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志村けんさんが支那發の人災疫病のために亡くなったとの悲報をうけて、今日で五年になる。もう五年になるのか、と思ふ。(※令和六年十二月撮影)あの、全身から力が抜けた感覺は、五年がたった現在でもはっきりと憶えてゐる。この年早々に日本にも傳染した人工疫病がいかに恐ろしいものであるかを強烈に印象づけた、まさに“事件”とも云へる出来事だった。大勢の人が東村山驛前の“志村けんの木”へ献花に訪れるなど──私もその一人だった──、「國民みんなが遺族」と云はしめた深い衝撃と悲しみのなか、「この感情はいまだけ。少し經てば忘れる」と、誰かが云ってゐたが、少なくとも私は、その“忘れる”なかに入ってゐない。現在、東村山驛前の再開發事業のため、“志村けんの木”を伐採、または一本のみを余所へ移植する計画が自治体で進行中云々、(※同)東村山市がなぜ有名になれたのか、なるほどヒトは都合よく忘れられる生き物ではある。
2025.03.30

千代田區一番町のJCII PHOTO SALONで、『飯島幸永 作品展 「消えた海 1973年~1976年」─千葉県内房海岸・京葉臨海コンビナート開発 その光と影─』を觀る。江戸時代以来、魚貝類が豊富に獲れる“黄金の倉”とも呼ばれた内房の海の沿岸を戰後の高度經済成長期に重工業地帯化すべく、行政と企業は暗躍する政治屋ともども漁師たちに様々な圧力をかけ、漁師たちは抵抗することもなく昭和三十六年にわずか數分間の調印式で漁業權を放棄、行政が保障し斡旋した元漁師たちの転職先は、かつて自分たちが先祖傳来守ってきた漁場をコンビナート化する下請け肉体勞働であった──「貴漁業協同組合の關係漁場をお譲りいただくやうお願ひ致します」この体裁ばかりの丁寧な文言に乗せられるまま、元漁師たちが行政から支拂はれた補償金は約700萬から800萬と云はれ、誰がいくら貰ったのか、その多寡をめぐって彼らの間で疑心暗鬼が生じるなど、コンビナート建設は漁場ばかりか漁師たちの心そのものまでを破壊した様が、陸(おか)に上がったその後の海の男たちの、「金で海を明け渡してしまった」事の重大さに氣付いた時にはもう遅い悔恨の表情にくっきりと冩し取られてゐて、それはほかの場所の企画展では「漁業權を放棄したことで終焉した」とあっさり片付けられてゐる歴史の實際を、酷いまでに見せつける。(※三浦半島より富津市の工業地帯を遠望す)しかし一方で、都會からわんさかと押し寄せる潮干狩り客たちからしっかり日錢を稼ぐしたたかな面も記録してゐるなど、漁師たちの悲哀への同情一辺倒ではないらしいところに、時代の記録者としてのカメラマンの、確かな“目”を感じた。
2025.03.29

映画「教皇選挙」(原題「CONCLAVE」)を觀る。ローマ教皇の死去を受けて新教皇を決めるべく、隔離されたシスティーナ禮拝堂内における選挙“コンクラーベ”で蠢く、聖職者たちの俗なる欲望──たった一つの座を巡り、噺が緊密で濃密で複雑に思惑が交錯していくやうで、實のところ真理は單純明快、「聖も俗も、ヒトによって作られた組織はしょせん、ヒトによって動かされる」。そもそも信仰に疑惑が生じたら、あとはもう“終り”しかないのだ。本作はアカデミー賞〈脚色賞〉を獲得云々、噺の中盤にバチカン市國市街で抗議の爆發騒ぎが發生した様子を、上空に一筋の白煙が上る遠景のみで表現した映像演出に、あくまで“コンクラーベ”のみに視點を絞った上手さが光ってゐた。終盤に聖職界とて例外ではない現代的な問題を突き付けて觀る者をアッと云はせ、さらに大詰でもう一發ドカンとひっくり返すのかナ、と思ったがそこで劇終。あの答へは神のみぞ知る、と云ふことか。上演(映)中に劇場客席で鳴り響くスマホの着信音はなかなか絶滅しない現代公害となって久しいが、今回も噺が佳境に入りつつある時に、私が座ってゐた列の後ろでまさかの發生、すかさず近くの席の男に罵倒されて持ち主が退出する番外編あり。男の抗議は品が無かったが、どうせまた無自覺に同じことを繰り返すであらう害物を拂ひ除けるためには、あれくらゐの排除は必要だ。
2025.03.27

國學院大學博物館の企画展「江戸の本屋さん 板元と庶民文学の隆盛」を觀る。二百年以上も天下泰平が續いた江戸時代は町人(庶民)文化が花開いた時代であり、木版印刷の發達と普及は、刀が腰飾りとなった武士や貴人、隠棲者など知識教養に富んだ者たちによる雅俗を綯ひ交ぜた知的な遊び心に富んだ娯樂文學を普及させ、やがて町人階級も手がけるやうなってさらに大衆化し、それが“戯作”として持て囃されていく歴史を、貴重な一點物の和本などを通して見ていく。さうした上方とは別な江戸独自の出版大衆化を後押ししたのが、企画から出版、販賣までを出がけた“板元”と呼ばれた本屋であり、戯作者に企画を持ち込んで相談や打ち合わせを重ね、“新作”を發賣するまで半年を要した云々、その流れは現代と同じだな、と思う。かくして江戸庶民に愛讀されて現代にも傳はる江戸戯作のうち、為永春水の「春色梅児誉美」と十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は岩波の活字版で讀んだことがあり、話し言葉を中心とした平易な文章に、江戸時代の日本語の實況を聴くやうな樂しさがあったものだ。今回展示されたいま讀んでも面白さうな戯作のうち、天明三年(1783年)に大田南畝が“四方山人”の筆名で發表した「源平総勘定」は、平家の借金証文を手に入れた源氏がそれをネタに平家を取り潰すと云ふ、史實に江戸市井の金錢事情を織り込んだ作のやうで、活字版があるなら讀んでみたい興味をそそられる。今回の企画展では、個人の資料とする場合のみ數點の冩真撮影を許可云々、但し「過度な撮影は遠慮せよ」云々、たしかに撮影可だとここぞとばかりに全ての展示物を撮っていくのがゐる……、いや、この日もゐた。あれだけカシャカシャ撮りまくってゐるのだから、もちろん注意書きも撮ってゐるハズだが。文字を讀むことも理解することも出来ないのが、文字ネタの企画展を訪れるたァ片腹痛ェ。
2025.03.25

日本でラジオが假放送で始まって今日で百年云々、TVを嫌って見ない私にとって、ラジオは浮世を識る大切な情報源──“窓”でもある。あるラジオ番組の投稿で、「百年前の人がRadioを“レイディオ”ではなく、“ラヂオ”と訳したことも、親しみが持てる理由だと思ふ」と聴いて、確かにさうかもしれないと感じる。レイディオではいかにも外来物的、ラヂオならばニッポンで消化された文明、な響きを聞くやうな。ラジオを聴くことは脳の健康に良い効果があると、醫學的にも實証されてゐると聞く。過去に、ラジオ番組のゲストコーナーに短い時間出演した經験があるが、限られた時間(ワク)内で正しく情報を傳へることの難しさを痛感すると同時に、なるほど臨機應變を常に要求される頭を使ふ仕事と恐れ入ったものだ。ラヂオは間違ひなく、聴くのも、聴かせるのも、脳に健康的な文明である。
2025.03.22

三十年前のこの日、當時學生だった私は歌舞伎座三月興行の夜の部を觀るため、昼頃に新宿驛から地下鉄丸ノ内線を利用しやうとして、この時はまだ朧ろな情報で、事件を知った。この凄惨なテロ事件について、築地驛付近の様子の冩真がよく使はれるが、この時間、私は霞ヶ關駅を臨時通過する丸ノ内線に乗って、ここからほど近い場所の劇場に出かけてゐたのである。あれから三十年が經った今ごろになって、運命の紙一重の怖さを知るのだから、なんてオメデタイのだらうと我ながら呆れたりもする。新聞紙に包まれたビニール袋を傘の先で穴をあけてサリンが撒かれたことから、いらい電車内に新聞紙を放棄することは厳禁となり、そしてそれは習慣化……、されることなく三十年後の現在に至る。しかし私は、荷物棚にそれが捨てられてゐるのを目にするたび、今も必ず事件を思ひ出す。私はあの日、運命の紙一重で無事に通過したからだ。
2025.03.20

品川區立品川歴史館で、「品川の海と海苔」展を觀る。(※フラッシュ無しで撮影可)私はべつに海苔が好きなわけではないが、これまでに大田區大森でかつて海苔養殖がさかんであった歴史を知り、その大森を参考にして千葉縣浦安でも海苔養殖が隆盛を極めた時代のあったことを知ったので、そこで再び江戸へ戻って、品川でも海苔が生産されてゐた歴史を見ておかうと思った次第。大森で生産された海苔が淺草界隈で賣られて“淺草海苔”と総稱され、ついで有名になった“品川海苔”の養殖方法が各地方に傳播され、名稱にその土地の名を冠した海苔を賣ったが淺草海苔の知名度には敵(かな)はず、結局どこで生産された海苔であっても“淺草海苔”で統一云々、ヒトは品質よりも名稱(ナマエ)におカネを拂ふ習性は、いつの時代も同じと云ふことか。遠淺の海底に樫などの小枝を植ゑ付け、篊(ひび)と云ふ海苔の胞子を付着させて育てる海苔づくりは海面が畑代はりであり、その權利をめぐる漁師たちと官(幕府)との駆け引き、また實際に使用されてゐた道具類の展示からだけでは、どうしても傳はらないものがある。それは海苔の薫り(にほひ)である。(※案内チラシより)浦安市の郷土博物館を訪ねたとき、前日あたりに海苔づくりの体験講座があったらしく、館内の廊下に水洗ひされた道具類が干してあったが、強い磯の薫りが漂ってゐて、これは資料を讀んだだけではわからない、海苔の正体のようなものだと思った。かくして古文書は、案外肝心なことを語らなかったりする。
2025.03.18

川崎能樂堂の川崎市定期能公演で、觀世流「百萬」を觀る。觀阿彌の古作を世阿彌を改作したものが現行曲云々、古い時代の猿樂の雰囲氣を思はせる狂乱遊舞の傑作にて、シテの熟練技を端座姿が美しい八人の地謠方と、その佇まひに隙のない囃子方が盛り上げ引き立て、それでゐて自身の技藝をしっかり示した融合の極致、かうした贅沢な時間はあっと云ふ間に過ぎてしまふ。名殘り惜しき亂舞かな。
2025.03.15

今月六日、走行中に分離と云ふ大事故をやらかしたシンカンセン「はやぶさ・こまち」號、本日より併結運転を順次再開云々、調査の結果、「こまち」側の連結器に不具合があったとわかっただけで、その原因は「不明」云々、さりながら試験走行では「問題ナシ」云々、本日の順次再開に至る云々。試験走行で問題ナシだけでは事故の根本的解決にはなっておらず、そもそも技術部門が事故原因を究明出来なかったこと自体、大きな「問題」なのではないか。國語のセンセイに漢字の讀み方を質問して「わからない」、數學のセンセイに計算についての質問をして「わからない」、藝事のセンセイに藝事の質問をして「わかんない」──これは人の信用を失ふ、もっとも云ってはならぬコトバである。ニッポンの技術能力、ここに極まれり。このやうな「見切り發車」では、さう遠くないうちに、また同じ大事故をやらかす氣がする。
2025.03.14

橫須賀美術館で、「サルバドール・ダリ展─天才の秘密─」を觀る。1904年にスペインの裕福な公証人の家庭内に生まれるも、自分の出生前に亡くなった兄の名を付けられたこと、母を幼くして亡くした後、父親が亡妻の妹と再婚したことなど、幼年期の複雑な家庭環境がこの後年の藝術家の心に深い傷と闇になって支配するが、その捌(は)け口を藝術に見出せた彼は幸ひだと思ふ。そして、浮世に圧倒的多數の衆庶とは違ったおのれの感性を“異端”と決めつけられた人が、その屈託や鬱屈を作品と云ふものに表現し得る才氣、(※案内チラシより)そしてなにより運氣に恵まれた場合にのみ、その人は「天才」と浮世に持て囃される。(※同)しかしそれは、やはりどこかで“面白がられてゐる存在”であるところに、「天才を演じ續け」る者の宿命があるやうに思へた。場内係に案内されるまま、在郷作家による収藏作品展も眺めて流す。もしここに、サルバドール・ダリ作と札の付いた作品が掲げられてゐたら、たとえそれが凡庸なしろものであっても、われわれ衆庶は立ち止まってありがたく拝するはずだ。 會場外で、數名で訪れた高齢女性たちが、「……やっぱりダリって、難しいわネ」と話してゐた。結局ヒトは、藝術作品を“名聲(ナマエ)”だけで觀てゐるのである。
2025.03.10

川崎市市民ミュージアムのオンライン展覧會「紙すくひと」を棲家で觀る。「紙」とは、植物などの繊維を水に浸して絡み合わせものを云ひ、日本古来のそれは酸性度が低いため強度と保存性に富んでゐるのは、繊維中に潜んで酸素と結合して劣化を招く不純物(ゴミ)を職人がひとつひとつ丁寧に取り除く熟練技のおかげにて、奉書に刷られた浮世絵の、美人の顔が美人のまま現在に至ってゐる秘訣も、まさにこの賜物なり。私も趣味柄、百年以上むかしの紙物を手にする機會がよくあるが、分厚い和本が見た目は古びて汚れてゐても紙の状態は良好で、なにより驚くほどに輕い!現代主流の洋紙で刷った同じ厚さの本ならば、持ち運びが億劫になるほどの重さになるはずだ。江戸時代、旅のお供に“枕本”と云って、數百曲を収録した實際に枕ほどの厚さ(高さ)の謠本を携行する人もあったと聞いたことがあり、私も當時の現物を手に取ったことがあるが、あの輕さならば荷物の邪魔にはならなかっただらう。かくして強靱な日本古来の紙、歴史的なものが普通に殘ってきたがためにそれを敢えて殘さうと云ふ感覺がなかったことはなるほど盲點にて、そのために修復技術を持った専門の職人もあまり存在しなかったことが、傳統和紙が希少化してゐる現在、状況を厳しいものにしてゐる一面があるやうだ。さうしたなか、修復に携はってゐる人のインタビューのなかで、「永遠なんてものはない。同じものを殘すためには、同じものを作り替へていく」と、伊勢神宮の式年遷宮に例へた話しに、古物を朽ちてもなほ有難がって拝むことは傳統の保護でも保存でもない、と云ふ本質を教へられた氣がした。
2025.03.09

6日11:30頃、上野~大宮間を走行中の東北・秋田新幹線“はやぶさ・こまち21號”が、西日暮里驛付近で分離、緊急停車云々。またしても連結器の不具合、と云ふか立派な故障、またしても、またしても。部品も、技術も、誇りも、人間も、すべてが劣化してゐるこのクニの實態を具現化した事件。貧乏旅行者のありがたい味方だったフリーきっぷを次々に廢止し、新規にネットで新幹線の割引特急券の販賣を企んでゐる一方、肝心のシンカンセンがこの有様では、不測のはずの事態を測っておかなければ、おちおち旅行の計画も立てられなくなってくる。この件も、どうせ誰もが言ひ逃れをして責任をとらず、いまや脱線事故も秒讀みなのではないか。東北新幹線に新型車両が登場するらしいが、それどころでもないだらう。
2025.03.06

『JR東日本は同日、原因が判明するまで、東北、秋田、山形各新幹線の連結運転を取りやめることを明らかにした。これに伴い、すでに購入済みの秋田新幹線「こまち」と山形新幹線「つばさ」などのチケットは払い戻しが必要になる。JR東によると、東北新幹線は時速約60キロで走行中に分離した。こまち側に連結を解除したとみられる痕跡があったという。はやぶさ(10両)には441人、こまち(7両)には201人の乗客がいたが、けが人はいなかった。』──併結運転の當面中止は當然のこと、私も人災疫病禍の年、蔓延猖獗となる直前の頃に東北新幹線と併結の山形新幹線で米澤まで乗ったことがありますが、大宮を過ぎると凄まじい速度で東北の平野を疾走してゐたことを、よく憶えてゐます。もしあの爆走の最中に、たとへ些細な事故であっても發生したら、今回のやうな怪我人無しでは済まされないところです。安全がなにより最優先されるはずの超高速鐵道で、半年も開けずに起きたこの重大事故、乗客(ひと)の命を預かってゐるとの認識が、どうも他人事のやうに捉へられてゐるとしか思へてなりません!
2025.03.06

目黒區美術館の「中世の華・黄金テンペラ画─石原靖夫の復元模写」展を觀る。テンペラ画とは、中世欧州で行なはれた卵黄を練り混ぜた繪の具で描く技法や繪画を云ひ、私は昭和二十三年一月に起きた「帝銀事件」の容疑者とされた平澤大暲(貞通)の職業が“テンペラ画家”だったことで記憶してゐた名稱で、さてどのやうな繪画なのか、現物を觀てみやうと出かける。石原靖夫氏は昭和十八年(1943年)に京都西陣で紋屋を營む家に生まれ、昭和四十四年に東京藝大油画科に進學するも従来の画材や技法に飽き足らず、卒業後に伊國へ渡欧してテンペラ画と出逢ひ魅せられ、その復元模冩を手がけたことで藝術家としての道が定まり現在に至る。さうした大きな仕事のひとつが、今回の展覧會の目玉であるシモーネ・マルティーニ作「受胎告知」(1333年)の復元研究模冩で、(※撮影可の展示物、以下同)日本では鎌倉幕府が滅亡した年に伊國で製作された壮麗な宗教画を、1972年から六年がかりの試行錯誤の果てに完成させる。その復元作業の様子を記録した映像を見ると、ただ繪筆をとればいいわけではない、彫金や彫刻の才、そして何より根氣を厳しく要求される仕事であることに驚かされる。氏はさうした古典再生ばかりでなく、若き日に魅せられたテンペラ画の技法を應用した現代作品も旺盛に發表してゐるところに、真の傳統技藝繼承者としての姿を見る。先人の遺した技をいかに現代に活かすか──技をただ繰り返しなぞるだけでは、一部の數寄者の愛玩物で終るにすぎず、さうなったらもう、ただの遺物と云ふほかにないのだ。前回にこの美術館を訪れたときにも氣になったことだが、展示室内の“見張り役”の老人どもが、任務そっちのけでお仲間と駄辯り續けてゐるアノ老害ぶりは、いったい何なのだらう。耳にも氣にも障る。
2025.03.05

澁谷區総合文化センター大和田にて、「平和・国際都市渋谷」パネル展『長崎原爆資料展』を觀る。廣島の被害については何度か冩真資料を目にしたことがあり、また複製資料も數點所有してゐるが、長崎についてはあまり目にしてゐない氣がしたので、この機會によく見ておかうと出かける。八十年前の昭和二十年(1945年)八月九日午前、米夷爆撃機は九州小倉を標的に飛来するが、焼夷彈の煙に遮られて“目的”を果たせず、場所を長崎に變更する。しかし長崎も雲に遮られて同様の状態だったが、午前十一時二分、一瞬の切れ間を狙ってプルトニウム原爆(通稱ファットマン─“太っちょ”)を投下、松山町171番地上空で炸裂した原爆は──私はこの卑劣な爆彈によって粉砕された大浦天主堂と、首のないキリスト像の冩真を見て、不思議に思ふ。(※案内チラシより)米夷人の多くが信仰してゐるはずの、カミの聖地と聖像を破壊したことに、彼らは呵責や畏れを感じなかったのだらうか、と。いや、ヒトは古来からカミにかこつけて、ドンパチを繰り返してゐる生き物である。首をかしげるだけ、野暮か……。大手町の河津櫻はいまが見頃、駿河薹の寒緋櫻も三月に見頃を迎へさうな勢ひ、錦橋詰の寒櫻は、陽に照らされ笑ってゐる姿に初めて逢ふ。
2025.02.28

開港都市ヨコハマの發展を水運で支へ、やがて時代と云ふ大きな流れに埋め立てられた“河川運河”と、水運を生活基盤とした人々の實態を、橫濱都市發展記念館の企画展「運河で生きる~都市を支えた横浜の“河川運河”~」にみる。水運を担ったのはもちろん船であり、船──達磨船や艀を操ったのは人であり、河川運河が係留する數多の船で航行が困難になるほど、すなはち船で生活する家族も多く存在した。(※案内チラシより)私が小學生の時分、國語の授業で教科書にさうした水上生活者の少年が登場する物語が載ってゐて、それを知ってゐることを前提に書かれた物語であったため先生が注釈を加へてゐたことを憶えてゐるが、これが水上(船上)生活者と云ふ人を私が知った初めだった。昭和四十年(1965年)の新河川法、翌年の港湾勞働法で水上生活が禁止されたため、船を住居とする人々はゐなくなったが、さうした家庭に生まれた子どもたちの作文には、本人は意識してゐないであらう過酷な環境が滲み出てゐる。(※同)昭和二十年の終戰後、職を失なった人々は侵駐米夷軍の仕事にありつくため多く橫濱に押し寄せ、さうした人々を収容する施設として木造船に長屋を積み上げたやうな“水上ホテル”なるものを用意したが、そもそも設計に無理がある上に人員過剰で転覆する事故が相次いだ云々、さうした需要と供給の不均衡だけは、令和現在も變はるところがない。現在、橫濱市街の中央を縦断してゐた吉田川は大通り公園とその地下を走る市營地下鉄ブルーラインに、派大岡川は首都高速橫羽線の一部と關内驛前の地下商店街マリナードと、(※マリナード地下街廣場より首都高上部を望む)役目を終へたと云ふより新たな役目をもって生まれ變はり現在に至るが、その過程は橫濱市職員だった田村明氏の著書「都市ヨコハマをつくる」(中公新書版)に、臨場感ゆたかな筆致で綴られてゐる。しかしヨコハマの河川運河は完全に姿を消したわけではなく、ところどころにその痕跡を留めてゐることを、神奈川大學みなとみらいキャンパス1F展示エリアの写真展「非文字資料から見る 横浜の運河─関内・関外を中心に」では紹介してゐて、濃厚にヨコハマ感が漂ふ大岡川沿ひの“都橋商店街ビル”は、(※コンクリート壁と石積み風の岸壁との斜めに走る境目が、道と荷揚げ場をつないでゐたスロープの跡)かつての荷揚場跡に建ってゐることが岸壁から窺へるのを知ったのは目からウロコ。ここには紹介されてゐないが、JR關内驛の高架線が橋梁になってゐるのは、かつて派大岡川の上に驛があった名殘りであらうと、私は思ってゐる。
2025.02.27

東京都北區のお札と切手の博物館で、特集展「お札模様 流線が描くArt 工芸官作品展」を觀る。紙幣の歴史とは、そのままニセ札との闘ひの歴史にて、あの手この手の防御策のなかで發達したのが、紙幣を幾筋もの微細な線で彩る幾何學模様──“彩紋(さいもん)”なり。(※案内チラシより)國立印刷局の専門職員“工藝官”たちによって生み出された數々の彩紋には、華麗なやうでゐて「さぁマネ出来るものならやってみろ!」と云ふ真剣勝負の強い矜恃が聞こえてくるやうで、ただ「へぇ……」と感心するばかりでは許されない、背筋をピンと伸ばしたくものがある。しかし、彩紋ひとつひとつのあまりの細かさに、見てゐて目がチカチカしてくるのには困った。かういふものを贋造しやうなどと云ふヤツの氣が知れぬわえ。
2025.02.26

ひたすら自分のカオばかりを撮ってSNSとやらに投稿する見せたがり見られたがりが橫溢する現今、その画像から個人情報を讀み取られるキケンについて、NTTdocomoが企画した「ばくモレ展」を、東京都港區南青山のLIGHTBOX STUDIO AOYAMAへ觀に行く。 會場の一階はさうした見せたがり見られたがりなお姉チャンたちのごく平和な冩真展風、しかし二階に上がるとそれら冩真の背景や、見せたがり見られたがりが身に付けた物から個人情報が特定されるコワイ例を一つ一つ指摘、ナルホドね……、と頷く。瞳やメガネなどレンズ物に冩り込む景色、またそこにしか見られないやうな建物、“リアルタイム投稿”に添へた「いま〇〇に来た!」な時間を特定した文言の添付etc──私にも當てはまると思ったのが“指紋”云々、画像から指紋を簡單に複製できると云ふこの御時世、私もこのブログで缶飲料ネタを投稿するとき、よく商品を手に取って冩真を撮るが、もちろん指紋がはっきり冩らないやう氣を付けて撮ってゐるつもりでも、危険とはこちらの油斷した隙を衝いてくるもの、自戒自戒。自分のカオを晒すことばかりに氣を取られて、うっかり自分の隠すべき情報まで晒して惡人に取られないやう氣を付けませう──警視廰調べで、令和五年には1665人もの見せたがり見られたがり未成年が被害に遭った云々、しょせんスマホ画面だけでしか世界を知らないこれらなど惡人どものいいお客サマなれど、さう云ふ自分もうっかりしたものを撮って載せぬやう、自戒、自戒、自戒。
2025.02.24

千代田區に用事があったつひでに、一番町のJCII PHOTO SALONの『明治から昭和の写真館物語 「写真師・宮下欽の一族」』展にも立ち寄る。江戸城最末期の姿を撮影した橫山松三郎を遠祖に、“縁”によって四代にわたり受け繼がれた冩真黎明期の技術(わざ)と精神(こころ)を、その時代のその一瞬を捉へた貴重な一枚一枚からじっくり見て巡る。宮下欽が明治六年に撮影した、創業間もない富岡製糸場の内部とそこで働く工女たちを冩したステレオ冩真は、いまは世界遺産となってゐる現地へ見學しに行ったことがあるだけに興味深かった。その父の家業を繼いだ宮下守雄が考案した“ハテナ冩真”は、一枚の冩真に同じ人物が別のポーズで複数冩ってゐる、いはゆるトリック冩真のはしりで、乾板を何枚も重ねて印画紙に焼き付けて作った、遊び心に富んだ作品。冩真は藝術表現の手立てとしてより、浮世の真實を切り取り記録する媒体としてとしての方に本當の価値があると信じる私は、關東大震災の惨状を記録した一枚に、オヤ? と足が止まる。それは五十嵐与七と菊池東陽が撮影した、「建設中の橫濱正金銀行東京支店と日本橋三越」と題の付いたもので、當時建設中だった橫濱正金銀行東京支店が被災して足場の大きく崩れた様が、瓦礫の海の上に冩されてゐる。その構図は私が昨年末に手に入れた資料とそっくりで、もしかしたらこれが原版なのかもしれないと、しばし見入った。かくの如く思ひもよらぬ出逢ひがあるゆゑ、氣になったところには出かけてみるものなのだ。大手町にある河津櫻を見に行ってみると、七分咲きくらゐになってゐた。今年は寒氣やら寒波やらがやたら居座って、本場の豆州でも開花がだいぶ遅れてゐると聞く。ここの河津櫻も、来週あたりが見頃かもしれない。丸の内と東京驛とをつなぐ地下道で、灯りをつけた繪柄入りの和傘が並んでゐた。しかし、先日に伊勢の河崎町で年代物の“山田傘”にお目にかかった者としては、なんの感興も催さない。なんでも“本物”を見ておくものだと思ふ。
2025.02.21

日比谷公園内の千代田區立日比谷図書文化館で、特別展「実録 桜田門外の変」を觀る。米夷の来航により本格化した江戸幕府衰亡史の一場面、くらゐの認識で扱はれがちな大老暗殺事件を、そこに関はった、または関はらざるを得なかった人々が遺した証言などから深く掘り下げた好企画。安政七年(1860年)三月三日──※萬延元年とする資料も多いが、萬延元年は三月十八日以降なので未来年號となり正しくない由──、水戸浪士など十八名は愛宕神社に集合したのち江戸城櫻田門外に移動、季節はずれの雪のなか「上巳(じょうし)の節句」すなはちひな祭りで登城する大名の行列を見物する町人を装ひ大老井伊直弼を待ち伏せ、(※櫻田門の現景)朝五ツ半(午前九時)に“標的”が現れたところで一人が駕籠訴に見せかけ接近、抜刀するやいなや短銃の音を合図に全員で行列を襲撃、有村次左衞門が折から負傷した井伊直弼を駕籠から引きずり出して首級(みしるし)を挙げると、討ち死にした一人を除いた十七人はバラバラに逃走──(※一部のみ展示物の撮影可)一般的な幕末史が語るのはここまでだが、周辺の大名屋敷の家来や辻番がその直後の“逃走犯”たちを多く目撃、または誰何しており、血刀を提げたまま匿ってほしいと駆け込みながらそのまま行方不明、または不明瞭な言葉を殘して走り去って行くなど、まだまだ興奮状態にあった浪人たちの様子が生々しい。(※櫻田門内より旧井伊家屋敷跡方向を望む)その後、明治まで生き延びた“實行犯”はわずか二人、あとはその後に自刃、もしくは捕縛後に処罰云々。國元の彦根藩に事件が傳はったのは三月十六日の昼、「應戰して負傷したのでそのまま屋敷に引き返した」と知らされ、そのあと二十二日まで續報が途絶えてゐるところに、名門大名家としての体面を保たうと内々で奔走したであらう狼狽ぶりが却って讀み取れる。(※橫濱の掃部山に旧彦根藩関係者たちにより建立された井伊直弼の銅像)時代が少し下ってからの井伊直弼の人物評について、反對勢力への苛烈な処斷を下した「安政の大獄」によりその後の混乱した政局の舵取りを担へたであらう優秀な人材を多く失なった、との批判がある一方、『幕府が傾いたことをただ井伊の罪だとするのは、當時の状況を知らないから言へることだ。しかし井伊を開國の卓識者だと賞賛するのも、真實を理解してゐない。井伊もまた、幕府の一大政治家の一人だった』と、明治三十三年に語った福知源一郎(櫻痴)の言葉が、元幕臣なだけに本當のところを衝いてゐるやうに聞こえた。この櫻田門外で發生した暗殺事件は、庶民にも多く目撃されてゐたこともあり、幕府の情報統制も甲斐なく全國に廣まり、明治になると歌舞伎や講談にも仕組まれ、かつての“實行犯”は“義勇”へと祭り上げられる。(※述者藏)さらに現代になると事件は映像化され、大河ドラマ「徳川慶喜」では杉良太郎さんが井伊直弼に扮し、鋭い眼光で冷静沈着に事を推し進める大物ぶりをみせ、件の事件の場面では「なぜ時代がわからぬ、たわけ!」と無念と苛立ちを無言の表情に滲ませた演技が印象に殘ってゐる。映画では、昭和四十年(1965年)正月封切りの「侍」(岡本喜八監督 東寶)で、主演の三船敏郎扮する實は井伊直弼の隠し子と云ふ無頼者が實行犯に加はり、大老を實父とも知らずに討ち果たす物語を、そのとき滞在してゐたホテルのTVで觀た。狙はれる井伊直弼役は八代目の松本幸四郎で、襲撃の場面では斬られた供侍が呻きながら雪まみれにのたうち回るなど、かなり泥臭く生々しい演出がなされてゐたが、それ以上に強烈だったのは首謀者の星野監物役に扮した名優伊藤雄之助の、いかにもそれらしい怪物的な容貌だった。
2025.02.20

お伊勢参りでは二見浦へ立ち寄るのも定番くらゐの感覺でゐたが、本来はここで禊(みそぎ)を済ませてから参宮するのが決まり事云々。なんであれ強い北風のなか、岩に砕けた潮がこちらにもはじけさうなのを氣にしつつ、社殿の堅牢なコンクリート造りも頼もしい二見興玉神社と、それ自体が鳥居と云ふもともとは“立石”、いまは通稱“夫婦岩”を拝し、むしろ私にはこちらが本命だった天照大御神ゆかりの古跡「天の岩屋」もじっくり拝して、北風から逃げる。二見浦から松林を隔てた参道には、一大旅籠町だった往年を偲ばせる和風建築物がところどころに現存してゐるが、そのほとんどが外側ばかりを殘してゐるのみなところに、浮世の風向きを感じる。さうしたどこか空虚な参道沿ひの公共施設で、雛人形の大展示會が行はれてゐたので、ちょっと覗いてみる。會場をいっぱいに彩るいくつもの雛壇飾り、手作り雛人形はかう一堂に會するとなかなか壮觀だが、地元NPO法人が二十一回續けたこの催しは今回をもってお開き云々、私には最初で最後の御縁となる。雛壇飾りの人形たちをよく見ると、それぞれに吹き出しが添へられて面白い言葉を洩らしてゐる。私がもっとも笑ったのは、このお雛様の夫(お内裏様)に對する本音。『「この人」と 思った理由が 思い出せない』──人生と年齢を重ねた人には、ジワジワとくるものがある。“面白い”の縁(ゆかり)の地で、面白いものに出逢へた面白い御縁。
2025.02.18

伊勢神宮“外宮”の北西に位置する河崎町は、その名の通り勢田川沿った水運により榮えた町で、室町時代の長享年間に鎌倉北條氏の遺臣であった左衞門太夫宗次が移り住んでから發展したとされ、かつては外敵を防ぐために周りを堀川で囲った環濠集落であった戰亂期の遺構を、現在もわずかに見ることが出来る。河崎が水運を活かした商人の町として發展したのはお伊勢参りが盛んだった江戸時代で、當時の繁榮をその殘され町並みから聴けて興味深いが、現在も生活道路として機能してゐるからか、またはカーナビが抜け道として示すからか、クルマの通行量が意外に多くてやや落ち着かない。見つけた古本屋で、トウキョウでは全く見つけられなかった一冊に出逢へて、旅の良い思ひ出と嬉しくなってさらに町を進むと、元禄時代から十五代續くと云ふ陶器商「和具屋」に出逢ふ。両隣りの建物が無いため、江戸中期の築と云ふ狭い間口に深い奥行きがより強調されて映るが、かつてはさらに倍の奥行きがあった云々。その名殘りが、細長い店内の床を奥へと敷かれた二本の細い線路──(※店主の許可を得て撮影)あまりに奥まで遠いため、かつては仕入れた品を店内のトロッコに載せて、奥まで運んでゐた云々。店主に案内されるまま、レールを辿って約60m奥へと分け入ると、“終點”に往年のトロッコが存在してゐた!好きなヒトにはたまらないかういふ物、ちょっと動かしてみたくなったが、線路が朽ちてゐるため動かない云々、殘念に思ふ。奥の“終點”一帯は、實に多岐にわたる“年代物”が陳列された私設博物館となってゐるが、大勢に押しかけられては荒らされたり盗難に遭ふおそれがあるため一切の情報公開を控へてゐるとのことで、私も冩真掲載を控へるが、ただ一點だけ、この辺りを山田と云ってゐた昔日、子守の少女が日傘に使用してゐた和傘──土地の画工が繪柄を描いてゐたことから「山田傘」と呼ばれた、現在ではもう作られていない日本文化の實物に逢へたそれだけでも、中世に始まる水運都市の測り知れぬ深さを測るには、充分であった。
2025.02.17

おはらひ町をあとにし、急勾配が長く續牛谷坂を上りきり、狭い道がうねうねと伸びるいかにも旧街道らしい風情の始まるこの界隈こそ、かつて江戸の吉原、京の島原に並ぶ日本の“三大遊郭”のひとつだった古市(ふるいち)だが、現在では取り壊すきっかけもなく殘った古い家屋が點在する静かな町にて、お伊勢参りを済ませた男たちの“精進落とし”で殷賑を極めた往年など偲ぶよすがもない……、やうだが、注意すればその痕跡を見出すことは出来る。近鉄鳥羽線の切り通しに架かる橋を渡ったすぐ脇には、江戸時代に屈指の廓と謳はれ、明治以降はその風情そのままに旅館へ転業したが第二次大戰の空襲で廢業した、「油屋」跡の石碑が建つ。現在は個人宅の敷地前に肩身も狭さうに一本の石碑が残るのみだが、戰前までは遊廓時代の威勢そのままの見世構へであったことが古冩真からも充分に窺へ、客室にもどこか艶っぽい風情が殘されてゐたやうだが、廢業後は近鉄鳥羽線を敷設するためにその面影を地面ごと削り取られ、時代の無常ばかりを現在(いま)に傳へる。この油屋をさらに有名にしたのが、寛政八年(1796年)六月九日の深夜に近在の醫者孫福斎(まごふく いつき)が、酒の相手をしてゐた當時十六歳の遊女のおこんを後から入って来た客に持って行かれたことに腹を立てて刃傷沙汰を起こした事件と、それを二ヶ月後に上方の近松德三が脚色して大當りをとった歌舞伎芝居「伊勢音頭戀寝刃」で、(※「伊勢音頭戀寝刃」 十五代目市村羽左衞門扮する福岡貢)實説ではオンナと酒絡みの刃傷事件であったのを歌舞伎劇お得意のお家騒動物に仕組み、伊勢神宮の御師である福岡貢は油屋の座敷で惡人に加担する仲居萬野に散々イジメられて一度は退却するが、(※歌舞伎「伊勢音頭戀寝刃」 六代目菊五郎の福岡貢、七代目梅幸の油屋おこん、二代目子團次の油屋おきし、三代目多賀之丞の仲居萬野 昭和二十三年七月 東京劇場)大事な刀が偽物とすり替へられてゐることに氣が付き引き返したところ、ひょんなことから刃傷沙汰を起こしてしまふ、と云った筋になってゐる。この芝居がご當地で初めて上演されたのは、實在の遊女おこんが事件から三十三年後の四十九歳で亡くなった文政十二年(1829年)二月より三ヶ月後の五月で、福岡貢に扮した四代目坂東彦三郎の、地元感情への心配に反して芝居は大當り、彦三郎は感謝をこめて近くの大林寺におこんの墓を建て、さらに時代が下った昭和四年(1929年)には二代目實川延若が、すでに他の寺にある孫福斎の墓を模した墓を改めておこんの墓の隣に建立云々、(※左が遊女おこん、右が孫福斎の墓)實説より芝居世界に因んで“比翼塚”と名付けられ、現在も大林寺本堂の脇に、墓石はやや痛んだ姿ながら目にすることが出来る。油屋は時代の流れに跡形もなくなったが、その跡地から少し離れ場所に天明二年(1781年)には開業して現在も營業を續ける「麻吉旅館」から、古市全盛期の威容を偲ぶことが出来る。山の傾斜に合はせて奥へと伸びていく造りは往年の油屋と同じで、路地を挟んで向かい合ふ建物を結ぶ橋になにか艶っぽさを感じるのは、「伊勢音頭戀寝刃」の“奥庭の場”に、通天の大道具が飾られてゐるからかもしれない。
2025.02.17

朝に皇大神宮──内宮を参拝す。宇治橋を渡り、神苑を經て、五十鈴川の御手洗場(みたらし)にて、日ごろ不平と皮肉ばかりの我が身を清める。正宮は天皇家の祖神とされる天照大御神をお祀りする我が國尊上の御宮にて、十年以上ぶりに結んだ今日の御縁に感謝を述べる。八年後に遷宮する新御敷地も拝してから参道を戻ってゐると、なにやら露拂ひをしてゐるので誰か来るのかと思ってゐるうち、これから五穀豊穣祭を斎行するにつき行列がお通りになる云々、と云ふことは……、と端に寄って少し待ってゐると、天皇家出身の祭主が、白装束の神職たちの先頭に立ち、玉砂利を踏む音にも亂れなく前を通り過ぎて行った。先日に上野東照宮で德川宗家第十九代當主に會った例に續き、“貴人”との邂逅はこれで二例目。今日は皇祖神をお祀りする神域にて、その子孫にお目に掛かれたのである!自然と頭が垂れたのは先日と同じ、これは稀有な御縁と、その感謝をこめて式年遷宮の費用を微力ながら納める。遷宮後、私はいつか再びここを訪れるだらう。内宮御門前の“おはらひ町”は旧伊勢街道の終點に伸びる繁華な通りにて、行き交ふ人々の頭上だけを眺むれば、江戸時代の“抜け参り”の賑はいもかくやと偲ばるる。食事はやはり“伊勢名物”だらうと、しかし手こね壽司は昨日で懲りたのでそれ以外のもの──松阪牛と伊勢うどんにする。松阪牛は現代の味はひ、伊勢うどんは江戸時代の旅人が忘れられなかったであらう味はひ。腹拵へを済ませてから、旧伊勢街道をしばし下る。
2025.02.17

十年以上ぶりに、お伊勢参りに行く。伊勢神宮は外宮と内宮の両宮を参拝するものにて、今日は外宮──豐受大神宮にお参りする。正宮の右隣りには、令和十五年の遷宮予定地が準備されてゐる。式年遷宮は2033年、八年後。その頃、私はどのやうに生きてゐるのだらう。……いまと同じに生きてゐたい。日本が中世から近世への過渡期にあった戰亂期、天照大御神の子孫に權力も財力も無かったために伊勢神宮の遷宮が長く斎行できず、社殿は朽ちて荒れ放題であったと聞く。ヒトの手で造られるものは、常にヒトの思惑に左右されるのが現實世界の運命(さだめ)である。正宮の南におはす「風宮(かぜのみや)」にも参拝す。鎌倉時代の「元寇」では“神風”を吹かせた神様云々、九州での攻防を實見することのなかった寺社勢力がさう信じた名殘りなれどそれはさておき、いまニッポンの國力を奪ふ外夷をことごとく吹き飛ばしてくれい、と願ひを捧げる。伊勢神宮の門前町には、「世古(せこ)」と呼ばれる古い路地が、いまも幾筋か殘る。今は昔、伊勢の漁師が遭難して朝鮮に流れ着いて助けられ、自宅の母に無事である旨をしたためた手紙を送ったところ、宛先に“世古”の二文字があるのを見た人々は、「世古とはお伊勢様のあるところに違ひない」と、手から手を經て漁師宅の母のもとに届いたと云ふ話しが遺ってゐる。それだけ伊勢の“世古”が廣く知れ渡ってゐたと云ふほかに、やはり伊勢神宮への尊崇の念も手傳ってゐたのではないかと思ふ。歩いてみたかった世古を幾筋か經て、「月夜見宮」に参拝、御祭神は天照大御神の弟である月夜見尊云々、伊勢の町にはかうした社の原始を留めた古社が多く傳はる。伊勢名物のひとつ、「手こね壽司」と云ふものを食べてみる。 ひとくちに壽司と云っても、その土地の風土や歴史によって形態はさまざま、伊勢におけるそれは漁師が釣ったばかりの鰹を舟上で切り身にして酢飯に和へた、いはゆる“賄ひ料理”がはじまり云々、しかし私の前に出されたのは、トウキョウで云ふところの“マグロの漬け丼”そのままで、まァこれが名物サ、と笑っていただく。
2025.02.16

昨秋に埼玉縣新座市の蓮光寺の“バチあたりライヴ”で初めて逢って樂しんだ千葉縣木更津市のご當地アイドル“C-Style”が、同縣春日部市内のドン・キホーテ駐車場にキッチンカーを出店してゐるとのことで、ドレドレと出かけてみる。キッチンカーのことは前から知ってはゐたがなかなか都合がつかず、今日の晴天にやっと機會を得る。メインメニューはクレープなので、キャラメルソースのかかった逸品をつくってもらふ。ライヴで元氣な歌とプロならではのキレキレなダンスをこなしながら、キッチンカーでいろいろな場所を巡って、いろいろな人たちに自らクレープをつくって、物販もやって、さういふ精力的な活動を續ける二人だからこそ、これからも伸びていってほしいと、ただ願ふ。
2025.02.15

「上野の東照宮って、どの辺りだっけ……?」先日にさう訊ねられて、行ったことがないためちゃんと答へられなかったので、これを機に一見せばやと存じ候。上野精養軒より奥、上野大佛の脇を抜けた先に鳥居が立ち、ここからいかにも江戸時代の遺構らしい石畳の参道が伸び、ほどなく門扉一面の金箔もまばゆい唐門に行き當たる。慶安四年(1651年)の造營と云ふ國の重文云々、門扉両脇の昇り龍降り龍の彫刻は左甚五郎の作云々、東照宮の場所を確かめるのが目的だったので、ここで引き返すつもりだったが、ふと氣が變はり、唐門の向かふの社殿も一見せばやと存じ候。見た目そのままに“金色殿”とも云はれる現在の社殿は、唐門と同じ慶安四年に三代将軍德川家光が造營替へをしたものにて、もとは寛永四年(1627年)に津藩主藤堂高虎と天臺宗の天海僧正が“神君”家康を祀るため寛永寺境内に建立した「東照社」が始まり云々。いかにも往年の德川政權のチカラを誇示した金閣モドキの社殿を仰いでゐると、社殿のなかでゴトゴトと音がして、やがて滅多に開かぬはずの戸が両側にパッと開き、中から人品賤しからぬ人々が出て来た。そのなかに、近年に德川宗家の十九代目を繼いだばかりの現當主──世が世なら江戸幕府の“第十九代将軍”の姿もあり、なんたる偶然と仰天す。(※手前左手、黒い上着姿の男性が德川宗家第十九代目當主)このとき東照宮見物の觀光客が數名ゐたが、いま目の前にここの主とも云ふべき“上様”がおはすことに氣が付いたのは私も含めたごく僅か、初代家康、八代吉宗、十五代慶喜の三将軍を祀った靈廟からまさか十九代目が現れるとは意外も意外、普段は非公開の社殿内部を隙見出来たのも有り難く、物凄い場に居合はせたこれこそが、今日ここに来た本當の御縁だったのだと感謝する。一行は和やかな様子から、内々で史跡見學の會を催してゐるらしく、十九代目當主が近くを通り過ぎるとき、つひ頭を垂れたこれこそが“上様”の威勢と、五百圓の拝觀料がいっぺんに価値の高いものになった。
2025.02.12

東京都墨田區業平三丁目に、江戸の歌舞伎役者の墓が多く傳はる通稱“役者寺”の跡があるとのことで現地を訪ねてみたが、その痕跡を傳へるものが見當たらぬ。ハテ……? と立ち尽くすうち目に入ったのが、すっかり文字の消えた案内板らしきしろもの。近づいてよく見ると、やはりここに“役者寺”があったことを綴った文章が、微かに讀める。痕跡を傳へる痕跡。ばからしい、と呆れて自力で調べた結果、昭和の初めに江戸川區瑞江四丁目に移転云々、いまさら歌舞伎にさほどの思ひ入れもないが、ここまで来たのだからやはりー見せばやと、存じ候。役者寺──浄土宗「大雲寺」は京都知恩院の末寺にて、二代将軍德川秀忠の後援を得て、元和六年(1620年)に淺草森田町(現在の臺東區藏前)に創建、寛文八年(1668年)に私が初めに訪ねた、當時は本所押上村と云った墨田區業平に移転、しかし大正十二年(1923年)九月一日の關東大震災で損壊したのをきっかけに、昭和六年(1931年)に現在の場所へ再度の移転云々。件の墓所は、本堂裏手の廣大な墓苑の本堂寄りに集まってゐて、↑左が瀬川菊之亟家、右手奥が初代と二代目坂東彦三郎の合葬墓、↑右が四、五、六代目の松本幸四郎の合葬墓、中央と左が中村勘三郎家、↑右が市村羽左衞門家代々、中央と左が三代目以降の坂東彦三郎家代々、↑右が初代尾上菊五郎、左側の二基は尾上菊五郎(寺島家)門弟たちのお墓で、右手の石面にはいくらか落剥してゐるが、弟子たちの名がびっしりと刻まれてゐる。大阪四天王寺の嵐家のお墓には、石灯籠に門弟たちの名がたくさん刻まれてゐるが、ここのやうに門弟たちそのものの墓とは珍らしいと思ひ、またなにか親(ちか)しさも覺えて、特に氣持ちをこめて合掌す。
2025.02.10

四天王寺で師匠と嵐家の御先祖に一ヶ月遅れの新年の挨拶を済ませたあと、日本一低い山“だった”天保山を訪ねばやと、存じ候。まだ師匠に弟子入りする前、道頓堀の中座に出演してゐた師匠を拝見しに大阪を旅行した際に一度訪れて以来數十年ぶりのことで、こんもりとした木立ちがそれだった、くらゐの記憶しかない。 さて、いまはどんな景色かしら……?大阪メトロ中央線「大阪港」驛を下車、海遊館の大觀覧車を左に見つつ海方向に行くと、小高く土の盛られた公園あり。そばには「天保山跡」と刻まれた石標があり、天保二年(1831年)に安治川の底を浚った際に出た土砂を積み上げて造った人工山云々。階段のついた目の前の小山がさうかと思へどさにあらず、それを越えて安治川河口を正面に見た右隅、明治天皇聖蹟碑の建つちょっとした廣場が天保山の山頂にて、標高は4,53m。かつては名實ともに日本一低い山だったが、東日本大震災の津波被害で仙臺市の日和山の標高が下ったことによりその座を明け渡すことなったが、國家基準點である二等三角點を有する山としては、現在も日本一を維持云々。(※戰前の天保山)どちらも海に臨んだ人工山だが、仙臺市の日和山は可愛らしい響き、天保山(てんぽうざん)は年號を取ってゐるためか重厚な響きを感じる。もっとも、一位だの二位だのは私にはどうでもよく、しっかり「山」として壮大な存在感を放ってゐるところに、私は魅力を感じるのである。山頂からは、大阪市營渡船の渡し場が望める。「おうい、待ってくれェ……!」私は慌てて下山し、ギリギリ間に合ふ。
2025.02.07

EXPO'70の現在を訪ねたからには、現在始まらうとしてゐるEXPOの進捗も一見しておかばやと、存じ候。先ほど延伸開業した大阪メトロ中央線の「夢洲(ゆめしま)」驛から地上にあがるとその先の鉄柵の向かふに、いまだちっとも盛り上がらず、いまだ完成の目処も立たぬ2025年大阪萬博會場が、建設資材越しに見ゆる。同じ目的でやって来た高齢男性と、「この様子では、本當に開幕までには完成しないでせうね……」と話してゐるそばを、ヘルメットを被った作業員たちや關係者たちが、頻繁に往き来してゐる。その高齢男性は、團体のバス旅行での萬博見物を計画云々、しかし駐車場から會場入口まで1kmほど歩くことになると聞かされたさうで、「それはちょっとないよなァ、と思ひます」とため息をついてゐた。クルマでも電車でも、ここへ来るにはもちろん、大混雑は重々覺悟しなければならない、ハズだ。鐵道の最寄驛である大阪メトロ中央線「夢洲」驛は、いまでこそ閑散としてゐるが、いざ萬博が始まれば呆然となるくらゐにヒトでごった返す……、ハズだ。そして萬博の閉幕後は……?だれかの利益(もうけ)ばかりが最優先するこの國力無き令和時代、いまや誰もがユメを見尽して、すぐそこの“夢(みらい)”すらも描けない、そんな残滓に我々は縋ってゐるのではないか……?
2025.02.07

現在は70'大阪萬博の資料を展示した記念館となってゐる「EXPO'70パビリオン」は、もともとは「鉄鋼館」と云ふパビリオンで、建物じたいが樂器と云ふ趣向の音樂ホールとして造られ、當時から閉幕後も殘すことが決ってゐた貴重な生き証人、平成二十二年(2010年)には閉幕以来非公開だった“スペースシアター”が復活して、當時斬新だった音樂世界を、令和現在もそのままの魅力で演出してゐる。目當ての初代“黄金の顔”はその別館に展示されており、あの左目のところに、開催中には目立ちたがり屋の男がしばらく棲みついてゐたのか、と當時の觀客になった氣分でしばし見上げる。このEXPO'70パビリオンでは、萬博開催時における女性係員たちを中心としたユニホームを展示した企画展が行はれてゐたので、併せて觀る。會場では“ホステス”と呼ばれた各パビリオンで働く女性たちのユニホームも、ファッションリーダーとして萬博の呼び物云々、海外各國がデザインに工夫を凝らすなか、國の威信をかけて開催するニッポンも氣鋭のデザイナーたちを起用して最先端の知恵と工夫を凝らし、簡素且つ活動的にして、女性としての魅力存分も惹き出した“萬博モード”を編み出す。特徴は當時流行のミニスカートを採り入れたことで、姿勢によっては脚が際どくなるこの衣裳を、上品上手に着こなしてゐた當時の女性たちの冩真に、ほう、と感心する。片膝を内に入れて地面に膝をつく座り方、令和のお姉さんたちは御存知?會場内の移動手段のひとつに、當時は未来の交通機關だったモノレールが運行され、その車両デザインは令和でも通用する魅力を放ってゐたが、萬博閉幕後は動力の一部を東京モノレールに転用したほかは解体され、現物は目に出来ない。が、現在は門真市と大阪(伊丹)空港を結ぶ大阪モノレールが、支線も含めて萬博記念公園のそばを通ってゐる。萬博のモノレールと大阪モノレールとに經營上のつながりはないが、昭和四十五年當時に現出した未来は、“人類の調和”はさておき、少しづつカタチにはなってゐるのだな、と思ひつつ大寒波に凍えた體をあの車内で少しでも温めんと、驛に急ぐ。
2025.02.06

會場が廣いだけでなく、内容の奥も深くて一篇にまとめられない“EXPO'70”跡めぐり、70’大阪萬博の象徴と云へば故人岡本太郎の手による「太陽の塔」、もともとは地上30mの高さに設けられた「大屋根」のテーマ館に觀客を運び上げる必要から計画されたものだが、故人がこの塔の計画に着手したのは萬博開幕の二年前と遅く、しかもこの造作について故人は生前になにも語ってゐないため詳細は不明云々、内部は「生命の樹」と名付けられた壮大な模型が高々とそびえ、觀客はそれに度肝を抜かれつつエスカレーターで上った云々、しかし萬博閉會後は長らく閉じられたままになってゐたものを、平成三十年(2018年)に補修補強工事を施した上で常設展示施設として復活、「藝術は呪術である」と語った故人の“斬新”な生命觀は、令和の世にもただただ呆氣にとられる。もっとも、ワケのわからないモノはそのぶん接する者に自由な思考を許すわけで、「ワケわからん」と云ふことがわかった、で良しとすべし。この復活施設の序章には、故人が制作した「地底の太陽」なる巨大假面が展示されてゐるが、これは萬博閉幕後に行方不明になった實物の復元云々、(※萬博開催當時の現物)“行方不明”と云ふところが、私には何かそそらるる。萬博開催當時に「太陽の塔」の頂部に設置され、平成四年(1992年)に劣化を防ぐため取り替へられた初代の“黄金の顔”が令和五年(2023年)夏に園内の「EXPO'70パビリオン(旧鉄鋼館)」に再登場云々、そちらも一見せばやと存じ候。
2025.02.06

「ビルマ館」「古河パビリオン」「三井グループ館」遠景「お祭り広場」「日本庭園」“木漏れ日の滝”(?)……と、自然公園に整備されてゐるだけあって跡地はほぼ芝生廣場になっており、日立グループ館があった一帯は深い森となってゐるのは、かつての千里丘陵の姿に還そうと云ふ計画なのだらうか。次は、現在も殘る往年のパビリオンを訪ねばやと、存じ候。
2025.02.06

押入れに長らく仕舞ったままになってゐたアルバム群のひとつから、昭和四十五年五月の大型連休中に出かけたことが記されてゐる、大阪の千里丘陵で開催された「日本万国博覧会」──“EXPO'70”の冩真が數枚出てきた。と云ふわけで、その場所の令和現在を一見せばやと存じ候。昭和四十五年(1970年)3月15日(日)から9月13日(日)の半年、183日間にわたって開催され、6千4百萬人以上が訪れたと云ふ戰後ニッポンが國の威信をかけた萬國博覧會の會場は、閉會後に萬博記念公園として再整備され、現在に至る。『人類の進歩と調和』を基本理念としたこの催しでは、世界76ヶ國他が参加しただけに、實に多種多様な出来事に富んでゐたやうだが、それは今回の噺ではないので他者に譲り、冩真に殘るパビリオン(展示館)のその跡を訪ね行かん。「三菱未来館」「せんい館」遠景「エチオピア館」つづく
2025.02.06

國學院大學博物館にて、文永の役──いはゆる“元寇”から七五〇年目に因んだ特別展「絵詞に探るモンゴル襲来─『蒙古襲来絵詞』の世界─」を、三期通して觀る。肥後國御家人の竹崎季長が鎌倉幕府から恩賞を得るための証明として、蒙古相手に奮戰した様を描かせた「蒙古襲来繪詞」は皇居三の丸尚藏館に収藏の原本のほか、(※原本の「蒙古襲来繪詞」)約四十點の模冩本が確認云々、ここでは細川藩士の手を離れたのち所有者を転々として菊池神社に収まった“菊池神社本”と、令和四年六月に埼玉縣の熊谷次郎直實の子孫とされる旧家で新發見の、成立年代など諸事情が不明な“根岸家本”の二點の模冩本を比較展示する。(※同)後年の模冩はそれぞれに事情や繪師の感性によって原本とは異なる風合ひを持つものであり、両者を並べて相違點を指摘する“間違ひ探し”は、意味が無いと思ふ。(※海底の沈没船から發見された“てつはう”)弘安、文永の二度にわたって九州を攻めて来た元軍は、いづれも折からの大型臺風により壊滅した、と私たちは學校の授業で習ったが、實際は二度目の文永ではその後も激しい海上戰が繰り廣げられたことは、後期に展示の繪詞に明白であり、そもそも「蒙古襲来繪詞」には暴風雨の場面そのものがない。件の暴風雨は、たしかに二度にわたって蒙古軍に大打撃を與へたが決定打ではなく、またそれは竹崎季長をはじめ“現場”の武士たちにとって神風──「カミの加護」などと云ふ認識はなかったことを示す。蒙古軍の撃退をさう捉えたのは神佛に恃んで加持祈禱を行なった僧たちであり、その認識は時代が下るにつれて“現場”を知らない者たちにより補強され、近代の愚戰に至っては特攻隊の名稱に冠されるなど國威發揚の好材料となって、都合よく完成される。假にそれで大日本帝國が勝利したならば、いよいよ件の暴風雨は“神風”として歴史に創作されたことだらう。正史とは常に勝者によって都合よく創られる、恐ろしく眉唾な噺なのだ。 (※蒙古軍船の推定復元模型)世界は變って、現代の角界では橫綱を蒙古人に席巻されて久しい。鳴呼、カミカゼは吹かないかしらん。
2025.02.05

地下鐵博物館の特別展「東京メトロ20年のあゆみ展」を觀る。私にはまだ何となく馴染みがある“營團地下鐵”から、民間運營の“東京メトロ”に移行してもう二十年が過ぎたかと、今さらながら感慨に浸る。民間では莫大な費用のかかる地下鐵建設を、官の財力(チカラ)で推進すべく設立されたのが帝都高速度交通營團であり、そのために自力で新橋まで開通させた果てに橫合ひから官に持って行かれた早川德次の悲哀は、長く心に留めておくべき歴史だ。民営化後は車両も設備も、時代の要請に合はせて弛まぬ改良を重ねてゐることはふだん利用してゐる一人としてよく感じることであり、東京メトロについては、他社線ほどには使ひ勝手の惡さを感じることもない。私はこれからも、その時その時の浮世の流れに乗せられつつ、東京徘徊の手段に活用するだらう。
2025.02.04

昨年から復活させた二月恒例のお樂しみ、橫濱市保土ヶ谷區の岩間市民プラザで、活辯士坂本頼光さんの無聲映画上映會「サイレントシネマ&活弁ワールド」の第十五回目に出かける。昨年に第一部を上映した大河内傳次郎主演「水戸黄門」三部作の第二部(昭和十年/1935年)“密書の巻”は、柳澤吉保の陰謀が記された副題のそれを追ひかけて舞臺を江戸を移し、大河内傳次郎が水戸黄門よりも二役で扮する山浪人に持ち前の磊落ぶりが發揮されてむしろこちらが本役、(※案内チラシより)そんな大河内傳次郎往年の臺詞回しを、坂本頼光さんが見事な話藝で再現してさらに一篇を盛り上げる。中盤には喜劇役者として名を馳せた高勢實乗が御老公一行が江戸へ下る途中に泊った宿屋の亭主役で出演しており、日頃の剣術好きが助さん格さんにコテンパンに叩きのめされる件りで、他の人ではちょっと真似できない軽妙な道化ぶりを見せて一場をしっかり自分のものにしてゐる。ハロルド・ロイド主演の「ロイドの巨人征服」(1923/大正十二年)は、ロイド扮する重病人と思ひ込んだ富豪青年が、靜養のため渡航した南米の小島で遭遇した惡人たちとのあの手この手の對決を軽快に描いた喜劇、(※同)看護師のヒロイン、實際に2m以上の身長があったと云ふ朴訥な大男、冷たい眼光が印象的な惡の親玉など、個性的な登場人物たちに坂本頼光さんがそれぞれおかしみをふんだんに盛り込んで、客席をこれでもかと沸かせる。もともと上手な活辯士だが、今回はとりわけ話術に磨きがかかってゐるやうに感じた。今日は東京圏でも降雪が予想されるほど、氷のやうに冷たい空氣の一日。しかし大いに笑って體も暖まり、この心地よさを忘れずにまた来年も来るゾ、と、ひとり笑みする。
2025.02.02

昨夏の“澁公LIVE”いらい半年ぶり、SHIBUYA CLUB QUATTROで、The Biscatsに逢ふ。澁谷のライヴハウスで初めてこのロカビリーバンドを生で聴いてからもう1年か、とあの時の鮮烈さを思ひ出しながら、アルバム曲、新曲、カヴァー曲を⤴️⤴️✊✊で遊んで、「エッ、もうお開き……!?」と驚いたくらゐにあっといふ間な113分間。(※撮影OKコーナーにて)立場も場所も違へど、同じ時間を生きてゐることを實感して、そのお土産を壊さないやう、うるさいシブヤにそっと下る。
2025.02.01

東京スカイツリーが近くにそびえ立つたばこと塩の博物館で、「日常をつくる! 企業博物館からみた昭和30年代」展を觀る。終戰もすでに一昔、民主主義國となったニッポンが復興再生に邁進してゐた時代を、庶民生活の要請から開發し、生活文化の發展に貢献した當時新發賣の日用品などから懐古する企画展。もうずいぶん前に、甘ったるい人情モノ映画が大當りをとって以来、昭和懐古と云へば三十年代(1955年~)が定番となり、なぜ萬博が開催された四十年代(1965年~)ではないのだらう、と疑問に思ふところへ、ラジオ番組で「みんな昭和三十年代を懐かしがりすぎだろ!」と云ってゐるのを聴いて共感したのが、つひ先日のこと。實際、十代を過ごした團塊世代の両親から、當時を懐かしむ話しなど聞いたこともない。あらゆることに他力本願なこの國力無き令和ニッポンにおいて、自力本願で明日へ邁進してゐた時代が、よほど羨ましいものに映るのだらう。しかし、戰後の貧困から脱却しつつあったとは云へ、まだまだ回復までには道のりがあった一例を、當時の郵便配達員の制服がいまに傳へてゐる。(※展示室内フラッシュ無しで撮影可)下の冩真のV字型をしたシャツは、予算と物資不足のために上着から見える部分だけを裁斷して仕立てたもので、背中も両袖もないまるで喜劇の衣裳のやうだが、これが昭和三十年代の公務員の制服だったのである!私が小學生だった頃に人氣のあった少年向けギャグ漫画に、立派な衣類は正面だけで後ろはすべて紐で結んでゐる“元上流階級”の登場人物があったことを思ひ出す。と同時に、いま大赤字の郵政サンは、郵便料金の値上げばかりしてゐないで、制服のシャツをみんなこれに變へたらどうかと思ふ。これでこそ、本當の昭和懐古(ノスタルジック)、企業努力と云ふものだらう。洗剤や歯磨き粉、シャンプーなど泡モノの新製品が次々と登場したのもこの時代だが、この當時には野菜や果物に付着した農藥や害虫などを、なんと専用の洗剤で洗ひ流すやう推奨してゐたとは、驚愕の一言に尽きる。いや、廣告の文句に「水で洗い流すだけでは落ちません」などと謳ってゐるところは、もう恐怖すら覺える。戰後次々に浮上した人体への藥害問題の端緒が、すでにここに示されてゐる昭和懐古の“闇”を、私はここに目撃したのである!そして令和ニッポンでは決してあり得ない廣告。……昭和三十年代とは、もはや懐かしむ對象ではない異世界のやうに思へてきた。
2025.01.30

國立公文書館企画展『「普選」と「婦選」─選挙権の拡大とその歴史─』を觀る。明治二十二年(1889年)二月十一日、大日本帝國憲法と共に公布された衆議院議員選挙法から始まった日本國の“せんきょ”が、高額納税者の特權から一般男性の權利へと裾野を擴げ、やがて女性にも權利が與へられるまでを、官から見る選挙權史。(※展示室内フラッシュなしで撮影可)女性の参政權を初めて官に訴へたのは大正十一年(1921年)の平塚らいてうにて、日本史の教科書にも名前が載ってゐた女史なるが、近代日本文學の作品を僅かばかりかじったことのある私が女史の名前を拝すると、かつて森田艸平と云ふだらしのない男と心中騒ぎを起こしたヒトと云ふ印象がどうしても先に立ち、のちの近代女性解放運動に先駆けて、まず性について解放的だったと濁った人物像で映ってしまふ。男女平等だの均等だのと云った事象の實態は、ただ男の社會に女が入り込んで来ただけのことであり、女の社會に男が進出することは、依然女側が拒絶反應を示してゐる。男女の棲み分けがしっかりなされ、それぞれに領分を全うすることで浮世の均衡は図られると考へる私にはどうも納得いかない事象であり、そんな現代の端緒はこのあたりにもあるかと、當時の輝かしき歴史の記録(あしあと)を眩しく見る。
2025.01.29

世田谷美術館の「東急 暮らしと街の文化─100年の時を拓く─」展を觀る。澁澤榮一が興した「田園都市構想」は、財力と政治力に長けた五島慶太率いる東急によって次々に實現するが、カネと時間に余裕のある風雅人たちの閑居地くらゐに留めておけば“自然豊かな文化都市”たり得たものを、多摩川を越えた先の丘陵地帯まで手を伸ばし、一帯をことごとく宅地化した結果、自然も文化もヘッタクレもない、ただ借金(ローン)を返済するためだけの働きバチたちの巣にすぎなくなってしまったことはさすがに目論見違ひだったであらうと、展示されてゐる當初の都市計画図を見てつくづく思ふ。事實、東急が開發した住宅街の一部を忘大手企業が買ひ上げて社員たちに分譲したところ、學校で上司の息子が部下の息子を「オマエのオヤジはヒラだ!」とイジメる事例が頻發して深い問題になったと聞く。教養ある階級の理想など、そんなものに無縁な階級にはその程度でしかないと云ふ好例だ。展示は四章仕立てで、東急が開發した土地から發信された文化藝術の足跡に見入る觀覧者はごくわずか、ほとんどが第一章の「暮らしの時を運ぶ─東急の輸送事業─」、つまり“でんしゃ”ネタだけをじっくり眺めて去って行く。(※第一章の展示室のみ撮影可)かく云ふ私も第一の目的はここだったので、關連の實物や冩真をじっくり見ながら、記憶にある往年へ想ひを馳せる。數ある實物展示のなかで目を惹いたのが、玉電砧線の車両に掲げられてゐた行先表示板。當時、自宅のある用賀から玉電に乗って通學してゐた父は砧線のことも記憶してゐたが、その思ひ出噺のなかで「砧(きぬた)本村」をなぜか「たぬきほんむら」と云ふのが面白く、その謎は現在も謎のままにしてゐる。ただ、當時の風景冩真を見ると、父の認識はさう間違ひでもないと思ふ。東急沿線住民の福利厚生施設として大正十四年(1925年)十二月に開園した「多摩川園」には、多摩川能樂堂も併設云々、近現代の能樂界を牽引した優秀な人材を多く輩出した「多摩川の舞薹」として私も聞いたことのある傳説の舞薹は、昭和三十年に港區青山に落成した觀世流銕仙會の本拠地に移築されて現存してゐることを初めて知り、それがこの企画展を觀に来た文化的意義を得た、一番のおみやげ。
2025.01.28

東京都千代田區大手町1-4、企業ビルの敷地内に遺る、一橋德川家の屋敷跡でしばし足休め。一橋家は十一代家斉、十五代慶喜と二人の将軍を輩出した御三卿のひとつ。水戸德川家から養子に入って一橋家の九代目となった慶喜と聞くと、私は先年に慶喜直系の曾孫が急逝して血統が斷絶したと云ふこと、それから大河ドラマ「徳川慶喜」を連想する。古冩真などが傳へる慶喜は面長な役者顔、主演の本木雅弘さんは現代的な小顔で、ちょっと印象が合はない氣はしたものの、時代の荒波に真っ向真剣勝負で立ち向かふ最後の青年将軍を見事に演じきってゐた。そのほか、太閤鷹司政通役の宝田明さんが温和にして貫禄ある朝廷の實力者像を綺麗な公家言葉で、關白九條尚忠役の森山周一郎さんが耳に心地よい重低音の聲で幕末に生きた五摂家の名門公家を好演、勝海舟役の當時坂東八十助だった十代目坂東三津五郎さんの、裃姿で端座してゐるだけで周りの俳優たちとは明らかに修業が違ってゐた風情も忘れられない。……しかし、いま挙げた人々はすでに鬼籍に入ってゐる。現在見られる一橋家時代の遺構は、一ツ橋の傍に遺る石垣だけらしい。人はいつか亡くなっても、人が造ったものは守る人さへゐれば、半永久の命を保つ。命の永續とは──などと考へはじめるより先に、真冬の容赦ない空氣に體が冷えてきた。さあ、いま見える先へ歩き始めやう。
2025.01.22

千葉縣の浦安と云ふと、まず鼠國(DL)、海沿ひに續く工場と物流拠點、そして地下鐵東西線の車窓にいつまでも廣がる住宅地──現在では働く人々が寝に帰る町、と云った印象があるが、江戸時代には塩作りから始まった魚介類豊かな漁師町であり、戰後までは海苔作りも盛んな町であった面影が、浦安市郷土博物館に再現されてゐるとのことで、ひとつ出かけてみる。博物館の屋外展示がそれで、昭和二十七年頃の様子を移築や復元された建物で軒を連ねる。房州や総州で海苔作りが始まったのは江戸後期の文政五年(1822年)、江戸から来た近江屋甚兵衞と云ふ人物が現在の君津市(當時は人見村)で成功させたのがきっかけで、やがて近隣でも養殖が始まり“上総海苔”と云ふ名産品となるが、浦安で海苔作りが始まったのは明治三十一年(1898年)と遅く、 それも土地の名士が東京大森の海苔作りの様子を視察して決定云々、かつて江戸時代に前述の近江屋甚兵衞がこの土地でも海苔作りを薦めたが拒否したと云ふ歴史も絡んでゐるか。やがて浦安の基幹産業にまで成長した海苔養殖だが、戰後になると海を埋め立てた工業地帯より排出された汚水によって水質は著しく惡化し、漁師たちが工場へ殴り込みをかけるなどの大騒動を經て、昭和五十年(1975年)に漁業權を放棄したことで、浦安の海苔養殖は終焉する。手本にした東京大森がオリンピックにかこつけた湾岸整備事業で昭和三十七年に漁業權を放棄したのに比べて、ずいぶん長く頑張ったのだなと思ふ。内陸部に地下鐵東西線の浦安驛が開業した昭和四十四年の頃には農業も終焉し、地下鐵が高架線で開通して東京中心部とつながったことが、浦安と云ふ町の歴史と性格に一本の仕切り線を引いたとも思へた。しかしそれは、誰よりも自分たちで選んでつくった歴史なのである。
2025.01.15

二年ぶりに淺草公會堂の初春芝居へ出かけ、昼の部を觀る。歌舞伎の次世代を担ふ、かもしれない若手役者たちの修業の場であるこの興行も、今年から世代交替が行なはれ、その序幕が「繪本太功記 尼ヶ崎閑居」で開く。若手ならば一度は必ずどれかの役を經験しておくべき教科書的狂言なれど、近頃は珍妙な新作モノを先に經験するのが當世流らしい。(※八代目市川中車の武智光秀)それはさておき、出演者それぞれがいま持てる力を精一杯出し切って大役にぶつかっていく姿は眺めてゐても晴々しいが、同時にそれぞれの日頃の心掛けの差なども表れるところが、觀客側(わたし)としては最も興味をひく。今日に觀た一例としては、初菊が地絣(舞薹に敷かれたネズミ色の布)に座ってゐる時、衣裳の裾が膝の下に巻き込まれてゐて、なんとも見た目が惡い。よく通る美聲を引き立てる赤い華やかな振袖姿もあれでは臺無しになりかねず、やはり裾引き衣裳らしく扇形に開くやう直すべきだ。そもそも、さういふことを氣が付ける人が、周りにゐないのだらうか。(※七代目澤村宗十郎の武智十次郎、七代目尾上榮三郎の初菊)この一幕の大功勞者は後場をつとめた竹本の太夫三味線の両名、近頃の文樂でもお目に掛かれないやうな、義太夫芝居のお手本を聴かせてくれた。所作事は「道行旅路の花聟 落人」、かつて山口廣一氏が「江戸末期における戯作者なみの低劣な美意識」と痛烈に評した假名手本忠臣藏のパロディだが、間違ひなく伴奏の清元は名曲であり、今回は家元の清元延壽太夫みずからが出演してお客を驚かせたものの、正月の“お年玉”と云へるほどにはあらず。 (※三代目中村梅玉の早野勘平、五代目中村福助の腰元おかる)櫻と菜の花と、とりあへず白粉を塗ればキレイに見える花形役者に春の薫りを聞ければ充分であり、さうした狙ひにおいてはなかなか成功してゐた。(※四代目坂東八十助=九代目坂東三津五郎の鷺坂伴内)前幕では赤い振袖姿の若女形が、ここでは襦袢姿の道化方で登場し、かうした三枚目がいかに難しいか身を以って示してゐたことが、今日の初芝居見物における私にとっての、“お年玉”。
2025.01.14

浮世では、2025年を「昭和100年」で盛り上げていかうと画策云々。大正天皇が即位十五年で崩御したのが12月25日、同日に摂政裕仁親王が即位して七日間だけ“昭和元年”になったのが1926年だから、まだ一年早いと思ふのだが、なんと云っても祝祭(おまつり)と言ひ訳と箔付けが大好きな現今人のことである、常に何かしらの“大義”がなければ落ち着いてゐられないのだらう。……私にはとても、昭和天皇に誇れるやうな“あれから100年”ではないと痛感する、令和七年早春。
2025.01.07

昨年正月と同じく、神奈川縣秦野市の出雲大社相模分祠へお参りする。三が日を過ぎたためか、混雑はおさまってゐたのがなにより。秦野は湧水の名所云々、境内の龍蛇神様がこの時期だけ公開云々、拝しに訪ねたものの、本當の關心は古への日本人が龍と蛇とを混同して認識してゐた名殘りを確かめることにあり。昨年末に觀た國立公文書館の企画展にて初めて氣付かされた歴史で、私などは學んだことなど片っ端から忘れてしまふ性質(たち)だが、最近のことならまだアタマの片隅に殘ってゐるおかげで、かういふ時に他人(ヒト)とは別な方向から謂れ因縁故事来歴が見られることを、ありがたく思ふ。参拝のあとは北方へ約四キロの、源實朝公首塚を昨夏以来再訪する。初の武家政權が樹立された揺籃期に命を奪はれた源氏将軍だが、和歌を通して歴史に名を殘したことは、敗者を意味しない。靜かな地で靜かに眠る、その靜かな力に合掌することで、私はやうやく今日の本意はここにあったことを知るのである。
2025.01.04

日中に祖父母たちのお墓へ年始の挨拶、都心部は嬉しいくらゐに人芥(ヒト)の姿が消え、いつもこれならばトウキョウも住み安い街なのだが、といまの時間を名殘り惜しく思ふ。夕方、TVで三代目三遊亭金馬の貴重な白黒映像をカラー化した番組を觀る。人物をはっきりと語り分ける明快な口跡で子どもたちからも支持されたと云ふ三遊亭金馬、現在も何代目かがゐるやうだが、私にとって金馬と云へば、この三代目ひとりに限る。噺は「藪入り」、私も所持してゐるいくつもの古い音源(こゑ)でしか知らない名人の、いかにも昭和の職人的な表情や身振りに、なるほどお客もこれだけの藝に普段から接してゐれば耳目が肥えるわな、と感心しつつ羨ましくもあった、初笑ひのひととき。
2025.01.02

令和七年(2025年)が始まる。氣持ちは新たに、やることはいつも通りに。まだ空いてゐる時間に初詣へ行き、引いたお神籤は可もなく不可もなく。しかしそれをいくらでも都合よく讀み取れるのが、ニンゲンの利點なり。恒例の「厄除獅子」の、“厄”の字体が不思議なのを樂しむのも恒例であったが、今年は修正されてゐて、「誰か余計な指摘をしたか……?」と、ややツマラナク思ひながら、僅差で混雑の始まった神社をあとにする。あとは部屋でゴロゴロ、ノンビリ、なにもせず。正月朔日は一年の計となる特別な日だが、なにか特別なことをしなくてはいけない日、と云ふわけでもあるまい。『我意貫徹、自己利益最優先』──今年も、さうやって生きるのサ。
2025.01.01

幕末に旧東海道と橫濱開港地とを結ぶ道として拓かれた“橫濱道”から分岐して、保土ヶ谷とを結んでゐた“保土ヶ谷道”を辿り、國道壱號線に行き當たったところで、國道沿ひの杉山神社に遺る「怪力石灯籠」を一見せばやと、存じ候。本殿へ通じる石段の両脇に建つのが件の石灯籠にて、今は昔、江戸の講中が伊勢神宮へ石灯籠を奉納せんと荷車に乗せ、牛に牽かせて保土ヶ谷までやって来たところで荷車が動かなくなり、牛を付け替へたがやはり動かず、挙げ句に牛が杉山神社へ逃げ込むに至り、こは神慮なるらんと、一對の石灯籠をそのまま杉山社へ奉納云々、裏側に“伊勢大神宮”と刻まれてゐるのはさうした謂はれ因縁故事来歴。石灯籠がなにか怪力ぶりを發揮したと云ふより、牛が牽けぬほどの重量を見せつけたと云ふ噺であり、なにか怪異譚を期待してゐた私にはやや肩透かしを喰らわされたやうな。(※杉山社本殿)路面が土だった江戸時代、保土ヶ谷あたりは特に状態が惡かったと云ふ話しもあるやうだが、やはり私は、神威のなせる業であったと、信じる。
2024.12.30

東京都港區の物流博物館で、企画展「鉄道古写真展─鈴木直利氏コレクションから─」を觀る。元國鐵職員の鈴木直利氏が昭和五十三年に信越本線の碓氷峠旧線を歩いたことがきっかけで渉猟し集めた鐵道資料のうち、明治の鐵道黎明期を記録したかなり珍しい古冩真の數々を、疑似旅行の氣分で巡る。(※案内チラシより、明治二十三年頃の品川驛、現在の品川驛はこれより北方の高輪にあり)明治ニッポンが西洋文明の到来によってみるみる近代化し、德川治世の旧時代を過去へと引き離していく邁進ぶりが、鐵をふんだんに用ゐた當時最先端の技術を通して、象徴的に紹介されてゐる。(※案内チラシより、明治十七年頃の新橋驛と、現在は埋め立てられて昭和通りの汐留川)しかしその最先端だった光景は、現在では殆どが失はれて、もう見ることができない。(※案内チラシより、明治後期頃に撮影された多摩川─六郷川─に架かる東海道本線の二代目六郷川橋梁)(※述者撮影の同地點現景)いまと云ふ歴史を記録し、それを殘し守り續けてこそ、未来(あした)の道も拓けることを、私はこの疑似旅行のお土産として、心に冩して帰る。
2024.12.27
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