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神田駿河臺の明治大學前を通ると、發掘された瓦を展示した企画展を學内の博物館で開催してゐるとのことで、ふと興味を覺えて立ち寄ってみる。工務店代表取締役で瓦研究者の前場幸治氏が、約四十年にわたって収集した古今東西の瓦を平成二十二年に明治大學へ寄贈したもので、遺跡から陶器磁器と同じ欠片で發掘される遺物、くらゐの認識しかない古瓦も、特化して解説が加はると、なるほど貴重な歴史証言者となる。支那の明・清朝時代の宮殿の瓦は釉藥をかけて黄色を放ってゐるのが印象的で、かうして出土した實物を間近にすると、(※フラッシュ無しで展示物の撮影可)いつか故宮へ……、とまだ見ぬ國への旅情に誘はれる。中世の西欧人が「黄金の國ジパング」と憧れ、欲に駆られて船出した先のジパングでは、確かに城の瓦に金箔が貼られてゐたことはジパング住民でもオドロキ、奈良時代に東大寺を総本山として全國に建設された國分寺は、その需要から「古代瓦の黄金期」を 迎へるに至ったが、その形状は各國でまちまちだったらしいところに、遠い地方への權力伝播の實際が窺へる。この企画展でもっとも大きな瓦が、神奈川縣立金澤文庫の先代の建物で使用されてゐた巻鬼瓦で、金澤文庫はちょくちょく出かける馴染みある場所なだけに、金澤北條氏ゆかりの誇りと威厳がよく表れた名作と圧倒されつつ見入る。そして目線をふだんの庶民に戻し、それ自体がすでに藝術品であるそのほかの鬼瓦にふと同名の狂言を思ひ出し、“夫婦愛”の真心(まこと)とやらはカオではないらしいと、自分には無縁なところへも思ひを馳せる。
2025.06.30

C-Styleが展開するキッチンカー販賣のクレープ250食完賣目標の最終日に貢献せんと、彼女たちの地盤木更津まで出かける。人影なく青々と廣がる田んぼの畔道を、これ幸ひと謠ひを唸り上げながら悠々歩いてパチンコ店駐車場の一角に至ると、おなじみのキッチンカーの前に集まる人々に、賣上げは快調らしいと察する。今回はかなり忙しさうなので、クレープで貢献したあとは挨拶もそこそこに房総古道を驛まで戻る途中、「畳が池」と云ふいかにも曰くありげなバス停を見る。傍らの小さな池がそれで、今は昔、平家打倒の兵を挙げた源頼朝がこの地を訪れた際、土地の人々が池の周りに畳を敷き詰めて歡待したことに由来云々。それから木更津驛の海側の寺院に遺る“切られ與三郎”の墓にも参るなど、すべて自分らしいことをやって、かういふきっかけがなければ生涯まず出かけることはなかったであらう木更津が、だんだん自分の行動圏内=樂しむ場所に入ってきたことを實感する。
2025.06.29

銀座地下の觀世能樂堂で、觀世流の荒磯GINZA能公演を觀る。満員御禮とはなかなかのもの、出演者たちにはそれだけ切符を買はせるお弟子がゐると云ふことで、老若男女賑々しい見所(客席)だけを眺めれば、この御流儀はまだまだ安泰、と映る。そして舞臺に目を転じ、人の心は扇と同じく裏表があると嘆くも、最後には取り交わした扇を男と見せ合ひ表裏の重なったところに何か意味を見出したくなる「班女」、扇を手にドタバタやってゐるばかりで何の情感も沸かない仕舞四番、釈迦面の下に隠された大癋見に彿法の正体そのものを見るやうな可笑味を感じる「大會」と、わかったやうな、わからないやうな、幽冥の狭間を逍遙したひととき。
2025.06.28

JCII PHOTO SALONで、「片岡順一作品展 飛翔の詩」を觀る。飛行機と云ふ乗り物に憧れて昭和四十二年に全日空へ入社し、いらい今年二月に九十三歳の天壽を全うするまで現役の航空冩眞家として活躍した片岡順一氏が追ひ續けた、飛行機と世相の見事な交響詩。私も幼少期に図鑑の冩眞で目を瞠った憶えがある超音速旅客機“コンコルド”、伊丹空港付近の住宅地をスレスレに離着陸する旅客機、羽田で整備されたジェットエンジン一基を地方へ輸送するため、旅客機の主翼に取り付けた珍しい姿──いづれも純粋な飛行機愛に溢れゐるなか、案内ハガキに使はれた一枚は、昭和五十一年に伊丹で撮影されたボーイング747型機、四基のエンジンから噴出された排ガスによって景色が霞んでゐる様も記録されており、かうした當時の社會が克明に記録されてゐるところに、私なりの記録的価値を見つける。そもそも片岡順一氏が飛行機に魅せられたきっかけは、少年時代に見た頭上を侵行する米夷の爆撃機“ボーイングВ-29”云々。そのエンジン音のために八十九歳で天壽を全うするまで全ての飛行機の音が大嫌ひだった祖母を想ふと、やはり私は、祖母の氣持ちに寄り添ふ。
2025.06.28

今月十七日に故障して立ち往生した山形新幹線の最新型“Е8系”、その原因は「補助電源装置の半導体部分が損傷」──“ひしゃげてゐた”云々、安全が確認できるまで全車運用休止云々。高速運転の中枢部品が、なぜ初めから“ひしゃげ”るのか、原因云々以前の疑問。最新型の車両がさうなのだから、これまでの車両も同じなのではないか、と疑念が止め処なく沸いてしまふ。實際にその通りであったとしても、私は今さら何も驚かないことに、私は驚かされるだらう。もはや自力では何も創れないクニである、欠陥品こそがニッポンブランドくらゐに思っておくことだ。
2025.06.27

藤澤浮世繪館の「東海道中膝栗毛 江戸のコメディアン弥次さん喜多さん」展を觀る。十返舎一九が享和二年(1802年)に發表した滑稽本「東海道中膝栗毛」の大當りは數多の續編や派生作、亜流作を生み出し、それまで“上流階級”出身者が担ってゐた文學が庶民階級へと下り、大衆文藝──戯作化したひとつの象徴となる。(※展示室内フラッシュ無しで撮影可)挿繪や浮世繪も多く摺られ、展示の中心である落合芳幾の「東海道中栗毛彌次馬」の連作は濃く鮮やかな色彩に稚氣な笑ひと旅情が上手く融合されて、江戸庶民の旅への羨望をも感じられる。人氣は明治となってからも續き、十返舎一九を敬愛する假名垣魯文が明治三年から六年にわたって發表した「西洋道中膝栗毛」は、彌次喜多の孫が祖父の名そのままに英國ロンドンの萬博を目指して珍道中を繰り廣げる時世作、明治新政府が猿マネしやうとした西洋文物を庶民階級がどう視てゐたのか、興味をそそられる。(十返舎一九 作・画 「東海道中膝栗毛」より)(假名垣魯文 作 落合芳幾 画 「東海道中彌次馬」 三島)(歌舞伎「東海道中膝栗毛」三島宿宿屋の場 左 八代目松本幸四郎の彌次郎兵衞 右 十七代目中村勘三郎の喜多八 昭和二十七年八月 新橋演舞場)駿州府中に同心の子として生まれ、大坂町奉行所に奉公したのち上方で浄瑠璃作者へ転向して“近松與七(余七)”を名乗り、「木下蔭狭間合戰」(寛政元年)の合作など私も外題くらゐは耳にしたことのある作品をモノにした五年後に江戸へ下り、黄表紙本の挿絵を手がけるうち蔦屋重三郎の食客となって黄表紙の流行作家になる十返舎一九のこの傑作、岩波文庫版が押入れの奥に仕舞ってあるので、そのうちに目で京まで旅しやうかしらん。
2025.06.26

大量放出されたと報じられてゐる備蓄米が實際に賣られてゐるのを、入ったスーパーマーケットで初めて目にする。そのスーパーマーケットでは5kgが税込み¥2200、私同様に「賣ってゐるところを初めて見た」と云ってゐるお客もゐた。スーパーマーケットの賣り場から精米が消えはじめて、「あれ? なんかおかしいぞ……」と不審に思ったのが、ちゃうど一年前。記録的凶作とも聞かず、なぜこのやうなことが起きたのか、いまでも原因がよくわからない。官も無為無策のまま一年が過ぎ、一年が經ったいまになってあの時に望んでゐたことが行なはれてゐる。夏に参院選がなければ、いまもこの精米が手に入ることは、まず無かったはずだ。與党も野党も、一蓮托生で人材(ひと)を得てゐないので、有權者にとってもこれほど選択肢のキビシイことはない。街頭でもっともらしいことを叫んで、何も考へてゐない大衆を手懐ける小利巧な良識ヅラが現れるのはまさにかういふ時で、被害者ヅラしてゐるのが實は加害者であるのと等しく、浮世で正義ヅラしてゐるのが、實はいちばん惡人である。かういふ惡人は、お米を自分で買って食べたことなどないだらう。せいぜい、クサイ飯でも食はせておけ。
2025.06.25

橫濱開港資料館の「長崎──開港都市横浜の前提」展を觀る。江戸時代、異國(清と蘭)に唯一開かれた港だった長崎を、幕末に開港した橫濱の手本と見做す發想は面白いが、さうした事實は資料に殘されてゐないだけに、やはり結びつけるには無理があるやうに感じる。たが、展示解説文にあった「異国情緒は今も昔も多く旅人を惹きつける」は、旅を好む人の心理の底を見事に云ひ當てて感心する。(※一部を除き、展示物の撮影可)まだ見ぬものに憧れ、想像し、それが時には辛い遠路を越える糧となる。(※案内チラシより)一時流行(はや)り、けっきょく自分もさうだった“‘自分探しの旅”も、自分自身と云ふ最も身近にして最も不可能な生き者を、この目ではっきり見たい鬱屈した欲求の表れだったのだ。もう二昔以上前、青春18きっぷで長崎を鐵道旅行したのが、まさにその時代に當て嵌まってゐる。あれ以来、長崎を訪れてゐない。(※上はCCキングの水彩画、下はベアト撮影の同地點)が、いつかまた行きたい。眼鏡橋は、必ずまた違った景色で逢へるだらうから。
2025.06.24

國立公文書館の企画展「万博─日本と博覧会の歴史─」を觀る。各國より出品した美術工藝品の展示販賣を通して産業振興をはかることを目的に、1851年に英國ロンドンで始まった國際博覧會へニッポンが初めて参加したのは1867年の佛國パリ開催時、消滅間際の江戸幕府は将軍慶喜の弟昭武を使節團代表として現地に派遣したが、會場には薩摩藩も日本代表として参加してゐて一行は大いに衝撃を受けた云々。(※明治十年の内國勧業博覧會の會場跡を整備した現 上野公園)その後も博覧會は世界各國の情勢を背景にしつつ開催は續き、第二次大戰で敗戰國となったニッポンは1970年(昭和四十五年)に大阪千里丘陵を會場にした日本萬國博覧會で、(※展示室内フラッシュ無しで撮影可)國の復興をさらに天下へ知らしめる。展示の後半にある2005年(平成十七年)の「愛・地球博」は、ちゃうど會期中の四月に名古屋に滞在してゐたこともあり、滞在最終日の夜に夜間割引で見物に出かけた記憶がある。呼び物だった“冷凍マンモス”を見、JR東海のパビリオンではリニア新幹線の紹介と期待を見、なにかのパビリオンでは超高画質ワイドモニターで子どもたちが夏川りみの担當した萬博テーマソング「ココロツタエ」を大合唱する場面にやたら感動して、帰ってから夏川りみのシングルCDを購入したこと、また當時の首相が「高いくせにマズい」と腐したフードコートで食べた¥1000の尾道ラーメンが、充分に美味しかったこと──短時間ながらけっこう樂しめたことを、あれから二十年を經た令和七年(いま)になって、初めて次々と思ひ出した。浮世では、行った後悔より行かなかった後悔のはうが強いもの。気になった事柄は、なんでも一瞥くらゐはしておくべし。
2025.06.23

ラジオ放送の金春流「杜若」を聴く。在原業平は歌舞の菩薩であり、「伊勢物語」こそ迷へる女性たちを導く菩薩の慈悲であった──令和では全く理解できない、この感性。この不可解さこそ、なにかと不可解なコトバを羅列したがる“前衞”作家たちに、自分たちの感覺に近いものがある、などと大勘違ひさせる所以だらう。色欲でもなんでも、浮世のすべては佛道に通じる──くらゐに思ってゐれば、能樂は觀てゐてまず間違ひはない。
2025.06.22

今月十七日、回送中に故障して立往生した山形新幹線の新型車輌、同時期に製造したほかの四編成でも同様の故障を發見云々、ついに二十六日まで東京始發を全便運休云々、福島驛での強制乗換云々。またこれか、と呆れる。東北・秋田新幹線が營業運転中に分離する事故を起こした原因は、製造者側の下らない意地にあり、今回もまた似たやうなものだらうか。なぜ、こんな低次元な事故が再び起きるやうになったのか。新幹線と云ふ高度な文明に携はってゐると云ふ技術者としての緊張感や誇りは……、もはや無いのだらう。東北方面の新幹線事故を、一年のうちに三度も起こすとは、全くばかしかゐないのか?こんな体たらくで、ニッポンは萬博でどのツラさげて未来社會を謳ってゐるのやら。クルマを飛ばせず、計画そのものを飛ばしたやうなこの國で。
2025.06.21

東京都冩眞美術館の企画展「不易流行」にて“藝術”表現としての冩眞作品を眺めて、なぜこのテの人たちは凝固して生命感のない、不景氣なヒトやモノばかりを對象にしたがるのかしら──だから私はこのテのしろものが好きではないのだ、と云ふことを再認識しながら展示室を出て、ミュージアムショップでいちおう今回の記念を買わうとしたところ、レジ係の見るからにバイト臭ぷんぷんの覇氣のないお兄チャンが、「五圓のお釣りです」と、レシートだけを渡したので、「五圓は?」と指摘すると「申し訳ありませんでした」と言葉遣ひだけは丁寧に、すぐ五圓玉を差し出した。 私はかうひふテの薄ばかにはもとより何も期待してゐないので、まァそんなところだ、と思ふと同時に、なるほど浮世は不景氣をネタするには事欠ぬ、と作家たちの目に感心する。
2025.06.20

2025年日本國際博覧會──「2025年大阪・関西万博」を、夜間入場券にて16時30分頃より見物す。開幕前も、開幕後も、いろいろなヒトがいろいろなことを宣ってゐて實際がまったく見えず、また信用もしてゐないので、やはり自分の目と、耳と、足で、しっかり觀るに限ると、大阪夢洲の會場へ出かける。地下鐵中央線「夢洲」驛を出て東口ゲートを通過するまでは僅か二十分、會場へ入ると、「いよいよ私はここへ来た!」と、やはり氣分は高揚する。と云っても興味をそそるやうなパビリオンは無く、まずはどのやうな雰囲氣なのか、外觀を見物してみることが今回の目的なり。が、一ヶ所だけ必ず訪ねたかったのがエチアピアで、實家の押入れから出て来た古いアルバムに殘されてゐる昭和四十五年の大阪萬博の冩眞のなかで、エチアピア館を撮った一葉がなぜか印象的だったので、今回はブースで参加の同國をまず目指す。昭和四十五年の萬博では名産のコーヒーを来場者に振る舞ったと資料にあり、その時のカップ類が今回は展示されてゐて、私は冩眞でしか知らない五十五年前が、にはかに身近な世界となって私の前に現れる。現地からの女性にはコーヒーも振る舞っていただき、「一緒にコーヒーを飲んでいる人は家族です。」とのエチアピアの諺を教へてもらへたことが、今回の意義を大いに彩る。そのほか、見られるものはなんでも見ておかうと徘徊するうち、思ひがけず『けっきょく空飛ばないクルマ』を一瞥し、場内係が無遠慮にアクビする忘パビリオンでは“夜の地球”と云ふ現今らしい逸品を一瞥し、我々の税金を○億圓も注(つ)ぎ込んだ厠もしっかり利用し、いちおう静けさはあった森を通り抜け、やうやく工事が再開したネパール館の前を通り過ぎ、ミカド夫婦とその一人娘も歩いた大屋根リングを私も歩いて、なかなかしっかりした造りであることに感心しながら、ナントカ菌がたくさん検出された海を眺め、しかしユスリカには出逢へず、なかなかどうして、しっかり嵐悳江(わたし)流に、今しかない時間を樂しむ。
2025.06.19

昭和四十五年(1970年)に千里丘陵で開催された日本萬國博覧會で、會場までの輸送に製造された北大阪急行2000形が兵庫縣丹波篠山市福住の山間部に保存されてゐるとのことで、一見せばやと、存じ候。神姫グリーンバス「福住」バス停から歩いて約二十分、企業の保養所敷地内にそれは静態保存されてゐる。萬博開幕前年の昭和四十四年(1960年)に製造され、平成五年(1993年)まで活躍した後、北大阪急行の車庫に保存されてゐたが、令和三年(2021年)に當地に引き取られ、後繼だった8000形“ポールスター”號と余生を共にせり。この2000形とそっくりな外見だった大阪市營地下鐵(當時)谷町線の30系には大阪に住んでゐた時代にちょくちょくお目にかかってゐたので、そんな頃もあったなう、とつひ感慨に浸る。最寄りの福住バス停は、かつて昭和十九年から同四十七年まで存在した國鐵篠山線の福住驛のあった場所で、昔日の面影が濃く遺る家並みのなかに、虚しき文明の痕跡について、わずかな案内板が私に語りかけてきた。
2025.06.19

坂東玉三郎(やまとや)が竹久夢二の「長崎十二景」を舞踊劇化云々、觀る前から想像はつくが、この際坂東玉三郎と云ふ役者を改めて觀ておくも一興かと、京都四條の南座へ出かける。いまや独演會で客を呼べる唯一の歌舞伎役者にて、今日のほぼ満席な場内を觀て、やはり今日は来ておいてよかったかナ、と思ふ。なかなか氣の入った「口上」、地唄「殘月」はもともと古劇味の無い優のため地唄の演奏を聴くための一場に過ぎず、過去の舞臺作品を短縮して映像化した「夢二慕情」で竹久夢二の生ひ立ちとオンナ遍歴を序章において、本題の「長崎十二景」へと流れて行く。さすが洋モノ調度品を置いた演出作品になると本領を發揮、竹久夢二云々をいろいろな意味で超越した不朽の女形ショーは坂東玉三郎の藝と人生の集大成を觀るやうでもある。が、「長崎十二景」は竹久夢二が大正七年八月末から九月上旬にかけて長崎を旅行した際の印象を二年後の大正九年に十二點の版画にしたもので、昭和五十年代に現代箏曲の演奏家がこの作品から着想した同名の組曲を坂東玉三郎が氣に入って景事に仕立てたものゆゑ一貫した物語性はなく、しかし見物客にはそのあたりを理解できない人もゐたらしく、すでに上演中に「……なんか、ワケわからないわネ」といった囁きが漏れ聞こえた。この公演は「坂東玉三郎特別公演」であり、ひとことも“歌舞伎”とは云ってゐない。が、これがその歌舞伎の役者である坂東玉三郎の、天性の藝術家肌を見せるには相手に限界があることを示す、現實のこゑなのだ。
2025.06.18

四ケ月ぶりの御縁で、大阪四天王寺の師匠と嵐家ご先祖へ、挨拶に伺ふ。新幹線で新大阪驛に降り立つたび、「帰って来たァ……!」と云ふ氣分になる第二の故郷大阪もすっかり夏の入口な陽氣、水分補給の心で、墓前にお水を供へる。四天王寺境内には、創建の聖德太子が622年に亡くなったのち五十年以内に追加されたと傳はる、亀井堂がある。このお堂の地表から五十センチほど下ったところに、やはりその時代から傳はる亀型の水盤があり、そばの金堂から湧く清淨な飲料水が常に湛えられ、故人の名をしたためた経木をこの靈水に浮かべると、極樂へ導かれると信じられてゐる。「精靈流しと同じですね」、とお堂の方が説明してくれる間にも、経木を携へた方々が次々に亀井堂を訪れる。師匠と嵐家ご先祖との御縁で四天王寺を訪ねるやうになって二十年以上となるが、今回はじめて亀井堂のことを知り、おのれの無知蒙昧も今さらながら知る。四天王寺は謠曲「弱法師」ゆかりの靈場であり、その「弱法師」から着想を得て、私は現代手猿樂の「四天王寺」を創り、今年五月に初演の機會を得られた。今回はその御礼も申し上げる。“コロナ禍”以前に四天王寺へ伺った時、私はなぜかこみ上げてくるものがあって、たまらず泣き出した。今回は、こみ上げてくる嬉しさに、たまらず笑顔になれた。この不肖弟子に今日のお参りを許してくれた師匠と、嵐家ご先祖様に、ただ感謝。
2025.06.18

朝に起床して窓を開け、顔にぶつかる湿り氣を帯びた熱氣に、今年も夏が「来たな……」と覺悟を決める氣持ちになる。今日は東京で最高氣温が34.8℃、甲州では39.0℃云々、服装も盛夏に向けて用意したものに改め、「さぁ、来やァがれ!」と出かける。このまま梅雨が過ぎてくれるのであるならば、それはそれで結構だ。盛夏だらうが猛暑だらうが炎暑だらうが酷暑だらうが、そうなったらさうなったで、私は相變はらず浮世を徘徊するであらうから。……しかしそれは、鐵路が歪むほどの熱射下であることだけは、よく心せよ。
2025.06.17

先日に鐵道旅行で信州の雷電為右衞門生家を訪ねたので、今度は江戸に遺る墓所を訪ねばやと、存じ候。港區赤坂七丁目、坂道だらけだった江戸の町の面影を傳へる急勾配な三分坂の下に、報土寺と云ふ浄土真宗の寺院あり。江戸開闢から間もない慶長十九年(1614年)に創建され、當時の偽政者の都合によって安永九年(1780年)に現在の場所へ移転となる。十六年の長きにわたり大關を張り續け、松江藩のお抱へだった名力士・雷電為右衞門は文政八年(1820年)に五十九歳で亡くなり、墓は本堂裏手の墓地にある。墓石の形がいかにも故人生前の体格を偲ばせるものがある。墓石には三人の名が刻まれ、雷電は右側だが表面が剥落してゐるため、戒名が見えない。ちなみに雷電の墓はほかにも、故郷の信州大石村(現在の長野縣東御市滋野)、総州佐倉、雲州松江と四ヶ所あり、分骨して埋葬したためととも云はれるが、“本家”はこの報土寺云々。雷電は住職と酒を介して親しかったらしく、その証しに梵鐘を文化十一年(1814年)に寄進したが、要するに周囲からのやっかみでいろいろ難癖をつけられた挙げ句、寺社奉行に没収される憂目に遭ふ。その梵鐘は繪の写しによると、龍頭は取組の力士を象り、池の間には雷電自身の姿を鋳出し、下帯には土俵の綱をあしらうなど、大關雷電の威勢と遊び心に富んだ特異な姿だったやうで、ぜひ現物を見てみたかったと、繪に遺された姿から殘念に思ふ。現在鐘楼に吊るされてゐるのは明治後期に有志により再鋳された二代目だが、第二次大戰中の金属供出によって運び出されたものの鋳潰されることなく終戰後は他の寺院へ移ってゐたのを取り戻すと云ふ、こちらもなかなかの苦勞をして、現在に至る。江戸相撲の史跡を訪ねたついでに、かつて明治神宮外苑にあった相撲場の跡も一見せばやと、存じ候。大正十五年(1926年)に開場した明治神宮相撲場は、第二次大戰下に米夷の空襲で両國の國技館が焼失したため、昭和二十ニ、二十三年の本場所はこちらに移して興行する由緒をもってゐたが、昭和三十六年に學生野球専用の神宮第二球場に建て變はり、令和七年現在はさらに何かへと建て變はりの最中にあり。その令和七年現在、角界ではやうやく“日本人の”橫綱が誕生し、一方で元橫綱の蒙古人が清々しい表情で角界を追い出さるる。このごろは番數の進行なみに力士の入れ替はり立ち替はりが早く、私のやうな觀るのは好きだが論者となるほどでも、さうなるつもりもない者には、いまの力士は誰が誰だかよくわからぬ。雷電のやうに、長きにわたり首位に腰を据ゑてゐてくれたら、こちらも腰を据ゑて樂しめるのだが……。
2025.06.16

C-Styleがキッチンカー販賣のクレープとグッズの250品を賣り切らないと帰れない企画を昨日から始めた云々、ならば微力ながら協力せんと、今日の販賣地のMEGAドン・キホーテ春日部店へ、四ケ月ぶりに出かける。私が訪れてクレープを注文して、小物をひとつ購入した時はまだ200品以上殘ってゐたやうだが、あとから續々来客があって夕方には目標達成云々、いよいよ夏を覺悟させる氣候ながらエイッと出かけて、(※掲載は両人の了解済)しばし會話もできて、お腹一杯になって、また次回の樂しみをつくる。
2025.06.15

渋谷區代々木の代々木能舞臺で、觀世流代々木果迢會公演の「采女」を、“美奈保之傳”の小書で觀る。昭和二十五年に同流淺見家の邸宅内に建造された、舞臺と見所(客席)に演能の古態を殘す貴重な空間で、ミカドの寵愛を失ったことを苦に猿澤池へ入水した采女の悲哀と成佛を、折からの雨音も囃子に取り込んで、しっとり見届ける。終演後、外へ出て表通りに立つと、雨音がたちまち煩いものに聞こえた。現世には、たしかに結界と云ふものがある。目に見えない存在を人が畏れる感覺はこれか、と思った。
2025.06.14

中野ザ・ポケットで、江戸系あやつり人形結城座の旗揚げ390周年を記念した公演「奢りの都市(まち)」を觀る。世阿彌の謠曲「融」から着想した新作人形劇云々、江戸以来390年續くとされる一座がどんな芝居を見せるのか興味津々だったが、やうするに演ってゐる當人たちだけが樂しいタダの小劇場演劇にすぎず、主役の第一聲「旅をしています。だと思います」に、ああ私の嫌ひな世界觀だ、とたちまち興醒めし、途中休憩があったらそこで退散しやうかと思ってゐたが、結局いかにもJR中央線沿線のあの界隈らしい自己満足ゴッコに最後まで付き合はされた、約115分間。(※撮影可のカーテンコールにて)ただ、どういふ意図なのか、劇中劇でいきなり「釣女」の後半と「櫓のお七」が出てきて、さうした古劇の人形演技では熟練した糸捌きをそれなりに樂しめたことが、この演し物の逃げ場ではあった。何事も經験ゆゑ、時間とカネをムダにしたとまでは思はぬ代はり、以後はこのテのことに時間とカネは使はぬゾと、お勉強す。
2025.06.14

港區郷土歴史館の企画展「歴史館コレクション ひびきあう美術」を觀る。館藏する區内ゆかりの作家たちの美術工藝品を特選した虫干し企画、江戸の名力士雷電為右衞門や、透視図法など西洋技法を取り入れた歌川國長の浮世繪のほか、昨秋に實踐女子大で觀たラグーザ玉の油彩画との再會など、見どころに富んだなかでもっとも頷いたのが、傳統作品の保護のために複製品をつくって備へにあてる方法で、一例として展示された神樂面の、時間も精巧に再現した古色の面差しに、複製物をつくることはその作品の製作技能そのものの保存にもつながると、意義の廣がりを知る。
2025.06.13

町田市立國際版画美術館で「日本の版画1200年 受けとめ、交わり、生まれ出る」展を觀る。日本の版画と聞くとまず頭に浮かぶのは江戸時代の浮世繪と云ったところだが、その木版印刷技術はさらに一千年近く昔の「無垢浄光大陀羅尼經」まで遡り、いらい經文や佛画の制作技法として用ゐられる。藝術作品としての版画は、江戸中期の司馬江漢や亞欧堂田善を先駆けと見て、小林清親や月岡芳年、そして川瀬巴水たちへとつながる近代に真の完成をみたと考へる私は、目當てはもちろんさうした“新版画運動”系の作品へ逢ひに行くことにあり。“浮世繪師”から“版画家”へと片肩きが推移するのも、この頃からではないだらうか。實社會をそのまま作品に反映させたいと云ふ信念を持ってゐた小早川清の美人画がこちらに送っる“瞳”は、なるほどオトコには妖しく映る女性の一面を的確に捉へて、私の目を捕らえて離さぬ。近代に浮世繪からの脱皮を果たした版画も、現代に至ると作者の自己主張と自己満足が前面に押し出され、押し付けてくる落書きみたいなのも増えて、それはもう私の理解の外である。となりの常設展示室では、同一の版でも劣化や色合ひの調子などによって仕上がりに變化が生じ、それを作品化する例を展示した「ふぞろいの版画たち─西洋版画のシリーズとステート─」に、パブロ・ピカソの作例が紹介されてゐる。自己満足が公民權を得てしまった原因は、この人の作品を誰かが認めたことにあると思った。
2025.06.12

六本木のFUJIFILM SQUARE 冩眞歴史博物館で、「土田ヒロミ写真展 俗神」を觀る。人間生活の土俗さと、そのなかに生きる“ハレ”を眞正面から捉へた、どこまでも人間臭漂ふ記録の數々。(※條件付きで展示物の撮影可)作品は1960年代末から70年代にかけてのものだが、それら光景は二十一世紀令和にそのままつながっており、人間生活における“聖”とは俗と表裏一体、不可分のものであることをはっきり見せてゐる。“眞を冩す”使命、まさにここなり。同じ部屋で紹介されてゐる冩眞の歴史の展示解説文に、「明治初期の古冩眞は、『いつ、誰が、どこで、どなたを、なぜ』撮影したかが判明すると、非常に価値の高いもになる」とあり、なるほど、と思ふ。初期冩眞の普及に貢献したとされる鶏卵紙の古冩眞を私もわずかばかり所有してゐるが、そのうちの一點が、四代目嵐璃寛を冩したもの。(※左が四代目嵐璃寛、右の裃姿の人物は門弟か)いつ、どこで、誰が、については不明だが、四代目嵐璃寛の歿年は明治二十七年なので、それ以前の人氣絶頂期に撮影された、いはゆるブロマイドにあたるものであったことはわかる。興味のない人が見たら虫喰いのあるただのボロ紙でしかないだらうが、それが何であるかを見極められる多少でも縁のある人が見たら、安くない賣値であっても手に入れておきたい、非常に価値ある“お寶”となる。古書市などで大量に出ることがあるそれら鶏卵冩眞は、そこに冩ってゐる人物がいまや誰なのか不明なために、なんらかの価値はあるのだらうが……、で終って見向きもされないのが現實だ。私が資料として手に入れた鶏卵冩眞もかつてはさうであったらうわけで、保存と価値も、表裏一体の不可分であることを考へさせられる。
2025.06.11

平年より三日遅く、昨年より十一日早い云々、午前中にしっかり降り、昼過ぎからの小雨を經て夕方には止んで、まずは出かけやすくなったが、なにかと予定を狂はされる季節が今年もつひに始まったと、長嘆息。雨ばかりの季節なのだから雨ばかりなのは仕方なし、とは思へど、それに風が追随するのは許せない。服や持ち物が濡れるのは、いつだって雨より風のせいなのだ。このブログに載せるためにベタながら道端のアジサイを撮ってゐると、通りかかった小學生らしき小児がどう云ふつもりか、「そのハナにはドクがあるんだよ……」と話しかけてきた。小児(ジャリ)嫌ひの私は、「ふぅん、さうなの」と素っ氣なく返しただけだったが、浮世は至るところ毒だらけであることを既に理解してゐるとは見上げた心構へだと、内心で笑みしたことである。
2025.06.10

埼玉縣美里町の、日光山安光寺を訪ねる。忘年忘月、この寺の境内と覺しき場所で生人形の見世物が行なはれた様子の資料を手に入れ、以来どのやうな寺院なのかいつか訪ねてみたいと考へてゐたところ、ふとしたきっかけでその機會を得る。JR八高線を松久驛で下車し、廢田が多く廣がるなかを歩いて關越自動車道のガードをくぐり抜けた先の丘を上ると、正面に簡素な山門が現れ、その向かふに蜘蛛の巣の張った、明らかに無住とわかる本堂あり。その左手に伸びる石段の上に見えるお堂が、私が同じく入手した資料にある“大黒天本堂”、こちらも普段は人の手が入ってゐる様子には見えない。右手には棟続きの鐘楼があり、なかを覗くと江戸中期の元文年間に鋳造と云ふ、それゆゑに第二次大戰中の金属供出も辛うじて免れた因縁をもつ梵鐘が吊るされ、無住を幸ひ一つ輕く打ってみてから石段を下りかけて、寺域を示すやうな塀もなにもない野放図とも映る境内を見渡し、かつてここで生人形の見世物をやるほど榮えた寺とは信じられなかった。が、歴史はなかなか古く、延暦年間に大蛇を退治してその尾をこの地に埋めた坂上田村麻呂を開基とし、その後は荒廃したが江戸中期に黄檗宗の僧翠岩が中興させたと伝はるが、今またかつての姿に戻りかねない風情に、佛の庭を守るのは佛自身ではない冷厳な現實を見て、目の前の蜘蛛の巣は見えずに顔にひっ付いたそれを拂ふも苦々しけれ。
2025.06.09

新潟縣柏崎市西山町の、田中角榮記念館を訪ねる。大正七年(1918年)五月四日、日本海に面した新潟縣刈羽の農村に生まれ、第二次大戰中は兵隊として過ごしたのち土建業を興し、戰後は昭和二十二年(1947年)に政界へ進出、三十代で藏相に抜擢されるなど閣僚を歴任して昭和四十七年(1972年)七月七日、五十四歳で首相に登りつめ、日中國交回復の實現やニッポンの真の復活と經済成長を目指して“日本列島改造論”を展開したまではよかったが、(※大ベストセラーとなった「日本列島改造論」 昭和四十七年 日刊工業新聞社刊 述者藏)現實は國土開發に絡んだ諸物価の高騰など自分の理想とは異なる方向に曲がって浮世の指彈を招き、もともと一枚岩ではない閣僚の離反もあり内閣はわずか二年で終焉、以降は政界の“闇将軍”として君臨するが、昭和五十一年(1976年)に發覺したロッキード事件で失脚──しかし、その後の昭和五十八年(1983年)の衆院選では地盤の越後で二十二萬票以上と云ふ驚異的得票數で堂々當選、その健在ぶりを天下に知らしめたところに、私は田中角榮と云ふ政治家、と云ふより、一人の人間としての魅力を感じる。(※JR浦佐驛前に建つ田中角榮の銅像。屋根は長女眞紀子氏の要望により、後から設置された。 述者撮影)この政治家については、内部外部による毀誉褒貶さまざまな文献が刊行されてゐて、現役時代を知らない私など今さら云々することでもないが、資料館の展示の大半を占める遺墨の數々を拝してゐると、その小細工を弄しない素直な書体に、ロッキード事件の有罪判決は正しくなかったのではと云った疑問が確信へと變っていくだけのチカラとなって、讀み取れてくる。ウソのある人の作品は、見るまでもなくウソがプンプン臭ってゐることを、私はよく知ってゐる。人間としての田中角榮を知るには、これら清錬な書を拝するだけでも充分だ。ヒトの評論よりも、この資料館で出逢った手跡から、私は田中角榮と云ふ人間を、信じる。
2025.06.08

江戸時代を代表する名力士と云へば雷電為右衞門、その史跡を生誕地である信州小縣郡大石村──現在の長野縣東御市滋野に訪ねる。當地で明和四年(1767年)に生まれた家は現在も復原された姿で保存され、戸を開けると目の前の土間が土俵になってゐることに驚かされる。農家にしては立派なつくりなのは、江戸で大關となって里帰りした際に五十両で建て直したからで、まさに“故郷に錦を飾る”。生家から十分ほど歩いた縣道七十九號線沿ひの道の驛の一隅には、雷電の現役時代を顕彰した資料館が設けられ、村相撲での才能を見込まれて天明四年(1784年)に十七歳で江戸相撲に弟子入り、たちまち頭角を表して寛政七年には當時最高位の大關に昇進、いらい十六年にわたって首座を守った雷電本人の手形や番附、松江藩のお抱へ力士となった名譽のほかに、山國育ちらしく船が苦手だったと云ふ人間臭い姿も紹介してゐる。推定身長197cmと云ふ當時としては特異とも云へる体格を証明するものとして手形が遺されてゐるが、捺す際に少し手をずらしてゐたことが窺へる云々、そのあたりの小細工ぶりが惡い意味ではなく、また人間臭い。文化八年(1811年)に雷電が五十九歳で死去したのち、その相撲人生を稱へた石碑が建立されて現在は旧北國街道沿ひに遺るが、石碑の欠片を身につけてゐると開運必勝のお守りになるとの迷信が生まれて多くの人が打ち欠いたため、現在では表面が著しく損傷し、明治二十八年に新たな石碑がすぐ隣に建てられた。……と云ふことで、臺座のあたりに落ちてゐた欠片をひとつ、私もお守りに分けてもらふことにする。
2025.06.07

東京都小平市GAS MUSEUMで、氣象業務150周年を記念した企画展「天気を映す明治の東京」を觀る。明治十七年(1884年)六月一日に一日三回の全國天氣予報が始まり、現在ではかなりの確率で當るやうになった空の表情を、江戸以来の技法に遠近や陰影を取り入れたことで進化と完成をみた新版画の映す東京風景より見上げる。朝の空、タ焼け空、雨、風、雪、そして私がもっとも惹かれた月光のながめ。(葛西虎次郎「東京名所之内 新橋停車場之夜景」 ※解説図録より)その白くはっきりとした輝きに、電灯やガス灯は初めて命を吹き込まれて夜闇を妖しく照らし出し、やがてだれも予測できないもうひとつのトウキョウがぼんやりと浮かび上がる。しかし三時を過ぎて六時となり、明け方の晴明な空の色にそれらはすべて溶けて見えなくなり、氣が付けば私は日中の街で、幻と現(うつつ)のどちらをも求めて、再び彷徨ひはじめるのだ。
2025.06.06

東京都葛飾區の堀切菖蒲園へ、初めて出かける。先月に同區で開催された美術家展で、セオドア・ウォレスの秘藏名画「堀切菖蒲園」を觀てから現地に興味を覺え、ちゃうど今は菖蒲も見頃云々、これも花の御縁だらうと京成線に乗る。堀切で花菖蒲の栽培が始まったのは江戸後期の文化年間、當地の農民の手によるもの云はれ、また同時代の旗本・松平左金吾定朝も品種改良に尽力云々とは、いかにも泰平の世らしい。やがて江戸末期から明治にかけて當地にはいくつもの菖蒲園が誕生したが、(※かつて存在した「武藏園」 述者藏)やがてキナ臭い世相に圧されて昭和十年代には次々に閉園して水田と化し、戰後に唯一復活した堀切園の一部が昭和三十五年に東京都の所有となり公園となったのち、昭和五十年に葛飾區に移管されて現在に至る。泰平の世に愛された花が泰平でなくなった途端にその犠牲となるところに、浮世の儚さや脆さを象徴的に見る氣がする。昭和五十二年には區の名勝ともなった江戸古花の園は、現在では整備され過ぎてやや趣きに欠ける憾みはあるが、一輪一輪に壮大優美な名を付けられた江戸菖蒲に、ヒトと同じ息遣ひを聴くやうな命の共鳴を覺えた、梅雨入り前の泰平なひととき。
2025.06.05

前進座の“歌舞伎”公演を觀に、池袋のサンシャイン劇場へ行く。昨年にはなかなか觀應へある「鳴神」を魅せてくれたので、その勢ひで今年は同じ歌舞伎十八番の「毛抜」かと期待してゐたが、山田洋次監督が“監修”のマゲ物人情喜劇「裏長屋騒動記」の再演云々、山田洋次と聞いただけで中身が想像できてしまふだけに、正直ガッカリ。案の定、相變はらず“渥美寅さん”を引きずった演出が織り込まれ、ホラやっぱりネ、と白けはしたものの、落語二題を下敷きに笑ひあり、涙あり、戀ありと、氏がかつて渥美寅さんのおかげで培った日本庶民の情(こころ)を存分に盛り込んだ、長年愛してきたと云ふ前進座への敬意も感じられる娯樂作。この劇團がこのごろよくやるゲスト出演として、今回は松竹新喜劇の曽我廼家寛太郎が上方から来た設定の“らくだの馬”で出演、いかにも巧者らしい上方喜劇のノリでひとり客席を沸かせて前進座の役者陣を圧してゐたが、それは前進座の芝居の雰囲氣に溶け込んでゐないことでもあることに、注意する必要がある。このさほど興味もそそられない裏長屋劇を一應觀ておかうと思はせたのは、殿様役で河原崎國太郎が出演するからの一點のみにて、一場限りの點景人物ではあったが、立女形らしい風格を佛像オタクの珍妙な人物に應用させた造形ぶりは、初演時に山田洋次氏がどのあたりを氣に入ったのかは分からないが、たしかに笑ひを誘ふものではあった。但し、感激のあまりわずかに失禁したと告白して引っ込むのはさすがに下品に過ぎ、少なくとも現在の歌舞伎は、さうした露骨にシモ掛かった芝居はしない。ましてや、その後ろを小姓が懐紙で濡れた畳を拭きながら付いていくなど、どこから来た演出だと云ひたくなる!もちろんこれは國太郎の失態ではなく、すべて山田洋次氏の責任である。来年で前進座は創立九十五周年云々、その記念の“歌舞伎”公演を、再びサンシャイン劇場で上演云々、カーテンコールで出演者が「劇場までの道順をよく覺えておいて下さい」と、圧倒的大多數で高齢者が占める客席に訴へてウケを狙ってゐたが、(※カーテンコール時のみ撮影可)私が座った二階席は昔ながらに段が急で、悉く足許の覺束ない高齢者たちは席にたどり着くまでにかなりの苦戰を強いられてゐた。この人たちのおかげで辛うじて成り立ってゐる集團である、今後はもっと會場選びを考へたはうが良い。
2025.06.04

忘驛の敷地内で、いきなり後ろから見ず知らずの若い肥満男にぶつかられて、悲鳴を上げさうになる。肥満男の様子からして、いはゆる“知恵の足りない”種のやうだったので、腹を立てるのもバカらしく、ただため息で収めたが、なんでもかんでも“平等”に扱ふのが當世流なれば、お次の時はさう扱はせていただくヨ。
2025.06.03

YOKOHANA COASTへ、新進の版画家・皐月恵の作品展「唯美─皐月恵版画展」を觀に行く。忘日、スマホを使って調べ物をしやうとしたらいきなり“あなたにおすすめ”と鮮烈な版画が画面に出て来て、ほかの作家にはない画風にこれは實物を見たいものぢゃと俄然興味を覺えて、今日に予定を合はせる。作家はまだ二十代云々、なるほどまだ瑞々しい感性と才氣に溢れた年代らしい、シルクスクリーンで象られた繊細さと芯の強さを仄かに感じさせる女性像の數々、目許口許のホクロに、「よくわかってゐるナ……」と一人ニンマリしてゐるところへ、即賣會を兼ねてゐることもあって係のお姉チャンが傍に寄って来ると、勝手に作家と作品をしきりに讃へつつ、“お買上げ”へ話しを持って行かうとするのにはウルサくて困った。もちろん、買って飾れるだけの場所もカネもあるわけではないので、「画(繪)は大勢の人に見られるから輝くもので、一人のヒトに見られるだけでは死んでしまひますゥ」と、出まかせで躱してやんわりお引き取りいただく。よい作品に出逢ったら、それをしっかり心に冩し取り、永く心に飾るやり方もある。私の目は、そのためにもあるのだ。
2025.06.02

新宿歌舞伎町の新宿LOFTで開催されたバンドフェス「ガラ箱ス」に、C-Styleが出演するとのことで、ドレドレと出かける。持ち時間三十分でフルパワーに駆け抜けた感じ、日々いろんなところでいろんな活動をやってゐるんだなぁと、チラ見したほかのバンドの濃い世界觀とを比べつつ思ふ。さて、お次はいつ出かけられるだらうか。
2025.06.01
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