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千代田區九段北のしょうけい館の特別企画展「武良茂(水木しげる)の戦争体験」を觀る。昭和十八年にパプアニューギニアのニューブリテン島に出征した武良茂青年が直面した、威嚇と暴力が橫行する軍隊生活、マラリア感染、空襲による所属部隊の全滅、奇跡的に生き延びて上官のもとへ辿り着いた際に浴びせられた、「なんで生きて帰ってきたんだ、みんな死んだんだから、お前も死ね」との耳を疑ふ非情な言葉、そして敵の急襲により左腕を失ふ──水木しげるさんが描き遺した体験画の數々は、その現實の真っ只中に身をおいた者でなくては描ききれない人間の行為の残酷さ、非情さ、愚かしさ、そして何より深い“怒り”を、鬼迫をもって私たちに訴へかけ、私はその思ひに深く共感する。左腕を失なふ重傷を負って現地で療養する武良茂青年は、やがて島の原住民であるトライ族の人々と親しくなり、原始的な生活を穏やかに營むその姿に真の平和を見出すうち、そのまま島に永住したいと願ふまでになる。(※トライ族のスケッチ 案内チラシより)非人間的な軍隊生活に心身を蝕まれつつあったなかで出逢った原住民たちの穏やかな生活が、いかに平和の尊さを象徴するものとして心に沁みたか、後年に水木しげるとして著した「娘に語るお父さんの戦記」の一節、“僕にとって土人の生活は、人間が考え出した生活の中で一番樂しい生活ではないかと思えてならないのです”に、すべてが込められてゐる。しかし、何事も無いことは、人にとってそんなに難しいことなのだらうか──?
2025.09.30

今日が初日の、新橋古本まつりに出かける。恒例の催しながら、今回は出店數が少な目で、先日に出かけた武州所澤の古本市ともども、オヤオヤ……と氣になりつつ、探してゐたもの、痒いところに手が届くもの、いろいろと手に入り、探せばまだまだ出て来さうだったがドツボに嵌まりさうだったので、キリのよいところで引き揚げやうとすると、海外向けに情報發信してゐると云ふ報道機關の人に、今度の自民党総裁選について意見を聴取される。決戰投票になるとされる二人のうちの一人の名を挙げ、その理由についても、●●の問題、▲▲の問題、■■の問題、💥💥の問題、🔥🔥の問題、💣💣の問題とを絡めて、しっかりと説明責任を果たしてゐるうち、面倒なヤツに聲を掛けてしまったと思ったのか、相手は途中でカメラを回すのを止めてゐたので、まぁあの素材が使はれることはないだらう。おそらく後で、ヤレヤレ……、と苦笑したことだらうが、夷國にやられっ放しのこの國に本氣で腹を立ててゐる弱小庶民がここに一人はゐることを、まずは他人(ひと)に示すこと出来れば、ワシは満足ぢゃよ。
2025.09.29

千代田區一番町のJCII PHOTO SALONで、「水谷章人作品展 HERO」を觀る。スポーツカメラマンとして現在も第一線でアスリートたちを撮り續けてゐる水谷章人氏が捉へた、競技の場で命を賭けた選手たちの偽りなき極限の表情。一瞬の真實。不特定多數の“目”のあるなかで、自分の真實を晒し、記録される、その過酷さとも選手たちは闘はねばならぬ。そこには、お祭り好きの感動屋が勝手にお祭り騒ぎして感動したがる美談など、存在しない。勝つか負けるかの二者択一は、生か死かの二者択一、あの表情こそが人間の真實だ。
2025.09.28

板橋區立美術館で、「狩野派の中の人 絵師たちのエピソード」展を觀る。狩野派繪師たちの生き様に焦点を當てた収藏品展にて、室町時代に将軍足利義政に仕へた狩野正信を祖とし、以来權力者付きの繪師となり、狩野探幽の代で德川家に付いて京から江戸に下り、以来その子孫と分家一派は幕府の御用繪師として榮華を極める。最高格の“奥繪師”ともなると、月に十二日の定期登城「御定日(おさだめび)」があり、将軍に謁見のほか大奥女中も含めた城内における諸々の用事を承るなど、極めて幕府の中核に組み込まれた勢力であったがために、幕府瓦解後はたちまち画壇の表舞臺が消えて、殘党のごく一部が猿樂師に転向して子孫を傳へる。中世から近世にわたる大勢力であっただけに、狩野家歴代の人物像もさまざま、そのわりに殘された作品は大人しく類型的で、何か突出したものが感じられないのは、權力の意に添って前例通りに繪筆を揮ふことが第一であり、個性といった革新味は求められなかったことにあるのかもしれない。(※展示室内フラッシュ無しで撮影可)入門すると先人の作を手本にひたすら模冩する修業方法だったのだから、さういふ父子相傳の組織からは藝術家らしい奇抜な發想など生まれやうもなかったらう。その代はり、英一蝶や河鍋暁斎など、独立したお弟子の作に見るべきものが多いところが、(※河鍋暁斎 「骸骨圖」)この企画を救ひのあるものにしてゐた。さうした男性貴族的な印象のある狩野派にも女流繪師は存在し、由緒ある血統の清原雪信は歌舞伎劇の“雪姫”のモデル云々、(※七代目尾上榮三郎の雪姫 述者藏)お手本第一の狩野派は劇界にもお手本を提供してゐたかと、その廣汎ぶりを面白く思った。
2025.09.27

都内の地下鐵駅入り口前の廣場で、エチオピア産のコーヒーを賣るテントを見かけて、六月に初めて出かけた大阪・關西萬博のエチオピアブースで、淹れたてのエチオピア産コーヒーを味はったことを思ひ出し、すでに懐かしくなる。「(一緒に)コーヒーを飲む人は家族です」と云ふ諺があると知ったエチオピアだが、一方で萬博會場内での音樂イベントのために来日したメンバーの一人が定住目的で宿泊先から失踪する事件を起こし、ブースの展示には決して出てこない國情を曝け出してしまふ興醒めなオチをつけた一件はあったが、しかしコーヒーとそれは別な話しである。一度通り過ぎて地下鐵驛の改札口に向ったが、やはり思ひ直して引き返し、ドリップタイプを一袋買っていく。暑さが和らいだら最後にもう一度行きたいと思ってゐた今回の萬博だが、もろもろの様子から止めたはうがよいと思ひ直し、しかしちょっと未練はあったものの、そもそも昭和四十五年の萬博にも参加したエチオピアのコーヒーを飲むことが今回の萬博へ行った目的であり、それは果たせたのだから、無理して見たくもない人芥(ひとゴミ)など見に行くこともあるまいと、棲家に帰ってから思ひ出の味に浸る。
2025.09.26

立て替へるために閉館したきり、宙ぶらりんの放置状態となってゐる千代田區隼町の國立劇場、2029年度に予定してゐた再開場を、2033年度に變更云々、話しがここまで拗(こじ)れると、もう信じる氣もなくなる。お役人もいい加減ばか揃ひ、傳統藝能を演じる側にもコレと云った人材が見當らず、なにがなんでも再開場にこぎつけたいだけの要素が無いことも、原因となむ云ひけり。大昔の六代目中村歌右衞門のやうな、氣味の惡い政治力を持った大立者でもゐれば“鶴の一聲”もあったらうが、氣位ばかりで意外と行動力に乏しい現今の傳統藝能者の實際が露呈したものとも、私はこの迷走狂言から見る。
2025.09.25

東京都臺東區谷中の画廊で、若い女性画家の個展を觀る。ありふれた、つまらない家並みの光景を色彩に富んだ“模様”に見立てる感性はさすが藝術家らしい發想と感心しつつ、さうした感覺をこれら油彩画からこっそり吸収し画廊をあとにし、さてあのモノが密集しすぎた光景を美しく見立ててやらうと試みたが──ツマラナイ光景は見てゐる者がツマラナイからさう映るのだ、と悟る。他人(ヒト)と同じなヒト、またさうでゐたいやうなヒトに、藝術はできない。
2025.09.24

ラジオ放送の觀世流「班女」を聴く。つひこの間も別の面々で聴いた憶えのある、觀るより聴くことばかりな曲。世阿彌の名曲なのだらうが、猿樂師たちが自らの好みで頻繁に舞臺にのせるので、さう思はされてゐるだけのやうに思ったりもする。今は昔、扇は一夏ごとに使ひ捨てられる“消耗品”にて、それになぞらへてオトコに捨てられたオンナを“秋の扇”云々、そもそも捨てられたのは飽きられたから、よって“飽きの扇”とは、私のこじつけ。“飽きる”とはそもそも“愛”がないゆゑ、この曲では男女はめでたく再會するが、“飽きる”とは物事を見極める明快な基準、そこをよく心得ておけばこの曲の班女のやうに、想ひ患ふ愚を長々と衆人に晒さずに済むのぢゃと、やうやく訪れた秋の風に、飽きることなく吹かれける。
2025.09.23

一雨ごとに夏は去り、日中に外へ出てもムダな汗をかかずに済むに至り、やうやく散歩へ出やうと云ふ氣になる。道から見る景色はいつも變はらず、それはヒトが介入しない限り、けっして裏切られることはないはずだ。帰宅すると、郵便受けに國勢調査の用紙が届いてゐた。いまだに戸別訪問して玄関先で手渡しを建て前とする、恐ろしく前時代な配布をやってゐる一方で、オンラインでの回答を強く推奨する矛盾ぶりが可笑しい。毎回、全体の半分ほどしか回答を得られないのだから、官の民情意識などタカが知れてゐる。私は日頃の正直のまま、オンライン回答する。そもそも拒否する理由がないからだ。
2025.09.22

今月十九日に遊歩道として生まれ變はった、「旧晴海鐵道橋」を訪ねる。日本が戰後の復興に邁進してゐた昭和三十二年(1957年)に貨物専用線として開通し、輸入大豆や小麦、新聞紙用巻紙などの鐵道輸送に貢献す。(※案内板より)しかし時代の流れで港湾における鐵道貨物の需要は激減し、平成元年(1989年)に貨物線は廢止、いらい橋だけが晴海運河に架かったまま錆びた姿で三十年以上も取り殘され、その間に周辺はかつての工業地帯から、ありふれた高層マンション群へと再開發される。そこだけ時間が止まってゐる橋を眺めるにつけ、いつかは撤去されてしまふのだらうなァ、と思ってゐたが、紆余曲折を經て遺産として認定され、貨物列車専用橋から歩行者専用橋として生まれ變はったことは近頃の浮世には珍らしく嬉しい知らせ、東急のやうに線路跡に中途半端なモニュメントを置かず、往年の線路を殘して同じ高さに木製の床を敷いた工夫も私のやうな古跡好きにはたまらない。専用橋としての使命、平成の眠りから覺めて、令和(ここ)に復活す。
2025.09.21

日頃FM NACK5で聴き馴染んでゐる、さくまひできさんのコンサートに初めて出掛ける。JR高崎線の鴻巣驛で下車、會場のクレアこうのすまでテクテク歩き乍ら、このあたりはかつて旧中山道探訪で通って以来、また遠くに来たもんだとつひ笑ふ。今年で十五回目とのコンサートは大入りの盛況で、フォークギターの彈き歌ひ、バンド演奏にのせた熱唱、アマチュアグループとのコラボ、埼玉のキャンペーンソングに、“いのち”の時間をテーマにした深重な一幕、觀客参加型などなど盛り澤山のプログラムを、低音も高音も心地よいエネルギッシュな美聲で見事に魅せた2時間35分。(※撮影OKのコーナーにて)料金は觀客がそれぞれで決めた金額を終演後に拂ふ後拂ひ制で、○千圓を封筒に入れて係員に渡し、ソロで長く活動してゐるアーティストの底力と云ふものについて、多くの養分をおみやげにいただく。帰りの列車内で、よく反芻し頭を整理したいと思ふ。
2025.09.20

昨夜の雨が季節の仕切りとなったか、今朝はやうやく涼しくなり、夏を氣持ちから片付ける氣になる。外を歩いてゐても氣分が浮きやかで足も輕く、これならどこへでも行けるゾ、とやうやく本調子を取り戻す。ただ、油斷してゐるとたちまち調子を崩すもの、浮世にそろそろ出回るであらうゲホどもを我が身の戒めと心得て、やがて訪れる寒さに心を暖めん。
2025.09.19

橫濱都市發展記念館の特別展「戦後80年 戦争の記憶─戦中・戦後を生きた横浜の人びと─」を觀る。戰禍により戰後も決して消えぬ“傷”と云ふ記憶が刻まれた橫濱市民のさまざな人生を、それぞれの方が大切に守り殘した資料より謹聴する。地域の長として細やかな氣配りで住民たちの生活を守った旧名主家の當主、妻と幼い二人の娘を殘して出征し、娘の成長に想ひを馳せながら亡くなった男性、外國籍と云ふ理由で勉學の自由を奪はれた在日英國人の青年、親日派とされながらも官憲に監視され續けた華僑、五月二十九日の大空襲により破壊し尽くされた橫濱の街を、官憲の目をかいくぐって多くスケッチした花屋主人、そして焼け跡にあふれた戰災孤児とその救済活動──市民の數だけ、否それ以上にもたらされた“傷”の深さに、すぐには氣持ちの整理がつかぬ思ひにとらはれる。(※展示室内、一部を除き撮影可)ただひとつ、私が即座に氣持ちを決められたのが、米夷の爆撃兵が所持してゐた「ブラッドチッド」と云ふ布片。この特別展では攻撃した側(米夷)の資料も展示されてゐるのが出色で、件のブラッドチッドとは爆撃機が墜落した際、現地の人に救済と保護を求める文言が數ケ國語でしたためられたハンカチ大の布であり、やや奇妙な日本語訳の最後に、『それから私を聯合軍の方に連れて行ったら、米國政府があなたに、御褒美をやります』と、ムシのよい言ひ草の極みな文言があるのを見て、私はその場にゐたら人道的云々より自分の氣持ちを迷はず選択するだらうと、強く思った。つまり戰争とは、かういふことなのだ。
2025.09.18

觀たことのない假名手本忠臣藏の二段目を觀に、新國立劇場中劇場の歌舞伎公演に出かける。三段目の進物場、刃傷へとつながる發端なれど、せっかちで營利第一な興行會社からは嫌はれて、いつも干されてゐるこの一段、それを採算度外視で虫干しするところに、國立劇場の存在意義はある。しかし役者に人材(ひと)を得られないのは現在の劇界そのものの問題にて、なにも國立劇場の責任ではない。大星由良之助と並ぶ、ただし“陰”の忠勤家老である加古川本藏がこの一段の主役だが、これがアッと驚かされるミスキャスト、そしてその印象を全く裏切らぬ忠勤ぶりはまさに忠臣藏。(※二段目 二代目市川左團次扮する加古川本藏 大正十三年十二月 本郷座)しかし、持ち前の淡白な立ち振る舞ひの裏ではナニを考へてゐるのかわからない人物、と思って觀れば、それなりに樂しめる人物ではある。大序で高師直から散々に“パワハラ”されて怒り心頭の桃井若狭之助、襖を拂って登場した瞬間、故人小島慶四郎さん扮するお殿様が現れたやうで吹き出しさうになったが、加古川本藏相手にギャンギャン喚いてゐれば良い臺本なので破綻はなかったぶん、九段目で二役の大星由良之助になった途端、体軀に似合はぬ藝の小ささが忠實に現はるる。珍しく“雪転(こか)し”を付けたのは、虫干しを兼ねて今回は脇役の由良之助に花を持たせた意圖かもしれないが、もともと華の無い優にそんな氣を遣ったところでしょせんは徒花、キャバクラ帰りの飲んだくれには見えても、祇園一力で大芝居をやってのけた御家老様にはとうてい見えぬ。(※二段目 左 二代目中村芝鶴の小浪 右 二代目市川松蔦の戸無瀬 大正十三年十二月 本郷座)立女形の役どころとなる戸無瀬は、それを意識してか臺詞も芝居も抑へ氣味にして貫禄を出したつもりのやうだが、この優がやると体調不良か不機嫌な女にしか見えず、九段目で刀を手にキマるせっかくのおいしい型も、ただコケておしまひ。コケたと云へば、この段の加古川本藏が三寶をうまく踏み壊せず、再び踏み付けたのは役の重厚さを削ぐもので、このあたりもミスキャストたる所以である。今回の芝居で紅一點、清涼剤の役どころとなる小浪は、いかにも娘形の芝居を教科書通りなぞり乍ら習得中、といった態だが、しかしそこから醸し出される初々しい風情が若女形の身上にて、その意味では充分に及第點、あの年齢でいかにも小慣れた情味たっぷりの芝居をされては、却って鼻につくと云ふもの。(※九段目 左 初代澤村宗之助の小浪 右 六代目尾上梅幸の戸無瀬 大正四年七月 帝國劇場)風情と云ふ點で好演したのが由良之助妻お石、さすが三代目猿之助の膝下で鍛へられ、培はれた藝格は堂々たる武家女房の貫禄を見せ、亭主が小粒なぶん、奥様が大星家の格を守ってゐた。
2025.09.17

ラジオ放送の寶生流「龍田」を聴く。古歌にはじまる紅葉のあれこれを敷き詰めた、紅絢爛な秋の曲。詞には小ムズカシイ謂れ因縁が續いて、基礎知識が無いとたちまち撃沈する、遠い日本の秋景色。歌だの神話だの、そんなことは抜きにして、仰ぐ紅葉を美しいと感じたのなら、それこそが神様に逢ったと云ふことぢゃよ。
2025.09.16

明治神宮ミュージアムの「御肖像と御召物」展を觀る。明治天皇の遺品より、數少ない肖像画と衣服、冩眞に撮られることを嫌ったこの“大帝”を離れた場所から密かに撮影した晩年の御尊影などから、人間としてのミカドが軍國ニッポンの総大将に祀り上げられていく姿を追ふ。(※述者藏の資料より、以下同)明治前期にキヨッソーネが描いた肖像画にある容姿が明治天皇の“標準型”となり、明治末期に九州で行はれた陸軍大演習を高臺から“御統監”する様子を密かに撮影した古冩眞に見る姿は、その“標準型”の延長線上に長々とした白い顎髭を付け足した一老人に記録されてゐる。その立ち姿は周りが寄ってたかって四十年かけて創り上げた彫像の完成形を見るやうで、またのちに孫の代から日本國の“象徴”にさせられることになる原型を見るやうでもある。明治天皇を密かに撮影した冩眞はほかにもあり、明治四年の橫須賀巡幸で休憩中の様子を外國人冩眞技師が“盗撮”したものとされる貴重な一點に見る若き姿は、“標準型”からはかけ離れた印象に、私には映る。(※中央の白装束の人物が明治天皇とされる)歴史はヒトによって創られ、ヒトによって繰り返される事實を、冩眞といふ當時新しい文明は、有言實行で後世に語りかけてくれてゐる。
2025.09.15

港區郷土歴史館の企画展「終戦80年 戦争を見つめなおそう」を觀る。子どもを視野に入れた企画らしく、ふりがな付きの平易な解説文は私にもありがたい。が、時折オトナに連れられて入ってきたコドモは、展示内容には興味を示さず、駆け足に去って行く。そもそもオトナが展示内容をなんら説明しないどころか、そのオトナが流し目にさっさと出て行くのだから、これでは八十年前の凄惨な現實を語る資料たちが聞き手を得られずに氣の毒だ。あの人たちは、いったいどういふつもりでここへ来たのだらう。廣島と長崎の原爆体験についてその傳承が困難になってゐる現實も、かういふことか。八十年後の衆庶の一端を一瞥したところで八十年前の聲に目を転じ、どう見ても敗戰の一択しかなかった八十年の貧窮な日本、食料も食材も日用品もすべてが配給制となり、庶民は節約生活を強いられゐたことは令和現在の庶民生活とあまりに酷似してゐて、外夷に劣勢な日本の國力ともども、氣味が惡くすらなる。兵器類の材料にするために日用品の金属はことごとく徴収され、やがて梵鐘までその對象となり、さうして造られた一つかもしれない重さ1kgの鉄兜が、(※解説資料より)戰後には鍋に加工されたと云ふ話しはなかなか傑作にて、それは金属が本来の用途に再び生まれ變はったと云ふことだ。つまり戰争とは、わざわざやる必要のない、ムダな勞力と云ふことである!私が知ってゐる港區内の戰災遺産は、芝公園にある木肌が黒く焦げたイチョウの木である。昭和二十年五月二十五日の空襲によりこの姿となったもので、支那渡来の疫病禍以前に芝公園での待ち合わせ中にたまたま見つけて知った貴重な証言者、そして米夷の空爆によって大伽藍の殆どを失なひ、(※案内チラシより)まだらに生き殘った山門が浮世の儚さを語りかける増上寺。その山門前で、夷人觀光客と云ふ招かざる客どもが、だらしのない表情で記念撮影に興じてゐる。世界は、まことにめでたう候ひける。
2025.09.14

橫濱關内の横浜ReNY betaにて、The Biscatsのツアーライヴ「がんばロカビリー!」を樂しむ。新曲、お馴染み曲、ご當地曲、予定外の曲、十四歳だったNisakiチャンの伊勢佐木町(ザキ)における“武勇傳”の思ひ出など、ヨコハマ色を濃く打ち出した100分間。(※撮影OKのナンバーにて)歌も、樂器演奏も、觀に行く毎に魅力を増してゐる姿に、やはりかういふものを觀て、聴かなあかんと、夏の終はりにしっかり養分をいただく。
2025.09.13

地下鐵博物館の特別展「地下鉄で働く 駅員さん・乗務員さんをのおしごと展」を觀る。入社後の新人研修で篩(ふるひ)に掛けられ、生き殘った者のみが本採用となり、基本的には驛員を一年、車掌を二年勤めたのちに運転士になる資格が得られる仕組みに徹底してゐるのは、運行と乗客の安全。そのために實に細やかな配慮が要求され、一、「駆け込み乗車するヤツは構わずドアに挟んで次の驛まで引きずるべし」一、「線路内に立ち入ったヤツは構はず轢いて行くべし」──我が身の安全は我が身を以て知るべしを本氣で提唱してゐる私などにはおよそ務まらないおしごとだと、幼少期に鐵道運転士に憧れた記憶のある私などは苦笑する。(※案内チラシより)もう十年近く前になるが、つひ先日に大手鐵道會社を退職したばかりだと云ふ男性に會ったことがある。現場では車掌、給料も良かった云々、それなのになぜ辞めたのか、と訊くと、「最後はさういふ問題ぢゃなくなるんですよ……」展示室の一隅には、就職動機や職場でのやりがいを語る若い社員の動画が映し出されてゐるが、そんな採用面接の焼き直しのやうな應答より、上の元車掌の言葉のはうが、私には参考になった。
2025.09.12

東京圏は昼過ぎから夕方にかけて雷鳴を伴ふ大雨が發生し、乗ってゐた電車も停車驛でしばし足止めとなり、ドアガラスに瀧をつくる。開いてゐる反對側のドア口から激しく吹き込んだ雨は、床に湖をつくる。 付近では頻繁に落雷も發生し、そのうちのひとつは隣の貨物線を走行してゐた電氣機關車のパンタグラフに落ち、バン! と激しい破裂音を目の前にして、地球エネルギーの強大さに心臓の縮む思ひをする。遅延に遅延を重ねてやっと目的の驛に着いた頃には雨脚も弱まり、やがて青空も覗き、上手い具合に屋根の下にゐて難を逃れられたと安堵する。しかしその安堵もしょせんは糠喜び、夜になってから再び瀧雨が再来、落雷も再開、もういい加減に飽きた。はよ晴天を再開してくれい。
2025.09.11

七月に大阪・關西萬博の“國際交流事業”なる名目で来日し、二十五日に宿泊施設から失踪したエチオピア人女性、めでたく發見云々。もちろん、身命に別條がなかったからではなく、一人の不法滞在者を捕縛した、と云った意味において、である。いまは“アフリカ系○○人”と呼ぶことになってゐる、と仄聞する黒人が住むそれら國々のパビリオンを、今回の萬博でいくつか實見して感じたことは、「結局、見せるもの、紹介するものが大して無いのだな……」と云ふことだ。それを背伸びして萬博に参加して、かえっておのれの恥を晒して、なにやら哀れを覺ゆ。なにも無い國だから仕事も無く、生きていくために國を離れて流民となる、それは忘國から来日した忘人より實際に聞いた話しだ。いま、日本各地の編み目に悉く入り込んでゐる“海外人種”を見ると、無期限に質の惡い萬博を見てゐるやうで、幕末の攘夷志士へ、つひ思ひを馳せてしまふのである。
2025.09.10

埼玉縣の川越市立博物館で、企画展「川越の地口行灯」を觀る。洒脱な繪柄と地口を織り込んだ地口行灯(ぢぐちあんどん)は、江戸時代後期に江戸の稲荷神社の初午祭りに立てられたのが始まり云々、現在も旧川越城下町の老舗提灯屋がその傳統を守り、近隣の祭禮で江戸以来の知的な華を添へる。(※展示室内一部のみ撮影可)地口とはいかにも江戸時代らしい洒落を効かせた庶民の言葉遊びで、なにより浮世を見聞きする廣い感性がなければ、いくら文才があってもモノには出来ぬ。數多展示されたその原版より、私がもっとも上手いなぁと目を惹いたのが、『絶景ハ だんごの串の 捨てどころ』の一點。衆庶が押し寄せる人氣觀光地におけるゴミ問題を、簡潔且つ痛烈に、しかし笑ひでふんわりと包んで諷刺する、これぞ江戸の諧謔文化、さすが“小江戸”と感心する。川越驛まで戻る途中、江戸時代には幕府の後ろ盾を得て隆盛を極めたと云ふ喜多院に立ち寄り、五百羅漢を拝す。本堂の裏手は最後に川越藩主をつとめた松平大和守代々の墓所、その脇を抜けると、空堀跡に架かる「どろぼう橋」が、令和現代の住宅地とをつないでゐる。物騒な名の付いたこの橋、江戸時代に城下町で惡事をはたらき町奉行に追跡された男がこの橋を渡って喜多院内に逃げ込んだが、取り押さえた僧たちの説諭と本尊への信心ですっかり改心し、のちに喜多院の取りなしで無罪放免となった男は城下町の商家に奉公し、真人間として一生を送った、との謂れに因む。俗界權力が及ばない寺社の威勢を示す話しでもあるが、それ以上に人情の機敏に触れた話しが今回の良いお土産と、晴れた氣持ちでどろぼう橋を俗界へと渡る。
2025.09.09

赤い満月がのぼってゐるのを觀る。昨夜は月食があったさうだが見ておらず、むしろ私はこの怪しい色をした満月のはうに、心を惹かれる。學生時代に讀んだ江戸川亂歩の「月と手袋」で、私は初めて赤い満月があることを知った。ヒトの怪しげは、嫌い。天体の怪しげは、怖い。吸ひ込まれるやうで、私は走って逃げる。しかし、振り返ってしまふ。いつしか満月は、白く輝いてゐた。赤い月より赤い赤は、ないだらう。
2025.09.08

ラジオ放送で、觀世流「仲光」を聴く。出来の惡い主君の息子のために、命を犠牲にさせられる家臣の息子と、その親である家臣の苦悩。これぞ、傳統藝能が現代人に嫌がられる典型曲。後世の歌舞伎劇にも似た趣向の“名作”があり、あちらは主役が絶叫と怒號で發散する場が設けられてゐるが、こちらの家臣はひたすら隠忍、しかも仕舞ひには主君から、ダメ息子が助かった祝ひにひとさし舞へとダメ押しが付く。舞ってゐる當人は樂しい苦勞だらうが、觀せられてゐる側(※傳統藝能の觀客にはかういふテが多い)には理解の外でしかない世界に隠忍を強いられるほかなく、さうしたシテと同じやうな苦痛を疑似体験するところにこの迷曲の味はひがあるのだとしたら、さっさと廢れてしまったはうがよい。
2025.09.08

先の参院選で與党を安定的に大敗させた石破茂氏、今日にやっと党総裁を辞任云々、往生際の惡い政治屋は數多あれど、ここまでみっともない姿で貫徹した偽政者代表は、民主党政權時代以来ではないだらうか。“與党のなかの野党”な立場で、好き勝手にケチを付けてゐるくらゐで丁度よかったのが、時勢のイタズラでケチを付けられる側の主座に据ゑられ、おのれ一人どころか日本國そのものをみっともない姿にしてしまった賊物、もう顔も見たくない俗物、こんな男の支持率が高水準を維持してゐるとたびたび報じて國民をさう思ひ込ませやうとした報道屋と云ふ先棒担ぎの低水準なプロパガンダなど、ただ冷笑でしかない。ところが、適當な後繼がゐない!こんな男の、ではなく、首座の、である。國難は、まだまだ續く。
2025.09.07

昭和十五年(1945年)、東京の月島と橫濱の山下公園の二ヶ所を會場に萬國博覧會が開催される予定だったが、ますますキナ臭くなる時勢下、つひに中止が決まり、幻の萬博となる(※但し同年九月二十日より約一ヶ月間、上野公園を會場に兵器へ直結する工業製品を誇示した「戰時工業総力博覧會」が、日刊工業新聞社の主催で開催される)。隅田川に架かる勝鬨橋は、この幻に終はった萬博開催予定の名殘りであることを昭和館の小展「こんな博覧会がありました」で初めて知り、へぇ……、とにはかに興味を覺へて現地まで足を伸ばす。錢高組が中心となり開催予定年の昭和十五年六月十四日に完成した勝鬨橋は、月島會場へのメインゲートを予定して設計され、特長であった船舶を通すために橋の中央がハの字型に開く構造は、博覧會らしい最先端な文明を見せる目的もあったのだらう。しかし時代が經つにつれて船舶よりも自動車の交通量が増え、戰後の昭和四十五年(1970年)十一月二十九日をもって、橋の開閉は行はれなくなる。昭和四十五年と云へば千里丘陵で大阪萬博が開催された年であり、かつて萬博のために建造された橋が、のちの萬博が開催された年に特長だった役目を終へたのも、なにかの因縁だらうか。國民的漫画の「こち亀」に、開かなくなった勝鬨橋を、友人との約束で再び開いて見せる少年時代の両さんの活躍(?)を描いた話しがある。私の好きな一篇だが、アニメ版では操作室に入ろうとする両さんを止めやうとして隅田川に転落する巡査が、若き日の自分の上司だったと云ふ原作にはないオチがあり、私としては余計だな、と思ったものだった。
2025.09.07

親を早くに亡くしたことで藥の重要さを知り、現在は誇りをもって製藥會社に勤めてゐると云ふ女性が、婚活で會った男性のすべてが自分の職業(シゴト)になんら誇りを持たず、テキトーにこなしてゐるだけであることにショックを受けた、とラジオ番組の投書で聴く。かういふ月給取りの現象を「静かなる退職」と云ひ、もともとは米國の企業人が云ひ出した名稱云々、シゴトへの意欲も向上心もなく、淡々とシゴトをこなしてゐるだけの「心理的な退職」にある者が、企業の正社員の二十代から五十代の約四割に存在云々。原因は、やうするに「會社組織への不満」。落とされることが前提の選択肢なき就活のなかでたまたま採用されたにすぎない職場では、そもそも働く意欲も起きないだらう。ならばサッサと辞めればよささうなものだが、かういふ人種はそれ以前に社會に去勢されて氣力も能力失ってゐるので、今さら足腰が立つわけもなく、ただその場所で呼吸(いき)だけをして、無難と云ふダラダラの人生(じかん)を過ごす。そもそもシゴトに意欲も無い者が、淡々であらうと仕事を“こなしてゐる”と思ってゐるところが、とんだ思ひ上がりだ。この實態を調査した者は、雇ふ側も勤勞意欲を起こさせるやう工夫が必要だ、などと教科書のやうなことを宣ってゐるが、雇用者側もシゴトに意欲がある者と見るやその人にシゴトを盛り込んで散々に使ひ叩く体質を改めない限り、この無氣力な関係は會社がいよいよダメになるまで、續くことだらう。……知らんけど。
2025.09.06

昨日發生した臺風十五號は太平洋側を橫斷し、今朝からは我が町に斷續的な強雨をもたらし、夕方になると急速に雲が流れて雨脚も落ち着き、やがて止んでぼんやりと夕焼け空が覗くに至り、やっと障りが除(と)れたと安堵す。“ごくねち”でも毎日晴れたゐた方が氣分も塞がらずに済むことを、この天候不順で再認識する。七月十八日にエチオピアから来日した音樂グループの一人が、本来の目的であった大阪・關西萬博のイベントステージに出演したのち、二十五日より失踪云々、エチオピアとは聞いた名だと思ったら、私が六月十九日に初めて大阪・關西萬博を見物した際に覗いたブース参加の國なり。オリンピックでも在留目的で選手が失踪する例があると聞くが、萬博にかこつけて来日してそのまま雲隠れとは、國際融和を旨とした催しをずいぶんコケにしてくれたものと思ふ。しかし、これが世界の現實、融和や祭りは一時的な秩序の崩壊にて、こちらがホヤホヤしてゐる隙にずる賢い者は好機を狙ふ、さういふ裏目的な發想に生きる人種を、私は心から輕蔑する。
2025.09.05

ラジオ放送で、関西在の能樂師によるシテ方の謠ひと囃子方の打奏の突き合わせを聴く。ひとつの曲において、互ひに持てる技量をぶつけ合ふ緊迫感から調和を醸し出す演奏形態は、おそらく日本の能樂しかないものではないか。しかしそれは、聴く側にも謠ひと樂器の素養を求められるもので、それらを知らない世間大勢の一般人に、その妙を知らせるのは難しい。私もわからん。だが、それはさういふものでよい。創成期はともかく、“わかる”階層だけを相手に長くやってきて、いま觀る形に固まったのが猿樂である。しょせんタダの物見遊山でしかない衆庶に奥の院を公開して、結果ムダに踏み荒らされただけで終はるくらゐなら、わけがわからないままを守って神秘性を維持したはうが、高潔な印象も保てると云ふもの。わからない人とは、それなりの人と云ふことであり、わざわざ擦り寄るやうマネは、時間と、カネと、勞力の、ムダ遣ひでしかない。
2025.09.04

町田市立國際版画美術館の特集展示第Ⅱ期「ドーミエ、どう見える?─19世紀フランスの社会諷刺」展を觀る。十九世紀の佛國で、オノレ・ドーミエの目に映った世相と、そこに蠢くニンゲンたちの實態を可笑し味たっぷりに活冩した“名画”の數々、ところがそこに描き留められた佛國庶民の姿は、あまりに二百年後のニンゲン社會そのままであることに驚愕させられる。線路内にヒトが侵入しないやう見張り立てる姿は、現在わが國でも頻發する「線路内にヒトが立ち入った影響により列車に遅れが生じてゐます」云々そのまま、(※フラッシュ無しでの撮影可)1855年の第一回パリ萬國博覧會における来場客たちの表情は、展示紹介されてゐる文物の意味や価値をなんら理解し得ない大衆にはただ度肝を抜かれるばかりなお祭りにすぎない實態、またさうした文明に振り回されるニンゲンたちの様は、現今にそのままつながる愚哀でもあり、二百年前の日刊紙に掲載された諷刺画が、いまなほ鮮度を保ってゐることは、ニンゲンがサルからヒトに成ったところで進化をやめてしまったことへの警鐘を聞くやうで、會場をあとにする頃には、どうも笑ってばかりもゐられない氣分になった。
2025.09.03

世田谷區成城の淸川泰次記念ギャラリーにて、「清川泰次の写真─その時代とまなざし」展を觀る。画家として活躍した淸川泰次が、慶應義塾大學に在籍中の青年時代にのめり込んだ冩眞に記録した、昭和十年代の日本風景。本人が見て「あっ」と思ひ、カメラでその瞬間をとらえた光景の、作為(いつはり)なき現實は、昭和十五年十一月十日の「紀元二千六百年奉祝式典」とやらを盛り上げやうとする東京繁華街を往く民衆の、それが日常である表情にはっきり冩し取られてゐて、そのわずか五年後の歴史を知ってゐる者には、胸を強く衝かれるものがある。(※案内チラシより)未来など知らぬはうがよい。予感くらゐに留めておかなければ、とても生きてなどいけない。
2025.09.02

關東大震災から今日で102年が經ち、私は100年目の年に目にした堅山南風が自分の目で描き留めた「大震災實冩圖巻」の、崩壊する凌雲閣から遊覧客が宙へ放り出された場面、巻末に記された「忘れられぬものは強いて忘れやうと努力しなくともよい。唯これに對し吾等は如何なる教訓を得たか、その教訓を守って往けばよいのである」の言葉が、いまも強く印象に殘ってゐる。さうした教訓と云ふものが活かされない事例は數多あるが、それはその人が活かさないのではなく、その人がそもそも歴史を認識してゐないから同じことをやるのだ、と忘人(だれか)がラジオ番組に投書してゐたが、外れではないと思ふ。歴史は歴史が繰り返すのではない、知らないヒトが繰り返すのである。災害が發生し、被災して喫緊な問題は飲み水の確保云々。人は食料を口にしなくても二ヶ月は生きられるさうだが、水が無いと四~五日で絶命云々。いまや災害認定されるやうになった夏と云ふ季節、長い時間外出してゐる時は、水の有り難さをつくづく思ひ知らされる。公園に蛇口のついた水道や、屋内に冷水器を見つけると、「あった、よかった……」と、常備のペットボトルに必ずいっぱいまで給水する。ここで逃したら、あとはどこで水が手に入るかわからないと心配になるからだ。そして、この界隈ではここが“給水スポット”だと覺えておく。さうして後に助かった例が、私にはある。それくらゐ、いまの夏は長期災害なのである。だだ、大災害時にかうした“給水スポット”が機能するかは、甚だ怪しい。しかし、つねに頭を使って覺えておけば、自身の頭が“防災マップ”として機能するだらう。現今では、災害時にまずダメになるのがスマホ──通信機能なのだから。
2025.09.01
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