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ラジオ放送の和泉流狂言「伊文字」を聴く。いまだ独り者の男が太郎冠者を供をつれて清水寺に参籠して得た靈夢に従い、指定の西門まで赴くと、果たして妻となるはずの一人の女が現はれ、伊勢寺本に住んでゐると和歌に詠んで姿を消すが、誰何した太郎冠者は“伊”のあとを聞き取りそびれてしまい──伊勢と思ひ出すために往来へ“歌關”を設けて、道行く一人の男をつかまえて訊ねる試みと後半の謠ひがかりに風雅な余韻を殘す一篇だが、良縁のカミ頼みは令和現代ならば解説でも云ってゐた通り、さしずめ“マッチングアプリ”と云ったところだらう。いまや数十%の男女が出逢ひを求めてに頻用してゐるとか云ふマッチングアプリ、私の知る不惑男がそのやり取りだけで知り合った、但しカオも見たことのない連れ子(コブ)付きの女に夢中になり、本氣で結婚にこぎ着ける氣でゐたが、ある時からプッツリ連絡がとれなくなってひどく落胆してゐると聞き、縁の無い者はなにをやっても縁が無いものと、良き後學を樂しく見せていただいたものである。
2025.05.31

JICA橫濱 海外移住資料館の企画展示「サンノゼ・ジャパン 受け継がれる移民の想いと心」を觀る。1860年に米國カリフォルニア州へ移住した二十三人の支那人は持ち前の繁殖力でたちまち大世帯の勞働力となったが、そのぶん賃金水準を押し下げる結果をもたらしたため米國人の反中感情が高まり、それを背景として支那人の米國内における自由を制限した「中国人排斥法」が1882年に成立、その代はりに當地へ移民としてやって来たのが二十七人の日本人青年たちで、1890年のこと。 (※特集パンフレットより)農園勞働者として日本から移り住んだ彼らが、かつての支那人街に集まって住んだのが日本町の興りにて、かつて米國内にはさうした日本町が四十六箇所存在したが、太平洋戰争中の強制収容など時代に淘汰されて現在ではロサンゼルスとサンフランシスコのほか、シリコンバレーに臨むにサンノゼの三箇所のみ云々。(※同)ここに生まれ育った日系人たちの結束によって、だいぶ米國寄りながらニッポン風俗が守られてゐる一方、はじめから米國文化のなかで育った日系青年たちはかつての“日本町”ではなく、“Japantown”と御當地語で呼んでゐるところに、余所の國に移り住んで祖國の誇りを守り傳へることの難しさと厳しさを痛感する。私にはとても海外移住は出来ないだらう。あくまで日本にゐて、ニッポン人として誇らしくしてゐたい私に、自分の生活文化が異國の風に晒されて埋没していくなど、とても耐えられないはずだからだ。
2025.05.30

町田市民文學館ことばらんどで、「ことばのカタチ展」を觀る。目には見えない“ことば”が持つカタチやチカラを、詩人の書いた文字や繪本作家の繪、またマンガを通して視覺化し、“ことば”とは耳と目の密接によって人の心へ響くものであることを訴へる。(※一部を除き展示室内撮影可)その“ことば”と云ふ目に見えぬものによって人がなにかの行動をおこした時、人は目に見えないものに對し、いよいよ恐れを新たにする。それからも“ことば”そのものは目に見えることはないまま、しかし永く人の心に棲みつき、やがては人を煙に巻く方便となって、私たちの肉体を操りはじめるのだ。
2025.05.29

今年の春先に伐られてしまった近所でもっとも美事だった百日紅の木が、見ないうちに切り株から新しい芽が出て、枝に成長して、命はなほ續いてゐることを、私に知らせてくれた。もしかしたら夏に、少しでも花を付けてくれるかもしれない。ああ、生命のなんと逞しきことよ!その近所にあるスーパーマーケットへ精米があるか覗きに行ってみると、いつもは真っ先に賣切れとなる5kgで¥3700が珍しくまだあったので、即買って行く。國民の生活よりおのれのフトコロを第ーとする、いかにも令和商人な根性の露呈が、このコメ騒動の正体なのだ。かつて環境相時代にレジ袋を有料化していまなほ顰蹙モノな橫須賀(スカ)のボンボンが、タナボタで農水相として中枢に返り咲き、「コメを二千圓台に下げる!」と夏の選挙對策に躍起となってゐるやうだが、期待より白々しさが先に立つのは、このいかにも便乗値上げ的なコメ騒動が、あまりに長くダラダラと續いてしまってゐるからにほかならぬ。
2025.05.28

東海道かわさき宿交流館の企画展「川崎が生んだ詩人 佐藤惣之助」を觀る。明治二十三年(1890年)十二月三日、東海道川崎宿の旧佐藤本陣に次男として生まれ、少年時代に商人への道を歩み始めるもやがて文藝に目覺めて俳句を詠むやうになり、戯曲の執筆を經て大正時代には詩人として名を馳せる。(※旧佐藤本陣跡付近に建つ記念碑 述者撮影)詩とは、その人の内面世界を文章といふ形を借りて視覺化したひとつの自己満足にて、作者と世界を共有できる者でなくては到底理解できない。展示の詩を見ても、私のやうな情の淺い者にはなにか寝言のやうに聞こえるばかりで、その深層世界までにはとても心が及ばぬ。(※川崎稲毛神社に殘る詩碑)昭和に入ると歌謠曲の作詞家としても活躍し、私もなんとなく耳にある阪神タイガースの應援歌「六甲颪」は昭和十一年の發表など、現在に歌ひ繼がれる勇ましい曲を殘す。彼の幅廣い作詩活動の根底には、大正十一年の初夏から夏にかけて沖縄を旅し、現地の古謠を習ひながら自ら三線を鳴らして遊んだ經験もあったやうで、それだけの感性を持つにはやはり、それだけの“余裕”を持った家柄も必要らしいと、私は宿命にも似た思ひにふとはまり込む。
2025.05.27

古い着物の洋服への仕立て直し(リメイク)は、モノとしての見た目には面白いが、見ていいのと着ていいのとは別とはよく云ったもので、たまに外出着としてゐる人を見かけると、だれもが案外似合ってゐないもので、それはやはりただの古着でしかない。ところが、都心忘所で珍しい浴衣柄のブラウスを着た若い外國人女性を見かけて、よく似合ってゐるナ、と初めて感心する。それはやうするに、人が服を選んでゐるのではなく、服のはうがヒトを選んでゐる、と云ふことなのだ。
2025.05.26

旧日光道中千住宿の商店街で開催された「1DAYパフォーマンス表現街」に初参加し、現代手猿樂「源氏紫」を舞ふ。以前に銀座の金春通りで金春流の路上能を觀て以来、いつか自分もあのやうな形で手猿樂をやってみたい……、と願ってゐたことが、今日に實現する。見物のなかには、「テサルガクって、なんだ……?」と思って足をとめてくれた人もゐたやうで、まさに願ったり叶ったり。自由で多彩な表現を旨とする催しのため、會場の商店街とその周辺では、様々な人たちがそれぞれのやり方で自分を表現してゐて、その多様性には觀てゐてかなり學ぶべきものがあった。長期予報では☔の時間がコロコロ變って今朝までヤキモキさせられたが、昼には晴れ間が覗くまでに回復、まさに天の加護。
2025.05.25

「蝶々夫人」と云ふオペラがどんなものなのかを觀たくて、初めて新國立劇場“オペラパレス”の客席に座る。明治初期のナガサキを舞薹に、藝者に身を落とした没落武家の娘“蝶々さん”が、「本當に結婚したいアメリカの妻」と放言するやうな不實な米夷海軍男のために一途な愛を一方通行のまま踏みにじられる、權妻悲話。第一幕の開演早々、“蝶々さん”の登場直前における件の放言に、「なんだ、このオトコ……」とすっかり興醒めしたとたん、“蝶々さん”ほか和装のニッポン人役のオーケストラにのせて異國語を吠え續ける様が、西洋人の猿マネとしか映らない強い違和感を覺えてしまひ、コリャ見るに堪へぬと第一幕後の幕間で劇場から逃げ出す。もともとかういふテの洋モノを私の耳目は受け付けないくせに、この歌劇を一度觀てみたいと思ひ立ったのが、一年前。しかしその理由が、いまではどうしても思ひ出せない。一時的にふと氣が向いただけだったのかもしれないが、しかしあれから一年も意識のなかに在ったのだから、やはりなにか“目的”はあったはずだ。……まあいい。日本の傳統藝能に拒絶反應を示す日本人の感覺が、「ちゃうどこんな感じか」とわかったのがお土産だ。幕間で逃げ出す途中、一階ロビーで身なりだけは小綺麗な婆さんが、座席のことで何か氣に喰はなかったらしく、場内係にカラスのやうなコヱでいきり立ってゐた。オペラを觀るヒトは、自分でもああやって吠へたくなるものなのだらうか。
2025.05.24

千代田區一番町のJCII PHOT SALONで、「近藤福雄作品展 ガラス乾板で写した 佐渡万華鏡」を觀る。明治三十三年(1900年)に佐渡島の富裕農家に生まれ、いかにもさういふ生まれの人らしく十七歳から當時高価なカメラと冩真に凝りはじめ、大正から昭和戰前にかけて地元佐渡島の様々な場面を撮り歩き、昭和三十二年(1957年)に亡くなった後は生前に設立に尽力した佐渡博物館へそれら膨大なガラス乾板は収藏され、そしてそのままとなってゐたものを、昭和五十年代に取材で佐渡島を訪れた東京の職業カメラマンによって8800點が發見され、貴重な世相資料としてやうやく日の目を見る。(※最盛期の佐渡金山 述者藏)貴重な文物だからと博物館や美術館に寄贈したところで、それが學藝員など職員の“好み”に合致するものでなくては資料として活用されることもなく結局は永遠に眠らされる運命のある現實を、端的に示した好例だ。 (※近藤福雄撮影の冩真も掲載された岩波写眞文庫73「佐渡」 述者藏)佐渡島を訪れた中央(東京)の要人たちとも交流し、柳田國男からは記録を殘す重要性を學びながらも、アマチュア冩真家を通した近藤福雄(こんどう とみお)の記録した佐渡島は、職業人(プロ)のやうな凝った構図ではないぶん素直な目でその場面が切り取られて、東京にはないのんびりとした時間がそこには流れてゐた歴史を、見事に捉へてゐる。(※案内葉書より)藝者たちを撮った冩真も多く、夏場の海や井戸端で乳房を露わしたお姐さんたちも捉らえてゐるのも土地柄か。大正中期に假設舞薹で“佐渡寶生”の能が演じられてゐる様子を冩した一枚は、猿樂がかつては民衆娯樂だった古態をよく傳えてくれる逸品、私の憧れる姿をはっきりと記録してくれて、感謝を述べたいほどであった。
2025.05.23

日光道中は旧千住宿にて、横丁の突き当たりに寺院の赤門らしきを見かけて、立ち寄ってみる氣になる。それはズバリ“赤門寺”の通稱をもつ、三宮神山大鷲院勝専寺と云ふ浄土宗の寺院にて、創建は文應元年(1260年)、日光道中が整備された江戸初期には德川将軍が鷹狩りの際に休憩したり、日光門主の御用をつとめるなど、本陣の格式を持つ宿場の中核云々、“三宮神山”と云ふ山號は、かつて觀世音、稲荷神、毘沙門の三体を併祀してゐた歴史に因む云々、神佛習合だった時代の面影を傳へるものとして、私には興味深い。朱塗りの山門もさることながら、赤煉瓦づくりの塀が古刹の景觀としては特異で、やはり目を惹く。德川時代が過去となり、新しい時代を取り入れやうとしてそのまま旧跡化した、そんな過程(じかん)の化石を見るやうな面白さを覺ゆ。
2025.05.22

東京都葛飾區のかつしかシンフォニーヒルズで開催中の「第33回 葛飾の美術家展」に、平成八年(1996年)四月に國賓として来日したクリントン米國大統領が時のミカドに贈ったセオドア・フォレスの「堀切菖蒲園」が特別展示されてゐると聞き、私もドレドレと興味を覺えて出かけてみる。報道屋が話題に採りあげたらしく、開催初日には六百人もの見物人が押し寄せて主催者たちを「……地獄だった」と云はしめた件の名画は、入口脇のややわかりづらい位置の展示ながら、油繪の具を繊細に塗り重ねて描出した晴明の“風”を感じる。(※彩色古冩眞にみる昔日の堀切菖蒲園 述者藏)主役である葛飾區在住の作家たちによる高水準な作品もそれぞれに觀應へがあり、作品づくりには才能のほかに、“教養”も大事な要素であることを教へられる。
2025.05.21

明け方から夕方まで風が強く吹き付け、晴天にしてムシムシとした暑さで、かういふ日は外へは出たくないのに、出なくてはこれからの予定が立たぬゆゑに仕方なく靴をはき、暗くなるまで右往左往。しかし、最後の最後に話しをひとつ進められて、ツマラナイものは瞼を閉じてやり過ごす德を知る。
2025.05.20

ラジオ放送の觀世流「屋島」を聴く。“勝修羅三番”の一曲、源義經の西海におけり華々しい武勇が語られるも、結局は生前の因果で修羅道の苦しみからは逃れられぬ様が、仕舞でもよく舞はれる人氣曲。私は仕舞としてのこの曲に、二度関はったことがある。一回は主催者の持ち前である思ひ付きな言動のためにお流れとなり、二回目は數年後に別の主催者のもと、新規蒔き直しに意外とよく滑る板の上で、スベらぬやうヒヤヒヤしながら、地謠方に巧く引っ張られて舞ひおほせり。武将物らしい勇壮な型の連續で、これがしっかり會得できたら余程の御大将になれる、そんな氣持ちのよい曲ではあるが、謠はれてゐる文言はいつ果てるとも知らぬ地獄の苦しみ、それは藝道にも通じるもので──……なんて考へ方が疑問だから、私は手猿樂師でゐるのサ。
2025.05.19

夏先取りなムシムシ氣候の昼、地元のスーパーまで買ひ物に行く途中の地區センター前廣場で、地域活性イベントが行なはれてゐた。帰り道に立ち寄ると、有志の方々が出店してゐる古本見世に、先日に私も寄付した本が何冊か出てゐて嬉しくなる。地區センターのロビーにある“ご自由にお持ち下さい”コーナーに出すと、明らかに転賣目的でごっそり持って行く総てが薄汚いヒトがゐて、それを何度か見かけて以来足が遠退いてゐるのだが、ここならば本當にその本を必要としてゐる人が買って行ってくれるはずだ。と云ふことで、私も一冊見つけたので、買っていく。本とは讀むもの、ビタ錢稼ぎどもの道具ではないのだヨ。
2025.05.18

學習院大學内の霞會館學習院ミュージアムにて、今日まで開催の「華族文化 美の玉手箱 芸術と伝統文化のパトロネージュ」展を觀る。明治の西洋かぶれな風潮に日本古来の職人技が廢れていくなか、その西洋かぶれのお手本役を担はされた天皇家一族とその取り巻き華族たちに需要があったがゆゑに命脈を保てた、日本の繊細な傳統工藝品の特選展。(※案内チラシより)公式の場における洋装の生地は國産物、織や刺繍などには日本の傳統技術を用ゐるやう意向を示すことで、我が國古来の傳統技術の存續に貢献した昭憲皇后はまさに、“パトロネージュ”──藝術家支援の模範を示したわけだが、かうした貴人の需要からは漏れた傳統文化や技術の多くがこの時代に多く廢滅してゐる事を思ふと、パトロネージュと云ふコトバには、「運命の籤引き」のやうな響きを感じてしまふ。場所と内容ゆゑか、それまでの図書館を全面改装して今春に開場したばかりの博物館に訪れた、老若男女いづれも教養のありさうな人々に紛れ込んで見物した近代日本の傳統美術品のうち、やはり私は大正期の衣冠、そして裏に“カンニングペーパー”を貼り付けるための持ち物だった笏と、そのカンニングペーパーの實物(西園寺家旧藏)に目を惹かれる。(※案内チラシより)昔の貴人には切ったあとの爪先に紅を付ける風習があり、謂れはすでに定かではなくなってゐたやうだが、魔除けのまじないとも、消毒とも云々、このあたりに私は、日本人古来の感性が今日とは斷絶してゐることを感じ、今回の展示物に見るパトロネージュの對象とされた幸運な文物の陰では喪はれた文化も多いことへ、改めて思ひを馳せる。
2025.05.17

あとの予定を考へて、かなり早い時間に新橋驛前で恒例の古本市を覗きに行ったが、“覗く”どころではない面白き出逢ひに、あとの予定どころではなくなる。 それはまた明日以降のお樂しみに、と思ひながらヒトを嫌って入り込んだ高架橋下の道にて、今年の夏もまた蒸し暑くなりさうな予感を覺える。 その前哨たる梅雨も、しつこいものになりさうな予感。いざ現實になるまえに、決めるべきことはさっさと決めて、備へに入ったはうが賢明のやうだ。
2025.05.16

明治大學平和教育登戸研究所資料館の企画展「風船爆弾作戦と本土決戦準備─女の子たちの戰争─」を觀る。日本の敗色がもはや決定的な昭和十九年、想定外に圧倒的な米夷の攻撃に内心では狼狽へ、追ひ詰められながらも、まだ“大和魂”だの“カミカゼ”だのを恃みに勝てる希望を捨てられずにゐた大日本帝國陸軍は、つひに國際法の禁止事項──細菌兵器に手を伸ばす。PX細菌を搭載した氣球を偏西風にのせて米國上空に飛ばして散布する無差別攻撃計画と云ふ、この敗者の末期症状でしかない確信犯行為を後押ししたのは、「勝てば裁かれない」と云ふ見下げ果てた“勝てば官軍”根性であり、ヒトはジリ貧に陥るとここまで愚かになれるのかと、こみ上げる激しい嫌惡感に展示解説文を讀むのもいやになる。しかし、この禁じ手に用ゐられやうとしたケオプスネズミノミを媒介とするペスト菌は實験の結果、氣球が上昇する高度1萬㍍の零下50℃、氣圧も地上の4/1しかない環境下では死滅すること、もう一方で検討されてゐた牛痘ウィルスを散布して家畜類を空氣感染させる作戰は、「我が國の稲が秋の収穫時に焼却される報復に遭ふおそれ」があるとして中止、禁じ手を用ゐやうとしたわりに弱腰とも映るが、やはり人として良心の呵責もあったと、私は思ひたい。かくして氣球に細菌兵器を搭載する作戰は通常の爆彈や焼夷彈を搭載して飛ばす作戰に變更され、昭和十九年十一月三日、千葉縣一宮、茨城縣大津、福島縣勿来の三ヶ所から、和紙を蒟蒻糊で貼り合はせた手作り氣球による“風船爆彈”の第一陣が飛ばされる。米夷が最新鋭の爆撃機を開發してさかんに飛ばしてゐた一方で、楮原料の和紙と蒟蒻糊の手作り氣球で攻撃とはおそろしく時代錯誤な印象を受けるが、もはやそれしか米國本土を直接攻撃する術がなかったのが大日本帝國陸軍の實態であり、その協力をさせられたのが、學業半ばで劇場などを転用した氣球製造工場に各地から駆り出された、女子學生たちであった。(※案内チラシより)憧れのセーラー服も着られず、ヘチマ襟のツマラナイ“國民標準服”にモンペ姿で、厳しい寒さや蒟蒻糊による皮膚炎、望郷の念とも闘ひ、時には工場が示した図面の設計ミスを自分たちで計算して証明してみせ、強く訂正を求めるなどその勤勉さはすべて真實を知らされることなく利用されたものだと思ふと、爆彈攻撃と同等の悲劇と怒りを覺える。彼女たちがおのれの青春を犠牲にして作り上げた氣球が“敵國”にどのやうな効果をもたらしたのか、その唯一の報道が昭和二十年二月十八日付の朝日新聞『氣球爆彈米本土へ』の記事で、「時速二百哩 死傷者五百人」と傳えるが、實は誤報であったことは件の記事の上段に躍る、硫黄島上陸の米夷軍を日本軍が撃退したとの記事を見ても、納得がいく。上の知らせを耳にした女子學生の一人は感激のあまり泣き出したことが証言に見えるが、その感情は私のやうなその場を知らない者には推し量れない、“深さ”を感じる。(※同)大日本帝國陸軍の凋落を象徴した風船爆彈作戰──「ふ號作戰」は、水素などの原材料不足から唯一の報道より二ヶ月後の四月二十日の發射を最後として、二十九日に終了する。無條件降伏まで、あと四ヶ月足らず。いや、まだ四ヶ月もあったのか、と思ふべきだ。私にとって驚愕暗然といふより怒りが先に立つこの歴史で唯一頬の緩んだのが、日劇を転用した工場に動員された當時十三歳の映画好きの女子學生が、ロビーに貼られたままになってゐる銀幕スター池辺良のポスターを、休憩時間に見ることを樂しみにしてゐた、と云ふ証言。キナ臭く殺伐とした末世下でささやかに咲く等身大な青春にやっと逢へたと、なにやら安堵を覺える。
2025.05.15

川崎市多摩區生田緑地内の川崎市 岡本太郎美術館で、「岡本太郎と太陽の塔 万国博に賭けたもの」展を觀る。 昭和四十五年(1970年)に大阪で開催された日本萬國博覧會の象徴として、現在も千里丘陵の跡地の公園に建つ「太陽の塔」、その誕生までの軌跡を1920年代の巴里在住時代にまで遡った企画展、のやうだが、そもそも岡本太郎はこの建築物について生前なにも語ってゐないため、その真意がどこにあったのか、實のところ不明とされてゐる。よってこの企画展でも具体的な解釈も解説もなされてゐないのは當然で、私が今年二月に現地で萬博當時を可能な限り復元した内部を見物した際の印象とを重ね合はせて、結局は自分のなかだけの世界觀や価値觀を、前衞作家らしい抽象的なシロモノを通して見せつけたにすぎず、そしてほとんどが“祭り見物”くらゐの感覺で来場したであらう當時の一般大衆に、それら主張が理解出来たとも到底思へず、ただ萬國博覧會と云ふ「人類の進歩」──“未来の姿”を見せる非日常空間にのまれたおかげで、なんとなく「スゴイ……!」と思はせたにすぎなかったのではないか……。私はEXPO'70に興味があるのであり、べつに岡本太郎に興味があるわけではない──と云ふことがわかったことを収穫に、會場をあとにする。園内に隣接する川崎市立日本民家園にも立ち寄り、江戸末期に勢州志摩の漁村に建てられてこちらへ移築保存されてゐる、「船越の舞薹」を見物する。いはゆる地芝居を演じてゐた舞薹らしく、花道や盆(廻り舞薹)のほか、“出語り”と云ふ格子の嵌まった出窓のある本格的なつくりで、かういふところでも手猿樂をやりたいなァ、思ふ。やはり家屋は古くても人が住んでナンボ、人の生活があるから家も活きるわけで、生活から切り離された家は空家と同じで私には歴史的な魅力が感じられず、ほかは流して歩く。が、ふと中に入ってみる氣になった一軒の古民家では普段は上がれない座敷が特別に公開され、ボランティアガイドの年配男性たちが實際に囲炉裏に火をおこして往年の雰囲氣を再現してゐた。囲炉裏を囲む年配男性たちの姿も古民家の風情によく溶け込んで繪になる眺めだったが、そのうちの一人がふと手に取ったスマホを、もう一人が「それはiPhoneなの?」と急に現代名詞を口にし、場の雰囲氣との落差につひ吹き出しさうになった。やがて二人の會話は、「ところでAIってなんだ?」「さぁ、何だらうな……。みんな便利だ、便利だ、って云ふけど」時代は令和であってどこか令和でないやうな、そんな時空の捻れに迷ひ込んだ不思議で樂しい時間に遭遇す。民家園本館の展示室ではかつての多摩川流域の生活文化を當時の古民具で紹介した企画展「おばあさんは川へせんたくに」をやってゐて、かつて大切な交通路だった渡船も紹介されてゐた。(※案内パンフレットより)多摩川の中下流にいくつもあった渡し舟のうち、昭和四十六年に撮影された枯水時は橋渡しだった「菅(すげ)の渡し」の冩真に、「このあたりは“ゆすり” “かたり” “ちかん”が出没するから要注意」とはっきり書かれた立て看板の冩ってゐるのが、當時の土地柄を窺へる貴重な資料と、別なところに価値を見出す。
2025.05.14

終戰から今年で八十年、かつて米夷がそれに至るまで日本國土を執拗に上空から爆撃した事實の一片を、川崎市平和館の「戦後80年 川崎大空襲記録展 戦時下の市民生活と川崎大空襲」(3/8~5/6)に見る。工業都市ゆゑに幾度も米夷の爆目標とされた川崎中心部は、特に昭和二十年(1945年)四月十五日夜の、いはゆる「川崎大空襲」がもっとも凄惨を極め、當時の体験者の方々の記憶とAIとの共同作業で着色された空襲後の市街地の貴重な冩真に記録されてゐるのは、文字通り“あとにはペンペン草も生えぬ”焦土。(※川崎市役所の窓から密かに撮影された市街地の惨状 案内チラシより)上空の目眩ましとして川崎市役所を迷彩風に塗装したのをも嘲ふかのやうに、ここまで徹底的に街と人の生活を破壊し尽したのは、米夷が用意周到且つ綿密に研究、計画して實行した大量の焼夷彈による仕業。(※川崎大師、殿町方面の惨状 同)落下すると屋根を突き破って天井で橫倒しとなり、ゼリー状の粗製ガソリンが火を吹く仕組みとなってゐたこれらによって「木と紙で出来た」當時の日本家屋は住人たちの“バケツリレー”に象徴される初期消火の許容量をはるかに超える大炎上をあちこちで引き起こし、防空演習の指導者が「まさかあれほどの膨大な量の焼夷彈が投下されやうとは」と、その現實に愕然とさせられる。かく「焼夷空襲の理論」を實踐した夷國の圧倒的な現實的物量に對し、何百年も昔の“カミカゼ”を根拠にした「困った時のカミ頼み」な大和魂などで立ち向はせた大日本帝國も愚の骨頂甚だしく、そのために多くの人々が、失なふ理由もない命を失なったことは、戰勝國も敗戰國も関係なくバカなことをやったと、しまひには憤りが込み上げてくる。(※右手はモニュメントとして保存された川崎市役所旧廰舎)江戸川亂歩が戰時下に發表した小説「偉大なる夢」に、防空演習が見事に効を奏した一場面が描かれてゐるのはまさにペン先ならではの世界、この時代の空氣を文字と目で覗き見られる、ある種の名作ではある。東京都墨田區向島のすみだ郷土文化資料館の前には、當時の防火用水が展示保存されており、これを見てもいかに愚戰であったかがわからうと云ふものだ。そのすみだ郷土文化資料館の企画展「東京大空襲80年─新たな記録を探し続けて─」では、両國の旧國技館そばで冩真館を開いてゐた主人が命懸けで記録した三月十日の東京大空襲時における両國界隈の貴重な冩真が複製展示され、大通り沿ひの家屋が火を噴いてゐる光景は、白黒画像を超えた現實世界を私に見せつける。また、避難所とされた學校の地下には地域住民の避難所(防護室)が造られてゐたことも當時の設計図で展示されてゐるが、(※案内チラシより、下も同)それがなんら機能しなかったことは、その時その場にゐたご存命の方々の証言によってはっきり語られており、それは「爆彈に立ち向かへ!」と國民に本氣で叱咤した大日本帝國の愚昧を裏付ける、これ以上にない確かなこゑである。
2025.05.13

大涌谷名物の「黒たまご」を買ふために、箱根の現地まで出かける。厚手の上着でちゃうど良いくらゐの涼しい曇天下、ゐるのは予想通り外國人觀光客ばかり。が、やたらゴミを捨てて行ったり、喧しくさへなければ、どうでもよい。むしろ、ニッポン人のはうがよほどお行儀がよろしくない例もあるのだ。目當ての黒たまご、以前は一袋五個入りだったのが四個入りとなり、お値段はそのままの五百圓。たまご一つで壽命が數年延びると袋にあった文言もいまや改變されたのは“虚偽廣告”にあたると判斷されたためなのかなんなのか、浮世もシャレの通じないカタブツだらけになったものだと嗤ひながら、ペロリと三個を平らげる。これで私は、九千年の齢を保つだらう。ここから望める富士山は、今日はほとんど雲に隠れて、山肌がわずかに覗く程度。向かふの天候は荒れてゐるかもしれない。休山中に勝手に入り込んで遭難する愚か者が後を絶たない迷惑行為について、麓の富士吉田市長が「救助費用は當人たちの全額自己負担にすべき」と怒りを露わ云々、もちろんさうするべき、と私は全面的に賛成だ。往き帰りの道には山藤があちこちに咲いてゐて、心にも樂しき小旅となる。
2025.05.12

目黒區大橋の上目黒氷川神社で開催された「和文化とふれあう会」にて、現代手猿樂「四天王寺」を披露する。能樂の「弱法師」から想を得て創った曲で、父親に捨てられた盲目の少年がシテ(主役)と云ふ、あまり現代的ではない原曲を、四天王寺御本尊の功力により晴眼が叶ふ筋へと工夫することで、現代的認識に沿った作品へと仕上げた、つもりにて、いつもなら十分前後の作品にまとめるところを、盲目の心情を表現した舞を本寸法のままに取り入れたことで、ふだんの倍近い時間とはなったが、幸ひ見物客に人を得られたやうで、つつがなく舞ひ遂せる。師匠のゐる大阪四天王寺を舞薹にした曲をぜひ創りたいと、長らく準備を重ねて今日といふ絶好の機會を得る。いつか大阪で、師匠にもお見せしたいもの。……が、来てくれるかしらん?
2025.05.11

ラジオ放送で、寶生流の「兼平」を聴く。 主君の木曾義仲を最後まで守らんと壮絶に戰って散った、今井四郎兼平の忠勇譚。いよいよ義仲の討死を知り、太刀を咥えて馬から落ちて自ら命を斷つ壮絶な死に様を、片足を上げてから交差に下ろしつつ、体を回転せて舞薹にどかと座り込む、能装束を着けた姿では難しいが觀てゐる側には派手に映る型が一曲の見せ場にて、私が忘流で觀たときも、ここばかりが記憶にある。その後、この型を仕舞でやるかもしれない機會が近くまで来てゐたが、結局ここまでは来ることもなく、今日に至ってゐる。しかしやり方はわかってゐるので、いつかそれを應用したなにかを、やることがあるかもしれない。木曾義仲のために奮戰する家来と云った曲趣に女武者の「巴」があるが、こちらは男女の愛が主題で、「兼平」は主従としての愛、大昔に能樂師の修行中の男性が、「師に『死ね』と云はれたら、本當に死ねるだけの忠義心が必要だ」と、私に堂々と話したことがある。内弟子のことを「書生」などと、中途半端に旧時代な名稱がまだ生きてゐる業界のことゆゑ、それだけの“忠義愛”も要求されるか、と半ば呆れてゐると、「……まァ、本當にさうなったら、私はその前に逃げるかもしれませんが」とこっそり續けて、“親も同然”はしょせん他人同士と、その後の自身の經験と重ね合はせて、いまや深く會得してゐるものだ。
2025.05.10

伊豆急行線の伊豆高原驛外れに留置されてゐる、“初代”伊豆急行100系──クモハ103を見る。伊豆急行線は伊豆の觀光地開發が悲願だった東急の五島慶太翁によって昭和三十一年(1956年)に設立された東急のグループ企業で、鐵道の開業は五島慶太翁没後の昭和三十六年(1961年)、100系はその當時の車両なり。その後、二十一世紀初めまでの長きに渡ってJR東日本線の熱海から伊東の乗り入れ區間も含めて伊豆急下田までを結び、JR東日本から購入した元113系の200系にその座を譲る。引退後の100系は廢車となったが、件のクモハ103の一両のみは生き殘り、平成二十三年(2011年)の伊豆急創立五十周年を記念して、腐蝕が進んでゐた車体の全面的な補修を經て營業運転に復活、以後はイベント用として往年を彷彿とさせてゐたが、元来の老朽化のため平成三十一年(2019年)に再び引退、現在は伊豆高原驛外れの、本線とは繋がってゐない留置線に雨晒しで置かれてゐる。最初の廢車で進んでゐた腐蝕が、雨晒しのために再び進まうとしてゐるやうにも見え、保存する氣があるのかないのか、かういふ中途半端な殘し方をするのが私は好きではない。幼少期の夏、両親につれられて伊豆へ海水浴旅行に行った時だらう、草繁る盛り土につけられた階段を上って單線ホームの無人驛に至ると、まもなく向かふから水色の車体の伊豆急行線が、ヘッドライトを陽炎に揺らしながらやって来るのを見た記憶がある。それが100系だったわけで、クロスシート仕様の車内のためにその後ながらく國鐵113系と記憶が混同してゐたものだ。記憶は人生の遠い記録。あの盛夏白昼の驛がどこであったのか、いまでは全くわからない。ただはっきりしてゐるのは、この記憶のきっかけをつくってくれた若き日の両親への、いまの感謝である。
2025.05.09

白昼下の墨堤を通る。ヒトがやかましい大型連休がやっと過ぎ、やっと静穏を取り戻した大川のほとりでは、初夏の日も風も心地よい。が、良きことはいつも、今だけ。あとひと月もしたら、日は刺すやうになり、風はヌメヌメとした匂ひを送りつけるやうになるだらう。いまを樂しめるのは、いましかない。すぐに、さうでなくなってしまふだらうから。
2025.05.08

九段坂下の昭和館で、特別企画展「版画家が刻んだ昭和の彩り」を、前期後期通して觀る。関東大震災から復興し、米夷の徹底した空爆によって破壊された昭和十年代の東京風景を中心に──但し展示解説文は空爆したのが“誰か”については述べてゐない──、皮肉にも終戰後の侵駐米夷による需要で息を吹き返した近代日本の木版画の歴史を、館藏作品などから觀る。當時の“國策”に協力した木版画家たちによる、兵士の慰問などを目的とした作品集も、戰況惡化につれて防諜上の理由で画題を變更させられたり、作品そのものを頒布不可となるなど先細りするなか、小泉癸已男が疎開先の埼玉縣で、お金も後援者も無い不自由な状況下で昭和十六年から自力で制作を續けた「聖峰富嶽三十六景」は、戰時下の作とは思へないほど明朗な色彩に富んでゐて、そこに私は時世に抗ふ藝術家の意地と矜恃を見た氣がした。殘念ながら作品は未完成に終ったが、木版画の繁榮は江戸の昔までのこと、いまは「茨の園」と現實をしっかり認識してゐた小泉癸巳男の生涯ブレなかった画風は、(※「昭和大東京百図繪」昭和三年 案内チラシより)後世の人がしっかり作品を記憶することで、その魂は永遠となるのだ。
2025.05.07

十代から成人したての頃に出逢ひ、それからの私の生き方、考へ方の礎となり、やがて生活環境の變化で手放した本のうちの數冊が、古本として再び私の前に現れるやうになり、私はそれを縁と悟って手許に迎へる。「あれから私は、かうなりました」數十年を經て開いた頁は、いまもあの時のままの新鮮さで私を世界に誘ふ。歩む人は、その原點に戻ることも大事だ──と、わかってゐても、自分になにかと言ひ訳をして實行できなかったりする。しかし、かうして再びいつでも手許にゐてくれたら、回顧がすぐに答へを示してくれる。かういふ時、私は「一度は別れた」のでなく、しばらく離れてゐただけだったのだ、と知る。本當に必要なものは、必ず向かふから、また逢ひに来てくれるのだ。
2025.05.06

町なかで、引き取った出前の器を肩にのせて自転車に乗るお蕎麦屋さんの姿に、久しぶりに逢ふ。私が子どもの頃には普通に見られた、殘しておきたい懐かしき昭和の光景。令和現在では出前と云ふより“デリバリー”とか云ふ名稱となり、三輪バイクや黒い箱を背負ったのが自転車で、交通安全もヘッタクレも無い危なかっしい姿を曝してゐるのを見ると、それだけで不衞生で受け取るのもイヤだ。食べ物の味は作り手ばかりでなく、それを提供する人の在りやうも大きいと、信号が青となって流れに合はせて進むお蕎麦屋さんの、安定した後ろ姿から思った。
2025.05.05

埼玉縣さいたま市の盆栽町で開催されてゐる「大盆栽まつり」に、FMラジオの番組で聴き馴染んでゐるアロハ太朗さんが物販で参加してゐるとのことで、東北本線を大宮のひとつ先まで北上す。目當ては新作のハンドタオル(¥800)、SNSで見て左上の橙がかった色合ひがいいなと思ひ、ぜひ現物を手に入れたくなったもの。“予告”通りにほろ酔ひの太朗さんと、お見世を冩真に撮らせてもらって、(※掲載はご本人の了承済み)Good luck ! 👍門外漢なりに見てゐても何となく樂しい盆栽市を通り抜けて、日本人初の職業漫画家である北澤樂天を顕彰したさいたま市立漫画會館の、「楽天の世界漫遊 総集編」展も訪ねる。昭和四年(1929年)、欧州での個展開催を希望して海外漫遊に出た當時大人氣の漫画家樂天が、得意の速筆で正確に冩し留めた各國市井の光景は、今なほ新鮮な躍動感を放つ貴重な世相資料だが、エジプトを旅行中、乗り物が悪路のためにガタ揺れして天井に頭をぶつけた様を、星⭐が飛んだ画で表現してゐるのを見て、現在ではぶつかった表現効果として當り前に描かれる⭐を、漫画で初めて描いたのも北澤樂天だったのでは、と思った。浮世のマンガ好きは、手塚治虫や長谷川町子までは知ってゐるが、その祖となった北澤樂天のことはまず知らないと云ふ。晩年は漫画を離れて日本画にその画才を發揮したこともあり、その方面からは忘れられたのかもしれない。が、そもそも北澤樂天が職業(プロ)漫画家として成功したからこそ、いま自分たちが耽溺してゐる世界のあることを、人はよく知るべきだ。樂天が遺した戰前昭和の諸場面で私がもっとも目を惹いたのが、両國國技館で取組中の光景を描いた一點。(※案内チラシより)ドーム型の大屋根が特徴的な初代國技館の外觀は私も資料を數點所有してゐるが、その屋根の内觀を画面半分を使って大きく捉へた樂天の目の付け所に、私は拍手したい。帰り道、中山道から近い大宮山東光寺に眠る、北澤樂天のお墓も訪ね、合掌す。さらに東光寺本堂の外陣にもお邪魔してゐるうちに、外では通り雨が降り始め、しばし雨宿りをさせてもらふ。うまく雨に打たれず済んで、助けてもらったのだな、と感謝する。
2025.05.04

千葉縣木更津市公認の“ご當地アイドル”C-Styleが、ご當地で開催のイベントにキッチンカーとライヴで参加すると知り、たった半月前に出かけた木更津へ、また小旅する──絶對に外出したくない五月大型連休に、空いてもゐない鐵道に揺られる我が姿の可笑しきことよ!木更津駅を半月前とは反對方向に出て歩くこと約二十分、半月ぶりに二人の生歌に逢って、握手も交はせて、初夏の日差しをしばし忘れる。四月二十九日に發賣したニューシングルの、二曲目「ハラッパ」が、いま私のもっとも好きな歌。そのニューシングルはキッチンカーの物販に置いてあるかナ、と樂しみにしてゐたが、今回はあいにく用意してゐないとのことで、いづれ並ぶことを次回の樂しみに、今回は今回限定の特製プリンで、賣上げに貢献する。
2025.05.03

ラジオ放送で、觀世流九皐會による「小袖曾我」を聴く。母の勘氣を蒙ってゐた曾我五郎時致は、兄の十郎祐成の真摯な取りなしによって赦されると、兄弟で盃を酌み交はして門出の舞を舞ひ、母に今生の暇を告げて父の仇討ちへと向かふ──但し、この曲のシテ(主役)は兄の十郎祐成で、後世の歌舞伎劇で柔弱化した兄を差し置いて華々しき荒演技で人気者となり、“御靈信仰”の本尊とも結びつけられる弟の五郎時致はツレ(随従)、あくまで舎弟の立場である。この作品にはもともと、仇討ちに出立する兄弟に母が餞別として小袖を贈る件りがあったやうだが、のちに改削されたらしく現行の謠ひでは小袖のコの字もなく、ただ曲名にのみその名を殘してゐるのは、改削者がせめてさうしたものか何なのか、とんだウッカリのやうにも思ふ。しかし、この曾我兄弟の仇討ちを扱った映画「富士の夜襲」(昭和三十一年 東映)では、花柳小菊扮する母がいよいよ出立する十郎(東千代之介)と五郎(中村錦之助)に、自ら誂えた直垂を贈るお涙の場面がしっかり描かれてゐて、やうやくこの物語の完全版を觀られた氣がしたものだった。昭和には、児童文學全集の一冊にこの仇討ち物語が収められてゐて、旧時代の“仕返し”噺を當時現代の児童たちにどう理解させるか、執筆者が「氣持ちを貫き通す若者たちの話し」として讀んでほしい、とはしがきのなかで述べたどこかこじつけた調子に、かつての日本人の価値觀が現代ではまったく斷絶してゐることを感じたものだった。
2025.05.02

神奈川縣立金澤文庫の開館九十五年を記念した特別展「至高の宝蔵─称名寺の国宝開帳─」を觀る。初めての武家政權の痕跡は何も殘らなかった代はりに、佛教文化の文物は大切に守られて今日に傳はる中世鎌倉の遺寶を、その寶庫より訪ねる。實時、顕時、貞顕、貞将と金澤北條氏四代の肖像画は今回は展示の冒頭に座して私たちを出迎え、國寶と身近に會へる贅澤を味はふ。(※北條實時像 案内チラシより)佛はニンゲンと云ふ俗物を救済することが仕事と考へた當時の佛道人は、三千佛図と云ふ壮大な佛画を掲げて「佛名會」を催し、諸佛の名號を唱へることで一年の罪障を消滅させる、とニンゲンに都合の良い法會を考へつくが、古色に沈んだなかにもまだ壮麗さを殘す件の佛画を仰いでゐると、(※同)なるほど私のケガレを本當に拂ってくれさうな、そんな力がまだ秘められてゐるやうに思へてくる。ニンゲンに都合のよい佛法とは法華經の一節にその根拠と思しきが見え、「子どもが遊びで作った佛塔や佛像であってもそれは功德を積んだことになる」が、いつしか「より良い物、より美しい物を御佛にお供えすることで自ら成佛できる」との發想に進化(?)したあたり、「地獄の沙汰もカネ次第」の原典もこれではないかと思ふ。冊子仕立ての佛典に“書皮”、すなはちブックカバーをかける工夫は鎌倉時代には行なれてゐたやうで、不要になった書状を裏返して書皮にした様は、私が棲家の郵便受けにポスティングされた不要なチラシをブックカバーに転用して有要にしてゐるのと同じだと可笑しくなり、ならばあれにもいつか“國寶”になる權利があるかしらんと、にはかに國寶が私たちに身近なものに思へてきた。
2025.05.01

鐵道を利用してゐて、ラジオの交通情報を聞いてゐて、この頃はやたら「踏切の安全確認」が多いと感じる。やうするに、遮断機が下りてから無理に踏切を橫斷する危険行為が、それだけ橫行してゐるのである。どうせ電車の方が緊急停止するから──そんな確信犯ぶりが目に浮かぶ。よってこれからは、電車は構はず轢いていけばよい。電車が接近してゐる踏切内外に侵入すれば、當然さうなるからである。さういふ當然のことを、これからは大勢への見せしめに、また今後の惡い芽を摘み取っていく地道な活動として、始めればよい。確實に潰した結果の遅延ならば、私は「ご理解」も「ご協力」もしやう。いまの電車はホントに止まらない──と、確信犯どもに身体(カラダ)でわからせるべきだ。これらはどうせ、ヒトのコトバなんて理解できないのだから。
2025.05.01
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