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最初に、井川口地神宮に来ました。32.97727993433342, 130.4772324973879井川口地神宮井川口公民館前(付図2-144) に所在する。此処は、上記記事により、何度も訪れて探したところですが、今日まで見つけられずにいました。今回は、何と、同行の会員・毛利氏がこの公民館の館長だそうで、「敷地内にありますよ」と案内して貰えました。公民館敷地内に、木に囲まれて在りました。敷地内なので、入って探すのをためらった為に見つけられなかった、ようです。以前からの心残りがスッキリしました。なお、毛利館長によると、毎月部落持ち回りで館内外の掃除がされているそうで、きれいでした。横から、です。裏から、です。 3.荒尾地方の地神信仰 天神信仰とともに地神に対する信仰は地神塔、山の神塔の存在でも明らかである。 春分、秋分に最も近いツチノエ(戊)の日を「社日」といい、この日に地神を祀る。地神を祀る講を地神講、社日講とよぶ。子供の頃は「社日さん」、「地じんぐさん」といってアンコロ餅をよくたべたものである。一般に土を動かしてはならぬという禁忌がある。講中が当家に集り地神を祀り酒を飲んで、言わば農家の休日でもあったわけである。
2022.10.31
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前回同様、本の文化財を実際に巡ってみます。前回同様、1件ずつ個別に照会してゆきます。
2022.10.28
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鶴ヶ城に来ました。案内パンフ
2022.10.26
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盛岡城に来ました。ちょうど、さくらまつりでした。夜、サクラを見て・・・朝、花を見ました。城跡らしい写真を撮ってませんでした。石垣がしっかりあってたのですが・・・確か、県庁がすぐ近くだったと・・ジャジャ麺を探してうろついて、城跡公園に入ったのは暗くなってしまいました。盛岡城に関するニュースを見ました。https://news.yahoo.co.jp/articles/8d9bb116517f6f17c7e8416fd940f32b2a2a3fa3
2022.10.24
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古い写真ですが、城シリーズとして、過去訪問したお城を照会します。先ず、2008年、仙台城です。城跡から仙台市内です。仙台のマップ伊達政宗像台座のプレート朝鮮出兵時遣欧使節団・支倉常長の月浦から出航を見送る図場内の説明文
2022.10.22
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平井地区の史跡探訪ウォーキングのチラシを見つけました。他地区の大人が参加出来るのか?確認していません。大原会長へ電話で確認下さい。
2022.10.21
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薬師前阿蘇どん碑に来ました。(61)薬師前阿蘇どん碑 平山字東山開(付図2-232) 平山小路より小岱山林道に沿うた原田政行氏方前、椿の根もとの土壇上に1基の板碑がたっ ている(図版11(2))。 凝灰岩製、高さ105cm、幅22cm、厚み13cm、山形の頭頂部下に額部をつくり、碑身に銘を入 れるための匡部きょうぶを造りだす。根部は別石の基礎にホゾ穴を窄ち、碑身を差し込むための 出ホゾがある。 銘は、額部に一字金輪仏こんりんぶつをあらわす種子「ボローン」を、匡部に五大種子「キア、 力、ラァ、バア、ア」をいれ、下に「先阿蘇上四位宇治宿弥惟富大低 永禄五年正月日」とあり、 永禄5年(1562)に建てた阿蘇惟富の供養碑である。大低は大祇の誤刻である。 阿蘇大宮司家に見える惟富は、元弘の乱(1331)、大宮司惟時に随って上洛、後醍醐天皇の 六波羅攻めの功臣であるが、ここの惟富は大宮司惟長の孫、天文8年従5位下、天文10年従5 位上に叙せられた。惟富は何等かの理由により廃嫡させられ、系図上より抹消すると記載され てあるので、結局は勘当させられたものと考える。 惟富の供養碑がここにある理由も詳らかでないが、菊池家の相続をめぐり菊池武包と菊池義 武(大友義宗)が、大永3年(1523)争い小代重忠の支援を得た武包の勢が、阿蘇惟豊、甲斐 親宣らに攻略された事件があった。 阿蘇大宮司家はこの頃、惟長、惟富が大宮司職をめぐり、惟長-惟前-惟富と惟豊-惟将 の一族争いが続き、惟富加その渦中で廃嫡されたのではないかと推量される。この日は、なんと、草茫々で、碑が見えない・・・一度、通り過ぎてしまう、ほど・・・以前行った時の記事を御覧ください。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202108060000/以前の写真を。
2022.10.20
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11月予定です。
2022.10.18
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10月度講演会 実施しました。一小校区元気づくり委員会 歴史部会 発行の「一小校区の史跡」について
2022.10.18
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薬師前藤原加賀守供養塔に来ました。(62)薬師前藤原加賀守供養塔 平山字東山開(付図2-231) 惟富碑より更に200m登った道路脇に、木造薬師如来を安置する石厨子がある。一帯は寺名 不詳の中世寺院の跡である。ここに石憧と板碑が並んで建っていた。 石憧は、凝灰岩製、高さ148cm、幅約39cmの不定形角柱で、頂部に中台、若しくは笠石を うける枘が作られている。塔の原形が、笠塔婆か六地蔵石塔かは明らかではないが、強いて 求められると六地蔵の棹石であろう。各所に破損の跡がみられるが、銘の刻字は損傷せず、 明瞭にのこり読みとれる。 「毎日晨朝人諸定(毎日晨朝に諸の定に入り) 入諸地獄令離苦(諸の地獄に入って苦を離れ しめ、)文明十二庚/子年二月九日願主加賀守藤原忠弘 無佛世界度衆生(無仏の世界に衆生を 度し)今世後世能引等(今世後生によく引導し賜う)」 仏説延命地蔵菩薩経にもとずく有難い言葉(偈頌げしょう)である。願主は小代忠弘。忠弘は 自分のための生前の供養(逆修)を行なって、文明12年(1480)この碑をここにたてた。
2022.10.16
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10月の講演会を実施します。
2022.10.14
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庄山しょうやま水神宮に来ました。(73)庄山しょうやま水神宮 上平山字栄田(付図2-257)稲作農民にとって水は生命である。水源、池畔、提防、井戸端、河川に水神がいろいろの形で祀られている。ここの水神塔は、2段の石階の上に、基礎石をのせ、塔身は、正面を筥形に彫りこんで厨子をつくり、奥壁に「水神宮」と大きく陰刻する。荒尾地方で唯1基みることの出来る水神碑である。
2022.10.13
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庄山猿田彦大神碑に来ました。(74)庄山猿田彦大神碑 上平山字山際(付図2-256)庄山小岱山登山路のかたわらを公園化したところに、昭和40年1月30日の熊本県知事寺本広作書道路建設記念碑と相対して建てられてある。下幅45cm、上幅38cm、厚さ23cm、高さ208cmの巨大な凝灰岩に「猿田彦大神、天保四歳巳、庄山産子中」と大書されている。もとこの上の方、鉄拐の丘阜上にたてられていたものをここに移設して祭祀している。瑞穂窯の入り口に移築してある。
2022.10.10
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五龍城跡 34.6974083917529, 132.752855420887 五龍城跡は、甲立盆地の西南端の丘陵先端部山城で、南北朝期以後、毛利氏の防長移封までの約二百五十年間、宍戸氏の本拠として用いられた。 宍戸氏は、常陸国宍戸(茨城県西茨城郡友部町)にいた宍戸朝家が、元弘三年(一、三三三)、足利尊氏と共に六波羅攻略に功があり、翌建武元年(一、三三四)に安芸守に任ぜられて甲立荘を領し、当初菊山中腹の柳ヶ城に入ったが、ここは城として不適当と考え元木山に城を移した。しかし、用水がないので、五龍王を勧請して祈願したところ、直ちに井水が湧出したので大変喜び山名を五龍山と改称した。 城の遺構は、本村川と江の川に挟まれて半島状に延びる丘陵尾根上に、先端部を空堀で区画した約七〇〇mの範囲に広がっている。尾根上の郭は尾根を横切る三本の空堀によって三群にわかれ、毛利氏も幾度かこの城を攻めたが遂に落城させることができなかった。のち、天文二年(一、五三三)には八代城主隆家と毛利元就の娘との婚姻により両氏は和睦した。所領は約十五万石にも及んだという。 九代元続は、慶長五年(一、六〇〇)毛利氏が防長二州に移封の際に、これに従い周防三丘(約一万二千石)に移った。城跡中腹に在る宍戸司箭神社登り口裏に回って駐車場に「宍戸の里」の石碑お城:宍戸城(五龍城) 本城跡は宍戸氏の本拠城である。宍戸氏は南北朝期にこの地に移り、当初本村川の対岸にある菊池山の中腹に「柳ヶ城」を築き、これに拠ったが、やがて対岸の元木山に城を築き本拠とした。五龍城の名は「この山に城を移したが用水が足りず、五龍王を勧請して祈願したところ、直ちに水が湧き出た」という伝承に由来したものという。尾根筋上及びその山腹部分約700m×150mの範囲に広がる遺構は、尾根を遮断する堀切と土塁によって三つの郭群に分ることができる。両側を堀切によって区切られる中央部郭群は本城跡の中核をなす部分で、「本丸」「二の丸」「三の丸」などの郭名が残る。西側の堀切に面した本丸西端には削り残した高さ5mの土塁があり、堀底からの高さ16mにも及ぶものである。宍戸司箭神社がある尾崎丸横の細い山道を進むと・・・両側が崖のところ・・手すりがあって助かります。この城が難攻不落の造りなのがわかります。さらに進むと、いくつか段があり、ついには本丸の表示がありました。今は、石垣が残り、いくらか平らにされた地が感じられますが、杉の木などが乱立しています。下草や雑木は感じられませんでした。宍戸氏については、是非以下の専門サイトを御覧ください。https://shishido.blog.jp/です。
2022.10.09
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竜宮堂石祠に来ました。関川が上平山字龍宮堂の崖面で直角に屈曲する所を龍王渕という。この渕には平山から平山 川が渕上で滝状になって流れ込む。字名も轟と称している。 龍王堂石祠は渕上の森に掩われた丘の上にある。棟づくり四注平入しめひらいりの石室に御幣をたて、柴 木と仏飯が供えてある。石室の左右側壁面は次のような銘がほどこされてある。 寛政十二庚申歳(1800)草創 江副庄左ヱ門 奉寄進 八大龍王賓殿一宇 文政四辛巳(1821) 願主 江副 藤左ヱ門 松尾 英 助 金屋 氏子中 江副は庄屋で松尾は元村、それに金屋の氏子名があるのも、ここが両区の洪水常襲地であり、 字名の婦毛ふけ(不毛)の地名が示すように不毛地であったため、八大龍王の霊力をもって自然の 脅威を抑えてもらうための念願からであろう。道路沿いに標識杭が建ててあります。かなり朽ちています。ここから登ってみたのですが・・・石祠は発見出来ませんでした。残念!
2022.10.08
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元村天満宮・芭蕉句碑に来ました。(71)元村もとむら天満宮石造物 土平山字外園(付図2-265)① 地蔵尊石仏普通の地蔵石像の組み方で構成されている。銘「銘田 六導大道師 衆生摂化広 太良権太郎 文蔵 宝暦九巳/卯年 二月吉日」とある。銘にかなりの誤り書きがある「銘目 六道大導師」と書くべきで、地蔵菩薩は、六道に迷う衆生をその苦しみから救うて下さる広大な慈悲の仏であるという意が誌してある。願主3人のほか「松山ノジエ」の追刻名のあるのは何故だろうか。② 芭蕉句碑凝灰岩、台土高さ136cm、巾34cm、厚さ23cm、の角柱状の正面に「芭蕉翁 古池や蛙飛び込む水の音」の句が刻まれている。元村には熊本藩士松尾幸之助因興がいた。俳号松花亭如濤と称し、友左坊より仙号を授けられ、露濃仙といった。俳諧を松調舎其因に学び、交友多く、特に山鹿の風斜とは親密であり、荒尾郷一帯のこの道の中心人物となった。「芭蕉翁 古池や蛙・・・」と読めます
2022.10.05
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八つどんの石祠に来ました。(66)八やっどんの石祠(図版12(3)) 平山字籏ヶ坂(付図2-267) 城集落西の平坦な丘陵は大蔵と称し、中世寺院大蔵寺の跡と伝えられ、今は毘沙門天堂のみ残る。 堂前150 m程の所に八っどんと言われている石祠がある。広形の阿蘇凝灰岩の中味を刳くり出し、 柱、壁、入口の袖壁等を模し、別石製の寄棟四注平入よせむねしめひらいりの屋根を載せる構造である。 装飾を省くいたって質素な点を除けば妙見石厨子、住吉明神石厨子と似ている。大きさは軒幅81cm、 軸石の正面幅31cm、奥行45cm、低い基礎に載る。 この石祠は経典奉納用の宝篋ほうきょうと推定した。 30年程前までこの中にご神体として「八つどん」「八つの尾さん」と呼ばれる石体が1基 安置されていた。長さ37cm、中央周囲55cm、重量14.6kg、黒色紡錘ぼうすい形団塊で、 故坂本経尭氏により隕石と紹介された。その後盗難をおそれて、氏子の家々を輪番で保管され ている。名称の起こりについて次のような伝承がある。「昔八つ(丑うし)刻に雷鳴もろとも 八つの光芒ぼうを曳いてドーンと落下したものがあった。翌朝調べてみると大穴の中に見慣れない 石が落ちていた。住民はこれを八大龍王の御神体として石祠を造り奉安した。」というのである。 限石説もここから生じたと考えられるが、隕石かどうかの断定は化学分析の結果をまたねば ならない。筆者は火山弾の一種と鑑定する。
2022.10.02
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