全30件 (30件中 1-30件目)
1

昨年から氣になってゐた、三鷹市山本有三記念館の企画展「濁流 雑談 近衛文麿─燃ゆる創作への想い─」を觀る。旧宇都宮藩の輕輩武士の家に生まれ、劇作家、小説家、教育者、そして参議院議員として政界にも身をおいた山本有三が、明治四十二年(1909年)に入學した第一高等學校で同級生となった縁でのちに交友關係を持ち、特に太平洋戰争がはじまった昭和十六年からの四年間は濃密な親交を結んだ近衞文麿を題材にした未完の新聞連載「濁流」への強い意欲を、殘された創作ノートなどから偲ぶ。(※展示室内フラッシュ無しで撮影可)戰前、藤原摂關家筆頭の末裔と云ふ最高の貴種性ゆゑに國民からの圧倒的な人氣と期待を得て三度まで首相の座に就き、しかし結果として太平洋戰争を止められなかった張本人となり、戰後に外夷からA級戰犯とされるも自ら命を絶って斷固拒絶した近衞文麿について、數多の研究者たちなどによる數多の傳記が、毀誉褒貶こもごも現在に至るまで出版されてゐる。太平洋戰争と云ふキナ臭い時世下に、その中枢たる近衞と深く親交してゐた山本有三が、その時代の回想録を“雑談”形式の文体で小説化した「濁流」を毎日新聞に連載を開始したのが、近衞の死後二十八年が經った昭和四十八年四月、當時八十五歳といふ高齢の山本有三は、「自分が書かなければ、この事實は永久に日の目を見なくなるとする義務感と使命感」と云ふ強い意志で執筆に臨んだものの、やがて体調を崩して翌四十九年一月十一日に死去、これまでにない近衞文麿傳となるはずだった「濁流」は、未完となる。近衞文麿の死後、自分にしか書けない近衞公傳を、と思ひ續けてはゐたやうだが、やはり年齢的に遅きに失したの感は拭へない。しかし、作品は昭和十九年七月、作者が疎開先で近衞からの急電を受けて帰京し、邸宅の荻外荘を訪れると、やりたい放題の憲兵政治で國民から嫌はれてゐた首相東條英機の暗殺計画を近衞本人の口から密かに打ち明けられ、その聲明を書くやう依頼されるところから始まるといふいきなり本題に切り込んでいく構成で、讀者をたちまちに惹きつけていく。結局、暗殺計画は近衞のお公家さん氣質などから「慎重に考えましょう」となり作者を憤慨させるが、その數日後に東條英機は政府重臣の圧力で首相の辞表提出に追ひ込まれ、その政府重臣には近衞も含まれてゐることから、彼の深謀遠慮を察する。近衞文麿は當時、公家の印象そのままな外見的言動から「弱い人」の典型のやうに見られてゐたが、實は表立って爭ふことなく“水面下”に立ち回ることで一千年以上を生き延びてきた藤原貴族の処世術そのままに、目立ぬやう早期終戰へ強い心で尽力してゐた事實が、この「濁流」の根底には一貫して流れてゐる。近衞文麿が首相として太平洋戰争を引き起こした強い責任感から、早期の終戰に“水面下”で奔走尽力してゐた事實はごく近年の研究で明らかにされつつある歴史だが、「濁流」が單行本化された昭和四十九年時點でそれが既に語られてゐることは、しょせん歴史はヒトによって創られる一端を示してゐるものと、私は讀む。そして、毎日新聞の連載當初に掲載された二宮丙夫氏の、「戦争を忘れた肥満児日本で、大手商社が買い占め買いだめしても、列島改造の先取りをしても、何らなすところなき今の政府よりも、近衛首相は国民に対する愛情があったように思う」の評文が、あまりに令和現在そのままであることに、ゾッとする。その近衞文麿の邸宅「荻外荘(てきがいそう)」が、長らくの改修復原工事を經て昨年十二月から一般公開されてゐるので、併せて訪ねる。昭和三十六年に豊島區へ移築された客間や玄関、應接間の棟が昨秋に再移築されて往年の姿に戻った國史跡の旧公爵邸からは、華族と云ふより公家の邸宅としての匂ひを、強く感じる。藤原道長以来、一千年續いた摂關家の歴史は、明治のにわか西洋かぶれな制度には太刀打ちできない奥深さを誇るものであり、近衞文麿はその誇りをその血に濃く受け繼いだ、最後の關白だったのではないか。“勝てば官軍”の外夷にA級戰犯呼ばはりされた最後の關白は昭和二十年(1945年)十二月十六日早朝、土足で踏み込んで来た外夷より先に、書斎で自決と云ふ最も強い拒絶を表明する。私はその當時のまま殘されてゐる書斎を拝し、近衞公が文字通りの命懸けで守り通したかったものが何であったか、なんとなくわかったやうな氣がした。が、しょせん無知無學な俗庶の悲しさで、それを言葉にできるだけの才を持たぬ。辛うじて近い表現で言ひ換へるとすれば、「日本人としての──」だらうか。
2025.04.30

たしかあれは日産のダットサン……、と思いながら近くまで寄ってみて、やはりそのとおり。昭和三十年の誕生、“戰後”が時世として過去になり、昭和が次の時代へ走り出さうとしてゐた、そんな魁(さきがけ)となったクルマ。その簡素な仕様(つくり)の運転席に、現今のクルマがいかに余計なモノを付け過ぎてゐるかが、よくわかる。そして窓の上の雨樋に、物作りの粋を見たのは、私だけだらうか。
2025.04.29

映画「ゲッベルズ ヒトラーをプロデュースした男」(原題 Führer und Verührer)を觀る。ヒトラー政權下の十二年間、宣傳相として独國民を嫌Jewへと煽り立て、時にはヒトラーをも操作したヨーゼフ・ゲッベルズの辣腕ぶりを、綿密な調査に基づいて劇化した“ヒトラー物”の意欲的最新作。いつの時代もつねに事實を知らされない國民を、いかに“宣傳”によって演出し、「手なずける」か、その驚愕の手法にむしろ「さうさう、さういふことをやるのぢゃよ……」とオドロキもせずスクリーンを眺めてゐたのは、あれから八十年を過ぎた二十一世紀現在も、そっくり生きてゐるからにほかならない。劇中では、初めて目にするユダヤ人虐殺の瞬間を記録した當時の映像が頻出してむしろそちらに目を瞠らされ、最後に大量虐殺から奇跡的に生き延びた高齢の女性のメッセージが映し出される。……しかし、なぜユダヤ人があそこまで殘虐な目に遭はなければならなかったのか、その明確な理由を扱った“ヒトラー物”を、私は知らない。かつて映画をさかんに利用したヒトラーが、現在では逆に興行目的で利用されてゐるなか、それこそプロパガンダの禁忌に触れるからだらうか。
2025.04.28

ラジオ放送の喜多流「藤戸」を聴く。人の成功の蔭には必ず誰かの犠牲がある真實を抉り出した秀曲にて、馬でも渡れる淺瀬を源氏方の武将佐々木三郎盛綱に教へて口封じをされた若い漁師と、のちに新領主となった佐々木盛綱に殺された息子を返せと鋭く迫る、漁師の母親──おなじ挿話(はなし)を、前半と後半でそれぞれ別の登場人物によって語られる形式は能ならではのもので、視點の位置を變へることによって一つの話しを立体的に印象づける効果を狙ったものと考へられるが、「下郎(庶民)のことだから分別なく他人に口外するかもしれない」と案じた佐々木盛綱の“動機”も、なかなか聞き落とせないものがあると、私には思へる。
2025.04.27

4月25日(木)、大阪・関西萬博に来場してゐた五十代女性が心肺停止で救急搬送された後、病院で死亡云々、開幕以来初めての事例にて、さういふこともあるのか……、と思ってゐたら、翌26日(金)には来場者が100萬人を突破云々、萬国萬人が悲喜交々に交錯する場だなァと、つくづく思ふ。
2025.04.26

赤字と老朽化で今月十九日をもって閉館した六本木の俳優座劇場を、吉本興業が買収してコント専用劇場に改装云々、そもそも俳優座劇場の閉館そのものを今朝のニュースまで知らなかったので二重のオドロキ、また一つ昭和文化が消えるのかと、つひ感慨に浸る。傳統藝能の基礎を日々學んでゐた二昔以上前、現代演劇も觀ておく必要と興味を感じた一時期に、何度か足を運んだ劇場だった。たまたま運良くさういふものに當っただけかもしれないが、質の良い現代の演劇文化を見せる劇場、と云った印象がある。前進座の河原崎長十郎が、歌舞伎十八番の「鳴神」を實験的な演出で上演したのもこの劇場だったことは、思へば面白いものがある。その前進座も長十郎と同世代が苦心惨憺の末に誕生させた吉祥寺の劇場を、孫子の代で自ら潰して同情の余地も無いことに對し、俳優座のそれの場合は、「これも時代の變化、流れなのだらうか……」と、社會的理由に原因を求めたくなるのは、二昔以上前の印象が現在(いま)も生きてゐるからだらう。これからは吉本興業の持ち物になるとは大變な宗旨替へだが、どこかのやうに跡地が駐車場になったり、ありふれた飲食店になったり、チャチな集合住宅になったりするよりかは、劇場であり續けるだけ、はるかに幸ひと云ふものだ。
2025.04.25

藤澤浮世繪館で、「浮世絵でめぐる明治の東海道と藤沢 東海名所改正道中記」展を觀る。初代歌川廣重の名作「東海道五十三次」を下敷きに、女婿の三代目歌川廣重が明治八年に發表した「東海道名所改正道中記」は、まだ德川時代を色濃く殘すニッポンに西洋文明がひたひたと迫ってゐる様子を、東海道五十三次を題材に新奇な文物(モノ)への旺盛な好奇心と臨場感に富んだ眼差しで活冩した世相資料でもあり、 私も以前に神保町でその複製を數枚手に入れたので、その原版の全てを樂しみながら、自分が旧東海道を京から東京へと踏破した旅の思ひ出とを重ね合はせる。(※展示室内フラッシュ無しで撮影可)三代目歌川廣重はその四年前(明治四年)、翌年に開業する鐵道を描いてゐるが、いかにも仄聞と想像の産物らしい珍奇な陸蒸氣ぶりが面白い。と同時に、なにか斬新なものを、私は感じたりする。現在は3Dプリンターとやらで簡單にモノを複製できるミライである。どうぢゃな、このミライ感たっぷりな陸蒸氣を、萬博で走らせては。空を飛ぶどころか計画が飛んだクルマなどより、ワシはよっぽど乗ってみたいものぢゃよ。
2025.04.24

國立歴史民俗博物館の企画展「時代を映す錦絵─浮世絵師が描いた幕末・明治─」を觀る。その時代のその時その瞬間を、皮肉をこめて冩し取った世相画は、企画展の題にもある通り「時代を映」したキワモノでもあり、の時その瞬間に身をおいてゐた者でなくては、その寓意が直感的には傳はりにくい。江戸をたびたび襲った地震災害を扱った“鯰繪”は、地震が令和現在も進行してゐる災害のため、元凶とされる鯰が庶民の袋叩きに遭ってゐる意味がすぐ讀み取れるのは、そのためだ。(※展示物の撮影可)むしろ私は、明治になって西洋文明が大量に流入し、その新しい世相を江戸以来の浮世繪師たちは忠實旺盛に冩し取らうと努力を重ね、それらは“開化繪”や“橫濱繪”と呼ばれたが、しょせん旧態の技法と構図を踏襲した延長にすぎないためしだいに収まりきらなくなって行き詰まり、やがて限界を迎へて新版画に変遷していく過程を通覧できたことに、今回の意義を見出す。そして佐倉城趾の市民花園へ立ち寄り對面した牡丹に、今回の千葉行きが充實したものになることを確信する。
2025.04.23

府中市美術館の「司馬江漢と亜欧堂田善 かっこい油絵」展を、前期後期通して觀る。町人文化が爛熟した江戸中期、平賀源内の發案と云ふ西洋繪画の技法を取り入れた“洋風画”に挑んだ二人の画家──司馬江漢と亜欧堂田善の描いた、地図のどこにも載ってゐない不思議な國ニッポンを巡り歩く。特に亞欧堂田善については、二年前に千葉縣の美術館での企画展に興味をもって乗る列車の時間まで調べてゐながら、一瞬ふと氣が變はって出かけなかったことをのちのちまで後悔したので、今度こそ絶對に……!との思ひで出かける。厚さわずか2㎜の銅板から廣がる奥行きも明確なニッポン、「遠くが見える繪」と江戸時代の人が認識した西洋繪画の“遠近法”は、肉眼ではぼやけて見える遠景までを克明に冩して却って違和感を與へる現今のデジタルカメラでは表せられないニッポンの奥深さを再現し、顔を近づけるうちに吸い込まれて行くやうな、しかしそれでも良いと思へるやうな、そんな“魔力”をもって、向かふから私に手招きする。
2025.04.22

豆州下田の玉泉寺──幕末ニッポンに米國が最初の領事館をおいた史跡を訪ねる。黒船ペリーの来航により安政元年(1854年)に下田が開港して以来、異人の休息所であり、死亡した乗組員の埋葬地でもあった當所に、総領事として掛いたハリスが米國領事館としての星条旗を揚げたのは安政三年(1856年)八月六日、その當時の繪を見ると廣い境内のやうに映るが、實際はかなりこじんまりとした、駐日外交館としてはだいぶ手狭であったらう場所である。その後、なかなか埒の明かない幕府役人へのストレスなどで体調不良に陥ったハリスが、通訳を介して要請した“看護婦”として、當時十七歳の“きち”がこの領事館に掛かされたのは翌安政四年(1857年)五月二十二日、夜毎通ひの契約であったが、わずか三夜で解雇となる。敬虔な耶蘇教徒であり、高潔な人柄ともされるハリスは純粋なる“看病人”を希望したのだが、ニッポン(幕府)側が通訳のコトバの調子からそれを“夜伽役”と解釈したその相違がのちに「唐人お吉」と浮世から蔑まされる悲劇の發端、とする學者研究もあり、またさうした部分を誇大に描いた後世の戯曲類があまりに有名になってしまったため、“きち”の生涯は墓がある寶福寺に隣接する「唐人お吉記念館」に見る資料の如く、虚實綯い交ぜのまま今日に傳はる。もともと昼は一人親の母と漁師たちの着物を縫ったり洗ったり、夜は酌婦まがひのことをして細々と生計を立ててゐたと云ふ“きち”の、十九歳の時に撮影したとされる肖像冩真がこの記念館でひときわ目を惹き、現代でも通じるキリッとした美人を傳へてゐるが、前述のやうなわけで本人かどうかは話半分……、以下にとらへたはうがよいやうだ。が、ここに數多展示されてゐる“唐人お吉”に扮した役者の冩真のどれよりも、この古冩真の女性のはうが、これだけは真實、はるかに美しい。ハリスの“看病人”を解雇されたのちの“きち”の、その後の人生がふるはなかったことは事實らしく、明治になってから橫濱より下田へ戻って女髪結ひになったり、小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開いたり、(※建物のみが殘る旧安直楼)藝者や音曲師匠として細々と生計を立てるも“ラシャメン崩れ”の過去を乗り越へられず転變流転、酒毒で身体も不自由となった果てに明治二十四年三月二十七日、下田上流の稲生澤川で自殺体となって發見さるる。その場所は現在「お吉が淵」と云ふ旧跡となってゐるが、實は地元の人が杖をついてトボトボ歩く彼女の姿をこのあたりで見かけたと云ふ話しからここに定めただけで、實際の發見場所ではないらしい。女性の地位が低く認識されてゐた時代に、異人への蔑視感情が重なって引き起こされた運命の悲劇、(※寶福寺に傳はる“唐人お吉”の墓)それを後世人が他人事なだけに悲話だの哀話だの情話だのに脚色して一儲けを企んだのが現行の半生記、しかし現實は私が玉泉寺境内を見學中に母屋から現れた若い僧へ會釈したところ、無言のままジロリと見られたことに象徴される如く、他人(ヒト)の情などを信じることこそが、いちばんの悲劇なのだ。
2025.04.21

二ヶ月前の發表時から樂しみに待ってゐたC-Styleの結成十二周年記念ライヴを聴きに、御當地の千葉縣木更津市まで出かける。いまは中ホールのみを使用してゐる木更津市民會館の會場は満員御禮、ここまでには紆余曲折があったと仄聞するご當地アイドル、しかし人生は何事も、續けてゐる者勝ちである。止めるのは簡單、續けるのは難しく、止めたあとの人生から何かを見つけ出すのは、もっと難しい。いはゆる“コロナ禍”で自宅軟禁を余儀なくされた日々にTVを通して出逢った彼女たちに、しばらく間をおいた後に再び氣になる存在となり、かく初めて木更津まで出かけたのも、(※ライヴ中の冩真撮影可)わが励みの“味方”と思へればこそ。
2025.04.20

今月はじめから改装工事のため十日間ほど休業してゐた地元のスーパーマーケットが今日から營業を再開、「やっとだ……」と待ち侘びた氣持ちで買ひ物へ出かける。これまで當たり前に利用してゐたものが當り前でなくなった時の氣分上の不便さに、人災疫病禍真っ只中の頃を思ひ出す。そして當り前の日常がいちばんの平和であることを改めて認識しつつ、棲み家でちゃうど消耗しかけてゐる消耗品の替へを、いつものやうに買っていく。
2025.04.19

靜かな昼下がりの東京都郊外で、今年最初の藤に逢ふ。今年も“はじめまして”だな、と見上げる頭上を、先客がブンブンと羽音を奏でて藤から榮養を分けてもらってゐる。あなたも待ちに待ってゐたのだネ、と“お仲間”を感じつつ、次の予定へ急ぐ。今日の目的をすべて叶へて我が町に戻ると、牡丹が最後の見頃を誇ってゐた。なればお早めに、と私も氣持ちへ浄化の榮養を分けてもらふ。
2025.04.18

「大阪・関西万博」の開幕三日目にして、見世物小屋(パビリオン)内で初の逮捕者云々、4月16日(水)13:00頃、キルギス館に展示のビン詰めハチミツ6800圓相當を萬引き云々、逃走途中に転んでビンを割るアホ丸出しなオチを付けたのは富田林市在住の83歳の日本人爺さん云々、余罪があると見て捜査云々。その二日前の14日には手荷物検査の際、八十代のやはり日本人爺さんが「リュックサックの中に爆彈があるんや」と警備員に輕口をたたいたつもりが當然大ごとになって威力業務妨害で逮捕云々。いいトシして思慮分別がない、と云ふより、もともとさういふ能力もなくただ呼吸(イキ)だけし續けてゐた結果がコレ、と云ふことだらう。いづれも、「コレがニッポンの『老害』ぢゃ!」と、面白くもない生々しい未来社會を當人たちが動く見世物(パビリオン)となって萬國に展示した、と考へたはうが、萬國博覧會らしくて面白かろ。
2025.04.17

日中の傳統藝能が描く楊貴妃を、東京都大田區の大田區民プラザ大ホールで行なはれた「日中楊貴妃の響演」公演に觀る。楊玉環が唐國の玄宗皇帝に妃嬪の最高位“貴妃”として迎へられ、榮華を極めるも安禄山の謀叛によって自ら命を絶つまでを、日本では珍しい崑劇(崑曲)とお馴染みの京劇で繫いだ四景構成に、日本舞踊による“後日談”を付けた楊貴妃一代記。崑劇(こんげき)とは、元末から明初にかけての時代に江蘇省昆山に始まった六百年以上も續く歌舞の藝能にて、日本の能樂とおなじ歴史を持つと聞いて、にはかに親近感を抱く。この崑劇から派生し、清朝下の北京で發展したのが京劇であり、「崑劇は京劇の母」云々、しかし日本でも能樂と歌舞伎を一つの公演でやらないやうに、崑劇と京劇も現地では一緒に上演することはない云々、よって今回の日本での併演は非常に珍しい企画云々、両者とも舞臺面の觀た感じは同じやうでも、崑劇のはうは伴奏樂器の音色に素朴さを殘してゐるやうに、私の耳には聞こえた。崑劇京劇ともに演者のしなやかな動きにゆったりと靡く衣裳、繊細な指先で戯れる金地に牡丹柄の扇子──なるほどたった一人で大帝國を傾けたわけだと、臺詞のなかにしか登場しない安禄山が謀叛を起こしたくなった氣持ちもわかったやうな、贅澤に酔酒の四景。
2025.04.16

國立公文書館の特別展「書物がひらく泰平─江戸時代の出版文化─」を觀る。江戸時代の出版文化を扱った企画展としては國學院大學博物館のそれと類似してゐるが、こちらは德川家康が蒐集した後世の「紅葉山文庫」を母体とする内閣文庫に収められた資料ゆゑ、同じ“本”でも娯樂性のないおカタい系ばかりは致し方なし。さうしたなかだからこそ、でもないだらうが、江戸初期に木版活字──古活字版の挿繪に彩色された「丹緑本(たんろくぼん)」の簡素な色合ひが、(※フラッシュ無しで撮影可)ここでは枯れ野に芽吹いた一輪の花のやうに、しばし目と心を樂しませた。
2025.04.15

大相撲の春巡業を、今年は東京都大田區の大田區総合体育館で樂しむ。勝負の世界は入れ替はりが早いため、一年ぶりに觀る土俵の世界ではいま誰が首位なのか、カオとナマエが一致しなかったりする。長く應援してきた貴景勝もすでに引退して親方となり、大關は次の若手へと世代が移ってゐる。勝負はその日その時限り、ズルズルと俵の外へ押し出すより、豪快に土俵の外へ投げ飛ばす一番がやはり盛り上がり、またさうした一番に拍手と歡聲を贈るはうが樂しいものだ。客席には外國人の姿を多く見かけ、また土俵上でもお互ひガイジン力士と云ふいささか珍妙な一番もあったが、なんと云っても相撲は日本人の性に合った日本人の“國技”だと、浮世の俗塵をしばし忘れられたひととき。
2025.04.15

ラジオ放送で、寶生流「頼政」を聴く。亡靈であることにも疲れたかのやうなボソボソとした謠ひにて、こんな頼政ではしょせん負け戰さだったらうと耳だけ付き合ふうち、觀世流の野村四郎師でこの曲を觀たかったのが休演し、淺見真州師の代役となって落胆した昔日を思ひ出す。この曲はその後も觀てゐるはずだが、「頼政」と云ふとこのことばかりが印象に殘ってしまってゐる。のちに“野村幻雪”と號した野村四郎師も、淺見真州師も、いまは鬼籍に入られてゐる。あの印象ばかりが、現世の私のなかに殘ってゐる。これからも、ずっとさうだらう。よって、昔人の靈が現世にあらわれる謠のつくりが、私にはなんとなくわかるのである。
2025.04.14

東京多摩川線に乗る用事があったつひでに、多摩川の矢口渡(やぐちのわたし)跡を初めて訪ねる。矢口渡驛から歩いて約十五分、国道一號線の多摩川大橋に近い河川敷がそれに當たる。江戸時代に平賀源内が“福内鬼外”と云ふ筆名でしたためた浄瑠璃劇「神靈矢口渡」の四段目“頓兵衞住家”ゆかりの渡し場として當時からよく知られ、(歌舞伎「神靈矢口渡」 七代目尾上榮三郎の娘お舟 大正十二年三月 帝劇)多摩川に多くあった舟渡しのなかでも昭和二十四年までの長きにわたり要所交通として機能せり。(※往年の矢口渡し)上流にあった丸子の渡しは一日限りの復活イベントで乗ったことがあり、また最近は大阪天保山から櫻島への渡し舟を經験した。(※矢口渡跡の現景) いづれも舟が出たとたん、浮世の俗事も水の上までは及ばぬものか、向かふ岸までの僅かな時間がゆったりと感じられて、時の流れとは本當はかういふものなのではないか、と感じたものだ。
2025.04.14

「大阪・関西万博」が本日に開幕云々、“並ばない万博”をウリにしてゐたやうだが、初日は大混雑の大行列でとんだウソ云々、しかし普段から何かと行列をつくるのが大好きな余人ども、そんな状況など慣れたものだらう。會場へのシャトルバスは事前予約制のため、そのことを知らなかったと云ふ多くの余人が乗車を斷念云々、「そもそも予約制なんて聞いてゐない」と口を尖らすのもゐたやうだが、しかし數日前に「予約はほぼ満員」と報道されており、ふだんヒマさへあればいじってゐるスマホで、一体なにを見てゐたのかと思ふ。いざ辿り着いた入退場門あたりは、さうした状況のために通信機能が麻痺云々、スマホなどで画面表示する電子チケットもその役割を果たせず、混雑混乱の上塗りに手を貸したばかりか、會場地図も開けず結局のところ来場客は紙の地図を求めて右往左往、ヒトは二十一世紀においても文明の原點に留まり、未来へなんら飛躍してゐない好例にて、回帰回顧の良い機會なるらん。初日の會場上空に華を添えるハズだったブルーインパルスは惡天候のために直前に中止、強風のため色付き雲を噴射したそばから消失した茶番大運動會時を思ひ出させるお笑ひ草、會場内ではつひに展示館の完成が間に合はなかった國もあり、それはその國のチカラの實態を展示したものと觀るのも一興か。この萬國博覧會の主題は『いのち輝く未来社会のデザイン』云々、ヒトも技術も既にのびしろが尽き、いのちを削るばかりしか殘されてゐないこの下降退化の浮世において、なほもどのやうな夢物語(ミライ)をもって欺くつもりか、いましばらく見物せばやと、存じ候。
2025.04.13

川崎浮世繪ギャラリーの「新版画─風景画の変遷」展を、前期と後期通して觀る。江戸の木版画が衰退する現状を憂えた版元の渡邊庄三郎が、明治四十年代に提唱した“新版画”は、版元、画家、彫師、摺師の四者協業による精緻な工程を取り入れた次世代の浮世繪とも云ふべき新しい藝術文化にて、江戸の浮世繪にはなかった景色の遠近や陰影を加へたことで西洋版画とはまた異なる独特な奥行きと深味を出すことに成功し、それは觀る者を今なほ魅了し續ける。(※案内チラシより)また近代以降の、現在では失なはれた風景を精彩ゆたかに冩し取ってゐるのは資料としても貴重であり、漁師町だった戰前の羽田をとらへた石渡江逸の二點は、ここには描かれてゐない穴守稲荷の存在意義をもはっきりと示すだけの力が感じられる。日本の木版画は、むしろこの新版画が成功した大正時代以降に真の完成をみた、とは云ひ過ぎだらうか。(※同)そして夕刻の薄暗い光景をさす「黄昏(たそがれ)」とは、薄暗くて人の見分けがつかず「誰だあれは」──「誰(た)そ彼(かれ)」が語源であることを知ったのが、ここでのいちばんの勉強。
2025.04.12

東海道かわさき宿交流館の企画展「懐かしき昭和の店先」を覗く。日々の生活に必要な品目だけ商店の數があった昭和の買ひ物風景を、女性の手工藝作家が自分の記憶だけを資料に再現し、平成二十六年(2014年)に當館へ寄贈した見世の小模型から訪ね歩く。見世の内部まで精細に再現した寄贈者の手先の器用さと記憶力以上に、會場いっぱいに並べられた見世の數の多さに驚く。なるほど、品目ごとに見世があり、それらが一本の道に沿って集まれば、“○○銀座”──商店街が生まれるわけだ。この時代、おなじ食肉でも豚と牛は肉屋、鳥は鶏肉屋と區別してゐたこと、今は器類を扱ふ瀬戸物屋で和式便器も扱ってゐたなど、紙粘土と布と木の三つで作られた見世たちから、短い時間のうちに昭和の商賣を興味深く見世てもらふ。
2025.04.10

千代田區一番町のJCII PHOTO SALONで、「林忠彦が見たアメリカ 1955」展を觀る。戰前より冩真家として活躍し、戰後には報道冩真の第一人者となった林忠彦氏が、當時は一般人の海外旅行が出来なかった昭和三十年(1955年)七月、ミス・ユニバース世界大會に日本代表として出場する高橋敬緯子に同行の特派員として初渡米、二十日間の取材の後、米國を縦斷して市井米國人たちの姿をフィルム150本、約3.800カットにわたり記録する。「冩真は記録性が大事」と云ふ、私も深く共感する信條をもつ林忠彦氏が記録した1955年當時の一般米國人のありのままな姿は、2025年現在のそれと、なんら變はるところがないことに驚かされる。いつの時代も、ニンゲンはどこまでもニンゲンでしかない、といふことか。そして印象的だったのが、日本發の飛行機が米國サンフランシスコ上空にさしかかった時、窓から眼下の景色を目にして、「こんな富裕な國と戰争をしたのか、無謀なことをしたものだと愕然とした。眼下にみえる家並の豊さにいやというほどそれを知らされた」と、衝撃を受けた氏の言葉。八十年前に日本が降服した愚戰のすべてが、この言葉に詰まってゐる。私は米夷の政治力、財力、文化力、それら國力をはっきり認めた上で、しかし米夷が嫌ひである。しかし戰争などと云ふ愚行は、しょせんどっちもどっち、だから私は、一方的に被害者ヅラするつもりはない。しかしどうしても赦し難いことが、人間の心には存在する。これぞ、ニンゲン云ふしょせん同じ穴のムジナの宿命。林忠彦氏が冩真に記録した1955年の市井米國人は、2025年現在のニッポン人風景と酷似……、否、そのままなのは、このためだ。
2025.04.10

“花まつり”と云ふ言葉の優しい響きに誘はれて、川崎大師平間寺の灌佛會に出かける。四月八日はお釈迦さまのお誕生日にて、甘茶をかけて生きる心の糧であらせられることに感謝を奉げる。それから振る舞ひの甘茶を初めていただき、後からじわりと広がる甘さに、なにか優しさを覺ゆ。今年の櫻も、今日あたりが最後の見頃かもしれない。締めくくりの牡丹櫻が、そろそろ顔をのぞかせやうとしてゐる。お詣りを済ませて心が軽くなったのは、佛の庭がヒトの煩悩を置いてくる場所だからだ。静かで、暖かで、人の求めるすべてが、ここにはおはす。
2025.04.08

両國國技館内の相撲博物館で、日本相撲協會設立百年を記念した「優勝力士~大相撲この100年~」展を觀る。(※館内撮影可)今日までの百年に土俵を彩った優勝力士たちの軌跡を、冩真や賜杯、化粧まわしなど縁(ゆかり)の品々で偲んだ企画展、晩年は痛快な解説者として“現役”を全うした北の富士勝昭さん、その愛弟子で師匠より先に亡くなった千代の富士、 その千代の富士を下した“平成の大橫綱”は……、やはり一切触れられず。人間組織の根深いイヤラシさに苦笑ひしつつ、私の年代では人の話しでしか知らない藏前國技館の具体的な資料を見られたことで、ひとつ溜飲を下げる。
2025.04.07

大型商業施設で、綺麗な赤に彩られた車を見かけて、吸い寄せられるやうにそばへ行く。昭和四十三年(1968年)製日産ローレル。この外觀だけでも、かつてニッポン製のクルマが外車を駆逐して貿易摩擦なるヤキモキを焼かせた理由が納得できる。日本に大量のチカラがあった時代の、オモカゲ。但し、大氣汚染に一役買った歴史もあることは、忘れちゃいけない。榮光と代償は、表裏一体の生き物さね。
2025.04.06

今年最初の現代手猿樂を、神奈川縣座間市のさがみ野さくら祭りにてつとめる。曲は「櫻芳野(さくらよしの)」、太鼓入りの華やかな中之舞を、櫻の印象に絡めて構成した新作にて、今回がそのお披露目。現代手猿樂を立ち上げて今年で十年、さうした實感はまったく無いが、續けるうちに趣向に凝った曲ばかりを作らうとする傾向が出てきたので、ここで一度原點を思ひ出し、「とりあへず見た目で樂しめる作品(もの)」をと、舞を主体にしたこの曲を創る。私はこれまで、浮世の“一般”とされてゐる人々とは異なる道を生き、またさうした余人と一緒である必要も無いことを知り、かつ實踐できる現在(いま)を人生の財産と心得る。口にしてゐるだけで實行が伴はない理想(おもひ)など、しょせんタダの不平不満にすぎず、しかしそこに浮世でおのれの居場所を見つけた氣になってゐる、そんな小さく収まった生き物に成り下がることだけは、ゴメンだヨ。
2025.04.05

ラジオ放送百年を記念した觀世流「船辯慶」を聴く。ラジオ放送が始まった百年前、初めて電波にのった謠曲が觀世流二十四世宗家一門による「船辯慶」云々、今回は同流の二十六世宗家とその取り巻き一派による同曲を、案の定の力み返った忙しない合唱で聞かせる。ただ、いつの時代にか過度な勤皇根性から止めてしまった後場の「主上をはじめ奉り」の一句を、いはゆる“五流能”の謠ひでは初めて聴けたことに、今回の価値を見出す。人の作ったものが變質するのは、時代のせいではない。時代の顔色を窺ふ、人そのものがさうしてしまふのだ。
2025.04.03

町内でよく目にしてゐた一本の百日紅の木が、いつの間にか伐られてゐたことを、今日になって氣が付く。家の塀の角に佇んで、暑い季節になるとふっさりと花をつけて、いまが盛夏であることを教へてくれた季節の一里塚。車の入らない生活道路へ枝は伸びてゐたが、通行の邪魔になるほどでもなく、なんとも殘念なことをしてくれたと、長い間の樂しみを取り上げられたやうな、少し腹立たしい氣分になる。
2025.04.02

四月が予想通りの雨ではじまる。寒いのは結構だが、風は要らない。令和七年度は、なにかと雨風に邪魔されさうな氣がする。おっと、ことだま。そんな天氣を續ける氣なら、こちらはあくまで我意を押し通すだけのこと。さうして生きる道を、私は選んでゐるのだから。
2025.04.01
全30件 (30件中 1-30件目)
1

