですが、彼が尊敬するアーティストはhydeってのが面白い。 https://m.youtube.com/watch?v=dDJw8yJVY5g
2021年04月11日
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コーヒーにハマり、4ヶ月くらい経過している。 ここまで、ハンドドリップ、サイフォン、フレンチプレス、水出しコーヒー機に手を出してきたが、水出しコーヒーの優秀さは凄いと思う! 正直、ハンドドリップで出せない味を出されるので嫉妬する。 手軽さと再現性の高さは水出しコーヒーは凄いし、味を単純に求めるのであればピカイチなのだが やはり、ハンドドリップに戻ってきてしまう。 俺は、コーヒーにハマってるわけではなくて、ハンドドリップにハマってるんだと気づいた。 そして、今日は4杯コーヒーを飲んだのだ。 コーヒーを飲むとクリエイティブになるのか眠れなくなる。軽い興奮状態。 もはや、このブログの更新はコーヒーを飲んだ時にしか生じないのではないかとすら思ってしまう笑 ちなみに、今日飲んだコーヒーはケニアのマサイとエチオピアのゲイシャだ! マサイ族と芸者が頭の中で踊ってる! エチオピアの芸者ってどんなだ笑 くだらねぇ そろそろ寝たい
2021年02月21日
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最近、22時に就寝する習慣がついた。 昔は夜通し遊んでいたのに。 人の変化には我ながら驚く。 自分でも変化が激しい人間だとは自覚している。 多趣味人間で、今まで出会った人の中で自分より多趣味な人間に出会ったことがない。 まぁ、いるんだろうが。 ざっと暇だから羅列してみようか。趣味を。 暇だから 暇だから サッカー観戦 音楽 旅行 食い歩き(2000以上は行ってるよな) ここらへんは普通だよな 地質学 温泉巡り(日帰り温泉100以上制覇) B級スポット巡り キャンプ ハンモック(これは趣味なのか) トレッキング 落語 UMA 都市伝説 ボードゲーム(海外ボードゲーム500種類以上プレイ経験あり) たぶん、まだ書いてない趣味があるだろうが 最新の趣味がハンドドリップでコーヒーを淹れることだ。 そのせいで、眠れずに 見事にカフェイン中毒になり マジで眠れずに 息子が横で寝息をたてる中 なんの生産性もないブログを ギラギラした目で0時21分(現在)書いているのだ。 暇だ。暇だ。暇だ。 カフェイン中毒の狂気 狂気なエモーショナルを 刻む 刻む 刻む なんの生産性もなく。 なんか薬中みたいだな笑
2020年11月22日
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モラトリアムキャンパーである俺が永久に達成し得ないキャンプスタイル ソロキャンプだ。 だけど、ソロキャンプの最小装備というスタイルは憧れる部分はある。 以前から、防災グッズという名目で買い集めていたギアを用いて今回はハンモックキャンプを決行した。 だが、ソロキャンプではない。 ソロキャンプ風なファミリーキャンプである。 今回の参加人数は小中の同級生3人で決行。 各々が、ハンモックを持ち寄り自分達のベースを作った。 そして、出来上がったベース うん、この場所にはたぶんハンモックしか展開できないと思う。 テントを展開するにしても、整地ではないため難しい。 こういう、地面の状態を気にしなくて済むのはハンモックキャンプの強みかもしれない。 ちなみに、我々が展開していた場所を外から見るとこんな感じだ。 森!? ちなみに、小高い丘を降りた場所であり、この写真の後ろには川が広がる。 北岳の麓にある芦安キャンプサイト ナンバー2というキャンプ場だ。 もちろん、普通にテントが設営できるフリーサイトもあるのだが、ハンモックもいける。 ちなみに、俺のベースはこんな感じ。 明け方の写真。 森に煌々と明かりが照らすのは雰囲気を台無しにするため、トライポッドで低い位置を照らした。 ソロキャンプでは、まずトライポッドのチョイスはないだろう笑 このキャンプ最大の俺の遊び心。 ハンモックはスコットランドのDDハンモック 荷物置きには、NASA開発のオールウェザーブランケットを使用している。 荷物置きに使うというのも、かなり贅沢使いだ笑 ちなみにこのサイトのもう一つの遊び心はこれだ。 防災訓練で学んだ巻き結びを応用して、ペグ未使用で枝をペグ代わりに代用してみた。 そして、今回のキャンプで大事なテーマが ソロ森の映画祭を開催 それをハンモックで実現した。 ハンモック内でスマホを結びつけて固定し、プライムビデオで映画を試聴した。 ちなみに、スピーカーはBOSEのワイヤレスイヤホン! 臨場感バッチリ! 観た映画はメルーという登山ドキュメンタリー映画。 北岳の麓のロケーションで観る登山ドキュメンタリー映画は格別! 何も考えずに、映画を観る時間は格別だった。 キャンプにハンモックという選択肢を提案し普及したいとこだ。 なんというブログらしいブログなんだ笑
2020年09月26日
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自分は信心深い方ではなく、死後の世界や儀式に対して一歩引いた立ち位置にいた。 そのためか、お盆やお彼岸と言った先祖供養などの場においても主体性に欠き、家族イベントになんとなく参加していた。 言わば、それらは私の中で古い慣習であり文化の一つに過ぎなかったのだ。 だが、その考えも子供が生まれてから少しずつ変化し今では守るべき行事や文化だと理解している。 そのような考えへの変化は、親や親戚に諭された訳ではない。 自然に気づいた訳でもない。 一つの偶然の出会いが私を変えた。 その出会いは、友人とアフリカ料理屋に行った時に生まれた。 アフリカ料理屋は、現地の作法に乗取り素手で食べることを推奨されていた。 私も見様見真似で、アフリカ料理を手で食し、十分にアフリカ文化を堪能していた。 その時、店の常連客と思われるカウンターに座っていたアフリカ人に声をかけられた。 「そっちは不浄の手だよ。」 流暢な日本語だった。 人生初めて、カウンター客に声をかけられた。 そちらに目を送ると、素敵な笑顔でこっちを見ている。 それから、彼とは話しが弾んだ。 トーゴ出身で日本に来て20年になること 日本に来た理由 日本文化について感じること などお互いの身の上話を話した。 そんな、彼はこの店の次期店長とも語っていた。 カウンターでご飯食べてるから、普通に客だと思ってたのでビックリした。 彼の勧めで、現地のお酒を頼むことにした。 ヤシ酒だ。 この店のメニューは主にトーゴやガーナといった東アフリカのメニューを出す。 トーゴはその中でもアフリカ酒を名物としている。 アフリカの植民地時代はヨーロッパの列強国が各地を支配していた。 トーゴはドイツの植民地で、多くの植民地が禁酒政策を敷く中で、トーゴのみお酒は認められていたとのこと。 私は、そんな歴史を感じれるトーゴ酒に心踊った。 間も無くしてヤシ酒が出てきた。 ヤシ酒は、ヤシの実を割って作った器にお酒が注がれている。 おもしろい! そして、そのヤシ酒に口をつけようとしたところ 現地の粋な飲み方を教えてもらった。 トーゴ人「飲む前に、お酒を指で摘んで2滴地面に落とすんだよ。」 「これには、どういう意味があるの?」 トーゴ人「地面には先祖がいるからね。お酒を落とすことで、先祖と飲み交わすことができるんだよ。みんなで飲んだ方が賑やかだろ。」 素敵な考え方だと思った。 トーゴでは亡くなった人を土葬する文化があるらしい。 故に、地面には先祖がいて常に側にいると考えているようだ。 これは、アフリカでアミニズムと呼ばれる考え方であり、私達の概念から言えば「アフリカの土着宗教」と呼べるのかもしれない。 しかしながら、このアミニズムはアフリカ文化から消えていってるらしい。 そのことについて、トーゴ人はこのように語ってくれた。 「元々、アフリカは治安が悪くなかった。殺人なんてなかった。」 「でも、外国が植民地にしてから変わった。」 「元々、私達は山の民族と海の民族で分かれていた。そして、それぞれの文化は不可侵で尊重していた。」 「だけど、外国が入ってきて勝手に線を引いた。」 「その線の中には、海の民族も山の民族もごちごちゃになるような縦の線だった。」 「やがて、そこに法律ができたから海の民族と山の民族で争いが起きた。」 「そして、外国の宗教が流れこんできた。」 「時代が流れるにつれ、私達が大事にしていた土着文化(アミニズム)は薄れ、外国の宗教が現地で広まっていった。」 「民族としてのアイデンティティは希薄になり、守るべき文化もなくなった。」 「外国の宗教を悪とは言わないが、その土地にある文化を守ることは、民族としてのアイデンティティや道徳心を守る上では大切なんだよ。」 との話しをしてくれた。 そのアフリカ人の話しを聞いた直後は、貴重な話しが聞けて楽しかったなくらいにしか思わなかった。 だが、その3ヵ月後に祖母が亡くなった。 祖母が亡くなり、自分の子供を連れて葬式に行った。 父も70近い年齢だし、自分も次期喪主としての自覚が芽生えていた。 すでに実体のない祖母に手を合わせる。 ただの石に手を合わせる。 2歳になる我が子は、この行為にどのような意味を持つのかが分かる訳もない。 いや、本質的には俺も2歳児と変わらなかった。 今までは。 だが、今では墓石に手を合わせる意味がわかる。 形ない者を弔う理由も分かる。 こうした、親の行為。先祖代々と繰り返してきた一見意味のないような行為。 これは、自分達の未来を守ってきたんだな〜とトーゴ人の話しがスッと浮かんだ。 その時、俺は自然と墓石に手を合わせていた。 繰り返すが、俺は未だに信心深くはない。 だけど、先祖や親が大事にしてきたものがなんなのかは前より理解している。
2020年08月29日
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最近、注目のキャンプギアはハンモックです。 テントと比較して、設営場所や設置時間に拘束されないことや骨組みする必要がないから、軽量だしコンパクトです。 設営条件は木二本あれば足り、整地か不整地かは問わないです。 また、ロケーションをフルで堪能できるのもハンモックの魅力ですな。 ただ、一般的なキャンパーからは次のような疑問が生まれるのも容易に想像ができます。 Q1.雨の日濡れない? A.ハンモック用のタープが売られており、雨天対策はバッチリです。 Q2.冬は寒くない? A.ハンモック用のアンダーカバーとインフレーターマットを使用し、寝袋を使用すれば氷点下でも実用的です。 また、地熱の影響を受けにくいため、雪上キャンプにも利用できます。 Q3.虫対策は? A.最近のハンモックは蚊帳がついているので、虫は入ってきません。 あー、星空が綺麗なキャンプ場でハンモックで星見ながら寝たいな〜 そんな希望を手っ取り早く解決してくれる手段がハンモック。 耐荷重も300kgと丈夫なハンモックもあり、かなり実用性の高いギアと言えますよ。
2020年08月29日
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話し言葉にはルールがある。 だから、生まれてくる創造性もそのルールに縛られている気がする。 子供は○○○ このような穴埋めがあって考えつく言葉を考える時に 意味が成立するように考えるだろう。 子供は元気とか子供は風の子といったようにだ。 創造性がルールの外にあり価値が生まれれば、天才みたいのが生まれるんだろうけど ルールの外にあるということは、常に社会的な危うさと直結してるんだろうなとも思う。
2020年07月19日
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初めての冬キャンプをしてきた。 まぁ、冬と言っても春先だから厳冬期よりは幾分かはマシだが。 だが、キャンプ場は標高800mある富士山の麓の朝霧高原だったため、夜から朝にかけては氷点下まで冷え込む。 こんな寒い時期にキャンプして、何が楽しいのかキャンプ好きには理解し難いかもしれない。 理解し難いが故に、ハイシーズンと比較してもキャンプ場はかなり空いている。 また、蚊や虻などの吸血虫も少なく、寒いという一点を除いてはすこぶる快適だ。 そんな、空いているという冬キャンプの特性を生かして、今回は初のフリーサイトにも挑戦できた。 以下では写真付きで、今回のキャンプを振り返る。 富士山が正面に見える位置に陣取る。日が沈み赤富士になっている。 今回の主役ギアはスウェーデントーチ。かっこいい。 スウェーデントーチに鍋を直置きできる火力すごい。 七輪とスウェーデントーチ。雰囲気が良い。 翌日、ダイヤモンド富士とはならなかったが富士山脇から顔を出す太陽。 スウェーデントーチの土台をチャコールスターターに差し込む。 煙突効果と煖炉の効果で薪の燃焼効率が上がる。 きのこは木の上で焼きながら、薪燻製。 こんな感じの楽しいキャンプだった。
2020年03月09日
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キャンプを趣味として様々なギアを集めている。 もちろん、趣味ありきでのギア集めなのだが、妻や家族には防災のためと説明ができる大義名分がある。 実際、30年間での首都直下型地震の発生確率は70%と言われており防災の備えの必要性は下手な個人保険に加入するより有用だと考えている。 しかし、実際道具を揃えているだけで満足でよいのだろうか? それらが震災時に、役立ち使用できるという保障もない。 防災道具は、押し入れの中にしまっておく安心を保証する保険証書などではなく、ましてやお守りでもないのだ。 そのような考えから、今回キャンプ部では防災訓練を実施することになった。 今回の実施メンバー数は3人だが、こういった防災訓練は個人ではなく複数人でやることに意義があると感じる。 個々の訓練の感想の共有はもちろん、家族単位を想定した避難などのロールプレイも実施できる。 その中には、傷病者や赤ちゃんだっているかもしれない。 そういったロールプレイをすることは大切だと思う。 今回の訓練のテーマは1.雨風を凌ぐシェルターの確保 2.飲料水の確保 3.熱源の確保までを行う。 1000万人という人が暮らす東京において、震災時に避難所がそれらを受け入れる機能があるかは正直わからない。 また、避難所が機能しているかもわからない。 また、ライフラインが生きている保障もない。 故に有事が起きた時は、受動的に国に命を保障してもらうのではなく、自分の命は自分で守る積極的かつ能動的な避難行動が求められると思う。 今回はそのための訓練である。 防災訓練のテーマの中で、今回の一番のメインテーマに掲げるのは住環境の確保である。 命を守る上で、最優先事項は体温を守ることである。 防災グッズにおいて、保存食など多々売り出されているが、体温を守ることの方が優先順位は高く最重要である。 今回の訓練では、最悪を想定した家を失い避難所にも避難できず雨が降る中で身を守ることを想定したシュミレーションを行う。 そう考えると訓練を実施するロケーション はかなり重要だ。 そもそも、避難できる場所には公園や避難所以外にあるのか? 自分なりに調べてみた。 まずは、河川だが河川は公共の場であるため一般利用が容易にできる。また、水場もあるため、利便性は高い。 避難所が機能しない時に多くの人が集まりそうだ。 河川で避難したことを想定すると、河川に避難難民が殺到することが予測される。 そう考えると、河川は災害時に人口密集地になるため治安問題が懸念される。 ここで、住環境を整えるとしたらいくつか問題が考えられる。 1.人口密集による住まい確保の資材探しが困難になる 2.人口密集による争い 3.木々がないため、枝を利用したロープワークでの住まい作りが難しい。 4.ペグが刺さりにくい 5.夏場など天候の急転時に川の増水がある こういった問題点を加味したロケーション 選びが必要そうだ。 次に考えたロケーション は、国有林や市有林への避難だ。 これも、調べたのだが東京都における国有林は高尾山林しかない。また、森林の多くが私有林であるため、不法占拠してしまう可能性もある。 当然、有事であれば私有林も避難所としての機能を要請されるかもしれないが 何も知らないで私有林に避難していたら、トラブルの元になるかもしれない。 森林に避難することを想定した場合、次のような問題点が考えられる。 1.害獣の存在 2.火器類使用による山火事リスク 3.地盤の緩みによる倒木等の危険性 4.情報が少ないため、情報弱者になる 5.東京における森林の少なさ 6.水場が遠いかもしれない 逆にメリットとしては、木々が雨避けになったり枝を利用したロープワークなどソロキャンプ技術を活用することを多々期待できる。 また、人的な二次被害も避難殺到地域よりも少なさそうだ。 最後に、公道や私道への避難だ。 公道はあくまで、共有の場であるため個々人がテントを張るのは現実的ではないかもしれない。 だが、震災時には例外になり得る。 全ての交通機能が麻痺した時に、車が走っていない道路に避難難民が溢れることもあり得る。 電柱や柵を利用して、ロープワークで簡易的なタープを作ることも可能だし、公道が避難場所にならないとも言えない。 公道に避難した場合の問題点は次のようなものがある。 1.建物及び電柱の倒壊や水道管の破裂などの二次的災害のリスク 2.流動的に人の往来があるため、治安の保障ができない。 3.長期滞在には不適 4.アスファルトのためペグ使用ができない このように、改めて避難場所のシュミレーションをすると東京で避難することの困難性が浮き彫りになる。 震災は時間や場所を選ばない。 そのようなことを想定し、東京で適切な避難行動を取るためには、柔軟性と臨機応変さが大切だと感じる。 今回は、その臨機応変さを身につけるため、以下の手段で住環境を整備したいと考えている。 1.公道での避難を想定したペグを使用しない住環境整備 2.枝や電柱を利用したロープワークでの住環境整備 3.河川でのペグを使用しない住環境整備 訓練場所は未定だが、職務質問されない程度の場所で慎ましく防災訓練を実施したいと思う。
2020年01月06日
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今回は、一番に苦戦した撤収だったと思う。 最大の問題点は、季節的な問題。 今回のキャンプは雨こそ降られなかったが、日中の寒暖差が激しいため朝霧が強く発生する。 11月など、寒暖対策が必要なキャンプ時には事前に朝霧を見込んだ対策をしていかないと学んだ。 また、サイトの位置が山側だと方向によっては太陽光がサイトに届くのに時間がかかる場合がある。 次のキャンプでは設営時に太陽の方向も計算できたらいいなと思う。 リカバリーに関しては時間内ではできた方だと思う。 ワンボックスタイプの車の表面積は広いため、そのままタープ を広げて車にかけて太陽に当てることができた。 無論、最初からサイト全体を陽が当たるならそのような手間をかける必要はないのだが しかし、陽が当たる場所が限局的なシチュエーションにおいてテントやタープ の最低限のリカバリーができたのは良かった。 毎回、撤収の効率が上がっていることを考えるとキャンプの経験が確実に次に繋がっている実感がある。 次は、春キャンプをしたいなと意気込みセルフ反省会をこれにて終了とする。
2019年11月28日
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キャンプにとって食事は、キャンプの質を満たす条件の一つである。 毎回キャンプでは、初のメニューを作ろうと思っている。 今回のメインテーマは、七輪で焼肉、チーズフォンデュ、缶詰料理、アウトドアスパイス、リベンジのローストビーフであった。 食べたものをチェックしながらキャンプを総括したいと思う。 「オイルサーディンのパスタ」 友人が作ってくれたパスタだ。 今まで、パンか米という選択肢しかなかったが、パスタはなかなか良かった。 缶詰と組み合わせることで、シンプルに味付けもできるし、次のキャンプの選択肢としてありだなと思った。 「七輪焼肉+アウトドアスパイス」 七輪での焼肉は慌ただしくなくて良い。 鉄板の方が熱伝導が良いので忙しくなる。 片手間でも焼肉ができる利便性が良い。 さらに、鶏肉である場合、炭火の火力を上げれば宮崎地鶏のような仕上げもできるので楽しい。 今回、俺の中でかなり好印象だったものはアウトドアスパイスである。 簡単に言えば、肉のふりかけである。 やはり、ソースやバーベキューのタレだと皿を汚したり、タレ自体の味が肉の油も途中で混ざり劣化することが多々ある。 その分、バーベキュースパイスは味付けの調整も容易だし、皿を汚さずに手間入らずでよい。 使用したスパイスはネットで人気の「黒瀬のスパイス」と「バーベキューほりにし」を持って行ったが二種類あることで、味にも変化を加えれてよかった。 「七輪野菜焼き」 七輪は遠赤外線効果により、食材の内側から熱してくれる。 そのため、野菜の皮を剥かなくても内側から蒸し焼きができる。 むしろ、事前に切って下準備をしていくと水分が抜けて不味くなるのだ。 七輪野菜焼きに関しては、前回のキャンプで魅了され今回キャンプでも実践できて良かった。 ただ、野菜の量が多かったので、丸焼きを試せたのはズッキーニのみになった。 ズッキーニは前回同様に食材のポテンシャルを引き出せたが、焼き目が見えないため中の熱し具合が確認しにくいデメリットもあった。 友人の提案で串を刺した時の、串の抵抗感で熱し具合を確認できたので、次回も活用したいと思う。 「きのこのチーズのせ」 きのこの傘の部分にチーズをのせて焼くだけとシンプルだったが、味は抜群に美味しかった。 だが、七輪に直接チーズをかけると七輪に焦げ目がついてしまうので反省が必要だ。 次回、チャレンジする時は七輪を汚さないようにアルミを引いた方が良いと感じた。 「リベンジのローストビーフ」 前回、キャンプで個人的にはもう少し上手くできたかなと思うものがローストビーフだった。 前回イマイチだなと感じた要因は、切り身一枚の太さが太く噛みにくかったことや味付けやソース作りを疎かにしてしまったことが考えられた。 また、できたローストビーフを寝かす時間も必要だったと反省している。 今回は、前回の反省を活かし市販のローストビーフソースを購入して時短を図るようにした。 ローストビーフは簡単で、表面に焼き目をつけた後に肉をアルミホイルに巻き30分ほど、余熱で暖める。 その後に市販ソースをかけて、クーラーボックスにいれて味を馴染ませた。 ローストビーフはなるべくうすくスライスして、友人に提供したところ、ベストキャンプメニューのお墨付きをいただき、見事にリベンジに成功した。 しかしながら、スライスの薄さにムラがあるためもう少し上手にスライスできるようになりたいと思った。 「チーズフォンデュ」 シェラカップ に牛乳を入れて、熱しながらピザ用チーズを溶かしていく。 チーズが完全に溶けると簡易的なチーズフォンデュの出来上がりだ。 そこにウィンナーなど食材を着けながら食べれば、チーズフォンデュを手軽に楽しめる。 チーズフォンデュ自体は成功に終わったのだが、次回への課題も残る調理メニューだった。 今回のチーズフォンデュは投入した牛乳の量が多すぎて熱するのに時間がかかってしまった。 そのため、次回は最初に投入する牛乳は控え目にして継ぎ足し形式でチーズフォンデュにチャレンジしたいと思う。 「焼きおにぎり」 前々回のキャンプからお世話になってるメニューだ。 飯盒炊飯で米を炊くのも楽しいが、朝の撤収が差し迫る中ゆっくり楽しめない時もある。 そんな時に炭火七輪で焼きおにぎりはかなり便利だし時短だし美味い。 特に、コンビニおにぎりを焼きおにぎりがオススメだ。 表面はカリカリで中はホワホワで実に美味い。 焼きおにぎりは次回キャンプでも取り入れたいと思う。 「焼き魚」 少し反省の残るメニューだ。 買い過ぎたため、魚は美味しく楽しむ余裕がなかった。 アジの干物は朝食にピッタリだったが、次回キャンプに向けて分量を計算していきたいと思った。 「茄子とキノコの簡易アヒージョ」 食材で余った茄子とキノコを豪快に使って料理したいと考えた。 やはり、時短を図りつつも豪快に料理するのには鉄板が良い。 焚火用のミニフライパンを持っていたので、スライスした茄子とキノコを適当にいれる。 以前、鉄板はマリアージュだとキャンプ部の友人が言っていた。 様々な食材からでる旨味成分と油をマリアージュさせていく。 今回はそんなイメージで、オリーブオイルをフライパンに大量投下。 イメージはアヒージョだから、ニンニクは欠かせないのだが あいにく、ニンニクはない。 だが、バーベキュースパイクにガーリックが含まれているので、黒瀬のスパイスをかけた。 さらに、チーズも少し残っているので、アドリブ投下。 そして、さらにアサリの缶詰もアドリブ投下。 もはやこの時点でアヒージョとは程遠いが、何ができるかわからないマリアージュ感は楽しい。 フライパンに十分熱は通っているので、上から蓋をして火元から離して蒸焼きにする。 蒸焼きにして2分、蓋を開けると良い感じでチーズがトロトロに溶けてる。 見た目は美味そうだ。 友人がそれを食すと これはアヒージョじゃないね。 グラタンだ。と言った。 俺も食すと確かにグラタンだった。 まさかの簡易グラタンができてて面白かった。 何気に今まで網や炭焼きにこだわっていたので、このアドリブ料理は個人的に面白かった。 次回も、キャンプ終盤に余った食材でこういった賄いメニューにチャレンジするのは面白いかもしれないと思った。 「締めの焼き芋」 撤収時は、炭の熱を下げるためしばらく放置している時間がある。 その炭の火力を有効活用しようと、アルミホイールにサツマイモを巻いて炭に放置。 その間は、撤収作業に集中する。 撤収作業完了20分前に焼き芋を回収して、焼き芋を冷ます。 撤収時は、その冷めた焼き芋を車に乗せてチェックアウト。 最後は、眺めの良いところで締めの焼き芋。 このキャンプ後の余韻が今回はかなり楽しくて良かった。 毎回できるメニューではないが、こういう引き出しを持っておくのは次回キャンプに必ず活きると思う。
2019年11月26日
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キャンプの魅力を伝える要素にはいろんなものがある。 食事、ギア、時間の使い方、ロケーション、設営、焚火など様々だ。 だけど、その中でも最も比重が大きいキャンプの魅力はロケーションと言っても過言ではない。 今回キャンプ初心者の友人2人を連れてく経験をしたが 自分が伝えれるキャンプの魅力なんて、ロケーションが伝える魅力を考えれば、たかが知れているのかもしれない。 良いロケーションと天気さえ提供できれば、キャンプの魅力なんて9割は伝わったようなものだ。 そう言った意味では、弓の又キャンプ場のロケーションは文句なしだった。 弓の又キャンプ場はHPがなく、電話による予約がメインなため、穴場で質の良いキャンパーが多い気がする。 周辺には、昼神温泉という温泉郷があり 星空を見るための夜間のゴンドラ発着場も近い。 また、地場産の野菜や肉を扱う店も多く利便性も良い。 キャンプ場内では、綺麗な清流が流れ上部では滝が見れる。 周囲の木々は色づき、紅葉にも囲まれている。 サイトは、全て区画サイトで広い。また、区画 サイト数が30くらいしかないので、トイレや炊事場が混雑することもない。 これだけで、かなりハイスペックなキャンプ場なのだが さらに、阿智村の星空が着いてくるという最高のロケーションである。 だが、その日は曇空で星空が見れる保障まではなかった。 それでも、紅葉や清流など十分にキャンプ場のロケーションを堪能した。 現地の天気を調べたところ、夜中の12時くらいから晴れるとのことで、就寝時にはバイブレーションで夜中の2時に目覚めれるように目覚ましを友人が設定してくれた。 正直、個人的には十分にロケーションを堪能できたので星空を求めるのは欲張りすぎかなとあまり期待はしなかった。 夜中2:30 友人に肩を揺すられて目を覚ます。 友人は興奮したように「外すごいよ。」と言う。 俺はテントの外に出た。 そのまま、タープ の外に出ると一面の星空が広がっていた。 まるで、プラネタリウムだ。 オリオン座の中に細かい星々が見える。 そのまま、トイレに行き戻ってくると 椅子に腰かけて天を見上げた。 みんな、無言でただただ星空を見た。 その時、流れ星が空を通過していった。 「うぉっ!流れ星だよ!」と俺が呟くと 友人が「さっきも流れたよ」と返す。 どうやら、結構な頻度で流れ星が流れているようだ。 贅沢過ぎる。 外に出ていた時間は、10分くらいと短い時間であったが 弓の又キャンプ場が最高のロケーションだと証明するには十分すぎる時間であり また、弓の又キャンプ場に来ようと心から決意したのだった。 言うまでもなく、弓の又キャンプ場のロケーションは100点だ。
2019年11月12日
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今までのキャンプでいろんなことを学んできた。 その中でも、キャンプ場の一日は天気が晴れていようとも、朝と日中ではコンディションが変わると学んだ経験が今回のキャンプでは活かされた。 日中はいとも簡単に薪に着けれた火も朝になれば、全然着かないという経験を何度したことか。 今回のキャンプも、自然が相手なので湿度を常に意識しなくてはいけない。 前回、キャンプでは薪を地面に直置きしたため、水分を含んだ薪にキャンプ終盤に手こずった。 今回は、その反省点を活かし日中から薪の取り扱いには慎重を期した。 薪は直置きにせずにブルーシートの上において管理し、就寝前は朝露にさらさないように車の中に薪を置いて管理した。 2日目の朝、俺は6時前に目覚めた。 キャンプ場の朝は早い。 日中とは違い、撤収の時間も考えなければならないので、呑気に火付けを楽しんでいられない。 テントの外の朝露はこれまで経験したキャンプの中でも一番にすごく、外に出していたギアに水滴がついている。 おそらく、日中の寒暖差が大きい影響もあるのだろう。 周囲の地面は湿り、焚火をするには最悪な条件。 車から薪を取り出すと薪はカラカラに乾いていたが、今にも周囲の湿気を吸い出しそうである。 俺はこの時点で、薪に安定的な熱エネルギーを供給する必要性を感じた。 恐らくこの湿気で火種を拡大してくのは大変だ。 俺は、天然素材の着火剤であるエココロゴスの使用を決めた。 火種はなるべく燃焼時間を稼ぐため、紙コップの中にバラバラに割いたティッシュを入れた。 火種が着火したら、エココロゴスにそれをあてようと決めた。 さて、ライターを使うかと思ったが ライター所有者である友人が寝ている。 ここで、俺は悩んだ。 友人には、なるべく初回のキャンプではゆっくり過ごしてほしい。 起こしていいものかと。 俺は、昼間の94点の火付けの影響もあり、気がついたらファイヤースターターを持っていた。 これは、友達への配慮よりも個人的な火付けに対するエゴイズムだったかもしれない。 俺は、紙コップ火種に向けてマグネシウム棒を擦った! 火花と閃光が4〜5回周りを照らした後 紙コップ内部のティッシュに火がついた。 ファイヤースターターで火をつけた経験はこれが初めてではない。 だが、ファイヤースターターで1人で焚火まで発展させた経験がないのだ。 なので、この時点では一気一憂していられない。 紙コップ内部に出来た火種を日中と同じ逆V字の薪配置の開口部に置く。 その火種の上でトングで摘んだエココロゴスを炙る。 まるで、お産直後の赤子を取り扱う気分。 30秒ほどして、エココロゴスが火を上げ始めた。 俺は逆V字の頂点に火が当たるようにエココロゴスを配置した。 バチバチ音が鳴り、薪に火が移ろうとしているのがわかった。 しばらくすると薪の頂点に火が着いたが、予想以上に周囲の湿気が強い。 このままでは、頂点だけ燃えて周囲に火が移らなずに、消えてしまうのは目に見えていた。 そこで、アプローチを変えようと思った。 もはや、薪全体に火を着けるこだわりは捨てようと思ったのだ。 点で着いてる頂点に対して継ぎ木して行って、点での火力を上げようと考えた。 もはや、セオリーの一つである逆V字にこだわっている必要もない。 そして、この思考の転換が功を奏した。 点での火力が安定していったため、周囲への薪に火が着きだし、結果として焚火は安定していった。 そして、安定した焚火にチャコールスターターで炭を熱し炭にも着火。 これで、朝の火力は十分だ! しばらくして、友人が目覚めて起きてきた。 どうやら、俺の薪を割る音で目覚めたようだった。 「よう、火ついてるよ!」 キャンパーとして理想的な一言である。 だが、これは最初から最後まで一人でやり遂げた始めての火付け体験だったのだ。 平静を装いながらも、一人内心では大喜びをしていた。 「考察」 今回の朝の火付けを考察すると、俺には様々な意味があった。 まずは、一人で火付けを完遂したというモラトリアムキャンパーの成功体験だ。 既製品のエココロゴスを使用した点を考えると、本当に一人とは言い切れないのかもしれない。 だが、朝の湿気の状況を見極め、スタイルに拘らずにエココロゴスを判断できた点はマイナスと言うよりもプラスに評価している。 また、前回キャンプの反省点もしっかり活かされていたので、個人的にこの火付けで得られたリベンジの達成と経験値は大きい。 そして、今回の火付けでも学びは多々あった。 オーソドックスなスタイルはあっても、それが全てではないということだ。 状況によって、柔軟に対応していく必要があり その柔軟な対応そのものに焚火の面白さがあるのかなとも感じた。 もし、焚火がスタイルにこだわり火がつけれるのであれば それは、ガスコンロと変わらないのだろう。 もちろん、焚火はガスコンロと違い視覚的な魅力があることは十分に理解していたが それ以上に、焚火という作業が持つ質的な楽しさに気付かされるキャンプだったと思う。
2019年11月12日
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今回のキャンプで一番不安だった部分は火付けだ。 これまで、キャンプ部では設営を担当していたため、火付けに関してはキャンプ部メンバーに着いていったという印象があった。 つまり、火付けを一人で成功したという体験がないため、未だにこの部分がひっかかり自立したキャンパーだという意識が芽生えない要因となっていた。 故に、自分をモラトリアムキャンパーと称す一因になっている。 前回キャンプでは、キャンプメンバー全員の継ぎ木をしてファイヤースターターのみで火付けをして焚火の楽しさに気づいた! また、同時に上手く火を維持できない悔しさも覚え、キャンプ後に焚火のやり方について学び、前回より焚火の知識は十分な状態で今回のキャンプに臨むことができた。 ただ、ここで一つのジレンマがあった。 それは、キャンプはキャンプ経験者による知識の披露の場にしないことだった。 ましてや、キャンプ初心者の人にブッシュクラフトを押しつけ、火付けに手間取ってる姿を見せたら キャンプそのものの楽しさを気付けずに終わってしまうかもしれないと感じていたのだ。 そのため、調理に必要な火は必要最低限の手段で火がつくように準備して行った。 最初の火付けは、バーナーとチャコールスターターで行った。 バーナーの火力は安定しているため、炭への火付けは容易であった。 しかし、バーナーは高出力であるが火口が狭いため、面ではなく点で炭を熱するため時間がかかり効率が悪い。 やはり、薪がほしい。 薪で得られる焚火での安定火力がほしい。 メンバーはこの時点で薪で焚火をすることにも好意的であった。 そのため、急遽薪を使用しての火付けに変更した。 前回、キャンプの反省点を踏まえて、薪は予め大中小に仕分けした。 小さめな薪が全体的に少ない印象を受けたので、モーラナイフを使ってバドニングを行った。 薪の並べ方は逆V字に配置し、V字の開口部に枯草や枝や藁などをいれた。 あとは、ガストーチを使用すれば簡単に着火するはずである。 しかし、ここで一つ問題が発生した。 充填式のガストーチを使用していたのだが、充填口とガス缶の形状が合わない。 つまり、ガストーチが使えないのだ。 ここで、ライターという選択肢もあったが遊び心で5〜10分くらいはファイヤースターターをチャレンジしても良いかなと思った。 俺はファイヤースターターを取り出し、着火点に一枚のティッシュを用意した。 1分くらい、閃光と火花が飛び散り少し煙だけが出ている状態が続いた。 それを見ていた友人が、「面白そうやらして」というので渡した。 最初、友人は火花を出すのもやっとな状態で、たぶん着かないだろうな〜と思いながら、車に荷物を取りに行った。 車から荷物を取り戻ると「着いたよ」と嬉しそうに友人が言った。 見ると、火は大きくなりV字の中心部の火は周囲の薪に安定した火力を提供していた。 俺は、「これからが勝負だよ。」と言い継ぎ木を怠らないように火を育てた。 火を育てる時は、予めバドニングで仕分けしていたこともあり、思ったより容易だった。 もちろん、朝露の影響などなく湿気がない中でのコンディションもプラスに働いたことは言うまでもない。 まさかの思わぬ形での火付けに俺も驚きを隠せなかった。 また、火付けの事前準備や舞台装置が機能したことは素直に嬉しかった。 前回、キャンプ後からの勉強が無駄じゃなかったんだなと思った。 それと、同時にまたしても最初の火付けを逃したので、まるでテストで94点を取ったような気分だった。 あと、ちょいで100点。 だけど、火付けに成功した友人にはファイヤースターターの魅力が十分に伝わったようで、その点にはキャンプ伝道者としては大満足できた。 結局、日中は友人がつけた火を絶やすことなく、過ごすことができ、火付けにはほぼ満足の結果となった。 セルフ反省会(2日目火付け)に続く。
2019年11月07日
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念願の弓の又キャンプ場に行ってきた。 モラトリアムキャンパーとして、7回目のキャンプだ。 当日は、三連休の中日による渋滞や混雑を懸念して、首都圏の実家を6時に出発した。 道中の八王子JCT以降で軽い4〜5kmの渋滞に巻き込まれるものの それ以外は概ね渋滞に巻き込まれず、買い出しや朝食や休憩を含めて12時半くらいに現地に到着し、チェックインを済ますことができた。 予約していたサイトは縦長で通路の反対側は山を背にするサイトだった。 ここで、テントの配置やタープの配置をゆっくり考えることにした。 前回、キャンプ時には小川張りにこだわり過ぎた見切り発車をしたため、途中修正を余儀なくされるという事態があった。 そのため、今回はタープの張り方には事前にこだわらずに、サイトを見て柔軟に対応しようと思った。 このキャンプ場でタープを配置する上で、十分に考慮せねばならないことが一つある。 それは、キャンプ場の立地だ。 弓の又キャンプ場は長野県阿智村に位置しており、星空が日本一と称している村だ。 自ら阿智村スタービレッジと名乗り、観光誘致するほどの村だ。 つまり、この村でキャンプをする時には、星空を考えなければならない。 そのことを考慮した上で、タープを張る必要があるので、タープの有効面積の確保と、星空の視界確保を同時に達成しなければならなかった。 小川張りをするには、縦に面積を取り過ぎるため、星空の視界が遮られる。 そのため、小川張りの考えはすぐに削除した。 ただ、だからといってテントをタープとは別に設置しても、サイトに対して設置面積を取り過ぎてる。 そのため、セミ小川張りを実行することにした。 メインポールは通常通り、タープのセンターに配置。 タープのセンターから横方向3mくらいの位置に広葉樹の木があったため、その木に対してタープ側面から延長ロープを出して、タープ側面に高さを出してテンションを加えた。 テンションの加え方は、後でテンションの調整ができるように自在結びだ。 サブポールを使わずに、高さを出せたのでそこにテントの3分の2はタープ内に押し込める。 いや、正確に言えばタープをテント内に全て入れることは可能だが、タープ内が窮屈になり過ぎるので、小川張りのようにテント後部はタープの外に出した。 ただ、このままだとタープがフラットで水捌けが悪い。 万が一の雨を考えると、水が流れる動線を考えなければタープの機能的側面が台無しである。 そのため、延長ロープを張らないサイドは、片側だけ落とし、有効面積を控え目にした張り方を展開した。 風には、弱そうであるがほぼ無風なキャンプ場なため、問題はなさそう。 その結果できたサイトは、サイト内の半分をテントとタープが占め、半分は広大な庭のようなスペースになった。 そこに焚火台や調理器具を用意して、頭上には視野を遮ることがない全天球型の星空を見るスペースを確保することができた。 ただし、設営終了時点では現地は曇りだったが笑 設営に関しては、前回キャンプ場の反省点を活かし、柔軟に対応できたと思う。 また、星空の視界確保も同時に達成できたし、時間の短縮も図れたことを考えるとほぼ満点の出来である。 出発時間も、ほぼ想定の到着時間に着き設営開始ができたので、出だしはまさに最高のスタートだった。 反省点としては、キャンプ始めての友人2人に対して、設営時に退屈な時間を与えてしまったことかな。 多少は設営の解説をしていたりしたが、設営に関心がなければ知識の押し売り状態になってしまう。 キャンパーとして、ああいった時間の過ごし方やアクティビティの考え方に幅があるとよりよかったかなと思う。 だけど、その友人が設営中に水汲みをしてくれたり、枝集めをしてくれたので後々に助かり感謝だ。 ただ、どうしてもキャンプ始めての人にとっては、設営の時間の作業感は拭えなかっただろう。 事実、キャンプを終えた後の友人の感想は設営が一人では大変そうとの意見もあり 設営自体が楽しいものだという感覚的な部分は伝えれなかった。 ていうか、そもそもそれは一朝一夕では伝わないし、個人の性質もあるので 伝えることじゃないのかもしれない。 物事の道理や楽しみって、元来伝えるものではなく、気づくものだと考えると 設営したタープにみんなで憩って満足できた時点で成功したとも言える。
2019年11月05日
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キャンプ部発足から2年が経ち、念願のキャンプ場にトライする機会を得た。 長野県阿智村にある弓の又キャンプ場である。 このキャンプ場は、ホームページがなく口コミだけでネット上に広まるキャンプ場だ。 故に、予約手段は電話のみなため穴場のキャンプ場にあたる。 このキャンプ場は、始めてのキャンプ場選びの際に候補に上がったキャンプ場であったが バンガロー等の施設の利用やキャンピングスキル的な制約があり、諦めていたキャンプ場だ。 だがしかし 心の中では、常にいつか弓の又でキャンプをと思っていた。 そして、ついに11月に念願の弓の又キャンプ場でキャンプをできる! 嬉しい! そして、今回のキャンプは自身初となるキャンプ部メンバー以外とのキャンプになる。 正直、同じキャンプを経験し同じキャンプ哲学を培ったことを考えると弓の又を共有できないのは寂しい。 だけど、弓の又キャンプ場は必ずキャンプ部でも行こうと考えている。 今回のキャンプは、気心の知れた小中の幼なじみと行く。 彼らは、キャンプ歴は浅く初心者と言っていい。 今回、俺は初めて経験者としてキャンプを先導する経験を得る。 キャンパーが、初めてキャンプをする人を先導する時に俺は注意したいと心がけていることがある。 それは、自分のキャンプ哲学を強要しないこと。 今まで、キャンプ部で培ってきたキャンプ哲学を披露する場にしないようにしようと注意してる。 結局のところ、キャンプ初めての人を先導する時に一番大切なことって、「楽しいまたやりたい」と感じさせることが一番大切な気がする。 逆に言えば、キャンプが終わって「また行こう」と言わせればそのキャンプは大成功と言える。 そういった意味では、すでに弓の又キャンプ場という最高のロケーションがプラスに作用してくれるのでありがたい。 スペック面は十分だが、キャンプの質を考えると楽しいの閾値を考える必要がある。 キャンプは経験に応じて、楽しいの閾値が変化すると思っている。 効率社会にトップダウンされた現代人は、非効率を楽しむのが極端に下手である。 だが、キャンプの一つの側面として非効率を楽しむ考え方もある。 俺も、はじめてのキャンプではそうであったが 効率的にできないことに対するストレスは常にあった。 例えば、薪に火をつける作業だ。 火がなかなか着かないことに苛立つキャンプ部の初回キャンプでは薪に油を撒いたほどだ笑 もちろん、今では薪になかなか火がつかなくてもその非効率を楽しむ余裕はある。 これは、キャンプとしての質的な楽しみ方であり一丁一石でその楽しさは養えないと思う。 そんな一丁一石では養えない非効率を楽しむことを強要することは俺の中で何かが違うのだ。 かと言って、全てを効率重視で着火剤を使用したり便利品を使用するのも質的な楽しみ方として何かが違うのだ。 そのため、俺にはこのキャンプで一つの課題を感じている。 それは、「ちょうど良い非効率」の追求だ。 このちょうど良いを見極めるのは、なかなか難しい。 メンバーの性格や個性や環境や時間などの諸条件によって、その「ちょうど良い」は変化するだろう。 その変化する「ちょうど良い」を見極め、キャンプの質的な楽しみ方にも触れる機会を作る。 これは、なかなか難しそうだが 一人の人として、俺はとても良い機会を得ようとしているのかもしれない。 今回のキャンプもいろいろと学べそうで楽しそうだ! キャンプ歴 1回目「漁礁カオスキャンプ場」 虻に追い回されたキャンプ。薪に火がつかなかったり、テント設営に手間取ったキャンプ。初心者だけでやりとげた達成感に満足。 2回目「青梅多摩川夜営キャンプ」 まさかの2回目が夜営。手つかずの自然環境に癒される。そして、朝はそのまま出勤とイレギュラーだらけのキャンプ。焚火を満喫した思い出のキャンプ。 3回目「堂平山キャンプ」 夜景が綺麗なキャンプ場だった。設営を後回しにしたため、夜に設営をする羽目に。設営を先にする大切さを学ぶ。初めて燻製とスローフードにチャレンジ。非効率の楽しさに目覚め始める。また、山の天気が変化しやすいことや霧対策も必要なことを学ぶ。 4回目「青梅多摩川デイキャンプ」 参加人数を増やすため、デイキャンプを前回野営地で行う。不便を楽しむというメンバーの発言に感銘を受ける。 5回目「毛呂山ゆずの郷キャンプ場」 テントとタープ購入後の初キャンプ。小川張りに挑戦するも設営に時間を要す。サイトの広さに応じた臨機応変さが必要だと感じる。何もしないという贅沢を夜に感じる。また、自前品が多くなるほど撤収にも時間がかかることを痛感する。 6回目「カンパーニャ嬬恋キャンプ場」 初の林間サイト利用。ロープワークやブッシュクラフトやタープアレンジなど多くの学びがあるキャンプだった。また、野菜が主役となる初のキャンプだった。焚火の魅力にも本格的に気づき始めて、自分のキャンプ哲学に大きな影響を及ぼすキャンプとなった。 7回目「弓の又キャンプ場」 念願のキャンプ場。楽しみだ。
2019年10月03日
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ブログを長いこと続けてきたが、書くという行為によって生まれたブログ内の人格と現実の人格がかなり解離してしまってるなという気がする。 そろそろ、原点に立ち返って あーだこーだ考えずに、気軽な文章を書いてみたいなと思う。 2017年7月末にキャンプ部を発足して以来、早2年が経過し、6度目のキャンプとして北軽井沢地域にあるカンパーニャ嬬恋というキャンプ場に行ってきた。 利用したサイトは林間サイトで、本格的な林間サイトはこれがデビュー戦だった。 今回のキャンプテーマは、キャンプで使える引き出しを増やすことだった。 俺は、まだキャンパーとしては初心者だし キャンパーとしてのスタイルもアイデンティティもない。 でも、世のキャンパーにはブッシュクラフトとかギアへのこだわりなどスタイルやアイデンティティを確立しているキャンパーがいて そういうのに憧れる。 俺が引き出しを増やしたいという思いを持ったのは、まさにそういうキャンパーに対する憧れなんだと思う。 そんなモラトリアムキャンパーな俺だが、自分はどういうキャンパーになりたいのかボンヤリと、そのアウトラインが見えてきた気がする。 そのアウトラインを項目ごとにまとめてみたいと思う。 「ファミリーキャンパーかソロキャンパーか」 まず、俺が目指すのはファミリーキャンパーだ。 ソロキャンパーへの憧れもあるが、家族もいるし何より友人と一緒に過ごす時間が好きだ。 だから、俺は今後ソロキャンプをすることはないと思う。 たぶん。 「料理」 料理については、かなり自分なりのキャンプスタイルはできたと思う。 俺がキャンプをする時に共通していることはゆっくりご飯を食べること。 家庭料理が効率としての料理の側面があるなら、キャンプで同じ効率を求めるのは、俺は望まない。 あえて、ゆっくりと非効率に料理を楽しむ贅沢。 これはキャンプでしか楽しめない贅沢だと思う。 家にいれば家事や育児に追われるため、効率優先である。 また、社会も効率を善とする風潮がある。 キャンプでは、そんな効率化に対してトップダウン思考された自分をスローフードで洗い流してくれるような気分になる。 「設営」 環境を活かした柔軟な設営ができるようになりたい。 そういう意味では、多様な環境を提供してくれる林間サイトが好きだ。 木々の利用が自然との対話という感じがするし、ロープワークも面白い。 あと、フリーサイトと違ってプライベート感があるのが良い。 たぶん、このプライベート感というのがソロキャンパーへの憧れを補填してくれてる気がする。 設営に関しては、料理と考え方が真逆だ。いかに効率的にスピーディに設営するかだ。撤収も同様だ。 だが、これは非効率に過ごせる時間を増やすために、効率的に設営している。 全ては、非効率を生み出す効率だ。 なんだ、この矛盾した文は笑 「ギア」 ギアは正直、モラトリアム真っ只中である。 素直にいろいろほしい。 いろいろほしい。 でも、高い。 家庭ある。 模索中だ。 だが、一つ解決策を思いつきつつある。 ギアの満足度は必ずしも値段やブランドだけでは、測れない部分もある。 環境を利用して即興で作ったギアに勝る満足感はない。 そう考えると、ギアへの思いは林間サイトの環境利用やロープワークで補えるかもしれない。 また、ホームセンターで材料を買ってオリジナルギアを作るのも良いなと感じ始めた。 問題は、いつ作るかだが。 今は、自分に生まれる空き時間を虎視眈々て狙っている。 たぶん、次空き時間が生まれたらホームセンターに直行するだろう! 結局のところ、ギアは自分で作ったものが一番なのかもしれない。 「火起こし」 これに関しては末っ子気分だ。 俺には、火起こしのお兄ちゃんがいる。 理想は、薪だけでオールシーズン一人で火起こしできるようになりたい。 焚火は手のかかる子供との比喩を聞いたが、すごいわかる。 成長させるまでに時間かかるし、面倒を見ないといけない。 かといって、過保護でもいけない。 なんで、みんなが焚火にハマるかがわかった。 そう、今はまだ焚火の魅力に気づいただけ。 でも、カンパーニャに行く前は ぶっちゃけ焚火の魅力があまりわかっていなかった笑 みんなが、なんとなく焚火にこだわるから 俺もなんとなく乗っていた。 でも、今は一人で火起こしできなくてちょっと悔しい。 きっと、そのちょっと悔しいがハマる導火線に火を灯したのかなとも思う。 「まとめ」 結局のとこ、あーだこーだ考えすぎると自分の意思を見失いそうだ。 やりたいことに直感的で、素直に自分の意思に従うのが一番なんだろうな。 おわり
2019年09月20日
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最近、欠かすことができないツールにアマゾンミュージックアンリミテッドがある。 Itunesが展開しているサービス同様に、定額制での音楽聴き放題サービスを実施している。 子供の音楽や自分の好きな音楽探しをメインに使っているが、実は音楽以外にも楽しめる。 落語も聞けるし、余暇の充実に優れている。 そんなアマゾンミュージックアンリミテッドユーザーの俺だが、最近稲川淳二の怪談が聞ける発見をした。 そして、それは最近の楽しみになっており、1日1話ダウンロードして、電車の中で聞いているのだが なかなか楽しい! だが、その代償は必ず夜中にやってくる。 夜中、目が覚めてトイレに行く時に昼間聞いてた怪談を必ず思い出し、背後を気にしながらトイレに行くのだ。 明日は、怪談を聞くのをやめようと固く決意するのだが 昼間にまた聞いてしまう。 明るくなった都心の夜で 夜や闇の存在は片隅に忘れ去られてしまいがちだが 改めて夜は怖いなと思った。 今日も夜が怖いな笑
2019年09月05日
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未来について、未来とは流れてくるもの。これが20代くらいの俺の印象。 だけど、今は未来は会いに行けるかもというSF的な印象笑 そう感じるようになったのはキャンプがきっかけかもしれない。 今は、キャンプにはまってる。10代の時の自分はきっとこの未来は想像できないし、流れてきたもののように感じるはずだ。 今でも、過ぎ去った月日の中でいろいろ振り返ることはあるが、まさか自分がキャンプにはまるとは心底考えていなかった。 10代や20代を通しても、アウトドアが特段好きだったわけでもないので、今更ながらなんで自分はキャンプにはまってるんだろう?と素朴にそう感じる。 元々は、人と話すのが好きだった。 キャンプにハマるきっかけは、親しい友人グループの中に、アウトドアに関心がある友人が多かったのがきっかけだ。 自分は、当時そんなにキャンプに関心がなく、むしろ友人の方が盛り上がっていたくらいだ。 その友人達がキャンプをやろうと盛り上がっていたので、自分も参加することにした。 元々、遊びの企画は好きだったので、キャンプのロケーション等を考えるのはやろうと思っていた。 だけど、実際のテント設営や調理は正直面倒だと思っていた。 正直、ロケーション選びは自分がやるから、現場ではみんなに動いてもらおうくらいに思っていた。 そして、キャンプではのんびりと友人トークに加わろうくらいの軽いノリだった。 だけど、そんなノリで参加したキャンプから2年が経ち、今ではどうだろうか? 一人でテントの設営をしたり、燻製作ったり、もっぱら友人グループの中で一番キャンプにはまっている人間と化している笑 不思議だ笑 今の自分にとってのキャンプの最大の魅力は買った道具の所有欲が満たされることだ。 これは、カジュアルキャンパーな自分にとってはかなり重要! キャンプ道具って、正直役に立たないと思う。 キャンプにはまっている人間が言うセリフではないが、日常生活で使えるものって限られてる。 例えば、オシャレなランタンだって、ぶっちゃけLEDの方が優秀だし、調光機能がついた部屋の照明には機能性では勝てないだろう。 カッコいいナイフだって、キッチンでは包丁一択だし。 テントだって、家の方が機能性に優れてるし。 タープだって、カーポートの屋根の方がよっぽど実用的だ。 そう考えると、キャンプ道具って買っても日常生活で使いどころがないのだ。 これは、宝の持ち腐れというやつだ。 そして、この宝の持ち腐れ状態のキャンプ道具ととても似てる特徴のものがある。 それは、勇者の剣だ。 ドラクエとか好きな人が、現実に勇者の剣を手にしたら嬉しいと思う。 俺もすごく嬉しいし飾ると思う。 しかし同時に、それはA5ランクの霜降り和牛を食べずに飾っているような なんとも言えない、やりきれない思いが常につきまとうだろう。 俺はこう考える。 道具と言うのは本来あるべき機能を使用してこそ、始めてその所有欲が満たされるのだ。 勇者の剣であれば、その価値が初めて発揮されるのは、スライムやモンスターを斬る時であり、それが出来て初めて勇者の剣としての所有欲が満たされる。 だが、日常生活では、キャンプ道具同様に勇者の剣は役には立たない。 そのため、勇者の剣が真なる意味で所有欲が満たされることはない。 これは、なかなかキャンプ道具に近しい共通点な気がする。 キャンプ道具も特定のロケーションで発揮する機能を持ちながら、それを発揮できる場所は限られている。 だが、幸いにも勇者の剣よりは救いがありそうだ。 それは、キャンプというイベントによって、それらの真価を発揮することができるからだ。 キャンプは単にアウトドアの側面以外に、所有している道具の所有欲も同時に満たしてくれる。 それは、あたかも日々日常で使う機会がなく、蔵われている勇者の剣が スライムやモンスターを斬る場を得たに等しいイベントである。 それが、俺にとってのキャンプだ。 つまり、俺にとってのキャンプとは、単にアウトドアをしているという価値を越えて 日常生活で今か今かと出番を熱望しているキャンプ道具達との 大冒険の場なのである笑 そんな、大冒険の場なのに、テント張るの面倒とか言ってられない。 ワクワクしかない。 俺は、元来面倒くさがりだった。 故に、キャンプに関心がない。あるいは、セッティングが面倒だからグランピングに走る人の気持ちもすごいわかる! ぶっちゃけ、俺もキャンプにハマるまで、テントとか組み立てんの面倒と思ってた。 ただね、自分でそれを手にして、何もない空間から まるで召喚魔法のように、衣食住を揃えて キャンプ仲間のくつろぐ空間を作り出した時の満足感は 自分で一軒家を建てたより満足感がある笑 ちなみに、去年新築建てました。 自分が元来苦手だと思っていたアウトドアに、こういう形でハマるとは正直意外だった。 そして、これから将来の自分。 10代で今を想像できなかったのだから、これから先もおそらく想像できないだろう。 だけど、これだけは言える。 経験は人生を豊かにする。 自分の好きとか嫌いとか関係なしに、あらゆる経験をして自分から動くことで まだ、出会えていない未来の自分に会いにいける気がする。
2019年08月12日
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以前、一つの言葉や文法の消滅は 単に話し言葉としての価値を喪失するだけでなく その時代の文化や伝統や価値を喪失することに繋がると言う話しを聞いたことがある。 特に、先住アメリカ大陸の民族である言葉は文字に残していないため、その言葉を喪失することは 単にマイノリティの消滅を意味するだけでなく、学ぶべき可能性がある文化的な価値感も喪失するのだ。 正直、この話しを聞いた時 現代社会に生きる一人の日本人として、やや具体性に欠き 論理的な理解はあっても、感情的な理解は乏しかった。 ただ、最近になり上述のような言葉の喪失の意味を理解できるようになった。 それは、お風呂のお湯を沸かす作業がきっかけだ。 私の家は、全自動でお湯入れや追い焚き機能でお風呂を入れられる。 とても、楽だ。 時間のない社会人や現代社会に生きる人間にとって 時間を創出するという意味では 大変重宝すべき機能である。 私は、全自動でお湯を沸かしながら 数10年前をふと回想していた。 私が子供のころは お風呂のお湯を入れてきてと言われると 水の蛇口とお湯の蛇口をひねり お風呂の温度を調節していた。 まさに、いい湯加減を目指していた。 「いい湯加減」今は、機械でやってくれるし楽だなと息子と風呂に入りながら感じていた。 その時にふと思った。 私はこの子に「いい湯加減」を教えれるのかと。 ここでのいい湯加減とは単に物理的な作業を指すわけではない。 ましてや、いい湯加減とは個人の湯加減でもない。 家族の湯加減なのだ。 子供ながらに考えたものだ。 自分の入りやすいお湯加減ではなく、母や姉や父などの入りやすいお湯加減を。 これは、単に物理的な作業ではなく ある種、精神的な作業だったのだ。 お湯加減一つで、他者の気持ちを推し量る機会を私は子供の頃に得ていたのだ。 つまり、私が息子に伝えたい「いい湯加減」とは、他人の気持ちを推し量る機会を得る精神的な作業だ。 近所付き合いが少なくなり、核家族化も進行する 現代社会 まさに、時代は個人主義に傾倒しているように感じる。 ただ、個人主義への傾倒は前述のお湯沸かし作業のエピソードが示唆するように 時代や環境の変化に応じたダイナミズムの流れであり 教育どうこうと言うレベルではないかもしれない。 私は、息子を風呂に入れながら そう感じていた。 この時、同時に「いい湯加減」のような、文化的な価値のある文脈の喪失。 すなわち、先住アメリカ大陸民族のエピソードも繋がり 何故か、風呂場で言葉の喪失について深い理解を得れた。 そして、その後はすぐに思考が未来に向かった。 この子に、いい湯加減をどう教えよう。 いい湯加減の文化的価値を伝えたいなと。 ちなみにいい湯加減を教えたいと感じた背景になるブログはこちらをみてください。 「縁」 https://plaza.rakuten.co.jp/akitoakito/diary/201408170000/ 幸いにも、まだ息子には伝える術がたくさん残っていることに気づいた。 例えば、料理を取り分ける。 一つのお皿の料理を家族でシェアするのだ。 お湯沸かしとは物理的な作業内容は違うが 他人の気持ちを推し量るという意味では、内包している精神的な意味合いでは通じる。 それこそ、全自動料理取り分け機とかできたら終わりだが笑 それでも、他の作業で代行することはできる。 ただ、そういった精神的な作業に触れる機会は、時代の進歩と共に減っていくだろう。 ただ、ここで重要なのは そのような精神的な作業が減ることを嘆くことでも、抵抗することでもない。 私が大切だと感じるのは、時代の変化に伴い 変化や喪失していく言葉から、文化的な価値を抽出し伝承していくことだと感じる。 文化的な価値さえ途絶えなければ、「いい湯加減」が喪失されようとも 他の作業にそれを補完する作用を見出すことができる。 激しく変化する時代の波の中で、今後喪失する作業や家事は増えるだろう。 しかし、その時に便利さのみを受け入れるのではなく同時に失った文化的価値を再考し、伝承し、補完すれば文化的価値は引き継がれていくだろう。 「あとがき」 先住アメリカ民族は大切なことを伝える時に文字に残さない。 彼らは大事なことを伝承するときに使う手段は 物語や歌にして残す。 人の感情に直接語りかける物語は伝承力が強いのだろう。 こういった論理的な考察のブログにおいては、エピソードを織り交ぜることはもしかしたら非効率かもしれない。 しかし、人の記憶に強く残るのは、論旨よりもエピソードそのものだ。 効率が価値を増す現代社会は、経過ではなく結果を求められがちだが 逆に非効率や先住アメリカ民族のような物語文化から学ぶべきことは 意外に多いのかもしれない。
2019年05月27日
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私の基本的なスタンスとして、宗教や政治や思想に関する話題は極力せず、よほど仲の良い友達でなければその賛否を主張することはしない。 それは自身の情報リテラシー観であり、今後もそれを遵守したいと考えている。 以下では、思想についてのブログを書くがそれは賛否を論ずる論旨ではないことを前持って記述しておく。 人がある物事について考える時、軸とする考え方があると思う。 私の事象に対する物の考え方は基本的に環境適応を前提に語られることが多い。 それは、これまで関心を持っていた進化論や認知神経科学を背景にしている。 人の成長とは何かと問われた時に、私は環境適応的な観点から 物質的適応と精神的適応の一致 または 物質的適応と精神的適応の画一的な変化と順応 と捉えている。 ここで述べる物質的適応の物質とは何を指すのか? それは、意識の共有媒体として物質を介して存在している現実社会でのある。(詳しくは過去ブログ回の現実とは何かを参照してください。) まぁ、平たく言えば物質社会である。 一方で精神的適応とは、自身のアイデンティティの確立を指す。 アイデンティティの確立とは、自分らしさと表現されることが多く よく発達心理学において、アイデンティティの確立は20歳を迎えた時期。 青年後期の25歳くらいに完成すると言われる。 ただ、最近では40前後でアイデンティティの再構築もあるとされ 人間が常に異なるライフイベントや環境に置かれる限り、アイデンティティの確立に完成はなく常に再構築と順応を繰り返しているというのが私の見解だ。 つまり、この両者が画一的に順応するということが 成長だと私は考えている。 しかし、昨今では価値観の多様化により物質的適応と精神的適応が解離している場面もある。 例えば、ミニマリズムもそうだろう。 物質社会において、最小限の物質に頼る生き方をアイデンティティとする考え方だ。 繰り返しておくが、この思想について賛否を述べるつもりはない。 このミニマリズムの考え方は私も同意できるし、自分も実践できればしてみたい考え方である。 しかし、このミニマリズムも社会に出て 私はミニマリストですからと主張し、仕事に必要なものを携帯せずに、仕事に支障をきたし解雇されてしまうとするなら それは、適応的と言えるだろうか? もし、これが本人のアイデンティティだとしても それを適応と単純に私は考えられない。 思想は行動原理で、行動は現実と相互作用していると考えると 現実社会と解離して思想を育むことは適応的でないと感じる。 ここでは、あくまでわかりやすい事例としてミニマリズムを挙げたが 思想における現実との解離における危険性はあらゆる思想が内包していると感じている。 思想そのものは現実社会の中でコントロールできれば、価値観や新たなアイデンティティをもたらし有益な変化を与えてくれるだろう。 しかし、それらは現実社会という共有している基盤の上にあるということを同時に忘れてはならないと感じるのだ。 自身が傾倒する思想があれば、それに従えば良いと思うが 価値観が多様化する時代だからこそ、思想を実践する上で、現実社会との距離感を適切に保つことが大切であると感じる。 もし、教育が人の成長に根ざすものであるならば 人を教育することは、思想を養う場ではないとも言える。 そう考えると教育ってなんなんだろう? 教育には、少なからずとも自分の思想観が反映されると考えると 思想なくして教育の実践も難しいとも言えるのかもしれない。 自分の教育が思想の強要になっていないか 価値観を押し付けていないか 常に自己監視する視点も教育者には必要なのかもしれない。
2019年05月02日
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人が行動を起こす時、そこに理由は存在するのかを考える時がある。 その行動に、できる理由が100あれば同じくできない理由も100あり 結局、できるかできないかを分ける部分は理由ではなく 意思なんだと思う。 そう考えると自分の行動に理由を見いだすのも馬鹿馬鹿しく思えてくる時がある。 結局のところ、それをしたいかしたくないかなのである。 今、俺はクソつまらないスマホアプリゲームをしている。 そのスマホゲームの運営に対して同僚の仲間とよく愚痴をこぼす。 俺「新規キャラクター出ないし、マンネリ化してるし、なんの目新しさもない。」 同僚「運営クソですね。クソ笑」 同僚B「なんで、いつもそんなに批判してるのにゲーム辞めないんですか〜笑?」 俺「理由なんてないです。俺にもわからないです。やってる理由が(笑)」 同僚B「あははは」 俺「でも、それが人間なんです笑」 俺「もし、これで俺がゲームをやめたら。いや、むしろ合理的に判断したらやめるべきかもしれない。でも、やめない。これって、ものすごく人間っぽくないですか?」 同僚B「確かに笑」 俺「つまりですね、俺がこのゲームをやる理由はないけど、このゲームで俺人間してます笑」 シチュエーションは変わる 高校の友人とラーメンを食べに行った。 昼は、茨城県で2000年代を象徴するような食べログ1位のラーメン屋 夜は、店主が幼少期に食べたラーメンが忘れられず何十年もかけて、そのラーメンを再現しようと夢を追い続けてる昔ながらの中華そばだ。 俺は昼も夜も両方美味いと感じたが、より心に響いたのは夜に食べた人生というラーメン店であった。 透き通ったスープにネギと麺だけというシンプルな作り たぶん、店主が幼少期に食べたラーメンを究極までに再現したラーメンである。 それは、心に透き通るほど美味く染み渡り 胸にささる味だった。俺史上「昔ながらの中華そば」と名乗っているラーメンで最高の一杯だった。 まるで、店主が幼少期に食べたラーメンの夢の続きを見ているようだ。 おそらく、店主の作るラーメンの味は幼少期に食べた中華そばを越えているだろう。 だけど、店主はいつまでもその味にたどり着くことはない。 なんてエモーショナルなんだと感情移入しながら食べていた。 俺は感動してラーメンを食べ終え、店を後にして友人に言った。 俺「いやー、美味かったねー。」 友人「そう。昼のラーメンの方が俺的には美味かったなー。」 俺が感じてた店主の思い笑 一言で終了〜〜笑 世の中にはいろんな思いがきっと交錯しているんだろう。すれ違う思いもあれば、重なる思いもある。 複雑に絡み合い交錯する人の思いや社会。 友人の思いはたぶん正しい。 俺の思いもたぶん正しい。 あ〜、こういうのが人間の営みの面白さなのかなと何故か友人の発言に胸を打たれた。 ここで、同調して美味かったねと終わる人生もあるが 逆に、友人と噛み合わない感想に 俺は、何故か店主の人生が頭の中で錯綜して より美しいものへと昇華された。 このブログを通して何がいいたいのか? 言いたかったことなんて、後からどうとでも言える。 きっと伝えたいメッセージ性なんてもともとないんだ。 たぶん、単純に人って面白いなと感じた思いを書いてみたかったという意思があるだけなんだと思う。
2019年01月22日
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最近、キャンプやバーベキューにはまってる。 当日になって、道具の不備がないようにかなり下準備していく。 そのため、キャンプでは必要なものは揃い、不便を感じることも少ない。 そんな中、先日は家の近くの河原で友人とデイキャンプをした。 その時は、大根をおろすための下ろし金がなくて困った。 俺は「下ろし金ならあるかもしれないから家探してこようか?」 と言うと 「不便を楽しむのもキャンプの醍醐味だよ」と返事された。 確かにそうだ。 不便はいつの間にか、対策する問題として捉えていたが 不便も楽しむ対象なのかと 目から鱗の意見だった。 いや、理屈的には不便を楽しむキャンプなんてのはわかっていたはずだ。 しかし、実際に不便という状況に置かれた時の 俺の感情を支配していたのは不快そのものだったんだ。 理屈ではわかっていても、感情が不便を否定する。 俺は便利に包まれて、不便を楽しむのが下手になったんだな〜と思っていると 友人がおもむろに石で大根をおろし始めた。 俺含め周りの友人から歓声があがる 「いいね〜、ある物を利用するそれがキャンプだよ」 「ちゃんと擦れてるね〜すげぇ」 絶賛の嵐である。 その大根おろしは、黒い器にいれられた。 俺はせっかくだからこっちの白い器に移すように提案した。 友人が俺に言われるがまま、白い器に大根おろしを移すと 真っ黒な石成分が溶けだした大根おろしが出てきた。 みんな引いた笑 ただただ引いた笑 「これは、食えないな」とどんびいた笑 全員ひいた笑 下ろした友人だけは食べれると言い張り それを食した。 秒で吐いた。 口に入れて秒で吐いた。 「本能が食べちゃいけないと言ってる」と言った。 みんな、その発言に爆笑した。 結局、その黒い大根おろしが使われることはなかった。 「やっぱり下ろし金必要だね〜」と俺は言おうとしたが 今、不便が楽しかったので それを言うのをやめた。
2018年12月05日
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「書くという行為の性質」 文字を書くという行為にどのような意味があるのだろうか? 多くの人にとって、書くという行為はメールやSNSなどの意思の伝達手段を意味しているのではないか。 では、無から有を生み出す思考の整理として書くという行為を用いる場合はどうだろうか? それは、単に意思の伝達的な側面しかないのだろうか。 私は伝達的な側面以外の何かを感じるのだ。 私はブログを書いている。 私にとってブログを書くという行為は無から有を生み出す行為だ。 それは、私にとってカタルシスであり、同時に生産性のある活動になっている。 カタルシスとは精神の浄化作用を意味し 書くという行為そのものに精神を癒す力があるとする考え方だ。 前のブログで私は知識はためすぎると毒になるとの自論を展開したが 私の中での書くという行為におけるカタルシスは、この毒となった知識の清算的な役割を果たしている。 もちろん、伝達という側面があることも言うまでもない。 さて、ここまでは私がブログを書く意義については何も異論なく述べれているのだが あることについて考えるとある壁にぶつかる。 それは、このブログを書いているのは本当に私なのか?ということだ。 私が生産している文章は私が書いているのか? 急にホラーチックな中2病チックな展開になってしまったが 真面目にそう考えている。 文章とは選択の連続によって構成されている。 その選択も完全に自由なものではなく、文法というルールに乗っとり選択肢を提示されるのだ。 例えば、明日は雨が降りそうだから○○を持って行こう という文章があった時 あなたは○○に何を選択するでしょうか? 恐らく、雨具を選択する人が多いかな? 何故、そこに雨具を選択するのでしょうか? 別に、ケーキでもいいし水着でもいいわけだ。 なんとなく前後の文脈が成立するように文章を構成したのではないでしょうか? それならば、あなたが選んだ○○に入る文字は 本当にあなたの意思で、あなたが選択した答えと言えますか? それは、あなたの意思ではなく 「持って行く」「雨が降りそう」という文脈に思考誘導されただけではないですか? そう考えると文章構成における選択の連続って、ある意味文法や文脈によって思考誘導されてるとも捉えることができますよね。 なので、いつも自分の書いたブログを読む時に私は違和感を感じるのです。 これは、私なのかと。 全てが全て 元々あった思考を私は書いてる訳ではなく 書く前にはなかった思考が書いた後に新たな思考が生まれていることがあるんです。 かなり、不思議な気分ですよ。書くという行為によって、無い物から新しい思考が創出されるわけですから。 「アフォーダンス」 認知神経科学の領域において、アフォーダンスという理論があります。 これは、環境情報を無意識的に処理する認知神経科学的処理過程です。 例えば、コップに取っ手があればそれを掴みます。無意識で。 意識して、取っ手の機能を考えて掴む人はいないはずです。 何故、そうしないか? エネルギーの無駄だからですよ。 人はこのようにあらゆる環境からの情報を無意識下で処理し、その期待に応えています。 この一連の流れがアフォーダンスです。 アフォーダンスは、単に環境だけでなく使用する言語や文法によってもアフォードしていくとするならば 私達が使用する文章や言語も、アフォーダンスされた選択の連続体と表現できます。 そのように捉えると、文章を書くという行為によって思考がアフォードされていくというのは十分にありえます。 故に、私は私の書く文章が誰が書いたかわからないような ○○になるのです。 「文法と思考」 さて、ここまでは私個人の文章を書くという行為について分析しましたが ここからは、より広義な言語における文化的な意義を考えていこうかと思います。 私の友人が以前こんな知識をくれました。 とある言語が喪失することは、一つの文化が滅びたことになると。 その話しを、聞いた当初はあまりピンときませんでしたが 今ではよく理解できます。 言語には、様々な文法という制約やルールが存在します。 それは一種の文化的戒律とも言えると感じるのです。 例えば、英語の文法は主語+動詞との並びがあり 「私は〜した〜で〜と」との文章を構成します。つまり、英語で語られる文法ルールは先に動詞という結論が述べられるのです。 逆に日本語は、「私は〜と〜で〜した」との順番で構成されます。 これは、動詞という結論に至る前に過程を多く含みます。 この文法にも文化的な背景を含みます。 そして、文法によっても私達の思考はアフォードされて誘導されていくのです。 そのように考えると言語的な特徴のみで英語と日本語を特徴づけるのであれば 英語「結果優遇主義」 日本語「経過優遇主義」 と主張することができます。 しかし、今 本来、日本語が持つ性質と時代が求める価値が乖離しつつあると感じるのです。 やはり、大衆化した社会を回すには 効率が求められます。無駄を嫌い、効率的であることを美徳とする観点は学校教育の相対評価からも見てとれます。 私の友人が以前このようなことを呟きました。 話しが周りくどい人って嫌い。効率的でない。 結論から先に話してくれればいいのにと。 私はこの話しを聞いた時に一抹の不安を感じたものです。 日本人の文化的性質と時代の価値が乖離していると。 効率化も大衆社会を回す上では重要なシステムではありますが それを美徳とする文化には限界があると思います。 日本語において結論(動詞)に至る経過(〜と、〜で)に多様性があるように 多様性を認めあえる社会になればいいななどと感じています。 おわり ところで、最後の結論の締め方 完全に文章に思考誘導されたな笑 本当はそこまで、そう思ってなくて それは理想論で現実無理だよな〜と思っています。 だって、あそこまで論旨引っ張って でも、現実無理だよなじゃ 文章の締まりが悪いでしょ笑 完全に誘導された。 あと、途中から言い切り文から「です、ます」調に切り替わったタイミング分かりました? ちょっとした思考誘導を仕掛けてみました。
2018年11月29日
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「知識は毒」 知識は体に蓄えていると毒だなと感じる時がある。 知識は還元されたり、表出されることで役割を果たしていくと考えると 知識は蓄えるものではなく放出していくものなのかなと感じる。 個々人の中に蓄えられている知識。 それ単体では、あくまで死んだ知識。 それらが、口を通して表出され誰かに還元された瞬間にその知識は生を得る。 つまり、私が冒頭で述べた毒となり得る知識というのは、表出されることもなく個々人に蓄えられた死んだ知識である。 そのような知識を、何故毒と表現したのか。 それは、行き場を失った知識が知らず知らずに自分を蝕んでいる感覚を覚えるからだ。 「孤立化して深度を増していく知識」 知識を得てさらに次の知識を得る時、その知識の深度は増していく。 深度を増せば増すほど、その知識はマイノリティなものになる。 人間の行動原理として、価値あるものに行動を投資する傾向があるとするならばここに矛盾が生じる。 マイノリティとなった深度の高い知識は、それ相応のマイノリティな表出の場を必要する。 それら、表出の場を享受できる人間は学者や一部の知識人にしかアクセスの手段がないとすると 私達一般人が得た深度を増したマイノリティな知識は、マジョリティという観点に立った時に価値は下がるのだ。 本来、評価されるべき知識の貯蓄が深度を増す度に、マジョリティ的な知識への価値は下がっていく。 ここに、価値を見出したい人間の行動原理に矛盾を生じさせて 知識が毒化する。 深度を増せば増すほどマジョリティ的な観点で価値を下げていくとするならば 人間の行動原理として、どこかにその深度を増した知識に対して価値を付与しなければ 知識を蓄えた個人のアイデンティティを侵害する。 故に、侵害されたアイデンティティを守る必要がある。 そのアイデンティティを守るため、マイノリティであることへの価値を見出し マジョリティに対する線引きをする。 マイノリティであることへの価値は、マイノリティである誇りを生み出し 時に、その誇りはマジョリティに対する偏見をも生み出す。 思想というのは知識の集合体であると考えた場合 外に放出されない知識を蓄え続けることには、一種の思考的危険性を孕んでいることも忘れてはならない。 「知識と社会的ネットワーク」 私達は、人間という社会で知識を享受し還元している。 知識は悦ではあるが、それ自体が麻薬のような中毒性を持っているなら それは、思考的な毒となり得る。 だから、最近得た知識は早めに還元しようとしている。 毒になる前に。 私のような学者でもない一般人の知識を他者に表出する行為を 自慢と捉える人もいるだろう。 確かに、日本人は自慢よりも慎ましく謙虚であることが評価される。 自慢は美しくないと頭から否定する人もいるだろう。 しかし、謙虚を美徳とする日本人の美意識そのものに 思考的危険性を孕んでいることに気づいている人は少ないと思う。 思想的に偏った犯罪者がさらに社会の端に追いやることは簡単だが その背景には、様々な舞台装置が働いているかもしれないということを忘れてはならないと感じる。 「社会的ネットワークに組み込むことの大切さ」 今、働いておらず社会から隔絶されている人がいるとしたら何ができるだろうか? 仕事をしろと声をかけることが最善なのか。 最も私が重要だと考えることは、知識の隔離をさせないことだと感じる。 つまり、働く行為は社会と接する上では必ずしも最重要ではないのだ。 社会はあくまで基盤であるとするならば、仕事は生きる手段に過ぎない。 仕事=社会と考えるのであれば その思考は愚直である。 確かに働かないことはマイノリティであるかもしれないが、マジョリティによる価値感の強要は 単にマジョリティとマイノリティの知識の隔離を強めるだけである。 いつも通りに話し接する。 それが社会的な孤立には最善の手段なのかもしれない。 声をかける。継続する。見捨てない。忘れない。 こういう人に対する努力って、単純化されたコミュニケーション媒体によって難しくなっているのかなと考えると その人達は、働かないのではなく働けないのだ。 そして、その働けない社会構造を作る一端として自分達も その歯車を回していることを忘れてはならないと思う。
2018年11月28日
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良いと思うものを良いと言うこと これが、最近難しくなっている。 良いと思うものを良いと素直に言う これは至極単純な感情の言語化であるが 良いとは、なんなのか 時折、自問自答してしまう。 ウサインボルトは良いランナーであることに間違いない。 それには、私も異論はなく言える。 なぜなら、それは100mを一番早く走ったタイムによって 数字によって、ウサインボルトの走りの質が定量化しているからだ。 このように、質が定量化できるものを良いというのは難しくない。 しかし、私の趣味である音楽やグルメは質を定量化するのが非常に難しい。 私は、自身の趣味である音楽やグルメについては かなり自信を持って、その感性を磨いてきたと自負している。 その根拠もボルトの走りのように定量化できないが、自分の感性の質を言語化して説明できる。 まず、音楽については毎週金曜日にリリースされるi tunesの最新ミュージック(200〜300アーティスト)の曲を全曲視聴している。 故に、最新の音楽の動向を理解していると共に、ジャンルによる選り好みせずに試聴しているため 幅広く音楽的な理解をしている。 また、ブレイクする以前のアーティスト 例えば、サカナクション、rad wimps、米津玄師、水曜日のカンパネラ、daoko等のブレイクをデビューシングルやデビューアルバムにて示唆しかなりの確率で言い当てる。(その後2〜3年でブレイクしている) また、最近では歌手ではなくトラックメーカーなど 裏舞台にいるアーティストにも精通している。 また、日本語で情報検索しても検索にヒットしない 海外有望アーティストやdjやトラックメーカーにも精通しており 最近の邦楽シーンで話題のヌルバリッチがリミックスする3年前からアビーチのサポートdjであるtobtokの存在やヨーロッパでの動向を把握している。 つまり、私は国内外のアーティストのみならず これから孵化するであろうdjやトラックメーカー また、日本語検索にかからない国内無名アーティスト そして、最新邦楽洋楽を常に毎週金曜日に更新して聞いているから 音楽という趣味に絶対的な自信を持っているのだ。 グルメに関して言えば、2000〜3000以上の店で外食しており サトーブリアンや鳥しきやユージアジキなど 各ジャンルの食べログNo.1を食し その道の頂点を食してきた。 つまり、私のグルメの自信の根拠は絶対的な食の量とその質によって裏づけられた自信なのだ。 音楽もグルメもその自信の根拠を言語化し、自分がその趣味にいかに特化し精通しているかを示せる。 そう、自分は趣味により精通していて絶対的な自信を持っているのだ。 だが、それがどうした? 食べログNo1を食べたからなんだ? 毎週金曜日にi tunesの最新ミュージックを全て聞いてるからなんだ? その感性が豊かだとでも証明したいのか。 証明してどうする? 何かの頂にでも立つつもりなのか。 改めて、言おう 俺の趣味は音楽とグルメだ。 これは、数字では測れない。その良さは定量化できない質の領域である。 その趣味の感性をどんなに磨いたと自負しても それは、主観に過ぎない。 そして、その音楽やグルメについては 情報による付加価値も大きい。 特に言語化された情報によって、私の趣味は良くも悪くも踊らされている。 食べログで一番だ。全米No.1だ。 世界の音楽を変えた。 歴代最高。 雑誌で紹介された。 2時間の行列を並んだ。 私の趣味はこのように情報に踊らされ、操作されている。 冒頭に私が自身の趣味の感性の根拠を言語化したのは、情報化や言語化に対する自分自身の自意識過剰に対するアンチテーゼでもある。 まるで、雲を掴むが如く 自分が良いと思っているものは 何かの情報に踊らされていないか? 私の趣味である音楽やグルメ ただ、情報を食っているだけではないのか。 そんなことを最近考えてしまうのだ。 素直に良いものを良いということ 今、私にとって これ以上難しいことはない。 故に、自分が何千何万食を食べようと 何千何万曲聴こうと 主観という檻から出ることはない。 時折、声を大にして グルメや音楽に関する情報を語る自分や他者と出会うが 自分が発するその情報の根拠 そして、自分の感性に 自問自答してみてはどうか。 アーティストの名前を見ずに、曲を聞き流す。 いいなと思った曲でアーティストの名前を見ると アイドルの名前 急にその曲が嫌いになる。 逆に、そんなに心弾まない曲でもアーティストの名前を確認して好きなアーティストだと その曲が急によく聞こえてくる。 その瞬間、「あー、今情報食わされてんな」って思う。 きっと、俺は自身の思い込みや信念という名のバイアスから解かれることはないと思う。 ただ、そんな自分は決して恥じているわけではない。 情報を食い踊らされているだけかもしれないし、バイアスにまみれてグルメや音楽を追求する自分は今後も続くだろう。 共に情報に踊らされまくろうではないか。 人間である以上、バイアスから逃げることはできないのだから。 それも、人間。 それが自然ならバイアスすらも好きになりたいが バイアスを醜いと思うバイアスにかかる自分(笑)
2018年09月29日
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最新家電が好きだ。 特に、生活に変化をもたらせてくれるものが好きだ。 そんな家電好きな俺は最近こんなふうに感じている。 今まさに時代の転換期を迎えようとしているんじゃないかと。 ちょっと、中二病っぽい発言をしてしまったが根拠はある。 未来を感じさせる技術が断片的に見える。 それらは「未来そのものではなく」 「未来のカケラ」とでも表現しようか。 1つ1つは、生活を少しずつ豊かにする技術だが それらが組み合わさった時に「未来のカケラ」は「未来そのもの」になると感じている。 それでは、俺が感じている「未来のカケラ」とは何かをもう少し細かく解説したい。 未来のカケラその1 「仮想現実の技術化」 これは、VR vs ARというように2016年以降目覚ましい進歩を遂げている分野だと思う。 実際に俺も発売日にPS VRを手にしている。 VRは仮想現実の略語であるが、やや難点はある。 身体に装着することで視力低下を引き起こす懸念や頭部における疲労感もかかる。 その一方で360°対応のyoutube等の映像コンテンツは増しており、海外の動画やスタジアムの動画や映画の世界や火星を360°体験できる。 さらに、シアターモードを使えば家にいながらして映画館さながらの映像を見れる。 また、裏技的な使用方法だがapple tvをvrに配線で繋ぎ、スマートフォンとミラーリングすれば、スマホ画面をVRを用いて映画のような大スクリーンで観れる。 実はapple tvと PS VRの互換性が高いのは意外かもしれない。 スマホの動画をミラーリングを用いてVRでみることは臨場感の一言につきる。 旅行先の動画を小さなスマホ画面で見ても、あまり臨場感はないが VRで見れば、まるで旅行先の現地に戻ったような気分になれる。 これはすごいことだ。 だが、しかし この裏技的なVRの使用はあまり普及はしない。 何故ならセッティングが手間なのだ。 アップルテレビとVRを配線でつなぎ、スマホとアップルテレビをミラーリング。 正直面倒。 本来、家電とは利便性を追求して進化してきたものと考えると、技術が高くなっても利便性に欠いた場合 それは庶民には普及しにくいと感じている。 すごい技術革新=生活の変化ではなく その両者の中間媒体である人の存在を無視しては技術が浸透することはない。 そういった意味では、VRはARに遅れているというのが俺の考えだ。 ARとは、一時的に社会現象と化したポケモンGOを思い出してもらえばすぐにわかるだろう。 PS VRとほぼ同時期に出たポケモンGOはよく対比に用いられ VR vs ARという対立構図を生み出した。 ARは拡張現実の略語であり、360度投影するVRほどの没入感はないにせよ。 人間のイマジネーションを最大限に活用し、現実を拡張する。 ARの魅力はなんと言っても現実を拡張する部分を技術のみならず、人間のイマジネーションに委ねている点も高く評価できる。 また、拡張現実は画面をかざすだけという手軽さも良い。 AR技術は、例えば スマホを皇居にかざすと画面越しに旧江戸城が見えたり 観光業界にも影響を与える。 また、アップルウォッチ等のウェアラブル端末との互換性も良好だ。(例:観光ナビゲイト) VRとAR共に紹介したが、俺的にはより未来のカケラと感じるのは ARである。 ただ、VRもAR同様 仮想世界と現実を繋げるという意味では大きな一石を投じたと感じている。 また、ここでは大きく触れないが、スターウォーズシリーズなどSF映画でお馴染みのホログラム技術も現実となっている。 このように、仮想現実世界の進歩は非常に目覚ましい。 未来のカケラ その2「Iot時代到来」 Iot(アイオーティ)という言葉はここ数年で広まっていると感じる。 Iotは「モノのインターネット」と呼ばれ、第4次産業革命の中心となる技術だ。 あまり、イメージができないかもしれないが スポーツ選手にモニターを装着して収集するビッグデータもIotの一種である。 また、ウェアラブル端末が備える健康管理もIotの一端と捉えられるだろう。 だが、世間一般 つまり家庭レベルにおいてインターネットの普及のように浸透しているかと聞かれれば そこまで、浸透はしていないと感じる。 そのため、すでに第4次産業革命がきている言われてもあまり実感がわかないのではないだろうか。 第4次産業革命については内閣府のurlを添付しておくので、参考までに見てほしい。 内閣府の第4次産業革命の見解 さて、このIot技術 どのように私達の生活に今後浸透していくのだろうか? そのキーワードが2017年以降に目覚ましい進化をしているので紹介しよう。 それは「スマートホーム」や「スマートリモコン」である。 スマートホームはCMでも同じみの「OK google」のグーグルホーム そして「アレクサ」で同じみ「アマゾンエコー」である。 特にアマゾンの進化は目覚ましく、創業者であるジェフベゾスは世界一の資産家である。 これは、ビルゲイツが巨万の富を得たように 今、世界の需要がIotに傾いていることを意味すると感じる。 このグーグルホームやアマゾンエコーが音声操作で家電をコントロールする技術を導入した家や環境を総称して、スマートホームと呼ぶ。 ただ、欠点がないわけではない。 グーグルホームやアマゾンエコーに対応している家電を買わないと音声コントロールが行えないのだ。 そして、それらの商品は概して高値である。 そのため、このままだと技術革新だけが進み、使う媒体である人が置いていかれる。 つまり、スマートホーム対応家電は一部家電マニアの趣向品に過ぎなくなってしまう可能性が高く 現に、俺はアマゾンエコーを持っているがスマートホーム対応家電を買ってまでIotの波には乗りたいとは感じない。 だが、そんな俺でも目を惹く商品がある。 技術革新はすごいものだ。 まるで、そういう消費者を意図して狙っているように スマートリモコンが発売されているのだ。 スマートリモコンは、既存の電化製品をスマートホーム化してしまう道具である。 ただし、赤外線操作できる家電に限るが・・。 スマートリモコンはあらゆる赤外線操作をするリモコンを一つに統合してしまうのだ。 例えば、クーラーのリモコンや電気のリモコンやテレビのリモコンを全てスマートリモコンに登録し、一元管理する。 アマゾンエコーやグーグルホームには対応しているスマートリモコンはすでにあるため 「テレビを変えて」とアマゾンエコー等に命令すれば、それをスマートリモコンが連動してその信号をキャッチし、即座にテレビのチャンネルを変えてくれる。 これは、すごいことだ。 既存の家電製品を、スマートホーム化してしまうのだ。 そして、スマートリモコンは現在も進化しており スマートリモコン自体に人感センサーや温度感知機能や人工AIを搭載しているものも発売された。 さらに、スマートリモコンはスマホと連動しており 遠隔操作で家に帰る前にクーラーをつけたりできるのだ。 これだけでもすごいのだが さらに、人工AIを搭載しており手動や自動でのプログラム作成なんかもできる。 例えば、人感センサーがついているスマートリモコンにて、30分以上人の動きが探知されない場合に照明の電気を消す。 室内の温度28度以上で自動的にエアコンをつける。 「いってきます。」と言ったら家の家電の電源を全て落とすなど このようなプログラム化も可能である。 さらに、スマートリモコンを使えば、先に述べたPS VRも音声コントロールを実現してくれるかもしれない。 まさに、スマートリモコンは小さいながら 生活を確実に拡張してくれるのだ。 さて、ここまでの機能があって 値段はいくらなのか? やはり人は技術の媒体なので 普及するには値段も重要だ。 機能によって価格帯には幅があるが、安いもので2000〜4000、中間で4000〜、高値で8000〜といったところだろうか。 一つ一つスマートホーム対応の家電を買うよりも、一度購入すれば既存の家電もスマートホーム化できるという点から、コスパも良好だ。 ただ、欠点がないかと言われればないわけではない。 いや、欠点というより課題というのが適当かもしれない。 スマートリモコンは既存の家電製品をスマートホーム対応にするため、リモコンの登録等一定の手続きを要する。 各メーカー、この登録作業の簡略化を図っているが 自分の理想のスマートホームを目指すには、まだまだ手続きに時間を要し、中間媒体である人にかかる負担は少なくない。 故に、今後のスマートホーム普及にあたっては、手続きの簡略化が求められてくる。 いずれにせよ、Iot技術を中心とした音声アシストでの家電コントロール これには、私達の未来を変える可能性を否が応でも感じざるを得ない。 未来のカケラその3 「プロジェクションマッピング等の映像技術の進化」 プロジェクションマッピングはエンターテイメントや芸術といった多岐の分野において発展している技術だ。 だが俺は、プロジェクションマッピングを単に映像技術とは位置づけていない。 むしろ、AR技術の一端であると感じている。 ただし、プロジェクションマッピング技術が他のARと同様の特徴を備えているわけではなく そこには、プロジェクションマッピングならではのARとしての特異性があると感じている。 ポケモンGOのようなAR技術は、現実空間に仮想空間をスマホ画面越しに投影し、スマホ画面を見ることでARを体験できる。 つまり、そのAR技術を享受できる人間は媒体となるデバイス(スマホ)所有者に限るのだ。 それに対して、プロジェクションマッピングは物理的に、壁面や空間に投影することで、スマホ等の媒体を介さずに直接視覚体験として感じることができる。 さらに、空間にいる人間全員がこれを享受する。 これは言ってしまえば、仮想現実の現実化とも言える。 他のAR技術やVR技術はあくまで仮想世界の域を超えなかった中、プロジェクションマッピングは限りなく現実に寄せていると感じる。 先にも述べたように、俺がVRよりARが進んでいると発言した根拠はプロジェクションマッピング技術によるものもある。 実際俺は、プロジェクションマッピングを用いた美術展に参加したことがあるが 投影された壁面を真近で見ても それが、まるでそこに直接色が塗られたかのような錯覚を引き起こすほど その投影技術はすごい。 また、投影された色の濃淡は均一である。 従来のプロジェクターなどでは距離が投影面と離れるほど、色が薄くなるが プロジェクションマッピングはかなり細かなドットで光を放出しているのか まるで、壁面の性質を変えてしまったような投影感を出す。 これは、ARの一歩先の未来を見た感じがした。 もう一つ映像関連の技術を紹介しよう。 スマホ画面を壁面に投影 このように、投影画像の操作技術が生まれている。 日本では紹介記事のものではないが、すでに約160000円で同様の技術を持つ機器が売られている。 スマホ画面を直接、壁面や机に投影し操作する。 スマホのピアノアプリ等を使用し、机に拡大投影すればそのまま演奏も可能だ。 このように映像技術は目覚ましい進歩を見せているが、まだまだ世間一般には浸透はしないと感じる。 プロジェクションマッピングにせよ、映像投影操作技術にせよ 単純にコスパが悪いのだ。 だが、技術そのものはまるでSF世界である。 そこに未来への想像を止めることはできない。 さて、ここまで3つの未来のカケラを紹介した。 AR、VR、Iot、スマートホーム、プロジェクションマッピング、映像投影操作技術 これら未来のカケラを繋ぎ 俺はこんな未来を想像した。 家に帰る。 家の壁紙は完全なる白。余計な凹凸もなく、余計な家具もない。 「ただいま」と一言発するとIotによってセットアップしていたデータが壁面に投影される。 壁面には、プロジェクションマッピングによる大好きな浜辺の映像。 その投影感は現実と見間違えるものである。 「ごめん、今日は山の映像にして」 AI「お気に入りの山にしますか?」 「いや、新しいとこにしようかな。」 AI「では、こちらでどうでしょうか?」 AIが好みを計算した山の映像が壁面に新たに写される。 壁面四方はスイスの綺麗な山々が映る。 しばらくその空間でくつろいでいるとAIが伝える。 AI「○○さんから、連絡が来てます。映像をつなぎしてよろしいですか?」 「OK」 画面には、等身大の連絡相手が映る。 背景はスイスの山々。 まるで、そこにいるかのような臨場感で会話を行える。 もちろん、映像ではなく、AIに対して音声だけにしてと言えば音声だけもできる。 連絡終了後、AIに話しかける。 「買い物がしたいな。」 ストア画面が壁面に映し出される。 気になる商品や服は等身大で壁面に映され、壁面を直接手でスクロールすれば服や商品を回転してみることができる。 試着させて。と言えば 画面に等身大の自分と服を着ている姿が映る。 そして、夜は満天の星空を投影して寝る。 ・・・・ このような未来を未来のカケラから俺は描いた。 一昔前であれば、あり得ないの一言だったかもしれない。 しかし、今はどうだろう? あり得るかもしれない程、個々の未来の技術は進歩している。 こんな未来が善か悪かはあえてここでは議論しない。 技術革新が人々のライフスタイルを変えれば、弊害も容易に想像できる。 だが、しかしここは単純に 第4次産業革命時代に生きる。 こんなに面白いことがあるだろうか。 時代の転換期、自分も含め どのように生活が変化し どのような弊害が生まれ どのような社会システムの変革が起きるか? 楽しむくらいの気概で、この第4次産業革命時代を生きてみたい。 そんな風に最近は思っている。 俺の家もスマートホーム化しようかな〜笑
2018年08月20日
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横で息子が寝ている。 今まで前を向いて生きてきたが 今は何を残せるか?という視点で生きている。 そう考えると、自分の人生 後ろを向きながら 前に進んでいる気がする。 足跡を濃く残したい。 そう思うようになった。 これが想うということなのか。 とにかく、自分の人生の主体性が 自分から離れていったという実感が 息子が産まれた瞬間から感じた。 息子が産まれた瞬間に、俺の歩く方向は生から死に。 死へのカウントダウンは始まった。 おそらく、俺の方が早くいなくなる。 息子より。 何を残せるか? どう生きるか? やっと、生きるという事に 本当の意味を持った気がする。 幸いなことに、俺はブログという足跡がある。 だから、これからも足跡を残すために 書く。 こんな文章書きましたが ちなみに、私は健康ですよ笑
2018年07月15日
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このブログは複数の人格を持った人間がいる気がする。 真面目なブログを書いたと思えば、コミカルなブログを書いたり しかも、一人称に統一性がなく 私と述べたり 自分と述べたり 俺と述べたり 書く内容によって、1人称を使い分けている。 ある種、これは社会的な側面や私的な側面を一人称の呼称を変えることでメリハリをつけているのかもしれない。 そういう意味で今日書くブログのテーマは まさに「俺のブログ」なわけだ笑 タイトルのビッグポークフランク問題とはなんなのか? これは、物凄く私的な問題で 恐らく万人には全く受け入れられない問題だろう。 なので、こんな考え方もあるという感じで気軽に見てもらえれば幸いだ。 さて、唐突に宣言させてもらおう。 俺は 俺はフランクフルトが好きだ。 特にコンビニのホットメニューのフランクフルト。 たぶん、コンビニのホットメニューの中で、一番注文している商品だと思う。 その中でも、立地的な理由でセブンイレブンでフランクフルトを頼むことが多い。 そこで、いつもイラッとする事が発生する。 それはほんの些細なことなのだけど いつも、それをされるとボディブロウのように じわじわダメージが蓄積する。 それこそがビッグポークフランク問題なのだ。 そんで結局、すごい回りくどい表現をしているが ビッグポークフランク問題の内容については全く説明していませんね笑 ビッグポークフランク問題とは なんてビッグポークフランクを呼べばよいのか? という問題である。 ビッグポークフランクを最も正しく言うのであれば ビッグポークフランクフルトが正しい気がする。 最初、俺はビッグとかポークとかはぶっちゃけどうでもよくて フランクフルトに対するリスペクトから フランクフルトください。と頼んだ。 すると店員は「はい、ビッグフランクですね。」と言い直した。 なるほど、ビッグが重要なんだな。 次に、店に行った時俺は「ポークフランクください」と頼んだ。 すると店員は「はい?」と聞き直した。 だから俺は「あっ、フランクフルト。」と言うと 店員は「ビッグフランクですね。」と言い取りに行った。 その時、俺はこのように感じた。 (なんだよ、ビッグフランクだろうがポークフランクだろうが同じ略語じゃねぇか) そして、次の店でも同じようなやりとりが続いた。 なんだか、俺はおかしく感じてきた。 ビッグフランクそれはある種の、信念に近いような そして、社会的な信念に基づく要請を受けている気がしたのだ。 だが、それに俺は受け入れたくないのだ。 なぜなら、俺は ビッグなんてどうでもいいんだよ。 俺が最重要だと思っているのはフランクフルト フランクフルト フランクフルト以外 ない! くそがっ! ビッグのくそっ笑 今、俺は試してみたいと思っている。 ビッグポークくださいと言ったらどうなるのかを。 同じ略語だぞ。 お前らが強調しているビッグをしっかり使った略語だぞ。 でも直訳すると「デカい豚ください」と言ってるのか。 これは、ニュアンスが違うかも笑 いやいやいやいや ビッグポークもビッグフランクもポークフランクも みんな同じじゃないか。 俺は言ってやるビッグポークください。って ビッグフランクを強要する奴は無意識的なマイノリティに対する差別だ。 真の差別というのは、意識的には行われない。 全て、無意識で行われてるからタチが悪い。 俺は、ビッグポークフランク問題差別協会の会長となることをここに宣言し ポークフランク派が受ける冷遇と差別を訴えたい。 ちなみに、俺は ケチャップとマスタードはいらない派だ。 そこはあまり重要ではない。 そう重要ではないのだ。
2018年05月27日
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私は前回のブログにて 現代の勉学が社会帰属に価値を向く傾向があり 個人帰属型の勉学としての価値を再考する必要がある。 と述べました。 何故、個人帰属型の勉学を再考する必要があるのかを改めて考えてみます。 そもそも、社会帰属型勉学とは何か? これは、私が作り出した概念です。 それは○○学と称す学問全般を表す言葉であり 知識を集合体として○○学と称すことで 社会に共有されやすくなる利点を活かし 社会にその知識が享受されることで生まれる還元作用全般を獲得することを目的とした勉学を 社会帰属型勉学と呼んでいるわけです。 つまり、社会帰属型勉学は社会に対して金を生んだり、名誉を生んだり産業を作ったり 生産的なわけです。 当然ながら、私達はこの社会帰属型勉学を通して知識を身につけて テストや入試という形で社会に知識を評価されて、育ってきました。 それは、無意識的に勉学は 社会に帰属していくという考えを私達に刷り込んでいると感じます。 例えば よく、浅い知識と深い知識なんて言葉を聞きます。 あの人は知識の幅が広いが浅いとか 知識の幅は狭いが深いとか この知識が狭いとか広いとか これってなんなんでしょうか。 さりげなく、使っていると思いますが これが社会帰属型勉学が無意識下で刷り込まれている証拠だと感じます。 そもそも 浅い、深いとは何に対してか?という話しになる訳ですが それは、カテゴライズされた学問という枠組みの範疇で深いか浅いかという話しですよね。 ですが、よく考えてください そもそも知識同士に優劣などは存在せず 学問という枠組の中で深い、浅いという視点で知識に制約を設けること事態がナンセンスであると感じます。 これに対して私が個人帰属的な思考を持って学問とは何か?と問われた時 それは、単なる類似する知識の点の集合体に過ぎず 一つ一つの知識を点として見た時に、その知識間において優劣をつけることなどもできません。 すなわち、全ての知識単位は全て平行線上の上に並んでおり、それらの点がネットワークを形成していると私は考えます。 故に、知識に浅いや深いという概念を付与すること自体が 学問というカテゴライズされた概念を前提とした超社会的な価値基準だと感じているのです。 それでは、勉学に対するスタンスを社会帰属的に行うことにどのような弊害があるのでしょうか? もちろん、社会に共有しやすい。 還元しやすいというメリットがありますが、それだけではありません。 学問という形を持って知識の集合体をカテゴライズすることにより その知識の向かう方向性は画一的な振る舞いしか見せなくなると感じます。 つまり、知識と知識の横の繋がりが枠組みを通して狭まれ ○○学という学問の概念の枠にはまるように トップダウンされた知識になってしまうと感じるのです。 これは、名誉や金や産業に対しては有益であり生産的であるかもしれませんが トップダウンされた社会帰属型勉学は、果たして知の探究には有益なのでしょうか。 これに対して、私が考える個人帰属的勉学は 知識をカテゴライズせずに、もっと自由に考えてもいいのではないか というスタンスが基礎にあります。 単に自分の関心のあることや疑問に思った事象を調べる。 そして、知る。 これの繰り返しに、知的探究の楽しさ という根源的な知の楽しさがあるのです。 すなわち、目的的に思考された現代の社会帰属的な勉学においては 根源的な知の探究や楽しさが喪失されており 個人帰属的な勉学においては、その全てがあるように感じるのです。 想像してみてください。 白いキャンバスに鉛筆で猫を書くとします。 この猫は一つの知識の形だとします。 猫の写真を模写して 白いキャンバスに猫を描く これは、従来の学問という形の社会帰属型勉学です これに対して、個人帰属型勉学では 白いキャンバスに鉛筆で1000という点(知識)を打ちました。 そして、その点を結ぶように猫が見えてくることもあります。 もしかしたら1000の点は、猫だけでなく、犬や、ライオン、車や、花にも見えてくるかもしれないですよね。 模写で書いた猫と 1000の点から見えてきた猫 同じ猫です。 模写で書いた猫は、他には変われませんが でも、1000の点から作られた猫は、線を繋げ変えるだけで虎にも、飛行機にも、花にも見える無限の広がりを見せてくれるのです。 つまり、個人帰属型勉学においては 知識とは白いキャンバスの上に打たれた点であり それらに深いや浅いといった優劣はなく 平面上に並んでいて、それらが時として 形を作り ネットワークを形成しているのだと思います。 恐らく、そのネットワークを形成した先駆者達がそのネットワークに対して学問という概念を付与し 社会に広めてくれたおかげで現在があるのは間違いないと思います。 しかし、その社会帰属的な勉学の形も 元を辿れば、知への探求から始まっており 個人帰属型勉学に回帰するはずです。 画一的な社会帰属型勉学への価値が高まる中 改めて、知への探求の楽しさや個人帰属的な勉学を再考する必要性もあるのではないでしょうか。 私達の社会は恵まれていると思います。 先人達の観察や測定により、それまでの謎が解答として用意されているのです。 ですが、そこで同時に「何故だろう?」と思う気持ちであったり 「わかって嬉しい」という知への根源的な喜びを軽視した場合 知識としての広がりに限界がくると感じます。 私は決して、社会帰属的勉学を批判しているわけではありません。 むしろ私がこうして書いてる文章自体も、先人の教育の賜物ですから感謝しています。 ですが、社会的価値のみに目を向けることは 同時に 知への喜びを喪失している気がしてはならないのです。 最後に、個人帰属的な知の探究のスタンスから一言 「何?何故?なんで?」 全てが、あなたの宝になりますよ。
2018年04月12日
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勉強はめちゃくちゃつまらない。 そう感じて生きてきました。 そして、今でもそうですし たぶん、昔もそうですが、学校の授業を真面目に聞けないかもしれないです。 何故、勉強がつまらないのか? 最近になって、その答えが見えてきたのでブログで書きます。 しかし、当然ながら勉強が楽しいと感じている方もいると思うので あくまでも、主観であるという前置きを持って 何故、勉強がつまらないのかを書かせてもらいます。 私は、冒頭にも述べたように勉強が 「最高につまらない」と感じています。 私が最初に勉強という概念に触れたのは小学生時分と記憶していますが 小学生から大学生までの間、私がしてきた勉強は 個人に帰属するものではなく 社会に帰属してきたものだと感じるのです。 つまり、学生時代の勉学は数字で評価され その評価値が、自身が得た知識を社会に帰属させた時の価値として 数字で現れてる気がしてならないのです。 当然、そこで評価を受ける人は 勉学が楽しいと感じるはずです。 そして、社会に帰属した学問において、優良だった人たちによって さらに学問は形成され進化し 教育を受けるというスパイラルが構築されています。 身の回りにもいないでしょうか? 勉強が嫌いな児童や青年は? その問題の根源はどこにあるのか? 私は、そこに学業の社会帰属的な無意識的な強制と教育が背景にある気がしてならないのです。 そのため、私は社会帰属的な勉学に関心を持てなくなっています。 そもそも、勉学の始まりはどこにあったのでしょうか? それは、恐らく古典的には知の探究心にあったのではないでしょうか? 現代と違い、知の探究は社会に帰属される前に個人に帰属されてきたと感じます。 そこには、数学、国語、科学といった 明確なカテゴライズはなく また、量子力学と物理学が衝突するといった カテゴライズされた概念同士の衝突もあり得なかったと思います。 現代の勉学は、言わば体系化しすぎており 社会に帰属しすぎだと感じます。 知の探究はもっと自由で 本来は、そこに喜びと楽しさという形で個人に還元されていくものではないのでしょうか? 私は、社会帰属的な勉学が評価される時代だからこそ 古典的な個人帰属的な知の探究を再考する必要性があると感じているのです。 そんなこと言ったら、前のブログの現実を認知神経科学から考察なんて元も子もなく 認知神経科学を勉強してるじゃんか、お前も! と突っ込まれそうですが笑 誤解がないように一つ言わせてもらえば 私は、認知神経科学の勉強なんか一切してません。 たまたま、収集していた知識の多くが認知神経科学に近く、また説明する上で認知神経科学という文言を用いた方が トップダウンによるフィードバックがしやすくなると考え 敢えて認知神経科学の概念から話しただけであり その中身は、認知神経科学だけでなく言語学、進化論やカテゴライズできない知識の点に対して ただ、線を結んでいるに過ぎません。 要は、私が前回のブログでしたのは 知識の点を線で結び その線で、結んだ形に 「認知神経科学de散歩」と名付けたに過ぎず その情報ソースは はっきり言って めちゃくちゃです笑 なんか最後は、文章がエモーショナルになってしまいましたが ブログが長くなったんで 個人帰属的な知識の探究の大切さを改めて再考させてもらいます。 次回で笑
2018年04月12日
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最終回「認知神経科学de散歩」 さぁ、いよいよ認知神経科学de散歩の最終考察です。 考察する前に、考察の中心となる私の体験談を改めて振り返ってみましょう。 ・・・・ 友人との待ち合わせに2時間も早く到着し、暇を潰すために偶然散歩を開始したのがきっかけだったのです。 散歩の舞台は立川でした。 とりあえず、友達を待っている間の散歩のテーマは今まで通ったことがない道だけを通る。 いつもの道は通らない。ただそれだけです。 歩き始めるとそれまで知らなかった立川だらけです。 見知らぬ道や店。 地域の人が使う高架下。 歴史を感じる昭和2年創業の中華料理屋。 中心地ではないが、地域の人が通る商店街。 立川バスのターミナル。 人がいない通り道。 立川の芝居小屋。 約40分ほどの散歩で、それまで見たことがない立川がそこにありました。 そして、認知神経科学的体験は突然やってきました。 それは人通りの少ない通りから、立川のHMVやオリオン書房が入っているビルがある大通りとぶつかる交差点で起きました。 そこは人通りが少ない生活圏と賑やかな立川中心地のまさに境界線に立ったような気分でした。 知っている立川と知らない立川の境界線に立った私は それまで知っているはずの立川を見ても 同じ立川に感じられない錯覚に陥ったのです。 私はその交差点を抜け、立川の高島屋と伊勢丹の間の通りを歩き続け そのままドンキホーテの方まで歩き続けました。 いつも通っている道なのに いつも見ているはずのモノレールの駅 いつも見ているはずの伊勢丹 いつも見ているはずの高島屋 全てが未視感なのです。デジャヴ体験の逆のジャメヴ体験をまさにしたのです。 まるで、気分は外国人観光客です。 いつもと違う立川を歩いている私は、ふと後ろを振り返ったのです。 振り返った道は、私がいつも通る道順の立川でした。 そして、また真正面を向きました。 その瞬間、ジャメヴ体験は完全に消失し、いつもの立川の喧騒がそこにはありました。 振り返った後の立川は いつもの高島屋 いつもの伊勢丹 いつものモノレール この瞬間、一つの街を通して私は異なる主観的体験をしていたことに気がつきました。 そして、強く実感しました。 自分の歪んだ主観的体験 私たちが見ている現実は、現実であると同時に それを作り出しているのは、脳なんだということに。 ・・・・・ このように、私はいつもと違う道を通り それまでの街の中心部に出た時 未視感を得て、異なる主観的体験を実感したと やや興奮気味に語っております。 何故、このようなことになったのか? 考察します。 文中で、私は「いつもの立川」という表現を用いています。 そもそも、この「いつもの立川」という現実体験の正体はなんなのか? それは、私がそれまでトップダウン処理によって歩かされていた立川を指すわけです。 皆さんは恐らく 訪れる街に対して 目的意識を持って訪れているのではないでしょうか? ホームタウンとしての街 働くための街 余暇としての街 買い物のための街 このように、無意識的に街に対しても 私達は役割を付与していると思います。 私にとって、立川とは 買い物や食事の街であり その目的を達成するためには 立川駅周辺で事足りる訳ですね。 つまり、私が語っている「いつもの立川」は 買い物や食事を中心として、効率的に歩くようにトップダウン処理されている街なのです。 そのように考えると、私の中での立川は商業施設が密集する駅を中心として現実体験は構築されているのです。 それでは、文中にあったいつもと違う道を通るという行為はジャメブ体験とどのような関連があったのでしょうか? 考察します。 ここで、重要なのは 当然、いつもと違う道を通ったという事なんですが もう一つ大事な要素があります。 それは、その散歩中に立川駅を介していないということです。 先に述べましたように、私の「いつもの立川」というトップダウン処理体験は 駅を中心に構築されると述べました。 中心街を歩く時は、必ず駅を通過し 通過した駅の出口から 視界がひらけて見える 伊勢丹やビックカメラが 無意識的に私の立川の正面になっていた訳です。 つまり、私のジャメヴ体験の引き金としては いつもと違う道を歩いたということ以上に 立川駅を介さずに、違う角度から中心部に至ったという事の方が 影響が大きいと感じます。 当然ながら、いつもと違う道を通るという行為は 認知神経科学的にも重要な意味を持ちます。 それは、脳をトップダウンではなく ボトムアップに切り替えたという点で重要です。 つまり、ジャメヴ体験を引き起こした原因は ボトムアップで知覚体験を構築しながら 駅を介さずに いつもと違う角度で中心部に入ってきたため それまでの知っている立川中心部を見ても 脳の処理は、ボトムアップからトップダウンに切り替わることなく ボトムアップしたまま、立川中心部に突入したのです。 実はこの散歩、ブログ中には登場していませんが 友人がいて 友人も同じジャメヴ体験をしています。 友人はそのジャメヴ体験の中で、このように語っています。 「わぁ、高島屋ってこんなに高いビルだったっけ?」 これ、ボトムアップによる視覚体験の構築ですよね。 トップダウン処理下においては、ビルの高さをわざわざ認知しながら歩いていたら エネルギーの無駄なわけですよ。 ですが、私達はボトムアップ状態にて 中心部に突入した時 視覚体験自体を構築し直すという不思議な状態に陥っていたのです。 このように、ボトムアップ状態にていつもの立川中心部に至ることで それまでのトップダウンで見てきた立川と ボトムアップで見ている立川が 二重に交錯し 異なる主観的体験を得ることができたのです。 それまでトップダウン処理されている街を 再びボトムアップをするという体験は決して容易ではありません。 ですが、普段使っている街においても 少し目的意識をいつもと変えて 歩いてみてはいかがでしょうか? もしかしたら それが 異界への入り口かもしれませんよ笑 以上 認知神経科学de散歩の最終考察でした。
2018年04月05日
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第4回「あなたが脳を支配するのか?脳があなたを支配するのか?」 さぁ、第4回は随分と物騒なテーマになりましたね笑 結論から言いますと 脳は、生存戦略を第一として働いています。 故に、私達は自身の身の振る舞いが破滅に向かわないように監視されています。 私達が習慣と呼び、日常生活で行なっている動作すらも 脳の生存戦略の一環なのです。 何故、繰り返しによる習慣化を脳は好むのか それは、経験をベースとしたトップダウン処理が行いやすいからです。 脳は、あなたの行動を監視し常にエネルギーの節約を図っているのです。 でも そう考えると、脳ってめちゃくちゃ 怠け者ですよね笑 そして、自分の意思の境界線って かなり曖昧ですよね。 さてここで想像してみましょう? 家路に帰るあなたの姿を。 家路に帰る際のどこまでの意思決定が、あなたのものと言えますか? あなたが家路に帰る時、どのルートを選ぶかという選択肢は無数にあると思います。 ですが、あなたは いつも、同じルートを選択して帰宅しているのではないでしょうか? それは、何故ですか? 効率的だからですか? だとしたら、何故効率的を求めるんですか? そんなに早く帰りたいですか? 何故、早く帰りたいですか? 早く帰って休みたいですか? 休みたいのは何故ですか? どこまでが、あなたの意思ですか? あなたの思考パターンはトップダウン処理に向けて支配されていませんか? たぶん、大部分で思考パターンは支配されてると思います。 いや、思考パターンだけでなく感情すらも。 感情すらも、脳の生存戦略によってコントロールされていると言っても過言ではないです。 感情がコントロールされているというのは イメージが湧きにくいかと思います。 一つ解説のための例を挙げてみます。 目の前を歩いている人の頭にドリフのコント並みのタライが落ちてきたとします。 きっと、私は不謹慎ですが 爆笑します。 そして、その爆笑と共に 楽しいという感情が私の中で芽生えると思います。 でも、なんで楽しいと感じているのでしょうか? 冷静に考えると、目の前の人の頭にタライが落ちてきたら 笑えないですよね。 でも、ドリフの鉄板ネタとしてお茶の間の定番と化して笑っているのです。 実はここにも脳の生存戦略が隠れています。 トップダウン処理下の脳は常に環境に対して期待と予測を持っているというのは 以前にも説明したかと思います。 この事例において、タライが頭に落ちるという状態は 言わば、トップダウン処理の期待と予測を裏切る エラーが発生しているわけです。 この瞬間、脳には急激な負荷と その負荷に対する緩衝作用を図ろうとします。 その緩衝作用こそが、ここでの笑いの正体なのです。 負荷に対して、笑いを取ることで 楽しいという感情を創出し、危機的な状況を乗り切っているのです。 このような、感情の緩衝作用は他にも多々あります。 優勝した時の嬉し泣き 愛しい者に対してみられる攻撃性 これら全て 脳が状態の平衡化を望み、恒常的な状態を保とうとするが故の副産物なんです。 そう考えると、私達の感情の一部は 脳にとっては防衛的に機能しており 感情すらも支配されていると言っても過言ではないわけです。 でも、勘違いしないでください。 コントロール下に置かれていること=悪 ではないのです。 生存戦略として、成功してるからこそ 種として繁栄できていることを忘れないでください。 まとめ 1.脳はトップダウン処理に向けて、行動の習慣化を図ろうとしている 2.感情は、トップダウン処理のエラーに対して緩衝的に作用することがある。 3.脳は常に平衡的な状態を好み、恒常的な状態を作ろうとする あとがき 人間は変わりたいと望んでも、そう簡単に変わることはできません。 何故、こんなにも変われないのか? 新しい自分になりたい 理想の自分になりたい と思いながらも、足踏みを続けている人が多いのではないでしょうか? それは、案外あなたの問題ではなく あなたの脳の生存戦略に由来する部分もあるかと思います。 なので、変われないあなたがいたとしても 私はあなたを 決して怠け者だとは思いません。 もし、あなたが変わりたいと思うなら 最も、手っ取り早い方法を一つ紹介しましょう。 それは、あなたが変わりたいと思う人物像に最も近い環境に飛び込むことです。 考えるよりも行動ですね。 恐らく、あなたのトップダウン処理機能はあなたが既存の環境にいるから いつものあなたを振舞わせるのです。 あなた自身をボトムアップせざるを得ない環境に飛び込めば あなたの行動様式や思考は思ったよりも簡単に変わるかもしれないですね。
2018年04月05日
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第3回「知覚処理におけるエネルギーの節約」 今回のメインテーマは、前回話した脳の生存戦略をより詳細に機能的な側面から考察したいと思います。 考察の前に第1回の現実の知覚処理過程3ステップの復習をしてみましょう。 1.知覚からのフィードイン 2.知覚情報の脳内処理→行動 3.環境からのフィードバック この3ステップで現実体験の知覚と修正をしていると説明しましたね。 そして、第2回では脳は生存戦略としてエネルギーの節約をしていると述べました。 さて、ここで質問です。 脳の生存戦略としてのエネルギー節約は、知覚処理過程における3ステップのどこで行われているのでしょうか? 知覚フィードイン? 脳内処理? 環境フィードバック? 結論から言えば 上記の全てにおいて行われています。 そして、今回は各知覚処理過程におけるエネルギー節約戦略を見ていこうかと思います。 それでは、説明に入ります。 1ステップ目「知覚フィードイン」 第1回にて知覚フィードインは現実とのアタッチメントを作っていると述べました。 いわゆる、触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚といった5感が現実とのアタッチメントを形成しているわけです。 さて、この知覚機能は環境からの情報を100%脳に送り届けているのでしょうか? もし100%の知覚情報を脳に送り届けられていたら、みんな写実主義のような素晴らしい絵画が書けるかもしれませんね。 ざわつく喫茶店に入って、全ての会話を聞くこともできますよね。 例え、200人が一斉に話す会場に入ったとしても1人1人の会話を正確に把握しながら、目の前にいる友達との会話も問題なくできますよね。 100%知覚するとは、こういう事を言いますね。 でも、聖徳太子と言えども それは無理ですよね。 何故、無理なんでしょうか? それは、知覚にフィルター機能があるからなんです。 情報を取捨選択し、必要な情報をフォーカスし不要な情報を遮断する。 これが知覚のフィルター機能です。 そして、知覚のフィルター機能を基礎として、人間は注意の選択や焦点化などの精神機能を発揮することができるのです。 私達の脳は情報を取捨選択された状態で現実世界とアタッチメントを形成しているのです。 故に、100%の知覚情報量を有した現実世界で生きる人なんて存在せず、一人一人の主観的な現実は微妙にずれてるいるとも言えるわけです。 2ステップ目「脳内の知覚処理」 さて、次の段階を見ていきましょう。 脳内にインプットされた知覚情報は脳内で統合され知覚体験(現実)として処理されます。 ここで、用いられる節約戦略は「トップダウン処理」という方法です。 トップダウン? なんだそれ? となりますよね。 あまり馴染みのない言葉だと思います。 そこで、トップダウンを理解するために一つ身近な例を挙げてみましょう。 あなたは、プラモデル製作の経験豊かな人間だと仮定します。 あなたは、何度も作ったことがあるプラモデルを製作することになりました。 この時、あなたは説明書を見るよりも 自身の経験で製作した方が早いと判断し 説明書の手順を見ずにプラモデルを製作し、自身の順序で効率的に完成させました。 これが、簡単に言うとトップダウンです。 つまり、トップダウン処理とは知覚体験を脳内で構築する上で、過去の経験や知識を基に再構築する処理過程なんです。 いちいち、経験のある作業や環境に対して、脳内で一から知覚情報を構築するのは非効率というわけです。 そのため、トップダウン処理を行う脳においては 常に環境に対して予測を持って行動しています。 ここでの予測とは、期待という言葉とほぼ同義だと思ってください。 期待?予測? 脳が環境に対して期待を持つ 少しイメージが湧きにくいですよね。 そりゃそうです。私達は、その期待や予測を意識として感じとっていないからです。 1つ例を挙げてみましょう。 目の前に5cm×5cm×5cmの立方体のキューブがあったとします。 あなたは、今それを手にして、手でその重さを測ろうとします。 あなたが、以前に類似する物体を手にしたことがある場合 脳は、すでにその重さを過去の経験から予測(期待)して その重さを事前に脳内で作り出しています。 仮にその物体が、以前手にした類似物体よりも軽かったとします。 しかし、それをあなたが持った時、あなたは類似物体より軽いと感じずに、脳内が事前に準備していた重さを現実として認知するのです。 これがトップダウン処理過程における 期待と予測です。 そして、トップダウンではこれを基に現実を認知することもあります。 それでは、経験にない つまり予測できない知覚情報を処理する時はトップダウンなのでしょうか? 経験も予測もなければ、当然環境に対する期待もないわけで トップダウン処理で知覚体験を構築することに不都合が生じます。 未知の体験に対しては、トップダウンの逆 ボトムアップという処理がなされます。 ボトムアップ処理は知覚情報を元に知覚体験を一から構築していく方法で、子供や赤ちゃんなど経験が少ない人間に認知過程として使われることが多いです。 当然、エネルギーの消費量は一から知覚体験を構築するボトムアップ処理の方が上です。 そのため、初めての仕事や環境などではいつもより 疲労感を感じますよね。 そして、環境適応してくると疲労も減じます。 そう考えると、環境適応とはボトムアップからトップダウンに処理過程が切り替わった状態とも言えます。 このように、トップダウンでは ボトムアップで収集した情報を経験や記憶として脳内に蓄積し その情報を再利用することで 脳内のエネルギー消費の節約を図り、環境に適応させています。 しかし、トップダウン処理は常に経験を基礎としているため 経験から予測した単なる幻を私達に見せている可能性も否定できません。 そのため、トップダウンによる予測が大幅にズレ過ぎないためにも 現実を歪めさせないためにも ステップ3の「環境からのフィードバック」が必要になるわけですね。 それでは、トップダウン処理の修正的機能を持つ 「環境からのフィードバック」 ここでは、どのような節約戦略が用いられているのでしょうか? それをみていきましょう。 ステップ3「環境からのフィードバック」 私達の知覚体験は環境からフィードバックを受けて修正されています。 また、環境との相互性により、私達は自身の知覚体験を共有ネットワークの中に置くことができています。 当然、このフィードバックにおいても生存戦略が用いられています。 その生存戦略は、知覚情報のコード化を指します。 知覚情報をコード化して、フィードバックを得ることにより トップダウン処理の円滑化が図れるのです。 さて、知覚情報のコード化って何を指すのでしょうか? それは「言葉」「概念」「象徴」などを指します。 私達は見聞きした音や視覚情報に対して、それを言語化したり象徴化することで概念を共有させています。 これこそが、コード化なのです。 例えば、信号機の赤 何故、止まるのでしょうか? それは信号機の赤が「止まる」という象徴的な情報コードを持っているからです。 目の前の人が笑っています。 喜びや楽しさを感じるかと思います。 何故、そう感じるのでしょうか? それは、口角を上げる目尻を下げるという視覚情報に対して「笑う」という言語コードを付与してるからです。 このように、「象徴」のような視覚概念や「言語」のような聴覚概念などの概念化を行うことにより 私達は知覚情報をコード化して共有し 環境からのフィードバックを受けやすくしてるのです。 つまり、そのように考えると 私達の思考パターンや思考プロセスは知覚情報コードを介してエンコードされているとも言えるのではないでしょうか? 故に、我々人類は概念の囚人であると述べる学者もいるほどです。 以上をまとめると 私達が見てる現実とは、単に認知神経科学的な出来事だけでなく、概念を形成する背景文化からも影響を受けてることがわかりますよね。 現実とは、主観的知覚体験、文化的体験、他者との共有ネットワーク、知覚情報のコード化など 様々な事象を内包しているのです。 まとめ. 1.知覚はフィードインされる段階で情報が取捨選択されている 2.知覚情報は、トップダウン処理とボトムアップ処理の2つの処理過程を使い分けている 3.情報をコード化することで、環境からのフィードバックを得やすくしている あとがき 人は何故不幸になるのでしょうか? 不幸という状態も、現実体験の一部ですよね。 現実体験は、主観的な体験のみならず文化的背景にも影響を受けることを考えると 不幸の多くは文化的背景に由来することも多い気がします。 我々、人間は概念を利用していますが 同時に概念に支配されていると感じます。 概念が生まれ社会でそれが共有化されることは 利便性を高める一方で 自分たちの行動を制約する枠組みが一つ増えたとも捉えることはできないでしょうか? 時として、概念は自身を守るものではなく 攻撃してくることもあるのです。 それは、人間が概念を手にした 代償であり 永遠の課題なのかもしれません。 人間は概念の囚人である。 なんとなく、この言葉 現代社会にぴたりとハマるんですよね〜。
2018年04月05日
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第2回「脳の生存戦略」 さて、第2回のタイトルでは脳の生存戦略という言葉を唐突に用いています。 いきなし、生存戦略という言葉が出てきて 第1回の「現実とは何か?」というテーマから大きく外されたような気分ではないでしょうか笑 ただ、この生存戦略と私達が見ている現実世界は密接に関連しているため 説明を省略するわけにはいきません。 なので、脳の生存戦略について今回は話させてもらいます。 それでは始めます。 人間の脳の特徴として 一つに、概念化できる事象の量が多いことがあげれます。 例えば、桜の上位概念に木があり、木の上位概念に植物があり、植物の上位概念に自然科学があり 概念同士が階層を見せて、複雑な構造を取っています。 その一方で、他の生物はどうでしょうか? 恐らく、人間ほど複雑に概念形成はなされておらず 種の生存戦略において必要か不要かというシンプルな概念世界によって生きていると推測されます。 すなわち、人間を除く生物が知覚している世界と人間が知覚している世界を比較すると、その世界(現実)の見え方はまるで違うものになるはずです。 人間の知覚世界(現実)の方がより抽象的で複雑であり、シンボリックな構造に囲まれていることが想像できます。 このように一見すると、複雑多岐な情報に囲まれた人間は、優れた知覚世界(現実)の中で生きているように見えます。 しかし、その知覚世界(現実)が必ずしも生物界の進化上の利点になってると言い切ることはできません。 なぜなら、知覚世界が複雑であるということは、脳にインプットされる知覚情報量が多く、それに伴う脳のエネルギー消費量を多くさせるからです。 この脳の過剰なエネルギー消費は、単に「種を残す」「生命を存続させる」という進化上のプロセスにおいて必要かつ合理的なことなのでしょうか? もしかしたら、より単純な概念世界で生きている生物の方がより効率的に生きている可能性もありますよね。 そう考えると 人間は進化上の優位種ではなく 他の生物同様 常に適応を迫られているということがわかります。 故に、私達人間も他の生物同様に生存戦略を必要としているのです。 それでは、脳はどのような生存戦略を取っているのでしょうか? それの答えは、案外シンプルです。 それは、「消費エネルギーの節約」です。 ここでのエネルギーの節約とは、脳にオーバーワークさせることを防止し、消費エネルギーを抑えるという考えです。 よく、人間の脳は普段10%くらいで活動してるなんて聞いたことないですか? それ、本当なんです。 脳は、本来働くことに消極的で常に省エネを心がけて働いています。 脳が普段それだけ省エネしてるんだったら 私達の脳が本気を出したら、どれだけの力を発揮するのか 考えるだけでワクワクしますよね。 それ故に、SFで残り90%を引き出し人間の潜在能力を引き出すなんていう そんな強化人間テーマものがあります。 ただ、人間がもしリミットを外して 100%の仕事量で脳に仕事をさせたら 種はとっくに絶滅していると思います。 シュミレーションするとこんな風になるかと思います。 100%脳力強化人間 コナンもびっくりなほどの外部環境の詳細な情報を脳が吸い寄せる。 脳内で情報の洪水が起きて、それらを統合しようと脳が急ピッチで仕事を続ける。 そのため 脳に膨大なエネルギーを供給するため、心臓はオーバーワークで血液供給しようとする。 結果、高血圧と頻脈状態が続き 心臓が高負荷にさらされる。 そして、結果として心不全や脳出血を引き起こす。 故に、心血管系の疾患による人類の突然死が多発すると共に 1人あたりの食料消費量も増すため 種として食料供給問題に直面する。 このように、脳は生存戦略としてエネルギーの節約を図らないと 人類に危機的な状態をもたらします。 では、具体的に脳はどのようにして、エネルギー節約をしているのでしょうか? 次の回では、脳の生存戦略を機能的な側面からもう少し詳しく見ていこうかと思います。 まとめ 1.人間が見ている知覚世界と、他の生物が見ている知覚世界は異なる 2.人間は進化上の優位種ではなく、他の生物同様に常に環境適応を迫られている。 3.人は、生存戦略として脳に極力仕事をさせないようにしている。 あとがき このブログを書いている時に、途中で何度も あぁ、書くの面倒くさくなってきたな〜って感じることがありました。 これって、本当に面倒くさくなってたんですかね? 脳が仕事をしたくないから、面倒くさいと私に思わせて 消費エネルギーを抑えようとしてるんですかね。 面倒くさいと思うのは、私の意志なのでしょうか? それとも、脳の生存戦略からくるものなのでしょうか? そう考えると、私が意志と呼んでいるモノってなんだか実体がなくボヤけていますよね笑
2018年04月05日
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さて、今回より前回書いた散歩でのジャメヴ体験を認知神経科学を通して考察したいと思います。 ただ、その考察をする前に予備知識がある方が考察はよりわかりやすくなるため 認知神経科学的な知識について 「現実とは何か?」 「脳の生存戦略」 「知覚処理におけるエネルギーの節約」 「脳があなたを支配するのか?あなたが脳を支配するのか?」 という4つのテーマに分けて段階的に解説をさせてもらいます。 そして、それらを踏まえて最終回で認知神経科学de散歩の最終考察をしていきます。 それでは、認知神経科学de散歩の最初のテーマの考察を始めます。 第1回「現実とは何か?」 私達が今見ている現実と呼ばれる知覚体験の正体は一体何なのでしょうか? 当たり前のように知覚し、当たり前のようにそこに存在し 自分が見ている事象について、それが何なのか検討したことは恐らくあまりないと思います。 改めて考えてみましょう。 今、あなたが見ている事象は現実ですか?幻ですか? そう聞かれた時にあなたは100%現実ですと断言できますか? 正直なところ、今の科学を持ってしても主観的な体験を現実か幻かを証明することは難しいことです。 故に、古典的哲学として 我思う故に我ありとの言葉が示す通り 意識とは何か?自分とは何か?を古来から自問自答してきたわけです。 科学が発達してきた今 観察や測定などの状況証拠の積み重ねにより、以前よりは現実という世界の理解に近づいています。 また、認知神経科学や量子力学といった学問が登場し、現実についての理解は飛躍的になっています。 このブログでは、その飛躍のきっかけとなった認知神経科学の見地に立って、現実世界を考察していきます。 認知神経科学では、現実世界を私達に体験させている正体を「脳」と考えています。 脳は人間の中枢であり 全感覚の中継器官であり 知覚情報の脳内へのインプットを行い 知覚情報の脳内での統合をし 統合した情報を元に行動としてのアウトプットを行い そして、環境からのフィードバックを受けて 行動の適応と修正を行う 全てをこなす万能器官なわけです。 脳死=人の死と医学的に認められるほど 中枢を担っている器官であるわけです。 それでは、その万能器官である脳に現実体験とのアタッチメントを形成し、情報をインプットさせているものは何か? 認知神経科学の答えは、「知覚」です。 例えば 皮膚からの触覚という知覚情報 目からの視覚という知覚情報 口からの味覚という知覚情報 耳からの聴覚という知覚情報 鼻からの嗅覚という知覚情報 それら知覚情報を脳が統合し、現実体験を私達に見せてくれてます。 でも、もしその知覚情報のインプットの感度が他人よりも敏感であったり鈍感であった場合 脳に統合される現実体験は、微妙に差異が生じますよね。 それにも関わらず、皆一つの共有化された現実で生きているような体験をしています。 ある種、現実とは主観的な体験でありながら 他者と共有しているという共有体験という特殊性も有しています。 それ故に、自分の知覚情報は100%正しいとは簡単に言い切ることができません。 例えば、あなたが大声で叫んでも誰も反応を示さないのであれば、あなたは自分自身の感覚を疑うかもしれません。 そして、実際に脳はあなたが声が出ていないと修正することも容易にあり得ます。 そう考えると、知覚情報とは常に他者のフィードバックによって修正されうる相対認知だとも言えます。 脳は私達が考えている以上に騙されやすく、環境から干渉を受けやすいのです。 このように環境から干渉を受けやすい脳が、私達に見せる現実世界は100%の主観体験と言えるのでしょうか。 言えないですよね。 現実世界は、私という一人称で完結することはできず 常に他者や環境との関わりの中で成立しています。 以上のことを踏まえて 現実を再定義するならば 現実は、単なる主観的な体験ではなく 環境との相互作用の中で形成された 意識の共有媒体(ネットワーク)と捉えることもできるのです。 それでは、意識の共有媒体に私達の現実世界を置くことにはどのような利点があるのでしょうか? 一つ例を挙げて考えてみましょう。 AがBに話しかける。 BはAを無視をする。 Bの反応を受け、Aは声が小さかったかなと推測する。 Aは再び大きい声でBに話しかける。 Bは、Aに応じる。 Aは、その時 小さい声でBに話しかけたから最初に無視されたんだと認知する。 このように Aが感じた「小さな声でBに最初に話しかけた」という認知は AとBの相互作用によって現実として認知されています。 つまり、私達の現実の認知は他者によるフィードバックも重要であり そのフィードバックを通して、知覚情報の修正がされていることがわかります。 このように 1.脳の知覚インプット 2.行動としてのアウトプット 3.環境(他者)からのフィードバック これらの3ステップをループして現実を修正したり知覚しているのです。 そして、この3ステップのどこか歯車が狂った場合、主観的な体験としての現実は歪むのです。 例えば、環境からのフィードバックに問題が生じ あなた以外の全ての人間があなたを無視し続けた場合を想像してください。 あなたはあなたを認知することができるでしょうか? あなたは、全ての人間からフィードバックを得られず もしかしたら既に死んだ存在だとその時に認知するかもしれないですね。 でも、あなたは他者が客観的に確認した時に死んでいますか? 存在していますよね。 これは、主観的な意識体験が共有媒体から弾き出された結果だと思います。 このように、共有媒体から弾き出された歪みを私達の世界では、それを「病気」と呼ぶこともあります。 だけど、共有媒体が必ずしも正しいと証明することも難しく 最近では共有媒体自身が歪んでいることを数学的、量子力学的に考える学者もいるほどです。 故に、私達の現実は幻であるなんていう考えを持つ人もいるくらいです。 結局のところ、今の科学を持ってしても現実は幻なのか事実なのかは誰にもわからないのですね。 まとめ 1.現実体験は、知覚によるインプット、脳内の統合、アウトプットとしての行動、他者からのフィードバックと修正によって得られる知覚体験 2.現実体験は、主観的体験であると共に共有化した意識のネットワーク媒体 3.現実体験が、事実か幻かは現代科学を持ってしても証明が難しい あとがき 私達の現実は、他者と共有されています。 現実を「共有化された意識のネットワーク」とするならば、そのホストコンピューター的な装置があってもおかしくないと考える学者も出てきてもおかしくないですよね笑 まぁ、すでに実際に出てきてますが 主に量子力学分野から笑 でも、一見突拍子もないような理論にも見えますが 古来より、人間が求めている神々なんかも 現代風に言えば、共有化された意識ネットワークのホストコンピューターなわけで 潜在的には、意識のつながりには古来の人も気がついていたのかな?なんて思いました。 あと、文脈で 共有媒体から弾き出された歪みを私達の世界では、それを「病気」と呼ぶこともあります。 と書きましたが これ自閉症なんかも当てはまるんですよね。 最近の研究だと、自閉症は脳の問題ではなく 過剰な感覚フィードバックが原因と示唆されています。 非自閉症児が得る感覚フィードバックにおいて安全な物体も 自閉症児が得る過剰な感覚フィードバックによって、それを危険と判断した場合 非自閉症児と自閉症児では異なる現実を見ていますよね? これって、誰を基準とした自閉なんでしょうね。 私達が現実と呼んでいるものは、あくまでもマジョリティが作り出している概念であり もともとは何も無いんじゃないですかね。 以上、雑感的あとがきでした。
2018年04月05日
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認知神経科学という学問をご存知でしょうか? 多くの人にとって、認知神経科学はあまり馴染みのない学問であると思います。 なので、簡単に認知神経科学を説明すると 脳がどのように現実を立ち上げて処理をしているかという過程について、脳の機能的な側面から科学する学問です。 例えば、奥行きについてですが、私たちが見ている映像から脳はどのように奥行きを感じとるのかという事を科学するのも認知神経科学です。 そんなの奥行きがあるからに決まってるじゃんと言われればそれまでなんですが そもそも、目で捉えた映像は全て網膜という目の奥にある二次元平面上に投影されています。 つまり、私たちが見ている映像は二次元平面上に投影された映像に過ぎません。 しかし、実際に私たちは現実を見る時にそれがTVの映像を見るように平面的に処理されておらず どんな、最新のTVでも勝てないくらいの立体世界を見ているはずです。 何故、平面上に投影された映像を私たちは空間として立体的に見えているのでしょうか? 考え出すと面白いですよね。 こういうのを考える学問が認知神経科学なんです。 さて、今日のブログテーマですがこの認知神経科学と散歩を掛け合わせてしまおうと思います。 名付けて「歪む世界。認知神経科学的な街の歩き方。認知神経科学de散歩!」 です笑 そもそも、自分が見ている世界や現実を100%他の人と共有していると感じたことはあるでしょうか? もし、他の人と自分が観察している事象が1%づつズレていったら 最も離れている人と同じ事象を観察していても それは同じ現実ではないはずです。 つまり、100%歪んでいない主観的な体験というのは存在せず 皆誰しもが歪んだ世界の中で生きています。 ただ、それを実感する術がないのです。 さて、認知神経科学de散歩ではこの主観的体験の歪みを実感できる散歩法について語ろうかと思います。 もともと、認知神経科学には関心を持っているユーベアキトですが さすがに突拍子もなく、よし認知神経科学的に散歩してみようとは思わないわけです笑 友人との待ち合わせに2時間も早く到着し、暇を潰すために偶然散歩を開始したのがきっかけだったのです。 散歩の舞台は立川でした。 とりあえず、友達を待っている間の散歩のテーマは今まで通ったことがない道だけを通る。 いつもの道は通らない。ただそれだけです。 歩き始めるとそれまで知らなかった立川だらけです。 見知らぬ道や店。 地域の人が使う高架下。 歴史を感じる昭和2年創業の中華料理屋。 中心地ではないが、地域の人が通る商店街。 立川バスのターミナル。 人がいない通り道。 立川の芝居小屋。 約40分ほどの散歩で、それまで見たことがない立川がそこにありました。 そして、認知神経科学的体験は突然やってきました。 それは人通りの少ない通りから、立川のHMVやオリオン書房が入っているビルがある大通りとぶつかる交差点で起きました。 そこは人通りが少ない生活圏と賑やかな立川中心地のまさに境界線に立ったような気分でした。 その時、私の頭の中にあるフレーズが浮かんでました。 それは「分水嶺」です。 分水嶺とは川の淡水と海の塩水が混じり合う境界です。 私が立ったそこはまさに立川の分水嶺と感じるポイントだったのです。 知っている立川と知らない立川の境界線に立った私は それまで知っているはずの立川を見ても 同じ立川に感じられない錯覚に陥ったのです。 私はその交差点を抜け、立川の高島屋と伊勢丹の間の通りを歩き続け そのままドンキホーテの方まで歩き続けました。 いつも通っている道なのに いつも見ているはずのモノレールの駅 いつも見ているはずの伊勢丹 いつも見ているはずの高島屋 全てが未視感なのです。デジャヴ体験の逆のジャメヴ体験をまさにしたのです。 まるで、気分は外国人観光客です。 何がジャメブ体験を引き起こしたのか? それは、いつもと違う歩き方をしたという点以外に説明がつきません。 いつもと違う立川を歩いている私は、ふと後ろを振り返ったのです。 振り返った道は、私がいつも通る道順の立川でした。 そして、また真正面を向きました。 その瞬間、ジャメヴ体験は完全に消失し、いつもの立川の喧騒がそこにはありました。 振り返った後の立川は いつもの高島屋 いつもの伊勢丹 いつものモノレール この瞬間、一つの街を通して私は異なる主観的体験をしていたことに気がつきました。 そして、強く実感しました。 自分の歪んだ主観的体験 私たちが見ている現実は、現実であると同時に それを作り出しているのは、脳なんだということに。 そして、仮に脳が私たちに幻を見せていたとしても 私たちはそれを確かめる術を持っていないということに。 次回、「認知神経科学de散歩」何故ジャメブ体験は引き起こされたのかを認知神経科学的に考察します。 あとがき 歪んだ主観的現実の中で生きている私たち それを実感することには一見なんの価値もない認知神経科学的な体験であるかのように感じます。 しかし、自分の主観的体験を完全とは思わず、常に歪みの中に自分が置かれていると実感し生きることは 事象に対する客観的判断力をより高めてくれると感じるのです。 鏡を見てみてください。 そこには左右が反転した最も歪んだ自己像があなたを見つめていますから。
2018年03月17日
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趣味は人間観察っていうほど上から目線で、人を洞察しようとも思わないし それほど、人間なんて観察していないし そもそも、観察ってなんだよって話しなんだけど ふと、人の行動に激しく興味を注がれる瞬間ってたまにある。 昨日、まさにそんな出来事があったので、ちょっとブログに書いてみようと思う。 昨日は、仕事後に夕飯を1人で食べて行くことになり 普段は、入らない17:00という時間にファミレスに入った。 そこは、メインメニューが肉料理でメインメニューを頼めばサラダバーも付いてくるファミレスだった。 店の立地か、時間帯の影響かはわからないが、店内には客がおらず、店は俺1人の貸切状態。 メニューを早々に決め、サラダバーを取りに行き席に着く。 ドレッシングの種類も豊富でテンション上がる。 席に着き、渾身のオリジナルサラダを食す。 パリパリ うまい! しばらくして、サラダを食べているとジューっと鉄板の上で焼ける肉の音と共に、メイン料理がアルバイト店員によって運ばれてくる。 もうテンションは最高潮!これ以上言うことない。 運んできた店員さんは、女性でたぶん大学生くらい。 夏フェスとか行ってそうな溌剌とした印象を受ける。 そんなことはどうでもよくて、店内には俺とその店員とメインメニューとサラダバー! まさに貸切! 最高! 俺はメインメニューである肉を「裏面を焼いて早めにお食べください」という店員の指示に従い、裏面の肉の赤身を確認しながら焼いた。 ジュー ネギ塩の良い香り 最高! 赤身が取れたところで、肉にタレをつけて食べる。 うまい! 箸が進む。 最高!最高!! 俺が一人黙々と最高な気分で食事をしていると、同時に視界の端で人影が散らつく。 たぶん、アルバイトさん。 ふと、視線を自然とそちらに向ける。 視線の先には、アルバイトさんが領収書入れる透明な筒を拭いている。 ジュー、モグモグ あー、誰もいない時ってこういう仕事してんだな〜 なんて、思いながら再び肉を食べる。 うまい! また、肉を食べる。 うんうん、うまい。 視界に散らつくアルバイトさん 再び視線を送る。 まだ、拭いてる。 ジュー ・・・・ ・・・・ ん!? ・・・・ 箸が止まる (・・結構丁寧に拭いてるよな。) しかも、さっきから同じの拭いてる? いや、よく見るとすごい丁寧じゃないか。 アルコールスプレーをタオルにかけて、細かく指を動かし まるで靴磨きのようだぞ! ジュー モグモグ 近くに行けばきっとキュッキュッと音が響いて気そうな感じ。 すごいな。窓1枚拭くのより時間かけてるかも。 モグモグ 再び肉を食す。 これは、個人の意思なのか?それとも店の指示なのか? 店の指示だとしたら、それに店が拘る理由は? いや、店の指示だとしても、ここまで綺麗にしようとするのは個人の拘りか? モグモグ ていうか そもそも領収書を入れるアレってなんて名前なんだ。 いろんな疑問が肉を噛むたびに浮かぶ。 アレだよ!アレ! これ! これな、これっ! キュッキュッキュッ あっ、置いた。 次のテーブル行った。 また、磨き始めた。アルコールスプレーを熱心に布に吹き付ける。 てか、今確実に彼女の行動とアレに支配されているよな。 アレ ていうか、俺さ 人生でアレについて、こんなに考えているの始めてだよな。 精々、アレについての思い出といえば、暇な時に机上で転がした記憶くらいしかない。 微妙に回転が悪い筒。 今までピックアップしようとも思わなかったアレが 彼女の行動によって目が釘づけとなる。 なんか、すごいよ。 モグモグ うん、俺なんでこんなことで感動してるのかわからないけど、いろいろすごいわ。 モグモグ あれっ、肉 もうない。 肉はいつの間にか食べ終わっていた。 ・・・ よし!サラダバー取りに行こう! 再び、サラダバーを取りに席を離れる。 俺は正直 サラダバー取りに行くために、席を離れたのか それとも彼女が磨いているアレを見に行こうとしているのかがわからない。 だが、アレが気になるのは間違いない。 俺はサラダバーに向かいながら、横目でテーブルの上にある彼女が磨いたアレを見た。 うっわ〜〜 なんだこれ めっちゃくちゃ輝いていて なんつーの、アレのエッジの部分が虹みたいに輝いてるっていうの ほら、油膜と虹ってなんか層みたいになってるじゃん。 エッジの部分がアルコールを含んだ布で拭いた影響か虹みたいになってんの。 もうかぐや姫が出てきそうな勢い! 俺、もしかして日本一美しいアレを今見てるかもしれない。 すげーよ、エンターテイメントを超えたエンターテイメントだよ。 これ、他の客入ってきた時気づくのかな。 てか、この仕事って評価されてんのかな。 飲食店の費用対効果や効率を考えると決して店にプラスとなるような仕事ではないよな。 でも でも 俺は評価するよ。 すごいもん。 なんかね、もう心が洗われた。 すごい感動した。 小泉首相ばりに言いたいよ。「感動した!」って もうね、会計の時に言いたい。 言ったら気持ち悪いから言わないけど 誰にもフィードバックを得られずにこの作品を作り上げてることに なんとかフィードバックしてあげたい。 すごい褒めたい。サラダバーとかどうでもいい。 とにかく褒めたいよ。 褒めたい〜〜 ・・・ しかし、時間は無情。 お腹もいっぱいになり俺がこれ以上この店に留まる理由がなくなってしまった。 逆にこれ以上居たら不審(笑) 結局、俺は彼女の素晴らしい作品活動を止めて 会計を依頼するという愚かな行為をしてしまった。 ピンポーン 「はい、お待ちください〜」 溌剌とした声が店内に響く。 俺は財布からお金をだし会計した。 「ありがとうございました〜」 溌剌とした声が響く。 会計時、俺は伝えたかった! アレ素晴らしいです!スゲェっす! 感動しました! でも俺は伝えれなかった。 アレの名前わからないし、わかったところで伝えて皮肉言ってるとも思われたくないし しかも、一児の父としてそんなナンパな発言はできない。 だから、俺は心の中で「感動しました料理ではなく、あなたの作品に。ありがとうございましたー!」 と魂のシャウトをして店を後にした。 その後 店を出てからもアレの名前が気になって仕方ない。 俺の中では、アレの名前はめっちゃオシャレに想像されてく。 たぶん、カタカナだ。 うん、メトロノームとかそんな感じ。 マドラー、muddler あっ、なんかいい感じ。 きっとアレの名前はオシャレさんだ。 あの店員のように溌剌とした名前に違いないよ。 そうだ、アレの名前を調べてみよう。 ワクワク ・・・・ てか、名前も知らないのにどう調べればいいんだ。 うーん とりあえず、マドラーで検索 結果 こういうの。マドラーってこういうの。 カクテルを混ぜるヤツとか。 うん、名前のオシャレ感と用途が一致している。 そうだよな。こういうのマドラーだよな。 じゃあ、これは これはなんじゃ〜? what your name? カクテル、 ワイン、 ハバナビーチ、 ブリー、 アサシン、 ワイキキ 最高にオシャレなカタカナ語が俺の頭を駆け巡る ネットサーフィン 夏フェス 溌剌 アルバイト店員が磨いているアレ 検索用語を入れ換える ないないない そして ついに あった あったよ〜〜 これね これだよ!これっ! 君の名は 「伝票立て」
2018年02月21日
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お久しぶりです。ユーベアキトです。 ブログの更新頻度減ってます。 理由は 1.読者なんていないと思っている 2.書くにあたって短文が書けなくなっている 故に面倒くさい笑 3.趣味が多すぎてパンク状態にある 4.他に価値がある そんな感じの理由ですが、アリグチャさんが最近ブログを見たと言っており 逆にサプライズだったりします。 今回のブログテーマは「夕焼け」ですが 私、ユーベアキトは今年度から勝手に「夕日を美しく見る会」を設立し、勝手に会長を名乗っております。 おそらく、会員は2〜3名ほど(半ば強制的に会員になった者もいる) そんな「夕日を美しく見る会」ですが 昨日、第1回活動を行なったため設立に至る経緯と活動報告を致します。 【設立に至る経緯】 2016年12月にW氏と、日本百名山である筑波山に行きました。 目的は手軽にトレッキングを楽しむこと そして、最高のロケーションでコーヒーを飲むことでした。 トレッキングという面では、標高が低く初心者でもチャレンジしやすいこと ロケーション面では関東平野の先端に位置し、遮る物がない景観 以上の2点から、筑波山を選びトレッキングしたのですが ここで、予想外の感動を味わうことになります。 当時、筑波山の山頂ロープウェイは夜間営業しており、山頂から関東平野の夜景を一望することも目標としておりました。 そのため、通常であれば下山を急がなければならない時間であっても 私たちは、ゆっくりと山頂付近を散策する余裕があったのです。 時刻は16:00〜17:00付近になり、歩き続けていた一行は歩を緩め拓けた平地で休息しました。 その時、ふと空を見上げると 丹波山山系が黄金色に染まり、真反対の東北の空を仰げば漆黒の闇が迫る 360度全天球のグラデーションが空を包んでいました。 その美しさで、言葉を失い そして、時間も失い ただただ、空を見上げるばかりでした。 ただ、そのグラデーションは1秒として同じ空はなく 常に、東北の闇が黄金の空をめがけて迫ってくるのです。 その時、私はこう感じたのを記憶しています。 「儚いな」 美しさに永遠はない。それは、人の世界も同じです。 私は空を見上げながら、まるで誰かの人生を投影しているかのような感覚に襲われました。 若き頃のエネルギーや栄光、迫り来る老いや病 生老病死を空に見た気分になりました。 そして、それこそが夕暮れという時間が、1日の中で最も儚く、美しい時間なのだと気がついたのです。 今まで、常に夕暮れなんて側にあり あたり前であるはずなのに 私は一体今まで何を見てきたのだろう 夕暮れをゆっくり見る時間はあったのか? 私は、自分の中で物質的価値に支配されていた自分に気づかされたのです。 このような体験を通じて、私は夕日を美しく見る会を設立するに至ったのです。 【第1回活動報告】 今回は、日本の夕暮れ百選に選ばれた西伊豆に遠征してきました。 西伊豆の中でも黄金崎が評判高く、黄金崎で沈む夕日を見たいというのが私の思いでした。 日中は、夕暮れ時になるまで伊豆や三島で時間を潰し、17:00頃に黄金崎へと到着しました。 美しい夕日が太平洋一面に反射しており、綺麗でした。 完全なる日没は18:09です。 私は約1時間、筑波山で見たようなグラデーションに期待し展望デッキで待機したのです。 17:50 雲に太陽が沈みます。 私としては水平線に沈むと思っていたので、そこで沈むのは意外でした。 しかし、17:55 雲の合間から再び夕日が見えます。 このまま、海に沈むかと思いましたが、対岸の山際へと太陽は沈みます。 そして、18:03に太陽が見えなくなり 18:15に私たちの夕暮れ鑑賞会は終わりました。 【活動で得た収穫】 1.夕暮れの美しさにも種類がある 冬の筑波山で見たグラデーション系の夕暮れと比較し、今回の夕暮れはよりダイナミックで儚さよりも強さを感じるものでした。 筑波山の夕暮れを線香花火とするなら 黄金崎の夕暮れは打ち上げ花火という感じでしょうか。 2.季節によって、空のグラデーションの度合いが違う 今回、夏場に見た夕暮れは陽が沈んでも周囲は明るく、空も一様に暗くなる印象でした。 故に、大空というキャンパスに壮大なグラデーションを見ることはできませんでした。 冬は闇が迫る速度が早いため、濃淡が強くグラデーションの度合いが高い印象がありました。 3.夕暮れの美しさは比較できない 筑波山で見た夕暮れと、西伊豆で見た夕暮れ どちらが綺麗か? 比較自体が野暮です。 夕暮れの美しさは、その人の1日の過ごし方が投影されるものです。 デスクワークして夕方に見る夕暮れと、農作業して夕方に見る夕暮れ、遊び尽くして夕方に見る夕暮れ 全て感じ方は違います。 綺麗に感じようとする必要もないし、あなたの1日が夕暮れによって採点されると見ていいのではないでしょうか? 感動が強ければ、その日あなたが充実した1日を過ごしていた証拠だと思うのです。 4.そもそも、能動的に見に行くものではない はい、わざわざ活動報告と名打っておいて 最大の収穫がこれです笑 夕暮れは自然現象です。 1時間も前に夕暮れをスタンバイして待つ。 これ、人のエゴですわ笑 でもさ、筑波山の夕暮れ見たいんですよ笑 なんか、日が沈むのを待ちながらわかっていたんです。 なんか、違うということに。 美しい夕暮れというのは能動的に見に行ってみれるものではないし、自然現象ですから 太陽が暮れたあなたへのご褒美くらいに思うのがいいんですね。 そう考えると太陽は等しく平等であり、どこから見た夕暮れが素晴らしいとか、ロケーションで比較できる対象ではないと気づかされます。 それに気づいてしまった今、美しい夕暮れを見る会が早くも解散の危機に瀕しています笑 ただ、まぁ 楽しむ目的で夕暮れを探求するのはいいのかもな。 そこに感動を求めるのは何か違う気がするというのが今回の活動報告のまとめとさせていただきます。
2017年09月04日
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テーマって大事だよな〜。 でも、テーマを持って生きるって案外難しいものだ。 生きる上では、システムも大事。その中でテーマを貫き通すって結構覚悟が必要。 小さい頃は、テーマだけで遊べた。 俺は勇者で、お前は敵だ!! みたいな感じで笑 よく考えるとこれってすげ〜よな。 システムなんかないじゃん。ただ、テーマになりきって没頭するだけ。 いつからか、どんなテーマで生きるか? よりも どの仕組みで生きるか? にすり変わっていたことに気づいたけど なんでこんなに遠回りして気づいたんだろう。 多様性が欠如したシステム、一方向に向かいやすいマジョリティによるマジョリティの教育 そりゃあ、見えなくなりますよ 生きるテーマが。 俺は少なくとも、もし生まれてくる子供に教えてやりたいことがあるとするなら どのシステムで生きるかよりも、どう生きるかを考えられる人になってほしいと思う。 俺は、最近「今日も1日ありがとうございました」とお天道様に感謝しながら夕陽を見て過ごせる生き方をしたいと思っているが これって、「太陽崇拝」なのか?笑
2017年03月04日
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最近、1日の中で16:00くらいから17:00くらいが好きだ。 一番、1日の中で変化があるし、人々が活動する時間から夜が近づいてくる感じがなんか好き。 空のコントラストもたまらなく美しいが、一瞬一瞬で姿を変え、あっという間に暗闇に包まれる。 その儚さってのかな。 なんかいいよね。 今日も1日、お天道様に感謝しゆっくり日が沈みゆく様を眺めながら年を取りたい。 そんな爺様になれたらいいなというのが俺の理想の老後。 言葉や論理もそんなにいらんかもしれないな。 より自然体で、自然と溶け込むのが ようやく素敵な時間だと気づき始めた今日この頃でした。
2017年02月03日
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今日は、戦場ジャーナリストのパイオニア的な存在である広河隆一氏の講演を聞きにいった。 知っての通り、日本は内戦や戦争とは遠く緊迫した生命危機なく日々過ごせる国だ。 それ故に、戦争、内戦に対する情報はフィルターを通して濾過(整理)された情報であり 情報と問題意識が解離していて、それらに強い問題意識を抱えたことがなかった。 いわば、問題に対して他人事だったといえる。 何も問題なく過ごせている普段の日常は現実に違いないが、フィルターを通して過ごしている日常はまるでバーチャルであるような錯覚も起こしていた。 そういった意味で、戦場ジャーナリストの広河氏から聞けた講演はフィルターを通さないリアルであり、生きた情報を聞ける時間としてとても有意義であった。 しかし、こうして講演も1時間 2時間と時間が経てば再びフィルターを通して日常に戻り、どちらがバーチャルな世界で生きてるのかわからなくなる不思議な感覚に襲われる。 それが今いる私の現実なのだと思う。 今日の講演内容については、フィルター越しから文章化すること自体甚だしいので避けるが 印象に残ったことを一つだけ書きたい。 それは、広河氏が「ジャーナリストはジャーナリストである前に人間であることが大事」だと述べていたことだ。 「人間」になる。 これは一見簡単なように感じるが難しいことだと思う。 知らず知らずのうちに立場を抱え、信念を抱え、国境で仕切られ、区別され、評価される中で 声を大にして言えるだろうか? 「私は何者でもない人間だ」と。 少なくとも、私にはそれをすることは非常に難しい。 人は常に、人間を失いながら成長しているとするならば それは、何か大事なものを同時に見失っていながら、社会適合者になっているのかもしれない。
2016年06月05日
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忘れた頃に戻ってくる笑 この空白の期間いろいろあった いろいろあったと言っても、なんのドラマもないけど 30を越すと、人もある程度固まり ここから変化をするのは難しい。 だけど、人は常に絶えず変化しているとは思うんだけど あまり実感はしにくいよね 今日はここ2〜3年で変化したなと思うことを書いてみよう 1.CDを買わなくなった i tunesでダウンロードすることが主体になりましたね〜 2.音楽を聴く頻度が減り、落語を聴く頻度増える 車に乗る頻度が減り、音楽聴かなくなったよね。あと、落語を聴くようになり確実に音楽聴かなくなったよね。 3.電車でゲームをする。 3dsでモンハン、最近ではドラクエをやってますね。職場の人達に感化さたね完全に笑 4.料理を作るようになる まぁ、結婚したからね。奥さんの方が仕事忙しいから、先に帰ってきた俺が必然的に料理しているよね 5.ブログの頻度が減る 他に価値が向いてるし、価値を保ち継続することって難しいよな 6.ライブなどのイベントに行かなくなる 最近、疲れるんだよね。まぁ、同じことだけど夜更かししなくなったかな。といっても、今日はサカナクションのライブ行くけど笑 7.安全運転になる なんかね、アクセル踏むのが面倒くさいんですよ笑 8.カードゲームにハマる 高円寺にすごろくやって店があるんだけど。そこで買ったゲームに周囲の人を巻きこんで、ハマってますな。大会に出ようかと思うほど笑 9.容姿を気にしなくなる 服とか髪とか自分に金をかけなくなりましたね〜。結婚したからかな笑 10.電子書籍を買うようになる まぁ、物として所有するという欲は落ちているかも。前はコンプリート欲あったけど笑 こんな感じでみると、以外と人って変わってるよね。 確かに、根幹となる部分はそうそう変わらないと思うが 小さな要素は以外に変わるんだね 特に、環境との相互作用の中で影響を受け人は変わっていくと思う。 俺の場合は、引越し、職場、結婚とかね。 自分で自分を意図して変化を起こすことは難しいけど 環境との相互作用で人が変わるのは容易だなと経験則から感じるね もし、自分を変えたいと心から思う人がいるならこれだけは言える 下手な自己啓発本読むくらいなら、環境変化した方が人は変わるね。 ただ、全てが良い変化かはコントロールできないけど笑
2016年04月10日
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