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ラジオ放送の大藏流「柑子」を聴く。招かれた昨日の宴席で主人がいただいた三つの柑子を、自分がもらったものと勘違ひして全て食べてしまった太郎冠者の苦しい言ひ訳ぶりを樂しむ、典型的な言葉遊びの小品。過去に舞臺で觀た記憶はあるが、何を話してゐるのかよく分からぬままに終ってしまった印象があり、今回は耳に特化して臨んではじめて、生真面目に觀てゐてはわからぬ洒脱な話しであることを知る。私も今冬にはどこかでウスカワミカンを三つ、食べたいものぢゃ。
2025.10.31

英國の調査機關が、「SNSの利用が2022年を頂點に頭打ち傾向──若者世代を中心に減少してゐる」との結果を發表した、とラジオ放送で聴く。自分の意見を述べて多くの人と交流する能動的アイテムから、單なるヒマつぶしに画面を見る受動的シロモノに變化してゐる、との指摘もあるさうで、なるほど僅かなヒマにもすぐスマホへ手を伸ばすヒトなど外へ出れば、いつでも、どこでも、必ず見ることが出来る。まるで、それしか出来ることが無いヒトのやうですらある。若者世代にSNS離れが進行してゐる一因として、要するに「飽き」を挙げてゐるのが面白い。オモチャ代はりに散々使ひ倒してそっぽを向く、思考が幼児から進歩してゐないと云ふことか。かうした現象について、件の調査機關は「SNSが歪んだ形で進化した結果」と喝破云々、SNSが異常に大騒ぎしたことで時勢が動く例もあるが、結局は報道屋もSNS發信者も、自分たちに都合のよいネタを選んで電波にのせてゐる點ではなんら變はらない。とにかく日本について云へば、SNSの投稿(こゑ)が浮世全体の“民意”だと決して錯覺しないやう、常に氣を付けておくべきだ。
2025.10.30

國立公文書館の企画展「世界へのまなざし─江戸時代の海外知識─」を觀る。耶蘇教の禁止を徹底するために異國との交流を忌避した德川時代の日本の体制を「鎖國」と表現したのは十九世紀に入ってからで、欧米列強が要求する「開國」の對語として用ゐられたものであったことを、今回の展示資料で初めて知る。德川吉宗が将軍だった江戸中期は、泰平の世ゆゑに海の向かふの國々に關心を抱く“蘭癖”の人々も現れ、德川吉宗自身が耶蘇教以外の異國書の輸入規制を緩和する。(※一部を除きフラッシュ無しで撮影可)さうして旧紅葉山文庫に所藏された傳聞書の數々から、行くことや見ることの叶はぬ世界を識らうとその限られた状況下で最大の知恵を絞る人々の飽くなき欲求は、この當時はまだ興味關心程度だったものが、それから約百年後に行なはれる明治維新と云ふ政治大変動による堰きった洋風化の下地となったやうに思ふ。さうした僅かながらな海外傳聞のうちでひとつ氣になったのが、享保十四年(1729年)に當時の安南(現ベトナム)から長崎より陸路經由で德川吉宗に献上された一頭の象の顛末。江戸城に入城する際、象がの体があまりに大きすぎて門の半分までしか入らなかったことからその門は“はんぞうもん(半藏門)”と呼ばれるやうになった、との巷説はさておき、江戸で大評判になったこの象は飼育にあまりにカネがかかることから、十年ほど御浜御殿に留められたのちに幕府と關係のあった武藏國多摩郡中野村の農家に引き渡された、と云ふところで展示解説文は終ってゐるので、自力でその後を調べたところ、當地でもさんざん見世物にされた挙げ句、引き渡されてからわずか一年半ほどで病死云々、(※引き渡された象の小屋があったとされる場所の付近に立つ案内板 中野區本町2-32 「區立朝日が丘公園」内)皮は幕府に献上され、頭骨と牙は中野村の件の農家に下げ渡されて再び當地で見世物云々、しかし第二次大戰の空襲に遭って焼けてしまひ、現在はその燃え殻が當地の寺に非公開で安置云々。當世流行りのビョーキな動物愛護者どもに、ぜひ聞かせてやりたい話しではある。アイヌ民族は犬をとても可愛がる風習があると間宮林藏が記録した「北夷分界余話」とは対照的であり、當時からお互ひに相手へ優越感を持って臨んでゐた日朝關係ともども、ニンゲンの愚な思考に私はむしろ關心のまなざしを向ける。
2025.10.29

やっと晴天になったのを幸ひ、秋恒例の神田古本まつりへ出かける。が、今年はなんか出見世の數が少ないゾ……、と感じる。昨年までは通りに見世がみっちりと並んでゐて、お客もみっちりと集まってゐた印象だが、今年は見世の數にお客も比例してゐるやうな、なんともスカスカした感じを受ける。九月に出かけた新橋と所澤の古本市でも、今年は同じ印象を受けた。今月に大阪の四天王寺へ師匠たちへ挨拶に伺った際に初めて覗いた境内の大古本まつりでも、見世の主人たちがお客の少ないことを嘆いてゐるのが聞こえた。實際、古書店の數は年々減少傾向にあるとは聞いており、かつては毎年夏にデパートの催事場で風物詩のやうに行なはれてゐた大古本市も、いまや昔語りになってしまった。時代の變化なのか流れなのか、樂しみが失はれていく時世は社會の崩壊とも比例するものだ。
2025.10.28

つひに、缶飲料が¥150、ペットボトルが¥180などと、弐百圓台に迫る高額な自販機が現れはじめた。¥130までならガマンも出来たが、ここまで値を吊り上げてくると、さすがそこまでのシロモノでもないので、「いい加減にしろ、ふざけるな!」と、つひに本氣で財布を引っ込める。諸物価の乱痴氣高騰もここまで来ると、もう調子づいてゐるとしか思へなくなってくる。今度の新首相は、經済に弱いと指摘する識者もゐる。いまはまだ祝祭氣分の真っ只中、しかしその一方で物価の暴走に歯止めが掛かってゐない現實は、この自販機がはっきりと示してゐる。私はもう、かういふ自販機は利用しない。それが私なりの、ケーザイ對策。
2025.10.27

英國の大衆居酒屋──PUB(パブ)が現今、一日一軒の割合で閉店云々、一因として若者のアルコール離れ云々。ふた昔以前、當時の仕事で英國に三週間滞在した際、困ったのが夜の食事だった。英國の民衆は仕事や學校帰りに大衆居酒屋であるパブに寄って、仲間と飲食を大いに樂しむ習慣がある──とガイドブックにあるのを見て、外食する習慣も飲酒も好まぬ(現在では一滴も×)私は、サテ……、と考へ乍らロンドンに到着し、初日の夜を迎へた。滞在中はホテルの近くに個人營業のやうなコンビニを見つけて、そこでとりあへず喉を通るものを毎日買ひ込んで凌いだが、たしか一回だけ、酒飲みと云ふ先輩とパブに入った。混然雑然、實に賑やかであったことだけを記憶してゐる。私の英國における關心はもっと外にあり、食べ物にさへ不満を抱かなければ、慣れてしまへば、もう日本に帰りたくなくなるナ──現在だって關心のないパブに現状に、ふとそんな昔噺を思ひ出したのは、先日に久し振りに乗った飛行機の印象が、まだ殘ってゐるためかもしれない。
2025.10.26

今年は夏が過ぎてから──秋と云ひたくないのはどうしたことだ──、雨の日が多いやうに感じられる。梅雨の季節に空梅雨だったぶん、いまになって降ってやらうと云ふのだらうか。活動(うごき)が抑制、といふより邪魔されるので、私は雨が大嫌ひだ。ただ、勢ひよくザーッと降るならば却って爽快で諦めもつくが、中途半端なパラパラシトシトの降り方がとても腹が立つ。先日の出雲大社への旅行中に傘をささずに済んだのが、唯一の幸ひだ。中途半端と云へば、私はかつて「キミは何をやっても中途半端なんだよ」、と人から叱聲を聞かされたことがある。當時は、さうなのかもしれない、と真に受けさうになったこともあるが、あれは自分が納得いく生き方を手探りしてゐる最中だったのだ、と今は知ってゐる。まずは自分の手でいろいろと触れてみて、感触を得られないならば、触れるのをやめる。そこにガマンなんて必要ない。ところがそれをガマンせざる得ない他人(ひと)を見てきてゐるだけに、私はさうなるまいといつも思って、今日に至る。自分の損得は、自分で決める。ただし、雨だけは計ることなしに、「損」でしかない。
2025.10.25

夕方、首都圏忘所のビルの谷間で、何かに向かって土下座してゐる黒色人種を見かけて、イヤなものが視界に入ったと苦々しく思ってゐると、やはり同じやうな色の別な男が、私に聲を掛けてきた。そして、スマホの画面ですぐ近くのスーパーマーケットのホームページを映して、私に見せてきた。どうやらそこへ行きたいやうだった。露骨に拒否するのは大人氣なく思へたものの、しかし道順を口頭で説明するのは面倒だったので、カモンと男を店の入口まで連れて行った。 男は禮も云はずに、店へ入って行った。私はそのことよりも、初めに私に聲を掛けてきた時、無遠慮に二度咳をしたことのはうが、不快だった。あとでよく嗽をしたことは、云ふまでもない。日本でこれまで未確認の“異物”を持ち込むのは、いつだってかうした“招かざる客“どもである。あれらが日本にゐられるのも時間の問題、であってほしいものだ。
2025.10.24

ラジオ放送の、金春流「俊寛」を聴く。實際の舞臺は、國立能樂堂の主催公演で一度同流のものを觀てゐるが、絶海の孤島にひとり殘されることになった俊寛が、沖へと去る赦免船の艫綱を懸命に摑まうとする姿に、しょせん俗人でしかない淺しさ、哀れさが滲みでてゐて、謠ひでは語られない俊寛のみが赦されなかった理由(※觀る者が原典の平家物語を知ってゐることを前提に作られてゐるからだ)の、本當の部分もよくわかったものだった。自分ではなにも行動しないくせになにかしてもらわうとする、このテの人間はいつの世にもゐる。だからこの曲も、いつの世にも好んで演じられるのだらう。
2025.10.23

小田原の神奈川縣立 生命の星•地球博物館にて、特別展「初三郎式、かながわの描き方」を觀る。明治の京都に生まれ、京都で画家を志し、大正二年(1918年)に鐵道の沿線案内である「京阪電車御案内」を當時の皇太子(のちの昭和天皇)に褒められたことをきっかけに、鳥瞰圖による觀光案内絵圖を手掛けるやうになった吉田初三郎の作品は、昔の鐵道資料を見たことのある人ならば必ず一度は目にする有名な繪圖だ。(※展示室内フラッシュ無しで撮影可)しかしそれは、實際に飛行機で上空より冩生したのではなく、弟子をつれて地上を實踏調査し、一つの地點を百枚以上も「足」と「頭」で冩生し、それらを突き合はせて構成していったと本人は語ってゐる。(※吉田初三郎)が、それだけではいかにして上空視點による構圖を描いたかの説明にはなってゐない。結局、“企業秘密”と云ふことなのだらう。それより私は鳥瞰圖よりも、(※「名古屋名勝 風薫る鶴舞公園」)しっとりとした風情の風景画のはうが、吉田初三郎の作品は好きだ。
2025.10.22

出雲大社に参拝する。今月は全國の神様が出雲に出かけて地元を留守にする“神無月”だが、雲州では神様が集結するため逆に“神在月(かみありづき)”と呼ぶ云々、しかしそれは今も旧暦で行なはれてることを雲州に着いてから知り、今年の神在月は十一月下旬より云々、なんだ……、とコケた氣分になる。しかしありがたいことに神域にはほとんど日本人ばかり、おかげで日本らしい粛々とした空氣のなか、神代と云ふヒト普遍の歴史に浸る。参道からすこし外れたところにまします野見宿彌神社は、相撲の神様をお祀りする社にて、年一度の地方巡業で觀戰することを樂しみにしてゐる者としては、必ずお参りしておきたかった神様。雲州には過去に二度訪れてゐるが、一度も見物したことのなかったのが、すでに廢止されたJR大社線の旧大社驛舎。この際一見せばやと足を運んだものの、かつて出雲大社への玄関口だった古麗な驛舎は、いまは補修整備工事中で、外側のみを見物。本来の目的を果たしてゐない物にはさほど魅力を感じない質なので、まぁこれでもいいか、と思ふ。出雲大社への往復には一畑電車を利用し、上手い具合に元東急1000系に乗る。かつては日比谷線直通用の中間車だった車両を先頭車に改造云々、それを抜きにしても往年の面影ナシのギクギクガクガクな走りっぷり、伊賀鐵道に行った仲間と同じうらぶれ感がある。長らくひとつ氣になってゐたのがJRの「出雲市驛」の驛名、「○○市驛」とは私鐵じみてJR(國鐵)らしくないナと思ってゐたが、「出雲驛」では出雲大社の最寄り驛と勘違いひされるおそれから、“出雲市”とした云々、長年の疑問ここに氷解、このたびは出雲で、いろいろ縁結び。
2025.10.21

本日、104代目の内閣総理大臣に、初の女性が就任云々。ひとりの日本人、日本國民として今度の首相に切望することはただひとつ、我が國に入り込み過ぎた生産性もない夷人どもを、この國の外へ、掃き出すことだ。それから、前任者が汚したこの國土を、掃除していく。まずは日本を日本人の手に取り戻すことで、國政は自ずと、あるべき姿へ回復するであらうから。報道屋は“女性閣僚”の起用が二人にとどまったことに拘ってゐるやうだが、男女均等を宣ひながら女性ばかりを云々するその矛盾ぶりが、私は嫌いだ。女性だらうが、男性だらうが、そんな性別など問題ではない。これからの仕事ぶり、つまりさうした「中身」を、私は見ていくものである。
2025.10.21

羽田空港国内線ターミナル五階にて、「THE HISTORY OF HANEDA」展を觀る。戰後ニッポンの“空の玄關”として大いに機能する羽田空港の足跡を、冩眞パネルや制服、廣告媒体などから回顧する特別展で、羽田を通る際に空港をフェンスの外側から眺めることの方が多い私などには、それこそ“雲の上”な憧れにも似た印象がある。(※展示室内撮影可)そして飛行機よりも鐵道が主な旅行手段である私には、羽田空港と云へばヒコーキより京濱急行線、そして東京モノレールの方に馴染みを感じたりする。ただ、「日本の空は日本人の手で」と云ふ全日空の會社方針に賛同した宮永岳彦のデザインしたポスターを、先日の秦野に續いてここでも觀られたことには、馴染みを感じる。昼過ぎ、その馴染みの薄いヒコーキに搭乗する。離陸してしばらくは高所恐怖症にも似た不安を覺え、客室乗務員たちの“鍛へ抜かれた”笑顔と立ち振る舞ひにもアレルギーを感じて、次からの旅はやはり鐵路ぢゃな、とおのれを知る。
2025.10.20

ラジオ放送で、喜多流「花筐」を聴く。大和王朝時代、皇子に寵愛された女は皇子が帝に出世するにつき捨てられ、傷心のあまり狂亂するも、帝となった男と再會し復縁──想ひのあまり狂亂する女を優雅へ詩情を添へて謳った能樂定番の一曲、しかし私は、權力の頂点を手に入れた途端に、それまでの愛人と手を切ろうとした男が、たちまちその愛人のために転落した實話のはうに、深い詩情を覺える。
2025.10.19

昨日今日に久々の、しかし今だけの晴天にやうやく衣替へ、待ち遠しかった寒い季節への備えを済ませる。さうこうしてゐるうちに年が明けさうで、ハテ令和七年(ことし)は何をやったのだらう……、と中身の無い生き方にならないやう、せっかく氣持ちの冴える季節になるのだから、ちゃんとアタマをつかって今年の殘り二ヶ月を過ごさん。──つくづく、自分は時間の使ひ方が下手くそだと思ふ。
2025.10.18

秦野市立宮永岳彦記念美術館で、「グラフィックデザイナー 宮永岳彦」展を觀る。昭和十一年(1936年)に十七歳で松坂屋百貨店名古屋本店に勤務してポスターの圖案やディスプレイの演出を担當し、戰後に復員してからは銀座松坂屋の宣傳部に移り、「作家のカラーが店のカラーになる」との持論のもと、ポスターや雑誌の表紙を通して戰中の暗い世相から解放されて美しいものを渇望する人々の心に應へる繪を多く提供し、「太陽の昇らぬ日はあっても宮永のポスターを見ない日はない」と云はれるほど商業美術界のスターとなった宮永岳彦の精力的な足跡(しごと)を、精選された作品から辿る。(※フラッシュ無しで撮影可、以下同)「女性の美しさを際立たせてゐるのは目と口である」と見極めて描かれた女性たちは、なるほど眼差しと口許に生き生きとした魔力をもって、私の心へ誘ひかけてくる。商業廣告の圖案家としては、創立早々に経営難に陥ってゐたANAの前身である日本ヘリコプター輸送株式會社(日ペリ)の、「日本の空は日本人の手で」と云ふ會社精神が大いに氣に入り、破格の予算で昭和三十から三十年以上も宣傳廣告を手がける男氣を見せた話しは、あらゆる場面で外國の後塵を拝してゐる現今の日本を憂へる私の氣持ちにも、大いに響く。戰後の日本において長らく商業美術の第一線を走ってきた宮永岳彦だが、昭和四十年代に入ると「純粋に自分の繪を描きたい」との思ひから、それまでの仕事から離れて油彩画一筋に励み、独特の眈美的画風を確立したのも地藝のなせる技、しかし最晩年には「結局、若い頃に描こうとしてゐた世界をまた描いてゐる……」としみじみ語った云々、人は道を極めるとまた原點に帰って来る、一流であればあるほど、さういふものなのだらう。(※額縁にもこだわり研究した、「翔」)小田急線の鶴巻温泉驛に初めて下り立ち、氣の合ふ人に出逢ったやうな、いろいろなことに共感のひとときを過ごす。
2025.10.17

旧新橋停車場 鐵道歴史展示室の企画展「日本海縦貫線一〇〇年展~知られざる大動脈~」を、前期と後期を通して觀る。關西から江州を經て日本海に沿った北陸路を奥州青森まで結ぶ1,0055,3kmに及ぶ鐵路、“日本海縦貫線”が大正十三年(1924年)七月三十一日に全通して百年、東海道・東北本線を業界では“表縦貫線”と呼ぶのに對し、北陸本線・信越本線・羽越本線・奥羽本線のそれぞれ一部區間の接續によって青森までに至る鐵路は“裏縦貫線”と呼ばれ、私も過去に鐵道旅行で利用したことがある。文字通り“分け入る”山間部のカーブの多い急勾配、スイッチバッグなどからは、日本の急峻な地形に挑んだ土木作業員たちや乗務員、また乗客たちの勞苦が車窓から偲ばれ、かういふ面影は現役の鐵路と云ふ活きた姿で、これからも傳へていきたいものだ。しかし時代のはさうした風情よりもヒトと物質の速達性を要求し、旅客はシンカンセンに取って代はり、かつての大動脈は第三セクター化され、線路はつながってゐるが路線は各社に分斷──切り刻まれて、かつてのやうに一枚の切符で鐵道旅行が樂しめない時代になってしまった。物資輸送路としてはまだ一本でつながってゐるだけに、なにやら荷物が羨ましいやうな。そのシンカンセンも、關西から北陸へ向かふにはかつての在来線特急のやうに一本では辿り着けず、敦賀での乗り換へを強要されるなど、現状ではまだ利便性を果たしてゐないところに、すでにシンカンセン構想が時代遅れになってゐる現状を見る氣がする。信越本線は上州高崎から碓氷峠を越えてからさらに信州の山間を越え、直江津で北陸本線のあとを受けて越州新潟に至るが、信州域は長野新幹線(※のちに北陸新幹線)の開業によって橫川から先、碓氷峠の線路そのものが消失、(※碓氷峠唯一の驛だった熊ノ平 述者藏)輕井澤から先は地域輸送の第三セクターしなの鐵道、えちごトキめきラインと分斷されてはゐるものの、まだわずかでも“國鐵”時代の雰囲氣が殘ってゐることに安堵して、私の旅で追いかけてゐるのはしょせん戻らぬ「過去」であり、その決して辿り着けぬ目的地のために、今日も私は旅情に駆られてゐる。
2025.10.16

濱松市美術館からさう遠くない場所に、遠州鐵道奥山線の廢線跡隧道があるとのことで、べつに廢線マニアではないが、せっかく旧東海道探訪以来やって来た静岡の大都市濱松である、旅の思ひ出にと立ち寄ることにする。大正三年(1914年)に開業した輕便鐵道が母体だったことが現在は遊歩道に整備された廃線跡脇の案内から窺へ、小さな車体に伸びきったパンタグラフの姿が、なんとなく可愛らしく映る。昭和三十九年(1964年)に廃止された後、線路跡の一部は遊歩道となり、今回訪ねた亀山トンネルは當時の雰囲氣をよく殘してゐるものと思はれ、鐵道の本當の魅力は、人が手を伸ばせば届くやうな“近さ”にあるものと思へた。
2025.10.15

静岡縣の濱松市美術館へ、「大ガラス絵展」を觀に行く。ガラス板の裏側から繪付けするこの美術は十三世紀のイタリアに始まるとされ、三百年後にはヨーロッパ全土に廣がり、王候貴族の求めに應じて耶蘇教などから取材した宗教繪画が多く制作される。(※フラッシュ無しで撮影可、 以下同)やがて十七世紀に東インド會社との交易により明末清初の支那にもたらされ、清朝では故宮で独自にガラス繪の制作が行なはれるやうになり、逆にヨーロッパ向けに輸出されるやうになる。その清朝製のガラス繪が、今回の展示でもっとも私の目を惹く。東洋古来の技法と西洋繪画が出逢ひ、融合する前の戸惑ひによって醸し出される、どこの國ともつかぬ不思議の世界、やがてガラス繪を自家藥籠中のものとした清の画工は、美人の眼差しにそこはかとない淫靡さすら漂はせ、見る者を妖界に誘ひこまんとする──大陸續きの西洋藝術をたちまちおのれの技術に呑み込んで、しっかりおのれの作品に仕立て上げる支那數千年の底力を見せ付けられたやうで、江戸時代に清から長崎經由で日本に傳はり、日本で制作されたガラス繪がたちまち霞んでしまったのは、間違ひなくあの美人のいけない眼差しのせいである……。
2025.10.15

話しに聞くだけで充分、見るべきものでもないことを重々承知の上で、道頓堀を見物しに行く。たしかに、夷人觀光客どもだらけ、ニッポン人がゐないわけではないが、それらに埋没してあまり見當らず、その雑多ぶりは國際色などと云ふ小綺麗なものとは程遠い、ただ猥雑な巷でしかない。これが、萬博からでは見えてこない夷人蟠踞の實際。戎橋界隈などはその極みにて、傍に建つ松竹座を見上げながら、いよいよこんな穢い街に成り下がってしまったのなら、来年五月いっぱいの廢業など待たずに、いっそ今、歌舞伎もろとも滅んだはうが良いと思った。
2025.10.14

旧東海道大津宿の外れ、逢坂山の麓にある蟬丸神社の下社を、旧中山道・旧東海道探訪以来、久しぶりに訪ねる。その時は神主家が斷絶したために管理する者がゐなくなり、境内は荒れ始めて異様な雰囲氣が漂ひ、社務所が前面の雨戸を殘して崩壊してゐるのを目撃するに至って、つひに恐ろしくなり逃げ出した思ひ出がある。その後、令和になってから有志の寄付金によって境内の大改修が行なはれたやうで、本殿は小綺麗になり、崩壊した社務所は取り拂はれ、境内がなんとか無住の社らしく整備されてゐるのを見て、少し安堵する。神主は不在でも御神体はここにおはす……、と思ってから、今月は“神無月”、出雲へ出掛けてここは留守ではないかしらん、と氣付いたが、御縁があってここへ来たのだからと、しっかり参拝す。
2025.10.14

四天王寺にて師匠と嵐家のご先祖に今年四度目の挨拶に伺ったあと、四天王寺寶物館の秋季名寶展「西門(さいもん)─夕陽の彼方の極楽浄土─」を觀る。四天王寺は平安時代以降、浄土信仰の一大聖地となるが、そのきっかけは寛弘四年(1071年)に金堂六重寶塔の中より突如“出現”したとされる、「四天王寺縁起」のなかの一文、『寶塔金堂相當極樂土東門中心』によるもので、このいきなり發見された緑起を聖德太子の真蹟と信じた平安時代の人々は、四天王寺こそが極楽浄土への入口と解釈し、極樂往生を心から願ってゐた貴族たちや天皇家は、こぞって四天王寺に寄進云々。實は、この國家權力者たちの経済的な後ろ盾こそが寺側の狙ひで、去ぬる天德四年(960年)の火災で堂宇を焼失した四天王寺は、多額の復興費用を得るために縁起を作成し、極樂往生を願ふ貴人の心理を巧みに利用云々、聖德太子ゆかりの名刹と云へども、やはり先立つモノはなんとやら、聖地と云へども俗世に在る以上、やはり俗の道理に従はねばならぬところに、矛盾といふ煩悩はありますのじゃ。浄土信仰の中心である西大門(西門)は、縁起によって集まった金品によってこの時にはじめて荘厳な姿に建てられ、いらい西に沈む太陽を見て極樂浄土を想ふ「日想觀」など、浄土信仰の拠り所として令和現在に續く。ちなみに、目を覆った状態で西門の下からその先の鳥居の下に辿り着ければ極楽往生できる、といった信仰が中世より行なはれてゐるとのことで、能「弱法師」はこの考へも下敷きになって出来てゐのかもしれないと感じた私は、實際に試してみたが……。極樂へ行くには、まだまだ修業が足りないやうぢゃ。この日、境内いっぱいに古本市と骨董市が開催されてゐた。東京の大古本市とはまた趣きの異なる、中身の濃い深い古本市で、じっくり探して回ったら抜け出せなくなりさうだったので、時間と財布を勘案し、東京では目にしたことのない濃い物だけを厳選して、ほどほどで抑へる。いつもは御挨拶だけで引き上げる四天王寺で、はじめて濃い時間を過ごしたのが、今日の御縁だ。
2025.10.14

大阪・關西萬博が本日にて閉幕云々、『いのち輝く社会未来のデザイン』なる主題のもと、半年間にわたるお祭り騒ぎから透けて見えきたのは、金錢問題から初日に開場出来なかった忘國パビリオンに象徴される、うはべのばかりの綺羅では糊塗しきれなくなってきた現實社會の數々。どの國が、ではなく、どの國も。私の惡癖で云ひ出したらキリがなくなるのでこれ以上は宣はぬが、實際に六月十九日と八月二十日の二度見物し、バンパクと云ふことだけで純粋に浮かれてゐる余人を眺めてゐるより、大屋根リングを歩き乍ら「(この萬博は)ここから眺めてゐるだけで充分ですね……」と話してゐた二人づれの高齢男性の感想はうが印象的であり、また私の氣持ちとしても近かった、EXPO2025。その現實を、私の目と、耳と、足で觀られたことは、大いに幸せである。
2025.10.13

映画「病院坂の首縊りの家」(昭和五十四年 東寶)のロケ地探訪で、三重県伊賀市の伊賀上野へ行く。當地は忍者のふるさと云々、觀光の目玉にせんと力を入れてゐるがそちらには興味はなく──亡き母方の伯父曰く「ウチの先祖は忍者だったんだ」──、伊賀鐵道線の“忍者市驛”こと上野市驛を下車すると、“吉野市”と云ふ設定で撮影が行なはれた車坂町をめざして、旧伊賀街道を歩く。映画のロケが行なはれた當時はまだまだ旧城下町の風情が濃厚に殘り、それが因習と因縁が複雑に絡み合って引き起こされる數々の悲劇を強烈に印象付ける隠し味となってゐたが、その町並みも令和現在ではだいぶ建て替へや空き地化が進んで、さすがに昔日の風情は薄まってゐる。が、一軒だけ撮影當時のままの家屋を見つけて、ここまではるばる来た甲斐があったと、ニンマリする。“吉野市”を訪ねたもうひとつの目的は、伊賀鐵道に転職して久しい元東急1000系に會ふこと。モーター音とふわりとした乗り心地は東急時代のままたが、“顔”は無惨な整形のために見る影もなく、線路の状態が良くないために走りがギクギクしており、この車両の良さがすっかり無になってゐて殘念な氣持ちに。ただ、帰りにやって来たのが往年の姿を留めた車両でホッと嬉しくなったが、やはり却って侘しくもなる。
2025.10.13

埼玉縣坂戸市の坂戸よさこいのなかで開催のさかカルフェスに今年も参加し、現代手猿樂「おわら娘」「春雨おもん」の二曲をつとめる。どちらも何度か舞臺にのせてゐる曲だが、毎回“仕上がり”の變はるのがつとめてゐて樂しい。いつでも“初演”だから、十年樂しく續けてこられたのだらうネ。
2025.10.12

川崎浮世繪ギャラリーの「月岡芳年と小林清親」展を、前期と後期通して觀る。江戸中期に始まったとされる浮世繪は、明治に入って西洋画の技法が取り入れられたことで、真の完成をみる。しかし江戸由来の木版画の技法では、膨大かつ急速に流入した新文明の姿を捉へきるには限界があり、やがて“新版画”へと發展的に消滅する。人は亡くなる前、物が消滅する前、最後の輝きを放つことがある。江戸後期に生まれて幕末明治に活躍した月岡芳年と小林清親の時代がまさにそれで、江戸中期の洋風画同様に異國の猿マネで終はらない独自の感性で吸収し、(※月岡芳年「新形三十六怪撰 蒲生貞秀臣土岐元貞甲州猪鼻山魔王投倒圖」明治二十三年 述者藏 )それぞれにそれぞれの人生經験に裏打ちされた画風の變化を經て、新しい時代らしい新しい浮世繪へと昇華させたところに、江戸藝術集大成としての価値があると思ふ。(※小林清親「不忍池畔雨中」 明治十三年頃 述者藏)江戸時代を通じて様々な“巨匠”が現れた浮世繪において、最後に月岡芳年と小林清親を得たことは、私たちが生きる後世にとっても幸運であった。
2025.10.11

鎌倉宮で恒例の「鎌倉薪能」に行く。人災疫病禍の時に特別動画配信で觀たことはあるが、現地へ觀に行くのは今回が初めて。「羽衣」のシテを金春流の八十世がつとめるとのことで、それを樂しみにしてゐたのだが、會場に着いて席に座って番組を見たらシテが全く興味の無い息子の八十一世にすり替はってゐて、なんとも酷い詐欺に遭った氣分にさせられたが、秋の晩に深緑の懐に抱かれて觀る傳統藝能、と云った全体像を樂しむやう頑張りながら、邪念のあまり謠ひを一句間違へたと云ふ俗界の天人舞を眺める。しかし、古式の復活再現とやらで“○○の儀”なるのそのそした素人芝居にいくつも付き合はされたのには閉口す。……たぶん、次回からはこの催しに行くことは、ないだらう。
2025.10.10

三越劇場で、前進座の「笑いごとではありませぬ!」を觀る。“歌舞伎”と銘打たない前進座の芝居を觀るのはいつ以来やら、今回の新劇物は第二次大戰と云ふ時局下、五十三席の艶噺を“禁演落語”として自ら封印し、軍部が要求する“國策落語”をもって大本營に協力しながらも翻弄される、或る噺家一門と周辺の人々を描いた元前進座女優の脚本を、文學座代表が演出した作品云々、キナ臭い時世下に庶民娯樂を代表する落語がいかに戰争利用されたのか、なかなか興味を覺えたものだが、「落語とは?」についての説明的な長臺詞や、大本營の訓令を丸讀みするなど退屈な場面が頻出し、期待外れ。そもそも出演者が誰一人としてその役の人物“らしく”見えず、舞臺役者特有の演技臭ばかりが強烈なあの見當外れな役づくりは、一体何なのだらうか。出征して戰地で深い“傷”を負ひ帰還した若い噺家は、單なる令和現在(イマドキ)の若いイケメン兄チャンにしか見えず、前座の弟弟子は國策落語を口演する場面が資料的に目を惹いただけで輕妙な人物像は噺家のそれとは異質で、この二人の師匠は黙ってゐたら舞臺にゐることを忘れてしまふほどの存在感のなさ!開口一番の日替はりゲストに出演した古今亭文菊がきっちり「權助提灯」を聴かせて、それだけが劇中における本物だっただけに、その後で出て来た噺家役たちの拙さを却って際立たせてしまったのは皮肉だ。(※撮影可のカーテンコールにて)國策落語を強要する三枚目がかった演藝好きの少将だか少尉だかは、あとで肺病のドサ回り女形役者の二役で出演、白粉化粧をした姿(なり)で狂亂する演技のはうが、軍服を着てゐなければ全くさうは見えない少将だか少尉だかよりも、よっぽど本役に見える。“聲”だけの出演で、あとは共演者の演技で存在が示される犬の壽限無が隠れた主役であるのが作品のミソであることはわかったが、共演者たちが以上な力量不足ためにせっかくのサゲも際立ず、これではもう、笑ふしかありませぬ!
2025.10.09

五日深夜の東急田園都市線梶が谷驛構内における列車の衝突脱線事故、十年前の信號設定ミスが原因云々、自動列車制御装置(ATC)がホームに進入する上り各停に“緑(進行)”信號を出してゐたため、約48Kmの速度で走行してゐた各停はそのまま回送列車に衝突云々。──つまり、十年も前からいつ列車同士が衝突してもおかしくない非常に危険な可能性のあるなかで過密運行がなされてゐたわけで、私も田園都市線はたびたび利用し、また梶が谷驛も通過してゐるが、よく今まで無事でゐられたと恐ろしくなる。また、十年と云ふ長い時間ミスに氣が付かなかったところに、また設定ミスをやらかしたヒトがゐたと云ふところに、この鐵道會社の現場の質をはっきり見た氣がする。このあってはならぬ大事故は、東急を日本一の企業に育て上げた五島慶太翁への、侮辱でもある。
2025.10.08

同じ曲を流派と演者を入れ替へて繰り返し放送してゐる感のあるラジオの謠曲番組で、後場のみながら珍しく「大會」が放送されて、つひ耳をそばだてる。恩ある比叡山の僧正のために釈迦の説法の様子を再現して見せた天狗が、佛法の冒瀆だとして帝釈天に懲らしめられる曲だが、この場合は惡意があったわけでない天狗ばかりが責められて、僧正は不問扱ひ──實際の舞臺では放ったらかしのやうに映る──など、作品の構造としては“……?”が目に付く曲ながら、シテが後場でかける“釈迦”の面に象徴される壮麗荘厳の、裏の一面を暗示した曲とこちらで勝手に解釈しながら聴くと、佛法もしょせんヒトの手で都合よく創られた物語にすぎないことが、仄かどころではなく見えてくる樂しみが、見えてくる。
2025.10.07

ちょっと一休みしてやらうと立ち止まり、何の氣なしに空を見上げて、薄雲を拂はんばかりに白く輝く満月に、今宵は十五夜であることを思ひ出す。昨夜にはさうとわかってゐたくせに、當夜にはそのことをすっかり忘れて、空を見てあッと思ひ出す、そんなおのれの輕薄さに呆れるばかりじゃ。「うさぎ、うさぎ、なに見てはねる……」月の宴。月の縁。ゆゑに聲を掛けてくれたのかもしれない。わたしだけが知る、わたしだけの愛月。
2025.10.06

去る五日23:04頃、東急田園都市線の梶が谷驛構内にて、見習ひ運転士が運転する回送列車が、上りホームより下り方向の引き込み線に入り切ってゐない状況で下り方向から進入した上り各停列車とポイント付近で衝突、回送列車の最後部が脱線云々、怪我人が出なかったのが幸ひなれど、田園都市線は本日の始發から澁谷~鷺沼間で運転見合はせ云々、原因は見習ひ運転士の回送列車が定位置まで入り切らずに停車してゐたため云々。東急がまたやったか、と呆れる。十年近く前にも、東橫線の元住吉驛で、降雪のためポイントレールが正常に作動しなかったために、待避中の各停へ追い越すはずの隔停が衝突する大事故をやらかしており、私はいまだにあの驛を通るたび、當時を思ひ出すくらゐである。列車の衝突脱線事故など今どき海外くらゐなものかと思ってゐたら、我が國では私鐵最大手のはずの東急サンだけが、かうしてやらかす。週明け平日の朝から、激混み路線が運転中止、利用者の心中をお察しいたす。
2025.10.06

お庭のムラサキシキブが色付きはじめた。夏のまとはり付く暑さは去り、サラリとした風が吹き抜けるやうになり、まだ衣替へに踏み切れるほどではないが、私にとっては過ごしやすい冬が確實に訪れる先触れを、私の目には心地よい紫の實が、私に囁く。あとはいい氣になって、体の調子を崩さぬやう。夕方には、明日の十五夜が良いものになりさうな先触れが、私の目を樂しませる。
2025.10.05

高市早苗氏が與党の新総裁に選出云々、元首相の二世(ボンボン)がさうならず、まずは心底安堵する。前任があまりに酷過ぎたので、今度の新総裁にはどうしても期待をかけたくなる。このあと首相に選出されたら、まずは何かと庶民の神經を逆撫でする數々の惡政を、ひとつづつ掃き出して行ってほしい。そして私が何より期待するのは、支那人をはじめあまりに入り込み過ぎ、のさばらせ過ぎた夷人どもの大掃除である。日本はいま、本當に正念場にあると私は痛感してゐる。これからも日本國としての自立を維持出来るか、これからは不逞夷人どもの掃き溜めと成り果てるか──
2025.10.04

千代田區一番町のJCII PHOTO SALONで、「─報道写真家 沢田教一のまなざし─ 戦渦を生きる人々」展を觀る。ベトナム戰争下の1965年、米國軍に従軍の報道カメラマンとして戰火に烟るベトナム國土、そして翻弄され犠牲となるベトナム民衆たちの事實を世界中に廣く傳へ、1970年10月28日にカンボジアのプノンペン近郊で移動中に銃撃に遭ひ34歳の若さで亡くなった澤田教一氏の生き様は、戰争とは何かをその身を以て端的に示した、報道人の魂そのものである。氏がカメラに捉へて教科書にも載った「安全への逃避」(1965年9月)、そして長閑に廣がる田野の畦道に整列した米夷の軍用ヘリコプターと上陸した米夷兵たちが被るヘルメットの群(1967年5月)──その決して相容れない異様な光景に題名は付いてゐないが、「平和への侵略」と私は呼びたい。澤田教一氏が亡くなった1970年は、日本では大阪千里丘陵で萬國博覧會が開催された年であり、南北統一を巡って米夷に嘴を突っ込まれ乍らドンパチの最中だったベトナムも「ベトナム共和國」として参加、資料によれば戰火にめげない力強い民衆の姿を示し、現地の綺麗なお姉さんたちによるおもてなしで見物客を迎へた、やうだ。……しかし、うわべばかりなお祭り騒ぎでは何ら解決にならないことは、大阪で二度目となる今回の萬博でもよく示されてゐる。
2025.10.03

東京都墨田區東向島の東武博物館で、企画展「戦時下の東武鉄道 ~残された文書からみえるもの~」を觀る。戰況が目に見えて惡化していった第二次大戰下、なおも強氣な“大和魂”恃みで軍需政策を押し進める大日本帝國と、その協力を求められた鐵道會社の苦闘を、東武鐵道に辛うじて殘された斷片的な公文書より讀み取る。昭和五十八年に廢止された東武鐵道唯一の非電化線だった熊谷線は、もともと日光軌道線の一部を單線化して捻出した線路を転用して昭和十八年に部分開通したと考へられる軍事用路線であり、(※パンフレットより)それは敗戰要因のひとつであった決定的な資材不足を象徴する事例と云へる。さうした極限下における懸命な“総動員”ぶりも虚しく、米夷の空爆は日増しに激しくなり、車輌や設備の多くを破壊されて追ひ詰められていく哀れさや、三月十九日深夜、玉ノ井驛(現 東向島驛)に宿直勤務中に大空襲に遭った女性驛員は、驛長の判斷通り待合室に避難して奇跡的に助かったが、「ここにゐたら結局は死ぬんだ」と外へ飛び出して行った二名の男性驛員はその後行方不明になった証言など、ヒトのチカラと運命の力との落差について、もっと學ぶべきものが多く含まれてゐることを示唆してゐる。終戰後に侵駐した米夷に對する東武鐵道社員の感情や戸惑ひを生々しく傳へてゐるのが、昭和二十年十一月三十日付けで通達された「終戰三ヶ月進駐軍を迎へて」と題のついた、十三ヶ條にわたる約二枚半の手書き文書で、“敗戰國民だからと卑屈になることはない”と激励しつつ、米兵が駅務室に入って来たら椅子を勸めて用向きを訊ねよ、と下へも置かぬ應對を指示し、但し取り囲んで物をねだったり、媚を賣るマネ(實際に女性社員にゐたやうだ)を固く戒め、“進駐軍は事情が分かり、理屈があれば無理は云はない”ヒトたちとする。しかし文書冒頭の、“半可通の亞米利加事情を聞いて鵜呑みにしてはならない”また文書中程の、“日本人の様に分からぬ屁理屈は云はない”は、現代にそのまま通じる痛烈な指摘でもあり、今日付の通達としても疑はないであらう皮肉な新鮮さに、貴重な価値があると思った。
2025.10.02

全國四十七都道府縣の郵便配達輕バン188臺について、配達員への法定點呼を怠った罪により運行停止処分云々、官營が民營化したことによる質の低下の、典型を見る思ひがする。官營であれば配達員もお役人属──公務員だったわけで、法令によって動く立場ゆゑに酒氣帯びなど斷固あり得なかった(か、官特有の巧妙さで隠蔽したか)のだらうが、我が地域でもいつであったか配達員の制服を着たチンピラ崩れ數名がコンビニで買ひ物してゐる姿、また私が交差點の橫斷歩道をもちろん青信號で橫斷中、さういふ風体のオッサンが運転する郵便輕バンがお構ひなしの猛スピードで左折侵入し、そのまま私の鼻先を通過して行った事例があったくらゐだ、かうした不祥事を耳にしても、「……あるだらうな」と驚きもしなかったものだ。民營化以降、あまりに小刻みな料金値上げのために、私はいまハガキが一枚いくらなのかも分からない。國力が落ちると、連動して質も信用も堕ちる。そしてヒトは、自覺もなくそれに流される。
2025.10.01
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