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澁谷區総合文化センター大和田にて、「平和・国際都市渋谷」パネル展『長崎原爆資料展』を觀る。廣島の被害については何度か冩真資料を目にしたことがあり、また複製資料も數點所有してゐるが、長崎についてはあまり目にしてゐない氣がしたので、この機會によく見ておかうと出かける。八十年前の昭和二十年(1945年)八月九日午前、米夷爆撃機は九州小倉を標的に飛来するが、焼夷彈の煙に遮られて“目的”を果たせず、場所を長崎に變更する。しかし長崎も雲に遮られて同様の状態だったが、午前十一時二分、一瞬の切れ間を狙ってプルトニウム原爆(通稱ファットマン─“太っちょ”)を投下、松山町171番地上空で炸裂した原爆は──私はこの卑劣な爆彈によって粉砕された大浦天主堂と、首のないキリスト像の冩真を見て、不思議に思ふ。(※案内チラシより)米夷人の多くが信仰してゐるはずの、カミの聖地と聖像を破壊したことに、彼らは呵責や畏れを感じなかったのだらうか、と。いや、ヒトは古来からカミにかこつけて、ドンパチを繰り返してゐる生き物である。首をかしげるだけ、野暮か……。大手町の河津櫻はいまが見頃、駿河薹の寒緋櫻も三月に見頃を迎へさうな勢ひ、錦橋詰の寒櫻は、陽に照らされ笑ってゐる姿に初めて逢ふ。
2025.02.28

開港都市ヨコハマの發展を水運で支へ、やがて時代と云ふ大きな流れに埋め立てられた“河川運河”と、水運を生活基盤とした人々の實態を、橫濱都市發展記念館の企画展「運河で生きる~都市を支えた横浜の“河川運河”~」にみる。水運を担ったのはもちろん船であり、船──達磨船や艀を操ったのは人であり、河川運河が係留する數多の船で航行が困難になるほど、すなはち船で生活する家族も多く存在した。(※案内チラシより)私が小學生の時分、國語の授業で教科書にさうした水上生活者の少年が登場する物語が載ってゐて、それを知ってゐることを前提に書かれた物語であったため先生が注釈を加へてゐたことを憶えてゐるが、これが水上(船上)生活者と云ふ人を私が知った初めだった。昭和四十年(1965年)の新河川法、翌年の港湾勞働法で水上生活が禁止されたため、船を住居とする人々はゐなくなったが、さうした家庭に生まれた子どもたちの作文には、本人は意識してゐないであらう過酷な環境が滲み出てゐる。(※同)昭和二十年の終戰後、職を失なった人々は侵駐米夷軍の仕事にありつくため多く橫濱に押し寄せ、さうした人々を収容する施設として木造船に長屋を積み上げたやうな“水上ホテル”なるものを用意したが、そもそも設計に無理がある上に人員過剰で転覆する事故が相次いだ云々、さうした需要と供給の不均衡だけは、令和現在も變はるところがない。現在、橫濱市街の中央を縦断してゐた吉田川は大通り公園とその地下を走る市營地下鉄ブルーラインに、派大岡川は首都高速橫羽線の一部と關内驛前の地下商店街マリナードと、(※マリナード地下街廣場より首都高上部を望む)役目を終へたと云ふより新たな役目をもって生まれ變はり現在に至るが、その過程は橫濱市職員だった田村明氏の著書「都市ヨコハマをつくる」(中公新書版)に、臨場感ゆたかな筆致で綴られてゐる。しかしヨコハマの河川運河は完全に姿を消したわけではなく、ところどころにその痕跡を留めてゐることを、神奈川大學みなとみらいキャンパス1F展示エリアの写真展「非文字資料から見る 横浜の運河─関内・関外を中心に」では紹介してゐて、濃厚にヨコハマ感が漂ふ大岡川沿ひの“都橋商店街ビル”は、(※コンクリート壁と石積み風の岸壁との斜めに走る境目が、道と荷揚げ場をつないでゐたスロープの跡)かつての荷揚場跡に建ってゐることが岸壁から窺へるのを知ったのは目からウロコ。ここには紹介されてゐないが、JR關内驛の高架線が橋梁になってゐるのは、かつて派大岡川の上に驛があった名殘りであらうと、私は思ってゐる。
2025.02.27

東京都北區のお札と切手の博物館で、特集展「お札模様 流線が描くArt 工芸官作品展」を觀る。紙幣の歴史とは、そのままニセ札との闘ひの歴史にて、あの手この手の防御策のなかで發達したのが、紙幣を幾筋もの微細な線で彩る幾何學模様──“彩紋(さいもん)”なり。(※案内チラシより)國立印刷局の専門職員“工藝官”たちによって生み出された數々の彩紋には、華麗なやうでゐて「さぁマネ出来るものならやってみろ!」と云ふ真剣勝負の強い矜恃が聞こえてくるやうで、ただ「へぇ……」と感心するばかりでは許されない、背筋をピンと伸ばしたくものがある。しかし、彩紋ひとつひとつのあまりの細かさに、見てゐて目がチカチカしてくるのには困った。かういふものを贋造しやうなどと云ふヤツの氣が知れぬわえ。
2025.02.26

ひたすら自分のカオばかりを撮ってSNSとやらに投稿する見せたがり見られたがりが橫溢する現今、その画像から個人情報を讀み取られるキケンについて、NTTdocomoが企画した「ばくモレ展」を、東京都港區南青山のLIGHTBOX STUDIO AOYAMAへ觀に行く。 會場の一階はさうした見せたがり見られたがりなお姉チャンたちのごく平和な冩真展風、しかし二階に上がるとそれら冩真の背景や、見せたがり見られたがりが身に付けた物から個人情報が特定されるコワイ例を一つ一つ指摘、ナルホドね……、と頷く。瞳やメガネなどレンズ物に冩り込む景色、またそこにしか見られないやうな建物、“リアルタイム投稿”に添へた「いま〇〇に来た!」な時間を特定した文言の添付etc──私にも當てはまると思ったのが“指紋”云々、画像から指紋を簡單に複製できると云ふこの御時世、私もこのブログで缶飲料ネタを投稿するとき、よく商品を手に取って冩真を撮るが、もちろん指紋がはっきり冩らないやう氣を付けて撮ってゐるつもりでも、危険とはこちらの油斷した隙を衝いてくるもの、自戒自戒。自分のカオを晒すことばかりに氣を取られて、うっかり自分の隠すべき情報まで晒して惡人に取られないやう氣を付けませう──警視廰調べで、令和五年には1665人もの見せたがり見られたがり未成年が被害に遭った云々、しょせんスマホ画面だけでしか世界を知らないこれらなど惡人どものいいお客サマなれど、さう云ふ自分もうっかりしたものを撮って載せぬやう、自戒、自戒、自戒。
2025.02.24

千代田區に用事があったつひでに、一番町のJCII PHOTO SALONの『明治から昭和の写真館物語 「写真師・宮下欽の一族」』展にも立ち寄る。江戸城最末期の姿を撮影した橫山松三郎を遠祖に、“縁”によって四代にわたり受け繼がれた冩真黎明期の技術(わざ)と精神(こころ)を、その時代のその一瞬を捉へた貴重な一枚一枚からじっくり見て巡る。宮下欽が明治六年に撮影した、創業間もない富岡製糸場の内部とそこで働く工女たちを冩したステレオ冩真は、いまは世界遺産となってゐる現地へ見學しに行ったことがあるだけに興味深かった。その父の家業を繼いだ宮下守雄が考案した“ハテナ冩真”は、一枚の冩真に同じ人物が別のポーズで複数冩ってゐる、いはゆるトリック冩真のはしりで、乾板を何枚も重ねて印画紙に焼き付けて作った、遊び心に富んだ作品。冩真は藝術表現の手立てとしてより、浮世の真實を切り取り記録する媒体としてとしての方に本當の価値があると信じる私は、關東大震災の惨状を記録した一枚に、オヤ? と足が止まる。それは五十嵐与七と菊池東陽が撮影した、「建設中の橫濱正金銀行東京支店と日本橋三越」と題の付いたもので、當時建設中だった橫濱正金銀行東京支店が被災して足場の大きく崩れた様が、瓦礫の海の上に冩されてゐる。その構図は私が昨年末に手に入れた資料とそっくりで、もしかしたらこれが原版なのかもしれないと、しばし見入った。かくの如く思ひもよらぬ出逢ひがあるゆゑ、氣になったところには出かけてみるものなのだ。大手町にある河津櫻を見に行ってみると、七分咲きくらゐになってゐた。今年は寒氣やら寒波やらがやたら居座って、本場の豆州でも開花がだいぶ遅れてゐると聞く。ここの河津櫻も、来週あたりが見頃かもしれない。丸の内と東京驛とをつなぐ地下道で、灯りをつけた繪柄入りの和傘が並んでゐた。しかし、先日に伊勢の河崎町で年代物の“山田傘”にお目にかかった者としては、なんの感興も催さない。なんでも“本物”を見ておくものだと思ふ。
2025.02.21

日比谷公園内の千代田區立日比谷図書文化館で、特別展「実録 桜田門外の変」を觀る。米夷の来航により本格化した江戸幕府衰亡史の一場面、くらゐの認識で扱はれがちな大老暗殺事件を、そこに関はった、または関はらざるを得なかった人々が遺した証言などから深く掘り下げた好企画。安政七年(1860年)三月三日──※萬延元年とする資料も多いが、萬延元年は三月十八日以降なので未来年號となり正しくない由──、水戸浪士など十八名は愛宕神社に集合したのち江戸城櫻田門外に移動、季節はずれの雪のなか「上巳(じょうし)の節句」すなはちひな祭りで登城する大名の行列を見物する町人を装ひ大老井伊直弼を待ち伏せ、(※櫻田門の現景)朝五ツ半(午前九時)に“標的”が現れたところで一人が駕籠訴に見せかけ接近、抜刀するやいなや短銃の音を合図に全員で行列を襲撃、有村次左衞門が折から負傷した井伊直弼を駕籠から引きずり出して首級(みしるし)を挙げると、討ち死にした一人を除いた十七人はバラバラに逃走──(※一部のみ展示物の撮影可)一般的な幕末史が語るのはここまでだが、周辺の大名屋敷の家来や辻番がその直後の“逃走犯”たちを多く目撃、または誰何しており、血刀を提げたまま匿ってほしいと駆け込みながらそのまま行方不明、または不明瞭な言葉を殘して走り去って行くなど、まだまだ興奮状態にあった浪人たちの様子が生々しい。(※櫻田門内より旧井伊家屋敷跡方向を望む)その後、明治まで生き延びた“實行犯”はわずか二人、あとはその後に自刃、もしくは捕縛後に処罰云々。國元の彦根藩に事件が傳はったのは三月十六日の昼、「應戰して負傷したのでそのまま屋敷に引き返した」と知らされ、そのあと二十二日まで續報が途絶えてゐるところに、名門大名家としての体面を保たうと内々で奔走したであらう狼狽ぶりが却って讀み取れる。(※橫濱の掃部山に旧彦根藩関係者たちにより建立された井伊直弼の銅像)時代が少し下ってからの井伊直弼の人物評について、反對勢力への苛烈な処斷を下した「安政の大獄」によりその後の混乱した政局の舵取りを担へたであらう優秀な人材を多く失なった、との批判がある一方、『幕府が傾いたことをただ井伊の罪だとするのは、當時の状況を知らないから言へることだ。しかし井伊を開國の卓識者だと賞賛するのも、真實を理解してゐない。井伊もまた、幕府の一大政治家の一人だった』と、明治三十三年に語った福知源一郎(櫻痴)の言葉が、元幕臣なだけに本當のところを衝いてゐるやうに聞こえた。この櫻田門外で發生した暗殺事件は、庶民にも多く目撃されてゐたこともあり、幕府の情報統制も甲斐なく全國に廣まり、明治になると歌舞伎や講談にも仕組まれ、かつての“實行犯”は“義勇”へと祭り上げられる。(※述者藏)さらに現代になると事件は映像化され、大河ドラマ「徳川慶喜」では杉良太郎さんが井伊直弼に扮し、鋭い眼光で冷静沈着に事を推し進める大物ぶりをみせ、件の事件の場面では「なぜ時代がわからぬ、たわけ!」と無念と苛立ちを無言の表情に滲ませた演技が印象に殘ってゐる。映画では、昭和四十年(1965年)正月封切りの「侍」(岡本喜八監督 東寶)で、主演の三船敏郎扮する實は井伊直弼の隠し子と云ふ無頼者が實行犯に加はり、大老を實父とも知らずに討ち果たす物語を、そのとき滞在してゐたホテルのTVで觀た。狙はれる井伊直弼役は八代目の松本幸四郎で、襲撃の場面では斬られた供侍が呻きながら雪まみれにのたうち回るなど、かなり泥臭く生々しい演出がなされてゐたが、それ以上に強烈だったのは首謀者の星野監物役に扮した名優伊藤雄之助の、いかにもそれらしい怪物的な容貌だった。
2025.02.20

お伊勢参りでは二見浦へ立ち寄るのも定番くらゐの感覺でゐたが、本来はここで禊(みそぎ)を済ませてから参宮するのが決まり事云々。なんであれ強い北風のなか、岩に砕けた潮がこちらにもはじけさうなのを氣にしつつ、社殿の堅牢なコンクリート造りも頼もしい二見興玉神社と、それ自体が鳥居と云ふもともとは“立石”、いまは通稱“夫婦岩”を拝し、むしろ私にはこちらが本命だった天照大御神ゆかりの古跡「天の岩屋」もじっくり拝して、北風から逃げる。二見浦から松林を隔てた参道には、一大旅籠町だった往年を偲ばせる和風建築物がところどころに現存してゐるが、そのほとんどが外側ばかりを殘してゐるのみなところに、浮世の風向きを感じる。さうしたどこか空虚な参道沿ひの公共施設で、雛人形の大展示會が行はれてゐたので、ちょっと覗いてみる。會場をいっぱいに彩るいくつもの雛壇飾り、手作り雛人形はかう一堂に會するとなかなか壮觀だが、地元NPO法人が二十一回續けたこの催しは今回をもってお開き云々、私には最初で最後の御縁となる。雛壇飾りの人形たちをよく見ると、それぞれに吹き出しが添へられて面白い言葉を洩らしてゐる。私がもっとも笑ったのは、このお雛様の夫(お内裏様)に對する本音。『「この人」と 思った理由が 思い出せない』──人生と年齢を重ねた人には、ジワジワとくるものがある。“面白い”の縁(ゆかり)の地で、面白いものに出逢へた面白い御縁。
2025.02.18

伊勢神宮“外宮”の北西に位置する河崎町は、その名の通り勢田川沿った水運により榮えた町で、室町時代の長享年間に鎌倉北條氏の遺臣であった左衞門太夫宗次が移り住んでから發展したとされ、かつては外敵を防ぐために周りを堀川で囲った環濠集落であった戰亂期の遺構を、現在もわずかに見ることが出来る。河崎が水運を活かした商人の町として發展したのはお伊勢参りが盛んだった江戸時代で、當時の繁榮をその殘され町並みから聴けて興味深いが、現在も生活道路として機能してゐるからか、またはカーナビが抜け道として示すからか、クルマの通行量が意外に多くてやや落ち着かない。見つけた古本屋で、トウキョウでは全く見つけられなかった一冊に出逢へて、旅の良い思ひ出と嬉しくなってさらに町を進むと、元禄時代から十五代續くと云ふ陶器商「和具屋」に出逢ふ。両隣りの建物が無いため、江戸中期の築と云ふ狭い間口に深い奥行きがより強調されて映るが、かつてはさらに倍の奥行きがあった云々。その名殘りが、細長い店内の床を奥へと敷かれた二本の細い線路──(※店主の許可を得て撮影)あまりに奥まで遠いため、かつては仕入れた品を店内のトロッコに載せて、奥まで運んでゐた云々。店主に案内されるまま、レールを辿って約60m奥へと分け入ると、“終點”に往年のトロッコが存在してゐた!好きなヒトにはたまらないかういふ物、ちょっと動かしてみたくなったが、線路が朽ちてゐるため動かない云々、殘念に思ふ。奥の“終點”一帯は、實に多岐にわたる“年代物”が陳列された私設博物館となってゐるが、大勢に押しかけられては荒らされたり盗難に遭ふおそれがあるため一切の情報公開を控へてゐるとのことで、私も冩真掲載を控へるが、ただ一點だけ、この辺りを山田と云ってゐた昔日、子守の少女が日傘に使用してゐた和傘──土地の画工が繪柄を描いてゐたことから「山田傘」と呼ばれた、現在ではもう作られていない日本文化の實物に逢へたそれだけでも、中世に始まる水運都市の測り知れぬ深さを測るには、充分であった。
2025.02.17

おはらひ町をあとにし、急勾配が長く續牛谷坂を上りきり、狭い道がうねうねと伸びるいかにも旧街道らしい風情の始まるこの界隈こそ、かつて江戸の吉原、京の島原に並ぶ日本の“三大遊郭”のひとつだった古市(ふるいち)だが、現在では取り壊すきっかけもなく殘った古い家屋が點在する静かな町にて、お伊勢参りを済ませた男たちの“精進落とし”で殷賑を極めた往年など偲ぶよすがもない……、やうだが、注意すればその痕跡を見出すことは出来る。近鉄鳥羽線の切り通しに架かる橋を渡ったすぐ脇には、江戸時代に屈指の廓と謳はれ、明治以降はその風情そのままに旅館へ転業したが第二次大戰の空襲で廢業した、「油屋」跡の石碑が建つ。現在は個人宅の敷地前に肩身も狭さうに一本の石碑が残るのみだが、戰前までは遊廓時代の威勢そのままの見世構へであったことが古冩真からも充分に窺へ、客室にもどこか艶っぽい風情が殘されてゐたやうだが、廢業後は近鉄鳥羽線を敷設するためにその面影を地面ごと削り取られ、時代の無常ばかりを現在(いま)に傳へる。この油屋をさらに有名にしたのが、寛政八年(1796年)六月九日の深夜に近在の醫者孫福斎(まごふく いつき)が、酒の相手をしてゐた當時十六歳の遊女のおこんを後から入って来た客に持って行かれたことに腹を立てて刃傷沙汰を起こした事件と、それを二ヶ月後に上方の近松德三が脚色して大當りをとった歌舞伎芝居「伊勢音頭戀寝刃」で、(※「伊勢音頭戀寝刃」 十五代目市村羽左衞門扮する福岡貢)實説ではオンナと酒絡みの刃傷事件であったのを歌舞伎劇お得意のお家騒動物に仕組み、伊勢神宮の御師である福岡貢は油屋の座敷で惡人に加担する仲居萬野に散々イジメられて一度は退却するが、(※歌舞伎「伊勢音頭戀寝刃」 六代目菊五郎の福岡貢、七代目梅幸の油屋おこん、二代目子團次の油屋おきし、三代目多賀之丞の仲居萬野 昭和二十三年七月 東京劇場)大事な刀が偽物とすり替へられてゐることに氣が付き引き返したところ、ひょんなことから刃傷沙汰を起こしてしまふ、と云った筋になってゐる。この芝居がご當地で初めて上演されたのは、實在の遊女おこんが事件から三十三年後の四十九歳で亡くなった文政十二年(1829年)二月より三ヶ月後の五月で、福岡貢に扮した四代目坂東彦三郎の、地元感情への心配に反して芝居は大當り、彦三郎は感謝をこめて近くの大林寺におこんの墓を建て、さらに時代が下った昭和四年(1929年)には二代目實川延若が、すでに他の寺にある孫福斎の墓を模した墓を改めておこんの墓の隣に建立云々、(※左が遊女おこん、右が孫福斎の墓)實説より芝居世界に因んで“比翼塚”と名付けられ、現在も大林寺本堂の脇に、墓石はやや痛んだ姿ながら目にすることが出来る。油屋は時代の流れに跡形もなくなったが、その跡地から少し離れ場所に天明二年(1781年)には開業して現在も營業を續ける「麻吉旅館」から、古市全盛期の威容を偲ぶことが出来る。山の傾斜に合はせて奥へと伸びていく造りは往年の油屋と同じで、路地を挟んで向かい合ふ建物を結ぶ橋になにか艶っぽさを感じるのは、「伊勢音頭戀寝刃」の“奥庭の場”に、通天の大道具が飾られてゐるからかもしれない。
2025.02.17

朝に皇大神宮──内宮を参拝す。宇治橋を渡り、神苑を經て、五十鈴川の御手洗場(みたらし)にて、日ごろ不平と皮肉ばかりの我が身を清める。正宮は天皇家の祖神とされる天照大御神をお祀りする我が國尊上の御宮にて、十年以上ぶりに結んだ今日の御縁に感謝を述べる。八年後に遷宮する新御敷地も拝してから参道を戻ってゐると、なにやら露拂ひをしてゐるので誰か来るのかと思ってゐるうち、これから五穀豊穣祭を斎行するにつき行列がお通りになる云々、と云ふことは……、と端に寄って少し待ってゐると、天皇家出身の祭主が、白装束の神職たちの先頭に立ち、玉砂利を踏む音にも亂れなく前を通り過ぎて行った。先日に上野東照宮で德川宗家第十九代當主に會った例に續き、“貴人”との邂逅はこれで二例目。今日は皇祖神をお祀りする神域にて、その子孫にお目に掛かれたのである!自然と頭が垂れたのは先日と同じ、これは稀有な御縁と、その感謝をこめて式年遷宮の費用を微力ながら納める。遷宮後、私はいつか再びここを訪れるだらう。内宮御門前の“おはらひ町”は旧伊勢街道の終點に伸びる繁華な通りにて、行き交ふ人々の頭上だけを眺むれば、江戸時代の“抜け参り”の賑はいもかくやと偲ばるる。食事はやはり“伊勢名物”だらうと、しかし手こね壽司は昨日で懲りたのでそれ以外のもの──松阪牛と伊勢うどんにする。松阪牛は現代の味はひ、伊勢うどんは江戸時代の旅人が忘れられなかったであらう味はひ。腹拵へを済ませてから、旧伊勢街道をしばし下る。
2025.02.17

十年以上ぶりに、お伊勢参りに行く。伊勢神宮は外宮と内宮の両宮を参拝するものにて、今日は外宮──豐受大神宮にお参りする。正宮の右隣りには、令和十五年の遷宮予定地が準備されてゐる。式年遷宮は2033年、八年後。その頃、私はどのやうに生きてゐるのだらう。……いまと同じに生きてゐたい。日本が中世から近世への過渡期にあった戰亂期、天照大御神の子孫に權力も財力も無かったために伊勢神宮の遷宮が長く斎行できず、社殿は朽ちて荒れ放題であったと聞く。ヒトの手で造られるものは、常にヒトの思惑に左右されるのが現實世界の運命(さだめ)である。正宮の南におはす「風宮(かぜのみや)」にも参拝す。鎌倉時代の「元寇」では“神風”を吹かせた神様云々、九州での攻防を實見することのなかった寺社勢力がさう信じた名殘りなれどそれはさておき、いまニッポンの國力を奪ふ外夷をことごとく吹き飛ばしてくれい、と願ひを捧げる。伊勢神宮の門前町には、「世古(せこ)」と呼ばれる古い路地が、いまも幾筋か殘る。今は昔、伊勢の漁師が遭難して朝鮮に流れ着いて助けられ、自宅の母に無事である旨をしたためた手紙を送ったところ、宛先に“世古”の二文字があるのを見た人々は、「世古とはお伊勢様のあるところに違ひない」と、手から手を經て漁師宅の母のもとに届いたと云ふ話しが遺ってゐる。それだけ伊勢の“世古”が廣く知れ渡ってゐたと云ふほかに、やはり伊勢神宮への尊崇の念も手傳ってゐたのではないかと思ふ。歩いてみたかった世古を幾筋か經て、「月夜見宮」に参拝、御祭神は天照大御神の弟である月夜見尊云々、伊勢の町にはかうした社の原始を留めた古社が多く傳はる。伊勢名物のひとつ、「手こね壽司」と云ふものを食べてみる。 ひとくちに壽司と云っても、その土地の風土や歴史によって形態はさまざま、伊勢におけるそれは漁師が釣ったばかりの鰹を舟上で切り身にして酢飯に和へた、いはゆる“賄ひ料理”がはじまり云々、しかし私の前に出されたのは、トウキョウで云ふところの“マグロの漬け丼”そのままで、まァこれが名物サ、と笑っていただく。
2025.02.16

昨秋に埼玉縣新座市の蓮光寺の“バチあたりライヴ”で初めて逢って樂しんだ千葉縣木更津市のご當地アイドル“C-Style”が、同縣春日部市内のドン・キホーテ駐車場にキッチンカーを出店してゐるとのことで、ドレドレと出かけてみる。キッチンカーのことは前から知ってはゐたがなかなか都合がつかず、今日の晴天にやっと機會を得る。メインメニューはクレープなので、キャラメルソースのかかった逸品をつくってもらふ。ライヴで元氣な歌とプロならではのキレキレなダンスをこなしながら、キッチンカーでいろいろな場所を巡って、いろいろな人たちに自らクレープをつくって、物販もやって、さういふ精力的な活動を續ける二人だからこそ、これからも伸びていってほしいと、ただ願ふ。
2025.02.15

「上野の東照宮って、どの辺りだっけ……?」先日にさう訊ねられて、行ったことがないためちゃんと答へられなかったので、これを機に一見せばやと存じ候。上野精養軒より奥、上野大佛の脇を抜けた先に鳥居が立ち、ここからいかにも江戸時代の遺構らしい石畳の参道が伸び、ほどなく門扉一面の金箔もまばゆい唐門に行き當たる。慶安四年(1651年)の造營と云ふ國の重文云々、門扉両脇の昇り龍降り龍の彫刻は左甚五郎の作云々、東照宮の場所を確かめるのが目的だったので、ここで引き返すつもりだったが、ふと氣が變はり、唐門の向かふの社殿も一見せばやと存じ候。見た目そのままに“金色殿”とも云はれる現在の社殿は、唐門と同じ慶安四年に三代将軍德川家光が造營替へをしたものにて、もとは寛永四年(1627年)に津藩主藤堂高虎と天臺宗の天海僧正が“神君”家康を祀るため寛永寺境内に建立した「東照社」が始まり云々。いかにも往年の德川政權のチカラを誇示した金閣モドキの社殿を仰いでゐると、社殿のなかでゴトゴトと音がして、やがて滅多に開かぬはずの戸が両側にパッと開き、中から人品賤しからぬ人々が出て来た。そのなかに、近年に德川宗家の十九代目を繼いだばかりの現當主──世が世なら江戸幕府の“第十九代将軍”の姿もあり、なんたる偶然と仰天す。(※手前左手、黒い上着姿の男性が德川宗家第十九代目當主)このとき東照宮見物の觀光客が數名ゐたが、いま目の前にここの主とも云ふべき“上様”がおはすことに氣が付いたのは私も含めたごく僅か、初代家康、八代吉宗、十五代慶喜の三将軍を祀った靈廟からまさか十九代目が現れるとは意外も意外、普段は非公開の社殿内部を隙見出来たのも有り難く、物凄い場に居合はせたこれこそが、今日ここに来た本當の御縁だったのだと感謝する。一行は和やかな様子から、内々で史跡見學の會を催してゐるらしく、十九代目當主が近くを通り過ぎるとき、つひ頭を垂れたこれこそが“上様”の威勢と、五百圓の拝觀料がいっぺんに価値の高いものになった。
2025.02.12

東京都墨田區業平三丁目に、江戸の歌舞伎役者の墓が多く傳はる通稱“役者寺”の跡があるとのことで現地を訪ねてみたが、その痕跡を傳へるものが見當たらぬ。ハテ……? と立ち尽くすうち目に入ったのが、すっかり文字の消えた案内板らしきしろもの。近づいてよく見ると、やはりここに“役者寺”があったことを綴った文章が、微かに讀める。痕跡を傳へる痕跡。ばからしい、と呆れて自力で調べた結果、昭和の初めに江戸川區瑞江四丁目に移転云々、いまさら歌舞伎にさほどの思ひ入れもないが、ここまで来たのだからやはりー見せばやと、存じ候。役者寺──浄土宗「大雲寺」は京都知恩院の末寺にて、二代将軍德川秀忠の後援を得て、元和六年(1620年)に淺草森田町(現在の臺東區藏前)に創建、寛文八年(1668年)に私が初めに訪ねた、當時は本所押上村と云った墨田區業平に移転、しかし大正十二年(1923年)九月一日の關東大震災で損壊したのをきっかけに、昭和六年(1931年)に現在の場所へ再度の移転云々。件の墓所は、本堂裏手の廣大な墓苑の本堂寄りに集まってゐて、↑左が瀬川菊之亟家、右手奥が初代と二代目坂東彦三郎の合葬墓、↑右が四、五、六代目の松本幸四郎の合葬墓、中央と左が中村勘三郎家、↑右が市村羽左衞門家代々、中央と左が三代目以降の坂東彦三郎家代々、↑右が初代尾上菊五郎、左側の二基は尾上菊五郎(寺島家)門弟たちのお墓で、右手の石面にはいくらか落剥してゐるが、弟子たちの名がびっしりと刻まれてゐる。大阪四天王寺の嵐家のお墓には、石灯籠に門弟たちの名がたくさん刻まれてゐるが、ここのやうに門弟たちそのものの墓とは珍らしいと思ひ、またなにか親(ちか)しさも覺えて、特に氣持ちをこめて合掌す。
2025.02.10

四天王寺で師匠と嵐家の御先祖に一ヶ月遅れの新年の挨拶を済ませたあと、日本一低い山“だった”天保山を訪ねばやと、存じ候。まだ師匠に弟子入りする前、道頓堀の中座に出演してゐた師匠を拝見しに大阪を旅行した際に一度訪れて以来數十年ぶりのことで、こんもりとした木立ちがそれだった、くらゐの記憶しかない。 さて、いまはどんな景色かしら……?大阪メトロ中央線「大阪港」驛を下車、海遊館の大觀覧車を左に見つつ海方向に行くと、小高く土の盛られた公園あり。そばには「天保山跡」と刻まれた石標があり、天保二年(1831年)に安治川の底を浚った際に出た土砂を積み上げて造った人工山云々。階段のついた目の前の小山がさうかと思へどさにあらず、それを越えて安治川河口を正面に見た右隅、明治天皇聖蹟碑の建つちょっとした廣場が天保山の山頂にて、標高は4,53m。かつては名實ともに日本一低い山だったが、東日本大震災の津波被害で仙臺市の日和山の標高が下ったことによりその座を明け渡すことなったが、國家基準點である二等三角點を有する山としては、現在も日本一を維持云々。(※戰前の天保山)どちらも海に臨んだ人工山だが、仙臺市の日和山は可愛らしい響き、天保山(てんぽうざん)は年號を取ってゐるためか重厚な響きを感じる。もっとも、一位だの二位だのは私にはどうでもよく、しっかり「山」として壮大な存在感を放ってゐるところに、私は魅力を感じるのである。山頂からは、大阪市營渡船の渡し場が望める。「おうい、待ってくれェ……!」私は慌てて下山し、ギリギリ間に合ふ。
2025.02.07

EXPO'70の現在を訪ねたからには、現在始まらうとしてゐるEXPOの進捗も一見しておかばやと、存じ候。先ほど延伸開業した大阪メトロ中央線の「夢洲(ゆめしま)」驛から地上にあがるとその先の鉄柵の向かふに、いまだちっとも盛り上がらず、いまだ完成の目処も立たぬ2025年大阪萬博會場が、建設資材越しに見ゆる。同じ目的でやって来た高齢男性と、「この様子では、本當に開幕までには完成しないでせうね……」と話してゐるそばを、ヘルメットを被った作業員たちや關係者たちが、頻繁に往き来してゐる。その高齢男性は、團体のバス旅行での萬博見物を計画云々、しかし駐車場から會場入口まで1kmほど歩くことになると聞かされたさうで、「それはちょっとないよなァ、と思ひます」とため息をついてゐた。クルマでも電車でも、ここへ来るにはもちろん、大混雑は重々覺悟しなければならない、ハズだ。鐵道の最寄驛である大阪メトロ中央線「夢洲」驛は、いまでこそ閑散としてゐるが、いざ萬博が始まれば呆然となるくらゐにヒトでごった返す……、ハズだ。そして萬博の閉幕後は……?だれかの利益(もうけ)ばかりが最優先するこの國力無き令和時代、いまや誰もがユメを見尽して、すぐそこの“夢(みらい)”すらも描けない、そんな残滓に我々は縋ってゐるのではないか……?
2025.02.07

現在は70'大阪萬博の資料を展示した記念館となってゐる「EXPO'70パビリオン」は、もともとは「鉄鋼館」と云ふパビリオンで、建物じたいが樂器と云ふ趣向の音樂ホールとして造られ、當時から閉幕後も殘すことが決ってゐた貴重な生き証人、平成二十二年(2010年)には閉幕以来非公開だった“スペースシアター”が復活して、當時斬新だった音樂世界を、令和現在もそのままの魅力で演出してゐる。目當ての初代“黄金の顔”はその別館に展示されており、あの左目のところに、開催中には目立ちたがり屋の男がしばらく棲みついてゐたのか、と當時の觀客になった氣分でしばし見上げる。このEXPO'70パビリオンでは、萬博開催時における女性係員たちを中心としたユニホームを展示した企画展が行はれてゐたので、併せて觀る。會場では“ホステス”と呼ばれた各パビリオンで働く女性たちのユニホームも、ファッションリーダーとして萬博の呼び物云々、海外各國がデザインに工夫を凝らすなか、國の威信をかけて開催するニッポンも氣鋭のデザイナーたちを起用して最先端の知恵と工夫を凝らし、簡素且つ活動的にして、女性としての魅力存分も惹き出した“萬博モード”を編み出す。特徴は當時流行のミニスカートを採り入れたことで、姿勢によっては脚が際どくなるこの衣裳を、上品上手に着こなしてゐた當時の女性たちの冩真に、ほう、と感心する。片膝を内に入れて地面に膝をつく座り方、令和のお姉さんたちは御存知?會場内の移動手段のひとつに、當時は未来の交通機關だったモノレールが運行され、その車両デザインは令和でも通用する魅力を放ってゐたが、萬博閉幕後は動力の一部を東京モノレールに転用したほかは解体され、現物は目に出来ない。が、現在は門真市と大阪(伊丹)空港を結ぶ大阪モノレールが、支線も含めて萬博記念公園のそばを通ってゐる。萬博のモノレールと大阪モノレールとに經營上のつながりはないが、昭和四十五年當時に現出した未来は、“人類の調和”はさておき、少しづつカタチにはなってゐるのだな、と思ひつつ大寒波に凍えた體をあの車内で少しでも温めんと、驛に急ぐ。
2025.02.06

會場が廣いだけでなく、内容の奥も深くて一篇にまとめられない“EXPO'70”跡めぐり、70’大阪萬博の象徴と云へば故人岡本太郎の手による「太陽の塔」、もともとは地上30mの高さに設けられた「大屋根」のテーマ館に觀客を運び上げる必要から計画されたものだが、故人がこの塔の計画に着手したのは萬博開幕の二年前と遅く、しかもこの造作について故人は生前になにも語ってゐないため詳細は不明云々、内部は「生命の樹」と名付けられた壮大な模型が高々とそびえ、觀客はそれに度肝を抜かれつつエスカレーターで上った云々、しかし萬博閉會後は長らく閉じられたままになってゐたものを、平成三十年(2018年)に補修補強工事を施した上で常設展示施設として復活、「藝術は呪術である」と語った故人の“斬新”な生命觀は、令和の世にもただただ呆氣にとられる。もっとも、ワケのわからないモノはそのぶん接する者に自由な思考を許すわけで、「ワケわからん」と云ふことがわかった、で良しとすべし。この復活施設の序章には、故人が制作した「地底の太陽」なる巨大假面が展示されてゐるが、これは萬博閉幕後に行方不明になった實物の復元云々、(※萬博開催當時の現物)“行方不明”と云ふところが、私には何かそそらるる。萬博開催當時に「太陽の塔」の頂部に設置され、平成四年(1992年)に劣化を防ぐため取り替へられた初代の“黄金の顔”が令和五年(2023年)夏に園内の「EXPO'70パビリオン(旧鉄鋼館)」に再登場云々、そちらも一見せばやと存じ候。
2025.02.06

「ビルマ館」「古河パビリオン」「三井グループ館」遠景「お祭り広場」「日本庭園」“木漏れ日の滝”(?)……と、自然公園に整備されてゐるだけあって跡地はほぼ芝生廣場になっており、日立グループ館があった一帯は深い森となってゐるのは、かつての千里丘陵の姿に還そうと云ふ計画なのだらうか。次は、現在も殘る往年のパビリオンを訪ねばやと、存じ候。
2025.02.06

押入れに長らく仕舞ったままになってゐたアルバム群のひとつから、昭和四十五年五月の大型連休中に出かけたことが記されてゐる、大阪の千里丘陵で開催された「日本万国博覧会」──“EXPO'70”の冩真が數枚出てきた。と云ふわけで、その場所の令和現在を一見せばやと存じ候。昭和四十五年(1970年)3月15日(日)から9月13日(日)の半年、183日間にわたって開催され、6千4百萬人以上が訪れたと云ふ戰後ニッポンが國の威信をかけた萬國博覧會の會場は、閉會後に萬博記念公園として再整備され、現在に至る。『人類の進歩と調和』を基本理念としたこの催しでは、世界76ヶ國他が参加しただけに、實に多種多様な出来事に富んでゐたやうだが、それは今回の噺ではないので他者に譲り、冩真に殘るパビリオン(展示館)のその跡を訪ね行かん。「三菱未来館」「せんい館」遠景「エチオピア館」つづく
2025.02.06

國學院大學博物館にて、文永の役──いはゆる“元寇”から七五〇年目に因んだ特別展「絵詞に探るモンゴル襲来─『蒙古襲来絵詞』の世界─」を、三期通して觀る。肥後國御家人の竹崎季長が鎌倉幕府から恩賞を得るための証明として、蒙古相手に奮戰した様を描かせた「蒙古襲来繪詞」は皇居三の丸尚藏館に収藏の原本のほか、(※原本の「蒙古襲来繪詞」)約四十點の模冩本が確認云々、ここでは細川藩士の手を離れたのち所有者を転々として菊池神社に収まった“菊池神社本”と、令和四年六月に埼玉縣の熊谷次郎直實の子孫とされる旧家で新發見の、成立年代など諸事情が不明な“根岸家本”の二點の模冩本を比較展示する。(※同)後年の模冩はそれぞれに事情や繪師の感性によって原本とは異なる風合ひを持つものであり、両者を並べて相違點を指摘する“間違ひ探し”は、意味が無いと思ふ。(※海底の沈没船から發見された“てつはう”)弘安、文永の二度にわたって九州を攻めて来た元軍は、いづれも折からの大型臺風により壊滅した、と私たちは學校の授業で習ったが、實際は二度目の文永ではその後も激しい海上戰が繰り廣げられたことは、後期に展示の繪詞に明白であり、そもそも「蒙古襲来繪詞」には暴風雨の場面そのものがない。件の暴風雨は、たしかに二度にわたって蒙古軍に大打撃を與へたが決定打ではなく、またそれは竹崎季長をはじめ“現場”の武士たちにとって神風──「カミの加護」などと云ふ認識はなかったことを示す。蒙古軍の撃退をさう捉えたのは神佛に恃んで加持祈禱を行なった僧たちであり、その認識は時代が下るにつれて“現場”を知らない者たちにより補強され、近代の愚戰に至っては特攻隊の名稱に冠されるなど國威發揚の好材料となって、都合よく完成される。假にそれで大日本帝國が勝利したならば、いよいよ件の暴風雨は“神風”として歴史に創作されたことだらう。正史とは常に勝者によって都合よく創られる、恐ろしく眉唾な噺なのだ。 (※蒙古軍船の推定復元模型)世界は變って、現代の角界では橫綱を蒙古人に席巻されて久しい。鳴呼、カミカゼは吹かないかしらん。
2025.02.05

地下鐵博物館の特別展「東京メトロ20年のあゆみ展」を觀る。私にはまだ何となく馴染みがある“營團地下鐵”から、民間運營の“東京メトロ”に移行してもう二十年が過ぎたかと、今さらながら感慨に浸る。民間では莫大な費用のかかる地下鐵建設を、官の財力(チカラ)で推進すべく設立されたのが帝都高速度交通營團であり、そのために自力で新橋まで開通させた果てに橫合ひから官に持って行かれた早川德次の悲哀は、長く心に留めておくべき歴史だ。民営化後は車両も設備も、時代の要請に合はせて弛まぬ改良を重ねてゐることはふだん利用してゐる一人としてよく感じることであり、東京メトロについては、他社線ほどには使ひ勝手の惡さを感じることもない。私はこれからも、その時その時の浮世の流れに乗せられつつ、東京徘徊の手段に活用するだらう。
2025.02.04

昨年から復活させた二月恒例のお樂しみ、橫濱市保土ヶ谷區の岩間市民プラザで、活辯士坂本頼光さんの無聲映画上映會「サイレントシネマ&活弁ワールド」の第十五回目に出かける。昨年に第一部を上映した大河内傳次郎主演「水戸黄門」三部作の第二部(昭和十年/1935年)“密書の巻”は、柳澤吉保の陰謀が記された副題のそれを追ひかけて舞臺を江戸を移し、大河内傳次郎が水戸黄門よりも二役で扮する山浪人に持ち前の磊落ぶりが發揮されてむしろこちらが本役、(※案内チラシより)そんな大河内傳次郎往年の臺詞回しを、坂本頼光さんが見事な話藝で再現してさらに一篇を盛り上げる。中盤には喜劇役者として名を馳せた高勢實乗が御老公一行が江戸へ下る途中に泊った宿屋の亭主役で出演しており、日頃の剣術好きが助さん格さんにコテンパンに叩きのめされる件りで、他の人ではちょっと真似できない軽妙な道化ぶりを見せて一場をしっかり自分のものにしてゐる。ハロルド・ロイド主演の「ロイドの巨人征服」(1923/大正十二年)は、ロイド扮する重病人と思ひ込んだ富豪青年が、靜養のため渡航した南米の小島で遭遇した惡人たちとのあの手この手の對決を軽快に描いた喜劇、(※同)看護師のヒロイン、實際に2m以上の身長があったと云ふ朴訥な大男、冷たい眼光が印象的な惡の親玉など、個性的な登場人物たちに坂本頼光さんがそれぞれおかしみをふんだんに盛り込んで、客席をこれでもかと沸かせる。もともと上手な活辯士だが、今回はとりわけ話術に磨きがかかってゐるやうに感じた。今日は東京圏でも降雪が予想されるほど、氷のやうに冷たい空氣の一日。しかし大いに笑って體も暖まり、この心地よさを忘れずにまた来年も来るゾ、と、ひとり笑みする。
2025.02.02

昨夏の“澁公LIVE”いらい半年ぶり、SHIBUYA CLUB QUATTROで、The Biscatsに逢ふ。澁谷のライヴハウスで初めてこのロカビリーバンドを生で聴いてからもう1年か、とあの時の鮮烈さを思ひ出しながら、アルバム曲、新曲、カヴァー曲を⤴️⤴️✊✊で遊んで、「エッ、もうお開き……!?」と驚いたくらゐにあっといふ間な113分間。(※撮影OKコーナーにて)立場も場所も違へど、同じ時間を生きてゐることを實感して、そのお土産を壊さないやう、うるさいシブヤにそっと下る。
2025.02.01
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