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今年に五月に初参加した日光道中旧千住宿における「1DAYパフォーマンス表現街」の、當日の様子のダイジェスト動画がユーチューブに公開されてゐるとのことで、早速わが現代手猿樂の部分を觀てみる(13分40秒あたり)。https://youtu.be/HEFFUjSfb6k?si=MpIwp5k2zNrsrtb7面をかけた視界の利かないなかで舞ってゐるので、自分の作品が見物(ひと)にどう見えてゐるか、ほとんど考へる余裕もなく、いまかうして第三者の目で觀ると、自分のなかでの印象とは全く違ふ自分がそこにゐて、なにか他人を見てゐるやうでもあり、可笑しいやうでもあり。面と、装束と、扇にかなり助けられてゐる。もしこれが印象通りな出来映えだったとしたら、それはもう、進歩する伸びしろがないと云ふことになる。やはり、多彩な藝が一堂に會した催しは、觀てゐても樂しい。飽きない。
2025.11.30

C-Styleが久しぶりに都内でキッチンカーを出店するとのことで、北池袋のドン・キホーテまで出掛ける。七月下旬に彼女たちの地元木更津での出店いらい會ふのは四ヶ月ぶりで、このまま間を開けるとそのまま縁遠くなる手前のところで今日の機會を得られたのは、たぶん縁なのだらうと思ふ。(※了承を得て掲載)ここのキャラメルソースのかかったクレープが、やはり好きだ。そのうちにまた、千葉縣へ出かける機會もあるであろ。
2025.11.29

いつも通る道沿ひの生垣に咲く柊の花が、芳しい香りをあたりに漂はせて、このごろはいつも私を立ち止まらせる。ヒトには作れない、マネも出来ない柊だけの香り。本當の真物とは、さういふものを云ふ。葉にトゲはあるのに、香りは甘く誘ふ。柊には魔除けのちからがあるとされる。美しく見えるものには気を付けるべし。それはただ、さう映るやうに作られたものだからだ。しかしこの香りはどうだらう。あなたになら、私は喜んで惑はされませうよ。
2025.11.28

人里や町なかに野生の熊が出没して人間を襲ふ事件が、今年に入ってから急に増えた氣がする。一度ニンゲンの“味”を知り、戸締まりなども簡單に破ってニンゲンの巣に入り込むことを覺えた熊は、もはやニンゲンを獲物(エサ)としか認識しておらず、見つけ次第襲って食べる。かうした熊の行動を「アーバンベア」と云ふことを、今日はじめてラジオで聴いて知る。そんな言葉が出来るほど、野生熊の問題は人類にとって深刻な社會問題として認識されてきたと云ふことか。今年の新語流行語大賞とやらの、選に入りさうだ。
2025.11.27

青磁器を古物の真正で觀たくて、鎌倉歴史文化交流館の企画展「海でつながる東アジアと鎌倉」を觀に行く。青とも、緑ともつかぬ、しかし中途半端ではない深みを主張するこの磁器に私が妙に魅せられるやうになったのは、ずいぶん前に五島美術館で觀て以来ではないか。(※一部を除き展示物の撮影可)本物をしっかり目に焼き付けておく大切さを教へてくれたのが、古物の青磁であり、白磁であった。中世に日本へ傳はった青磁器は、博多から瀬戸内海のを經て和賀江嶋に陸揚げされ、(※和賀江嶋の現景)鎌倉の富裕層にもたらされたことが市街地の發掘現場から良好な姿で多く証明され、それは島國人特有の海外羨望ぶりをも窺はせる。青磁とひとくちに云っても、素地に模様を彫ってからその溝に白土や赤土を埋め込んで焼き上げる“象嵌技法”や、色も質も違う土を二種類以上ひねり合わせて独特文様をつくり出したあとで焼き上げ、それから釉薬を掛けて再び焼き上げた“絞胎陶器”など、いづれも小さな欠片でありながら、そこから中世の交易風景が廣く鮮やかに想ひ描けて、それだけでいまは僅かに石積みを海面から覗かせるばかりの和賀江嶋も、輝いて見えるのである。
2025.11.26

ラジオ放送で、“京觀世”の「遊行柳」を聴く。白河山中で朽ちる寸前の西行ゆかりの古柳の精と、遊行僧との一晩の交流を謠った曲で、晩年の觀世小次郎信光が先祖世阿彌の「西行櫻」に憧れて作ったともされ、長い人生を歩んできた者ならではのしみじみとした風情が、觀る者を共感へと誘ふ静かな曲だと思ふのだが、この流儀特有な力んだ謠ひっぷりでは、熊が襲ってきたら健闘しさうなゴツゴツの爺さんのやうで、あれではなにを云ひたい曲なのかが見えてこない。かういふ曲は、人生の身仕舞ひを済ましてから手掛けて初めて味の出るもので、まだそのつもりのない者が謠ふと技巧ばかりが耳と鼻につく、イヤミな曲に聞こえてしまふ恐れがあるようだ。老ひの枯れた味はひだけは、技術ではどうにもならぬ。
2025.11.25

東海道かわさき宿交流館の企画展「ハマ川崎─海と陸の狭間をたどる─」と、関連企画の川崎市役所本庁舎復元棟二階の「写真の中のかわさき 変わりゆくハマ川崎」展より、江戸時代に始まる川崎の海の埋め立てと、それからの歴史を觀る。川崎大師平間寺の近くに廣がってゐた遠淺の「大師の海」は、江戸時代に埋め立てられて新田となり、近代に入るとさらに埋め立ては進んでかつての新田もろとも重工業地帯へと開發され、さらに海は遠くなる。しかし、そこがかつては海岸であった名殘りを示す「德本上人念佛塔」が現存してゐるとのことで、一見せばやと存じ候。かつての入江崎、現在ではすっかり内陸となってゐる塩浜三丁目に、その堂々たる古い石塔は建ってゐる。德本上人とは江戸時代後期に貴賤から“生き佛”と尊崇された浄土宗の僧で、人々が「南無阿彌陀佛」と刻んだ石塔を信仰の拠り所として建立したものの一基が件の石塔にて、かつては海岸から数メートル海上にあったが、昭和三十一年の再開發工事の際に児童公園となってゐる現在地に移転云々、しかし企画展で展示された昭和十三年當時の地図には確かにかつて海上にあった様子が確かめられ、このあたりが海と陸との境界──この企画展で云ふところの「ハマ川崎」だった歴史を語ってゐる。そして、土地の性格は大きく變はったがただひとつ、昔から變はらぬもの大切なものがある。“廣い空”である。
2025.11.24

平成二十七年(2015)年、文化廰の振興事業で行はれた大宰府政廰跡を中心に關連の史跡數十ヶ所を周遊的につなぐ日本遺産「西の都」において、大宰府政廰跡については現地への交通(あし)など周遊環境の整備が進んでゐないなどを理由に、今年二月に日本遺産の認定を解除云々、しかし現地では「周遊を意圖した事業には賛同できない。これからも地域振興に特化した、地元で守られてきた史跡としての在り方を通す」として、再申請は行なはない云々。私はとても良い判斷だと、大いに賛成だ。近ごろの“○○遺産”とは、だいたいがそれをそのままの姿で永く遺すといふ本来の目的を忘れた、ただの觀光地(テーマパーク)化目的の誘致であり推進であることに、大きな疑問を抱いてゐたからだ。最近の佐渡金山の例にしても、地元民たちのハシャギっぷりを見てゐると、そもそも「世界遺産」とは何であるか自体を理解出来てゐないやうに映る。實際に旧富岡製糸場の維持費に苦しんでゐる群馬縣が、その後の現實を知る上での好例だ。件の「西の都」における、史跡を“物語”という名目で繋いだ周遊見物では、どうせ意味もロクに分かってゐない有象無象がスマホ片手に大挙して押し寄せ踏み荒らした挙げ句、ゴミを散らかして去って行く様が目に浮かぶやうで、却って従来のままのはうが現状維持になることがある。大宰府政廰跡は、ふた昔以上前に初めて博多を訪れた際、天神から西鐵電車で足を伸ばして訪ねた思ひ出がある。都府楼前驛からやけに歩いた住宅地のなかに、礎石だけを遺した草っ原と云った印象で、平成當時でも山並みを向かふに望む辺鄙な風景には、菅原道真の絶望ぶりが理解できる氣になったものだ。だが、その風景こそが菅原道真、そして元寇時の拠點であった歴史の証言者であり、その當時でさへ下向することはなかった中央官人が、今になって云々する必要など無いのである。
2025.11.23

慶應義塾大學三田キャンパスの福澤諭吉記念慶應義塾史展示館で、「北澤楽天と近代日本─福澤諭吉、NANGAの扉をひらく─」展を觀る。橫濱でオーストリア人ナンキベルの主催する英字新聞紙上に漫画を描いてゐた若き日の北澤樂天が、明治二十三年に福澤諭吉に認められて福澤の主催する「時事新報」紙へ漫画を描くようになったことが、のちに職業漫画家の第壱號となる端緒にて、そこから展開された辛口な社會諷刺は令和現代にそのまま当て嵌まる普遍性を衝いてゐる。(※「六閥繪葉書」より“老人閥” 明治三十九年一月 述者藏)切り込み過ぎたがために、却って社會(と權力者)に搦め捕られ、戰時中に漫画を「戰ふ美術」として國策に追従せざるを得なくなったのは皮肉だが、この企画展ではさうした時代背景はヌキにして、純粋に漫画作品としての樂天美術を樂しむ。子どもが好きだったと云ふ樂天が描く漫画のなかの子ども像は、子ども嫌ひな私でさへつひホッコリさせる優しい眼差しにあふれてゐるが、(※展示室内撮影可)花見客を真上から捉へた「鳥から見たお花見」の壱點には、樂天の藝術家としての非凡な着眼力が窺へて、この企画展でもっとも私の目を惹く。そして樂天が初心者向けに漫画の描き方を易しく解説したと云ふ「樂天漫画帖」を見ながら、私も達磨大師を描いてみる。……一筆一筋が、なかなか一筋縄でいかぬところに、なんともムズカシさがあるのぢゃ。
2025.11.22

川崎市平和館の企画展「戦後80年 写真展 戦禍の顔」を觀る。戰争といふ“非平和”により、いつでもその犠牲にさせられるのは民衆であり、それは萬國共通の悲劇である。さうした國境を越えた感情は、現今に提唱されてゐる「グローバル社會」──相互に深く影響し合ふ世界規模云々の、とっくに行なはれてゐるひとつの實現像だと云ったら、皮肉に過ぎるだらうか。人がそれぞれに自然状態で所有する“人權”を、大勢で一つにまとめて委譲する組織、すなわち「政府」=「國家」をつくったあたりから、どうも余所と争ふことを考へるやうになったらしい。國家と國家とで争ふことを「戰争」と定義し、國家内における紛争(内輪揉め)はそれに含まないと定めてちゃっかり抜け穴を設けた國際法など、しょせんザル法でしかないわけで、これはもうお笑ひ草でしかないではないか!
2025.11.21

大田區立郷土博物館で、企画展「高橋松亭×川瀬巴水 日本の技と美」を觀る。明治末から大正初期に興った江戸浮世繪の研究熱をにらんで渡邊庄三郎がはじめた新版画運動によって名を馳せた、高橋松亭と川瀬巴水の美品を大いに堪能する。彼らや小林清親、月岡芳年といった旗手が登場したことは近代日本の版画界にとって本當に幸ひで、明治に入ってからもしょせん江戸以来の型に嵌まった技法から脱皮できなかった歌川流だけであったら、日本の版画藝術はとっくに廢絶してゐただらう。伯父の日本画家に繪を教はり、政府御用を經て民間で複製版画の製作に携はってゐたのが縁で明治四十年に渡邊庄三郎と出逢った高橋松亭と、鏑木清方に入門を斷はられたのち岡田三郎助から洋画を習ひ、再び鏑木清方の門を叩いてやうやく弟子入りが叶ひ、伊東深水の作品が縁で大正七年に渡邊庄三郎と出逢った川瀬巴水とはその經歴(あゆみ)ゆゑか、作品を並べて觀ると画風に共通點があるやうに感じられなくもないが、活動としては渡邊庄三郎と云ふ共通點の他にさほど交流(つながり)はなかったらしい。(※案内チラシより)昭和十七年に品川の荏原に転居した頃には画壇から事實上引退してゐた高橋松亭と、老ひによる衰へを自覺しつつ戰後の昭和三十二年に亡くなるまで生涯現役で作品を發表した川瀬巴水とは年齢差も大きく、また生き方がまったく違ふことからも、せいぜい表敬的な手紙のやりとりくらゐの距離でちゃうど良かったのだと思った。
2025.11.20

電車で外出する予定が、今朝になって氣分が乗らなくなったので乗るのを止めて、昼過ぎに隣町界隈を散歩して氣力と体力を養ふ。朝晩の冷え込みはすっかり冬だが、散歩道は今が秋景色となり、目にも良い養分となる。いまのご時世では、ヘタに山野へ紅葉狩りをしやうものなら、却って熊のニンゲン狩りに遭ふ危険が高く、うっかりなことは出来ぬ。だが、名所なんてものは自分の住む町に、いくらでも見つけられるもの。自分の足で出かけての。
2025.11.19

今年十月十三日に一應めでたく閉幕した大阪・關西萬博の跡地再開發について、大阪市はVR(假想現實)を活用した往時の体感施設を市營公園内に建設を検討云々、230億から280億と試算される費用は萬博の黒字収支より捻出云々。これまでに跡地再利用案について、民間企業や團体に意見を募ったところ、「サーキット」「ウォーターパーク(要するにプール)」「アリーナ」など實にありふれたものばかりが挙がったのを、關西經済界の大物が「くだらん!」と一蹴、二度目の萬博がここで行はれたことを後世に傳へる記念施設を造るべきと、上の提案がなされて検討に入る云々。たしかに私も、これまでに出た萬博跡地の再開發案については、跡地にすぐありふれたアパートやマンションを建てたがる現在の發想力の延長そのものでツマラナイなぁと思ってゐたので、「くだらん!」と一蹴したと云ふ關西經済界の大物氏には、心から拍手だ。千里丘陵の萬博記念公園に殘る旧鐵鋼館のEXPO'70パビリオンのような記念施設は造るべきだと私も思うので、案そのものには私は賛成だ。もし、本當に實現したら私のことだ、一度はドレドレと出かけてみることだらう。ただ、私も實際に六月と八月の二度見物した今回の萬博の印象として、VRを使ってまで思ひ出をズルズル引きずるだけのシロモノであったかなァ……、とは思ひまする。
2025.11.18

ラジオ放送で、寶生流「黑塚」を聴く。覗くなと強く戒めた閨を覗かれた人喰ひ鬼の絶望と怒りは、とりもなおさず宿命の通りに生かされる人間の“定め”を謠ったものにほかならない。罪を犯した者は、その業を生涯背負って生きねばならぬ。法律も、法力も、しょせん免罪符とはならぬことを、この荒涼とした名曲は教へてゐる。知らんけど。
2025.11.17

久しぶりに川崎大師へお参りに行くと、七五三で賑はふ境内の一画で、菊花大會が開かれてゐて、今秋はまだ大輪繚亂を觀てゐなかった無粋を思ひ出し、これは御縁と愛でてまはる。と云っても専門的なことはなにも知らず、ただ人が丹精を込めて育てた菊をゆっくり見物し、“いいもの”を心に冩すことで養分を畜へる。美しい菊に、トゲなど無いゆゑにの。
2025.11.16

昼過ぎに散歩を兼ねて隣町まで買ひ物に行くと、5kg精米が四千円以下の値段で賣ってゐて殘りも少なかったので、すぐに一袋を抱へてレジへ行く。かういふものは、實際に出かけて見てみなければ分からぬもの。もう一軒寄ったスーパーマーケットでは、自分の求めてゐる物があれこれ値引きシールが貼られてゐて、おかげで良い買ひ物が出来て重たくなった荷物も輕く感じる。今年の殘りは、物も時間も、畜へにつとめやう。
2025.11.15

無沙汰を詫びかたがた、久しぶりに池上本門寺参詣する。ちゃうど七五三の時期らしく、和服すがたの幼児やら若い親やらをチラホラ見かける。袴をサスペンダーで吊ってゐる斬新なのや、始終指をしゃぶってゐるのや、孫にふやけた表情をするジイジやバアバや、ママたちからは少し離れて佇んでゐるムコのビミョーな立ち位置やら、他人事(ひとごと)ほど眺めてゐて面白いものはないと、ひとり目を細める。ワシにもあんな頃が、あったのかのう……。
2025.11.14

JICA橫濱 海外移住資料館にて、「破られた約束─太平洋戦争下の日系カナダ人─」展を觀る。明治初期の1877年に長崎出身の永野萬藏と云ふ人物が英國船の水夫として加國に渡り、漁業や商店經營で身を立てたのを皮切りに、紀州や江州の日本人が次々に加國へ移住したが、1907年2月に米國政府が日本政府と結んだ日米紳士協約により日本人のハワイ移住が實質不可能になると、大量に加國へ流れてその人口はふくれ上がり、やがて現地人たちによる日系移民排斥運動へと發展する。まさに、いまの日本が抱へる増えすぎた移民の問題と同じ現象が、當時の加國で起きてゐたわけで、1941年12月7日(日本時間で8日)のハワイ真珠湾攻撃によって日本がはっきり敵國になったことで日本出身者たちへの公的な敵對政策の口實となってしまったことは、彼らにはただ不運としか言ひやうがない。 1942年に日系加人はブリティッシュコロンビア州から強制的に立ち退かされ、持てるだけの財産を持って汽車に乗り込んだあとに殘された財産(不動産、農地、漁船、家財道具など)については、加國政府が保護してくれる約束であったが、表題のとおりわずか二ヶ月で反故にされて次々に賣却、または略奪され、當人たちには知らされることなく失なった財産は、戰後にいくら抗議しても返ってくることはなかった──(※展示室内撮影可)加國政府の言ひ分、被害者である日系加人の訴へ、相方の聲を聞いても、結局のところ体内に侵入した異物を取り除くために起きるアレルギー反應と同じ本能的な生理現象に、戰争と云ふ惡條件が重なったことで表面化し引き起こされた不運、悲劇であり、それは異邦人となる以上覺悟すべき問題であり、宿命だったのだと思へた。生國では無一文であり、親の出身國には馴染めず、どちらにも居場所の無かった“二世”の問題は、いづれ令和現在の日本でも、大きな問題となって繰り返されることだらう。
2025.11.13

三重縣桑名から岐阜縣大垣を經て揖斐川までを結ぶ養老鐵道にて、“無免許運転”が發覺云々。入社三年目の男性社員氏、運転士になる訓練を「家庭の事情」で今年二月に中斷してゐたが運転士になる夢捨てがたく、今年六月と七月の二度、正規の運転士に頼んで替はってもらひ、一部區間を無資格運転云々、今月三日に内部告發で發覺云々。これで運転士になりたい氏の夢は本當に夢となったわけで、内部告發されたくらゐだから、無資格運転は實際には二度だけではないだらう。養老鐵道と云へば、好きだった東急7700系の譲渡先であり、いつか乗りに行きたいと思ひ續けてゐたが、この事件で現場のプロ意識がどの程度か知れて、氣持ちがいっぺんに冷める。思へば先月半ばに關西へ普通列車の旅を計画した際、桑名から養老鐵道に乗る予定だったが前日にふと氣が變はり、伊賀上野に變更したのは虫が知らせたものか。それでよかったのだ、危なっかしい!
2025.11.12

橫濱の櫻木町驛前から赤レンガ倉庫方面とをつなぐ汽車道を通ると、ちゃうど旧線路を埋め込んだ遊歩道板(ボードウォーク)の張り替え工事が行なはれてゐて、往年の線路と枕木が、發掘されたやうにそのままの姿を現してゐた。モニュメント化されて殘った線路は、ふだんは同じ高さに敷かれた遊歩道板のために頭の表面しか見えず、私は今まで線路を模した鉄棒を敷いて代用してゐるものとばかり思ってゐたが、往年の本物であることが今日初めて分かり、いっぺんに氣持ちが昂る。かつて平成元年(1989年)に橫濱博覧會が開催された時、山下公園までを結ぶ假設鐵道が通った鐵路でもあり、ふだんは橫濱に来てもヒトの多さを嫌ってあまり通らないのだが、これからはかつての橫濱を支へた港湾遺産としてよく心得て、たまに通らんと存じそろ。
2025.11.12

北澤樂天の邸宅跡に建つさいたま市立漫画會館にて、「楽天コレクション」展を觀る。日本初の職業(プロ)漫画家であった北澤樂天が収集した和洋繪画の數々は、さすが一流らしい名品揃ひで、やはりさういう人にはさういう物が集まって来るやうだ。そのなかで私がハッとさせられたのが、近代印刷の聖地とされる独國で第一次大戰中に製作された、國民の戰意高揚を狙ふプロパガンダポスターだ。「大戰ポスター」と呼ばれるそれらは、戰局を左右する『紙爆彈』──最新兵器と位置付けられてゐたと云ふことには、ただ驚愕のほかない。(※案内チラシより)樂天自身もそれらを手本にプロパガンダポスターを手掛けており、やがてそれが昭和十八年に大政翼賛會の要請で設立した日本漫画奉公會の趣意書にある、「戰ふ美術」と云ふ表現につながったのかもしれないと思ふと、漫画で社會を諷刺することで、やがてはその社會とそれを操る人たちに取り込まれざるを得なかった北澤樂天の、漫画家としての皮肉な運命と恐ろしさを思はずにはゐられなかった。
2025.11.11

ラジオ放送で觀世流梅若會の「松風」を聴く。在原行平の殘した狩衣を身に付けた海女の松風が、戀しい男への募る想ひを狂亂の一歩手前まで盛り上がる後半の謠ひが放送され、もうずいぶん前になるが、この件りを仕舞でつとめた愛好者(アマチュア)の年配女性のことを思ひ出す。玄人(プロ)の能樂師にとっても大曲と云ふ世阿彌の名作を、その年配の女性は体力がまだある今のうちに舞ひたいと早くから希望し、當日は腹の底からしっかり響く謠ひに、日頃いかに正確な稽古を重ねてゐるかが窺へる、見應えある舞姿だった。それは、愛好者とはすなはち素人と同じに見るべきものではないことを感じさせた、唯一の愛好者だった。
2025.11.10

足利源氏發祥の鑁阿寺(ばんなじ)を訪ねる。初代義康の邸宅に二代義兼が建久七年(1196年)に大日如来を祀ったのが始まりで、三代義氏が本堂を建て、将軍尊氏の父である七代貞氏が現在見る姿に改装云々。私は寺院としてのそれより、昨年に結城や嵐山町の大藏館跡で遺構を見た、周辺を土塁と堀で囲った中世武家屋敷の形態をそのまま傳へてゐることのはうに、興味を惹かれる。その規模はなかなか廣大で、それを見るだけでも關東における源氏勢力がいかに強かったかが窺へ、尊氏以降の足利本家が征夷大将軍として京に移ったのち、關東を任された次男の家系が“公方”として本家に拮抗出来たのもわかる氣がした。永い風雪に耐へ抜いた貫禄と風格漂ふ本堂にお参りし、初めて足利の地を訪れた挨拶を済ませると、一人の高齢男性から、「足利學校はどこですか?」と訊ねられた。それならば足利驛からここへ来る途中で前を通ったが、男性は別の方角から来たので見つからなかったやうだった。私は来た道の方角を指して教へたが、それでも男性は腑に落ちぬ顔をしてゐる。どうやら“學校”と聞いて、おそらく男性は幼少期にさうであったらう近代の木造校舎の印象を思ひ浮かべてゐるやうだったので、昔の純和風建築の集まりだと話すと、やうやく「ああ……」とアテの外れたやうな、納得の表情をした。しかし、私も初めて「アシカガガッコウ」と聞いた時には、男性と同じ画像(ゑ)を思ひ浮かべたものなので、笑ふことはできない。(※足利學校の外觀)その代はり、自分も今日初めて来たくせに、地元のボランティアガイドよろしく足利學校の説明をした自分に、笑った。
2025.11.09

あいにくの雨模様ながら、栃木縣足利市の渡良瀬川沿ひにある「足利スクランブルシティスタジオ」の、無料一般公開に出かける。澁谷のスクランブル交差點を再現した撮影スタジオがたまに一般公開されることは前から知ってゐて、一度行ってみたいと思ってゐたのが、今回やうやく叶ふ。令和元年七月に競馬場跡の市有地の一部を使って建設されたこの撮影スタジオも、設備の老朽化などから年内に閉鎖して取り壊され、市の新庁舎と市民會館を新築予定云々、今回が最後の一般公開とのことで、運良く間に合ったと安堵。信号機や地下の入口、澁谷驛ハチ公口の改札など實物そっくりに作り込まれてゐるところはさすが撮影セット(※ハチ公銅像は無い)、ただし地下へ潜ることは出来ず、道路の中央分離帯もコンクリート製ではないハリボテであるところが、かえって臨場感を醸し出してゐるやうな。……だが一點だけ、現實の澁谷とは決定的に違ふところがある。それは、ただでさへ不衞生な街の雰囲氣を本當に不衞生にしてゐる、數多入り込んだ招かざる夷人どもが、こちらの澁谷には一人もゐないことである!取り壊されて消えるのは、むしろあれらもろとも、あちらの澁谷であってほしい……!!
2025.11.09

昨年に續いて、今年もさいたま市のプラザノースホールで、あらい太朗(アロハ太朗)さん企画の音樂寄席「ご近所ミュージックフェスティバル2025」を樂しむ。聲樂あり、クラシックと鐵道の絶妙な演奏あり、魂が震へるやうなビックバンドあり、そしてアロハ太朗さん自らの指揮あり、すべてが本物の音で、耳に最高の養分となる。 そして今回の出色が、音樂漫談で出演の予定が体調不良でお休みとなったパーマ大佐の“代打”として急遽出演した、妻で「地下アイドルとピン藝人の二刀流」アイドル鳥越の開口一番。明らかに場違ひとも云へるハジケっぷりに、客席に多くゐた爺さんたちが一様に固まってゐる様子が、彼女のアイドルぶりを觀てゐる以上に、眺めてゐて面白かった。さう、「藝術は壊すもの」とは、昨年にこの會場でアロハ太朗さんから教はった言葉である。公演時間九十分の予定を三十分超過も氣付かなかったほど、身も心も充實した音樂の詰め合はせ。
2025.11.08

いつも通る地元の路地に、大きな蜘蛛が、空いっぱいに巣を張ってゐた。顔にかかると不快な糸だが、そうでなければ余計な小虫を排除してくれる、ありがたい存在に見えるのだから、人間サマは身勝手だ。喰ふものと、喰はれるものとの均衡が保たれることにより、生物の世界は安泰を得る。 ところが今や、森でクマに遭った女の子が一緒に歌を歌ふなど、遠い日の傳説なのである。
2025.11.07

JCII PHOTO SALONで、「戦場を駆けた写真家 一ノ瀬泰造 もうみんな家に帰ろー!」を觀る。1971年の第三次印パ戰争でまだドンパチが續くバングラデシュに翌年入り、カメラを通して情勢不安定なカンボジアやベトナムを取材した二十代のフリーカメラマンが遺した、若者ならではの旺盛な感性と行動力の軌跡。作品そのものは典型的な戰場冩眞だが、こちらではどうにもならない戰火に翻弄される庶民たちの悲嘆な表情以上に、戰争紛争の落とし子である孤児の、“親は無くとも子は育つ”で強かに生きる姿に、戰火における衆庶への同情には一定の距離をおく必要があることを教へてくれて、むしろ私はそちらに記録としての魅力を見る。そしてドンパチの最前線で銃彈砲彈が降り注ぐ中、カメラが泥水に浸って故障する極限状態にありながらも、撮った冩眞がいくらで賣れるかを考へてゐた様子に、戰争を商賣とする人はなにも武器屋だけではないことも教へてくれる。表題の「もうみんな家に帰ろー!」は、1973年夏にカンボジアの戰場で一ノ瀬泰造氏が敵陣に向かってさけんだ言葉「テンオックネァタウプティヤ!」であることが自身の取材原稿に記されており、この若い感性の延長が「アンコールワットを撮れたらシアワセだ!」との言葉を友人に殘して消息を絶ち、九年後の1982年にアンコールワット遺跡群のあるシェリムアップから北東14kmの草原に埋葬されてゐるのが發見され、日本の遺族に引き渡される結末につながるわけで、そのものは過酷な悲劇だが、しかし自分の氣持ちにどこまでも正直に行動、實行できた人生は、むしろ幸せをぎゅっと濃縮した二十六年間だったのではと思へた。
2025.11.07

國立映画アーカイブの展示室で、「映画監督 森田芳光」展を觀る。型に嵌まらない多彩な表現をスクリーンに展開して話題を集めた森田芳光の、その原點は昭和二十五年に澁谷花街の料亭に生まれ、祖母の影響で幼少期から歌舞伎を觀る以外に、花札や競馬など賭け事も知った、その特異な前半生の經験にあるやうに思ふ。それは、塾と習ひ事とスマホでゲームしかない當今の小児(ジャリ)からでは、およそ養はれない感性だらう。(※展示室内、一部撮影可)氏の作品で私が唯一觀た「(ハル)」は、パソコン通信で知り合った男女がお互ひに顔を知らず画面の文字だけで想ひを高めていく純愛物、公開された平成八年當時は作中の女性が住んでゐる設定の盛岡に、私も新しく親戚ができたばかりの親近感もあって二度觀に行った大好きな一篇、そのわずか翌年には不倫を描いた「失楽園」が公開されて、純愛と不純の落差に「この監督は何を考へてゐる人なのだらう……」と、内心で戸惑ひと不審を抱いたものだが、それも今やうやく氷解。だいぶ話題を振りまいた「失楽園」では、監督自身は何かの新しい思考(スタイル)を世間に提示したかったやうだが、實際の世間では不倫の性描冩ばかりが話題になってゐた記憶があり、大衆のアンテナの受信感度などしょせんその程度、しかしそれらを相手にしなければならぬ表現者の苦勞に、同情したひととき。
2025.11.06

學習院ミュージアムの秋期特別展「貞明皇后と華族」を觀る。旧摂關家の九條公爵家から皇太子嘉仁親王に嫁いだ節子(さだこ)妃が實際に大正天皇の皇后であった時代は十五年と短かったこともあってか、のちの昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮の四兄弟の生母、くらゐの印象しかないが、お家藝の和歌のほか和洋の音樂に造詣が深く、ピアノと笙を嗜んだ云々、風雅品位を第一とし、公けでは感情を表てに出さない和歌における歌風そのものな生き方を實踐云々。一方で、晩年病床にあった夫の大正天皇について、「これから頭の狂ったテンノウさんのお見舞ひに行くのヨ」と親しい人に輕口を叩いて當時の宮内省がその發言を長らく秘してゐたことが戰前戰後に活躍した作家の作品にあるのを讀んだことがあり、かういふ人でもさう思ふんだなァ、と驚いた記憶がある。私は展示された精巧優雅な遺品下賜品たちに象徴される澄ました表情より、かの御言葉のはうに、むしろ人間的な親しみを覺える。展示室の入口には、大正天皇が幼少期に常時着用してゐたと云ふ學習院の制服が展示されてゐる。(※フラッシュ無しで撮影可)當時の日本人の体格を考えても、仕立てがやけに小さいように見えた。
2025.11.05

昨日の午後に吹いた“木枯らし壱號”で、すっかり冬の空氣に入れ替はり、こちらの氣持ちもすっかり冬對應に切り替はる。今年も殘り二ヶ月、スーパーマーケットではもう正月飾りが賣り出されてゐたが、まだ早いと思ってゐるうちに年の瀬となるのが毎年の常、年越しに必要なものをそろそろ考へておかないと、いざその時になって本當にあちこち走る羽目になるのも、毎年の常ぢゃ。
2025.11.04

毎年秋のお樂しみ、自治体主催の文化祭に今年も参加し、現代手猿樂「猩々」を舞ふ。私が正式に“現代手猿樂 嵐悳江”として舞臺に立った最初がこの催しであり、今日でちゃうど十年の節目、今回は原點回帰の心で、あの時に舞った「猩々」を、再びつとめる。これまで十年頑張ってきた、と云ふより、自分の力で出来る範囲内のところで自由に、気樂に、無理せずやってゐるうち、氣が付いたら十年になってゐた、と云ふ感覺が正直なところであり、だからこれからもさうやって、のんびりやっていく所存にござそろ。
2025.11.03

長らく興味がありながら出かける機會を得られずにゐた橫濱市鶴見區の入船公園で開催の「鶴見ウチナー祭」に、今年こそ出かける機會を得る。會場いっぱいに廣がる郷土色豊かな出店やステージイベントに、かつて職を求めて本土に渡ってきた沖縄の人々により根付いた強靱な文化力を目の當たりにする。ステージで披露された大勢の参加者による三線演奏はまさにその象徴、本土に傳はり三味線となった江戸樂器にはいまやすっかり失なはれたその庶民性に、本土と沖縄の文化への認識の落差、現實としての距離を思ふ。沖縄そばを食べることも目的にて、至極さっぱりとした味はひに、やはりいつかは必ず沖縄に出かけて“本場”を検証したいと思ふと同時に、映像や冩眞や文章でしかまだ知らないウチナーのいろいろを、必ずこの目と耳と足で見るのだと、想ひを新たにせり。
2025.11.02

千代田區神田錦町の天理ギャラリーで、「世界の仮面 名品選」展を觀る。縄文時代にはすでに存在が確認されてゐる假面は、顔に掛けるだけでたちまち異世界の者になれる簡易にして絶大な演出力を持つ道具であり、儀禮や呪術、藝能など、人間の營みにおける“節目”において世界共通に重寶されてきた足跡は、私も假面をつけて舞臺にあがる活動をしてゐるだけに、やはり大いに關心のあるところ。(※日本で發掘された縄文期の假面 フラッシュ無しで展示物の撮影可)かつてのスリランカでは、病ひは惡靈に取り憑かれることで起きると考へられたことから、治療平癒は呪術師たちのシゴトであり、病人の症状からどの惡靈に取り憑かれてゐるかを見極めると、その惡靈を象った面を演者に付けさせて惡靈を御馳走で歡待し、病人の体内から退治すると云ふ、ほとんど祈祷な“治療法”は、大昔の日本國でも貴人が病ひを得ると坊さんが寺院で大合唱する神佛頼みと同じ、まるで假面を通じた萬國共通──“人類みな兄弟”を見てゐるやうだ。コトバが異なり互ひに通じなくても、假面を付けることで共通の考へを見出せるかもしれない可能性について、私は展示された古面たちから、聞くべき聲を聞いた氣になる。
2025.11.01
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